ざっかん記 -7ページ目

ギロッポン、




コバケンさんの棒、武蔵野合唱団、創立70年記念公演、済む、コバケンさんは同団を25歳のころからじつに60年に亙ってご指導されてきたとのことだ、オケは東京シティ・フィル、ソリストに森麻季、清水華澄両女史、笛田博昭、青山貴両氏を招いて、演目はヴェルディ《レクイエム》である、

っぐふううう、、、っおなかいっぱいっ、

コバケンさんの同曲を聴くのも、っじつにひさかたぶりだ、全曲暗譜で振られており、っときおり、あ、いま一寸お間違えだったのかな、っというところがあったが、耄碌というほどのことでもなかろう、っというのは、っぼくもコバケンさんがキューを送られるのを観ながら、そうそう次はその声部が鳴るよな、っとおもい、っいざ鳴って、あ、ちがう、まだもうちょい先だったわ、っとおなじように勘違いしていたからである、、、っお前なんぞと較べんなよという話だが、

っむかしっから〈サンクトゥス〉全体や〈リベラ・メ〉の最後の登坂は遅いテムポでいられたが、っさらに0.75倍速というか、0.5倍速か、っというくらいで、っじつにくらくらする、っそして、〈ディエス・イレー〉のグラン・カッサを撥2本で打たせられたりとかといったどんちゃん趣味はいまだ遺存してはいるものの、っさようの極遅の裡に全員が絶叫するような個所で、無法な音圧にまでは達しない、〈リベラ・メ〉のそこが地獄の沙汰みたようなおどろおどろしい速度となっても、クレッシェンドし切った際の音量が2,000席の音場がちょうどめいっぱいに満たされるところで踏みとどまっている、っこれがむかしだと、舞台からいちばん遠い客席の壁をまだぐいぐい無理押しするごとまさしくどんちゃん騒ぎであったものだ、テムポが遅いことによってすでにして音楽的主張たりえているので、っそこへさらにけたたましい音量音圧をまで加えては、頭痛が痛い、っとでも音楽を語るのとおなじことである、遅く振るなら音量はちょうど飽和するっきり、っぎゃんぎゃん演りたいなら奇異なほどには遅くしない、っふたつにひとつである、っやっとここまで来た、小林研一郎はそこまで枯れたのだろうか、否、っぼくはそこまで登った、昇ったのだと云いたい、

っとはいえ、っとくにはじめのうち、っなにか客席のこちとらが薄氷を踏むようなおもいであった、上記以外の部分も、っというよりも全曲すべてがなべてゆっくりじっくりであって、それでは流石に歌い手の息がつづかない、っという個所ではこころなしか棒が先へ行くような行かないような、音楽がよく揺れているともいえるが、っまったく聴いていてひやひやする、っずっとゆたかな音響がしていて仕合わせなのにちがいないのだが、っほんのわずかの手抜かりでももう崩壊する瞬間が訪れそうで、コワいのである、

っというのはあれだ、音を結ばれて次へ遷られる際に、予備拍のお心算なのか、っそのさらに予備というか、ここで棒を用意して、次に予備を振ります、っというアクションなのかが観ていてもよくわからず、っあれがこちとら心臓にわるい、以前からコバケンさんはその気味がおありで、先般の日本フィルとのオルフ《カルミナ・ブラーナ》などは、っそのせいで空前の大失敗を晒されたのだが、っきょうも、っいつ声部間で音がずれるか、諄々たる語りでいられるだけに、事故が起こった際の手痛さは、っおよそ想像もしたくないことである、

っしかし、っこんやはじつに全員の集中力が切れずに繫がった、ソリスト連も、っこまかいことは、っまあ云わないことにして、好いティームだったとおもうし、コーラスは豊富な表情が附き、最冒頭から、レクイエム、っと呟くとくに女性の声は早くも泪声のよう、〈リベラ・メ〉でソロの背景で歌うときや、〈アニュス・デイ〉のユニゾンのような個所においてすら、っほとんど子音を殺し切って鞣し革のごと質感、っそうした果敢な表情が、っかってのコバケンさんではどうもこちとら有難迷惑に聴こえてしまったところ、っここでも、表情を附けて、っしかし附けすぎない、っその悟達の味といったらどうだ、オケとの混淆もどこまでも奥床しく、東京シティ・フィルが、っまたなんと落ち着いてこのコバケンさんの棒へぴたりと附けられることであろう、っときに絃のアルコが人声よりも人声に聴こえ、トロムボーンのひびきがコーラスよりもコーラス、コラールに聴こえたのは、っほんとうに得難い天啓である、

〈ディエス・イレー〉から〈ラクリモーサ〉まで済むと、っそこでコバケンさんがすこしく話され、20分休憩、っそのときに、この曲はこれからまだ30分以上ございますが、コーラスのみなさまオケのみなさま、それにソリストの方々も、コンセントレイションを保つのが大変ですから、っと云われたあとへ、っほんのご冗談にも、なにより私が辛いものですから、っなどとおっしゃらなんだ、見る目には以前からしてだいぶんよたよたされるようではあるが、っそこでぼくは、あっ、この人の意志力はまだまだ強靭なんだっ、っと得心し、後半もこのまますばらしい演奏がつづくだろう、っとの確信に至ったのであった、アンコールに〈サンクトゥス〉をなさるのはいつものこと、了わって出て来てじつに21:15、本演目は21時ころに済んだのだとして、全奏90分前後が一般的のところ、100分ほどは要した計算になろう、ホントに、っおなかいっぱい、



っさて、中1日置いてすぐにまたサントリー、カーチュン・ウォン氏の日フィル公演であり、2日とも聴く、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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参宮橋、




小柳英之氏の棒、アーベント・フィル公演、済む、演目はマーラー《葬礼》、同《5番》である、

黄金週中の午公演であり、っいつもよりは数多の集客があるかとおもうも、生憎の荒天ということもあるのか、っほんのすこしく殖えたかというところで、っやはり100人にも満たないだろう、っぼくは初台から歩き、開演1時間ほど前に器へ着いて、3度目くらいにここへ来たが、っいままではこそこそと死角になりそうな場所でシガレットを服んでいたところ、っきょう初めて、喫煙スペイスがあるのへ気附く、っそのパーティションの切れ目から器の入口が見えており、喫煙している間に大勢の人が詰め掛けてくるようならば列へ並ばむとおもうも、開場間近になってもちょぼちょぼとしか人は来ず、開場時間になるといまだTシャーツ姿の小柳氏ご自身が来られて鍵を開けて扉を開かれるのみ、お待たせしました、っとも、どうぞお入りください、っともひとこともおっしゃらず、愛想笑いのおひとつだにない、っぜんぜんウェルカムだ、萬事無粹無骨こそ、彼等の催事の眞骨頂なのである、っとちゅうの休憩も、っその時間の記載がプログラムへもどこへもない、っいつもおそらくほんの10分間とみられ、っゆえにぼくは慌てて喫煙スペイスまで走る、プログラムへは楽曲解説の1言だってありゃしない、っぜんぶそれでよいのである、

っきのうは、っつい室の目の前のコンヴィニへ行ってくるのさえ億劫で、っやっと夕すぎに重い腰を上げてヤマカズさんの新響との音盤を受け取って来て、計3枚、マーラー《5・6番》、っおよび同《巨人》〈ブルーミネ〉のすべてを聴く、っもちろん、多少とも脆い合奏ではあるが、っおもっていたよりもずっと音楽的の達成であり、単に往年のマーラーの大家による貴重な記録の発掘というにとどまらず、っちゃんと山田一雄ここに在りを印象附けたようだ、

《5番》は、1楽章の葬送が始まるともう客席からとみられるひそひそ声がしており、っその後も3楽章、フィナーレなどでやはり男性のもの、女性のもの、複数の喋り声をマイクが拾っていて、なにを喋ることがあるのか、黙って演奏を聴いていろよ、っと腹立たしいが、ヤマカズさんの表現はこの時点でもめいっぱいに曲想を謳歌されていて、っとりわけアダージェットの入魂こそは出色だ、っこのあと、85年だったか、パーキンソン・シンドロームへ冒されたスウィトナー氏の代演で、ヤマカズさんは渋谷でN響をお振りになり、っおなじく《5番》を演られているが、っその2楽章、フィナーレにおく牛歩趣味は、っまだこの時点、79年の上野だが、っでは発露していない、っしかし、N響よりも鋭く剣があり、っときおり個別声部が我勝ちに突出するこの新響のアンサムブルも、一方の果實として携えておきたい、っいちばん惧れていたのは、っさように力んで鳴るせいで、っかえって全体のひびきがぎすぎすとしてしまうことであるが、っぞんがいどすんと重たく太い音が出せているのは、っなんともうれしい、創立者、芥川氏の棒になる同響は、氏の棒がそういう性質、っすなわちかなりに辛口でいられたのだろう、遺っている記録はいずれも細く硬いひびきである、今次の音盤は、楽章間の休みも切らずにすべて収まっていようか、2楽章後には再テューニングがあり、っそのオーボーが鳴り出すと、っよく聴き取れないが、っおそらく、小さくっ、っとおっしゃるヤマカズさんのものとみられる一寸コワいお声がしている、っおもえらく、1楽章からもう演奏は始まっている、中途で再度のテューニングをせねばならないとしても、Aを合わせるだけならば盛大な音量は要らないだろう、無法に音を張り上げて演奏全体の雰囲気を乱すんじゃないっ、っという諫言とみられる、云われたオーボーの音が途端に塩を掛けられたナメクジみたように細くなり、絃連中もちょこちょこと擦絃するのみで済ませているのがなんとも微笑ましい、芥川氏も同響とのリハーサルでは妥協を許さぬ鬼軍曹でいられたとのことだが、ヤマカズさんもまた、好い音楽をなさりたい一心で、っこころを鬼にして楽員楽員へ厳しい叱咤を浴びせられたものと思量せられる、っこの3楽章などは、N響との演奏ではオケの反応が鈍く、っやや精彩を欠く嫌いがあり、戦闘的の前傾姿勢で攻めに攻める新響のほうが聴きでがするくらいだ、

