ざっかん記 -9ページ目

ギロッポン、




寺岡清高氏の棒、早稲田大響公演、済む、演目は、ドヴォルザーク《謝肉祭》《オテロ》、マーラー《5番》である、

有名なる早稲田大響で、サントリーがみごとに満席であるが、云ったようにきょうはオルガンの前の席、っここに限らず、舞台の背面へも座席のある器で、当のその席へ坐すのもほんとうに久方ぶりだ、っおそらくこれまでに両手で余るくらいの機会っきりないようにおもい、っここサントリーでは初めてだったろうか、っひょっとすると遙か画学生往時に1度くらいはあったか、定かに記憶しない、っずっと貧乏なアルバイト暮らしで三十路すぎまですぐしたぼくだが、っそれでも見栄もあって、っかなり若くときから可能のかぎりSを購わむとする人になった、殊に15年ほど以前に拙ブログを開始してからは、演奏に対して得手勝手に偉そうなことを云わむとするならば、好条件の席へ坐して聴くというのは客としての最低限の責めではないか、っとのおもいもあり、っよりそのことを意識している、っそれに人間ある程度、歳がいったら、我利我利とより安い席を求めるというのもさもしく、羞しい話だ、っだから隠さず云えば、安い悪条件の席で聴いているらしい様子の人がSNSへ演奏会所感を上げるのを瞥見しては、っぼくは心中でその人を見下げている、あなたも演奏についてああだこうだ云いたいならば、せめてより良席で聴かむとする努力くらい拂いなさいよ、っと、っもちろん、世に遠くに聴くオーケストラの音こそ所望なのだという耳も存るのにはちがいなく、っそこは人毎にすきずきではあるが、

っさて演奏だが、寺岡氏の棒はこないだの村上史昂氏のそれと同様、澹泊なもので、嫌なところはひとつもないが、っあのときとちがい、っきょうは好印象を有つわけにはゆかなかった、っぼくにすれば、巷間よく行なわれているマーラー《5番》の演奏はスマート、スポーティにすぎるのであって、っもっとじたばたとほうぼうでのたうちつ、っぬかるみに足を取られるようにして這々の態で最後の勝鬨を迎えるのであってくれたいのである、早稲田大響は村上氏のときのオケからすれば能力には秀でているが、っさりとて細部をほんとうに確然と意味附けられるほどの腕があるわけでないのもとうぜんで、っそうすると全曲のほとんどすべての場面が、っぼくにはぜんぜんしゃびっしゃびの水っぽい表現にっきり聞こえないのである、っもっともっとねちっこく各部にしつこくくどい味が附いているのでなければ、っこの曲はたのしく聴いていられない、っさようの演奏は、世にほとんど絶無である、っなかでは、YouTubeへ各国のライヴ音源を数多に上げてくだすっているアカウントのそのリストのなかに聴く、引退直前とおぼしきM・T・トーマスのそれなどが、音楽人生の最期におもいの丈をぶち撒け切り、オケも彼氏との離別を悟り、っその棒へ懸命に附けた傑出せる記録であり、っあのくらい附加価値のたっぷりある演奏でなければ、っただ眞っ直ぐにすんなり運びましたというのでは、っまったくつまらないのがこの曲である、



っそこで、っきのう届いたコバケンさんのロンドン・フィルとの同曲音盤なのであるが、っこれがこちとらの期待をかなり上へ出る記録であり、っゆうべ、何度か睡りへ堕ちてしまいつ、っうれしくてプレイ・バックしながら全曲を聴くうち、っついにあさ5時すぎとなってしまい、っほんの1、2時間ばかり仮眠をとって霙の降るなかママ・チャリ出勤したが、就業中もさっきの演奏中も、っぞんがい睡魔に襲わることがなかった、早速に音源をiPhoneへ同期してきて、終演後からいまも耳で鳴らしているが、っこれはやはり大した達成である、

全体の概観としてはついこないだ出たベルリオーズ《幻想》と同断で、曲想曲想に応じた演奏上のメリハリを敢えて犠牲に供し、っありとある部分へ等価の質量を與えむとした趣向であるが、っよってこれは《幻想》とおなじく曲を味わう音盤ではなく、小林研一郎を味わうべきそれである、《幻想》でも1楽章など、っあまりにもすべての瞬間、っすべての部分へ分け隔てのない慈しみを注がれるので、っかえって変化に乏しく、曲本来の劇性が後退する結果へ繫がっていたものだが、っここでも2楽章などがそうで、っこれでは識らない人へ、マーラー《5番》とはしかじかの曲だ、かくかくの魅力が存るのだ、っと教えることができない、烈しい闘いもうらぶれた歎きも血反吐を吐く絶叫も束の間の勝鬨も絶望への消沈も、っみな等分に音化せられており、っもってコバケンさんへ批判が向けらるとしてもなんらおかしくないが、っこれこそ確信犯というもので、っご当人はそんな批判などなんら意に介されないことであろう、っかっては闘う部分はより闘い、歎く部分はより歎き、叫ぶ部分はより叫び、躍る部分はより躍り、沈む部分はより沈み、っそれこそがコバケンさんであり、っそうであってこそ曲のなんたるかをよく伝えてくれたものが、っここでの彼氏はすでにしてそのすべての感情が愛おしいのであって、っどこかを強調したいがためにべつのどこかを等閑にするということをけっしてされない、《幻想》から推してさようの棒だとは予期していたものの、っそれがまさかにここまで徹底せられているとは、露おもいもせなんだ、脱帽である、

っことしこれから聴く同曲の実演では、っこないだすっかり忘れていた、カーチュン・ウォン氏のそれもあるが、大穴も大穴のダーク・ホース、小柳英之氏にぶっ千切ってしまっていただきたいといまから邪な願望を懐いているぼくで、っしかしよしんばそれが成ったにせよ、っそれはもとより無骨無粋の音っきり発しえぬオケによる、一種ずるい魅惑である、ロンドン・フィルはといえば、放っておけばスマートでスタイリッシュな音を出してしまうのだろうところ、っそれをここまでぎしぎしがたぴしいわせることがおできになったというのは、っなるほどコバケンさんの棒の勝利でいられる、っぼくも天邪鬼で、荘重壮麗な再現ばかり澎湃としているブルックナー《8番》では、殊に1楽章において足を引き摺らずにアレグロ・モデラートの指定を叶えよ、っとうるさいのであるが、誰も彼もカッコよく演ってしまうマーラー《5番》では、っとろくてダサい演奏こそが慾しいのである、

1楽章はまんなかの突如、狂騒的となる部分、以前のコバケンさんならばどたばたと前へ前へ音楽を倒してゆかれただろうところ、っここではむしろ後ろへ後ろへと倒れる感触が顕著で、っしかも、っもとより遅い速度がいずれの声部も歌いながら膨らまむ膨らまむとし、っしたがってテムポは絶えず定まることを拒むかのごと伸び縮みす、っその贅肉あふるるでぶったひびきこそはまさしくぼくの夢にみた世界である、っしかも音構造としては、目立つ声部を頼って他は影の役割へ徹してもらうというふうでなく、っむしろ対位法の奥の奥までが隈なく照らし出され、愛し抜かれている、楽章終局の例のクラーゲントの破局も、っそこへより激越な表情を與えるということがなく、物足りないくらいだが、っともかく、どこかが大事でどこかは大事ではない、っという棒は、っここにはすでにして存しないのだ、

