ざっかん記 -5ページ目

千鳥ヶ淵、




墓苑駐車場へ停めて、っそこと靖國とを詣でて来る、っいちおう駐車場へは、ここへ停めて墓苑の外へ出ないでくれろ、っと但し書きがあるのではあるも、靖國は靖國で駐車場があるが、無料なのかなあ、有料かなあ流石に、

試験場から東八へ出て、っわずかに小1時間でここまで来る、平日あさ20号の新宿あつらはあんなにも鮨詰めであったというのに、っそこらもあっという間に過ってしまう、行程が早く進みすぎて、時間を有て余さむばかりである、

っそうか、っもう錦糸町へ往ってしまって、っあの駅北口路地裏の、外人さんのやられている喫煙可のカッフェへでも行くかな、っや、っその前に一寸この駐車場の車の中でほんの仮眠をとってもよいかな、っいちおうアラームをセットしてね、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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免許更新、




済む、

検索して、初回講習込みの所要時間は3時間はみておけとの指南があったのだが、っちょうど2時間半であった、っこれならなにもあさ現場を回って来なくて、っこれから行って見るのでもよかった、

講習の中途で安全運転自己評価みたようなシートを記入させられたが、自分に辛めに評価した心算で31項目中23項目を満たしていた、っこの数字がどうなのか、

っさて、っこれから錦糸町行、っゆとりがあるので、っその前に千鳥ヶ淵の墓苑の駐車場へ停めて、っそこと靖國とを詣でてから錦糸町へ往かむ、東八をひたすら直進すれば半蔵門へ当たり、左へ曲がればすぐ墓苑だ、

っご安全にっ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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府中、




3時間余っきり睡られなんだが、身支度に手間取って、玄関を出たのは6時ころ、矢野口のあたりまで来たときの時間で、現場を回って往くか、直接に試験場へ往ってしまうか定めむとおもうところ、流石に日曜のあさでどの道も空いており、現場を見て来る、っすぐ後続車があったのでほんの通り過ぎて来てしまったが、現場全体は更地で、っきのうまでの雨を喰ってどろどろ、っどこか一角へ砕石など敷いてあるようでもなく、っしかし、脇の住人用の取附道路の奥がすこしくL字に折れて、っそこへスペイスがあるようなので、っあすあさ、っまずはそこへ入ってしまって、住人の方の出庫不能など不都合があるようならば、っそれからパーキングを探すのでもよかろう、

っで東八へ出て試験場近くまで来て、交叉点で転回してもよいのかなあ、っと心配していると、っちゃんとそれ用のレーンもあり、7時をすこしく回って現着、学科試験を受けに来た際、喫煙スペイスから駐車場が見渡せ、っかなりの台数が停められるので、っそれがあさもはよからぜんぶ埋まってしまっているということはなかろうと踏んでいたが、果たしてまだ2割くらいっきり駐車しておらず、無事に停めらる、手洗いを利用したかったが、っまだ庁舎は開いていないのだろうなあとおもいつその方へ向かうところ、っちょうど警備員の方と行き合うので訊くと、っやはり開場は8時すぎだといい、っが警備員控室の手洗いは利用可とのことで、用を足していま喫煙スペイス、7:30を回ったが、っなるほど続々陸族とドライヴァーがやって来て、っぼくが来た30分弱前にはがらがらだった駐車場が瞬く間にほぼ埋まってしまう、早く来ておいてよかった、



っしかし、っいまのところ早起きしてしゃっきりと好い気分だが、っあまり睡ていないので、公演中に睡魔に襲われないかが心配だ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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航空公園、




松岡究氏の棒、早稲田大フィル公演、済む、演目は、ヴァグナー《リエンツィ》序曲、N響の伊藤圭氏を招いてヴェーバー《Clコンチェルト1番》、っそしてドヴォルザーク《新世界》である、

っこの器は、駅までの中途に満洲があり、っいつも寄るのをたのしみにしている、王将党のぼくだが、聖蹟の駅へ満洲があり、半期に1度の会社の全体会議のあとは、ったいてい悠長ボスや野帳くん、《雨月、、、》くんなどと同店へ出向き、っだべっている、っいま食事を了えて、駅でATMへ寄り、っちょうど帰途に好適の西武線へ乗れるが、呑んでぼんやりしていたこともあり、小平で降り損ない、花小から引っ返すが、1本違うと乗り継ぎがわるく、っいまは玉川上水でモノ・レイルを待っているが、小平でちゃんと乗り換えられていたときと比して、多摩セン着は30分近くも違ってしまう、

器のトーンは、っやはり潤澤にして豊饒である、1階席のみ開放で、っこないだの井﨑正浩氏公演、っまた9月の矢崎彦太郎氏公演とおなじ席である、

オケはやや非力で、っよくひびく器に扶けられているとも云えるし、っそこへ胡座を掻いているとも云える、っあれだけふくよかに鳴るとしても、っなおトロムペットなどはもっと突き抜けるように聴こえてくれたい、

バス・トロムボーンへは東貴樹氏が乗っていられた、っへんてこな眼鏡をお掛けになっているので、っすぐにそうとわかる、っこの団体では金管のトレイナーをお務めのようである、彼氏の棒へはサントリーで演られたマーラー《復活》で触れている、ったしかフィルハーモニア・ブルレスケとかという団体であったかとおもうが、早稲田OB連の楽団だったのだろうか、

松岡氏の棒、、、っは持たれないが、っへ触れるのは3度目くらいであろうか、ったしか、亡くなられたイタリィで画描きをされていた元同輩さんから招待券を譲り受けて往った、荻窪での日本最古のアマチュア楽団なる団体の公演が最初で、っその際もメインは《新世界》であった、去年の黄金週には、桜木町で《オルガン》を聴いたはずだ、っほかにもなにかの機会があったかしれないが、っいま想い出せない、

っその造形はいかにもヴェテランの手堅さでいられるが、ヴァグナーは冒頭から悠然たるテムポで、ったっぷりとした間合いで主部を準備される、主部もまことに安心で、無理をしないフォルテにより器の奥床しさが美事に活かされる、

