ざっかん記 -2ページ目

名古屋、栄、




高関健氏の棒、、、っは持たれず、名古屋フィル公演、済む、っとはいえ、主役は同響コン・マスのおひとりで、っほんじつのソリスト、荒井英治氏であられる、演目は、ショスタコーヴィチのコンチェルトを《2・1番》の順で開閉幕へ配し、後半の開始にはシチェドリン《ロシア写真集》、全何曲の作なのか識らないが、っうち㐧2・3曲を、っこれはきょうが本邦初演であったとのこと、絃合奏の作で、っここへはソリストは参加されないが、っしかし撰曲は荒井氏とのこと、

当初は実家へ顔を出して来むかとおもっていたので、往路は新横7時発などという新幹線が購ってあり、18:45開演の心算だったので復路は名古屋21時すぎ発で押さえておいたが、折悪しく、っゆうべは遅くまで仕事のキリが附かず、23時凸凹ころにようやっと聖蹟別棟の門扉を閉めてチャリンコで帰り、室の目前のファミ・レスは23:30LOの0時閉店でゆとりがなく、別棟の近くのおなじ店はもっと遅くまで開けているので、っそちらへ寄り、帰宅して1時前ころか、っいつもの悪癖、作業着姿のまま居室の椅子で睡りこけてしまい、っはっと目覚めて4時ころ、5時すぎには玄関を出ねばならないのだが、っほんの30分、ベッドでごろんとしたいとおもい、アラームを掛けて寝室へ倒れるが、敢えなく次に目覚めたのは5時半ころ、っなにしろ前夜から作業着姿のままのため、身支度はまずシャワーを浴びるところからなのであり、っまったく間に合わない、差額なしで別便への変更ができたので、新横11時前くらい発の車輛を予約し直し、っついでに復路も19時すぎくらいのものにし、8時半ころまでもういちど睡る、起きてシャワーを浴び、新百合、町田經由で新横へ来て、無事に新幹線へ乗る、

っが、っぼくの予約した席へは老婦人がいられ、お間違えではないですか、っと声を掛けると、っその方は通路側、っぼくが窓側なのだった、っご婦人が切符を検められる際にぼくもいっしょに覗き込むと、京都までいらっしゃるのがわかり、名古屋で降りるぼくは彼女にどいていただかなくてはならず、ぼく、名古屋で降りますので、っと断わっておいた、結果として、っこれがさいわいした、恆のとおり着座後すぐに崎陽軒のシウマイでビールをやり、YouTubeから落とした服部/井上/N響のきょうと同演目を再生しつ耳で聴いていると、っやはりまだ疲弊していたのだろう、《1番》は終わりまで聴いた記憶があるが、《2番》の中途で睡りへ堕ちてしまい、肩を叩かれて覚醒すると、名古屋の手前でご婦人に起こしていただけたのだった、っあれで彼女が初めから正しい席へいられたら、っぼくも彼女へ降車駅を告げることがなく、っそのまま京都か新大阪まで睡すぐしたかしれない、っよしんばそのばあいでも、取って返して栄の開演へは優に間に合うのだったが、

鄭重に礼を述べて降車すると、名駅へ降り立ってまずもって足を向くべきは椿神明社であり、行って首を垂れ、柏手を打つ、松井石根大将が祀られているのである、

っきょうは暑さはさほどでもなく、栄までは地下鉄を使わず、っのんびり歩く、っとちゅう味噌煮込みを食し、白川公園の片隅でシガレットを服む、公園の中央へは木下大サーカスのでかでかとしたテント小屋が張られていた、っいまでも興行が維持せられていたのかとうれしくなる、

っさらに久屋大通まで歩き、っもはやここへ来るときの開演までの時間潰しの馴染み、器のすぐ脇の喫煙可のカッフェへ入る、大阪では、中之島公演の際におなじチェインで席で喫煙しうる店舗があったので愛用していたが、っこないだ入ると、喫煙席は失われてしまっていた、名古屋は流石に喫茶店のメッカ、地図アプリケイションで検索すると、街中へ同チェインは無数にあり、、、名を伏せる必要もないか、コメダだが、犬も歩けばコメダへ当たる、っというぐあいの過密な出店である、っこのぼくの馴染みの店舗以外へも入ったことがあるが、っどの店でも席で喫煙可というわけにはゆかない、っむしろこの店舗が貴重な生き残りなのだとおもわれ、地図アプリのレヴューでは非喫煙者から、2度と行かない、っとそのことへの憾みが述べられていたりもするが、っどうか同店には、時流へ飲まれず、喫煙席の維持を敢行しつづけられたいと希わずにいない、アイス・コーフィーを啜りつ紫煙を吐く、っぼくらにとりてはこれがひとつのセットなのであり、っさいわい周囲には1区画も歩くか歩かないかのうちにあっちにもこっちにもコメダだらけなのだから、一寸の副流煙もかむりたくない、、、一寸くらい吸い込んでおいたほうが肺癌罹患への耐性が養われるという推論をぼくは信じており、非喫煙者も、っそう厭がられずにすこしくくらいの副流煙の存る街並みをむしろ歓待されたいとすら、っまあ身勝手にもかんがえるのであるが、同店を避ければ、っおそらく他は軒並み禁煙か、っせいぜい喫煙ブースがある程度かとみられるため、っこの店舗へ雑言を擲げられることよりも、っそれら別店舗を利用され、喫煙者をじりじりと社会から締め出してゆく意地悪をぜひに止していただきたい、全成人に占める現在の喫煙者の割からゆけば、名古屋の中心部だけでおそらく100店舗や200店舗は下らないだろうコメダのうち、っかく一部の席で喫煙可の店舗の残存率というのは、っまあまあ世相を正しく反映しているのではないか、一寸の煙草臭さも容れられないという人へ、その店舗を利用しないというせめてものやさしさくらい持してくれ、っと求めるのは、喫煙者としてそれほど無法無体な態度ではないとしたいのだが、っどうなのだろうか、っご非難は甘んじて受けるが、っその際にはぜひとも、たまさか自分一個の快不快という次元の話をされず、社会全体、っという観点を有たれたい、っそして、っぼく自身はどうもその体質ではないらしいのだが、っよのなかには、ニコティンの扶けを借りなければうまくセロトニンの分泌を調整しえず、自身のストレスと附き合えないという身体へ産まれ附いた人がいるのだということについて、っほんのすこしくでも識っていただきたい、会社の同僚などで、休憩時間の前からそわそわとして、休憩となるや逃げ込むようにして喫煙スペイスへと急ぎ、シガレットを咥える顔が惚けたように眼の焦点が合っていない、っという人がいたら、っその人がおそらくそうした先天的のセロトニン分泌異常者である、っその人たちにとりては、定期的のニコティン摂取はまさしく生活必需なのだ、誰しも、他人様の生活必需品を奪い取る権利なぞ持しえなかろう、文字通り、っそれは人権侵害である、差別とは、当人の努力によりては返上しえないその者の属性を種に、彼彼女を不当に扱うことである、セロトニンの分泌異常に対してその者の責めがあろうか、努力によりてその異常を返上しえようか、っそれをかんがえれば、っこれらの者を社会的に如何様に遇すべきかの判断へも、一定の指針が與えられるのではないか、っすくなくも、嫌煙の声のおおきさによりてなし崩し的に煙草を排斥してゆく昨今の傾きが、っその方途としてまったく適切適当でないことには、っおよそ論を俟つまい、っぼくらは高度文明を經た民主主義社会に暮らしているのではないのか、っそれとも、程度の低い情治社会へ棲まっているのであろうか、



