ざっかん記 -7ページ目

新小岩、




長田雅人氏の棒、オーケストラ・ダスビダーニャ公演、済む、演目は、芥川也寸志《トリプティーク》、ショスタコーヴィチ《死者の歌》である、後者のソリストはソプラノ津山恵女史、バス松中哲平氏、

編成の共通性としても、作風や作家同士の縁故というか影響関係としても、っまさしく組まるべくして組まれたプログラムである、っしかも、ショスタコーヴィチは歿後50年、芥川氏は生誕100年のともに節目、っしかもしかも、ショスタコーヴィチの命日は50年前の8/9、っおとついの荒井氏は、っその当日にあのような大業を為されたのであり、っこの連休に、っここでの長田氏や、桜木町での森口氏と、っこの作家の作の演奏が挙るのも肯けるところである、

っところで荒井氏だが、人は見掛けに由らないのことばどおり、っやはり只者ではいられなんだ、開演前にはプログラムの曲目解説っきり読まなんだのだが、後ろの方まで繰ってみると、演奏会へ懸ける意気込みを訊いた彼氏へのインターヴュー記事が何頁にも亙って掲載せられており、事後的に読んだぼくは、じっさいの舞台はまさしくこのおことばのとおりの実践だったではないかっっっ、っとあらためて感銘を享けずにいなんだ、っそれと、ソ聯の作家もそうだが、っなんでも、プログレッシヴ・ロックを語らせたら一家言ニ家言どころではないというマニアでいられるらしく、っその方面のお仕事も手掛けられているというので、今後、音盤等を探してみることにする、音盤といえば、っおとついはちゃんとしたライヴ・レコーディングがあったようである、レコード会社はどこなのか、っわからないが、荒井氏はこれまでにナミ・レコードというか、ライヴ・ノーツ・レイベルへ複数の盤歴をお有ちのようであり、っそこあたりからの発売となるだろうか、オケともどもたいへんすばらしい演奏であったので、っあれを常時聴きうる日がいずれ来るというのは、っまことに仕合わせである、

っきょうの開演前には、靖國、千鳥ヶ淵を詣でて来る、先に後者へ寄ったが、時間にはあまりゆとりがないなか、神社の方へ戻りながら、そうかっ、流石にきょうあたり拝殿の前は混み合ってしまうだろうかっ、っと気附くが、行ってみると参詣者の数はふだんとそう変わらず、安堵す、開演前に新小岩の駅から器までの道沿いにある王将へ寄る心算にしているも、っもうその時間はなく、っしかし、呑んでから聴いたのではきのうの二の舞にならないともかぎらず、っむしろこれでよかった、事後、食事をして、っまたスタムプが溜まっていたので、景品をいただく、

っさてきょうだが、っなにしろ演奏の成否は偏にソリストおふたりの曲への適性に懸かっているため、っその点は指揮者やオケがなに足搔こうがどうにもならない問題であり、っよってまずは期待値0とおもって来場した、彼等の過去の記録で、《バビ・ヤール》に年数を隔てた2種の音盤があるが、ソロはいずれも岸本力氏でいられ、っざんねんながら両とも、露語の発音としても、曲想への馴致としても、っまったく不満の遺る出来と云わざるをえない、っところがきょうは、っもちろん本場ロシア人たちの語の発音、演唱の特有の感触は眞似のできるものではないにせよ、津山女史、松中氏ともに、日本人歌手として人事は盡し切られ、っぼくは、っずっと曲趣を味わっていられたし、済んで大々々拍手を惜しむものではなかった、っまったくみごとな達成であられる、

っその前に芥川《トリプティーク》、旧式の多目的器の小器に、っごわごわと硬い歯応えの絃合奏がめいっぱいに拡がる、2楽章では、楽器の胴のノックをもっと瞭然と活かされたかったか、死神の輪舞のごと3楽章のVnのさいしょの主題は、っそれが鳴り出す瞬時に、誰しもショスタコーヴィチを想起せずにいなかろう、

っぼくが彼等オーケストラ・ダスビダーニャを初めて聴いたのはおととしだかさきおととしだかのショスタコーヴィチ《4番》で、こんなに巧いのかよっ、っと瞠目したものだが、っあのときは舞台からこぼれむばかりの巨大編成だったし、っどうも手加減なしのテンションに気圧された、、、きあつされた、っじゃなく、けおされた、っね、念のため、っようで、っその後、何度か公演へ通い、音盤も多量に入手して過去の記録も聴いてみると、テクニークとしてはアマチュアのうちでもかならずしも最優等とはしえないとわかった、っきょうのようにひびきに艶を望めぬ小音場で中規模以下の絃合奏のみとなると、奏楽はまるで嘘を吐けず、っあらゆる音が素裸のまま客席中へ伝わってしまうが、っやはり全般に、指の回り、弓捌きの水準は、玄人跣というまでには及ばなくていられる、っけれども各位、曲趣を抉り出さむとされる熱意は人一倍でいられ、っその暑苦しさ、っむさくるしさはまちがいなく一種の魅力にちがいない、

ショスタコーヴィチでももちろんそのごわついたアンサムブルが全曲を一貫し、っそこへ各種打楽器、チェレスタが加わる、っしかも打楽器はシロフォンやテューブラー・ベルと、小空間で痛打したのではお客というお客の耳を劈いてしまう性質のものがたびたびフィーチャーせられ、っそこでの奏者ももちろん手加減なし、耳に痛いくらいの衝撃音だが、っそんなことは承知の上での眞剣勝負であろう、チェレスタも、っあるはヴィブラフォンも、大音場で聴くのとは比較にならぬ音の實在感で、っけれどもこちらはかえってそのことにより空間全体を夢幻境に変えてしまう魔力があり、っとにかく、ソリストを支えるバックに恆に色濃い主張を聴くことができて、っこちとら全曲の詞の内容を朧げには把握しているが、字幕なし上演ではたったいま露語でなにが歌われているのかは皆目わからないながら、っしかし情景がずっと眼前へ流れ、漂うのが視える、っあらゆる死を歌い継ぐ灰色の殺風景が、っだ、っこの小器の特質を味方へ附けた音体験の濃密という点では、金沢で聴いた井上キーミツ/OEKの同曲よりも、っよほどふかい満足を與えられたくらいである、

っそしてソリストおふたり、1楽章の㐧1声から松中氏は、ロシアの巨漢バスたちのごと野太さは出しえないのでいられ、っこの時点ではぼくも、やっぱそうだよねえ、っとおもうのであるが、っしかし朗々、堂々たるお声であられ、っじき、本場の人との比較などという観点は霧消してしまい、ったったいま、眼前で喉を鳴らされるその人の迫眞に惹き附けられた、

っつづいて津山女史、っはじめこそ、ニュートラルな声のうつくしさのみで勝負されるお心算なのかな、っとおもわせたが、フォルテでは女性の吼え声の鮮烈を器いっぱいに轟かせられ、低い音域での魔女のごと音色もコワい、っそうした楽想に応じた声質の豹変を、能うかぎり強調されるのだった、

3楽章は、歌手にとりてはただでさえふだん滅多に唄われなかろう露語であるというのに、っなんだか生麦生米生卵みたような早口ことばから始まり、っしかも厄介な変拍子という残酷な曲調で、っしかしご両人、っそれをちゃんとぺちゃくちゃと小気味よく唄って出られた、っこのあたりからもう、ああ、これは大丈夫だわ、おふたりとも完全に曲を身体へ入れて唄われているんだわ、っとおもい、っぼくは余計な心配をしいしい聴くことを止した、

4楽章や10楽章におく津山女史の弱音の神秘たるや、っいかばかりであろうか、前者はセロのソロとのデュエットにほかならなく、っこの奏者の眞摯な訴えともども、心配どころか、っぼくもすっかり曲の裡へ引き摺り込まれ、泪とともに聴かずにいない、

シロフォンもけたたましい5楽章を通って6楽章は、津山女史も極めて大膽に表情的の演唱を志向され、っしかもそれがちゃんと巧くていられる、

7・8楽章は威厳と野卑との痛烈なコントラストで、後者では、6楽章の津山女史をおもえば、松中氏ももっとおもい切られた、唄うというよりは喋り散らすごと、っがなり立てるごと表現をおかんがえになってもよかったかとはおもうが、音楽的の振る舞いへ徹する潔さで聴かせられた、っつづく9楽章ではこんどは松中氏へセロが添う、っそれにしても、前楽章の、音場を搔き乱し、穢すごと終結から、っこの9楽章冒頭の中低絃へ遷ると、っなんと烈しく胸を締め附けらることであろうか、演奏も、敢えては弱音を求めず、っしっかりと楽器を鳴らすことで、っこの胸苦しさをいやが上にも助長した、

っみじかい終楽章の最後のソリストおふたりのハーモニーは、っあれをライヴでばっちり定めるのは至難かとおもい、っきょうもその不思議な和声がしかとひびいていたとは云い難かったが、っしかし、全体の充実はまこと大演奏の貫祿を具えていられた、

中小規模の器での声楽と器楽との綜合といえば、知己トロムボーン奏者さんの乗られた三鷹でのマーラー《大地の歌》という、っぼくにとり掛け替えのない寶石、結晶が想い起こされるが、っきょうの《死者の歌》は、っそれと同傾向の果實として、永く永く記憶の一隅を領するであろう、っそして、っきょうの会場では前回公演の音盤販売は為されていなんだが、っいつか、入手できる日が来てくれればうれしい、