2楽章冒頭からは、煩瑣な対位法を余さず掬い切らむとするゆっくりゆったりとしたイン・テムポが極めてダサく、ロンドン・フィルも有てる能力を挙げて声部という声部をぎっしりびっしりとその箍の裡へ結集せしめる、っつづいて絃主体のしめやかな葬送の歩みとなるが、密度高く歌い継がむとするので、直前までの大管絃楽の錯綜との間に明確な落差が附かず、っそうした剛直な手筈によって楽章全体が押し切られてゆく、セッション録音であるにも拘わらず、クライ・マックス附近でシムバルが1個所、打ちどころを誤っているが、異様に濃密に運ばる演奏というのは、っなにか奏者自身に拍節を見失わせる効果があるのではないか、っただしい個所で打っているテイクだって録ってあるはすで、っそれで繫げなかったのかともおもうが、っしかし演奏がいかにけったいな密度で行なわれているかを象徴するエラーとして、っぼくはこれを歓迎したいくらいである、っそして特筆すべきは、っこれはあるいはオーケストラの性格や、ホールでではなくスタジオででの録音であることも影響しているかもしらんが、音色や歌い方に対してかってのコバケンさんほどの極度の調合趣味が発露しておらず、っわりに器楽的の良識の範囲内の楽音のみで全体が埋められていることである、っこれほどまでに要素という要素を林立せしめた欝蒼たる演奏においては、っもはやこの上、内容を説明するごと声楽的の描線や音の色は有難迷惑であり、っその点でも、あの感動の押し売り屋、コバケンさんがいまやここまでの悟達へ至られたのか、っとの感慨も深い、、、っもっと素直に褒めろや、俺、

3楽章も、凡百の演奏ではテムポや拍節感、楽器楽器の接続が落ち着かず、っその焦燥感こそが作家の求めたところであろうが、っそれを敢えて殺し、懇切丁寧な手作りの味から、っついに横綱相撲の偉容を醸してくる、音色を凝っていないといいながらも、用意せられたどっしりとした構えのなかで、オケは絃も管もしばしば、楽曲と指揮者とへしんからの献身を期しているときにのみ発せらる篤い妙音を聴かせる、っすべての瞬間で、最も地味な役割の声部までもが意味深く鳴っている、っその情報量の豊饒は、コバケンさんご自身としても、他のいっさいの指揮者を引き合いに出しても、っともにまったく空前にして絶後である、

っいかなアビー・ロード・スタジオが有名であるとはいえ、っそこで音を録るということは、コバケンさんは現地での公演はなすっていないのだろうか、っとすれば、ロンドン・フィルの面々は、っときおり録音のためだけに渡英してくるこの日本の老匠を、っいまや佯らざる畏敬のまなざしでみられるのではないか、っすくなくも、っただごとではない仕事だという意識は誰しもが有たれているはずだ、同コムビが始まったさいしょのチャイコフスキーのころなぞは、っあれでたいしてエポック・メイキングな音盤制作とは云い難かった、っそれが先の《幻想》、っそしてこんどのマーラーと、っこれがよい演奏なのかわるい演奏なのかはともかく、仮に誰かがけっしてよくはない演奏だと云うとしても、こうした演奏へは、永くオケ・マンをしていてもそう何度も参加できるものではない、っという自覚はぜったいにあるとおもう、っぼくがオケ・マンならば、誰に後指を差されようとも、っそうした異形の演奏の参加者でありたいと、っつよくつよく念ずることであろう、

アダージェットは、っむしろテムポを弛めず、滅多にはこころを動かさず、淡々と語ってゆく、っあの小林研一郎が、っである、

フィナーレはこうした大演奏の総決算とするに相応わしく、っじつにとっくりと沈み込んでゆくようなアレグロである、ブルックナーであれほどアレグロ・モデラートアレグロ・モデラートとやかましいお前がこんなにのんびりとしたアレグロをうれしがるのか、っと叱られそうだが、っどうぞ叱ってやっていただきたいので、っゆうべ、っというかけさもう窓外が明るんでくるなか室でヘッド・フォンをかむってこれを聴きつ、っぼくはうっとりと聴き惚れてしまった、っやはり音色は極度には練り込まれていないのだが、っしかしここでは、全編がソット・ヴォーチェで語られているのかと聴こえるほどで、器楽的の冷厳冷徹はそのままに、囁くようなやさしさで音楽の魅惑が全的に解き明かさる、大団円へと逢着しても、っそこへは昔取った杵柄のどんちゃん騒ぎは微塵も見当たらず、結尾の疾走句の最後の1音に至るまで、飽くまでも音楽的に音楽を見護りつづけるコバケンさんの両の瞳がある、

ライヴともなれば、っいまでも音量音圧趣味を完全には放棄されないコバケンさんであられ、っそれはとうぜんのこととも云える、っしかしいっぽうで、スタジオ録音という箱庭において、っかかる人生の大結論を示してくれたについては、っもう長いこと彼氏の煮え切らぬ老年を憂えてきたぼくとして、感慨も無量のものがある、っしかも、音盤の商品説明によると、同コムビの共同作業もついにマーラー・シリーズへ突入、っとある、今後もこの作家の重要作品の盤歴が加えらるということである、っまさかにこれまでに演奏を敬遠されてきた《4・6番》《大地の歌》を含めた全曲録音とまでは成らなかろうが、っこの《5番》の調子で録音が進んでゆくならば、っそれは音盤史上の一極北を示しうる、眞なる一大事業である、



っさて、っお次は日曜、目黒にて坂入健司郎氏公演である、滅多に行かないあの中規模器はぼくもすきなので、ったのしみである、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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藤沢、




井﨑正浩氏2日連続本番、っきょうは戸塚区民オケ公演、演目はシベリウス《春の歌》、ドビュッシー《小スート》、チャイコフスキー《5番》である、

っいつもは大船で公演を有っている同団であるが、っきょうは藤沢で、次回は平塚でとのことである、多摩セン人のぼくにすれば、藤沢は遠かれど往きわるからず、此地はもう15年から20年近くも前にポスティングの仕事で何度か来て、っその後、っなんだか駅近くの貸会議室みたようなところで、佐藤久成氏が最晩年の杉谷昭子女史とご共演されるのを聴きに来た、っその際には宇野さん未亡人も来場されており、合間にすこしく座談があった、っきょうの器は初めて入るが、世になんとか市民会館とかなんとか文化会館という箱物は多々あれど、っあれほど年季の入ったものもなかなか珍しいのではないか、壁から扉から手摺から座席から舞台から、っいちいち古めかしく、藤沢市というのはそんなに財政が苦しいのだろうか、市民一番の公会堂くらい、っこれまでに解体、新設するチャンスはなかったのだろうか、

藤沢市民会館といえば、っなんといってもヤマカズさんの4夜に及ぶモーツァルト、ブラームス、マーラー、メシアンの記念公演であり、っうちいくつかの音源はこんにちでも聴きうる、っきょうじっさいに客席へ坐してみて、嗚呼、この器で遙か往時、もう半世紀近くも以前、ヤマカズさんがあの意慾的の企画をなすったのだな、っとの感慨に堪えなんだ、音が鳴り出してみればとうぜんながらのどんしゃりぐあいであり、こんな器でマーラー《1千人》なんぞを演った日には、およそ音楽的のひびきは得られなかろう、っと微苦笑ものであった、

っさて演奏だが、っざんねんながら2日つづけての大演奏の達成とは問屋が卸さなんだようで、美点は局所へ留まり、全体としては粗い仕上がりである、っこの楽団はいつもそうで、開演から終演までずっと雑然としている、っきのうがそうであるように、っふつう、っあまり腕のないオーケストラであっても、開演からしばらくするとひびきが解れてきて、っまずまず有機的の合奏が得られるものなのだが、っしてみると、彼等は開演時からすでにして全力が出せており、っもとよりあの水準を上へ出られないのであろうか、

っが、井﨑氏はめげずにきのうに倍する熱血の棒を振られ、チャイコフスキーの1、2楽章のともに冒頭附近など、絃のアンサムブルは篤いこころが音へ出ていたものである、



っきのうは往きは吉祥寺から器へ、帰りは器から武蔵境へ歩き、王将へ寄り、滅多に乗らない西武線を咬ませて戻ったが、っきょうも事後、王将へ寄り、狛江試掘の現場仕事に感けて購いそびれていた会社連中へのホワイト・デイのお返しに、鳩サブレーを求む、っきのうの王将は以前にいちどっきり訪れたことがあったが、っきょうのは、っこれまで車窓から見るっきりで、初めて入った、狛江試掘は、最終日へ至ってお役人が喉の不調でご入院されるというトラブルもあり、心配だが、っほかは大過なく済んだ、