ヴェーバーの伊藤氏は、必ずしも萬全のコンディションではいられなんだようであるが、流石に土俵際で踏み止まられる、っここでのささやかな編成の際のオケの鳴り方などは、っなかなかのものであった、

《新世界》は、要所ではもっと苛烈な追い込みが慾しく、っそれこそトロムペットにはもっと鋭い牙を剝かれたい、絃にはときにもっと熾烈な凝集力を希みたい、っしかし、指揮者の着実さは午の山上氏とはちがってちゃんと好印象であり、木管の潤い、殊にファゴット1番の吹かれ方の果敢さなどもあり、1楽章の展開あたりはポリフォニーの緊迫が如実に伝わる、

2楽章もよく歌が繫がり、曲趣へ浸っていられる、

スケルツォは、っもっと音々の角がかっちりと立たなければ本格の聴き応えへは達しない、

フィナーレは、っまあまずは曲の姿を瞭然と見せてくれはする、



っさて、っあすは錦糸町にて、冨平恭平氏のマーラー《1千人》である、曲が曲なので切符の売れ行きもよかろうと、楽団のXのアカウントをフォローして発売情報をチェックしていた心算が、土台、Xへは組織的、っないしはさようのアルゴリズムによるのか、っともかく左巻きの投稿が澎湃としており、っじっさいの日本社会としてもっと保守的、現実的、常識的にものをかんがえる人のほうがおおいにちがいないと信ずるが、アプリカチオンを立ち上げるそばから不愉快にして無責任な、っそれでいていやに横柄なその手のくそぼんくら左翼ツイートばかりを見せられるというので、率直に云ってあまり触りたくないアプリなのであり、っあんなのを無作為にサーフィンしていては、心身が不健康に爛れてきてかなわないが、っそれでこの公演の切符発売へもしばらく気附けず、敢えなく2階右翼バルコニーへはあり附けず、3階のそこで妥協せねばならなんだ、

午前は、不穏な外免切替殺到の報も囂しい東八、府中の試験場にて、免許の更新である、長く免許など有たず、必要に迫られて30も半ばをすぎてやっとそれを取ったぼくは、っこんかいが初回更新である、っよって2時間の講習があり、大事を取ってあさ一番、8時受附にした、当初は電車、バスで往く心算だったが、っゆうべ社用車で帰宅したこともあり、っそれをそのまま使ってしまわむかとおもう、事前には、っあさっての三鷹の試掘が、現場の前の道が狭いわりに交通量がおおかった記憶があり、っあさ現着して路駐しているのでははげしく迷惑となろうから、現場へ車を乗り入れられそうなスペイスがあるか、っそれを検むべく、っそこを回ってから試験場へ向かわむとおもう、っしかも、試験場の無料駐車場は、7時くらいには着いて停めてしまわなくては、8時前にはもう満車になってしまい、警察施設ということもあり、車道での入庫待ち不能とのことで、室から現場までを1時間、現場から試験場までを30分とみて、7時に試験場へ着くならば、5時半には外出せねばならない、休日だというのに、っやれやれ、

っそれで免許更新後は、っそのまま社用車で錦糸町へ往ってしまう、っそこへは駐車場を予約しておいた、開演は15時なので、っじゅうぶんに間に合うとおもう、



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蒲田




山上紘生氏の棒、ボヘミアン・フィル公演、済む、演目はスメタナ《我が祖国》である、

っきょうは仕事は休む、っが、っそれも自由席のこの公演へ開場前に現着するためだったのだが、っあさ音盤をPCで吸ったり録った動画から音声を抜いたりしてiPhoneへの同期をしていてけっきょく12時を回ってしまい、っゆうべのうちに止むはずの雨はいまだ降りつづいており、傘は持ったのだが、差すのも面倒でそのまま濡れて多摩センまで20分ほど走る、っあさってが三鷹の試掘なのでゆうべは車で帰り、チャリンコがないのである、

開場は13時だったが、蒲田着は13:40すぎ、っけれども、入場して2階右翼のバルコニーへ向かうと、っその左端へは1席のみ空きがあり、っそこはぼくにとり、ぜんぶ空席だったとしてもこのあたりを撰ぶよな、っという位置であり、っありがたくそこを得る、

演奏は、っまあそうねえ、っふつうだな、オケは、っそれなりによく弾ける人たちであったが、山上氏の棒は、っあのように振られれば大過はなにひとつ起こりはしないが、っしかしまだまだいくらも懐が浅く、〈ヴルタヴァ〉はほんとうに誰でもが容易く脳裡へ映す〈ヴルタヴァ〉の雛型、範型でしかないし、〈シャールカ〉の中途の歌は、井﨑正浩氏が精緻でこそ、小柳英之氏が磊落でこそぼくを泣かせたのに対し、っきょうの山上氏のあのようでは、っすこしくも情念が迸らず、聴いていてなにも胸が震えない、っもっともっと感じさせてくれなくてはっ、っそのためには、演っているご本人がまずもっと感じ切ってくれなくてはっっっ、

っあるいは、俺はこんなにもスコアの裏の裏まで読み切っているんだぞっ、っといった執念が発露するでもなく、〈ヴルタヴァ〉のみならず、全6曲がいつも、まあこういう曲想ならそう演るべきでしょうね、っというありきたりな概観を逃れず、っどこかほんの細部ででも、え、そんなことを気にしとるんかいな、っという変態成分を垣間見せてくれたら、っこちとらの気分もまた変わったろうが、っそんな気配は微塵もなく、っなまじ棒が巧くていられるので、っわるくするとかかる演奏に陥り勝ちであろう、素朴さから遠いのである、



っさ、っはるばる航空公園へ移動中、18時開演で、余裕がないかとおもうが、午公演はアンコールもなくてあっさりハネてくれたので、16時前に蒲田から京浜東北へ乗りえた、っこちらは指定席なので開演直前ころ入場するのでよく、何本かシガレットを服んでいらりょう、



みずの自作アルヒーフ

 