っさて、会社は今週1週はまるまる休業なのだが、社員は各自の都合での勤怠でよく、っぼくは平日はすべて出勤す、っお次は土曜、平林遼氏の公演で、桜木町の、っぼくはいちども入ったことがない小器、ったしか序曲ばかりを並べた変則的の演目であったかとおもう、



みずの自作アルヒーフ

 

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八王子、




田部井剛氏の棒、東京薬科大ハルモニア管公演、済む、演目は、モーツァルト《ツァウベルフリュート》序曲、リスト《レ・プレリュード》、っそしてマーラー《巨人》である、

同団はこのほど創立50周年を迎えられたとのことで、っきょうは現役生にOB・OGも加えた陣容による特別公演で、編成上、っふだんはマーラーなどは演奏できないのだとみられる、

っこんげつは来週、再来週と、ったてつづけに田部井氏を聴く、っしかもきょうはマーラー、来週はレスピーギ《トリニティ》全曲、再来週はメシアン《トゥーランガリラ、、、》と、っもちろん来週以降の演奏精度はわからないが、っきょう日、演目だけならばもはやアマチュアにも不可能はなかろう、《トゥーランガリラ、、、》の日は佐藤雄一氏公演もあり、っそちらを聴けないのはざんねんだが、

開演前に八王子の王将で生を2杯呑んでしまい、演奏中はやや睡かった、休憩時、喫煙は所定の場所で、っと案内があったので、喫煙ブースでもあるのかとおもって場内をあちこち歩ってみたがなさそうで、外まで出て戻るとなると20分では心許なく、自席へ着いて後半開演まで瞑目していたが、っそれでもマーラーの間もずっと睡かった、2時間の大半を瞑目しており、起きているならば、目を瞑ったほうがじつは耳がより敏感になり、っふだんならば聴こえもせなんだ音を捉えられたりもするのだが、っきょうは、っやはりときおりはかくんかくんと首を落としてしまいながら、っしかし7割8割方くらいの時間はよく聴いていたとおもう、

器だが、10年か、っそれ以上ぶりくらいで来たが、っむかしはオリンパス、、、っぼくの表記ではオリムパスとなるが、社名なので、っの名を冠していたとおもうが、っこんにちではJ:COMへ看板が掛け替わっている、散会直後に席を立ち、雑沓するより以前に退出したのでわからないが、っあの様子だと、以前のような整列退場は行なわないようであった、改築等が為されたのかはわからないが、

堂内は、っむかしの多目的器のなにがわるく、現代ではどのような技術革新があったのかわからないが、見る目に近年に落成したという器は、用途がかならずしも音楽専門でなくとも、っどこも好い音がするというのか、っすくなくもわるい音はしない、っむしろ、30年とか、っそのくらいの以前に音楽専門を企図して建てられたもののなかにほど、近年の多目的器にも劣後するような音響の器がある、渋谷のオーチャードとか、大船の鎌倉芸術館などがそれで、っいわゆる舞台上の音が客席へよく飛ばない鈍器である、対して、っあまりコンサート・ホールコンサート・ホールした堂内でなくとも、っこの八王子とか、っこないだ初めて入った有楽町C器とか、関東で最も近年に落成しているのは、川越なのかな、っもっと新しいものもあるかしらんが、っあるはできたてほやほや、っぼくも記念すべきそこでの初のオーケストラの公演を聴いた福岡の器などでは、っいずれも、芳醇に棚引く残響は望めないかもしれないが、っちゃんと歪みなく素直に舞台の音が客席へ届き、っどんしゃりにもならず、新宿文化センターとかああしたところみたように最高音がもろにハウリングしたりもせず、っつまり音響上の限界に遮られることなく音楽を聴いていられる、

っさて、っきょうの楽団だが、モーツァルトからまずまずよく弾ける、管はアマチュアらしいくるしさもあれ、絃に力があり、絃合奏のみでちゃんとひびきの基底を形成できていられ、器はけっして狭くないにも拘わらず、音量としても客席のこちとらを抱擁してくれるので、っまことに安心した、

マーラーでは音のむつかしさ、複雑さからとうぜんながらぼろぼろと粗が出てくる仕儀となるため、多量の楽器構成でも奏楽のピントを最も高精細に維持できていたのはリストだろうか、っただ、上記の事情で管打は曲毎にかなりの乗り替えがあられたようで、リストのときのティムパニの若い女の子へは全体に硬骨の打撃を望みえず、快いアクセントを欠いたのがざんねんである、ティムパニも、ったまにああしたお父さんの肩叩きとでもいうぐあいのやさしい大人しい人がいるが、世のお父さんだって、肩を叩いてもらいながらときには、もっとつよく叩いて大丈夫だよ、これじゃ痛いかな、とおもうくらいでも平気だから、っとかと云うのじゃないか、ティムパニをはじめとする打楽器は、っや、絃も管もおよそ楽器というものは、っまずはそうした勇気というか厚かましさではなかろうか、アマチュアを頻繁に聴いていて、乗っけから、ああ、この水準の楽団ではまるで聴いていられないな、っとおもわせるのは、テクニークどうの以前に、っその勇気の不在である、ゴム風船を膨らませるときの、この一線を越えないとよく膨らまない、ゴムの収縮力に押し戻されてしまう、っというあの一線、っあれを越えたところで発音してくれていないと、客席のこちとらはそも音楽の問題として演奏を聴いていられない、逆にそこをさえ越えていてくれれば、少々のエラーがあろうと、っさして苦にもならない、っきょうの薬科大ハルモニア管は、よし、ここまでいけたらあとより大きく膨らませるのももう楽だよね、っという線まで来ているその段階のゴム風船のアンサムブルであられた、

マーラー《巨人》は、っいちばんむつかしいというか、っちゃんと充実した感銘を伴なって聴き手へ届けるのがなかなか叶わないのは、1楽章であるとおもう、っぼくは相当度の細部細部において、っここのこの楽器にかかるフレイジング、表情、音色が慾しいとか、っここではぜったいにこの楽器が聴こえるバランスを志向されたいとかという所望を有っており、っべつにそれを誰指揮者が叶えてくれないからといって即、評価を割り引いたりするものでもないのだが、序奏やまんなか、、、っあれでも展開っていうのかしら、っの静かなところもさることながら、主部もずっと長閑に歌ってゆく音楽で、音量音圧として激するのはほんの局所へ限られるので、各パートが眞に充実しており、っそれは単にテクニークとして落ちずにちゃんと弾ける吹けるというに留まらず、っそれこそ厚かましく、我勝ちに魅惑を振り撒くごとスタンド・プレイを聴きたい、プロフェッショナルの演奏でも、っひとりびとりが突出せぬように突出せぬように内輪内輪へと振る舞ったそれだと、音の概観としてなんら乱れることがなくとも、聴いていてぜんぜん、っほんのすこしくもたのしくない、っつまらない、訴えるべき音楽的のたのしさは、っほんとうは無数にあるはずなのだが、如何せむ全体に中音量以下でなだらかに過ぎてゆく音楽なので、っぼくにすれば世の大半の演奏が、っほとんどなにもせずただ流しているだけというように聴こえる、っべつにすべての歌い方、強弱、バランスをぐゎっちぐゎちに定めて舞台へ持って上がる必要はないし、っそれはそれで演奏を生硬へ堕せしめもしようが、っともかく、漫然と振り、漫然と鳴らして、結果としてたまさかかかる歌い方でした、強弱でした、バランスでした、っという奏楽を晒さないでくれたい、

っほんとうは100萬個所をすべて挙げてここはこうだここはこうだと言及したいのだがキリがないので、っどこか象徴的の局所をひとつっきり論うとして、っそうさなあ、展開ですかね、提示を了えて静かになって、ハープが鳴って、フリュートがひとりっきりで吹く、っその何度目か、3回目かな、音型をもじって一寸スウィングせしめるように記譜してあるでしょう、っああいうところだよ、折角すこしくおかしなことをするように書いてくれてあるんだから、っその揺らし方に、指揮者も奏者も萬感のこだわりを有てと云うのだ、っぼくが指揮者ならばリハーサルのときにかならずここで、あなたはどう吹かれたいですか、まず吹いてみてください、ああ、そうですか、ぼくはね、てぃーろりーろりー、てぃーろりーろりー、こう聴きたいの、でね、おなじ音型を1回目と2回目とでまったくおなじようには吹かないでくれたいのね、たとえば、はじめの、てぃー、のその音価が、1回目と2回目とで2回目のほうがコンマ何秒か長いとか、そういう差をかならず作って、機械的におなじ音型を繰り返しています、というふうにはぜったいに吹かないで、それから、ろりー、の、ろ、と、りー、っの間は可能のかぎり音を詰めて、のんびり、ろりー、と吹かないで瞬時に、ろりー、と、ろ、から、りー、へ移ってください、そのほうがほら、すごく茶目っ気が出て、聴いている方はたのしいですからね、あ、でもあれだよ、ろりー、はここで4回あるけれども、やっぱり4回ともまったくおんなじ、ろりー、じゃダメですからね、4回ともぜんぶ歌い方のちがう、ろりー、にしちゃってもよいくらいです、なんなら、ろりー、の、りー、の音価もぜんぶちがっちゃってもよいです、テムポはないものとおもってください、あなたっきり吹いていませんから、おもうぞんぶん時間を独占して、そのほんの1節でお客のこころをひとり残らず摑んでしまうんだという心算で、てぃーろりーろりー、てぃーろりーろりー、とあなたにっきりできない、ほかの誰にも吹けないフリュートを聴かせてください、っとかなんとか、っここだけでだいぶん長時間を使って、奏者が、こいつ欝陶しい指揮者だな、、、っという貌をするまでやりたいなあ、っさようの、自分が指揮者ならば、っと音楽を聴くすべての人が夢想しているその所望、っそのこだわりを、当のじっさいに演奏を行なう世の指揮者、楽員のおひとりびとりが、っしかしさして持されぬまま舞台へ乗られているようだというのは、っいったいぜんたいどういうわけなのか、音楽がたのしくないのだろうか、

