ざっかん記 -487ページ目
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コバケンのマーラー5番(83年)


さてと、

いよいよ、



G.マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調

山田一雄vs小林研一郎の師弟対決

といくか、



いや、うきうきするね、
誰にも理解できんだろうが、
なにしろ、コバケン盤についちゃ、ほとんど入手不能な代物なんだし、
比較対象として、その時点で不適格なんだが、

なんだ、が、知ったことか


そもそもクラシック音楽の聴き方ってのは、曲は同じで、誰の演奏を聴くかってことが、それだけが、問題だな、
や、ほんとうは曲自身も問題なんだけど、ま、問題じゃないんだ、
この言い方じゃ、語弊があるかなあ、あって結構だがね

マーラーの5番でいうと、ついこないだまでは、プレートル/ウィーン響(ヴァイトブリック)をよく聴いた、
鮮烈な演奏で、気持ちがいいが、まえにもいったように、ぼくは、どちらかというと遅い演奏、それもクライマックスの全奏時に遅いテンポを採る演奏が好きだから、ちょっと趣味が合わないかなあ、という気はしてた
フィナーレの最後のアッチェも、決まっているとおもうけれど、ぼくは、最後まで腰の据わった演奏の方がいいなあ、という

で、そこへヤマカズ盤が登場したもんだからよけい嬉しかったな、
もう遅いのなんのって、2楽章とフィナーレ
で、ヤマカズ盤しか聴かなくなって、細部に至るまで身体によくよく沁み込ませた後で、もっぺんプレートル盤へ還ってみたら、愕くほど速く感じるんだな、
ここがクラシックの面白いとこだよ、
たとえば、甘くしたコーヒーで甘味なんぞ食べてると、何を飲んでて、何を食べてるんだかさっぱり、ということがあるな、コーヒーをこゆいこゆいブラックにすると、ケーキの甘さがひきたつんだ、それとおんなしことさね
そうやって「はじめて」の更新を繰り返して、何度となくその曲に出逢い直す、それが、じつは、クラシック音楽鑑賞の秘訣で、よいリスナーというのは、絶えずここちよい裏切りをもとめているんだ、けっして、むかしの音楽が大事大事、っていうアタマのカタい守旧派じゃないんだな


で、で、で、先日、ヤフオクで落札したのが、



小林研一郎/日本フィルハーモニー交響楽団
1983.3.22 東京文化会館 第351回定期演奏会
JPS-15/16



という2枚組のレコードなんだが
ぼくが生まれたのが、1983.6.4だから、その2ヶ月半前の演奏だな
それを業者に頼んでCD化してもらう過程で送られてきたmp3を、ほとんどそれのみ、聴いているのが、ここさいきん、ってこって
まだノイズ・キャンセリング以前のため、針音が煩わしいところもあるが、音質はよく、たのしく聴いている、
原盤は、2枚目のA面までに各面一楽章ずつ3楽章までが収まり、最後のB面に、4、5楽章が入っている
気掛かりなのは、mp3上で、その4楽章の冒頭、最初の数秒が欠落していること、
サンプリング時に誤ったのか、原盤自身に欠落があるのか
前者であってほしいものだが、


落札してはみたものの、こうしてmp3が配信されてくるまで、じつにやきもきした
すでに82年収録のチャイコフスキー5番(フォンテック、LP)を聴いていたので、小林の表現についてはある程度予想ができたが、あれのオケは新星日響だ、これは日フィル、いまの同オケは知っているけれど、80年代前半はどうだったのか、とか、先日も触れた、ちょうどつい最近復刻した、おなじコンビの91年盤(PC/オクタヴィア復刻)がまったく振るわない演奏なので、せめて、それよりはいい演奏であってほしい、とか、はたまた、レコードの音質はどうか、とか、云々

こういうときのぼくは、悪い方悪い方へ考えるのが恆だ
その方が、好結果が得られたときのよろこびも倍増するしね
どうせ駄演駄盤にすぎんよ、期待するだけムダムダ
って、それほどじゃないにしても

と、は、いっても、、、、、
こんかいのばあい、落札からCD化までに巨費を投じているからなあ、
これで演奏がへぼっちょろかったらたまらんなあ、と、

で、じっさいmp3の配信があったのは先週の日曜か、
今週1週間は、仕事の往き帰り、iPhoneでこれしか聴かなかった、
音量が充分に得られるか、心配したが、iTunes上で音量レヴェルを100%にしたら、満足いった
ぼくは、最強奏時に、ちょ、ちょっと、うるさくなるぎりぎり手前だなあ、という音量が確保できないと、音楽を聴く気がしない、キンキンに冷えてないと、ビールが飲めない、ってのと、ま、似てるかねえ、似てるといや、似てるね

音質も、手作り感があっていい、上野の文化会館の、あのヘヴィー級のハード・パンチャーからおもったいおもったいボディー・ブローを食うような鳴りが、録音からも髣髴とする
オケのひびきについても、それは言える、
血の通った人間たちが楽器を演奏している、そういう音がしている、うれしい
はじめは、管打の鋭さに比して弦が薄手と感じたのだが、絶えず、音に色があり、薫りがあり、雰囲気があるので、繰り返し聴いているうち、厚みの不足は気にならなくなった、指揮者の棒がまだ青く、小手先に流れる、というほどでないにしろ、やや煮詰まりきらないまま時間が過ぎていく個所もあるが、全体に、こういうのもなんだが、指揮者以上にオーケストラの面々が、ひとつびとつの音を、じつに、丁寧に丁寧に扱っている、
それを、若き小林が颯爽と牛耳っていく、といった印象かな、概観は、
、、、、、ん、颯爽と、ってんじゃないな、ま、ひとくちにはいえん

