ざっかん記 -2ページ目

大阪、福島、




斯界の泰斗、前橋汀子女史のコンチェルト・リサイタル、済む、バックはキムボー・イシイ氏の棒になる日本センチュリー響、演目は、サン=サーンス《序奏とロンド・カプリチオーソと》と、メンデルスゾーン、ブラームスの各コンチェルトとである、

デュトワ氏公演は、っあんな大会堂が2日ともけっこうな埋まりぐあいであったというのに、っこちらの客席はややさびしい、関西のお客に対し、おたくらがもっとちゃんと文化を耕してくれろよ、っとやや反意をおぼゆ、っとはいえ、発売からかなり時日が經ってから切符を購ったことになるのだろうが、位置取りとして、っまことに快適であった、っいつもここでは2階正面を撰んでいたが、っこんかいは、ソリストの音像をよりリアルに感じたくて、右翼バルコニーの後ろからふたつめのブロックの最前列前端部、舞台へ死角ができることを惧れたが、中規模編成で舞台中央へ寄ったオケの全貌を視界へ収めることができ、っすばらしい眺望と音響とであった、

キムボー氏は、っむかし有名になり出したころは、イシイ・エトウとおっしゃったように記憶するが、っいつかからエトウは脱けたようで、っその委細は知らない、

っきのうきょうの宿だが、っこないだの大阪行時のそれのすぐ隣で、十三のラヴ・ホテル街のなかへあり、っそちらはまともなビジネス・ホテルだったが、っこちらは、近くまで来て、え、、、これかよ、っとおもわせるラヴ・ホテル然たる外観、入ってみると、っまあそうねえ、半分はラヴ・ホテルというか、連れ込み宿だな、っふつうにコンドームが置いてあるし、オトナのオモチャもあり、入室するなり、おおきなお世話だよ、っとこぼす、

っしかしよい面もあって、化粧落としと化粧水と乳液とを置いてくれてあり、っぼくは、数日以上伸ばしたのならばよいのだが、っきのう剃った鬚をきょうもまた剃ると、肌ががっさがさになり、眞っ赫に腫れてしまう人で、今次のごとまいにち他所行きの格好をせねばならないときにはそれが困りものだが、っしかし荷が重くなるばかりなのでその手の商品は携行せなんだのだ、剃刀も、新品ではぜんぜん負けて血だらけになってしまうのでいけなく、3年も5年も使い古した鈍な刃のものでなければならない、世の男性は、ホテルへ泊まったら、備え附けの新品の剃刀を平気で使うのだろうか、血だらけになりゃしないのだろうか、

っそれから、朝餉はチェック・イン時に指定した時間に各室へ配膳せられ、っそこも純然たるビジネス・ホテルではない所以、情事の翌朝に知らない者同士食堂へ会してメシなんぞ喰っているバヤイでないというわけだが、和食を頼んでおいたところ、っそこらの安ビジネス・ホテルではどれもこれも冷凍食品ばかりなのに対し、っちゃんと1切1切焼いているとおぼしき塩鮭を供され、味噌汁も、インスタントではなさそうで、出汁が効いていて旨かった、

っぼんやりしていて11時ころやっと外出するが、歩って中之島まではぞんがい時間が掛かり、美術館へはほんの1時間ほどの滞在で、小出楢重を観る、っやや早足で観了えてしまったとも云えるが、っそんな巨匠を相手に不遜ながら、画の面前でおもわずにうんと唸ってしまう作はほんの数点あるかないかで、1時間でじゅうぶんであったともしうる、最後の1室へは、画家の周辺の時代を知らしむべく、当館の所蔵なのだろうか、佐伯祐三も2点展示せられていたが、画面構成、デフォルマシオン、色調、マチエール、っありとある要素で、ったった2点をもってそれまでの小出の無数点を忘れさせるほど鮮烈であり、っふたりの生年にはそれほどの差はないはずで、佐伯がやや年少であろうが、彼氏のほうがより野心的であったということか、

っしかしそこもむつかしい、佐伯がヴィヴィッドであるのも、彼が現代に、っつまりゲンダイの精神の不健康不健全に近いということであり、っよりそちらに惹かれてしまうというのは、っそれだけぼくの感性も爛れ、腐敗腐乱、堕落しているということである、っほんの数年の差で小出は、セザンヌ等の影響が窺われるという点ではまったくのクラッシックなのではないものの、っしかし比較的に健康な問題意識の人なのである、

っそれから、書簡の類の展示が数多にあったのも興味深く、後年ほど乱筆のようだが、若くときに親族へ送ったそれなど、ああ、読み書きを厳しく叩き込まれた時代の人だな、っとおもわせるなかなかの達筆ぶりで、書道の半人前師範のぼくとして、っおもわずに目を瞠ったところである、っうつくしい文字を書ける人は、っそれだけで一廉の人物である、っぼくがそうだとは謂わないが、



っさておき、っやっとかめで望む前橋女史の舞台姿、コバケンさんとのそのご共演時には、っそれがぼくがきょうまでに彼女を聴いたさいしょで最後の機会で、登壇されるや、あ、こんなに長身の方だったんだ、っとおもわせた記憶が鮮やかに遺っているのだが、っきょうさっき、っはじめに袖からお出になった際の印象は、え、こんな小柄だったっけか、っとのもので、要はすでにしてさようのご年齢になられたということであろう、脚もややお悪いものとみえて、っすこしく庇って歩かれるように見受けた、っかっては、音楽界のみならず、各方面から舞台での立ち居振る舞いの威厳を称揚せられた彼女であるが、っそのカリアも、っいま晩節を迎えるのかとおもう、っかように申して、っとくだん無礼に当たるとも感じない、人間の一生には、昇り龍の勢いと、相応する下り坂とがあるのだ、っそんなことは女史ご本人がいちばんよくおわかりだろう、、、っま、っだからこそ、他人には云われたくなくていられるかもしれないが、

肝腎の奏楽であるが、っほんの1音で聴き手の心の臓を鷲摑みに摑む抜群の存在感は、っじつに健在であられた、サン=サーンスは、っほんのすこしくも無理をされず、ヴァイオリンという楽器の魅惑を音場いっぱいに届けられる、

済んで拍手を浴びられ、っそのまま袖へ下がられることなくメンデルスゾーンが準備さる、っいちど指揮者へ向かいて頷かれたのだが、っなにか想い当たられたらしく、あっ、いけないわっ、っと左右をきょろきょろされ、っしかし時すでにして遅く、キムボー氏の棒は下り、オケは鳴り出してしまう、っわずか1小節で、彼女が主題を弾き出されねばならない、っすぐに気を入れ直されて顔相が豹変したが、っしかしやはり萬全萬端ではなかったのか、っこの1楽章の開始から提示、展開あたりまでは、っかすかな音の落ち、音程の不調などが散見せられた、海千山千の大々々ヴェテランでも、さようにこころの動揺がもろに音へ露呈するものなのか、っと、っぼくにはむしろ興味深くさえあった、っあのいったん指揮者へ頷かれてからオケが鳴り出すまでのわずかの間に、っいったいぜんたいなにが女史のこころをそんなにも掻き乱したというのであろうか、っいずれ、舞台へは恆に魔性が棲まっている、

っとまれ、客席のぼくまでひやひやしながら迎えた展開後のカデンツでは、流石に本調子を取り戻していられ、っやはり満堂を独占されるだけの無二のキャラクターがお存りだ、っといって、憑かれたごと過酷に弾かれるのでもなく、求道の涯、ヴァイオリンという楽器が最も素直に鳴る、っあたかも、っそのことを邪魔しないためにこそ奏者がいるとでもいうように、っどこまでもすんなりと楽音が流露し、っもって楽曲の美麗がまるで遺憾なく伝達せられるその味は、心技体いずれもがあり余る若きヴィルトゥオーゾたちには、っけっして望むことのできない手応えである、音楽人に引き際のみきわめを求めるファンはたまにおり、っそれもわからぬじゃないが、っぼく個人の感懐を云えば、っすくなくも、全盛をすぎたらすなわち引退せよというのは、っぜんぜん勿体ないとおもう、全盛でないからこそアッピールしうる内容というのは、っまちがいなく存るのだ、、、っこの擁護をいちばんよろこばないのは、前橋女史ご当人であられるだろうが、

