ざっかん記 -3ページ目

練馬、




山上紘生氏の棒、Orchestra Canvas Tokyo公演、済む、演目は、メンデルスゾーン《夏の夜の夢》の序曲と、劇中曲から数曲と、っそしてシューマン《2番》である、

っこの器へはひさびさに来た、っきょうで2回目だとおもう、っもっと旧式のしょぼい多目的器のように憶えていたところ、多目的にはちがいないが、内装はわりに一端だし、音響も、っもちろん乾いていて各声部がマルチに聴こえる感触ではあるが、オケを聴くべき器ではないとおもわせるほどではないし、っどころか、大器ではないから音量も豊富だし、っまことに快適であった、

っわりに開演間際に入場して、プログラムもちゃんと読まず、前半は、山上氏の棒だから、オケはポラリス・フィルと誤解して聴いている、っちかく晴海で小編成の公演があるのではなかったかとはおもっていたのだが、

ポラリス・フィルがマーラー《トラギッシェ》などという難曲でも易々と乗り切ってしまう名うての団体であることはここで報告済みだが、っしたがって開幕から全幅の信頼を寄せて聴くところ、っそれを裏切らぬ妙音が鳴り、単純なエラーもホルン、トロムペットにごくわずかに聞かれた程度だったので、やはり流石だなあ、っと感歎していて、場内アナウンスで休憩中の外出者は再入場時にプログラムを提示されたいと云われるので、っそれを携えながら見るともなく表紙を見るとOrchestra Canvas Tokyoの活字が眼に入り、あ、え、ポラリス・フィルじゃなかったか、っと気附く、両団ともにアマチュアとして相当度に上質の部類だが、っより優等なのはポラリス・フィルかとおもい、っきょうのあのメンデルスゾーンをOCTが達したというのは、っぼくにすれば少々驚きである、

っその巧さというのは、エラーの多寡とか、絃が弓の量をちゃんと使える管の指がよく回るとかという次元へ留まらない、っそれはアマチュアでも中級以下の団体を取り沙汰す際の話である、上級は、弾ける吹けるはあたりまえのあたりまえで、っその先、音には場面に応じた色があり、表情があるのだということを楽員ひとりびとりが知悉しており、っそれが適切に発現して初めて音楽であるという共通認識を、楽団の基礎体力として具えている、

メンデルスゾーンの序曲やスケルツォは、絃が弱音で微細に動くが、っその5部すべての音がよく立ち、張り詰めた緊迫感が出来す、序曲中にはテムポが弛んで深い歌が流れる場面もあるが、Vnが、っただ歌うのでなくて、唸るような、凝るような感触を出さねばならぬと意志して弾かれ、現にさようの音が鳴る、山上氏を観ていると、っとくにそうした表情を慾しがるようなアクションでもいられないので、っやはりオケのほうがご自分たちでわかって弾かれているのだ、

っもっとも、っがんらいそうしたオケ自身の体捌きの絶妙というのはあってあたりまえで、っこちとらとしてもそれが望めて初めて音楽鑑賞が始まるとも云える、っその先に指揮者の造形を問題にし、っほんとうはいつもそれだけを問題にしていたい、っそこできょうの山上氏はといえば、っとくになにかをされているのでもなく、平凡といえばそうだが、勘の鋭いオケを得られて彼等を束縛されることもなく、っしなやかなバトン・テクニークが遺憾なく発揮せられているのはたしかだ、

歳格好は松本宗利音氏などと近く、山上氏のほうがすこしく年少でいられるだろうか、っあるは藝大在学時期には重複があり、っお互いに面識もおありかもしれない、棒の滑らかさでは断然、山上氏であるが、っいちど期待してスメタナ《我が祖国》を聴くところ、っその滑らかさがまるで裏目に出て、鳴る音にぜんぜん突っ掛かりがなく、っかえってこちとらの耳を右から左へ素通りしてゆくだけののっぺらぼう奏楽に終始した、個人的のこのみでいえば、松本氏の朴訥で垢抜けのしない風采のほうが親近感を擽ぐらる、山上氏は、っわるくすると器用貧乏の気味を晒されてしまうかもしれない、

っきょうについてはしかし、硬軟自在のオケとの相乗効果で、シューマンの最後まで音楽に複雑微妙のグラデュエイションが存り、恣意的の表情なぞ振り撒かれなくとも、聴く者の耳をして自然に欹たしめる音が鳴りつづける、

読者様もご存知のとおり、っぼくの嗜好からゆけば浪漫派のこのあたりの作家というのはふだんから熱心に聴く対象ではなく、っこのシムフォニーも、音盤を何千枚と持っていても、っもしかしたらそのなかへ1枚もないかもしれないし、実演でも碌すっぽ聴いていない、上岡敏之氏が新日本フィルのディレクトールをされている時分にたしかにお振りになったとおもうが、っそのときには曲想も構成もまるでわかっておらず、遺憾ながらどんな演奏だったかまるで記憶がない、っのち、佐藤雄一氏の棒で1度か、2度くらいあったか、っどこかで聴いているが、例の牛歩であり、っこちとらよくわかっていない楽曲をさように奏されても、っますますなんのこっちゃわからん、っどこかでほかの機会もあったかしれないが、っことしになって、っこないだ三原明人氏の棒で聴き、っきっぱりとした造形で、曲の経緯もだいたいわかってきたので、ったのしめないではなかった、

深刻というのか、っあまりきもちの解放せられてゆかない曲想なので、っこってこてにしつこく奏したのでは、頭痛が痛い、っとでもいうぐあいになってしまい、っすくなくもぼくは進んで聴きたくはない、っそれが、っきょうのような颯爽たる棒とオケとの手に掛かれば、清新に薫る瞬間も多々あり、っそれでもべつに熱烈に愛好したいとまで改心を迫らる作とは聴こえないが、っまず曲の姿は一分の曇りもなく把握しはした、



っところで、っこのOCTの松本氏とのブルックナー《8番》動画がせんじつ公開となった、iPhoneでインナー・ヘッド・フォンを通して再生するにはやや画源の音量レヴェルが低かったので、デイタを落として音声を抜き、編集アプリケイションでゲインをいくらか上げて聴く、っやはりバトンは山上氏からすればもっとざっくりとしていられ、っしかしその大摑みの手応えがぼくにはこの作家を聴く上で好適とみえ、っそして、っとはいえ雑然としているというのではぜんぜんなく、っむしろいつも音楽の核心がしかと見据えられており、っさようの棒を振るほうが、表面の感覚的の耳当たりを磨き上げることよりも遙けく難儀であり、っかつより本質的に音楽的であるにちがいない、っどの楽章でもテーマ毎にテムポの落差をほとんど設けていられない点へは、っぼくとしてことのほか畏敬をおぼえずにいない、っつまり楽想の変化変化を強調した造形ではないわけだが、若い人がさようの棒を振ると、っそのとおりただ変化に乏しい、特徴の薄い演奏になるだけであるのが関の山だ、っところが松本氏の造形には、っその懸念を微塵もおぼえない、アカデミズムが凡庸ならば、山上氏が優等生、松本氏が劣等生となるわけであるが、っおふたりのご卒業時の成績は如何様であったのだろうか、

っいずれ、器用な人もいてよいし、無骨な人もまたいてよい、っいてよいというか、っそれは有って産まれた各人の稟質であり、下手に足掻いてどうなるわけのものでもなかろう、っそれぞれにそれぞれなりのこれからのご精進があるのにちがいあるまい、



っさて、っあすは珍かにもなにも予定を入れていなんだのだが、っきょう終演してあすもなにか聴きたい気がし、杉並だ調布だ錦糸町だ川崎だの選択肢があるなか、有楽町にて田代俊文氏が東大の学生オケを振られるので、っそれを聴くことにした、っもう公演直前であり、1階席へごくわずかと、っあとは天井桟敷みたようなところっきり売っておらず、1階は通路へ面した位置が1席のみあったので、っそこを押さえる、大器ではなく、っもう一寸まともな規模の音場のようであるが、っこんど坂入健司郎氏がそこで新響と公演をなさるので、っどんなところか先に見て来ようとおもう、田代氏と同団とは、上野で天空を羽搏くごとチャイコフスキー《5番》を演ってのけられたのであるが、っあれはまぐれ当たりのようなものとおもっている、っあすはブラームス《1番》なのだが、っいまの時点では、っまさかにあの再来とはゆかないとみておくが得策である、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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川崎 その2




田中一嘉氏の棒、ユーゲント・フィル公演、済む、演目はブラームス《1・2番》であった、来年には《3・4番》を演られ、全曲踏破とゆかれるらしいが、っどうかなあ、っそれを聴きに行こうかどうか、

