ざっかん記 -2ページ目

錦糸町、




森口真司氏の棒、FAF管公演、済む、演目はヴァグナー《トリスタン、、、》前奏と歌手なしで〈愛の死〉とと、マーラー《5番》とである、

っこの公演があしたであってくれたらなあ、っさすればゆうべは上岡敏之氏がピアノを弾かれるペーター・ローデル氏の《冬の旅》が聴け、っきょうはカーチュン氏を聴き、っあした森口氏だったものを、っしかもそのばあい、聴けないゆうべのカーチュン氏は配信動画で望みうるというまさしくザ・ベストの日程、っま、っしかし、演奏会の巡り合わせとはえてしてさようのものであらむ、

っきょうのFAF管は、っおなじ森口氏の棒で昨年、川崎で初めて実演を聴いたのであり、YouTubeには彼氏の棒になる、ライヴ・ノーツ・レイベルで馴染みのナミ・レコードが動画収録した数年前の錦糸町におくショスタコーヴィチ《10番》の公演の模様も上がっているが、川崎のときは自由席で、入場したのが遅く、2階の最良の部類の席は埋まってしまっており、3階正面右寄りで妥協するところ、彼等はやや線の細い、ったっぷりと満ち溢れない合奏であり、森口氏の辛口の造形は実感しえたが、物理音の量感としては不満を遺した、YouTubeのショスタコーヴィチにせよ、この手応えの合奏を客席で聴けば、脆弱さをおぼえずにいないだろうな、っという程度である、

っそれできょうもその覚悟を定めて来る、開演前の舞台上での浚いはまずまず豊富な音量であり、っこちとら理想的の位置取り、2階右翼の前方へ坐して、っこれはひょっとするとひょっとするかもしれないと期待を募らせるも、果たして、っやはりややよわいアンサムブルである、ヴァグナー冒頭から誰にも助けてもらえない弱音のセロのアルコは音程が甘く、産まれたての仔鹿みたようにぷるぷると頼りなく音が揺れている、っありふれたアマチュアの姿だ、っただ、森口氏の棒はあいかわらず淡麗にして厳密厳格であり、オケの技倆に制約のあるなかでも能うかぎりの曲趣のアッピールを成す、

マーラーは、プログラムを読んでいて膝を打つ、フィナーレのロンド主題はあきらかにブルックナー《8番》のフィナーレ㐧1テーマとアダージョのコーダの音型とを組み合わせたものだが、っこれまで音盤のライナー・ノーツや演奏会の楽曲解説などでその旨への言及をついぞ読まなんだ、っそれがきょうのプログラムへはちゃんと書いてあった、っこれまでそのことに気附きながらもどこへもそれが書いていないので、え、あんなに肖ているのに単なる偶然の一致で意図的な拝借じゃないのかよ、、、っと訝っていたぼくだが、っじつに溜飲を下げた、

っがその演奏は、後半になるほど息切れを来たし、ホルンの1番は3楽章においてもう音量がか細く、っはんたいにトロムペットは終局が近附くほど羽目を外し、放埓な音量と、相応の音色の汚濁とを結果す、っやはりマーラーは、っきょう日においてもアマチュアにとっては高い壁だ、

トロムペットの1番は女性で、次席に楽器を持ってもらい、松葉杖を突いてのご登壇であるが、曲頭のファンファールは、っわずかに1音吹き損じたものの、っその音色は、ぱ、っと開いた手応えで太い質感であり、っまことに快い、っこのファンファールを、ぱぱぱぱー、っとでなく、ぺぺぺぺー、っと細い、っぎすぎすした音質で来られると、っいかに上質の吹奏能力を有つ奏者であろうと、っぼくとしては馴染めないものだ、っやはりトロムペットは、ぱ、っと開いた音色、低い音域においては、ぽ、っと唸るような深い音色こそが基本のキであり、ぺ、っと喉を詰めたような窮窟な音質は聴いていてけっして愉快ではない、

葬送の門出はもたつかずすっきりと唄ってゆき、音色も濁らない、っそのうえ、厳粛のうちにもVaのリズムを弾み、音楽に活性が与えらる、流石に練達の森口氏である、

っこれはほんとうにおもしろいことだが、指揮者によって確乎として自分のひびきを有っている人もいれば、オケによって安定を欠き、バランスからなにからてんでばらばらになる人もいる、っゆうべのカーチュン氏にしてもきょうの森口氏にしても、典型的の前者の人であり、っきょうのオケは盤石の合奏能力とはいえないが、っそれでも技倆に勝れればさぞかしとおもわせるだけの音が絶えずしている、

2楽章の冒頭も、っなかなか迫力を出し切れずに、っなにか音楽が上滑りする憾を遺す演奏はプロフェッショナルでも珍かではないところ、っちゃんとぎっしりと各対位が殺到す、っただし、絃は細かい音型でまともな音量を出せず、対して金管はこの時点ですでにして必死に吹くだけ音色を汚しており、っゆとりがない、フィナーレと通有の主題で迎える束の間の勝鬨は、バーンスタインを筆頭とせるばたばたとした駈け足を嫌うぼくとして、っどっしりと腰を落とす森口氏には感謝深謝、っそうでなくてはっ、

3楽章は、云ったようにホルンの1番は乗っけからもう辛そうで、彼のみならず誰にせよあっぷあっぷ、っしかし、絃のトップ連によるピッツィのワルツは、Vnがアルコとなり、ホルンの対位と絡む部分がこの楽章のせつなさ、孤絶を代表するある種の名場面であり、っきょうの奏楽はちゃんと折れそうな繊細を伝えた、

アダージェットは、音量としては充ち足りないが、っふだん以上にハープの動きを賞味する時間だとおもうことにする、

フィナーレはますます金管が吹き荒んで来、っしばしば絃が消されてしまうのがざんねんであり、大団円は力盡くの粗暴さ、コーダは最後の最後で足並みが乱れたのがまことに惜しい、指揮者、楽員としても悔しかったことだろう、

っこの楽団へは、背伸びをせず、身の丈へ合ったプログラミングを望みたい、最も煩瑣な瞬間においてさえまだ若干の余力があります、っというのでなければ、っやはりマーラーを十全に乗り切り遂せるのは不可能である、

っさて、っあすはひざびさの予定のない日曜、っのんびりとカーチュン氏のブルックナーを録画するとせむ、っそれにしても、可能のかぎり演奏会へ行きまくらむとした去年とことしとで、通っている公演数はさほどちがわないのじゃないか、っこれから年末へ掛けても、土日のおおくは演奏会で埋まっており、平日に休みを取って行く公演もあり、ダブル・ヘッダーの機会も複数ある、地方へも何度も出掛け、宿を取っての旅程もいくつかある、っお銭を遣いすぎた2年間であり、来年以降はもっと節制せねば、、、

っお次は15日の日曜、高槻日帰りにて森口氏の公演である、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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ギロッポン、




カーチュン・ウォン氏の棒、日本フィルで、ブルックナー《9番》公演、済む、プログラムへファッスングの記載はないが、っまあどれであれおおきな異同はなかろう、アダージョまでを演って潔くはねる、拍手はソロ・カーテン・コールも含めて10分前後つづいたのかとおもうが、時計を見てもまだ20:20すぎだ、

客席は、閑古鳥が啼き勝ちであったのが惜しい、過去数種の公演はいずれも旗色闡明の大演奏揃いで、っそれを見届けてきた人も都近郊に大勢いようのに、っかかる重要プロへ挑まむとする彼氏の姿を望むべく駈け附けたいとはおもわないのだろうか、っその熱意のほどを疑る、

っとまれ、っこんかいもたいへんな演奏であった、っまず配置、絃は、Vnを左へ固め、Vaは表でVcは中とここまではなんの変哲もない、っがバスはホリゾントで、っしかも10もいる、っさようの配置を採ってもそのことによる音響効果がぜんぜん発揮せられない演奏も世に澎湃としているが、っきょうは覿面で、っもとよりカーチュン氏の際の日フィルの絃バスはごりごりとかなりソリッドな質感を志向しており、っそれがしばしばオルガンの最重低音と紛うばかりの質感を体現す、管については、木管は佐藤雄一氏みたように後列を通例と逆にはしていないが、金管はそうで、トロムペットが右、トロムボーン、テューバが左へいる、ホルン、ヴァグナー・テューバは左へ固め、ティムパニは右である、コン・マスはいつもの田之倉氏ではなくゲストで、っなんだか外国の若いあんちゃんでいらした、

っしかし、日フィルはきょうもまたいったいなんたる響を上げることだろうか、っほんとうに、聴いていてぜんぶが嘘か夢幻のようである、っどこまでもどこまでも無碍に羽搏いて、っおよそ留まるところを知らない、