下手に時間があるとこんな駄弁へ暮れる、っまあたまにはよかろう、

っさて、公演だが、っじつにすばらしかった、っまずはいつもながらの名フィルの高度の錬成と、っそれと器のアコースティックとの綜合である、っここ芸文センターのホールの客席配置は、他に存りそうでなかなかない特有のもので、1階席が狭く奥行きも浅く、っすぐに1段上がって2階席となり、っその2階両袖は階段状に降って、突端は舞台両袖近くへまで達している、っきょうのぼくは、っその右翼の、正面から袖へ降り始めたか始めないかという位置で、舞台をわずかに俯瞰でしかし眼前へありありと望むその親密さは、サントリーではRCの最前列へ陣取ってもまだ得られない、同様の眺望は、川崎の2階正面の1段目前方辺りならば可能となるが、っあちらは全体が2,000席級のつまり大器の部類であるのに対し、っこちらは数百席少ない中規模器寄りの容積、っきょうのようにさほど厖大な編成でなくともトュッティは易々と飽和へ達し、奏楽の性質によりては音楽的の意味を結びにくい膨満におぼえることもあるが、っうまくすると大器ではけっして味わいえないたっぷりとした音量音圧のひびきを全身へ浴びることが叶うし、コンチェルトのソロやオケの各パートも、ニュアンス豊富、直接音の後へ、信じ難いほどゆたかな残響が遺存している、っそれもでっぷりと肥らず、量的にはおおきいが、質的には清潔で、直接音が鳴っているときには、飽くまでも明晰さが勝るというぐあいである、たびたび舞台上で音を鳴らし、十二分にこの器の特性へ馴致した個人や団体の奏楽を聴くならば、っという条件はもちろん附くのだが、っそれはどの器とておなじことで、っわが国でも有数の銘器のうちへ列せられるのではなかろうか、

っそして主役、荒井氏の存在感である、《2番》も《1番》も、っほんの出の1音から、っもうこちとらの耳をこころを捉えて離されなんだ、コン・マスとしての彼氏の風采は、温厚そうな紳士であられる、っけれども、彼氏はじつにかのオーケストラ・ダスビダーニャのトレイナーをお務めでいられ、っきょうのかかる演目への挑戦、っご自身の乗られない中プロへもこだわりの逸品を持って来られるところからすると、っそのいでたちに反して、近代ロシアというか、ソ聯の各作家へつよい偏執を示される曲者の面をお有ちであるらしい、っその執念のほどは、っじゅうぶんすぎるほどよく伝わった、

ショスタコーヴィチの、っとくに《1番》のほうは、曲の性格もあり、っぼくがこれまでに聴いた実演のソリストで、ヴェテランと呼べるのは五嶋みどり女史くらいのもので、っあとはみな若き俊秀ばかりである、っそのとおり無類の竣敏さが要請せられ、偶数楽章はいずれ劣らぬ妙技で、スポーティと謂いたいほどの昂奮を與えられ、服部女史、岡谷で聴いた郷古氏、非礼ながらソリストのお名は忘れてしまったが、坂入健司郎氏が浜松の楽団を振られたときのもの、っあとは錦糸町で聴いた豊平青氏のクレド響とのもの、、、っそちらのソロは戸澤氏のご令嬢だったかしら、っちがったかな、っいずれ、悪印象、っあるは無印象の演奏はひとつだにないくらいだが、っこれらがみな、っありとある楽想、特殊、怪っ態な楽器法をしかし、一気呵成のテムポの裡へぐぃっちぐぃちに詰め込み、何人へもほんの附け入る隙とてみせないという存り方をされていたのに対し、荒井氏にはおそらく、っさようのきょう日のアスリートのごとヴァイオリン弾きの眞似事は、っもはやなのか、っはなからなのか、っいずれできはしないというご自覚があられる、っだからそれらの楽章において、彼氏と高関氏とで作られるテムポはいくぶんゆっくりとしているのであるが、っそのなかで荒井氏は、奏法毎のヴァイオリンという楽器のひびきの対比を、能うかぎり拡大してぼくらの眼前へ示そうとされる、っそれが上記、銘器たるの愛知芸文センター、コンサート・ホールの空間へ発散せられる綾生す眩さと来た日には、っこちとらおよそ筆舌へ盡せぬ至藝であられた、

っそのためにはときに、っあるフレイズへ記譜の音価以上の時間を要してしまわれたりし、っそれはほんのコンマ何秒かのラグにすぎないのだが、っしかし変拍子だの裏拍だのが乱れ飛ぶ楽曲構造においては、っそのわずかの遅れが音楽の箍を弛ませる、上掲の若きヴィルトゥオーゾたちにはそうした瑕疵はけっしてなく、っむしろその瑕疵を回避せむがために彼等の有てる能力が綜動員せられているのであったが、勢い楽想、奏法毎のキャラクターの落差は、っきょうの荒井氏の演られ方からすればわずかにもせよ均されてしまうのもものの道理で、飜って、多少ともがたぴししようが1音1音をありったけ意味附けながら意味附けながら進まむ、っというのが、っきょうの荒井氏の奏楽、演奏のご趣旨であったのに相違ない、っそしてそれは、っぼくの記憶に存る若き名手たちの間に伍して、誰にも引けを取られない耀やきを放たれたのであった、

秀抜なる名フィルを得れば、高関氏の手堅さもいくらも有効裡に働く、っどちらの曲でも、ピキェロ、クラリネット、ホルンと、ソロとオケとが口々に動機を呼び交わす場面があるが、っそこでは絶えずお互いがお互いへ音色やニュアンスを寄せ合う親睦が聴かれ、っあれこそまさしくコンチェルトの存るべき再現というものであろう、

シチェドリンは、㐧2曲など、〈モスコウ中のゴキブリ〉という穏やかならざる副題が打たれており、っさぞかしぎょっとするような曲想かとおもうと、っぞんがいそうでもなく、っむしろ都会的のスマートな和声が薫っているくらいで、細かな音粒がこの昆虫の羽音を模しているのはわかったが、聴いていて気味のわるさに膚がぞわぞわしてしまうというのではなかった、㐧3曲がまた〈スターリン・カクテル〉といって、喉を掻き毟るごとフラジオレットがついに限界まで引き攣り、最期には奏者全員がそれに合わせて人声を発せられ、っこの世紀の恐怖政治への人々の呻吟を謳うのであった、っここでも、名フィルの絃各パートの積極果敢さといったらいかばかりであろうか、特殊奏法を遣えるかぎり遣い切る書法の煩さを臆することなく全開に展げられるが、全員が躊躇いなく振る舞い切られ、っかつ合奏は精妙の極致へ達せられているため、煩雑さがそのまま怜悧な結晶と成って満堂を圧する、

っぼくとして、故国でかようの充実の公演が催行せられていることを、っまことに誇らしくおもう夕であった、



っさて、多摩センへ戻って、っまだ22時すぎである、っこんやこそゆっくりぐっすりと睡む、っあすは近場、八王子にて、田部井剛氏の公演である、駅南口のあの器へは、落成から間もないころに数度、通ったが、狭いエスカレイターの商業施設や役所の出張所だかの階上へ無理無理作り附けた構造上の欠陥から、終演後の退場時には、雑沓による集団転倒抑止のためとして、もぎりのところで100人単位くらいで止めながら止めながらお客を帰す、っという公会堂としてありうべからざる醜態を晒している、っしばらく行かないうちに別途、広い出入口を設けるなりして、っあの不便を解消しているだろうか、っただし、堂内は、音響はそれなりであったように記憶している、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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川崎、




夏の祭事の、っぼくにとってはことしはこれで打ち止め、松本宗利音氏の棒、N響公演、済む、演目は、チャイコフスキー《カプリッチョ・イタリエン》、、、イタリアーノのほうがよいのかなあ、っまあそれ、阪田知樹氏を招いてグローフェ編のガーシュウィン《ラプソディ・イン・ブルー》、っそしてメンデルスゾーン《スコッチ》、