っいかにも駄弁だったが、っさように1音1音へ喰い下がるようにしてしつこくしつこく味を附けた演奏というのは、っどんな楽曲においても世に滅多に行なわれてはいないというのが、っまああたりまえといえばあたりまえで、変態的の夢想を懐いている人の耳へは、ったいていの演奏はただ流しているようにっきり聴こえないのであるが、っぼくにとりては、っこの《巨人》の、っそれもとくに1楽章は、誰を聴いても、っどうしてもこだわりがなさすぎる、

っまだ駄弁をつづけたい気もするが、っまあ止すとして、っきょうの田部井氏も、っあの楽団の水準ではさようのこだわりのひとつびとつを奏者奏者へ植え附けてゆくということもそもできはせず、演奏は、あの1楽章の概観が朧げに伝わっている、っという聴こえ方にっきりならないのだが、っしかし、っぞんがい喰い足らない感じがせなんだのは、嫋やかな曲調のなかでも強固な骨格を通し、楽隊が自然と廉直な奏楽へ徹しられたからかとおもう、楽章終結の賑やかなところも、テムポをゆっくりと取って音がよく伸びるようにされていて、腕が追い附かれないために合奏はだいぶん荒びてはいるのだが、ティムパニの1番もここでは胡麻塩頭のヴェテランに替わられて、っちゃんと芯のある硬い音がし、っきもちがよい、

2楽章は、っさいしょのVnの動機から指揮者によって歌い方が千差萬別だが、田部井氏は、跳ねる音がなく、3音すべてがテヌート気味の行かれ方で、っじゅうぶんに弓を遣われたきょうの楽団の発色もまたすばらしい、

3楽章はあまり記憶に遺っておらず、睡りへ堕ちる時間が長かったかもしれない、

フィナーレは、最冒頭など、絃がしっかり鳴れないアマチュアでは全体の音構造を伝えられないこともしばしばだが、っちゃんと彼等が聴こえる、っむしろ金管はホルンもトロムペットもトロムボーンも一様に息切れの気味でいられ、音量が細るか、無理をして吹いて音色を汚すかされている場面が目立った、っただ、っここでも田部井氏の示される骨組みは堅固そのもので、《巨人》とはあらすじとしてかかる楽曲だ、っという説得力はずっと保たれている、上のぼくの駄弁は、根や幹の堅牢はあたりまえで、枝葉末節のその末端のそのまた末端においても、ほんの枝ぶりがああよりはこうのほうがよい、葉が1枚あるのならその葉の附き方はああでもそうでもなくこうがよい、花が咲いているのならその咲き方はぜったいにこうでなければならない、っという話である、誤解されたくないので再度三度、弁じておくが、世の指揮者よ、俺の望むとおりの音を鳴らしてくれろ、っという話をしているのではない、素人のぼくでもああもしたいこうもしたいとおもって聴いているのだから、指揮者よ、あなた方もご自身なりのこだわりをぼくへ見舞われたい、っというそういう話だ、



っさて、っあすは新小岩、長田雅人氏とオーケストラ・ダスビダーニャとの公演で、同団として初挑戦、15曲のシムフォニー中ゆいいつ演奏を敬遠してこられたというショスタコーヴィチ《死者の歌》である、っあすも、森口真司氏とオーケストラ・ダヴァーイとの公演とバッティングし、っそちらを聴けないのはまことにざんねん無念なのだが、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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名古屋、栄、




高関健氏の棒、、、っは持たれず、名古屋フィル公演、済む、っとはいえ、主役は同響コン・マスのおひとりで、っほんじつのソリスト、荒井英治氏であられる、演目は、ショスタコーヴィチのコンチェルトを《2・1番》の順で開閉幕へ配し、後半の開始にはシチェドリン《ロシア写真集》、全何曲の作なのか識らないが、っうち㐧2・3曲を、っこれはきょうが本邦初演であったとのこと、絃合奏の作で、っここへはソリストは参加されないが、っしかし撰曲は荒井氏とのこと、

当初は実家へ顔を出して来むかとおもっていたので、往路は新横7時発などという新幹線が購ってあり、18:45開演の心算だったので復路は名古屋21時すぎ発で押さえておいたが、折悪しく、っゆうべは遅くまで仕事のキリが附かず、23時凸凹ころにようやっと聖蹟別棟の門扉を閉めてチャリンコで帰り、室の目前のファミ・レスは23:30LOの0時閉店でゆとりがなく、別棟の近くのおなじ店はもっと遅くまで開けているので、っそちらへ寄り、帰宅して1時前ころか、っいつもの悪癖、作業着姿のまま居室の椅子で睡りこけてしまい、っはっと目覚めて4時ころ、5時すぎには玄関を出ねばならないのだが、っほんの30分、ベッドでごろんとしたいとおもい、アラームを掛けて寝室へ倒れるが、敢えなく次に目覚めたのは5時半ころ、っなにしろ前夜から作業着姿のままのため、身支度はまずシャワーを浴びるところからなのであり、っまったく間に合わない、差額なしで別便への変更ができたので、新横11時前くらい発の車輛を予約し直し、っついでに復路も19時すぎくらいのものにし、8時半ころまでもういちど睡る、起きてシャワーを浴び、新百合、町田經由で新横へ来て、無事に新幹線へ乗る、

っが、っぼくの予約した席へは老婦人がいられ、お間違えではないですか、っと声を掛けると、っその方は通路側、っぼくが窓側なのだった、っご婦人が切符を検められる際にぼくもいっしょに覗き込むと、京都までいらっしゃるのがわかり、名古屋で降りるぼくは彼女にどいていただかなくてはならず、ぼく、名古屋で降りますので、っと断わっておいた、結果として、っこれがさいわいした、恆のとおり着座後すぐに崎陽軒のシウマイでビールをやり、YouTubeから落とした服部/井上/N響のきょうと同演目を再生しつ耳で聴いていると、っやはりまだ疲弊していたのだろう、《1番》は終わりまで聴いた記憶があるが、《2番》の中途で睡りへ堕ちてしまい、肩を叩かれて覚醒すると、名古屋の手前でご婦人に起こしていただけたのだった、っあれで彼女が初めから正しい席へいられたら、っぼくも彼女へ降車駅を告げることがなく、っそのまま京都か新大阪まで睡すぐしたかしれない、っよしんばそのばあいでも、取って返して栄の開演へは優に間に合うのだったが、

鄭重に礼を述べて降車すると、名駅へ降り立ってまずもって足を向くべきは椿神明社であり、行って首を垂れ、柏手を打つ、松井石根大将が祀られているのである、

っきょうは暑さはさほどでもなく、栄までは地下鉄を使わず、っのんびり歩く、っとちゅう味噌煮込みを食し、白川公園の片隅でシガレットを服む、公園の中央へは木下大サーカスのでかでかとしたテント小屋が張られていた、っいまでも興行が維持せられていたのかとうれしくなる、

