ざっかん記 -5ページ目

ギロッポン、




コバケンさんの棒、日本フィル公演、済む、演目は、神尾真由子女史を迎えてサン=サーンス《3番》コンチェルトと、チャイコフスキー《5番》とである、

神尾女史の奏楽は、っおなじコバケンさんとのご共演を桜木町で聴いた際には、ったいへんにゆたかなひびきを堪能させたものだが、っきょうもほんの㐧1音目から勝負あり、サントリーでのコンチェルトは、ソロの音像が小ぶりに聴こえてしまうこともあるが、っきょうはニュアンス豊富に伝わる、

コバケンさんの棒になる日フィルは、不当に聞こえなければ、作家自身にしてからが、っこれほどまでに静謐であったり、厳格であったり、純朴であったりを想定した筆であろうかとおもわれるばかり、っそのじっくりとした語りにより、曲趣の妙が無限に拡大せられる、

チャイコフスキーは、従前からすでにしてそうであるように、激越なテムポ操作ももう完全にそういうものとして定式化せられており、っその意味ではスタティックな演奏だが、っどうだろう、っこの期に及んでコバケンさんの同曲を聴かむというならば、っこちとら極まりに極まり切った仕上げを見舞われたいとおもわなくもない、音盤であれば、人智を超脱し、宇宙の彼方へ孤絶せる超弩級の大演奏、ムラヴィンスキー/レニングラード・フィルの77年渋谷、瞬間瞬間のひびきをそこまでするかとばかり懇切丁寧に磨き抜いた稀代の記録、チェリビダッケ/ミュンヘン・フィルといった至寶をぼくら人類は手中にしている、っあるいは、朝比奈さんの最晩年、大阪音大の学生オケを振られた非売品盤などは、っぼくはなかなかのものであるとおもっているが、っそれらと並び立つ達成であるためには、っまだまだ、っほんとうの細部の細部、小指の先の爪先の、っそのまた先の先まで神経がゆき届いていないようにおもう、、、っもとより爪に神経は通っていないだろうが、

棒の志向性としても、っそこまで部分部分を確然と意味附けつ進まむというお心算はないようで、概観としてのコバケン・スタイルを楽隊と共有し、っあとはライヴのテンションを頼るであるとか、局所的に特定の楽器を突出せしめるであるとか、っそうしたことに意識が向かれている、っぼくにすれば、いつまでもそんなことをやっているばあいか、っというところだ、ロンドン・フィルとあんなバケモノみたようなマーラー《5番》を録音へ遺せた人が、っいまさらそんな次元の演奏へ甘んじているべきではない、



っきょうのパンフレットへは日フィルの来季のライン・アップが挿まれていたが、っここのところのカーチュン・ウォン氏公演の良席の取りにくさをおもえば、っやはり定期会員にならむ、他の公演の陣容、演目も、っまあ魅力的だし、楽団創立70年記念特別公演のカーチュン氏のマーラー《1千人》の切符も優先的に購える、同プロ2日公演のかたっぽはそれで押さえて、っさらに目ぼしい公演では他日のほうも1回券を購うとせむ、っしかし、っこれまでにどこ楽団の会員になどほとんどなったことのないぼくで、っまるで勝手がわからないのだが、来季は、サントリーが改修でもするのかな、27年の1・3月公演は池袋で挙行せられるとのことで、っそのせいで年間券はネットでは購えないというのだが、電話をして、1公演ずついちいちぜんぶ席を指定するのかな、っそれとも全公演固定の席になるのかな、月毎に、っこの月は金曜、っこの月は土曜とかと撰べるのか、っそれとも金曜ならぜんぶ金曜、土曜ならぜんぶ土曜となるのか、っわからないことだらけだ、っぼくは電話というのがいやな性質なのだが、発売当日に電話をしてその電話口であたふたするのはもっといやなので、っちかぢか事務局へ電話をして、っその仕組みについて不明のところをあれこれ教えていただくとせむ、っぜんぶネット上で事が済まないで、っそんなことをせねばならないとかんがえるっきりでもう気が重いが、っまあしかしそれで年間券を購ってしまいさえすれば、向こう1年、日フィル公演については切符の発売日の度に気忙しくしなくてよくなるのだから、っほんの1回こっきりの我慢だ、

っところで、っいつかに、N響などにもたびたびトラで呼ばれているから、せっかくの名手なのにどこか他楽団にヘッド・ハンティングせられてしまうのではないか、っとの惧れを述べた日フィルのクラリネット、堂面氏であるが、っわるい予感が的中してというべきか、っこの8月末をもって同団を退団されたらしい、N響などへ移籍されるのかどうかはわからないが、若い彼氏の果敢な吹奏は、日フィル木管の華のひとつだったのになあ、カーチュン氏のマーラー《9番》では彼氏はバス・クラをご担当で、っその1楽章中途での、ここは俺の独壇場だっっっ、っとの我勝ちの自己主張など、っいまもって忘れ難い、

っみんなどこかへ行っちゃうんだよ、セロの辻本氏とヴィオラの中女史とのご夫妻は、っおふたりとも日フィルでいられたし、っいまは、っえ、都響へいられるのかな、っあのヴィオラの黒人の方がいるでしょう、っあの人だって日フィルだったんだから、ヴェテラン勢各位は流石に日フィルへ骨を埋められる覚悟でしょう、っそうすると若手、ホルンの信末氏もひょっとするとひょっとする、っひょっとしてしまうのかなあ、っそうだ、ホルンといえば福川氏だってもとは日フィルだったじゃないか、、、前にも云ったことだが、っさように名手名手を他団体に取られながらも、っぼくはいま在京の楽団では、綜合力において日フィルがいっとう勝れているとおもうけれどね、ったぶんというか、っきっとそうにちがいないのだが、給料が安いんだろうね、N響は年俸が¥1千萬を優に超えるのだし、っそれは声が掛かれば、周りも止めだてはできんわなあ、っそういう点でも、日フィルのこんにちの充実はぼくにはとてもとてもうれしい、去る人たちそれぞれのご活躍はそれはそれでおおきにけっこうだけれども、誰に去られようと、日フィルを日フィル存らしめているもの、っその火が絶えず赫と燃えつづけむことをっっっ、



っお次はあさって、仕事のあと紀尾井町にて、っその日フィルのトロムペット、大西氏のリサイタル、っきのうきょうは乗り番ではいられなかったようだが、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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池袋、




北原幸男氏の棒、武蔵野音大の学生オケ公演、済む、演目は、ヴァグナー《タンホイザー》序曲、同大の瀬良杏奈女史を迎えてラフマニノフ《パガニーニ・ラプソディ》、っそしてベルリオーズ《幻想》であったが、っほんのすこしく早くに池袋へ着いて、開演前に無理にも食事をしてしまうところ、睡くてかなわず、っざんねんながら前半はほぼ完全に聴いていなんだ、っそこでしかしきもちよく惰眠へ暮れたお蔭で、後半はよく覚醒していたのだが、

北原氏といえば、84年の巨星マタチッチ最期の来日公演の立役者のおひとりというのか、彼氏がはるばるクロアチアの巨星宅を訪ねてくれなんだら、っぼくらのようにその公演をぜんぜんリアル・タイムで聴きえなんだ世代では、っあのベートーヴェンやブラームス、ブルックナーへ触れる僥倖も夢幻であったわけだ、っなにしろ、客演を打診するN響からの達しにも梨の礫、事務局は嫌われているのかと気を揉んだのだが、っあとからわかってみれば、郵送が現地へまで届いていなんだとのことだ、土産の一升瓶を担いだ北原青年が、鉄道だバスだを乗り継ぎ、っやっとやっとその玄関のドアを叩いたのである、っそして84年にマタチッチが来て、彼が亡くなるのはそのすぐ翌年という、、、

北原氏の棒へ直に接するのは、っぼくは初めてだろうか、動画などは観たことがあるので、っお公家様みたようなというのか、生彩に乏しいというのか、理窟抜きの昂奮とはぜんぜんまったく無縁というのか、っそういう人だという印象はあって、っじっさいの舞台姿を拝見してもそれは変わらない、朝比奈さんの94年サントリーでのブルックナー《8番》だったろうか、っそれすらぼくにはいまだ少年期で、クラッシックなどぜんぜん知らない時分の話だが、っそれに際しては宇野さんが、公演後、若手指揮者の北原君が、これが本物の指揮というものなのですね、と感歎していた様子が忘れられない、っというように往時30代半ば程度であろう北原氏の横貌を素描されている、っいまおじさんとなったぼくからすれば、っすっかり胡麻塩頭の北原氏に対して、朝比奈さんのあんなに不細工な棒へ感ずる力があるのに、あんたの棒はそれかよ、っとすこしく意地悪を云って挑発したい気がするが、、、っいやまあね、

若き学生連のアンサムブルは、っほとんど、水清くして魚棲まず、っとこちとら喉から出てしまいそうなほど、透明なひびきがする、北原氏の棒がさようだから、クレッシェンドやアッチェレランドに寸鉄人を刺す殺気というものがなく、っはじめはそのことを不満におもう気がつよかったが、《幻想》のそこここに咲くあれらの和音和音、っあるは純情だったり、っあるはせつなくて胸苦しくてたまらなかったり、っあるはジェラシーに身を焦がしそうだったり、っあるはそれら情緒を浮き彫りにする自然美の耀きだったり、っあるは不穏不吉だったり、っあるは気違え沙汰だったり、清新な合奏の裡にも、っそうした色調がぞんがい鮮やかに伝わっており、っもちろん、っぼくのこのみはそれらをもっと聴こえよがしに拡大して拡大して聴かせむとするぎらぎらしたいやらしい演奏であるが、っそのように演らむとしてかえって不発となるばあいもままあり、ったまにはこうした作為から遠い演奏を聴いているのもわるくはないとおもった、



