松本宗利音氏の棒、東京シティ・フィル公演、済む、演目は、ドヴォルザーク《英雄の歌》、上野耕平氏を招いてミヨー《スカラムーシュ》と逢坂裕氏の《アルト・サクソフォン・コンチェルト》と、っそしてブラームス《2番》である、盛りだくさんで、ソリスト、オケともにアンコールなしでも、っいま21:20すぎまで掛かる、
っぼくはブラームス《2番》をぜんぜん好い曲とおもっていない、解説には定まって明るい曲と書かれ、っこないだ山梨でも森口氏はプレ・トークで同様におっしゃっていたが、亡くなられた宇野さんはかって、ぜんぜん明るくない、2楽章の主題も、なんであんなふうに乗っけから音が下がってくるんだ、っとくそみそに云われていて、っぼくもいまだに若くときにそれをたのしく読んだ影響下にあるのかとおもうが、全曲冒頭の基本動機にしても2音目は上がらずに下がるのだし、作家当人は生涯に書きえたうちで最美の旋律と自讚するらしいその2楽章の主題も、宇野さんならずとも、っぼくもあの音の下がり方は窮めて不健全と聴き、なんでもっとしゃきっとできないのか、男のくせにしやがって女々しい野郎め、っと唾棄したい、っあほなフェミニストに殺されそう、、、っだからこの公演の切符も購うかどうか迷ったのだが、果たして、来てよかった、周囲にノイジーなお客が2、3いて欝陶しかったとはいえ、っそれでも来てよかった、っとてもよかった、
松本氏の音楽人としての存り様が、っすごくすきである、先回のアマチュアとのブルックナーが、っぼくが彼氏を聴く初めであったが、っそのときからすでにして魅され、っこころを奪われたもので、っきょうもずっとすばらしい舞台姿でいられたし、っずっとすばらしい音が鳴りつづけていた、っこう愛惜すべき指揮者に殖えられては困る、行かなければならない公演がおおくなりすぎてしまう、
っまず、っどんな人のどんな曲でも、オーケストラのいちばん好い音、っいちばん快い音が鳴る、っきょうの近現代の作などは、オケがちゃんと弾けさえすれば誰が振ろうとしゃきっとした音に成るのであるが、先のヴァグナーもブルックナーも、っきょうのドヴォルザークもブラームスも、健康で、屈託がなく、聴いていて最も抵抗がなく、オーケストラっていいなあ、、、っとしみじみと再確認させてくれる音がしている、
東京シティ・フィルは、会によってはまだまだ限界を感じさせる楽団だ、っきょう客席へは高関氏がいらっしていて、っお弟子の晴れの舞台を拝まれるのか、っはたまたお目附けで、事後、楽屋で講評を垂れられたりするのかわからないが、彼氏が同フィルを振られたマーラー《夜歌》では、っまあ難曲でもあろうけれども、オケはぜんぜんひびきの懐が浅く、各部の接続はぎくしゃくとして、っじつに隙間っ風放題の脆弱なアンサムブルであったものだ、
っそれがきょうは、ドヴォルザークからまさしく快音である、曲は作家の新世界よりの帰郷後、生前最期の管絃楽作品といい、っなるほど、っややもすると単純すぎて、っもうすこしくタネやシカケが慾しいとおもわせないとしない彼氏の筆であるが、っここではごくごく熟達しており、構成としては、謂わばシュトラウス《ヘルデン・レーベン》をぎゅっと約めたようなもの、具体的の故国の英雄譚などへ取材しているのでなく、大恩あるブラームスの像を音化したとも、っあるは作家自身の生涯の表象とも解釋せられるらしい、っそして、マーラーが振ったという同曲初演時のメイン・プロは、っきょうとおなじブラームス《2番》との趣向である、不勉強なぼくはとうぜんながら初めて触れたが、っまことに曲の經緯をよくわかって聴いていられた、始めの勇壮な主題中には、絃に、え、なにそれ、っというすこしく奇異な和音が潜ませてあるし、っその後は楽想を遷る毎に転調の妙が鮮やかに伝わり、多彩な強弱、マルカートとレガートとの烈しい対比、中盤からは音構造もかなりに複雑となるが、オケはどの声部も恆にゆとりを感じさせ、っしたがってきりりとした音彩の発色はじつに繚乱の態である、っそしてその要には、松本氏の棒が存る、っあれこそ音楽の心棒にちがいあるまい、
