行ってきた、行ってきた、
行ってきましたよー
2010.10.03
サントリーホール(大)
Sp:生野やよい
Mz:金子美香
Tr:佐野成宏
Br:青戸知
Cho:東京音大
小林研一郎/日フィル
G.ヴェルディ:レクイエム
ん、パートの略号、これであっとるんかなあ、
きのう、一皮剥けない小林の音楽なんぞ、もう聴きたくない、といったんだが、
こんかいのヴェルレク、よかったねえ、そうだなあ、ゆで玉子でいうと、堅い殻は全部剥けて、あと、薄皮が、部分的に、まだちょっと残ってる、という印象かな
なにがうれしかったって、小林の態度が、曲からも演奏からも一歩退いてること、入れ込み過ぎていなかった、
ちょっと意地の悪いいいかたをすると、いまのままの小林でも、唸り声と、ザッツのときのブレスを除去するだけで、その存在価値は、数段、上がるんだ、あんまりキュー出しで、すっ、すっ、すっ、すっ、ブレスされると、わたくしたちは舞台裏でこんなにも入念なリハをやってまいりました、みたいな、かえって弁解がましい印象を与えてしまうわけなんだし、小林、あれほど、聴衆のことを慮って慮っていうんなら、そこまでぼくらの心裡を読み切ってくれよ、というね、いかに舞台に上がるまでに血で血を洗うような壮絶なリハをやっていようと、舞台人である以上、本番のステージ上で鳴らした音がすべてなんだから、ついつい唸り声を出しちゃうのも、小林の曝露心理学的傾向の発露とおもう、こんなにも大切に大切に、音楽を練り、研き上げました、その自負の情を、堅く抱き竦めたまま、舞台へ上がっても解き放ってやることができない、気持ちは痛いほどよくわかるんだけど、やっぱりそれじゃ、聴衆の音楽体験としちゃ、生煮えの憾を拭えないんだよなあ、出来上がった音楽よりも、出来上がる過程を見る方が、なんかたのしいでしょ、みたいな、や、出来上がったものもたまには見たいですよ、ってね、そういう聴衆の心裡に、もうすこし敏感になってくれてもいいんじゃないかなあ、と、で、きょうの小林は、それを、そういう、音楽が出来上がる過程をみなさんに垣間見せてさしあげますよ、ってな、要らぬサーヴィス精神を自重自粛して、終始慎ましく振舞っていたから、聴いてる方としても、「小林の眼に映ったヴェルディの《レクイエム》」というよりも、ヴェルディの《レクイエム》という音楽、それそのものが鳴り渡っている、という実感が随所で得られたんだ、もちろん、恣意的なデフォルマシオンが施された個所は夥しい数にのぼり、むしろそれで埋め尽くされた演奏であったといってよいくらいだが、その手練手管が、従前のように、指揮者が彼の主観によって楽曲を手前勝手な色彩に塗り潰すために、というんじゃなく、あくまでも、楽曲の実像をより如実に浮かび上がらせんがために駆使されている、という印象を結んでいて、そうなりゃ、表情という表情が眞に迫るわけで、ね
あと、近来の小林、テンポの懐深さがいよいよ堂に入ってきた、聴く者をしあわせにするテンポだね、
ぼくは、ベートーヴェンのアレグロ楽章だって、あのマーラーの9番の1楽章のように、遅めのイン・テンポで通してしまえばいいのに、とおもってるんだが、ベートーヴェンはまだせかせかしたまんま、浪漫派を振るときにはやっていることを古典派ではやらない、できない、というのは、どういうことなんだろうね、よっぽどの障壁が、そこにゃあるんだろうね、でも、せかせかしたテンポでは、すみずみまで見渡せるようながっしりしたアンサンブルが組み上げられないんだし、それで小林、たとえば7番の1楽章では、それはどうしたって使う必要ないでしょ、ってな最弱音を織り込んでお茶を濁したりしている、細部の表情というのは、よほど注意して作り込まないと、紙一重でマユツバものに堕するからな、ほかにも、これは浪漫派以降だが、日フィルとの《新世界》のCD、さいきん出たチェコ・フィル盤ではずいぶん練れたんだけれど、3楽章で、低弦のスケルツォのテーマを聴かせようとして、高弦の刻みを抑えたり、フィナーレで、クラリネットに極端な最弱音を要求したり、でも、日フィル盤のばあい、全体にとくに個性的ともいえない演奏のなかで、細部にそういう表情がつくと、かえってコンテクストに収まらずに遊離してしまって、逆効果なんだ、ちなみに告白すれば、ぼくは、フィナーレのテーマを弦が模倣するとき、レガーティッシモにするのだって、べつに、そんなことしてくれなくていいんだけどなあ、とおもってるからな、誰の耳にも留まるようなそういうあからさまなデフォルメというのは、安易な差別化の手段として目立ちやすいアドバルーンを揚げているようで、かえって悪印象なんだ、
んじゃ、そういう表情を断念すればいいのかというと、ま、それもひとつだとはおもうが、小林はそうじゃない、むしろ多彩な表情の連続、その有機体として音楽を生動させる、その表情のひとつひとつを心ゆくまで玩味しながら先へ進もうとするところ、自然にテンポが落ちてくる、そんなかで各パートがレガートに歌ってばかりじゃ、水の量を多くし過ぎて炊いたご飯みたいに、ひびきが、べちゃあ、ってなるだけ、そこで小林、狂気の沙汰ともいえる点打ちで、各パートの起ち上がりを厳格にもらうことに躍起になってる、ぼくは、あれがすきだな、で、起ち上がったパートパートは、奏者のおもい入れが過ぎてフレーズがだぶつくことも、はんたいに、共感に不足して痩せることも、許されない、そんなふうに作り込んでいくと、音楽は生硬になるいっぽうのようにおもえるが、小林の音楽はその豊饒をいささかも失しない、柔軟体操の跳躍のような小刻みな体の揺れも、ついついシャーマンな指揮法のひとコマとして見過ごし勝ちだが、じつは、持続音を歌う際にもそのなかに拍を感じながら鳴ってくれ、というれっきとした指示、のような気がする、したがって、本来の意味とは少しく趣を異にするやもしれんが、そういう小林のさいきんの音楽性というのは、ドラマティック、ロマンティック、というよりは、むしろ、妙に、シムフォニックで、妙に、ね、とくに、いつもの過剰な入れ込みが完全に剥落して、おそいおそいテンポのうちへあらゆるパートを大手を拡げて受け入れたときの威容というのは、ぼくは、かのクレンペラーの晩年に比するとも、なんら遜色のないものとおもっている、あの運動的な小林の音楽性が、ひと皮ふた皮剥けたところでクレンペラーに通じているとは、そういう性質が早いところ盛大に花開いてくれんだろうか、と、僕なんかはそうおもうもんだから、興が乗ってきていままでどおりのつんのめるテンポになったりすると、かえってがっかりしちゃうんだ、もうそういうコバケンは聴かせてくれなくて結構なんで、早いとこその懐にちらちら見え隠れしている奥の手を派手に振るってやっちゃくれませんやろかいな、という、ね、きょうの演奏は、その奥の手がかなり視界に捉えられるようになってきた、というこって、うれしかったね、