《トラギッシェ》は翌年の日比谷、っぼくはあそこへはいちども行ったことがなく、っぜひいつか、っなにかの演奏会へ行ってみたいが、客席では相当度のどんしゃりぐあいなのだろうと想像せられる、っしかし、録音せられたものを聴くかぎり、井上キーミツのショスタコーヴィチ全集といい、っこのヤマカズさんといい、っいろいろの楽器が素っ裸の生々しさでマルチに聴こえるたのしさは、っきょう日の本格のコンサート・ホールではけっして味わいえない、《トラギッシェ》などというこんな曲は、っそんなむかしでは熟知しているのは指揮者独りで、楽員にはまだまだ馴染みがなかったものとみえて、1楽章で初めてシロフォンが鳴るところからもうぜんぜんちがう個所で打ってしまっているが、っそうした瑕疵があるだけになおのこと、発売を英断してくれたことに深謝したい、造形としては、っちゃんとヤマカズさんの意志が全楽員へ徹底浸透しているようで、全曲冒頭から大地を揺るがすごと恐るべき意志力で低絃が鳴り、っこちとら慄然とさせらる、浪漫の申し子、山田一雄であるも、全体に苛烈な前進が際立つのがうれしい裏切り、3楽章が緩徐章の演奏順だが、悽愴なる音色でマーラーという人の孤絶をよく伝えている、上野と日比谷とでは音の感触が異なり、っまた、ラウドネス等化が効かないアナログ録音の特色でもあるが、っそのシロフォンなど、完全に全楽から突出して聴こえてしまうが、木の板へ撥を下ろした乾いた質感が異様な解像度で伝わり、他の楽器も、特に打楽器は、ティムパニあたり膜面の材質までありありと想像できるような耳当たり、っこれはライヴとはまた異なる、録音というものの妙味であろう、

っさて、っきょうの小柳氏はコバケンさん門でいられるため、ヤマカズさんからすれば孫弟子というわけだ、っそのおなじマーラー《5番》をかくしてつづけざまに聴くことになるというのも、っなにかの縁である、っその前に《葬礼》だが、っじつにひさかたぶりに聴いた、実演では初めて触れたかとおもう、っもっと《復活》1楽章と違うところがたくさんあるような気がしていたが、こんなところ識らない、っという部分はごくごく局所的だった、っただ、オーケストレイションはずいぶんと異なり、《復活》に仕上げるにあたって、金管のソルディーノや各種打楽器、っそれにハープによって相当度にニュアンスを補強した印象がある、演奏は、っやはりマーラーとなると細かく複雑な音の動きが頻出するため、っいつものこのオケの放埒な音響はやや鳴りを顰め、っむしろ各楽器とも努めてうつくしい音色を志向せむとする彫琢が目立った、

っけれどもそこは小柳氏であり、っやはり一筋縄ではゆかない、テムポはほぼずっと大柄なイン・テムポで、両テーマ間での速度の落差はないに等しい、マーラーの筆なのだから、楽想に応じたアッチェレランドや、アゴーギクの操作の方法までうるさくスコアに書いていないのかとおもうが、っそんなのはあるとしても完全無視で、低絃による㐧1テーマから、100人の指揮者がいたら99人までがいかにマルカーティッシッシッシッシッシモたるかと意を砕くだろうところ、っぜんぜんレガート気味のままで、っしかもそれはその後、っこの動機が現われるたびにむしろよりレガーティッシモへ寄っていってしまう、っしたがっておよそ凹凸、変化に乏しく、全体になだらか、っおおらかな山水画のごと景色を展げてゆくが、っもうそういうものとして享受するよりほかない、っぼくはけっして嫌な気はせず、っあいかわらずまるでびしっと音を揃えむとするお心算のないでっぷりとした楽隊のそのムードへ醉う、プロフェッショナルの楽団といえど、っときにはこうしたアンサムブルで演奏会をやってしまってよいとおもうんだがなあ、っま、っそのひびきをよがる耳を有ったお客は、っそう大勢はいないかもしれないが、

《5番》は、っもっと手のつけようがない奔馬が驀進してゆくごと感触を期待していたが、っその味を出すには、っやはりこの曲はむつかしすぎるのだ、《葬礼》と同様に、峻厳と屹立する手応えは出ず、っいつも、っどんな楽想でものんびりと深呼吸しながら歩っているようで、っがさりとて、守勢で喰い足らないというのでもなく、っやはり99人の指揮者たちが如何に楽想毎に表情を激越に変化せしむるかとちょこまかちょこまか仕事をするのに対し、っずっと不細工なテムポへあっけらかんとした健康な音を乗せてゆかれるっきりの小柳スタイルは健在、

惜しむらくは、ホルンが全体に轟然たる音量で吹けない人たちであり、トロムペット、トロムボーンと並び立って一大音響を建設するにいささか不足があった点である、3楽章は1番の女性がわざわざ指揮者の目前まで連れ出されて吹かれていたが、っもっと剛毅な吹奏を為しえてこその小柳氏の楽隊の一員であろう、

絃は、マーラーを演るにはいかにも寂しい規模だが、っそれでも懸命に弾かれるのはいつものとおり、プロフェッショナルの奏者も立ち混ざっていられるせいか、棒が不細工でもぞんがい表情が多彩に附く頼もしさがあり、っよってアダージェットはあれでなかなかのものである、ハープのバランスがつよくなるのは云わでもがなで、指揮者はなんの味附けもせずにただただ眞っ直ぐに歌ってゆくのみなのだが、っちょうど前回、彼等のブルックナー《7番》2楽章の眞摯な信条告白がぼくの胸をいたく打ったように、っきょうもここで目頭が熱くなる、作為のない音楽というのはいかにもずるい、っこれも、99人の指揮者たちにはけっして望みえぬ妙味にちがいあるまい、



っさて、っいままだその喫煙スペイス、初台の王将へ寄って帰らむ、っあすから仕事だが、っあすも演奏会、サントリーにて、コバケンさんの《ヴェル・レク》である、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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上野、




石川征太郎氏の棒、交響楽団はやぶさなる団体の公演、済む、演目は、ジョン・ウィリアムズ《スター・ウォーズ エピソード1》〈運命の闘い〉を演り、ソプラノ松原みなみ、メッゾ林美智子両女史を招き、休憩なしでマーラー《復活》、コーラスも同団で独自に結成せられた団体とのこと、

っきょうは15:30開演だったので、っかなり余裕があった、っゆうべは、っよるの駐車代を取られたくなかったので車は聖蹟別棟へ戻し、チャリンコで帰宅、っきょうの行程は、室から別棟までを30分、別棟から堀切菖蒲園までを2時間半、堀切菖蒲園から上野までを30分、開演までの正岡子規野球場脇での喫煙を30分とみて、計4時間、っほぼそのとおりに来て、っのんびりシガレットを服んでから入場す、道は、環8の前後などきのうよりもいやに混んでおり、流石に黄金週のせいかとおもうとちがって、通り過ぎるときに見ても理由がわからなんだが、っその先の東八との合流地点へ警察車輛が停まり、車線をひとつ減らしているっきりだった、

ジョン・ウィリアムズのそれは、っぼくも若くときに音盤を購った、電子楽器等も用いていたはずのポップな終曲では、ボーイズのコーラスがすごくかわいかったのをよく憶えている、っきょうの曲は、コーラスの入らないヴァージョンは実演で聴いたことがある、っまだ田舎へいたころ、夏にデュトワ氏がN響を連れて来名したことがあり、っその際に同スートの他の数曲とともに披瀝せられたのだった、コーラスの入った版は、っあれは何語なのだろう、映画のための人造言語かなにかだろうかとおもっていたが、サンスクリット語とのことで、20年以上越しにそれを識る、っあのころのN響といえば、っその日のコン・マスはたしかマロ氏であったが、っぼくはそれよりもフォアシュピーラーの武藤氏のいかにも紳士然たる風貌に魅せられていた、

演奏は、っきのうの鈴木氏につづき、石川氏の繰り出すひびきも、っまあ平凡の部類だ、無理もない、演奏が始まった瞬間に、これが俺の音だっ、っと有無を云わさずお客を圧倒しうる指揮者など、っそう滅多にいるものではない、

オケはいやに張り切り、トロムペットなど、っはじめのうち完全にバランスを破るが、っその後は節度を得る、っきのうの楽団は、木管がいずれも縦横に魅惑を振り撒いたが、っきょうの彼等は、っみな吹けない人たちではないが、クラリネット、ファゴットなどはマーラーも含めていささか主張に欠ける、っそれはホルン、ハープ、打楽器の幾人かもそうであり、アマチュアのみならずプロフェッショナルでもそういう人はすくなくないが、っつまり、っちゃんと音の出せる人がしかし演奏会の間ずっと、ちゃんと音が出てさえいればそれでいいんでしょ、っという音を鳴らしつづける、っまあ、当人としてはそれでも音楽的の差配をあれこれしている心算なのかもしれないが、っそれが内輪にすぎ、っお客へはなにも伝わらないのっぺらぼうの音っきり出ていないということだろう、人が日常会話で喋るのと、役者が舞台の上で科白を云うのとでは、っおなじ人語でもぜんぜん存在感がちがう、誰しも、役者がスウィッチをonにして迫眞の声の色で科白を云い出すのを観て、あっ、やっぱり役者ってぼくらわたしらとはものがちがうんだっ、っと驚倒させらる經験をしたことがあろう、舞台へ上がって楽器を鳴らすからには、楽士は人へあれとおなじおどろきを與えられなくばならない、っつい一寸、家族へ話し掛けるような調子で音楽を語っているばあいではない、楽器の音にも、っぼそぼそ呟くようなのと、名優の科白回しのようなのと、明らかに音のちがいがある、取り敢えず音が出ていればいいんでしょなどとは、断じて云っていただきたくないものだ、っおもえらく、っお客へアッピールせむとしたら、自分のおもっている3倍か5倍、5倍か10倍は厚かましくならないと、っそれでやっとお客へ音楽が届くか、っどうかするとそれでもまだ足らないくらいかもしれない、

