伊福部昭総進撃、キング伊福部まつりの夕べ、っなるイヴェント、済む、客席へは井上キーミツがおいでになっていた、っなるほど伊福部作品の公演なのだし、演者も彼氏と縁の深い方々である、遠目に見受けるかぎり、風貌はお変わりなかったし、っすたすたと歩かれてもおり、っふつうに生活をなすっているぶんには、っお身体もわりに平気でいられるのかもしれない、っほかにも有名評家やTVで見たことのある顔など、歴々が来場されていたが、超満員かと惧れるとそうでもなく、っぼくは2階の正面だったが、両脇のバルコニーなどはがら空きであった、っまた、斯界でいわゆる怪獣組とされる人たちにより、穏やかな演奏会の雰囲気は望めないかと、っそれも惧れていたのだが、っもちろんその人たちも来場していたのではあろうが、っむしろ、え、こんなオジョウヒンそうな人たちが伊福部を聴くんかいな、っという客層が目立ち、っま、《、、、譚詩》の〈㐧1譚詩〉後、《、、、タプカーラ》の1楽章後に拍手が起こってしまうのはぼくにはなくもがなではあるが、っまずまず演奏会演奏会した催事ではあった、
演目は全3部に分かれ、っまずトップ・バッターは松田華音女史で、《子供のためのリズム遊び》から3曲と、《ピアノ・スート》と、っつづいて石丸由佳女史が《SF1番》をなさる、編者は和田薫氏で、㐧2部は彼氏が東フィルを振られ、《SF1〜3番》を全曲、っそして最後は本名徹次氏のご登壇で、《交響譚詩》《シンフォニア・タプカーラ》である、合間合間は司会によって繫がれて演者へのインターヴューもあり、休憩は㐧2部の後に15分っきり、アンコールに《ロンド・イン・ブーレスク》を演ってじつに3時間超、18時開演で、済んで出てきて21:15ころである、っここの客席は座面が硬いので、っかほどの長時間公演ではこちとら尻が痛く、っいささか辛い、っいま事後は、地図アプリケイションで22時まで営業だとある20号を渡った先の商店街の王将まで歩くが、敢えなく閉店後、っそう、っいつも騙される、っここの王将は以前から21時までの営業であったかとおもい、地図アプリが間違っている、善後的に日高屋へ入るが、最後に天津飯を頼むと、餡はおもいっきりケチャップ味で、いやいや、オムライスじゃあるまいし、、、っと苦笑もの、
松田女史の《ピアノ・スート》は、今般発売の音盤にも収録で、っじつに堂々たる構えでいられるが、っきょう実演としてそれを聴く、痛快なのは〈佞武多〉で、ピアノによる演奏であれ管絃楽によるのであれ、っみなアッチェレランドの部分でアッチェレランドしすぎるのであるが、松田女史はそこでほぼ速度を上げられずっっっ、っのち、主題の音価が細かくなってくるにしたがってやや加速されはしたが、っずっと重たい足取りのままでいられ、っあれでこそ巨大な佞武多を曳く祭礼人たちの腰の落とし方というものであろう、
石丸女史の《SF1番》は、ったしか、伊福部門でいられる知己の作曲家もオルガンへの編曲を依頼された旨、っおっしゃっていたかとおもい、鄭重にご辞退、曰く、先生は恆頃、楽想にはそれに相応しい楽器というものがあります、とおっしゃっていました、っとのことで、っまことにご賢察ご賢明であろうが、っその衣鉢は最後、っきょうの和田氏に回ったというわけである、、、イロニーじゃありませんよ、っま、っあの楽想をそのままオルガンでトレイスしましたというぐあいで、大バッハのこの楽器の作などと比して、音楽的の価値を主張しうるのだろうか、っなどとおもいつ聴いていたが、世にオルガンにっきり望みえぬ音の質感がおもしろくもあれ、やはりこの曲は管絃楽によって奏さるべきものだ、っと再確認す、
っその和田氏と東フィルとによる《同1〜3番》、和田氏の棒へは初めて触れるが、スマートな都会人風体とは裏腹に、子供が駄々を捏ねるごと不細工なフォルムでいられ、本職の指揮者でもいられないことから、っさしもの東フィルもいかにも無粋な鳴り、っけれどもその野暮臭さはまさしく楽曲に好適で、っぼくは怪獣組の組員ではないために、《1番》以外はほとんど聴いたことがなく、各楽想がどの映画のどの場面の劇伴なのかもまったく識らないが、っまずまずたのしむ、1階席ではキーミツもさぞかしお慶びのようで、済むと盛大に拍手をされており、楽員の幾人かは答礼されながら、あそこ、井上さんいらっしているわよ、え、どこどこ、あっ、ホントだっ、っというぐあいでいられた、