ちょっと時間も時間なんで、
演奏の詳細についてはあす、
あすは、
いよいよコバケンのヴェルレクである、
きょう1日は、仕事の往き帰りのヘッド・フォンの音量も、いつもの8割くらいに抑えておいた、
以前、コンサートの会場に着くまで大音量で音楽を聴いていたら、いざ実演がはじまると、音のニュアンスがまるで掴めない、という経験をしたことがあるので、それからは、コンサートの直前はヘッド・フォンをかむって音楽を聴かない、という風に注意している、あまり大きな音、では、ね、
、、、って、ヘンなてにをは、こんな読み下せないニホンゴを遣ってるようじゃダメだな、
恥ずかしいから、ちゃんと推敲しておこう
気を取り直して、
きょう1日は、仕事の往き帰りのヘッド・フォンの音量も、いつもの8割くらいに抑えておいた、
これ、は、ま、これでいっか、ちょっとつっかかる感じもあるけどなあ、よしとしよう、
つぎ、
これもだいぶ以前のことになるんだが、と、いうのは、おおきな失敗をやらかしたことがあって、コンサートの会場に着いてしまうまで、気なしで、大音量で、、、ああ、ダメだ、気なしで、大音量で、、、で、、、で、って、「で」がダブる、そういうことを気にするな、という人もいるんだけどねえ、ぼくは気にする性質だなあ、
ど、どうしようかしら、、、
だいぶ以前のこと、コンサートへ行こうとして、会場に着いてしまう当のそのときまで、、、
んや、ちがうな、ムダな回りくどさだ、
もとい、
コンサートへ行こうとして、会場へ着いてしまうまで、
、、、会場へ着いてしまうそのときまで、
、、、会場へ着くそのときまで、
、、、ううん
どうしような、
どうもオツムが冴えん、ぜ、
だいぶ以前のこと、コンサートへ行こうとして、会場へ着くまで、大音量で音楽を聴いていたことがあった、あ、や、ヘッド・フォンでね、ポータブルの、
ブログだと、こういうような書き方も許されるから、まだ逃げ場があるね、これがちゃんとした散文なら、、、、ま、会場へ着くまで、大音量で音楽を聴いていた、といってんだから、文脈上、その大音量の音楽を発しているのはポータブル機器のヘッド・フォンだ、とそれくらいのこた読者の推察に委ねていいんだが、いっさいの誤読、誤解を排さんとするなら、だいぶ以前のこと、コンサートへ行こうとして、会場へ着くまで、ポータブル機器のヘッド・フォンで大音量で音楽を聴いていたことがあった、となって、またもや、「で」がダブる語呂のわるい文章になってまう、
ううん、が、ま、上記にて及第ってことでひとつ、
で、実演がはじまるまでなんの気なしでいたんだが、いざオーケストラが鳴り出してみると、どうも、音が耳へ届かないというんか、や、聴こえてはいるんだが、ニュアンスが把持できないというんか、、、けっきょく、コンサートがはねてしまうまでもどかしさは解消せず、、、帰ろうとおもって、ヘッド・フォンをかむって聴き出した瞬間、なんだ、これかよ、、、とね、
よし、うまくいった、ちゃんとイミの通ずる文章になったね、めでたしめでたし
ま、ちょっと妥協したけどさ、
んで、それからは、コンサートの直前には、音量を絞るか、あるいは2、3日音楽を聴かないようにするかしている、断食ならぬ断楽でさね、すると、コンサート当日、すこぶる耳のコンディションがいいんだわ、ま、演奏がダメではどうしょもないん、だ、けれど、
あと、ぼくは蓄膿の気があるから、や、気があるどころじゃない、重度の蓄膿患者だから、洟をかむのにも気を遣う、
あまり勢いよくかむと、耳が詰まっちゃうからね、ふだんは別にいいんだが、コンサートの直前は、細心の注意を払って、ゆっくり、ゆっくりかまないとね、
にしても、音楽好きなのに蓄膿って、ぼくも神様から手酷い仕打ちを受けたもんだね、
ちなみに、たったいまいま、コバケン/京響のマーラー5番のCDを、ヤフオクで落とした、
かれの稀少CDのうちでも最も興味をそそるものだっただけに、晩酌しつつ快哉を叫ぶ、
ま、かなりの商敵がいて、自動延長で張り合った末のことだがな、
あれはどうなんだろう、サクラ、というんか、そういう人なのかねえ、出品者に頼まれてやってる、という、そうなら、とうぜん犯罪に当たるんだろうがな、ま、不特定多数の人間が閲覧できるこういう場で、まるで根拠とてない臆説によって出品者を誹謗するかかる執筆行為もまた、とうぜんながら、犯罪ではあるがな、ま、特定少数の人間しか読んではいないだろう、と、いうことで、、、め、免罪、、、?
こないだの日フィルとのLPと演奏年がそう違わんから、おそらくは、演奏内容は酷似しているだろう、が、小林のように微に入り細に亙る表情附けを事とする指揮者の演奏では、それぞれのオーケストラのポテンシャル如何で、指揮者としては同様の表現を行なっているつもりでも、バランスが違ったり、強弱が違ったり、音色が違ったり、呼吸が違ったり、で、そういう微妙な差異を聴き分けるのが、聴き手として、無上のたのしみなんだなあ、ちょっと偏執狂的なところがあるんだろうな、自分では意識しないが、傍から見りゃね、
ともかく、CDの到着を鶴首
って、書いてるうちに日付まわったから、コバケンのヴェルレクはきょうだね、
なぜいまヴェルレクを演るんか、ちょっとわからんが、ま、ともかく、
で、希望としては、あまりドライヴしようとしないで、泰然と振舞ってほしいな、
自分は熱くならず、音を出してる連中だけを駆り立てる、さいきんの小林、コンサートでもCDでもそうだが、ものによってはそういう風格が出るようになってきた、だけど、本人自身、逡巡しているところがあるんだろうな、それが悪い方へ転ぶと、おれぁまだまだ草臥れるわけにぁいかねえ、と、わあああああ、ってオケを煽って、オケが持ち堪えてくれりゃまだなんとかなるが、どうも、瓦解するだけ、という演奏になり勝ち、のときも、ま、しばしば、あるからねえ、煽った演奏というんは、ま、それはそれなりに、客席で聴けば興奮するし、べつに悪感情ばかり懐かせるものでもないけれど、ぼくがこれからの小林に期待するものって、そういう、刹那的な、一期一会といやそりゃ聞こえはいいかもしれんが、、やっぱりその場だけスカッとさせるような快演でなくて、この演奏がきょうここで成し遂げられたということ、それを、客席に坐して、自分も、体験したということ、それって、、、と思いを馳せるや、なにか空恐ろしい気さえする、そんな演奏が、もういまの小林には十分に可能だとおもうんだ、そういうものを聴きたいんだが、それをいちばんに阻害してるのは、当の小林自身の、あのいつ果てるとも知れぬ青春気分なんだなあ、
