世田谷の、
中学校校庭の調査、続行中だが、っあすは大風のため、事前に中止とした、会社からも、とくだん緊急の業務がないばあい、休暇の取得を推奨する、っとの達しがあり、素直に休むこととした、
っぼくはXを偏執的にサーフィンすることはしない、っここのところ散発的にあれこれのポストへ返信をしているが、自分ではポストはしていない、っこの駄ブログの更新時毎に、リンクを投稿しているのみだ、
っきょうは先の大戰の終戰の日、、、一般に右傾の向きでは敗戰の日と呼ぼう敗戰の日と呼ぼうと云わるが、っぼくは、っまず形式上のみとはいえ、有色人種の解放という大義の一端は果たされたという点で、必ずしも敗北一色ではないと解し、敢えて終戰の呼称にこだわりたい、大東亞戰爭は、っあるは幕末からその終戰へ至るまでの1世紀弱の激動の経緯は、500年1000年の時を經れば、大略として我が日本のあらたなる神話として語られうる内容を誇っているとおもう、っこれは言及済みだが、戰爭を美化するなという声はおおいけれども、美化とは、っうつくしくないものをさもうつくしいかのように騙ることを謂う語彙である、っだから、先の大戰を美化するな、っと云われてもぼくにはさしてひびかない、っそもぼくは大東亞戰爭を頂点とする我が国の近代史を、大略として、っここ再度三度くりかえすよ、大略としてまったくうつくしいとおもうからである、っもちろん悲劇もあり、暗部も恥部もあろう、っけれども、っそのことをいくら強調されても、っそれはどこまでどう解釋してみたところが、っけっきょくはむつかしい時代のなかでの不可抗力と納得するよりほかなかろうとの結論へ、っすくなくもぼくはいつも落着する、、、っえっと、上の読点3つからここまでが挿入句ね、っだが、っなんだかヴァイオリン弾きらしい方のポストで、っその方のおばあさまがほかでもない79年前のきょう8/15にものされたという日記の文面画像をupされ、旧字、旧仮名遣いのために判読に難儀されている旨、投稿されているのへ行き合った、っすでにほかの方が全文の新字、新仮名への置換をなされていたのだが、っぼくにとってもさほど難読の文面ではなく、っほぼ滞りなく読み下すことができた、っそして、っその文脈にいたく感銘を享け、っひとこと、返信を送らせていただいた、
っその大意は、玉音放送を拝し、泪したこと、兵卒、およびそのご家族への慰撫と深謝と、敗戰が我が3000年の史上におく一大汚点であること、國體の護持こそが肝要で、我等はきょうというこの日の汚辱をけっして忘るまいと胸底へ銘記し、いつの日か必ずや仇を討たむ、っと、
っその方は大正のお生まれといい、っしたがって終戰時にはお若くてハイ・ティーン、上で30がらみというところだが、っかかる手記、っつまり他人に読まることを想定していない、飾る必要も騙る必要もない、眞率と取ってよいだろう文筆がさようの文面をしているということは、っいかにもぼくの溜飲を下げる、
っわけてもほくがいちばんに感激し、返信を送らずにいられなんだのは、以下の1文へ接するに及んでである、曰く、でもこの罪は誰にあるのか? 政府、軍人は問うまでもない、私達一億国民が背負うべきだ、っと、っこのたった1文脈はしかし、戰後に流布せしめられた自虐史観をきれいさっぱり洗って余りある、っぼくは兼ねてより、戰前・戰中を確立せる自意識と社会性と、、、っもっと早く云えば常識を有って生きられた世代の方には、戰後に洗脳を受けた世代がおもうよりも遙けく冷静で幅広く、逞ましい自己認識、社会認識がともにおありだったろうとかんがえていたものだが、っこの方の手記はまさしくその證左である、
っわずか一個の傍證にすぎないと云わるかもしれない、っが、前段の文面から推して、失礼ながら、っこの方は社会的に特別に高い地位に存る選良的の女性とはみえない、っいわばなんの変哲もない市井の人として大過はなかろう、っよって、っこの文面と同様の認識を具えた国民がその往時に相当数いられたと当て込むことにも、っまた大過はないと思量せらる、
っいまいちど、>でもこの罪は誰にあるのか? 政府、軍人は問うまでもない、私達一億国民が背負うべきだ、っぼくのかかる自虐史観への修正の企てを煙たがる向きは、どうせおまえは、>私達一億国民が背負うべきだ、との自己責任論をよがっているのだろう、っと横槍を入れたいのではないか、っしかしそれはぼくにとりさほどの痛痒ではない、っぼくがより感銘しているのはむしろ、>政府、軍人は問うまでもない、っこの1文である、っこの1文が引用文全体へ与える奥行きこそは、っじつに甚大である、自虐史観を覆されそうになることを嫌がる向きに、っそのことがわかるだろうか、っぼくはぜひにわかってくれたい、
っもう日附を跨いで終戰の日はきのうとなったが、っきょうは休みを取ったので、っこのまま、っなるがたけ丁寧な説明を試みたい、
戰後の歴史認識というものにぼくがおぼえる脆弱さとは、自国の歴史とその経緯に対する責めを、っなんらの躊躇とてなく他責的に語る安易である、っそしてその安易を、>でもこの罪は誰にあるのか? 政府、軍人は問うまでもない、私達一億国民が背負うべきだ、っとの戰前・戰中派の手記は優にクリアされている、自虐史観に隨えば、っなんだか戰前・戰中の我が先人はお上からの達しに隷従盲従せる不明の人の群れということとなるが、>政府、軍人は問うまでもない、っの1文がその偏見を払拭する、っのみならずこの引用文全体は、他責的に責任の所在を探しているのでなく、政府、軍部の要人も一介の市民も、等しく我が日本国国民に相違なかろう、っと読める、
