ざっかん記 -485ページ目

あす


は、

台風上陸とのこと、

おとといから急に寒波が、、、

季節の変わり目は体調管理に気を附けねば、

きのうおとといと鍋、

きのうはキムチ鍋で、けさは残った煮汁で山芋そばを湯掻いて食べた、

こちとらは免疫力万全だ、と寒さに向かってケンカを売っておかなければやられてしまう、



せんじつ購入のレリジョンのパーカーにて出勤、

色はグレーなのだが、ブラック、、、とはいってもダーク・グレー、といった色味のニット帽とひびき合い、コーディネイトとしても申し分なし、

ここ2、3日、土くれに水をぶっかける仕事、、、だったんだが、そうそうのことでは汚れまい、と油断していたところ、軟らかい土にいきなり高水圧で水をかけてしまい、はねっかえりを浴びてしまった、、、閉口

が、服なんぞ、汚してなんぼなのだ、

白いワイシャツなどは汚れてもらってはコマるだろうが、カジュアルなものはどんどん汚れて構わない、

ぼく、学生時代には絵を描いていたが、

家を出たときの格好のまま、アトリエで制作していた、

ツナギというのがどうも好きになれなかった、ってこともあるが、

高校生のころも、ガクラン姿で絵を描いていたが、油絵具がついたら、乾くのを待って黒マジックで塗り潰して、学校通ってた、




で、パーカー、着心地よろし、

ただのパーカーだし、見る人が見ないと、それなりに値が張るってことがわからんだろう、そこがなんか愉しい、

ただ、フードから出ている紐が不可解なほど長く、かがみながらする作業のとき、ひどくジャマになる、背中へ回しとくんだけど、どうしても垂れてきちゃって、、、

でも、胸元のトレード・マークなど、やはり、いい

ぼくは、ちょっとコミカルなものが好きなのだ






いま、ボールト/ロンドン・フィルのヴォーン・ウィリアムス《シー・シムフォニー》

なんだ、ハイティンクなど問題にならんじゃないか、

ハイティンクなんぞ聴いても、曲の魅惑がぜんぜん伝わらん

ボールト盤は、やや録音の旧さを感じはするが、演奏の生命力は、ハイティンクなどとは較べるもおこがましい、ってとこ、

しっかし、曲がたのしいなあ、

全奏に1時間以上かかる大曲で、編成からしてもオラトリオを演るようなもんだが、宗教的な内容じゃなく、その名のごとく、海の歌をうたいつぐ、歌詞は英語なんで、ラテン語やドイツ語、イタリア語の歌を聴きなれた耳に新鮮、

ボールトは、19世紀来の大時代的恰幅のよさを示しながら、いわゆるスタジオ仕事的精度、確度にも事欠かない、こういう聴き馴染みのしない曲を聴くには一番ありがたい演奏の在り方とおもう、

ハイティンクと聴き較べると面白いかも、

ハイティンク盤、音楽が死んでるよ、でも、表情にせよアタックにせよ歌にせよ、突っ込んでなく、録音もクリアだから、耳障りな音がどこにもなく、そのことをもって、こういうのをいい音楽だと思い込んじゃう人っているとおもうんだよなあ、けっこう

そのうちのひとりでも多くの人が、ボールト盤に臨んで音楽体験のなんたるかに目覚めてくれたら、と切に願う、

そういや、ちょっと前に、このボールトが振った、ハヴァーガル・ブライアン、、、だっけか、たしかそんな作曲家の、世界一パート数の多いんだかなんだか、そういうシムフォニーの、あれはBBCの実況録音かなにかかなあ、たしかテスタメントかどっかから出たCD、、、って、ことごとく曖昧な情報ですみません、、、

あれ、異様に音量レヴェルが低くてちとがっかりだが、曲自身は明快なもので、なかなかたのしかった

ボールトは、メイジャーな作曲家の作品のレコーディングというと、あんまり遺っとらんようで、ま、遺っとったとしても同時代のほかの指揮者と張り合えるだけのものだったかどうか、という気がするが、着実な仕事のできる人であることは確かで、どころか、当時としては平衡感覚に長けた人であり、十二分に生命力漲る演奏をしていながら、その音楽は、往時の指揮者にあり勝ちな、時代を越えられぬデフォルメなどとは無縁、このヴォーン・ウィリアムスは、こんにちなお、セピア色を帯びることなく、存在感を保っているとおもう
、、、って、まだ1曲しか聴いてないんだが、
ハイティンクの方もあれからまったく聴かず、が、全曲を網羅的に聴くなら、断然ボールトだね、ハイティンクなんぞ、およそ信用できない、
もちろん、ときとばあいによって、ってことはあり、むかしのショスタコーヴィチ全集のなかには聴くべきものもあるとおもうが、ハイティンク、概して、オーソドックスと凡庸とのはざまを綱渡りして、けっきょく凡庸の側へ転落する、ってな指揮者とみておいてまず間違いないとおもう、
何年か前、ハイティンクがコンセルト・ヘボウ管を振ってブルックナーの9番を演るのをテレビで観たが、
そんとき、番組に黒田恭一が呼ばれてて、ハイティンクという人は、世界一うつくしい歳の取り方をした人だ、とかなんとか云ってた、ぼかぁ、冗談も休み休み云ってくれよ、と半ば呆れて観ていたんだが、いざ演奏が始まってみると、やはり、というべきか、これがどうしょもないんだなあ、あたまっからおしりまで、ひたすら、ブルックナーの9番らしき音が鳴ってる、ただそれだけ、ってな演奏なんだ、
オーソドックスな演奏、ってのは、けっして、ああいうののことじゃない
孔が空くほど楽譜を読み込んでも、記譜事項へ叛逆することを潔しとせず、そういう覚悟に裏打ちされた演奏こそ、オーソドックスな演奏とおもう、
ちょうど、こないだ聴いたボッセ/新日フィルのブラ2がそう、
全篇すこしも抵抗を感じさせる音が鳴らないが、にも拘らず、総ての音がブラームスを語り掛けてやまない、という
それからここでいえば、ボールトのヴォーン・ウィリアムスがそう、
ボッセ、ボールト、ふたりとも、奇を衒ったことは一切していない、

音楽的な演奏ってのは、音楽的であることに殉じた演奏をいうんであって、感情的であることを嫌った演奏のことじゃないんだな、

おお、我ながらいいことを云ったねえ、





ってなわけで、

ボールトを介して、ヴォーン・ウィリアムスにしばし浸ってみようかと、






洗濯

 

したところ、愛用のニット帽がずいぶんほつれてしまい、あえなくおシャカ、

炎天下労働を2夏ともに越した同胞であり、さびしい、




iPhone、いったん電源を切ると、つぎに起ち上げたとき、iPodが前回の再生状況を記憶していてくれない、

で、マイク附きリモコンの再生ボタンを押すと、まったく身に覚えのない曲を鳴らしだす、ってなわけで、

きょうちょっと電源を切ってて、起ち上げて、再生してみたら、だいぶ前にiTunesにインポートしてそのまま忘れていたボッセ/新日フィルのブラームス2番のフィナーレが鳴りだした、そういやこんなのあったな、と



仕事帰り、ちょっと雨が降り出しそうな不安定な天気ではあったが、1楽章から再生し直して、家に着くまでに全楽章を、、、とてもすがすがしい聴体験だった、



演奏の要になっているのは、ヴァイオリンの瑞々しいひびきだとおもう、

世上にはいろいろのタイプの演奏があって、しかし、オーケストラ演奏に関していうと、どんな傾向の演奏であれ、名演奏といえるものに通有の性質は、ぼくは、ヴァイオリンの高音の冴えだとおもう、

、、、ん、またちょっと日本語がヘンだなあ、、、でもないか

とにかく、

ヴァイオリンの高音が、ときに冴え、ときに軋り、ときに迸り、、、それが期待できないオケというのはレイム・ダック、その時点で、指揮者は両手両足を捥がれたも同じで、いかなる表現も繰り出しえないとおもう、音は鳴らせるが、表現には至らないと、



せんじつの汐澤/白金フィルのヴァイオリン、鳴らなかった、
じつは、汐澤氏の音楽をブログ上で熱烈に称賛していられる方がいて、その薦めに乗って行ってみたのだったが、前にも書いたとおり、ヘルメスベルガーの最初のテーマのトュッティ時、ヴァイオリンの高音がすっきり抜けなかったので、おやおや、とおもってしまい、

その方のブログに苦言を呈したら、どうやら逆鱗に触れてしまったようで、コメントもろとも削除のうえ、おそらくおもにぼくのことを論うて(じゃないかもしれんが)、あれほどの演奏を聴いておいて寝言いってるやつには、ほとほと呆れた、くらいのことをいわれている、

お説によると、その方はどうも、汐澤氏のリズム感を篤く信奉していられるんだ、
ここには容易ならざる対立があって、つまり、オーケストラ演奏において、音楽を生動させるのは、ここ、くどいが繰り返しておこう、ただ音が鳴るだけでなく、音楽が生動するには、リズムが肝要なのか、はたまた、ヴァイオリンの高音なのか、

その方は、それ一辺倒でないにしろ、前者に重点を置かれ、ぼくは、ぼくもそれ一辺倒でないにしろ、後者の方がより重要じゃないかとかんがえている、つまり、互いにまったくアサッテの方角を向いているわけで、意見が合わず、物別れに終わったのは、そんな理由によるのじゃなかろうか、

白金フィルのヴァイオリンの高音が冴えなかったのはあきらかで、その方も、それを認めるに吝かでないとおもう、そのアンサンブルで《悪魔の踊り》のテーマのトュッティを聴かされても、ぼくとしてはピンとこない、高音はともかく、リズムの切れ味にしびれろ、といわれても、いやいや、そこ、そうカンタンに「高音はともかく」って気になれませんよ、という、

ラフマニノフまでいくと、その弊はいくらか解消されてはいたけれど、やはり高音が漲らない演奏には乗れない、という憾がずっと残った、

そんなわけだから、手放しに汐澤氏を称揚されるその方に抗して、ぼくとしちゃ、たといアマチュアを相手であれ、まずもってヴァイオリンの高音の冴えを確保 しえない指揮者の手腕を買うわけには、断じて、いかない、というぐあいだったんだわ、その旨が正しく伝わっていれば、あちらとしてもそう気分を害されるこ ともなかったんだろうが、

あらためていうと、前二項対立について、その方のいわれるところを踏まえても、ぼくとしては一歩も譲る気はなく、もうすこし建設的な議論ができるよう配慮すべきだったな、と、自分の大人げなさに恥じ入る、

しかし、あまりに舌鋒するどく、臆病者のぼくとしては、これ以上傷口を広げることはよしにして、ここに上記のとおり、逃げ口上的弁解文を掲載するによって、謝罪に代えておこう、



ずっと音楽を聴いていると、ふだんは自分の音楽への接し方を疑ってみる機会など露ないんだが、こういうことがあったりしたとき、冷や汗をかかされる、ホントに自分の聴き方は正しいのか、って、

たしかに、リズム、という要素は軽視し勝ちなポイントだったのかもしれず、この際、ひとついい智恵を授けてもらった、とポジティヴ・シンキングでいくべきかな、


が、やはり、負け惜しみに、リズムが切れたって高音が冴えなきゃダメだよ、と繰り返したい気も残るが、、、
ん、負け惜しみ、、、負けたのか、や、すくなくともものすんごい剣幕に気圧されてるってことはあるだろう、とにかく文面に怒気が横溢してるんでね、ご気分を害したことは謝るが、ぼくも自説は譲れん、というトコだな、音楽の決め手は高音の冴えだよ、やはり、






これと似たような経験をしたことがあるなあ、

大学んときに、助手の薦めで宇宿允人のコンサートに行ったことがあったんだ、

そんときは、たしか最初が《名歌手》前奏曲、それと、《レ・プレリュード》、あともう1曲くらいなんかあったかもしれんが、最後が《新世界》

そのワーグナーの最初の音を聴いた瞬間に帰りたくなっちゃった、

おもちゃのオーケストラが鳴ってるようなんだよ、

その当時は、や、いまだってそうだが、貧乏根性があったんで、最後まで席にいたが、いまああいう演奏を聴かされたら、1曲聴いて帰るとおもう、

ティンパニなんて、若い女の子だったが、お父さんの肩叩きみたいに、トントントン、って終始そんな打ち方でねえ、
それで《新世界》の冒頭を、、、

後日、助手に向かって、臆することなく、や、ダメな演奏でしたよ、と放言したんだ、助手自身はその演奏会へは行かなかったんだが、

そうか、と悔しそうな表情だった、そりゃ、自分の好きな指揮者を論難されりゃ誰だってね、

それから数日したら、その助手がぼくんとこへ寄ってきて、あの演奏会へ行ったていう知り合いから聞いたんだが、こんかいの演奏会はよくなかったみたいだ、と、いつもはもっとすごいんだと、そういわれたんだ、

宇宿氏の手兵、フロイデ・フィルといったんだったか、たしか、全員じゃないにしろ、毎回毎回メンバーが変わるんだったな、それで、たまたま僕の行った回にはよい面子が揃わず、宇宿氏の演奏も不首尾に、ってことなんだそうだ、、、が、ぼくはとてもそんな風には感じなかった、たといメンバーの粒が揃う揃わないということがあるにせよ、あの演奏は、オケのコンディションさえ整えばさぞや、、、ってな性質の演奏では、ぜんっぜん、なかった、


しかし、こんかいのことからすると、あの日の演奏会も、聴く人に聴かせりゃ天下の大演奏、ってことになるんかなあ、、、

ちなみに、当日、ホールは池袋だったとおもうが、客席はいやに埋まってたし、拍手もすごい盛大だったような気が、、、ぼくは、え、この演奏にそんなに、、、っておもってぽかんとしていたんだが、ことによると、、、

や、や、や、しかし、あのワーグナーの1音目に失望しないリスナーはいないとおもうよ、ほとんど吹き出しそうになったんだから、





ってなことで、今後もよくよく耳を鍛えなくては、

決意を新たに、







続、縁あって、



ちょっとした知己の薦めを得て、ある演奏会へ、

汐澤安彦/白金フィル 佐藤卓史(Pf)

2010.10.24 ミューザ川崎 シンフォニーホール 14:00~

J.ヘルメスベルガーⅡ世 《悪魔の踊り》

チャイコフスキー シムフォニー1番

ラフマニノフ Pfコンチェルト2番



指揮者もオケもホールも初めてづくし、

期待とともにヘルメスベルガーの1音目を、、、





と、ところで、

アマチュアの演奏を聴くばあい、オケの非力はある程度覚悟せねばならない、ぼくも、こちらへ出てきてからは久しく行っていなかったが、田舎にいる頃は、よくアマ・オケの演奏会へ通った、

だから耐性はあるつもりで、ただ、ちゃんと機能してくれるか、やや心配だった、なにしろ久しぶりだし、、、

非力にもいろいろあるが、当節、ほとんどのアマ・オケが、まず順当なアンサンブルを構築することに汲々としていて、そこから先、表現の問題にまで踏み込めぬままの演奏に終始する、ってな状態、

こんかいの白金フィルも、かなりの程度、その通弊を露呈していた、

よく、オケから弦バスを抜くと、それだけでトュッティの威力が半減する、ということをいうが、それはそれとして、ぼくは、オケが指揮者の意志を体現しうるには、逆に、ヴァイオリンの潤沢なひびきが肝要とおもう、とくに、高音に軋るような熾烈な音を期待できなければ、その時点で、演奏はそうとう退屈なものになる、

アマ・オケのばあい、基本的な技倆の点で心許ない奏者が多いのだろうから、こんかい見ていても、やはり、後ろの方の奏者、全弓の3分の1くらいしか使えていない、

あれでは、ヴァイオリンがほかの楽器に消されてしまい、ということはつまり、音楽を生動させる原動力が機能不全に陥っているも同然、



で、《悪魔の踊り》の冒頭、

指揮者もオケも開き直り、のっけから耳を劈くような一撃をぶつけてくれますように、と願っていたのだけれど、あえなく、、、ポン、と、いかにも軽い出だし、

あ、それならよほど優秀な演奏ができなければ感銘しないよ、大丈夫? オケは非力でないわけ?  