僭越だよ、そりゃわかってる、でも、いまの、まだまだ元気いっぱいの彼より、枯れた小林研一郎、それを想像する方が、ぼくとしちゃ、ゾクゾク、っとくるんだ、あの小林研一郎が、枯れる、、、ぶるぶるっ
いまんとこ、ぼくが実演に接したなかでは、彼のそういう老熟の片鱗が垣間見えたのって、あの日フィルとのマーラー9番初振りかあ、2晩とも聴いたが、あれは生涯忘れられないね、だけどあれで、小林研一郎もついにこの境地にまで辿り着いたか、とうれしくおもっていたら、そのあとの上野の文化会館でのN響との《幻想》では、また元気いっぱいに後戻りしちゃって、あれから数年経つが、いまでも、元気いっぱいが続いてるんだ、ま、N響との《幻想》、オケが上手いから、いつも以上にかっちりとしていて、気持ちよかったんだけれど、でも、ぼくがみたいコバケンというのはそうじゃないよ、煽って、盛り上がって、あとは野となれ、、、じゃなくて、いまあなたが《幻想》を演るなら、クレンペラーも真っ青の、豪胆たる、恰幅のいい、腰の据わったベルリオーズにしてほしいんだよ、と、、、ま、こっちの願望にすぎないんだが、とにかく、従来のスタイルの焼き増しで、たまたま完全燃焼できたかできなかったか、みたいなコンサートの繰り返しから脱して、もうひとつ上のステージへ、意識的に飛躍していってほしいんだけどなあ、や、巧まずしてそういう音が鳴るときはあるよ、こないだの日フィル定期のドヴォ8の3楽章、あれなど、それこそクレンペラー的な威容だったなあ、しかもしあわせ、あんなにしあわせな3楽章はないよ、でも、両端楽章ではやっぱり煽っちゃうんだよなあ、じつに惜しいねえ、
って、もう寝なきゃ、
んじゃ、あす、コンサートの報告、いたします、
おやすみ
だあれかさんが だあれかさんが だあれかさんが
みいつけた
秋雨ですなあ、
仕事は、なんとか1日分の日当をもらって、2時過ぎには放免、
また末廣亭に行こうかともおもったが、やや冴えない番組と見受け、、、
30日なのでタワレコへ、
ドラクエのなんとかいう編曲家による吹奏楽のアルバムが2枚出たので、それを求めたんだが、Part2はあるのにPart1は品切れというよくわからない事態、3000円のCD1枚買うのにタワレカード3枚発動するのは惜しく、けっきょくなにも買わずに帰宅、しかし、タワレコのpopによると、管弦楽版に準拠した編曲とのことで、やや失望、どうせなら、すぎやまカラーを、編曲家独自の味に、大胆に、塗り替えるべきだろうに、って、まだ聴いてもいないんだが、で、そのおなじpopには、ウィーン・フィルが《スター・ウォーズ》の音楽を演奏したことがある、とか書いてあった、そこへいくと、すぎやま音楽は、まだまだクラシックのミュージシャンに受け入れられていないなあ、すぎやま氏ご本人が、せっせと日本中飛び回って、自作の演奏を続けてるんだ、ぼくが本職のクラシックの指揮者だったら、すぎやま氏のいくつかの作品、日本が世界に誇る最先端の現代音楽だといって、臆することなく堂々と、コンサートの演目に掛けるがな、それも定期演奏会のね、たかだかゲーム音楽ごときを買いかぶり過ぎてるって? んじゃ、試みにすぎやま氏の《ドラクエⅣ》や《同Ⅴ》のスーツと、ビゼーの《カルメン》や《アルルの女》スーツ、チャイコフスキーの《ナッツクラッカー》スーツ 、あるいは、ハルキ・ムラカミのおかげで、いやいや、せいで、ん、や、おかげで、、、最近なにかと話題のヤナーチェク《シムフォニエッタ》、そいから、ホルストの《惑星》、バーンスタイン《ウェスト・サイド・ストーリー》スーツなどなど、を、先入観を排して聴き較べてみせう、後者が定期公演の演目たりうるんなら、前者だって、とぼくはおもうが、ま、ぼくは、ね
ホセ・オルテガ《大衆の反逆》読了
とても他人様が書いたとはおもえん、
ぼくが書いたんじゃないかなあ、この本
時空をねじって、オルテガを相手取り、著作権侵害の訴訟を起こしたいところだね、
久野收氏の解説は能天気に過ぎるとおもう、
氏、いわゆる市民主義者なんだろうが、真に心ある人間は、日常生活のなかにだって超然たる体験があることを身体で知ってる、市民主義ってのは、要するに、そのことを頭で、オツムで、拒絶せんとする瘦せ我慢にすぎなくて、人間どうせ平凡なんですからあ、という不健全な溜め息によって、人間自身、当の市民自身を窒息させ、勤勉きわまる労働廃人に成り下がらせる、悪魔的なイデオローグとおもう、しかも天使の仮面をかむっているときているから始末に負えない、なにが嫌いって、あまりに無邪気に性善説を謳うトコ、性善説論者よりも、性悪説論者の方が、より熱烈に、人を愛そうとし、人に愛されようとして、もがき苦しみながら生きてる、で、だからこそ人間なんであり、だからこそ愛し愛されることに張合いもある、そういうことを、年百年中でないにしろ、日常のふとした空隙に、はっ、と冷や汗をかかされるようなスリルとともに経験するのが、つまり人生の真実だろう、はい、みなさん、ボク市民主義者です、日常生活んなかで、抽象的な、超然とした、取り留めもない夢想に身を窶してたっていかにも非生産的ですから、市民は市民らしく、労働に精出しましょうね、青臭い人生哲学なんざは青春時代に置き去りにして、そろって社会の歯車のひとつになっちゃいましょうねー、趣味嗜好についても、あんまりファナティックなものに首突っ込まないようにしましょうねー、とにかく、みんなでいっしょに、平板な人間に成り下がっちゃいましょうねー、みたいな、、、や、市民主義者のみなさん、ごめんなさい、、、で、でも、市民主義って、解題すればこういうもんなんじゃないのかなあ、
自分で望んでなったのならいざ知らず、こちとらは、市民にしてもらったわけのものじゃないんだしねえ、社会ってものは、そんなハーモニアスなお目出度いもんじゃなく、得体の知れぬ魑魅魍魎どもが、どうにかこうにか緊張関係を保っているために、一見するところ、平凡な日々の羅列に見えるだけ、っと、そういう風にかんがえる方が自然だとおもうね、ぼかぁ、オルテガもそうなんだ、で、すばらしいとおもったのは、けっして怨み言を吐くような汚い文章の連続じゃないんだ、むしろ毅然とした批判的文体だな、そこが秀逸だ、ぼくにとっちゃ、範とすべきひとつの重要な書で、これからも、折に触れて読み返すことがあるかとおもう、
訂正、
申し上げる
や、こないだ、
デ・ブルゴスの《カルミナ・ブラーナ》で、ソプラノを唱っているのがレリ・グリストだといったんだが、ただしくはルチア・ポップだった、しつれい、あのへんの時代の歌手というのは、ぼくらの世代では勢力図が描けないんだなあ、
そいから、W.フォークナーの《エミリーにバラを》で、エミリー婆さんは故人じゃない、とこれまた事実に反することを書いとる、かさねがさね申し訳ない
いま帰宅したトコ、