冒頭のファンファールはいい音だ、しかも、マイクに近いところで音がしている、そういう録り方になっているかどうかが、まず心配だったのだが、ひとまず、安心
クレッシェンドしたときのヒロイックな音色、奏者が上手すぎないのもいい、そういうと、名演を求めることについて妥協しているように取られるかもしれない、が、たとい一流の奏者にここを吹かせるにしても、気概より先に技倆が耳に附くような吹奏ではだめ、ってこと、音と音楽とは違う
シンバルが加わって最強奏に達すると、手加減なし、峻烈
こういうところで気負わない演奏はダメだな、その点、小林に抜かりはない、
いまの彼のように深々と呼吸するのでなく、鋭い切込みをみせるが、さっきもいったように、新星日響とのチャイコフスキーにしろ、たしか70年代末のレコーディングだったとおもうが、都響との序曲集にしろ、そういう、往時の小林の資質については、ぼくには、織り込み済みのことだったから、もっとどっしりとした方がいいなあ、という不満よりは、この演奏では、そういう若さ、若気を聴こう、という好意的な気分にさせる、それを身贔屓といわれればそれまでだが、
トランペットやシンバルだけでなく、オケ全体、いい音で鳴っている、一時代前の日本のオケ、コンディションのよくないときには、弦が葱の甘皮がむけるようななよなよした音だったり、ホルンの音色が絶えず汚れていてひびかなかったり、そういう印象があって、だとしたら、再生から10秒を待たずにCDを粉々にしたところだが、
葬送がはじまるが、録音の問題もあるのか、強音と弱音の落差がわりにおおきく、ちょっと音楽が遠退くというか、奥まってしまう印象、だった、はじめは、というのは、冒頭のフォルティッシモが烈しいので、これは、全体に力尽くの演奏なのかな、という予想がはたらくから、すると、弱音が、弱音として弱いことに、必然、不満を生ずるわけだ、が、全曲を何度か通して聴いてみると、3,4楽章などとくに顕著なのだが、意外にも、じつに細かい部分にまで気を配った演奏なので、次第に、弱音の弱さが気にならなくなってくるんだ、
まあ、欲をいえば、弱音のなかの強音なりアクセントなり、つまり物理的な音の強弱に因らない印象的な個所がちらほらとあれば、なおよかろうがな、たとえば、この葬送でいえば、ヴァイオリンのテーマを遮るように出てくるチェロをもっと強調するとか、ところどころでマーチのリズムを打つスネアを生かす、とかね、そうすることによって、強音と弱音が断続的に交代し合う、というこの楽章の単調なイメージを払拭し、恆に緊張感を保ちつつ音楽を運ぶことができるんだ、が、ま、そりゃないものねだりよ
2度目のファンファールは、トランペットが音符を詰めて吹くのが今と違う、初めて聴いたときにはとちっているように聴こえたが、このファンファールは、逆に詰めずに吹かせると、なんとも間の抜けた音楽になるから、よしとしよう
まんなかの激動の部分は、はじめのうちトランペットが1本のみで全軍をリードしなきゃなんないから、案外迫力が出づらい、トランペットには頑張ってもらうしかないとしても、レガートのあいだにしばしば挟まっている弦の細かい刻みをギリッギリグイッグイいわせたり、ティンパニを強く打たせたり、シンバルが破裂する頂点に向かっていくところでは、中低弦を高弦と同格に生かすことで、矢も楯も堪らず、という衝動が込み上げてくるような効果を出したり、そういうことは、みな指揮者の仕事だ、小林はどうかというと、まあ、そうだねえ、及第点をあげてもいいかな、もっとできるとおもうんだけどね、彼なら、すくなくとも、あきらかな迫力不足を感ずる、ってことはない、けれど
ところで、この楽章は、、、、、どっからが再現部なのかなあ、ぼくは、後期浪漫派のシンフォニーでは、ソナタ形式をほとんど意識しないから、たぶん、このまんなかの激動部で、トランペットがファンファールを吹くとこからだろうな、ティンパニと呼び交わすとこじゃなく、頂点までいった後のとこでね、展開部でとつぜん激して、激したまま再現部になだれ込む、というのは、後期浪漫派におけるソナタ形式のひとつの流行なのかな、そうすることによって、楽章全体がなだらかななかで、まんなかにぽっこりおおきな山ができる、チャイコフスキーの《悲愴》1楽章もそうだが、旧来の形式を棄てずして、あたらしい音楽の構造を獲得しようとする努力の結晶さね、旧来の形式を棄てずして、旧来の、形式を、棄てずして、ね、、、、、しつこい、か
で、ティンパニが弱打でファンファール主題を打つとこからがコーダかな、ちゃうかな、
そのティンパニは、ちと打ち方が弱いな、強打のときはよく叩いているのになあ、さっきもいったように、弱音で萎縮しちゃうのが惜しい、いかなる弱音部でも、ソノリティが壊死するほどに弱くはしない、すぐれた音楽家は、みなそのような演奏を心掛けているな
ただ、そのあとから湧き上がるヴァイオリンの音色と歌い方はなかなか聴かせる、ここはプレートルがポルタメントを印象的に使っていたが、小林はポルタメントを使いたくてしかたないけど、ぐっとこらえて音色とフレージングだけで勝負している、というかんじか、根が真面目なんだ、ぼくも、ポルタメントは聴き手に強く刻印するもんだとはおもう、おもうが、使っちゃうと、ことばが適切かなあ、ちょっとずるい、気がするんだよね、そりゃポルタメント使やかんたんに聴き応えある音楽ができるよ、ってね、使わない方が潔い
クラーゲントは、あるいはオケの重量感は欧米の団体には劣るかもしれん、ま、当然といえば当然だが、その分シンバルなどが凄まじい切れ味で迫力を補填している
ここから先、漸弱すると、やはり訴求力まで低下してしまう、最後にミュートのトランペット、そしてフルートがファンファールを吹くとこは、合の手の蠢くような大太鼓を、もっと打たせてもいいとおもうんだがな、それは小林に限ったことじゃないが、ヴィオラのピッツィカート、も弱いが、ちょっと音飛びしているように聴こえるんで、業者に、原盤との照会を頼んでいるところ、


2楽章は、冒頭から、足取り確か、
闘争のテーマからヴァイオリンとトランペットのスタッカート(か?)までは、今と違ってバーンスタイン流に間を取っている、バーンスタインと違うのは、そのあと速くせず、むしろ遅めのテンポを確保して各パートの出処進退を克明に追っている点、全曲のペース配分からすると、この遅いテンポは意外ともいえるが、小林としては、勢いに流されず、かっちりとした演奏をやりたいのだろう、で、それは成功している、若い若いといっても、単なる若獅子とは違う、
オケは、やはり弦が、それのみでも充分なフォルテを鳴らしうる、という威力をもたず、管打に圧され気味だが、バランスを逸するほどでなく、むしろ、終始力いっぱい叩くシンバルや、硬い、くっきりとした打音のティンパニが、演奏の助力となる、葬送の部分では、タムタムの弱打さえ明瞭に聴こえるなど、ある種、異様に分離のよい録音ともいえる、
2度目に闘争のテーマが出るとこでは、その直前、クレッシェンド後のトライアングルを伴った木管の下降句を几帳面に辿り、やはり遅いテンポのまま闘争句に移る、91年日フィル盤でも、その後のチェコ・フィル盤でも、ここのティンパニを抑えてしまった小林だが、この83年盤では、ちゃんと聴こえるように打たせている、当然こうすべきで、最近の小林は、ふたたびこの方法に還っているとおもう、3、4年前に横浜と埼玉で日フィルと同曲を演った、その埼玉の演奏を聴いているが、たしかここを聴こえるように打たせていたとおもうし、文京シビックで東フィルとやったときもそうだった、それでいいし、そうでなくちゃならん、しかも、ここでのティンパニ奏者は腕っ節が立ち、しばらくいった先の大きい方の太鼓のトレモロを、おそろしい気魄で打ち抜いている、あっぱれ
さっきから、弱音部の主張が弱い弱いといってきたんだが、このあとのチェロのつぶやきは、さすがに、精彩を失っていない、91年盤と違い、日フィルの各パートには、聴き手の耳を捉えるに十分な自在感が、ちゃんと、ある、とくにマーラーのような煩雑な作品のばあい、日本のオケ、パートというパートが、その煩雑さに手を焼いて、音が落ちぬように譜面を追い掛けるのに汲々としている、という演奏になり勝ちだが、ここでの日フィルには、演奏を越えて音楽を伝える力が備わっているとしていい、木管群も、オーボエやクラリネットが素朴な音色で好印象だし、コール・アングレが侘びしく泣いているのも聴こえてくる
音楽はいよいよ最大限の激動を迎えるが、まさに乾坤一擲、胸を刺し貫くような音楽だ
ここらまでくれば弦も黙っちゃいず、全軍、討ち死に覚悟の様相、や、すごい、
金管の抉りが鋭く、ホルンの吼え声が打楽器的な効果をあげたりするので、烈しいなかにも味わいの深さがあり、ティンパニと大太鼓の音質の違いが、録音上はっきりとわかったり、じつにカラフル、低弦の狂的なうねりや大太鼓の津波のようなトレモロに導かれて、ヴァイオリンのG線が、葬送の主題を血みどろの歌に変えて引き摺ってゆくところは、自ら腹を裂いてワタを取り出すような凄惨な光景、高音になると、涙ながらに遙かに憧れ、無残にも打ち倒され、身を悶え、トロンボーンの声を嗄らした絶叫と弦楽器群との血反吐を吐くような掛け合い、ホルンとティンパニの拮抗、そのティンパニのくっきりした打音の気持ちよさ、そして、突如として暗雲が晴れ、光に満たされるが、その瞬間の金管は、入れ込み過ぎて音を汚している、だが、いいではないか、や、いい、いいんだ、それで、冷静な演奏など、さらっさらお呼びでない、あばたもえくぼ、この若さの突進は勲章もので、おもわずに手に汗握る、ついにトランペットが長い持続音を吹くいただきに至ると、それは、カタルシスという以上にもうエクスタシーだ、


