坂入健司郎氏の棒、新響の記念公演、済む、演目は、石丸由佳女史を招いて、同響創立者の芥川也寸志氏がサントリー開館のために書かれたというオルガンをフィーチャーした《響》という曲に始まる、芥川氏はことしでご生誕100年とのことである、っのち、松田華音女史を招いてシチェドリン《2番》コンチェルト、っそしてショスタコーヴィチ《4番》である、シチェドリンは当初、本邦初演と銘打たれたが、っその後きょうまでに、往時、スヴェトラーノフ氏が彼の地の楽団を連れて来日された際に演奏せられていることが判明したという、っそれにしても、日本でわずか2度目に鳴る機会であったわけである、
18時開演のため、っきょうは午前のみ仕事をする心算だったが、例によって折悪しくゆうべが洗濯機を回すタイミングで、っまた干すのが億劫で椅子へ坐したまま5時すぎまで惰眠へ暮れていて、アラームを掛けずにベッドへ倒れ、洗濯物を干してまだ出勤へ間に合う時間に起きられたらそうせむとおもうが、敢えなく起きて10時前で、っのんびり干し、録画したヤノフスキ氏のN響との楽聖《ミサ・ソレムニス》や、単品購入してやはり録画したラトル氏の去年のNHK音楽祭におくバイエルン放響とのマーラー《夜歌》動画から音声を抜き、購って届いたコバケンさんのロンドン・フィルとの同《巨人》、アルミンク氏の広響とのシュトラウス《アルペン》、復刻せられたマタチッチ/N響のヴァグナー・アーベント、加耒徹氏のシューマンの歌曲各音盤をPCで吸い、っのこらずiPhoneへ同期してから出掛けてくる、っそれでもまだ玄関を出たのは13時すぎであり、住民票が要ったので駅の出張所で発行していただき、っもとより午前を仕事へ充てた場合でも器へ出向く前に靖國と千鳥ヶ淵とを詣でるはずにしてあったので、っさようにす、
っしっかし、暑っ、亡くなった母方の祖父の形見分けに貰ったループ・タイを締めてヤッケを羽織って玄関を出るが、うわっ、ダメだわっ、っとすぐにヤッケを脱ぎ、背嚢へ突っ込んでシャツの腕を捲り、駅までチャリンコで走る、靖國、千鳥ヶ淵もその格好で額へ汗を発しつ周り、16時ころ、開場は17時で、器では記念冊子等の物販が為される旨、楽団からメイルが届いていたため、指定席ではあるが、開場とともに入場するがよかろうと、っしかし千鳥ヶ淵からサントリーまでは、歩って小1時間と量られ、散歩することとす、っその時点で、っいつもの高いイタリィの革靴は足に痛かったのだが、
半蔵門から国会前、首相官邸の方へ折れ、溜池まで、っやはりそのくらいの所要時間だったが、っなるがたけ陽蔭を撰って歩く、
っいつもの通り器の階上庭園の隅っこでこそこそシガレットを2、3本服み、、、ったまに警備員の方が通られると叱られる、っきょうは来られなんだが、降りて同器開場時の門扉頭上の機械仕掛けオルガンを見物し、入場して、果たして冊子3種をよろしく入手す、開場直後、っいまだ閑散とせる場内を自席まで行き、プログラムを読んだら開演までにいまいちど喫煙へ立つかとおもっているも、っぞんがい詳細な解説と、記念公演とあって楽員の方の座談の文字起こしや芥川氏の語録など載っており、読み了えてもうその時間はなかった、
芥川氏の言には惹かれるところがいくつもあった、っまず、新響の楽団名の表記にあたっては、っかならず肩のところへ小さくアマチュア・オーケストラと断られたいとのことで、ったしかに、同響のロゴには漏れなくそう書されている、っそして以下、
>下手でいいのではなく、やはり、断じてうまくなくてはいけない
あるいは、うまくならなくてはいけない
あるいは、うまくなろうとしなくてはいけない
っまことすべてアマチュア諸子が肝へ銘ずべき至言であるが、氏亡きあとすでにして40年になんなむとする同響にあっては、っこの訓示が徹底せられていると観ずる、