もろもろ用事を済ませて、ヒマがあれば更新するー
けっきょく30日を待ち切れず、
先週の土曜、上岡敏之のCDを買ってきてしまった
上岡敏之/ヴッパータール響
ワーグナー・アーベント(COGQ45)
マーラー5番(COGQ46)
以上2点
マーラー
やはり、ほぼ予想した通り、飄々とした演奏だな、
はじめにいっておくが、やはりぼくは、バーンスタインの系譜に連なる激情に充たされたマーラー演奏が好きだな、上岡のやりたいことはよくわかるし、価値も高いとおもうが、ぼくには、最近の収穫である、山田一雄/N響、小林研一郎/日フィル(83年)のような演奏の方がしっくりくる、
ただ、感覚の新しさには瞠目
20世紀の側から延長線を引いても、ちょっとこういう演奏観は創造できないようにおもう、上岡の存在感は、きっと、そこんとこに懸かってるんだろう
1楽章から、演奏を印象的なものに仕上げるうえで駆使されている手練手管が、ほかの指揮者のそれとはひと味もふた味も違う、強弱や音色というより、各楽器の質感みたいなもの、それで勝負している、2楽章などに顕著だが、むしろ、部分部分における強弱や音色の極端な落差、すなわち、古今、マーラー演奏をマーラー演奏らしく聴かせる上で必須の条件とかんがえられていたもの、が、ここでは拒否されている、楽想の激変も、ふつうなら誇張した演奏にするところ、あえてそうしない、できないのでなく、しない、譜面上ですでに激変している音楽を、演奏においても激変させては、重複した表現となりはしまいか、この手の演奏は、そういう哲学というか、信念の所産とおもう、ワルターのマーラー演奏も、そういうかんがえに依っているとおもうが、上岡の天稟も、おなじ傾向を帯びているのだろう、
で、もしかしたら彼、内容というものに興味がないのかもしれない、
こういうものいいを暴論だというならそれもよかろう、しかし、そういっている間に、彼の音楽は、ぼくらの傍らを吹き過ぎていってしまうかもしれない、
音楽と聞けば内容とおもえ、
とはいうものの、、、わざわざおもわなくとも、音楽が真に迫っていさえすれば、聴き手の方ではひとりでにその内容におもいを致すことになる、それが、音楽にまつわる感動の、偽らざる姿であろう、
上岡は、そこに向けて、すなわち、直接内容に向けてでなく、内容を如実に伝える音の鳴りに向けて、潑溂たる彼の創意を投擲しているようだ
そういうことをやりたがっている音楽家は、この時世、五万といる、いわゆる純音楽美を目指した演奏というやつだが、ひたすらに音を磨いて、内容に触れられる者と、ただ整然と音響が並ぶだけの者とがいる、目指すところはおなじでも、両者の間には雲泥の差がある、上岡は雲だ
ワーグナーはまだ
話は変わって、こんどの日曜、
コバケンのヴェルレクを聴いてくる
報告はまた後日
いやはや、
本職が捗ったので、更新は滞った
連休は20日、22日発売の上岡敏之のCDが、前倒しで店頭に並ばぬものかと新宿へ
あえなく
ほかのCDを買った、
山田和樹/東混・東響 佐藤眞《土の歌》ほか(OVCL-00425)
クレンペラー/バイエルン放響 メンデルスゾーン《スコットランド》ほか(TOCE-9798)
テンシュテット/ウィーン・フィル マーラー10番アダージョほか(ALT195/6)
以上3点
上岡の方は、もう発売しているが、いまタワレコが0のつく日に3000円以上買うとタワレ・カードなるものをくれるキャンペーンをやってて、だから20日に出掛けたのだが、まあ、コンサートは10月の半ばだし、30日に買えばいいや、
ヤマカズといえば、最近のぼくは山田一雄の方のヤマカズに心酔していたが、いまヤマカズというと、この若き山田和樹を指すよう、79年生とのことで、ぼくといくらも歳が違わん、ブザンソンで優勝したり、小澤に呼ばれてサイトウ・キネンを振ったりと、まあ八面六臂の活躍だねえ、藝大出で、コバケンのお弟子なんだ、
ぼくは、こっちのヤマカズを彼の無名時代に聴いてるんだ、
ありゃそう、田舎で浪人してた時のはずだから、もう8年くらい前かね、ぼくは19、ヤマカズは22、3かね、藝大を出てすぐか、在学中だったのか、
名工大、名古屋工業大学の学生オケの定演、愛知芸文センターのコンサートホール、キャパは1500くらいか、こぢんまりとしてていいホールなんだ、久しく行ってないなあ、
曲目は、メインがサーンスの3番だったこと以外は覚えてないね、アンコールでオルガンに《きよしこの夜》を弾かせていたから、クリスマス頃だったんだね、最後はエルガーの《威風堂々》1番で、ヤマカズが、質素な布袋から出した鈴を振っていたな、残念ながら、演奏内容は明瞭に記憶していない
8年間でちょっと肥ったみたいね、彼、ちょっとじゃないだいぶか
で、こんかいのCDだが、正直に言って、ぼくは、ふだんこの手の合唱曲にまるで縁がないので、評価の基準がよくわからん、わるい演奏には聴こえないが、いかんせん比較対象がなく、これがどの程度のものなのか、といういいかたができん
東響は、久しぶりにその音を聴いたが、90年代には、こんなにクリアな音は聴かせてくれなかったようにおもう、いい音だ、しかも、山田の棒が所を得ているのか、合唱の引き立て役にばかり徹っしていないで、しばしば剥き出しのひびきで肺腑を抉る表情を出してくる、もちろん、会場が初台のオペラシティということもあってか、力尽くの音を出すことはなく、小気味よい
オケについても素人だが、合唱についちゃ門外漢中の門外漢で、いうべきことばを知らない、が、あえていえば、女声の高音などとくにそうだが、どうしても子音の発音が不明瞭になり、こういう日本語の歌では、なんと唱っているのか聴き取れず、もどかしさが残る個所はある、それを回避するには、よほど優秀な合唱団が要るんだろうな、ま、東混が下手とは、すくなくとも門外漢の耳で聴くかぎり、おもわんが
あと、必要以上に声楽声楽した唄い方は、ぼくはいやだな、
日本語の歌だと、が・ぎ・ぐ・げ・ご、を、あまり極端に、んが・んぎ・んぐ・んげ・んご、と発声したりするの、
声楽のためにだけあるといってもいいようなことばの発音で歌を唄うってのは、ちょっとナンセンスだとおもう、日本の合唱団、たとえば第9なんかでも、ウムラウトを聞えよがしに強調し過ぎたりしてて、はたしてホントにあれが内容表現に繫がっとんのかいな、と