っさらに久屋大通まで歩き、っもはやここへ来るときの開演までの時間潰しの馴染み、器のすぐ脇の喫煙可のカッフェへ入る、大阪では、中之島公演の際におなじチェインで席で喫煙しうる店舗があったので愛用していたが、っこないだ入ると、喫煙席は失われてしまっていた、名古屋は流石に喫茶店のメッカ、地図アプリケイションで検索すると、街中へ同チェインは無数にあり、、、名を伏せる必要もないか、コメダだが、犬も歩けばコメダへ当たる、っというぐあいの過密な出店である、っこのぼくの馴染みの店舗以外へも入ったことがあるが、っどの店でも席で喫煙可というわけにはゆかない、っむしろこの店舗が貴重な生き残りなのだとおもわれ、地図アプリのレヴューでは非喫煙者から、2度と行かない、っとそのことへの憾みが述べられていたりもするが、っどうか同店には、時流へ飲まれず、喫煙席の維持を敢行しつづけられたいと希わずにいない、アイス・コーフィーを啜りつ紫煙を吐く、っぼくらにとりてはこれがひとつのセットなのであり、っさいわい周囲には1区画も歩くか歩かないかのうちにあっちにもこっちにもコメダだらけなのだから、一寸の副流煙もかむりたくない、、、一寸くらい吸い込んでおいたほうが肺癌罹患への耐性が養われるという推論をぼくは信じており、非喫煙者も、っそう厭がられずにすこしくくらいの副流煙の存る街並みをむしろ歓待されたいとすら、っまあ身勝手にもかんがえるのであるが、同店を避ければ、っおそらく他は軒並み禁煙か、っせいぜい喫煙ブースがある程度かとみられるため、っこの店舗へ雑言を擲げられることよりも、っそれら別店舗を利用され、喫煙者をじりじりと社会から締め出してゆく意地悪をぜひに止していただきたい、全成人に占める現在の喫煙者の割からゆけば、名古屋の中心部だけでおそらく100店舗や200店舗は下らないだろうコメダのうち、っかく一部の席で喫煙可の店舗の残存率というのは、っまあまあ世相を正しく反映しているのではないか、一寸の煙草臭さも容れられないという人へ、その店舗を利用しないというせめてものやさしさくらい持してくれ、っと求めるのは、喫煙者としてそれほど無法無体な態度ではないとしたいのだが、っどうなのだろうか、っご非難は甘んじて受けるが、っその際にはぜひとも、たまさか自分一個の快不快という次元の話をされず、社会全体、っという観点を有たれたい、っそして、っぼく自身はどうもその体質ではないらしいのだが、っよのなかには、ニコティンの扶けを借りなければうまくセロトニンの分泌を調整しえず、自身のストレスと附き合えないという身体へ産まれ附いた人がいるのだということについて、っほんのすこしくでも識っていただきたい、会社の同僚などで、休憩時間の前からそわそわとして、休憩となるや逃げ込むようにして喫煙スペイスへと急ぎ、シガレットを咥える顔が惚けたように眼の焦点が合っていない、っという人がいたら、っその人がおそらくそうした先天的のセロトニン分泌異常者である、っその人たちにとりては、定期的のニコティン摂取はまさしく生活必需なのだ、誰しも、他人様の生活必需品を奪い取る権利なぞ持しえなかろう、文字通り、っそれは人権侵害である、差別とは、当人の努力によりては返上しえないその者の属性を種に、彼彼女を不当に扱うことである、セロトニンの分泌異常に対してその者の責めがあろうか、努力によりてその異常を返上しえようか、っそれをかんがえれば、っこれらの者を社会的に如何様に遇すべきかの判断へも、一定の指針が與えられるのではないか、っすくなくも、嫌煙の声のおおきさによりてなし崩し的に煙草を排斥してゆく昨今の傾きが、っその方途としてまったく適切適当でないことには、っおよそ論を俟つまい、っぼくらは高度文明を經た民主主義社会に暮らしているのではないのか、っそれとも、程度の低い情治社会へ棲まっているのであろうか、



下手に時間があるとこんな駄弁へ暮れる、っまあたまにはよかろう、

っさて、公演だが、っじつにすばらしかった、っまずはいつもながらの名フィルの高度の錬成と、っそれと器のアコースティックとの綜合である、っここ芸文センターのホールの客席配置は、他に存りそうでなかなかない特有のもので、1階席が狭く奥行きも浅く、っすぐに1段上がって2階席となり、っその2階両袖は階段状に降って、突端は舞台両袖近くへまで達している、っきょうのぼくは、っその右翼の、正面から袖へ降り始めたか始めないかという位置で、舞台をわずかに俯瞰でしかし眼前へありありと望むその親密さは、サントリーではRCの最前列へ陣取ってもまだ得られない、同様の眺望は、川崎の2階正面の1段目前方辺りならば可能となるが、っあちらは全体が2,000席級のつまり大器の部類であるのに対し、っこちらは数百席少ない中規模器寄りの容積、っきょうのようにさほど厖大な編成でなくともトュッティは易々と飽和へ達し、奏楽の性質によりては音楽的の意味を結びにくい膨満におぼえることもあるが、っうまくすると大器ではけっして味わいえないたっぷりとした音量音圧のひびきを全身へ浴びることが叶うし、コンチェルトのソロやオケの各パートも、ニュアンス豊富、直接音の後へ、信じ難いほどゆたかな残響が遺存している、っそれもでっぷりと肥らず、量的にはおおきいが、質的には清潔で、直接音が鳴っているときには、飽くまでも明晰さが勝るというぐあいである、たびたび舞台上で音を鳴らし、十二分にこの器の特性へ馴致した個人や団体の奏楽を聴くならば、っという条件はもちろん附くのだが、っそれはどの器とておなじことで、っわが国でも有数の銘器のうちへ列せられるのではなかろうか、

っそして主役、荒井氏の存在感である、《2番》も《1番》も、っほんの出の1音から、っもうこちとらの耳をこころを捉えて離されなんだ、コン・マスとしての彼氏の風采は、温厚そうな紳士であられる、っけれども、彼氏はじつにかのオーケストラ・ダスビダーニャのトレイナーをお務めでいられ、っきょうのかかる演目への挑戦、っご自身の乗られない中プロへもこだわりの逸品を持って来られるところからすると、っそのいでたちに反して、近代ロシアというか、ソ聯の各作家へつよい偏執を示される曲者の面をお有ちであるらしい、っその執念のほどは、っじゅうぶんすぎるほどよく伝わった、

ショスタコーヴィチの、っとくに《1番》のほうは、曲の性格もあり、っぼくがこれまでに聴いた実演のソリストで、ヴェテランと呼べるのは五嶋みどり女史くらいのもので、っあとはみな若き俊秀ばかりである、っそのとおり無類の竣敏さが要請せられ、偶数楽章はいずれ劣らぬ妙技で、スポーティと謂いたいほどの昂奮を與えられ、服部女史、岡谷で聴いた郷古氏、非礼ながらソリストのお名は忘れてしまったが、坂入健司郎氏が浜松の楽団を振られたときのもの、っあとは錦糸町で聴いた豊平青氏のクレド響とのもの、、、っそちらのソロは戸澤氏のご令嬢だったかしら、っちがったかな、っいずれ、悪印象、っあるは無印象の演奏はひとつだにないくらいだが、っこれらがみな、っありとある楽想、特殊、怪っ態な楽器法をしかし、一気呵成のテムポの裡へぐぃっちぐぃちに詰め込み、何人へもほんの附け入る隙とてみせないという存り方をされていたのに対し、荒井氏にはおそらく、っさようのきょう日のアスリートのごとヴァイオリン弾きの眞似事は、っもはやなのか、っはなからなのか、っいずれできはしないというご自覚があられる、っだからそれらの楽章において、彼氏と高関氏とで作られるテムポはいくぶんゆっくりとしているのであるが、っそのなかで荒井氏は、奏法毎のヴァイオリンという楽器のひびきの対比を、能うかぎり拡大してぼくらの眼前へ示そうとされる、っそれが上記、銘器たるの愛知芸文センター、コンサート・ホールの空間へ発散せられる綾生す眩さと来た日には、っこちとらおよそ筆舌へ盡せぬ至藝であられた、

っそのためにはときに、っあるフレイズへ記譜の音価以上の時間を要してしまわれたりし、っそれはほんのコンマ何秒かのラグにすぎないのだが、っしかし変拍子だの裏拍だのが乱れ飛ぶ楽曲構造においては、っそのわずかの遅れが音楽の箍を弛ませる、上掲の若きヴィルトゥオーゾたちにはそうした瑕疵はけっしてなく、っむしろその瑕疵を回避せむがために彼等の有てる能力が綜動員せられているのであったが、勢い楽想、奏法毎のキャラクターの落差は、っきょうの荒井氏の演られ方からすればわずかにもせよ均されてしまうのもものの道理で、飜って、多少ともがたぴししようが1音1音をありったけ意味附けながら意味附けながら進まむ、っというのが、っきょうの荒井氏の奏楽、演奏のご趣旨であったのに相違ない、っそしてそれは、っぼくの記憶に存る若き名手たちの間に伍して、誰にも引けを取られない耀やきを放たれたのであった、

秀抜なる名フィルを得れば、高関氏の手堅さもいくらも有効裡に働く、っどちらの曲でも、ピキェロ、クラリネット、ホルンと、ソロとオケとが口々に動機を呼び交わす場面があるが、っそこでは絶えずお互いがお互いへ音色やニュアンスを寄せ合う親睦が聴かれ、っあれこそまさしくコンチェルトの存るべき再現というものであろう、

シチェドリンは、㐧2曲など、〈モスコウ中のゴキブリ〉という穏やかならざる副題が打たれており、っさぞかしぎょっとするような曲想かとおもうと、っぞんがいそうでもなく、っむしろ都会的のスマートな和声が薫っているくらいで、細かな音粒がこの昆虫の羽音を模しているのはわかったが、聴いていて気味のわるさに膚がぞわぞわしてしまうというのではなかった、㐧3曲がまた〈スターリン・カクテル〉といって、喉を掻き毟るごとフラジオレットがついに限界まで引き攣り、最期には奏者全員がそれに合わせて人声を発せられ、っこの世紀の恐怖政治への人々の呻吟を謳うのであった、っここでも、名フィルの絃各パートの積極果敢さといったらいかばかりであろうか、特殊奏法を遣えるかぎり遣い切る書法の煩さを臆することなく全開に展げられるが、全員が躊躇いなく振る舞い切られ、っかつ合奏は精妙の極致へ達せられているため、煩雑さがそのまま怜悧な結晶と成って満堂を圧する、

っぼくとして、故国でかようの充実の公演が催行せられていることを、っまことに誇らしくおもう夕であった、



っさて、多摩センへ戻って、っまだ22時すぎである、っこんやこそゆっくりぐっすりと睡む、っあすは近場、八王子にて、田部井剛氏の公演である、駅南口のあの器へは、落成から間もないころに数度、通ったが、狭いエスカレイターの商業施設や役所の出張所だかの階上へ無理無理作り附けた構造上の欠陥から、終演後の退場時には、雑沓による集団転倒抑止のためとして、もぎりのところで100人単位くらいで止めながら止めながらお客を帰す、っという公会堂としてありうべからざる醜態を晒している、っしばらく行かないうちに別途、広い出入口を設けるなりして、っあの不便を解消しているだろうか、っただし、堂内は、音響はそれなりであったように記憶している、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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川崎、