っさて、っお次は水曜の仕事のあと、サントリーで早稲田大響の公演で、メインはマーラー《5番》である、っさいきんに気附いて購ったのだが、っもう切符がほんの数枚っきり残っておらず、っおそらくサントリーでは初めて、オルガンの前の席へ坐し、背後からオーケストラを聴く、っそれもまたたのしからずや、

っことしは同曲を聴く機会も頻繁で、っこのほかに小柳英之氏、坂入健司郎氏と、期せずしておふたりともコバケンさん門であるが、当のコバケンさんご自身の演奏も聴く、っほかにもあったかしらん、コバケンさんについては、矢鱈と公演数がおおいにも拘わらずレパートリー僅少の彼氏で、マーラー《5番》程度でさえほとんど実演を望めないのであるが、っまさかにロンドン・フィルとの音盤が出るとはおもわで、っこの仲間たちオケとの公演の切符を購った、っいま、耳で同オケとのベルリオーズ《幻想》を鳴らしながらこれを書いているが、全員がプロフェッショナルではないのだろう同団のアンサムブルは相応に肌理が粗く、タテもわずかに乱れたりしていて、っしかし流石にコバケンさんの意気に感じてときにごく濃密な音色を聴かせたりしており、音質としても、サントリーにしてはどっしりと据わりのよい音に録れているのも好もしく、精妙なロンドン・フィルとのセッション録音には望めない味がするのも事実だ、っこんどのマーラーも音盤にしてしまってくれたいものである、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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吉祥寺、




井﨑正浩氏の棒、Filharmonikus Erdőなる楽団の公演、済む、演目はブラームス《3番》と楽聖《5番》とである、最寄りは三鷹であろうが、京王人のぼくとしては井の頭線で吉祥寺から歩くほうがよい、っが、自由席で、折角に早めに器へ着くも、1階席のみ開放で落膽、

パンフレットを開いて、楽団は井﨑氏と長年の懇意であるICUの学生オケのOB・OG連なのだとわかる、、、っよくない文章だねえ、書き直すのめんどくさいからこのままで、ICUは、学生の意識としても親御の経済力としてもレヴェルの高い大学であるはずだが、学生オケの水準はそれと比例せず、下手くそである、っだから、っそれを母体とするこのオケの合奏能力もある程度は察しが附いたが、っほぼその推察の通りのアンサムブルだ、っけっして上手くはない、

っしかし、井﨑氏はそうした楽団を相手にも恆の通り丁寧にして稠密なる棒をお振りになり、力まない、力めない合奏であるため、和音はいつも清潔であり、個別のエラーは頻発するが、開演からしばらくして熟れてくると、トュッティはなかなか好い音になる、

両曲とも、っすべてのリピートを励行、楽聖では、スケルツォを1度トリオの了わりまで行ってからそっくり主部冒頭へ還り、っもういちどトリオを通って再現というふうである、

ブラームスも堅実、着実な歩みによる好もしい演奏ではあったが、っいまだ、オケの腕に限界があるにしてはそこそこの達成、っという程度の話、眞に勝れていたのは楽聖で、クラッシックの代名詞たるこの曲で、っこれほどフレッシュな感銘を捺さるとは、率直に云って事前にはまるで期待していなんだ、

全編これ、果敢なる表現慾の氾濫、乱れ打ちである、演り古され盡してしまったこの曲へ、っよくぞあそこまでの創意を盛られたものだと、っまことにうれしく、頼もしく観ずる、っそのうちには、記譜には影も形もない表情もひとつやふたつではなかったろうが、知ったことか、演奏者には譜面へ背く資格も権利もあると、っぼくはおもう、

っだいいち、記譜の指定へどの程度、従順であるべきかという問題を、誰しも一概に語りすぎるというのか、誰も眞に眞なる眞剣を有って語らないように、っぼくなどには見受ける、作曲家の指定に忠実でありたい、っというお定まりの科白も、人毎にそこへ籠めたい内容は区々で、っあるは自身の演奏のつまらなさへの惨めたらしい弁明であったり、っまたあるはワガママな表現のまたワガママな正当化であったりする、一字一句まったくおなじ科白がしかしさように眞逆の文意であるかもしれないとしたら、作曲家の指定に忠実でありたい、っこの1文はもはやなんら有意ではない、っそのくらいのこと、演奏家、指揮者諸子には気附いていただきたいものだが、っそういう点で、論理に明敏で、っちゃんと賢い人が、音楽人にはそうおおくはないようである、猫も杓子も、作曲家の指定に忠実でありたい、作曲家の指定に忠実でありたい、、、誰かおひとりくらい、我々はときに極端に穿った譜読みさえ、あくまでも記譜の指定に忠実、との強弁のもとに正当化している、じっさいのところは、少々の、あるは場合によっては相当度に大膽な楽譜への背信行為も、演奏者の責任において許容せられているとかんがえている、っとこのくらいのことを云えないものか、っだってそれがあなた方が日常の演奏活動のなかで行なわれていることの精確な描写なのだから、っそれをあいもかわらず、作曲家の指定に忠実でありたい、っの1言で云いつづけられるとしたら、っぼくからすればひどく隔靴掻痒である、ウソ吐けっ、っとおもってしまうからだ、

っさておき、井﨑氏は、冒頭の運命動機からすでにして、っさいしょは末尾のフェルマータをわりにたっぷり、曲が進むにつれてほとんど無視される、っほんのそれだけでも、っどんなにか聴いていてうれしいか、っその後も、1楽章こそ曲の出来方からいってあまりそういうことをやれないが、2楽章以降では、フレイズを自在に伸縮させられる場面が頻出、強弱の変化も多様ならば、ピキェロの活かし方も無上にたのしく、

要すれば、我々はこの曲を演りすぎたし聴きすぎましたね、っという問題意識が絶えず演奏へ発露しているのだ、っそうした意識の譜読みやじっさいの演奏行為への影響は、っとうぜんにして演奏藝術のうちへ数えらるべきと、っぼくはおもう、っやはりやはり、作曲家の指定に忠実でありたい、っそんな戯言ではとても意を盡せぬほどの複雑微妙の演算を、演るにせよ聴くにせよ、っぼくらは日夜、熟しているはずなのだ、

っこの曲は、井上キーミツが新日本フィル、千葉の子供たちのオケ、大阪フィルとなさるのを聴いた、プロフェッショナルの楽団とのときは、絃を16型になすったり、キーミツなりにいろいろと趣向を凝らされてはいたが、っざんねんながらどの機会でもぼくは、これだと最後の最後にはけっきょくつまらない演奏なんだよな、っとの辛い本音を有った、っほかの誰にも出せない音、っほかの誰にも思い附かない解釋が鳴っていなかったからである、楽聖を演って、べつにこの程度、あなたじゃなくてもほかの誰でも演るよ、っとおもわせたら、っその時点で敗北である、っそのくらい、っきょう日ベートーヴェンはむつかしい、っぼくら世界中の人間が、寄って集ってこの作曲家とその作品とをさようのものにしてしまったのだ、

井﨑氏の表現が他のいっさいへ冠絶したとまでは云う気はない、っけれども、オケは比較にならぬほどキーミツ公演の3団体よりも下手くそだったが、キーミツのどの演奏よりも聴いていてたのしかった、っこれこそが演奏会へ通うよろこびである、オケの巧拙など、完全にではないが、っほとんど問題ではないのだ、偏に指揮者の問題意識である、殊に楽聖を演奏する際にはそうである、まだこんなベートーヴェンが存りえたのかっ、っとのおどろきを與えられなくば、オケが名門だろうが、信じ難いほど巧かろうがなんだろうが、っそんなのはまったく聴いている意味のない公演にっきりならない、

っまったく意表を突かれたが、アンコールはブラームス《ハンガリアン・ダンス》〈4番〉っっっ、っうれしいっっっっっ、打楽器の人数がいると〈6番〉になってしまうのだろうが、っこの楽団はティムパニっきりいらっしゃらないのだろう、曲想は断然〈4番〉のほうが勝れているので、彼等のささやかなメムバー構成に感謝深謝、