虫が報らせるということがあるのか、偶然の一致というのか、先般、芥川也寸志氏と彼氏の手兵、新響とのチャイコフスキー《4〜6番》の音盤が出、っその《悲愴》へきょうの《カプリッチョ、、、》が併録で、《4番》から順に聴いて、っきのう帰りの移動中にちょうど最後の同曲まで聴いた、っその時点ではきょうの演目は、メインが《スコッチ》で、阪田氏とは《RIB》だったような、っというくらいの認識だったが、開幕がそれで、っこうしたことはたまにある、っぼくはだいたい演奏会の直前まで、っというよりも入場してプログラムを開くまで、っその日の演目を詳らかに知らないままでいる、敢えてそのようにしてそれを密かなたのしみにしてすらいるのだが、器へ移動しながらiPhoneのプレイ・リスト中へ無数にある楽曲中からたまさか再生したのが、っぴたりその日の演目と一致したり、っあるは直接に影響を與えたり與えられたりした関係にある楽曲であったりする、

クラッシックの演奏会はかならず演目を掲題して切符を売っているが、っいちどどこかで誰かなりどこか団体なりが、とちゅう休憩20分で上演時間は計約2時間、なにを演るかは行ってみて音が鳴り出してからのおたのしみという公演を挙行してくれないものか、っなどとふだんからよく夢想している、っもう久しく行っていないが、寄席ではそれがあたりまえである、各噺家がなに演目をなさるかはまったくわからないで、っお客は木戸賃を払うのである、噺家もまた、っいわゆる、附く、っという禁忌があるため、っあらかじめ演し物を定めておくというわけにゆかない、香盤の順に、根多帳を検め検め、高座へ上がってお客のご機嫌を窺い窺い、自家薬籠中を弄るのである、っまさしくライヴであろう、クラッシックの音楽家も、これはいつお客の前へ出しても恥ずかしくない、っというレパートリーくらいいくつも有たれているはずである、っそれを舞台へ上がったその瞬間のインスピレイションで、っぱっと弾き出す、っきっとたのしい催事となるのにちがいない、

っところでその芥川氏のチャイコフスキーだが、っこれまでに発売せられているおおくの録音から明らかなように、彼氏の造形はやはり全般に辛口で線が細く、っこんかいの音盤も、新響もいまだこんにちのアマチュア離れのした堅固なアンサムブルを獲得するには及んでいられず、っそれがいずれもデッドな音響の器、、、ブックレットをよく見なんだが、っおそらく上野か、っどれかは日比谷であったかもしれない、っで力いっぱいに鳴っていられるため、潤いには乏しく、っしかし硬骨の音構造を喉元へ突き附けられるごと迫力がある、っただそのなかで、《5番》で愕いたのが、1楽章の㐧3テーマで、Vnの歌にポルタメントが附いているっっっ、っこの表現はヤマカズさん最晩年の新星日響盤において不朽の光芒を放っているが、っこの芥川氏のライヴはとうぜんそれより以前である、っほかにも、ヴァルスの冒頭をうんと粘りながら入られたり、中途のファゴットのテムポ操作は履行するか否かがよく問題にされるが、っそれがフリュートへバトンを渡す際には誰も彼もイン・テムポであるところ、芥川氏はそこでもファゴットのときと同様にふたたびおおきな撓みを設けられている、同盤の余白へは、っこのときのではなくもっと以前の同曲演奏時の貴重な練習音声が収まっており、っそこではこれらの表現はいまだ為されていない、芥川氏からこれほど意慾的の訴えを聴くことがあるとは、っぼくにすればまったく意想外で、してやられた、っというところである、

っさてきょうだが、満員札止め、ってっきり2階の良席が購ってあるのかと自分でおもっていたが、4階の左方であった、っこないだの松本氏の東京シティ・フィル公演を聴いたあとに急遽、っこれも聴くことにしたので、っもう良位置が残っていなかったのだろう、初めて坐すような個所だったが、っぞんがい眺望はよく、指揮台はそう遠くなく眼下へ見えるし、背凭れへ身を預けていても1stは1プルトまでは見える、ピアノの鍵盤もよく見える、音響は、っもちろん2階正面には劣るが、っまあわるくない、っただ、っその位置から4階正面のいちばん奥の方を見ると、っそこはいかにも舞台から遠く、坐せば視覚的にも音響的にも不足を感ずるだろうとおもい遣られた、

っこころならずも、っぼくは平素からN響へは否定的だが、彼等にしても、渋谷のようなあんな無法な器での奏楽を聴かれて評価せられるというのも、っまったく不本意であられるだろう、っきょうは全曲とも絃14型の中規模編成で、《スコッチ》へはトロムボーンもいられず、スマートなアンサムブルは、渋谷では望むべくもない爽やかな間接音、残響を纏う、意地悪く聴けば、っどう云うのか、各パーツに遊びがなく、っもっと自在に揺れたり、っもっと音色やひびきの可能性を広く広く用意されたくはあり、っすくなくも、在京、っまた地方も含めて、他の日本の楽団と比較して、っもはやN響が一頭地を抜いていられるという時代は了わった、っぼくが気にするのは、っそれでもN響はかように切符がよく売れるのだろう、っそのときに、っじっさいに来場したお客たちは、あ、え、きょうのこの程度だったら、なんかこないだ聴いた別のあの楽団のほうが、よっぽど良い音鳴らしているんじゃないの、っとちゃんと認識しているのだろうかということである、不遜な云い種で恐縮だが、

っきょうも松本氏の音楽的のいでたちは、っなに衒われることなく、っとにかく、オーケストラのいちばん好い音が鳴る、チャイコフスキーのこの曲は、演り方によっては狂騒的でやかましいだけになり勝ちだが、冒頭のファンファールから無理をされず、っおおらかに構えられる、絃のいかにもラテンの懊悩は、N響ならばあのくらいの練りぐあいは朝飯前であろう、一転、木管のワルツ風の主題は能天気なほどの音の色へ豹変されたく、っそういうところがN響も不得手なのかとおもうが、っちゃんとたのしい、松本氏はといえば、曲想に連れて目に見えて振り方の表情が変転されるというのではないが、っそこがむしろ快い、若く有能な人で、どんな性格の音楽へも当意即妙に対応できます、っという音楽性を披瀝されると、振り姿としても鳴る音としても、っかえってそれがうるさくなってしまったりする、松本氏は、っぶきっちょというのではぜんぜんないが、ここはこういう音楽ですっ、ここはこういう表情ですっ、っということをちょこまかとされず、っいつも自然に音楽が流露しており、っこちとら客席へいて大船へ乗ったここちだ、

阪田氏は、2台、っあるは3台ピアノでの同曲演奏はご經験がおありだが、グローフェ編のオケ版《RIB》を弾かれるのはこんかいが初めてでいられたとのこと、一部、ん、それはジャズのリズムといえるのかな、っとおもわせないとしなんだが、タッチの多様は流石で、っそれはむしろソリスト・アンコールの、っあれもたぶんガーシュウィンだとおもうが、っそちらでこそより如實に感ぜられた、っそれもジャジーな、音符の細かい曲だったが、右手が忙しいなか、左手の比較的に音価の長い和音が神秘の色合いをさえ湛えて、リズムのカッコよさの裏へじつに複雑微妙な味を隠していられた、

オケ・パートは、クラリネットがさいしょのグリッサンドを擦り上がったあと、主題へはいきなり装飾音が附いているというのがぼくの聴き馴れた形だが、っきょうはそれがなく、っどうだろう、っこのあたりの楽曲だと、譜面もそこまで厳密には書いていなく、適宜、奏者がアド・リビトゥムに演るのを許容する、っということかもしれない、全体に、ジャズ・バンドのイディオムは敢えては採用せず、シムフォニー・オーケストラが立派に奏した《RIB》である、

《スコッチ》はきょう、っとても素敵な楽曲だと實感せられた、松本氏は、っこれまでにぼくが聴いてきたブルックナー、ブラームスと同様に、楽章内の主題間でもテムポをはじめとして滅多な表情の落差を設けられず、一途に前へ前へと向かわれる、大音場に中規模編成のN響の鳴り方は愼ましく、っやはりかかる音響条件で聴かなければ、ったとえば指揮者の強弱の差配ひとつにしても、っその音楽的の意味を感得すること能わない、1楽章の主部の開始は、記譜の指定は識らないが、松本氏は自信を有って弱音で始められ、っあのように音量を細めると、渋谷ではただただ貧しい、っみすぼらしいっきりの音楽の脱け殻であろうが、っここではその音のよわさが満堂の耳という耳を欹たせ、音楽に対して貪慾にさせる、っこうでなくては音場ではないし、っこうして聴かなくては音楽ではない、