っぼくのきょうの最大の目当て、っついに本名氏の出番であられるが、っそうだなあ、っより勝れていたのは《、、、譚詩》のほうか、直前まで和田氏の棒を聴いており、っそれはほとんど拍へ音々を収められるっきりで、表情らしい表情の指示はまるでない造形でいられたため、流石にオーケストラの鳴り方というものに一家言を有つ専門の指揮者の棒となれば、曲が開始した瞬間から見違えるほどヴィヴィッドなひびきが得られ、っしかし勢い、土臭さ泥臭さは後退するのであるが、作家も倹しい編成で古典的の様式美を志向された同曲であってみれば、っそのひびきでこそ妙味も叶えられむというものである、っそれに、楚々とされたなかにしかし本名氏の音の出し入れ抜き差しはじつに細心を極められ、っかつ自然にして優婉でもあられ、っすくなくも博多で聴いた《新世界》みたように、ただきれいなだけであっさりとしすぎてタネやシカケに不足し、わざわざ客席で聴いている意味がまるでない、っという憾みは懐かせなんだ、キーミツはどのように聴かれたであろうか、っこの作家を愛した彼氏であられるが、っぼくの識るかぎり、同曲を取り上げられる機会はなかったように記憶する、
広上氏などは同曲をこの作家の最も勝れた作品と云われ、キングのシリーズでの棒は彼氏であったろうか、っまことに遺憾ながら、っぼくはあの音盤群は、折角に作家監修、録音立ち会いという世紀の好企画であったのに、っとくに初期のものは、音質がぜんぜん鈍く、音盤に聴くオーケストラの音としてまことに不足ありで、っそのおおくがおよそ聴く価値のないものに留まるとおもっている、広上氏はほかになんとBISへたしかマルメ響なる楽団とともに同曲を入れられているが、っぼくはそれは未聴であり、っいつかは購って聴いてみねばならない、
っぼくは広上氏とは見解が相違し、っこの作家の最高傑作はなんらの疑りとてなく《リトミカ・オスティナータ》であると信じており、っそれは独りこの作家ご自身の作としてのみならず、洋の東西を問わず、っおよそ古今あまたの作家の書きえたまたあまたの楽曲中でも極度の異彩を放つ傑作中の傑作なのであって、っその点ではモーツァルトやベートーヴェンとて伊福部昭の御前へ跪かねばならないとすらおもうくらいだが、っめでたく発売の成った今次の音盤におく外山啓介/広上淳一/札響の同曲は、っぼくはてっきり札幌、東京での公演以前にセッション録りを完了していたのかと早合点していたところ、っそうではなく用いられたテイクは当のぼくが聴いたサントリーでのライヴであった、っしかし曲後の拍手はカットせられており、っいやに音が整ってもいることから、ライヴのテイクをベイスに、ゲネ・プロ時にもばあいによっては個所毎の複数のテイクを録り、っそれらを繫いで周到に仕上げた音源というわけなのであろう、両側の主部にせよ中間部にせよ、外山氏の加速は記譜の速度指定を叶えられておらず、っあきらかにそれよりも遅い、っそれもかなりの遅さであり、っしたがって、っこれまでに実演、音盤で聴くことのできたいかなる演奏とも肖ていない特有の存在感があり、っぼくはこれは得難い果實であるとおもう、っそして広上氏と札響とも、速度の遅さに因する落ち着きとライヴの発奮とをふたつながら兼ね具えられ、細部までとっくり味わわせてくれる、っなお荻町修氏の突っ込んだ表現が脳裡へちらつくとはいえ、ソリスト、指揮者、オケ全員にとって難物中の難物で、っなかなかこれぞという記録を達成しえないこの楽曲にとって、掛け値なしの決定打のひとつと成り遂せているのではなかろうか、っまた、っこれは遅れてやって来たキングの同作家集成の続編なのであるが、流石にこの間に録音機材も技術も格段に進歩し、生々しいとても好い音に録れている、集成と云う条、最高傑作たる《リトミカ、、、》が録音せられなかったとは、っまさしく画龍点睛を欠くどころではなかったのだが、ぜひとも作家の目の黒くていられるうちに、その意図の反映せられた録音が遺ってくれたかった、っとの一抹の口惜しさもあれ、っしかし演者、録音の充実を待つためには、っこの曲の収録が往時ではなくきょうこんにちであったというのは、っこれを文字通り時宜と謂うのかもしれない、っかくなる上は、同曲の最オオトリテヱ、山田令子女史に、萬全の共演者、萬全の録音体制での再録があってくれたら、っと希わずにいない、っしかしそれまでは、っこの外山/広上/札響盤でも、っおおきに渇きは癒えつづけることであろう、っあるいはきょうの松田女史も、いずれは録音の機会を、っと窺っていられるのにちがいあるまい、っぼくはキーミツとのご共演になるN響との2日間、神奈川フィルとの公演、っいずれでも彼女の解釋を全的に諾うわけにはゆかなんだ、っその曉には、っぜひともさらなるご精進の跡を披瀝されたいところである、
