中野、
田尻真高氏の棒、オーケストラ・ダ・ヴィンチなる団体の公演、済む、
芥川也寸志《交響管絃楽のための音楽》、伊福部昭《シンフォニア・タプカーラ》、っそしてショスタコーヴィチ《8番》というごく贅沢なプログラムであったが、っざんねんながら、睡くて睡くてかなわず、全編を覚醒して聴いていた曲はひとつもない、っそれでも前プロはともに8割方の記憶があるが、ショスタコーヴィチについては、反対に8割方を聴いていなんだ、
現場へ通っているときはあさが早く、っけさなども5時すぎには目が覚めてしまう、っそのあと2度睡をしておけばよかったものを、っなにか起きたままでいてしまって、中野へ向かう道中でもぼんやりと瞼が重い、
器へは開場の小1時間前に着き、一番乗りであって、スタッフの方へ、2階席は開放されますか、っとうががっておいて、っせっかくに2階右方の2列分ほど前方へ張り出したその最前列へ陣取ったというのに、勿体ないことをした、
オケは東京音大の近年の卒業生連中を母体に、全国の学生オケ卒団者を集めているといい、っまずまずの合奏能力を有つ、個々のパートも、ったとえばファゴットの、曲毎に乗り替えがあったかしらないが、っうちのひとりの女性は、っいますぐにでもオーディションを受ければ、っどこのプロ・オケでもよろこんで採ってくれるだろうという抜群の存在感でいられた、
器は、佐藤雄一氏のブルックナー《5番》をここで聴いたとき、こんなに音が好いのかっ、っと驚かされたが、っきょうも芥川から、ああ、好い音だなあ、っと実感す、1,200ほどの席数というが、っぼくは多摩センなどをおもっていた、容積として近いのではないか、豊饒芳醇というのではない、っすっきりとして、っしかし快い残響もする、各ソロの音像も大粒で近く感ぜらる、
芥川では期待したほど合奏が緻密でない気がしたが、伊福部では冒頭の低絃、中途からの高絃の参入と、っいずれも楽器の物理音を超えて凍てついた北國の地平を展き、主部はぎっしりと中身の詰まった歯応えで、再現の直前にはハープに彩られたセロのソロがあるが、っそのトップの女の子の奏楽もまったくすばらしかった、
同2楽章は、っところどころうつらうつらしていてしまったが、っまんなかのオーボー2本が2小節ずつ伴奏音型を吹きつづける部分の寂寥はいつになく胸へ迫った、
フィナーレは、っもっと細部細部の彫琢がありえてもよいが、っこの曲を謳うためのむさくるしさ、カッコ附けなさ、有無を云わせぬ音圧の発散が中規模音場を席捲し、っまずまず痛快である、っいっぽうで、ティムパニの合図に始まるまんなかのカノン部、殊にそのテーマをダブル・タームで唄うセロ、ホルン、、、っあれホルンのときはホルンはさいしょは吹いていないで、っとちゅうまでファゴットかなにかなのかな、っともかく、っそれを聴くここちこそは、っじつにせつなくてやり切れなんだものだ、
ショスタコーヴィチは、っほぼ完全に睡ていてしまったが、1楽章のさいしょ、低絃からVa、2nd、1stと加わって漸増しても、井上キーミツ/名古屋フィルを聴いたときのような、っそのまま異界へ拐われてしまうのじゃないかという音色、アトモスフィアは出来せず、ピッチのかすかな不徹底などを聞くと、プロフェッショナルというものがいかに厳密に奏楽を為しているかにも想い至る、っここでぐっと惹き込まれれば睡気も吹っ飛んだかしれないが、っつい俯いて、頻繁なるうとうとを始める、同楽章まんなかへんの動的の部分も、一部、起きて聴いていたが、っあのホルンの連符の動機、っそれを導くクラリネットと絃のピッツィカートとの重なった未来都市から届くテレパシーなどは、っやはり如実には鳴っておらず、楽器の生の質感が露呈してしまっていた、
っさようのわけで、っだんだんと聴く意慾が薄れてしまったのだった、
っさて、っあすは川越、森口真司氏の公演、
みずの自作アルヒーフ
《襷 ータスキー》(全4回)
https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)
《ぶきっちょ》(全4回)
https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)