っさて、っお次はあさって、サントリーでコバケンさん公演かな、っいままだ府中でコメダを閉店時間で追い出されたところ、っあしたは現場は休みだが、1日っきりデスク・ワークをするかどうか、休んじゃおっかな、っどうしよ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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ギロッポン、




ケント・ナガノ氏の棒、読響公演、済む、演目はマーラー《夜歌》である、

現場が済んで、ICUの正門の前の通りが中央線の高架を潜る手前あたりの駐車場を予約しておき、っそこへ停めて武蔵境から来る、っきのうの夕、旧石器先生に現場へ来ていただき、案の定というべきか、マキシマムの作業量を指示せられてしまい、実働10日のうち3日目のきょうの時点ですでにして日程的にくるしいようにおもったので、っきのうまでののんびりペイスを改めて、っわりに時間いっぱいまできつきつに作業を詰め込む、っまあそれでも作業員さんたちにはそれぞれマイ・ペイスで仕事をしていただくのでぜんぜんよく、っしかし、っぼくが休憩時間中も休まないで作業をつづけていると、っなにも云わないでもいっしょに動いてくださる方もいる、っそういうプレッシャーを掛けている心算ではないし、っほんとうに、無理をするのはぼくひとりでよいのだが、っま、終盤になって慌てるのもいやなので、中盤ですこしく蒸しておいて、最後はソフト・ランディングとゆきたい、っいつもこの程というものがむつかしい、っあまり蒸しすぎてしまうと、途中経過っきり見に来られない旧石器先生から、え、なに、こんなにペイス早いんだ、まだ余裕あるよね、じゃあこれもやってもらおうかな、っと云われてしまう、っそうならない程度に急ぎ、っそうなりそうなら適宜、ブレイキを踏む、3日目の転ばぬ先の杖としては、っまずは一寸アクセルでよかった、っあすも、っそうさなあ、っまだアクセルを踏みつづけておくべきタイミングかな、っこちとらあすも演奏会なのだが、

ケント氏は高名で、っお顔とお名とはずっと以前から知っているのだが、っその演奏はこれまでに意識して聴いたことがなかった、っついさいきんにご家族共演の音盤が出て、っそれで初めて、児玉麻里女史とご夫婦でいられるのだと知る、

っその演奏は、縦横に表情が附き、っなかなかに聴かせた、っすくなくも、先年、惜しくも井上キーミツのご体調不良によりジョナサン・ノット氏の代演となった新日本フィルとの同曲公演とか、っまた、読響ではユライ・ヴァルチュハ氏も継続的にマーラーを取り上げておられ、っその《3番》公演とか、っいずれでもぼくのこころはぴくりとも動かなんだのだが、っきょうはちゃんとケント氏なりの訴えが聴こえてきて、っこちとらとしてそれを受け止めるよろこびがあった、

済むと、満員の客席はおおきに沸き、ソロ・カーテン・コールが行なわれていたが、っぼくとしては、指揮者の表現の趣向としても読響の合奏精度としても、そこまでのものではないのじゃないか、っというやや醒めた気分ではあった、っただ、4楽章あたり、音楽が次第に指揮者や奏者の人為を離れてひとりでに語り出すかのごと趣があり、っただただマーラーその人のいじらしい純眞それのみを目の当たりにしていた、



っさて、っあすは池袋、北原幸男氏の棒で、っどこかの学生オケの公演だったかしら、開演が18:30と早いのだが、っまあ大丈夫だ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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航空公園、




矢崎彦太郎氏の棒、フィルハーモニック・ソサエティ東京公演、済む、演目は、ってっきりサン=サーンス《オルガン》がメインかとおもっているとちがって、っそれへはなんと前座を務めてもらい、後半は、ラヴェル《マ・メール・ロワ》、っそしてストラヴィンスキー《火の鳥》1919年版スートである、《オルガン》のオルガンはいまや㐧一任者の石丸由佳女史、一寸以前までは、オルガンといえばまずは松居女史、っそして室住女史であったものだが、、、っま、っおふたりともいまなお現役ではいらりょうが、

っきのうのICU現場は、っまあ無事に開始せる、トラブルといえば、府中の黙々先輩現場から光波測定機と測量アプリケイションの入れてある会社スマート・フォンとを借りて来たのだが、光波測定機が旧式でBluetooth内臓でなく、外附けの送受信機を要するのだが、っそれを受け取り忘れており、先輩へ連絡すると、きょうは埋め戻しで、俺、見ているだけだから、持って行こうか、っと云ってくださり、来ていただく、っそれで公共基準点から国家座標を現場内へ引き込みたかったのだが、東八や人見街道の車列が切れず、見通しが利かないので、16時ころまで粘って、すみません、きょうは諦めましょう、またあさって仕切り直しだ、っと断念す、

調査担当者はICUで教鞭も執っておられる旧石器先生であり、彼氏はいま、っうちの会社が社長の代替わりで分離した、っその旧社長がおそらく隠居前の最期の仕事でやってみえる府中の現場でも調査担当者をされており、日中はそちらへ掛かりっきりでいられ、っこちらはぼくへ任せっきりだが、夕方行けたら行く、っと事前に云われていたものの、っなんの連絡も来ないし、っこちとらから連絡したのでは藪蛇で、行くから待っていてくれろと待たされ、っおまけに来られていろいろとご指示があって作業が増えてもいやなので、、、っこらこら、っそんなこと書くもんじゃない、っしらばっくれて16時半までには現場を出てしまったのだが、っそのあとお越しになったようで、行ったけれどもう遅かったね、っとSMSが送られて来、あっ、やべっ、っとおもい、いまのところなにも出ていません、っと報告す、

っきょうは、早めに航空公園へ着き、公演事前に満洲で食事をとおもうが、っちょうど午時で混み合っており、13時前ころにやっと席へ通されて、っそれから生2杯でわりに大食をしてしまったので、演奏中、っときおりわずかに睡くてしまったのと、アルコールが入ると血流が活発になり、血管も膨張するのだろうか、っこころなしか耳の聴こえがわるくなる気がし、っとくに開演からしばらくは、っその弊をおぼゆ、っけれども、っここ航空公園は流石の潤澤豊饒のトーンであり、欧州の名門名器にも敗けないのじゃないか、

っいま公演事後は、器裏っ手の役所の門扉の前でシガレットを服んでいる、楽屋口が見え、矢崎氏と、奥方かな、氏とご同様に頭が真っ白の女性がともにタクシーで去られる、っべつにその様を見ていたいわけではないが、シガレットを服むのに、器へ面した駅前通りではいたたまれなく、っこの役所は休日には門扉が閉まっていて利用者はいないし、他の歩行者も僅少であるため、閑を潰すのに好適の立地であるというだけだ、

フィルハーモニック・ソサエティ東京というこの団体は、っぼくは過去に聴いたことがあるのだろうか、コバケンさんと海外楽旅をされて、ルドルフィヌムにおくチャイコフスキーが音盤になっている団体は、っあれはちがうか、フィルハーモニック・アンサムブル管といったか、っけれども、っこの団体も、来年は創立何周年だかで、コバケンさんを招かれてブラームス《1番》などをお演りになるとのことで、切符も安かろうし、聴きに行ってもよいかもしらん、っとても勝れた合奏でいらした、

矢崎氏の棒は3曲いずれでもまるで迫らず、泰然自若そのものであられる、

《オルガン》は、先に聴いた井﨑正浩氏が戦闘的の姿勢が仇となって格調を失しられた気味であったので、っきょうはなおのこと、っゆたかな音場へしずしずと展がる曲趣を堪能せる、

っここのオルガンを聴くのは、っどうなのかな、初めてなのかな、っぼくはサントリーの同楽器は、弾き方にも因るのかなあ、上の方の質感がすこしく安っぽいというのか、高い音にもすこしく渋みというかえぐみというか、夾雑物の混ざる感触が慾しいのだが、っそれがしないという憾みを有っていて、っここのオルガンは、っまあそのぼくのおもっている質感とはまた異なるが、っしかしとても快かった、最低音域が鳴るときの音場全体の微震動も、っまさしくオルガンにっきり成しえないオルガスムスである、、、下ネタじゃありませんからね、下ネタか、

2楽章前半も、っおっとりとして攻めてゆかれない矢崎氏のフォルムこそが、っぼくの最も聴きたい味である、無理をしなくとも優に飽和する器であるため、オケの面々がまたなんと落ち着き拂って鳴られることであろうか、っそして、ったどたどしい棒へ彼等が懸命に附き合われるところから、全体の風附きはなんともダサい感触と成る、っああした演奏を聴くとき、いったいダサいというのはどうしてああカッコいいのだろうかっ、っとの慨歎へ浸らずにいない、ダサさにカッコよさを認めない音楽趣味があることをぼくは識っており、っというよりそのほうがずっと一般的の態度であろうが、っぼくはどうしてもある種のダサさにいたく絆されずにいない、

2楽章後半もほんとうに慌てず騒がず、大団円は、コバケンさんが桜木町で日本フィルを振られた際の石丸女史は勇み足で、最後にシムバルが打ってトロムペットが世にもカッコいいポリリズムを吹くところでもうはやルーシーをストップ全開に高鳴らせられ、っそのトロムペット連も、っおいしいところをすべて掻っ攫う締めのティムパニも、日フィルはいずれ劣らぬ妙技を発揮されていたろうと思量せられるにも拘わらず、っあまりにも鳴りすぎたオルガンにややマスクされ勝ちとなってしまったところ、っきょうはティムパニのところまで最強音を我慢され、っそこでオルガンが満々と鳴っていてもちゃんとティムパニの硬い打音が痛快に音場を貫く音勢バランスであり、っじつにすばらしい幕切れであった、

