いやはや、
本職が捗ったので、更新は滞った
連休は20日、22日発売の上岡敏之のCDが、前倒しで店頭に並ばぬものかと新宿へ
あえなく
ほかのCDを買った、
山田和樹/東混・東響 佐藤眞《土の歌》ほか(OVCL-00425)
クレンペラー/バイエルン放響 メンデルスゾーン《スコットランド》ほか(TOCE-9798)
テンシュテット/ウィーン・フィル マーラー10番アダージョほか(ALT195/6)
以上3点
上岡の方は、もう発売しているが、いまタワレコが0のつく日に3000円以上買うとタワレ・カードなるものをくれるキャンペーンをやってて、だから20日に出掛けたのだが、まあ、コンサートは10月の半ばだし、30日に買えばいいや、
ヤマカズといえば、最近のぼくは山田一雄の方のヤマカズに心酔していたが、いまヤマカズというと、この若き山田和樹を指すよう、79年生とのことで、ぼくといくらも歳が違わん、ブザンソンで優勝したり、小澤に呼ばれてサイトウ・キネンを振ったりと、まあ八面六臂の活躍だねえ、藝大出で、コバケンのお弟子なんだ、
ぼくは、こっちのヤマカズを彼の無名時代に聴いてるんだ、
ありゃそう、田舎で浪人してた時のはずだから、もう8年くらい前かね、ぼくは19、ヤマカズは22、3かね、藝大を出てすぐか、在学中だったのか、
名工大、名古屋工業大学の学生オケの定演、愛知芸文センターのコンサートホール、キャパは1500くらいか、こぢんまりとしてていいホールなんだ、久しく行ってないなあ、
曲目は、メインがサーンスの3番だったこと以外は覚えてないね、アンコールでオルガンに《きよしこの夜》を弾かせていたから、クリスマス頃だったんだね、最後はエルガーの《威風堂々》1番で、ヤマカズが、質素な布袋から出した鈴を振っていたな、残念ながら、演奏内容は明瞭に記憶していない
8年間でちょっと肥ったみたいね、彼、ちょっとじゃないだいぶか
で、こんかいのCDだが、正直に言って、ぼくは、ふだんこの手の合唱曲にまるで縁がないので、評価の基準がよくわからん、わるい演奏には聴こえないが、いかんせん比較対象がなく、これがどの程度のものなのか、といういいかたができん
東響は、久しぶりにその音を聴いたが、90年代には、こんなにクリアな音は聴かせてくれなかったようにおもう、いい音だ、しかも、山田の棒が所を得ているのか、合唱の引き立て役にばかり徹っしていないで、しばしば剥き出しのひびきで肺腑を抉る表情を出してくる、もちろん、会場が初台のオペラシティということもあってか、力尽くの音を出すことはなく、小気味よい
オケについても素人だが、合唱についちゃ門外漢中の門外漢で、いうべきことばを知らない、が、あえていえば、女声の高音などとくにそうだが、どうしても子音の発音が不明瞭になり、こういう日本語の歌では、なんと唱っているのか聴き取れず、もどかしさが残る個所はある、それを回避するには、よほど優秀な合唱団が要るんだろうな、ま、東混が下手とは、すくなくとも門外漢の耳で聴くかぎり、おもわんが
あと、必要以上に声楽声楽した唄い方は、ぼくはいやだな、
日本語の歌だと、が・ぎ・ぐ・げ・ご、を、あまり極端に、んが・んぎ・んぐ・んげ・んご、と発声したりするの、
声楽のためにだけあるといってもいいようなことばの発音で歌を唄うってのは、ちょっとナンセンスだとおもう、日本の合唱団、たとえば第9なんかでも、ウムラウトを聞えよがしに強調し過ぎたりしてて、はたしてホントにあれが内容表現に繫がっとんのかいな、と