ったしかに、っその後もくるしい個所は複数あった、2楽章の後半は、重音のフィンガリング、ポジショニングがよほどか難儀なのだろうか、纏綿たる楽曲の魅惑よりは、奏楽の限界のほうが聞こえてしまうようであった、フィナーレの入りは、序奏後、トロムペットのファンファールへ応ずる女史の合いの手の1度目、羽毛のごとかるやかに舞えよかしと弾かれるあまりに、掠れて上の倍音っきりが鳴ってしまうという手抜かりで、っおもわずに、だめっ、っと顰めっ面をされるのには、っこちとらとてもまこと同情を禁じえなんだ、っされどもそのフィナーレ主部は、辛うじて弾き切りうるややゆったりとしたテムポへ落とされ、っなおかつ場面によってはさらにぐっと腰が沈んで深々とした呼吸となり、っそれをぼくは、全盛を過ぎた者の妥協策と冷たく取るよりは、っよりじっくりと曲趣を味わいうるゆたかな造形と聴きたい、っじっさい、っここでのオケとの交響は、っほんとうに仕合わせそのものであった、

音場の豊麗も、何度でも壽いでおかねばなるまい、っそして、日本センチュリー響の優艶も、っである、彼等はたしか、っそれこそこないだ云った、金銭的にはいま日本で最も惨状にある楽団のひとつではないかとおもうが、10型で、セロ・バスを各2足したささやかな絃、っそして管打も、っこの音場とこのソリストとに対して最適の音量感音勢感であり、っしっとりと濡れながら、っどうして、同時に内声の奥の奥まで怜悧に見透しうる、っかようの演目にとり理想も理想の空間と楽隊とであろう、

ブラームスも、意地悪く探せば、上記と同様の瑕疵はいくらもみつかったろう、っけれども、っとくに1楽章など、ブラームスを必ずしもこのまないぼくをも、ああ、いい曲だなあ、、、っと浪漫の香気で包んでくれるし、脱力し切られて楽曲と同体の態のカデンツは、っやはりすばらしい、

アンコールにバッハ、っほとんどか弱いばかりのA線に対し、弓がG線へ及んだ際の深い胴鳴りは、っぜんぜんごしごしとされていないにも拘わらず、宇宙の彼方まで届くばかりの玄妙であり、っそれは、ヴァイオリンという楽器にでなければ発音できない音であるとともに、っとてもヴァイオリンという楽器から発せられた物理音であるとは信じ難い神韻でもあるのだった、



っさて、っきょうの夕餉は王将ではなく、っここで公演の際のたのしみのひとつ、器から東の通りへ出てすぐのカレー屋へ、っこれから寄る、16時ころ終演して、開店は17時なので、っそれまでにこれを書き了えればよいというくらいにおもったが、っいまもう19時になってしまった、食事後は、っまた歩って淀川を渡り、半分ラヴ・ホテルまで戻る、

っあすは、帰途に京都へ寄り、坂入健司郎氏の公演である、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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中之島2日目、




デュトワ氏の棒、大阪フィル公演、済む、演目は、小菅優女史を迎えてモーツァルト《22番》コンチェルト、っそしてコーラスを加えてラヴェル《ダフニスとクロエと》全曲である、

っきのうつい筆というか指が滑って、モーツァルトの3拍子のエピソードが2楽章にあるように書いてしまったが、っそれはフィナーレのまんなかであった、っそのモーツァルト1楽章の懸案の不協和音だが、っそれは序奏と、提示と再現とへ各1度現われる、っあれで結尾部分だとおもうが、フリュートとファゴットと、っあとその前だか後だかにVnもおなじことをやっていたか、上昇する音型で、ファゴットあたりの吹かれ方があまりよくないのだろうか、っきょうもまいかい、あれ、変な音鳴ってないか、っとおもわせた、各位がよほどか愼重に発音せねば、っああしたことが起こってしまうのだろう、

っきのうもややそうおもっていたのだが、っきょうフィナーレを聴いていて、っぼくはモーツァルトのPfコンチェルトを《何番》のどこの主題はこうこうと即座に想起しうるほどしっかり憶えてはおらず、っこの《22番》もそうなのだが、っところが、っどこかで聴いた曲のような気がして仕方がない、っなんだろうとおもっていると、っあれだ、東大の学生オケの公演へ過去2回出向き、っそのアンコールは2度とも、ドイッチュ民謡という《麗し春よ》を、客席をブロックブロックへ分けてみなで輪唱せしめるというもので、旧くからまいかい恆例なのだろうが、っぼくはああした客席参加の余興がすきではなく、周りは唄っていても自分は唄わないけれども、っそれはとにかく、っあの曲とこのフィナーレとの、主要主題もそうだし、件の3拍子のところがよりそうだとおもったが、進行がかなりよく肖ているのだとわかる、

《ダフニス、、、》は、仕上がりぐあいとしては昨夜とほぼ同等か、っまたもあの夢の時間を堪能す、



っゆうべはあれから、宿が新大阪辺だったので、1時間かそれ以上も歩き、2時ころやっと室へ戻る、3泊おなじところが取れておらず、っきょうあすは別のホテルとなるため、チェック・アウトせねばならず、睡眠時間はややみじかかった、っそれで、淀川端まで出て、っぼんやりと睡惚け勝ちに、正午ころまでシガレットを服みつづけている、っそれで、来年の、黄金週あたりだったか、山田和樹氏が水野修孝氏の《交響的変容》をお振りになり、っその切符がきょうの午から先行発売というので、安くないが、購う、

上演時間は3時間とも3時間半ともいい、っどっさりコーラスが要り、指揮者も最大で同時に7人だか8人だか、コーラスの指揮も入れると15人くらいがめいめい別のテムポ、拍子を振っていねばならないという曲で、っどんな作品だかぜんぜん識らないが、っそれを聞いたっきりで、っまあだいたいの傾向というか作風は読める、っめんどくさい曲なのに定まっているが、っまあこれを逃したら再演の機会もまたとなかろうしするから、話の根多にでも聴いておくこととした、

4部作の全曲同日上演は、っおそらく過去1度っきり、岩城氏の棒で為されており、器は幕張メッセであったというが、っそのライヴ録音の音盤はごくごくたまにヤフオク!で見掛け、っそのたびに興味を惹かれてはきたものの、っかなりの稀少盤であるためだいたい法外なプレミアが附いており、¥2、3千というならともかく、そんな¥1萬2萬も出せるかいな、っと入手を躊躇っていた、

っその公演とおなじ週かなにかには、彼氏、新ヤマカズさんは、N響で旧ヤマカズさんの作を振られるのだが、っま、っそれも聴いておかむとおもう、っぼくは新ヤマカズさんは、っもやしみたようにひょろひょろのあんちゃんだった時分に、名古屋の、っあれ、名工大の学生オケかなにかだったかしら、っそことの公演を栄の芸文センターで聴いており、っいまのぷくぷくのお姿になられてからは、ったしかライヴはいちども聴いていないはずである、音盤や動画などはたまに視聴しているが、っなにかこう、カリアだけは一丁前になられたものの、感じさせるところの乏しい方である、例のベルリン・フィルへのデビュー公演にせよ、NHKで動画を購入したが、っべつにぜんぜんふつうというか、っもっともっと才気を突き附けられたいというのか、不満大であった、YouTubeではボストン響との《幻想》も聴けるが、っそれもつまらない、っどこかやはり海外での《アルペン》は、オケにたいへんな地力があるため、っまだしも好印象ではあったが、っしかしそれしきのことだ、日本の各楽団とのあれこれの記録は、っどれもぱっとしない、っむしろ東混との音盤に、ったのしく聴けるものがある

滅多に演奏せられない特殊な作品などでは、指揮者の技倆というか、っそれ以上に特有の存在感というものはほとんど推し量れないので、っそれら2公演については、純粋に作品自身への興味ということである、



っさて、っこれから宿へ荷を置いて、っともかく王将の生の割引券を使ってしまわねばならないので、地元グルメになどは目もくれずに、っまいにち王将である、

っゆうべ中之島のあたらしい美術館の脇を歩くに、っいま小出楢重が来ているようだ、っいつかには佐伯祐三展があり、っそこでおもいもかけずカフォン・ボスと遭遇したのも懐かしいが、近年に落成した小洒落た美術館にしてはチョイスが渋い、っこんやはたっぷり睡らりょうし、っあすの公演前にでも見物へ行くとせむ、