っこのコーダでは、っかのスヴェトラーノフ氏音盤は、っそれまでずっとずっとじっくりと運んで来たのに、テムポ観というより拍節観からちがうのであろう、っぼくにすれば急にばたばたと駈け出していて風格を損なうようにおもい、肝腎のトロムペットなどもあまりよく吹けていない、っやはり断然、最後の最後までのんびりと歩ってくれるほうがよいので、っきょうの矢崎氏はそうであった、

全編これ中音量以下、打楽器を交えてもほんのすこしくも騒がしくならない《マ・メール・ロワ》のまたなんという高雅高級か、

一転、《火の鳥》は冒頭から絃バスのピッツィを飛び散らせ、執念深いテムポで各声部を懇切丁寧に出し入れされる矢崎氏の手筈よ、管はどれもほんとうに空想上の鳥たちの啼き声に聴こえる、っそれだけに、高絃のフラジオレットが上下動する効果音は、っもっともっと活かされたかった、っここはまだ田舎へいたころ、金山の市民会館で聴いた大山平一郎氏の棒、名古屋フィル公演がいまもって脳裡を去らない、っせっかくにあんなに効果的の音を書いてくれてあるのに、っどうしてみなあれを掠れるような音でっきり弾かせなくて満悦しているというのだろうか、ほらっ、こんなにもおもしろいでしょっ、シンセサイザーで人造した音みたように聴こえるでしょっ、っというようにたのしくたのしく再現してくれなくてはっっっ、

不満らしい不満といえばしかしここのみで、っあとはずっとすばらしかった、っどこかな、っほんのセロのソロがあるでしょう、クラリネット、ファゴットとバトンを渡すのかな、っその3者は3者とも妙音も妙音でいられた、絃がたったおひとりといえども、ニュアンスゆたかに濡れた音のする音場の勝利である、



っさて、中1日置いてお次はすぐあさって、サントリーにてケント・ナガノ氏が読響をお振りになり、マーラー《夜歌》を披瀝なさる、っだからあさっては旧石器先生が夕方に現場へ来られるのを待ってはいられないんだよな、っそれもあす伝えねば、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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池袋、




カーチュン・ウォン氏と日本フィルとの公演2日目、済む、演目は、伊福部昭《SF1番》、髙木竜馬氏を招いてラヴェル《両手コンチェルト》、っそしてドヴォルザーク《新世界》である、

最長不倒距離、大更新っっっ、

同プロ2日公演は、っどちらがよいわるいと一概に云えない、当たるも八卦当たらぬも八卦で、っどちらかがわりに当たってどちらかがわりに外れることもままあるため、外れのほうを引いたらいやだなあとおもうと、っつい2日とも購ってしまう、日フィルのばあい、サントリー2日と、今次のごと桜木町、池袋とか、大宮、サントリーとかの各1日とがあるが、別器で容積、アコースティックが異なるとなると、単に細部の微修正微調整のみならず、っもっと音量音圧や音勢バランス、っさては表現上も各日で別様が試行せられる可能性はおおきにある、っあるは、演者として大差のある奏楽を行なった心算はなくとも、客席での印象において大差を生ずることはありうる、

桜木町、池袋とつづけざまに聴くと、両者の音響も一長一短である、間接音の豊富さでは桜木町が優り、コンチェルトにおくソロのニュアンスの伝わり方もそちらへ軍配が上がる、池袋はもっと各声部がマルチに分離する解像度に特長があり、髙木氏のソロはきのうのほうがもっと潤いあるゴージャスな感触をたのしんだのだが、オケ・パートの、っときにひびきが混ざり合いすぎて各音像が不明確となるきのうの隔靴掻痒は、っきょうはすっきりと解消さる、

っこまかな瑕疵の修正という点でも、日フィルのプロフェッショナリズムには、っきのうに倍する一驚を喫さずにいない、単純なエラーもごくごく局所に限られ、っそれもすべて、エラーと云って云えなくもない、っという程度のものにすぎず、日本のオーケストラもついに、2時間の公演の全曲全編を、っあのような熟し切ったアンサムブルで通せるようになったのだっっっ、っあるいは、《新世界》などという定番演目の公演で楽団が捌けたあとに指揮者へソロ・カーテン・コールを與えるのは大甘だという向きもあるかもしらんが、っぼくはきょうは、表現の点でも奏楽の精度の点でも十二分にそれに価する演奏内容であったとおもい、周りが離席し始めても自席へ居残っていると、っぼく以外にもおなじ認識の人はすくなからずいられたようで、カーチュン氏、コン・マス、セロのトップ、っそしてコール・アングレの方々が呼び戻されていた、コール・アングレは、《両手》《新世界》双方に大舞台があると云ったが、《SF》にしても、中途の歌謡楽節では、同楽器が絃とユニゾンなのであった、

っまた、tvuchによる動画収録もきょうであってほんとうによかった、っいま、コメダで購入した当該動画を観ながらこれを書いているが、音盤のように事後的の編集を頼まなくとも、生音源のままでどこへ出しても恥ずかしくない記録であり、映像としても、先のサントリーでのマーラーではカメラ毎にぜんぜん色調が異なっていたところ、っこんかいはどのカットでも同質である、っまたひとつ、っうれしいコレクションも増えぬ、

《SF》は、っきのうの反省からか、器の違いによる変更なのか、冒頭、タムタムの1撃目からきのう以上の烈打、っまさしく大怪獣の咆哮を髣髴せしむ、彼のみならず、オケ全体にきのうからすれば力瘤を作った豪壮な鳴り方であり、曲趣からいっても、日フィルらしさとしても、っきょうのほうがこのもしい、過去、音盤等へ遺っているもののみでも数多の記録のある同曲だが、っそのうちでもきょうのカーチュン氏はなかなかの位置へ附けられたのではないか、

ラヴェルは、っいま動画でマイクを通した音を聴くと、ったとえば1楽章のオットー氏にしても、完全に無疵ではないが、間接音に扶けられる客席で聴くぶんには、っほぼ問題のないレヴェルであった、

っそれよりも、最冒頭からしばらく、っわずかに音勢バランスを欠き、木管、殊にピキェロの聴こえがわるかったきのうからすれば、っきょうはどの楽器も最上の配分で鳴っており、っよって1楽章はおおきに底上げせられ、全楽章が同格の完成度へ達した、

髙木氏の表現で、っぼくの趣向と行き違いがあるとすれば、1楽章の、っあれはコーダの入りなのかな、直前、急落下してきて、ジャジーなリズムで低音からまた上がってゆくその始めのうち、音を出しているのはソロのみだが、髙木氏はフレイズの末尾をアクセントと捉えていずれも叩くようにつよく打鍵されている、っしかし、っどこかな、っどこか1個所、っとても都会的のブルーな和音が鳴るところがあるので、っそんなに、だんっ、っと叩かないで、っきゅっと押さえるように弾いたほうがずっと効果的であるとおもう、音盤でそれを叶えてくれているのは、っあれ、っあの超別嬪、名前なんだっけか、ジンマンの棒で、オケはバルティモア響かどこかだったか、カップリングがガーシュウィンのコンチェルトだったかな、っあの人名前なんていったっけか、っほらあの別嬪だよ、オオカミの保護活動やっている人、っええと、、、、、、グリモーグリモー、っこの間3分ほど唸る、エレーヌ・グリモーだね、グリモーの、っとくに若いころは信じられないほど別嬪でさあね、白人女性のいちばんよい造作の顔附きのひとつだな、

2楽章は、っきのうとほぼまったくおなじ、髙木氏が弾き始められる瞬間に客席から咳払いがあり、っいま聴くと、マイクもはっきりとその大罪人の音声を拾っている、っひょっと、っきのうとおなじ人なのではないか、髙木氏のアンチで、っしょっちゅう客席で嫌がらせをせむという輩でもいるのだろうか、っそんなの、ナチス・ドイッチュじゃあるまいしねえ、っともかく、っどいつもこいつも、集中しやがれってのに、

っさておき、例の同楽章の中間部の頂点だが、っその手前でいったん最弱音へ落とすのは、っきのうには聴かれなかった表現、ソリストであろうか指揮者であろうか、っやはりぼくと同様に、っきのうの演奏ではみずから満足されず、っなんらかの手立てを講ずる要をお感じになり、ゲネ・プロ時に試行錯誤が為されたものとみられる、っけれども、っやはり最高潮部、ソロの音価がいっとうこまかくなり、オケがクレッシェンドするところで、っそのソロの連符のポリリズムが、っきょうもどうしても客席では明瞭に聴き取れないのだ、っいま動画の音声を聴くと、近接マイクで拾っているから、っちゃんとピアノの音が聴こえる、っつまりこういうことか、音盤で聴いてここはそういうものだとおもっていても、実演を客席で聴くとそんなに都合のよい音勢バランスは得られない、っと、っぼくは、っそのソロが連符になるところでテムポを落とし、一寸がちゃがちゃいうくらいに1音1音はっきりと打鍵し、っはんたいにオケの漸増は抑え気味にするという差配をしてでも、っあそこではいちばんの頂点でもあくまでもピアノが最もよく聴こえているというバランスを志向すべきとおもう、