夏の祭事の、っぼくにとってはことしはこれで打ち止め、松本宗利音氏の棒、N響公演、済む、演目は、チャイコフスキー《カプリッチョ・イタリエン》、、、イタリアーノのほうがよいのかなあ、っまあそれ、阪田知樹氏を招いてグローフェ編のガーシュウィン《ラプソディ・イン・ブルー》、っそしてメンデルスゾーン《スコッチ》、

虫が報らせるということがあるのか、偶然の一致というのか、先般、芥川也寸志氏と彼氏の手兵、新響とのチャイコフスキー《4〜6番》の音盤が出、っその《悲愴》へきょうの《カプリッチョ、、、》が併録で、《4番》から順に聴いて、っきのう帰りの移動中にちょうど最後の同曲まで聴いた、っその時点ではきょうの演目は、メインが《スコッチ》で、阪田氏とは《RIB》だったような、っというくらいの認識だったが、開幕がそれで、っこうしたことはたまにある、っぼくはだいたい演奏会の直前まで、っというよりも入場してプログラムを開くまで、っその日の演目を詳らかに知らないままでいる、敢えてそのようにしてそれを密かなたのしみにしてすらいるのだが、器へ移動しながらiPhoneのプレイ・リスト中へ無数にある楽曲中からたまさか再生したのが、っぴたりその日の演目と一致したり、っあるは直接に影響を與えたり與えられたりした関係にある楽曲であったりする、

クラッシックの演奏会はかならず演目を掲題して切符を売っているが、っいちどどこかで誰かなりどこか団体なりが、とちゅう休憩20分で上演時間は計約2時間、なにを演るかは行ってみて音が鳴り出してからのおたのしみという公演を挙行してくれないものか、っなどとふだんからよく夢想している、っもう久しく行っていないが、寄席ではそれがあたりまえである、各噺家がなに演目をなさるかはまったくわからないで、っお客は木戸賃を払うのである、噺家もまた、っいわゆる、附く、っという禁忌があるため、っあらかじめ演し物を定めておくというわけにゆかない、香盤の順に、根多帳を検め検め、高座へ上がってお客のご機嫌を窺い窺い、自家薬籠中を弄るのである、っまさしくライヴであろう、クラッシックの音楽家も、これはいつお客の前へ出しても恥ずかしくない、っというレパートリーくらいいくつも有たれているはずである、っそれを舞台へ上がったその瞬間のインスピレイションで、っぱっと弾き出す、っきっとたのしい催事となるのにちがいない、

っところでその芥川氏のチャイコフスキーだが、っこれまでに発売せられているおおくの録音から明らかなように、彼氏の造形はやはり全般に辛口で線が細く、っこんかいの音盤も、新響もいまだこんにちのアマチュア離れのした堅固なアンサムブルを獲得するには及んでいられず、っそれがいずれもデッドな音響の器、、、ブックレットをよく見なんだが、っおそらく上野か、っどれかは日比谷であったかもしれない、っで力いっぱいに鳴っていられるため、潤いには乏しく、っしかし硬骨の音構造を喉元へ突き附けられるごと迫力がある、っただそのなかで、《5番》で愕いたのが、1楽章の㐧3テーマで、Vnの歌にポルタメントが附いているっっっ、っこの表現はヤマカズさん最晩年の新星日響盤において不朽の光芒を放っているが、っこの芥川氏のライヴはとうぜんそれより以前である、っほかにも、ヴァルスの冒頭をうんと粘りながら入られたり、中途のファゴットのテムポ操作は履行するか否かがよく問題にされるが、っそれがフリュートへバトンを渡す際には誰も彼もイン・テムポであるところ、芥川氏はそこでもファゴットのときと同様にふたたびおおきな撓みを設けられている、同盤の余白へは、っこのときのではなくもっと以前の同曲演奏時の貴重な練習音声が収まっており、っそこではこれらの表現はいまだ為されていない、芥川氏からこれほど意慾的の訴えを聴くことがあるとは、っぼくにすればまったく意想外で、してやられた、っというところである、

っさてきょうだが、満員札止め、ってっきり2階の良席が購ってあるのかと自分でおもっていたが、4階の左方であった、っこないだの松本氏の東京シティ・フィル公演を聴いたあとに急遽、っこれも聴くことにしたので、っもう良位置が残っていなかったのだろう、初めて坐すような個所だったが、っぞんがい眺望はよく、指揮台はそう遠くなく眼下へ見えるし、背凭れへ身を預けていても1stは1プルトまでは見える、ピアノの鍵盤もよく見える、音響は、っもちろん2階正面には劣るが、っまあわるくない、っただ、っその位置から4階正面のいちばん奥の方を見ると、っそこはいかにも舞台から遠く、坐せば視覚的にも音響的にも不足を感ずるだろうとおもい遣られた、

っこころならずも、っぼくは平素からN響へは否定的だが、彼等にしても、渋谷のようなあんな無法な器での奏楽を聴かれて評価せられるというのも、っまったく不本意であられるだろう、っきょうは全曲とも絃14型の中規模編成で、《スコッチ》へはトロムボーンもいられず、スマートなアンサムブルは、渋谷では望むべくもない爽やかな間接音、残響を纏う、意地悪く聴けば、っどう云うのか、各パーツに遊びがなく、っもっと自在に揺れたり、っもっと音色やひびきの可能性を広く広く用意されたくはあり、っすくなくも、在京、っまた地方も含めて、他の日本の楽団と比較して、っもはやN響が一頭地を抜いていられるという時代は了わった、っぼくが気にするのは、っそれでもN響はかように切符がよく売れるのだろう、っそのときに、っじっさいに来場したお客たちは、あ、え、きょうのこの程度だったら、なんかこないだ聴いた別のあの楽団のほうが、よっぽど良い音鳴らしているんじゃないの、っとちゃんと認識しているのだろうかということである、不遜な云い種で恐縮だが、

っきょうも松本氏の音楽的のいでたちは、っなに衒われることなく、っとにかく、オーケストラのいちばん好い音が鳴る、チャイコフスキーのこの曲は、演り方によっては狂騒的でやかましいだけになり勝ちだが、冒頭のファンファールから無理をされず、っおおらかに構えられる、絃のいかにもラテンの懊悩は、N響ならばあのくらいの練りぐあいは朝飯前であろう、一転、木管のワルツ風の主題は能天気なほどの音の色へ豹変されたく、っそういうところがN響も不得手なのかとおもうが、っちゃんとたのしい、松本氏はといえば、曲想に連れて目に見えて振り方の表情が変転されるというのではないが、っそこがむしろ快い、若く有能な人で、どんな性格の音楽へも当意即妙に対応できます、っという音楽性を披瀝されると、振り姿としても鳴る音としても、っかえってそれがうるさくなってしまったりする、松本氏は、っぶきっちょというのではぜんぜんないが、ここはこういう音楽ですっ、ここはこういう表情ですっ、っということをちょこまかとされず、っいつも自然に音楽が流露しており、っこちとら客席へいて大船へ乗ったここちだ、

阪田氏は、2台、っあるは3台ピアノでの同曲演奏はご經験がおありだが、グローフェ編のオケ版《RIB》を弾かれるのはこんかいが初めてでいられたとのこと、一部、ん、それはジャズのリズムといえるのかな、っとおもわせないとしなんだが、タッチの多様は流石で、っそれはむしろソリスト・アンコールの、っあれもたぶんガーシュウィンだとおもうが、っそちらでこそより如實に感ぜられた、っそれもジャジーな、音符の細かい曲だったが、右手が忙しいなか、左手の比較的に音価の長い和音が神秘の色合いをさえ湛えて、リズムのカッコよさの裏へじつに複雑微妙な味を隠していられた、

オケ・パートは、クラリネットがさいしょのグリッサンドを擦り上がったあと、主題へはいきなり装飾音が附いているというのがぼくの聴き馴れた形だが、っきょうはそれがなく、っどうだろう、っこのあたりの楽曲だと、譜面もそこまで厳密には書いていなく、適宜、奏者がアド・リビトゥムに演るのを許容する、っということかもしれない、全体に、ジャズ・バンドのイディオムは敢えては採用せず、シムフォニー・オーケストラが立派に奏した《RIB》である、

《スコッチ》はきょう、っとても素敵な楽曲だと實感せられた、松本氏は、っこれまでにぼくが聴いてきたブルックナー、ブラームスと同様に、楽章内の主題間でもテムポをはじめとして滅多な表情の落差を設けられず、一途に前へ前へと向かわれる、大音場に中規模編成のN響の鳴り方は愼ましく、っやはりかかる音響条件で聴かなければ、ったとえば指揮者の強弱の差配ひとつにしても、っその音楽的の意味を感得すること能わない、1楽章の主部の開始は、記譜の指定は識らないが、松本氏は自信を有って弱音で始められ、っあのように音量を細めると、渋谷ではただただ貧しい、っみすぼらしいっきりの音楽の脱け殻であろうが、っここではその音のよわさが満堂の耳という耳を欹たせ、音楽に対して貪慾にさせる、っこうでなくては音場ではないし、っこうして聴かなくては音楽ではない、

2楽章は、っあれ以上に速いと上滑るというそのぎりぎりの速さだ、上滑ろうが平気の平左で棒だけが先へ行ってしまうという指揮者もおおいが、トリオ相当の部分はなく、主題がひとしきり通過するとあっさり済んでしまうという構成も、メンデルスゾーンの英断である、

