上岡敏之氏の二期会公演で、ヴァグナー《フライング・ダッチマン》千龝楽、済む、オケは読響、キャストについては列挙を割愛とせむ、っいま脳裡へ箇条書きにしているっきりでも、以下、書くべきことが山積で、っとても時間がない、演出は深作健太氏である、
シムフォニー・コンサートばかりでオペラを観る習慣のないぼくで、っしかし去年観た井上キーミツの《ラ・ボエーム》におく森山開次氏といいこんかいの深作氏といい、っおふたりともオペラ門外の人であろうが、っある異化作用を催すべく仕掛けを用意されていたという点で共通するところがおありで、っそれがこんにち的のオペラ演出の存り方なのだろうか、森山氏はマルチェッロに藤田嗣治を重ねられ、深作氏はオランダ人、ダーラント双方の一行が漂着せる遭難個所のイミッジとして、フリードリヒ《氷海》を頼み、っそれをそのまま大道具へ反映されるというぐあいでいられる、っなにかしら独自色を盛り込まねば、演出家として面目を示したことにならないという自己顕示であるかもしれないが、
プログラムへの深作氏の寄稿を読むに、っまあ演劇その他界隈の人の通弊として、っあたりまえに左巻きでいられ、っしかし、環境問題にせよ移民問題にせよ、非礼ながら、単に不勉強というのか、考究の不徹底でいられるのではないか、前者はすでにして伸び代のない西欧の後進国に対する牽制の口実でしかなく、世に眞には環境問題などというものは存しないのだし、後者については、自国自民族の安定に支障を来たらせずにいない移入者に対して忌避感を有ち、一定の規制を設けむとするのはどこ国家、誰民族にとっても至極とうぜんの傾動にちがいなく、っそれを唱えれば即ファー・ライトと看做すというのは、正義漢などでは毛頭なく、世間へ流布しているげにくだらない綺麗事へしかし安易に靡く、っただ無分別、無責任にすぎない、美術等へはなにがしかの造詣をお有ちであるらしい深作氏の、っしかしこの点に掛けての野放図なばかりの無思慮を読みつ、よくもまあこう羞ずかしげもなく、ブルートゥス、おまえもかっ、、、っとの憤怒と、っなによりすでにして憐愍をおぼえずにいない、っなぜ世人はえてしてかくもあほな左翼へ陥り勝ちであるのだろうか、人として、欺瞞的の生なぞけっして生きたくはない、っという程度の矜持くらい、っしかと有たないでどうするというのか、環境もきびしければ世間も人もきびしく、誰もが描く夢も理想も無慈悲なまでの理不盡の下へ組み敷かる、戯言はまるで通用しない、っさらば人の生とは、必然にして恆に懸命なる善後策の連続たらざるをえない、妥協するなっ、っとあほ左翼人士は叫びたいであろうか、彼等の喉元へ突き附けてやる、それこそが人類自身による人生への誤解、人間への世界への曲解にほかならないのだっ、っこんなこと、っあたりまえのあったりまえである、何十年と人生をやっても、っそんなことひとつへもおもい到らない人が無視できぬほど世上へ大勢いそうだというのは、っぼくにすればまことに歯痒いかぎりである、っこのばか間抜けのくそ痴れ者どもめらがっっっ、、、っや、っいけませんな、左翼を腐すのは臍で茶を沸かすごと、赤子の手を捻るごと簡単、朝飯前も朝飯前で、っかかる雑事へ現を抜かしているようでは、
っま、っそれはとにかく、都合2日を観劇して、2度とも2階右翼バルコニーであり、初日よりもきょうのほうがそのなかでもさらに良位置であったが、っあらためて感銘を深める、
上岡氏の棒になる読響は、プロフェッショナルの楽隊が短時日のうちに同演目を4度も熟せば、極めて練れた手応えが出るも必定であり、っいくぶん硬い面もあった初日からすれば、っきょう最終日はもはや行くところ可ならざるはなし、っしかも、極まった末に、読響という個別具体性をも去らむばかりの眞なる自在、普遍に耀く境地へ音という音が脱け切っており、サディスティックなまでに生き急ぐ序曲の前進性から、っやはり上岡氏の本領も本領は、っがんらい先のブルックナーみたような地を這うごと牛歩にでなく、っかかる飛鳥の振る舞いにこそ存るとおもわずにいない、