1楽章の開始は、上岡敏之氏ほどではないにせよ、原始霧は最弱音、テムポは極めて遅く、木管の和音が鳴ると、早くも尋常ならざる色調である、ホルンの味も苦く、全員でクレッシェンドするとごつごつとしたすばらしい隆起を示す、トュッティによる㐧1テーマの確保へ向けて絃が動き出すとすかさずヴィブラートが効き、っはっと心裡の隙へ這い込まれるようで、っじつに鮮やかな手並みだ、音色を抑えずに煌めかせる木管は閃くように鳴り、っかえって大トュッティへ至らないうちからもう狂気の相へ踏ん込んでいるここちがする、っついに音型が細かくなり、金管、ティムパニを交え、トュッティへ達すると、っなおゆとりを余した鉄壁無類の合奏により、サントリーの大音場がびりびりと痺れる、曲頭から有無を云わせぬ鉄鎚の降下であるが、っこうでなければブルックナー《9番》は始まるまい、

っつづく経過ではピッツィをしっかりと高い質量で爪弾かせるのもとうぜんで、㐧2テーマへ遷るとやはりゆっくりとこころゆくまで謳う、ホルンの1番は信末氏ではなく客演でいられたようだが、っわずかな吹き損じをしかしご当人、気にして焦りを生じていられるのが挙措に露呈し、っのち、っほとんど全曲に亙ってトュッティでは吹かずにみなへ任され、っずっと楽器をくるくるくるくるさせていられるのがやや目へ障るといえば障った、っほかはみな吹かれているからホルンの方を観ていたいのに、大将も大将があたふたしながら、このままだと音ひっくり返っちゃうから、このままだと音ひっくり返っちゃうから、っというふうだからである、っまあしかし、っその必死の対処のお蔭もあり、彼氏はそれほど手痛いエラーを頻発されたというのでもなかった、閑話休題、同テーマ後半部へ入る部分では最上段横一線の絃バスがずしんと鳴って満堂を法悦境へ浸す、GPは遠く残響を見送ってなべて長く長く取られ、テーマ前半部へ還ると進行につれて自然と歩幅を詰め、抜かりなく音楽の失活を未然に防ぐ、

っけれども、㐧3テーマあたり、っやや抵抗なくさらさら流しすぎる嫌いがせぬでもなかったが、っそれも全体から逆算してのペイス配分であろう、

っここから先、展開、再現と逐次的に書いていたのでは夜が明けてしまうが、っどこか、っどこだろう、っそうさホルンがゲシュトップフトを用いるマルチアな部分、っあそこは宇野さんが日大管をお振りになった新宿文化センターでのライヴ盤のほんとうに軍隊行進みたようなきっぱりとした歩調もきもちよいが、本職の指揮者にはむしろのんびりとしたテムポのままの人がおおい、カーチュン氏はといえば、っもちろん宇野さんほどではないが、っほかの部分からすれば意図して前進性を強調されており、流石である、っそしてあそこでは、痛ましい歩みだったのに、中途から一寸っきりトロムペットが晴れがましい調へ移るのが憎い、人生の束の間の栄光を垣間見るここちだ、

っそれから再現㐧2テーマ手前の延々たる下降における各声部の動き方、っまいどながら、っあれはほんとうによくもああいう音楽を書いたものだとおもう、っぼくは最後のセロの動きがすきだ、っすきというか、っあんなものはもはや狂気の沙汰である、

っそのうえなお、っあの激越なコーダがやってくる、っどこまで聴く者を嬲れば気が済むのであろうか、っそしてブルックナーのあの手の息の長い登坂では、っとちゅうへ踊り場みたようなところがあり、っそれまででも張り裂くほど胸いっぱいの音楽だのに、っそこからさらに急峻な登攀を敢行するサディズムときている、っしかもそれを恬淡としてやってのけるのだ、っきょうはまた、全霊を振り絞った日フィルの勇敢なることといったら、

スケルツォは、遅い、っというほどではないが上滑りしない愼重なテムポを用意し、大粒のピッツィを時空へ刻み附けつ始める、ティムパニ、ホルン、トロムボーンによるデモーニッシュな地団駄では、っおそらく通例はダウン-アップ-ダウン、アップ-ダウン-アップか、っもしくはセンプレ・ダウンで弾かれるのだろうVnの4分音符の下降音型をすべてアップ・ボウというワガママ炸裂、ったのしい、トリオではホルン、トロムペットの地味な役割へも周到な目配り、

大事を取ってアダージョ前には再テューニング、っその冒頭の1stは過たず乾坤一擲の懊悩、、、っという云い種もヘンだが、っに身を捩り、和してくる他声部もつい勢い込んで濃密な音色にしてしまいたくなるところ、そのために音量を出しすぎるな、っと指揮者は掌で抑えるアクション、っじつに冷静だ、落陽を望むファンファールも、トュッティへ向けて上昇を始めるVaの《7番》の音型も、っそしてそのトュッティも、っいずれ劣らぬすばらしい眺望、っやはり日フィルは、背伸びしてやっとその音でなく、っまだぜんぜん余裕綽々ですというように、っしかし非の打ち所のない奏楽を示す、っこちとら唖然としてしまう、

㐧2テーマでは乗っけからぞんがいねちっこく絃を唸らせているのが印象的で、っこころを動かさずに崇遠な音楽をというよりは、破滅の刻へ向けて安閑とはしていられないといったところだ、っいっぽうでは客観的の冷徹さも具えるカーチュン氏のしかしかかるパッションは、っじつに愛すべき美質である、っただ、っついぼくの気分の問題であったかしれないが、ピッツィの伴奏が失われて以降の泪々の時間は、っぼくはもっと泣かされる心算で聴いていたが、っさほどでもなかった、っどうも、テーマ前半を粘ったぶんだけこのあたりは流れを重視してかるく捌いているようなところがあり、っぼくとはボタンの掛け違えか、っぼくはここをこそ、やや躊躇うように1音1音のために時間を取り、Vnのトゥリラーとフリュートとの重なりを大切に扱い、っとしてくれたかったのだが、

っとまれともあれ、演奏は先へゆくほど惜しむようにGPを長く長く取り、、、っしかしとちゅう、例のLの神秘和音ではその直前から不届者の着信音が鳴り出す、っまたそれが神韻を予示するようなきらきらした音色であったのがいかにも癪だ、っぼくにはよるの19時20時をすぎて電話をしてくるような友人知人はいない、電話が着信する可能性はほぼ皆無だがそれでもちゃんと機内モードにするのに、っなぜ、っまいにちよるだろうと誰かから電話が掛かってきてしまうかもしれないと本人わからないはずがないその人が、スマート・フォンを音が出るままの状態にして演奏会の客席へいて平気なのだろうか、っよのなかいろいろの人がいるからと悟り澄ましたことを云ってもよいが、っあんなときばかりは、てめこんにゃろめっ、いっぺん死んで人間やり直しやがれこなちきしょうっ、っとどやし附けたくもなろうというものだ、っとつじょテメエの着信音が鳴り出したらどんなにか肝が潰れるか、っそのあとどんなにか針の筵へ坐らされているここちがするか、っその恐怖へ想像が及ばないような輩は、ったしかにのうのうと人間をやっていてはダメである、死んでやり直さにゃ死んで、

っまあしかし、舞台上が中弱音でもそれを破ってそちらのほうが派手に聞こえてしまうというタイプの着信音ではなかったのが不幸中の幸いで、っどうとか気を取り直し、っついに破滅の和音へ至る最後のトュッティも日フィルは駄目を押さないまま踏破、GPはこのあとを全曲中で最も長く取ったものとみられ、コーダは敢えてのあっさり、っはじめに定めたテムポのまま最後ホルンが《7番》動機を昇り、ピッツィもそのテムポのなかで弾かせて了わる、

カーチュン氏の音は、曲想に応じた厳しさのなかにも恆にいつもの健康美が脈打ち、日フィルの信じ難い精妙と剛毅との両立と、っまたきょうの変則的の配置の妙とも相俟ち、オーケストラを聴くよろこびもここに極まるような一夜であった、っあすはもっと大勢のお客がその精華を胸裡へ刻むのであってくれたいが、っぼくは錦糸町、森口真司氏のマーラー《5番》だ、っきょうの公演は動画配信があるので、っまた録画しておかむ、っいままだ永山の駅でこれを書いており、っもう日附が変わって1時前、っきょうは午前のみ仕事をする心算だったが、億劫だから休んじゃお、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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参宮橋、