絃はといえば、頭っ数がおおいこともあり、っまずまず隙は見せない、バスは、っあの頭が薄くなりかけた小太りの男性はどこかで見たことがあるような気がするが、彼氏を筆頭に恆にすばらしい存在感である、1stは、時を追う毎に熾烈に凝集し、っしばしばヴァイオリンという楽器を忘れさせるような音がしていた、っどうも、っそれがこの器の特色であるらしい、っここでは田代俊文氏が東大の学生オケを振られたチャイコフスキー《5番》を聴き、っその際にも特にこの楽器が、っほとんどチャイコフスキーの肉声を伝えるかのごと、現実の物理音とは信じ難い煌めきを発散したものである、

マーラーは、2楽章をあっさりと快速に流したかとおもえば、3楽章での石川氏はほとんどのべつ小さな3つを振られる棒で、っここ上野大器の乾いたマルチなアコースティックも相俟ち、グロテスクな楽想が飛び交う様は、っぞんがい聴きでがした、

〈原光〉を經てのフィナーレだが、っむかしはその部分をべつにどうともおもっていなんだが、っこないだのカーチュン・ウォン氏の公演といいきょうといい、コーラスから静かに復活の合唱が始まって、中途からソプラノが1羽のみ群を離れて飛び立ってゆく部分が、っなにか泣けて来てたまらない、っきょうもそこでおもわずに泪腺が緩んでしまう、

アンコールにソリスト連も唱和されてのエルガー《威風堂々》〈1番〉の再現のみ、1日にして3つの言語の歌を聴くとは、っなかなか珍妙なる体験である、アルヒーフ配信も、迷っているのもイヤなので購入してしまった、っべつにそれほどの演奏であったとはおもわないが、っま、っせっかくだから録画しておかむ、



っさて、っあすは連休中ゆいいつなにも予定がなく、っしかしあさには室の前のコンヴィニへヤマカズさんの新響とのマーラー《5・6番》音盤が届くこととなっており、受け取ってきて聴くとせむ、演奏は70年代末とか80年代であり、っそのころの同響の別演目の音盤はいくつもあるが、っとうぜんながらいまの彼等ほどには腕が練れていない、っだから一大演奏が鳴っているという期待を有って聴くのは自身へ厳禁している心算なのだが、っでもやっぱり、っそれら種々の制約を振り払い、っひょっと大山田一雄の大マーラーと成り遂せてはいまいかと、っおおきな夢想を懐いてしまうものである、

っそしてあさっては、っついにこの日が来ました、小柳英之氏のマーラー《5番》である、っもうめっちゃくちゃのどったんばったんの演奏にしてしまってくれたい、っどんな音でもこちとらウェルカムである、っそれがあの狭い音場へめいっぱいに鳴り散らかすことだろう、っけだし聴きものだっっっ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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青砥、




鈴木優人氏の棒、レゾナンツ・フィル公演、済む、演目は、グリンカ《ルスランとリュドミラ》序曲、読響の遠藤真理女史を招いてドヴォルザークのコンチェルト、っそして遠藤女史も参加されての楽聖《エロイカ》である、

、、、危ねえ危ねえ、っや、っきのうははげしく降雨しており、っよるまで止まなくて、っやっと20時すぎから21時にもなんなむかというころに上がったため、っそれから退勤して、食事をして帰ってから洗濯機を回し、例によって居室の椅子で惰眠へ暮れてしまい、っはっと起きて1時半ころ、っぼくはiPhoneの計時は24時間表示にしており、っよって午の1時は13時と表示せられるのだが、睡惚けていてもうきょうの午すぎまで睡過ごしてしまったと勘違いし、あああ、遠藤さんの《ドヴォ・コン》、聴きたかったのになあ、、、っと落胆す、っそれでしばらくぼんやりしていて立ち上がると、キッチンの脇の小窓の外は眞っ暗である、っそこでやっと、あれ、まだよるかよ、っと気附き、洗濯物を干し、ベッドで睡たのは4時すぎ、っまた社用車を濫用する心算で駐車場は予約したのだが、っゆうべは呑んで帰りたかったので車は使わず、っけさ10時前くらいには出掛けたいとおもうも、っじっさいに出たのは10時半すぎ、11時ころ聖蹟別棟へ着き、ハイ・エイスを驅る、駐車場は、器周辺のものは埋まっており、っいつかに利用したことのある堀切菖蒲園近くのものを押さえた、器からはやや距離がある、別棟を出る時点でぎりぎりくらいかと憂慮せられたので、チャリンコを荷台へ放り込んであり、13:30開演だが、っこないだ知己トロムボーン奏者さんの公演を聴いたその学校の脇を掠めて、駐車場へ着いたのが13:15ころ、チャリンコを下ろし、道が不案内なので地図アプリケイションとにらめっこしていて、駐車場を出たのが13:18ころ、っぎゃんぎゃんぶっ飛ばし、器の駐輪場へ着いたのがちょうど13:30っ、慌ててもぎりへ駈け上がると、っもう場内から拍手の音が漏れ聞こえていたが、っおそらく楽員入場時のそれで、っまだテューニング以前だろうと祈ると果たしてそのとおりで、入ると、コン・マス氏が登壇、答礼を了えられたところであった、、、っまったくねえ、

っさておき、っこの楽団は、ベルリン・フィルが企画してサントリーで行なわれた日本のアマチュア楽士を結集した催事のメムバーによるその後継団体とのことで、っとうぜんながら同催事に際してはわりにシヴィアなオーディションが為されたものとおもわれ、合奏能力はまずまずである、っま、ポラリス・フィルとか、っああいうところへは劣るようだったけれども、

絃バスへは、佐藤雄一氏の関係団体でしばしば見掛ける、っあの人、俳優のでんでん氏によく肖ていられる方、っあの方が乗っていられて、神出鬼没だなあっ、っと着座するなりうれしくなる、

鈴木氏の棒は、読響がミシェル・カミロ氏を招いて彼氏の自作自演をなすった公演で触れているが、あまり感じさせるもののない人だなあ、っとのよくもわるくもない印象で、っきょうもさして期待していなんだが、っやはり大幅の評価の好転はなく、グリンカから平凡なひびきだ、っただし、流石にオケは士気が高くていられ、っまずまず爽快な開幕ではある、

っそしていよいよ遠藤女史の《ドヴォ・コン》、彼女は、っご当人はどうおおもいか、っいずれ読響のアイドルで、サントリーなどで客席へ坐して、開幕して楽員が入場すると、近くの男性ふたり連れのお客が、ちぇ、きょうは真理ちゃんじゃないんだ、っとかとぶつくさ零すのを、っぼくは2度ほど聞いた、っあるいはおんなじ人かも知らんけれどね、っお歳は、っぼくとほぼ同年輩でいられるかとみられ、非礼ながらそうお若くはないが、っしかし別嬪でいられる、

っま、音楽に容姿は無関係だけれど、っそうねえ、っきょう聴いていて、鈴木氏の棒になるオケはあいかわらずやや凡庸の嫌いがあったにせよ、っどうかすると、っぼくがこれまでに実演で聴きえた同曲のなかでもじつに屈指、っほとんど隨一と云いうる感銘を與えらる、っなによりも、演奏者がではなく、っまず曲のほうが、こんなにも名曲傑作ではないかっっっ、っと満々と訴え掛けてくるようで、2楽章まんなかの〈あたしにかまわないでっ〉部では、っこちとらあらためて感極まらずにいず、落泪しつありがたくその妙音を押し戴く、

器の規模、アコースティックが、っまたこの曲に最適であったようだ、絶えず交響然としてソロとオケとが睦み合い、っかつソロの微細なニュアンスをどこまでも瞭然と聴き届けることが叶った、殊に弱音部の主張は、っどの楽章でも聴く者をじつにほろりとさせる、オケも、鈴木氏がというよりも、楽員各位のポテンシャルに勝れ、木管4種はいずれ劣らぬ名キャラクター、っとりわけクラリネット1番の女性は、音色も歌い方もまったく一廉の人であられ、彼女のソロが訪れる度にこころうれしくなったほどだ、

フィナーレは、っさいしょのソロのテーマから、古今ありとある名手をもってしても、え、もう一寸ツボを当てたフレイジングってものがあるんじゃないの、っとかすかにもせよ不足をおぼえないとしないが、っきょうの遠藤女史は、弾き始めからすばらしい点画を示されるので、っこちとら、そうだっ、それだっ、っと静かに昂奮していたところ、最後の5連符がほんのタッチのところでかちっと入れられなんだようで、オケへバトンを渡されて直後、ダメっ、しくじったわっ、っと悔しそうなお貌をなさるように見受けた、っとびきり好い演奏となると、っほんの1音が巧く定まらないっきりでも、痛恨も痛恨の失点となるものである、

っけれどもその後は鉄壁で、っここあたり、鈴木氏の鋭敏な音感もおおきにものを云っているだろうか、フィナーレ全体に、テンションへ感けた無理強いの気味がいささかもせず、提示がおおきく膨れて、ソロの、っはじめの覇気とは好対照のうらぶれた調子の㐧1テーマを戻すべくようよう減衰してゆく段では、木管群が綾を生し、っそして最後にトロムボーン連が吹くと、っその澄明なる和音の伝える静謐こそは出色であった、っただやっぱり、コーダのオケのみによる後奏など、振りの甘さから来るのか、っやや尻窄みの憾で、っもっともっと、自分がどう振ったらオケがどう鳴るのか、っそのことにつよいこだわりを有ってくれたいとおもわずにいなんだが、