オペラはともかく、宗教曲や、シンフォニーにおける人声の扱いというのは、これからの時代、より話し言葉の発音に近いかたちで唄おうとする傾向が顕著になるものとおもう、や、すでにそういう時代になってる、こないだのヤルヴィの《復活》のアルトがそうだった、あの《原光》はいいね、聴いててしっくりきた、そうそう、っていう、こういうオペラティックでない、当たり前のことばの発音に近い唄い方が聴きたかったよ、というね、、、と、いうかさ、むかしの歌手は、もっと発音が明晰だったようにおもうんだけどなあ、レリ・グリストとか、デ・ブルゴスと《カルミナ・ブラーナ》を録ってる(EMI)けれど、あのころころした唄い方にはしびれたね、ことばが全部目に見えるからね、高い方になるとキンキンするひびきと音程しか聴こえない、ってことがないから、ちなみに、女声の高音のキンキンする音ってのは、ヘッド・フォンでしか音楽を聴けない貧乏リスナーにとっちゃ、いちばんの天敵なんだよね
で、このCDでの東混だが、そういう過度に強調された発声法に依っておらず、いい、女声の高音は、やはりぼやけるところがあるけれどね、ま、やむをえん
だけど、指揮者の手腕がどれほどのものなのか、という観点で聴けないのは、ちと残念だね
そういう聴き方に慣れ過ぎていて、ただ耳元へ流れてくる音楽を愉しむ、という素朴な鑑賞ができなくなってるんだな、かんがえようによっちゃ、この演奏よりこっちの方がいいだの、これに較べるとあっちはずいぶん聴き劣りがするだの、年中そんなことをやってんだから、さもしいっちゃさもしいよねえ、クラシックのリスナーって、でも、そうじゃないリスナーというのは、ぼくは信じないね、音楽を演る側が野心を懐いていなくちゃならんのは当然としても、聴く側も、ぜひともよい演奏が聴きたいものだ、という野心を燃やしていなくてはダメだ、こうでなきゃならん、という、よい音楽を求めることについちゃ、リスナーは手の着けられない暴君でいいんだ、あれもよい、これもよい、みんなよいよい、ってな似非ヒューマニストの耳なんかにゃ、音楽はなんにも語り掛けちゃくれない、と、いうよりも、ぼくには、同じ曲の異なる演奏がある時に、そこに優劣をつけずにいられるという人の精神構造が理解できん、ボケたんと客席に坐ってちゃいけないんだな、なんだけど、さいきんは、シュード・クラシックとでも揶揄したくなるようなものが蔓延しているから、コンサートへ行っても聴衆の劣化を感ずることがずいぶん多くなったなあ、腹立たしい、なかには、社会人としての一ステータスのために、クラシックのコンサートとか来てみたんですけど、みたいのすらいるからな、あんな輩共と同列の聴衆として客席に坐さねばならぬというのは、こちとらにとっちゃ、じつに、心外だねえ、そんなカネないけれど、俺がチケット代払い戻してやるから、アンタ出てきなよ、っていうのがけっこううじゃうじゃいるんだ、開演前から客席に異様な緊張感が漲ってる、ってなコンサートは、絶えて久しいね、咳払いや、チラシを床へ落としたり、演奏が始まっても隣同士雑談をやめにしなかったり、そういうノイズもかなり盛大で、あれじゃ舞台に立たされる側もかわいそうだねえ、演奏する側が試されるように、聴く側もその演奏によって試される、そういう緊張感のあるコンサートに巡り会いたいもんだね、なかなかないんだ、
話が逸れたな、
あとの2枚はまだ聴いてないんで、後日、
そいから、
20日
末廣亭に行ってきた、
昼夜入れ替えなしだから、昼の12時から夜9時までほとんど座りっぱなしで、さすがに疲れたね、
演者は、番組表とずいぶん違ったんだ、
昼席は、中入り前が円丈、そのちょっと前に川柳とあって、ほとんどそれだけを目当てに行ったといってもいいが、ふたりとも代演を立ててて、どないなっとるんや、と
おもってたら、中入り後に川柳師は出てきてくれた、
師、あの噺しかやらんのかなあ、ま、おもしろいからいいけど、にしても、80前であのはきはきとした喋りはすごいね、腰もぜんぜん曲がっとらんし、あと、ジャズの口三味線は相変わらずの妙技だ、サックスのときはサックスの音になるし、トランペットなんぞ、トランペットよりトランペットの音だからなあ、あれはすごいね、
あとは、圓太郎、たのしみにしてたんだけどなあ、これも代演、残念、
夜席は、坐りっぱなしで、尻が痛かったってことしか記憶にないが、
あ、いやいや、
主任は権太楼師、昼の主任は才賀師で、たまたまこないだ横浜にぎわい座でもトリを取っていたから、ご縁があった、余興も面白かったし、
権太楼師は《火焔太鼓》を演った
CDをもっているが、当然ながら、概観は変わらず、
寄席での一席にしては、わりかしたっぷり演ってくれたような気がする、ま、トリだから、ね、
師は、ご本人のキャラや話し振り自身、失礼だが、与太郎っぽくて、群像劇、《火焔太鼓》でいえば、甚兵衛、おかみさん、定吉、侍の相関を見下ろす、いわゆる、神の視点、が、もうひとつしっくり定位しない憾みなしとしない
けれど、も、本家本元・志ん生師は別格としても、いくつかの点では、権太楼師の《火焔太鼓》、ぼくは、志ん朝より勝れているとおもう、や、全体としてはそりゃ志ん朝だが、細部の表情の附け方が、ね
どこかってえと、甚兵衛が太鼓を背負って歩きつつ、かかあの文句を言いながら徐々に昂ぶって、その頂点で、「御門番さん、こんにちは」というトコ、ここは権太楼師、うまい、もちろん正調じゃないんだけどね、
あと、は、お侍に「手一杯申せ」といわれて、手をいっぱいに拡げ、「それはいくらのことだ」、「十万両です」、「貴様、起きとるんだろうな」ここの、「貴様、起きとるんだろうな」は、今回の高座でも、CDでも、まったくおなじ表情の附け方だった、師自身、気に入っている演り方なんだろう、全体に与太郎調のなかで、この侍にだけ理性の光を当てて造形を引き締めているのだが、その理性の片鱗が、この「貴様、起きとるんだろうな」で、キラッと光るんだ、だ、だが、のわりに、客の沸きは、この部分、もひとつだったな、ぼくなぞは、あ、うまい、いまうまかった、と、おもわず耳をそばだたせられたんだがな、その点、落語を聴くのも、音楽を聴くのによく似ているな、最後の決め手は、細部の表情の附け方なんだ、そういうトコは、なにがあっても聴き漏らしちゃいけない
しかし、志ん朝師にせよ、権太楼師にせよ、壮年期の、覇気あふるる《火焔太鼓》なんだな、
ビクターに志ん生師晩年の《火焔太鼓》が、《文七元結》とのカップリングで入ったCDがあるが、《文七元結》もさることながら、あのCDでの《火焔太鼓》はすごい、枯れた《火焔太鼓》なんだ、爆笑譚であるはずの《火焔太鼓》が、枯れているんだな、客も、入ってないんじゃないのか、とおもえるほど、ところどころでかすかに笑う程度だし、これに較べると、子息・志ん朝師のも、権太楼師のも、《火焔太鼓》らしい《火焔太鼓》なんだ、《火焔太鼓》らしい《火焔太鼓》でしかないんだなあ、ま、志ん生師以外に志ん生師の味を求めてもせんないが、な
って、
噺家にはみんな敬称を附けて、しかも、ところどころ附け忘れてて、
ミュージシャンは、上岡だ、山田だ、とみんな呼び捨てにしちゃって、