小柳英之氏の棒、アーベント・フィル公演、済む、予報が予報の態を成していない、っよるは降らないはずだったので安心していたところ、っひどい土砂降りで、駅まで歩くっきりでもずぶ濡れになる、癪だ、

っとまれ、チャイコフスキー《3・6番》、先回とおなじ器で、二重扉の外側がまだ故障中だったので、っまたひゅーひゅーいう演奏中のノイズを耐えねばならないのかとおもうが、っどういうわけかきょうはそのノイズは皆無であった、っところが、っこんどは冷房が効きすぎで、数えるほどっきりいないお客の幾人かも寒い寒い文句を云っている、っともかく万事が無粋な彼等の公演で、っとうぜんぼくはすべて微苦笑とともに甘受している、っあってあたりまえとおもうなホスピタリティ、望む所だ、多少の不自由は耐えてみせる、っそういう気概を理解しない人を、っぼくは軽蔑する、

登壇される小柳氏はあいかわらずのたどたどしさ、不細工放題の振り姿、っしかし、っきょうはいつもみたような出処の誤りはほぼ起こらない、っもちろんどたばたした奏楽にはちがいないが、っぼくはオーケストラのアンサムブルというものは、っある種あれでじゅうぶんではないかとおもう、っまずまず弾けていさえすれば、っそこから先に慾しいのはさらなる洗練よりは音楽を訴えるこころである、

《ポーランド》は、緩徐章あたり、っあるいはぼくは《5番》のそれを凌いでいるのじゃないかとおもうほどで、劈頭のファゴットと横笛との音色から不思議だし、ファゴットとホルンととの呟き、絃の静かなピッツィの緊張感、っそして絃合奏の歌謡主題はいかにも切ない、っきょうそこが始まると、っぼくは泣かされてしまう、スマートな作為というものからあまりにもあまりにも遠いので、スマートじゃない、っとクリティカルに云いたい気がこちとらほんとうに完封せられてしまう、スマートさを志向していない人を相手に、あなたはスマートじゃない、っと云ってもそれは批判として成立していない、ええ、わかっていますよ、目指していませんからスマートを、っという話だ、っそしてくりかえすが、っかかる不細工な奏楽を、っぼくはぜんぜん演奏藝術のうちに数えてよいとおもう、っや、ぜったいに数えなければならない、っという当為をつよくおぼえる、

っそれまでの経緯に対してフィナーレの曲想が唐突かつ軽薄だと云われ勝ちの同曲だが、っきょうのそこはどっしりと野太く、フーガも野暮臭く、初めてこの曲の終曲たるの面目を示した格好だ、右へ固めた金管は荒ぶる咆哮を上げるが、渋く快い音色で、少数の絃はしかしこの野獣の群れみたような連中と懸命に渡り合う、

っそれでも《悲愴》では、1楽章の㐧2テーマあたり、っせめてもう一回りおおきな編成が慾しかったが、全体のぎしぎしいう合奏はここでも魅惑満載、ダサい小柳氏もしかし、1楽章の展開の中途でテーマを全員で絶叫する際にがくんとブレイキを踏んだり、2楽章のトリオ、3楽章の頂点もそう、っひびきを全開にしてゆっくりと全楽を見渡している姿は、裸の王様もここまで突き抜けるともはやカッコいい、どうぞそのまま素っ裸でいてください、っというところだ、

っところで、絃バスには佐藤雄一氏の関係団体のいくつかでも乗られている男性と女性とがいられた、っあんなにも性格性格の異なる怪人怪人と共同作業ができて、っさぞかし演奏家冥利に盡きることだろう、



っさて、っお次は金曜、カーチュン・ウォン氏と日本フィルとのブルックナー《9番》、翌土曜は森口真司氏のマーラー《5番》である、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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錦糸町、




森口真司氏の棒、東京楽友協会響なる60と余年の来歴を有つという楽団の公演、済む、

演目は、バッハのオルガン曲《幻想曲とフーガと》をエルガーがオーケストレイションしたものと、マーラー《トラギッシェ》ととである、森口氏は昨年フライハイト響でマーラー《9番》をお振りになったが、っそのときも前プロへシェーンベルクが編んだバッハが置かれていた、バッハ/エルガーは10分に満たない小品だが、事後は20分休憩、っが、開演直前に降りはじめた雨は同曲後もまだ降りつづいており、喫煙へ出られないで、っゆうべも帰宅が遅かったこともあり、自席へ戻って瞑目している、

オケはアマチュアとして老舗の閾へ存るだけのことはあり、バッハの時点ではほとんどプロフェッショナルと遜色がないとしうるほど、全パートに等分の実力があり、綜奏は抜群に安定している、低絃を背景にオーボー、クラリネットがまず幻想曲の主題をリレーし、中絃、高絃を加えると、っその雰囲気はまさしくファンタスティック、ハープもよく活き、絃バスはアルコのときとピッツィのときとの質感の差が効果的である、っいちど打楽器を交えておおきく漸増するが、っその際の荘厳なひびき、管に吼えられても譲らないどっしりとした絃、っまったくすばらしい、一旦、終止し、っつづくフーガの主題は俄然、精彩を得て、オケはますます自在に羽搏く、

っこれは相当な団体だとおもい、マーラーへの期待も高まるが、っぼくのおもっていた最上の成果を達するためのオートノミーが示されたとはいえず、っややざんねん、っもっとも、冒頭から森口氏のテムポ、音の重さは、重すぎず軽すぎず、っまことにツボを当てて妙であり、っすくなくも絃、っそしてスネアあたりはその棒へ万全に応えるだけの用意がある、っが、トロムボーンはいきなり音を外し、トロムペットの1番もよく吹けずにしまう、前者は提示のリピートでは挽回したが、後者はその際もダメであり、萎縮して音量も出せずにいる、っあのハイ・トーンが吹けないのではなく、っその前の附点リズムが2度ともちゃんと処理できていなんだ、

っもちろん、っそれはごく個別のことであり、全体としては覇気漲るみごとな合奏で、著しく複雑な展開も敢然奮然とくぐり抜けてゆく、アルマを恋う㐧2テーマへ遷移する際に勿体ぶってテムポを撓めないのは森口氏の最大の美質で、っかつ、コーダでは最後の疾走へ入る手前のアラルガンドをぞんぶんに減速、っさようの定め所をちゃんと強調してくれるのもじつに親切設計だが、疾走句へ遷る途端のアクセル全開も諾なる哉、直前とおなじテムポのまま始め、っようようアクセルを踏んでゆく軟派な手口ではない、

2・3楽章はアンダンテ、スケルツォの演奏順、前者は、コール・アングレのテーマが出る際の横笛の音彩が、冴え冴えとしていてこそ胸苦しく、ハープの強奏はこころへガラスの破片が突き刺さるよう、ホルンがバトンを受け取ると、最も窮窟な精神の秘所へ連れ込まれる気がし、聴いていて辛いくらいだ、

スケルツォは煩瑣な変拍子へ丁寧に応接、森口氏の譜読みの穿ちもなかなかのもので、っとちゅう、ファゴットが敢えて優雅なワルツのようにたっぷりと唄ったりする、

フィナーレは、事前の予想ではもっと全員が全曲の終止まで冷静なままでいられる奏楽を描いていたが、っどっこい死力を盡した闘いであり、相応にどたばたもする、ハムマーは2度であったが、っその打撃を喰うたびに楽員は奮い立ち、シュトラウスをして過剰濃密と云わしめた楽想の欝積をこのいまにつよく実感せしめる、っついに斃れ、トロムボーン、テューバ、ホルンが弔いを見舞い、凄惨な破滅へ了わる、



っさて、渋谷へ移動中、小柳英之氏のチャイコフスキー《3・6番》だ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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川越、




森口真司氏の棒、オーケストラ・ダヴァーイ公演、済む、ロシアの珍曲ばかり演っている同団で、っしたがってさほど数多の来場者が見込めるとはいえず、っそれで自由席だとまた例によって1階席のみ開放かと危ぶむが、っちゃんと全席開放で、っよろしく、っあれは2階なのか3階なのか、右側のバルコニーへ良席を得る、

っきょうも、っきょうは川越へかなり早く着いて、焼き鳥屋で呑みながら食事をしてしまったこともあり、っまたときおり睡くてしまった、っおっと、演目は、ムソルグスキー《禿山の一夜》、グラズノフ《ステンカ・ラージン》、、、ステンカ、っはたしか蔑称であったかとおもい、スチェパン、っへ更新するほうがよいのかもしらんが、、、っちがうか、逆か、合っているのか、スチェパンとかというへんてこな発音のほうが正称なのかよとおもった記憶が遺っているから、ったぶん合っている、っそして彼の地の英雄譚〈イリヤ・ムーロメツ〉の副題を有つグリエール《3番》である、