楽聖は、鈴木氏のことだから1、3楽章などテムポは速めだが、葬送はそうでもなくわりに20世紀来のオーセンティックな態度でいられ、相応に演奏時間は長い、奏楽としても古楽趣味の影響があまりないのは少々意想外で、絃各位はふつうにヴィブラートを掛けていられる、コンチェルトの後には遠藤女史がバッハを弾かれたし、シムフォニーは1楽章の提示をリピートし、全奏後には《ルスラン、、、》の再現をアンコール、っよって終演までにたっぷり2時間半掛かる、

っその楽聖は、っやはりやはり最後の最後にはもっと指揮者が細部細部をこだわらないととおもわせるものの、音楽的にフレッシュなのにはちがいなく、っどこかひびきが団子になったりせず、楽曲の構造がずっと曇りなくみえていたのはそのとおりだ、っそして、先史を破って新時代を切り拓かむとする楽聖の旺盛なる野心を印象附けたのも事実である、っこの上、決定的の名演奏大演奏であるためには、指揮者はオケに扶けられているようでは断じていけない、指揮者こそが主導し、オケを自在に羽搏かせられるようでなければいけない、っきょうのオケは、アマチュアながら飛べない鳥ではなかった、鈴木氏はもっと、彼等を籠の外へと放して差し上げるべきであった、容貌は若白髪ですんごい胡麻塩頭ではいられるが、非礼ながら、っまだまだぜんぜん尻が青く、聴くべきところのすくない方であろう、っご大成を希む、



っさて、時間に追われて都心のコッワい道を長い長い信号待ちの度にはらはらしつ来た往路であった、帰りは落ち着いて走るとせむ、っあすもまったくおなじ駐車場を予約してあり、っそこから京成で移動し、上野大器にてどこかアマチュアのマーラー《復活》を聴く、切符代はアマチュアらしからぬ大枚を要したので、っそれなりの合奏能力は当てにしている、ライヴ配信とその後のアルヒーフ化もあるようなので、っもしか好い演奏だったら、っそれも購入して録画しておかむとおもう、

っどっかでメシ喰って帰ろ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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川崎、




井﨑正浩氏の棒、コール・ミレニアム公演、済む、オケはアマデウス・ソサエティ管で、っまずモーツァルト《40番》を演り、っそしてジュスマイヤー版の同《レクイエム》である、《40番》はクラリネットの入っているヴァージョン、《レクイエム》のソリストは澤江衣里、菅有実子両女史、土崎譲、岡昭宏両氏であり、っまた、井﨑氏の伝手で、っきょう日では奏者僅少というバセット・ホルン2名をトラで呼んでの演奏であった、

午の苛烈、激越なるマーラー、ショスタコーヴィチを、よるにモーツァルトで慰撫する、っというのも快い休日だ、っが、慰撫というには井﨑氏は恆のとおり強固な意志を絶えず漲らせていられ、シムフォニーも1楽章から、絃10型くらいのささやかな楽隊をしかしいっさいの妥協なく叱咤される、音量は細いのだが、古典の造形の裡で能うかぎりの表情が附き、クラリネットが入っていても辛口の味がするのが興味深い、

っあまりにも単純で、演奏が演奏だと間が保たない気がする2楽章も、っじゅうぶんに咀嚼し切られた上で再構成せられており、コムポジションとしての主張を為すので、っその声部声部を追うよろこびを味わう、

3楽章を經てフィナーレへ至ると、っそれまでからするとややおっとりとしたテムポへ構えられたのは、俊速では絃の走句が弾き切れない、っとのご判断だろうか、生き急ぐ厳しさはいくぶん後退するものの、代わりに和音の悽愴がこちとらの肺腑を抉り、っおおきに肯ける起承転結であった、

っあまり睡ていないこともあり、っかすかに睡気が忍び寄っていた、喫煙へ出て戻り、後半開演までの5分ばかりを瞑目しておいたが、心配は要らなんだ、井﨑氏の忙しさよっ、っすなわち、コーラスへもオケへもソリストへも、微に細に多彩な指示を飛ばされ、っその振り姿を見ているっきりで音楽がどんどんこちとらの身体へ沁み入ってき、細胞という細胞へ活性を與えらる、

コーラスは、っぼくはこれまでに井﨑氏とバッハ《ロ短調ミサ》やブラームス《ドイッチュ・レクイエム》をなさるのを聴いた、年齢層が高く、頭っ数もおおくていられるので、音色は相応に濁色ではあるが、っそのぶん評価を割り引いたにせよ、っきょうについてはなお井﨑氏の表現の迫眞に優ったようだ、っここまで強弱を自在に操作せられた《モツ・レク》も、っなかなか聴きえないのではないか、

っそれだけ張り詰めた時間時間がつづいたため、ソリスト連による〈ベネディクトゥス〉では、っまさしく有難い慰めを享受し、視界が濡れるに既であった、高名なるヴェテラン菅女史は、声量としては全盛をすぎられたようであるが、っその音色は、深いのだがけっして濁らず、っぼくがいつもイヤだイヤだという、醉ったおっさんが嘔吐しているみたような発声でいられなんだのがなんともうれしい、っもっとそのお声をとっくり拝聴したいのに、っこの曲ではそれほど長大なこの声部のソロはなく、っそのことが恨めしかったほどである、

最後にソリスト連も唱和されての同《アヴェ・ヴェルム・コルプス》にて閉幕、っこれがまた浄妙を画に描いたようで、後奏に木管とオルガンとの和音が遺って減衰してゆくと、っそれはもはや人智を超えた神韻であり、っまたもや目頭を熱くせずにいなんだ、



っさてと、ハイ・エイスを聖蹟別棟へ戻してチャリンコで帰宅するが、日附が変わるまでに帰れるかな、無理っぽいな、っあすから暦通り3日働いて、3日から連休を跨いで12日までの10日の間に、っじつに8公演を聴く、っまず3日は、ったしか青砥で、鈴木優人氏公演、読響のあの別嬪、遠藤女史か、彼女が《ドヴォ・コン》を弾かれる、コバケンさんと組んでの音盤を出されているが、っあの曲に人が当て込む野趣を少々犠牲にしてでも、細かい音符まで掬い切られた繊細な味を出されており、リズムのシャープネスが立ってなかなかのフォルムでいられた、っただ、鈴木氏はコバケンさんみたようなのんびりしたテムポは採ってはくれなかろうから、っまた異なる造形となろう、ったのしみである、鈴木氏の棒にはあんまり期待していないんだけれどね、

っそうだ、《ドヴォ・コン》といえば、N響の藤森氏が弾かれた動画がYouTubeへ上がっていて、棒は同響Vnの山田氏、オケはアマチュアらしく、ホルンなど苦しそうだが、っしかし、っこれが指揮者、ソリストともども大柄に構えたすばらしい造形で、山田氏については、っいつか年末にどこかの一般大学の学生オケの公演を聴くも、っそのオケは非力だったこともあり、っさしたる印象を與えられなんだところ、っこんな胸いっぱいの音楽をされる方だったとはっ、

早く帰れよって話で、、、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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っみなとみらい、




念願叶って、平林遼氏を聴く、楽団はオーケストラ・ラム・スールといい、っこんかいが結成から10回目の公演とのことで、演目はマーラー《10番》アダージョとショスタコーヴィチ《10番》とと、10揃いである、

っきょうもひとつ置いて隣のお客が紙ノイズくそババアで、休憩時に喫煙して戻ってもまだ膝へプログラムを置いているので、っよっぽど、恐れ入りますが、演奏中に紙の音をさせないようにご配慮いただけますか、っと云わむかとおもったが、っついに云えなんだ、意気地なしである、っけれども、ビニールの音とか、っつまり演奏会の場にまったく関係のない物のノイズであるならば、っぼくも躊躇なく、その音をさせるな、っと云えるのだが、プログラムについては、っぜったいにそれを見ていてはいけないという代物ではない、っだからこないだの航空公園でもきょうでも、っどうしても指摘できなんだのである、っが、捲る際に紙の端が自身の被服へ引っ掛かって、かりかりかり、、、ってな派手な音が出ていてもいっかな平気というのには、っほんとうに殺意をおぼえる、1列前のお客のおひとりも、マーラーの間に2、3度、っこのババアのほうを振り向いていられた、舞台でおおきな音や速い音や複雑な音がしているときはそちらを見ていて、音量が細り、薄くなり、速度が落ちると、退窟して読みもしないくせにしてプログラムを弄り出すというのだから、始末に負えない、要は音楽に対してぜんぜん門前の人で、っなにをどう聴いたらよいのかわからなくて、時間を持て余すのだろう、後半では開演ぎりぎりにその娘とおぼしき人が来てぼくと反対側のババアの隣へ坐したが、っもうショスタコーヴィチが静かに鳴り出しているのに、鞄からなにか取り出してそれへ附いた鈴の音をちりちりいわせている、親が親なら子も子だ、瞥見したところ、上品な身形をした瘠身のおばあさんではあったが、っあんな人でもあんなにデリカシーがないものなのか、、、っぼくは男なので、女性が繊細さに欠ける、周りの者の迷惑をぜんぜん意に介さない、っという姿にはやはり腹を立てずにいない、ジェンダージェンダーやかましい時代に向こうを張って、女ならもっと淑やかにしていやがれっ、っと云いたくなる、