体制として民主主義を布くからには、国民として政府を対他的に語ることは、っすなわち幼稚であり拙劣である、っというよりも、彼彼女は民主主義を正解していないというほうが当たっている、彼彼女は云うだろうか、選挙制度を典型として、民意を反映しづらい構造を議員の歴々によって組まれてしまっている、っぼくは云おう、それも民主主義の結果でしょ、彼彼女は、彼彼女の夢見る善政を指して、民主主義を守れっ、っと叫ぶ、っぼくは云おう、それを目指しに目指した心算が、やっぱり種々の通弊悪習に苛まれずにいないこと、そのこと全体を指して民主主義と弁えておくべきじゃないの、っかかる議論は、手ぬるい現代では堂々巡りを来たそうが、上のような手記をものしうる戰前・戰中派の方々のご認識は、僭越ながらよりぼくの側に近くていらっしゃるのではなかろうか、前現代を無条件に現代に劣後する時代とみることは、っひじょうに危険な陥穽である、
っこれもいつかに云ったとおもうが、っむかし〈たかじんのそこまで言って委員会〉を視ていて、っや、っあれは個人が切り出してYouTubeへupしたものを視聴したのだろうか、っよく憶えがない、っいまだ三宅久之氏のご存命ご出演中で、政界へ転出以前の橋下徹氏などもお出になっていたかとおもうが、っやはり先の大戰のことを議題としており、最後、っまとめとして引き取って司会の辛坊治郎氏が、しばしば往時の日本とドイツ、、、ドイッチュ表記で統一するんだったな、ドイッチュとが同列に論ぜらるが、両国は体制として本質的に異なる、我が日本は終戰へ至るまで一貫して民主主義国でありつづけた、そのなかでしかし治安維持法を通し、国家総動員法を通し、軍部に枢要な大臣ポストの掌握を許し、実質として軍国主義国家としてふるまった、ということは、国会なんだよ、っとここで宮崎の哲ちゃんが高い語気を有って、そのとおりっ、っと和し、辛坊氏が、国会がちゃんと機能していればそんなことにはならなかったんだよ、っとつづけ、っふたたび宮崎氏が、そのとおりっ、っと相槌を打たれた、っそこへ三宅翁の、うんっ、そうだっ、っとはげしく肯くお声も重なっていたのではないかとおもう、
終戰のまさにその日、玉音放送を拝したその震蘯のさなかに存ってなお、>でもこの罪は誰にあるのか? 政府、軍人は問うまでもない、私達一億国民が背負うべきだ、っと書ける人を、戰前・戰中の人々はお上に拐かされ、唯々諾々とそれに隨った不明者と評価することは、っあきらかに不当であるというか、単に誤っている、彼等は、っどんなに名ばかりであれ、民主主義体制として開戰し、民主主義体制として継戰しつづけ、っついに民主主義体制のまま終戰を迎えたからには、国民の誰ひとりとして、、、っすくなくもまず有権者ならば、完全に無辜ではありえないと、っしかと弁えていられたのである、
っさようの逞ましき常識人が、っいかな敗北の痛手が心身へ重く圧し掛かろうと、戰後にすぐさま飜意飜転して憚らないとは俄かには信じ難い、社会のさまざまの位相において、彼等はどうとかその気骨を示さむと意志し、行動したにちがいなかろう、っけれどもそうした出る杭は、公職追放その他の占領地政策により打たれ、挫かれていったのかと拝察せらる、っそしてぼくなどは、苦汁をしぼりつもけっきょくはその軍門へ降った人々により築かれた、っそれもまた年月を經れば盤石となってしまった、敢えてこの語を用うればレジームを一身に呼吸して育った世代なのだが、不勉強にして文献や史料を渉猟してみることがなくとも、漠然とでも、酷烈の時代を生き抜いた人々の認識が、そんなにばかげているはずがあってたまるか、っとくらいはおもっていた、っそこへきょう、貴重な日記の1頁を拝見拝読し、やはり往時の人は政府にも軍部にも無批判の隨従ではいられなかった、そしてもちろん民主主義国の一国民としての自己責任も自覚されていた、っとの一例へ触れることが叶い、っまこと感激に堪えなんだのである、
民主主義を標榜して各種のデモンストレイション等へ勤しむいま現代の活動人士よ、政府がたまさか自分一個の意に染まぬふるまいを為すからといってそれを指弾して、民主主義を守れっ、っと叫ぶことが、っいかに幼稚な民主主義の誤解、冒瀆であるか、篤とおもい知れ、民主主義体制がいくらかは増しに機能するとしたならば、っそれは任意の有権者一個の投票行動の如何に依らず、政府の施策とは国民の総意の応報であるとしてこれへ耐える気概を有つ者で作る、っその国家においてのみであるだろう、民主主義者たらむとするならば、国民として政府を対他的に語るな、っどんなに自分と対立する政策を掲げる政府であってもだ、完全な他責も完全な無辜もないものと弁えよ、っとうぜんの常識だろう、っこのとうぜんの常識をしかしわずかならず失している現代のぼくらでは、気高い常識人たるの大東亞戰爭の当事者諸賢について喋々する資格は、有てなくてまたとうぜんである、
っさようにして大東亞戰爭は、美化の対象であるはずもなく、っただにうつくしいのである、
みずの自作アルヒーフ
《襷 ータスキー》(全4回)
https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)
《ぶきっちょ》(全4回)
https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)