《新世界》は、っま、《新世界》をちゃんと弾けないならプロのオケ・マンなんて辞めちゃったほうがよいのだが、っしかし三度くりかえせば、っよほどのことをしたにせよ、っまだ平凡との誹りを免れないであろう、っきのうきょうのカーチュン氏にしたって、いまこの現代の瞬間風速で云えば、っという条件下でならばそれなりのものかもしれないが、音盤にはまずケルテスという永遠の大スタンダードがあり、ゲテモノを探せば、クレムペラー大々々先生が控えておいでになる、最後的には、っぼくはひとつびとつの演奏会へ、っそうした過去の綺羅星連の偉大な達成と並び立つだけの存在感を求めている、っそうでなければおもしろくないではないか、っもちろん、っそんなことは滅多には実現せられないのだが、逆に、っぼくの主観においてというにすぎないとしても、っいまだかってどんな音盤にも聴いたことのない大業とおもえるような公演へ出逢うことも、っごくたまにあったりするのである、



っさて、っあすからしばらくICU構内の現場、っところで、っそれまでにいったんケリを附けたかった中央区仕事なのだが、っどうとか了わりまでゆけましたねえ、木曜は日附が変わって2時すぎまで会社へいましたよ、っおとついは試掘の道具を社用車へ積み込むので半日潰れて、っまたよるまで粘って、っきのう、午前のみ仕事をして、っそれでようやく、残業ボスへ了わりましたよと報告し、今後の作業方針についてすこしく打ち合わせす、っやあ、長かったねえ、、、っまだこれからたっぷり残務がつづくのではあるが、

っそれでお次はあさって旗日、所沢かな、矢崎彦太郎氏公演、演目はなにかな、《オルガン》か、矢崎氏はフレンチのシェフもシェフでいられるからな、っや、っちがったかな、知らない、知らないし、知らないままでよい、っそのほうがたのしいから、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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桜木町、




カーチュン・ウォン氏の日本フィル公演、済む、演目は、伊福部昭《SF1番》、髙木竜馬氏を招いてラヴェル《両手コンチェルト》、っそしてドヴォルザーク《新世界》である、、、っやっちまった、タブー中のタブー、《SF1番》とラヴェル《両手》とを同一プロへ組むという、っこれはしかし壮挙であろう、っそして、《両手》の曲調を契機にジャズの生地たる新世界を展望せむという趣向で、通俗名曲《新世界》も、指揮者にしてみれば演りにくかろう組みにくかろうで、っついでに聴き手にしてみても、聴きにくいというのか、っいま新たに曲へ出逢い直すごと感銘の得られにくい演目であるが、っきょうのかようのライン・アップは、っまことに好プロである、

演奏も、3曲ともに、各位ひじょうに丁寧な仕事仕事でいられ、っじつに頭が下がる、

《SF1番》は、颯爽たるカーチュン氏ならば、っどこか腰のかるくなる個所が出てしまいそうで、っそれを惧れていたが、最後の進撃も速すぎず、っここは先の坂入健司郎氏が上滑り気味であったので、っきょうくらいのどっしりとした歩幅のほうがぼくのこのみだ、、、若き坂入氏のおきもちも痛いほどよくわかるのではあるが、

っしかもカーチュン氏は、っけっして安易に金管や打楽器を頼りにされず、っむしろ管を抑えて絃へ音勢の主体を担わせむとされる差配もみせられ、っじゅうぶんに演奏効果を確保しつ、っかつ皮相な熱狂とは距離を置かれていた、貫祿あふるる開幕である、

髙木氏は、コバケンさん、日フィルとご共演されたラフマニノフ《2番》の動画にいたくやられ、我が庭、多摩センでのオケを読響へ変えた同曲公演で初めて実演へ触れ、っきょうが2度目であったが、非礼に聞こえなければ、ちゃんとご自身の表現を有っていられる、多摩センのときもきょうさっきも、っそうつよく感ぜさせらる、

コバケンさんとのときには、彼氏の語りがあのとおりじっくりたっぷりであるから、髙木氏としてもそれに附き合われたのかとおもい做していたが、ラヴェルの1楽章は、っぞんがいオケのバックを失ってソロがひとりっきりという場面があり、っその度に彼氏は、っおおきくテムポを緩めて音楽をご自身のペイスへ手繰り込まれてしまう、っその際の、瀟洒なフレンチだろうとそうすんなりとは運ばねえぞっ、っというねちっこい執念、クリアな打鍵とはんなりとした柔音とのコントラスト、和音の複雑微妙な混ぜぐあいなどなどたるや、一瞬一瞬にかすかかすかに色合いを遷し、っおよそ筆舌に盡せぬ至藝であられる、

トロムペットは、《SF》へはオットー氏がいられないので、お、降り番かな、っとおもうとラヴェルは彼氏であられる、っその難儀至極の1楽章さいしょの主題確保は、完全に無疵ではなかったが、っその後は萬全、

他のパートも、ムチから全曲が開始して、っはじめのうち、ソロに対して各木管がもうすこしく聴こえてくれたいかな、っとおもわせないじゃなかったが、っじき、っつい一寸サロンで戯れているといったムードが醸され、規模を絞った絃の小味もまた素敵だ、

2楽章の髙木氏の弾き始めがまたそうだ、躊躇うように鍵盤へ指を下ろされ、下ろされたあともまだ躊躇っていられ、っやっと3拍目くらいでテムポが定まる、っあんなにも萬感の開始であったというのに、っそのさいしょの1音が鳴るか鳴らないかのときに、咳払いをしやがった輩がいた、っいったい舞台をちゃんと見ていないのだろうか、奏者が構えたら、客席もいっしょに息を飲まなくてどうするというのか、集中していないのなら出てゆけっ、演奏会へなど来るなっ、っと叱り飛ばしたい、

っさておき、っまことに不可思議な上下動のこの主題を、髙木氏はたっぷりとこころゆくまで音場の彼方まで届けてくださる、っわりに健康的の音量で始められているため、中途で弱音へ落ちた際のせつなさといったらなく、っぼくも泣き濡れんばかりである、

っやがてフリュート、オーボー、クラリネットの順にバトンが渡り、っその後2者は過酷なハイ・トーンを吹かされる、オーボーはほんのほんのわずかに濁音が混ざってしまったようであったが、っしかしこのあと、絃の霞の裡に呼び交わし合う木管群のティーム・プレイのあたたかさは、っまた愛すべき日フィルの一面であられる、

中間部が高潮する場面は、っもっと感極まる再現が可能のはずで、っぼくとしてソロには頂点の頂点までオケに押されずに聴こえつづけていてくれたかったが、っその代わり、再現はほんとうに夢に聴くごときらきらと煌めいていた、っおもえば、っこの《両手》と《新世界》とを1日のうちに組めば、コール・アングレにとっては2度も大舞台を熟さねばならないわけだが、っいつもの日フィルのあの方はちゃんとどちらでもぼくらを悦境へ拐ってくだすった、髙木氏の伴奏がまた感泪もので、っどうも、変に神経質に音を細めないで、1音1音きっちりと発音するところから、っかえって折れそうな繊細を演出されるようであった、デリキットな音楽だからといってやさしい音ばかり出しているというのは、3流5流のやることである、

フィナーレは全員が最善を盡された、無上にたのしかった、っしばしば、誰はこの音を出している彼はその音を出しているという次元を逃れ、っひとつの精巧な機械仕掛けが鳴っているように錯覚せられた、っまさしくラヴェルの望む所そのものであったのにちがいあるまい、っこんなのを必死に弾いているのがバレてしまうようにっきり演奏できないようでは、㐧1級のピアニスト、オーケストラではない、

っなにしろ、何萬パーツもが集積せる時計細工のごとこの曲であり、っそうした時計はどれかほんの1部品が狂っているっきりですでにして時計としての用を成しえないわけであるが、っぼくはあすの池袋も聴くので、贅澤が許されるならば、っあすはぜひ、1楽章をもうほんのひと声、後続楽章と同水準まで引き上げられたいのと、2楽章中間部の頂点がもっと感動的にひびいてくれたらとおもう、

っところで、ソリスト・アンコールはシューマン《トロイメライ》、、、っん、トロイメライは〈トロイメライ〉と書かねばぼくの流儀に反するか、っともかくそれ、コバケンさんとの動画でもそれだし、多摩センでの実演でもそうだった、佐藤久成氏のボーム《カヴァティーナ》みたようなもので、名刺代わりにされているのかもしれない、語り口もまた堂に入られ、提示ではむしろ連を遷る際に音楽を前へ倒すごと草書体の体捌きでいられるのに、弱音へ落ちる再現では、沈み込むようにしてどんどんとテムポが遅くなり、っほとんど1音毎に指を下ろす鍵盤をたしかめたしかめ、鳴った和音の色、っその移ろいをかみしめかみしめ、滔々たる余韻を漂わせられるのであった、

《新世界》はきょう、ったしかな名曲として、っぼくの眼前へ見参した、運が向いている、最近に聴いた同曲といえば井﨑正浩氏と戸塚の楽団とのもののはずで、誰しも、っよしんば相当度の練達を発揮したにせよ、っおおきく云えば平凡の部類を逃れられず、っただただ小手先へ流されるっきりの駄演も世に澎湃としているこの曲に、2度もつづけて篤い感銘を與えらるというのは、っなかなかないことであろう、

っくりかえせば、っまことにまことに丁寧な仕事であられた、

最冒頭から、自信を有って弱音で這い入る落ち着きがすばらしい、ティムパニに目を醒まされ、序奏が推進力を得る場面では、通例スタッカートで奏さる木管の動機をレガーティッシモ、意表を突かる、