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ギロッポン、




コバケンさんの棒、コバケンとその仲間たちオケ公演、済む、演目はマーラー《5番》で、前半にはそのほんの公開練習というか、各楽章のさわりをちょこちょことやって休憩、コバケンさんはヘッド・セットをお着けになっていてそのお声はクリアに拾われるが、っはじめ、っときおりかすかに呂律が回っていられず、心配するものの、っようよう熱を帯びられ、っお元気なものだ、

肝腎の演奏だが、必ずしも勝れているとは云えなんだ、っというよりも、っぼくは彼氏とこの楽団との公演は初めて聴くが、楽員へは障碍者の方も参加されており、っなかには全盲とおぼしき方もいられ、っそうすると楽想の変わり目でのザッツの乱れはある程度は不可避であり、3楽章、フィナーレなどではその類のエラーが頻発した、

概観としては、ったとえば直前に聴いたカーチュン・ウォン氏などに比すれば、っぼくはやはりコバケンさんのダサい味がすきなのではある、っけれどもロンドン・フィル盤のように、規格外のロウ・テムポの裡に指揮者としておもいの丈をぶち撒け切られる、っという興趣はさのみ発散せられず、コバケンさんとしてわりにふつうのテムポの部類だし、っなにより楽員各位へはあれこれの表情を自在に操るだけのゆとりがない、

っまあそれでも、っなにかと制約のある楽団としてよくやられたほうか、コバケンさんは、フィナーレさいしょの管数種の対話が済んでホルンがセロを招じ入れる際のそのホルンの音価を、記譜とは異なるように取られていた、ロンドン・フィル盤では止されていたのに、っあんなのは、っなさらないほうがよい、

っいま聖蹟の駅へ戻って、降雨しているので、っすこしく濡れて走って別棟へ行き、チャリンコは倉庫へ放り込んで、車で帰らむ、



っあす1日仕事をして、っあさってはダブル・ヘッダー、午に山上紘生氏、夕に松岡究氏のそれぞれ公演である、



みずの自作アルヒーフ

 

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初台、




伊福部昭総進撃、キング伊福部まつりの夕べ、っなるイヴェント、済む、客席へは井上キーミツがおいでになっていた、っなるほど伊福部作品の公演なのだし、演者も彼氏と縁の深い方々である、遠目に見受けるかぎり、風貌はお変わりなかったし、っすたすたと歩かれてもおり、っふつうに生活をなすっているぶんには、っお身体もわりに平気でいられるのかもしれない、っほかにも有名評家やTVで見たことのある顔など、歴々が来場されていたが、超満員かと惧れるとそうでもなく、っぼくは2階の正面だったが、両脇のバルコニーなどはがら空きであった、っまた、斯界でいわゆる怪獣組とされる人たちにより、穏やかな演奏会の雰囲気は望めないかと、っそれも惧れていたのだが、っもちろんその人たちも来場していたのではあろうが、っむしろ、え、こんなオジョウヒンそうな人たちが伊福部を聴くんかいな、っという客層が目立ち、っま、《、、、譚詩》の〈㐧1譚詩〉後、《、、、タプカーラ》の1楽章後に拍手が起こってしまうのはぼくにはなくもがなではあるが、っまずまず演奏会演奏会した催事ではあった、

演目は全3部に分かれ、っまずトップ・バッターは松田華音女史で、《子供のためのリズム遊び》から3曲と、《ピアノ・スート》と、っつづいて石丸由佳女史が《SF1番》をなさる、編者は和田薫氏で、㐧2部は彼氏が東フィルを振られ、《SF1〜3番》を全曲、っそして最後は本名徹次氏のご登壇で、《交響譚詩》《シンフォニア・タプカーラ》である、合間合間は司会によって繫がれて演者へのインターヴューもあり、休憩は㐧2部の後に15分っきり、アンコールに《ロンド・イン・ブーレスク》を演ってじつに3時間超、18時開演で、済んで出てきて21:15ころである、っここの客席は座面が硬いので、っかほどの長時間公演ではこちとら尻が痛く、っいささか辛い、っいま事後は、地図アプリケイションで22時まで営業だとある20号を渡った先の商店街の王将まで歩くが、敢えなく閉店後、っそう、っいつも騙される、っここの王将は以前から21時までの営業であったかとおもい、地図アプリが間違っている、善後的に日高屋へ入るが、最後に天津飯を頼むと、餡はおもいっきりケチャップ味で、いやいや、オムライスじゃあるまいし、、、っと苦笑もの、

松田女史の《ピアノ・スート》は、今般発売の音盤にも収録で、っじつに堂々たる構えでいられるが、っきょう実演としてそれを聴く、痛快なのは〈佞武多〉で、ピアノによる演奏であれ管絃楽によるのであれ、っみなアッチェレランドの部分でアッチェレランドしすぎるのであるが、松田女史はそこでほぼ速度を上げられずっっっ、っのち、主題の音価が細かくなってくるにしたがってやや加速されはしたが、っずっと重たい足取りのままでいられ、っあれでこそ巨大な佞武多を曳く祭礼人たちの腰の落とし方というものであろう、

石丸女史の《SF1番》は、ったしか、伊福部門でいられる知己の作曲家もオルガンへの編曲を依頼された旨、っおっしゃっていたかとおもい、鄭重にご辞退、曰く、先生は恆頃、楽想にはそれに相応しい楽器というものがあります、とおっしゃっていました、っとのことで、っまことにご賢察ご賢明であろうが、っその衣鉢は最後、っきょうの和田氏に回ったというわけである、、、イロニーじゃありませんよ、っま、っあの楽想をそのままオルガンでトレイスしましたというぐあいで、大バッハのこの楽器の作などと比して、音楽的の価値を主張しうるのだろうか、っなどとおもいつ聴いていたが、世にオルガンにっきり望みえぬ音の質感がおもしろくもあれ、やはりこの曲は管絃楽によって奏さるべきものだ、っと再確認す、