っそれにしても、っぼくがふだん聴かないほうの佐藤雄一氏に始まり、森口真司氏、松本宗利音氏、っそしてきょうの田中氏と、ブラームス《2番》ばかり聴いている、意図して撰んでいるのではなく、っなにしろそうすきではない楽曲なのだが、演目を定かに知らない近々の公演でも、っまた聴く機会があるかもしらん、何度聴いても、楽聖とか、っあるはブラームスとは立場のちがうブルックナーとかマーラーとか、っもっと近現代のショスタコーヴィチとか、っそれらシムフォニストたちのあれやこれやの作をおもってみて、っそのなかでブラームスをより大切にかんがえたい気はついぞ湧いて来ない、っただ、っべつにとくだん愛好しない楽曲であっても、っそのどこをどうしてくれたいとか、っあるは素人かんがえには露おもいも寄らない奇想天外な造形を見舞われたいとか、っそうした願望はもちろんあるので、っだから聴いているときには、こんな曲イヤだなあ、、、っとおもっているわけでもない、っほかの曲を聴くときとおなじように、努めて冷酷に音々へ対したいと念ずるのみである、っそして申すまでもなく、演奏会の客席へいていちばんうれしいのは、っさように最後の最後まで冷酷でいたかったのに、有無も云えずにこころを攫われて、仕合わせ放題の醉いごこちへ蕩け、微睡み、っあるは昂奮へ躍り上がりたくなるときである、っそれを味わわむがためにも、冷酷な、残酷な耳で聴かなくてはならないのだ、っとうぜんのことである、

っさて、オケは、絃12型のささやかな編成で、舞台へ出揃われてみると、コン・マスはいつも東京ユヴェントス・フィルのリーダーをされている方である、っということは慶應出で音楽以外のお仕事をなすっていられるのだろうか、っそれとも音大出のプロフェッショナルの方だろうか、っわからないが、っほかにも、絃バスのトップの方は、交響楽団はやぶさとか、っそれ以外にもさいきんどこかで見掛けたような気がするが、っそれ以前からも見憶えのある頭の薄い小太りの男性である、楽団の名に負うごと若い方々の集まりだが、全体にアマチュアっぽい弾き方、舞台姿という感じがせず、っあるは音大出で、プロの楽団へ入れずにいるという人たちの団体かもしれない、管は3管を可能とするらしく、っよって2管のきょうは、木管は前半と後半とでおひとりずつ、え、さっきいなかったよ、っという方が新たに入られる、っそのわりに絃が12型というのは不可思議にもおもえるが、っそれほどでぶらないひびきでブラームスを演りたいということだろうか、

っその編成からあきらかなように、分厚いひびきでハーモニーもなにも混ぜくたにしてしまうという、っとくに我が日本においてだとおもうが、昭和の時代に盛んに為されたような汗臭いブラームス像はどこへやら、っどこもかしこもすっきりとした清潔な発音で、っいくらかの声部にときおりかすかなエラーがあったとはいえ、っそれを叶えるだけのテクニークもあったとしてよい、

っただ、っどうかなあ、っべつにぼくとして、っそのかっての力盡くの暑苦しさが得点であり、っそれをしない小ざっぱりとした奏楽が失点であるとおもっているわけではないのだが、っそれでも、力まないぶんだけできたゆとりを、っもっとほかの音楽的の差配へ振り向けてくれたいとおもわないでもなかった、っただなんとなくスリムになったっきりで、特長に乏しいというか、っともすると力ない頼りない演奏に聴こえないとしない、クリアで、精妙な音が出せているだけに、余計にそうおもってしまっただろうか、爽やかで涼しくなったぶんの補償を要求するこころが、絶えず疼かずにいないのである、

田中氏は、っそれこそきょうの舞台でゆいいつの昭和の生き證人にほかならないが、っこのオーケストラ文化の今昔になにをおもわれているだろうか、《2番》1楽章の㐧2テーマは、っぐっと腰が落ちてかつレガーティッシモ、テーマ間の対比としてとうぜんの姿勢ともいえるが、テムポをほとんど変えずに進まれる松本氏を聴いた直後であり、っぼくにはあちらのほうが辛口で好もしい耳当たりというか、耳のみならず、っこころへもうれしい届き方をしたようにおもう、

提示は《1・2番》ともリピート、後者の展開は、絃主体の開始からしばらくこそ、オケはよく弾けもするので錯綜せるポリフォニーの緊張を伝えるが、金管、ティムパニを交える山場は、っせんじつぼくが云ったのと眞逆、各楽器が固有の音色を主張せず、っむしろ努めて融け合わむ融け合わむとされるため、ハーモニーが聴こえるっきりで、多声がぎっしりと林立し合った厳粛の気味は発露しない、全体に爽快な音量のままでもその厳しさを出すことはおおきに可能かとおもい、っじっさい松本氏からはそうした覇気を感得したもので、っそれからすると、っさっきの田中氏のようでは、音楽の柄を何重にもちいさくおぼえないとしない、《1番》も《2番》も、全体にいつもどこかその憾を遺さずにいなんだ、

っま、っこんなところですかね、っだから敢えて残る《3・4番》を聴きに行きたいともおもえないわけで、



っところで、っきのう荻窪へは、っわりに開演近くに着いて、プログラムは隅々まで読めずにしまったのだが、っいつも帰宅してすぐに捨ててしまうところ、残る頁へはなにが書いてあるのかといちおうぺらぺらと繰ってみて、見ておいてよかった、っその一橋の学生オケは、大学開学150年を祝して、っこの師走にサントリーにて記念公演をされる、演目はマーラー《夜歌》で、棒は、っなんと森口氏である、祈るようなきもちで同日にすでにして別の予定を入れていやしないかとスケデュール・アプリケイションを検めてみると、っさきわひにしてなにもなかった、

っぼくの森口氏の聴き初めは、っじつにマーラー《9番》という超大曲であったが、っいろいろと調べると、っその前年だかなにかにはどこかの団体とショスタコーヴィチ《レニングラード》をなすっていたりと、知って悔しいおもいもし切りである、一橋は、っきのうの奏楽を聴くかぎりでは、下手ではぜんぜんなかったものの、っしかしあのテクニークで《夜歌》を十全に乗り切り遂せるのは至難とも云える、指揮者、奏者ともどもにおおきに気を吐かれたいところである、

っそれでお次は、土曜に山上紘生氏の公演、練馬だったかな、っちがったかな、、、っまた午前のみ仕事をできずにしまうような予感がする、

っその前に、今週水曜には、目下、山田令子女史が彼の地よりご帰国中とのことで、っぼくなぞにはまことに勿体なくも、っお食事にお誘いいただいたので、仕事のあとに逢い、旧交を温む僥倖とゆく、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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川崎 その1




佐川聖二、瀬尾宗利両氏の棒、、、佐川氏は棒は持たれていなんだが、グラール・ウィンド・オケ公演、済む、演目は、メリロ《ゴッドスピード!》、今年度の吹奏楽コンクールの課題曲、自由曲から1曲ずつ、っそしてバーンズ《3番》で、開幕曲、っおよびアンコールの2曲めのみを瀬尾氏が振られ、っあとは佐川氏がご担当、

っきのうはこの午の会には興味がないなどと吐いてしまったが、っじつに猛省を迫らる、

っぼくはふだんから吹奏楽を意識して聴く習慣を有たないが、っその立場からの斯界への管見としては、およそ演奏という演奏に表現というものがなく、ひたすらにテムポとその裡での厳密な音価音価っきり聴こえて来ない、っとの、っどちらかといえば侮りと、っなにより愍れみを懐いている、殊に中高生については、優秀とされる学校ほど、多感なはずの生徒さんたちをしかし、っなにか奏楽サイボーグへでも硬直化せしめてしまうようにみえ、っじじつ、っそうした指導員のおひとりにお話をうかがったことがあるが、曰く、コンクール上位入賞を目的とするならば、彼等へ非人間的の要求を課さねばならず、やれと云われればやるが、情操教育上、やりたくないというのが本音だ、っとのことである、っだからきょうも、っよしんば楽団が巧かったにせよ、巧いけれどどこまでも生硬、っという、虚しいというか、嘘寒い奏楽を聴かされつづけるのか、っとの予断を有っていた、

客層としても、っおなじように舞台上へ扇形に居並んだ楽隊のその奏楽を鑑賞するのであっても、管絃楽と吹奏楽とでは、来ている人の雰囲気がどこか異なる、演奏に合わせて身体でリズムを取ったりする人が周囲に複数いたのは、っぼくにすれば腹立たしく、じっとして聴いていろっ、っとおもう、終演後は、ブラヴォーを云う人もいれば、っひゅーひゅーと歓呼を上げる人もいる、

っともかく、っぼくにとりアウェイの環境なのだが、開演して音が鳴り出してみると、楽団のテクニークはじつに指折りだ、社会人の団体というが、90名弱の、吹奏楽としてはグランド・サイズの編成で、遜色のあるパートはどこにもおひとつだにない、音色の耀かしさ、音質の精妙さも出色で、っこうした奏楽を聴くと、なぜアマチュアの管絃楽団には、そも碌に音を出せもしない、音色も汚ない、音質も粗いというへっぽこなホルンやトロムペットが澎湃としているのか、っと訝らずにいない、アマチュアを聴くことに免疫のある人のなかには、下手でもこころが伝わればよいのだ、っとの擁護に余念のない人もいるようだが、若くときからしばしばアマチュアを聴いてきたぼくはしかし、っいつになっても感銘のために楽団へ一定のテクニークを要請することを譲る気にはなれない、最低限、巧くなければ、っお客は感銘を享けること能わない、っなんとならば、下手ではそも楽曲の姿が伝わらないからだ、っぼくらは感動ごっこをするためにでなく、演奏を聴くため、楽曲を聴くために、演奏会の客席へ詰め掛けているはずである、っすくなくも、っぼくにはどうしてもそうである、下手な演奏でも感動した、っというのは、っぜったいに嘘ごまかしなのだ、