ムソルグスキーは彼等からしたらぜんぜん有名曲の部類であり、っもちろんぼくもよく識っているが、森口氏の振り姿はあいかわらずカッコいい、っとくに烈しいアタックを定める際の、アウフタクトで掲げておいた腕を振ってすぐさま元の位置へ戻すアクションこそは客席から観ていても痛快で、楽員諸氏もああした振り方をされるとおおきに気概を刺戟せらることだろう、っその端然たる名指揮に違わず、オケは開幕から清冽に鳴り渡る、

グラズノフからもうぼくはちゃんと聴いたことがないのであるが、オケはひじょうに巧く、近年落成の器はさっぱりと抜けのよいトーンで快い、

開演は13:15とずいぶん早かったが、っなぜだろうとおもうと、4楽章制のグリエールはじつに全奏80分余の超大曲であった、っぜんぜん識らない曲であり、冒頭から努めて楽想を憶えておかむとするも、っその1楽章はプロローグのような部分がずっと長くてなかなか音楽が動勢を得て来ず、お、やっとクレッシェンドしたかな、やっと細かい音符も出てきたかな、っとおもってもすぐに波が引いてつぎの断章へ遷るようで、っおそらく、シムフォニーと云う条、っある程度は物語の筋を追っているものとみられ、音楽的にはかえって索莫としてしまうのかとおもう、

2楽章は緩徐章であったようで、っついに睡魔へ勝てず、中途からまるで記憶がない、

対してスケルツォ的の3楽章は冒頭から音彩が眩しく、っまずまず目覚める、

フィナーレは流石に動的であり、ロシア人の筆でもあり、山場ではこれでもかとばかり金管が吼えつづける、っついに胸突き八丁はタムタムの痛打等を伴なう破滅的の大音響で、英雄譚の通り相場として〈イリヤ・ムーロメツ〉も悲壮な最期を迎えるらしいが、っこのけたたましいトュッティのあと、低音から順に金管がコラール風の動機を重ねてゆくのは、弔いの楽であったのかとおもう、最後はシュトラウス《ドン・ファン》などに肖て、絃がピッツィカートを何度か弾いて事切れる、全編をしっかり目覚めて聴いていられなんだのが悔やまる、

森口氏の公演はこのあと、都近郊開催のもの以外へもいくつか出向いてみる予定である、高槻でひとつ、っまた、彼氏がプロフェッサーをなすっているいわば本拠、大分でふたつ、大分はともに日曜の14時開演の公演だが、っまるまる1日掛けてどうとか新幹線で日帰りが可能と踏んだ、っそして東京では2楽団でマーラー《5・6番》という重要公演の開催が迫っている、っうち《トラギッシェ》が来週のきょう午であり、同日よるには渋谷で小柳英之氏のチャイコフスキー《3・6番》と、っなんともヘヴィな休日だが、っこんどこそ、っちゃんと目覚めていられるよう体調を整えて臨まねば、

っところで、っかかるばあい、森口氏はあす以降来週までを都内でホテル暮らしなどされるのだろうか、っそれともいちいち大分へお帰りになり、っまたわざわざ上京されるのだろうか、っその翌週にはすぐ同《5番》が控えていられるところをみると、っあるいはずっと東京へいらっしゃるのかもしれない、っそして大学の夏季休暇明けへ合わせて大分へお戻りになるのかと拝察せらる、

っともかく、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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中野、




田尻真高氏の棒、オーケストラ・ダ・ヴィンチなる団体の公演、済む、

芥川也寸志《交響管絃楽のための音楽》、伊福部昭《シンフォニア・タプカーラ》、っそしてショスタコーヴィチ《8番》というごく贅沢なプログラムであったが、っざんねんながら、睡くて睡くてかなわず、全編を覚醒して聴いていた曲はひとつもない、っそれでも前プロはともに8割方の記憶があるが、ショスタコーヴィチについては、反対に8割方を聴いていなんだ、

現場へ通っているときはあさが早く、っけさなども5時すぎには目が覚めてしまう、っそのあと2度睡をしておけばよかったものを、っなにか起きたままでいてしまって、中野へ向かう道中でもぼんやりと瞼が重い、

器へは開場の小1時間前に着き、一番乗りであって、スタッフの方へ、2階席は開放されますか、っとうががっておいて、っせっかくに2階右方の2列分ほど前方へ張り出したその最前列へ陣取ったというのに、勿体ないことをした、

オケは東京音大の近年の卒業生連中を母体に、全国の学生オケ卒団者を集めているといい、っまずまずの合奏能力を有つ、個々のパートも、ったとえばファゴットの、曲毎に乗り替えがあったかしらないが、っうちのひとりの女性は、っいますぐにでもオーディションを受ければ、っどこのプロ・オケでもよろこんで採ってくれるだろうという抜群の存在感でいられた、

器は、佐藤雄一氏のブルックナー《5番》をここで聴いたとき、こんなに音が好いのかっ、っと驚かされたが、っきょうも芥川から、ああ、好い音だなあ、っと実感す、1,200ほどの席数というが、っぼくは多摩センなどをおもっていた、容積として近いのではないか、豊饒芳醇というのではない、っすっきりとして、っしかし快い残響もする、各ソロの音像も大粒で近く感ぜらる、

芥川では期待したほど合奏が緻密でない気がしたが、伊福部では冒頭の低絃、中途からの高絃の参入と、っいずれも楽器の物理音を超えて凍てついた北國の地平を展き、主部はぎっしりと中身の詰まった歯応えで、再現の直前にはハープに彩られたセロのソロがあるが、っそのトップの女の子の奏楽もまったくすばらしかった、

同2楽章は、っところどころうつらうつらしていてしまったが、っまんなかのオーボー2本が2小節ずつ伴奏音型を吹きつづける部分の寂寥はいつになく胸へ迫った、

フィナーレは、っもっと細部細部の彫琢がありえてもよいが、っこの曲を謳うためのむさくるしさ、カッコ附けなさ、有無を云わせぬ音圧の発散が中規模音場を席捲し、っまずまず痛快である、っいっぽうで、ティムパニの合図に始まるまんなかのカノン部、殊にそのテーマをダブル・タームで唄うセロ、ホルン、、、っあれホルンのときはホルンはさいしょは吹いていないで、っとちゅうまでファゴットかなにかなのかな、っともかく、っそれを聴くここちこそは、っじつにせつなくてやり切れなんだものだ、



ショスタコーヴィチは、っほぼ完全に睡ていてしまったが、1楽章のさいしょ、低絃からVa、2nd、1stと加わって漸増しても、井上キーミツ/名古屋フィルを聴いたときのような、っそのまま異界へ拐われてしまうのじゃないかという音色、アトモスフィアは出来せず、ピッチのかすかな不徹底などを聞くと、プロフェッショナルというものがいかに厳密に奏楽を為しているかにも想い至る、っここでぐっと惹き込まれれば睡気も吹っ飛んだかしれないが、っつい俯いて、頻繁なるうとうとを始める、同楽章まんなかへんの動的の部分も、一部、起きて聴いていたが、っあのホルンの連符の動機、っそれを導くクラリネットと絃のピッツィカートとの重なった未来都市から届くテレパシーなどは、っやはり如実には鳴っておらず、楽器の生の質感が露呈してしまっていた、

っさようのわけで、っだんだんと聴く意慾が薄れてしまったのだった、



っさて、っあすは川越、森口真司氏の公演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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川崎、




金山隆夫氏の棒、っみなとみらい21響なる団体の公演、済む、アマチュアとしてそれなりに名のある楽団なのだろうか、有料公演にも拘わらず、っけっこう席は埋まっており、3階席までお客がちらほらいた、っもっとも、っぼくは貰わなんだが、出るときに次回公演の無料招待券を配っており、今次の来場者も前回公演時にそれを貰った人たちがおおかったかしれないが、

演目はマーラー《3番》の前にモーツァルト《キリエ》とブラームス《哀悼歌》ととおなかいっぱいで、13:30開演、3時間は大袈裟だが、っそれへなんなむとする上演時間である、

コーラスはモーツァルトの㐧1声、キリエ、っから眞情が籠もり、開幕から胸も張り裂くよう、オケはこの曲から絃が大勢乗るが、愼ましい音量であり、人声のキャラクターを阻害してしまわないどころか、っそれとみごと相俟つ、調はマーラーを予示してニ短調だ、