っさて、井﨑氏2日連続の本番、っあすは戸塚のオケとの公演、同団もアマチュアとしてさして巧くない部類だが、っきょうにつづく成功となるかどうか、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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神楽坂、




矢来町辺で、Back Boneのライヴ、知己トロムボーン奏者さん、バス・トロムボーンで参加される、狭いレコーディング・スタジオで、若干15席、スイスからのゲスト・プレイヤーのほか、Eギター、ベイス、っおよびドラムスを加え、主催、加藤氏の奥方がヴォーカルを務められるのは恆例、っごく目前での演奏は、凄まじい音圧、

矢来町といえばぼくら落語ファンにとっては亡き志ん朝さんであるが、っじつに、何年か前に新宿区で2、3日、江戸の地下室の調査をした現場のすぐ近くであった、



コバケンさんのロンドン・フィルとのベルリオーズ《幻想》の音盤が出た、っついこないだ、仲間たちオケとの同曲音盤が出たばかりだが、っこれでハンガリー国立響、日本フィル、チェコ・フィル、アーネム・フィルと、っじつに6種もの音盤が揃った、異常な録音歴でいられるが、っゆうべからけさに掛けて、何度も睡落ちしてしまいながら、っどうとか全曲を聴く、

っほとんど抽象化と謂いたいほどに、劇性を敢えて犠牲に供し、音楽的、静的の語りで一貫せられた一種、異様の演奏で、《幻想》という曲を識らない人へこれを聴かせても、味わい方を測り兼ねるかもしれない、史上の一大スペクタクルたるこの曲がしかし、っほとんど静止、硬直せる彫像のごと仕上げられている、

コバケンさんとしても、っかってはあれほどのメリハリの人、歌い方を極度に凝られ、音色を無上に拘泥わられたというのに、っここではそうした壮年の覇気はすでにして遙けく鳴りを潜め、1楽章から、っありとある楽想が等分に扱わる、勢い、っおよそ変化に乏しく、よろしく曲趣を叶える棒ではない、っとクリティカルに聴く向きがあったとして、っなんら不可思議としない、っしかし、偏に小林研一郎という音楽人の来歴という側から聴くならば、っぼくなどは、っあの熱血の押し売りからとうとうここまで脱皮されたいま現在の彼氏の老境の感慨へ、っいたく感じ入らずにいない、

っつづけざまに、同フィルとのマーラー《5番》の音盤も近く発売となる、彼氏のこの曲については、旧い日フィル盤はオケが生硬でまるで話にならない、チェコ・フィル盤は、っほんとうに小林研一郎の棒なのかと訝られるほどの高度の洗練の所産、っしかし、っもっと特有の達成を聴きたいとおもわせるのも事実だ、っこんかいの音盤では、商品説明に依ればかなり遅いテムポが採られているようだが、っおそらくこの《幻想》と同様、っすこしくも慌てず騒がず、曲想間で極端な表情の落差を設けず、っすべての部分を等価として語り抜いた記録であろう、っやはり曲を味わうべき音盤とは云えなかろうが、小林研一郎という人の異様の到達点を示す演奏と成っていることを希む、



っお次はこんどの土日、井﨑正浩氏公演2連チャン、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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ギロッポン、




カーチュン・ウォン氏の棒、日本フィル、マーラー《復活》公演、2日目であったが、、、っいや泣いたねえ、泣きました、っさいきんでも一寸、目頭が熱くなるとか、っほんのぽろっと落泪するとかは何度かあったが、っきょうはもう、両の眼からしっかりたっぷり泪を流して泣きました、

っきょうは1階、7列目右端から1席内側で、開演前は、っあのほぼおなじ視線の高さで周囲へ大勢の人が坐しているかんじがどうとも落ち着かず、っやはり階段状の2階席のほうが安心だなあとおもうが、演奏が始まってみれば、期待に違わず、っすばらしい音の近さ、っいまだ融け合う以前の音を聴くので、ったとえばセロ、バスのユニゾンでも、っうちセロの音が、あ、これは絃バスのでなくセロの音ですね、っとちゃんと聴こえる、っもちろん、っかっての彼等のように、こんな位置へ坐そうものなら目前のヴィオラ連が汚ない音でがりがりやる傍鳴りっきり聴こえない、っという弊など疾くに逃れており、絶えず全体のひびきを聴いていることができる、っただ、生身の人間人間の実在感があまりにも近いので、っぼくはしばしば瞑目して、聴覚へ神経を集中せしめた、眼を開いていたって、っどうせ管打の連中のお姿は誰1人として視えやしないのである、

声楽陣のお声は頭上を通過してしまうだろうかと危ぶむが、っぜんぜんそんなことはなかった、っきのうはソプラノ・ソロの声質にやや抵抗をおぼえたが、っきょうはむしろ彼女、吉田女史がさいしょの静かな復活の合唱から羽搏いてゆかれるところでもう泪腺が弛み始め、っきのう清水女史にエラーのあった、おお、信ぜよ、っの部分もきょうは万全、っつづく、生者必滅、生滅流転の前者を静かに、後者で男声陣が初めて吼え声を上げる段で、彼等はいまだぜんぜん全力を解放していられないというのに、っその覇気に押されてだいぶんこころを揺すぶらる、っそして、死ぬる肚を定めよ、生くるためにこそっ、っのふたたびのシャウトでもう完全にノック・アウト、泪腺は決壊崩壊し、っその後へは件のソリストお2人によるうつくしい重唱が聴かれるのだが、っぼくは俯いて泪を落とし、胸の震えを耐え、彼女たちの唄い姿を観ていることができなんだ、生くるためにこそ死ぬるのだっ、っの部分でようやく濡れた視界へ舞台を映し、全曲はついに大団円へと達する、オルガンが加わり、ソリストもコーラスに唱和し、最大陣容をもって復活が高唱せらる、眼前のオケは見る目に死力を盡していられるが、声楽陣の絶唱がちゃんとそれと並び立っている、文字通り見上げるごとその巨大な音響に圧倒されつ、眞なる満足、眞なる感銘を味わう、

っところで、NHK収録による動画は、ネット上でも視聴可能のようだ、受信契約があればそのまま観られるが、っそれがないぼくの環境では無料のままでは画面へ警告文が出てしまう、っその場合は有料の単品購入で、値段は破格の¥220、2日間のみ視聴可能とのことで、録画できるタイミングで購入せむ、っきのうの清水女史にエラーのあるテイクとなってしまうが、っそれでもたいへんな達成であり、配信開始を鶴首して待つ、

っまた、っせんじつのカーチュン氏の伊福部昭、チャイコフスキー、ムソルグスキー公演の動画を録画したが、っこんかいのものはソース自身の音量レヴェルがだいぶん低く、っいったん録ったままの音声をiTunesで100%増幅してiPhoneへ同期してみるが、音へまったくパンチが足りない、っやむなく編集ソフトでゲインを上げるが、使っているソフトで2へ上げても4へ上げても6へ上げても満足がゆかず、っけっきょく10も上げてようやく他の音源と同等程度の音量音圧となる、



っさてあすは、知己トロムボーン奏者さんの参加されるライヴ、閉店してしまった新宿のインド・カレー屋でのときはトロムボーンのみのアンサムブルで、クラッシックな演目を中心になすっていたが、っこんかいはパーカッション等の加わるバンド・スタイルとのこと、クラッシック畑の彼氏はいろいろとご苦労されているらしい、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

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ギロッポン、




カーチュン・ウォン氏の棒、吉田珠代女史のソプラノ、清水華澄女史のアルト、東京音大のコーラス、日本フィル公演、済む、演目はマーラー《復活》である、

っやはり、NHKによる収録があった、TVがなくともその放送をネット上で単品で視聴することはできないのかなあ、ったぶんできないんだろうなあ、惜しい、

っきょうは下はヒートテックを穿いているが、っまたしくじって、カッフェでアイス・コーフィーを飲んでしまい、っそこでは駐車場の90分無料のタイム・リミットぎりぎりだったので退店時に小用へ寄らずに、っそわそわしながら麻布を歩って、階上庭園での喫煙前に手洗いへ駈け込み、念のため、開演前にももういちど器内の手洗いへ寄っておいた、っなにしろ休憩なしの80分通奏である、