主部へ遷ると、一寸おどろくほどテムポが遅い、カーチュン氏の造形として意想外だ、提示のリピートはなし、っここでは序奏でのようにとくに奇異なことをされているわけではないが、指揮者や演目によってはうれしがって力んでしまうところのある、、、っそれは彼等のチャーム・ポイントであるっっっ、日フィルが、っしかし冷静沈着な快音で《新世界》へこびり附いた手垢という手垢を洗われる、

2楽章も1節1節を慈しみ、演り手によっても聴き手によっても等閑にされてきたあの音この音が、細大漏らさず新たな息吹きを得る、井﨑氏もここではアマチュア楽隊をお相手に入念を極めた仕事を披瀝されたものだが、流石にきょうはプロフェッショナル、指揮者の意気へ感ぜられた日フィルの職人気質には、っまこと恐れ入る、

スケルツォを經てのフィナーレもやはり、っとくだん突飛なことはされていないのだが、一寸した語感、一寸したアイディアがすべて耳にうれしく、最後までフレッシュな訴えが留まることはない、井﨑氏がぼくを泣かされた、っさいしょの最有名のテーマが絃による模倣へ遷る手前の同動機による經過句では、楽句中のみじかい音へしかし素早い弓で高い質量が與えられ、っこちとらをしてはっとせしめる効果を生まれていた、っとにもかくにも、世界中の人という人が演り古し、聴き古してしまったのだ、っああしたことひとつがいかにうれしいか、



っさてと、例のカレー屋へ寄って帰らむ、っあすも池袋で同一プロ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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荻窪、




オッタヴィアーノ・クリストーフォリ氏のトロムペット、フリューゲル・ホルン、アレックス・セバスティアヌット氏のサックス、エミィ・トドロキ・シュワルツ女史のピアノのトリオによる公演、済む、

オットー氏とエミィ女史とはご夫婦とのこと、彼氏の降り番の際の日本フィル公演で、サントリーのロビーで行き合ったことがあり、流石に色男、綺麗な女性をお連れなんだなあ、っとおもったことがあったが、っあのときもご夫婦連れであったのだろう、、、っこんなこと書いちゃって、っひょっと不倫相手だったりしたらどーしよ、、、知ーらね、

アレックス氏は初来日、オットー氏とは少年時代よりの旧友とのことで、サックスに出立し、っのちにラッパへ転向されたオットー氏にとっては、4歳ほど年長のアレックス氏は、往時、神のごと存在であったとのことだ、

演目は、伊藤康秀なるオットー氏と懇意の作家による《チョコレイト・ダモーレ》というメロウな1曲に始まり、っつづくレナート・ミアーニ《ハーレム・コンチェルト》は、オットー、アレックス両氏と同郷の作家の筆になる委嘱新作、同プロ公演を彼地、此地双方で行ない、彼地での公演はすでに済んでおり、脱稿したのは公演のわずか10日ほど以前であったとのこと、15分休憩して、後半はガーシュウィン《ポーギーとベス》、

っここ杉並は、オットー氏にとっては勝手知ったる庭のごとであろうが、っぼくにすればきょうの小器は初めて入る、っどこへあるのだろうとおもっていると地下2階であり、キャパシティ100人強くらいかというささやかな空間で、開幕曲からオットー氏のフリューゲルへもアレックス氏のサックスへも陶然とせずにいない、っしかし、流石に豊富な音圧、音勢の楽器楽器であり、音場は優に飽和してしまい、っおふたりが吹かれているときには、エミィ女史のピアノのニュアンスは鮮明に伝わるというわけにはゆかない、っやむをえなかろう、

コンチェルトは3楽章制で、ニュー・ヨークの街並みへの心象の音化であり、1・3楽章へはラグタイムのリズムが聴かれる、2楽章はミディアム・ナムバーで、ソルディーノのトロムペットのムードにシビれる、

ガーシュウィンもたっぷりと堪能、っまこと残暑のよるに相応しい好演目であった、

場内へはオットー氏のご同僚、大西氏がいらっしており、彼氏は先のマーラー公演の終演時にロビーで近々開催の個人公演のフライヤーを配られていたが、っぼくは退出時にたまさかそのすぐ脇を通り、受け取らないのもわるいので頂戴したが、ミニ・リサイタルというにはなかなかにヘヴィかつチャレンジングな演目が並ぶ、っおそらく現場稼働中とはおもうが、都合が附けばそれも聴きに伺うとせむ、彼氏は、カーチュン・ウォン氏のマーラー《3番》時、プリンシパルのオットー氏はポスト・ホルンを吹かれねばならないため、舞台上の1番をご担当で、オットー氏に劣らぬすばらしい吹奏でいらした、っこんども妙音妙技を見舞ってくださるのにちがいあるまい、



っさて、っお次は土曜、カーチュン氏公演で、髙木竜馬氏がラヴェルを弾かれるのがたのしみである、トロムペット1番は果たしてどなたか、腕利き揃いの日フィルであれば、っどなたであれ、1楽章のさいしょの主題確保も、っきっと易々と吹きのけてくれることであろう、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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上野、




上岡敏之氏の二期会公演で、ヴァグナー《フライング・ダッチマン》千龝楽、済む、オケは読響、キャストについては列挙を割愛とせむ、っいま脳裡へ箇条書きにしているっきりでも、以下、書くべきことが山積で、っとても時間がない、演出は深作健太氏である、

シムフォニー・コンサートばかりでオペラを観る習慣のないぼくで、っしかし去年観た井上キーミツの《ラ・ボエーム》におく森山開次氏といいこんかいの深作氏といい、っおふたりともオペラ門外の人であろうが、っある異化作用を催すべく仕掛けを用意されていたという点で共通するところがおありで、っそれがこんにち的のオペラ演出の存り方なのだろうか、森山氏はマルチェッロに藤田嗣治を重ねられ、深作氏はオランダ人、ダーラント双方の一行が漂着せる遭難個所のイミッジとして、フリードリヒ《氷海》を頼み、っそれをそのまま大道具へ反映されるというぐあいでいられる、っなにかしら独自色を盛り込まねば、演出家として面目を示したことにならないという自己顕示であるかもしれないが、

プログラムへの深作氏の寄稿を読むに、っまあ演劇その他界隈の人の通弊として、っあたりまえに左巻きでいられ、っしかし、環境問題にせよ移民問題にせよ、非礼ながら、単に不勉強というのか、考究の不徹底でいられるのではないか、前者はすでにして伸び代のない西欧の後進国に対する牽制の口実でしかなく、世に眞には環境問題などというものは存しないのだし、後者については、自国自民族の安定に支障を来たらせずにいない移入者に対して忌避感を有ち、一定の規制を設けむとするのはどこ国家、誰民族にとっても至極とうぜんの傾動にちがいなく、っそれを唱えれば即ファー・ライトと看做すというのは、正義漢などでは毛頭なく、世間へ流布しているげにくだらない綺麗事へしかし安易に靡く、っただ無分別、無責任にすぎない、美術等へはなにがしかの造詣をお有ちであるらしい深作氏の、っしかしこの点に掛けての野放図なばかりの無思慮を読みつ、よくもまあこう羞ずかしげもなく、ブルートゥス、おまえもかっ、、、っとの憤怒と、っなによりすでにして憐愍をおぼえずにいない、っなぜ世人はえてしてかくもあほな左翼へ陥り勝ちであるのだろうか、人として、欺瞞的の生なぞけっして生きたくはない、っという程度の矜持くらい、っしかと有たないでどうするというのか、環境もきびしければ世間も人もきびしく、誰もが描く夢も理想も無慈悲なまでの理不盡の下へ組み敷かる、戯言はまるで通用しない、っさらば人の生とは、必然にして恆に懸命なる善後策の連続たらざるをえない、妥協するなっ、っとあほ左翼人士は叫びたいであろうか、彼等の喉元へ突き附けてやる、それこそが人類自身による人生への誤解、人間への世界への曲解にほかならないのだっ、っこんなこと、っあたりまえのあったりまえである、何十年と人生をやっても、っそんなことひとつへもおもい到らない人が無視できぬほど世上へ大勢いそうだというのは、っぼくにすればまことに歯痒いかぎりである、っこのばか間抜けのくそ痴れ者どもめらがっっっ、、、っや、っいけませんな、左翼を腐すのは臍で茶を沸かすごと、赤子の手を捻るごと簡単、朝飯前も朝飯前で、っかかる雑事へ現を抜かしているようでは、

っま、っそれはとにかく、都合2日を観劇して、2度とも2階右翼バルコニーであり、初日よりもきょうのほうがそのなかでもさらに良位置であったが、っあらためて感銘を深める、

上岡氏の棒になる読響は、プロフェッショナルの楽隊が短時日のうちに同演目を4度も熟せば、極めて練れた手応えが出るも必定であり、っいくぶん硬い面もあった初日からすれば、っきょう最終日はもはや行くところ可ならざるはなし、っしかも、極まった末に、読響という個別具体性をも去らむばかりの眞なる自在、普遍に耀く境地へ音という音が脱け切っており、サディスティックなまでに生き急ぐ序曲の前進性から、っやはり上岡氏の本領も本領は、っがんらい先のブルックナーみたような地を這うごと牛歩にでなく、っかかる飛鳥の振る舞いにこそ存るとおもわずにいない、