っそのあすは、福島で前橋汀子女史のコンチェルト公演である、コバケンさんとの大宮でだったか、府中でだったかな、ブルッフのコンチェルトを聴いたのは、っもう20年くらい以前のはずで、彼女が弾き出される途端に魂をぜんぶ持ってゆかれたが、非礼ながら、っもうかなりのお歳となられたはずで、っこの間にどのような変貌を遂げられたであろうか、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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中之島、




デュトワ氏の棒、大阪フィル公演、済む、演目は、小菅優女史を迎えてモーツァルト《22番》コンチェルトと、コーラスを加えてラヴェル《ダフニスとクロエ》全曲とである、、、っん、っそうか、っぼくの習いでゆけば、ダフニスとクロエと、っと表記せねばならないか、ペレアス、、、にしても同様であり、っこれからはそうせむ、

っきょうから3泊4日で、っまいにちこちらで演奏会である、日曜には東京近郊で佐藤雄一氏の公演があるのだが、翌月曜は京都へおらねばならず、流石に中1日置いて往ったり来たりの新幹線代は懐に辛く、佐藤氏の方は諦めて、代わりを探すと、っなんと前橋汀子女史のコンチェルトを1日のうちにふたつも聴ける公演があり、っよろこんでそちらを撰む、っきょうは平日だが、アルバイトさんたちには詫びを云って現場は止めさせていただき、っしかし午前は聖蹟別棟で仕事をして、ハイ・エイスは別棟へ置いて、チャリンコを多摩センへ駐輪し、午から大阪へ来る、

狛江の古墳現場は、前回調査で崩落の危険があるため掘り残した個所を、公園整備の擁壁工事のためにどのみち調査せねばならないというので掘り拡げてみるに、っまたも刃渡り30cmほどの直刀が出土し、遺跡へ携わっていても、っかほどに充実した調査は一生にいちどあるかないかであろう、埋葬主体部は礫槨かつ礫床であるが、っその一部は擁壁のための墳丘の切土工の影響を受けるため、っいったん取り上げ、擁壁工事の完了後、原位置に復せしめるというので、目下、周到に3次元情報を記録しつ1点1点外している、墳丘に対して切土を行なうということは、っとうぜんながら構築土の土層断面が現われるわけで、来年度にはその断面図の記録作業があり、主体部の礫の復原工は早くても再来年度、気の長い話で、っさて遺跡公園の開園はいつのことやら、っうちの会社としては、一遺跡でまいとしのようになにかしら作業が発生してそのたびに予算が附くので、1粒で2度どころか、3度4度5度、っもっとおいしい現場ではある、っぼくが代理人を務めるだけでもこんかいで4度目で、上記のとおりすくなくもあと2度、っや、っまだほかの調査もあるので3度以上は出向くこととなり、狛江市お役人からももはや、勝手がわかっている人じゃないと無理なので、まいかい水野さんでお願いします、っとご指名をいただいている、社内にはぼくみたようなバイト上がりのただの素人でなく、っちゃんと古墳時代の専門家もいらっしゃり、なんでそこの現場が俺じゃないんだろう、っとこぼしていられ、っぼくもまったくそのとおりだとおもうが、っま、っどこの現場の配属になるかは、偏にそのときそのときの身体が空いている空いていないに依存しており、っひとくちに云えば、巡り合わせだ、美術大学を出た考古学のまったくの門外漢が、専門家がしんから望んでも生涯できないかもしれない調査を、現にかくして行なっている、人生とは世間とは、っまことに不可思議である、

っはてさて、っそんな、っふだんの調査とは数段異なる緊張を強いらる現場のまいにちながら、ミニマル先輩ほかから、たのしんで来てねっ、っと送られて、4日間の遊興の、っこんやが嚆矢であったところ、、、っいやあ、っこちとらぐうの音も出ない先制打でしたねえ、

っまず音場の勝利、渋谷ほどではないにせよ、っここ中之島も2,000席をおおきく超脱する大会堂のはずであるが、中規模編成で臨むモーツァルトでも音は瘠せず、っむしろ潤いたっぷり、ソロのニュアンスも細大漏らさず伝わる、《ダフニス、、、》については、トュッティが定まってぎすぎすし、音楽ではなくその無味乾燥の設計図の提示と変じてしまう彼地でのN響の感触とは、っまさしく雲泥の差であり、っこちらは全曲ずっとずっと音楽の塊である、っしかも大フィルは、ホルンの1番などにときおりかすかかすかなエラーこそあれ、絃も管も打もすべてのパートが好個のキャラクターたちであられ、っかつ全体として高度高級に一体なのであり、音楽たることが極まって、っもはやさようの一個の夢幻、魔術魔法、非現実である、各楽器のソノリティをよりリアルに感ずるときほどその観は高まるのだから、っこちとらはひたすらに時間を忘れらる、

っとはいえまずモーツァルト、オケのみによるイントロダクションから、筆はずいぶん込み入り、和音も、調の微妙な移り方も、自在なリズムの変転も、ポリフォニックな複雑さも、っじつに入魂である、っそしてもちろん、っそれらがほんの秋の夜風のごとささやかに吹き過ぎてゆくなかでしかし十全に行なわれるというのが、モーツァルトのモーツァルトたるところである、っあたらしい主題で顕われる小菅女史のソロにも危うい色合いの音が含まれ、っじつに萬感を隠した爽快清冽である、

っそうした無上の繊細を要求する譜面であるだけに、序奏でも主部でも、大フィルは複数度、っわずかに不協和音を鳴らされてしまい、っほんのほんの手抜かりからそれは起こるのだろうが、っきっとあすのゲネ・プロでのデュトワ氏は、っそれについて厳しい叱咤を飛ばされるだろうと思量せられる、

作家の自筆の遺らないソロのカデンツは、リヒテルの依頼によるブリテンの作とのこと、モーツァルトを逸脱しない範囲で、っしかしかなりに現代的の要素も含んでおり、っほどよいスパイスだ、

2楽章は3拍子の中間部がことのほか印象的、木管も各位、ソリストに敗けず劣らずの大看板大看板であられ、っこちとらうっとりと陶醉へ浸る、

フィナーレは、ソロといいオケといい演奏はあれで、っむしろ浪漫派以降の各コンチェルトなどよりよほどか難儀なのではないかとおもわれるが、っそれがよろしく達せらると、客席ではそのまま最後まで醉いごこちの裡へいられる、デュトワ氏は以前よりかように、モーツァルトやハイドンなどと近現代の精妙なオーケストレイションの楽曲とを同日に組むということをされているが、っかたや古典美、っかたや機能美により、っしかしいずれも幽玄境を現出させられ、っじつにご自慢のレパートリーであるのに相違ない、

ミニマル先輩に云わせると《ダフニス、、、》は、正直、㐧2スートだけでいいよね、っとのことで、ったしかにぼくも、先週N響を聴いたまでは同意であったが、っそれはあんな渋谷みたような貧しい音場で聴くからさようの所感となるのであって、っきょう聴くと、一見、冗長な時間も含む気がする㐧1部も、不穏な㐧2部も、っすべて㐧3部への存るべき膳立てと映る、っともかく、っありとある瞬間が音楽音楽また音楽で、っついに㐧3部へ到達した際の感懐には、曰く名状に堪えぬものがある、

デュトワ氏に老境の衰えは欠片ほどもない、㐧2部のコーラスによる導入が済み、オケが俄かに勢い附くと、苛烈なテムポによる追い込みは、気力あり余る青年指揮者さながら、っもちろん勇み足はどこにもなく、っばかりか、メロウな場面へ来たときの遊び戯れ、っすでにしてエロティックでさえあるゆとりの構えは、青年指揮者では逆立ちしても眞似のできぬ所業にちがいない、スコアと一心同体、血肉とされた楽曲を夢中で振り進まれる自在感こそは、っまさしくフレンチの大シェフの勇姿だ、

コーラスの音勢感も、先週のN響公演よりもずっとずっと上質的確である、㐧3部は、絃バスに始まるあさぼらけの主題と並行して、彼等が全曲冒頭の動機を鳴らしているのだとよくよく諒解しえた、

っところで、㐧2スートを単独でコーラス入りで演るばあい、声楽は女声のみではなかったかと記憶するのだが、先週の公演で男声陣も入場して来られるので、あれ、混声合唱なのか、っと少々意想外であった、