なんとも不統一な記事になってしもうた
ヴァントのブルックナー
の、つづき
きょうは、きのういったとおり、ベルリン・ドイツ響とのブルックナー5番を聴いた、
ミュンヘン・フィル盤が95年、このベルリン・ドイツ響盤は91年の録音、
オケの性格のためか、録音年が比較的ふるく、ヴァントもまだ最期の老熟には至っていないのか、わからないが、ミュンヘン盤に比するに、ずいぶん、委細構わず、という個所がある、もちろん、練れた演奏であることはたしかで、解釈自身はベルリン・フィル盤、ミュンヘン・フィル盤とかわらないが、
ミュンヘン盤のほうが、ヴァントらしさという点では上を行っているようにおもうが、このベルリン・ドイツ響盤の、オケの張り詰めた鳴り方も捨てがたいね、ミュンヘン盤ですらすごいんだから、
この本も再読になるが、今西錦司《進化とはなにか》(講談社学術文庫)を読了した、
正式な論文でなく、かの有名な今西進化論の、氏自身による紹介、というか、案内というか、そういうものの集成である、読みやすい本だが、なにしろ今西氏であり、臆することなく、ダーヴィニズム、とくに、突然変異のかんがえを導入して、氏曰く、ダーウィンの直系としての立場を楯にとって頑として批判を斥けてきたネオ・ダーヴィニズム、をあいてに、堂々と向こうを張り、しかも、読者に対しては、ささやかな設問を投げ掛ける、というタッチである
お説によって、突然変異と自然淘汰が、進化の過程を説明するには、はなはだ不十分か、ともすると、こんななぁシュード・サイエンスだぜ、ダーウィンさん、スペンサーさん、といいたくなるようなマユツバものなのだとわかった、が、すると、進化っていったい、、、
この人の、直系、でもないのか、わからんが、いまは、福岡伸一氏ががんばっているな、
動的平衡、あれほど面白い理論もない、
今西氏にしろ、福岡氏にしろ、ガクシャさんにも、こういう愛嬌のある理論家がいるというのは、なんとも嬉しいな、
玄米と一緒に大豆を炊いた、
ら、すばらしく美味、であった、
大豆の歯応えは好きである、
雨は降り続き、仕事は中止、で、また、立川まで裁判の傍聴に出掛けようかともかんがえたが、丸一日拘束されてしまうことをおもうと億劫であり、そうこうしているうちに幸福な2度寝、3度寝を味わうこととなり、昼過ぎにようやっと起き出して、ヴァイニンガーの《性と性格》という気狂いじみた分厚い本を、気も漫ろにぺらぺらとめくってもピンと来ず、で、豆御飯を炊いて食べ、
上岡敏之/ヴッパータール響 シューマン4番(デンオン・COGQ42)
と、
G.ヴァント/ミュンヘン・フィル ブルックナー5番(Profil・キング・KICC809)
という2枚のCDを聴いた
上岡のシューマンだが、1楽章の主部、リピートで質量を高める、というやりかた、
何年か前の初台での《運命》でもそうだった
ぼくとしては、素人考えだが、ベートーヴェンやシューマンの作品、すでに十二分に人口に膾炙しているわけなので、ソナタ形式の主部を、はじめご挨拶程度に演奏し、リピートで濃度を高める、というのも面白いが、すると、提示がまさに提示にすぎなくなってしまうようにおもわれる、逆に、はじめは、たどたどしいほど抉りに満ちた演奏を行ない、さすがにやり過ぎているなあ、もうちょっとすっきりするといいんだが、と聴衆がおもう頃、リピートに入ると、流れが軌道に乗り、角が取れ、しかも丸くなり過ぎず、心地よい進行が確立される、という風にしてもよいのでは、と夢想したりするが、、、さて、今度のマーラーではどうなるかねえ
ヴァントのブルックナー
ベルリン・フィル盤では、1楽章の展開部冒頭、一度昂ぶったのち、オーボエが諦念を吐露しながら下降し、弦の森閑たるひびきを背景に、木管の点描が星々のまたたきをあらわすところ、が、テンポともども、ややそっけなかったようにおもうが、このミュンヘン盤は、いい、ここは、朝比奈/大フィルの最後のレコーディングもよかったな、さすがに強音部の覇気は、往時に比して、低下しているけれど、静かなところは素晴らしいね、で、ヴァントはというと、こっちも晩年の演奏なんだけれど、剛毅をきわめている、ミュンヘン・フィルといえば、チェリビダッケとのチャイコフスキー5番(EMI)などが印象に残っているが、立派な鳴りだ、じつに、ま、チェリはなあ、あたまっからおしりまで考え続けているような音で、ぼくはヤだがな、ヴァントの方が、音楽としてグレードが高いね、こっちも考えた音なんだけれどね、しかし、いくら音を考えても、じっさいに鳴らした音が、「考えた音」のままで聴こえてくるようじゃ、まだまだ表現としちゃ生煮えだね、それがチェリで、ヴァントは、アナリーゼの極致で音楽そのものに触れているんだ、逆にいうと、そこまで究め尽くせないのなら、アナリーゼアナリーゼした演奏などやるな、っておもわせるくらいのものだね、彼の晩年の音楽ってのは、
ところで、ブルックナーの5番、その星空を仰いだあと、しばらく展開すると、おなじく木管の点描が、ショスタコーヴィチのようにひびくところがある、
ブルックナーの音楽をめぐることばの営み、荘厳、厳粛、静謐、とかいう形容で括り切っているような人、案外おおいな、というか、ほとんどがそんなでねえ、ぼくは、いつも首を傾げてるんだ、そんな言葉ばかり並べて、朴訥さのなかからとつぜん貌をのぞかせる、このショスタコーヴィチ的奇矯さをどう説明するんだ、というね、そ、朴訥、といういいかたさえ、あまりみないな、うん、、、ま、まあ、奇矯というのでもないかもしらんが、すくなくとも、ここの木管のひびき自身は、全体に蒼枯な彼のシンフォニーのなかで、とつぜん現代的、ゲンダイ的に鳴るわけなんだし、ぼくとしては、たとえばマーラーが、一所懸命に分裂した音楽を書こう書こうとしているときに、ブルックナーは、巧まずして、彼のうちに宿る得体の知れぬタレントを、ここでの木管のように、発現させる、そういう計り知れない作曲家で、聴き手としては、、安易な形容辞を紡ぎあぐねる、紡ぎあぐねて、ただ、黙ってその音楽に打たれているしかない、しかもそのことがまるで不愉快でない、むしろ心地よい、そういう人なんだがね、聴き手として、あまりすることがないような気にさせるな、ブルックナーってのは、マーラーやチャイコフスキーだと、一緒に泣いたり叫んだりできるんだけどねえ、ブルックナーはただ浴びてるだけ、で、それがヤじゃない、という