果たして、豊富至極のアイディアがしかし骨太で健康な造形の裡に精緻かつ自然に集積せる、っいつものカーチュン氏の姿であられ、演目が演目だけに、指揮者、オケともども、大変な集中力が全曲を一貫していた、

っあれは、記譜の音型はこうだが、それをしかじかに崩して奏せよ、っとかと作家自身の但し書きがどれかの版には書してあるのだろうか、身を斬り刻む高絃のトレモロに応ずる低絃の全曲冒頭主題は、ったまに誰かの指揮者から聴くことのある、敢えてたどたどしさを演出する唄い方で、っもうおもしろい、以前にも云っていたことだが、っこの曲は、っわりに誰が振ってもちゃんとした演奏に成るは成るが、っよくもわるくも、概観としてそう大差のない造形に落着し勝ちで、っために、指揮者の解釋の妙を当てにして聴くとぞんがい、鳴っている音としては立派ではあったが、さしておもしろくはなかった、っという贅沢な落胆が後へ遺らないとしない、っそれが、乗っけからさように、一筋縄でいってたまるかっ、っと喧嘩を売ってくれると、っこちとらとしても、おうよっ、購おうじゃないの、その喧嘩っ、っと俄然やる気になる、演奏会の客席へいて、っあれほどこころ躍る瞬間もない、っのち、大膽にも細心にも、カーチュン氏の表現は咲き乱れるが、っそれでいて、そうだっ、ぼくらは《復活》という楽曲をかく聴きたいのだっ、っというツボをびしばし当ててくれる頼もしさ、っときに突っ込んだ譜読みがあっても、彼氏の演奏は絶えず全体の響が構築的たることを止めないので、っどこか有無も云えずに連れてゆかるような特有の快感がある、っどの表情も、っきっぱりと竹を割ったように吹っ切れているし、っそれらは絶えず全体を構成する部品部品として機能しつづけるのである、

2、3楽章も、っあれだけあれやこれやと楽想楽想、楽器楽器が犇き合うのに、っそれ故にと云うべきなのか、っやはり演奏毎の差が出づらい曲趣におもうが、カーチュン氏の車輪は、っみごとその轍を外れて転がる、っほんのすこしく外してくれるだけでも、っどんなにかこちとらの耳へうれしいか、前者では、通例、楽章のどの部分で現れる際にもみじかめに奏さる絃のアルコの動機を個所によってレガートへ寄せ、和声の色が人の心裡へ棲まう魔性を誘き出すごとくで、聴いていてじつにぎょっとさせらる、

〈原光〉の清水女史は、っもとよりこの曲のソロをさように捉えていられるのだろうか、カーチュン氏の求めに応ぜられた表現でいらしたのか、っわからないが、深刻な発声、音色を避け、っあかるく寛いだムードを醸さむとされており、っこれにも膝を打つ、暗く曇った声を出さむ出さむとするアルトは、っぼくは大の苦手である、っただ、っまことにざんねんなのは、っつづくフィナーレの、おお、信ぜよ、っの部分の中途で、1拍前へ倒れてしまわれるエラーがあった、オケ、声楽を通じて、目立つ失態はここくらいである、っご当人としてもさぞかし痛恨、遺憾であろう、

ソプラノの吉田女史は、っそうだなあ、っぼくとしてもっと清涼で細い描線を事とするキャラクターを望みたい気がせぬでもなかったが、っまあ慾を云えばというところ、

東京音大のコーラスはすばらしかった、アルト・ソロと同断で、っやはり恆にぱあっとあかるく開いた発色がこころ掛けられており、っそこへ青年の声帯にっきり具現しえぬ若やいだ気風が薫っている点も、カーチュン氏の楽隊としてまさに相応わしい、

大団円では、っこの曲では鳴っているのかいないのかよーわからんオルガンが、っしかし全堂を震撼せしめる重低音を轟かせ、日フィルも全員が全霊を振り絞るられるが、カーチュン氏のみごとな強弱の操作もあり、っちゃんとコーラスと並び立って聴こえた、



っあすは久しく坐らないここの1階、っけっこう前の方である、っしかし、っいつもより直接音直接音した日フィルの聴こえ方に対して、期待はおおきく募る、ったのしみだ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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ギロッポン現着、




今週から狛江の試掘で、来週いっぱいくらいの予定だが、工程上、1日に進められる作業が限られており、っきのうもきょうも14時すぎくらいまでで終業す、っきょうは、作業中にやんちゃオペさんから入電し、っうちの現場で有っていたフレコン・バッグ、、、っいわゆる1t土嚢の束を、世田谷の別の現場で慾しいとのことで、取りに行きますよ、っと云わるが、15時前後になってもよいのであれば、こちらから持って行きますよ、っと云い、現に14時ころ放免となったので、現場で私服へ着替え、世田谷へ移動、っぼくが駐車したのを見て階段上の現場から自-自先輩が降りて来られ、資材を渡す、冷やかしていきたかったが、メムバーを訊くと、んっ、その人に私服姿は見られないほうがよいかな、っと懸念せられ、っそそくさと辞去す、っただ、予約した駐車場は時間が18時からで、っまだ早かったので、カッフェを検索して寄り、1時間半ほど潰していて、麻布辺まで来て停む、器まで歩って15分程度である、

来週の現場の資材撤収は、土曜っきり必要人員の身体が空かないのでその日を稼働せよ、っと人足人事ボスから云わるが、っその日は井﨑正浩氏の公演なので、諦めざるをえないか、っと落胆していたところ、っきょう社長より入電し、金曜にどうとかやりくりをつけたから、っと云ってくれ、っありがたい、

っところで、っきょうあすのこのカーチュン氏公演は、tvuchによる動画配信がないようだ、過去の日本フィル公演では、音盤の音源収録があり、事後、現に音盤が発売せられたばあいでも、同媒体による配信も並行して為されたことがあった、っしてみると、今公演は、TV局による放送のための収録があり、っそれで他媒体は締め出されているのだろうか、っいま門前を通過して階上庭園へ上がって来たが、っそこで入場者の列の撮影が行なわれていたから、ったぶんそうだ、っこちとら室へTVを有たないので、放送よりも配信のほうが有難いのだが、

っさておき、、、っや、っなんか緊張してきましたねえ、っきょうは2階席、っあすは1階席、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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蒲田、




村上史昂氏の棒、Kプレミアム・オケなる団体の公演、済む、演目は、モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》とヴェルディ《シチリア島晩課》との両序曲と、マーラー《巨人》とである、

っきょうは社用車で川崎まで来て、停め馴れた格安¥350の駐車場を利用し、車へママ・チャリを積んで来ていて、降ろして㐧1京浜を北上、多摩川を渡って蒲田まで30分弱、器へ着くと、っぞろぞろと建物の外まで行列している、無料だが指定席のはずなのに、っとおもうが、喫煙するうちに解消するだろうとおもっているとむしろさらに長蛇の列となり、最後尾の看板を持った女の子へ、開演に間に合うのか、っとかと文句を云っているおっちゃんもいた、

っもぎりまで来てみると、2列で捌いており、人によっては電子テケツの読み込みがうまくゆかずに時間を要したのかもしれない、

オケは、慶應系列の学生の団体らしく、っいったい慶應だけでいくつの楽団を有っているのか、テクニークとしては、絃が音量、風圧を出せないよくあるアマチュアの水準で、モーツァルトは瘠せており、鋭い音を発しえないので、柔和な楽想との間にコントラストが附かない、ヴェルディになると、っよりおおきなクレッシェンドもあり、打楽器群を交えることもあり、っまずまず迫力の不足が補われはする、っただ、入れたくとも力の入らない音量感のため、音色が濁ることはなく、清澄な和音の連なりが感得せられるのも事実だ、