不安がよぎる、

で、トュッティ

ヴァイオリン、テーマの細かい音型を閃かすことあたわず、、、

開始30秒で、いささかがっかりしちゃったな、



整然としたアンサンブル、ってのは、それ自身では聴き手になんらのアッピールもしないんだな、むしろ退屈させる、ただ、まず整然とした音響を確保しうる、そのことが演奏のベースであることには論を俟たず、ではなにが聴き手の耳をそばだたせるかといえば、その整然さに狂いが生ずるとき、均衡が破れるとき、である、
で、その破綻の度合いを、ときには、よくよく注意していなければ聴き逃してしまう程度のもの、ときには、やりすぎる一歩手前、ってほどの大胆なもの、と千変万化させつつ、ながいながいシムフォニーの最後までテンションを持続させる、それがつまり指揮者の仕事であり、「表現」というものの実際である、ひろい世上には、恣意的な表情をいっさい附けようとしない指揮者もいるが、それとて、「恣意の拒絶」という一種の恣意、演奏哲学なわけだ、

松本人志は、せんじつのコント番組に併せ放送されたドキュマンの結論として、プロフェッショナルとは、素人に圧倒的な力の差をみせつけて勝つこと、と言い放ち、彼の芸人としての並みならぬ気概を伝えたが、つまり、アマ・オケが、指揮者ともども開き直ってのバカ力的演奏を忌避し、整然とした演奏を目指すのであれば、一聴するところ、なんとなく整然としたひびきが獲られている、などという次元では、まだまだ序の口も序の口、そこから、指揮者の表現意志を音化すべく、先述の、均衡を破る破り方の手練手管を身につけてゆかねばならない、すなわち、音楽を破綻させることすら意のままになる、という自在感が要るわけだが、んで、それこそが、プロと素人との、「圧倒的な力の差」なわけだが、白金フィルには、そんななぁ望むべくもない、

アマ・オケ相手に辛すぎる、といわれるかもしれない、

が、ぼくの云っているのは、そんなにムツカシイことじゃない、

整然たる演奏を志向してヘタの横好きに了わるなら、いっそどんちゃん騒ぎをしてくれた方が、一興行としては立派だ、ってコト、

アマ・オケへの免疫、耐性も、ヘタさ加減を我慢して舞台人根性にシムパシーを寄せる、ってなヒューマンな方向へは好意的に機能するんだが、それだけに、技術的に優れた演奏を目指して不首尾に堕している、となりゃ、かえって反骨の気を煮やしてしまう、それが人情ってもの、

そっちがその気ならとことん厳しい耳で聴くぞ、

と身構えた、

というのは、《悪魔の踊り》

終局、トランペットがじつにおもしろい音を出す、

小澤/ウィーンでは、かならずしも効果的でなく、ま、聴いていて、あ、ここのトランペット、やりかた次第でトンデモなくおもしろくできるなあ、とあらぬ妄想が膨らむ、って程度のもんだった、
汐澤氏のスケベ根性に期待したが、まったく聴こえず、というか、そこのトランペットを生かそうとした痕跡すらない、、、だったら、なんのために演奏するんだか、、、ふう、やれやれ、

で、ここのトコを聴いておもったんだが、白金フィル、トュッティ時、日本人特有の悪しき集団心理をもろに発揮しており、力んでいないため、物理的にはダンゴ状態ではないが、あれ、いわば、心理的ダンゴだ、

ソロ部では多少とも神経過敏になるため、めいめい、どうにか緊張力を保持しているが、楽器が増え、ヴォリュームがおおきくなってくると、誰とはいわず、やはり、ああ、よかったよかった、これだけ大勢で鳴ってりゃ、そんなに肩肘張って力んで弾かなくてもいいもんね、という心理が蔓延してしまって、物理的に、音は聞こえているのに、もうひとつ覇気のない、訴求力のないひびきになってしまう、それがつまり、あたりまえに、というか、通り一遍に、整然としたオケのひびき、ってものであり、アマチュアであれば、そこに到達するまでにすでに大変な努力を要するのだろう、それはわかる、が、獲得した整然さに胡坐を掻かれてはコマる、これは、白金フィルにかぎらず、あらゆるアマチュアについていえることだ、
一例をあげればシムバル、ラフマニノフなど、無数度に亙ってシムバルが打つが、奏者、当たり前の強弱の幅で打ちすぎている、あれだと、打っても打たなくても一緒だ、要するに、あれがシムバルにとっての整然とした演奏であって、それをちょっと破綻させてみてほしいんだ、どこか1音でも、隙をみてちょっと弱く打ってみるとか、あるいは、ドキッ、っとするくらい、ええ、そこでそんなに強く打っちゃうんだ、ってな瞬間をつくるとか、すると、聴き手の注意力が、ぱっ、っと覚醒して、お、お、お、なんだなんだ、さてはなにかやらかそうとしてやがるな、って自然に身を乗り出して、演奏に食らいついていけるんだが、白金フィルは、繰り返すが、シムバルのみならず、パートというパートが、そういう、あたりまえの、それ自身では聴き手になんらの感動も与えない音しか出しておらず、いわば、音は聞こえてるんだが、音楽は冬眠状態にある、ってな演奏なんだなあ、
ま、及第してるのはティンパニとトランペットかなあ、
ティンパニは2人とも女流だったが、なかなか気骨のある叩き方、指揮者もそれが厭でないらしく、派手に打たせていた、ぼくなど、部分的にはもっと硬骨な打ち方でもいいとおもったが、
トランペットは、《悪魔の踊り》終局では期待外れだったが、割れそうな音で吹いているのが好もしかった、いま、なかなかトランペットのああいう音、どこのオケも聴かせてくれない、むかしはみなああいう音でやっていたのになあ、ま、しかし、、、細かい音型ももっとすらすら吹きこなしてもらわんことにはな、



とにかく、動かさなきゃ、音楽を、どこかで均衡を破って、そこをキッカケにして、ね、

いつまでたってもそれをしてくれないもんだから、ひたすら待ちぼうけ、と、、、

アマチュア・オケによる演奏の、最もよからぬケースだなあ、

だから、1曲目がおわった時点でずいぶん退屈な気分になってしまった、




2曲目はチャイコフスキー1番

若書きだが、こんどの演奏を聴いて確認、3楽章はよくできてる、秀作だとおもう、ま、トリオは平凡だが、主部はなかなかのものだな、演奏も、それなりに愉しんだ、

で、この曲で、汐澤/白金、はじめて耳をそばだてる音を発した、2楽章の冒頭の弦、弱音のなかの弱音、弱音のなかの強音、細かい漸強漸弱、神経を通わせた音色、、、おう、そうそう、それそれ、と、ね、ホントは、そういう緊張力が全篇に亙って漲らなきゃなんないんだが、すくなくとも、ここんとこはよかった、



最後はラフマニノフ

ソロの佐藤氏はぼくと同い年、

低音の揺らし方や和音のセンスに光るものがあったが、懐深さを期待するのは酷か、

技倆的にも、さらなる洗練を望みたい、

フィナーレの冒頭、ピアノが弾き出して、高い方でトンデモないことをやらかして、で、降りていって弦と再会、ってなわけだが、そこでトンデモない音を鳴らせるのは、ツィマーマンくらいのものか、あのCDでの演奏はすごい、すでにピアノの音を超えて、宇宙語みたいな鳴り方をしている、

佐藤氏にも果敢なる挑戦を期待したが、あえなく、ピアノの音の範囲にとどまっていた、だいいち、テーマからして、弾き切れていなかったからな、同い年だから敢えて言おう、ますますのご精進を、

汐澤氏の棒についてもなにか書かなくてはならないかなあ、、、

や、とにかく、再三に亙っていうが、整然とした演奏を志向するなら、オケに相当度の自在感がなければ、指揮者の表現の真贋を云々するには及ばないんだよなあ、整然とした演奏を志向するなら、だよ、




アンコールは同《ヴォカリーズ》

ピアノ・ソロでは初めて聴いた、






総体としては、どう愉しんでいいのか、心身の置き処にコマるような演奏会だったな、

次の機会があっても、積極的に足を運ぼうとはおもわない、、、な、




あ、そだ、ミューザ川崎、

どうなんだろ、きょうの演奏では、ホールのよしあし、ちょっとわからんね、

席はけっこう埋まってたな、こないだの横浜の上岡、1階席がかわいそうなほど空席だらけだったが、それより埋まってたんじゃないか、ぼくの知らないところではけっこうな認知度があるのかな、このコンビ、
しかし、たとえばきょうのような演奏でお客は満足なんだろうか、疑問だ、はなはだ、










ごぶさた、



こうみえて、、、どうみえて?

それなりに生活を愉しんでいるんで、

余計なこと(ブログ書くこと)はあまりしたくない、




iPhoneで、外出時も音楽を聴けるとあって、帰宅してから音楽を聴く気があんまりせん、

そのせいで、聴かないまんまほったらかし、ってなCDが山ほど、、、

こないだの総計41枚だって、ほとんど手附かずのまま、

いま、やっと、クルレンツィス/ムジカエテルナ ショスタコーヴィチ14番を聴く、

うん、おもしろい、

、、、だ、め、か、、、こんな感想じゃ、





上岡のコンサート、

日曜の横浜と月曜のサントリーへ行ってきた、

はっきりいって、プログラミングが悪かったとおもう、

ワーグナーもマーラーも、上岡には合わない、

両日とも、それなりにはたのしんだが、ほかの曲がよかったなあ、と

日曜のアンコールは、なんと《エロイカ》の葬送マーチ

いかな《ジークフリートの葬送》の後とはいえ、とおもったのだが、

翌日のサントリーホールで、見本のプログラムを盗み見てみたら、

関東では演らなかったが、地方公演には《エロイカ》が組まれてた、全曲聴きたかった、

その葬送、ずいぶん遠慮のないメスの入れよう、漸強漸弱の多用は、はじめ、煩わしいかな、とおもったが、だんだん惹き込まれた、テンポは速く、ティンパニには硬い撥を使わせ、一聴するところいま流行りのスタイル、けれど、つぎの瞬間にはなにを仕出かすかわからない、というスリルがあり、それがたまらない、
上岡という人は、マーラーを聴いてつくづくよくわかったのだが、フレーズにしろ強弱にしろ音色にしろ、具体的な音、文学的な、告白的な音を、一音たりとて、発しない、
にも拘わらず、、、ん、それゆえに、、、? 葬送のフーガ部ではかあっと目頭が熱くなってしもうた、追い込みの烈しさ、すごい音色、、、でも、音楽的であること、それを絶対の矩として、その埒外へ踏み越えることをしない、けっして、しない、それが上岡の秘密だな
ただ、それが秘密だ、とおもいながら聴いてても、随所で即興精神を火と燃やすんで、なんの予備知識にもならん、というかんじ、
んで、その即興精神をより精彩溢れるものにしているのが、なんでもないところ、音楽が動き終わったあととか、これから動き出す手前とか、強弱でいうと、ピアノもフォルテも書いてないトコ、というか、そういうところの音量が、やや弱めに設定されている、音色も濃くなり過ぎないようにしている、それが彼の音楽のベースなんだ、
過去の指揮者は、その逆をやってた、いまでもやってる、が、なんでもないトコを、隙間風が吹かないように、すこし強め、ピアノよりはフォルテへ寄った音、痩せないように注意深くヴィブラートも附けて、、、といったぐあいに、音楽をゆたかにする、、、あえていえば、常套手段、を、用いていた、や、いる、いまも、
で、上岡は、その逆、ホントになにもしない音から、すこし、ホントに、ほんのすこしだけ弱い、痩せた、華奢な音、それを基本線にして音楽を組み立てる、だから、ちょっとクレッシェンドしただけですごい迫力が出た「ような気にさせる」、ちょっと音色を濃くしただけで、抉りの利いた内容表現が行なわれた「ような気にさせる」、この「ような気にさせる」という錯覚の色合いを自在に繰り出しながら、ついには聴き手を夢中にさせる、そういうマジカルな音楽性の持ち主なんだな、上岡というのは、
もちろん、このばあいの、「ような気にさせる」といういいかたは、けっしてネガティヴな意味合いじゃない、どういう音をどういう強さ(弱さ)で発すれば、聴き手の心裡にどういう感懐が生ずるか、ということを知悉している音楽家がいるとすれば、彼彼女は偉大なマエストロであろう、つまるところ、上岡がその人なのだ、

で、ワーグナーとマーラーが、やはり、それにミス・マッチ、

マーラーの前プロはモーツァルトの28番、

ぼくは不勉強で、モーツァルトのこんなシムフォニーは生まれて初めて聴いたが、
曲自身は、さほど、というかんじ、
上岡の指揮でなかったら、きわめて退屈な時間だったろうとおもう、
が、まったく知らない曲であり、上岡の指揮とあって、たったいま産まれ出た音楽を聴いているという新鮮さがあった、上岡は、一度咀嚼して音楽をときほぐし、パート毎の音を粒立て、その綜合として立体的な音響を再構成する、という、これも、、、過去の、常套的な、音楽語法、、、それとは無縁だ、
坐った席のせいもあるが、木管などは、終始まるく融け合っている、それでどうしてこんなにも音楽が躍動するんだ、と訝る、で、細かく聴いてみると、1stと2nd両ヴァイオリンの音色の対照に神経を遣っているのがわかる、ふつう、指揮者は、自分のやっていることを、聴き手にわかるようわかるように聴かせるもんだ、が、上岡は、モーツァルトやなんかでは、極力なんにもしたくないんだろう、だから、奥の方奥の方へと逃げていって、内声のこまごましたところで、秘密の糸を引いてて、、、でも、それで、けっきょくほかの誰よりも個性的な音楽をやらかしてしまう、、、という、ズルいな、なんとも、
が、そのためには、いうならば、できのいい、というか、きちっと形の整ってる音楽が必要、だから、マーラーではやりようがない、さしもの上岡も、方々で目に見えた演出を、やっていた、というより、曲にやらされていた、という風かなあ、

例の基本線も、マーラーにはあまりふさわしくない、
2楽章など、旧来の指揮者は、もっとパートパートを鋭く抉りながら、複雑きわまる対位法を、必死で、追っかけてく、ぼくは、それが、いまもむかしも、そしてこれからも、変わることのないマーラー演奏の方法論とおもっている、汗臭く、脂っこいマーラー、上岡は違って、とにかく、パーツの綜合としてのトュッティ、という音を出そうとしない、逆にいえば、楽器楽器を突出させない、、、や、局所的にそういう瞬間はあったが、ふつう、マーラーの、たとえばこの5番の2楽章の闘争の部分などは、いわば、すべての楽器を突出させ、すべての楽器に具体的な感情表現を託し、すべての楽器からマーラーの声を獲ようとする、指揮者は、絶えず、ひとつひとつの楽器が明瞭に縁取られているか、、、ついでに附け加えれば、縁取られ過ぎていて、無機質な音に堕していないかどうか、を、懸案事項としていた、で、われわれリスナーも、それを、より立派に、より見事に成し遂げた演奏をこそ、マーラーの名演奏と呼び習わしてきた、
上岡はそれを拒否しているわけだが、CD、実演、ともに、そういう上岡のマーラーを、ほかの誰の演奏よりも高く買おう、という気は、すくなくともぼくには、起らなかった、
やはり鋭くメリハリが立っている方がおもしろく、気持ちよく、受ける感銘もずっと上だとおもう、
マーラー演奏では、直接的に感情を吐き出すことをせねばならず、それが、上岡のマジカルな音楽性にそぐわない、ってわけ、彼には、下品なことができない、という、贅沢な短所があるんだ、贅沢な、ね、
だから、こんどのマーラーを、あえて、褒めようとおもうなら、その、短所の贅沢さをちょっと過大に評価することで、好意的な評に落着させる、ってトコか、レコ芸のCD評を読むかぎりでは、宇野功芳氏はどうもその口らしい、ぼくも、コンサートを聴いて、上岡をかばってやりたい、という気を懸命に奮い起そうとはしてみたんだが、帰り掛け、例によって六本木通りナイト・ウォークの途次、iPhoneでコバケン/日フィルの同曲(83年)を聴いてみると、やはり、そちらに軍配を上げたい気分に勝てなかったんだ、すべての楽器が明瞭に息衝く気持ちよさ、その快感がないことには、マーラーは聴けない、上岡さん、ゴメンね、、、て、歩きながら、耳元で鳴ってる音楽には興奮するのに、なんかミョーにしゅんとしてまった、


白眉は3楽章かなあ、でも、やはりもっと分離のいい演奏の方がぼくは好き、
アダージェットは目いっぱいの振る舞い、でも、強弱、アクセルとブレーキの交替、ともに、ちょっとやりすぎで、かならずしも曲趣というか、情緒が生きているようには聴こえなかった、ま、なにもしないよりはやりすぎるくらいの方が頼もしいが、曲の妙味を阻害するほど入れ込むとは、上岡にはあるまじき振舞い、ただ、ぼくはそれを微笑ましく見守った、じつは、前日のワーグナーといい、ちょっとくらいは破綻した音楽を聞かせてほしい、という邪な欲求に駆られていたのだ、とくに、マーラーなんぞをあんまりお上品にやられても、、、ねえ、
フィナーレ、何年か前のゲルギエフの来日時にも感じたが、この楽章は音楽的に流すだけではもたない、ゲルギエフを、燃焼系の暑苦しい指揮者と誤解している人、存外おおいようだが、彼も、ここぞというとき以外には振り切ったフォルテをもってこない、しかし、ぼくにいわせれば、この楽章のフォルテなんか、みんな臨界越えでいい、絶えずやかましい音でいいんだ、ところが上岡、最後の大団円ですら、金管を突出させない、ぼくには、やはり、隔靴掻痒、だなあ、




でも、2日間を通して、3年前には見抜き切れなかった上岡の秘密がすこし解明された、

、、、ん、ヘンな日本語、、、

とにかく、彼の秘密が少しわかったんだ、

、、、あれ、またヘンな日本語、

、、、

、、、

「秘密」というのはどうも使いにくい語だね、

「秘密が少しわかる」

、、、ヘン、じゃない、、、のか?