ブラームスは音型、音構造の組み立て、オーケストレイションの特有がシムフォニーなど彼の有名作をあれこれと想い起こせしめ、っとちゅう弱音へ落ち、っほとんどオケのバックを失なってソプラノから新しい主題が出ると、っその静謐はしんしんと胸へ沁みたものである、

っで休憩してマーラー《3番》、去年のカーチュン・ウォン氏と日本フィルとの演奏にいたくやられ、動画から音声を抜いたものをくりかえし愛聴している旨、云ったが、っのち、っすべてことしへ入ってからだろうか、順番も記憶がアヤしいが、井上キーミツ/新日本フィル、佐伯正則氏、ヴァルチュハ/読響とたびたび聴き、っしかしそれらはカーチュン氏の云いたいことを残らず云い切った畢生の勇姿を忘れさせてくれるものではなかった、っその曲をどのくらい偏愛しているかにも依るが、トップへ躍り出てくれなくては、っけっきょくは演奏というものは忘れていってしまうものである、っとくにキーミツについては、数年前に池袋で読響とのものを聴き、っつまり近年中に2度もの機会があったにも拘わらず、っいずれも飛び抜けた好印象を遺してくれていないのが悔やまれる、ヴァルチュハ氏についても、オケも声楽も万全ではなかったし、っなにより指揮者の表現としてぜんぜん刻一刻と目が詰んでおらず、っあんな表現意志の曖昧な演奏では、っぼくはほとんどなにも感じないと云ってよい、もっともっとありとある細部でごりっごりに突っ込んでこんかいっ、っという、っその点カーチュン氏は、ピースとしてアルトの坂本女史にはやや難があったが、全曲全体の確乎たる煮詰まりぐあいはその弱点を補って余りある次元へ達しており、っわるくすると陰惨なグロテスクさが主張してき勝ち、、、ヴァルチュハ氏は妙に表情の附いているときほどかえってさようの抵抗を与えた、っのこの曲にあって、絶えず顔を上げて前進してゆく太陽のような天眞爛漫が咲き誇っているところが、っぼくの胸を最もときめかせている要因である、

佐伯氏はといえば、マーラーについては、っあれほどごちゃごちゃとした筆であれば、聴き手の感銘へ一定のテクニークそれ自身を前提せざるをえない面もあり、っあの日の楽団は、っけっして下手ではなかったが、っしかしそのハードルを跳べてはいなんだか、っしかし、っそうした水準の楽団は反対に耳当たりの素朴な風合いが魅力でもあり、腕が足りない、っというざんねんは憶えているが、ヴァルチュハ氏を聴いているときのような、この手の演奏にはぜんぜんノれない、っという悪印象は遺存していない、っおなじようにアマチュアのマーラーでは、っせんじつ千葉で聴いたネコケン氏の《夜歌》など、っあの千葉フィルという団体もテクニークとして玄人跣というレヴェルではなかったが、っやはり粗野な音色とアンサムブルとが恆に無上に快く、っどこまでも小ざっぱりとしていた先般のノット/新日フィルよりもずっとずっとこころへ迫る、抱き締めたくなるような大演奏であった、

っさて、っきょうの金山/みなとみらい21響だが、っとてもすばらしかった、技倆の水準としてはちょうど千葉フィルととんとんというくらいだが、木管の各1番はみな愛すべきキャラクターたち、トロムペット、トロムボーンの各1番はともに頑張り屋さん、3楽章では前者が袖へ下がって扉を開けてポスト・ホルンを吹かれたが、トロムペットともども、腕にはあきらかに限界がある、っけれども音楽を訴えるこころは人一倍で、っその3楽章では、ヴァルチュハ氏のときの、吹き損なわないように神経質に拍へ音を嵌めてゆくっきりの読響の奏者の味気ない吹奏が怨めしく想い返された、音楽をしてくれなくては音楽をっ、

っそしてホルンの1番っっっ、っもちろん完全に無疵ではなかったが、っその滑らかでかつ抜群にこくのある音色と優婉なフレイジングとこそは秀抜で、1楽章の例のソロでは、っぼくもおもわずにぎゅっと泪腺を絞らる、

金山氏の棒は相変わらずおおらかで、細部をぜんぜんかちこちと定めずに進められるが、っぞんがい喰い足らないという気がせず、っむしろ誰の演奏でもぼくとして不満を抱き勝ちの1楽章の終結部など、実演では最も痛快なもののひとつであったとさえ云いうる、力感、音量音圧の解放は最適の手応えで、っそして最後の疾走句へ突入してもかなりテムポが遅いっっっ、っそのなかでトロムペットは全員でおなかいっぱいにけたたましく叫び、全体のがたぴし軋る荒びた合奏も素敵である、っあのトロムペットは、長丁場の最後の見せ場だのに、っはじめのうち音域が低いので、っちゃんと全員がこころして吹かないと、音勢としてぞんがい他声の裡へ埋没し勝ちとなるのだ、

2・3楽章は、っやはり音楽がつまらないとでもいうように憮然と振られる金山氏の棒からは、っさばさばと不必要に拘らない音が鳴るが、不思議、魅力に欠けるというのでもなく、後者で最後にポスト・ホルンが聴こえる場面では、舞台上の絃のしずしずとしたひびきが、マーラーのこころの襞のひとひらひとひらと映ずる、

ニーチェを謳うアルトは前島眞奈美女史、っこれがまたすばらしかった、現代のドイッチュの発音で唄われていられたが、音域だけが低く、音の色は明るく濁らず、っというぼくがこの声部へ求めるまさにそのことの体現者で、っとちゅうオケのみになり、Vnが示す新しい主題はのちに彼女とのユニゾンとなるが、朗々たる声量は器楽に掻き消されてしまうこともなく、

5楽章のコーラスはボーイズと成年女声とがほぼ同数、っけっこう大勢が乗られており、っその後者は前プロのときほど奮わず、年齢層相応に音色が濁っているうえ、附点のリズムの処理を小気味よく達せられないので、天使というよりは地上の人間の歌だ、っしかしボーイズは、プロフェッショナルの楽団と共演するきれいな声でっきり唄わせない団体とちがい、っちゃんとチャイルディッシュな地声を遣っており、っぼくはもっと地声地声していても大歓迎だったくらいだが、世のあまねくボーイズ・コーラスよ、かかれかしっ、っというところ、最前列の男の子ひとりは唄い了えて着席、オケの6楽章の演奏中にぐーすかぴーに睡りこけてしまい、終演後、万雷の拍手が起こり、周りの子に何度も肩を叩かれても一向に起きず、っぼくなど、睡ているのじゃなく熱中症かなにかで倒れているのじゃ、、、っとひやひやしたくらいだが、っだいぶんあって睡たい眼をこすって起きて立ち上がっていた、っかわいい、

6楽章はやはりさばさば、緩徐章としてかなりテムポの速い部類で、っぐんぐん語り進むが、絃は各声部ともおもいの丈を赫裸に語り、管打を交えるとこんどは意想外なほど剛毅に屹立、金管のコラールはこちとら泪なしには聴けず、っついに迎える大団円は全員全力投球、1楽章の終結同様、トロムペットが大活躍、美観のためにこの楽器やティムパニを抑え、絃のトレモロを主体にひびきを作る指揮者もおおいなか、っぼくにとってはこれこそが本寸法も本寸法だ、胸の空くような幕切れだった、



っところで、Xをあれこれとほっつき歩っていると、っまず気になるのはなにかにつけて男女間の分断を煽る投稿、自由な言論と云う条、っその実、っどこぞからカネを貰って日本社会へ混乱を吹き込まむという勢力もあるのか、っあるは運営自身が我が国への攪乱を企図してそうした投稿が優先的に流布するアルゴリズムを組んでいる可能性も否定しえないとおもうが、っさいきんは、8/15前後だったので、っやはりそれ関連の投稿もおおく、愕くのは、っこの期に及んでいまだにあたりまえに左巻きの内容が澎湃としていること、っやはりそれもさようのビジネスであったりマニピュレイションであったりするのかと訝っているところで、アット・ランダムにそれらへ、っべつに挑発的というのでもないがいくつも返信を送っておいたところ、梨の礫、誰も応戦してくる相手はおらず、っしかしきょう、っおひとりだけ反応してくれた人がいた、っそれはぼくの先の拙ブログの近代史観を煎じ詰めて、改憲すると戰爭へ駆り出されるぞと宣っている御仁へ、おっしゃることは、ぼくらはぼくらの民主主義的選択によっては戰爭を回避する自信がない、っというように聞こえます、っという返信なのだが、っそれへ対して曰く、リプライするなとは云わないが、する以上は相手に通ずることばを択べ、わけがわからない、日本語から勉強し直せ、っと来られたのだ、っま、っそんなことは短文投稿ではあり勝ちの暖簾に腕押し、糠に釘で、っぼくとしてべつにさしたる落胆もないのだが、っこの世紀の名文家、美文家たるぼくを相手に、日本語から勉強し直せ、っとは云いも云ったり、、、っま、冗談ですけれど、っつまり言論の自由だなんだと聞こえのよいことを云っても、大半の投稿者はぬくぬくとした賛同者っきり慾しくないということなのである、っけれども、改憲したらアメリカの戰爭へ附き合わされるだの、子弟を軍隊へ取られるだのというのは、っつまりくりかえすが、っぼくらの民主主義的選択によってはそうした事態を避けえないとかんがえることなので、っぼくにすれば民主主義への諦め、不信とみえる、っさように民主主義を信じてもいない者が、民主主義を守れっ、っと声を上げるというのは、っどうにも理解に苦しむので、っそうした疑問の提起は、彼等にとってだって有意義なはずであり、っぼくとしても、なるほどっ、民主主義にはさようの理解がありえたのかっ、っと眼から鱗を剝がされたくて返信を送っている心算なのだが、