3楽章は、冒頭からきびきびとし、分離のよい録音によって、いろいろの楽器のいろいろの音が耳元へ運ばれる、室内楽的に各パートが呼び交わす音楽なので、弦の非力をあまり感じさせず、その意味では、この楽章が全篇の白眉かもしれない、
ぼくは以前に、
>この3楽章は、ワルツのリズムのなかへ収まろう収まろうとすると、なんとも据わりの悪い、どこまでいってもひびきのなかに浸らせてくれない演奏になってしまうからな、かえって、開き直って、複雑な声部の絡み合いから重要な動機が飛び出すたびに、フレーズをおおきくとったり、アクセントで念を押したり、ときにはアンサンブルの奥の奥に眠っている内声を焙り出したり、で、そのたんびに、ここで聴いてほしいだいじな音があるんでテンポを落とし気味にしますね、 と、そこを過ぎると、また自然な呼吸のうちにすーっとア・テンポして、お、快調快調、とおもっていると、またここぞというときに、ぐっと遅くなって、お、なんだなんだ、あ、なるほど、この声部を浮き上がらせたかったのね、みたいな、そういうことを指揮者が積極的にやろうやろうとし、オケの面々が応えよう応えようとするなかでタテが揃う、という以上に呼吸が合う、そういうふうに湧き上がってこないとなんないんだ、このワルツは、
といっているが、この演奏は、そういう老練な演奏とはちと趣が違う、
音楽が停滞する瞬間は、かりそめにも、なく、そのリズムにオケが引き摺られて足元が覚束ないとなると、これはまずい演奏だが、ここでは、各声部が、いわば、管弦楽演奏上の定石を、精確に精確に、丁寧に丁寧に踏んでいくことで、特段のデフォルマシオンが施されなくとも、音楽を生き生きと息づかせることに成功している、したがって、演奏よりも音楽そのものが聴こえてくるように感ずるが、そう感じさせるのは、紛れもなくこの演奏の力である、
弦が、G線を鳴らすときに、G線を鳴らしているぞ、と意識しながら弾いている、そういう音がしたり、アクセントがあるたびに、楽器を「ゴリッ」といわせたり、ピッツィカートを、一粒一粒、はっきりとした隈取りで聴かせてくれたり、打楽器も、叩く以上、アンサンブルのなかに埋もれて聴こえないような音は出さず、また逆に、細かい部分にばかり神経が行き過ぎて、突然のフォルテが要求されたりする部分がおっかなびっくりだったりすると、いかにもがっかりだが、その点金管が、ホルン、トランペット、トロンボーン、いずれも大張り切りで、しかも、細かい音符も意外にすらすら吹きこなしていて頼もしく、ワルツの再現など、弦の高音も熾烈に軋り、それと管打とを交えた立体的なひびきは、これまでのベスト、といえるかも、
しかも、いわゆる、うれしい裏切り、意表を突く瞬間もちょくちょくあり、なかなか一筋縄でいかない
たとえば、最初のせわしないワルツが済んで落ち着くところでは、1楽章では使わなかったポルタメントを奮発しており、中間部の終わりで鉄琴やウッド・ブロックが打つリズムはウィンナ・スタイルにするなど、単なる模範回答では終わらせておらず、偉い、終わり近くでホルンが吼えた後の静かなところでは、大太鼓がびっくりするほど強く打ったりする、こういう、弱音のなかでピリッとスパイスの効いたとこが、他の楽章にももう少しずつあればなおいいんだがなあ、ただ、ここがそうだったので、この後の終結を導くおなじく大太鼓のリズムも、一粒一粒、打音のくっきり見えるような叩き方を期待していたら、ほとんど聴こえない音だったので、ちと残念
で、中間部、全曲の核心ともいうべき、無邪気さと寂しさとの背中合わせ、だが、
印象的なピッツィカートの対話が済んで、ヴァイオリンとホルンの純な歌に途中からクラリネットのリズム動機が寄り添ってくる、そのクラリネットがくっきりと聴こえる、うれしい、トランペットのソロが高い音を吹き損じているが、ここは内容表現上も重要な個所なので、ほんとうに、惜しい、しかし、かんがえてもみれば、これ、身を捩るような奇妙な旋律だ、あえていえば、吹き損ずるのもムリはない、


アダージェットは、ふたたび弱音主体に戻る、
他の演奏が、ありきたりな弱音と強音の幅のなかで鳴っているとすれば、これは、強音が充分に広がりをもたない分、次善的に、pとppの差で勝負している、しかもppが、ぜったいに、死なない
旋律線を強く歌いすぎないため、ハーモニーと融和したときに耳をそばだたせる、そういう個所が方々にあり、厚みの不足を取り返して、おつりをもらっている、クレッシェンドも意外におとなしく、もっと入れ込んでほしいな、とおもっていると、直後の弱音を効かせて落差を確保する、というやりかた、なかなか心憎い、中間部を唱導するために一度激する部分も同様、そして、息の長い中間部が後続する、ヴィオラの聴こえ方など、いい、ひとくさりいったとこの、チェロの持続音をちょっと強めに奏させると、無邪気さの奥に神秘を垣間見るような音がするはずだが、そこは生かされていない、それをもって不足とするのじゃないけど、ね
そのかわり、再現の入りは見事、いちど、弦楽器群に完全に弦から弓を離させ、その一瞬の空白を捉えて、ハープが、さりげなくも印象的な音で入ってくる、で、あらためてヴァイオリンとヴィオラを出し、充分に間を取ってから、ゆっくり、ゆっくり、下降ポルタメントを弾かせている、ここのポルタメントは、意外にぞんざいな扱いを受けているからな、他の演奏では、で、で、で、再現に入っても、中間部のためらうような遅いテンポをやめにしない、ppもやめにしない、ただ、それをやったときにちと難儀なのは、この楽章、その後クレッシェンドすると、いくらもいかないうちに漸弱して、消えていってしまう、再現の入りを最弱音ではじめ、フォルテへ昇り詰め、すぐ漸弱してしまうと、そこだけ、そのフォルテ部のみが突出してしまってやや不格好だ、それでも最弱音を諦めたくないとすれば、解決法としては、クレッシェンドして頂点に達したところから、チェロ、バスのふといひびきをずうっとうしろまで引っ張っていくことで、、、、、なんだが、小林はそうしていない、チェコ・フィル盤ではしていたようにおもうな、が、まあ、すぐに漸弱したからって、不満を感ずるほどのことじゃない、できれば、のはなし、
にしても、演奏時間約11分半、91年盤が10分弱だから、約2分も違う、よほど大切に演奏しているんだね

さ、フィナーレ、
3楽章の後半などからすると、もうちょっと煮詰まった演奏ができてもいいかな、という気がするな、
やや細部がおろそかになる個所がある、ま、あるっちゃある、という程度だが
1個所、オーボエが出所をとちるとこがある、マーラー作品が人口に膾炙したこんにちでは、ちょっと起こりえないミスかもなあ、
ところで、このフィナーレ、意外に音の弱いところがずっと続くんだなあ
だから、オケに確固たるポテンシャルがないと、指揮者がいくらあがいても、、、、、ってとこがある、
やはり、日フィルのアンサンブルは、最上級、とは言えないんだよね
部分的には、2楽章や3楽章など、これ以上は望めない、といってもいいようなところもあるんだけれど、
ちなみに、最初の管楽器の対話を聴いていると、クラリネットが、91年盤とおなじ奏者だってことがわかる、吹き方のぎこちなさと、音色が一緒だからね、ちょっと生っぽい、楽器そのものの音を出して、それをかえって表情にしている、細かい音符は、吹けないからそうなっちゃってるのか、わざとそう吹いてるのか、ちょっとわからん、他の部分で拙さを露呈するところがないからね、しかし、わざと下手そうに吹いて、このいじらしい味を出しているとすれば、相当の手練、名手だね、ま、91年盤では下手に聴こえるんだけどねえ、
さっきいった音の弱いところで感じられる不満は、強いところになるたびに羽目を外す金管や打楽器の頑張りでなんとかカヴァーされてる、というかんじ、
最後の山場では、当然のごとく金管が音を汚して吹き荒んでいる、91年盤がどうしようもないんで、ここは微笑みつつ見守る、とにかく若い演奏なんだから、すくなくとも迫力の足りないふにゃふにゃ演奏よりははるかに増しだ、
疾走句に移るとこでは、ヴァイオリンが弾き出し、音符ひとつ遅れてホルンが加わり、トライアングルが打ち始め、低弦が入るまでは、それまでの粘ったテンポを反映して音楽をだぶつかせ、低弦が刻み出したところで速いテンポを軌道に乗せると据わりがいいようにおもう、が、小林はヴァイオリンが出るところから、きっぱりと速いテンポにギア・チェンジしている、ために、ややせっかちに聴こえる、これについちゃ91年盤もおなじで、あれは浮ついた印象を与えたが、こっちは、オケが指揮者に食らいついていこうと一気呵成になっているから、まだ聴ける、91年盤で許せないのは、その後アッチェするに反比例して厚みや風圧が減じられることで、要は、オケにやる気がないんだ、対してこの83年盤では、俺が俺がの競い合いで、いい、最後のゲネラルパウゼの前では、大太鼓がどてっ腹にとどめの一発を見舞ってくれる、この楽章は、最後まで音符が細かいので、わりに尻すぼみで終わっちゃう演奏が多いようにおもうが、この大太鼓や血気盛んなシンバルがいれば安心だね、
終演後の拍手は意外におとなしい、新星日響とのチャイコフスキーのLPでも事情は変わらなんだが、あるいは、当時の小林は、まだ、チケットをたくさん売るほどの認知度を得られていなかったのかもな、