綜奏では、大音場も易々と飽和へ達する、聴者として吹奏楽を敬遠し勝ちになってしまうのも、っこの飽和したひびきの感触に、快い楽器楽器毎の音色音質の相関を望めないようにおもうからである、っなんといっても、舞台を埋めている9割方が、木製であれ金属製であれ吹奏楽器であるというのは、っどうしても変化に乏しいように聴いてしまう、吹奏楽で演奏して、絃の欠落したオーケストラ、っとの印象を與えてしまったら、っすなわち敗北ではないか、っやはり、擦絃というまったく異質の発音形態の一群がいてくれてこそ、初めて交響である、管絃楽ばかりで吹奏楽は熱心には聴かないという人のおおくの所感が、っそのはずである、

棒の瀬尾氏はお若く、楽団のトレイナーでいられるらしい、曲も賑々しく、っしたがって、指揮者、オケともに力んでいられるわけではないものの、っその飽和した音色は、っわずかに膨満との抵抗をぼくに與う、音勢バランスとしても、金管は無闇に吼え立てているのでなく、っむしろすかっと抜けのよい快音をよろしく事とされているが、っそれでもなお、一寸したトュッティでもずらずらと大勢いられるはずの木管群は各楽器固有の音色の妙を殺がれる気味で、っこの開幕曲の時点では、至って存り勝ちの吹奏楽の姿かな、っとの侮りは全的には払拭せられなんだ、

っつづいていよいよ楽団創立から同団を30年に亙り率いてこられたという佐川氏のご登壇であるが、風采は温厚そうな老紳士然で、振り始められてみれば、っその音楽性はじつに泰然自若であられる、っなにより、っちゃんと音楽があり、表現がある、休憩時にプロフィルを検めてみるに、クラリネットに出立され、70年代から01年まで東響の同楽器プリンシパルをお務めでいられたとのこと、っそれで得心がゆく、根っからの吹奏楽人ではなく、管絃楽の現場で、演奏する以上、音楽は恆に表現でなくてはならない、っとの、っぼくにすればあたりまえのその実践を熟してこられた方なのであった、

佐川氏の1曲目はマーチであったが、開幕曲からすると大人しい曲調というのもそうだが、老年の迫らぬ境涯を映していることも多分にあろう、瀬尾氏のときよりもいくぶん音圧が落ち着き、っそれにより金管と木管とがみごとに並び立ち、絃の異質を頼まなくとも、音彩のパレットの展がりはこちとらをしてなんら不足を感ぜしめず、歴とした交響が立ち顕る、

彼氏へは、泣きの佐川、っとの渾名が冠せられているといい、っそんなことぼくはぜんぜん識らないが、抒情的の訴えにおいて眞骨頂を示されるとのことである、っそれが早くもこの中間部において発露するようで、マーチだから歌もテムポへ乗っているのではあるが、っしかしよくこころを籠めた歌い口でいられた、

自由曲のまんなかの部分は、速度を喪ってより柔軟な訴求を可能とし、ピアノを伴なうサックスのソロは萬感のバラッド、っやがて木管群、金管群へと主役の座が移りつ漸増すると、曲想、書法はありきたりともいえるが、っこちとら胸の高鳴りをおぼゆ、

主部は忙しい、、、いそがしい、っでなく、せわしい、っね、送り仮名まで含めてまったくおなじ表記なんだよ、アレグロだが、ったびたびアゴーギクの個所があり、っそこでの佐川氏は、拍を割って振られながら、鳴る音はちゃんと、全楽が生命体としてその巨軀を揺すぶる感触を伝えた、っこれができない人は、管絃楽の指揮者のなかにもたまにいる、スコアのどこからリタルダンドが書いてあるから遅くなり、どこへア・テムポとあるから元へ戻します、っという事務手続っきり聞こえず、っそれが音楽にとって必然の伸縮なのだということを体現しえない人がだ、敢えてお名を出してわるくなければ、下野氏などは多分にその気味でいられる、おまえの身体へは人間の血が通っていないのかよっ、っという、

バーンズ《3番》は、作家が2人目の子を生後6月で喪うという悲劇に見舞われるなかで書かれ、3楽章はその亡児への盡きせぬおもいの音化とのこと、彼氏はさいしょの子も幼いままに亡くすという辛い人生の人であるが、フィナーレは苦衷を耐えて前を向いた快活な音楽で、同曲の完成直後には㐧3子が誕生したという、っその3楽章での佐川氏は、っとちゅうからハンカチを取られてのべつ鼻や口許を拭われ、手放せずにハンカチを手に持たれたままで振られており、っぼくは、年齢もおありだし、単に気管へすこしく異常を来たされたのかとおもっていたが、っちがった、終演後、アンコール前に彼氏がマイクを取られてすこしくお話しになると、この曲は、2人目の子供を亡くしたなかで書かれているんですよね、それをおもうととても腕を振れなくて、3楽章は練習もあまりしないようにしたくらいなんです、、、っとおっしゃりながら人目も憚られず嗚咽を漏らされる、っなるほどこれが泣きの佐川かというところだが、老年へ至っても依然としてさように烈しく感ずるこころをお有ちだというのは、っむしろ偉大なことであるかもしれない、

っもちろん、演奏はそんな感傷に流されて箍が弛んでいたのではなく、っむしろ達観冷厳と情熱との快い綜合であった、曲の書法は、っまったくのオリジナリティを実感せしめるかというと、ショスタコーヴィチなど、他の作家の影もちらつく気がしたが、っどの楽章も緊密に書かれており、っときおり、この木管の動きは、絃がいるならば絃に委ねる要素なのかな、っとおもわせることがあったが、40分の全曲中、絃を欠いたオーケストラ、っとの片手落ちの憾はほとんど懐かせなんだ、っこの編成で音色効果としても内容表現としても十二分に自足しており、っみごとに成立した一作品だと唸らされたものである、



っさて、っよるの開演までに3時間半あるので、王将へ寄り、っいま駅ロータリーの喫煙スペイスでこれを書いていて、っそのうちに2時間半ほど暮れた、暑いなか、っしかも喫煙スペイスは高いパーティションに囲われていて空気も籠り、っやっていられないが、っどうとか所感を書き切った、午の団体が捌け切って楽屋を明け渡し、っよるの団体が楽屋入りされて、舞台上でのゲネ・プロも2時間は取れるだろうか、ブラームスの、何番と何番とだったかしら、ったしかシムフォニーをふたつだとおもうが、っとちゅうときおり停めながら奏したにしても、本番前に2曲とも通しておくことは可能かとおもう、現にそうされるかはわからないが、

田中一嘉氏の棒、ユーゲント・フィルなる団体の公演である、午の充実に敗けない達成を期待したい、やはり管絃楽こそが団体器楽演奏の花形なのだ、っとおもわせてくれたい、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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荻窪、




水戸博之氏の棒、一橋大の学生オケ公演、済む、演目は、ショスタコーヴィチ《祝典序曲》、リムスキー=コルサコフ《カプリッチョ・エスパニョール》、っそしてチャイコフスキー《5番》と、ロシアものとしてもずいぶん派手な並びだ、

午前のみ仕事は、っまことに情けなくも今週も果たせずにしまう、っま、っゆうべけっこう遅くまで会社へいて、っそれで近来の宿題へはすべてケリを附けたので、っあさ起きるには起きたが、敢えて半日のために出勤せねばならぬ動機もなく、っただ、週明けからの武蔵野試掘のためにお役人へ1本電話を入れねばならず、っきのう掛けてみたが、博物館勤務でいられ、土日開館の金曜閉館で繫がらず、っそれでけさ、室から掛けて調査開始前の挨拶をす、



オケは、っまあよく弾ける部類であったとおもう、っが、中規模音場で、一寸したトュッティでも優に飽和するため、《カプリッチョ・エスパニョール》のさいしょの〈アルボラーダ〉冒頭附近など、金管、打楽器に消されて絃の主題が聴こえない、アンコールにグリーグ《ペール・ギュント》〈山の魔王の宮殿にて〉を演られたが、っそれが綜奏へ達した際も同様、Vnの刻みの主題がまったく聴こえない、

ショスタコーヴィチは、誰の演奏を聴いてもそうだし、っおひとりおふたり指揮をされる方に主部のテムポ設定をうかがったことがあるが、っいずれも可能のかぎり速くとおっしゃるのだった、っぼくは、っあのクラリネットの旋律美を味わいたく、っすこしくゆっくり走ってくれるほうがよいのだが、っそれを叶えてくれているのは、音盤では故・ヤマカズさんのもののみである、っそれがきょうの水戸氏はややおっとりとされており、オケのテクニークに鑑みての妥協かもしれないが、っあのくらいのほうがオケがしっかりと鳴るし、っきもちがよい、っただしもちろんのこと、ヤマカズさん音盤に聴く老匠の練達の棒と名うての楽団とによる細部の肌理細やかさは、若い指揮者と学生オケとには望むべくもなく、

《カプリッチョ・エスパニョール》は、上記のごと瑕疵こそあれ、ったっぷりとした音量で楽器構成の薄い中音量以下の部分もひびきがゆたかであり、っそれなりにたのしむ、指揮者にはもっといろいろとやっていただかなくてはならないが、

チャイコフスキーは曲頭から、クラリネットのみならず、絃もいっしょにレガートしてしまう、指揮者にとっても奏者にとっても、っそれが人情というものであろう、スヴェトラーノフ氏音盤や、っせんじつのポーガ氏の周到な譜読みにあらためて敬服せずにいない、