しかも、ところによっては、ほかのどの作曲家よりも赤裸な感情を謳い上げたりするからねえ、5番でいえば、2楽章やフィナーレのヴァイオリンの高音に、その如実な刻印がある、これに較べると、浪漫派の作曲家連なんぞ、ずいぶん気取っているね、泣いてるんじゃなく、泣いてる風を気取っているし、憧れてるんじゃなく、憧れてる風を気取っている、怒っているときも、絶望し、叫んでいるときも、みな一緒だね、じっさいは、その風を気取っているにすぎないんだ、そんななかで、ブルックナー独り、素っ裸だったりするから、共感するというより、唖然としちゃうね、しかも、ここでも、それが不愉快じゃない、ブルックナーという人においてけぼりにされる感がね、あえてきわどいことばを用いると、白痴美的、とさえいいたくなる、なにか、不可触の、もの、という、かんじ、ね、
そんな姿が、ぼくにとってのブルックナーで、ときにゲンダイ的奇矯さ、ときに素っ裸の感情、となると、世上に流布している、壮麗壮大、厳粛雄渾、森閑静謐という彼のイメージとはずいぶん隔たりがあるんだな、もちろん、そういうことも感じるんだ、壮麗壮大とか、厳粛雄渾とか、森閑静謐とか、しかし、そのあいまから、もしかしたら、作曲者自身、意図せざるものが、ぽつぽつと、こぼれてくる、ぼくは、そのことに著しい興味がある、そちらにばかり目がいく、というんじゃなく、この、どうかんがえても、洗練されない、朴訥な、不器用な人間の、いったいどこに、これほど尖鋭な閃きが隠されているんだろう、というね、だけど、そういう風にブルックナーを語る人は、ほとんどいないね、まことにお寒い限りだ、しかし、どいうことなんだろうね、彼の音楽、ちょっと丁寧に聴き込めば、方々で、そういう、俄かには解し難い彼の面影に巡り会うはずなんだけれど、誰もそれについていわないというのは、ただ、語彙の問題なのかねえ、ま、宇野さんくらいのものか、あの人の文章は、ぼくにとって、ブルックナー理解のおおきな助けになったからなあ、ま、きっと偏見を懐かれることになるんだろうし、あまりこういう場で、宇野功芳に感化されていると口外せぬ方が賢明なんだろうが、ちょっとだけいわせてもらえば、むしろぼくは、世間の宇野氏に対する見方にこそ、おおいなる偏見が含まれているとおもうねえ、老害老害、とかって、むしろぼくには、ここ数年で、彼の文章、ますますの若返りを示しているように読めるんだが、まあ、このハナシはいいや、べつに、宇野信者とかって白い眼で見られても、いっこう平気だからねアタシャ
で、ヴァントの5番、
2楽章の途中で、のちの9番のアダージョ、あの天上へ向かって幾筋も光が伸びてゆくところとおんなじひびきが聴こえる、スコアがないのでわからんが、チェロかヴィオラと、オーボエの音かなんかを混ぜたひびきなんだ、で、弦、あまりヴィブラートを掛けていない、ように聴こえるんだけど、、、ま、ヴァント大先生のやられることだ、具体的にどこをどうやってこういう音を出しているのか、ちょっと素人にはわからんね、とにかく、指揮者に明確な意図があって、かつオケがその意図を完全に音化しえている、ということは、聴いていて、わかる、わかるんだから、ぼくは、それ以上に専門的な知識がほしいとはおもわんな、だけど、こういうこというと、また話が逸れるけれど、けっこう流言飛語を浴びせられるんだなあ、言論界というのは、いつからそうなっちゃったのかねえ、ポスト・モダン以降なんだろうね、きっと、小林秀雄なんかは、頻りに、たとえば映画の批評なんかで、学者共はなんだかんだと喧しくいっている、だが、映画館の椅子に腰掛けて銀幕に見入っている市井の人々は、そんなこむづかしいこたぁ露かんがえんよ、学者共よ、そういう人間の当たり前の在り方に立ち還ったらどうでぇ、べらぼうめ、みたいなことをいってて、ホント、頼もしいんだけどね、いつのまにか、言葉を操るのを職としている人たちのほとんどことごとくが、小林秀雄の呪った当の学者的人士に成り下がっちまったんだ、そういう人のなかに、またなぜだかしらないけれど、アカデミズム批判者というのがいて、要は、アカデミズムによるアカデミズム批判、新旧アカデミズムのお家騒動的交代劇に過ぎないんだが、そういう醜態を、日夜、繰り返しているんだねえ、こちとら、一介の肉体労働者で、ホント、よかったよかった、
で、で、スケルツォがあって、フィナーレが来ると、
コラール主題が出てからあとのところで、ヴァイオリンに、ひやっとさせる、じつにリスキーな音程のところがある、そこなんかも、ブルックナーという人の不可解さを象徴するような場面だね
大団円は、そのコラール主題が凱旋してくるところ、ものすごい気魄だね、ヴァントというのは、これほど入れ込む人だったのか、おどろき、これがチェリなら、たとえ密度の濃いひびきを実現していたとしても、準備した音を、準備したとおりに鳴らしているなあ、という、じっさいに鳴っている音の熱っぽさとは裏腹の、なにか醒めたかんじを、聴き手に、与えてしまうんだが、や、さすがヴァント、ぼくなど、興奮のあまり、ヘッド・フォンをかぶったまま、立ち上がり、そのコードの長さの許す限り、6畳一間をぐるぐる歩き回ってしまったよ、
その後のホルンの雄叫びには、《星に願いを》のメロディーにそっくりなところがある、
そこに来ると、ぼくはいつも、そうおもうんだ、
あ、ここ、《星に願いを》の歌い出しにそっくりのトコだ、って
ベルリン・ドイツ響とのCDボックスにも、おなじく5番の録音があるから、あしたはこれを聴いてみようかね、
や、さすがに5番のような大曲は、1日に2回は、ね、
干天に慈雨
雨だねえ
雨、だねえ、
雨、だ、ねえ
職場での休憩時間に、W.フォークナー短編集(龍口直太郎 訳・新潮文庫)を、読了した、前に一度読んだんだけど、N.メイラーをいくつか読んで、あの、《アド・フォー・マイセルフ》なんかに、フォークナーについての言及があったもんで、おもいだしたように、しかし、フォークナーというと、この短編くらいしか知らないなあ、長編もあるのかねえ、ま、あるんだろうが、
にしても、メイラーの《アド》は、すごいね
ひさびさに鉛筆で線を引っ張りながら読んだ本だが、
ページによっては、ほとんど線だらけにしてしまった、
ああいう本を読んでいると、世の中には2種類の人間しかいない、行動する人間と、尻込みする人間だ、という印象から逃れられなくなるから困るよ、困るってことは、ぼくは、おおむね尻込みする側の人間なんだろうがねえ、残念ながら、だから、鉛筆で線を引くといっても、感激しながら引いてるんじゃないんだ、むしろ苦々しいおもいで引いてるんでね、そりゃ、あんたみたいに生きられりゃ、誰も苦労はせんよ、というね、ちくしょう、ちくしょう、とおもいながら、線を引くんだ、仕事のあいまにちょっとずつちょっとずつ読んで、ときには、同僚の前でおもわずに涙ぐんだりして、ひとりで勝手に慌ててたりしたなあ、洟かむフリして涙を拭ったりね、
でも、どうにも不思議だな、メイラーという人は、おそらくは、ぜんぜん向う見ずな人ではないんだ、まなざしなど、むしろ沈潜していて、内向的だし、鬱屈しているとさえいえる、