オペラはともかく、宗教曲や、シンフォニーにおける人声の扱いというのは、これからの時代、より話し言葉の発音に近いかたちで唄おうとする傾向が顕著になるものとおもう、や、すでにそういう時代になってる、こないだのヤルヴィの《復活》のアルトがそうだった、あの《原光》はいいね、聴いててしっくりきた、そうそう、っていう、こういうオペラティックでない、当たり前のことばの発音に近い唄い方が聴きたかったよ、というね、、、と、いうかさ、むかしの歌手は、もっと発音が明晰だったようにおもうんだけどなあ、レリ・グリストとか、デ・ブルゴスと《カルミナ・ブラーナ》を録ってる(EMI)けれど、あのころころした唄い方にはしびれたね、ことばが全部目に見えるからね、高い方になるとキンキンするひびきと音程しか聴こえない、ってことがないから、ちなみに、女声の高音のキンキンする音ってのは、ヘッド・フォンでしか音楽を聴けない貧乏リスナーにとっちゃ、いちばんの天敵なんだよね
で、このCDでの東混だが、そういう過度に強調された発声法に依っておらず、いい、女声の高音は、やはりぼやけるところがあるけれどね、ま、やむをえん
だけど、指揮者の手腕がどれほどのものなのか、という観点で聴けないのは、ちと残念だね
そういう聴き方に慣れ過ぎていて、ただ耳元へ流れてくる音楽を愉しむ、という素朴な鑑賞ができなくなってるんだな、かんがえようによっちゃ、この演奏よりこっちの方がいいだの、これに較べるとあっちはずいぶん聴き劣りがするだの、年中そんなことをやってんだから、さもしいっちゃさもしいよねえ、クラシックのリスナーって、でも、そうじゃないリスナーというのは、ぼくは信じないね、音楽を演る側が野心を懐いていなくちゃならんのは当然としても、聴く側も、ぜひともよい演奏が聴きたいものだ、という野心を燃やしていなくてはダメだ、こうでなきゃならん、という、よい音楽を求めることについちゃ、リスナーは手の着けられない暴君でいいんだ、あれもよい、これもよい、みんなよいよい、ってな似非ヒューマニストの耳なんかにゃ、音楽はなんにも語り掛けちゃくれない、と、いうよりも、ぼくには、同じ曲の異なる演奏がある時に、そこに優劣をつけずにいられるという人の精神構造が理解できん、ボケたんと客席に坐ってちゃいけないんだな、なんだけど、さいきんは、シュード・クラシックとでも揶揄したくなるようなものが蔓延しているから、コンサートへ行っても聴衆の劣化を感ずることがずいぶん多くなったなあ、腹立たしい、なかには、社会人としての一ステータスのために、クラシックのコンサートとか来てみたんですけど、みたいのすらいるからな、あんな輩共と同列の聴衆として客席に坐さねばならぬというのは、こちとらにとっちゃ、じつに、心外だねえ、そんなカネないけれど、俺がチケット代払い戻してやるから、アンタ出てきなよ、っていうのがけっこううじゃうじゃいるんだ、開演前から客席に異様な緊張感が漲ってる、ってなコンサートは、絶えて久しいね、咳払いや、チラシを床へ落としたり、演奏が始まっても隣同士雑談をやめにしなかったり、そういうノイズもかなり盛大で、あれじゃ舞台に立たされる側もかわいそうだねえ、演奏する側が試されるように、聴く側もその演奏によって試される、そういう緊張感のあるコンサートに巡り会いたいもんだね、なかなかないんだ、
話が逸れたな、
あとの2枚はまだ聴いてないんで、後日、
そいから、
20日
末廣亭に行ってきた、
昼夜入れ替えなしだから、昼の12時から夜9時までほとんど座りっぱなしで、さすがに疲れたね、
演者は、番組表とずいぶん違ったんだ、