っその後もどこにも穿ったところはないが、2楽章の㐧2テーマの最後の発展では、率直に好い曲だなあとおもわせてくれ、っややほろりとさせらる、



っいや暑いねえ、、、っま、云っても詮ないが、っあすは午よるともに川崎、午はなんだか吹奏楽の公演で、っあまり興味はないが、っおなじ音場でダブル・ヘッダーという機会も滅多になく、切符を購う、っよるは田中一嘉氏の公演で、ったしかブラームスだったとおもう、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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初台、




松本宗利音氏の棒、東京シティ・フィル公演、済む、演目は、ドヴォルザーク《英雄の歌》、上野耕平氏を招いてミヨー《スカラムーシュ》と逢坂裕氏の《アルト・サクソフォン・コンチェルト》と、っそしてブラームス《2番》である、盛りだくさんで、ソリスト、オケともにアンコールなしでも、っいま21:20すぎまで掛かる、

っぼくはブラームス《2番》をぜんぜん好い曲とおもっていない、解説には定まって明るい曲と書かれ、っこないだ山梨でも森口氏はプレ・トークで同様におっしゃっていたが、亡くなられた宇野さんはかって、ぜんぜん明るくない、2楽章の主題も、なんであんなふうに乗っけから音が下がってくるんだ、っとくそみそに云われていて、っぼくもいまだに若くときにそれをたのしく読んだ影響下にあるのかとおもうが、全曲冒頭の基本動機にしても2音目は上がらずに下がるのだし、作家当人は生涯に書きえたうちで最美の旋律と自讚するらしいその2楽章の主題も、宇野さんならずとも、っぼくもあの音の下がり方は窮めて不健全と聴き、なんでもっとしゃきっとできないのか、男のくせにしやがって女々しい野郎め、っと唾棄したい、っあほなフェミニストに殺されそう、、、っだからこの公演の切符も購うかどうか迷ったのだが、果たして、来てよかった、周囲にノイジーなお客が2、3いて欝陶しかったとはいえ、っそれでも来てよかった、っとてもよかった、

松本氏の音楽人としての存り様が、っすごくすきである、先回のアマチュアとのブルックナーが、っぼくが彼氏を聴く初めであったが、っそのときからすでにして魅され、っこころを奪われたもので、っきょうもずっとすばらしい舞台姿でいられたし、っずっとすばらしい音が鳴りつづけていた、っこう愛惜すべき指揮者に殖えられては困る、行かなければならない公演がおおくなりすぎてしまう、

っまず、っどんな人のどんな曲でも、オーケストラのいちばん好い音、っいちばん快い音が鳴る、っきょうの近現代の作などは、オケがちゃんと弾けさえすれば誰が振ろうとしゃきっとした音に成るのであるが、先のヴァグナーもブルックナーも、っきょうのドヴォルザークもブラームスも、健康で、屈託がなく、聴いていて最も抵抗がなく、オーケストラっていいなあ、、、っとしみじみと再確認させてくれる音がしている、

東京シティ・フィルは、会によってはまだまだ限界を感じさせる楽団だ、っきょう客席へは高関氏がいらっしていて、っお弟子の晴れの舞台を拝まれるのか、っはたまたお目附けで、事後、楽屋で講評を垂れられたりするのかわからないが、彼氏が同フィルを振られたマーラー《夜歌》では、っまあ難曲でもあろうけれども、オケはぜんぜんひびきの懐が浅く、各部の接続はぎくしゃくとして、っじつに隙間っ風放題の脆弱なアンサムブルであったものだ、

っそれがきょうは、ドヴォルザークからまさしく快音である、曲は作家の新世界よりの帰郷後、生前最期の管絃楽作品といい、っなるほど、っややもすると単純すぎて、っもうすこしくタネやシカケが慾しいとおもわせないとしない彼氏の筆であるが、っここではごくごく熟達しており、構成としては、謂わばシュトラウス《ヘルデン・レーベン》をぎゅっと約めたようなもの、具体的の故国の英雄譚などへ取材しているのでなく、大恩あるブラームスの像を音化したとも、っあるは作家自身の生涯の表象とも解釋せられるらしい、っそして、マーラーが振ったという同曲初演時のメイン・プロは、っきょうとおなじブラームス《2番》との趣向である、不勉強なぼくはとうぜんながら初めて触れたが、っまことに曲の經緯をよくわかって聴いていられた、始めの勇壮な主題中には、絃に、え、なにそれ、っというすこしく奇異な和音が潜ませてあるし、っその後は楽想を遷る毎に転調の妙が鮮やかに伝わり、多彩な強弱、マルカートとレガートとの烈しい対比、中盤からは音構造もかなりに複雑となるが、オケはどの声部も恆にゆとりを感じさせ、っしたがってきりりとした音彩の発色はじつに繚乱の態である、っそしてその要には、松本氏の棒が存る、っあれこそ音楽の心棒にちがいあるまい、

っとちゅう木管にはたのしいポリリズムが聴かれたが、っそれは作家が新世界において《セロ・コンチェルト》で獲得した秘術である、っそしてジャジーな要素を孕むつづくミヨーや邦人作品とは、っこのポリリズムの効果的の活用という要素で共通するところがあった、全演目が松本氏のご所望ご提案であるのかはわからない、っまだお若いから楽団側の意向も反映したプロの可能性が高いが、っいずれ、入魂のライン・アップである、

ミヨーは3楽章制で、アルト・サックスのコンチェルティーノといった風附きである、冒頭からすぐに上野氏とオケとがいっしょに出られるが、アルト・サックスというのはあんなにも音量が出るものなのか、っここ初台は遙か天井が高く、っよくひびき、っじっさいオケは飽和する感触で鳴っているが、ソロは細かいフィンガリングの走句までぜんぶ聴こえている、近年、有名を恣にされているだけのことはあり、リリックな訴えの部分も含めて、っこちとら舌を巻かずにいない名手であられる、

逢坂裕なる人はぼくよりすこしく年長であるだけの方だが、終演後に舞台上から起立答礼を促されてみると、っぼくの2階席から見下ろす1階席のご当人は、っだいぶん頭の薄い方でいられた、っま、っぼくもすでにしてだいぶんおっさんだからね、17歳で独力で作曲を志向され、長じて藝大へ入られ、っご卒業はほんの10年前とのことで、っなかなか変則的のご經歴である、

曲は3楽章制で、ゲンダイオンガクゲンダイオンガクはしておらず、っむしろライトで、っしかし緻密にいろいろとやってあり、ソロは、主題以外は、っや、っどうかすると主題の一部も、っのべつ忙しく音階を上り下りしている、上野氏はここでも、煩瑣な分割拍だろうが引き攣りそうなハイ・トーンだろうがなんでもござれの藝当でいられ、満堂を黙らせられずにいない、

休憩で喫煙へ立って戻るところで高関氏と往き合うが、っおもわずに心内で、あんたよりもお弟子のほうがよっぽどか立派な棒振りじゃないか、っとの雑言悪罵を擲げずにいなんだ、

松本氏の棒は、近年の若人としては抜群に汚ない、尾高氏にも教わられているはずだが、っすくなくも軌道としてはその影響は絶無で、っむしろ研究員としてそのお背中を仰いでいられたことであろう故・飯守氏の無骨なお姿が髣髴とする、っただ、っどなたかの眞似事をされようというのではなく、っあれでしんからの松本スタイルでいられるのだろう、っぼくにすれば、綺麗に矯正される必要など微塵もない、っあの汚なさのままでぜんぜんよい棒である、袖から出られる際の歩き姿にしても終演後の答礼時の挙措にしても、っちっとも気取りがなくていられるが、垢抜けない青二才の風かというとどっこいそうも侮れなくて、先のブルックナーを振られているお姿に対してもその印象を有ったが、っこちとらどこか超然たる近寄り難さをおぼえる気がする、っま、っぼくの購いかむりかもしらんが、人知れず、求道者たるの悲哀を重たく重たく背負っていられるような厳しさが漂うのである、

っもちろん、鳴る音は清潔そのもので、ブラームスもけっして模糊として溷ったりはしない、っそれにしても、必ずしもこのまない同《2番》をしかしよろこんで音盤に聴くとしたら、っもちろんモントゥーも忘れてはならないが、っぼくの㐧1候補はいつの日もシューリヒト/シュトゥットガルト放響盤である、幸か不幸かその名を継がれた松本氏が、っきょうぼくの面前で、っじつにブラームス《2番》をお振りになったのである、

っその仮借なき一徹の造形は、ブルックナーにつづく偉大な達成であった、若き指揮者へ花を持たせむとされる東京シティ・フィルの面々の献身も感泪もので、っあらためて、っほんとうによい演奏会であった、

曲頭からファゴットがもう張り切られる、っこちとらは低絃から自然とホルンの1・2番へ耳を向けているのだが、背景のファゴットが浮かび上がり、え、そんなことやってんだ、ってなもの、っつづいてホルンの3・4番が吹かれる際も同様、主部へ遷移する直前でティムパニとトロムボーンとが交互に鳴る部分も、っここはベームが最晩年にヴィーン・フィルを連れて来日した際のライヴ音盤にゲネ・プロ音声が入っていて、巨星はトロムボーンの強弱と音色質感と、っそして和音とを気にして音を停めてやり直しをしている、っだからきょうぼくの意識もトロムボーンが澄明に鳴るかへ向くのだが、松本氏の棒は同時に鳴っているセロのアルコを指して、彼等がトロムボーン連とともにひびきを作るよう差配されている、っだから1楽章の序奏が済まないうちから、っぼくにはいまだかってない立体的のブラームス《2番》が聴こえる、