っとまれ、っゆうべはひとり残って仕事をしていて、帰らむとするとけっこう降雨しているので、チャリンコは倉庫へ放り込んで、会社のハイ・エイスを使わせてもらい、きょうそのまま社用車で遊びに行ってしまわむ、っと川崎辺に駐車場を予約し、帰宅後はソヒエフ氏の《レニングラード》を単品購入して録画していたら、っまた明け方ちかくまで起きていてしまう、睡て起きて、パーキングを出て尾根幹へ乗る途端に渋滞気味なのでひやっとしたが、っのち、混んでいたのは矢野口から多摩川右岸の道へ右折する交叉点くらいで、っほっとす、川崎で駐車して鶴見市場から京急で横浜まで往き、器まで2、30分歩っても、開演前にシガレット1本の余裕があった、事後は例によってあのカレー屋まで歩き、横浜から川崎へ戻ってもいままだ17時すぎ、井﨑正浩氏公演は19時からだ、

っさておき、っきょうの彼等の演奏はYouTubeで観られるので、テクニークとしてはおよそ知れていたが、予期したよりもだいぶん上等の合奏で、俄然うれしくなる、両曲ともに入魂の一閃で、ショスタコーヴィチの1楽章がこちとらを脅やかすごとおおきくおおきく膨れてくると、っさしもの紙ノイズくそババアも気圧されてしばらくはプログラムを弄れないでいた、っざまみさらせっ、っま、っそのあとまた3楽章で退窟していたようであったが、

時間もあることだし、演奏の具体を云々しない前に、っまず初めて触れた平林氏の造形の印象について述べておかむ、

っところでねえ、っぼくは彼氏にニア・ミスしたことがあるとおもうんだよなあ、見逸れでなければだが、先般、上岡敏之氏が読響メムバーと飯田橋というか江戸川橋でおやりになったチェムバー公演に、っお客としていらっしていたのじゃないか、っと、っわからない、っあの手の顔附きの人というのは肖たような人がいるからねえ、幸徳秋水顔というのか、っきゅうううっと細い顔相の人ね、っでも、っほんの擦れ違っただけだが、ったしか一寸ふつうじゃない、っきょうの舞台衣裳などもそうだが、チャイナ服みたようなのをお召しだったようにおもうから、ったぶんご当人だ、

最近公演ではベルリオーズ《幻想》をなすっていて、っその動画を観ると、っなんともへんてこなことを勇気を有って敢行されている、っそれへ触れてなお一層、っどうしても実演を聴きたいとおもわされたのだが、以前にその動画をここで紹介した際にも、っそのへんてこさがほんとうに眞率な彼氏の表現慾の発露なのか、単に外連味を頼ったこけおどしにすぎないのか、動画のみでは判断し兼ねる旨、云ったとおもう、っそしてきょう、っじっさいに客席で彼氏を聴くと、っきょうも、っあの《幻想》ほどではないにせよ、っときにかなりに果敢な造形を志向していられ、っそれらを最後まで聴き届け、っさらにはアンコールを準備している段に彼氏がマイクを取られてすこしくお話しになる様を見聞きしていて、っつまりぼくの印象はこうだ、音楽人としても人間としても、面倒臭いことをしかし熱心にかんがえてしまっていられる方である、っそしてそのことをぼくは、っどちらかといえば好意的に受け取った、誤解を惧れずに云えば、斯界には、っただテキトーに音楽人なだけで、っちっともかんがえ深そうでない人ばかりが澎湃としていて、っそんなのよりかは、っすこしく面倒臭くても、っなにかを恆にかんがえている人のほうが偉大とおもうからである、

演奏スタイルとしては、曲毎、楽章毎にありとある書法上の効果を痛烈に強調しつづけねば気が済まないといったふうで、っそのためには、振るというよりは、っときに演技的、芝居を打つごとボディ・アクションも厭われない、っが、動画を観ているときもきょう客席でも、っぼくはそこへ、ほんとうはアツくなれない人がしかし懸命にそのご自身の冷静さへ抗う苦衷、っというものを透かしみた、

指揮者には、他の同業者の演奏をよく研究している人と、影響を受けたくないからとまったく見向きもしない人といるというが、平林氏は、動画でお話しになっているところからしても、前者の人である、っそのせいか、振り姿としても鳴る音の志向性としても、ん、いまのはこの人の根源から流露したというよりも、誰か先人の影がちらつくような気がしたな、っとおもわせる個所がいくつもあった、っそれもこちとらぜんぜんわるい気はせなんだ、藝事はまずはまなび、っまねびだ、他人様の眞似をしていけないという法はない、っそして全体としては、吸収されてきたものを懸命に綜合され、いま現在の平林遼像を結晶しつつある、っというように聴こえた、っその篤信はちゃんと楽員の端々までゆき届き、っしばしば全員が全霊を発散せるような本気の音がしていたし、っそれはぼくの胸襟を摑み、烈しく揺すぶらずにいなんだのである、

マーラー《10番》アダージョは、実演で初めて聴いたとおもう、あ、そうか、っとおもったが、編成はティムパニを欠く、ヴィオラから静かに始まって清潔に視界を拡げてゆくが、っどうして早くも楽想楽想へ細やかな表情表情が施されており、っどういう楽曲なのかがはっきりとよくわかる、表情的であってこそ、初めてよくわかるのである、クライ・マックスの全楽による阿鼻叫喚はまさしく大音場の全体が痛いほど震撼、戰慄す、終息してそこから絶え入るごと楽章終結まで、ババアのノイズはともかくとして、緊張の糸が途切れることはない、



ショスタコーヴィチ《10番》とアンコールの同《祝典序曲》とは、平林氏の学生時分、井上キーミツのアシスタントとして学ばれたおもい入れのある楽曲とのこと、っぼくはちょうどそのキーミツの日本フィルとの《10番》をこのおなじ器で聴いたが、っそれはややぼくの期待を違え、小手先へ流すというほどではないにせよ、っあっさりとして執念に乏しい嫌いがないとせなんだ、っそこをきょうの平林氏は、テムポ配分といいしつこいくらいの表情の附けられ方といい、要は楽曲の妙味を拡大せむ拡大せむとする意志に貫かれ、っよほどか聴き応えに勝れた、

1楽章では、長い前段からようやくピッツィ上へ横笛の主題が出ると、っゆっくりとした歩幅で奏者へこころゆくまで吹かせられる、っすばらしい歌い方だ、漸増して胸突き八丁まで登ってくると、マーラーにも敗けない絶叫の熱っぽいひびきは、っこちとらの臓腑まで轟かずにいない、楽章終結間際では、Va、2ndのギタールなピッツィを最強奏せしめる勇み足、っこうした破調は、引退に間近のキーミツにはもはや希みえなんだところである、

2楽章はけたたましい好い味で、挙軍一丸の風圧が痛快、

3楽章は、タムブリンを伴なうワルツまで来ると、っまたもゆっくりと歩き、音量も抑えてある、っさようにしてこちとらを油断せしめておいての、全楽を巻き込んだ漸増ではオケが弾けないかぎりぎりくらいまでのアッチェレランド、っおきもちは痛いほどよくわかり、っその勇気を讚えたい、

フィナーレは、っいっそう張り切る管打に押され、音型の細かい絃は凝集力を殺がれ勝ちとなったが、大団円ともなればもうはや理窟抜き、っすくなくも、キーミツのときのように、っやや軽く、不完全燃焼のまま済んでしまったという憾みは遺さなんだ、



っさてと、っまもなく井﨑氏公演、開演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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与野本町、




坂入健司郎氏の棒、アンサムブル・コルマ公演、済む、演目はハイドン《太鼓連打》とブルックナー《0番》とである、

っこの器は、伊福部昭《プロメテの火》を観にいちど来たことがあるが、っきょうの音楽ホールへ入るのは初めてである、紀尾井町などに肖て、っもうすこしく狭いのかな、音も居心地も快い小器であり、ったっぷりとした残響はそれ自身でもう仕合わせである、っゆうべのような大会堂で、方眼紙へ鉛筆で製図するごと乾いた楽音を聴くのと、っきょうのかようのゆたかなひびきを浴びるのと、っもはやおなじ音楽体験として語ることはできない、っやはりこちらのほうが遙けく本来的の音楽であるとおもわずにいない、

っこのアンサムブル・コルマは、坂入氏とはモダン・フレンチをなすったこともあり、っつまりかなりによく弾ける人たちである、両翼、ホリゾントの小ぢんまりとした絃は、2ndでも、っと云ったら非礼だが、っちゃんとぴたっと音が揃い、っじつに充実した古典派を聴かせてくれる、木管はどなたも果敢に訴えむとされ、左右へ分けたホルン、トロムペットの音色の美麗も素敵だ、トュッティは優に飽和し、っもう一回りおおきな器でちょうどよいとおもわせるくらいである、

っしたがってブルックナーはわんわんぎゃんぎゃんしてしまってものに成らないかと危ぶむが、っまあぎりぎり持ち堪えたようだ、っすくなくも、っずっと音楽を味わっていられた、

っぼくは不眞面目なブルックナー聴きなので、っいまだ《1・2番》はよく識らないし、《0番》だ《00番》だに至っては、ったぶんこれまでにいちども聴いていない、っなんの予習もせぬまま来てしまって、っちゃんと楽想と構成とがわかるだろうか不安だったが、果たして、っかえって未知の景色を經巡るたのしさに幻惑せられた、後年に手を加えたのでなく、っあれが若書きのままの決定稿なのだろうか、僭越な云い種だが、っひじょうによく出来ていて、この楽章の主張が乏しいな、っとか、っそうした不満は微塵も感ぜなんだ、ヴィーン・フィルは初演を拒否したというが、いったいあんた等の目は節穴かよ、っとおもうくらいに、