でも、いい演奏だ、すくなくとも、ぼくには、多くの部分で、バーンスタインやテンシュテット、インバルなど、名立たるマーラー指揮者の演奏を凌駕する音が鳴っているように聴こえる、オケの非力も、かえってそれを演奏の力に変えているようなところがあるから、悪感情ばかり懐かせるものじゃないし、




って、いやはや、これを書くのに、ゆうべから、
PCの電源入れっぱなしで寝てしまい、きょう、土曜日丸1日を費やしてしまったよ、
なにやってんだか、お気楽だねえ、まったく

今度の更新ではヤマカズ盤について書くが、
この小林評で、ぼくのマラ5観がある程度伝わったとおもうし、
もうすこし略式の書き方にせんと、本職に障るよ、












はじめて、の更新


や、ブログの更新が、ということではない、

感動というものは、「はじめて」の印象が更新され、従前の「はじめて」が「はじめての錯覚」に書き換わる、その交代劇を指していうことばだと言えなくはないか、


2010.9.9

安田理英(dance)

野村雅美(guitar)

於:駒込 La-Grotte


きょう、きょうじゃないかもうきのうか、きのうぼくはここで、はじめて、躍動するいのちをみた

はじめて、人の膚をみた

はじめて、人の指先をみた、人の二の腕をみたし、人のふとももをみた
いつのまにか露出していた、左の、乳首のうつくしかったこと

もっとも、彼女、人であるばかりか、ただ肉であったかとおもえば、ただ霊であったりし、
女であったかとおもえば女性であったり、女の子であったり、老婆のようですらあった、

相貌は刻一刻とうつろい、はじめて、悩んだり、憂えたり、喘いだり、慄いたり、望んだり、憧れたり、にんまり、奇妙なほどにんまり微笑んだり、嗚咽したり、絶望し、自棄を起こしたり、泣いたり、叫んだり、祈ったりする人の表情を、ぼくらに伝えた

また、はじめて、声を聴かせた、呼吸を聴かせたし、鼓動さえ、聴こえるようだった
ぼくは、J.ケージの顰に倣って、空調の音も聴いたし、パイプ椅子の軋るのも聴き、咳払いも聴き、自分の革靴がコンクリートをコツコツいわせるのも聴いた


ぼくはきょう、ちょっとめかし込んでいた、
その恰好のまま、地べたに腰を下せと言われたら、どんなにか躊躇ったことだろう、
ぼくらはこうして、ぼくらが、選んで、自由に選んで、着ているものにすら、
ぼくら自身の行動を制限され、縛られている、

ところで、彼女の素足の裏は、真っ黒だった、彼女の素足の裏は、


汗、

汗を、
人が、発汗、する、の、を、はじめてみた、
肉体労働者たるもの、連日のように、鼻のあたまから、頤先から、ぽたぽたぽたぽたと、幾滴の汗を落としたとも知れぬのに、その身体が、汗というものの実際を、今日の今日まで見届けずにいたとは

彼女の額、彼女の肩甲骨、彼女の胸元に滲む汗が、白熱灯の薄明かりに照り映えるたび、ぼくは、どきどきした
ときには泥のようであった彼女の膚も、やはり汗を流し、
ときには自身のデス・マスクのようであった彼女の貌にも、頬にも、涙のひとしずくよろしく、汗は伝った

ぼくは、舞う彼女と、視線を合わせたくてしようがなかった、
が、かなわなかった、

還俗を拒むようにフォーカスの定まらない視線は、彼女一個をのこして他一切を、斯界へ置き去りにせんばかりに漂った、ぼくは、無性に、さびしさを募らせた


彼女に触れたかった、彼女の膚に、

最前列の、恰幅のいい、初老の女性は、眠気を堪え切れない様子だったが、彼女が、至近距離まで舞い寄ると、腫れモノにでも触れるようにして身を躱し、ガサガサいうビニール袋を退かした、触れてしまえばいいのに、ぼくはおもった、そのまま、触れてしまえば、羨ましくてならなかった、

もしも、ぼくが、とつぜん彼女の前へ躍り出て、彼女の腕を掴んだとしても、片翼を捥がれたまま、彼女は、舞い続けたろう、おわったあと、仕事の同輩が、あ、じゃなくて先輩が、一眼レフにて撮影したかったが、シャッター音をひびかせるわけにはいかなかったから、といった、ぼくは、ちがう、とおもった、たとえ頻りにシャッターの音がひびいていたとしても、彼女は、頻りにシャッター音がしているその時空間を、翔けたことだろう、業を煮やした聴衆のひとりが、カメラを取り上げ、あの狭い密室に罵声をとどろかせたとしても、彼女は、構わず舞い続け、ついには、その舞によって争いを治め、ふたたび満場を独占したかもしれない、ただ、ぼくは、そのことを、先輩に、口に出しては言わなかった

ギターの野村雅美さんも、ぼくの、仕事の先輩だ、
彼が、冒頭と、幕切れに、奏した音が、彼女が、中盤、白い階段のたもとで発した声と、ひびき合っていた
ぼくは、その彼女の声を、彼女の発する音を、むかしなつかしい、ピアニカの音に似ているとおもった


居合わせた誰もが、異次元を旅してきたのだと知っているから、
帰りがけに仕事仲間でジョッキを傾け合っても、ひとりとして、安田さんの踊り、野村さんのギターについて、一言たりとて、語らなかった、その気配すら見せなかった、
別れて、ひとりになってからそのことに気附き、ぼくは、うれしかった
ぼくらは、胸のうちに万言を溜め込んでいたのだから、なにも語るべきでなかった、なにも語らなくてよかった、語る必要はなかった


電車に揺られていて、ふと、注意書きのプレートの、点字に、指先が触れていることに思い当った、

ぼくは、はじめて、ぼくの身体が、膚に包まれていることを知った気でいればいいのか、はたまた、世界には、たとえば点字の読み方なり、ぼくの知らないことがまだまだ山とある、そのことをおもえばいいのか、いずれとも決め兼ね、いささか当惑しながら、電車を降りた、






さてさて、


ヤマカズ(85年)vsコバケン(83年)のマーラー5番対決、

それぞれについて詳述一回ずつ、両者の比較について一回、計三回に分けて、
あしたっから、書くとしよう、


やべ、もう三時半過ぎだ、
寝なきゃ寝なきゃ、、、、、


















どうにもしょうがねえな


や、仕事が雨で中止だったんで、ひさかたぶりに裁判を傍聴してきたのだが、、、、、

東京地裁(立川)301号法廷 強盗傷害事件 犯行事実の有無についてはあらそわれず、量刑の軽重を審理



ことばがさあ、、、、、
みんながみんなことばを扱う資格のない人たちばかりなんだよ、
日本語をきちんと話せる人というのは、存外少ないのかも知らんな

しかし、法廷ってのは、正義をことばで担保する場なんだし、ねえ、

弁護人、ありゃひどかったなあ、
あんなもんで司法試験に受かるんなら、ぼくもあしたにゃ弁護士になれるよ、まったく

女性検察官も、キャリア・ウーマン特有の剣のある詰問調の話しぶりで被告人の母親に食って掛かってたし、
相手は証人だろうに、かわいそうだったなあ

丸山茂樹似の主任検事も、ことばを扱い慣れてそうで、そのじつ、ほんとうの洗練がないんだ、
洗練というのじゃないな、なんだろう、つまりことばを研き抜いた形跡とでもいえばいいのかな、それがないんだなあ、

ぼくが被告人なら、あんな間の抜けたことばの応酬で刑期を決められたくないな、たまったもんじゃないよ


ただ、あれが社会的正義の現実なんだな、
ぼくは、アブストラクトな正義なんてものには、一片の興味とて持ち合わせないんだ
正義といえば、あるのは一定の社会に帰属した一定の正義だけだな、正義の仮設だけだ、といってもいいすぎではないはずだ、ま、あたりまえのことだけどさ、





ぐふう、、、、、


ひさびさに、ひとりで、外で夕食を済ませて帰る

かなりの量を食べ、いまだ、もたれ気味である

あの程度の量、20代前半のころならどうということはなかったのだが、やはり、徐々に年齢的なものが忍び寄ってきているのかもしらん、だいたい、暴飲暴食をしてしまった後の心理が、以前なら、へん、これくらいがなんだ、ってなもんだったが、さいきんはめっぽう後悔するようになってきていて、次はやめよう、次はやめよう、とおもわされることが、ここ何ヶ月間かでも数度あった、それで、おもいきって玄米生活を始めてみたのだが、ときたまジャンクな食いもんが恋しくなってがっつり外食してみるとーは、このざまだ

