高関健氏の棒、、、っは持たれず、名古屋フィル公演、済む、っとはいえ、主役は同響コン・マスのおひとりで、っほんじつのソリスト、荒井英治氏であられる、演目は、ショスタコーヴィチのコンチェルトを《2・1番》の順で開閉幕へ配し、後半の開始にはシチェドリン《ロシア写真集》、全何曲の作なのか識らないが、っうち㐧2・3曲を、っこれはきょうが本邦初演であったとのこと、絃合奏の作で、っここへはソリストは参加されないが、っしかし撰曲は荒井氏とのこと、
当初は実家へ顔を出して来むかとおもっていたので、往路は新横7時発などという新幹線が購ってあり、18:45開演の心算だったので復路は名古屋21時すぎ発で押さえておいたが、折悪しく、っゆうべは遅くまで仕事のキリが附かず、23時凸凹ころにようやっと聖蹟別棟の門扉を閉めてチャリンコで帰り、室の目前のファミ・レスは23:30LOの0時閉店でゆとりがなく、別棟の近くのおなじ店はもっと遅くまで開けているので、っそちらへ寄り、帰宅して1時前ころか、っいつもの悪癖、作業着姿のまま居室の椅子で睡りこけてしまい、っはっと目覚めて4時ころ、5時すぎには玄関を出ねばならないのだが、っほんの30分、ベッドでごろんとしたいとおもい、アラームを掛けて寝室へ倒れるが、敢えなく次に目覚めたのは5時半ころ、っなにしろ前夜から作業着姿のままのため、身支度はまずシャワーを浴びるところからなのであり、っまったく間に合わない、差額なしで別便への変更ができたので、新横11時前くらい発の車輛を予約し直し、っついでに復路も19時すぎくらいのものにし、8時半ころまでもういちど睡る、起きてシャワーを浴び、新百合、町田經由で新横へ来て、無事に新幹線へ乗る、
っが、っぼくの予約した席へは老婦人がいられ、お間違えではないですか、っと声を掛けると、っその方は通路側、っぼくが窓側なのだった、っご婦人が切符を検められる際にぼくもいっしょに覗き込むと、京都までいらっしゃるのがわかり、名古屋で降りるぼくは彼女にどいていただかなくてはならず、ぼく、名古屋で降りますので、っと断わっておいた、結果として、っこれがさいわいした、恆のとおり着座後すぐに崎陽軒のシウマイでビールをやり、YouTubeから落とした服部/井上/N響のきょうと同演目を再生しつ耳で聴いていると、っやはりまだ疲弊していたのだろう、《1番》は終わりまで聴いた記憶があるが、《2番》の中途で睡りへ堕ちてしまい、肩を叩かれて覚醒すると、名古屋の手前でご婦人に起こしていただけたのだった、っあれで彼女が初めから正しい席へいられたら、っぼくも彼女へ降車駅を告げることがなく、っそのまま京都か新大阪まで睡すぐしたかしれない、っよしんばそのばあいでも、取って返して栄の開演へは優に間に合うのだったが、
鄭重に礼を述べて降車すると、名駅へ降り立ってまずもって足を向くべきは椿神明社であり、行って首を垂れ、柏手を打つ、松井石根大将が祀られているのである、
っきょうは暑さはさほどでもなく、栄までは地下鉄を使わず、っのんびり歩く、っとちゅう味噌煮込みを食し、白川公園の片隅でシガレットを服む、公園の中央へは木下大サーカスのでかでかとしたテント小屋が張られていた、っいまでも興行が維持せられていたのかとうれしくなる、
っさらに久屋大通まで歩き、っもはやここへ来るときの開演までの時間潰しの馴染み、器のすぐ脇の喫煙可のカッフェへ入る、大阪では、中之島公演の際におなじチェインで席で喫煙しうる店舗があったので愛用していたが、っこないだ入ると、喫煙席は失われてしまっていた、名古屋は流石に喫茶店のメッカ、地図アプリケイションで検索すると、街中へ同チェインは無数にあり、、、名を伏せる必要もないか、コメダだが、犬も歩けばコメダへ当たる、っというぐあいの過密な出店である、っこのぼくの馴染みの店舗以外へも入ったことがあるが、っどの店でも席で喫煙可というわけにはゆかない、っむしろこの店舗が貴重な生き残りなのだとおもわれ、地図アプリのレヴューでは非喫煙者から、2度と行かない、っとそのことへの憾みが述べられていたりもするが、っどうか同店には、時流へ飲まれず、喫煙席の維持を敢行しつづけられたいと希わずにいない、アイス・コーフィーを啜りつ紫煙を吐く、っぼくらにとりてはこれがひとつのセットなのであり、っさいわい周囲には1区画も歩くか歩かないかのうちにあっちにもこっちにもコメダだらけなのだから、一寸の副流煙もかむりたくない、、、一寸くらい吸い込んでおいたほうが肺癌罹患への耐性が養われるという推論をぼくは信じており、非喫煙者も、っそう厭がられずにすこしくくらいの副流煙の存る街並みをむしろ歓待されたいとすら、っまあ身勝手にもかんがえるのであるが、同店を避ければ、っおそらく他は軒並み禁煙か、っせいぜい喫煙ブースがある程度かとみられるため、っこの店舗へ雑言を擲げられることよりも、っそれら別店舗を利用され、喫煙者をじりじりと社会から締め出してゆく意地悪をぜひに止していただきたい、全成人に占める現在の喫煙者の割からゆけば、名古屋の中心部だけでおそらく100店舗や200店舗は下らないだろうコメダのうち、っかく一部の席で喫煙可の店舗の残存率というのは、っまあまあ世相を正しく反映しているのではないか、一寸の煙草臭さも容れられないという人へ、その店舗を利用しないというせめてものやさしさくらい持してくれ、っと求めるのは、喫煙者としてそれほど無法無体な態度ではないとしたいのだが、っどうなのだろうか、っご非難は甘んじて受けるが、っその際にはぜひとも、たまさか自分一個の快不快という次元の話をされず、社会全体、っという観点を有たれたい、っそして、っぼく自身はどうもその体質ではないらしいのだが、っよのなかには、ニコティンの扶けを借りなければうまくセロトニンの分泌を調整しえず、自身のストレスと附き合えないという身体へ産まれ附いた人がいるのだということについて、っほんのすこしくでも識っていただきたい、会社の同僚などで、休憩時間の前からそわそわとして、休憩となるや逃げ込むようにして喫煙スペイスへと急ぎ、シガレットを咥える顔が惚けたように眼の焦点が合っていない、っという人がいたら、っその人がおそらくそうした先天的のセロトニン分泌異常者である、っその人たちにとりては、定期的のニコティン摂取はまさしく生活必需なのだ、誰しも、他人様の生活必需品を奪い取る権利なぞ持しえなかろう、文字通り、っそれは人権侵害である、差別とは、当人の努力によりては返上しえないその者の属性を種に、彼彼女を不当に扱うことである、セロトニンの分泌異常に対してその者の責めがあろうか、努力によりてその異常を返上しえようか、っそれをかんがえれば、っこれらの者を社会的に如何様に遇すべきかの判断へも、一定の指針が與えられるのではないか、っすくなくも、嫌煙の声のおおきさによりてなし崩し的に煙草を排斥してゆく昨今の傾きが、っその方途としてまったく適切適当でないことには、っおよそ論を俟つまい、っぼくらは高度文明を經た民主主義社会に暮らしているのではないのか、っそれとも、程度の低い情治社会へ棲まっているのであろうか、
下手に時間があるとこんな駄弁へ暮れる、っまあたまにはよかろう、
っさて、公演だが、っじつにすばらしかった、っまずはいつもながらの名フィルの高度の錬成と、っそれと器のアコースティックとの綜合である、っここ芸文センターのホールの客席配置は、他に存りそうでなかなかない特有のもので、1階席が狭く奥行きも浅く、っすぐに1段上がって2階席となり、っその2階両袖は階段状に降って、突端は舞台両袖近くへまで達している、っきょうのぼくは、っその右翼の、正面から袖へ降り始めたか始めないかという位置で、舞台をわずかに俯瞰でしかし眼前へありありと望むその親密さは、サントリーではRCの最前列へ陣取ってもまだ得られない、同様の眺望は、川崎の2階正面の1段目前方辺りならば可能となるが、っあちらは全体が2,000席級のつまり大器の部類であるのに対し、っこちらは数百席少ない中規模器寄りの容積、っきょうのようにさほど厖大な編成でなくともトュッティは易々と飽和へ達し、奏楽の性質によりては音楽的の意味を結びにくい膨満におぼえることもあるが、っうまくすると大器ではけっして味わいえないたっぷりとした音量音圧のひびきを全身へ浴びることが叶うし、コンチェルトのソロやオケの各パートも、ニュアンス豊富、直接音の後へ、信じ難いほどゆたかな残響が遺存している、っそれもでっぷりと肥らず、量的にはおおきいが、質的には清潔で、直接音が鳴っているときには、飽くまでも明晰さが勝るというぐあいである、たびたび舞台上で音を鳴らし、十二分にこの器の特性へ馴致した個人や団体の奏楽を聴くならば、っという条件はもちろん附くのだが、っそれはどの器とておなじことで、っわが国でも有数の銘器のうちへ列せられるのではなかろうか、
っそして主役、荒井氏の存在感である、《2番》も《1番》も、っほんの出の1音から、っもうこちとらの耳をこころを捉えて離されなんだ、コン・マスとしての彼氏の風采は、温厚そうな紳士であられる、っけれども、彼氏はじつにかのオーケストラ・ダスビダーニャのトレイナーをお務めでいられ、っきょうのかかる演目への挑戦、っご自身の乗られない中プロへもこだわりの逸品を持って来られるところからすると、っそのいでたちに反して、近代ロシアというか、ソ聯の各作家へつよい偏執を示される曲者の面をお有ちであるらしい、っその執念のほどは、っじゅうぶんすぎるほどよく伝わった、