っその和田氏と東フィルとによる《同1〜3番》、和田氏の棒へは初めて触れるが、スマートな都会人風体とは裏腹に、子供が駄々を捏ねるごと不細工なフォルムでいられ、本職の指揮者でもいられないことから、っさしもの東フィルもいかにも無粋な鳴り、っけれどもその野暮臭さはまさしく楽曲に好適で、っぼくは怪獣組の組員ではないために、《1番》以外はほとんど聴いたことがなく、各楽想がどの映画のどの場面の劇伴なのかもまったく識らないが、っまずまずたのしむ、1階席ではキーミツもさぞかしお慶びのようで、済むと盛大に拍手をされており、楽員の幾人かは答礼されながら、あそこ、井上さんいらっしているわよ、え、どこどこ、あっ、ホントだっ、っというぐあいでいられた、

っぼくのきょうの最大の目当て、っついに本名氏の出番であられるが、っそうだなあ、っより勝れていたのは《、、、譚詩》のほうか、直前まで和田氏の棒を聴いており、っそれはほとんど拍へ音々を収められるっきりで、表情らしい表情の指示はまるでない造形でいられたため、流石にオーケストラの鳴り方というものに一家言を有つ専門の指揮者の棒となれば、曲が開始した瞬間から見違えるほどヴィヴィッドなひびきが得られ、っしかし勢い、土臭さ泥臭さは後退するのであるが、作家も倹しい編成で古典的の様式美を志向された同曲であってみれば、っそのひびきでこそ妙味も叶えられむというものである、っそれに、楚々とされたなかにしかし本名氏の音の出し入れ抜き差しはじつに細心を極められ、っかつ自然にして優婉でもあられ、っすくなくも博多で聴いた《新世界》みたように、ただきれいなだけであっさりとしすぎてタネやシカケに不足し、わざわざ客席で聴いている意味がまるでない、っという憾みは懐かせなんだ、キーミツはどのように聴かれたであろうか、っこの作家を愛した彼氏であられるが、っぼくの識るかぎり、同曲を取り上げられる機会はなかったように記憶する、

広上氏などは同曲をこの作家の最も勝れた作品と云われ、キングのシリーズでの棒は彼氏であったろうか、っまことに遺憾ながら、っぼくはあの音盤群は、折角に作家監修、録音立ち会いという世紀の好企画であったのに、っとくに初期のものは、音質がぜんぜん鈍く、音盤に聴くオーケストラの音としてまことに不足ありで、っそのおおくがおよそ聴く価値のないものに留まるとおもっている、広上氏はほかになんとBISへたしかマルメ響なる楽団とともに同曲を入れられているが、っぼくはそれは未聴であり、っいつかは購って聴いてみねばならない、

っぼくは広上氏とは見解が相違し、っこの作家の最高傑作はなんらの疑りとてなく《リトミカ・オスティナータ》であると信じており、っそれは独りこの作家ご自身の作としてのみならず、洋の東西を問わず、っおよそ古今あまたの作家の書きえたまたあまたの楽曲中でも極度の異彩を放つ傑作中の傑作なのであって、っその点ではモーツァルトやベートーヴェンとて伊福部昭の御前へ跪かねばならないとすらおもうくらいだが、っめでたく発売の成った今次の音盤におく外山啓介/広上淳一/札響の同曲は、っぼくはてっきり札幌、東京での公演以前にセッション録りを完了していたのかと早合点していたところ、っそうではなく用いられたテイクは当のぼくが聴いたサントリーでのライヴであった、っしかし曲後の拍手はカットせられており、っいやに音が整ってもいることから、ライヴのテイクをベイスに、ゲネ・プロ時にもばあいによっては個所毎の複数のテイクを録り、っそれらを繫いで周到に仕上げた音源というわけなのであろう、両側の主部にせよ中間部にせよ、外山氏の加速は記譜の速度指定を叶えられておらず、っあきらかにそれよりも遅い、っそれもかなりの遅さであり、っしたがって、っこれまでに実演、音盤で聴くことのできたいかなる演奏とも肖ていない特有の存在感があり、っぼくはこれは得難い果實であるとおもう、っそして広上氏と札響とも、速度の遅さに因する落ち着きとライヴの発奮とをふたつながら兼ね具えられ、細部までとっくり味わわせてくれる、っなお荻町修氏の突っ込んだ表現が脳裡へちらつくとはいえ、ソリスト、指揮者、オケ全員にとって難物中の難物で、っなかなかこれぞという記録を達成しえないこの楽曲にとって、掛け値なしの決定打のひとつと成り遂せているのではなかろうか、っまた、っこれは遅れてやって来たキングの同作家集成の続編なのであるが、流石にこの間に録音機材も技術も格段に進歩し、生々しいとても好い音に録れている、集成と云う条、最高傑作たる《リトミカ、、、》が録音せられなかったとは、っまさしく画龍点睛を欠くどころではなかったのだが、ぜひとも作家の目の黒くていられるうちに、その意図の反映せられた録音が遺ってくれたかった、っとの一抹の口惜しさもあれ、っしかし演者、録音の充実を待つためには、っこの曲の収録が往時ではなくきょうこんにちであったというのは、っこれを文字通り時宜と謂うのかもしれない、っかくなる上は、同曲の最オオトリテヱ、山田令子女史に、萬全の共演者、萬全の録音体制での再録があってくれたら、っと希わずにいない、っしかしそれまでは、っこの外山/広上/札響盤でも、っおおきに渇きは癒えつづけることであろう、っあるいはきょうの松田女史も、いずれは録音の機会を、っと窺っていられるのにちがいあるまい、っぼくはキーミツとのご共演になるN響との2日間、神奈川フィルとの公演、っいずれでも彼女の解釋を全的に諾うわけにはゆかなんだ、っその曉には、っぜひともさらなるご精進の跡を披瀝されたいところである、