20時終演予定とあったが、っそんなではぜんぜん了わらない、済んで懐中の時計を検むに、っじつに20:40、20時に済むなら、新橋ではなく閉店時間の早い有楽町の一寸お高くとまったほうの王将まで歩けるかと踏むも、っまるでそのゆとりはない、洒落込んだ足がずきずきと痛いこともあり、新橋まで歩くのも断念し、大人しくいまは赤坂からの帰途、
、、、っあれ、っなんかここよりも上、フォントの色がいつもよりも黒いな、っここから下はいつもの色だが、公開したらたぶんこの通りの色になるな、直すの面倒なのでもうこのままで、、、っあ、っあれか、芥川氏の語録をあとで引用させていただかむとプログラムを見ながらiPhoneのメモ帳へ写して、っそこからコピ&ペしたからこうなったんだな、
っさて、3曲ともにいずれ劣らぬ近代的の精妙なる響を要請する、アマチュアにとっての難関揃いの夕であったが、っあっぱれっっっ、っすべての曲のすべての瞬間をひびきひびきの集積としていっさい間然せしむことなく聴かせ切った、演る方聴く方ともに疲労困憊の集中力の一貫である、っしかも、っただ精妙であるに終わらず、っそこへアマチュア特有、新響特有の一種の執念、、、執念と謂っては語感がわるいだろうか、無垢、イノセント、っただただ音楽へ専心没入される穢れのなさが発露しつづけて止まなんだところがいかにも尊い、ショスタコーヴィチについてはぼくは先の駄更新にて、
>《4番》というのは冷静なままでいて乗り切れるような楽曲ではないが、新響というのは、粗暴さで腕の不足を糊塗し、お客を煙に巻く、っなどというレヴェルの奏楽へ甘んじていてよい楽団ではないはずだ、《4番》というあの全曲が、マーキナーな各部の精度を堆く積み上げて、巨大なバケモノのごと屹立してくる、っその恐ろしい感触を期待したいところである、
っと、僭越ながら、っより高い感銘を得たいがために、っより苛酷とぼくなりにおもうハードルを坂入氏と新響との面前へ設置した心算だが、彼等はそれを、必死かつほとんど優雅に、優雅かつほとんど必死に、っみごと跳びのけるという離れ業を披瀝された、っもう感服脱帽である、
《4番》というまさしくこのバケモノを、っぼくは長田雅人氏の棒、オーケストラ・ダスビダーニャの公演にて実演で初めて聴いた、っそれはそれはすばらしいヴァージン喪失で、圧倒せられるどころではなかったが、っその後、井上キーミツが群響との最期のご共演で取り上げられ、っその本拠でのものと東京遠征公演とをともに聴いた、っそれももちろん記憶に遺る演奏であったのにちがいないが、曲想の怪異魁偉を最も鮮烈に喉元へ突き附けられたのは、っきょうこんやであるかもしれない、キーミツの棒は流れ流れていられ、細部細部はぞんがいオケ任せのところがおありで、っいまさらながらに正直に告白すれば、せめていますこしく局所局所へしつこく喰らい附いた造形を示されないか、っとの気味が疼いたというのが、っぼくのあのときの佯らざる所感である、
っそこを坂入氏は、っまったく丁寧至極、っそれこそ執念深い譜読みでいられ、強弱や漸強弱の微細な操作、和音和音の叶え方、複雑を窮めた楽器バランスへの鳥瞰、当意即妙なる音々の入り入りへの指示指示、萬事においてご苦労の偲ばれる考究の跡を窺わせるとともに、っそこを突き抜け切ってもうはや完全に曲想を掌中へ収められた頼もしさがあり、>《4番》というあの全曲が、マーキナーな各部の精度を堆く積み上げて、巨大なバケモノのごと屹立してくる、っその恐ろしい感触、っまさしくその感触を、っぼくは全曲に亙ってつよくつよく実感せぬわけにゆかなんだ、近来のまたべつの駄更新時には坂入氏について、東京シティ・フィルとの上野大器ピットでの舞踊附きオルフ《カルミナ・ブラーナ》ほどの達成は、その後の彼氏からは聴きえていない憾なしとしない、っと云ったが、っこんや、っその憾は拭われた、極めて細心の意匠意匠に充された3曲2時間半ほどであったが、っいっさいの瞬間が音楽そのものであり、っあれだけ厖大な楽器楽器が口々にやかましく鳴りつづける時間時間だのに、っぼくは坂入健司郎という指揮者も、新交響楽団という楽団もまるで感ぜず、っただただ音楽それのみを味わったのである、