どうもヘンテケレンな日本語におもえるが、、、

ま、まあ、と、に、か、く、、、

こんど、読響、、、だったかな、、、と、マーラーの4番を演るよう、

4番なら聴けるかもしれない、

ぼくは、マーラーの4番というと、1楽章にしか興味がなく、いつも、そこまででCDを止めてしまうんだが、、、






会場には、サントリーの方、吉田秀和翁が来ていた、

モーツァルトの後、トイレに立って席へ戻ろうとしたら、向かいから来るからびっくり、
もう100歳近いんじゃ、、、
でも、背筋も曲がっていないし、いちおう介添の人がいるにはいたが、ひとりで歩いてたし、とっさのことで、こちらが会釈をすると、むこうは、あ、なに、青年、わたしが吉田秀和だと、きみ、わかるのね、あ、そう、はい、どうも、こちらこそ、こんばんは、といったふうで、ちょっとだけ視線をぼくの方へ投げてくれた、そのかんじからすると、まだまだ耄碌しとりませんぜ、ってなところか、1階席中央後方にお坐りだったもようで、ながい拍手の最後までお席にいられた、


この日は有名人遭遇デーだったらしく、

って、、、またヘンな日本語、

や、「有名人遭遇デー」とは、「有名人に遭遇することの多かった日」という意味なのだが、
や、多かった、たって、たったの2人だが、、、
、、、それを「有名人遭遇デー」と約めてしまうと、もとの意図との間に齟齬を来してしまう、
だってそうでしょ、このように体言が連続して、文節的なニオイを多分に発しながら織られるコトバの原則というのは、わりかし、単純な主述関係に解体されるもんなんだし、、、すると、だね、「有名人遭遇デー」とは、「有名人に遭遇する日」、ってな、主語の見当たらぬ略語でなく、「有名人が遭遇する日」、という単純な主述に戻すのが順当、ってことになって、すると、こんどは、目的辞が行方不明、、、という、っと、いうか、だよ? だいいち、主語は「ぼく」なわけだ、

いやはや

日本語ってムツカシイ、、、やね、

ま、とにかく、
六本木通りを歩いて、西麻布か、南青山か、どのへんか失念したが、博多ラーメンの店に入ったら、直後に琴欧洲関が入店、、、びっくりだわ、まったく、
3人連れで、となりに女の人が坐って、関取にしなだれかかっとった、もうひとりは男だったがね、

で、ま、「有名人に遭遇すること頻り、だった、デー」ってことで、
こっちのほうが、「有名人遭遇デー」よりはまだ正しい日本語、かな、日本語の偉い先生なら、きっとそういってくれるだろうな、

みなさん、日本語は正しく遣いましょー




、、、って、、、

テンシュテットのマラ3を聴く、録音も悪く、細部の仕上げもなってない、信じられない音程のくるい、、、

大勢は、マーラーから掛け離れてるってわけじゃなく、部分的には、大柄で、恰幅のいい音がするが、こういう指揮者の欠点は、ここぞという決め所で、絶対にこの強さ、絶対にこのバランス、絶対にこのフレージング、でなければ許さない、という突っ込んだ表現を聴かせてくれないコト、コバケンは全篇に亙ってそれをやろうとするので、ときにゆとりを逸するが、テンシュテットはやらなさすぎ、要所要所はかちっと決めてくれなきゃ、ほかのシムフォニーも順次聴いてみるが、Altusから出たウィーン・フィルとの10番《アダージョ》、あれはよかった、いくら大掴みの棒とはいえ、やはり、あれくらいの仕上げでなければ聴けない、


どうも、3番1曲聴いたかぎりでは、この人のマーラーは時代を超えることはできないんじゃないかなあ、10番はともかく、



ってなこって、、、


あいもかわらず、なんと支離滅裂な、、、



松ちゃんのコント番組、



を観る、

録画したら、ちらつきが入りやがった、いまだにVHS録画なんだよ、、、

ぼくは、松ちゃんを天才と、すこしもおもわん、

よって、天賦の才をもった孤高の人、松ちゃん、凡夫、浜ちゃん、

という、世に流布した構図にも疑問が、

むしろ、ズボラな浜ちゃんに対する、松ちゃんの片想い、というかんじか、

松ちゃんが、浜ちゃんと一緒にいるときの一挙一動をつぶさに観察していると、絶えずかんがえ、絶えず発信していなければ自分を保つことができない自分に対して、ただいるだけで、ただそこにいるだけで「浜田雅功」を体現しうる、このふてぶてしい男はいったいなんだ、魅力的であり腹立たしくもある、ってなアムビヴァレンツの苦みを奥歯でかみしめているのが、ありありと、わかるな、浜ちゃんも、松ちゃんの閃きに、刹那的に、ジェラシーを覚えることがあっても、鬱屈、鬱勃、なんてこととは無縁だからな、しかし、そういう人間にこそ、腫れものに触れるような、ホントの、デリカシーが、潜んでるんじゃないかなあ、とおもわせる、どこかコワいような、そういう横貌を、松ちゃんは浜ちゃんにみているとおもう、浜ちゃんには、そういう、まなざし、みたいなもの、そんなもなぁないんだ、松ちゃんは、そういう浜ちゃんに、なんでだ、なぜ「まなざし」なくして存在しうるんだお前は、、、という、よう、に、日夜、、、ね、


かんがえなくては生きられない人間が、かんがえるより先にカラダが動く人間にかんずるインフェリオリティー・コンプレックスってのは、生半可でないんだな、そういう視点からふたりの関係をみると、とにかく、松ちゃんの方が、一方的に、その距離感みたいなものをイヤに気にしている、という風にみえて、天翔ける松ちゃんと地べたを這う浜ちゃん、という、の、は、いかにも短絡的なものの見方、とおもう、そういう風にあのふたりをみられる人が、不思議でしようがない、どういう感性してるんだ、いったい、、、
や、浜ちゃんはたしかに地べたの人だろうが、問題は、彼が、そこを這い蹲うことなく、むしろ大手を振って、我が物顔で歩いていられる、そういう豪放磊落なる気質の持ち主ということだ、で、松ちゃんとしちゃ、えええ、地べたの人なのに、そんなに横柄なんだ、、、そんなに天下取っちゃったような面構えしちゃうんだ、じゃ、一所懸命、飛翔しようともがいてるオレっていったい、そのふたりがコンビを組むことで、松ちゃんの稟性に、なにかしら屈折が起こっているようにおもう、そこが面白いところで、その屈折も浜田のおかげ、、、じょ、冗談じゃない、あんなデリカシーのカケラもないヤツ、、、と、また、アムビヴァレンツの無間回廊を堂々廻り、そんなところじゃないかなあ、浜田雅功というひとの傍若無人な無神経さは、すなわち、ぼくらがテレビ画面に観る松本人志、その虚像が結するうえで欠くべからざる、屈折率、そのもの、という、こと、かな、で、浜ちゃんは、べつに、そんなものを松ちゃんに「与えてやろう」なんて、これっぽっちもおもってやしない、そこがまた、松ちゃんにとっちゃ苛立たしいことで、と延々つづく、、、



だから、きょうのコント番組でも、松ちゃん、けっして水を得た魚、という面貌でなかった、

そこが、なんともいえず、愛おしかったが、




ここんところ、で、このブログに書いた音盤、を、iPhoneでまとめて聴き直してみた、
やはりどれもいい、ひとくちにいえば、非常に高度なイミにおいて過不足のない音盤、ということ、多少とも不足を感ずる個所があるにせよ、そこを補えば、もとの長所が薄らぐだろう、というような、
演奏に長所をもたせようとすれば、相反する要素を犠牲にしなくてはならない、ある均衡に達するために、もっともスリリングな予断の粛清をやらかした、、、結果、ミョーに静かな境地を垣間見せてくれる音盤、の、誕生、そういう、稀少な音楽再現の記録を手にしているという実感、、、得難いもんだ、じつに、


ドラクエの吹奏楽CD、いずれ詳しく書くが、上岡敏之のコンサートが目前に迫っていることもあり、ちょっと緊張しており、うまく文面をまとめられない、ひとつ云えるのは、すぎやまが、指揮者として、なにもしていないということ、役に立っていないというイミじゃなく、恣意的な表情をいささかもつけていないということで、かんがえてもみれば、31年生まれ、来年には80歳になられるわけだ、川柳川柳師と同い年かあ、そういや、朝比奈隆も最晩年はなにもしなかったなあ、大阪フィルとベートーヴェンの7番を演るのをテレビで観たことがあって、さいきんDVDになったんだとおもったが、フィナーレなんぞ、一点見据えてくるくる腕を回してるだけなんだもんなあ、あの熱狂の音楽をだよ、、、ま、すぎやま氏のはそれとはまた性質が違うんだが、いずれにせよ、クラシックにずっと触れてると、音楽を聴いているのか、指揮者の意図を読んでるのか判然しなくなって、ときたま我に返ると、冷や汗、なんてことも、くわしくなればなるほどかえって音楽を見失ってるおそれも、、、? ってなことを、ふと、かんがえさせるほど、このCD、とにかく、指揮者が主導で音楽を「造った」っていうカンジが、いっさい、しない、ただただ音楽が聴こえる、




くわしいこたぁ、とにかく、上岡の公演が終わってから、






縁あって、


昼過ぎから、谷中辺をぶらつき

一見で入れる食事処をみつけかね、

古本屋で2冊ほど本を買ってお茶を濁し、

新宿でラーメンを食べ、

ディスクユニオンでCDを買い、

、、、しかしなあ、ひとりぽっちで電車に揺られていると、無性に淋しくなるときがある、きゅううううう、ってこう胸が締め附けられるような、、、窓外を、乾いた景色がすぎてゆく、

ディスクユニオンで、以前、八王子の新星堂で働いていた、右手の不自由な店員さんを見掛けた、なぜ、、、声をお掛けしようかとおもったが、ときどきCDケースをがっちゃんがっちゃん床へ落としながら、あまり脇目も振らずに働いていられるもんだから、ためらわれ、

それにしても、ジンマンのベートーヴェンSym.全集が¥500って、、、

それから、いままで持っていなかったことが恥ずかしいくらいだが、やっとこさ、ジャッキーのドヴォコンを購入、いつでも手に入るや、とおもうとかえって手が出なんだ、それに、ジャッキーはともかく、バレンボイムの棒がひどい、とかってさんざんいわれているからねえ、そんなんいわれたら買う気失せるわあ、、、

あとはシルヴェストリ、ドヴォ8(ロンドン・フィル)、同9(フランス国立放管)

Amazonではとんでもないプレミアがついてて、とてもじゃないが手が出なんだが、これもたったの¥800、久方ぶりでディスクユニオンに寄せてもらったが、あの価格破壊はいったいなんだ、、、一所懸命タワレコのポイントためてるこっちがバカみたいじゃないか、

で、そのシルヴェストリのドヴォ8、3楽章がいいなあ、この3楽章は、舞曲だから、みんなはやいテンポで演る、おそいテンポでやってるのはコバケンだけとおもっていたが、このシルヴェストリもおそい、コバケンは、東フィルとの録音もあるが、名フィルとのCDもいい、おそらくトヨタ輸送の株主宛に送られた非売品CDだが、ヤフオクで落とした、ほかの楽章では非力を露呈する場面もある名フィル、が、3楽章のみは、おおきな破綻もなく、コバケンの意図を、シムフォニックに音化している、シルヴェストリは、テンポは遅いが、随所に即興的な表情が附く、しかもべたつかず、あくまでも飄々としている、
そいから、《新世界》、隠れた名盤、とのウワサはまえまえから耳にしていたが、これほどのものとは、、、2楽章など、弱音の遣い方が鬼気迫るほど、おどろき、、、レコーディングも、1950年頃と曖昧至極な表記だが、充分にクリアで、いうところのサー・ノイズもほとんどなく、こりゃ、いい買い物したわ、¥800だもん、なにしろ、ぶつけて減衰するアクセントの附け方(その落差がすごい)や自由自在なテンポ変化の妙など、いまの指揮者にはまったく望めない、こういう感性が、まずいまの指揮者にはない、いつ頃から薄らいできちゃったのかねえ、




さ、それより、ドラクエ、ドラクエ、

中学のとき、友人宅で《ドラクエⅤ》のサントラ+作曲者指揮、N響の演奏による組曲版というCDを見掛けて、
いまからおもえば、貸して、っていえばよかったんだが、そういうものに興味を持った、ってことを友人に悟られるのがイヤだったんだろう、で、自分の誕生日かなにかに、そのおなじCDを買った、たしか、一緒に《FFⅥ》のサントラも買ったんだったか、《FF》のほうは、いかんせん機械音の連続だし、だいいち、すぎやまこういちと植松伸夫とを較べりゃ、そりゃ僕の趣味からいや断然すぎやまの方に軍配が上がるんだ、その後、お義理程度に、《FF》のCDも買い続けたぼくだが、どこかのサントラのライナーだったとおもう、植松自身が、あまりにトラック数が多くなり、ゲーム音楽の存在価値が変質するなか、「ゲームにおける音楽は、主役じゃなくていい、それ自身で独立した存在感を示せなくてもいい」という趣旨の弱気な発言をしていて、そのころぼくは高校生だったんだろうが、ガキながらに、こういうのイヤだなあ、あきらめるなよ、、、とおもったのをいまでも憶えている、たしかに、あのファミコン時代の3ノーツでシコシコやってたときの方が、誰のものであれ、ゲーム音楽は創意の豊饒を誇っていた、それはまさに、制約がおおきければおおきいほど、表現者の意欲は天高く飛翔する、という周知の真理の略図だ、だから、《FF》音楽にも、いまだ精彩を喪わないものはあり、たとえば、その筆頭は、《FFⅣ》からの数曲をアイリッシュ調にアレンジし、わざわざダブリンまで赴き、現地のミュージシャン等の演奏によって収録した《ケルティック・ムーン》というアルバム、これはすでに、ゲーム音楽、サウンド・トラックという枠組みを超えた名盤であり、どんなジャンルの音楽を聴いている人にも一度は耳を傾けてほしい1枚だ、まだ現役盤なのかどうかは不明だが、存外多量に出回っているらしく、ブック・オフなんかで頻繁に見掛ける、みつけたら迷わず買うべし、
もうひとつ、《FFⅥ》からのスピン・オフで制作された《グランド・フィナーレ》というアルバム、ミラノのスカラ座管をブッキングして録った贅沢な1枚で、全体としては、当のそのアルバムのライナーで植松が不満をこぼしているように、できのいいアルバムとは言い難い、が、ゲーム中のオペラ・シーンのために書かれたささやかなアリアを、おそらく現地の歌手だとおもうが、メゾにうたわせた1曲は、なかなかの逸品である、歌もいいが、中間部の弦がすばらしい、スカラ座管が本気で弾いている、ここは、もう少し長い、3人の独唱が入って演るヴァージョンでは、恋敵役のテノールが、メゾの恋人であるバスにむかって、「彼女のことは忘れよう、が、わたしのまえで彼女のしあわせを誓えるか」とうたい、バスが、「わたしには彼女の心のささやきが聴こえる」と応じるシーンで、それを、スカラ座管の弦が、情感をしとどに溢れさせつつ歌い抜いているんだ、ちなみに、その独唱3人ヴァージョンは、竹本泰蔵の指揮で、You Tubeで視られるが、演奏はひどい、、、ので悪しからず、これも、ちなみに、、、だが、ぼくの、生のコンサート初体験時の指揮も、竹本泰蔵、だったんだがね、、、彼、クラシックの指揮者として活動しとんのかなあ、、、