っさて、本名氏の《、、、タプカーラ》であるが、全体に《、、、譚詩》と同断の無碍が発露し、好印象の部分にも事欠かなかったのではあるも、2楽章の再現ではそれまで妙音を聴かせてくれていたコール・アングレが、楽器が詰まってへんてこな音を鳴らされてしまう手痛いエラーを晒され、フィナーレも、トリオまでこそ、っなかなかのフォルムではあったが、指揮者の解釋としてであろうか、奏者の勇み足であろうか、判然せなんだが、再現を導く打楽器が速すぎるほど速いテムポで打たれてしまわれたため、全員がそれに附き合わざるをえず、肝腎の終局の発奮が上滑り気味となったのが惜しい、急速の裡にトリオの主題を回想する部分も、天井の遙か高いここ初台はよくひびくこともあり、他の連中がけたたましく鳴っているなかでは木管の音勢では主題の音型をくっきりとした輪廓で聴かせられない、っそこから再度トロムボーンのグリッサンドを含む主題へ還る直前の装飾音を含むトロムペットは、っその装飾音の処理がうまくゆかず、後ろの音へ繫がってしまって音型の妙を殺ぐ悪結果へと堕す、っこの曲の最後の昂奮は、っあんなことでは断じていけない、音盤に聴く原田幸一郎/新響や、実演での中田延亮/同響の鉄壁無類が懐かしく想い出されてならなんだ、他の人のほうが勝れている、っとおもわせたら、演奏は敗けである、

っとはいえ、松田女史の《ピアノ・スート》、っそして本名氏の《、、、譚詩》っきりでも、っこんやはおおきに収穫があった、っおそらく全演目がまた音盤か画盤かになるのであろう、っよろこばしいことである、



っさて、っいままだ聖蹟の駅の喫煙スペイスで、っもう日附が変わってしまう、っお次は木曜、コバケンさんのマーラー《5番》である、カーチュン氏のそれを録画したが、っやはり若い指揮者の颯爽たる演奏では、っとくにフィナーレあたり、っぼくには最後の最後には喰い足らない、っあさってのオケはロンドン・フィルとはぜんぜん性格が違うので、っあの音盤とは一味も二味も異なる造形となるのであろうが、っおなじようにダサい光芒を放つ一大建築の達成を夢に見ている、っそして、っこのオケの公演はまいかい音盤の収録があるはずだが、ロンドン・フィル盤はロンドン・フィル盤で奇蹟的の結晶であったとして、っそれとは膚合いの隔たる記録として、っこの公演も音を録ってくれたいものである、ロンドン・フィル盤はライヴの昂揚を完全に犠牲に供することでこそバケモノ、ゲテモノ級の存在感を獲ている、っけれどもそこは腐ってもコバケンさん、っあさってはぜひに、草臥れられた老境の味と、名にし負う炎の指揮者、昔取った杵柄の怒濤のごと音響の坩堝と、っこのふたつが絶妙の塩梅で同居してくれているというのが、っそのぼくが見ている夢である、難曲なので、オケが筆の求めるその難儀へじゅうぶんにキャッチ・アップしえない、っあるいははんたいに、腕の不足を糊塗せむがために無法な音量や音圧を頼んで音を潰したり、音色を汚したり、っみなでダンゴになって対位法的の解像度を下げたりしたら、っぜんぜん成功ではない、っあの《幻想》の音盤に聴くようなアンサムブル、っあるいはそれをさらにブラッシュ・アップした全員野球で全曲を乗り切り遂せてくれたら、っそれで天下の大演奏であり、っそれでなければ天下の大演奏ではない、ハードルはかなりに高いとおもうが、果たしてどうであろうか、っちなみに公演前半は、っこれもまいかい恆例なのだろう、舞台上でほんの練習の一コマを観せてくれるという趣向で、っぼくにはなくもがなの企画ではあるが、っその司会をお務めになるのだろうコバケンさんとは従前より昵懇の朝岡氏は、っきょうの公演にもお客としていらっしていた、

、、、っまだ帰れない、っもう1時んなっちゃうよ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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ギロッポン、




カーチュン・ウォン氏の棒、日本フィル公演、済む、演目はきのうにひきつづき、服部百音女史を招いてシベリウスのコンチェルト、っそしてマーラー《5番》である、っきょうは服部女史に、っあれクライスラーかな、っなにかアンコールがあり、っその代わり休憩は15分っきりなく、っそれでも、終演後は盛大なソロ・カーテン・コールがあり、14時開演、っやはりたっぷり16:30前ころまで掛かる、

事後はここでのとくに午公演の定番、器の裏っ手から虎ノ門の方へ降り、財務省、総務省、警視庁の脇をすぎ、桜田門の前で宮城遙拝、っいま有楽町の王将まで来て食事中、っほかの店舗へは置いていない背伸びをしたメニューが旨い、食事後は、っきょうは例のガード下の喫煙スペイスへ寄れよう、っまた感謝の意を表して中の自販機でアイスを購わむ、っああいうの、ったまに喰うと旨いからね、