っよのなかには、音楽の成立要件としてこの和声感を重視する人もすくなくないようで、、、っとうぜんだが、っしかし、っどうもその人たちのなかには、ではフレイジング、アルティキュレイションはどうなのさ、声部間のバランスはどうなのさ、テムポ操作はどうなのさ、っはたまた、どこかごくごく細部、たとえばほんの1音でさえも、あの音でもその音でもどの音でもなく、ぜったいにぜったいにぜったいにこの音でなければならないっっっ、というこだわりをいったい有たないのか、っとこちとらをして疑問を懐かしめる人種がいるようだ、そんな細部なんかどうでも、ずっと和音が鳴っていて、その変転が聴き分けられさえすれば、それでもうおおきに音楽体験ですよ、っとでもいうような、っぼくにすれば、っそれだけではやはり音楽を満腹満足まで聴いたという気はせず、えっ、そこでそんな音が出るの、出せるのっっ、どうしてこの人ここでこんな音が必要だと信じて音楽やってんのっっっ、っという驚異が、っないよりはあってくれるほうがよい、っや、っぜったいにあってくれたい、

棒の村上氏はしかし、っそんなエクスセントリズムの気味はいささかも頼まれないで、っどの曲もスタティックに捌いてゆかれる、っよく神経が通っているため、弱音部など、腕の足りないオケにとってはかえってシヴィアな棒と云え、前半を聴くかぎり、この合奏能力でマーラーはキツいな、っと懸念せらる、っが、当の《巨人》が始まっても村上氏の造形に妥協はなく、静かに視界を拡げてゆくその1楽章の序奏は、っどうしたことか、清潔で、各楽器の強弱、音色、質感がみな快く、っもちろん個別のエラーはあるが、っぞんがいわるくない、

っその後の同章主部も、2楽章も3楽章も、っとくべつに傑出した名場面はまるで望めないものの、っさりとて嫌なところがひとつもない、っまずは聴く者へなんらの抵抗も感ぜしめない概観が、絶えず鳴りつづけている、

っそしてフィナーレは、っここまで来れば流石にオケもまずまずの発奮を示し、中規模器全体がちょうど飽和する最強音が出る、っそれこそ、音圧が上がっても和音の色が見渡せる快い合奏であり、予期したよりはずっと好印象の聴後感を得たのであった、



っなるほど社長も慧眼でいられ、ったしかに火曜のほうがまだしも好天という傾きになってきた、っただ、っこんどは翌水曜の予報が芳しくない、っとりあえず火曜にバリケイド設営のみを行ない、木曜から仕切り直しか、降雪、積雪のみが心配だ、

っさて、っこんどは金曜よる、カーチュン・ウォン氏と日本フィルとのマーラー《復活》である、っこれのライヴ配信、アルヒーフ化はないのかなあ、っいまのところ広告せられていないが、っあるはずだろう、

っそうだ、早速にきのうの公演の配信をiPhoneで撮っていて、っまたも睡るのがけさの5時だか6時だかになってしまう、、、っいちど全編を撮ったのだが、っなんだか保存がうまくゆかずに再生不能で、っまた頭っからぜんぶ撮り直していたのだ、っべつにきょう以降またゆっくり撮ればよいのだが、っきのうの段階では、っそれからけさもまだそうだったが、未編集のライヴ配信動画そのままの状態で、っこれから編集を經ると、ったとえばソリスト・アンコールがカットせられるとか、っそういうことがあるかもしらんとおもったので、っま、ソリストのは、っあれバッハかなにかかなあ、バロックだったから、権利上の問題はなく、カットせられないとはおもうが、っそのほかにも、テューニングの場面とか、っああいうのもぼくはすきで、っそれで生動画のうちにぜんぶ撮ってしまいたかった、

っいまでもめぼしい音盤は購うし、っこの日フィル公演群のうちどれか演目が音盤化せられてもそれはおなじだが、音盤のばあい、2時間の公演のメイン演目っきり望みえないのがざんねんで、っその点、演奏会全編の配信はほんとうにうれしい、っしかも、音盤が1枚¥2、3千もするところ、っこのtvuchの動画は¥1千ぽっきりである、っただ、カメラ・ワークはいまだよちよち歩きで、ったいてい、目立つ楽器が鳴り始めてから後を追うようにその声部を撮っているカメラへスウィッチングする、っというぐあいだ、YouTubeへ上がっている各国各楽団の演奏会の動画では、っずいぶんと凝った撮り方、コマ割りのものもすくなくない、我が方も、ただ演奏会を動画へ収めました、ちゃんちゃん、っで終わらずに、撮り手の楽曲への解釋が伝わるばかり、突っ込んだ映像制作を志向する媒体が現れてくれたいものである、

っまだ川崎、ハイ・エイスの中、っこれから帰ります、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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ギロッポン、




カーチュン・ウォン氏の棒、日本フィル公演、済む、事後は、会社で使っているHDDがぱんぱんで、經費で購いたいのと、王将のスタムプ・カードが、っことしは75個を貯めて10%引き会員カード発行というのがあり、っそんなに貯めているうちに50個で7%引きだかなんだかもっとグレイドの低いカードに換えてしまうほうが、トータルで得をするのではないかとおもうくらいだが、独り身の食事では一向に貯まらなくて、有楽町の同店へ寄りたいというのもあり、っその辺まで歩く、有楽町のJRガード下の同店は、王将のくせにしてと敢えて云いたいが、ミョーにお高くとまりやがって他店では置いていない創作料理然たるものを置いており、単価も高く、ビールもスーパー・ドライ以外にペローニとかシャンディガフとかを置いている、っしかも、他店では生はもちろんジョッキだが、っここではグラスである、っほんとうに、王将のくせにしやがってだが、生もサーヴァーが他店より勝れものを使っているのか、泡の肌理が細かいのがまた憎い、

有楽町の家電量販店へ寄る前、っもう虎ノ門から山手線へ当たる手前まで来て、っぼくとしたことが、っこの近所を歩きながら陛下へ挨拶申すことを失念するという大失態で、慌てて踵を返して日比谷から馬場先門、宮城前広場まで往って90度に腰を折って遙拝、引っ返してHDDを購い、っいま食事中、生を3杯呑んだ、ったぶん1人して¥4千を超えるかとおもう、

週明けは狛江の廃校になった小学校のグラウンドの端を試掘、グラウンドは市民に開放せられているため、調査個所をB型バリケイドでL字に囲わねばならず、っきょうはやんちゃオペさんの殺されてしまった奥さんのお兄さんに4tユニック車で聖蹟別棟へ来ていただき、資材の積み込み、っあらかた積むとお義兄さんが、ラチェット・バンドが2本慾しいと云われ、1本は用意してあったが、っもう1本となると聖蹟本棟まで取りに往かねばならず、車で出て、出る途端に社長から入電、路駐して掛け直すに、月曜は雨ないし雪だから火曜に順延せよ、っと云わる、っいったんは諒解したが、バンドを取って別棟へ戻り、自分で調べると、月曜が本降りとしているところと火曜というところとに分かれている、Yahoo!は後者だったが、社長曰く、Yahoo!は当たんないよ、っとのことで、っどうしても火曜へ順延にせよと云って聞かれない、詮なくやんちゃオペさんへその旨、連絡すると、彼氏もより降水確率の高いのは火曜とおもっていられ、月曜荒天決行のほうが都合がよいらしく、自分からも掛け合ってみますよ、っと電話を切られるが、っすぐさま、やっぱダメっすね、火曜がいいみたいっす、っと折り返しがあり、火曜作業開始とあいなる、っもう狛江お役人へも月曜荒天決行だと伝えてしまってあったので、っきょうはお休みの可能性もあるのでSMSで月曜作業中止、火曜開始の旨、書き送るとすぐに入電し、周りががやがやしていたのできょうはご出勤でいられたようだが、事情を説明申し上げると、いや私が調べても火曜のほうが本降りみたいなんですがね、ま、社長が云うなら仕方ないですが、っと火曜への順延をご諒解いただく、人足の方々へも連絡せねばならず、各位へSMSを書き送るうち、午休憩の鐘が鳴り、着替えて退勤、多摩センから小田急、千代田線で赤坂、歩って器まで、