っここ上野大器は、古今、硬質にしてデッドな音響と謳われてき、っしかもオペラでは楽隊はさらにピット下へ潜りさえするのであるが、っきょう聴いていると、っその冴え冴えたる音響は、っむしろほとんど痛快と聴こゆ、ピットへ入るというのはあれなのだろうか、音響上はかえって効果的なのだろうか、舞台上へ居並んだのでは、っもちろん背面、両袖、天井と、反響装置はあるのだが、っしかし距離が遠く、楽器楽器の発音も、っまずは八方への拡散を余儀なくせられてしまう、っそれがピットへ入れば、狭い穴倉の四方の壁面がしかしホーンの役割を果たし、遠く客席へも明晰な音像を運んでくれるのかもしれない、数すくない機会だが、っぼくもあれこれの器でピット内からの楽隊の奏楽を聴き、っそのどのばあいでも、オケの音が籠ってしまってゆたかなひびきがしない、っとの憾みを有ったことがない、編成の規模にしたって、シムフォニー・コンサートの際とは比較にならぬほどささやかな所帯であるにも拘わらず、っである、
大ヴァグナーの筆致の豊饒も、っきょうはまたいたく実感せられた、示導動機の象徴性はいまさらぼくが壽ぐまでもなく効果的に定まっているのだし、っこまかいところでも、ったとえば、歌手がおもい惑いつようやっと科白を絞り出すというフレイズでは、木管が1拍目から先行して節を歌い出し、人声は3拍目からやっとそれへ声を合わせる、っといったぐあいで、っじつによくかんがえられている、2幕の迫眞の場面、エリックが、どうした、顔色がわるいぞ、っと訊ね、ゼンタが、いいえ、ただ愍れなるあの方へ同情を致したっきりよ、っと応える、激昂した男の、悪魔にでも魅入られたかっ、っとの絶叫へは、っよろしくトロムボーン連の邪悪なる和音が添えられている、1幕全編は、照明ともども、音楽も遣り切れぬほどどんよりと暗いが、っどうして、居睡りをこいてしまい、船長に呆れ交じりに起こされる舵手は、夢の中でも歌い継いだろう恋人を想う歌を、起き抜けの睡惚け眼のうちにもいまだ口遊まずにいない、自身の織らむとする物語のいかに陰惨たるか、っそのことを最もよく識るのはもちろんヴァグナー当人なのに相違なく、彼もここで、懸命に観る者を笑わせ、和ませむとしてくれている、
ダブル・キャストで、初日ときょうとで両とも聴きえたわけであるが、っその陣容のちがいによる印象の差は敢えては論うまい、以下は主にきょうさっきの印象を述べているものと取られたい、っきょう、誰さんなのかも存じない、タイトル・ロールが㐧1声を発せられると、溜息のごと最弱音にも拘わらず、透徹せるドイッチュの発音の明晰が、広大な音場を埋める、、、っというほど切符の売れ行きは芳しくなかったようである、片山氏がいらっしていたのはぼくにすれば少々意外であったが、っすべての人をして固唾を飲ましむ、
2幕冒頭からの糸紡ぎの女性陣の合唱は、っおそらくは一般に行なわれているよりも相当度に落としたテムポであり、っこれが奏功も奏功、俗人たちの自足し、っけっして運の苛烈に飜弄せられることなどない凡々たる幸福が、能うかぎり強調せられる、マリーにころころとかわいらしい発声の名花を得られたのも得点大で、彼女の声が聴覚的にも健康健全なる凡俗を代表し、超俗、ゼンタの㐧1声を迎えるにあたり、っこれ以上にない檜舞台も竣工と相成る、
っそしてゼンタ、詞のない、ヴォカリーズでの声の初登場となるが、っのちのバラッドを待たずして、っこの時点でもうはやぼくの心身はその悩ましさに鷲摑みに摑まれずにいない、金縛りでも喰わされるようなもので、っまた歌手の方のやや翳りとえぐみとのあるヒロイックな声質が、マリーを歌われた方のそれとの間に好対照も好対照を生す、っもとより運に喚ばれ、手を引かれてしまっている人の声だ、
2幕へ綾成す群像のうちで、読者諸賢はそのことを訝しまれるだろうか、っぼくがついこころ惹かれるひとりは、エリックである、っなに小説でも映画でも、っああしたプロット上の咬ませ犬はしかし、っいたくぼくのこころの琴線へ触れて来ずにいない、っきょう彼を聴きながらなぜか頻りに想い出していたのはノーマン・メイラー《鹿の園》で、っあれにしても、無軌道な自由人、サージアス・オーショーネッシーになどはぼくはぜんぜん感情移入しえず、っむしろホリウッドの汚ない業界論理に揉まれて身悶える凡俗、チャールズ・アイテルの人物造形を読むほうが、っよほどか身に積まされる感激を味わったものだ、上の左翼指弾の論調からしても、っそうしたぼくの性向は諸賢にもご諒解いただけむとおもう、っどう足掻いてもぼくはさようの人間であり、っさようの人生を生きてきた、先のエリックとゼンタとのやりとり、不幸な人の命運へ同情したっきりよ、っと超俗の人、君に裏切られるというぼくのこの不幸へは同情してくれないというのかっ、凡俗の無様な敗け惜しみであり厭味な当て擦りだ、っこういうところである、っこういうところにぼくはいつも心裡の秘所を擽られる、俺もこの人とおなじだ、つまらない人間だ、っとの自己嫌悪が疼くのであろう、