いやはや


さくじつは、例のCD化業者からのコバケン/日フィルのマーラー5番mp3配信につき、そのノイズ探しに明け暮れていて、更新できなんだ

プチ・ノイズ、いうところの針音が散見され、00:00形式で依頼する方が先方もわかりよかろうと、深夜まで、繰り返し繰り返し再生を続けながら、ノイズの入る個所を書き出していたのである

相当数にのぼり、すべて除去するとなると、先方もさぞやお骨折りだろう

しかし、基本の音質は非常に高品位といってよく、機械系統のかすかな回転音が最低域に残ってしまって取り除けないらしいことを除けば、市販のリマスタリングCDと較べても、なんら遜色のない音の鳴りである
そのうえ、可能なかぎりノイズ・キャンセリングに応じてくれるというのだから、これは、家庭用の器機でアナログ音源のディジタル化をするのとは、ちと次元が違うハナシ、なわけ、だ


演奏自身もなかなかのもので、かんがえがまとまったら、頓挫したままになっているヤマカズ/N響盤との比較で、詳細な批評をものそうかと










しもうた


けっきょく仕事なんぞせずにうとうとと惰眠を貪り、
その間にいろいろなことが起きてた、

先に報告した、CD化業者からのmp3が1日前倒しで届いてい、
iTunesでCDに焼き、試聴中、

うん、オクタヴィア復刻の91年盤より断然いい、
まだ詳しく聴き込んでいないが、オケのひびきは生々しく、フォルテも振り切った鮮烈さを示し、
小林も、83年といえばまだ43歳の若手指揮者であり、堂々たる威容よりは、
鉄砲玉っていうのか、向う見ずな、猪突猛進の気味、
むろん、そこがいい、

音質は、充分に及第している、
ただ、マイク・セッティングは、ワン・ポイント、ではないのだろうが、
金管や打楽器の抉りの利いたひびきのわりに、弦の厚みがもうひとまわり、、、、、
とおもわせなくもない、

でも、

いま2楽章に差し掛かっているが、いろいろの楽器が息づいていて、
ああ、こりゃいい演奏かもなあ、
すくなくとも、91年盤のように、オケの非力のせいで指揮者の表現を云々できる水準にない、
ということがない、

横綱・山田一雄に比して、新入幕の暴れ馬というのかな、

あ、しかも、コール・アングレその他、木管も、ずいぶん感じた音を出してる、
おおおお、ここぞというとこの決め所、烈しいねえ、
シンバルのけたたましい打ち方、ほれぼれする、
大太鼓も、重低音をひびかせるより、輪郭のくっきりとした打たせ方、録られ方でいい
この2楽章後半はすごいな、オケも乗りに乗ってる
ティンパニも硬い打音がすてき、
地獄絵図を観るよな壮絶さだね、
この耳に刺さるような音がぜひとも欲しかったのだが、
いい、とっても、いい
値は張ったが、落札しておいてよかったな、やはり、
この機会を逃しちゃそうそう巡り会えぬ代物だろうからな、
よかったよかった

いよいよクライマックス、金管は音が汚れるほど吹き荒んでる、
そうこなくっちゃね、こりゃいい、
想像以上の出来だね、

ああ、最後の低弦のピッツィカートふたつとティンパニひとつはほとんど聴こえない、
ちと残念、まあ、若さの猛進だから、些細なことはいい、不問に附す

3楽章、冒頭から、きびきびとして、でも薫りもあるし、いい音がしている、が、

N響アワー始まったし、ちょっと中断しよ、


ちなみに、7~9時の時間指定で玄米10㎏を受け取るはずになってたんだが、
爆睡で不在票が入ってしまった、
ドライバーさんには夜分の配達なのに、ご迷惑をお掛けした、
あすはしかと受け取ろう

そうだ、ぼく、ちょっと前から玄米生活なんですよね、
それについてもいつか書こうか、

いやはや、オークションの落札代とCD化代で、ちょっと口に出しては言えないような値段を取られちまったそのmp3が、まだ全部聴き通してないけど、こうして期待に適う、あるいはそれ以上のものになったことを、ともかく悦ぼう、バンザイ、



仕事前にひとつ


あさ起きたら、 NHKのBSで《N響ほっとコンサート》なるものをやっていて、《純情きらり》が始まるまでの1時間だけ、観た

指揮は現田茂夫
本仮屋ユイカという女優さんがナビゲーターだった
なかなかのべっぴんさんとおもうが、ぼくはどうもああいうポピュリズムはなあ
や、あれをきっかけにクラシックに親しむ人が増えてくれたら、というのは重々承知

なんだが、、、、、


吹奏楽を何曲か

ぼくはリードとかチャンスとか、わからないなあ、
ウィンドでもこんなにできます、みたいに背伸びしているだけのような、、、、、
やはり弦を抜いたオケ、という欠落の憾を拭えない、

弦合奏でチャイコフスキー《弦セレ》

うん、安心だ、管諸氏には申し訳ないが、

N響の弦は強靱だし、1楽章のみだったが、なかなかの好演だったのじゃないか

いま、山田一雄/新星日響(91年・JODクラシックス)で同曲を聴きながら書いてる
いい演奏
このCDはヤフオクで落とした、
けっこうな稀少盤なんだろうな



《純情きらり》を、朝っぱらからしばしば涙ぐみつつ、観た
劇中で宮﨑あおいがオルガンで《埴生の宿》を弾くシーンがあった
シンプルな曲だし、あれくらいは本人が覚えて弾いたのかもしれない
ヤマカズの《弦セレ》を聴き終えたら、柳兼子のCDで《埴生の宿》聴ーこせっと

それにしても微苦笑ものは、窓ガラスの養生に、ことごとく“米”印状にテーピングがしてあるんだな
戦時中はみなああだったのかしら
“鬼畜米英”はどこへやら、と、ふふ




ゆうべは、そうだ、ヤマカズ/N響のマーラー5番についてだった

これはぼくのマラ5観をあざやかに塗り変える大演奏だなあ
どれを聴いても、もう一声、という不満がどこかに残ったもんだが、
ようやく全編に亙って満足を与えてくれる演奏が出現した、って

きのうはああいったけど、ほかにないもんで、バーンスタイン/ウィーン(DG)はずっとはずせなんだ
でもやはり隔靴掻痒、でね
むしろおなじウィーン・フィルとのアルバート・ホール・ライヴ
たしかメモリーズとかいうレーベルで出てたはずで、いま手に入るのかしらんが
でもあれも録音が甘いし、
や、はじめ聴いたときはDG盤よりも生々しいかんじがしたようにおもってたんだが、
さいきんiTunesにインポートしてiPhoneで聴いてみたら輪郭ふやふやのぼやっぼやでがっかりだわ

ほかには

小林研一郎/チェコ・フィル(ポニーキャニオン)

高校時分に夢中で聴いたなあ
きれいな演奏だし、耳馴染みがしたんだろうとおもう
が、いまは、あれでは満足できないな、
演奏自身ももっと突っ込んだものであってほしいが、
ホールが、、、、、
ルドルフィヌムでのレコーディングというのはどうも
チェコ・フィル自身のひびきを聴くというより、チェコ・フィルが鳴ったそのホールのひびきを聴く、というかんじで、
これも隔靴掻痒なんだわ
こないだ聴き返してみたが、3楽章なんぞ、案外艶に不足するし、2楽章だって、指揮者は、ほんとうは、もっと入れ込みたいのに違いないんだ、長所よりも短所が気に掛かる演奏というのは、多聴に堪えないんだ
青春時代に世話になった音盤だし、無下にはしとうないんだが

むしろ

来日公演のライヴDVD(フジテレビ)だな

演奏も、多少ほころびが目立つものの、こっちのほうが

あ、いまいま、CDを柳兼子に替えました、《ハバネラ》から聴きます(76年・神奈川県民会館小ホール・ライヴ VIG-8001)←可能な限りレコード会社、レーベル、録音データ、商品番号等、書くようにします、ブログ書くためにわざわざ押入れから引っ張り出すまでは、なかなかできんが、手許にあるものに関しては
この《ハバネラ》はいい、歌はもちろんのこと、マリオ小林のピアノがところどころ、音を短く切って空白をつくり、はっ、とさせてくれる