っここ上野大器は、古今、硬質にしてデッドな音響と謳われてき、っしかもオペラでは楽隊はさらにピット下へ潜りさえするのであるが、っきょう聴いていると、っその冴え冴えたる音響は、っむしろほとんど痛快と聴こゆ、ピットへ入るというのはあれなのだろうか、音響上はかえって効果的なのだろうか、舞台上へ居並んだのでは、っもちろん背面、両袖、天井と、反響装置はあるのだが、っしかし距離が遠く、楽器楽器の発音も、っまずは八方への拡散を余儀なくせられてしまう、っそれがピットへ入れば、狭い穴倉の四方の壁面がしかしホーンの役割を果たし、遠く客席へも明晰な音像を運んでくれるのかもしれない、数すくない機会だが、っぼくもあれこれの器でピット内からの楽隊の奏楽を聴き、っそのどのばあいでも、オケの音が籠ってしまってゆたかなひびきがしない、っとの憾みを有ったことがない、編成の規模にしたって、シムフォニー・コンサートの際とは比較にならぬほどささやかな所帯であるにも拘わらず、っである、

大ヴァグナーの筆致の豊饒も、っきょうはまたいたく実感せられた、示導動機の象徴性はいまさらぼくが壽ぐまでもなく効果的に定まっているのだし、っこまかいところでも、ったとえば、歌手がおもい惑いつようやっと科白を絞り出すというフレイズでは、木管が1拍目から先行して節を歌い出し、人声は3拍目からやっとそれへ声を合わせる、っといったぐあいで、っじつによくかんがえられている、2幕の迫眞の場面、エリックが、どうした、顔色がわるいぞ、っと訊ね、ゼンタが、いいえ、ただ愍れなるあの方へ同情を致したっきりよ、っと応える、激昂した男の、悪魔にでも魅入られたかっ、っとの絶叫へは、っよろしくトロムボーン連の邪悪なる和音が添えられている、1幕全編は、照明ともども、音楽も遣り切れぬほどどんよりと暗いが、っどうして、居睡りをこいてしまい、船長に呆れ交じりに起こされる舵手は、夢の中でも歌い継いだろう恋人を想う歌を、起き抜けの睡惚け眼のうちにもいまだ口遊まずにいない、自身の織らむとする物語のいかに陰惨たるか、っそのことを最もよく識るのはもちろんヴァグナー当人なのに相違なく、彼もここで、懸命に観る者を笑わせ、和ませむとしてくれている、

ダブル・キャストで、初日ときょうとで両とも聴きえたわけであるが、っその陣容のちがいによる印象の差は敢えては論うまい、以下は主にきょうさっきの印象を述べているものと取られたい、っきょう、誰さんなのかも存じない、タイトル・ロールが㐧1声を発せられると、溜息のごと最弱音にも拘わらず、透徹せるドイッチュの発音の明晰が、広大な音場を埋める、、、っというほど切符の売れ行きは芳しくなかったようである、片山氏がいらっしていたのはぼくにすれば少々意外であったが、っすべての人をして固唾を飲ましむ、

2幕冒頭からの糸紡ぎの女性陣の合唱は、っおそらくは一般に行なわれているよりも相当度に落としたテムポであり、っこれが奏功も奏功、俗人たちの自足し、っけっして運の苛烈に飜弄せられることなどない凡々たる幸福が、能うかぎり強調せられる、マリーにころころとかわいらしい発声の名花を得られたのも得点大で、彼女の声が聴覚的にも健康健全なる凡俗を代表し、超俗、ゼンタの㐧1声を迎えるにあたり、っこれ以上にない檜舞台も竣工と相成る、

っそしてゼンタ、詞のない、ヴォカリーズでの声の初登場となるが、っのちのバラッドを待たずして、っこの時点でもうはやぼくの心身はその悩ましさに鷲摑みに摑まれずにいない、金縛りでも喰わされるようなもので、っまた歌手の方のやや翳りとえぐみとのあるヒロイックな声質が、マリーを歌われた方のそれとの間に好対照も好対照を生す、っもとより運に喚ばれ、手を引かれてしまっている人の声だ、

2幕へ綾成す群像のうちで、読者諸賢はそのことを訝しまれるだろうか、っぼくがついこころ惹かれるひとりは、エリックである、っなに小説でも映画でも、っああしたプロット上の咬ませ犬はしかし、っいたくぼくのこころの琴線へ触れて来ずにいない、っきょう彼を聴きながらなぜか頻りに想い出していたのはノーマン・メイラー《鹿の園》で、っあれにしても、無軌道な自由人、サージアス・オーショーネッシーになどはぼくはぜんぜん感情移入しえず、っむしろホリウッドの汚ない業界論理に揉まれて身悶える凡俗、チャールズ・アイテルの人物造形を読むほうが、っよほどか身に積まされる感激を味わったものだ、上の左翼指弾の論調からしても、っそうしたぼくの性向は諸賢にもご諒解いただけむとおもう、っどう足掻いてもぼくはさようの人間であり、っさようの人生を生きてきた、先のエリックとゼンタとのやりとり、不幸な人の命運へ同情したっきりよ、っと超俗の人、君に裏切られるというぼくのこの不幸へは同情してくれないというのかっ、凡俗の無様な敗け惜しみであり厭味な当て擦りだ、っこういうところである、っこういうところにぼくはいつも心裡の秘所を擽られる、俺もこの人とおなじだ、つまらない人間だ、っとの自己嫌悪が疼くのであろう、

っところでこのすぐあと、っいまだ主役ふたりが出逢わない以前、ゼンタはついに縋り附く男の惨めな未練を振り切り、あの人とともに苦しまむっ、っと宣言する、っそんな捩れた意志をしかしピットのオケは晴れがましいトュッティで支えるのであるが、っこの共苦、ミットライド、っあるはミットライデンの思潮の明確な表出は、ヴァグナーがこの時点ですでにしてショーペンハウエル《イシヒョー》の耽読者であったことを意味していようか、周知のとおり、彼の《パルジファル》は、っこの異形の傑著に対する彼なりの音化であり視覚化にほかならないが、読むこと自身はいつごろから始めていたのか、っいま時系列的にも、《イシヒョー》がいつ公刊で、っそれとヴァグナー略年譜との対応を俄かには描けない、っぼくも若くときに、これなにが書いてあんだよ、わっけわかんねえ、、、っと首を捻り捻りあれを読んだが、っそうか、ヴァグナーはショーペンハウエルの後輩、大ニーチェと同時代人なのだから、《イシヒョー》はヴァグナーの若くときから、っすでにしてあの往時のドイッチュの一面のツァイト・ガイスト、、、ナカグロ不要なのかな、ツァイトガイストの具現としてすでにして一定の市民権を得ていたとかんがえてよいわけか、ったぶんそうだろうな、っそうすると、《パルジファル》のみならず、他の作も大なり小なり、《イシヒョー》に対するヴァグナーとしての回答であるのかもしれない、、、っすみません、っもうぼくはむかしっから《イシヒョー》との無礼窮まる渾名をしかし濫用してしまっているもので、《意志と表象としての世界》ね、っご存知でしょうがいちおう、

上岡氏は初日もきょうも、テューニングの段からもうピット内へいらっしゃり、っぼくらからの拍手を拒否して序曲を鳴らし始めらる、ったしかにヴァグナーの構成も、切れ目なく3幕までつづくありとある個所で、っよし主役連がどんなに絶唱せむとも、っしかしそれへのお客からの拍手は許さぬように組み立てられている、っそのスコアを玩味味到の末に公演へ臨まむとされる人ならば、拍手でなど出迎えられたくなくてとうぜんであろう、っきょうはさいわいそうではなかったが、初日の際にはそうした緊張感を共有できない鈍なお客というものが幾人かいて、序曲が済むと拍手がちらほらとしてしまった、上岡氏は同曲の最終音を振り上げられるや、間髪を容れず、、、間髪を容れずは入れずじゃなく容れずが本来なんだねえ、っいま初めて知った、っや、書こうとしたら変換候補へ出たので、嘘だろとおもって調べたら、ったしかに容れるは許容の容、許すだから意味としてそうなるが、っぼくはてっきり、間へ髪の毛の1本も入れさせないという物理的のイミッジを頼んだ慣用表現で、っだから容れるか入れるかなら入れるだろうとおもい込んでいたのだが、入れさせない、入ることを許容しない、っというわけで、容れる、っがただしいので、入れる、っは後年におく当て字というわけらしい、ったまには変換候補機能にも世話になりまさあね、間髪を容れず1幕冒頭を振り始められるのだが、拍手のしてしまった初日などは、ピット内へわずかに視える彼氏の、中低絃へ向かいて棒を突き刺すごといつもの振り姿が、同時に緊張感の足らないその不届き者どもをも断罪するようで、っむしろ痛快だったものである、彼氏はぼくらお客いっさいに、傍観者でいないで、《フライング・ダッチマン》の裡へいて、っそのいっさいを余す所なくともに体験されたいとおおもいだったのにちがいない、っいつの世のなに公演にも、っそういうことのわからないお客というのがいてしまうものである、