2楽章は、っあれ以上に速いと上滑るというそのぎりぎりの速さだ、上滑ろうが平気の平左で棒だけが先へ行ってしまうという指揮者もおおいが、トリオ相当の部分はなく、主題がひとしきり通過するとあっさり済んでしまうという構成も、メンデルスゾーンの英断である、

3楽章の沈潜を經てフィナーレは、冒頭からはっと胸の張り詰めるような主題の魅惑がなにより勝り、完全に主部を収めてしまって、遙か調を移しての独立した終結部も特有である、大団円において松本氏の腕の軌道は苛烈でいられるが、N響は最後まで美観を崩されず、っきもちのよい幕切れである、



っさて、っお次は土曜、名古屋日帰りにて、栄で名古屋フィル公演、コン・マスの荒井氏がショスタコーヴィチのコンチェルトを2曲とも弾かれる、開演が18:45となっていたので、実家へ顔を出して蜻蛉返りして来んかともおもったのだが、16時開演の誤りであったと楽団から謝罪のメイルが来ていて、っそれでも行って来られなくはないが、慌ただしくなりそうなので、公演だけにしておかむ、っもう何年も帰っていなく、っますます敷居が高くなってしまうのであるが、、、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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新百合、




ユベール・スダーン氏の棒、、、っは持たれず、東響公演、済む、川崎の夏の祭事の出張公演だが、切符代が抑えてあるのがうれしく、っしかも、っぼくは井上キーミツのいつかの公演のより良位置の切符を購うべく川崎の器の有料会員となり、っそのまま惰性で会員費を払いつづけているが、っそうすると各公演の切符は1割引で購え、っそれはここ新百合でも共催公演のばあい同断であるので、年間ほんの数公演の割引を受けるっきりでも、っすでにして会員費分は償却しうるというぐあいである、

っきょうの演目は、モーツァルト《皇帝ティートの慈悲》序曲、山縣美季女史を招いて同《Pf27番コンチェルト》、っそしてラヴェル編のムソルグスキー《展覧会の画》である、

っこの器は、っいつかに同大、、、昭和音大だが、っの学生さん3名がコンチェルトを演られる公演を聴きに来た、っほどよい容積のため、音量は豊富だが、っひびきは潤澤ではなくややドライで、各楽器がリアルな質感で迫る、っしたがってきょうは、無法な強音のないモーツァルトは絶えず凛烈だが、《展覧会の画》の〈キエフ大門〉終局ではめいっぱいにひびきが拡がってこちとら間接音を聴くゆとりがなく、っやや音の強弱、力感のみがものをいって終演する嫌いがあった、っやむをえないといえばそうだが、

スダーン氏は、東響のディレクトール時分には基礎的のアンサムブルから相当度にうるさくおっしゃられたという話を仄聞しており、っその鍛錬のこんにちの彼等の合奏能力へ寄與するところは、っじつに大なることであろう、

モーツァルトはスダーン氏にとっては看板レパートリーに相違ないが、興味深いのは、っきょうのような作家最晩年の淵明な楽曲においても、迫らず穏やかな奏楽を志向する気配は微塵もなく、っみじかい音符へはもれなく意志的のアクセントが與えらるところである、

っよってコンチェルトは、若いソリストの歯切れのよいタッチもあり、彼岸へ揺蕩う諦観は前面へは出ず、絶えず音楽がよく動いて、フィナーレなどときに、っぼくごとき平凡人では夢に見ることすら能わぬ幻想境を飛翔するようで、《27番》へあんな景色を望むとは、っおよそ予想だにしなんだところである、

《展覧会の画》は、っさいしょの〈プロムナード〉からラッパはいちばん高く上がる音をひっくり返されたが、っその後は恙なく進み、っしかし上記のとおり、っついに大団円は器の性格上、っひびきの奥行きを味わわせるには及ばなんだ、



休憩時に喫煙へ立つと、器の門前の案内板へ、っやはり同大の学生さん連によるものとみられるプッチーニ《ラ・ボエーム》公演の案内が貼られてあり、っきょうの終演後、っお客の大半がいなくなるまで待ち、希望の席まで行って坐してみて、眺めに不足のないことを確かめてから、購入す、

っさて、っあすは仕事は休み、っふたたび川崎へ戻って、松本宗利音氏とN響との公演、若い指揮者とN響との共演というと、上野で聴いた坂入健司郎氏とのショスタコーヴィチ《5番》は、っべつに坂入氏がオケにナメられたわけでもないのだろうが、N響がしばしば陥る、全編これつまらなさそうな音の羅列がもろに展開して、っこちとらとっ白け放題であった、っどうも、っきょうの東響の最大のトュッティ時と同様に、下手に几帳面に鳴るせいでひびきにゆとりがなくなってしまうのが彼等の悪癖かとおもうが、松本氏とみごとにスウィングされ、快く解れた合奏が為されることを希ってやまない、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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川崎、




夏の祭事で、上岡敏之氏の棒、新日本フィル公演、済む、演目はブルックナー《7番》、

っつい以前まで、京都から上岡氏を追っ掛けてこられた方と呑んでおり、っその方はご苦労にも日帰りで、新幹線の時間となったのでお帰りになり、っぼくは、料理が片附かないので店へ居残って、っいまこれを書いている、

《7番》1曲のみということはもしや、っと覚悟して来たが、っかのヴッパータール響との同曲演奏の再来というべき、全曲に亙る極遅、15時開演で、ソロ・カーテン・コールがあったにせよわりにあっさりとハネて、出て来て懐中時計を検めるに、16:45ころ、っすくなく見積もって16:30ころまで音が鳴っていたのだとしても、70分へ満たない演奏もおおいなか、90分余を要したこととなる、

ヴッパータール響との来日公演往時は、っぼくもまだ画学生だったか、っもう大学は出ていたのだったか、っいずれ、音楽の聴き方もいまよりもずっと幼稚で、、、っいまでも相当度に幼稚のままだとおもうが、ブルックナー《7番》という曲想へも十二分に馴致しておらず、、、っいまでもぜんぜん馴致し切れていないとおもうが、っだから演奏の要諦も摑めないままただ客席へいたっきりだったのだろう、

っのち上岡氏は、っきょうの新日フィルのディレクトール時分にも同曲をなさり、っそれもぼくは、っえ、サントリーと桜木町とだったか、都合2度聴き、っそれは、一般的のテムポからすれば少々遅かったのかもしれないが、っきょうのような奇異なほどの速度ではなかった、

例のごと、全曲冒頭はほとんど無音の原始霧に始まる、っただ遅いのみならず、セロのテーマが、ホルンとユニゾンのさいしょの1節のみ、独立した主題部として扱われ、っつづくホルンを欠いた一節へ遷るまでにおおきなおおきな間が空く、トュッティを迎えると新日フィルは、っなだらかななかにも快くエッジの効いたブリリアントなひびきである、全曲を通して、瑕疵があったとすればヴァグナー・テューバで、2楽章コーダのヴァグナーへの追悼など、っあのようにちゃんと吹けないのでは困る、

っそれにしても、っむかしとはちがい、上岡氏がその遅い速度のなかでなにをなさりたいのか、っいまならばぼくもよくわかって聴いていられる、っもちろん、細部の彫琢はヴッパータール響とのときとも新日フィルの以前のときとも異なるだろうが、っこんかいは殊に、管楽器の2番以下の動きの周到な掘り起こしが滅法おもしろく、発音はいつもさっぱりとしているのだが、対位法の構造をときに異様なほど立体的に感ぜられた、