で、こっちのほうが精彩にあふれているし、コバケンのこと、ね、覇気もあるし
でも、やはりいくつかの瑕は看過できないなあ
単にオケのコンディションによる瑕ならいいんだが、指揮者の表現が煮詰まっていなかったり、指示が不徹底だったりすることに起因しての瑕がだいぶあるような気がする
全体の印象を損なうほどでないにしろ、ヤマカズ盤のように(もちろんヤマカズ盤にも、もう一歩、という部分はあるが、なんちゅーか、、、、、なんちゅーか、なんだよ)

《埴生の宿》です
前奏を弾き損なっているな、ピアノ、残念
でも、途中のくっきりとしたトリルはいい、
ぼくはくっきりとした演奏が好きなんだな、どうも
すべての音が目に見えるように鳴ってほしい
すべての、音が、目に、見えるように、鳴って、ほしい、鳴らして、ほしい、わけなんだなあ
変にムード的なのはこまったさんだ、曲にもよるにせよ

で、ヤマカズ盤のように、瑕のない部分、つまり指揮者の表現の素地というか地金が、瑕のマイナスを払拭してくれないんだ、コバケン盤は、や、いくらかは払拭されるんだが、払拭し切ってくれないんだ、
全体をおおきな満足とともに聴き通すことのできるヤマカズ盤が現れたいまとなっては、瑕の部分に差し掛かるたびに、これがなきゃなあ、という痛痒をかんじ、おわりまでいってもその痛痒の解消におつりが来ない、ただ痛痒が解消されるだけではダメで、おつりが来なきゃなんない、それもなるたけたんまり、と、ね、
それがないんでね、コバケン盤には
そうなるとこれは、もうそうそう聴かない音盤になっちゃうよなあ、

惜別、、、、、

昼間っからブランディーでも啜っちゃおーっと(サントリーX・O)
弔い酒さね、

いま、《椰子の実》

つっとっと、んいや、さいきんコバケン/日フィルの91年キャニオン盤がオクタヴィアで復刻したねえ(OVCL-00423)
どうしてああいうことをするかなあ、ああいうばあい、当然指揮者の許諾も取り付けるわけだろう、ぼくが小林なら、あんな恥ずかしい演奏の復刻なんぞ絶対に許さんがな、指揮者としてのプライドを疑るよ、ほんと

んぐ、いまヴァント/ベルリン・ドイツ響のシューベルト9番(PH09030、8枚組BOX中の1枚、輸入盤)を鳴らしてみたんだが、冒頭からおもいっきりノイズはいっとるやないか、けしからんな、しかもずっと消えない、
ミュンヘン・フィルとのCDも、演奏はともかく、随所に録音の甘さが露見していたが、ドイツでは、録音作業っていまだにこういうかんじなんかなあ、牧歌的というか、もちろん、オケの音はいい音で録れているが、弱音になると、器械系統の連続音がずーっと鳴ってる、まったくけしからん

どうも、話が脱線脱線で、

コバケン/日フィルのマラ5
ひどいねえ、や、なんでCD買ったかというと、オクタヴィアって、メディアのスペックをものによって差別化してるでしょ、こんどのはハイ・クオリティ・スーパー・オーディオCDとなってるから、もとのキャニオン盤で演奏がさほどのものでないとわかってはいたんだが、もしかしたらリマスタリングがよほどうまくいったのか、と淡い期待を懐いてね、しかし、やはり駄演は駄演さ、
まずオケの非力、迫力ある強奏は1楽章の件のクラーゲント部1ヶ所にしか聴かれない
小林のほかのCDに較べると、音場感、パースペクティヴがリアルに伝わるが、オケの各パートのソノリティがその高音質に応えうるほどの水準に達していない、精進がまるで足りとらん
2楽章の冒頭、木管の吼え声にトロンボーンが不吉な響で合いの手を入れるところのそのトロンボーンなんぞは、噴飯ものどころの騒ぎじゃないな、や、ひどいひどい、目に見えるように、という譬えでいえば、こんなのは目も当てられん音だ、まったく、、、、、まったく、まったくもう
ここだけじゃない、ぜんたいにアンサンブルには柔軟性というものがまるでなく、生硬もいいところだ
どのパートも音色にほんとうの潤い、ほんとうの艶がない、
対位法の権化ともいうべきマーラー作品の演奏にあっては、主旋律と対旋律とが、互いを呼び覚ましあうようなフレージングと音色と強弱とバランスとを感じ切って瞬間瞬間を紡ぎ出してゆかねばならぬが、その点、ここでの日フィルの鈍感、鈍重さには、呆れてものが言えない、いやはや
弦にしても、弧の描き方が滑らかでなく、定規を宛がって線を引っ張ったような色気のなさ、薫りの乏しさはこれどうかいね、聴いてるもんにもどかしさや苛立たしさを与えるために演奏しているようだよ、まるで
そんななかで、いちばんの難所であるはずの3楽章が、おもいのほか聴けたりするから、演奏ってものはわからんよ、じつに、もちろん、聴けるったって、、、、、聴けないんだけど、さ、
この3楽章は、ワルツのリズムのなかへ収まろう収まろうとすると、なんとも据わりの悪い、どこまでいってもひびきのなかに浸らせてくれない演奏になってしまうからな、かえって、開き直って、複雑な声部の絡み合いから重要な動機が飛び出すたびに、フレーズをおおきくとったり、アクセントで念を押したり、ときにはアンサンブルの奥の奥に眠っている内声を焙り出したり、で、そのたんびに、ここで聴いてほしいだいじな音があるんでテンポを落とし気味にしますね、と、そこを過ぎると、また自然な呼吸のうちにすーっとア・テンポして、お、快調快調、とおもっていると、またここぞというときに、ぐっと遅くなって、お、なんだなんだ、あ、なるほど、この声部を浮き上がらせたかったのね、みたいな、そういうことを指揮者が積極的にやろうやろうとし、オケの面々が応えよう応えようとするなかでタテが揃う、という以上に呼吸が合う、そういうふうに湧き上がってこないとなんないんだ、このワルツは、それをこの締りのないアンサンブルで、なかなか聴かせる演奏に仕立てているというのは、たいしたもんだとおもう
おもうが、まあ、しかしダメだよ、これじゃ、
アダージェットも、デュナーミクの振幅におおきな不足があるし、全奏でひびきが束になるとき、高音に熾烈さというか、ほとばしるような威力がないのでまるで聴けない、高弦だけじゃない、低弦ももっとゆたかにひびいてアンサンブルを底支えしてやらんと、
フィナーレも、この機動力のなさじゃどうにもならんな、志願兵じゃなく、徴兵されていやいや従軍した民兵の一団のようなうだつの上がらなさだよ、日フィルは、まったくねえ、
にしても、このフィナーレの最後の山場とか、2楽章後半の頂点の迫力不足ったらない、トランペットのみすぼらしい鳴り方はどうよ、がっかりだね

コバケン/日フィルの一連の録音、ずいぶん多岐に亙るんだけど、そっから名盤をみつけるのはなかなかの難儀だな、正直

まず、オケのコンディションの不安定さ加減ね、これどうにかならんもんかとおもうよ、
小林がトレーニング・コンダクターとしての面貌を備えていないことが問題だ、とかいうことをいう輩もいるんだが、どうかねえ、だってプロでしょ、日フィルも、
ただ、小林がとんでもない気分屋の練習嫌いだってことはぼくも聞いてはいる、
で、練習をわりとみっちりやったときの演奏というのはいい演奏で、CDも名盤といっていいんだ、マーラーの7、8、9番あたりや、90年代前半のレコーディングだが、《幻想》、そいから、コルサコフ《シェエラザード》、あれなんかはいい、それも、とても、いいんだ、
それくらいかなあ、あとおまけで、キャニオン盤のチャイ5、か、
それ以外は、ほとんど駄盤といっていい、マーラーの1、2、3番なんてのもある、3番はほかに決定盤がないので、表現の徹底度を買ってもいいが、やはり全奏時のひびきにもうひとつ潤沢をもとめたい、2番もおなじ不満を懐かせるが、こちらはほかに名盤が多数あるので、いっそう分が悪い、1番は、実演はもっと好印象だったんだが、ダメだね、
ブルックナー《ロマンティック》なんてのもあって、これがじつはなかなかのものなんだな、
いい加減力むのやめなよ、ってとこも散見されるけれど、両端楽章の、指揮者が泰然と振舞っているところでは、恰幅のいい立派な音響が立ち現れるんだ、木管も、それぞれ情緒に濡れてうつくしく、オーボエなんて、とどろくトュッティのあいまから華奢な弱音で貌をのぞかせると、ふるいつきたくなるようないい音で啼くんだ、
まあしかし、ブルックナーには、朝比奈だ、ヴァントだと、錚々たる名盤の峰々が連なっているわけだからなあ、
ぼくはスクロヴァチェフスキですら、もういやだから、ん、でも、スクロヴァ盤よりは小林盤のほうが、ぼくは好きかもしれんなあ、フォルテの立派さと、頑固なイン・テンポが様になってるし