っかくして同一演目をきのうきょうで他器とサントリーとで聴くと、サントリーのアコースティックのすばらしさを再度三度、三度四度、実感せずにいない、っまいどの繰り言だが、サントリーの音響をよくないという人は、っいったいなにをどう聴いているのだろうか、っや、っべつにその人の耳がわるいとはおもわず、っその人なりに研ぎ澄まして聴いてその判断なのだろうが、ったしかに、っわるい席があるのは事実だ、っすなわち1階席後方両脇の、頭上へ2階席、っぼくの定位置RC、っおよびLCのかむさっている位置で、っどこの楽団でもかむさるまでをS、っかむさってからをAで売っているのだとおもうが、っあんな席はAは愚か、BやCで売ったってまだぜんぜん高いので、Z席、ヴィーン・フィルが来ようがベルリン・フィルが来ようが、¥1千で売ってもまだぼったくりという駄席である、っぼくはいちどなにかの機会に、ったしかコバケンさんがハンガリーのオケを連れて来日されたときだったろうか、っそれこそ演目はそのときもマーラー《5番》だったような気がするが、っお銭をケチってSでなくそこのAを購ってしまい、左側へ坐したとおもうが、舞台から飛んできた音が頭上のLCの庇へ当たってぼたぼたと床へ落ちるのが目に見えるようで、っその奥のぼくの席へはぜんぜん届いて来ないというかなしい經験をした、っけれども、っいつしかRCを定位置とするようになって以降は、っここの音響に悪感情を有ったことはいちどもないし、っむしろ、我が国の誇る世紀の殿堂と唸らされることしばしばである、ケチを附ける人は舞台の音が上へ散ってしまうとよく云うのであるが、っそれからすると、1階席へ坐り勝ちの人たちなのかとおもう、っしかし、っぼくはこないだ不本意ながら1階席前寄り右方でカーチュン氏のマーラー《復活》を聴いたが、頭上へ拡散せる音々を雲を摑むようなおもいで見送るという感触はぜんぜんせなんだし、っむしろふだんRCからウェル・バランスで見渡している日フィルの音が眼前に近く、っそのリアルな風圧をおおきにたのしんだことだ、っほんとうに、腕を引っ張って連れてきて隣り合っておなじ公演を聴き、どうしてこの音がよくないと聴こえるのか、っとその人へ問い質したいおもいがし切りである、っあれをよくないと聴く耳のおもうではよい音とはよい器とは、っいったいぜんたいどんなであるのか、っぼくは所沢、航空公園のそれを、っなるほど豊麗豊饒と聴き、っそれからするとサントリーはもっとさっぱりとして、2秒以上という残響もすきっとしてあっさり霧消してゆく印象だが、っなにより、っあのすべてのパートが等分に耳へ届いてきてくれる高度の分解能、っあれこそがサントリーの寶である、池袋や、っとくに川崎はそれに匹敵するとしてもよいが、新日本フィルの錦糸町、サントリーの同一プロ公演を両とも聴くと、前者は音響に劣るとおもわざるをえず、後者の客席へいるときには、なんたる銘器かっ、っとの感激に襲われずにいない、っあるいはその人は、っよっぽどわるい演奏ばかり聴かされているのではないか、器の特性を活かし切った演奏を行なうのは、偏に指揮者、楽団の責めである、

っさておき、日フィルはじつに死力を盡した大演奏であるも、っそれこそゆうべの話、必死に演奏するその必死さが客席へ露呈しているようでは、っまだまだ㐧1級の楽団とは呼べない、コンチェルトはもちろんのこと、錯綜を極めたマーラーのシムフォニーにおいても、全編に、や、ぜんぜん余裕ですれけどね、いつでもこのくらいの音は鳴らせますから、っといった全楽員のいでたちがまこと頼もしい、劈頭のオットー氏のファンファールは、っほんのほんのかすかに音が裏返り、っあとはオーボー1番のヴェテランの男性は、数個所で音が出なくてしまわれたが、っほとんどエラーらしいエラーはそのくらいで、っそうした失態とは欧米のどんな名門名門だろうと無縁ではないのだから、っしたがってぼくはいま、日本フィルハーモニー交響楽団を本邦の誇る天下の名楽団と称揚するのに、っいっさいの躊躇をおぼえない、敢えて他と比較する必要はないが、N響は都響はきょう日、っこの日フィルよりも勝れた楽団であろうか、っぼくはおおきに訝らずにいない、っあるいは、東響はジョナサン・ノット氏と同曲の音盤を制作されており、っその実演をぼくは聴いていないが、音盤で触れるかぎり、アンサムブルの有機性、柔軟性にはいかにも限界があり、っひびきの懐はぜんぜん浅く、楽団として一端一廉であるためには、っまだまだクリアされねばならぬ課題が無数にあるとおもわざるをえない、日フィルにそうした課題が絶無かといえば、っもっともっと絶えず上を目指されたいとはおもうが、マーラーの《5番》などというこんな楽曲をかほどにめくるめくように再現しうるのであれば、っほかにどんな楽曲を舞台へ掛けられようと、っまずは向かうところ敵なしであろう、っぼくは現在のN響や都響がこれほど充実し切った同曲を披瀝できるところは、っまるで想像しえない、っあるいは、昨年だか一昨年には、読響が誰か指揮者と同曲を演られるのをおなじここで聴いたが、っその際にもまことに遺憾ながら、曲よりもまず楽団の限界のほうが聞こえてきてしまうというぐあいでいられた、っきょうカーチュン氏と日フィルとは、全曲ずっと、マーラー《5番》というあの曲の妙味だけを聴かせてくれたので、それを体現したいのだけれどいまだ合奏能力に不足があります、っという脆弱さはほんのかたときもおもわせられなんだ、っじつに、日本の楽団も来るとこまで来ている、っしつこいだろうが、っその1番乗りが日フィルだとは、10年15年、っや、っほんの5年前にだって誰にも想像できなんだのではないか、っあのぎすぎすぎゃんぎゃん、汚ない音色でぜんぜん音の飛ばない側鳴り放題のやくざな日フィルがである、彼等は新設爾来、杉並公会堂で日々の練習をなすっている、っその惠まれた環境から、っついにこんにち大輪の花が咲き、瑞々しい果實を結晶されるようである、っめでたいことだ、他の楽団も敗けないで、っぜひにもっともっと奮起されたいところである、

コンチェルトは、先般にチャイコフスキーをなすった際には、絃の規模をやや刈り込まれたことも、っぼくにすれば災いしていると聴こえ、カーチュン氏一流のソリストを立てられむがためのオケの音量の操作もますますひびきの幅を狭める悪結果へと繫がり、全体に薄味で喰い足らない憾みを遺したようであるが、っきのうきょうのシベリウスは、っちゃんとオーケストラというものが具えている各機能が十全縦横に発揮せられ、っしかもなおソリストとの拮抗のそのバランスも最良である、