ブルックナーもそうだったが、っこの1楽章主部も、両主題間でテムポの落差をほぼ設けられず、っやや速い歩みのうちに一直線に進まれる、っその硬派な感触が欝然たるブラームス像を雪ぎ、っそれだけでも頗る好印象である、フォルテでの松本氏は烈しい腕の振りでいられるが、トュッティは轟然とせず、音色はうつくしく、ハーモニーは新鮮なままだ、っぼくはどっしりと鳴るオーケストラの音がすきだが、ブラームスの、っとくにちっとも明るくなんかない《2番》は、っそんな分厚いひびきで溷濁せるハーモニーなんぞにしてしまうのではまるでダメで、豊麗な音場にも全声部がほどよく分離して鳴っているきょうの手応えは、っそれこそ大シューリヒトの演奏も、会場で聴けばかようの鳴り方をしていたのではないかとおもい遣られた、

提示のリピートもこちとらウェルカムだったが、っそれは為されずに展開へ進む、行なわれていれば終演は21:30だ、主題がリレーとなるその2ndの掘り起こしは、っせんじつの森口氏も過たず叶えられていたが、松本氏も抜かりなく同パートを叱咤される、胸突き八丁での金管群の扱いも、っやはり騒音へは達しないが、っそれでこその威厳と格調とを具える、っここではホルン、トロムペット、トロムボーン、バス・トロムボーン、テューバが、っそれぞれ固有の音色効果を発揮し盡さねばならない、っその史上隨一の精華はあの目黒におく佐藤雄一/慶應医学部管であり、っまちがいなく、作曲初演以来で最も立派に鳴り渡ったこの曲の姿であったが、テムポも速く、っひびきもかるい松本氏は、っもっと淡彩の味である、

再現冒頭の2ndとVaとの宇野さん謂うところの夕映えの味は、っさしもの松本氏も奥儀の披瀝とはゆかず、っさらにさらなる年輪を加えていただかなくてはなるまい、っもっともっと聴く者の胸へ迫ってやまない音が出せるし、出さなくてはならない、出せなくてはならない、

っやり切れない2楽章も、っしかし曲の構成がすっきりと見通せる、松本氏はけっして大人しくていられるわけではなく、っむしろ曲の変転に連れて自然に感情を動かしていられ、っよってまんなかの激動の音楽はシュトルム・ウント・ドランクを刻印し、っだいぶんオーケストレイションを変じた主題の回帰はちゃんと、ああ、ああいう激情を經た上でのまたこの主題なのね、っという聴こえ方をする、

3楽章のトリオやフィナーレ主部で運動性を強調しすぎるのは、果たしてこの曲の再現として適切だろうか、竣敏を極めず、最後まで一寸おっとりとしているくらいがちょうどよい、っその点でも、っがぎごぎして汚なく、洗練せられない松本氏の棒は素敵だ、フィナーレは全体が単調なアレグロであり、細部細部へ密かに秘技、必殺技を挿し込めなくては眞に眞なる充実した聴き応えへまでは達しないとも云えるが、っぞんぶんにオケを発奮させられながらも、狂躁的に堕さず、っついにコーダへ最高のカタルシスを運んで来られた松本氏の造形には、必要にして十分のベイスが萬端整っている、っあとの問題は、馬鈴が容易に解決してくれるだろう、っや、容易ならざる鍛錬を、彼氏がこれから積み重ねられるにちがいない、



っさて、中央区の仕事へまともに手を着けられぬまま、次から次へと試掘試掘で、試掘も宿題が溜まるとひとつびとつ概要報告を作成してゆくのも一手間だが、っあす、っというかもういま聖蹟の駅の喫煙スペイスで日附も変わり、っきょう1日でおとついの板橋試掘の概報をちゃちゃっと片附けて、っあすは、杉並だったかな、ったしかそうとおもうが、水戸博之氏の公演、15時開演だったとおもうのでゆとりがあり、今週こそは土曜午前半どんで仕事をせむとおもう、来週からは武蔵野、吉祥寺の駅からすぐのところの試掘である、日曜も川崎で午后とよると同会場でダブル・ヘッダーなんだけれどね、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




甲府、




森口真司氏の棒、山梨響公演、済む、演目は、ブラームス《大学祝典序曲》、っまだ高校生という若生麻理奈女史を招いてメンデルスゾーン《Vnコンチェルト》、っそしてふたたびブラームスで、シムフォニー《2番》である、

甲府は、標高が高いらしく、来る間に耳が詰まり、っこのまま開演まで抜けなんだらと惧れるが、トイレへ寄って手洗いのところで鼻をかんだら抜けてくれ、っほっとす、開場とほぼ同時くらいに器へ着くと、っずらずらと器内の階上へつづく螺旋通路まで人集りがしており、っざっと見て2、300人レヴェル、っま、娯楽に乏しかろう地方の催事としてありうべきことで、っしかし去年は、コバケンさんという泰斗大家を招聘していてさえ、開場からだいぶん經ってからの入場であったとおもうが、2階の前方はいまださのみ埋まっておらず、っだからきょうその行列を目の当たりにしても、や、この人たちの大半が1階席へ吸い込まれるから大丈夫だよ、っと高を括っているとそのとおりで、悠々と2階正面最前列右寄りの通路へ接した席を得る、

暑くてかなわないので喫煙は開演直前と定め、っいったんロビーへ出て楽曲解説を読み、さてそろそろ、っとシガレットとライターとを取りに堂内へ戻ると、森口氏がプレ・トークをなすっており、っいくらか聞き逃す、口調はいかにも穏やかなもの、っみごとな禿頭でいられるため、っかなりの年配者かと見えるが、っお歳はやっと還暦をすぎられたところである、気力充溢の仕事人であろう、っちなみに喫煙は、去年はテキトーな場所でこそこそと行なったが、門扉を出るとあちらへ20mの表示があり、っどうとか陽差しを凌げる物蔭へ灰皿があった、

オケは、去年、コバケンさんとのご共演を聴いていると、アマチュアとしていわゆる中の上の下か、っまあ辛く云うとそれ以下かもしれない合奏能力であったが、っそれはコバケンさんがどんな楽団をお相手にも、っいわばアイディア過多のリハーサルをなさるからという面もあるかとみられ、森口氏はもっと、アンサムブルを組み上げることそれ自身をして音楽を音楽あらしめる、っという行き方の人でいられるため、中程度に弾ける団体、っもとい中程度にっきり弾けない団体とでも、っまずまずの達成の望まれたところである、

っその予断は、っそうだなあ、っほぼ的中したともいえるが、オケにはいま一歩、錬成というか、発奮というか、っお客を面前に楽音を発しうるよろこびを満々と謳歌せられたかっただろうか、森口氏はあれで、っいつもながらのすばらしい棒を振られている、手堅い、っとの形容がネガティヴというか、イロニーでもなければ失礼にも当たらない、っさようのいちばん信頼の置ける職人でいられる、楽団の技倆が一定以上ならば、演奏会も時を追う毎に、っその意気に感じ、棒の求める造形を叶えむとする楽員の血の昂ぶりをこちとらも篤く実感するものだが、っそれがきょうは、っざんねんながら始終それらしい音が鳴るっきりで、っじっさいにはアンサムブルは最後の最後までよちよち歩きの脆弱さを返上しえなんだ、アマチュア楽団を渡り歩かれる指揮者には、っこうした精度の団体と辛抱しいしい仕事をされねばならぬこともままあろう、っそうした森口氏のご苦労もありありと偲ばれる午后であった、

《大学祝典序曲》が開始すると、っすでにしてオケは非力だ、弱音でも質量の高い音を発するだけの腕がなくていられ、デッドな器もこのひびきをいささかも扶けてくれない、鳴っているのは糸瓜のごとすかすかの音響なのだが、森口氏はしかし丁寧に、っかつ、っこの楽団の技倆の程度を反映してか、全体にゆっくりとしたテムポを採られる、っほんのどなたかが音を外されたり出なかったりされるっきりでもこちとら目を蔽いたくなるばかり、色に乏しく、薄いひびきがどんしゃりの器へ虚ろに鳴っており、っしかも、っどうも舞台上の音が客席へ来ないタイプの音場であり、っもこもこと籠った音で、フォルテになっても致命的に音量が足りない、っぼくなど、抜けたとおもっていた耳がいまだ抜け切れていないのかと訝ったほどだが、っあれならば2階などではなく、っほとんど舞台へかむりつきの位置へ坐したほうがよかったのではないか、

っそれでも森口氏の練達はそこここできらりと光り、謂ってみれば、っすばらしい《大学祝典序曲》の1/2か1/3スケイルのレプリカを聴いているようなものだ、っやはりすばらしい造形なのだと自己暗示に暮れることもできれば、実物大を聴けなければ本格の本物ではない、っと冷酷になりたくもある、

メンデルスゾーンのソリスト、若生女史はじつにきりっとしたシャープな奏楽で、前途も有望であろう、っどんな走句も伴奏もすべてオケと並び立って聴こえ、っきのうソリストのお声がときに完全にオケに掻き消されてしまうマーラーを聴いたその直後だけに、っこのときばかりは瘠せぎすで潤いのないオケのひびきも怪我の功名と擁護できないではなかった、