けっきょく、小林に関してぼくらができることは、ただ彼の老衰を待つ、というその一事に尽きるようだね

とにかく、あの力み癖がぬけないことにゃ
自分は冷静なままでいて、オケに最大限の力を出させる、それができるようにならなきゃ、いまの小林に、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうの意味での名演、名盤は産み出しえないんだよ

日フィルとのリハにしても、ぼくは懸命に想像、想像というか邪推してみるんだが、
小林の方にも、日フィルというのはコンディションのもうひとつ安定しないオケだという予断があって、初日の顔合わせのとき、ちょっと音を出してみて、この音じゃちょっとな、とわずかでも落胆の翳が差すと、もうそこでいくらか仕事をする気が失せちゃうんだとおもう、なにしろ気分屋だから、これじゃいくら練り上げても2、3日の練習じゃ高が知れてるだろう、ま、どうせいつもとおんなじ曲目なんだし、一回の演奏会で恥をかくくらいのことはな、それに、こういう状態なら、オケにできるだけしょぼい音を出してもらった方が、言い訳の余地ができてかえって気も楽だし、俺が悪いんじゃないぜ、このオケが下手クソだからいけないんだ、みたいなね、

ひどいこといってんなあ

でも、そういう人っているんだ、

どうしようもなく気分屋で、正にしろ負にしろ、その場の感情の閃きみたいなものを絶対視するべく生まれついている人、生まれついてしまっている人、代表的なところじゃ、小泉純一郎、とかね、
そういう人を相手に、すこしは冷静になんなよ、とか諭してもせんないんだ、
彼等にとっちゃ、一瞬一瞬の閃きに身を委ねることをやめてしまうのは、死に価するから、


で、ちょっとホンネをこぼすと、ぼく、そういう人に対して、いいようのない憐れみと、ジェラシーと、両方いっぺんにかんじる、、、、、アムビヴァレンツさね



ま、小泉政治の功罪はともかく、そういう、自分でも制禦不能の気分に振り回されてカッカカッカしている人、そういう人にしか醸すことのできない特有のムードというのがあって、それが指揮者なら、指揮者・小林研一郎という人なら、彼が熱心にリハに取り組んだときというのは、それはそれはいい音が鳴るんだ、
おそらくは、ぼくは、いわゆるアンチ・コバケン諸氏も、そのことをちゃんと知っているんだとおもう、ぼくは、その小林が熱心になるときが、10回に1回でも、100回に1回でも、アンチ・コバケンになったりはしないが、痺れを切らした諸賢は、小林を見限るんだろう、惜しいことだ、じつにじつに




いつんなったらヤマカズに言及できるんだ、



ま、じつはあす、あすだとおもうんだが、
さる業者からmp3データが配信されることになってて、
その業者ってのは、レコードからCDをつくってくれる業者なんだが
ヤフオクで落札したレコード、CD化される予定なく、どうしても欲しかったので買ってはみたものの、自室にレコード再生しうる環境ととのわず、
んで、ちょっと値は張るんだが、専門の業者にCD化を依頼した、
CD化の最終工程に入る前にmp3データを送ってくれ、気に食わぬとこがあれば、ここのノイズ消してくれませんやろか、とか、いろいろ注文をつけて、むこうでは、可能な限り対応してくれるというわけ、
じつは以前にも一度、コバケン/新星日響のチャイ5(フォンテック)のLPをヤフオクで買ってその業者に頼んだことがあって、こんかいはというと、

それが、コバケン/日フィルのマラ5なんだなあ、
出品者から直接業者に送ってもらったから、まだ現物は見ていないんだけど、
83年のライヴ収録らしい、上野の文化会館だったかな、
いろんなタームで検索したんだけど、
その日に演奏会があったっていう記録はめっかっても、ライヴ収録のレコードがあるってことはつきとめらんなかった、JPS-15/16(2枚組)っていう商品番号からすると、日フィルの自主製作盤なのかな、や、わからん

ともかく、いまはそのmp3を鶴首してる、ってわけでね、
ただ、期待半分、不安半分だねえ、

例の91年盤(PC/オクタヴィア復刻)よりはいいかもしれない、
80年代以前の日本のオケって、緻密さはさておき、元気いっぱい、みたいなとこが、どこのオケにしろ、あったような印象だし、ま、リアル・タイムでは、全っ然知らんのだけどね、
83年なら、まだ小林も、やっと方々のオケでマラ5みたいな重量級の作品をやらせてもらえるようになってきた、みたいな頃だろうし、リハも入念にやっていると信じたいところだ、

で、あとは音質か、
なにしろ得体の知れないレコードだもんなあ、

ま、気に病んでもしゃあない、が、




それが、ひょっとするといい演奏かも知らんし、
ヤマカズについて詳述するんは、それからでも遅くはあるまい、

さあ、それより仕事せんとね、すっかり時間潰してもうた

もう夕刻ですよ夕刻










マーラー生誕150年


です

もっともっと方々で盛んに演奏されるかとおもいきや、いまひとつ賑々しくないなあ、
来年は没後100年なんだし、2年でシンフォニー全曲踏破、みたいな意欲的な指揮者がいてもよかった

で、ぼく自身は、コンサートにも行ってなく、この10月に上岡敏之/ヴッパータール響で5番を聴くのが
マーラー・イヤー最初で最後のマーラー体験になるかな、いまんとこ、
CDも今月末に出るようだし、
上岡のような非常に高度にソフィスティケート(ワルクチじゃないよ)された音楽をやる人のばあい、ぶっつけ本番で聴くより、やはり、事前にCDで予習しておきたい、細部のどこがどうなるのか、とかを

で、コンサートではそれを心地よく裏切ってほしいんだな、心地よくね、

上岡は舞台人気質に眼を瞠らせるものがあるし、そのへん期待したい、




しかし、唯一無二の絶対的演奏、というところまで昇華されたものが聴けるのか、
懐疑的というのじゃないが、マラ5については、ここ数年でいい演奏を聴き過ぎているからなあ、

耳が肥えてる、カクジツに

や、そもそもぼくはバーンスタインなり誰なり、過去のマーラー演奏にあんまり関心がなくて、
90年代後半からようやくクラシックを聴き出したというのもあるけど、
とくにバーンスタインのドイッチュ・グラモフォンのマーラー、録音が鈍くて、ダメだなあ、
5番は、ウィーン・フィルだけど、世評ほどに感動はしない
録音が、鈍い、、、、、鈍いってんじゃないなあ、なんていうんだろ、ちょっとオフ気味で、
血の叫びだなんだというんだけど、もうひとつ痒いところに手が届かないんだなあ、
細部もあやふやなところが多くて、
あとクライマックスのテンポがいつもはやい、
ま、バーンスタインという人はそういう人だが、
シカゴ響とのショスタコーヴィチ《レニングラード》なんかはかなり緻密に練れてるんだけどねえ、
すくなくとも、ウィーンとのマラ5、あれが、同曲録音不動の王座をついこないだまで守ってた、という事実には、俄かには肯けんものがある


それより、マラ5、最近の収穫、収穫どころじゃない、大大大収穫は、

ヤマカズ/N響

だな


NHKクラシックスが出した2枚組DVDの一方に収録されてて、
たしか9000なんぼもしたから発売からしばらくはほっといたんだが、
やはりどうしても欲しくて買ってしまった、いまは貸してて、友人宅にある、

もともと、とおいとおい記憶にN響アワーかなにかで断片的に観たような、
演奏内容はまるで忘却、というより、視聴当時はまだ演奏のよしあしを云々できるほどの素養がなかったのかな、
ただ、とにかく記憶の片隅にはあのヤマカズ師のシャーマンな指揮ぶりが宿ってて、