昼席は、中入り前が円丈、そのちょっと前に川柳とあって、ほとんどそれだけを目当てに行ったといってもいいが、ふたりとも代演を立ててて、どないなっとるんや、と
おもってたら、中入り後に川柳師は出てきてくれた、
師、あの噺しかやらんのかなあ、ま、おもしろいからいいけど、にしても、80前であのはきはきとした喋りはすごいね、腰もぜんぜん曲がっとらんし、あと、ジャズの口三味線は相変わらずの妙技だ、サックスのときはサックスの音になるし、トランペットなんぞ、トランペットよりトランペットの音だからなあ、あれはすごいね、
あとは、圓太郎、たのしみにしてたんだけどなあ、これも代演、残念、
夜席は、坐りっぱなしで、尻が痛かったってことしか記憶にないが、
あ、いやいや、
主任は権太楼師、昼の主任は才賀師で、たまたまこないだ横浜にぎわい座でもトリを取っていたから、ご縁があった、余興も面白かったし、
権太楼師は《火焔太鼓》を演った
CDをもっているが、当然ながら、概観は変わらず、
寄席での一席にしては、わりかしたっぷり演ってくれたような気がする、ま、トリだから、ね、
師は、ご本人のキャラや話し振り自身、失礼だが、与太郎っぽくて、群像劇、《火焔太鼓》でいえば、甚兵衛、おかみさん、定吉、侍の相関を見下ろす、いわゆる、神の視点、が、もうひとつしっくり定位しない憾みなしとしない
けれど、も、本家本元・志ん生師は別格としても、いくつかの点では、権太楼師の《火焔太鼓》、ぼくは、志ん朝より勝れているとおもう、や、全体としてはそりゃ志ん朝だが、細部の表情の附け方が、ね
どこかってえと、甚兵衛が太鼓を背負って歩きつつ、かかあの文句を言いながら徐々に昂ぶって、その頂点で、「御門番さん、こんにちは」というトコ、ここは権太楼師、うまい、もちろん正調じゃないんだけどね、
あと、は、お侍に「手一杯申せ」といわれて、手をいっぱいに拡げ、「それはいくらのことだ」、「十万両です」、「貴様、起きとるんだろうな」ここの、「貴様、起きとるんだろうな」は、今回の高座でも、CDでも、まったくおなじ表情の附け方だった、師自身、気に入っている演り方なんだろう、全体に与太郎調のなかで、この侍にだけ理性の光を当てて造形を引き締めているのだが、その理性の片鱗が、この「貴様、起きとるんだろうな」で、キラッと光るんだ、だ、だが、のわりに、客の沸きは、この部分、もひとつだったな、ぼくなぞは、あ、うまい、いまうまかった、と、おもわず耳をそばだたせられたんだがな、その点、落語を聴くのも、音楽を聴くのによく似ているな、最後の決め手は、細部の表情の附け方なんだ、そういうトコは、なにがあっても聴き漏らしちゃいけない
しかし、志ん朝師にせよ、権太楼師にせよ、壮年期の、覇気あふるる《火焔太鼓》なんだな、
ビクターに志ん生師晩年の《火焔太鼓》が、《文七元結》とのカップリングで入ったCDがあるが、《文七元結》もさることながら、あのCDでの《火焔太鼓》はすごい、枯れた《火焔太鼓》なんだ、爆笑譚であるはずの《火焔太鼓》が、枯れているんだな、客も、入ってないんじゃないのか、とおもえるほど、ところどころでかすかに笑う程度だし、これに較べると、子息・志ん朝師のも、権太楼師のも、《火焔太鼓》らしい《火焔太鼓》なんだ、《火焔太鼓》らしい《火焔太鼓》でしかないんだなあ、ま、志ん生師以外に志ん生師の味を求めてもせんないが、な
って、
噺家にはみんな敬称を附けて、しかも、ところどころ附け忘れてて、
ミュージシャンは、上岡だ、山田だ、とみんな呼び捨てにしちゃって、
なんとも不統一な記事になってしもうた