前プロを熟して硬さも取れてくれるかと期待したシムフォニーだが、冒頭から脆弱さは変わらず、㐧1テーマがクレッシェンドしてもやはり場内を満々と充たすごと量感は望むべくもない、1楽章の展開あたり、棒は眞に細を穿つ大巨匠のそれなのだが、音はどうしても傑出せるブラームスのしかしレプリカへ留まる、

フィナーレ再現の㐧2テーマまで来て、点画の硬いはずの森口氏の棒も、もうここまで来たんだっ、ぐわんぐわん揺れるようなグルーヴ感を出そうよっ、それを出さないままで了わってしまうのかっ、っと右手の棒のみで全楽を掻き混ぜるごと全霊の軌道を示され、っお気持ちは痛いほどよくわかる、余計な力が入っていない、入れたくとも入れられないため、コーダまで音が濁らず、爽快ではあるが、棒が夢に見ているのは、っもっともっと波瀾萬丈の音響の坩堝であったにちがいない、

来年のこの楽団は、和田一樹氏とブルックナー《8番》をされるようだ、っぼくにすれば、っきょうのようなプロを和田氏に任され、ブルックナーでこそ森口氏を招かれたいところだが、っどのみち、っこのアンサムブル、っこの器では、っとても充実の伽藍を建築すること能わないであろう、



ブルックナー《8番》といえば、っこないだの桜木町におく松本宗利音氏の同曲公演のうち、っきのうかおとついかに前プロのヴァグナーがYouTubeへ上がったので、本プロも一両日中に公開せられるのではないか、動画でもあのすばらしさを追体験しうるか、期して待つとせむ、

っそしてお次は、木曜に初台で、っその松本氏公演、っかって研究員をなすっていた東京シティ・フィルとのご共演で、ったしかそのメインもブラームス《2番》ではなかったか、っあのお若いに似合わぬおおらかな棒の下で、ブラームスがのびのびと深呼吸をしてくれたらとおもう、

、、、っこっから帰るのも一苦労なんだよ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




錦糸町、




柴田真郁氏の棒、ザ・シムフォニカなる団体の公演、済む、演目は、ヒンデミット《画家マティス》とマーラー《大地の歌》とであり、後者のソリストは林美智子女史と櫻田亮氏とである、

っその前に聖蹟の駅前のビル最上階へある器で、オルフ室内奏なる絃のささやかなアンサムブルの公演を聴いてくる、っほんとうは午前は仕事をする心算だったが、叶わず、11時ころまでごろごろしていて、っそのわりに午もよるも器で睡かったが、っまたもiPhoneのiTunesとの同期に手間取り、13:30前にもなってやっと外出、チャリンコで聖蹟まで往き、開演まで10分ほどっきりなく、シガレットは服めずに入場、

開幕と閉幕とに全メムバーで揃われ、間はVa4声やらゲストにピアニストを招いてピアノ・トリオやらVnとVaとのデュオやら、時代はバロックから近現代まで、っそれらも全曲を演らず、抜萃、

各声部、筆頭の方は、プロフェッショナルではなかろうが、地域の音楽教室の、教わる側ではなく教える側、っといった風情でいられ、弾き姿がとてもうつくしい方がおひとりおふたりいらしたし、っよって鳴る音も、狭隘な音場に相応の粗野なひびきではあるが、っしかし腰があり、直接音直接音した倍音はぎらぎらと眩しいばかりである、

演目毎に奏者各位がマイクを取られてお話しになったこともあり、済んで16:20ころ、っやや慌てて駅まで降りて京王へ乗り、錦糸町着は17:35前、無理無理シガレットを服んでから器へ入ることもできないではないが、億劫なのでそのまま入場、

ヒンデミットは、過去に何度か実演を聴いているが、っなにをどうたのしんでよいのかさっぱりわからない楽曲である、音楽がわからないのではなく、素人耳に聴いても、魅惑的の主題はひとつたりとてありゃしないし、書法もべつにぜんぜんおもしろくもなんともない、っとおもえるのである、っあんな曲でも、指揮者によっては聴き手をうんと唸らせる演奏が可能なのだろうか、っとても無理だとおもうが、

っそのつまらなさのせいで、俯いたが最後、睡魔に絡め取られ、大半の部分をちゃんと聴いていなんだ、オケはとても巧く、柴田氏の棒は硬軟自在で快かったのだが、

マーラーは、巷間云われるように、っそもスコアとして、っしばしばソリストとオケとの音勢の相関があまりにもアンバランスであり、作家の生前に彼自身が自演する機会があれば改訂がなされたに相違ない、っとのことだが、っきょうの上演条件は、っその作品の瑕疵がもろに出た恰好で、1楽章は、広い音場、っちゃんと音量を出せるオケ、対して盛大に声を張り上げるお心算のないテノール、っその綜合により、冒頭からオケっきり聴こえず、ソリストはそれへ完全に掻き消される、っだから音楽的になんのこっちゃ意味がわからん、っこれは4楽章のまんなかの部分においても同断であり、っそこでは指揮者も抑えた棒を振られ、オケの面々も音量を出すまい出すまいと弾かれるのが観ていてわかったが、っそれでもぜんぜんダメであった、

っただし、オケは、作家当人が音化可能であるかを危ぶんだほどというその複雑なスコアを前にも絶えず余裕綽々で、っいつも最高に音彩が冴え渡っているし、柴田氏も、っとくに終章とちゅうのしばらくオケのみになるところなど、っじつに入念な棒を振られ、っその怪っ態な主題群とオーケストレイションとにあらためて、よくもまあこんなうらぶれた調子を音にし切ったものだ、、、っとの呆れ半分、っおどろき半分の気味を嘗む、



っさて、っあすは甲府まで遠出をし、森口真司氏の公演、去年コバケンさんのお振りになった、山梨のアマチュア団体である、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




参宮橋、




ったほうの佐藤雄一氏の棒、日大管公演、済む、演目はスメタナ《我が祖国》〈ヴルタヴァ〉、ビゼー《カルメン》㐧1・2スートから諸曲、っそしてブラームス《2番》と、っいかにもアマチュアアマチュアしたライン・アップである、

小柳英之氏の公演の際にはあんなにも閑散としたそのおなじ堂内が、っけっこうな人で埋まっている、スメタナが始まると、っぞんがいアコースティックも快く感ぜられるし、プロフェッショナルだとまるで楽器1本で吹きつづけているのかとこちとら錯覚せるほどにシームレスに繫がっていってしまうフリュートは、っふたりして分担しているのだとよくわかり、っかえってたのしい、クラリネットも巧くなく、主部へ遷っても佐藤氏の造形にはどこにも取り立てて云うべきことはない、

ビゼーもブラームスも同様と云えばそうなのだが、前者のラテンの感触は、っこうしてあらためて聴くとやはり心身ともに沸き立ち、っうきうきする、ハープは客演であろうからとうぜん安定しており、対して学生として一世一代の大舞台であろう〈インテルメッツォ〉のフリュートでは、っこころを籠めた歌われ方にほっこりとさせられずにいない、クラリネットへバトンを渡された後のおふたりの絡み合いにしてもそうである、

単純そうに見えるこんな曲でも、アマチュア楽士にしてみれば難儀があるのだなあ、っといろいろと気附かされる、ったとえばタムブリンは、フィンガー・ロールをまいかいしくじりなしに定めるということができなくてしまわれる、N響のパート別楽員交歓みたような動画がYouTubeへ上がっており、っそこで打楽器はあの小柄な別嬪がセロの男性へあれこれ指南をされるのだが、セロの方はフィンガー・ロールを巧くできなくていられ、っしかしのち、別のヴァイオリンの男性、ヴィオラの女性はすぐに習得してしまわれ、セロの男性は悔しそうに再挑戦、っとちゅうからどうとか骨を摑まれたようである、っそれを観ていても、あれをいざ楽曲の演奏中に過たず定めるには、日々の鍛錬が肝要なのに相違あるまい、っとおもわされる、っそして、打楽器は目立つだけに、っほんの1音しくじるっきりでも、手痛い失態である、っじつに心臓へ毛の生えている人でなければ務まるまい、

ブラームスは、オケの精度としてもそうなのだが、指揮者につよい表現意志を望めないため、1楽章の提示までなど、巧くない各パートがてんでんばらばらに音々を鳴らしているふうで、これをフィナーレまで聴くのかよ、っとややげんなりするが、展開以降、個所によっては衒わない棒、奏楽が眞摯に曲趣を当てる場面もあり、っすくなくもまずまず音楽として聴いていられた、



っあすから3日間、多摩市の試掘で、社用車は別棟へ停めてあり、チャリンコで別棟へ出勤して、現場までは車で3分5分、っさもしい話で恐縮だが、自室近くの駐車場へ停めて、車で直接現場へ往ってしまうのでは、交通費を稼げない、一旦チャリンコで別棟へ出れば、っその分の電車代バス代が支給せられるのである、駐車場代とぼくの別棟までの交通費とでは、後者のほうが倍額以上で、会社にとっては迷惑な話なのであるが、っま、っそのくらいは許してくださいよ、社内では、人によっては社用車通勤の際にも電車代を請求している人もいるらしい、っしまったな、っぼくも当初よりそうしていればよかった、