ショスタコーヴィチの、っとくに《1番》のほうは、曲の性格もあり、っぼくがこれまでに聴いた実演のソリストで、ヴェテランと呼べるのは五嶋みどり女史くらいのもので、っあとはみな若き俊秀ばかりである、っそのとおり無類の竣敏さが要請せられ、偶数楽章はいずれ劣らぬ妙技で、スポーティと謂いたいほどの昂奮を與えられ、服部女史、岡谷で聴いた郷古氏、非礼ながらソリストのお名は忘れてしまったが、坂入健司郎氏が浜松の楽団を振られたときのもの、っあとは錦糸町で聴いた豊平青氏のクレド響とのもの、、、っそちらのソロは戸澤氏のご令嬢だったかしら、っちがったかな、っいずれ、悪印象、っあるは無印象の演奏はひとつだにないくらいだが、っこれらがみな、っありとある楽想、特殊、怪っ態な楽器法をしかし、一気呵成のテムポの裡へぐぃっちぐぃちに詰め込み、何人へもほんの附け入る隙とてみせないという存り方をされていたのに対し、荒井氏にはおそらく、っさようのきょう日のアスリートのごとヴァイオリン弾きの眞似事は、っもはやなのか、っはなからなのか、っいずれできはしないというご自覚があられる、っだからそれらの楽章において、彼氏と高関氏とで作られるテムポはいくぶんゆっくりとしているのであるが、っそのなかで荒井氏は、奏法毎のヴァイオリンという楽器のひびきの対比を、能うかぎり拡大してぼくらの眼前へ示そうとされる、っそれが上記、銘器たるの愛知芸文センター、コンサート・ホールの空間へ発散せられる綾生す眩さと来た日には、っこちとらおよそ筆舌へ盡せぬ至藝であられた、
っそのためにはときに、っあるフレイズへ記譜の音価以上の時間を要してしまわれたりし、っそれはほんのコンマ何秒かのラグにすぎないのだが、っしかし変拍子だの裏拍だのが乱れ飛ぶ楽曲構造においては、っそのわずかの遅れが音楽の箍を弛ませる、上掲の若きヴィルトゥオーゾたちにはそうした瑕疵はけっしてなく、っむしろその瑕疵を回避せむがために彼等の有てる能力が綜動員せられているのであったが、勢い楽想、奏法毎のキャラクターの落差は、っきょうの荒井氏の演られ方からすればわずかにもせよ均されてしまうのもものの道理で、飜って、多少ともがたぴししようが1音1音をありったけ意味附けながら意味附けながら進まむ、っというのが、っきょうの荒井氏の奏楽、演奏のご趣旨であったのに相違ない、っそしてそれは、っぼくの記憶に存る若き名手たちの間に伍して、誰にも引けを取られない耀やきを放たれたのであった、
秀抜なる名フィルを得れば、高関氏の手堅さもいくらも有効裡に働く、っどちらの曲でも、ピキェロ、クラリネット、ホルンと、ソロとオケとが口々に動機を呼び交わす場面があるが、っそこでは絶えずお互いがお互いへ音色やニュアンスを寄せ合う親睦が聴かれ、っあれこそまさしくコンチェルトの存るべき再現というものであろう、
シチェドリンは、㐧2曲など、〈モスコウ中のゴキブリ〉という穏やかならざる副題が打たれており、っさぞかしぎょっとするような曲想かとおもうと、っぞんがいそうでもなく、っむしろ都会的のスマートな和声が薫っているくらいで、細かな音粒がこの昆虫の羽音を模しているのはわかったが、聴いていて気味のわるさに膚がぞわぞわしてしまうというのではなかった、㐧3曲がまた〈スターリン・カクテル〉といって、喉を掻き毟るごとフラジオレットがついに限界まで引き攣り、最期には奏者全員がそれに合わせて人声を発せられ、っこの世紀の恐怖政治への人々の呻吟を謳うのであった、っここでも、名フィルの絃各パートの積極果敢さといったらいかばかりであろうか、特殊奏法を遣えるかぎり遣い切る書法の煩さを臆することなく全開に展げられるが、全員が躊躇いなく振る舞い切られ、っかつ合奏は精妙の極致へ達せられているため、煩雑さがそのまま怜悧な結晶と成って満堂を圧する、
っぼくとして、故国でかようの充実の公演が催行せられていることを、っまことに誇らしくおもう夕であった、
っさて、多摩センへ戻って、っまだ22時すぎである、っこんやこそゆっくりぐっすりと睡む、っあすは近場、八王子にて、田部井剛氏の公演である、駅南口のあの器へは、落成から間もないころに数度、通ったが、狭いエスカレイターの商業施設や役所の出張所だかの階上へ無理無理作り附けた構造上の欠陥から、終演後の退場時には、雑沓による集団転倒抑止のためとして、もぎりのところで100人単位くらいで止めながら止めながらお客を帰す、っという公会堂としてありうべからざる醜態を晒している、っしばらく行かないうちに別途、広い出入口を設けるなりして、っあの不便を解消しているだろうか、っただし、堂内は、音響はそれなりであったように記憶している、