っあれはどうかなあ、初日は場内へ何台もカメラがあり、事後、正岡子規球場の脇の喫煙スペイスへ行かむと器の裏っ手を歩くと、NHKの車輛が停まっていたから、っいずれTV放送があるのだとおもうが、っあの拍手は編集でうまいことカットせられそうな気がするけれども、っというのは、先般のカーチュン・ウォン氏と日本フィルとのマーラー《復活》、2日公演のうちやはりNHKによる収録があったほうの演奏では、っぼくの聴き間違いではなかろう、ったしかにフィナーレにおいてアルトのソロが何拍だか前へ倒れてオケとタテがずれてしまうエラーがあったのだ、っこのエラーありの演奏が放送せられてしまうのは惜しいなあとおもったのだから、っところが、配信せられた動画を観てみると、ったしかこの辺でずれたんだよなあというところが無事故になっているではないか、っどうやって繫いだんだろう、動画収録は1日っきり行なっていない、っそうすると、ゲネ・プロ、、、ゲネ・プロもナカグロ不要なのかな、っいつも迷うのだが、ゲネ・プロ時の音声をNHK自身が録っていてそれを用いたか、っもしくは他日公演のほうの音声を日フィルなりサントリー側からなり譲り受けて、っそれで繫いだか、っえらいもので、動画のエラーが起こったはずの個所を観ると、アルトのソロを写しているカットは使っていないんだわ、っや、っま、っもしか、っあのときおまえ公演所感でエラーがあったと云ったのに放送を観たらべつにエラーなんぞどこにもないじゃないかとおおもいになる方がいられたとしたら、っその人に向かいて弁じておきたいので、ったしかにエラーはあったんですよ、

、、、っふうう、散漫であろうとは予期したが、っまさかにこれほど話題が多岐に渡るとは我ながらおもわで、っやっと書き了えた、草臥れましたね、っしかも、っおとついに優る筆圧で、っこんなに一言一句気を入れて推敲しながら書いたのは、っさいきんではなかなかないことだった、っやはり文章を書くのはすばらしくたのしい行為である、

熱が冷めないのでね、クール・ダウンでいますこしく、ったとえば、>檜舞台も竣工と相成る、っこれははじめ、檜舞台が設えらる、っとかそのくらいに書いて、っだけれどもそれだと、これ以上にない檜舞台が設えらる、っこれでどうでしょうねえ、これ以上にない、っという大仰な形容に対して述部が、設えらる、程度にっきり云わないと、龍頭蛇尾というのか、っぼくには修飾語と述語との関係がアンバランスに読める、これ以上にない、っという形容は捨てたくなかったので述部を、竣工と相成る、っなどという堅苦しい表現に敢えて変更して、っさあそこから先、助詞ですよ、檜舞台が竣工、っだと、竣工という述語は果たして、が竣工する、っという接続に馴染むだろうか、文法的に誤りではないかもしれないとはおもった、っけれども、シュンコウガアイナル、音読時の語感があんまりきもちよくない、っそれで次に、檜舞台の竣工と相成る、っこう直した、っだいぶんよくはなった、っそこからしかしもうひと粘りふた粘りして、現行のように、檜舞台も竣工と相成る、っへ達した、ゼンタを招じ入れるがために全ティームがいかに打って附けの前段を用意していたかということのあの感動を伝えむがために、の、っではなくさらに、も、っで繫ぐべきだとの判断であった、語感としても、が、の、も、っのうち、ヒノキブタイモシュンコウトアイナル、っこれがぼくにはいちばんきれいな子音と母音との連なりだと感ぜられる、、、っは、徒労ですな、っこんなああでもないこうでもないは、

>好対照も好対照を生す、っは、っはじめはふつうに、成す、っと書いて、っすこしく変化球にしたくて、生す、っに変えた、っそのあとの段落ですぐに、>綾成す群像、っとあるので、同一表現は近接して用いないという修辞のイロハのイに習う点でも、生す、っでよかった、生すで読みはおなじなすね、胡瓜が生るとかの生る、生すで読みはなす、好対照が成り立った、っというよりも、好対照が生まれた、っというイミッジ、

っそれから、>これなにが書いてあんだよ、わっけわかんねえ、っも、っはじめはふつうに、書いてあるんだよ、っと書いたのだ、っけれども、っより喋りことばのように読まれたかったから、っるを抜いて、書いてあんだよ、っにした、

っま、キリがないので、っいつもこの駄文を書くときには、っこうしたことを無数度に亙ってくりかえしております、ったのしいですね、っいかにも徒労で、っいま、っここちよい疲労に醉っております、



っさて、っあすは仕事のあと、入ったことのない杉並小器にて、日フィルのオットー氏公演、中央区仕事をちゃんと片附けられるのかどうか、流石にすこしくきもちに焦りが出てきた、っそのほうが仕事仕事していてよいけれどね、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




福井、大土呂、




全国からアマチュア楽団所属の面々を集めた催事、済む、

器の最寄はハーモニーホールという駅だが、っそちらのほうが高いし、時間の都合もわるく、っやや離れたところへ大土呂なる駅があり、っそちらから20分ほど歩く、っまことに田舎の無人駅であり、器も、辺り一面田圃のど真ん中へひろびろと敷地を使っている、

楽隊はAB2組に分かれ、双方完全に別メムバー、音場はちゃんと音楽専門のしかし中規模器であるところ、っどちらの組も絃は1st20からバス12という、っきのうおとついのカーチュン・ウォン氏公演の日本フィルよりも一回りも二回りもおおきければ、管もパートによっては、そんなにぞろぞろいるのかよ、っという大人数、前半のAオケは坂入健司郎氏の棒で、リムスキー=コルサコフ《シェエラザード》、コン・マスというかコン・ミスは、彼氏の盟友、石上真由子女史、後半のBオケは井﨑正浩氏の棒で、サン=サーンス《オルガン》、オルガンは藝大出の大平健介氏というファッション・モデルみたようなみごとなスーツの着熟しの長身瘠軀のあんちゃん、コン・マスは関西の方々にはお馴染みであろうゲオルギ・バブアゼ氏、

入場せむとするに、手荷物検査だ金属探知だをされ、ロビーへは警察官の方が何人かいられるので、おっと、これはつまりさようのお立場の方がご臨席なさるのか、っと緊張していると、っやはり高円宮妃殿下がご来臨で、っぼくもおもわずに起立して首を垂れて出迎え見送りをす、

亡くなった母方の祖父が生前に話してくれた、瀬戸の窯業高校へ在学往時、戰後すぐのことだが、昭和帝の全国巡幸で作陶の実習授業をご視察いただく僥倖へあずかり、っその際にはしかし事前に、これから陛下がいらっしゃいますが、みなさんけっして顔を上げず、陛下のご尊顔を直に拝するなどということがないように、っとの達しがあり、っそのとおり、全生徒顔を下へ向けて目前の轆轤へ集中し、っその脇を侍従その他を含めた陛下のご一団が歩かれたのだが、っなにしろ脚また脚っきり見えず、どれが陛下の脚やわからへんかったわ、っと笑っていたものである、行幸後は、当時、高台の校庭から一望のもとへ収められたという名鉄、尾張瀬戸駅から御召し列車が出御して完全に見えなくなるまで、全校生徒で校庭へ居並んで天皇陛下萬歳を叫びつづけたという、っまことに立派な時代であるが、っもとより、っやんごとなき方々へのぼくら臣たる者の態度とは、っさようであってこそにちがいあるまい、

っいま事後は、特殊な催事であるためにハネる時間が読めず、っゆとりを有った復路の行程にしておいて、っまず器を出たところでしばらくシガレットを服んでおり、っそれから来た駅へ帰り、待合の外で1時間に2本のうちの1本の電車が来るまで、っまだもう数服して待つ、

っゆうべは、っあほ投稿をしていたせいで帰宅が遅くなり、っそれから洗濯機を回して、カーチュン氏の配信動画やほかにもここさいきんに落として落としたまんま放っぽっていた動画から音声を抜いてiPhoneへ同期していたら4時だ5時だになってしまい、往路の新幹線は、っなぜか新横でなく小田原からが購ってあり、6時すぎには外出せねばならなんだのだが、ほんの1時間でもベッドへ倒れたい、っとiPhone2台でアラームを掛けて横臥するところ、起きて敢えなくもう多摩センへ間に合わない時間、小田急で小田原經由だと、購っておいたものでは早すぎるが、次の1本ではもう開演へ間に合わなく、っあさっぱらから冷や汗を発しついつもの新横經由を検索すると、流石に外出にまだ1時間以上のゆとりがあり、¥1千ほど差額を足して新幹線の切符を購い直す、っしかしこれでまた、じゃああと30分だけ、っなどと睡ていたのではこんどこそ一巻の終わりなので、っもう起きたままでいて、落ち着いて身支度をし、出掛く、

演奏だが、っさようの巨大編成なので、トュッティの風圧は凄まじいが、合奏の精度としても個人技としてもABともに期待を下回ったのがざんねんで、もうひと声、っと云いたかった、

石上女史のシェエラザード主題の存在感は冒頭から流石、坂入氏の造形としては、取り立てて云うこともないが、っごく局所的には、声部の動かされ方になかなかの辣腕ぶりが聴かれはした、

井﨑氏の《オルガン》は、1楽章前半が主部へ移行すると、っかなりの前傾姿勢でいられ、っあのような書法の部分に対して規格外のマンモス楽隊による奏楽であるため、っみなそのテムポへ附いて来られず、っとくにはじめのうち、っだいぶんもたもたされる、っせっかくに大所帯の絃なのに、っその速さでは弱音での刻みがごにょごにょとっきりいわず、っひびきに成らない、指揮者はその上へ乗る音価の長い要素要素を音楽の主軸とおもっていられるのである、スヴェトラーノフ氏が恋しい、っしかも、コール・アングレなど、動機の上でも音色の上でも肝腎な楽器にほど、っおおきくおおきく空気を孕むごとゆたかな歌を望めず、鼻を摘んだ硬く乾いた、っしかもか細い音色の質感であったことで、っあっちもこっちも慾しいピースが揃わず、幸先がわるい、っけれども、トュッティともなればその豪快が些細な不満を蹴散らし、っすべてを帳消しにしてしまう、っもちろん、っそのレヴェルの奏楽は、っぼくが聴きたいものからすれば一段も二段も下の妥協策である、

