坂入健司郎氏の棒、アンサムブル・コルマ公演、済む、演目はハイドン《太鼓連打》とブルックナー《0番》とである、
っこの器は、伊福部昭《プロメテの火》を観にいちど来たことがあるが、っきょうの音楽ホールへ入るのは初めてである、紀尾井町などに肖て、っもうすこしく狭いのかな、音も居心地も快い小器であり、ったっぷりとした残響はそれ自身でもう仕合わせである、っゆうべのような大会堂で、方眼紙へ鉛筆で製図するごと乾いた楽音を聴くのと、っきょうのかようのゆたかなひびきを浴びるのと、っもはやおなじ音楽体験として語ることはできない、っやはりこちらのほうが遙けく本来的の音楽であるとおもわずにいない、
っこのアンサムブル・コルマは、坂入氏とはモダン・フレンチをなすったこともあり、っつまりかなりによく弾ける人たちである、両翼、ホリゾントの小ぢんまりとした絃は、2ndでも、っと云ったら非礼だが、っちゃんとぴたっと音が揃い、っじつに充実した古典派を聴かせてくれる、木管はどなたも果敢に訴えむとされ、左右へ分けたホルン、トロムペットの音色の美麗も素敵だ、トュッティは優に飽和し、っもう一回りおおきな器でちょうどよいとおもわせるくらいである、
っしたがってブルックナーはわんわんぎゃんぎゃんしてしまってものに成らないかと危ぶむが、っまあぎりぎり持ち堪えたようだ、っすくなくも、っずっと音楽を味わっていられた、
っぼくは不眞面目なブルックナー聴きなので、っいまだ《1・2番》はよく識らないし、《0番》だ《00番》だに至っては、ったぶんこれまでにいちども聴いていない、っなんの予習もせぬまま来てしまって、っちゃんと楽想と構成とがわかるだろうか不安だったが、果たして、っかえって未知の景色を經巡るたのしさに幻惑せられた、後年に手を加えたのでなく、っあれが若書きのままの決定稿なのだろうか、僭越な云い種だが、っひじょうによく出来ていて、この楽章の主張が乏しいな、っとか、っそうした不満は微塵も感ぜなんだ、ヴィーン・フィルは初演を拒否したというが、いったいあんた等の目は節穴かよ、っとおもうくらいに、
っだいたい、っどんな作家でも初稿というのは鈍なものだ、Appleに買収せられたBISからは、ソロはたしかカヴァコス氏だったとおもうが、シベリウス《Vnコンチェルト》の初稿と決定稿とが1枚へ収まった音盤というのが出ており、っその前者を聴くと、改訂しといてよかったね、ってなものだし、マーラー《巨人》の、ブダペスト稿っていうのかな、初稿の実演を聴いたことがあり、っそれなども、え、これがのちのオーケストレイションの大家の筆かよ、っというぽんこつぐあいで、初演はシュトラウス《ドン・ファン》とほぼ同時期といい、っあちらは大絶讚でめでたくも若き大作曲家の誕生、っこちらはくそみそに云われる大失敗とのことで、無理もないわな、っというところ、っおなじマーラーでは、《葬礼》などを聴いても、《復活》1楽章からすればずいぶんと未整理と観ずる、あれほど複雑巧緻な楽曲を書ける人が、こんな杜撰なスコアでものに成っているとおもっているのか、っと訝るところだが、っここが古典音楽のおもしろいところで、っぼくらはすでにして史上の遺物遺産と成り遂せた決定稿の完成度を耳で識ってしまっているのである、っそれを1から、っや、0から拵えねばならない苦労といったら、っそれはもういかばかりか、
ブルックナーにしても、《ロマンティッシェ》の初稿あたりは、申し訳ないが音楽がぜんぜんわからないし、《8番》ほどの後期へ至ってさえ、当初は驚くほど雑然としており、なぜはじめから決定稿のように書けないのだ、っとこちとらをしていじいじせしむるばかりである、っだから《0番》などという初期作では、っまず主題の性格配分からして、どれかは印象へ遺るがどれかはおよそ平凡で取るに足らない、っとの不均衡の嫌いがあるのではないかと侮るが、っぜんぜんそんなことはなくいずれも魅惑的で、構成についても、いまのこの何小節間かはいったいなにがしたかったの、っとの間然たる時間時間は、っどの楽章にもまるで見当たらなんだ、
1楽章は、純然たるソナタ形式で、主題はみっつあるのかな、っふたつかな、っなにしろまったく予備知識がないので、っとちゅうから自分がいまどこを聴いているのかちんぷんかんぷんになったが、コラールみたような荘重なのが、っあれがたぶん㐧3テーマだろうな、曲頭の㐧1テーマは、っいちど漸強して退潮する際に、おっ、もうブルックナーの音してんじゃんっ、っと聴いていて耳にうれしかった、㐧2テーマとおぼしき1stの歌はまさかのディヴィジ、マジかよっ、っと愕くのも束の間、過酷な音程の求め方は、っぼくの識る曲では《5番》のフィナーレのVnにその象徴的の場面がほんの1度っきり存るが、っここでは、ピッチ合わせるのむつかしいだろうな、っという音がより頻出しており、再現とみられる同主題ではなおサディスティックな音の上下動、っかつ他声部が複雑に絡んでいることもあり、っいつ不協和な和音がしてしまうか、っいつリズムを見失ってしまうか、っひやひやと薄氷を踏むごと聴体験である、っそのスリルは、彼の中期以降の有名作からはさして感得せられない妙味ではないか、っぼくの聴き間違えでなければ、っこの㐧2テーマを見送らない前から、っもう㐧1テーマが同時に鳴っていたとおもう、っそしてトュッティともなれば、っみなで轟々と音階をやっているのみなのだが、っそのひびきはすでにしてブルックナー以外の何者でもなく、ああ、これは心配なんぞしなくとも心身を預け切ってしまえばよいだけだわ、っと得心がゆく、っここあたり、っやはりせめてもう一回りおおきな容積の器で演ったほうがより映えたろうが、
