行ってきた、行ってきた、
行ってきましたよー
2010.10.03
サントリーホール(大)
Sp:生野やよい
Mz:金子美香
Tr:佐野成宏
Br:青戸知
Cho:東京音大
小林研一郎/日フィル
G.ヴェルディ:レクイエム
ん、パートの略号、これであっとるんかなあ、
きのう、一皮剥けない小林の音楽なんぞ、もう聴きたくない、といったんだが、
こんかいのヴェルレク、よかったねえ、そうだなあ、ゆで玉子でいうと、堅い殻は全部剥けて、あと、薄皮が、部分的に、まだちょっと残ってる、という印象かな
なにがうれしかったって、小林の態度が、曲からも演奏からも一歩退いてること、入れ込み過ぎていなかった、
ちょっと意地の悪いいいかたをすると、いまのままの小林でも、唸り声と、ザッツのときのブレスを除去するだけで、その存在価値は、数段、上がるんだ、あんまりキュー出しで、すっ、すっ、すっ、すっ、ブレスされると、わたくしたちは舞台裏でこんなにも入念なリハをやってまいりました、みたいな、かえって弁解がましい印象を与えてしまうわけなんだし、小林、あれほど、聴衆のことを慮って慮っていうんなら、そこまでぼくらの心裡を読み切ってくれよ、というね、いかに舞台に上がるまでに血で血を洗うような壮絶なリハをやっていようと、舞台人である以上、本番のステージ上で鳴らした音がすべてなんだから、ついつい唸り声を出しちゃうのも、小林の曝露心理学的傾向の発露とおもう、こんなにも大切に大切に、音楽を練り、研き上げました、その自負の情を、堅く抱き竦めたまま、舞台へ上がっても解き放ってやることができない、気持ちは痛いほどよくわかるんだけど、やっぱりそれじゃ、聴衆の音楽体験としちゃ、生煮えの憾を拭えないんだよなあ、出来上がった音楽よりも、出来上がる過程を見る方が、なんかたのしいでしょ、みたいな、や、出来上がったものもたまには見たいですよ、ってね、そういう聴衆の心裡に、もうすこし敏感になってくれてもいいんじゃないかなあ、と、で、きょうの小林は、それを、そういう、音楽が出来上がる過程をみなさんに垣間見せてさしあげますよ、ってな、要らぬサーヴィス精神を自重自粛して、終始慎ましく振舞っていたから、聴いてる方としても、「小林の眼に映ったヴェルディの《レクイエム》」というよりも、ヴェルディの《レクイエム》という音楽、それそのものが鳴り渡っている、という実感が随所で得られたんだ、もちろん、恣意的なデフォルマシオンが施された個所は夥しい数にのぼり、むしろそれで埋め尽くされた演奏であったといってよいくらいだが、その手練手管が、従前のように、指揮者が彼の主観によって楽曲を手前勝手な色彩に塗り潰すために、というんじゃなく、あくまでも、楽曲の実像をより如実に浮かび上がらせんがために駆使されている、という印象を結んでいて、そうなりゃ、表情という表情が眞に迫るわけで、ね
あと、近来の小林、テンポの懐深さがいよいよ堂に入ってきた、聴く者をしあわせにするテンポだね、
ぼくは、ベートーヴェンのアレグロ楽章だって、あのマーラーの9番の1楽章のように、遅めのイン・テンポで通してしまえばいいのに、とおもってるんだが、ベートーヴェンはまだせかせかしたまんま、浪漫派を振るときにはやっていることを古典派ではやらない、できない、というのは、どういうことなんだろうね、よっぽどの障壁が、そこにゃあるんだろうね、でも、せかせかしたテンポでは、すみずみまで見渡せるようながっしりしたアンサンブルが組み上げられないんだし、それで小林、たとえば7番の1楽章では、それはどうしたって使う必要ないでしょ、ってな最弱音を織り込んでお茶を濁したりしている、細部の表情というのは、よほど注意して作り込まないと、紙一重でマユツバものに堕するからな、ほかにも、これは浪漫派以降だが、日フィルとの《新世界》のCD、さいきん出たチェコ・フィル盤ではずいぶん練れたんだけれど、3楽章で、低弦のスケルツォのテーマを聴かせようとして、高弦の刻みを抑えたり、フィナーレで、クラリネットに極端な最弱音を要求したり、でも、日フィル盤のばあい、全体にとくに個性的ともいえない演奏のなかで、細部にそういう表情がつくと、かえってコンテクストに収まらずに遊離してしまって、逆効果なんだ、ちなみに告白すれば、ぼくは、フィナーレのテーマを弦が模倣するとき、レガーティッシモにするのだって、べつに、そんなことしてくれなくていいんだけどなあ、とおもってるからな、誰の耳にも留まるようなそういうあからさまなデフォルメというのは、安易な差別化の手段として目立ちやすいアドバルーンを揚げているようで、かえって悪印象なんだ、
んじゃ、そういう表情を断念すればいいのかというと、ま、それもひとつだとはおもうが、小林はそうじゃない、むしろ多彩な表情の連続、その有機体として音楽を生動させる、その表情のひとつひとつを心ゆくまで玩味しながら先へ進もうとするところ、自然にテンポが落ちてくる、そんなかで各パートがレガートに歌ってばかりじゃ、水の量を多くし過ぎて炊いたご飯みたいに、ひびきが、べちゃあ、ってなるだけ、そこで小林、狂気の沙汰ともいえる点打ちで、各パートの起ち上がりを厳格にもらうことに躍起になってる、ぼくは、あれがすきだな、で、起ち上がったパートパートは、奏者のおもい入れが過ぎてフレーズがだぶつくことも、はんたいに、共感に不足して痩せることも、許されない、そんなふうに作り込んでいくと、音楽は生硬になるいっぽうのようにおもえるが、小林の音楽はその豊饒をいささかも失しない、柔軟体操の跳躍のような小刻みな体の揺れも、ついついシャーマンな指揮法のひとコマとして見過ごし勝ちだが、じつは、持続音を歌う際にもそのなかに拍を感じながら鳴ってくれ、というれっきとした指示、のような気がする、したがって、本来の意味とは少しく趣を異にするやもしれんが、そういう小林のさいきんの音楽性というのは、ドラマティック、ロマンティック、というよりは、むしろ、妙に、シムフォニックで、妙に、ね、とくに、いつもの過剰な入れ込みが完全に剥落して、おそいおそいテンポのうちへあらゆるパートを大手を拡げて受け入れたときの威容というのは、ぼくは、かのクレンペラーの晩年に比するとも、なんら遜色のないものとおもっている、あの運動的な小林の音楽性が、ひと皮ふた皮剥けたところでクレンペラーに通じているとは、そういう性質が早いところ盛大に花開いてくれんだろうか、と、僕なんかはそうおもうもんだから、興が乗ってきていままでどおりのつんのめるテンポになったりすると、かえってがっかりしちゃうんだ、もうそういうコバケンは聴かせてくれなくて結構なんで、早いとこその懐にちらちら見え隠れしている奥の手を派手に振るってやっちゃくれませんやろかいな、という、ね、きょうの演奏は、その奥の手がかなり視界に捉えられるようになってきた、というこって、うれしかったね、
ちょっと時間も時間なんで、
演奏の詳細についてはあす、