オルガンは、ストップ全開時の上の方はもっと豪壮に鳴ったってたのしいとおもうが、1楽章後半の下の方の静謐さは、っちゃんと堂内全体へ仕合わせな微震動を惠む、

大団円は、っぞんがい騒音勝ちにならないのがうれしく、少々肌理は粗いが、演奏効果としてはまずまずである、最後のティムパニの独り舞台あたり、っもっと派手に暴れてくれたくはあったが、



っさて、っいま米原、日附が替わるまでには帰れそうかな、っあすの旗日は、上岡敏之氏の《フライング・ダッチマン》千龝楽である、っきょうこそたっぷり睡ておくとせむ、

っで火曜だが、調べると、日フィルのオットー氏が杉並の小器にて3Pのなにかジャズっぽい公演をされるようなので、っつい切符を購ってしまう、5連チャン改め、6連チャンである、翌週からはICUの大学構内の現場があり、っそれまでには中央区のいまの仕事を一段落附けると、っこないだ残業ボス相手に見栄を切ってしまったのだが、っま、最悪、水木金と遅くまで仕事をすれば、ケリを附けられないじゃないと高を括っている、土日はまたカーチュン氏公演で、オットー氏は乗り番でいられるだろうか、っあんなマーラーを2日吹かれたあと、間へ個人公演を挿まれて、っおそらくすぐ翌日から日フィル練習であろう、頼もしいかぎりである、

っところで、イタリィではオッタヴィアーノという人のことをオットーと呼ぶんだろうかしら、っみんな彼氏のことはオットーオットーと渾名しているけれども、オットーなんていうとどうしてもドイッチュ人かよとおもってしまうよねえ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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連投、




昂奮冷めやらぬがために、っその昂奮というのは、っきょうの演奏に対してというのがはんぶん、っもうはんぶんは、不遜ながら、自分の文章に対してである、

っや、っさっきのように演奏の具体へはいっさい触れないしかし演奏会評を書きえたときというのが、我知らずいちばんうれしい、っいつもの癖だが、っいちどupしてしまってから、単純な誤字脱字から文法不整序、っこまかな云い回しの音読した際のリズムの小気味よさへ至るまで、っかなり何度か、10回から15回も添削して上げ直し、文章としてようやくテメエで納得のゆく水準へ達した、っなんとなく自然のなりゆきで、っさいきんでは封印していたやや硬めの漢文調、漢語の単語、擬古典的のイディオムが頻発したところも、我ながらむしろ快かった、

以前からたびたび述懐しているところで、っそれが恆頃からぼくの理想も理想とするところである、演奏上の細部へ触れているときなぞ、っまだまだそれだけ冷静であり、っより細目へ細目へと言及したときほど事後には、つまらぬものを書いてしまった、っとの自己嫌悪へ沈む、っいずれ、眞に眞なる感銘へは至っていないということだ、

っこれも繰り言、っそうした理想をみるときにぼくが念頭へ浮かめている永遠のあくがれ、っお手本は、大木正興氏がルービンシュタインの楽聖コンチェルト全集へ寄せられた、っかの遺稿である、音楽評家では1にも2にも宇野さんに感化せられずにいなんだ、っや、っいまなおいないぼくにとっても、っこの大木氏遺稿だけは別格である、っじつのところ、彼氏のご生前の筆業についてぼくはまったく暗く、っこの遺稿っきり意識して読んだことがないのだが、っしかしこのほんの1文をもって、彼氏は評家として歴史へその名を遺されたにちがいない、っまこと、日本人が日本語でものした音楽評として、っいついつまでも耀いてやまない銘文中の銘文である、

っそれが慕わしさに、っいま耳ではiPhoneのプレイ・リスト中から当該音源のうち《エムペラー》を鳴らしてみている、聴くのはじつに何年ぶりか、っひょっとすると10年以上ぶりですらあるかもしれない、往時、スポンジのごと吸収力の青年の耳とこころとでくりかえしくりかえし飽きるほど聴いたので、っもはや細部の細部まで音の感触、呼吸を身体で憶えてしまい、っいつかからは敢えては音盤を鳴らす要も感じなくなったのであった、

っしかし、音盤狂ならば誰もが知るように、あの音盤が勝れていると知っているわかっていることと、っそれをじっさいに鳴らしてみることによる感動とは、っおよそおよそ別物、っまったくのまったくの別事である、

バレンボイムによるバックがまた秀抜で、っぎっちりとしすぎるほどぎっちりと鳴り切ったロンドン・フィルの異様な緊密さは、皇帝を名に負うコンチェルトの奏楽としてまさに相応わしい、っかっての細君との《ドヴォ・コン》では、天下のシカゴ響からどうやったらこんなへぼな音を引き出せるのか、っとの醜態を晒した彼氏であり、っこの不世出のセロ弾きの、金字塔と成ってよい、成らなくてはならない重要演目の音盤へ、味噌を附けるどころではない、糞を塗りたくる、、、下品で恐縮、大罪を犯したのであったが、っこの点へは流石、大木氏も言及されており、っこまかい文言まで忠実には再現できないが、ったしか、この巨星、、、ルービンシュタインのことね、の光芒へ照らされてか、若きバレンボイムが、すくなくも音盤では初めての偉容を示している、式のことを述べられていた、

っそして、っそのバックを得た泰斗、鍵盤界の皇帝、ルービンシュタインである、齢90へもなんなむかという老体ながらしかし、終生の音楽青年としての穢れのなさを一点の曇りとてなく鍵盤へ伝え、っその眩さにはこちとらまこと目を細め、っや、っほとんど首を垂れずにいられない、っここへはなにひとつ、訂正せられ、他と置き換えらるべき音はない、っすべての瞬間が極まり切った無二の指術、無類の音響の連続また連続であり、っこれをこそ不朽の銘盤と呼ばないのだとしたら、っそんな形容はこのよのなかでいちどたりとて遣われることのない語彙である、

っここでのルービンシュタインは、他の誰よりも立派で堂々として、っしかしまた他の誰よりも無邪気であり無垢である、っこのゆたかな音楽に抱かれて、死を目前にされた大木氏の評文はしかし、っどこか戯れるごと小粋であられる、灰色の諦観はどこへもなく、最期まで音楽の仕合わせを満喫される生涯でいられたものと信ずる、

っぼくはこれから先、細部を事々しく論う気なぞ失せるような世にほんとうの名演奏に、っいったいいくつ巡り逢えるのであろうか、っそのためには、絶えず音楽へ対するの心身を鍛え、律しておかねばならない、っいついつも、あさっての方角からおもいも寄らぬ感動が押し寄せてくる、襲い掛かってくる、っそのことへの予感に打ち震えていなくばならない、自分のすでにして識っている感動をなぞり、っそっくりそのとおり上書きすることは、っじつのところ音楽を前にした死を意味するだろう、っぼくがネット上へ澎湃としている諸賢の音楽評へしかし滅多にこころを動かされることがないのは、誰も自身の所感をハーモナイジングに語られるからである、っそれをすると、ったったいま眼前へあるはずの感動を、文章化によってしかしホルマリン漬けへでもしてしまう仕儀となる、自分の感動を、手ずから扼殺してしまうのだ、感動を語るときには、あたかもそれをはじめからわかっていた、知っていたもののようにして語ってはならない、とつぜん降って湧いたもののようにして、予期していなんだものへ、がちゃこーんっ、っとぶっつかり、いてててて、っとでも云っているかのようにして語らねばならない、っさもなくば、㐧三者へはそのことの生々しさ、切実さはけっして伝わらない、非礼ながら、素人評家でも、、、玄人でもだいたいの人はそうで、死文っきり書けない人たちばかりだが、っともかく彼等は、っご自身等でその文体の弱点、限界にお気附きでないように見える、っというよりも、っおよそ文体という意識なぞほとんどの人が有たれないのであり、っそんなものはそれこそ具体的になにが書かれているにせよ、っはなから読むに価しない、読み応え、歯応えがまるでなく、文章を読むよろこび、日本語をぼくら日本人自身として噛み砕き、っそこから栄養を摂るよろこびがほんのちっともありはしないからである、

駄洒落ではないが、評言もまた表現なのだということを、っぼくらは篤とおもい知らねばならない、史上の批評文士の通りことば、っいわゆる、対象を出汁にして己自身を語る、っというやつである、ネットをテキトーにサーフィンしていても、ああ、たしかにここへ面倒臭い、しかし掛け替えのない一個の人格が存するのだなあ、っとおもわせてくれる我等が國語の遣い手など、っまあまずみつからない、っだからぼくはなに演奏会へ行っても、他人がそれをどう評しているかなどへはほとんどぜんぜん興味がない、っその人その人がどう聴いているかに興味がないのではなく、っどう聴いたにせよ、っそれを如実に伝える独得の、うわ、この人おかしな文章を書く人だなあ、人間もきっと面倒臭くてかわいいんだろうなあ、っとおもわせる筆力を有つ人が、っぼくの探し方がわるいのか、っどこへもいないのである、



、、、っなにやってんだよ、っまだこれから帰って洗濯だよ洗濯、っま、っしかし、っここさいきんは、ったまさか演奏会の巡り合わせも、っまあわるいというほどわるくもなかったのだが、所感を書いて、おおっ、きょうは我ながら会心だったなあっ、っとおもえる鋭さを得られなんだので、正直なところ、自分で自分がつまらなかったのである、っかくして、っいつもと一寸ちがう書き味でいつもと一寸ちがうことを云えて、っおもわずに筆圧も籠り、時間も浪費したのであった、

時間とは、っいかに仕合わせに浪費するかである、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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