2楽章の絃合奏による㐧1テーマは、っやや細い量感の、っしかしよく練られた音色だったが、っここは、っもっと粗野に身体ごと音楽の渦中へ飛び込んでゆかれた小柳英之氏のいでたちのほうが、っより感動的であった、㐧2テーマにしても、っあまりにも速度が遅いせいで、後半において主題が切れ切れになる部分の情感がかえってよく活きないのではなかろうか、

3楽章でも速度は上がらない、トリオもそうで、アダージョが再来したのかと聴き紛うごと、っしかし、っこの主部は、快速に進むとやや喰い足らないというのか、っわるくすると空疎にも聞こえ兼ねず、っあのくらいじっくりと運んでくれるのも歓迎、

上岡氏といえば金管の抑えたひびきが印象的で、っとくに新日フィルのディレクトールをされているときにはそれが代名詞のようになっていたものだが、オケの性格にも依るのか、読響を振られるときなどはそれほどでもないし、っきょうは、以前からすればかなりに開放的に鳴っていたが、フィナーレのコーダまで来て、っその抑制趣味が全開、全曲冒頭主題を吹く金管は、っやっと音型が聴き取れるかどうかという音量と音勢と、管絃によるひびき全体のブレンドに拘っていられるのかとおもいきや、ティムパニの打刻はここといい1楽章の終結といい、っむしろ放埓なほどで、指揮者が手ずからそれを主導されるようでさえあり、っまことに不可思議なバランス感覚である、



っさて、っあさっては休暇を取り、っもとよりこのおなじ祭事中から松本宗利音氏とN響とのご共演を聴くはずにしてあったが、っあすも、川崎ではなく新百合でユベール・スダーン氏と東響との公演を聴く、、、っとここまで書いてばたんきゅうで日附を跨ぎ、2度睡3度睡ののち、っもうそろそろ起きてシャワーを浴びねばならないが、新百合は近いのでよい、切符はついおとつい購ったのだが、絶望的に売れていなく、3階席などがら空きでかわいそうになる、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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平塚、




井﨑正浩氏の棒、戸塚区民オケ公演、済む、演目は、ドヴォルザーク《新世界》とビゼー《アルルの女》㐧1・2スートとと、一見なんでもないようだが、先に《新世界》を演ってしまい、《アルル、、、》は、全8曲を劇の進行順へ並べ直しての演奏、1曲毎に井﨑氏が話され、興が乗られて能弁を披瀝されたこともあり、アンコールに《カルメン》から1曲演って済むと、っじつに開演から2時間半が經過していた、

平塚など、っじつにひさかたぶりに来た、大学を出てしばらく、ポスティングのアルバイトをしていて、っそう頻繁にではないが、平塚とか茅ヶ崎へは来たものだ、15年以上、20年近く前の話だが、路地という路地をチャリンコで走り回ってチラシを配ったので、街並みの印象はよく憶えていたし、っどの辺りへは団地があってけっこうな枚数が捌けるとか、っそういうことも身体の奥へ染み附いた感覚として遺っている、

っきょう来ると、っもちろん暑いには暑いが、っけっこうな風速で湘南の海風が吹いており、陽蔭を撰って歩けば、っときに涼しいほどである、駅の駐輪場のチャリンコを見れば、3台に1台は錆び放題に錆び附いている、海端らしい景色だ、

大船を本拠とかんがえてよいのだろうきょうの戸塚区民オケだが、前回は藤沢、今回はここ平塚で、結論、断然きょうの平塚がよい、大船は、っあれでいちおうは専門の音楽ホールの心算の設計であろうが、オケの巧拙にも依ろうけれども、っどうもひびきが拡散気味で、っしかも、っそれほどの容積でないにも拘わらず、音量をたっぷりと得られない憾みがある、舞台上の音が客席へよく飛んでいないのかもしれない、藤沢のどんしゃりぐあいに至っては、っきょう日論外、っそれがここ平塚は、流石に近年に落成したらしいだけはあり、音響条件が演奏の質を1段も2段も底上げしてくれる、集客もまずまずのようであったが、果たしてかの大船のジョーカー、靴ノイズくそじじいは、っここまで来ていたのだろうか、演奏中、っそれらしい雑音はせなんだが、

っこの楽団はいつも、っまずVnがよわい、致命的に音量が出ない、ホルンやトロムペットの貧弱な楽団を聴くのもかなしいものだが、っそれにも増して、絃、っとりわけVnがちゃんと弾けないオケの公演は、開演から終演まで、客席へいる意味がまったくない、っと云いうるほどである、っやはりまずVnがちゃんと聴こえてくれないと、っそれはオーケストラの音ではない、

っだからきょうも、っいわば井﨑氏のお元気なお顔を見に来たくらいの心境で、音楽鑑賞は叶わないだろうと踏んでいたのだが、っまったく不当な侮りであった、っちゃんと音が出ているっ、オーケストラの音が、っであるっっっ、器はそれを如實に伝える、急いで音楽鑑賞モードへ切り替えねばならなんだぼくは、っそのことにすこしく戸惑ったくらいである、

器の好条件ということもあるが、っどうだろう、っこれはまったくぼくの想像にすぎないが、っもしかすると、井﨑氏がひとことチクりとおっしゃったかもしれない、っふだんの大船での演奏を聴くかぎり、氏は長年のお附き合いであるこの楽団に対してしかし、いかなアマチュアとはいえ、もうひとつ高い問題意識を有って奏楽へ取り組まれたい、っとのご不満を宿していられるにちがいないとおもう、っきょうのパンフレットの挨拶文によると、同団はこの数年来、基礎力の向上を目標としてプログラムの選定を行なってこられたとのことだが、今年度は今回が《新世界》、次回は川崎で楽聖《㐧9》と、《9番》がふたつ連続する格好、っこの演目を楽団として井﨑氏へ打診された際、氏として、演るのはかまいませんけれど、もういちど1から基礎的のアンサムブルを綜点検してみることなしに、ただ演目だけ《新世界》だ《㐧9》だと派手に並べてみても、そこにどれほどの意味があるのでしょうか、っとかたとえばそういうことを、

っそのくらい、っきょう《新世界》が始まると、楽員おひとりびとりの高い高い士気がびりびりと伝わった、っもちろん種々の綻びはそこかしこみられるのだけれど、恆に全体が一体のティームとして機能し、みずからの楽音楽音によって一楽曲を成立せしめるのだっ、っと互いにおこころを通わせ合った、っこれぞ眞に眞なるアンサムブルと称すべき有機的の合奏が、全曲全楽章をがっしりと支えたのである、っふだんの彼等は世辞にもそのようではない、っもっと各声部がご自身ご自身のロールに汲々とされ、っやっとヒヨらずに音を出せたか出せないかというふうでいられ、声部間での音色や表情の睦み合いなぞ、っおよそ望めないのである、

基礎力の向上ということは、合奏のみならず、自主的の分奏もさかんに為されただろうか、アマチュアも大半までの団体が、各単声部がそれ自身として自立しえず、互い互いに凭れ合ってどうとか全体としてオーケストラらしき音を発する、っという奏楽に甘んじている、っほんとうに本格の演奏は、っもっとひとつびとつの声部が強靭であり、っとつぜん他のすべての声部が演奏を中断し、っどれか1声部のみが音場へ取り残されたとしても、誰に聴かれても恥ずかしくないという鳴り方をしている、っそのことと、全体として一体の響を発するということとが矛盾なく同居している、っそれが世に最も勝れたオーケストラの奏楽というものである、っきょう戸塚区民オケは、っそれを完全に果たされたとは云わない、っけれども、っまちがいなくその方角を向かれた演奏をなすった、

井﨑氏も、っさぞかし緊とこの楽団の意識の変革を感得されたことであろう、1楽章の序奏から恆にも勝る細やかな表情を練り上げられたかとおもえば、っその後は楽章を追い、頁を追い、小節を追う毎にますます演奏が丁寧に、謹直に、稠密に深化してゆく、っときには夢中で音楽へ喰らい附く者たちにっきりけっして発すること能わない最も眞剣な楽器の音というものが期せずして出ており、これがいったいあの戸塚区民オケなのか、、、っ、っとぼくは目をまん円に瞠って、っほとんど呆然としたほどである、