っとちゅう木管にはたのしいポリリズムが聴かれたが、っそれは作家が新世界において《セロ・コンチェルト》で獲得した秘術である、っそしてジャジーな要素を孕むつづくミヨーや邦人作品とは、っこのポリリズムの効果的の活用という要素で共通するところがあった、全演目が松本氏のご所望ご提案であるのかはわからない、っまだお若いから楽団側の意向も反映したプロの可能性が高いが、っいずれ、入魂のライン・アップである、
ミヨーは3楽章制で、アルト・サックスのコンチェルティーノといった風附きである、冒頭からすぐに上野氏とオケとがいっしょに出られるが、アルト・サックスというのはあんなにも音量が出るものなのか、っここ初台は遙か天井が高く、っよくひびき、っじっさいオケは飽和する感触で鳴っているが、ソロは細かいフィンガリングの走句までぜんぶ聴こえている、近年、有名を恣にされているだけのことはあり、リリックな訴えの部分も含めて、っこちとら舌を巻かずにいない名手であられる、
逢坂裕なる人はぼくよりすこしく年長であるだけの方だが、終演後に舞台上から起立答礼を促されてみると、っぼくの2階席から見下ろす1階席のご当人は、っだいぶん頭の薄い方でいられた、っま、っぼくもすでにしてだいぶんおっさんだからね、17歳で独力で作曲を志向され、長じて藝大へ入られ、っご卒業はほんの10年前とのことで、っなかなか変則的のご經歴である、
曲は3楽章制で、ゲンダイオンガクゲンダイオンガクはしておらず、っむしろライトで、っしかし緻密にいろいろとやってあり、ソロは、主題以外は、っや、っどうかすると主題の一部も、っのべつ忙しく音階を上り下りしている、上野氏はここでも、煩瑣な分割拍だろうが引き攣りそうなハイ・トーンだろうがなんでもござれの藝当でいられ、満堂を黙らせられずにいない、
休憩で喫煙へ立って戻るところで高関氏と往き合うが、っおもわずに心内で、あんたよりもお弟子のほうがよっぽどか立派な棒振りじゃないか、っとの雑言悪罵を擲げずにいなんだ、
松本氏の棒は、近年の若人としては抜群に汚ない、尾高氏にも教わられているはずだが、っすくなくも軌道としてはその影響は絶無で、っむしろ研究員としてそのお背中を仰いでいられたことであろう故・飯守氏の無骨なお姿が髣髴とする、っただ、っどなたかの眞似事をされようというのではなく、っあれでしんからの松本スタイルでいられるのだろう、っぼくにすれば、綺麗に矯正される必要など微塵もない、っあの汚なさのままでぜんぜんよい棒である、袖から出られる際の歩き姿にしても終演後の答礼時の挙措にしても、っちっとも気取りがなくていられるが、垢抜けない青二才の風かというとどっこいそうも侮れなくて、先のブルックナーを振られているお姿に対してもその印象を有ったが、っこちとらどこか超然たる近寄り難さをおぼえる気がする、っま、っぼくの購いかむりかもしらんが、人知れず、求道者たるの悲哀を重たく重たく背負っていられるような厳しさが漂うのである、
っもちろん、鳴る音は清潔そのもので、ブラームスもけっして模糊として溷ったりはしない、っそれにしても、必ずしもこのまない同《2番》をしかしよろこんで音盤に聴くとしたら、っもちろんモントゥーも忘れてはならないが、っぼくの㐧1候補はいつの日もシューリヒト/シュトゥットガルト放響盤である、幸か不幸かその名を継がれた松本氏が、っきょうぼくの面前で、っじつにブラームス《2番》をお振りになったのである、
っその仮借なき一徹の造形は、ブルックナーにつづく偉大な達成であった、若き指揮者へ花を持たせむとされる東京シティ・フィルの面々の献身も感泪もので、っあらためて、っほんとうによい演奏会であった、
曲頭からファゴットがもう張り切られる、っこちとらは低絃から自然とホルンの1・2番へ耳を向けているのだが、背景のファゴットが浮かび上がり、え、そんなことやってんだ、ってなもの、っつづいてホルンの3・4番が吹かれる際も同様、主部へ遷移する直前でティムパニとトロムボーンとが交互に鳴る部分も、っここはベームが最晩年にヴィーン・フィルを連れて来日した際のライヴ音盤にゲネ・プロ音声が入っていて、巨星はトロムボーンの強弱と音色質感と、っそして和音とを気にして音を停めてやり直しをしている、っだからきょうぼくの意識もトロムボーンが澄明に鳴るかへ向くのだが、松本氏の棒は同時に鳴っているセロのアルコを指して、彼等がトロムボーン連とともにひびきを作るよう差配されている、っだから1楽章の序奏が済まないうちから、っぼくにはいまだかってない立体的のブラームス《2番》が聴こえる、
