流山、
っぼくがいつも聴いているほうの佐藤雄一氏の棒、流山フィル公演、済む、演目はハーティの編になるヘンデル《水上楽》と、っきのうにつづきチャイコフスキー《5番》とである、
っこの演目ならば、佐藤氏がいつものとおり牛歩であられ、っなにかアンコールがあったにせよ、終演は16時を切ることであろうと踏むとそのとおりで、流山か流山セントラルパークか、っどちらでもよいのだが、往きは後者から来、勝手もわかっているのでそちらへ戻るに、検索すると参宮橋着時間にはだいぶんゆとりがあり、夕の開演前にこないだ発見したあの喫煙スペイスをしばし利用していらりょう、
流山フィルは、会によってコンディションにややムラがおありなのと、っなんといっても旧式の多目的ホールを画に描いたごとどんしゃり器を本拠とされていることとによって、比較的によく弾けて、っかつ演目と器との相性がよいというときでなければ演奏の成功は望みえないが、っきょうはわりに成功の部類か、
っまず、現代に編曲せられているにせよ、バロックに始まったのが奏功で、各位、落ち着いて音を出されており、粗野なアコースティックでぎっしりと集う絃のアンサムブルも快い、
長丁場のチャイコフスキーは、っとくに2楽章など、っどうしても奏楽上の粗が目立つが、1楽章全体あたり、っむしろ一大金字塔の趣であった、佐藤氏の造形としては、同楽章の主部の開始こそ極めて遅いテムポであるが、イデー・フィクスの序奏はあっさりとしていられ、音も無闇に引き摺られていない、っそれによる音像群の定位、音色の調合ぐあいは、っきのうにつづく達成である、
、、、っあ、っそうか、参宮橋なんかまで往かなくとも、北千住から千代田線なら、代々木公園で降りればよいのか、八幡でばかり検索しており、っそれだととうぜんながら上原から引っ返してくる路線が案内せられるが、公園と八幡との駅は、っまったくおなじ位置に在るのである、
1楽章の㐧1テーマがトュッティへ発展すると、狭い器はがたぴしと臨界へ達してしまうが、っしかしよく融け合わずにすべての声部が素っ裸で聴こえるそのテューバ、バス・トロムボーン、トロムボーン、トロムペット、ホルンの剛毅なる林立の手応えたるやいかばかりか、っそして絃もこれらに塗り潰されてしまわれることがなく、遙か仰ぎ見るごと、世に最も偉大なる音響の顕現見参である、
㐧2テーマへの遷移は㐧1テーマのテムポのまま、㐧3テーマの、木管とホルンとでリズムの異なるシグナル動機を通って、ヴァイオリンへ歌謡楽句が出たところでもとより遅い速度はなお撓む、っこころゆくまで歌い抜かれるそのテーマは、クレッシェンドすると激情の迸りそのものである、
展開は、っきのうポーガ氏の練達の造形でひとつ触れ漏らした、㐧1テーマの動機で、間へ8分休符か、っちがう16分休符か、っそれが入る型と入らない型とを明確に描き分けられており、流石と唸らされたものだが、楽団の精度がちゃんと高くなければ、っそこまでの解像度を獲得するわけにはゆかない、
っその代わりと云ってはお釣りの来るどころではないきょうの耳うれしさは、再現冒頭のファゴット1番による㐧1テーマである、奏者の女性はまことに名手でかつ篤いおもい入れを有たれ、っここ以外にもたびたび名場面を刻印されたものだが、っこの1楽章再現冒頭こそは、っあきらかに、過去ぼくの聴きえた数多の演奏のうちで隨一、っそれも、余人の一切を遙けく突き放された隨一であられた、っなんという歌のこころと、っそれを具現しうるだけのテクニークとであろうかっっっ、
2楽章のホルンは、大の健闘か、再現におく㐧2テーマの発展は、佐藤氏の同曲を初めて聴いた際には、頂点へ向けて狂おしいアッチェレランド、っそして頂点を打つ直前でがくんと急ブレイキ、っぼくは泪腺を絞られるどころではなかったが、っきょうは同個所でのテムポ操作はさのみオーヴァーではないし、っにも拘わらずあまり巧く定まっていないため、泣かされるほどのことには至らず、惜しい、
フィナーレは、マエストーソでのヴァイオリンを都度、弓を返させ、フレイズの頭は必ずダウンから入らせられる差配、っあれほどはっきりとそれをなすっていれば、っこれまでに複数回聴いているぼくもそれへ気附いているはずで、っおそらくこんかいの新機軸であったのだろう、効果のほども覿面で、ったしかに同個所は、ムラヴィンスキーを筆頭に全部びよーんと1節に繫ぎっ放しで歌ってしまうということがしばしば行なわれているのだが、っそれだと同型のフレイズ毎にしかし頭がダウンになったりアップになったりしてしまうのかとおもい、奏楽上、不首尾といえば不首尾である、佐藤氏のご英断を讚えたい、
っけれども、っその後のトロムペットによる模倣はダメだ、同部分にあり勝ちの轍をもろに踏まれ、始めのうち、楽器にとっての音域の低さの裡に音を潰され、凱歌の華々しい覇気を発しえずにしまわれる、同団の同楽器は以前からその気味でいられるが、っここのみならず全曲に亙り、せめてもうほんの一声っきりでも綺麗な音色が出ないのか、っとおもわせる、
っそれにしても、っではきのうのポーガ氏と広響とは、っいったいどのような差配によって、っああした勝利を獲得されたのであろうか、っまったく秘蹟というべき音の準備が為されたに相違あるまい、っそうした周到さときょうの当該個所の奏楽の杜撰さとではまったく比較に価せず、世界中で掃いて捨てるほど演奏せられてきたシムフォニーであっても、指揮者にとっても奏者にとっても、為すべきことは永遠に盡きない、
コーダ最後の4音は佐藤氏も、っどの程度の溜めぐあいでどこまで腰を落として終結せしむるのか、っその指示がかすかに曖昧となられた嫌いで、っちゃんと、だだだだん、っと4つの音が明確に聴こえずに了わってしまう、最後の最後まで気を脱いてはいけない、
っとまれ、っまずまず立派な演奏ではあった、
っさて、代々木公園から夕の器まで来た、指定席なので開演直前まで喫煙スペイスへいられるが、午はさほどでもなかったが、っいまは西陽に差されて暑くてかなわない、
演目はまったく知らない、っこちらの佐藤雄一氏はいちど聴き、っぜんぜん凡庸な人なので、っとくになにも期待していない、最もつよく感銘を得むがためには、誰に対しても、最も残酷な耳を携えて聴くべきである、
みずの自作アルヒーフ
《襷 ータスキー》(全4回)
https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)
《ぶきっちょ》(全4回)
https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)