2楽章でコール・アングレの主題を提示したあと、冒頭のトロムボーンの導入句を木管を主体に再現する際の濃密な発音、っその張り詰めた全体の音色はどうだっ、っまんなかで木管へあたらしい主題が出る際の背景の絃の微細な動きも、1声部1声部が当事者意識を有たれ、音楽を疎かにされていない、コール・アングレが再現し、っやがて絃のトップ連中のみの合奏となる薄暮の情景は、っそのとくにコン・マス氏の命懸けの音色美っっっ、人間業とはおもえない、

スケルツォでの井﨑氏も、冒頭からうんと粘って腰を落とされ、っじっくりと主部を進められる、っいつになく充実の音を用意してこられた楽団に対しての、すべての声部に遺憾なくおもうぞんぶん弾かせてやりたい、っとの指揮者の親心をみる、

フィナーレは、冒頭主題の魅惑に反して、構成としてはむしろ皮相を感じさせないとしないが、っすべての時間をぎっしりと中身の詰まった音で埋めることにより、っその難を逃れる、っここでも冒頭からまさしく眞剣そのもので、絃合奏が大地を揺るがし、豪傑的のホルンが、トロムペットが運ばれて来る、同主題の絃による模倣へ遷るべくその動機を用いて經過句を辿る絃群のハーモニーたるやっっっ、っその熾烈さに眞っ直ぐに胸を刺し貫かれ、っついにぼくの視界は泪で濡れた、《新世界》などという、世界中で襤褸雑巾のごと演り古された楽曲といえども、っいま新たな感動を生み出すことはおおきに可能なのだっっっ、

各声部がよりソリスティックに動くビゼーでは、奏者によっては一部、腕の限界を感じさせもしたが、全体の充実は終演まで変わらず、

同団にはぜひに、大船へはお戻りにならず、っこの平塚を常箱とされたいと希わずにいない、



っところで、YouTubeへ山上紘生氏とポラリス・フィルとのマーラー《トラギッシェ》動画がupせられ、実演同様にすばらしく好印象で、楽団は、っぼくがこれまでに数多に聴いてきたアマチュア団体中でも最高位のテクニークを具えられていると確信したのだが、っもう多摩センへ戻って来てしまったので、っまたいつか、言及する機会があればとおもう、

っお次はこんどの土曜、川崎の夏の祭事で、上岡敏之氏が新日本フィルとブルックナー《7番》をなさる、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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調布、




小笠原吉秀氏の棒、東大フィロムジカ響公演、済む、演目は、ヴァグナー《リエンツィ》序曲、マーラー《葬礼》、っそしてブラームス《4番》である、

楽団は、東大を中心に他大学からもメムバーを集め、総勢180名という大集団らしい、っもちろん、っきょうは全員が乗られるわけではないが、絃は1st、2ndとも18から、バス9までという規格外の陣容、っしかも後列までよく弾ける人たちが揃っていられ、音量豊富、っしかし対する管は全体にやや頼りなく、っこの器はもとより分離し放題のおよそ非音楽的の音響であり、っからっからに乾いた感触の各声部がてんでんばらばらに鳴っている、

棒の小笠原氏も音色の趣味のまったくない方で、表情らしい表情も附かないのだが、ヴァグナーの打楽器を交えるマルチアな部分などは、器の悪条件がかえって怪我の功名となるような快音がしていた、

マーラーも、主題間で音の雰囲気を変える気はさらさらなくていられ、テムポもほぼ一定、一直線に進まれる、絃はまだしも音に力があるため、冒頭からであるとか、っほかにも絃主体の部分は、曲の姿が素直に伝わりもする、っその冒頭の低絃の主題は、っひじょうによく弾けていて迫眞なのだが、《復活》1楽章で聴き馴れた強弱の振れ幅がなく、っずっと音量と強勢とが維持せられたままである、っあれだけよく弾けて記譜の指定を叶えられないということはなかろうから、楽想、局所的の構成、楽器法のみならず、強弱や表情の指示についても、《葬礼》と《復活》1楽章とではかなりに異同があるのかもしれない、

ブラームスは、全体としてはムラのある仕上がりだが、楽曲の妙味を実感しえた場面があるとすれば、っやはり絃の量と力とに負うところがおおきい、2楽章の最後の盛り上がりは、っぼくがあの部分へとりわけ偏執しているということもあるが、っきょうじっさいすごくよい音が鳴っており、っおもわずに目頭が熱くなる、

フィナーレのフリュート1番の独り舞台はなかなかの存在感、

アンコールに同《ハイドン・ヴァリアシオン》の後半から終結まで、っきょうのブラームスは、フリッツ・シュタインバッハという、作家の同時代人でその作の紹介、普及に盡力した人が著した、同シムフォニーと《ハイドン・ヴァリアシオン》とのスコアへの書き込み譜に倣った演奏であったらしい、



っさて、っお次はこんどの日曜、井﨑正浩氏の戸塚の楽団との公演で、先回は流石に年季の入りすぎた藤沢の器、っいつもは大船であるが、っこんかいは平塚の、近年に落成したとみられるもっとまともな器のようなので、っあの楽団もだいぶん非力だが、潤澤のトーンがそれをいくらかでも救ってくれればとおもう、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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有楽町、




っきのうにつづき坂入健司郎氏の棒、新響公演、済む、演目は、映画、TVドラマにまつわる作の集成で、芥川也寸志《赤穂浪士》テーマ音楽、楽団のセロのメムバーであられる坂田晃一氏の《おしん》《おんな太閤記》《いのち》《春日局》、武満徹《波の盆》、芥川《八甲田山》スートで休憩、後半は坂入氏の所望というレヴエルタス《マヤ族のよる》スート、最後に伝家の寶刀、伊福部昭《SF1番》である、っとちゅうとちゅうで楽団の打楽器の女性が坂入氏とお話しになり、ったっぷり2時間半掛かる、

調布の開演は18時であり、っまあ間に合う、

東京へは13時前に着く、王将で食事をせむかとおもうが、2、3組が待っており、っそれでは間に合わないので諦め、例の喫煙スペイスへ移動す、っこないだ空調がないようにおもったが、っきょう入ると涼しい、冷房が入っているのか、1日中陽蔭だからかわからないが、っそこへ開演20分ほど前までいて、C器へ入る、

オケのコンディションは最良で、っとくに前半は、ライトな書法に応じた小回りの効くアンサムブルが難なく展開し、っあんな鳴り方は並のアマチュアでは逆立ちしても眞似のできないところだ、

坂田氏は、作曲家を志して藝大器楽科を中退され、っきょう演奏せられた以外にも数多の楽曲を手掛けられたが、70代に入られた10年弱以前におもうところあって永く手にされなんだセロを取って新響の門を叩かれ、入団されたというご来歴、っご本人も、楽団の一員として自作自演の一翼を擔うというのは珍かではないか、っとおっしゃっていたが、っその作はいずれもいかにもウェル・メイドで、新響も洗練の極を行かれる、っある脆弱さを別の強味によって帳消しにせむという、アマチュアではあってあたりまえの妥協、誤魔化しはしかし露なく、断じてうまくなくてはいけない、あるいは、うまくならなくてはいけない、あるいは、うまくなろうとしなくてはいけない、っとの芥川イズムの高度の結晶であろう、

レヴエルタスは、っその一部のようだが、森口真司氏がたしかフライハイト響を振られた音声がYouTubeへ上がっており、賑やかな曲だなとおもうが、打楽器が10人以上に、法螺貝まで吹き鳴らされるという珍品、理窟抜きにたのしい、

《SF1番》は、最後の進撃が息急き切った速度で、坂入氏のご趣味である、



調布へ着いたが、っべつにダブル・ヘッダーがしたいだけなのに、っいやに大入りで、開場前に器の外まで列が蛇行しており、っげんなりす、っま、2階へまずまずの位置を得られたのだが、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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川崎、