っさて、本名氏の《、、、タプカーラ》であるが、全体に《、、、譚詩》と同断の無碍が発露し、好印象の部分にも事欠かなかったのではあるも、2楽章の再現ではそれまで妙音を聴かせてくれていたコール・アングレが、楽器が詰まってへんてこな音を鳴らされてしまう手痛いエラーを晒され、フィナーレも、トリオまでこそ、っなかなかのフォルムではあったが、指揮者の解釋としてであろうか、奏者の勇み足であろうか、判然せなんだが、再現を導く打楽器が速すぎるほど速いテムポで打たれてしまわれたため、全員がそれに附き合わざるをえず、肝腎の終局の発奮が上滑り気味となったのが惜しい、急速の裡にトリオの主題を回想する部分も、天井の遙か高いここ初台はよくひびくこともあり、他の連中がけたたましく鳴っているなかでは木管の音勢では主題の音型をくっきりとした輪廓で聴かせられない、っそこから再度トロムボーンのグリッサンドを含む主題へ還る直前の装飾音を含むトロムペットは、っその装飾音の処理がうまくゆかず、後ろの音へ繫がってしまって音型の妙を殺ぐ悪結果へと堕す、っこの曲の最後の昂奮は、っあんなことでは断じていけない、音盤に聴く原田幸一郎/新響や、実演での中田延亮/同響の鉄壁無類が懐かしく想い出されてならなんだ、他の人のほうが勝れている、っとおもわせたら、演奏は敗けである、
っとはいえ、松田女史の《ピアノ・スート》、っそして本名氏の《、、、譚詩》っきりでも、っこんやはおおきに収穫があった、っおそらく全演目がまた音盤か画盤かになるのであろう、っよろこばしいことである、
っさて、っいままだ聖蹟の駅の喫煙スペイスで、っもう日附が変わってしまう、っお次は木曜、コバケンさんのマーラー《5番》である、カーチュン氏のそれを録画したが、っやはり若い指揮者の颯爽たる演奏では、っとくにフィナーレあたり、っぼくには最後の最後には喰い足らない、っあさってのオケはロンドン・フィルとはぜんぜん性格が違うので、っあの音盤とは一味も二味も異なる造形となるのであろうが、っおなじようにダサい光芒を放つ一大建築の達成を夢に見ている、っそして、っこのオケの公演はまいかい音盤の収録があるはずだが、ロンドン・フィル盤はロンドン・フィル盤で奇蹟的の結晶であったとして、っそれとは膚合いの隔たる記録として、っこの公演も音を録ってくれたいものである、ロンドン・フィル盤はライヴの昂揚を完全に犠牲に供することでこそバケモノ、ゲテモノ級の存在感を獲ている、っけれどもそこは腐ってもコバケンさん、っあさってはぜひに、草臥れられた老境の味と、名にし負う炎の指揮者、昔取った杵柄の怒濤のごと音響の坩堝と、っこのふたつが絶妙の塩梅で同居してくれているというのが、っそのぼくが見ている夢である、難曲なので、オケが筆の求めるその難儀へじゅうぶんにキャッチ・アップしえない、っあるいははんたいに、腕の不足を糊塗せむがために無法な音量や音圧を頼んで音を潰したり、音色を汚したり、っみなでダンゴになって対位法的の解像度を下げたりしたら、っぜんぜん成功ではない、っあの《幻想》の音盤に聴くようなアンサムブル、っあるいはそれをさらにブラッシュ・アップした全員野球で全曲を乗り切り遂せてくれたら、っそれで天下の大演奏であり、っそれでなければ天下の大演奏ではない、ハードルはかなりに高いとおもうが、果たしてどうであろうか、っちなみに公演前半は、っこれもまいかい恆例なのだろう、舞台上でほんの練習の一コマを観せてくれるという趣向で、っぼくにはなくもがなの企画ではあるが、っその司会をお務めになるのだろうコバケンさんとは従前より昵懇の朝岡氏は、っきょうの公演にもお客としていらっしていた、
、、、っまだ帰れない、っもう1時んなっちゃうよ、