っその服部女史はいつもながらの苛酷なストイシズム、っしかし、1楽章の彼女の登場から、っその存在感は満席満堂を独占し、っその音の色は、機械を通してエコーかなにかエフェクトでも掛けているのかと聴こえるごと、異様なほどの迫眞であられる、烈しく身体を右へ左へ向けられ、っそのたびにf字孔はあちらへ向きこちらへ向きするわけであるが、以前にはやや難を感ぜしめたオケの中へ引っ込まれるような位置で弾かれる癖も減退し、っきょうは彼女の音量音像がいつも楽曲の主役として鳴りつづけ、オケにマスクされ、消されてしまわれるということがなかった、2楽章には深い呼吸の間合いの取られ方があったかとおもえば、フィナーレは一転、っすべての音価を忠実に叶えむとされる、音楽アスリートとでも呼びたくなる厳格なる奏楽の貫徹、っそれがこちとらをして既のところで気詰まりをおぼえしめないのは、極まるところまで極まって、楽曲の有つ多様なリズムの妙を完全に体現されるからであろう、っきのうは、㐧2テーマのフレイズ中にあるアップ・ボウの個所で、注意して弾かねば弓が絃を跳ね、雑音が出てしまうところ、弾いて雑音を出してしまわれて瞬時に、ダメっ、こんなの不注意だわっ、っとご自身を責められる表情をされたものだが、っきょうはそのケアレス・ミスを丁寧に摘まれていてじつに滑らかな歌と踊りとの感触であり、っまことにプロフェッショナルの音楽人でいられる、

シムフォニーは、っほんとうにマーラーの《5番》というあの経緯をこころゆくまで味わわしめる、カーチュン氏は、他の楽曲でもしばしばそうであるが、っときにぐるぐると腕を回されてサディスティックに楽隊を叱咤され、音々へ留まるよりは一気呵成に前進することを択ばれる、っその際のわずかに箍が弛み、アンサムブルが解れる手応えは、っかっちりどっしりと音を置かれる部分との間にいかにも好対照を成す、っさように、一大シムフォニーがある個所はたっぷり、ある個所はタテを乱すかもしれないとしても音の推進力が強調せられる、っというそのメリ・ハリの多様は、楽曲をより波瀾萬丈のものとして再現することに寄与す、後者のややラフな語りがよろしく音楽的のアッピールと成るためには、っだから眞に高度のアンサムブルを必要必須とするので、っさもなくばただしっかり弾けていない散漫な音にっきりならないのだが、っさようの、必ずしも教科書通り、設計図通りに音々が組み上がっていなくとも、っそれをけっして合奏の脆弱さとしては聴かさないというのは、っやはり日フィルがいかに高度の合奏能力へ到達しているかの證左であろう、

カーチュン氏の造形に敢えて不足というか不満を云いたいとしたら、フィナーレの大団円後の結尾の疾走、っそこでの彼氏は、っまさしく息急き切って駈けてゆくそのテムポ、グルーヴ感のほうを強調されたいようであるが、っぼくのここでのこのみは、最後の最後までぎっしりと中身の詰まった対位法で存りつづけるのだっ、っという執念深い発音発音の濃厚濃密である、っもっともっと、絃の高い方はなにをやっている低い方はかにをやっている、木管連はなにをやっているホルンはトロムペットはトロムボーンはそれぞれなにをやっている、ティムパニはなにをやっているというのを、っぜんぶ目に見えるように林立したうるさいひびきの欝積として、急がず騒がず、最終音までどっかとした音の重さのままで迎えてくれたいのである、っきのうきょうのカーチュン氏のようでは、走られたぶんだけそのぎしぎしと多声の集う感触が後退してしまわれたようだ、っけれどもまあ、っこの曲の最後は99人の指揮者までがさように演るからね、っぼくの所望嗜好が突飛なゲテモノ趣味ということで、

っけれども、っきのうは器の性質もあり、矢鱈と吼えまくるとくに信末氏以下ホルン群に対して、流石にそれは音量を出しすぎる、っとの憾みをやや有ち、っけっしてよく弾けていないわけではない絃群がしかし消され勝ちとなってしまうアンバランスをおもったが、っきょうは、ホルン連が自制されもしたのだろうか、っやはりサントリーの好条件のお蔭もあるかとおもうが、絶えずウェル・バランスの音響であり、っここぞというときの破壊的の音量音圧も、楽器の数、種類がすくなく、弱音の場面も、っすべてが音楽的に等分の価値を主張してやまなんだ、強音部ではデシベル値が上がるっきりで音が強張ってしまい、音の色、ニュアンスの豊富を欠き、弱音部はそのまま音の薄さへ繫ってしまうという為体は、っもはや昔日の日本のオーケストラの姿だ、音のおおきいもちいさいも、編成の厚いも薄いも、っすべてそれぞれにゆたかな音響として聴かせられてこそ、初めて本格のオーケストラである、繰り返すが、っいまN響や都響にそれができるだろうか、っすくなくも東響や読響にはできていなんだ、

Viva、日フィルっっっ、



っさて、っいま食事後、例の喫煙スペイス、っまもなくシガレット1箱を空にするので、アイスを購って退出するとせむ、

っあすも仕事のあと初台、伊福部昭特集で、本名徹次氏が《交響譚詩》と《シンフォニア・タプカーラ》とをお振りになる、っおそらく盛りだくさんの演目がためであろう、開演は18時と早く、聖蹟別棟で17時の段階で着替え了わって退勤するばっかりにしてあれば間に合わないことはないが、保険を掛けてあさはすこしく早めに出勤して始業し、16:30すぎか、遅くとも45分ころまでには退勤させてもらうとせむ、

っそうだ、っきょうの動画配信、事後的に編集せられるとソリスト・アンコールを切られたりするから、帰宅したらきょうのうちに録画しておくとせむ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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っゆうべは、




っちゃんとベッドで睡て、10時ころまで2度睡3度睡でごろごろしている、演奏会へ行くのも、体調を整えるのがタイヘンである、っゆうべはしかし、っやはりシャワーを浴びる気力がなく、辛うじて整髪料だけは洗い落としてそのまま睡てしまい、っけさ起きてからにす、