で、DVDが出たもんだから、



ぼく、マーラー演奏については、バーンスタイン式に感情的になられるより
フクザツな対位法の各声部を、一度十分に咀嚼したうえで、目に見えるように明瞭に演奏してくれたものの方がしっくりくる、はるかに

う、、、あ、、、あ、いや、これじゃ誤解を招くかな、
や、たとえば、昔のブーレーズのマーラーなんかはいやだな、それから最近ではジンマンみたいな、
ジンマンも、いやというのじゃないけど、

なんといえばいいかな、いやじゃないけど、

やっぱりいやなんだなあ、

ヤルヴィの《復活》も、名演と認めるのに吝かじゃないけど、吝かじゃないけどなあ、
というそういうかんじなんだな、

そういう人、意外に多いんじゃないか、
上岡のマーラーについても、つまりそれとおなじ危惧を懐くわけで、

ひとくちにいうと、洗練された分、線の細くなるかんじ、あれがいやなのかな、
理屈抜き、という部分が欲しい、どこか一ヶ所でもいいからね、
力尽くのところとか、造形をみだしてでも、こうやりたかった、というような、融通の利かない人間らいしいところが、
バーンスタインは、そういうところが多すぎるのかもしれない、
こないだベルリン・フィルとの9番が1枚に収まって廉価盤になってたから買ったんだけど、
冒頭から、ちょっとぼくには味が濃すぎる
や、それをもって貶すもんじゃないとわかっているけど、
もうちょっと、、、、、もうちょっとすっきり、すっきりというんじゃないな、なんといえばいいかな、
旋律線が不明瞭になるほど歌わないでほしいというか、アコーギグを利かさないでほしいというんか、
でも、、、、、でも、ジンマンやヤルヴィほど洗練されるとまたいやだよ、というそのあたりなんだが、


ギーレンはいいかもな、その意味じゃ、全曲じゃなくても

粘着力の問題か、要は、

ベルティーニ/都響の8番(フォンテック)を聴いてみたんだけど、
その粘着力なんだな、
ああいうのを、端然とした造形で彽徊することもなく、とかいって褒めるのは、ぼくはただの瘦せ我慢だとおもうなあ

粘着力というかなんだろう、マーラーの轟然たるトュッティを浴びていると、
うまく伝わるかなあ、プールの中を歩いているような感覚にとらわれるんだ、
水の抵抗を感じながら、ひとかきひとかき、
進もうとしてもおもうに任せず、もどかしさが募るあのかんじ、

あるいは、自転車で、
あ、ぼく普免ないんで脚はチャリンコなんだが、
自転車で、アゲンストの風にめげずにこいでこいでこぎまくるときのあのもどかしさ

あれがマーラーだな、ぼくにとっちゃ、
それが薄らぐほどソフィスティケートされてては受け入れられないというか、

小澤/サイトウ・キネンでいえば、マーラー演奏をあそこまで美化したことには脱帽、
でも、どこまでいってもフォルテがサバサバしてるのはいやだよ、というそういう
ライヴなんだし、たとえば《復活》の最初の盛り上がりのところ、もうすこしお客に喧嘩売るような気魄が欲しいな、と、完全な予定調和じゃいやだよ、と
とくにあの《復活》の最初んとこ、シンバルがなあ、、、、、
小澤がそのようにやらせているなら、ちょっと考えものだなあ、
ぼくが指揮者なら、ここは全曲で初めて最強音に達する部分なんだから、めいっぱい打たなくてはダメだ、と奏者にいうとおもうけどなあ
もちろん、軌道に乗ってくるといい演奏なんだ、あの《復活》
部分的には、むしろほかの誰より抉りが利いているようなところも出てくるし、
全体に快速調のなかで、踏み締めるようなテンポで意表を突く瞬間もあるしな、1楽章とか


それで、なんだったか、



そ、ヤマカズ/N響の5番だったな

貸している友人に頼んで、DVDから音声だけ取り出してもらって
なんといったかな、リッピングだったか、
PCについちゃ、ライト・ユーザー中のライト・ユーザーだもんで、
自宅でもできるんだろうが
フリー・ソフトを拾ってきて、インストールして使いこなせるようになるまでのプロセスをかんがえると
億劫でしゃあない、、、、、
他人にそいうこと、DVDからの音声抜き出しとか、してもらうの、法に触れてることになるんだか、ならんのだか、


ま、とにかく

ここ最近は、仕事の往き帰り、ほとんどそれしか聴いてない
DVD再生でPCからヘッド・フォン引っ張ると、キュルキュルキュルっていう回転音が邪魔だから、
音だけで聴くのはいいなあ、
ちなみにポータブルはiPhoneだが、
付属のイヤ・フォンが購入2、3ヶ月でぶっこわれて、

いまはオーテクのインナー・イヤ・フォンです

まあ、オケのマスの拡がりの完全再現なんぞはなから求めてなく、
そうとすればあとはソノリティだが、その点、さすがオーテクというかんじか、
たしか3000円くらいのもんだったとおもうが、そのコストでこのクオリティなら、この上は望むまい、と
MD時代の音質のひどさを知っている耳だから、許容範囲はひろい方だとおもう


ふだんは雑食で、あれ聴いたりこれ聴いたりなんだが、ときたまこれは、というのにめぐり会うとそれ以外聴かなくなる、数年前に、コバケン/日フィルのマラ9(オクタヴィア)でそれを経験していて、あのときの自分は正銘ジャンキーだった、
今回のヤマカズはそれに次ぐ、
や、ヤマカズのほうが感動は上回るかな、
小林の9番はライヴを二晩とも聴いたからより印象が強い
山田の5番もライヴを聴いていれば、というところ、
85年の渋谷NHKホールで、
ぼくはまだ2歳だ


このDVDを自宅ではじめて再生したときの感動は忘れがたいなあ、
どちらかといえば遅い演奏、それもクライマックスの全奏部に遅さを期待したいぼくの、その期待を上回るほどの遅さなんだ、これ、

全奏に80分弱掛かってる

ただ、その遅さってのは、クレンペラー的な遅さではない、ベームとも違えば、チェリビダッケ的な遅さではさらさらない

とくにロー・テンポが顕著なのは、2楽章、およびフィナーレで、要は、対位法的なアレグロ楽章を各声部の浮きぬ沈みぬが克明に立ち現われるように演奏してある、といえばいいかな
マーラーなんてやらなかったけれど、これがチェリビダッケなら、1楽章のあたまのテーマから引き摺っちゃうだろうし、ベーム、も、マーラーはやってないけど、やっぱり遅くなる必要のないとこまで遅くなって、ダレてしまうだろうからなあ

山田の遅さは引き摺った遅さじゃないんだ、ぜんぜん違う


ちょ、ちょっと

ちょっと長くなっちゃうなあ、

書きたいことがいっぱいあるからな、複数日に亙ってぽつぽつ書くことにしよう

ちなみに、いったとおり、楽譜なんてうちになく、知識も乏しいから、
細部に言及するときは、

再現部、とおもわしきところ、に入る前の、クラリネットが細かい走句を吹いて下降する、その直後のゲネラル・パウゼから立ち上がるチェロの音色とフレージングが、

みたいな、いまテキトーに書いたから、そんな曲ないかもしらんが、ともかくそういうひどく煩わしい書き方になるとおもうので悪しからず


寝よ寝よ、





あすは朝からファミリー劇場で《純情きらり》の連続放送を観るのだ

なにしろこちとらはずのっぶ、すなわちスノッブだからな、

あ、ぼく本名、水野というんですよ、で、ずのっぶ

ってこって、



あの原作が津島佑子とは、NHKのリアル・タイム放送時には気付かなんだ

してみると、冬吾

ん、この字であってるんか、

なる画家は、やはり太宰のイメージなのかなあ、

ま、とにかく





ブログなんぞを


はじめてみる

もとより雑感に煩わされがちな性分だ

からして、捌け口が、ぜひとも、入用なのである

もっと早くにはじめておけばよかった



記事だが、おそらくは、聴いた音楽のこと、読んだ本のこと、

あとまあ、落語とか、そのへんのことをぽつぽつと、

音楽は、ほとんどクラシックしか聴かない、専門的な知識があるわけでなく、

楽器も弾けなければ楽譜も読めない、

世に謂うリス専というやつで、手前勝手に主観を書くだろう



問題は、クラシック=ハイ・カルチャーという先入主をいかにして排するかで、

それは自身についてもいえ、だからニック・ネームをずのっぶにした



気が向いたとき、更新しますー





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