さて、、、と、
すぎやま音楽、これも、もとのゲームの方のスペックがアップするにつれて、どうしても、音楽の方は貧しくなってきちゃったねえ、ぼくは、いまではゲームをまったくやらんし、子供のころだって熱心なゲーマーではなかった、《ドラクエ》も、ファミコン版のⅣ、スーパー・ファミコン盤のⅢくらいのもんだよ、やったことがあるのは、だからさいきんのシリーズについちゃ、皆目、わかんない、《ドラクエ》フリークからしたら、そんな分際で、さいきんの《ドラクエ》音楽はツマンなくなったとかほざいてんじゃねえ、ってトコロかもしらんが、やはり、ツマンないもんはツマンないんだよねえ、
ちょっと前にⅨのオケ版のCDが出たんだが、Ⅷに較べりゃいくらか持ち直したかな、Ⅶあたりから、曲目が増えすぎて、しかも、状況説明的なナンバーが増えたせいで、組曲全体としての感動が損なわれるようになってきちゃったんだよなあ、Ⅷはさすがに茫洋としすぎてて、作曲者も反省したのか、Ⅸではかなり苦労して曲数を刈り込んでいる、あと、音楽的に複雑なものを書き過ぎないように留意した形跡が認められ、それはすぎやま音楽の原則だけに、好印象、街やフィールドの音楽のメドレーは佳品だね、しかし、それらの曲がおっとりとしたいい味を出しているのに対して、プロローグとか戦闘のナンバーがシリアスすぎてややバランスを欠く、あと、Ⅶあたりからはじまった、戦闘曲に安易にドラムスを加えてポップス調のリズムにするの、ぼくは否定的、すぎやまは、もともとはいわずと知れたポップスのコンポーザーなので、本人としちゃ本卦返りというところなのかもしれんが、
けっきょく、目下のところ、全体の感動を保っている組曲はⅠ~Ⅵまでかな、もっとも、これらにも、のちのち新曲が加えられたりして、それがまたポップス調のナンバーだったりするから、ぼくとしちゃ、やはり、原典というか、それぞれのいちばん初めに発表されたかたちがいちばんいいようにおもう、新曲追加で成功しているといえるのは、Ⅴの《哀愁物語》くらいかなあ、

発表されているCDの数、種類は数多にのぼるんだが、もともとこの人の管弦楽法というのは、必要最低限のものだから、チェンバー・アレンジのアルバムは、あまりに聴くべき要素がすくなく、価値も薄い、ピアノ版しかり、弦楽クヮルテット版しかり、金管クウィンテット版しかり、やはり本命は交響組曲シリーズだ、
記念すべき第1弾は、当然ながらゲーム音楽初の音楽CDでもあり、おもにN響メンバーからなる、小編成の弦に、木管がなく、にもかかわらず金管がずらっと揃い、ティンパニのみならず、グラン・カスタ、シムバル、タムタムまで動員する、という珍妙をきわめたアンサンブルで、素朴なアルバムを制作、すなわち、組曲《ドラゴンクエスト》で、おそらく、もう25年近くも前のCDとおもう、ぼくはその初版盤を所有しており、いまでもブック・オフ等でよく見掛けるが、さいきん、キングがもっているすぎやま氏の自主レーベルから、組曲Ⅱとのカップリングで再発したので、容易に入手可能、組曲Ⅰは、あまりにシンプルで、さすがに聴くべき要素が少なすぎるが、それでも、街の音楽は、ホントになんでもないヴァリエイションなんだが、クラシックの小品に、これほど聴く者の心をうきうきさせるピースがあるか、といいたくなるほど、たまらなく魅惑的な曲、その後、さらに大きな編成で演奏するように書き改められた版では、木管とグロッケン・シュピールが加えられたが、ここでは弦合奏のみで、より粗野、より質朴、しかも行方洋一(なめかたよういち)氏の手になるレコーディングの妙、ホールはどこか忘れたが、残響ゆたかないいひびきで、徳永二男率いる弦合奏の、凛とした歌が流れる、短い曲で、すぐに終わってしまうので、あまりのうつくしさに、かなしく、、、というか、せつなく、、、なってきてしまうほど、ほんとうに名曲だとおもう、や、名曲、、、というかなあ、とにかく至純の音楽が、ただそこにある、という慎ましさがたまらないんだ、本職のクラシックの指揮者、これ1曲だけでも、有名なゲームの音楽からちょっとお聴きください、とかって断わって、アンコールで演ってくれたりしたら、どんなにかステキなこころもちで帰途につけるだろう、、、

すぎやま氏の音楽は、シムプルさの勝利なんだ、

比するに、《スター・ウォーズ》のジョン・ウィリアムズなんか、ヘタに小手先の技倆を駆使していて、ウルサイ、
メロディストとしても、すぎやま氏の方が断然上だね、すぎやま氏の旋律、キャッチ―なんだが、キャッチ―なメロディーなんざ、たとえば、巷にあふれかえっとるポップスにも聴取しうるだろう、すぎやま氏のは、そんな、右の耳から入って、ちょっとコチョコチョ身体的なカイカンを喚起して、で、すぐ左の耳から抜けてっちゃう、みたいなのとは、まるで次元が違う、きょう、出掛けるにあたって、iPhoneで、件の吹奏楽アレンジを聴きながら、だったんだが、電車んなかで、おもわず涙ぐんだりしちゃった、、、なんていいメロディーだろう、なんて、いい、、、

《スター・ウォーズ》といやロンドン響だが、すぎやま氏は、N響との関係が一段落すると、こんどはロンドン・フィルとタッグを組んだ、この組み合わせの推移はじつにおもしろく、初顔合わせであるⅣの録音では、オケが曲を、完全に、ナメくさっている、もう、ひどいなんてもんじゃない、これについちゃ、You Tubeで映像つきで視られるが、ロンドン・フィルとしちゃ、なんかニッポンからゲーム音楽? の作曲家が棒振りに来たらしいぜ、そんなパート譜、譜面台に乗せたかぁねえよな、ちょっとおちょくってやろうか、そうだな、そうしよう、みたいな、そんな演奏だな、ふざけ切ってる、イギリスは皮肉の国家だ、とよくいう、そんな無責任な概括もねえよな、とぼかぁおもうんだが、あの演奏を聴くと、やはりそうなのかなあ、とおもってまう、なにしろ《モンティ・パイソン》を産んだ国だ、し、ね、
すぎやま氏は、当然ながら、本職の指揮者じゃないから、オケの統率術なんてものは、やはり、持ち合わせてないんだ、でも、CDの第2弾、第3弾と、すこしずつ、ギクシャクの度合いが薄まっていく、それは、すぎやま氏が、多少ともドライヴ法を会得した、ということもあるだろうが、それよりも、オケの面々が、すぎやま音楽の魅惑に開眼していった、ということが、より、おおきいとおもう、初顔合わせでツバをつけてしまった、というか、洟もひっかけなかった、だけに、あたかも、非礼を詫び、懺悔するように、や、、、や、それ以上に、やはり純粋に、楽員めいめいが、すぎやま音楽に惚れ込んでいったんだとおもう、その最高の結実が、Ⅳの2度目の録音、そしてⅤだ、これが、いまだ、あまたある《ドラクエ》CD中の頂点だが、たしかちょうど2000年の録音だったとおもわれ、ぼくなど、しばしば耳にしているので印象の経年変化を意識しないが、もう10年も前の音盤ということになるわけである、
ここでのロンドン・フィルの鳴り方は素晴らしい、いま、せんじつ買ったハイティンクのヴォーン・ウィリアムス録音を聴いているのだが、オケはおなじロンドン・フィル、が、これは冗談ではなく、ハイティンクより、すぎやま氏の方が、このオケからいい音を引き出している、楽員は、ひとり残らず、すぎやま音楽の演奏術を完全に体得し切っており、小曲の羅列の、どの1個所たりとて、抵抗を感じさせることなく、ひたすら音楽のうつくしさだけを耳元へ届けてくれる、そんななかにあって、ぼくがいつも驚嘆をもって接するのは、Ⅳの《不思議のほこら》というピースの幕切れの鳴り方で、おそいテンポのなか、金管がすごい抉りを聴かせてくれるが、本職のクラシックの指揮者で、いったい誰がこれほど立派な音響をオケから引き出しうるだろうか、と問いたくなるほどである、

で、さいきんのすぎやま氏、都響と一連のシリーズの再録音を完了し、新作も都響とのタッグで発表している、が、さきほど来いっている通り、この人が自作を指揮するばあい、オケの方がそうとう主体的に動いて、指揮者の統率力の不足を補う必要があり、それは、都響にはやや荷が勝ち過ぎるよう、やはり日本のオケ、優秀な指揮者が指揮台に立てば名演を示しうるが、指揮者の力量不足を補って有機的に鳴る、というほどのポテンシャルは、まだ持ち合わせていない、すでにシリーズ9作品のCDが出揃ったのだが、もちろん、組曲から1曲1曲取り出してみれば、名演といって差し支えないものもある、けれど、ロンドン・フィル盤のような、オケが、その曲のなかでの呼吸法を完全に会得してい、したがって、全篇、安心して身を任せられる、というほどの自在感は、都響とのシリーズには、まだ生まれていない、方々で、不得要領の音がする、

、、にしても、ハイティンクの野郎、ダメだな、まったく、弱音がことごとく弱い、、、弱すぎて音が死んでるんだ、こういうのを繊細とかいって褒めちゃいけない、勝れた指揮者に共通していることって、弱音を壊死させぬように絶えず気配りを利かせていること、かな、ハイティンク、わりに強奏部ではひびきをめいっぱい拡げようとしてる、しかも、ヴォーン・ウィリアムスのシムフォニー、いま2番を生涯で初めて聴いているが、意外にも、全奏に頻繁にシムバルやなんかが加わる、から、して、弱音をここまで弱くしちゃうと、ダイナミクス・レンジが広くなり過ぎる、ゆえに、静かな部分が続いているところでも、どうせクレッシェンドしたらやたらデカイ音出すんでしょ、って、どっかで身構えてなきゃなんない、から、聴いてて疲れる、フォルテは、べつに荒っぽいわけでなく、むしろ全体に上品な演奏だが、とにかく、弱音の音量レヴェルを、指揮者として、低めに設定しすぎている、よくない棒だねえ、初めて聴く曲なのに、これが、あんまり手放しには慶べない演奏だってことがわかる、ボールトはまだこれから聴くが、どうなんだろ、、、んんんあああああもおおおおお、弱音が弱ぇっつてんだよ、ハイティンクの大バカタレがあああああ、こういう指揮者に惹かれる人ってのは、けっきょく、音楽に食らいついて、そっから感動を捥ぎ取ってやろう、っていう気力のない人だな、きっと、なんとなく、日常生活のBGMとして、ふわあ、っと音楽が流れててくれりゃいいや、みたいな、そんな人、ぼくにいわせりゃ音楽好きでもなんでもないがな、ぼくは、これを聴いてて、弱音部でどういう音楽が鳴ってるんだろうとおもって、神経を集中させ、耳をそばだてる、すると、クレッシェンドが急激にすぎるんだ、で、プレーヤーの音量を強音部がちょうどいい塩梅になるように抑えると、こんど、弱音部が弱すぎて何が起こってるんだかゼンッゼン聴き取れなくなっちゃうんだ、だからハイティンクぁダメ、でも、このシムフォニーの2番ってのにはなかなか心惹かれるね、曲頭と、終楽章のおわり付近に、日本の学校のチャイムの音階をハープが弾く、そういやあれ、なんかバロック時代の作曲家の作だとか聞いたことあるなあ、イギリスの作曲家なんかなあ、
おなじCDに《タリス・ファンタジア》併録、冒頭から弱いなあ、ううん、、、やれやれ、あ、でも、展開しはじめると、いい音が鳴るね、ハイティンクという人は、べつにわるい指揮者じゃないんだ、ただ、いい指揮者でもないってところだね、だから、なにがなんでもこの人じゃなきゃ、ってほどのものは感じさせてくれない、アバドなんかも、ぼくにとっちゃそういう存在で、べつにイヤじゃないけど、ほかの人を押し退けてでも、まずあの人の演奏を採りたいっていうほどのものじゃないんだ、だけど、ぼくも表現者のはしくれとしていわせてもらや、そういう存在感がいちばん虚しい、哀しいな、、、ぐぬぬ、やはりハイティンク、弱音が弱い、どうにも始末に負えんな、こりゃ、、、しかも、クライマックスに向けてテンポ・アップ、せわしない、、、件の大転調の妙、生きず、、、はああ、

、、、ずいぶん話が逸れたね、、、
で、けっきょく、すぎやま音楽から名演が生まれるには、演奏する楽員めいめいがその妙味を感じ取り、指揮者の手腕の不足を補って自ら主体的にアンサンブルを構築しよう、ってな心意気をみせる必要がある、

で、こんかいの吹奏楽編曲アルバム、わりと小編成のアンサンブルで、在京オケの首席クラスが揃ってるみたいだから、和音の合わせとかを、指揮者にいわれないでも、入念にやったんだとおもう、都響との一連の管弦楽版に不満を懐いていただけに、ぼくとしちゃ、これ、《ドラクエ》CDのひさびさの快挙だね、

ちょっと時間が、、、

あした仕事なんで、

このアルバムの具体的な内容については、また、、、ってこって、

延び延びになっちゃうなあ、、、

ちくしょう、ハイティンクのせいだ、あんにゃろめ、

あ、や、、、








すごい時代になったもんだ、



や、きのうは、仕事終わりで新宿に出向き、タワレコで約¥21000分CDを買ってきたのだが、

その値段で、枚数にしてじつに41枚、、、

こんなもんを短期間のうちに全部聴くのは到底不可能だ、

ラインナップは、

クレンペラー、バレンボイム(Pf)/(ニュー)フィルハーモニア ベートーヴェン シムフォニー・Pfコンチェルト 両全集(5 73895 2)

テンシュテット/ロンドン・フィル マーラー全集(5 72941 2)

ボールト/ロンドン・フィル、ニュー・フィルハーモニア、ロンドン響 ヴォーン・ウィリアムス シムフォニー全集(5 73924 2)

ハイティンク/ロンドン・フィル ヴォーン・ウィリアムス シムフォニー全集(5 86026 2)

以上EMI

レーグナー/読響 ベートーヴェン シムフォニー全集(分売、KICC3545、3572、3531、3546、3522)

クルレンツィス/アンサンブル・ムジカエテルナ ショスタコーヴィチ シムフォニー14番(Alpha159)



ヴォーン・ウィリアムスに関しちゃ、ぼくは、《タリス・ファンタジア》くらいにしか耳馴染みがないので、いちおう、新旧両世代、比較対象がほしく、ボールトとハイティンクを揃えてみた、