構成としても、展開とみられる部分はじゅうぶんに緊張感に富み、再現では、提示には影も形もなかったファンファールによって流れを断ち切り、GPを跨いで主題を遷るというたのしさ、っよくかんがえられている、
緩徐章は、っまあ3部形式くらいだろうなとおもっていると、3度目に絃の冒頭句が出るともうそれが後奏だったので、テーマを提示してそれを1度展開したっきり、っということだろうか、っそれともどこか中途でもういちどその2音ずつの上昇音型が鳴っているのをぼくが聴き漏らしたのだろうか、っいずれ、っいたってコムパクトなものだが、書法は、素朴な快い歌をしかし入念に組み合わせており、青臭さはまるでしない、絃へ応ずる木管群も、っこの時点ですでにしてこの作家からっきり聴くことのできない不思議な和音と音色とをしている、5連符の1粒目が前の音へ繫った歌の形は、おお、《7番》じゃん、ってなところ、
っさあスケルツォはどんな主題で来るのだと構えて待つと、っまず苛烈なトュッティで先制打を喰わせ、っつづくパウゼを効果的に用いた絃のそれはじゅうぶん十二分に性格的で、音型としては《3番》の同章と共通するが、っまた趣が異なり、や、ちゃんと一大シムフォニーのスケルツォじゃんかっ、っとうれしくなる、ドイッチュ音楽というよりも、っどこか勇ましいイタリィ・オペラの決闘のシーンでも観るようなラテンの感触がしたのは、っぼくの錯覚だろうか、後年の作のように大規模に発展せず、っわりにきっぱりと主部を了える潔さも感心で、トリオはといえば、素朴な牧歌とばかり侮ってはいられぬ神秘の響がする、絃に対する扱いはこんな若書きでももうはや堂に入っており、っおおきな跳躍による下の深い音と上の透明な音との対比は、2楽章の終局においても最大の効果を上げていたが、っこのトリオでも自信満々に馳驅せられている、
フィナーレはソナタ形式であろうが、っここでもやはり、展開し了えたかとおもうともうコーダらしき部分が訪れるので、っそうすると、展開を欠く、提示から即再現のソナタ形式ということだろうか、管の連符へ乗る絃の深い歌は、っまあアレグロのための序奏だろうとおもっていると、っこれまでそっくり再現せしめらるので、ブルックナーというのは大眞面目な人だなあ、っと微苦笑、っけれども、スケルツォの主題につづいてここでも㐧1テーマは決然として感傷を寄せ附けず、っあまつさえ、フーガによる緊張力が追い打ちを掛ける、流石にブルックナーだ、㐧2テーマがまたどれほどかゆたかに歌うのだろうと予想すると、っじつに意表を突かれる、っさしものきょうの楽団といえど、VnといいVcといい十全には弾き切れていないようであったが、それどんな音型やねんっ、っという細かな動きと、っかつまたもやシヴィアな音程の要求、再現などとくに難儀至極のポジションが連続し、楽員諸賢も苦しそうであった、っしかし、っあれをもしかぜんぶ精確なピッチでびしっと弾き切れたら、っとんでもない音楽だと震撼させられたことであろう、
聴いていてあらためてそうつよく實感したのは、時代的には浪漫派の全盛でありながら、具体的の描写性、表題性が絶無で、飽くまでも絶対音楽、抽象的の音列の組み合わせのみで楽曲が構成せられているというこの作家の無二の存在感で、っなんだかここまで、演奏のことにはほとんど触れず、楽曲のことのみを云々したようであるが、っぼくが初めてこの曲を聴いたというのもあるけれども、坂入氏が音響の司祭としての役割へ徹しられ、っその任を遺憾なく全うされたということもおおきいだろう、好演目をこころゆくまで堪能させる、充実の午后であったことだ、
っさて、っあす1日のみ仕事をして、黄金週の嚆矢からまたもや2連チャン、午に以前から聴きたいと希っていた平林遼氏を初めて聴き、っよるには井﨑正浩氏の《モツ・レク》である、
っそうだ、上岡敏之氏の《フライング・ダッチマン》4公演のうち、予定の空いていた3公演分の切符へ、二期会の有料会員になりまでしていち早くありついたのだが、っしくじったのは、っうち1公演の同日には、福井まで遠出をすればおなじ公演中で坂入、井﨑両氏の棒をともに聴きうるという物怪の機会があるのだった、先に知っていれば上岡氏切符は2枚へ抑えるところだったが、っまあ、福井まで往かむとすればその交通費で二期会公演切符よりも高額出費となるのだし、っそれをせずに済んだとおもうことにしておかむ、っざんねんである、っしかも演目が、坂入氏《シェヘラザード》、井﨑氏《オルガン》との豪華2本立てというんだからねえ、惜しいことをしたなあ、