ブルックナーもそうだったが、っこの1楽章主部も、両主題間でテムポの落差をほぼ設けられず、っやや速い歩みのうちに一直線に進まれる、っその硬派な感触が欝然たるブラームス像を雪ぎ、っそれだけでも頗る好印象である、フォルテでの松本氏は烈しい腕の振りでいられるが、トュッティは轟然とせず、音色はうつくしく、ハーモニーは新鮮なままだ、っぼくはどっしりと鳴るオーケストラの音がすきだが、ブラームスの、っとくにちっとも明るくなんかない《2番》は、っそんな分厚いひびきで溷濁せるハーモニーなんぞにしてしまうのではまるでダメで、豊麗な音場にも全声部がほどよく分離して鳴っているきょうの手応えは、っそれこそ大シューリヒトの演奏も、会場で聴けばかようの鳴り方をしていたのではないかとおもい遣られた、
提示のリピートもこちとらウェルカムだったが、っそれは為されずに展開へ進む、行なわれていれば終演は21:30だ、主題がリレーとなるその2ndの掘り起こしは、っせんじつの森口氏も過たず叶えられていたが、松本氏も抜かりなく同パートを叱咤される、胸突き八丁での金管群の扱いも、っやはり騒音へは達しないが、っそれでこその威厳と格調とを具える、っここではホルン、トロムペット、トロムボーン、バス・トロムボーン、テューバが、っそれぞれ固有の音色効果を発揮し盡さねばならない、っその史上隨一の精華はあの目黒におく佐藤雄一/慶應医学部管であり、っまちがいなく、作曲初演以来で最も立派に鳴り渡ったこの曲の姿であったが、テムポも速く、っひびきもかるい松本氏は、っもっと淡彩の味である、
再現冒頭の2ndとVaとの宇野さん謂うところの夕映えの味は、っさしもの松本氏も奥儀の披瀝とはゆかず、っさらにさらなる年輪を加えていただかなくてはなるまい、っもっともっと聴く者の胸へ迫ってやまない音が出せるし、出さなくてはならない、出せなくてはならない、
っやり切れない2楽章も、っしかし曲の構成がすっきりと見通せる、松本氏はけっして大人しくていられるわけではなく、っむしろ曲の変転に連れて自然に感情を動かしていられ、っよってまんなかの激動の音楽はシュトルム・ウント・ドランクを刻印し、っだいぶんオーケストレイションを変じた主題の回帰はちゃんと、ああ、ああいう激情を經た上でのまたこの主題なのね、っという聴こえ方をする、
3楽章のトリオやフィナーレ主部で運動性を強調しすぎるのは、果たしてこの曲の再現として適切だろうか、竣敏を極めず、最後まで一寸おっとりとしているくらいがちょうどよい、っその点でも、っがぎごぎして汚なく、洗練せられない松本氏の棒は素敵だ、フィナーレは全体が単調なアレグロであり、細部細部へ密かに秘技、必殺技を挿し込めなくては眞に眞なる充実した聴き応えへまでは達しないとも云えるが、っぞんぶんにオケを発奮させられながらも、狂躁的に堕さず、っついにコーダへ最高のカタルシスを運んで来られた松本氏の造形には、必要にして十分のベイスが萬端整っている、っあとの問題は、馬鈴が容易に解決してくれるだろう、っや、容易ならざる鍛錬を、彼氏がこれから積み重ねられるにちがいない、
っさて、中央区の仕事へまともに手を着けられぬまま、次から次へと試掘試掘で、試掘も宿題が溜まるとひとつびとつ概要報告を作成してゆくのも一手間だが、っあす、っというかもういま聖蹟の駅の喫煙スペイスで日附も変わり、っきょう1日でおとついの板橋試掘の概報をちゃちゃっと片附けて、っあすは、杉並だったかな、ったしかそうとおもうが、水戸博之氏の公演、15時開演だったとおもうのでゆとりがあり、今週こそは土曜午前半どんで仕事をせむとおもう、来週からは武蔵野、吉祥寺の駅からすぐのところの試掘である、日曜も川崎で午后とよると同会場でダブル・ヘッダーなんだけれどね、