っまいとしのことながら、花粉はツラい、っけさも戸外で積み込み作業をしながらときに嚔が止まらず、っお義兄さんからも、花粉症っすか、っと云わるが、っしかし嚔は出どもいつもみたように鼻腔内が洟でぐじゅんぐじゅんになるかんじはしないので、っいまだ抗アレルギー薬は購わずにおいた、っただ、演奏会の器の中であれば、っほんのかすかな眼の痒みや鼻の不調さえ抑えたく、っやむなく、赤坂から六本木通りへ当たったところへあるドラッグ・ストアで求む、去年使っていたのとおなじものをレジスターへ持ってゆくと、薬剤師の方から成分はおなじでより安価のものがあると勧められ、っそちらを購う、早速に服んで会場入りするが、っぼくは生来、鼻がよわいのでその不調は抑え切れないが、っすくなくも眼の痒みはぴたっと止まる、っそれだけでもどんなにか有難いか、っお蔭で、演奏中は2時間、微動だにせずいられ、静穏を保つことができた、っいま19時半すぎ、1錠服んでから6時間ほど經ち、新宿で中央線から京王へ乗り換ゆが、っまだ眼も大丈夫ならば鼻も決壊しない、

っこの世話になり出したのは、っほんの3、4年前からだ、っそれまでの約40年間は、人間の身体というのはさようの一個の運命なのだから、薬に助けてもらえば不愉快を減じられるなどというのは、人生に対する背信行為だ、っというあほ運命論者であったもので、っしかしその人生も年寄らば妥協の連続であるのもまた道理、っいまはまことに情けなくも、文明の利器ならば用いない手はない、っというくらいの諦めはついている、っこの調子で蓄膿の手術もしたら、40年間ただのいちども經験したことのない、っすっきりと鼻の抜けている身体も手に入れらるものなのかなあ、、、っしかしそうだとして、っやはりやはり、っそんなものはもはや俺の人生でないし俺の運命でないという気がするから、鼻の詰まった身体のまま、40年間生きてきた、40年間いちどもほんとうの鼻呼吸をしたことがないし、っものの匂いもよくわからない、油性マジックを鼻先へ近附けて、懸命に空気を吸い込んでやっとすこしくシンナー臭がするくらいだ、っだからぼくは、近くで、え、なになにの匂いがしないか、っとかと誰かに云わると、っじつに冷汗を掻く、っぼくにはその匂いはぜんぜんわからないからだ、っよのなかには匂いがわからずに生きている人がいるとおもったら、っぜひに、っなにかの匂いがするとかしないとかということを、っそう安易に口外しないように、っぼくは世の人すべてに伏して願いたい、煙草を服むのも、っいつかに仕事の同輩から、私もむかし蓄膿だったが、煙草を服むようになってからすっかり治った、っと聞かされたそのことばに縋るような気持ちからのようにもおもうが、っざんねんながらぼくのばあい、っずっと服んでいてもぜんぜんよくなりはしない、煙草の味だってほんとうにわかっていると云えるのかどうか、

っぼくは将来、っなにか重い病気へでも罹ったら、っとくに治療はしないで死んでゆこうかとおもわないでもない、折角に神さんが死ぬるチャンスをお與えなのに、っそれへ医学の世話になって抗するというのは、っなにか本質的の愚行なのではないか、っひとたび男へ産まれたる者として、潔く死にたいものである、病気へなったら医者へ掛かるということへほんの一片の疑りとて入れないというのは、人間への人生への運命への、っどこか決定的の誤解であるようにおもう、人間とはそんなに偉くはないと確認するのに、死ぬ病気ではあっさり死んでおくというのは、っじつに得策であるかもしれない、治療で永らえ、っために人生を誤解するよりかは、、、っお医者のかたがた、っまことにすみません、っあなたがたを否定する気は毛頭ありません、っが、っぼくの人生もこの先さらなる妥協が進み、っもしか掛かりつけ医を有つとしたならば、助からない病気へなったら死ぬるのは人間にとりがんらい自然なことだ、ま、敢えて救えと云わるならば善処しないこともないが、っというくらいの構えでいられるお医者へ巡り合いたいものだ、っすくなくも、患者を救うことへ篤い使命感を懐き、ゆたかな自己満悦をおぼえている、っなぞいう人よりかは、

三鷹の試掘4件分の校了を得たので、っきのうは紙出力、デイタのDVD焼きをしていて、資材の購い出しへ行きたかったが、ホーム・センターが閉まる時間までにその作業が済まず、近来、別棟へ新設のそのまた別棟プレハブへいまだお残りだった黙々先輩へ、購いものへ行って戻ります、いったんあちら、、、別棟のことだが、鍵しめて行きます、っと云い置いて外出、21時すぎころ戻ると先輩はもう退勤されており、っそこからまだ22時半すぎまで掛かってようやっとすべての成果物を揃ゆ、社用車で退勤し、パーキングへ停めて23時すぎにLO間近、新宅から目の前のファミ・レスへ入る、っきょう演奏会なので、っしっかりと睡ておきたかったのだが、っやっとベッドへ倒れたのは2時か3時か、

っが、3曲ともよく識っている曲ということもあり、っさいわいにして睡魔とは無縁に2時間、聴いていられた、演目は、伊福部昭《日本組曲》、小林美樹女史を招いてチャイコフスキーのコンチェルト、、、っいつものことだが、小林女史をヴァイオリニストとご存知の向きを相手にここでチャイコフスキー《Vnコンチェルト》と書いてしまうと、頭痛が痛いというのとおなじ、トートロジーとなってしまう、っそれでチャイコフスキーのコンチェルトとっきり書かなんだ、トートロジーを嫌うのはあほな論理癖たる男の習性だが、悪気もないのにどうも男から苛々されるという女性は、っご自身の言動がしばしばトートロジックではないかと一顧されるのもわるくはない、っとまれ、メインはラヴェル編のムソルグスキー《展覧会の画》である、

伊福部は泥臭い味が慾しいとおもうが、っまずカーチュン氏にはそれは希みえない、案の定、㐧1曲からすっきりとしているが、っあいかわらずの日フィルの秀抜なるアンサムブルと、太陽の人、カーチュン氏の健康美とが早くも燦然と耀き、どっしりとした足取りの重さなどは求めずに聴かむ、っとおもい直す、っそれでも、終曲あたりもっと喰い附くごと嚙み附くごとくどいアクセントの連続が恋しかったが、カーチュン氏は反対に終局へ向けてサディスティックのまでにアクセルを踏んでゆかれる解釋、

コンチェルトも、オケはずいぶん大人しく、っもちろんカーチュン氏がさように抑えていられるのだが、佐藤/宇野/仙台フィル音盤の史上空前の濃厚濃密を愛するぼくとして、っわりに苦労して美点を探しつ聴いたものだ、小林女史は、近年の有能を競うヴァイオリニストのご多分に漏れず、っがりがりいうワイルドな音はほんのいちどもお遣いにならずに全曲を踏破され、滑らかなることこの上がないし、っほとんどチェムバーの閾とすべき細心の日フィルの合奏に、っこちとら舌を巻かずにいないのも紛う方なき事実である、

ムソルグスキーとなって、カーチュン氏もようやく牙を剝いてこらる、オットー氏の余裕綽々の〈プロムナード〉に始まると、途中、信末氏以下、ホルン群の対位をごつごつと強調されるたのしさ、〈侏儒〉へ遷移すると、シロフォンを伴なうふたつめのテーマのリズムをすこしく改変、っはじめ、弾き損じかと聴き紛うが、終結の走句でもおなじように頭の音を蹴躓くように音価を長く取っていられたから、意図した表現である、っうれしいワガママだ、