っこの気分は、っむかしすこしく2chへ投稿していたときと同断である、っけっきょく誰も、論敵との間にも共有しうる文脈を探り合い、批判的の結論へ達せむという胆力を有たない、自身に既知の文脈をトレイスしたがっているだけであり、っそれへの震蘯へは思案の余地なく厭々をする、

時期も時期だったので閑潰しに無差別の返信をしてみたっきりであり、精神衛生のためにも、今後は控えむ、っきょうのその人が単に議論を避けたいだけの意気地なしだとわかった途端、っぼくの胸裡へはある心象が去来した、X上にせよどこにせよ、下手の鉄砲を数撃っても、滅多にはまともな論敵へ巡り逢えないのは、演奏とおなじだ、っと、っひとつの名演へ行き当たるには、100の凡演を通過せねばならない、疲れるのは、っそしてこころ虚しいのは、駄演よりも凡演を聴くときである、名演を選り分ける気の遠くなるような作業を身体で知るぼくとして、不特定多数の短文投稿者の群から、っちゃんと相手の文脈へも乗り、っこちとらの文脈を相手へ呑ませむと意を砕き、っそういう相互応答の苦労へこそよろこびを見出す奇特な人をさがしだすのは、っいかにも至難であるとやる前からわかる、っそんなよろこばしき苦労は、名演探し独りでたくさんである、

軽率でした、っと、



っさてお次は、世田谷の現場が水曜あたりまでで一段落しそうで、土曜は休んでも大丈夫とおもうので、中野で伊福部昭とショスタコーヴィチとが演奏せられる公演へ行かむかとおもう、アマチュアであろうが、っすばらしく意慾的のプログラミングだ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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世田谷の、




中学校校庭の調査、続行中だが、っあすは大風のため、事前に中止とした、会社からも、とくだん緊急の業務がないばあい、休暇の取得を推奨する、っとの達しがあり、素直に休むこととした、



っぼくはXを偏執的にサーフィンすることはしない、っここのところ散発的にあれこれのポストへ返信をしているが、自分ではポストはしていない、っこの駄ブログの更新時毎に、リンクを投稿しているのみだ、

っきょうは先の大戰の終戰の日、、、一般に右傾の向きでは敗戰の日と呼ぼう敗戰の日と呼ぼうと云わるが、っぼくは、っまず形式上のみとはいえ、有色人種の解放という大義の一端は果たされたという点で、必ずしも敗北一色ではないと解し、敢えて終戰の呼称にこだわりたい、大東亞戰爭は、っあるは幕末からその終戰へ至るまでの1世紀弱の激動の経緯は、500年1000年の時を經れば、大略として我が日本のあらたなる神話として語られうる内容を誇っているとおもう、っこれは言及済みだが、戰爭を美化するなという声はおおいけれども、美化とは、っうつくしくないものをさもうつくしいかのように騙ることを謂う語彙である、っだから、先の大戰を美化するな、っと云われてもぼくにはさしてひびかない、っそもぼくは大東亞戰爭を頂点とする我が国の近代史を、大略として、っここ再度三度くりかえすよ、大略としてまったくうつくしいとおもうからである、っもちろん悲劇もあり、暗部も恥部もあろう、っけれども、っそのことをいくら強調されても、っそれはどこまでどう解釋してみたところが、っけっきょくはむつかしい時代のなかでの不可抗力と納得するよりほかなかろうとの結論へ、っすくなくもぼくはいつも落着する、、、っえっと、上の読点3つからここまでが挿入句ね、っだが、っなんだかヴァイオリン弾きらしい方のポストで、っその方のおばあさまがほかでもない79年前のきょう8/15にものされたという日記の文面画像をupされ、旧字、旧仮名遣いのために判読に難儀されている旨、投稿されているのへ行き合った、っすでにほかの方が全文の新字、新仮名への置換をなされていたのだが、っぼくにとってもさほど難読の文面ではなく、っほぼ滞りなく読み下すことができた、っそして、っその文脈にいたく感銘を享け、っひとこと、返信を送らせていただいた、

っその大意は、玉音放送を拝し、泪したこと、兵卒、およびそのご家族への慰撫と深謝と、敗戰が我が3000年の史上におく一大汚点であること、國體の護持こそが肝要で、我等はきょうというこの日の汚辱をけっして忘るまいと胸底へ銘記し、いつの日か必ずや仇を討たむ、っと、

っその方は大正のお生まれといい、っしたがって終戰時にはお若くてハイ・ティーン、上で30がらみというところだが、っかかる手記、っつまり他人に読まることを想定していない、飾る必要も騙る必要もない、眞率と取ってよいだろう文筆がさようの文面をしているということは、っいかにもぼくの溜飲を下げる、

っわけてもほくがいちばんに感激し、返信を送らずにいられなんだのは、以下の1文へ接するに及んでである、曰く、でもこの罪は誰にあるのか? 政府、軍人は問うまでもない、私達一億国民が背負うべきだ、っと、っこのたった1文脈はしかし、戰後に流布せしめられた自虐史観をきれいさっぱり洗って余りある、っぼくは兼ねてより、戰前・戰中を確立せる自意識と社会性と、、、っもっと早く云えば常識を有って生きられた世代の方には、戰後に洗脳を受けた世代がおもうよりも遙けく冷静で幅広く、逞ましい自己認識、社会認識がともにおありだったろうとかんがえていたものだが、っこの方の手記はまさしくその證左である、

っわずか一個の傍證にすぎないと云わるかもしれない、っが、前段の文面から推して、失礼ながら、っこの方は社会的に特別に高い地位に存る選良的の女性とはみえない、っいわばなんの変哲もない市井の人として大過はなかろう、っよって、っこの文面と同様の認識を具えた国民がその往時に相当数いられたと当て込むことにも、っまた大過はないと思量せらる、

っいまいちど、>でもこの罪は誰にあるのか? 政府、軍人は問うまでもない、私達一億国民が背負うべきだ、っぼくのかかる自虐史観への修正の企てを煙たがる向きは、どうせおまえは、>私達一億国民が背負うべきだ、との自己責任論をよがっているのだろう、っと横槍を入れたいのではないか、っしかしそれはぼくにとりさほどの痛痒ではない、っぼくがより感銘しているのはむしろ、>政府、軍人は問うまでもない、っこの1文である、っこの1文が引用文全体へ与える奥行きこそは、っじつに甚大である、自虐史観を覆されそうになることを嫌がる向きに、っそのことがわかるだろうか、っぼくはぜひにわかってくれたい、

っもう日附を跨いで終戰の日はきのうとなったが、っきょうは休みを取ったので、っこのまま、っなるがたけ丁寧な説明を試みたい、

戰後の歴史認識というものにぼくがおぼえる脆弱さとは、自国の歴史とその経緯に対する責めを、っなんらの躊躇とてなく他責的に語る安易である、っそしてその安易を、>でもこの罪は誰にあるのか? 政府、軍人は問うまでもない、私達一億国民が背負うべきだ、っとの戰前・戰中派の手記は優にクリアされている、自虐史観に隨えば、っなんだか戰前・戰中の我が先人はお上からの達しに隷従盲従せる不明の人の群れということとなるが、>政府、軍人は問うまでもない、っの1文がその偏見を払拭する、っのみならずこの引用文全体は、他責的に責任の所在を探しているのでなく、政府、軍部の要人も一介の市民も、等しく我が日本国国民に相違なかろう、っと読める、