3楽章の沈潜を經てフィナーレは、冒頭からはっと胸の張り詰めるような主題の魅惑がなにより勝り、完全に主部を収めてしまって、遙か調を移しての独立した終結部も特有である、大団円において松本氏の腕の軌道は苛烈でいられるが、N響は最後まで美観を崩されず、っきもちのよい幕切れである、



っさて、っお次は土曜、名古屋日帰りにて、栄で名古屋フィル公演、コン・マスの荒井氏がショスタコーヴィチのコンチェルトを2曲とも弾かれる、開演が18:45となっていたので、実家へ顔を出して蜻蛉返りして来んかともおもったのだが、16時開演の誤りであったと楽団から謝罪のメイルが来ていて、っそれでも行って来られなくはないが、慌ただしくなりそうなので、公演だけにしておかむ、っもう何年も帰っていなく、っますます敷居が高くなってしまうのであるが、、、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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新百合、




ユベール・スダーン氏の棒、、、っは持たれず、東響公演、済む、川崎の夏の祭事の出張公演だが、切符代が抑えてあるのがうれしく、っしかも、っぼくは井上キーミツのいつかの公演のより良位置の切符を購うべく川崎の器の有料会員となり、っそのまま惰性で会員費を払いつづけているが、っそうすると各公演の切符は1割引で購え、っそれはここ新百合でも共催公演のばあい同断であるので、年間ほんの数公演の割引を受けるっきりでも、っすでにして会員費分は償却しうるというぐあいである、

っきょうの演目は、モーツァルト《皇帝ティートの慈悲》序曲、山縣美季女史を招いて同《Pf27番コンチェルト》、っそしてラヴェル編のムソルグスキー《展覧会の画》である、

っこの器は、っいつかに同大、、、昭和音大だが、っの学生さん3名がコンチェルトを演られる公演を聴きに来た、っほどよい容積のため、音量は豊富だが、っひびきは潤澤ではなくややドライで、各楽器がリアルな質感で迫る、っしたがってきょうは、無法な強音のないモーツァルトは絶えず凛烈だが、《展覧会の画》の〈キエフ大門〉終局ではめいっぱいにひびきが拡がってこちとら間接音を聴くゆとりがなく、っやや音の強弱、力感のみがものをいって終演する嫌いがあった、っやむをえないといえばそうだが、

スダーン氏は、東響のディレクトール時分には基礎的のアンサムブルから相当度にうるさくおっしゃられたという話を仄聞しており、っその鍛錬のこんにちの彼等の合奏能力へ寄與するところは、っじつに大なることであろう、

モーツァルトはスダーン氏にとっては看板レパートリーに相違ないが、興味深いのは、っきょうのような作家最晩年の淵明な楽曲においても、迫らず穏やかな奏楽を志向する気配は微塵もなく、っみじかい音符へはもれなく意志的のアクセントが與えらるところである、

っよってコンチェルトは、若いソリストの歯切れのよいタッチもあり、彼岸へ揺蕩う諦観は前面へは出ず、絶えず音楽がよく動いて、フィナーレなどときに、っぼくごとき平凡人では夢に見ることすら能わぬ幻想境を飛翔するようで、《27番》へあんな景色を望むとは、っおよそ予想だにしなんだところである、

《展覧会の画》は、っさいしょの〈プロムナード〉からラッパはいちばん高く上がる音をひっくり返されたが、っその後は恙なく進み、っしかし上記のとおり、っついに大団円は器の性格上、っひびきの奥行きを味わわせるには及ばなんだ、



休憩時に喫煙へ立つと、器の門前の案内板へ、っやはり同大の学生さん連によるものとみられるプッチーニ《ラ・ボエーム》公演の案内が貼られてあり、っきょうの終演後、っお客の大半がいなくなるまで待ち、希望の席まで行って坐してみて、眺めに不足のないことを確かめてから、購入す、

っさて、っあすは仕事は休み、っふたたび川崎へ戻って、松本宗利音氏とN響との公演、若い指揮者とN響との共演というと、上野で聴いた坂入健司郎氏とのショスタコーヴィチ《5番》は、っべつに坂入氏がオケにナメられたわけでもないのだろうが、N響がしばしば陥る、全編これつまらなさそうな音の羅列がもろに展開して、っこちとらとっ白け放題であった、っどうも、っきょうの東響の最大のトュッティ時と同様に、下手に几帳面に鳴るせいでひびきにゆとりがなくなってしまうのが彼等の悪癖かとおもうが、松本氏とみごとにスウィングされ、快く解れた合奏が為されることを希ってやまない、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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川崎、




夏の祭事で、上岡敏之氏の棒、新日本フィル公演、済む、演目はブルックナー《7番》、

っつい以前まで、京都から上岡氏を追っ掛けてこられた方と呑んでおり、っその方はご苦労にも日帰りで、新幹線の時間となったのでお帰りになり、っぼくは、料理が片附かないので店へ居残って、っいまこれを書いている、

《7番》1曲のみということはもしや、っと覚悟して来たが、っかのヴッパータール響との同曲演奏の再来というべき、全曲に亙る極遅、15時開演で、ソロ・カーテン・コールがあったにせよわりにあっさりとハネて、出て来て懐中時計を検めるに、16:45ころ、っすくなく見積もって16:30ころまで音が鳴っていたのだとしても、70分へ満たない演奏もおおいなか、90分余を要したこととなる、

ヴッパータール響との来日公演往時は、っぼくもまだ画学生だったか、っもう大学は出ていたのだったか、っいずれ、音楽の聴き方もいまよりもずっと幼稚で、、、っいまでも相当度に幼稚のままだとおもうが、ブルックナー《7番》という曲想へも十二分に馴致しておらず、、、っいまでもぜんぜん馴致し切れていないとおもうが、っだから演奏の要諦も摑めないままただ客席へいたっきりだったのだろう、

っのち上岡氏は、っきょうの新日フィルのディレクトール時分にも同曲をなさり、っそれもぼくは、っえ、サントリーと桜木町とだったか、都合2度聴き、っそれは、一般的のテムポからすれば少々遅かったのかもしれないが、っきょうのような奇異なほどの速度ではなかった、

例のごと、全曲冒頭はほとんど無音の原始霧に始まる、っただ遅いのみならず、セロのテーマが、ホルンとユニゾンのさいしょの1節のみ、独立した主題部として扱われ、っつづくホルンを欠いた一節へ遷るまでにおおきなおおきな間が空く、トュッティを迎えると新日フィルは、っなだらかななかにも快くエッジの効いたブリリアントなひびきである、全曲を通して、瑕疵があったとすればヴァグナー・テューバで、2楽章コーダのヴァグナーへの追悼など、っあのようにちゃんと吹けないのでは困る、

っそれにしても、っむかしとはちがい、上岡氏がその遅い速度のなかでなにをなさりたいのか、っいまならばぼくもよくわかって聴いていられる、っもちろん、細部の彫琢はヴッパータール響とのときとも新日フィルの以前のときとも異なるだろうが、っこんかいは殊に、管楽器の2番以下の動きの周到な掘り起こしが滅法おもしろく、発音はいつもさっぱりとしているのだが、対位法の構造をときに異様なほど立体的に感ぜられた、

2楽章の絃合奏による㐧1テーマは、っやや細い量感の、っしかしよく練られた音色だったが、っここは、っもっと粗野に身体ごと音楽の渦中へ飛び込んでゆかれた小柳英之氏のいでたちのほうが、っより感動的であった、㐧2テーマにしても、っあまりにも速度が遅いせいで、後半において主題が切れ切れになる部分の情感がかえってよく活きないのではなかろうか、

3楽章でも速度は上がらない、トリオもそうで、アダージョが再来したのかと聴き紛うごと、っしかし、っこの主部は、快速に進むとやや喰い足らないというのか、っわるくすると空疎にも聞こえ兼ねず、っあのくらいじっくりと運んでくれるのも歓迎、

上岡氏といえば金管の抑えたひびきが印象的で、っとくに新日フィルのディレクトールをされているときにはそれが代名詞のようになっていたものだが、オケの性格にも依るのか、読響を振られるときなどはそれほどでもないし、っきょうは、以前からすればかなりに開放的に鳴っていたが、フィナーレのコーダまで来て、っその抑制趣味が全開、全曲冒頭主題を吹く金管は、っやっと音型が聴き取れるかどうかという音量と音勢と、管絃によるひびき全体のブレンドに拘っていられるのかとおもいきや、ティムパニの打刻はここといい1楽章の終結といい、っむしろ放埓なほどで、指揮者が手ずからそれを主導されるようでさえあり、っまことに不可思議なバランス感覚である、



っさて、っあさっては休暇を取り、っもとよりこのおなじ祭事中から松本宗利音氏とN響とのご共演を聴くはずにしてあったが、っあすも、川崎ではなく新百合でユベール・スダーン氏と東響との公演を聴く、、、っとここまで書いてばたんきゅうで日附を跨ぎ、2度睡3度睡ののち、っもうそろそろ起きてシャワーを浴びねばならないが、新百合は近いのでよい、切符はついおとつい購ったのだが、絶望的に売れていなく、3階席などがら空きでかわいそうになる、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