坂入健司郎氏の棒、東京ユヴェントス・フィル公演、済む、演目は、近藤礼隆氏の《祝典のためのファンファーレ》、、、っぼくはファンファーレはファンファールと表記することにしているのだが、っこれは楽曲名なので、黒田、、、の字のみ、変換で出ず、ウェブ・ペイジからコピ&ペしたため、フォントが異なるかもしれない、氏を招いてマーラー《さすらう若人の歌》、っそして同《5番》である、

投票へ行ってから来る、

《さすらう、、、》は、実演は初めて聴いたろうか、音盤は、フィッシャー=ディースカウ/フルトヴェングラー/ヴィーン・フィルから、っのちには中山悌一/山田一雄/東響へ移り気をして、新日本フィルの松原氏の現役時分には、日本の楽団といえば、1に東響2に東響、3、4がなくて5にN響、っと謳われたそうで、っぼくらのような時代の人間には俄かには首肯しえない序列であるが、っこの中山盤の収録往時というのは、っちょうど松原氏がそうおっしゃる時代なのかとおもい、っじっさい、ヤマカズさんの棒になる彼等は、っなるほどすばらしい響を上げていられる、

っところで、っきょうの黒田氏っっっ、っや、泣かされた、っせつないっ、胸苦しいっ、っそれにしてもマーラーは、っちゃんと初期にかかるオーケストレイションができて、っそれから歌劇場での目眩むばかりのカリアがあって、っどうして晩年にあんなにオケがソロを掻き消してしまう《大地の歌》の筆になってしまうのだろうか、っここでは、4曲いずれもが大管絃楽を驅使しながら、っいつも主役はソリストだ、黒田氏はご登壇からもうおきもちが入っていられる相貌で、っそのとおり㐧1声から聴く者の心の臓を鷲摑みに摑まれる、声は冷厳にコントロールせられ、曲想につれての表情の変転もむしろささやか、烈しい内容を歌ってはいるが、小曲の羅列なので、っその規模に対して激越な落差は不釣り合いだ、聴く側としても、っごくかすかな色合いの変化から、萬感を嗅ぐのでなければならない、黒田氏はそのほどの差配が絶妙であられ、っこちとらのこころの襞のひとひらひとひらまで、彼氏のお声が沁み入らずにいなんだ、㐧4曲はついに菩提樹の木蔭において平静と諦念とを得るが、っしかし最後、木管におもう方の蒼い瞳への未練が明滅して了わる、っいかにも青春の歌である、

近藤氏は来場されていたが、っその開幕曲は腹蔵なき壽ぎの楽、

懸案の《5番》であるが、っまあほぼきのうの予断のとおりであったとおもう、オケはけっこう巧くはあるが、っこの曲を十全に謳歌するにはまだまだ楽団としての柄がいくらもちいさい、トロムペット、ホルンの1番は、っご健闘といえばそうだが、前者など、っほとんどの個所を柔らかい吹奏で通しているのがぼくには喰い足らなく、対位法の裡での重要なアクセントとなっている楽句では、っもっと鋭く突き刺すように吹いてくれたい、

っただし、颯爽としているなりに各部各場面の内容を積極的に訴えはしたようで、音楽が失活したままただ時間だけが流れるという虚しさはなかったし、アダージェットにおくVaの入念な扱いなど、聴くべきところもおおかった、

フィナーレの最後の最後なのだが、スコアへは、アッチェレランドしながら了われ、っと書いてあるのだろうか、っおおくの演奏がそのように為されており、っきょうもややそうだったが、っぼくはあれが嫌いである、っどう聴いたって尻窄みで終止するような悪印象がするからで、遅くなりながら了われ、っとまでは云わないが、、、っや、っぼくが棒を振るならばそのように結ぶが、っせめてそれまでとおなじテムポのままで了わってくれたいので、70分も聴いてきた大曲が最後、ばたばたばたっ、っと足並みを乱して済んでしまうというのは、っあれを演っている人も聴いている人も、こんな了わり方じゃイヤだなあ、っとおもわないものなのだろうか、コバケンさんのロンドン・フィル盤も、ヤマカズさんのN響スウィトナー代演も、最後の最後までどっしりとした速度と発音とのままで終止するので、っそのほうが断然、嗚呼、了わったっ、っとの感激を與えらる、っよしんばスコアへアッチェレランドが書いてあるのだとしても、っそんなのは無視だ無視っ、

坂入氏と同フィルとは、来年にマーラー《9番》をされるといい、っその切符はきのうから売り出しており、錦糸町なので、購入に1日出遅れたのでは2階バルコニーは手に入らないかとおもうが、っさっきの休憩時にiPhoneを持ち出して慌てて検索すると、っまだ右も左もほとんど売れておらず、安堵して良位置を得る、



っさて、坂入氏はなんとあすも本番、新響との有楽町での公演である、っきのうまで忘れていたというか気附かなんだが、っそれは午であり、夕にも調布でもう1公演の切符が購ってある、購ってあるというか、無料公演のようだが、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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錦糸町、




井﨑正浩氏の棒、三菱UFJ管公演、済む、演目は、ブラームス《大学祝典序曲》、橋本京子女史を招いてラフマニノフ《2番》コンチェルト、っふたたびブラームスでシムフォニー《2番》である、

っいやはや、っあさ2度睡3度睡に暮れていたらぎりぎりになってしまい、13:30開演で、入場したのは13:28ころである、、、

大銀行の行員による楽団なのだから、楽員の学歴は高いものとみられ、学生時分にオーケストラを經験した人もおおかろう、学生オケの技倆は、っかなしいかなというべきか、っある程度は学歴に比例するところがあり、っよってぼくは、初めて聴くきょうの彼等のテクニークをかなりに高く見積もったのだが、っそれほどではなく、っよくあるアマチュアのレヴェルだ、っただ、絃は17-14-12-12-8と大所帯であり、絃主体の清潔なアンサムブルではある、っきょうは2階の左翼バルコニーだったのでVnの聴こえはややわるかったが、っあれで右側から聴けば、っその点ではまず不足はおぼえなかったろう、

《大学祝典序曲》は、開幕して各声部まだまだ音の出し方がおっかなびっくりであり、ラフマニノフでまずまずギアが入る、

ソリストは、存じ上げなんだが、大ヴェテランといった風附きの女性で、っべろーんと長い譜面を置いてご自身で捲りながら弾かれていたが、指の回り、っこまかい音符まで入れられる入れられないならば、流石にいまの若い人に一籌を輸さる、っけれども、年輪を加えた間の取られ方には聴くべき点もおおく、2楽章ではこちとらちゃんとほろりもす、

井﨑氏のブラームス《2番》は過去何度か聴いている、都度、楽団の水準、音場の広狭は区々であったので、安易な比較は愼まねばならないが、っきょう聴いていると、リズムの鋭敏な立ち方がまったく出色だと唸らずにいない、っそれは殊に2楽章でこそ感ぜられ、渋く、濁色へ陥り勝ちのオーケストレイションの弱点がいくらもカヴァーせられている、井﨑氏はたしかポップスに出立され、長じてクラッシックの世界へ入られた異色のご經歴の有ち主でいられ、っそこらあたりに秘蹟が存りそうだ、

1楽章は、主部を待たずして序奏から棒が前へ前へ行き、㐧1テーマもソナタ形式中の男性性主題としての性格が意識せられ、っやはり音々を置くより前へと倒れる、㐧2テーマは、っその手前でじっくりと腰を落とし、完全に別のテムポで歌われる、主題間でテムポを変えられなんだ松本宗利音氏のきびしさが慕わしくはあるが、歌のなかでもVc、Vaの音がきっぱりと立っている井﨑氏の造形は、不純な情緒過多ではない、

展開で音構造が複雑になってくると、っやはり楽団のテクニークはじゅうぶんではないが、絃も管もそれなりに音が伸びるようにはなっており、音場の規模に対するトュッティの量感も適度である、金管を加えた山場の気宇も、っかの佐藤雄一/慶應医学部管には及ばぬものの、っまずまず堪能せる、