っそれにしても、チャイコフスキーでもそうだが、っそのフィナーレの、っあれは㐧3テーマなのか、㐧2テーマ中の副次的の主題なのかな、モルへ変じて木管4声が順に歌う、提示と再現とで装飾音の附く位置がずれるあれ、っあれなどを聴いていると、日フィルはその4楽器がいったいなんと互いにこころを通わせ合い、音色を研き合う切磋琢磨をつよくつよく実感せしめることか、他の在京の楽団だと、っどこかしらなにかしら、え、先行する楽器は折角にあんなにもゆたかな音色でバトンを渡してくれたというのに、どうしてそれを享けるあなたはそんな素っ気ない音でっきり吹かないのさ、っという不首尾をおもわせるものだ、日フィルはさように、精妙の裡にも昔気質の人情を垣間見せる、っじつに人間臭い合奏であることだ、

ムソルグスキーで楽器が殖えても、コール・アングレといいバス・クラリネットといい、っそれへ水を差さないどころか、っなおいっそう、音の桃源郷へ聴くごと綾また綾である、

っただ、特殊楽器は、アルト・サックスはまだしも、〈ブィドロ〉の主題は、ユーフォではなくテューバで、トラだろうか、若い奏者でいられたが、っこの練達の日フィルへ立ち混ざるにはいささか腕に不足ありで、ハイ・トーンが定まってひっくり返っていられたのはいただけない、緊張されたのかもしれない、っまさかにこれまで、重たい転がりの牛車のその牛の喘声を模さむとするカーチュン氏の表現として、っわざと音をひっくり返させていられたのではあるまい、っそのくらい、っぜんぶひっくり返ってしまっていた、

〈キエフ大門〉は、っきらきらと〈プロムナード〉主題を回想するあたりから幕切れまでが、っまさしく出色、っほんものの鐘たるテューブラーのみならず、カーチュン氏は裏拍のホルンやバス・クラリネットへ、スタッカーティッシモというのか、っみじかくぴたっと停める音を求められ、っそれまで鐘の音に聴こえる錯覚、同曲主題の再現へ至ると、っはじめ、っぎりぎりのところで管打の音圧を頼まずに絃の刻みを効かせ、新鮮な葉野菜の球を割るごと瑞々しさ、っそこから終局へ向けてどんどん歩幅を広め、っついには、っほんとうに巨大な門の鐘楼ががらんがらんと鳴り渡る様を幻に視るようであった、ラヴェルという媒介者を挿んでいるとはいえ、っまこと、夭折のハルトマンへのムソルグスキーの弔意と、っそれ以上に触発せられたる彼氏の創意のありったけの発散で、っなんだかさいきん泪脆いのは花粉のせいだろうか、っこんな通俗名曲で、っぼくはまたも目頭を熱くしながら聴き了ゆ、原画自身は、ったしかそんなにでかでかとした画面ではないはずで、っほんの壁掛けのアイディア・スケッチといったものだろう、っそこからこんな誇大な音絵巻と結實するとは、音楽のみに成しうる勝利である、

同フィルの動画配信があるのは定期のみかとおもっていたら、今公演も配信せらる、恆例の九州楽旅からの凱旋公演だから、っということかもしれないが、っいずれ、っうれしい、っまた録画しておかむ、っそして来週は、っいよいよ同コムビのマーラー《復活》である、



っさてあすは、蒲田にてアマチュアの公演、ったしか同《巨人》がメインである、、、薬が切れてきたらしく、っさっきから洟が出てかなわん、っいままだ多摩センの喫煙スペイス、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




初台、




川瀬賢太郎氏の棒、名古屋フィル東京遠征公演、済む、演目はマーラー《トラギッシェ》1曲で、20:45ころハネ、これなら王将へ寄れる、っとおもう、退出して歩きつ地図アプリケイションで調べると、同店は22時まで営業だとあるが、変更になったのか、っと訝る、以前はたしか21:30までで、っこの器で夜公演の際は終演後には寄れないかとざんねんにおもった記憶があった、っが、っさっき寄るに、ったぶん21:15ころにLOだが追加註文はないかと訊かれたので、っやはり終業は21:30で、iPhoneの地図アプリの情報は誤りだ、王将はどの店舗でも終業15分前にLOなのである、

本邦の地方の楽団は、大半が年に1度の東京遠征公演を行なっているとおもうが、っこないだの札響といいこんやの名フィルといい、っじつに愕くべき精緻なアンサムブルで、っきょう日、東京の楽団もぜんぜんうかうかしていられない、っというよりも、率直に云って、っそれらに敗けている団体もひとつやふたつではない、っこないだここで聴いた東京シティ・フィルの同《夜歌》など、楽団の到達している次元として、っわるいがこんやの名フィルに較ぶべくもない、段違いとはこのことだ、

川瀬氏と同フィルとのマーラーは、本拠での《5番》の動画を購入して録画したが、っそこでの演奏は、同様にみごとな合奏ではあるものの、全体の造形としてはやや喰い足らず、っこないだ、上体逆三角形みたようなカッコいいアンサムブルで聴くこの曲なぞつまらない、式のことを云ったが、っそのときにぼくが念頭へおもっている演奏の性格性質とは、っじつにかようのものである、っだから、っじつはきょうもぼくは、っさして高い期待を有たずに来場したのであったが、

初台は、席数がやや少ないから床面積は比較的に狭く、っしかし天井が遠く高く、っひじょうによくひびくことで知られるが、っその器にしてマーラー《トラギッシェ》とは、楽員楽員が登壇され、舞台狭しとぎゅうぎゅうぐぃっちぐぃちに居並んだ様を見ている演奏開始前には、ぼわんぼわんに飽和してしまって音楽的の感銘がまるで得られないのではないか、っと危ぶむ、っするところ、音が鳴り出すと、っやはり名フィルはすばらしくスマートで清潔な合奏であり、駄目を押さない音量と音圧とで、完全にこの器の特性を味方へ附ける、種類、数ともに厖大な楽器楽器はしかし、っどれひとつとして我勝ちのスタンド・プレイへ走ったりせず、絶えず和声という和声が薫り、主旋からありとある対位、各種打楽器やハープ、チェレスタの特殊楽器に至るまですべてが曇りなく聴こえ、各楽器固有の音色が恆に余さず効果を上げ、及び難い解像度で曲想曲趣を洗い出してゆく、

1楽章こそ、醒めた悪印象というほどではないが、音色を濁したり造形を乱したりせぬまでも、いますこしく深く突っ込んだ表現をしないか、っとこちとらとてもやや醒めた鑑賞態度へ留まったが、アンダンテ、スケルツォの演奏順の中間楽章を辿るうち、滑らかな絹漉しの音の耳当たりは、実在の楽器楽器の現実の物理音物理音とは信じ難いほどのクリア・カットを具現、音楽を聴くというよりは、っほとんど魔法夢幻を目の当たり視るようで、もうこれはかかる演奏の性格の勝利なのだ、っとうんと唸り、納得させられずにいない、

川瀬氏の譜読みも、後半楽章へゆくほどにじつにスコアを貫ぬくばかり鋭く、個所によってはほとんど1小節1小節毎に、歌い方から強弱から音色からバランスからぜんぶ定めてありますっ、っという徹底ぶりで、っじつに丁寧至極だが、っにも拘わらず、名フィルのその洗練の極をゆく合奏によって、っくわっちこちに表現を固めすぎてある演奏の與える気詰まりというものは、っほんのすこしくもせなんだ、終演して歓呼に応えられる彼氏の表情には、不遜なふてぶてしさなど微塵もなかった、っけれども、これほど鍛錬せられたアンサムブルとこれほど細を穿った表現とをもってしてもいまだご満足いただけないとしたら、俺にはもはや指揮者として為すべき仕事のひとつだにない、っというだけの自信はたしかに顕われていた、っそしてぼくはその彼氏の表情に対し、そうだとも、ここまでの演奏はそうおいそれとは達せられない、まことに立派な成果精華だったとも、っとのはげしい同意と畏敬とをおぼえたのだった、

川瀬賢太郎、っすばらしい仕事人である、



っさて、っこんどは土曜、午前のみ仕事をし、午后はサントリーにてカーチュン・ウォン氏と日本フィルとの公演である、プロは伊福部昭《日本組曲》を含むが、必ずや勝れた演奏を見舞わるだろう、

川瀬氏に敗けるなっ、カーチュンっ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)