っとはいえ、各部の魅惑もまた格別であったのにはちがいない、管は挙って腕を競い合われ、オーボーも、フリュートも、ピキェロも、クラリネットも、変ホ調クラリネットも、バス・クラリネットも、ファゴットも、っそれぞれにそのお人柄までもが音々へ滲むごと名場面名場面を刻印された、1楽章でことのほか印象的であったのは再現におくコール・アングレの独白で、最低音域から次第次第に最高音域まで歌い上げられ、っそのそれぞれの音高における音色音色の綾をあますところなく伝えられた、っそしてそれを享けてこんどは上から下へと降ってゆかれるコン・ミス女史のソロの凛然たるソノリティたるや、っまたなんとこちとらのこころの琴線へ触れてきたことだろう、、、っちなみに、昨今の言論界の一部ではこの、こころの琴線へ触れる、っという慣用表現を、触れられたくない事柄を論われ、怒りや苛立ちを掻き立てらる、っといった文脈で用いることが横行しているが、っこの語彙はそうではなく、感銘を與えらる、こころの最たる秘所へひびいてきて感激させらる、っとのポジティヴな文脈で用いるのが本来である、っまた、こころの琴線へ触れる、っと云わずに、琴線へ触れる、っとだけ云われ勝ちであるのもじつに寒心に堪えない、琴線、っのみでは文字通り琴の線すなわち絃のことを謂うにすぎず、っちゃんと、こころの琴線、っと云わなければ、譬喩表現なのだということが伝わらない、言論を生業とせる者が國語を愛さないとは、っまこと世も末である、
っさておき、2楽章では、丁寧な音捌きはそのままに、全体をややゆったりとしたテムポに構えられたのが奏功も奏功で、落ち着いていられるがゆえに、っあの怪っ態奇天烈なスケルツォがひたひと迫ってくるその跫音は、っまさしくバケモノの名に相応わしい、っぼくがいつも目を瞠いて聴かずにいないのは、絃のフガートからバトンを貰った木管連がずずずいとどこまでもどこまでも上昇してゆくその和音和音、音色音色の拮抗で、っさては気を違えてしまうのではないかと怖ろしくなるばかりだが、っそれをきょうの彼等はもののみごとに音化された、哲人ニーチェは、若くときの娼窟通いが祟っての梅毒による脳軟化症とせられているが、ったしか50と何年かの生涯の後年10年余を、っはじめは元気がよくて手のつけられない狂人として、晩年は日がな揺り椅子で垂涎せる廃人としてすぐして涯てるのである、っついに発狂の瞬間は、っどこか食堂かなにかから出た際に、表の街路ではちょうど居合わせた馬車の禦者が馬車馬を鞭打っているところで、っそれをみた哲人は突如として泣き叫びつ馬車馬の首っ玉へとびつき、禦者へ向かいて、お願いだからそんなに打たないでやってくれろっっっ、っと泪声に懇願したとのこと、っそれをもって精神病棟へ連行せられるのだが、っこの2楽章のここがついに気違えの境へまで昇ってゆくとき、っぼくの眼前へはよく知られたあの髭面ニーチェの横貌が髣髴せずにいない、人が気を違える瞬間の精確な音化、っそれがこの曲のここである、、、っまたちなみに、ひげ、っの漢字には数種あり、生える個所によって遣い分ける習いである、ったしか、口ひげには髭、顎ひげには鬚、頰ひげには髯、っだったかしら、っちがうかもしらん、口ひげの髭はたしかだが、っほかは逆だろうか、っぼくはといえば、大学へ入ってしばらくして以降、っほぼ絶やさず髭と鬚とを蓄え、髯は無精の際は生え放題で、遊びに行くときには剃っている、、、っどうでもよい話で恐縮、
芥川作品も、開幕からまったく手抜かりなし、表題へ負うごと、各楽器の多様の強弱、奏法によるひびきの質感が縦横に発揮せられ、目眩むばかりである、オルガンへはトッカータという大古典の語法を宛てているあたりも、芥川氏の求道精神を印象附ける、