2楽章では井﨑氏の上記の長所がものを云う、音価の長い楽句でも旋律上の転折への感覚がしかと働いていられるものと拝察せられ、音楽が流れを失うことがない、

フィナーレあたり、っやはり楽団にはもうひとつうまみが慾しい、

井﨑氏は来年、っなんと2団体とマーラー《復活》をなさるのだが、っうちひとつがきょうの楽団である、っあのテクニークでは限界のある奏楽にはなりそうだが、っそれでもたのしみにはちがいない、



っところで、ライヴへは行かなんだのだが、tvuchに原田慶太楼、広上淳一両氏の日本フィル公演の動画が上がったので、っともに購入してみたところ、っいずれも日フィルの秀抜をつよく実感せしめる果実であった、

原田氏については、っいつかの大阪行時に飛び込みで関西フィルとの福島での公演を聴き、力んだ棒が煩くてまったく失望し切りであった、っここでも、っすぐに音声を抜いて音のみを聴いており、動画は観ていないが、っおそらく同性格の棒とみられ、っしかし、福島よりも大音場である桜木町のお蔭もあろうか、無法にけたたましい感触はせず、っむしろ、日フィルの近年の精妙と、棒に煽られることによる往年の汗臭さとが絶妙の綜合で、公演全編をおおきにたのしむ、

オール・ラフマニノフ・プロで、劈頭にコン・マスの田之倉氏をソロへ立てて管絃楽版の《ヴォカリーズ》、阪田知樹氏を迎えて《パガニーニ・ラプソディ》、っそしてシムフォニー《2番》であるが、阪田氏のソロはまさしくピアノのパガニーニといったところ、オケは、件の逆行型の変奏など、っあたりまえといえばそうだが、冷静に強弱を効かせてもおり、対して激する場面はやはり力瘤を作っていて、っしかしそれが痛快、シムフォニーは、全曲微細な筆による労作のため、指揮者によってはただ流しているっきりで、オケが弾いてくれますので、ってな責任転嫁を感じさせ、書法上の妙を積極的に伝えむとする意志が発露しないまま暮れてしまうこともしばしばだが、原田氏は細部細部をいちいち執念深く抉られ、っそれはあの関西フィルとのときの印象と異ならないが、っぎっしりと凝結せる管絃楽法が全的に味到せられた佇まいには率直に首を垂れねばならないし、っその棒へ熱っぽく応えながら、っぎゃんぎゃんと破目を外すことがない日フィルはまことに立派である、2楽章など、テムポは遅いほどで、冒頭から、疾走感よりは声部声部の拮抗をどこまでも見届けむとする意図が前面へ出ており、っもちろんそのほうがぼくのこのみである、

っま、っそれでも原田氏の公演を物色して聴きに行ってみむとまではおもわないのだが、っどうも、アメリカ育ちで鋭敏なセンスの有ち主、っといった世評はぼくには短絡というか誤解の気味で、っむしろ多分に泥臭く、音楽をじたばたせしめねば気の済まない人ではないか、



っさて、っあすは川崎、坂入健司郎氏のマーラー《5番》であるが、オケの東京ユヴェントス・フィルは、テクニークはそれなりだが、相応に線の細いところがあり、世に上体逆三角形のスポーツマン・タイプの奏楽ばかりが為されており、っもっとでぶったダサい音響で聴きたいとぼくが切望せるこの曲において、っべつにさようの奏楽を志向されたいとはおもわないし、現にしてくれもしないだろうが、っそう切望しているぼくをも黙らせる達成を期待したい、っつまりこの曲も、っただなんとなく音が前へ進んでゆくっきりで、細部細部において、こういう表情なんですっ、こういう音色なんですっ、っとしつこくしつこく味を附けた演奏がぜんぜん行なわれていないのである、っその点で、コバケンさんのロンドン・フィル音盤は、っほんとうに人類史上の至寶と成った、スポーツマン然たるスマートな指揮者どもは、スポーツマンのままでよいから、っちゃんとああしたゲテモノを傍目に視ながら、あのずるい存在感と張り合わねばならない、っとの使命感に燃えてくれたい、っぼくにすれば、っこの曲の世の9割9分9厘までの演奏が、っしゃびしゃびで水っぽく、栄養素が足りなさすぎるのである、

、、、っううん、っあすは裏切られる気がするなあ、ったぶんそうしたスマートなだけであっさりしすぎた70分が通り過ぎて了わりということになってしまいそうな気がする、予想は辛く有っておいたほうがよいからね、っがぜひとも、っその裏切りを裏切ってくれたいところだ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




有楽町、




田代俊文氏の棒、東大の学生オケ公演、済む、演目は、ドヴォルザーク《謝肉祭》序曲、リスト《祭典のひびき》、っそしてブラームス《1番》である、

初めて入る有楽町C器だが、木調の内装で、1階から振り返って階上を見なかったが、っおそらく2,000席未満の規模で、アンプラグドの器楽でも声楽でも、っそれらの公演を想定した設計かとおもう、っじっさいのアコースティックはクリアで音量も豊富、残響もうつくしい、

先回に同コムビを聴いた際には、上野大器の3階だか4階だかから彼等を見下ろしており、っじゅうぶんにひびき切ったその音を聴くため、っあのように現実離れのした印象を結ぶことも可能であったのだが、っきょうは1階の10列目であり、っもっとリアルな音の実在感が勝ち、っなおかつ、オケはとても巧い、っあのチャイコフスキーの際には、テクニークとしては必ずしも優等ではないと聴き、っもっと別の要素に感銘したところ、っきょうドヴォルザークが始まると、っいきなり派手な打楽器を伴なうトュッティであり、っそれらに消されて絃の主題が聴こえないよくある演奏の姿をおもっていたが、田代氏の棒はおっとりとしたテムポで力みがなく、打楽器連が快音以上に騒音を発したりしないため、5部いずれもがよく弾ける絃はちゃんと聴こえ、っどころか絃主体の上品な耳当たりがするくらいである、管も、リスト、ブラームスまで通して、っもちろんときおり音が出なかったりはするが、脆弱ではなく、全体としてきのうのOrchestra Canvas Tokyoと伯仲の技倆である、

1階で、中音量以下でも各声部が潤いを帯びてゆたかに聴こえ、ドヴォルザークも、初めて聴くリストも、刻一刻と耳がうれしい悲鳴を上げる、

田代氏は、っついせんじつ聴いた田中一嘉氏などとお近い年代の方であろうが、っあちらのブラームスが現代の趣味を反映してか冒頭から全曲に亙ってややかるい音捌きでいらしたのに対し、っこちらはテムポといいひびきといい重たく、っぎっしりとした志向性である、っもっとも、っここでも余分な力は入っていられないため、溷濁せる汚ない音はしないのだが、2楽章など、絃のハーモニーがときに熾烈、っときに噎せ返るごとで、っやはり下手に清潔に悟り済まさず、っかように身体ごと歌い抜いてこその浪漫である、



っきのうのパンフレットへ挿入のフライヤーへ、冨平恭平氏がブルックナー《8番》をお振りになる案内があった、スケデュール・アプリケイションを検めるに、っその日はデュトワ/N響を聴くはずにしてあり、暫時、落胆するが、土曜公演で、っそちらは夕からであり、午に冨平氏を聴くことは可能であるとわかり、っよろこんで切符を購う、

っここ有楽町といえば、器のすぐ脇、JRのガード下へは王将があり、っまた喫煙スペイスもある、後者もとうぜん冷房が効いているのだろうとおもい、開演前にまずそちらへ寄ると、っざんねんながら空調はなし、っやや暑い、っしかし貴重な空間にはちがいなく、っいま王将で食事後、っちょうどスタムプが貯まって景品を貰ったのも気分が好く、っまた同喫煙スペイスへ来て、っまもなくこれをupし、自販機でアイスを購って退出する、

っお次は土曜から3連休、井﨑正浩氏、っおよび坂入健司郎氏公演2日連チャンで、最終日はきょうとおなじ器である、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

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