平塚、




井﨑正浩氏の棒、戸塚区民オケ公演、済む、演目は、ドヴォルザーク《新世界》とビゼー《アルルの女》㐧1・2スートとと、一見なんでもないようだが、先に《新世界》を演ってしまい、《アルル、、、》は、全8曲を劇の進行順へ並べ直しての演奏、1曲毎に井﨑氏が話され、興が乗られて能弁を披瀝されたこともあり、アンコールに《カルメン》から1曲演って済むと、っじつに開演から2時間半が經過していた、

平塚など、っじつにひさかたぶりに来た、大学を出てしばらく、ポスティングのアルバイトをしていて、っそう頻繁にではないが、平塚とか茅ヶ崎へは来たものだ、15年以上、20年近く前の話だが、路地という路地をチャリンコで走り回ってチラシを配ったので、街並みの印象はよく憶えていたし、っどの辺りへは団地があってけっこうな枚数が捌けるとか、っそういうことも身体の奥へ染み附いた感覚として遺っている、

っきょう来ると、っもちろん暑いには暑いが、っけっこうな風速で湘南の海風が吹いており、陽蔭を撰って歩けば、っときに涼しいほどである、駅の駐輪場のチャリンコを見れば、3台に1台は錆び放題に錆び附いている、海端らしい景色だ、

大船を本拠とかんがえてよいのだろうきょうの戸塚区民オケだが、前回は藤沢、今回はここ平塚で、結論、断然きょうの平塚がよい、大船は、っあれでいちおうは専門の音楽ホールの心算の設計であろうが、オケの巧拙にも依ろうけれども、っどうもひびきが拡散気味で、っしかも、っそれほどの容積でないにも拘わらず、音量をたっぷりと得られない憾みがある、舞台上の音が客席へよく飛んでいないのかもしれない、藤沢のどんしゃりぐあいに至っては、っきょう日論外、っそれがここ平塚は、流石に近年に落成したらしいだけはあり、音響条件が演奏の質を1段も2段も底上げしてくれる、集客もまずまずのようであったが、果たしてかの大船のジョーカー、靴ノイズくそじじいは、っここまで来ていたのだろうか、演奏中、っそれらしい雑音はせなんだが、

っこの楽団はいつも、っまずVnがよわい、致命的に音量が出ない、ホルンやトロムペットの貧弱な楽団を聴くのもかなしいものだが、っそれにも増して、絃、っとりわけVnがちゃんと弾けないオケの公演は、開演から終演まで、客席へいる意味がまったくない、っと云いうるほどである、っやはりまずVnがちゃんと聴こえてくれないと、っそれはオーケストラの音ではない、

っだからきょうも、っいわば井﨑氏のお元気なお顔を見に来たくらいの心境で、音楽鑑賞は叶わないだろうと踏んでいたのだが、っまったく不当な侮りであった、っちゃんと音が出ているっ、オーケストラの音が、っであるっっっ、器はそれを如實に伝える、急いで音楽鑑賞モードへ切り替えねばならなんだぼくは、っそのことにすこしく戸惑ったくらいである、

器の好条件ということもあるが、っどうだろう、っこれはまったくぼくの想像にすぎないが、っもしかすると、井﨑氏がひとことチクりとおっしゃったかもしれない、っふだんの大船での演奏を聴くかぎり、氏は長年のお附き合いであるこの楽団に対してしかし、いかなアマチュアとはいえ、もうひとつ高い問題意識を有って奏楽へ取り組まれたい、っとのご不満を宿していられるにちがいないとおもう、っきょうのパンフレットの挨拶文によると、同団はこの数年来、基礎力の向上を目標としてプログラムの選定を行なってこられたとのことだが、今年度は今回が《新世界》、次回は川崎で楽聖《㐧9》と、《9番》がふたつ連続する格好、っこの演目を楽団として井﨑氏へ打診された際、氏として、演るのはかまいませんけれど、もういちど1から基礎的のアンサムブルを綜点検してみることなしに、ただ演目だけ《新世界》だ《㐧9》だと派手に並べてみても、そこにどれほどの意味があるのでしょうか、っとかたとえばそういうことを、

っそのくらい、っきょう《新世界》が始まると、楽員おひとりびとりの高い高い士気がびりびりと伝わった、っもちろん種々の綻びはそこかしこみられるのだけれど、恆に全体が一体のティームとして機能し、みずからの楽音楽音によって一楽曲を成立せしめるのだっ、っと互いにおこころを通わせ合った、っこれぞ眞に眞なるアンサムブルと称すべき有機的の合奏が、全曲全楽章をがっしりと支えたのである、っふだんの彼等は世辞にもそのようではない、っもっと各声部がご自身ご自身のロールに汲々とされ、っやっとヒヨらずに音を出せたか出せないかというふうでいられ、声部間での音色や表情の睦み合いなぞ、っおよそ望めないのである、

基礎力の向上ということは、合奏のみならず、自主的の分奏もさかんに為されただろうか、アマチュアも大半までの団体が、各単声部がそれ自身として自立しえず、互い互いに凭れ合ってどうとか全体としてオーケストラらしき音を発する、っという奏楽に甘んじている、っほんとうに本格の演奏は、っもっとひとつびとつの声部が強靭であり、っとつぜん他のすべての声部が演奏を中断し、っどれか1声部のみが音場へ取り残されたとしても、誰に聴かれても恥ずかしくないという鳴り方をしている、っそのことと、全体として一体の響を発するということとが矛盾なく同居している、っそれが世に最も勝れたオーケストラの奏楽というものである、っきょう戸塚区民オケは、っそれを完全に果たされたとは云わない、っけれども、っまちがいなくその方角を向かれた演奏をなすった、

井﨑氏も、っさぞかし緊とこの楽団の意識の変革を感得されたことであろう、1楽章の序奏から恆にも勝る細やかな表情を練り上げられたかとおもえば、っその後は楽章を追い、頁を追い、小節を追う毎にますます演奏が丁寧に、謹直に、稠密に深化してゆく、っときには夢中で音楽へ喰らい附く者たちにっきりけっして発すること能わない最も眞剣な楽器の音というものが期せずして出ており、これがいったいあの戸塚区民オケなのか、、、っ、っとぼくは目をまん円に瞠って、っほとんど呆然としたほどである、

2楽章でコール・アングレの主題を提示したあと、冒頭のトロムボーンの導入句を木管を主体に再現する際の濃密な発音、っその張り詰めた全体の音色はどうだっ、っまんなかで木管へあたらしい主題が出る際の背景の絃の微細な動きも、1声部1声部が当事者意識を有たれ、音楽を疎かにされていない、コール・アングレが再現し、っやがて絃のトップ連中のみの合奏となる薄暮の情景は、っそのとくにコン・マス氏の命懸けの音色美っっっ、人間業とはおもえない、

スケルツォでの井﨑氏も、冒頭からうんと粘って腰を落とされ、っじっくりと主部を進められる、っいつになく充実の音を用意してこられた楽団に対しての、すべての声部に遺憾なくおもうぞんぶん弾かせてやりたい、っとの指揮者の親心をみる、

フィナーレは、冒頭主題の魅惑に反して、構成としてはむしろ皮相を感じさせないとしないが、っすべての時間をぎっしりと中身の詰まった音で埋めることにより、っその難を逃れる、っここでも冒頭からまさしく眞剣そのもので、絃合奏が大地を揺るがし、豪傑的のホルンが、トロムペットが運ばれて来る、同主題の絃による模倣へ遷るべくその動機を用いて經過句を辿る絃群のハーモニーたるやっっっ、っその熾烈さに眞っ直ぐに胸を刺し貫かれ、っついにぼくの視界は泪で濡れた、《新世界》などという、世界中で襤褸雑巾のごと演り古された楽曲といえども、っいま新たな感動を生み出すことはおおきに可能なのだっっっ、

各声部がよりソリスティックに動くビゼーでは、奏者によっては一部、腕の限界を感じさせもしたが、全体の充実は終演まで変わらず、

同団にはぜひに、大船へはお戻りにならず、っこの平塚を常箱とされたいと希わずにいない、



っところで、YouTubeへ山上紘生氏とポラリス・フィルとのマーラー《トラギッシェ》動画がupせられ、実演同様にすばらしく好印象で、楽団は、っぼくがこれまでに数多に聴いてきたアマチュア団体中でも最高位のテクニークを具えられていると確信したのだが、っもう多摩センへ戻って来てしまったので、っまたいつか、言及する機会があればとおもう、

っお次はこんどの土曜、川崎の夏の祭事で、上岡敏之氏が新日本フィルとブルックナー《7番》をなさる、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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調布、




小笠原吉秀氏の棒、東大フィロムジカ響公演、済む、演目は、ヴァグナー《リエンツィ》序曲、マーラー《葬礼》、っそしてブラームス《4番》である、

楽団は、東大を中心に他大学からもメムバーを集め、総勢180名という大集団らしい、っもちろん、っきょうは全員が乗られるわけではないが、絃は1st、2ndとも18から、バス9までという規格外の陣容、っしかも後列までよく弾ける人たちが揃っていられ、音量豊富、っしかし対する管は全体にやや頼りなく、っこの器はもとより分離し放題のおよそ非音楽的の音響であり、っからっからに乾いた感触の各声部がてんでんばらばらに鳴っている、

棒の小笠原氏も音色の趣味のまったくない方で、表情らしい表情も附かないのだが、ヴァグナーの打楽器を交えるマルチアな部分などは、器の悪条件がかえって怪我の功名となるような快音がしていた、