っところでこのすぐあと、っいまだ主役ふたりが出逢わない以前、ゼンタはついに縋り附く男の惨めな未練を振り切り、あの人とともに苦しまむっ、っと宣言する、っそんな捩れた意志をしかしピットのオケは晴れがましいトュッティで支えるのであるが、っこの共苦、ミットライド、っあるはミットライデンの思潮の明確な表出は、ヴァグナーがこの時点ですでにしてショーペンハウエル《イシヒョー》の耽読者であったことを意味していようか、周知のとおり、彼の《パルジファル》は、っこの異形の傑著に対する彼なりの音化であり視覚化にほかならないが、読むこと自身はいつごろから始めていたのか、っいま時系列的にも、《イシヒョー》がいつ公刊で、っそれとヴァグナー略年譜との対応を俄かには描けない、っぼくも若くときに、これなにが書いてあんだよ、わっけわかんねえ、、、っと首を捻り捻りあれを読んだが、っそうか、ヴァグナーはショーペンハウエルの後輩、大ニーチェと同時代人なのだから、《イシヒョー》はヴァグナーの若くときから、っすでにしてあの往時のドイッチュの一面のツァイト・ガイスト、、、ナカグロ不要なのかな、ツァイトガイストの具現としてすでにして一定の市民権を得ていたとかんがえてよいわけか、ったぶんそうだろうな、っそうすると、《パルジファル》のみならず、他の作も大なり小なり、《イシヒョー》に対するヴァグナーとしての回答であるのかもしれない、、、っすみません、っもうぼくはむかしっから《イシヒョー》との無礼窮まる渾名をしかし濫用してしまっているもので、《意志と表象としての世界》ね、っご存知でしょうがいちおう、
上岡氏は初日もきょうも、テューニングの段からもうピット内へいらっしゃり、っぼくらからの拍手を拒否して序曲を鳴らし始めらる、ったしかにヴァグナーの構成も、切れ目なく3幕までつづくありとある個所で、っよし主役連がどんなに絶唱せむとも、っしかしそれへのお客からの拍手は許さぬように組み立てられている、っそのスコアを玩味味到の末に公演へ臨まむとされる人ならば、拍手でなど出迎えられたくなくてとうぜんであろう、っきょうはさいわいそうではなかったが、初日の際にはそうした緊張感を共有できない鈍なお客というものが幾人かいて、序曲が済むと拍手がちらほらとしてしまった、上岡氏は同曲の最終音を振り上げられるや、間髪を容れず、、、間髪を容れずは入れずじゃなく容れずが本来なんだねえ、っいま初めて知った、っや、書こうとしたら変換候補へ出たので、嘘だろとおもって調べたら、ったしかに容れるは許容の容、許すだから意味としてそうなるが、っぼくはてっきり、間へ髪の毛の1本も入れさせないという物理的のイミッジを頼んだ慣用表現で、っだから容れるか入れるかなら入れるだろうとおもい込んでいたのだが、入れさせない、入ることを許容しない、っというわけで、容れる、っがただしいので、入れる、っは後年におく当て字というわけらしい、ったまには変換候補機能にも世話になりまさあね、間髪を容れず1幕冒頭を振り始められるのだが、拍手のしてしまった初日などは、ピット内へわずかに視える彼氏の、中低絃へ向かいて棒を突き刺すごといつもの振り姿が、同時に緊張感の足らないその不届き者どもをも断罪するようで、っむしろ痛快だったものである、彼氏はぼくらお客いっさいに、傍観者でいないで、《フライング・ダッチマン》の裡へいて、っそのいっさいを余す所なくともに体験されたいとおおもいだったのにちがいない、っいつの世のなに公演にも、っそういうことのわからないお客というのがいてしまうものである、