っだいたい、っどんな作家でも初稿というのは鈍なものだ、Appleに買収せられたBISからは、ソロはたしかカヴァコス氏だったとおもうが、シベリウス《Vnコンチェルト》の初稿と決定稿とが1枚へ収まった音盤というのが出ており、っその前者を聴くと、改訂しといてよかったね、ってなものだし、マーラー《巨人》の、ブダペスト稿っていうのかな、初稿の実演を聴いたことがあり、っそれなども、え、これがのちのオーケストレイションの大家の筆かよ、っというぽんこつぐあいで、初演はシュトラウス《ドン・ファン》とほぼ同時期といい、っあちらは大絶讚でめでたくも若き大作曲家の誕生、っこちらはくそみそに云われる大失敗とのことで、無理もないわな、っというところ、っおなじマーラーでは、《葬礼》などを聴いても、《復活》1楽章からすればずいぶんと未整理と観ずる、あれほど複雑巧緻な楽曲を書ける人が、こんな杜撰なスコアでものに成っているとおもっているのか、っと訝るところだが、っここが古典音楽のおもしろいところで、っぼくらはすでにして史上の遺物遺産と成り遂せた決定稿の完成度を耳で識ってしまっているのである、っそれを1から、っや、0から拵えねばならない苦労といったら、っそれはもういかばかりか、

ブルックナーにしても、《ロマンティッシェ》の初稿あたりは、申し訳ないが音楽がぜんぜんわからないし、《8番》ほどの後期へ至ってさえ、当初は驚くほど雑然としており、なぜはじめから決定稿のように書けないのだ、っとこちとらをしていじいじせしむるばかりである、っだから《0番》などという初期作では、っまず主題の性格配分からして、どれかは印象へ遺るがどれかはおよそ平凡で取るに足らない、っとの不均衡の嫌いがあるのではないかと侮るが、っぜんぜんそんなことはなくいずれも魅惑的で、構成についても、いまのこの何小節間かはいったいなにがしたかったの、っとの間然たる時間時間は、っどの楽章にもまるで見当たらなんだ、

1楽章は、純然たるソナタ形式で、主題はみっつあるのかな、っふたつかな、っなにしろまったく予備知識がないので、っとちゅうから自分がいまどこを聴いているのかちんぷんかんぷんになったが、コラールみたような荘重なのが、っあれがたぶん㐧3テーマだろうな、曲頭の㐧1テーマは、っいちど漸強して退潮する際に、おっ、もうブルックナーの音してんじゃんっ、っと聴いていて耳にうれしかった、㐧2テーマとおぼしき1stの歌はまさかのディヴィジ、マジかよっ、っと愕くのも束の間、過酷な音程の求め方は、っぼくの識る曲では《5番》のフィナーレのVnにその象徴的の場面がほんの1度っきり存るが、っここでは、ピッチ合わせるのむつかしいだろうな、っという音がより頻出しており、再現とみられる同主題ではなおサディスティックな音の上下動、っかつ他声部が複雑に絡んでいることもあり、っいつ不協和な和音がしてしまうか、っいつリズムを見失ってしまうか、っひやひやと薄氷を踏むごと聴体験である、っそのスリルは、彼の中期以降の有名作からはさして感得せられない妙味ではないか、っぼくの聴き間違えでなければ、っこの㐧2テーマを見送らない前から、っもう㐧1テーマが同時に鳴っていたとおもう、っそしてトュッティともなれば、っみなで轟々と音階をやっているのみなのだが、っそのひびきはすでにしてブルックナー以外の何者でもなく、ああ、これは心配なんぞしなくとも心身を預け切ってしまえばよいだけだわ、っと得心がゆく、っここあたり、っやはりせめてもう一回りおおきな容積の器で演ったほうがより映えたろうが、

構成としても、展開とみられる部分はじゅうぶんに緊張感に富み、再現では、提示には影も形もなかったファンファールによって流れを断ち切り、GPを跨いで主題を遷るというたのしさ、っよくかんがえられている、

緩徐章は、っまあ3部形式くらいだろうなとおもっていると、3度目に絃の冒頭句が出るともうそれが後奏だったので、テーマを提示してそれを1度展開したっきり、っということだろうか、っそれともどこか中途でもういちどその2音ずつの上昇音型が鳴っているのをぼくが聴き漏らしたのだろうか、っいずれ、っいたってコムパクトなものだが、書法は、素朴な快い歌をしかし入念に組み合わせており、青臭さはまるでしない、絃へ応ずる木管群も、っこの時点ですでにしてこの作家からっきり聴くことのできない不思議な和音と音色とをしている、5連符の1粒目が前の音へ繫った歌の形は、おお、《7番》じゃん、ってなところ、

っさあスケルツォはどんな主題で来るのだと構えて待つと、っまず苛烈なトュッティで先制打を喰わせ、っつづくパウゼを効果的に用いた絃のそれはじゅうぶん十二分に性格的で、音型としては《3番》の同章と共通するが、っまた趣が異なり、や、ちゃんと一大シムフォニーのスケルツォじゃんかっ、っとうれしくなる、ドイッチュ音楽というよりも、っどこか勇ましいイタリィ・オペラの決闘のシーンでも観るようなラテンの感触がしたのは、っぼくの錯覚だろうか、後年の作のように大規模に発展せず、っわりにきっぱりと主部を了える潔さも感心で、トリオはといえば、素朴な牧歌とばかり侮ってはいられぬ神秘の響がする、絃に対する扱いはこんな若書きでももうはや堂に入っており、っおおきな跳躍による下の深い音と上の透明な音との対比は、2楽章の終局においても最大の効果を上げていたが、っこのトリオでも自信満々に馳驅せられている、

フィナーレはソナタ形式であろうが、っここでもやはり、展開し了えたかとおもうともうコーダらしき部分が訪れるので、っそうすると、展開を欠く、提示から即再現のソナタ形式ということだろうか、管の連符へ乗る絃の深い歌は、っまあアレグロのための序奏だろうとおもっていると、っこれまでそっくり再現せしめらるので、ブルックナーというのは大眞面目な人だなあ、っと微苦笑、っけれども、スケルツォの主題につづいてここでも㐧1テーマは決然として感傷を寄せ附けず、っあまつさえ、フーガによる緊張力が追い打ちを掛ける、流石にブルックナーだ、㐧2テーマがまたどれほどかゆたかに歌うのだろうと予想すると、っじつに意表を突かれる、っさしものきょうの楽団といえど、VnといいVcといい十全には弾き切れていないようであったが、それどんな音型やねんっ、っという細かな動きと、っかつまたもやシヴィアな音程の要求、再現などとくに難儀至極のポジションが連続し、楽員諸賢も苦しそうであった、っしかし、っあれをもしかぜんぶ精確なピッチでびしっと弾き切れたら、っとんでもない音楽だと震撼させられたことであろう、

聴いていてあらためてそうつよく實感したのは、時代的には浪漫派の全盛でありながら、具体的の描写性、表題性が絶無で、飽くまでも絶対音楽、抽象的の音列の組み合わせのみで楽曲が構成せられているというこの作家の無二の存在感で、っなんだかここまで、演奏のことにはほとんど触れず、楽曲のことのみを云々したようであるが、っぼくが初めてこの曲を聴いたというのもあるけれども、坂入氏が音響の司祭としての役割へ徹しられ、っその任を遺憾なく全うされたということもおおきいだろう、好演目をこころゆくまで堪能させる、充実の午后であったことだ、



っさて、っあす1日のみ仕事をして、黄金週の嚆矢からまたもや2連チャン、午に以前から聴きたいと希っていた平林遼氏を初めて聴き、っよるには井﨑正浩氏の《モツ・レク》である、

っそうだ、上岡敏之氏の《フライング・ダッチマン》4公演のうち、予定の空いていた3公演分の切符へ、二期会の有料会員になりまでしていち早くありついたのだが、っしくじったのは、っうち1公演の同日には、福井まで遠出をすればおなじ公演中で坂入、井﨑両氏の棒をともに聴きうるという物怪の機会があるのだった、先に知っていれば上岡氏切符は2枚へ抑えるところだったが、っまあ、福井まで往かむとすればその交通費で二期会公演切符よりも高額出費となるのだし、っそれをせずに済んだとおもうことにしておかむ、っざんねんである、っしかも演目が、坂入氏《シェヘラザード》、井﨑氏《オルガン》との豪華2本立てというんだからねえ、惜しいことをしたなあ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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原宿、




ファビオ・ルイージ氏の棒、N響公演、済む、演目は、オレシア・ペトロヴァ女史のメッゾ、東京オペラ・シンガーズの女声コーラス、NHK東京児童唱のボーイズ・コーラスを招いて、マーラー《3番》である、

、、、っいやはや、草臥れましたねえ、っほぼおもったとおりの音、っおもったとおりの演奏で、っやはり3,000席超、4,000席にもなんなむかという大会堂の舞台でオーケストラが音を鳴らして、っそれを天井桟敷近くで聴いていて、っあんな音量音勢、っあんなバランスの聴こえ方をするというのは、物理的にありえないとおもう、っまあとにかく、大空間で乾いた音質のステレオを聴いているとおもって坐っていればよいのである、、、っいつもこんなことばかり云っていて、っそんな事実ありませんよってことだったらどうしようかしらねえ、っま、っそのときにはすんませんでしたという話だわな、っしかし、っよしんば事実だとしたならば、っそれをお客へ告げずにやっているというのは、っちょっとどうかとおもうけれどなあ、

っそのうえきょうは全奏100分休憩なしとあって、1日中坐りっ放しのぼくは尻が痛いのなんのって、椅子もまた安物の嫌いで、座面が硬いし、っすこしくでも血行を改善せむともぞもぞ動くと、ぐぐぐぐぐ、ぎりぎりぎり、っとノイズが出ちゃうし、