っそのあさの情景は、っかってないほど各楽器の音彩が活き、感動的どころの騒ぎではない、っその後はパンのフリュートもアルト・フリュートも、っその他木管もみなすばらしくていられ、っとうとう、っなんとも謂えぬ落ち着きと熾烈の熱狂との同居した全員の踊りが、字義通りの大団円を迎える、設計図を見せられているっきりのN響公演は1回聴けばじゅうぶんだが、っこの仕合わせは、っぜひに2日とも味わわねばならぬ、掛け値なしの耳とこころとのご馳走である、



月の始めから王将で生の割引券を何枚も貰ったが、現場通いでは、帰りに寄っても使えやしないので、っこんなときに消化せねばならず、公演事後は、器からまっすぐに南へ何ブロックか歩き、寄る、関東の店舗にはない得手勝手なメニューがたくさんあり、目移りしつたのしく晩餉を摂る、っいまは、っそこから一寸取って返したおおきな公園の片隅にて、シガレットを服んでいる、っもう日附が変わった、っまだ電車はあるだろうか、疾々と宿へ帰らねば、

、、、っおっと、検索したが、っもうはや終電が済んでしまったらしい、詮方ない、歩って戻らむ、っそれとても、好い気分である、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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川崎、




山本音弥氏の棒、っこれでオケの名前のお心算なのかな、マーラー・プロジェクト公演、済む、演目はマーラー《葬礼》、同《5番》であったが、午前のみ仕事をして多摩センから来るも、小田急、南武線ともに遅れており、開演までに現着しえず、《葬礼》は聴き逃す、っそれもほんのタッチの差であった、っもぎりのところでスタッフの女性から、すでに前半が開演しておりますので、後半までロビーでお待ちください、っと云われたので、入ってすぐのところの椅子へ背嚢を置いて、30秒ほど項垂れていたところ、ロビーへは堂内の音がスピーカーでかすかに流されており、っどうもテューニングの音のようなので、え、それならまだ入れるじゃないか、っと慌ててエスカレイターを1段飛びに駈け上がるものの、扉の前のスタッフの方に、もう指揮者が登壇しておりますので、入場はご遠慮ください、っと云われてしまう、っあの30秒がなければ入れていた、っもぎりの方からすでに前半が開演していると云われていなければ間に合っていた、

っまあしかし、《5番》を聴いてみると、予期したとおりぜんぜんふつうで、1曲聴けようが聴けまいがどうでもよかった、っいつもそれなりの分量を数時間掛けて書いていて、っわりにたのしいのだが草臥れるのは草臥れるので、ったまにはなにも云うべきことのない演奏もあってくれるほうが、体力を温存できてありがたい、

オケは、下手ではないが、マーラーの全曲踏破を企図されているというわりに、テクニークはじゅうぶんではなく、酷に云えば、っあの程度の合奏でマーラーを演っても、っほとんど意味がない、こまかい音符を処理し切れないまま次の小節が来てしまう、っという個所が全曲に亙って散見せられ、っしたがって、曲の概観は伝わっているが、っあたかもブラウン管時代のTV映像をこの現代に視るようである、っもっとも、っそうしたことはプロフェッショナルの楽団でもしばしば晒しており、っぼくがこの曲にださい造形を希むのも、颯爽としているのは指揮者の棒ばかりで、鳴る音としては中身がぎっしり詰まらないまま時間だけが先へ流れてしまう、っという演奏が世に澎湃としているからかもしれない、っそんな生煮えの熱狂擬きを聴かされるくらいならば、っいっそすべての場面を自分たちのちゃんと弾ける速度へ落としてしまってくれたいというのだ、

ヤマカズさんのN響とのスウィトナー代演はその方角の雄だが、2楽章やフィナーレの徹底ぶりに比して、3楽章の突っ込みがやや甘くていられるようで、全曲が同等の高みへ達していない憾がわずかにある、っこの曲にすべての場面をはげしい納得とともに聴ける眞なる銘盤は存しえないのかと半ば以上は諦めていたのだが、っそこへコバケンさんのロンドン・フィル盤が出た、っここへは80年代N響のごと力盡くの轟音は片時もしていない、フィナーレの大団円ですら、あのコバケンさんがこのテイクでOKを出されたのか、っとおもわせるほど、金管は音を割って吹き荒ぶことをせず、打楽器も鋭く炸裂する気配は微塵もなく、最後の最後までアンサムブルの貌附きがおっとりとしている、一聴したときこそ、これで定め所ではいま一歩破目を外してくれていたら、まさに申し分ないのだが、っくらいにおもったことをよく記憶しているが、っだんだんと聴くうちに、これはむしろ、それをされなんだことの勝利なのだ、、、っ、っとの畏怖の情に襲われて、っいまでは、このほんの1枚の音盤をもってしてしかし、20世紀後半から21世紀前半に掛けて、我等が人類史音楽史には小林研一郎なる指揮者がたしかに存在したのだと證ししうる、稀有なる遺産と成り遂せた、っくらいにおもっている、彼氏のディスコグラフィには印象深い音盤がいくつもあるが、っそのなかでも、目下ぼくにすれば、断トツもトツの1位であり、っばかりか、今後も末永く、っおそらくはぼくが死ぬまで、マーラー《5番》で1枚っきり挙げるとしたら、っと問わるならば、あ、そりゃもう、小林研一郎/ロンドン・フィルです、っと応えつづけるであろう、っいまも多摩センまで戻ってコメダにて耳で鳴らしているが、聴くがよいっ、っこのださださっぷりをっっっ、っそして、ロンドン・フィルは、っそんなのんびりしたテムポなぞ用意してもらわなくとも、っはなからちゃんと弾ける人たちなのだ、っそのちゃんと弾ける人たちがしかし、満腔の敬意とともにこの老指揮者へ附き合われているっっっ、彼等は、若きユロフスキ氏との仕事にも、っもちろん眞剣に取り組まれていることだろう、っがいっぽうで、っそれとは肖ても肖附かぬこのジャパニーズとの協業を、っまた大いなるよろこびとされているのにちがいない、弾いていてご自分たちで刻一刻と実感されるはずである、永くオケ・マンをやっていても、こんなマーラーを音にできる機会はそうそうは訪れない、っと、演奏会へ行くと、っいまでも2時間全体で完全な満足を與えてくれることの滅多にないコバケンさんだが、っよい、っこんな音盤が録れてしまわれたのだから、っこれでおおきに人生上がったりである、

っそれでも、ヤマカズさんにもまだ出番はおありだ、聴き手を嬲り殺しにせむばかりの往時のN響のけたたましい鳴り方は、2楽章やフィナーレの勝鬨において最高の雄叫びを上げている、っとくに後者では、最後の山場に入ってから、動機中の下降句の部分を津堅氏以下トロムペット連が、っただでさえ法外な音量音圧をさらに高めて強調するという、っほかの誰からも聴いたことのない特有の表現を披瀝されており、っとうぜんヤマカズさんの差配であるが、っほんの1個所であろうと、演奏がほかの誰にも敗けない武器を有っているというのは、偉大なことである、

っきょうの公演の所感はあっさり済ませたが、っほかで補償せむとしてヤマカズ-コバケン師弟にご登場願い、っけっきょくはまた20時になってしまった、



っあすは、2年ぶりくらいで、川越の就農ヴェテランさん農場へ遊びに往く、社用車無断使用で、っあさ永山で《雨月、、、》くん、薩摩隼人、薩摩隼人の同僚の方を拾ってから向かう、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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代々木公園、




デュトワ氏の棒、N響公演、済む、オール・ラヴェル・プロで、《亡き王女のためのパヴァーヌ》《クープランの墓》、二期会のコーラスを加えて《ダフニスとクロエ》全曲である、

っきょうは狛江の古墳現場から多摩川を渡って向ヶ丘遊園辺に駐車し、小田急、千代田線で来る、20分ほどで着くので18時前には公園の坂下におり、登ってまず野外ステイジの脇で何本かシガレットを服み、っもぎりを通っての喫煙スペイスで開演直前までさらに服みつづけて、流石にややいがらっぽくなる、

