干天に慈雨
雨だねえ
雨、だねえ、
雨、だ、ねえ
職場での休憩時間に、W.フォークナー短編集(龍口直太郎 訳・新潮文庫)を、読了した、前に一度読んだんだけど、N.メイラーをいくつか読んで、あの、《アド・フォー・マイセルフ》なんかに、フォークナーについての言及があったもんで、おもいだしたように、しかし、フォークナーというと、この短編くらいしか知らないなあ、長編もあるのかねえ、ま、あるんだろうが、
にしても、メイラーの《アド》は、すごいね
ひさびさに鉛筆で線を引っ張りながら読んだ本だが、
ページによっては、ほとんど線だらけにしてしまった、
ああいう本を読んでいると、世の中には2種類の人間しかいない、行動する人間と、尻込みする人間だ、という印象から逃れられなくなるから困るよ、困るってことは、ぼくは、おおむね尻込みする側の人間なんだろうがねえ、残念ながら、だから、鉛筆で線を引くといっても、感激しながら引いてるんじゃないんだ、むしろ苦々しいおもいで引いてるんでね、そりゃ、あんたみたいに生きられりゃ、誰も苦労はせんよ、というね、ちくしょう、ちくしょう、とおもいながら、線を引くんだ、仕事のあいまにちょっとずつちょっとずつ読んで、ときには、同僚の前でおもわずに涙ぐんだりして、ひとりで勝手に慌ててたりしたなあ、洟かむフリして涙を拭ったりね、
でも、どうにも不思議だな、メイラーという人は、おそらくは、ぜんぜん向う見ずな人ではないんだ、まなざしなど、むしろ沈潜していて、内向的だし、鬱屈しているとさえいえる、
ぼくは、読みながら、頻りに漱石を聯想していたんだ、ま、あれほど訥々、諄々、ってんでもないにしろ
それを一番強く感じたのは、これは、《アド》じゃなく、たしか《鹿の園》の冒頭、サージアスの駐留時代回想のとこだったとおもうが、基地の食堂で、給仕係の日本人少年と視線を交わし合う、というシーンがあったな、戦勝国の作家としてああいう文章が書けるというのは並大抵のことじゃないとおもう、メイラーという人は、作家として、という以前に、まず人として、立派だなあ、という、平和ボケの平和主義者は、揃ってメイラーの爪の垢を服用せにゃならんな、
でも、《アド》で、ヒップってのは、確信に充ちて盛大に退嬰をやってのけるんだ、なんか文句あっか、あるとしても聴く耳持たねえ、是非を説いても聴こえる耳じゃねえ、みたいに傲然と立ちはだかられると、ぼくとしては、ちくしょう、ちくしょう、って、線を引くよりほかにすることがないんだけどねえ、アムビヴァレンツ、、、といやそうなんだが、そういってみたところで、そのことばを、都合のいい言い訳のために濫りに用いているだけのような気がするし、
《鹿の園》にしても、ぼくなどは、どうしても、サージアスより、チャールズ・アイテルの俗物ぶりに目を奪われてしまうなあ、メイラーとしては、サージアスに映画俳優の口をこともなげに辞退させるところなどが、彼の面目躍如といえるんだろうけれど、読み手としては、なんだかふわふわした浮遊体としてのサージアスにより、ホリウッドの泥沼に両足突っ込んでもがくアイテルの方に、ついつい同情してしまうんだ、ま、それが作家の仕組んだ陥穽だとはいわんよ、そこまでいってしまうと、ただの僻みになっちゃうからね、そこで、ご愛嬌だとおもうのは、作家自身、ずいぶんアイテルに感情移入して書いてるんだ、すくなくともそう読めるな、それからあのエリナという女性、とうとうスワッピングにまで、連れて行かれるんだか、自分から行くんだか、ともかく、なにか決然と、ヒステリックになってゆく、そういう女は、クンデラの小説にも、しばしば登場するんじゃなかったかなあ、あるいは、そういうことは、ドストエフスキーあたりが、本家本元かねえ、ま、ドストエフスキーのばあい、女性に限らず、すべての登場人物が、小林秀雄に言わせると、痛快に狂っていくんだな、痛快に狂っていく、といういいかただったか覚えがないが、そういう旨のことをね、小林秀雄が言ってて、それはその通りだとおもう、、、ん、天真爛漫、、、とか、そんないいかただったかな、天真爛漫に悲劇を生きる、とか、そんないいかただったかも知れんね、その点、メイラーの《アド》なんぞは、あれ全体が天真爛漫な狂気かなあ、ごく一握りの、や、一撮みの人間にしか許されない誇大妄想を、臆面もなく振り撒いてゆくんだ、圧巻だね、だいたい、《Advertisements for Myself》だもんねえ、でも、感動させるところは、さっきいったように、彼の繊細さが仄見えるところだけれど、そこを、読み過っちゃあ、いけない、ねえ、
あ、そ、フォークナー、だが、
これも、どれくらい前に読み始めたのか覚えてないよ、読書のペースがめっきり落ちているな
で、やはり、ここに所収のうちでは《エミリーにバラを》がすごいな、
死者が死んじゃおりませんよ、みたいな話は、G.マルケスの短編にもあったようにおもうが、
表題を、《エミリーにバラを》にしているところがすごいね、なにしろ、《エミリーにバラを》、、、だから、、、ねえ、
チャリンコで職場まで通う道々、路傍の、事故死者への献花をみるたび、この《エミリ―にバラを》っていう表題がおもい返されてねえ、ま、エミリーさんは、故人じゃないんだが、故人より故人らしいいのちを、ひそやかに、輝かしく生きていて、そりゃ、バラの一輪くらい捧げてさしあげたいよ、というね、読み終えて、こんな不気味な感動を与えられる小説もほかにないね
あらためて、感服
そういや、ハナシゃ変わるが、
先週の《愛川欽也 パック・イン・ジャーナル》(朝日ニュースター)を視てたら、生放送時に、田岡俊次氏が「文盲」といったんだ、警察や検察が調書を取るときに、読み聞かせによるのは、江戸時代以来、文盲者のため、かとおもわれる、ってそういう文脈でね、したら、再放送では、編集で、そこの音を消してるんだな、
ううん、止むを得ないとはいえ、けっして差別的な文脈で使っているのじゃないんだから、ねえ、