マーラーも、主題間で音の雰囲気を変える気はさらさらなくていられ、テムポもほぼ一定、一直線に進まれる、絃はまだしも音に力があるため、冒頭からであるとか、っほかにも絃主体の部分は、曲の姿が素直に伝わりもする、っその冒頭の低絃の主題は、っひじょうによく弾けていて迫眞なのだが、《復活》1楽章で聴き馴れた強弱の振れ幅がなく、っずっと音量と強勢とが維持せられたままである、っあれだけよく弾けて記譜の指定を叶えられないということはなかろうから、楽想、局所的の構成、楽器法のみならず、強弱や表情の指示についても、《葬礼》と《復活》1楽章とではかなりに異同があるのかもしれない、

ブラームスは、全体としてはムラのある仕上がりだが、楽曲の妙味を実感しえた場面があるとすれば、っやはり絃の量と力とに負うところがおおきい、2楽章の最後の盛り上がりは、っぼくがあの部分へとりわけ偏執しているということもあるが、っきょうじっさいすごくよい音が鳴っており、っおもわずに目頭が熱くなる、

フィナーレのフリュート1番の独り舞台はなかなかの存在感、

アンコールに同《ハイドン・ヴァリアシオン》の後半から終結まで、っきょうのブラームスは、フリッツ・シュタインバッハという、作家の同時代人でその作の紹介、普及に盡力した人が著した、同シムフォニーと《ハイドン・ヴァリアシオン》とのスコアへの書き込み譜に倣った演奏であったらしい、



っさて、っお次はこんどの日曜、井﨑正浩氏の戸塚の楽団との公演で、先回は流石に年季の入りすぎた藤沢の器、っいつもは大船であるが、っこんかいは平塚の、近年に落成したとみられるもっとまともな器のようなので、っあの楽団もだいぶん非力だが、潤澤のトーンがそれをいくらかでも救ってくれればとおもう、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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有楽町、




っきのうにつづき坂入健司郎氏の棒、新響公演、済む、演目は、映画、TVドラマにまつわる作の集成で、芥川也寸志《赤穂浪士》テーマ音楽、楽団のセロのメムバーであられる坂田晃一氏の《おしん》《おんな太閤記》《いのち》《春日局》、武満徹《波の盆》、芥川《八甲田山》スートで休憩、後半は坂入氏の所望というレヴエルタス《マヤ族のよる》スート、最後に伝家の寶刀、伊福部昭《SF1番》である、っとちゅうとちゅうで楽団の打楽器の女性が坂入氏とお話しになり、ったっぷり2時間半掛かる、

調布の開演は18時であり、っまあ間に合う、

東京へは13時前に着く、王将で食事をせむかとおもうが、2、3組が待っており、っそれでは間に合わないので諦め、例の喫煙スペイスへ移動す、っこないだ空調がないようにおもったが、っきょう入ると涼しい、冷房が入っているのか、1日中陽蔭だからかわからないが、っそこへ開演20分ほど前までいて、C器へ入る、

オケのコンディションは最良で、っとくに前半は、ライトな書法に応じた小回りの効くアンサムブルが難なく展開し、っあんな鳴り方は並のアマチュアでは逆立ちしても眞似のできないところだ、

坂田氏は、作曲家を志して藝大器楽科を中退され、っきょう演奏せられた以外にも数多の楽曲を手掛けられたが、70代に入られた10年弱以前におもうところあって永く手にされなんだセロを取って新響の門を叩かれ、入団されたというご来歴、っご本人も、楽団の一員として自作自演の一翼を擔うというのは珍かではないか、っとおっしゃっていたが、っその作はいずれもいかにもウェル・メイドで、新響も洗練の極を行かれる、っある脆弱さを別の強味によって帳消しにせむという、アマチュアではあってあたりまえの妥協、誤魔化しはしかし露なく、断じてうまくなくてはいけない、あるいは、うまくならなくてはいけない、あるいは、うまくなろうとしなくてはいけない、っとの芥川イズムの高度の結晶であろう、

レヴエルタスは、っその一部のようだが、森口真司氏がたしかフライハイト響を振られた音声がYouTubeへ上がっており、賑やかな曲だなとおもうが、打楽器が10人以上に、法螺貝まで吹き鳴らされるという珍品、理窟抜きにたのしい、

《SF1番》は、最後の進撃が息急き切った速度で、坂入氏のご趣味である、



調布へ着いたが、っべつにダブル・ヘッダーがしたいだけなのに、っいやに大入りで、開場前に器の外まで列が蛇行しており、っげんなりす、っま、2階へまずまずの位置を得られたのだが、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




川崎、




坂入健司郎氏の棒、東京ユヴェントス・フィル公演、済む、演目は、近藤礼隆氏の《祝典のためのファンファーレ》、、、っぼくはファンファーレはファンファールと表記することにしているのだが、っこれは楽曲名なので、黒田、、、の字のみ、変換で出ず、ウェブ・ペイジからコピ&ペしたため、フォントが異なるかもしれない、氏を招いてマーラー《さすらう若人の歌》、っそして同《5番》である、

投票へ行ってから来る、

《さすらう、、、》は、実演は初めて聴いたろうか、音盤は、フィッシャー=ディースカウ/フルトヴェングラー/ヴィーン・フィルから、っのちには中山悌一/山田一雄/東響へ移り気をして、新日本フィルの松原氏の現役時分には、日本の楽団といえば、1に東響2に東響、3、4がなくて5にN響、っと謳われたそうで、っぼくらのような時代の人間には俄かには首肯しえない序列であるが、っこの中山盤の収録往時というのは、っちょうど松原氏がそうおっしゃる時代なのかとおもい、っじっさい、ヤマカズさんの棒になる彼等は、っなるほどすばらしい響を上げていられる、

っところで、っきょうの黒田氏っっっ、っや、泣かされた、っせつないっ、胸苦しいっ、っそれにしてもマーラーは、っちゃんと初期にかかるオーケストレイションができて、っそれから歌劇場での目眩むばかりのカリアがあって、っどうして晩年にあんなにオケがソロを掻き消してしまう《大地の歌》の筆になってしまうのだろうか、っここでは、4曲いずれもが大管絃楽を驅使しながら、っいつも主役はソリストだ、黒田氏はご登壇からもうおきもちが入っていられる相貌で、っそのとおり㐧1声から聴く者の心の臓を鷲摑みに摑まれる、声は冷厳にコントロールせられ、曲想につれての表情の変転もむしろささやか、烈しい内容を歌ってはいるが、小曲の羅列なので、っその規模に対して激越な落差は不釣り合いだ、聴く側としても、っごくかすかな色合いの変化から、萬感を嗅ぐのでなければならない、黒田氏はそのほどの差配が絶妙であられ、っこちとらのこころの襞のひとひらひとひらまで、彼氏のお声が沁み入らずにいなんだ、㐧4曲はついに菩提樹の木蔭において平静と諦念とを得るが、っしかし最後、木管におもう方の蒼い瞳への未練が明滅して了わる、っいかにも青春の歌である、

近藤氏は来場されていたが、っその開幕曲は腹蔵なき壽ぎの楽、

懸案の《5番》であるが、っまあほぼきのうの予断のとおりであったとおもう、オケはけっこう巧くはあるが、っこの曲を十全に謳歌するにはまだまだ楽団としての柄がいくらもちいさい、トロムペット、ホルンの1番は、っご健闘といえばそうだが、前者など、っほとんどの個所を柔らかい吹奏で通しているのがぼくには喰い足らなく、対位法の裡での重要なアクセントとなっている楽句では、っもっと鋭く突き刺すように吹いてくれたい、

っただし、颯爽としているなりに各部各場面の内容を積極的に訴えはしたようで、音楽が失活したままただ時間だけが流れるという虚しさはなかったし、アダージェットにおくVaの入念な扱いなど、聴くべきところもおおかった、

フィナーレの最後の最後なのだが、スコアへは、アッチェレランドしながら了われ、っと書いてあるのだろうか、っおおくの演奏がそのように為されており、っきょうもややそうだったが、っぼくはあれが嫌いである、っどう聴いたって尻窄みで終止するような悪印象がするからで、遅くなりながら了われ、っとまでは云わないが、、、っや、っぼくが棒を振るならばそのように結ぶが、っせめてそれまでとおなじテムポのままで了わってくれたいので、70分も聴いてきた大曲が最後、ばたばたばたっ、っと足並みを乱して済んでしまうというのは、っあれを演っている人も聴いている人も、こんな了わり方じゃイヤだなあ、っとおもわないものなのだろうか、コバケンさんのロンドン・フィル盤も、ヤマカズさんのN響スウィトナー代演も、最後の最後までどっしりとした速度と発音とのままで終止するので、っそのほうが断然、嗚呼、了わったっ、っとの感激を與えらる、っよしんばスコアへアッチェレランドが書いてあるのだとしても、っそんなのは無視だ無視っ、

坂入氏と同フィルとは、来年にマーラー《9番》をされるといい、っその切符はきのうから売り出しており、錦糸町なので、購入に1日出遅れたのでは2階バルコニーは手に入らないかとおもうが、っさっきの休憩時にiPhoneを持ち出して慌てて検索すると、っまだ右も左もほとんど売れておらず、安堵して良位置を得る、



っさて、坂入氏はなんとあすも本番、新響との有楽町での公演である、っきのうまで忘れていたというか気附かなんだが、っそれは午であり、夕にも調布でもう1公演の切符が購ってある、購ってあるというか、無料公演のようだが、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

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