熱中症対策も義務化せられた当節、作業員さんの健康管理には細心の留意を払わねば、っしかし、っおとついの会議で聞くには、始業前に作業員各位の体調を訊くようにせよ、っということである、っつまり、っもしか誰かが熱中症を発してしまった際に、っあさの段階で体調を訊くなりしていないと、業務管理者としての責任問題になるというのである、世知辛い話だ、労働者のためと称して国家としてあれこれの規制を巡らせることはしかし、職場を同じうする者同士の猜疑心を高め合うことに繫がりはしまいか、人は、っまずは自己責任で生きるべきである、誰かが熱中症の憂目に遭った際、管理者は懸命に処置をする、発症者当人は、俺のせいで迷惑掛けちゃってすみません、っと恐縮している、っそれがあるべき労使関係、人間関係ではないか、今次の規制は、熱中症を予防し、っもしかの発症者を救うに寄与するかもしれない、っそうあってくれたいとはおもうが、っしかし引き換えに、職場の人間関係へ目に見えない打撃を與えはしないだろうか、規制の世話になぞならなくとも、っぼくらはともに肩を並べて働く者同士、信頼関係を築いている、築けているのではないのだろうか、法律なるものが、っその結束へ罅を入らせないことを切望する、熱中症にかぎらず、っなるがたけ自然な人間関係の裡に人生をすぐしたいとおもうならば、人は国家へさまざまの規制を法律を要請すべきではない、こっちでなんとかしますので、っという態度こそが肝腎である、それではトラブルに際して一律の対応ができない、っと云うならば、一律の対応なぞする必要があるのか、っとぼくは応じよう、当事者同士が納得するのであれば、同種のトラブルへの対処も、ケイスごとに区々であっておおきにけっこうではないか、前おなじようなことがあったときにはこうだったのに、こんどはこうなのかよ、っというくらいの落差には、人は人生航路上で能うかぎり耐えながら生活すべきである、っそれが厭わしさに一律の規制を安易に頼めば、っついにはあれも規制これも規制、っそれも罰則どれも罰則、窮窟なよのなかを結果してしまう、っいざ箍を嵌められてから、生きにくい時代になったもんだ、っと不平を垂れるならば、平素から、事態事態に応じて臨機応変に振る舞わねばならぬ心労くらいには、人は耐えなくてはならない、画一的のルールが定まっていてくれたいと甘ったれるから、っけっきょくは当のルールに首を絞めらる仕儀へと陥るのである、人よ、主体性を有って日々を生きようではないか、っぼくらの人生の主人公は、っぼくら自身なのである、他人にルールなぞ定めてもらわなくとも、っぼくら自身の責めにおいて、事態事態を解決しながら生きるのである、っどんなに面倒なのだとしても、っそうすべきなのである、他所へ主体性を明け渡してしまうよりは、

っさて、っお次は土曜、夕から錦糸町でアマチュアのマーラー《大地の歌》公演なのだが、午にもなにかないかとおもうと、初台では読響が、ギロッポンでは新日本フィルが、っそれぞれ公演を有っていられ、っいずれも魅惑的のプロであるものの、っしかし行く予定にしていないで聴くには切符代も高く、躊躇せずにいない、っそこでアマチュアも含めて他の機会を探ってみるに、聖蹟でチェムバーの団体による無料公演があり、会社最近所での公演というのもたのしく、っそれへ行ってみることにす、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




流山、




っぼくがいつも聴いているほうの佐藤雄一氏の棒、流山フィル公演、済む、演目はハーティの編になるヘンデル《水上楽》と、っきのうにつづきチャイコフスキー《5番》とである、

っこの演目ならば、佐藤氏がいつものとおり牛歩であられ、っなにかアンコールがあったにせよ、終演は16時を切ることであろうと踏むとそのとおりで、流山か流山セントラルパークか、っどちらでもよいのだが、往きは後者から来、勝手もわかっているのでそちらへ戻るに、検索すると参宮橋着時間にはだいぶんゆとりがあり、夕の開演前にこないだ発見したあの喫煙スペイスをしばし利用していらりょう、

流山フィルは、会によってコンディションにややムラがおありなのと、っなんといっても旧式の多目的ホールを画に描いたごとどんしゃり器を本拠とされていることとによって、比較的によく弾けて、っかつ演目と器との相性がよいというときでなければ演奏の成功は望みえないが、っきょうはわりに成功の部類か、

っまず、現代に編曲せられているにせよ、バロックに始まったのが奏功で、各位、落ち着いて音を出されており、粗野なアコースティックでぎっしりと集う絃のアンサムブルも快い、

長丁場のチャイコフスキーは、っとくに2楽章など、っどうしても奏楽上の粗が目立つが、1楽章全体あたり、っむしろ一大金字塔の趣であった、佐藤氏の造形としては、同楽章の主部の開始こそ極めて遅いテムポであるが、イデー・フィクスの序奏はあっさりとしていられ、音も無闇に引き摺られていない、っそれによる音像群の定位、音色の調合ぐあいは、っきのうにつづく達成である、

、、、っあ、っそうか、参宮橋なんかまで往かなくとも、北千住から千代田線なら、代々木公園で降りればよいのか、八幡でばかり検索しており、っそれだととうぜんながら上原から引っ返してくる路線が案内せられるが、公園と八幡との駅は、っまったくおなじ位置に在るのである、

1楽章の㐧1テーマがトュッティへ発展すると、狭い器はがたぴしと臨界へ達してしまうが、っしかしよく融け合わずにすべての声部が素っ裸で聴こえるそのテューバ、バス・トロムボーン、トロムボーン、トロムペット、ホルンの剛毅なる林立の手応えたるやいかばかりか、っそして絃もこれらに塗り潰されてしまわれることがなく、遙か仰ぎ見るごと、世に最も偉大なる音響の顕現見参である、

㐧2テーマへの遷移は㐧1テーマのテムポのまま、㐧3テーマの、木管とホルンとでリズムの異なるシグナル動機を通って、ヴァイオリンへ歌謡楽句が出たところでもとより遅い速度はなお撓む、っこころゆくまで歌い抜かれるそのテーマは、クレッシェンドすると激情の迸りそのものである、

展開は、っきのうポーガ氏の練達の造形でひとつ触れ漏らした、㐧1テーマの動機で、間へ8分休符か、っちがう16分休符か、っそれが入る型と入らない型とを明確に描き分けられており、流石と唸らされたものだが、楽団の精度がちゃんと高くなければ、っそこまでの解像度を獲得するわけにはゆかない、

っその代わりと云ってはお釣りの来るどころではないきょうの耳うれしさは、再現冒頭のファゴット1番による㐧1テーマである、奏者の女性はまことに名手でかつ篤いおもい入れを有たれ、っここ以外にもたびたび名場面を刻印されたものだが、っこの1楽章再現冒頭こそは、っあきらかに、過去ぼくの聴きえた数多の演奏のうちで隨一、っそれも、余人の一切を遙けく突き放された隨一であられた、っなんという歌のこころと、っそれを具現しうるだけのテクニークとであろうかっっっ、

2楽章のホルンは、大の健闘か、再現におく㐧2テーマの発展は、佐藤氏の同曲を初めて聴いた際には、頂点へ向けて狂おしいアッチェレランド、っそして頂点を打つ直前でがくんと急ブレイキ、っぼくは泪腺を絞られるどころではなかったが、っきょうは同個所でのテムポ操作はさのみオーヴァーではないし、っにも拘わらずあまり巧く定まっていないため、泣かされるほどのことには至らず、惜しい、

フィナーレは、マエストーソでのヴァイオリンを都度、弓を返させ、フレイズの頭は必ずダウンから入らせられる差配、っあれほどはっきりとそれをなすっていれば、っこれまでに複数回聴いているぼくもそれへ気附いているはずで、っおそらくこんかいの新機軸であったのだろう、効果のほども覿面で、ったしかに同個所は、ムラヴィンスキーを筆頭に全部びよーんと1節に繫ぎっ放しで歌ってしまうということがしばしば行なわれているのだが、っそれだと同型のフレイズ毎にしかし頭がダウンになったりアップになったりしてしまうのかとおもい、奏楽上、不首尾といえば不首尾である、佐藤氏のご英断を讚えたい、

っけれども、っその後のトロムペットによる模倣はダメだ、同部分にあり勝ちの轍をもろに踏まれ、始めのうち、楽器にとっての音域の低さの裡に音を潰され、凱歌の華々しい覇気を発しえずにしまわれる、同団の同楽器は以前からその気味でいられるが、っここのみならず全曲に亙り、せめてもうほんの一声っきりでも綺麗な音色が出ないのか、っとおもわせる、

っそれにしても、っではきのうのポーガ氏と広響とは、っいったいどのような差配によって、っああした勝利を獲得されたのであろうか、っまったく秘蹟というべき音の準備が為されたに相違あるまい、っそうした周到さときょうの当該個所の奏楽の杜撰さとではまったく比較に価せず、世界中で掃いて捨てるほど演奏せられてきたシムフォニーであっても、指揮者にとっても奏者にとっても、為すべきことは永遠に盡きない、

コーダ最後の4音は佐藤氏も、っどの程度の溜めぐあいでどこまで腰を落として終結せしむるのか、っその指示がかすかに曖昧となられた嫌いで、っちゃんと、だだだだん、っと4つの音が明確に聴こえずに了わってしまう、最後の最後まで気を脱いてはいけない、