体制として民主主義を布くからには、国民として政府を対他的に語ることは、っすなわち幼稚であり拙劣である、っというよりも、彼彼女は民主主義を正解していないというほうが当たっている、彼彼女は云うだろうか、選挙制度を典型として、民意を反映しづらい構造を議員の歴々によって組まれてしまっている、っぼくは云おう、それも民主主義の結果でしょ、彼彼女は、彼彼女の夢見る善政を指して、民主主義を守れっ、っと叫ぶ、っぼくは云おう、それを目指しに目指した心算が、やっぱり種々の通弊悪習に苛まれずにいないこと、そのこと全体を指して民主主義と弁えておくべきじゃないの、っかかる議論は、手ぬるい現代では堂々巡りを来たそうが、上のような手記をものしうる戰前・戰中派の方々のご認識は、僭越ながらよりぼくの側に近くていらっしゃるのではなかろうか、前現代を無条件に現代に劣後する時代とみることは、っひじょうに危険な陥穽である、

っこれもいつかに云ったとおもうが、っむかし〈たかじんのそこまで言って委員会〉を視ていて、っや、っあれは個人が切り出してYouTubeへupしたものを視聴したのだろうか、っよく憶えがない、っいまだ三宅久之氏のご存命ご出演中で、政界へ転出以前の橋下徹氏などもお出になっていたかとおもうが、っやはり先の大戰のことを議題としており、最後、っまとめとして引き取って司会の辛坊治郎氏が、しばしば往時の日本とドイツ、、、ドイッチュ表記で統一するんだったな、ドイッチュとが同列に論ぜらるが、両国は体制として本質的に異なる、我が日本は終戰へ至るまで一貫して民主主義国でありつづけた、そのなかでしかし治安維持法を通し、国家総動員法を通し、軍部に枢要な大臣ポストの掌握を許し、実質として軍国主義国家としてふるまった、ということは、国会なんだよ、っとここで宮崎の哲ちゃんが高い語気を有って、そのとおりっ、っと和し、辛坊氏が、国会がちゃんと機能していればそんなことにはならなかったんだよ、っとつづけ、っふたたび宮崎氏が、そのとおりっ、っと相槌を打たれた、っそこへ三宅翁の、うんっ、そうだっ、っとはげしく肯くお声も重なっていたのではないかとおもう、

終戰のまさにその日、玉音放送を拝したその震蘯のさなかに存ってなお、>でもこの罪は誰にあるのか? 政府、軍人は問うまでもない、私達一億国民が背負うべきだ、っと書ける人を、戰前・戰中の人々はお上に拐かされ、唯々諾々とそれに隨った不明者と評価することは、っあきらかに不当であるというか、単に誤っている、彼等は、っどんなに名ばかりであれ、民主主義体制として開戰し、民主主義体制として継戰しつづけ、っついに民主主義体制のまま終戰を迎えたからには、国民の誰ひとりとして、、、っすくなくもまず有権者ならば、完全に無辜ではありえないと、っしかと弁えていられたのである、

っさようの逞ましき常識人が、っいかな敗北の痛手が心身へ重く圧し掛かろうと、戰後にすぐさま飜意飜転して憚らないとは俄かには信じ難い、社会のさまざまの位相において、彼等はどうとかその気骨を示さむと意志し、行動したにちがいなかろう、っけれどもそうした出る杭は、公職追放その他の占領地政策により打たれ、挫かれていったのかと拝察せらる、っそしてぼくなどは、苦汁をしぼりつもけっきょくはその軍門へ降った人々により築かれた、っそれもまた年月を經れば盤石となってしまった、敢えてこの語を用うればレジームを一身に呼吸して育った世代なのだが、不勉強にして文献や史料を渉猟してみることがなくとも、漠然とでも、酷烈の時代を生き抜いた人々の認識が、そんなにばかげているはずがあってたまるか、っとくらいはおもっていた、っそこへきょう、貴重な日記の1頁を拝見拝読し、やはり往時の人は政府にも軍部にも無批判の隨従ではいられなかった、そしてもちろん民主主義国の一国民としての自己責任も自覚されていた、っとの一例へ触れることが叶い、っまこと感激に堪えなんだのである、

民主主義を標榜して各種のデモンストレイション等へ勤しむいま現代の活動人士よ、政府がたまさか自分一個の意に染まぬふるまいを為すからといってそれを指弾して、民主主義を守れっ、っと叫ぶことが、っいかに幼稚な民主主義の誤解、冒瀆であるか、篤とおもい知れ、民主主義体制がいくらかは増しに機能するとしたならば、っそれは任意の有権者一個の投票行動の如何に依らず、政府の施策とは国民の総意の応報であるとしてこれへ耐える気概を有つ者で作る、っその国家においてのみであるだろう、民主主義者たらむとするならば、国民として政府を対他的に語るな、っどんなに自分と対立する政策を掲げる政府であってもだ、完全な他責も完全な無辜もないものと弁えよ、っとうぜんの常識だろう、っこのとうぜんの常識をしかしわずかならず失している現代のぼくらでは、気高い常識人たるの大東亞戰爭の当事者諸賢について喋々する資格は、有てなくてまたとうぜんである、

っさようにして大東亞戰爭は、美化の対象であるはずもなく、っただにうつくしいのである、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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桜木町、




金山隆夫氏の棒、カラー・フィル公演、済む、演目はドビュッシー《イベリア》、シュトラウス《アルペン》であるが、恆のとおり憮然たる金山氏は、前プロのあとも、っぼくはすばらしいとおもったのでほかの人のものは減衰してきてしまうなか拍手をつづけたが、指揮者の再登壇はなく休憩へ入ってしまい、本プロ後も、っいったん引っ込んでからでなく終演後すぐに各パート単独の答礼を促し、2度目にはもうオケからの指揮者への喝采となって、っそのまま全楽員がこちとらへ首を垂れてあっさりと散会してしまう、っよって14時に開演していま出てきて、っまだ15:30すぎである、

っとくにあほヴァイアラス騒ぎ後の、っほとんど無条件にとでも云いたいくらいに客席から舞台へ篤い拍手と歓呼とを長々と送る慣習をあまり快くはおもっていないぼくとして、っこのくらいあっけなく始まってあっけなく了わる会というのは歓迎である、っぼくはオケの登壇時も他の全員が出揃ったあとでコン・マスのみが単独で出るのがいやで、っいっしょに出てきたがよいとおもっており、彼等の登壇中は拍手もしないし、っただ、コン・マスがこちとらへ辞儀をされるときは、っそれに応えてぼくも客席で頭を下げるようにはしている、っもっとも、っその辞儀もほんとうはしてくれなくていっかなけっこうである、っむかしのオーケストラのライヴ動画を観ていると、コン・マスはほかの人といっしょに勝手なタイミングで袖から出てきて、客席のほうなど気にもしないというふうにすぐに着席してしまう、っあれでよいのだ、っあんまりお客へ向かって媚態を振り撒かないで、俺たちは高踏な音楽をやってんだぞこなちきしょう、てめえ等なんぞにわかってたまるか、っと超然としていてくれればよいので、っもっと云うと、日本人のぼくらとしては、指揮者とコン・マスとの握手も不要とおもう、握手という礼法は日本の伝統にはないからで、っいかな西洋音楽を演奏するのであっても、指揮者が袖から出てきて、オケへ向かって会釋、、、っちなみに指揮者のオケへの会釋は、っお客への辞儀の後にではなく、前にである、っぜったいにっっっ、っはするけれども、コン・マスと握手はしない、っもちろん終演後も同様、っさようの指揮者と楽団とがあったら、ったいへんにこのもしいこととおもう、

自由席、13時開場で、っその30分ほど以前には器へ着いた、20番目くらいであったが、開場直前に1階席のみの開放だとの案内があり、落胆す、っまんなかの通路の後ろの最前列、中央ブロックの右端へ背嚢を置き、外で汗だくになりながら喫煙して開演を待つ、器直近の喫煙スペイスはさいきんに廃止せられてしまったが、っそれと一体の商業施設を日本丸の側へ出て建物伝いに器側へやや戻ると、っべつの喫煙スペイスがあるのだときょう知る、