っもう何度も云ったが、っこの曲はぼくの青春のテーマ・ソング、、、っこんな七面倒な曲がテーマ・ソングって、っで、っしかし音盤にはなかなかこれぞという決定打がないのを憾みにおもっていたところ、突如として、カーチュン・ウォンなる俊秀が現われ、日本フィルのプリンシパル就任披露において、っそれはそれはすばらしい大演奏を達成されてしまわれた、っあるいはサントリーで聴いているときには、そこはぼくがいちばんに聴きたいとおもう表現とはちがうな、っという個所もひとつならずあったかもしれない、っしかし、っすべての意匠がすぱっと吹っ切れていられるため、っすぐさま、これはこれでありだっ、大ありだっっっ、っと絆されてしまい、同プロ2公演の2日目を聴くときには、っもう全幅の信頼を寄せつ客席へいたものである、配信せられたものを録画して何度くりかえし全編を再生したか知れないが、っほんとうに及び難い結晶であり、細部細部に亙るまで、愕くべき説得力の固まりである、っしかも、音色が恆にからっと明るい、っそこが無上無性にうれしい、開いた音色というのか、1楽章など、ファゴット連やロウ・ブラス等がフィーチャーせられる場面もおおいので、指揮者にセンスがないと、閉じた曇った音色へ陥り勝ちで、っぜんぜん気持ちが解放せられてゆかない、悲劇を噛み締める時間があっても、最後には照りつける眞夏の太陽のごと燦然と耀き渡る、っそれがこの曲の音色感であってくれたいのだが、30分も掛けて踏破した1楽章の終わりがやっとこさ賑やかに鳴っているのに、ぜんぜん音々がにこにこ笑っていないじゃん、っという駄演凡演のなんと巷に溢れ返っていることか、、、

っこの実演が圧倒的の牽制球となってしまって、以降の人たちは土台、分がわるいかとおもっていたところ、金山隆夫氏が川崎でアマチュアを振られたものも、っあれでどうして麗しい記憶を刻んでいる、金山氏ご自身がもともとそういう棒の方でいられるし、オケはアマチュアでもあり、カーチュン/日フィルに比すれば被写界深度がぜんぜんずっとずっと浅く、ピン呆け気味の奏楽ではあったが、っそのざっくりざっくばらんな語りがあまり嫌ではなく、っばかりか、100分も掛かるマンモス・シムフォニーだのにプロフェッショナルでは線の細いかちこちした概観ばかり聴かされている気がしたので、っぼくはそのおおらかな造形にほっこりとさせられたのである、

っそれらを客席で聴いているときには、っよく謂われる、いつまでも了わらないでくれたいっ、っとの感激にたびたびシビれていたというのに、っおなじ曲を聴いていながら、っきょうさっきと来た日には、フィナーレが冒頭からいまだ弱音のうち、ルイージ氏はいやにゆっくりじっくりとした語りでいられるので、っぼくとしては、そういうのいいからもっとどんどん先へ進めて早いトコ了わらせちゃってくださいよ、ケツ痛えし、、、ってなものであった、

N響については、奏楽としてこの水準は満たすでしょ、っとぼくが当て込んでいたその線よりもだいぶん下回るという為体で、管は木管も金管も3楽章のポスト・ホルンも、目立つエラーをやらかさなかったパートはひとつもないのでは、っというくらいである、日フィルとてもちろん無疵ではなかったが、っきょうのN響とは比較するも愚かである、っもっとも、演奏会とはナマモノだから、個別のエラーにはぼくはさして腹を立てないが、っそれよりもどうしても気になるのは、ムジツィーレン、エスプレッシーヴォの絶望的の不在である、っときおりどれかのパートが、おっ、そうそうっ、そういう音だよっ、っという潤いに濡れた妙音を聴かせはするのだが、所詮は局所へ留まっていて、指揮者の建設せるコンテクストの裡で必要にして不可欠だからさように音がしっとりと濡れる、っというレヴェルの話ではぜんぜんないし、っあとはひたすら、アルティキュレイションってそれなんのことですか、記譜の音価通りに音を処理しております、それが音楽でしょ、なにかいけなかったでしょうか、っとでも鳴っている音がぶんむくれているようなふてぶてしさである、っそれはまあぼくが意地悪な耳で聴かむ聴かむとするからそう聴こえるのかもしれないが、っとにかく聴いていて、こんなのぜんぜん本格のオーケストラの音じゃないとおもうんだよなあ、、、っとの悪感情が死神か疫病神かのごとずっと附き纏って離れない、っかちこちかきこきした生硬な質感の多声の欝積は、っしかしいつも無類に整理整頓せられていて、っなんだか、レゴ・ブロックをぽこぽこ嵌めて一寸したオブジェを作ってみました、っとでも謂うのか、オーケストラのおもちゃみたような耳当たりのサウンドである、

っそのフィナーレ冒頭からの静々とした絃合奏など、っまあスピーカーでニュアンスが補強せられて届いているということもあるかもしらんが、っぼくももっとどんどん先へ進んでよとばかりおもったのではなくして、ううん、たぶんこういうところあたり、サントリーとかもっとまともな器で聴いていればそれなりに好い音がしているんだろうなあ、っくらいにはおもっていた、っそれが大団円まで済むと、周りの安席連中にはけっこうな割合で熱心に手を叩く人たちがいたのだが、っぼくが眞っ先にやりたかったのはとうぜんながら尻を上げて滞った血行を促すことであり、っのち、拍手するにはしたけれども、コンサートの客席であんなにもはっきりと、これは熱心には拍手をしないでおこう、っと意志する經験も珍しい、指揮者が1度目に袖へ下がられたらそのまま退席したって惜しくはないとおもったほどだが、っま、っいちおう長原氏が散会を号令されるまでは席へいた、ロビーへ出る背中にはルイージ氏を舞台へ喚び戻したいらしい拍手の音がつづいており、っじっさいソロ・カーテン・コールはあったようだが、っあれでかよ、、、っみなただ、巨人大鵬玉子焼き、っみたように、天下のN響なんだから、っという意識だけが先行していて、演奏なんか碌すっぽ聴いちゃいないんじゃないかなあ、

っや、レゴを重ねたみたようなかちっとした合奏はある面、耳に快いと聴けないことはないし、っあのほら、ポップスの歌のバックへオケを起用していて、音楽PCで整音しまくって、こんなにぴかぴかに綺麗なオーケストラの音ってものがあってたまるかいなっ、っというそういうオーケストラの音ってあるでしょう、っそんなような音なのさ、っでそれってもちろん、っくそつまらないでしょう、っぼくはそうおもうのだが、っそれがうれしい、それを実演でやってのけられちゃうN響ってやっぱスゴいっ、っみたようなそういうことなのかなあ、っちっともスゴかねえよそんなもん、っだってニュアンスがちっともありゃしないんだもの、っふるいつきたくなるような、抱き締めたくなるような音色の魅惑がしないんだもの、

っしかし、っこの器にしてN響であり、っさいしょっからそういう音っきり聴けないとわかっていて来たんだから、っべつにこれでいいの、っあとは、指揮者が途轍もない人のときは、造形からしてべらぼうなことを仕出かしてくるわけで、っそのときにはN響とてそれへ応接しなきゃならないから、っそうすると、っひびきはあいかわらず乾いたまんまかもしれないけれども、っそれなりにスゴい音は出るだろうさ、っそのまぐれ当たりを期待してときどきは来てもよいかもしらんが、定常的に通うべきような演奏会でも演奏会場でもないやね、っここのN響定期は、っこちとら音楽的の音楽を聴きたいんだからさ、



っいまは事後、例の喫煙可のカッフェでもう22時半前、

退店して、井の頭線へ乗るべくいま渋谷のスクランブル交叉点を歩ってきたが、っすごいねえ、外人ばっかりっ、外人のほうがおおいくらいだよ、っここニッポンでまちがいないよな、、、

っさてそれで、っあすは埼玉で坂入健司郎氏公演、ハイドンとブルックナーとだったかしら、ったしかそう、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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航空公園、




井﨑正浩氏の棒、ICUの学生オケ公演、済む、オケはあまり巧くないので、井﨑氏の元気なお姿を拝むだけの目的で来ているようなところがあり、演目は気にしていなんだが、っゆうべにつづき《新世界》であった、っすなわちフンパーディング《ヘンゼルとグレーテル》序曲、グリーグ《ペール・ギュント》スート、っそしてドヴォルザークである、

っお客の数もすくなくて序曲のあとには1度目に指揮者が引っ込まれるっきりで拍手が止んでしまうし、休憩も15分だったこともあり、アンコールがあったにしても公演時間は2時間に満たないだろうなと踏むとその通りで、13時半開演、最後に《スラヴォニック・ダンス》の、っあれは何番かな、っいちばんアンコールで演られ勝ちのやつ、っあれを演って済んでもいまだ15:15ころであった、

っただ、出て来るとじつに降雨している、っその惧れはあったので折り畳み傘は携行しており、渋谷というか原宿へは16:36に航空公園から乗ればよいので、駅までの途次に飲食店へ逃れる、っほんの通り雨で、っいまはもうぴーかんである、