ぼくは、読みながら、頻りに漱石を聯想していたんだ、ま、あれほど訥々、諄々、ってんでもないにしろ
それを一番強く感じたのは、これは、《アド》じゃなく、たしか《鹿の園》の冒頭、サージアスの駐留時代回想のとこだったとおもうが、基地の食堂で、給仕係の日本人少年と視線を交わし合う、というシーンがあったな、戦勝国の作家としてああいう文章が書けるというのは並大抵のことじゃないとおもう、メイラーという人は、作家として、という以前に、まず人として、立派だなあ、という、平和ボケの平和主義者は、揃ってメイラーの爪の垢を服用せにゃならんな、
でも、《アド》で、ヒップってのは、確信に充ちて盛大に退嬰をやってのけるんだ、なんか文句あっか、あるとしても聴く耳持たねえ、是非を説いても聴こえる耳じゃねえ、みたいに傲然と立ちはだかられると、ぼくとしては、ちくしょう、ちくしょう、って、線を引くよりほかにすることがないんだけどねえ、アムビヴァレンツ、、、といやそうなんだが、そういってみたところで、そのことばを、都合のいい言い訳のために濫りに用いているだけのような気がするし、
《鹿の園》にしても、ぼくなどは、どうしても、サージアスより、チャールズ・アイテルの俗物ぶりに目を奪われてしまうなあ、メイラーとしては、サージアスに映画俳優の口をこともなげに辞退させるところなどが、彼の面目躍如といえるんだろうけれど、読み手としては、なんだかふわふわした浮遊体としてのサージアスにより、ホリウッドの泥沼に両足突っ込んでもがくアイテルの方に、ついつい同情してしまうんだ、ま、それが作家の仕組んだ陥穽だとはいわんよ、そこまでいってしまうと、ただの僻みになっちゃうからね、そこで、ご愛嬌だとおもうのは、作家自身、ずいぶんアイテルに感情移入して書いてるんだ、すくなくともそう読めるな、それからあのエリナという女性、とうとうスワッピングにまで、連れて行かれるんだか、自分から行くんだか、ともかく、なにか決然と、ヒステリックになってゆく、そういう女は、クンデラの小説にも、しばしば登場するんじゃなかったかなあ、あるいは、そういうことは、ドストエフスキーあたりが、本家本元かねえ、ま、ドストエフスキーのばあい、女性に限らず、すべての登場人物が、小林秀雄に言わせると、痛快に狂っていくんだな、痛快に狂っていく、といういいかただったか覚えがないが、そういう旨のことをね、小林秀雄が言ってて、それはその通りだとおもう、、、ん、天真爛漫、、、とか、そんないいかただったかな、天真爛漫に悲劇を生きる、とか、そんないいかただったかも知れんね、その点、メイラーの《アド》なんぞは、あれ全体が天真爛漫な狂気かなあ、ごく一握りの、や、一撮みの人間にしか許されない誇大妄想を、臆面もなく振り撒いてゆくんだ、圧巻だね、だいたい、《Advertisements for Myself》だもんねえ、でも、感動させるところは、さっきいったように、彼の繊細さが仄見えるところだけれど、そこを、読み過っちゃあ、いけない、ねえ、
あ、そ、フォークナー、だが、
これも、どれくらい前に読み始めたのか覚えてないよ、読書のペースがめっきり落ちているな
で、やはり、ここに所収のうちでは《エミリーにバラを》がすごいな、
死者が死んじゃおりませんよ、みたいな話は、G.マルケスの短編にもあったようにおもうが、
表題を、《エミリーにバラを》にしているところがすごいね、なにしろ、《エミリーにバラを》、、、だから、、、ねえ、
チャリンコで職場まで通う道々、路傍の、事故死者への献花をみるたび、この《エミリ―にバラを》っていう表題がおもい返されてねえ、ま、エミリーさんは、故人じゃないんだが、故人より故人らしいいのちを、ひそやかに、輝かしく生きていて、そりゃ、バラの一輪くらい捧げてさしあげたいよ、というね、読み終えて、こんな不気味な感動を与えられる小説もほかにないね
あらためて、感服
そういや、ハナシゃ変わるが、
先週の《愛川欽也 パック・イン・ジャーナル》(朝日ニュースター)を視てたら、生放送時に、田岡俊次氏が「文盲」といったんだ、警察や検察が調書を取るときに、読み聞かせによるのは、江戸時代以来、文盲者のため、かとおもわれる、ってそういう文脈でね、したら、再放送では、編集で、そこの音を消してるんだな、
ううん、止むを得ないとはいえ、けっして差別的な文脈で使っているのじゃないんだから、ねえ、
存外あっけないもんだったな
や、コバケン(83年盤)を十二分に耳に焼きつけて、ヤマカズ盤(85年)を聴いてみたところ、
多くの部分で、コバケン盤に軍配が上がるんだな
もちろん、勝敗は安易にはつけ兼ねる、
2楽章とフィナーレは、やはりヤマカズだな、
遅さがすごい
ただ、カラフルさではコバケンだな、
フォルテの決め方が、コバケンは、アクセントをぶつけるようなやり方なんだ、それがマーラーにあってる
ヤマカズは、ぶつけずに、伸ばすんだ、引き摺るんじゃなくてね、ある意味では、マーラー的でないひびきで全曲を通しているといえる、そのままブルックナーが出来ちゃいそうな鳴らし方だね、ヤマカズ自身はブルックナーに理解を示さなかったらしいが
だから、2楽章やフィナーレでひびきを全開にすると、いまだかつて耳にしたことのない一大スペクタクルなんだ
そのかわり、内声からなにから全部ゆたかにひびかせるから、ずっと似たよなひびきが続く憾なしとしない
なべて、弱音はコバケンよりも丁寧に扱われていて、当然ながらN響もうまいが、弱音を強くしたうえ、ことさらにこだわりを見せる場面もなく、いわば、すべての瞬間を均質に聴かせようとしている演奏といえる、3楽章の中間部なんぞ、おもいのほかそっけなく通り過ぎていっちゃうな、ここは断然コバケンの方がいい、トランペットの吹き損じがあるのは残念だけどね、や、ここだけじゃなく3楽章全体、コバケンの方が優勢かな、とくに再現は、師が、弟子におおきく水をあけられてる、ただ、アダージェットの入れ込み方はすごい、チェロなど、生半可でないし、そしてフィナーレは、腰を据えて、最後まで、泰然と振舞っている、しかも、細部の抉り方がすごいな、ここは、比較対象をコバケンに限らなくとも、掛け値なしに今までのベストだよ、
いずれにせよ、この師弟対決は、そのまま、マーラー5番演奏録音史上の頂上決戦として大過ないな
どっちも、きわめてグレードが高いよ
ほんとは、ヤマカズについても、もっと詳細に書くつもりだったが、案外そういう気にならないね、コバケン盤がいい演奏だからだとおもうが、
さて、次は何について書くかなあ、
ブログ、はじめてはみたものの、なんか、すでに乗り気じゃなくなってきてる、、、、、かな、
ちょっと不毛な営みって気がするね、
ま、気が向いたときに書けばいっか