現場へはミニマル先輩が来られているので、また演るんだ、デュトワの《ダフニス、、、》全曲、むかし聴いたよ、デュトワだと、ドビュッシー《ペレアス、、、》演奏会形式が、あそこで聴いたN響では過去一くらいよかったかなあ、っなどなどとうかがう、彼氏とぼくとではかなりに嗜好が異なり、っそれはお互いに認識しているので、っあまり核心へは踏ん込まずに、っふたりとも、へえ、そうなんですね、そうなんだ、っという程度の話に留めている、っむかしは、小澤信者でいられる彼氏に向かいてぼくも、小澤の音盤なんてどれ聴いてもつまらんですよ、っなどと放言してしまったことがあるし、宇野さんエピゴーネンたるぼくに彼氏から、宇野、論外っ、っとの唾棄もあった、宇野さんは基本的には小澤氏に辛い人だったからね、っまあしかし、互いの嗜好を容れ合おうよと探り探りするうちに、っほんの表面的の談義で収めるといういまの会話術となった、っときどき、っべつに挑発したいわけじゃないが、っぼくの偏執をすこしく口外すると、相手も不敵な微笑とともに、まあ水野くんはそういうのすきそうだよね、っと返してくださり、っそれもまたたのしいのだが、

っさてきょうだが、先週のメシアンといい、っなるほどこの器では、大編成による大トュッティを含む楽曲を聴くよりも、小ぢんまりとしたひびきのするもののほうがずっとずっと快適だとおもい知る、っあの大N響が生真面目にぎっちりと鳴り切った感触には、っぼくはどうしてもどうしても馴染めない、鳴っている音に、っこちとらがいっしょにこころを動かす隙がこれっぱかりもありゃしないからである、音楽は演奏は、っもっとぜんぜん隙だらけでよい、、、っこんなの、っそれこそミニマル先輩には肯んぜられないかんがえであろうが、っや、昨今、っぼくが頻繁に聴くようになった日本フィルなども、っもはや隙らしい隙をみせない楽団と成り遂せられたのだが、っほんのなにかの加減で、っお客お客のほうで鳴る音に愛着を生ずる生じないの差が生まれるのかとおもう、っぼくは、東フィルは無機質、東響は内輪というか小作り、都響は硬いというのか金属質というのか、っなどなどといった各楽団への概観を有っているが、っそういう音をよろこぶ人もそれぞれにいようし、っそれはもちろんN響に対しても同断である、っあとはもう、各人の人生行路上で、っどの楽団をより愛聴するようになったかという個人差があるのみであろう、っぼくは現時点では、トップかトップでないかという上下の話ではない、最も愛しい音を発してくれる在京の団体は日フィルであるとおもっており、っそれはぼく一個がたまさかそうだというにすぎない、

ホルンの1番はきょうも松崎氏であられたが、弱音で入る《、、、パヴァーヌ》の主題から、っやはりホルニストたるものあのように、綜ての人よっ、我が妙音に醉えよかしっ、っと音色を磨きながら磨きながら歌ってくれないのでは、聴き惚れることはできない、、、っという今井氏への厭味な当て擦り、

和する低い音域のフリュートのほんのひと節も、っかすかなハープのひと弾きも、やればできるじゃないかっ、っというムーディな色合い、っおもわずに惹き込まる、ソルディーノの絃も、っごしごし弾くような曲想ではないので、音が硬くひとっ束にならなくてまことに心地よい、っそれをすると音の色の幅が途端に狭まり、一挙につまらなくなる、規格外の大音場の宿痾である、

《クープラン、、、》も、フレンチというよりは無国籍の精妙に一貫せられており、っあれを巧いと取るかやや機械的で味気ないと取るか、っぎりぎりのラインで、っいずれ、っぼくにすればその時点で仕合わせからは逸れた楽音なのだが、間接音の豊饒もくそもないこの器にて素裸の音像群で勝負せねばならないその演奏としては、っある種の最適解を示しているのかもしれない、っそして云ったように、打楽器等を交える最大音量も、2,000席級までの器で聴く飽和の感触とはぜんぜん別物で、マトリョーシカの、っいちばん外側のものからひとつふたつ内側のそれをみるごと、っさっぱりと清涼な後味は、ったしかに一寸した快感ではある、

喫煙スペイスまですぐなので、っいつもは1本のシガレットを2本服んで戻るが、っしかしなかなか休憩が明けない、20分と案内があったが、大方30分も經ったのではないか、っその間、デュトワ氏が袖から顔を覗かせて、2階3階の方を指しながら女性スタッフの方へなにごとかを云われていた、っさいしょに登壇された際、っお顔に暗い翳が差すようで、もうすこしくなんとかというライティングはないのかとおもわせたが、《ダフニス、、、》はスコアを見られながらの棒ということもあり、照明について註文を附けられるなりがあったかもしれない、っもうしばらくあってからようやっと100人規模のコーラスが登壇され、っそれが出揃ってからオケが入られたため、済んで21時を大幅に回る、

っその《ダフニス、、、》も、っやはりトュッティのところほど平板で、っかえってオーケストラを聴くよろこびが薄れ、中音量以下で、乾いているなりに各声部のソノリティを把捉しうる場面のほうが、っまだしも音楽的の情報量に優れた、デュトワ氏もまた、同響のディレクトール時分にはけっしてあのようではなかった、ここは理窟抜きのアッピールが要るぜっ、っという仙人然たるボディ・アクションをほんのときおり見せられ、新日本フィルへの来演時にもその振りに応じてオケの表現力がとつじょ、何倍にも膨れ上がるようで、一驚を喫したが、っきょうのN響もそれにおなじ、

コーラスは、っそれなりの頭っ数だったので期待したが、っどの場面でもバランスとしてもっと聴こえてくれたかったか、



事後は、駅とは反対方向になってしまうが、例の喫煙可カッフェへ寄るところ、会計の際にマスターから、いつもありがとうございます、っと初めて云わる、常連認定せられたようで、っこころうれしい、

っさて、遊園へ戻って、っもうじき日附が変わりそう、っまだこれから帰って、っあすはまた午前のみ仕事をし、午后に川崎でなにかアマチュアの公演、マーラー《5番》だったとおもうが、指揮者はなんとかいう若くてしゅっとした人なので、っどうせスマートな演奏にちがいなく、っあまりおおくを期待していない、っま、っいつかどこかでは、え、どっしりでっぷりしていなくともこんなに聴ける曲なのかよ、っとの反省を促されたいとはおもっているこの曲だが、っそのぼくの改心への傾動も、コバケンさんのロンドン・フィルとの音盤によってふたたび完封せられてしまった、っやはりこの曲は、一見するところ曲趣に似合わしからぬだっさださの造形で聴きたい、っそれはあすは叶えられなかろうというか、叶えられないに定まっているということである、っどうしてみな、っあの曲をあんなにカッコよく演ろうとするのであろうか、っぐっでぐでにのたうち、全身泥だらけの終結へ逢着してくれるのがよいのに、、、っこれもまた、ったとえばミニマル先輩へは永遠に伝わらないであろうあほな趣味だ、



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《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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知多半田、




森口真司氏の棒、名古屋シュピール・シンフォニカー公演、済む、演目は、チャイコフスキー《白鳥湖》抜萃、名古屋テアトロ唱の女声コーラスを加えてホルスト《惑星》である、

っあいにくの雨で、喫煙場所を探すのにも苦労をする、

開場の小1時間前に器へ着き、っよろしく自分で最良とおもう位置を得るが、隣へ坐した母娘連れのうち親御のほうが、演奏中に周期的に手許のパンフレットやフライヤーを弄らなくては気の済まない人で、っその習性というか病理の人が、っある種、最も始末に困る、パンフレットを見るなとは云えないので指摘し難いのだが、っしかしあきらかにパンフレットを見ているのではない、っなんとならば、っしょっちゅうべつのフライヤー類と上下を入れ替えたりするからで、要は多動症、っじっとひとつの姿勢を維持するということができず、手に持っている書類をおもちゃにしてストレスを逃しているわけである、っそれはもうそういう病気というか、生来の身体の不全、母胎のコレステロール不足に起因しており、彼女自身の責めではないから、二重に指摘し辛い、永年に亙り、コレステロールの悪魔視を煽動してきた厚労省の罪は重い、広く薄く害悪を及ぼしているだけにこれで国賠というわけにもゆかず、っよりいっそう性質がわるい、っその広く薄くの端の端のそのまた端には、演奏会の客席で当の症者と隣り合った人がやや迷惑をすることも含まれるが、っやはりこんなのは、誰かに補償を要求できることでもない、癪なのは、彼等症者がすこしくも悪びれずにというのか、罪の意識に苛まれずにというのか、良心の呵責をおぼえずにというのか、頻繁なるノイズを発するところで、脳内の電気信号を絶縁しえないことによる反射的の行動なのだからとうぜんと云えばとうぜんだが、っともかくあらゆる点で、演奏会の客席で多動症者と隣り合ってしまうというのは、っいかにも損気にさせらる事態である、っできるのは、っなるがたけ気にしないこと、っそれひとつで、、、っでもやっぱりこちとらばっかり一方的の損だ、っやり切れない、自由席であれば彼等を避けてどこかへ移ればよいというのもあるが、っそれもなにかねえ、っだいいちぼくは、自由席で前後半でちがう席で聴くというのがいやなのだ、っなんだかさもしいことをしているみたようじゃないか、っいちどここと定めたら、っそれがその日の運であり巡り合わせなのであって、っやむないノイズにも従容として附き合わざるべからずである、