っあれはどうかなあ、初日は場内へ何台もカメラがあり、事後、正岡子規球場の脇の喫煙スペイスへ行かむと器の裏っ手を歩くと、NHKの車輛が停まっていたから、っいずれTV放送があるのだとおもうが、っあの拍手は編集でうまいことカットせられそうな気がするけれども、っというのは、先般のカーチュン・ウォン氏と日本フィルとのマーラー《復活》、2日公演のうちやはりNHKによる収録があったほうの演奏では、っぼくの聴き間違いではなかろう、ったしかにフィナーレにおいてアルトのソロが何拍だか前へ倒れてオケとタテがずれてしまうエラーがあったのだ、っこのエラーありの演奏が放送せられてしまうのは惜しいなあとおもったのだから、っところが、配信せられた動画を観てみると、ったしかこの辺でずれたんだよなあというところが無事故になっているではないか、っどうやって繫いだんだろう、動画収録は1日っきり行なっていない、っそうすると、ゲネ・プロ、、、ゲネ・プロもナカグロ不要なのかな、っいつも迷うのだが、ゲネ・プロ時の音声をNHK自身が録っていてそれを用いたか、っもしくは他日公演のほうの音声を日フィルなりサントリー側からなり譲り受けて、っそれで繫いだか、っえらいもので、動画のエラーが起こったはずの個所を観ると、アルトのソロを写しているカットは使っていないんだわ、っや、っま、っもしか、っあのときおまえ公演所感でエラーがあったと云ったのに放送を観たらべつにエラーなんぞどこにもないじゃないかとおおもいになる方がいられたとしたら、っその人に向かいて弁じておきたいので、ったしかにエラーはあったんですよ、
、、、っふうう、散漫であろうとは予期したが、っまさかにこれほど話題が多岐に渡るとは我ながらおもわで、っやっと書き了えた、草臥れましたね、っしかも、っおとついに優る筆圧で、っこんなに一言一句気を入れて推敲しながら書いたのは、っさいきんではなかなかないことだった、っやはり文章を書くのはすばらしくたのしい行為である、
熱が冷めないのでね、クール・ダウンでいますこしく、ったとえば、>檜舞台も竣工と相成る、っこれははじめ、檜舞台が設えらる、っとかそのくらいに書いて、っだけれどもそれだと、これ以上にない檜舞台が設えらる、っこれでどうでしょうねえ、これ以上にない、っという大仰な形容に対して述部が、設えらる、程度にっきり云わないと、龍頭蛇尾というのか、っぼくには修飾語と述語との関係がアンバランスに読める、これ以上にない、っという形容は捨てたくなかったので述部を、竣工と相成る、っなどという堅苦しい表現に敢えて変更して、っさあそこから先、助詞ですよ、檜舞台が竣工、っだと、竣工という述語は果たして、が竣工する、っという接続に馴染むだろうか、文法的に誤りではないかもしれないとはおもった、っけれども、シュンコウガアイナル、音読時の語感があんまりきもちよくない、っそれで次に、檜舞台の竣工と相成る、っこう直した、っだいぶんよくはなった、っそこからしかしもうひと粘りふた粘りして、現行のように、檜舞台も竣工と相成る、っへ達した、ゼンタを招じ入れるがために全ティームがいかに打って附けの前段を用意していたかということのあの感動を伝えむがために、の、っではなくさらに、も、っで繫ぐべきだとの判断であった、語感としても、が、の、も、っのうち、ヒノキブタイモシュンコウトアイナル、っこれがぼくにはいちばんきれいな子音と母音との連なりだと感ぜられる、、、っは、徒労ですな、っこんなああでもないこうでもないは、
>好対照も好対照を生す、っは、っはじめはふつうに、成す、っと書いて、っすこしく変化球にしたくて、生す、っに変えた、っそのあとの段落ですぐに、>綾成す群像、っとあるので、同一表現は近接して用いないという修辞のイロハのイに習う点でも、生す、っでよかった、生すで読みはおなじなすね、胡瓜が生るとかの生る、生すで読みはなす、好対照が成り立った、っというよりも、好対照が生まれた、っというイミッジ、
っそれから、>これなにが書いてあんだよ、わっけわかんねえ、っも、っはじめはふつうに、書いてあるんだよ、っと書いたのだ、っけれども、っより喋りことばのように読まれたかったから、っるを抜いて、書いてあんだよ、っにした、
っま、キリがないので、っいつもこの駄文を書くときには、っこうしたことを無数度に亙ってくりかえしております、ったのしいですね、っいかにも徒労で、っいま、っここちよい疲労に醉っております、
っさて、っあすは仕事のあと、入ったことのない杉並小器にて、日フィルのオットー氏公演、中央区仕事をちゃんと片附けられるのかどうか、流石にすこしくきもちに焦りが出てきた、っそのほうが仕事仕事していてよいけれどね、