っさておき、ドビュッシーから絃はフル編成で1st17からバス8までがどっさりと乗る、アマチュアでかかる曲趣をかかる規模で演ると、各ソロが冴えなんだり、絃は、っひとりびとりは最弱音の心算でも束にするとmpくらいになってしまっていたりで、全体に大味となり勝ちだが、っきょうの彼等はちゃんとチェムバー的の箱庭を現出せしめる、絃はコン・マスのソロとか、前列の方のみとか、プルトの裏のみとか表のみとか、っいろいろのディヴィジがあるが、っその際に音のキャラクターが薄まってしまうこともなく、ホルンは澄明、トロムペットはほとんどオーボーのような剣のない音勢を事とし、っしかもちゃんときれいな音色で、っこまかい音符がぜんぶ聴こえる、っすばらしいテクニークだ、カスタネット、タムブリン、デューブラー・ベル、シロフォン、っあるいはハープ、チェレスタといった特殊楽器の聴こえ方も最適で、㐧3曲の終結でやっとつよい風圧のトュッティ、っしかもそれとても爽快の部類へとどめ、っまことにみごとな開幕である、

《アルペン》では、流石に曲の偉容を発散し切れない場面も出てくる、ったとえば〈陽の出〉にしてからがそうで、舞台上のホルンは主題を吹くときに満々と勝ち誇るような音量を出せずにしまう、っこれに対して〈登山〉が始まってのバンダのホルンほかは舞台裏ではなく舞台右っ肩の客席へ陣取り、っしたがって通例よりも大音量であり、舞台上の絃の合いの手を完全に掻き消してしまう、っただし、曲頭からの〈よる〉はすばらしく、トロムボーン、ファゴットとテーマを仄めかし、ホルン、クラリネットが加わるころにはVnが入り、っついに横笛とともに山の稜線に光の矢を望むグロッケンシュピールは、ちん、っとしか打たないしょぼい演奏もおおいなか、っちゃんと、かきんっ、っと大粒の耀きで、っそうでなければ《アルペン》は始まらない、

っその後は概して好調で、〈牧場〉にカウベルを聴いて以後の絃の優美な歌は、朝比奈さんの意想外なほどの快速で生き急ぐ颯爽も懐かしかったが、金山氏はゆったりとこころを籠めて唄う、っうつくしい音色だ、

〈登頂〉がまた立派で、トロムボーンのコラールに襟を正され、オーボーはみごとな独り舞台、っその後に打ちつづくしばしの大トュッティはほんとうに晴れがましい眺望であり、作家が異名《アンチクリスト》と呼びたがったというそのほとんどエゴイスムスと表裏を一にするヒロイスムスがありありと実感せられ、っその彼方にニーチェの俤がちらつくようで、っぼくとして感泪も堰き難い、

〈嵐〉ではぞんがい各声部とも音型がこまかく、音量を出せないが、っためにかえってオルガンやウィンド・マシーンがよく活きる怪我の功名、サンダー・マシーンを加える最騒音はちゃんとけたたましく満堂を揺るがす、

〈落陽〉ではやはり絃がよよと泣き濡れ、っとうとうふたたび〈よる〉へもどる、個人的には最後の最後、Vnの下降グリッサンドをもっと効果的に活かしてくれたかったが、見ていると、っその心算で残しておかないと弓が足りないといったところだ、っとまれ、旗日、山の日にこころゆくまで登山気分を堪能した、、、っいつもおもうのだが、1日でアルペンをてっぺんまで行って麓へ戻るって、日程として不可能だとおもうんだけれどね、っま、っそれは云いっこなしってこって、



っさて、っお次は来週のきょう、っまた金山氏の棒で、川崎でマーラー《3番》である、っつづきますねえ、アンチクリスト気分が、っそれから、カーチュン・ウォン氏と愛知室内オーケストラとの公演の切符が売り出しているのへ気附かず、っきょうさっき、開演前に慌ててアカウントを作り、購っておいた、芸文センター、っよろしく2階正面の最前列の最後の1席を得られたのだが、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




上野、




念願叶って、都美館にてキリコを観る、

1階の展示か、マヌカンで括って数点揃えた一隅が個人的には最も印象深く、至近距離でためつすがめつしたのち、距離をとって観たり、っいったん次のコーナーへ遷ったあとで戻ったり、2階へ上がる前にもういちど戻ったりと、最も時間をかけて鑑賞した、

っわけても《不安を与えるミューズたち》という1作は、っこんかいの展示でも白眉とすべきだろう、出口のところへ撮影コーナーがあり、パネルへ複写したものがあったので撮った、


若くときの主題を後年に再制作したものとのこと、写真をパネルへ焼くとかく陰翳がどぎついふうだが、実物はもっと全体にシックで落ち着いた色調であり、画面全体を丁寧に仕上げた完成度といい、比類のない逸品と映じた、っこの手の作があると以前から知ってはいたが、っきょうぼくのなかで、《愛の詩》などとともに、最も愛すべき彼の作のひとつへ躍り出た観だ、


本作で色彩について感慨無量なのは、マヌカンの頭部の赤や、画面奥の、実在するという建物の緋色である、っさっきそれを観つ、画学生時分、相笠先生がご自身の東京タワーを描かれた作を示されながら、赤という色の彩度を発揮させるに、くすんだ灰色の中へそれを置くに如かず、それで東京タワーを描くについて、敢えて背景を曇天にした、っという旨のことを云われたのを頻りに想い出していた、キリコもここで、赤や緋の隣へ空や翳の汚ない色を置いている、


マチエールについては、っごくわずかにごてごてと盛り上げたものもあったが、っほぼおもったとおりの薄描きである、ルノアール風のタッチへ傾斜したものはぼくは画膚としてこのまないが、っやはり彼からの直接の影響があったらしい、モティーフにしても、画だけを観ていて伝記の類へ当たってみないぼくからすれば、ったとえば家具をでかでかと描いたもののその発想などを知れてたのしかった、形而上云々というが、っほんとうは身近手近な身体感覚から主題を得ているのであり、っそこに健康美を感じないわけにゆかない、シュルレアリスムでは、っついにブルトンなどには近寄れないままのぼくであった、不健全なのである、っあの不健全をしかし得々として見せびらかしてくる感触が、っどうしてもいやなのである、っいろいろと叩かれている今次の五輪開会式などは、っそうした居直り不健全の成れの果てなのかとおもうが、絵画では、っはじめはダリに痛く傾倒したぼくも、彼も彼で、ブルトンなどよりは数等増しではあるもののやはりどこか画面が健康ではない気がし、っのちにはマグリット、っそしてより超然たるとみえるキリコに惹かれるに至った、


彼の著作を読んだ記憶があったが表題が想い出せず、っさっき略年譜を見て膝を打った、っそうだ《エブドメロス》だ、っこの著述刊行の経緯がまたイカしていて、キリコはシュルレアリスト連へ接近しつも従前よりブルトン等のとくに自動筆記には密かに拒絶反応を有っていた、っそれで見様見真似の自動筆記風でくそテキトーに当の著述をものして発表するに、ブルトン等からは嵐のような絶讚、っそれを聞くに及んでシュルレアリスムとの訣別をあっけなく決断したとのこと、っきょうの案内書にはそのあたりの詳細は触れられていなんだが、土台、一個の藝術家は、っへんてこな思想核らしきものへ群れていられるほど閑ではないということだろう、外形的にはあれこれの運動へ参加していると見えても、キリコはほかの誰でもないキリコであり、っそこが偉大である、


自画像もとうぜんながら数点、来ていたが、っざんねんながら、



っこれに匹敵する光芒を放つものを見出すことはできなんだ、彼のセルフ・ポートレイトは無数にあるが、っまず大半のものがこの作に比して描写の密度として何段も低く、顔の表情をして憂愁を語るにまるで及ばない、っこの作を制作中にのみ、すべてを云い切っておかねばならない、っというある種の霊性に憑かれたのにちがいない、っどの程度、有名な作なのか知らないが、っこれの載った画集に出逢えたぼくはほんとうに仕合わせである、紀伊國屋か、っちがうBunkamuraのギャラリーかなにかだったか、っそこでなんの気なしに開いてこの瞳に見つめられてしまい、貧乏画学生にとっては安くない代物だったのだろうが、っもう購わずにはおれなんだ、っいまでもそのときとおなじように鮮やかにかくおもうが、っいつか、っこんな貌のできる年寄りになりたいものである、




っさて、地震があったとかですこしく帰りの電車が遅れたが、っあすはなにも予定がなく、っお次はあさって、金山隆夫氏の横浜での無料公演、曲目はなんと《アルペン》である、っそれから、っきょうは井上キーミツとOEKとの最期の公演の切符の一般発売であったが、っよろしく購入に及んだ、っこれで年末までのぼくが行く予定の全公演の切符を入手したことになるのかとおもい、っひとまず胸を撫で下ろした、っあとはキーミツのご快癒と、年末まで駈け抜けられるだけの体力とを希求しないわけにゆかない、っもうこれ以上、大切な公演公演が欠けて代演が立ってゆくのをみるのはいやだし、っご当人にとってもそれは耐え難い痛苦であることだろう、




みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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