っさておき、初めて聴く楽団には乗っけの1音から、よしっ、巧いっ、っとおもわせてくれたいものだが、っきょうの彼等はかなりの練度、っきのうのプロースト響と伯仲というくらいである、音場は階上を有たない中規模器で、っいま多摩センまで戻って来てコメダへいるが、っちょうどここ多摩センなどと同様の容積ではないか、トュッティの峻烈が客席の奥までつよい圧力のまま届く感触は、大音場ではけっして經験しえない、っしかも、っめいっぱいに鳴ってもうるさくなるぎりぎり手前で踏み止まるふうで、っまことに快い、

っはたとかんがえるのだが、っきのうきょうとアマチュア2団体は、っあれでそれぞれにごく自然に弾かれていようが、っそれだけで仕合わせなのだ、オーケストラが鳴っている場に居合わせているということが、っすでにしてこころうれしいのである、天下のN響だけが、っと云うべきなのか、っそれをおもわせてくれないというのは、っもはやかなしむべきことであろう、っああした音場をホームとし、っああしたアンサムブルの文化へ収斂してゆかざるをえない彼等の、っそれは悲哀である、っすくなくもぼくは、客席へいて、音楽とはこんなにも窮窟でなければならないのだろうか、っとおもってしまう、

《白鳥湖》は、っだいぶんおおくの場面を採っていたが、っついに大団円ではこちとらも感極まる、熱っぽい鳴り方が清しい、

《惑星》は、井﨑正浩氏といい昨夕のデュトワ氏といいきょうの森口氏といい、〈火星〉から果敢に攻められる、細部のピントの合い方など、っもちろんN響とは較ぶべくもない、っけれども、っぼくはきょうくらい手作りの味のする演奏を聴いているほうが気分がよい、

っこうした尖鋭な造形が、《惑星》では一般的なのだろう、っぼくの聴いているロズージェストヴェンスキー氏の演奏がおかしいのだ、、、っところで、デュトワ氏はもう89歳という、ロズージェストヴェンスキー氏は、18年にたしか87歳くらいで物故されたのかな、当該演奏はその数年前であろうから、80代の前半からせいぜい中盤で、っいずれ、現在のデュトワ氏よりもだいぶん年少時である、



っいまはコメダを出て駅の喫煙スペイス、新幹線ではずっとうとうとしていたので、っまだ書き了わらない、

恋しさに、っおなじロズージェストヴェンスキー氏の、読響とのチャイコフスキー《白鳥湖》ハイライツを聴いている、っこの客演時、亡くなる2年前だから、16年の秋ころか、っの、サントリーでのショスタコーヴィチの方は客席で聴いたのだが、池袋でのチャイコフスキー3大バレエ・ハイライツは、演目を侮って聴きに行かなんだことが、返す返すも悔やまれてならない、っご生前最期の来日、往時の最長老、スクロヴァチェフスキ氏の物故に伴なう代演でのブルックナー《5番》シャルク・リヴァイズともども、っこの3公演の音盤発売は、近年の音盤史上でも壮挙中の壮挙であった、デュトワ氏にしてもそうだが、ロズージェストヴェンスキー氏も、壮年時には盛んな盤歴がおありで、っしかしその後は、っおふたりともずっと有名を維持されているにも拘わらず、体系的の録音活動がなく、っご本人にそのお心算がなかったのか、各レコード会社はなにをしていたのかとおもうが、っほんの3演目っきりでも、っかくしてロズージェストヴェンスキー氏の良質のライヴ録音が遺ったというのは、っそれも、イギリスであれどこであれ、旧西側諸国の有名楽団ともいくつも関係がおありのなか、っその音盤を制作したのがほかでもない我が日本国の読響であるというのは、っこれを誉れと云わずしてなんとせむ、っしかも、っみっつのうちふたつまでが大本命のチャイコフスキーとショスタコーヴィチとであり、っしかしみっつ目にしてほんとうにほんとうの最々晩年の記録が、シャルク・リヴァイズのブルックナー《5番》などという珍品中の珍品であったとは、っしかもしかもそれが予期せぬ代演の記録であるとは、っいくつもの偶然に祝福せられたこのテスタメントは、っどんなことばも届かぬ文字通りの一大建築として、人類史にいついつまでも聳えて朽ちることがないのにちがいない、



っさて、っあすはあさすこしく早く起きて狛江へ往かねばならないからな、っもうそろそろ帰らむ、現場も、軌道へ乗せてしまえばまいにちが流れ作業だが、立ち上げのときはやはり緊張する、

っお次は金曜、っまたデュトワ氏のN響公演である、都心の方へ駐車場を探してみたが手頃なところがみつからず、狛江から川を渡っての向ヶ丘遊園辺に安いのを予約し、電車移動、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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渋谷、




っそこから来たので、

デュトワ氏の棒、N響公演、済む、演目は、小菅優女史のピアノ、大矢素子女史のオンド・マルトノ、東京オペラ・シンガーズの女声コーラスで、メシアン《神の現存の3つの小典禮》、っそしてホルスト《惑星》である、

っこの器のなにがよいといって、場内の喫煙スペイスがとても利用し易い場所にあることと、公演事前でも事後でも、っこれは何坂かな、渋谷のまんなかの方から代々木公園へ登ってくる坂の中途というか、登り切るあたりへある、喫煙可のカッフェへ寄りうることである、っいまもそこにて、

デュトワ氏は、っあれは前回の来日時であったか、っぼくは新日本フィルとの錦糸町とサントリーとでの同一プロでストラヴィンスキー《ペトルーシュカ》ほかを聴き、っその後者の舞台で彼氏がなにか意識朦朧とされる様を見、心配したところ、っその後、ったしか大阪と札幌とへ客演されるはずが、敢えなくキャンセル、気附けば斯界でも最長老のおひとりとなられたのであり、流石に衰えを隠せないのか、っとおもわせた、っその前回のこの今回であるが、風采はまるでお変わりなく、背筋の伸びた悠然たる佇まいと、以前に違わぬいかにもデュトワデュトワした振り姿とでいられる、

っそういえば、先般のサントリーでの大友氏と同響との公演では、クラリネットの2番が堂面氏でいられ、っきょうも彼氏はバス・クラでお乗りだった、ったまさかトラつづきなのかなあ、っそれともやはり移籍されたのだろうか、っそれから、っきょうホルンの1番は、っひょっとして松崎氏でいらしたのだろうか、っあの風貌はたぶんそうとおもうが、デュトワ氏の棒とあって、楽団から請われたのかもしれない、っせんじつ、南千住で知己トロムボーン奏者さんと呑んだ際、いまN響ホルン1番の今井ってのいるじゃないですか、私あれだめなんですよ、ミスはすくないのかもしれないけれど、それだけってかんじでね、っと忌憚なくおっしゃっており、今井氏にはわるいがぼくもそれにほぼ同意で、っその点、っきょうの松崎氏とおぼしき1番は、っこの非音楽的の音場でしかし、能うかぎりの妙音を聴かせられる、っその大友氏公演時の1番は今井氏ではなく、知らない人だったので客演かもしれないが、以下4人とも音色に趣味がなくていられ、シベリウス開始早々のアンサムブルから、我が国を代表する楽団のホルン連が、こんなにもぞんざいな音の色っきり発しえないようでどうするのかっ、っとおもわせたものだ、

っまた、ティムパニの2番は、っあの人どっかで見たことあるんだよなあ、名古屋フィルだったかなあ、っちがったかなあ、っあの人もトラなのか、N響へ取られてしまったのか、っいずれ、他所が育てたオケ・マンを誰も彼も取り上げちゃうって、っあんまり感心しないことだ、っなにしろお給金がね、っいま日本でいちばんの惨状にある楽団とN響とでは、下手をすると5倍くらい金額がちがうはずだから、っそのいちばんひどいところの楽員さんだと、ったとえばうちの会社のアルバイトさんよりも年収が低いくらいなんだとおもう、っきついねえ、、、っそれでぼくら大衆へ仕合わせを惠む職業というのは、