12時すぎに出掛けたってぜんぜん間に合うんだからと、洗濯機を回し、タワ・レコから5箱も6箱も届いてまだ受け取っていなんだ荷を7・11へ取りに行って、っその際に外でシガレット2服ほどし、っぜんぶの音盤をPCで吸っている暇はなかったので、外山啓介/広上淳一/札響の伊福部昭《リトミカ・オスティナータ》ほか収録のもの、井上キーミツ/群響の同《jpラプソディ》と矢代秋雄《シムフォニー》と、物故せられた秋山和慶氏の大阪フィルとのヴォーン=ウィリアムズ《海のシムフォニー》、っこの3盤は一刻も早く聴きたかったので、っそれだけ吸って、iPhoneと同期している間にヴェランダへ洗濯物を干しているが、っときおりPCを置いている室へ戻って見ても、音源の同期の前のピクチャの読み込みとかなんとかでつっかえたまんま一向に進まなく、っそのうちに乗るはずの電車を1本2本と後ろへずらして、っしかしこのiPhoneは以前に通信も含めて使っていたがいまはSIMを抜いてあり、音源がストリッジを圧迫してきたので、写真は他に複数バック・アップもありここからはすべて削除したので、っそんなのの読み込みはしてくれなくてよいのだが、チェック・ボックスへチェックが入っているんだな、っといったん同期を中断せしめてその項目を外し、再度同期を実行せるところ、ステップが5つから4つに減り、っさくさくと新音源の同期まで済む、っそれでも玄関を出たのはぎりぎりで、赤坂着13:40、サントリーまでは10分ほど歩くので、開演前にシガレットを服む時間はない、っちなみに、耳ではまず秋山氏の音源を鳴らしており、っもうじきフィナーレが済むが、演奏会前で小音量で聴いており、っまだ演奏の成否は判断しえない、

っところで、っきのうの午の公演後のトークで、っほんの質疑応答もあったのだが、っおひとり、カーチュン・ウォン氏の追っ掛けを自認され、っすくなくも日本フィルとの公演はすべて聴いてきていられる旨おっしゃり、、、っとはいえ、っこないだの九州楽旅まですべて追従したということはなかろうが、っその男性がカーチュン氏へ、まだ取り上げていられないマーラーのシムフォニーもすべてお演りになるお心算か、また、全曲踏破後には、短期間でのツィクルスもかんがえられたい、、、っと、っその後者はいかになんでも非現実的のご提案だが、っともかくそう訊かれて、カーチュン氏はややお困りでいられたが、っしかし、っすでにして《1千人》は公演の挙行が確定している旨、田之倉氏と頷き合っておっしゃる、っぼくにすればより聴きたいのは《夜歌》のほうだが、っそれは未定のようである、っまた、《大地の歌》については適切な歌手をキャスティングしうるかが絶対条件だとのことで、っこれは至極とうぜんであろう、



っさて、ギロッポン、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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大井町、




高橋勇太氏の棒、品川区民管公演、済む、演目は、前半にメンデルスゾーン《イタリィ》を演り、後半はソプラノ見角悠代女史、バリトン藪内俊弥氏を招いてモーツァルト《マジック・フリュート》ハイライト、

侮っていた、メンデルスゾーンは冒頭から平凡窮まるひびきとキレのないリズムとで開始するので、やっぱりそうだよなあ、っと薄ぼんやりした意識で聴いたような聴かないような態度、モーツァルトも序曲はフル・メムバーの音量が階上のない中小規模器を粗野に轟かせておよそフレッシュさからは遠く、っしかし、っいかなアマチュアの興行とはいえ、っこうした公演へ呼んである歌手がちゃんと唄えない人たちであるはずもなく、っまずパパゲーノの藪内氏は、っいっさい声を張り上げられず、自然な発声のうちに颯爽たるご登場、っつづく見角女史は、っよるの女王からパミーナから、っさてはパパゲーナまでを早着替えとともに唄い分けられ、役を変わられる毎に声の色から表情、っお貌附きまで豹変されるのには、っこちとら舌を巻く、

っおおきなフォルテを鳴らす必要のなくなったオケは落ち着き、っそうするとソリストおふたりが大絶叫なぞしなくとも客席の奥までじゅうぶんに声を届けられる器の規模はむしろ奏功も奏功、多摩センなどと同様に、っこうした規模の器にはまちがいなく大規模器にはない利点がある、藪内氏のゆとりと声の色のうつくしさ、っほんの発声の差配によるネアカなちゃらんぽらんや気障ったらしさの表出、見角女史の鉄壁の技巧と、っそれゆえに達成せられる情緒の訴求、舞台人とは、ミュージシャンであれ役者であれ噺家であれダンサーであれマジシャンであれ、っひとたび登壇したならば、あんなマネはとてもわれわれ素人にはできない、っといっさいのお客を圧倒できなければならない、っきょうのおふたりのようなプロフェッショナリズムへ触れると、っあらためてそのことをおもわずにいない、っしかも肝要なのは、最高のテクニークをしかし、っいかにもこともなげに、朝飯前というぐあいに披瀝することであり、っそれができて初めて、舞台人はお客を悦境へ攫うこと能うのである、バレリーナがいつも教師から受く諫言訓示、白鳥が必死に足掻くのは飽くまでも水面下のみ、水面より上はどこまでも優雅に、水面下の苦労を悟らせるのは3流5流のやることですよ、っと、っすべて音楽人にも云いたい、客前で必死で演奏しているようでは、っぜんぜん1流ではない、っどんな楽曲だろうと、このくらいいつでもできます、っというように聴かせられなくてはならない、っこんやソリストのおふたりには、っその職業人としての矜持をまざまざとみせつけられたようにおもう、っまことに充実の公演であった、



事後は新橋へ移り、王将へ寄る、っいろいろと期限のみじかい割引券があり、使い切らねばならない、っまんまと策略へ嵌まっている、っいまは食事後、ガード伝いに有楽町をすぎ、っこないだ男の子にクロレラ・パイプのことを訊かれたガード下の喫煙スペイスへ寄らむかとおもうが、営業は21時までで、閉まっている、っやむなく東京駅まで歩き、っいまいま、中央線へ乗る、っよなかであり、降雨もしていることから、宮城遙拝はあすのギロッポンのあとへ譲る、っそのあすは、午にサントリーにて、日本フィルのきょうと同プロ公演である、っあすは有楽町の方の王将へ寄らむ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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