クレンペラーの第9から聴き始める、
50年代末のレコーディングだが、音もいいし、クレンペラーの棒も、まだ最晩年にはあたらないとおもうが、落ち着き払っていて、しかも、高音が冴えており(彼の調子が悪いとき、高音が冴えない、おそいテンポで高音が冴えないとなると、とても聴いていられない、チャイ5などがそうだ)さいきんの指揮者がやる意欲的な演奏にみられるような刺激はないが、じっくりと、曲趣を味わうことができる、もっとも、第9ならば、どこか1ヶ所でも、破綻を覚悟で入れ込んだ瞬間がほしいところだ(フルトヴェングラー・コムプレックス)が、クレンペラーにゃ、そんなもん望むべくもない、いかにもイシアタマのガンコ者で、しかし、心内はあつく燃えているのがわかる、あつく燃えるがゆえに、堅固なアンサンブルを志向せずにはおれない、という、
そこがさいきんのコバケンに通ずる要素、ウソだとおもうなら、クレンペラー/ウィーン・フィルのマーラー9番(EMI盤でなく、テスタメントから出たライヴ盤)と、コバケン/日フィル、同曲の1楽章を比較してみるといい、オケはウィーン・フィルと日フィルなのに、随所で、とくにトュッティ時、そっくりの音がする、要すれば、混在するすべての楽器にフォルテを要求することで、全体としてのフォルテも確保する、といういき方なんだが、クレンペラーがそれを貫徹していて立派なのに対し、コバケンのばあい、まだ曲によっては、特定の楽器のみに頼って音圧を獲ようとするので、失敗して、厚みを喪うことがある、チャイ5の終楽章、基本動機の最後の行進部分などがそうで、たしかにあの部分、テーマを弦が歌うときにせよ、トランペットのときにせよ、存外ほかの楽器の音符の数が少なく、和音充填も心許ないので、日本のオケのように、放っておいても潤沢なひびきが鳴る、ということがないとなると、やりにくい個所ではある、コバケンも苦労しているようで、まず、ゲネラル・パウゼから起ち上がる、木管、ホルン、低弦、ティンパニの土台造りからして、どのCD、どこでやった演奏会を聴いても、据わりがわるく、弦の主題も、新日フィルとのDVDでは途中で音を切らずにすべてスラーでつなげる、という新機軸を披瀝している(77年、NHKホール、ムラヴィンスキー/レニングラード・フィルのCDも、これにおなじ)が、奏者が、一様にゴシゴシとこするような弾き方で、音が潰れてしまって、飛んで行かない、ぼくはヴァイオリンなど弾けない、どころか触ったことすらないが、強音は、ゴシゴシこするんじゃなく、弓をできるだけ長く使い、その弓を引っ張った量、長さ、で、獲るもんなんだろう、ところが、指揮者が煽るもんだから、どうしてもゴシゴシやっちゃって、で、ひびきが潰れる、しかも、木管との音の混ざり方も、よくない、それに、1楽章では、いつも通り、入念な音作りを達成しているのに、終楽章のこういうクライマックス部をテンションだけで乗り切ろうとするので、いかにも竜頭蛇尾、たとえば、この弦のテーマ部では、ホルンの音色と吠え方の勘案しだいで、すばらしくヒロイックな効果があがるが、鳴っている音から、コバケンがそういう作り込みをしたとは感じられない、ただ、テーマの最後の凱旋ですから、開放的にいきましょう、ってなくらいのもんで、だから、ホルン、ファーファーファー、ってやわらかくひびいてばっかで、居心地わるそうにしている、指揮者が弦にばかり気を取られているんで、ほかの楽器は、ホルンだけじゃなく、蚊帳の外、といった風だ、ほんのひとことでも、金管のみなさま、弦のテーマを邪魔するくらい音を割って吹いていただいても構いませんよ、とかなんとかいってあれば、金管としても、よしきたマエストロっ、って気持ちになるとおもうんだが、
そんで、弦が終わって、つぎ、トランペット、90年代以降の演奏では、コバケンのチャイ5、ここのトランペットがいつも吹き切れない、とくに日本のオケとの演奏はことごとくそうだが、いつからそうなっちゃったんだろ、N響も、7、80年代には元気いっぱいだったのに、やはりデュトワが来たことがおおきいのかな、トランペットなど、俯いちゃって、いつも吹きにくそうにしている、コバケンにしても、82年の新星日響とのチャイ5では、ここのトランペット、痛快に吹き荒んでいるんだが、さいきんの演奏では、トランペットが、アンサンブルの王者として、組み上げられたピラミッドの頂点に君臨することなく、したがって富士山型のひびきになっちゃう、てっぺんがスカーンと突き抜けないんだ、すると、ここまで約40分間附き合ってきたのに、そりゃないでしょ、トランペット、もっとがんばれよ、、、ってなっちゃう、がっかり、でも、それは、やっぱり指揮者の責任なんだ、練習のとき、ここのトランペットは、ほかに旋律線に参加してくれる楽器もないですから、すべての楽器の音を掻き消すくらい、咆え立ててくださいといい、奏者が応えてくれるまで、執拗に音出しをし、指揮者として満足がいったら、本番でもその調子でお願いしますといい、それよりほんのわずかでも弱く吹いてもらっては困ります、と念を押しておく、ぜったいに、そうしなくちゃなんないんだ、それをしないから、いつもいつも、トランペットがアンサンブルに埋もれちゃって音像が見えず、裾野の方では弦がガリガリ刻んでる、ホルンは相変わらず音を割らずにひびいてるだけ、木管も、金管が吹いてるんだし、あたしらはそこまで入れ込まなくても、ねえ、みたいな、で、全体としちゃ、最後の山場、聴かせどころなのに、ダンゴになっちゃう、、、それまでが練り上げ切った完熟の演奏なのに、最後の最後が吹っ切れないから、よけいに、なんだよそりゃ、、、って、ね、ここのトランペットだけは、プロ野球のスタンドなんかで、くそやかましくラッパ吹いてるおっちゃんに、めいっぱい吹いてもらったりとか、ホント、そうしたいくらいなんだ、いっつも、吹き切れない、あれ、トランペットはどういうつもりなんだろうねえ、そりゃ疲れてるんだろうが、あそこはやっぱ咆えなきゃ、喉笛が千切れるくらいに、、、
ここんとこは、チェリビダッケ/ミュンヘンがすごい、ま、チェリだから、入念ではあっても、どうしようもなく音楽を客観してしまった指揮者特有の、すごく醒めた鳴り方なんだが、でも、コバケンにも、いかなる高潮部も、その場の雰囲気やテンションだけで乗り切っちゃおう、みたいな姿勢をあらため、すこしは、このチェリのような演奏の在り方を見習ってほしい、ぼくは、コバケンの、勢いに任せたがゆえにアンサンブルが瓦解しました、みたいな演奏を聴くと、いつも、ああ、チェリと足して2で割りたい、とおもうんだ、



って、クレンペラーの話が、コバケンの話に摩り替っちゃった、


いま、レーグナー/読響の第9

ぼくはミーハーだから、ベートーヴェンの全集となりゃ、どうしても第9から手を着けちゃうんだよなあ、

1楽章の冒頭から、いい音だねえ、

レーグナーといや、ぼくは、ドイッチュ・シャルプラッテンのCDにあった、エネスコの《ルーマニアン・ラプソディ》の、、、あれ、1番だっけ、2番だっけ、どっちだっけか、あの有名な方ね、あれが大好きだなあ、デュトワ/モントリオールなんてのも持ってたんだけど、ちょっと線が細くて、あの曲の演奏としては不満を残すところがあって、で、レーグナーを聴いてみたら、これこれっ、という、ね、細部の細やかな表情附けなど、珠玉のもんだな、

あ、その第9、いま1楽章の再現冒頭なんだが、ちょっと迫力不足、、、よく練られてて、読響もとってもクリアな音なんだけれど、残念、

それにしても、日曜の朝っぱらから、第9のCDを立て続けに2枚も聴くとは、ぼくも物好き、、、

いま、フィナーレの、弦が歓喜主題を歌い継いで、トュッティに達したところだが、クレンペラーがそこでテンポを速めてしまったのに対し、レーグナーはイン・テンポ、レーグナーに軍配、で、冒頭のプレスト部に戻るところはティンパニを強調、おみごと、が、プレスト中の漸弱漸強は蛇足か、

主題の第6変奏、かな、、、は、さいしょ男声2声だけでいって、で、途中でアルトが入る、そこんとこ、どうしてもみんなスタッカートで唄うんだよなあ、ゆいいつ、バーンスタインの2度目の録音だけは、あそこをレガートで流れるように歌わせている、あの破風はうれしい、もちろん、スタッカートでいいけれど、そんなら、指揮者は、ファゴットを生かさなきゃダメ、


いま、《運命》を鳴らしてみたが、
1楽章など、例のフェルマータすら、きちっとした、几帳面な決め方、伸ばしてはいるけれど、音を切るときに、雲散霧消、という風にせず、ぶつ、っと切る、やり過ぎるとザッハリヒになるが、レーグナーのは、きもちがいい、とくに楽章後半は、和音の質量がたっぷりなのに、休符をかせがないで、すぐに次へ移行するから、内容美が凝縮して伝わり、ハイ・クラス、ハイ・センスな演奏、いかんせん曲の構造がシンプルゆえ、ヘタに休符に余情を託したりすると、かえって凡庸になる、が、そういう陥穽にはまらぬ、きびしい眼差し光る1楽章だ、
ムリに迫力更新をねらった個所がないにもかかわらず、これほど聴かせるとは、レーグナー、やはり手練の名匠である、

ん、3楽章からフィナーレへのブリッジで音質がやや乱れる、、、

にしても、テンポといい、バランスといい、種も仕掛けもない、それで成功するのは、じつはいちばんの難儀なんだよなあ、そこを正々堂々と、正攻法で振舞っている、ぼくも、自分ではまだ若いつもりなのに、さいきんでは、そういう演奏に惹かれるような心境になってきちゃったんだ、もちろん、クナッパーツブッシュ/ヘッセンとかも大好きだが、、、

た、種も仕掛けもない、と、おもってたら、幕切れ近くのコントラ・ファゴットの運命動機強調、、、やられた、座布団1枚、いいねえ、こういうの

続いて《田園》

やはり同傾向の、正攻法、
そういうタイプの演奏の難点は、几帳面なのは分かったけれど、あまりに個性薄だよ、ってなり勝ちなところ、はじめっから、珍妙な表現など一切しません、ってんじゃなく、したいけど、したくてしたくてたまんないけれど、それを必死で堪えるところに、オーソドックスな演奏が実現します、ってなぐあいじゃなきゃ、ツマンなくて聴いていられない、んだが、レーグナーは後者、2楽章など、意外に積極的に攻めてる、しかも、どこをどういう風にしちゃったら演奏が品を逸するか、ということを、指揮者が、ちゃんと、わかってるなあ、という音がしている、その手応えのしたたかさがたまんない、
《嵐》は、途中から本性を露わにするんだが、はじめのうち、ティンパニが抑えて叩いてる、もちろん、指揮者の意図によるもので、レーグナーは、全奏のなかでも、弦の細かい音型を明瞭に発音させたいんだ、迫力が犠牲にされていても、その理由がわかるような音が鳴っていれば、聴き手としても、納得がいく、





って、ところで、

小林研一郎の老成について、
きのうの続きといこう、きのう? おとといか、、、ま、さっきチャイ5についていったことと絡むんだが、
それに、たとえばレーグナーがこのベートーヴェンで示しているような、だれしもがついつい気持ちを込めたくなるような個所でこそむしろ余情を断ち切り、毅然とした態度をつらぬく、というようなことは、いまの小林にはまるで期待できない、そこが彼の長所でもあり、短所でもある、《運命》の休符にしても、音楽的な必然性から、というより、どっちかっていうと気分的に、長く取っちゃうだろうし、《田園》の《嵐》にしても、深謀遠慮なしに、煽った迫力だけで押し切ろうとするだろう、ぼくは、もちろんときとばあいによるが、そういう小林には、概して、否定的な印象を懐いている、


マーラーの7番を、日フィル、チェコ・フィル、両盤で比較、
とくに、チェコ・フィル盤はつい先日、久方ぶりに耳を傾け、印象を更新、なんか、もっとぼやあっとして、とりとめのない演奏に聴こえたようにおもっていたが、存外、そうでもなかった、

いま、もっかい聴き直してみる、日フィル盤は聴く必要なし、もう耳に胼胝ができるほど聴き込んだ、

しっかし、ベートーヴェンのシムフォニーを続けざまに聴いた揚句、マーラーの7番、

、、、なんちゅう休日や、




ぼくは、小林の音盤について、もうこれ以上同曲の新録音が登場しないとしたら、それでも納得できるか、という指標をよく想定する、

チィコフスキー5番 納得できない、

マーラー1番 納得できない、
 
同2番 納得できない、

同3番 納得できない、

同5番 まったく納得できない、

and so on

ま、そんなぐあいで、大勢の長所よりちょっとした短所が気に掛かるCDがほとんどで、

納得がいくのは、チェコ・フィルとのサーンスの3番くらいか、力んでない分、ゆがみのない音楽が聴こえる、

あとは、みんなおまけで、だが、、、日フィルとの《幻想》、《シェエラザード》、マーラー8、9番、
チェコ・フィルとのチャイコフスキー3番、(ぼくは、5番、、、どうもなあ、チェコ・フィルの線の細さ、女性的ななよやかさが、曲趣にあってない気がする、すばらしいとおもうのは、フィナーレの第2主題のリズム感、くらいか、、、)
アーネム・フィル《シェエラザード》(ちょっと恰幅がよすぎるかもしらんが、、、)

こうやって消去法で消していくと、最後にポツンと1枚、日フィルとのマーラー7番が残る、

9番ももちろんすごいんだが、ライヴの印象が強く、、、CDは、ちょっとギシギシいいすぎる、おなじ演奏でも、もうちょっとだけ楽器からマイクを離して録っていたら、押しも押されぬ決定盤になったんだが、いまでも憶えてるんだけど、当日のマイク・セッッティングをみたら、楽器の至近距離にマイクがあるんだもん、ホルンなんて、朝顔の真後ろにガン・マイクが立ててあって、、、演奏もそうだが、録音も、、、入れ込み過ぎてて、ドキュマンとしちゃ貴重だが、鑑賞用としては、ちょっとヘヴィーにすぎる、もちろん、軽い演奏を求めてるんじゃないが、、、

で、日フィルとのマラ7

ぼくは、これを聴くまで、マーラーの7番って曲がよくわからなんだ、
チェコ・フィル盤を聴いたのはそれより前だが、けっきょく、両端楽章のにぎやかなトコをちょっとカジッたくらいで、中間楽章には、演奏というより曲自身に、あまりぱっとせんなあ、という印象をもっていた、わけで、
日フィル盤に関しても、買ってきて、1楽章から鳴らしてみて、小作りなアンサンブルがクリアな録音でとらえられているから、かえってちょっとした破綻が気に掛かる、という、どっちかっていや悪印象をもって聴きすすんだ、、、が、1楽章の真ん中あたりで、トランペットのリズム音型に導かれて、音楽が幻想境に分け入るシーンがある、で、しばらくいくと、ハープのアルペジオから、弦が滴るように歌う、そいから、8番の第1部に通有の主題によって、奥歯を噛み締めるような転調を経た末、再現部へ、、、ここの弦が、柑橘類を絞るようなフレッシュな音彩を滴らせた瞬間に、あ、なあんだ、そゆことね、と、一挙に曲趣が解題されたようにかんじ、一度CDを止め、もっかいあたまっからプレイ・バックしてみたら、はじめに感じていた悪印象がウソのように、マーラーの心象風景が次々に目に飛び込んでくる、ってなめまぐるしいばかりの音楽体験を果たした、シャイー盤は未聴なんだが、ぼくがこのコバケン/日フィル盤から獲た感動というのは、推して知るに、宇野功芳氏がしばしば書かれている、シャイー盤によるマーラー7番原体験、ってのとおんなじ性質のもんではないかと、氏がコバケン盤を褒めたレコ芸の月評記事を読んで、そうおもった、、、もんだから、いまだに、レコード屋でシャイー盤を見かけても、ま、コバケン盤があるんだからな、とおもうと手が伸びない、いつかは買うが、な