っとまれ、っまずまず立派な演奏ではあった、



っさて、代々木公園から夕の器まで来た、指定席なので開演直前まで喫煙スペイスへいられるが、午はさほどでもなかったが、っいまは西陽に差されて暑くてかなわない、

演目はまったく知らない、っこちらの佐藤雄一氏はいちど聴き、っぜんぜん凡庸な人なので、っとくになにも期待していない、最もつよく感銘を得むがためには、誰に対しても、最も残酷な耳を携えて聴くべきである、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




広島、




広響公演、済む、っがんらいはフェドセーエフ翁が振られるはずが、アンドリス・ポーガ氏による代演となって、演目は、っいまをときめく角野隼人、児玉隼人、、、っそうか、っご両人同字同名でいらっしゃるのか、両氏を招いてショスタコーヴィチ《1番》コンチェルト、っそしてチャイコフスキー《5番》である、

っゆうべは、会社は半期にいちどの全体会議で、賞与がおもったよりも高額で、気を好くす、事後、聖蹟の駅前で悠長ボスと呑んで帰宅す、会社へは《雨月、、、》くんや野帳くんもいたが、っふたりともきょうが健康診断というので、呑みに附き合うというわけにはゆかなかった、

っどうしてもどうしても悪癖で、帰宅して、っこんかいは洗濯をする必要はなかったが、音源のiPhoneへの同期はやりたくて、っとちゅううとうとしもするが、っけっきょく明方まで居室の椅子へいてしまう、っそれから浴室で散髪してシャワーを浴び、5時半にもなってようやくベッドへ横たわる、2時間とすこしく睡て、8時すぎに起きて身支度、8時半すぎには外出し、9時前に多摩センから小田急へ乗る、町田では、っふつうに歩っても検索したものよりも1本早い横浜線へ乗り継げ、っお蔭で新横では喫煙スペイスを利用しうる、

3時間半ほどの長距離移動だが、っまた乗車後すぐに崎陽軒のシウマイでビールをやり、公演時の睡魔退散のため、意図してうつらうつらとしつ、広島まで来る、広島で降車後は、器まで歩って半時間から小1時間というところで、っきょうはまだしも全国的にすぐしよいのか、っそれとも広島のこの時期はこうしたものなのか、暑さも殺人的とまではゆかず、っゆっくりと歩ってやや発汗する程度である、

器は、例の悪名高い碑文のある公園のその碑文の脇のものであり、中規模の堂内で2階バルコニーの右翼後方へいたが、舞台を親密に感ぜられる音量感、音像感である、広響の実演は、ったぶん初めて聴いたはずで、絃のみのショスタコーヴィチからじつに精妙な発音発色、チャイコフスキーで管打を加えてもすべてのパートが落ち着き払って鳴られており、っさりとて果敢さに不足する守勢との憾もなく、っずっと安心して聴いていられた、

棒のポーガ氏は、熊みたような風貌の大男だが、対してじつに滑らかな軌道の振り姿でいられ、音の差配も丁寧にして細やかでいられる、チャイコフスキーはたしか、曲頭のイデー・フィクスは、クラリネットへはスラーが架橋せられているが、絃は素っ気なくオタマジャクシが並んでいるっきりである、スヴェトラーノフ氏の例の来日公演からご帰国後、ソ聯崩壊以降に彼の地で再録せられた同シムフォニー全集の同曲では、っその橋のあるなしのメリ・ハリが大強調せられており、辛うじてこの曲はスコアを有っているぼくはそれを開いて同盤を聴き始めて、あっっっ、っといきなり指揮者の仕事のなんたるかをおもい知らされたのであった、っきょうのポーガ氏は、っそのスヴェトラーノフ氏ほどではないにせよ、エスプレッシーヴォの主旋に対して絃はすぱすぱと音を切らせていられ、おっ、そうそう、スコアはそうなっているんでした、なかなかやりますな、っとぼくも俄然うれしくなる、

主部は未踏の白雪を踏み締める絃の足音で開始するが、ポーガ氏はそれをかなりゆっくりと、っしかも最弱音で行なわれる、㐧1テーマのクラリネット+ファゴット→フリュート+クラリネット、っそして木管は背景へ回っての絃による模倣まで、っどうもよのなかには各楽器毎のひびき、音色がぴたりと定位しない奏楽がおおく、っそれはクラリネット、ファゴット、絃5部による序奏にしても同断であるが、っさようの名状し難い独得のむつかしさを有つこの曲において、ポーガ氏は強弱、音勢の相関を冷静に見渡され、チャイコフスキー《5番》というあの曲の姿がほんとうによくわかる音を鳴らされる、っその後のクレッシェンドはまだまだ全力を振り絞られず、快音の部類へ留めていられる、諾なる哉で、全曲初めてのトュッティからもうはや轟音を発してしまっては、見通しもなにもあったものではない、

㐧3テーマの絃の歌は、ムラヴィンスキーとおなじ個所で弱音へ落としていられるが、っそこはスコアはどうだったろうか、他の大半の演奏では、っそこでさように強弱が操作せられるのをあまり聴かないから、っなにも書いていないのかもしれない、っのち発展して、高絃はテーマ冒頭の木管のシグナル動機、管打が㐧1テーマの律動型を同時に鳴らす山場は、っいちど弱音へ落としてから漸増せしめていられたが、広響の応ぜられ方もすばらしく、っその弱音へ落ちた際のこちとら宙空へ放り出されるごと体感もスリリングである、

2楽章以降も、っかかるよく目立つ表現こそ鳴りを潜めるものの、曲の姿を瞭然と体現するうえで、絶えず細やかな意匠が働いており、っじつに職人藝であられる、フィナーレ最後のマエストーソ、っいよいよ主題をトロムペットが担わむとするに際して、ポーガ氏は両の掌を下へ向けられて、吹き過ぎないでね、っというアクション、観ていてぼくは、え、そこは乗っけからしっかり吹かないと、始めのうちトロムペットにしては音域が低いので、彼等が吹き始める瞬時に客席では、あっ、ダメっ、トロムペットがよわいっ、という不足をおぼえるんだよな、それを吹かない前から抑える指示なんか出して大丈夫かいな、っと憂慮を募らせたのだが、広響のおふたりがどのような吹奏を為されたのかといえば、ったしかにマルカートではなくレガートかつエスプレッシーヴォ、っにも拘わらず、っそれが他の楽器に押されることなく、っちゃんと全楽の頂点で燦然と耀いていられたのである、っぼくはまったく愕いて眼を剝き、かああ、これはやられた、1本取られた、っとその藝当にたじたじとなるのであった、

ショスタコーヴィチは、角野氏のピアノは、彼氏の高名に比してそこまで傑出した存在感があるようにはぼくには聴こえなんだが、っどうなのだろうか、っむしろ、殊に1楽章においては、っせわしい楽想へ過たず応接せむとされるあまりに打鍵が硬くなり、っときにゆとりのなさ、っひびきの奥行きの浅さをおもわせたし、っそうでなくとも、音色、タッチの質感が、っもっと幅広く、っかつ多段階に変容してよいはずではないか、

児玉氏というか、青年のラッパは、有楽町で引退直前の井上キーミツとのご共演を聴いており、っまことに滑らかな耳当たりなのだが、っきょうもおなじ、っしかし、ロシア音楽ならばときにもっと劈くごと鋭さも慾しいとおもうのはないものねだりであろうか、彼氏は読響の辻本氏にもお習いのようだが、っおもえば、っあのロズージェストヴェンスキー氏の最期から2番目の来日時に、奥方のソロで同曲を演られた際のトロムペットは同氏であられ、っそのときにもぼくは同種の不満を懐いたのではないだろうか、日本人にロシア人とおなじような吹奏はできないよ、っと人は云うかもしれないが、っそうだとしても、っそのハンディキャップに対してもなにがしかの手立ては講じましたという無駄な抵抗の跡くらい垣間見せてくれたい、っふつうに柔らかな、剣の立たない音でばかり吹いて得々としているというのは、一寸どうなのだろうか、

アンコールは、ソリストは、っまず角野氏がおひとりでちゃらちゃらしたのを演られ、次いで児玉青年も加えて、っあれは誰のだったかしら、《アヴェ・マリア》、っその際の児玉青年は、っとても真鍮管を吹奏した音とは聴こえず、っほんとうに人声が唄うようであり、っすばらしかった、オケは最後に《、、、オネーギン》〈ポロネイズ〉を演られたが、っそのまんなかの木管の主題を享け取るセロの音色たるや、っほとんど人智を離るるごとであった、



っさて、っあすは、っなんと午もよるも佐藤雄一氏の公演、同姓同名の別人同士でいられるが、以前にもおなじことがあった、っそのときにはぼくが睡すぐしてしまい、っいつも聴いているほうの佐藤氏を聴けなんだのであった、同日の公演というのもたぶんまったくの偶然で、っまさかにお互いに意識されてわざとぶっつけられているということもなかろう、月曜から多摩市の試掘で、社用車が自由になるため、っまた全行程を車で行ってしまおうかともおもうが、午のいつもの佐藤氏公演が流山で16時前後に済み、ったほうの佐藤氏公演は参宮橋で18時開演であり、日曜の夕に2時間で流山から渋谷までの車移動は、っできないじゃないかもしれないが、っかなりにリスキーとおもい、大人しく電車移動とした、っそれに、車移動にすると、公演事後にこの駄文を書く時間をまるまる作らねばならず、っそれだけ帰宅がどんどん後ろへずれてしまう、電車ならば、移動中もぼつぼつ書くことができる、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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