シチェドリンは、調性を定めない筆だが、1楽章のソロから、歯抜けの音のあれが埋まりこれが埋まりしてゆくその経緯は、っぼくの未熟な耳へ、初めて12音技法のおもしろさを伝えたようである、っぜんぜん聴きにくい曲調ではなかった、っその松田女史をぼくは、っそれこそキーミツとの伊福部昭《リトミカ・オスティナータ》のソリストとしてたびたび聴いたのであるが、っあの曲に関するかぎり、指揮者、ソリストともども、っやはりキーミツの流し流してゆかれる手筈が禍いしている嫌いがないとせず、もっとがつがつした泥臭い音楽なんだよ、っとの不満を懐かないわけにゆかなんだ、っきょうの楽曲こそは彼女の独壇場で、サントリーで聴くピアノ・コンチェルトは肝腎の主役がニュアンス豊富に堂内へ鳴り渡らないこともしばしばだが、っきょうは女史の登場からクリスタル・クリアのタッチがちゃんと全空間をぴりっとさせ、管絃との拮抗も絶妙、聴き了えて、よく識らない曲だからなんだかよーわからんかった、とは云わせないぞっっっ、っとの覚悟のほどがびりびり伝わる、
フィナーレへはジャズの要素が入ったり退いたり入ったり退いたりするたのしさ、っぼくはあのカーチュン・ウォン氏が児玉姉妹とお演りになった、プーランクだっけか、っあのガムランが突然にして割って入ってくるやつ、っあれを想い出していた、っきょうのこの曲のばあい、ジャジーなところが去ってソロとオケとの部分へ遷り、っそれを何度か繰り返すうちに、っそのソロとオケとの部分、ジャズのリズム・セクションのない部分が、ジャジーなのかそうでないのかがだんだんわからなくなってくる、っその感触が滅法おもしろかった、っただ、っどうだろう、ヴィブラフォンについては、RCへ坐したぼくの位置からは対角線上と遠くへ配置せられていたこともあろうか、っもうひとつ効果的に鳴ってもよかったのではないか、マレットは頭のちっちゃいものが用いられていたが、っそれこそジャズ・バンドの人が遣うようなでっかい頭の重そうな撥でもっともっとよくひびかせたほうが、っより耳に贅沢な時間時間を演出したかもしれない、
最後にこれを云わなくてはならないだろう、全3曲を通じて、サントリーというあの器の勝利である、っほんとうに、っすべての音という音が曇りなく、っきらきらと煌めいて伝わる、サントリーはダメだという声もあるが、っその人はわざと意地悪にダメなところを探して云うのではなかろうか、っその人を連れて来てきょうの演奏を聴かせ、これのなにがどうダメなのだ、っと問い糺したい気に驅られたものである、
っさてあすは、ってもう日附が変わって、っいまだ書き了わらないので多摩センの駅、シガレットも切らしたので喫煙スペイスからも出てきたが、っきょうは午に荒川にて知己トロムボーン奏者さんのご指導なすっているこないだとはべつの高校の吹奏楽部の公演、少人数のアンサムブルだが彼氏の意図をよく酌んでくれる献身的の生徒さんたちとのことで、っまたたのしみに出向くとせむ、
、、、っあ、っいまヤノフスキ氏の《ミサ・ソレ》を聴いているが、iPhoneででなくPCで録ったのだが、PCの通知音みたいのを録っちゃっているな、っしくじった、っけれども、御歳85にしてすばらしく筋肉質の引き締まった楽聖で、録音の質も頗るよい、っちなみに、奇しくも、ショスタコーヴィチ《4番》の本邦初演は、アマチュアではきょうの新響、っその数年後に、プロフェッショナルではN響が手掛けられており、っその棒はヤノフスキ氏であられたとのことだ、っむかしはそんな曲も振られていたのね、
っそれからそうだ、っあすからカーチュン・ウォン氏のこないだのマーラー《復活》の動画、単品購入解禁だね、放送時の同時配信を警告文が出ている画面で観たが、っまた録画しておくとせむ、