で、チェコ・フィル盤もいい、

この両盤を比較すると、こんなアブストラクトないいかたで許されるなら、チェコ・フィル盤は大型トレーラーで、カーヴひとつない大陸のハイウェイを、悠々と、ゆっくり走る、ってな演奏、日フィル盤は、軽自動車で、こまごまとした日本の路地裏をしかし爽快に駆け抜けるといったカンジ、

いずれも、その方面での極北といえる佇まいで、それを、録音年がそう離れていないにもかかわらず、ひとりの指揮者が成し遂げている、
これほどの水準に達していれば、どちらかを採るゆえにどちらかを排す、ってな単純な二者択一の必要もなく、聴き手の好き好き、というところ、マーラーと肩を組み、一緒に泣き、叫び、憧れ、、、そういう心境に浸りたければ日フィル盤を、おさない子供の我が儘を微笑みつつ見守る老いの境涯からこの曲に接したければチェコ・フィル盤を、それぞれ択べばいい、ただ、まだこの曲に開眼していないという人は、チェコ・フィル盤から聴いても、もうひとつ妙味が掴めないかもしれない、鮮烈な日フィル盤に対し、チェコ・フィル盤では、ルドルフィヌムのゆたかなひびきを纏って鳴るチェコ・フィルの巧みさが、かえって緩衝材となり、聴き手が曲趣を明快にとらまえるのを遮らないでもない、日フィル盤を聴いてから当盤へ還れば、潤沢なる残響の奥に、指揮者の表現意志、ひいてはマーラーの肉声を聴取することができるだろう、

ぼくはといえば、ぼくは、まだ若い、青いんだと、自分でおもう、んだが、やはり、日フィル盤の方がすきだ、目下のところ、コバケンのディスコグラフィー中の白眉は、この日フィルとのマラ7とおもう、

日フィル盤のなによりの美点は、さっきもいったが、アンサンブルが恆に小作りなところ、日フィルの実力からして、もっとおおきく鳴ろうとしても鳴ることができないのかもしれんが、たといそうだとしても、ここでは怪我の功名というべきで、どんなトュッティ時も、大型車というより軽自動車、ってなカンジが、むしろ心地いい、壮大さに欠ける分、小回りが利くという長所があり、それが全編に亙ってものをいっているからだ、マーラーというと、とかく大壁画のような演奏を求めてしまいがちで、そういうのが似合う曲もあるが、この7番に関するかぎり、「巨大な室内楽」というこの作曲家に附いて回る代名詞のうち、「巨大な」の側により、「室内楽」の側に焦点を絞って音作りをする方が、的を射ている気がする、そこへいくと、コバケンなどは当然「巨大な」の側の指揮者だろうとおもうのだが、なかなかどうして、これは「室内楽」の側の演奏なんだ、とくに、中間の3つの楽章は、精巧な工芸品を掌の上に乗せ、眼鏡拭きで研きながら愛玩しているような、なんとも慈しみ深い感情に裏打ちされており、しかも、これほど入念に作り込まれた演奏ながら、随所で、音楽がコバケンの手を離れ、この曲そのもの、音楽のうつくしさそのもの、マーラーの心象そのもの、というレヴェルにまで達している、もちろん、それはコバケンの創意が的確だからに違いないが、ただの的確ではなく、的のど真ん中を寸分の狂いとてなく射貫く的確さであるために、創意が創意に聴こえず、音楽そのものに聴こえるんだ、なかなかそこまでの演奏というのは実現しえないもんだが、ここでのコバケンは、ホント、すごい、

両端楽章も、精緻なアンサンブルで、エッジの利いたきもちのいい演奏を実現しているが、うれしいのは、クライマックス部、コバケン、煽ってはいるんだが、日フィル、崩れていない、し、小作りながら、立体感もある、そうなると、迫力更新に次ぐ迫力更新は効果的なんてもんじゃなく、入念な音作りが大成功をおさめている上に、ライヴの高揚感もあるとなりゃ、鬼に金棒どころか、ライフル、機関銃でね、
ま、しかし、ちょっと聴くと、またいつもの炎のコバケンね、みたいに聴こえてしまうかもしれない、注意深く、繰り返し繰り返し聴いてみる必要があるね、しかし、つぼにはまれば、このCD、小林研一郎という人が、テンポ、フレーズ、強弱、バランス、メリハリ、各パートの音色とその調合による効果、その他もろもろ、管弦楽演奏術にまつわるあらゆる手管に、どれほど精通し、どれほど熟達しているか、ということを、イヤってほど思い知らせてくれるんだ、

だから、目下のトコ、これがコバケンのもっとも勝れたアルバムとおもう、

チェコ・フィル盤も、指揮者がやっていることはおなじなんだけれど、中間楽章でもつねに豪華絢爛な鳴りだから、ちょっと耳からゲップが出そう、ホールの性格のためだろう、ティンパニとグラン・カスタの音質の違いが聴き分けられないのなども、ちょっともどかしいし、



しかし、いかなる個所でも力まず、泰然と振舞っている、という点では、小林の今後を占ううえでは好個の例といえるかもな、このチェコ・フィル盤
ともかく、オケからゆたかなひびきを獲るのに、唸り声をあげて煽り立てりゃいい、なんてのは、いかな身体的な衝動による抑えがたい振舞いだといっても、浅知恵にすぎるんだ、こりゃもう、どうしたって、、、それに、現に鳴る音は、力み過ぎて、固く強張った音だったり、潰れて立体感を逸し、ダンゴになったりで、ぜんぜん望むところを果たしえていないんだから、さあ、、、

舞台、という場をアポテオーズしすぎているんじゃないかな、けっきょく

そりゃぼくにだって、音楽家ってのは、舞台の上でしかはたらかない、、、あえていえば、、、「特殊な」インスピレイションってものを蔵してるんだ、というそれくらいのこたぁわかる、けれど、いっぽうでは、練習でやったこととそう違うこともできゃしない、ってのも真実だろう、まして、オーケストラ演奏なんてのは、いってみりゃ団体行動の権化なわけだ、
本番の舞台でしか起こらないコト、ってのは、あくまでも付加価値であって、小林のばあい、そこに、これもあえていえば、不当に、望みを掛けすぎているんじゃないのか、ライヴのグル―ヴ感に溺れるあまり、全篇を破綻なく運ぶことを、あたかも悪であるかのように錯覚しているんじゃないのか、ぼくらが、ぼくらコバケン・ファンが、あなたの音楽才はもうわかった、わかったから、もうそろそろ、その才能が、全篇に亙って等分に刻印された演奏を聴かせてくれたっていいじゃないか、と願っているとも知らずに、、、だ、から、だから、ねえ、、、さいきんの彼の演奏ってのは、全篇に完熟してるんだが、一部煽る、からして、老境の地に、若気のまだら模様で、斑入りの葉っぱをみるような見苦しさなんだ、その若気、ジャマだよ、っていう、、、

いかにも僭越だな、、、しかし、小林研一郎の老成は、彼が彼独自の精神論を、涙を呑んで断念できるか、そこに懸かっているんだ、いままでの自分を突き動かしてきた原動力を、断腸のおもいで振り棄てる、そのとき、彼はその老境への脱皮を完遂したことになる、、、んだけれど、も、いまのままじゃ、その日も遠いようだね、だってまだまだ元気いっぱいなんだもん、なあ、、、はあ、コバケンの枯れたチャイコフスキーの5番、想像するだけで身震いするんだが、いつんなったら聴けるのやら、、、はあ、、、はあ、、、はああ、がっくりうなだれちゃうね、まったく



彼の師の山田一雄は、70年代に藤沢で録ったマーラーの8番では、まだまだ覇気あふれる壮年期の棒なんだけれど、85年の件のN響との同5番では、すでに落ち着き払った大巨匠への変身を遂げているんだ、
最晩年には、ベートーヴェンのシムフォニーやチャイコフスキーの《弦セレ》、伊福部昭の《ジャパニーズ・ラプソディ》、ショスタコーヴィチ《祝典序曲》なんかの録音が遺っているけれど、いずれも完全に力みの抜けた、いい演奏なんだ、伊福部作品は、山田自身が日本初演したときのライヴがフォンテックから出ているけれど、第2曲など、テンポが速すぎ、バランスがぞんざいにすぎ、あのチャーミングなオーボエのテーマが埋もれてしまってまったく聴こえやしない、はんたいに、最晩年の再録では、この曲、こんなに複雑に書かれていたのか、ってほど、あらゆる楽器が浮かび上がる、ひとりの音楽家の壮年から老年への変化のなんたるかを知りたければ、このふたつの同曲演奏を聴き較べればいい、コバケンは、そのはざまでの逡巡を、どうかするともう10年以上もつづけ、こんにちなお迷い続けているんだなあ、はやくクソジジイ、あ、、、や、好々爺に、なっちまえ、ってね、

たとえばその山田の《祝典序曲》
冒頭のファンファール、途中で和音になることを見越して、力いっぱい吹かせていないんだ、
そういう達観したフォルテ回避は、いまのコバケンには望めない、彼は、絶対にそれをしない、しかし、それを、ぼくは、してほしいんだがねえ、
でも、話ぁ山田の棒に戻るけれど、おなじファンファールが回帰するトコでは、録音から推知するに、客席にバンダを立たせているようだが、ちゃんと充ち溢れるようなひびき方なんだ、全力の最強奏ってのは、存外、ここだけははずせない、ってとこだけでいいのかもしれない、コバケンは、フォルテと見りゃ力む、それがいかに彼の音楽の妙を阻喪しているか、


ううん、ま、これ以上はおなじことの繰り返しになるな、
ともかく、ちと長くなったが、以上が、ここ数年来、ぼくがコバケンに、恆に、かんじてきたところ、ですー

だから、どんな演奏会、どんなCDにも、たといできのよいものに対してでも、わずかな不満が残るんだなあ、

チェコ・フィルとベートーヴェンの全集を録るようで、いくつかはすでに収録済みなんか、や、しらんが、どうだろうねえ、予想としちゃ、やはり斑入りの演奏なんじゃないかなあ、強音がほしいなら、舞台上で気分的に煽らずに、ここで強音がほしい、楽譜を読んで、そういう解釈をしました、っていう音の鳴り方をするように仕向けなきゃ、や、なにも杓子定規な演奏をしてくれ、ってんじゃない、でも、フルトヴェングラーのように、一聴するところ雑なようでいて、じつはとてつもなく神秘的な音が鳴っている、とかいう特別な離れ業を演じられる、そういうことでもないかぎり、ベートーヴェン演奏で煽って迫力更新を達成しようとしたって、そんななぁ土台ムリな話、百害あって一利なし、コバケンは、とくにチェコ・フィルと組むときは、細部にまで神経を通わせた演奏をするわけだろう、そんなら、強奏部のバランスも、細心の注意を払って、きめておけばいいんだ、チェコ・フィルの実力なら、それも優に実現しうるんだし、そういうことが入念にやってありゃ、価値あるベートーヴェンが生まれるかもしらん、けれど、フォルテひとつとふたつの違いがなあなあだったりしたら、その一事をもっても、完成度の低い演奏だなあ、ってことになりかねん、いつかリリースされるんだろうけれど、いまんとこ、おおきな期待は持てないなあ、ま、一度恥をかくんなら、それもベートーヴェンの録音を、満を持して発表し、もうひとつ、という結果に終わるなら、かえって、それもいいかもしらん、で、こんなんじゃダメだ、とおもったときに、小林が、指揮者として、なにを考えるか、だね、




もうこのへんで止そうか、



ちょっと我を忘れちゃったね、あさPCを起ち上げて、これを書き始めて、いま、N響アワーを視てる、、、
一日中かんがえ込んじゃったよ、まったく

またドラクエについて書けなんだ、

ちなみに、前にいった、トゥルー・レリジョンのフード附きパーカー

買っちゃった、

きょう、届いた、

うん、いい、

抱いて寝ようかしら、

、、、なんてね



こんかいも、ちゃんと謝っとこう、コバケンさん、ホント、生意気云ってごめんなさい、愛してますから、、、









きょうは、


仕事が早く終わった、

肉体労働の現場で、早く終わらせて早く帰ろうぜ、ってムードになるときの、あの、みんなでニヤニヤしながら、でもけっしてやっつけ仕事にするわけにもいかず、結果として、妙に躍起になって精を出してしまうときのカンジが、ぼくはすきだ、ひさかたぶりで、ハデに汗をかいた、すがすがしい、


着るもんのことと、コバケンの老成のことと、ドラクエの音楽のこと、について、ちと長くなるが、まとめて書きますー、




以前にネットでデニムを購入したことがあるんだが、その縁でときたま販促メールが届く、
開いて見たら欲しくなるからすぐに削除せにゃダメだと、あれほど自身に言い聞かせていたのに、こないだ来たメールから、ついついその店舗のホームページを閲覧してしまい、、、

ところで、ぼくは、着るものにそれほどウルサイわけじゃないんだが、ニット帽とパンツ(ズボンのことね)だけは、ここのものしか受け附けない、というこだわりがある、

癖っ毛で、しかもいま人生で最も長髪の状態にあるんで、ふだんはうしろでダンゴにして、そのダンゴも含めてぜーんぶニット帽のなかに収めて、そいで外出しとる、風呂上りなんぞは天然メデューサというか、螺旋階段みたいなくるっくるの髪の毛でさ、

で、そのニット帽だが、CA4LAでしか買ったことがない、
このCA4LAを「カシラ」と読むんだってこと、ぼくはずいぶん最近まで知らなんだ、ん、、、まてよ、そうでもないか、けっこう前から知ってたわ、ゴメンナサイ、ウソ吐きました、
とくに、「ウィーブ トシ」という専属メーカーの商品とは、自分のかむり心地からいうのだが、相性がよく、ふだんから愛用している、シンプルなデザインで、しかし、ちょっとコミカルなかんじがして、いい、ワン・ポイントの刺繍が附いているものがあって、そのイミ不明さにもホレる、たとえば、屋外労働で2夏を越してさすがに色褪せてしまい、おシャカにするか、ないしは汗をかきそうな仕事の日にかむるのとしてとっておこうかいま迷っているのは、ネイビーの地にオレンジの糸で、熊のシルエットがあしらわれている、まったくもってイミ不明、そこがよく、気に入っていたが、褪色で、もうヨソユキ用には使えん、
ああいう、いわゆるセレクト・ショップの難点は、気に入って愛用していた商品があっても、シーズンを過ぎるともう二度と手に入らなくなることだ、やむなく、ほかの商品で手を打たねばならんが、そのときたまたま目ぼしいものがありゃいいが、ないと非常に困る、目下の常用は、これもネイビーのコットン製で、何枚かの生地を繋ぎ合わせて一枚のニット帽に仕立ててあって、一ヶ所、おそらく、製造工程で、一度長方形のワッペンみたいなものを縫いつけ、若干脱色なりなんなりしたあとで、そのワッペンをはがしてある、といった風合いの、これまたイミ不明のテクスチュアが施されてあり、心をくすぐる、しかも、これがその「ウィーブ トシ」一流のデザインの妙なのだが、かむり口の縁のあたりで、4、5か所、生地がたるませてあるんだ、その手応えのすばらしさはとてもとても筆舌になど尽くしうるもんじゃなく、とにかく、一度ご試着あれ、というほかない、もっとも、そもそもはそれほどのかむり心地も期待せず、ネットで見てなんとなく購入したんだが、いざ届いたのをかむってみたら、そのフィット感にふるえてしまい、すかさず、おなじデザインのブラックのタイプを、予備として買い増ししたほどである、
じつは、こないだコバケンのヴェルレクへ行った帰り、会場では鳴っている音を全身で受け止めるだけでアップアップしてしまい、その印象を反芻しながら言語化する時間がほしかったから、六本木通りを渋谷までてくてく歩いた、ぼくの脚なら、30分くらいのものだ、や、もうちょっと掛かるか、サントリーでいい演奏に接したときのぼくは、夜のコンサートであっても、それをやる、で、渋谷で一杯ひっかけて井の頭線に乗る、と、
こないだは昼だったが、ドラクエ吹奏楽CDを買うべくタワレコに寄り、すると、CA4LA渋谷店は目と鼻の先だから、ついつい足が向いてしまう、 で、そう熱烈に欲しいとおもったのでもなかったが、また帽子を1枚、衝動買いしてしまった、値札を見ると、¥3800くらいのもんだったから、その値段でこれなら、とおもってレジへ持ってくと、¥5250です、ええっ! もう引っ込みがつかず、買ったが、あとで確認してみたら、¥3800いくらというんは、ぼくが買ったのの下に重ねて置いてあったやつの値札だった、、、やれやれ、しかし、こちらも、いざかむってみるとなかなかのもんで、ま、かならずしも不本意な散財というのではなかった、と