っできょうだが、っきょうはしかし、っすくなくもメシアンについては、楽曲のひびきの性格として、音場の難点がさしてマイナスへ働かないところがあり、聴いているときの気分もけっしてわるくはなかった、っぜんぜん識らない曲だが、主題もわりに明快で、構成も3曲ともシムプルな3部形式であり、精妙なコーラスはまさしく曲趣に打って附けであろう、同《トゥーランガリラ、、、》などは、大所帯の楽隊で音色としてハレイションを起こすようで、強音はきんきんするし、聴いていて疲れる、構成としても、っどう楽曲が発展し、昇華へ至るのか、っあれでなんだかよくわからんし、っこの曲の器楽は、ピアノとオンド・マルトノと、オケは絃5部に各種打楽器、チェレスタのみと、要素を絞ったことが奏功しているようで、音々がどちらへ行きたがっているのか、客席でも見失なうことがない、

《惑星》は、っこないだ井﨑正浩氏を聴き、っじつはあしたも聴く、云ったように、っぼくはこんな曲はべつにどうともおもっていなく、っふたつの演奏を聴いてもその認識は覆らない、後世において複数の作家がその筆致を模倣しているがために、っかえって盛られたあれこれのイディオムの独自性も薄められてしまい、っだいぶん損をしている楽曲かもしれない、

フル編成となって、N響はいつものN響だ、っなるほど鉄壁の合奏能力ではあるのだが、っどうしても仕合わせでない、隙間っ風はどこにも微塵も吹きようがなく、っなんだか、体脂肪率1桁前半ですという人の鍛え抜かれた肉体美を観るようである、っぼくは男だが、男の筋骨隆々の体軀は視覚的にうつくしいとはおもう、、、っすこしく譬えが生々しいか、っその類のギリシャの彫像とか、ミケランジェロ《ダヴィデ》を観るようなここちと謂えばよいのか、

デュトワ氏は現在、っぼくの愛惜せるロズージェストヴェンスキー氏の同曲海賊盤の演奏時の彼氏と同年輩か、っどうかするとすでにして年長かもしれないが、っこちらはぜんぜん老人指揮者の造形ではなく、っきびきびと若々しい、っそしてもちろん目配りは微に入り細を穿ち、貧しい音場でもまずまずの曲趣の発散を果たされる、

っあさってからの狛江古墳現場へはミニマル先輩が来てくださるが、彼氏は以前、NHKホールのオルガンってしょぼいんだよねえ、っとおっしゃっていたことがある、っぼくは、っここのオルガンが鳴るのは、っきょう初めて聴いたのだろうか、っちがうか、ファビオ・ルイージ氏がレスピーギかなにかを演られたのを聴いているのか、っいずれ、っきょうの席は右側へ据え附けられた同楽器が眼前にある位置で、っちゃんと鳴っているのがわかったし、最低音域の際の微震動も伝わってきた、



っさてあすだが、スケデュール・アプリケイションにはずっと以前から佐藤雄一とあって、っしかしさいきんになって、っそろそろ切符を売り出すころじゃないかとおもって調べたのだが、っどう検索しても彼氏の公演はヒットしない、日附を間違って入力してしまっていたのかとおもい、同日には名古屋というか、っそこから知多半島の方へやや逸れた地方の音場で森口真司氏の公演があることは知っていたが、演目がこの《惑星》とぼくにすれば魅力薄で、関東で佐藤氏公演があるならばそちらへは行かずに済んでよかったとおもっていたところ、佐藤氏のほうが幻だとなれば、っこれはもう森口氏を聴くよりほかない、予期せぬ新幹線代発生でかなり手痛いが、っえいやっと切符を購ってしまう、っこんげつは4往復、8回も新幹線へ乗ることとなり、出費としてはことしの頂点であろう、っまったく、、、鼻血が出ちゃうよ鼻血が、

っいまもうじき23時だが、っまだカッフェ、っこれから多摩センへ戻って、会社へ行って車を取って来る、っこんかいの古墳現場は通常の調査とちがい、っすこしく厄介な作業を要求せられるが、っそのために前回調査の概要のわかる資料があるほうが親切だろうと、っそれらもプリント・アウトせねばならない、っめんどくさいなあ、、、っけさ無理にも起きて出勤しておけばよかった、

っま、っあすは9時ころ外出すればよいはずだから、っゆっくり睡られるとはおもうが、



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《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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水道橋、




冨平恭平氏の棒、プロースト響公演、済む、演目は、シェーンベルクの編になるバッハ《前奏とフーガと》、っそしてブルックナー《8番》である、ブルックナーのファッスングはハースで、っとうぜんの選択である、

っきょうは午前のみ仕事をする心算であったが、っやや草臥れており、休んでしまう、週明けから狛江の古墳の現場なので、社用車を取って来ねばならないのだが、っまあきょうよなかにでも侵入すればよい、

演奏だが、オケはかなり巧くていられる、文京シビックは数えるほどっきり来ていないが、っきょうの陣容の楽隊と奏楽の性質とだと、最強音圧のトュッティがごくかすかにハウリングを起こす気味で、っしかし気になるほどではない、

冨平氏はあいかわらず醒めたこころが振り姿へ露見するふうでいられるが、オケがあれだけ弾ければ、下手に煽動する必要はない、

アマチュアによるブルックナー《8番》は、松本宗利音氏もすばらしかったが、っきょうの冨平氏も優にそれに匹敵される、っおふたりに共通するのは、っどの楽章でも主題間でテムポの落差を設けられないところで、っその構え方からすでにしてブルックナーブルックナーしていられる、っそして、1楽章㐧2テーマの頂点もイン・テムポのまま通過する潔さよ、

楽隊のキャラクターとして、松本氏のときのそれよりもトロムペットが瞭然確然とたっぷり吹く人たちで、っしたがって2楽章主部の発展の經緯もよく伝わる、っその主部は、っかなり遅めの速度へ定位さる、スケルツォとしてやや落ち着きすぎる観もあるが、世紀の大巨匠と謳わるチェリビダッケがしかしせかせかと忙しい悪印象を與えることからすれば、っこちらのほうが遙けく曲想に相応わしい足取りとおぼゆ、っしかも冨平氏の老練は、っさように主部において、ずいぶんおっとりだなあ、っとおもわせておいて、っほぼそのままのテムポでトリオへ遷られ、お、こんどはややあっさりとするくらいの快速だ、っと聴かせられる点で、周到な造形である、

っすばらしいのは、相当度の強勢のある部分でも透明なハーモニーが薫る高純度のアンサムブルで、3楽章以降、集中に比例せる脱力によって、っその魅力がいっそう高まる、終局へ向けて楽曲は稀有なるスペクタクルの連続となるため、っそれを逞ましい音力と濁らないひびきとの両立で聴くここちというのは、っまことに感動的である、

全曲ずっとモデラートに運ばれ、フィナーレ終盤のタームを伸長せる1楽章の動機さえ端然とすぐした演奏は、っそのコーダにおいて初めてどっしりと腰を落とし、地を這うごと執念深さで最後の主題欝積を準備する、っついに到達する大団円もそのままゆっくりと歩き、っしかし冨平氏の棒には最後の最後までいっさいの力みとてなく、っよって最高の演奏効果が具現さる、朝比奈さんの余情を振り切られた俊速のフィニッシュもすばらしいが、ったまにはかかるおなかいっぱいの終結もうれしい、



っさて、デュトワ氏のN響公演で、っいま器へ着き、シガレットを服んでいる、っまあこの音場じゃあね、音楽的の音楽鑑賞は叶いませんので、っべつにどんな演奏でもいいです、

っそうだ、っきょうは二期会のベルク《ルル》公演の先行発売で、っせっかくに会員になったのだからと、安くないが、初日と千穐楽とを取る、ダブル・キャストだが、後者のタイトル・ロールは冨平安希子女史でいられ、っやっぱり冨平氏ご夫人なのかなあ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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箕面、




カーチュン・ウォン氏の棒、大阪フィル公演、済む、演目は、エルガー《エニグマ》とドヴォルザーク《新世界》とである、

っこのコムビは、数年前、九州へ往った帰りだったか、っそうじゃない、四国のときだったか、中之島で聴き、っその際のメインはベルリオーズ《幻想》であったが、っぼくがいまだカーチュン氏の語法にじゅうぶんに馴致していなかったこともあり、っさしたる印象は遺っていない、