自由席だったが、秋ころだったか、っこのおなじ器で矢崎彦太郎氏の公演を聴くこととなっており、っその購入した席からの舞台の視え方とアコースティックとを検めむとその席を確保してみたところ、っきょうについては最悪、後ろの席のおっちゃんが演奏中にのべつプログラムの紙のノイズを発していたり、眼鏡の蔓のぱたんという雑音はさせるわ、聴きながらアンクェートを記入しているらしく、ボール・ポイント・ペンをノックするぱちんという音はさせるわ、っそのボール・ペンは2、3回落とすわ、っおよそデリカシーの欠片もない御仁で、っどんな面をしていやがるのか、休憩で喫煙へ立つ際に瞥見してやらむとすると、え、このかんじの人がそんな不届きをはたらくの、っとおもわせるような胡麻塩頭の好紳士といった風情であった、っが、喫煙からの戻りにもういちど横顔を見下げてやると、っやっぱりそういうことをしそうな愚物という顔相だと見解を改む、っかかる人に限って前半のみで帰ったり、っべつの席へ移動したりするのでそれを期待したが、後半もおなじ席へいて傍迷惑この上ない、っともかく、っなにをそんなにやることがあるのか、っずっと紙の音をさせている、っこうした人というのは、っぼくをはじめ、周りのお客連の大半が身動ぎひとつせず、眞剣に舞台を注視するようなのを見て、ああ、この人たちこんなに一所懸命に聴いているのに、俺がこんなにやかましく紙の音なんかさせてちゃいけないよな、っとかといったい罪障の気味の一片くらい味わわないものなのだろうか、、、っま、味わわないからこそのあのとおりの愚物愚輩なのだろうが、っほんとうに、っああした手合いは、っよしんばぶっ殺してやったとしても、っこちとら称讚せられこそすれ、っまちがっても罪になぞ問われないのにちがいないとおもうくらいだ、っいいかっ、紙ノイズくそったれどもめらがっ、プログラムだのフライヤーだのってのは演奏中は鞄へ仕舞っておくものなのだっ、大人しく演奏を聴いていやがれっ、っこの超ぼんくらおたんこなすすかたんちんのすっとこどっこいめらがっっっ、

っとまれ、っいつもながらのホール・トーンの豊麗は、っじつに期待を裏切らない、オケは、っやはりさして巧くないのだが、《新世界》は、っゆうべの本名氏よりもいくらも聴き応えに秀でた、っやはり本名氏は、っもっと積極的にいろいろとなさるべきだった、井﨑氏をみよ、2楽章は、歌はより歌わむとされ、迫眞のうちに強弱の幅を確保せむとされ、後半の例のsul GのVnの主題は、p寄りのmpといった音量感のうちに、っほんとうに人声が唄うような音色の練りぐあいを志向され、っまこと、っああしたことをあれやこれやとやってこそ、初めて音楽である、本名氏のようでは、っただテキトーに綺麗な音で《新世界》の表面をぺろっと舐っているというにすぎない、演奏とは、っあんなことでは断じていけない、っなにか、っなにかしら、失敗したってよいから、っやらなくてはならないのだ、っこちとらの鑑賞もまた、っそこをもって初めて始まるのである、っよのなか、っなにもしない指揮者がおおすぎるっっっ、っなにかしろよっ、っなんでもよいからっ、っなにもしたくないとしても、なにもしない、っということをしろよっ、なにもしない、っじゃなく、なにもすまいっ、っという音を鳴らせよっ、っなにもしていやがらない分際でまちがっても、や、なにもしたくないんですよね、作品へ泥を塗るっきりじゃないですか、っとかなんとかと利いたふうのことをほざきやがるんじゃねえぞこのぼんくらどもめらがっ、っじゃないとお前等なんぞ1度たりと聴いてやらないぞっっっ、



っさてと、スピーカーから音が出ているにちがいない無法な音響環境の渋谷の3階席にて、っぼんやりとルイージ氏でも聴くとするか、っぜんぜんなんの期待もしていない、っそれこそとくになにもしていないつまらないマーラーが、100分も掛けて右から左へと通り過ぎるっきりだろう、っべつにわるい演奏になるとはおもっていないよ、っとびきりよい演奏になどなるはずがないとおもっているっきりでね、っじゃあなんで聴きに行くのさというならば、っだから云ったこと、旅程も含めた強行軍をやりたいというにすぎない、っせいぜい一寸した閑潰しくらいにはなってくれたいものである、

、、、っひどい云い種、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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博多、




本名徹次氏の棒、九響公演、済む、器は落成したばかりの福岡市民ホールで、場内は大小2器に分かれ、小器の方では志の輔師が独演会をされていたもよう、っこちらではこの九響公演が、同器でオーケストラの鳴る初めての機会だったとのこと、演目はショパン《1番》コンチェルトとドヴォルザーク《新世界》とである、っなにか序曲が1曲あったってよさそうなプロだが、っきょうの楽員へは本名氏がヴェトナムの手兵から数名のメムバーを連れてこられていて、っすべて絃の方だったが、オケに立ち混ざって弾いておられ、ショパンのソリストも同国のグェン・ヴィエット・チュンという大人しそうな青年、開演前には同国の大使だか公使だかの女性がお話しになり、ソリスト、オケともアンコールがあって、了わってみれば21:15ころ、

っあすは5時すぎくらいには起きて6時半すぎの新幹線へ乗らねばならないので、簡潔に結論のみを、ショパンは、ソリストもオケもまったくすばらしかった、っまずホール・トーンだが、2,000席級だとおもう堂内は、っじつに潤澤で残響も豊富、管絃のブレンドは夢にみるごと豊饒でありつ、っかつぎりぎりのところで各部のソノリティが全体のひびきへ埋没してしまわない、っそのふんわりと柔らかな音の膚触りは、っあすの所沢もかくやとおもわせるほどである、概観としては多目的ホールとシムフォニー・ホールとの合いの子くらいの印象だが、っまさかにあんなに好い音がするとは、ピアノの音もまた音量、ニュアンスともに抜群で、絶妙なるトーンを纏って悽愴と高級との両立した前奏が去り、青年が登場すると、っその都はるみのテーマはオケの示したテムポとは肖ても肖附かぬ独壇場、細心のタッチからこころゆくまで歌と詩とへ浸られる、彼氏が弾き出すとすぐさま絃や少数の管が和すのはこの楽章ではどのテーマでもそうだが、っその絃のパート毎の音色音色、っあるはアルコとピッツィとの質感の相違は、っかすかかすかであるがゆえにこちとらの耳を憎いほど擽ぐらずにいない、管もまた、ファゴットが、ホルンが、溜息のごと空間へ融けてゆく、本名氏は、コンチェルトということもあり、っさほど無碍なる腕の振りは示されていないが、っしかしこれら夢の時間の要を担われているのは、っまちがいなく彼氏であられる、っよく云われるオーケストレイションの薄さは、っむしろ文字通り奏功であるとさえおもわれた、ホルンがつい1・2番で和音になったりするっきりで、っときめくような仕合わせに包まれるのである、

2楽章も委曲を盡した弱音最弱音の差配が満堂を支配し、っその快い緊張の裡に、純白のシルクの糸がぜったいに途切れることなく紡ぎ紡がれてゆく、っここでもまた、っすこしく強勢を加えたり、ソロのテーマが和音になったり、柔和な主題から不穏な調へ遷ったり、っそれら一寸したことにしかし如何に音楽的の意味があるか、っそのことを篤とおもい知らさる、

フィナーレはソロの主題中の細かいアルページオが、っゆたかなひびきに包まれて聴き取れなさそうで、っどっこいちゃんとぜんぶの粒が耳へ届き、っもはや痛快なくらい、応ずるオケのトュッティでは、他の管絃のみで優に飽和しているなかで、っしかしトロムペットの同音連続のタンギングをもうひとつ剣のある音で前へ出したほうが、っより立体的の音構築になったかとはおもうが、っそれは贅沢な不満である、

っけれども、《新世界》はもっともっと突っ込んだ造形を聴かされたかった、っこの高級至極の音響は終演までずっとつづいているのはたしかなのだが、逆を云うとそれのみという憾がなくもなかった、っあまりいろいろの仕掛けをやれない曲ではあるかもしれないが、っそこを本名氏ならばまったくリフレッシュされてしまい、っいまだかって誰も想像だにできなんだドヴォルザークを鳴らされるにちがいないとかなんとか、っほとんどそこまでの期待を懐いていたぼくもわるいだろうか、腕の振りにしても、っあのハイドンやモーツァルトのときのようなシャーマニズムはそこまで発露せず、っあるいはご当人としても、約しい書法の古典のほうがかえって羽搏きやすく、曲のほうですでにしていろいろとやってしまってある浪漫派以降では、っそのいろいろを指揮藝術、再現藝術としてさらに塗り替えてしまうという創意は発想しにくくていられるのかもしれない、っであるならば、今後も古典を中心としたプロへ積極的に取り組まれたいし、浪漫派その他でも、臆せずにそれとおなじこと、っもっともっと大膽なスコアの洗い直しを敢行されたいところである、

本名氏は黄金週中には金沢でいくつかの舞台がおありのようだが、っざんねんながらそれへはぼくは伺えず、っお次は東京にて、伊福部昭《交響譚詩》《シンフォニア・タプカーラ》を望みうる、っこれも敢えて云えば、曲の方へ寄られたのみの解釋では、っぼくはけっして満足しない心算である、っぜひとも果敢に曲をご自身の方へ手繰り寄せられた再現を披瀝されたいものである、得手勝手なことをやりまくれと云うのではない、っほんの強弱ひとつから、っいまの彼氏には、っなにものにも束縛せられない自由な発想を聴けるはずだし、っそれらはいつも、っごくごくかすかな操作操作であるにすぎないのである、っしかしその集合集積が、っついにはあのハイドン、っあのモーツァルトを結果結實したのである、っそのように、え、そんなルートで《、、、譚詩》《、、、タプカーラ》へ登っちゃったの、でも悔しいけれど説得力あるわあ、、、っというその、やられた、一本取られた、っという感触が慾しい、そんな登り方、ほかの誰でもやるよ、っという方法へ甘んじないでいただきたい、っいまや彼氏は、っそのくらいの期待を背負うべき人なのである、、、っとぼくが勝手におもっているという話で、

っさ、っご当地グルメになど目もくれず、ホテルの室へ電子レンジがあるのでコンヴィニ弁当を購ってきた、疾っ疾と喰って睡てしまって、っあすは日本横断というか縦断ののち、午に井﨑正浩氏公演、夕にファビオ・ルイージ氏のN響定期である、っそんでまた日曜も坂入健司郎氏公演という、、、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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