パンツについちゃ、ぼくは、トゥルー・レリジョンのフレアー・タイプのデニム以外には、いっこう興趣が湧かない、世の中には、トゥルー・レリジョンのデニム以外のパンツはなくてよろしいと、本気で、そうおもっている、あれはたしかロスのブランドで、発足から今年で何年目になるんか、、、ともかく、なんのキッカケでか、大学在学中、お店ではじめて試着して、あの流れるようなシルエットのうつくしさに一目惚れした、そんときの興奮はいまでも忘れない、それまでは、いま以上に、着るもんなんざどうだっていいぜ、という気持ちだったんだが、その瞬間に、あ、着飾りたいって心境はこれのことをいうのか、って、人生ではじめて気附いた、いちばん初めに買ったのは、いまとなってはプレーンな、ホント、元祖トゥルー・レリジョンにござれり、ってなんかシャレになってまったが、そういうタイプのヤツで、穿いて外出するときのうきうきする心地といったらなかった、いまではあたりまえになっちゃったぼくのスタイルなんだがねえ、
ところで、ぼくは、べつに脚が長いわけでもなんでもないんだが、レリジョンを穿いてお店にいったりすると、店員さんが寄ってきて、お客さん、そのレリジョン、裾上げしてないんですか、と、かならずといっていいほど訊かれる、ええ、してませんけど、どぅうぇえぇぇ! レリジョン裾上げせずに穿ける人はじめてみましたよー、ってなね、ともかくものすんごいリアクションをされるが、そうかなあ、ぼくは街を歩ってて、自分よりはるかに脚の長い人をいくらも見掛けるんだが、、、ま、しかし、もとがフレアー・タイプなんだから、裾上げしてまったらその妙味が薄らぐ、ということは当然あるんで、せずに穿けることを感謝すべきなんだろうな、ぼくのばあいだと、ベルトをキツめに締めて、ちょっと裾が地面に着くぐらいで、何本かは、すでに裾を穿き潰した状態、もともとがユーズド・ルックを売りにしているブランドなんで、裾がほつれたってべつにいいんだ、
ちなみに、ぼくは、現在すでに、ええと、何本かな、ちょっと俄かにはおもいだせん本数のレリジョンを所有してて、といったって、10本はないとおもうが、あれ1本だけでも高いからねえ、どこにそんなカネがあったんだか、われながら不可思議だね、しかし、ひもじいおもいをしてでもレリジョンのデニムがほしい、とおもうことすらあったのは、いまでもよく憶えているんだ、ま、ここさいきんは、そんな無謀なこたぁかんがえんが、ね

そのレリジョン、しばらくパンツだけを出してたんだけど、何年目かにいよいよトップスにも参入して、いつかの秋冬に、やはりデニム地の、ジャケットを発表した、これがまぶしいのなんのって、相模原から厚木に向かうバイパス沿いのお店で買ったのをいまでも憶えているが、あの当時で¥40000はしたんじゃなかったか、いよいよ、ことしもまたこのジャケットを着るシーズンが来たね、冬場のぼくは十中八九このジャケットを羽織ってるってこたぁ、ぼくの友人知人にゃとうに知れたことなんだ、しかし、何度着ても着飽きない、この身頃の短さと袖の長さのアンバランス、厚めのデニム地をしつこいくらいに縫い重ねたデザインの妙、おなじみの粗めのステッチ、ボタンや鋲の質感、おおきさ、、、嗚呼、溜め息が出ちゃう、

ん、だ、けれど、も、ほとんど毎日それしか着てないからねえ、冬、
なんかもう1着欲しいなあ、と
おもってたんだが、レリジョンがその後のシーズンで発表した上着はいずれも振るわず、、、

な、ん、だ、けれど、も、も、も、
ことしは、フード付きのパーカーを出してきた、

それを、つまり、送られてきた販促メールから閲覧したホームページ上の画像で見ちゃった、ってなこって、ね

前置き長すぎたか、、、



で、こりゃもう、絶対に買う、買わないわけがない、
しかし、約¥20000もするんでねえ、またサイフと相談でさ、
貧乏人足ぁつらいやねえ、

しかし、ぼくほどずぼらな人間が、被服のことについて一家言を云うようなことがあろうとはな、






ふたつめ、

小林研一郎の老成について、

件のヴェルレクといい、また、さいきんになって立て続けに小林の若いときのレコーディングに耳を傾ける機会を得たことといい、あらためて、小林研一郎とは、彼の音楽とは、なんぞや、と、よくよくかんがえなおしてみた、
もちろん、もうここ何年来、一ファンとして、ぼくは、指揮者・小林研一郎の眞の老成とは、なるこの大問題について、日夜、手前勝手も甚だしい夢想を繰り返してきてはいたんだ、が、
大学に受かって、東京に出てきてすぐの頃、といってもアタシャ神奈川棲まいだが、その頃は、ぼくもまだ若く、や、いまでも若い、青いが、とにかく、音楽観もいまほどの境地にはなく、や、や、なに、いまでも未熟、青いが、コバケンが、いうところの炎の指揮者ぶりを披瀝してくれれば、それでけっこう満足していた、
が、いつからか、いまのままじゃ、彼の音楽を手放しに褒めそやすことは、断じて、できん、という気持ちの方が強くなった、コンサートでも、あまりの駄演に、憤慨しつつ帰途についたこと、1度や2度ではすまない、で、いま、若いころのレコーディングに耳を傾け、また、ときを同じうして現在の彼の舞台姿をみ、音楽を聴くに及んで、その感をよりつよくした、
もっとも、いかなるときも、見限ろうとは、露おもわなんだ、
彼のばあい、その駄演は、音楽性の欠如から出来しているんじゃなく、単に、練習を充分にやらなかったとか、そういうこと、つまり、成し遂げようとおもえばできる名演奏の前で自ら足踏みをしたことによる駄演、拙演、陋演だから、
たとい初日の音出しでちょっとオケのコンディションに不満を懐いても、そこで仕事をおっぽり出さずに、、、って、や、ぼくはコバケンの稽古風景を、じかに見たこたぁないが、映像なんかから推察、というより邪推するに、オケが、音楽のイロハみたいなことで手間取っていると、そんなキホンもろくすっぽできてない状態でこの小林研一郎の前に坐って楽器弾こうってのか、あんたら、みたいな態度を、無意識的にせよ、取るようなタイプの人かなあ、、、と、ぼくはコバケンの人となりを勝手に読んでいる、ホントに、無礼きわまりないんだが、ね、
で、そういう、その場に居合わせたらちょっと心拍数があがっちゃいそうなギスギスしたフンイキのなか、リハが進んで、オケの面々も、やばいやばい、コバケンさん怒ってる怒ってる、怒ってるよ、そんなつまらんミスしとるようじゃ音作り以前の問題じゃねえか、ってイライラしはじめたよ、で、なんとか挽回しようとするんだけど、うまくいかなくて、コバケンの指示も、いちおう伝えるべきことだきゃ伝えとく、というカンジの、、、伝えたんだから、できなければそりゃあんたらが悪いんだ、ってな険悪な語気、で、ね、あのいやに丁寧な物腰、それだけにおそろしい、という、、、で、細部まで詰めた練習をやることもなく、オケにしても、先生、いまのトコ、もっかいだけお願いできませんか、みたいなことを、とても言い出せる状況じゃなく、というのは、コバケンが、音楽的にごく高度なことをやろうとしていて、そのためにはオケのコンディションが良好でなければならず、が、いまの自分たちの鳴らしている音はとても良好な音とはいえず、といったぐあいで、だから、みな、自分等が納得のゆくリハをできていないとわかっていながら、生来の気分屋気質をフルに発揮して、さっさと練習を切り上げてしまおうとする小林に逆らうことあたわず、、、結果として駄演になってまったときのリハって、おおよそこんなぐあいじゃなかろうか知らん、、、って、こんなこと、、、見もしないで、名誉棄損だよねえ、しかし、こちとらは、満足なリハをやったんなら、こんな酷い演奏が本番の舞台の上で鳴るわけがなかろうに、という経験を、現に、しているんだ、それだけは、自分の耳で確かめてきたことなんだから、な、
だから、そういう駄演は、ぼくとして、もう見て見ぬフリを決め込むことにした、たとい小林本人に原因があるとしても、その駄演のダメさ加減と、彼の音楽性の真贋とは、なんら関係がないわけなんだから、ただ、本人が謙虚に仕事に取り組むか否か、なんだから、たといオケの仕上がりにわずかに不満を残すとしても、そのなかで最善を尽くすのがプロじゃないかと、ぼかぁ、そうおもう、
で、や、それよりも、より問題なのは、きょうの演奏はけっこうよかったな、とか、こんどのCDはわりと出来がいいな、ってときの、その、「けっこう」とか、「わりと」のニュアンスだ、
要するに、概してよいのだが、ひとつの音楽表現としてまだ煮詰まり切っていないとこがあるんじゃないのか、という疑義を拭えぬ気が、どこかに、わずかに、残る、ってこと、その点、悪名高い宇野功芳氏を、ぼくは、やはりさすがの嗅覚でいらっしゃるなあ、とおもう、の、は、こないだのアーネム・フィルとのチィコフスキー4番のCDのレコ芸評、ぼくもあのチャイ4、とくに1楽章でつよくそれを感じたが、動的な音楽を静的に再現して、見事な成功を収めている、、、ようにおもえるんだけど、やはり強奏部に、まだ、煽って迫力を獲ようとする若気の残滓がこびりついている、心境としては、大局を客観的に見据える風格がすでに備わっているんだから、演奏上も、完全にどっかと腰を据え切ってしまえばよいものを、まだ拳ひとつ分ケツが浮いていて、どこかで、いざとなりゃ、みたいな好戦的というんかな、そういう気分が残ってる、前にもいったように、小林としちゃ、それを抜いたら、自分の音楽が死ぬんじゃないかという怖れを懐いているのかもしらんが、3回り以上歳下のこのぼくの耳にしてすでにあのわずかな力みは邪魔であり、完全に取り除いたとしても、あのチャイ4の価値はいささかも減じない、どころか、それこそがあの演奏に欠けている画竜点睛なんじゃないか、で、なんで宇野さんさすが、とぼくがおもうかってえと、同CDの月評で、くわしい文面は失念したが、いちど、チェコ・フィル盤はいまひとつ、や、いまふたつ、、、とたしかいってたな、なんだが、こんかいのアーネム・フィル盤でやっと本来の実力を発揮、と書いたうえで、そのセンテンスを「まずはめでたい」と結んでおられた、さすが宇野功芳、本屋で立ち読みして、ぼくとしても、我が意を得たり、というところ、宇野氏もおそらく、なんでこんなに静かな心境に到達しとるのに、まだなお力まにゃならんのだ、コバケンよ、というもどかしさにとらわれ、したがって、ただ「めでたい」と褒めるわけにはいかず、「まずはめでたい」と含みを持たせた褒め方にとどめた、、、んじゃ、ないかなあ、と、きっと、ね、やっぱ、ただものじゃないね、宇野功芳、ネット上では、宇野氏を揶揄する文句がつねに飛び交ってるんだが、そこまで彼の文章に感じ入ったうえで、それでも受け入れられない、なんとならばそれはしかじかの理由によるのだ、ってほどの迫力ある宇野批判を、ぼくはまだ一度も読んだことがないんだよなあ、ほとんどがただのヤッカミと憂さ晴らしばっかで、ね、って、や、だから、小林の音楽、足りてないんじゃなく、余ってるんだ、なんか、デロっと、はみ出してるもんがあるんだ、よく、芸は軽さをもって至上とする、というようなことをいうが、要は、そゆこと、なんだ、なあ、古稀を迎えた音楽家がそれを獲られずに苦しんでて、こんな若造が、コバケン、こういうことなんだよ、とエラそうに云ってるのもどうかとおもうんだが、、、ねえ、、、




せっかく早く帰ってきたのに、書いてたら、けっきょく深夜になっちゃった

掲げた課題について全部書き切れんかった、

あす、コバケンについてもちっと、そいからこんどこそドラクエについて、

あ、あすは仕事のあとちょっと用があるから、あさってになるか、な、



さいごに、ちゃんと謝っとこう、

コバケンさん、生意気云ってごめんなさい、愛してますから、それゆえに、、、


ブログの更新、はじめ、不毛とおもっていたが、ちょっとたのしくなってきた、






いまだ、



興奮冷めやらず、

嗚呼、小林研一郎、、、



その小林の若き日の記録、京響とのマラ5のCDが届いた、

京響音のあゆみ(PART-2)小林研一郎/京響 マーラー5番(EMI・OCD-1002)

1985.09.26 第276回定期演奏会 京都会館第1ホール Rec:KBS京都


レコーディングは放送局だけど、いちおう、EMIから発売されてたんだね、


演奏内容、音質、ともに、83年録音の日フィル盤に酷似、

日フィル盤もそうだったが、この京響盤でも気になるのは、金管や打楽器が剥き出しの痛快な音で録れているのに、弦のマスの拡がりをまるでマイクが拾っていないこと、おそらく、当夜の舞台上ではもっと冴え冴えとした音が鳴っているはずだが、、、ゆえに、この京響盤では、アダージェットの音彩が完全に死んでいる、これでは聴けない、他の楽章でも、弦のみでフォルテを確保している個所がすくなく、日フィル盤では、管打が絶えず全力で鳴るので、どうにか迫力が補完されていたが、京響は、非力を露呈する場面があって惜しい、それでも、1楽章は日フィル盤と互角か、やや京響の方が上、2~4楽章は、断然、日フィル盤、もちろん、京響も健闘、終楽章、これは京響、なかなか立派、それまでの脆弱さがウソのような立体的な威容、小林のテンポも、このころの彼は、のめるスピードのなか、アクセントを叩きつけるやりかたを専売にしていたはずだが、総じて踏み締めるような進行、各パートも、どっしりと地に足を着け、フレーズというフレーズを、おおきく呼吸しながら歌う、弦の刻みも、各パートが主体的に鳴ろう鳴ろうとしていることが、貧しい録音からも如実に伝わり、好印象、日フィル盤では、迫力はあっても線の細さが気になる、という憾があったが、京響は強靱な凝集力と厚みを披歴し、ついにコーダの疾走句、全パートがあらんかぎりの力を振り絞っており、小林の棒も、ここまで来てものめることを知らず、最後まで豪胆たる振舞い方である、あっぱれ、


さて、小林のマラ5、若き日の日フィル盤、この京響盤、壮年期以降のキャニオン・日フィル盤、チェコ・フィル盤、同ライヴDVD、と出揃ったが、残念ながら、決定盤と呼べるものはない、