っきょうは午前のみ仕事をし、午から新幹線で来る、新大阪近くになってうとうととしてしまい、関西訛りのおばちゃんおふたりに、ここあたしらの取った席なんやけど、っと起こされて、慌てて車輛からとびだし、っどうとか降りられた、ホテルは十三へ取り、室へ荷を置いて箕面へ移る、1時間強以前に器へ着き、裏っ手の公園で開演間際までシガレットを服んでいる、

入場すると、大入り満員、2演目とも、曲後、拍手のタイミングがやや早い人がいるが、っしかし演奏中は、っなべて静寂が保たれていた、

予期したとおり、音場狭しとめいっぱいに鳴るが、カーチュン氏は適宜、金管連へ向かって抑制のサインを送られ、充実の音響を達成さる、残響はぞんがいみじかく、っさっぱりとしている、

《エニグマ》はそんなに聴いたことがないので、っどう変奏せられているのか、っあんまりよくわからず、最終変奏で既出の部分が再現しているのがわかった程度である、音響としては、内声の奥の奥までたっぷりと鳴り、っそのいちいちを聴き届けているっきりでも退窟はしない、

《新世界》の造形は、日本フィルとのときと概観は異ならないが、細部の表現を比較してたのしむ、



っあすは仁徳陵を詣でてから帰る、

土曜は午前のみ仕事をし、午すぎに冨平恭平氏公演、夕すぎにはデュトワ氏のN響公演である、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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錦糸町、




平林遼氏の棒、オーケストラ・ラム・スール公演、済む、演目はマーラー《復活》であるが、っその前座として、平林氏ご自身の作曲された《神秘の存在証明》なる、っやはり彼氏の手になる日本語の詞をコーラスの唄う、10分前後の小品を初演し、っそれは横笛の2音によって終止するのだが、っそこから間髪を容れずに《復活》1楽章冒頭の絃のトレモロが鳴る、開始からしばらくは、曲尾に《復活》とそっくりの部分を設けるという趣向かと訝っていたが、っそうではなく、っどうやらもう《復活》へ遷移していたようだ、同曲のソリストは隠岐彩夏、藤田彩歌両女史、コーラスは今次の公演がために結成せられたものらしい、ソプラノの隠岐女史は、っお名に見憶えがある、ったしかあれではないか、紀尾井町で堀俊輔氏がバッハ《マテウス・パッション》をお演りになった際の陣容に、彼女が加わられていたのではなかったか、っちがったかしらん、

平林氏の造形は、以前に享けた印象に違わず、一所懸命に音楽をおかんがえになっているというか、っおかんがえになってしまっているというか、っさようのいでたちであられた、テムポの伸縮ひとつから、っご当人もプログラムへ、世のおおくの演奏は記譜の指定を叶えていない、っと書され、っじっさいの奏楽としてもたしかにふだんあまり聴かない速度の部分がごく頻出していたが、っこちとらその世のおおくの演奏を聴いて曲に馴れているため、相対的に、っきょうの平林氏を奇抜なものとして聴かざるをえない、

オケはしかし本気のひびきだ、フォルテは、金管や打楽器のみならず、ピキェロのシェイクスを伴なわない高絃のデタッシェですらハウリングを起こさむばかりで、全曲がむさくるしいひびきで埋められたその旗色鮮明は、っもちろん意慾的の達成と云いうる、

っただいっぽうで、聴きながらぼくは、っとちゅうから頻りにあることをおもっていた、杏里女史の《オリビアを聴きながら》が、っぼくはけっこうすきなのだが、っあれを作者の尾崎亜美女史が自作自演されたライヴの動画がYouTubeへ上がっていて、っそれを聴くと、一節一節と眞剣に深刻に表情を附けまくったくどすぎるくらいにくどい唄い口でいられ、っぼくなどには煩くてとても聴いていられない、詞とうつくしい旋律とでじゅうぶんに意は盡されているので、歌唱にあたっては、杏里女史のように、っほとんど1色の声で、滅多な表情など振り撒かずに、っすーーーっとすんなり唄ってくれるほうが、遙けくこちとらの心裡において情景が髣髴し、感激しながら聴ける、詞をかみしめるようにごりっごりの表情を出して来られると、頭痛が痛い、っと云われているのとおなじで、っこちとら、頭痛がと云いたいなら頭痛がすると云いなさい、痛いと云いたいなら頭が痛いと云いなさい、っと抵抗したくなる、

っあるは宇野さん、っあの方が、高田三郎作品は、《水のいのち》であれ《心の四季》であれ、絶讚に吝かでないのだが、ただ、作家ご当人による自作自演は、大編成のコーラスをどっしりとしたテムポで唄わせ、子音を噛み附くごとしつこい表情表情で全曲を満たされており、お説教をされているみたようでまったく聴いていられない、っという旨のことを云われ、壮年期にも録音がおありだが、晩年には神戸市混声唱を振られて、淡彩に流れる白鳥の歌を2枚の音盤へ遺された、

っそのとくに《心の四季》がぼくはとてもすきで、劈頭の〈風が〉から、っほんとうにほんの一陣の微風のごと儚く吹き過ぎてゆくなかへ、っおよそ人間の萬言、人生の萬感が盡されている、高田氏ご本人による自演というのは、っおそらくは豊中のコーラスを振られたもので、YouTubeへその音声が上がっているが、聴くとなるほど諾なる哉、宇野さんの演奏と、っほんとうにおなじ曲なのかとおもえるほど、っじっくりとしたテムポと重たい発音とで、っこちとら、人間とはこうだっ、人生とはこうだっ、っとまさしくお説教を喰らうここちがし、っそのみじかい㐧1曲も聴き了わらないうちに、っぼくは再生を停めてしまった、

っこれについて宇野さんの語られたポリシーは、上述のぼくの所見とおなじく、つまり楽曲に対しての演奏は、頭痛が痛い、であってはならない、頭痛、という楽曲に対しての演奏は、する、であるべきで、痛い、であってはならない、吉野弘氏の筆になる詞のこころは、高田氏の附曲においてすでにして結晶昇華しており、その音楽性の裡へ詩魂はおおきに含蓄し切っている、演奏は音楽的たることに徹して、滅多な表情を盛り込むべきではない、っと、評家として終生、曲者曲者の擁護に邁進されたかにみえる宇野さんが、ったほう、っかようの平衡感覚をしかと持されていたことについては、再度三度、三度四度、確認されなくてはならない、

っきょうの演奏自身はほとんどなにも取り沙汰していないが、以上の云い種から、っそれがどのような性格のものであったか、読者様の脳裡にあっても容易に表象しえよう、っそれをたのしみ半分、クリティカル半分、っま、トータルとしてインタレスティングではあったが、っあまりにも主張主張また主張の連続なので、っいささか草臥れたとも云える、

振られているときの存在感もそうだし、終演後のスピーチにしても、平林氏は、一歩間違うとなんだか新興教団の教祖様みたようだ、っすくなくも、敢えてさように自己演出されるようにみえる、っぼくは舞台人には恆に、ほら、ぼくらあたしら、所詮はピエロですから、っというけろっとした貌をしていてくれたいとおもっており、っというのは、ピエロへ翳る悲哀くらい、っお客のほうで能うかぎり想像するもので、っそれが藝術鑑賞の基本的の態度にほかならないわけだが、っそこを舞台人に端からぜんぶ説明されてしまったのでは、有難迷惑なのである、っあたりまえのことだが、っかなしみの表現方法は独り、かなしいです、っと声に出して云うことにとどまらない、っそれはむしろ下策というか悪手というか、禁忌でさえあるだろう、

っそれでもぼくは、今後も平林氏を聴くのを、っべつにわるいことではないとおもっているけれどね、



っさて、っお次は木曜、箕面にて、カーチュン・ウォン氏が大阪フィルを振られる、平日に2日も有休を取り、1泊してこなくてはならない、メインは《新世界》であり、《新世界》ごときのためにそこまでするのかと自嘲の気味もしないではないのだが、っあの狭い音場へめくるめくごと鳴るその膚合いは、っこないだ大器2会場で聴いた彼氏の日本フィルとのそれとは一味も二味も異なろうかとおもい、っその興味に抗し切れなんだ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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