さいきんの小林、こんどのヴェルレクが顕著に示していた通り、すでに鋭角的なアクセントを断念し、おそいテンポのなかへあらゆるパートを刻銘に整列させる熟成したスタイルへ移行しているので、これから彼がマラ5を再録音することがあっても、もうバーンスタイン的な主情的な名演を望むことはできない、もちろん、それでよく、むしろ、開き直って、激情的な内容は整然たる音響のうちへ封じ込め、堂々と、シムフォニックに全曲を運ぶ大人の演奏を達成してほしい、チェコ・フィルとのプラハでのレコーディングにはその片鱗がうかがえるが、オケの性格上、なよやかで線が細く、また、ルドルフィヌムの飽和したひびきも、この曲を聴くにはふさわしくない、、、大家の動じない演奏、ということでは、すでに85年の昔、山田一雄/N響がその先鞭をつけており、あのDVDにはぼくもシビレたが、小林のものも含む他の諸盤と比較するうち、たしかに、立派な演奏ではあるが、弱音無視で全パートをゆたかに鳴らしているため、やや色彩の綾やメリハリに欠けるようにおもえてきた、が、小林なら、そのおなじ轍を踏むことなく、名演を成し遂げうるとおもう、日フィルと演ったあの9番が、その証左だ、
実演では、何年か前の上野の奏楽堂での藝大の学生さんとの演奏、
日フィルとの横浜定期の演目をそのまま埼玉のソニック・シティへ持っていったときの演奏、
文京シビックでの東フィルとの演奏、
などを鮮明に記憶しているが、録音となると、どうなるのだろうか、もしも、アーネム・フィルとのタッグということになると、期待薄といわざるをえない、5番という曲の性格上、スタジオ録音では、聴いている方としてもどうも気乗りがしないから、もちろん、いい演奏にはなるだろうが、すごい演奏じゃないと、ね、いい演奏、という程度じゃ、とても聴いていられない、というくらいに、ぼくらはすでにこの曲の名演奏を、それもただごとではない名演奏を、知り過ぎているから、なあ、、、
なぜ、アーネム・フィルとの再録をかんがえるかというと、こないだキャニオンの日フィル盤がオクタヴィアで復刻したから、日フィルと再録するつもりなら、あんな旧い音源をあらためて世に問うこたぁない、しかし、小林、恥ずかしくないのかなあ、あんな駄演CDの再発を許可して、ぼくが彼なら、あんなへぼっちょろいCDはオレの録音史の汚点だ、一刻も早く永久廃盤にしてくれ、と、江崎氏に泣いて頼むところだが、
ってなこって、再録は、アーネムとのスタジオ録りより、もっともコンディションのよいときの日フィルとのライヴの方が、絶対に価値あるCDになる、ヨーロッパのオケでは、羽目を外した細部の抉りとかを、まずやってくれないし、破綻寸前、というようなギシギシいうスリリングなアンサンブルも期待できないから、そういう付加価値がないと、ただ、なんとなく整然としたアンサンブルでござんす、みたいなんでは、到底、不朽の名盤の峰々へ連なることはできない、から、ね、
あるいは、どっかでN響に、おじゃましまーす、っつって客演して、どさくさ紛れにレコーディングもしちゃうとかね、手っ取り早くかっちりとした大演奏を生み出したいとおもえば、その線が濃厚かな、歴史に名を残す名盤というなら、指揮者の激越な感情移入をものともせず、オケの方では、すみずみまで、一音たりとて疎かにしない鳴り方をしていなくちゃならん、とくに、さいきんの、またこれからますます顕著になってゆくだろう小林のああいうスタイルでこの曲を録音するとなりゃ、なおのことね、それには、日フィルが、あの9番のときのように、よほどおもい入れてくれでもしないかぎりは、やはり、N響が適任だろう、

ま、機が熟するのを、気長に待つか、



ちなみに、コバケンのヴェルレクへ行った帰り、渋谷のタワレコで、やっとドラクエの吹奏楽CD2枚を購入、これがいい、印象がまとまったら、ぼくのドラクエ音楽観も交えつつ、レヴューを書くことにする、




やらかしてもうた、



や、きのう寝たのが3時半頃、

起きたのが8時半頃で、完全に寝坊、欠勤になってもうた、、、

ちょっといい心持ちに浸り過ぎてたんだね、反省、

日銭で生きてる身なんだし、1日の欠勤すら痛い、ホント、気を附けねば、



きのうのコバケンのヴェルレク、
夜にならないうちに印象記を書き上げておかなきゃ、

きのういったおそいテンポ、それ自身に味があり、それ自身でもう感動的で、方々で目頭を熱くさせられた、
1曲目の《キリエ》の部分からしてそうで、独唱4人が声を出し終えて、合唱が加わってきて一度昂ぶり、高弦の刻みに乗って合唱が低音から順に上がっていくのを背景に独唱が合いの手を入れて呼び交わすところ、曲頭も曲頭から、こんな、耳からヨダレが出るような音楽を聴かせてもらっちゃっていいんですか、というようなうつくしい部分だが、テンポといい、ゆたかなひびきといい、すでにしあわせいっぱいで、ぐっとこみ上げてくるものがあった、小林の棒も、全楽を高所から見晴らしているといった風でなんともいえないゆとりがあり、身も心も蕩けてしまいそうになった、

基調のテンポがおそいなか、部分的にとくに印象に残ったのは終曲の最後の山場、
リズミックな動機を合唱のバスから唱い出し、ついに耳を覆うばかりの阿鼻叫喚に達する部分だが、
ふだん聴いているCDはいずれも、はやい、きびきびしたテンポなので、そういうもんだとおもってゲネラル・パウゼが明けるのを待ってたら、ものすごいロー・テンポで唱い出すからびっくり、まあ、しかし、クレッシェンドしつつアッチェもするだろうと予想したら、ほぼそのままのテンポで頂へ突入、もう音楽なのかどうかもわかんなかったね、地獄絵図というか、奈落の底というか、心身を業火に焼かれるような、いたたまれないおもいがした、すごい、

しかも、そういうひびきに身を浸しているのが、つまり、しあわせなんだ、
《怒りの日》冒頭にしても、小林の指揮ぶりを見ていると、アタックのするどさより、豊麗な鳴りを欲しがっているのがわかる、ま、ぼくは、トロンボーンを、もうすこし附帯音を効かせて抉ってほしかったし、グラン・カスタだけじゃなく、ティンパニの苛烈な分散和音ももっと粒立ててほしかったけど、しかし、ひところの日フィルのトロンボーン、やたらと附帯音にものをいわせる刺激的な鳴り方で、あまりやり過ぎるのも考えものだが、とおもわせたもんだ、でも、すくなくともこんかいに関しては、もうすこしバリバリいうトコがあってもよかったとおもう、1回バリバリいわせたら、鳴るたんびにバリバリいう、とかいう芸のないやり方じゃなく、ん、ひびいてばっかでやや刺激に欠けるかな、とおもっていると、ここぞというときにバリバリッと音を割るとか、あるいはあえてここぞというところをはずして、え、そこでそんなに抉るんですか、みたいな意表を突く瞬間をつくったり、ま、贅沢な要求だけどさ、とにかく、概観としては、トュッティ時、常にホールいっぱいに充ち溢れるひびきを指向するコバケン美学には諸手を挙げて賛成、バンザイ、
もっとも、あまりにおそいテンポのなかで、各パートが自分等の音を持て余し気味になる個所がいくらか出てくるのはやむをえぬ代償で、合唱など、あれほど執拗な指揮者の点打ちの甲斐もなく、とくにレガート部で、音の粒立ちと子音の明晰さを失してしまう個所があったし、長丁場の第2曲の道中、独唱のフレーズの終わりにしばしば装飾音が附くが、めいめい、コーナリングを決めかねていたもよう、ぼくは、ター・タ・タ・ター・タ、という、一粒一粒くっきりアクセントを附けて発音する唱い方が好きだが、いずれの部分においても、存外なあなあになってしまった、つぎの、《オッフェルトリウム》の後半のトコはうまくいってたけれど、ね、それ以外のとこでは、みな、おそいテンポで、唱いにくかったんだとおもう、ま、それを理由に指揮者がそのテンポを諦めねばならんいわれもないがな、
そんななかで、ひびきの多彩さにいちばんの貢献を果たしたのは、あるいはオケかもなあ、
トュッティ時こそ、さっきいったように、団子になる、というほどでないにしろ、もう一声立体的に、、、とおもわせたが、はんたいに静かな部分では、これでもかというくらいにいろいろの楽器が浮かび上がり、しかも、煩わしさを感じさせない、《リベラ・メ》の、ソロが、Tremens factus sum ego、と唱うトコ、その直前のファゴットや、それから、ひとくさりいって、もういちど、Tremens、から唱いなおすトコのヴィオラ、の、こわい音色とか、《アニュス・デイ》のおわりの、ヴァイオリンの神秘的なひびき方とか、あ、そいから、忘れちゃいけない、《怒りの日》の、Rex tremendae、の出だし、中低弦の上昇音型を男性合唱の唱い出しの前へずらして、聴こえるようにしていた、新鮮だったね、あと、クラリネットも、随所で芯のある音をしなやかに飛ばし、胸に篤く迫るものがあったね、

4人の独唱、
ソプラノの生野やよい、は、第一声からとんでもない存在感だったねえ、
日本人のソプラノ、高い方が、ヒャーとか、ヒューとか、ヒョーとかいってるだけで、まるで声が伸びず、なんと唱っとんのかもまったく聴き取れんというシャビシャビの水っぽい声の持ち主ばかりで、演奏が始まる前はとくに期待もしていなかった、それだけに、彼女が唱い出したら、スカーンと声がまっすぐまっすぐ伸びてゆくから、おもわず身を乗り出しちゃったや、びっくりびっくり、オケの轟然たるひびきのなかにも埋もれることがなく、しかもけっして絶叫しているわけではない、みごとなもんだね、
ただ、ややアクのある声質で、素朴な音色を出すのが不得手みたいね、というか、そんなものはまるで求めていない、というふうだったな、ぼくとしちゃ、《怒りの日》のRecordare、メゾとおなじテーマを弱音で繰り返すトコ、もうすこし純な音色がほしかったが、それと、オペラ作家の作ということもあって、全体に、もちろんうつくしいんだが、ちょっとやぼったいってのか、俗っぽい旋律の多いこの曲のなかで、ゆいいつ、閃くようなヴェルディのセンスが炸裂する名旋律、すなわち、《オッフェルトリウム》で、終局の重唱を導くべく全休止から湧き上がるソプラノのソロ、Fac eas de……だが、天下の名唱を待っていたのだけれど、心身がよじれるほどの震撼は与えてくれなかった、かな
《リベラ・メ》で、Requiemと唱うトコ、最後の高い音がかすれちゃったね、誰よりも女史ご本人がいちばん悔やまれているとおもう、残念、衷心からなる同情を申し上げる、
メゾ、金子美香、は、あるいは声量は充分でなかったかもしれないが、ぼくは、アルトがしばしば男みたいな声を出そう出そうとするのにかならずしも好意を持たないから、その点、女史は、上品で、よかった、むしろ音の静かな部分こそ本領で、オケの伴奏とてなく静寂を破って彼女が唱い出すと、ムリに音色をこねくり回そうとしない率直な、中性的な声が、ふと、耳を捉える、という瞬間がいくらもあった、重唱ではみごとな名バイ・プレーヤーぶり、
テノール、佐野成宏、、、は、どういうわけだか、終始抑制を効かせた唱い方だったねえ、《怒りの日》Ingemisco、すら淡々としていた、指揮者に、唱い過ぎるな、といわれていたのかなあ、でも、やっぱり声がいいからなあ、かなわないよ、それに、伸ばす音を、あたまっからおしりまでぜんぶ揺れないで、ノン・ヴィブで、すー、といって、おわりがけのみ、ゆらゆら、っとくる、シビレるねえ、ただ、そうなると音程でウソを吐けない、やはりところどころ、音を探っているときの声が生っぽくなってしまったな、ま、名誉の負傷よ、負傷といえば、持続音の途中で咽喉に痰が絡みそうになって、ヒヤッ、とさせる瞬間があったな、あるいは体調が万全でなかったのかなあ、こんど歌うことがあったら、もすこし、入れ込んでほしいね、やはり、
バリトン、おなじみ青戸知、ヴェルレクを唱うのは、はじめて聴いた、この人の声質は、好悪が激しく分かれるだろうな、ぼくも、すくなくともこの曲のバス独唱に関しては、実演、CD、ともに、いかにもバス然とした、野太いひびきの歌手しか聴いたことがなく、それで不満というのでもなかったから、こういう、表情で聴かせる歌手が唱うと、方々で、曲の印象まで一新してしまう、という事態が起こったな、それがいいかわるいかは、一概には云えない、ただ、ぼくはむしろ、メゾ、テノール、バリトンのア・カペラ重唱などで、表情を抑えてひびきだけで勝負しているときの方が、ハーモニーがきれいで、好感を持ったがな、あまり表情にものをいわせると、威厳を求められる場面があさはかになる、ということは、ま、あるだろうね、

東京音大の合唱、立派なもんだね、
ま、不満をいい出したらきりがないよ、バスの重低音がもう少しひびいてほしい、とか、テノールは、ときどき、もっと大胆に地声を張り上げてほしい、とか、あるいは、《アニュス・デイ》のア・カペラ部にもうひとつ敬虔さが不足した、とか、などなど、ね、
しかし、失敗したなあ、や、ずいぶんまえにチケットを取って、とうぜん2階席を取っているもんだとおもってたら、1階席なんだよ、ま、それほど、頭の上を声が通り過ぎてっちゃうという印象でもなかったが、なんで2階席にしなかったのか、わがことながら、理解不能だ、2階に坐れば、もすこし合唱の妙を味わえたかもね、
あと、これは合唱自身の問題というより、指揮者の音作りについてだが、例の《怒りの日》冒頭の、Quantus tremor……部、要するに、この譬えで伝わるなら、外骨格みたいな音で、子音を強調しまくっているのだが、全体に、高度に音楽的な再現のなか、こういう、あからさまに恣意的な表情附けを堪え切れないところが出てくるのは、むしろ歓迎すべきこと、なんだが、しかし、ああいう唱わせかたをすることで、Quando judex est venturus、の部分、エロティックといいたいほどのあのリズム感の妙が損なわれたことは、代償としてはやや大きかったようにおもう、今後の課題だ、もちろん、子音強調はやめてほしくなく、次善の策をご按じられたし、と

 
ま、でも、これだけ詳細なレヴューを書く気にさせられたことに感謝だな、
ひところの小林、あきらかに、おのれ、リハをテキトーに切り上げやがったな、っていう、日フィルも、てんでんばらばらなうだつの上がらんアンサンブルで、わざわざ出掛けたのに、意気消沈、項垂れて電車に乗る、ってな犯罪的コンサートを頻発してたからなあ、コバケン、その演奏は、どうしたって許せないぜ、頼むから、だまされたとおもって、たっぷり練習をやってみてくれよ、っていう、もう、その場の雰囲気で、ろくに打ち合わせしないまま、本番の舞台で煽りに煽って、ガタガタに崩れても知ったこっちゃないね、みたいのは、ホントに、ホントに、勘弁してくれよ、という、それで、あきらかにダメな演奏だったのに、自身でもそれがわからないはずはないのに、日フィルのみなさまの渾身の演奏が、とかなんとかスピーチして、そんな悪質なポピュリズムを撒き散らしてると、いちばん熱心な聴衆の失望を買うよ、ってなことが、ずっとだったからなあ、ぼくも、客席で、ずいぶん眉を顰めたよ、

でも、さいきんはいい演奏が続いているようにおもう、

躍起になるのはゲネプロまで、ヘンな話、本番の指揮台に立たなくても、ちゃんとコバケンの表現意志が刻印された音楽が鳴る、それくらいの悟逹を獲てほしい、いまだって、すでにその境涯にまで登り詰めているんだ、音楽性の面では、むしろ、舞台人気質の老成の度合いが、その熟し切った音楽性に追いついてないんだな、せっかくいい音楽を演っているのに、それを当の自身の舞台上における立ち居振る舞いで疵附けてしまう、自覚してないはずがないんだ、だけど、こわいんだとおもう、きっと、入れ込まない演奏で、感動が伝わるか、生気の抜けた抜け殻の音楽になっちまうんじゃないのか、、、もしそうだとした、声を大にしていいたい、コバケン、大丈夫、ちゃんと届いてる、届いてるから、安心して枯淡の境地に分け入り、いままでよりもう一次元上の音楽観に達してくれろ、




ってなわけで、


ちょっと熱くなっちゃったね、
あしたは寝坊しないようにしなきゃ、
まったく、罪だねえ、コバケン、あんまりいい演奏をするもんだから、こちとら、日当を一日分稼ぎ損なったじゃないか、これからも、一介のドカタを寝坊させんばかりの演奏を、たのんますよー、