博多、 | ざっかん記

博多、




本名徹次氏の棒、九響公演、済む、器は落成したばかりの福岡市民ホールで、場内は大小2器に分かれ、小器の方では志の輔師が独演会をされていたもよう、っこちらではこの九響公演が、同器でオーケストラの鳴る初めての機会だったとのこと、演目はショパン《1番》コンチェルトとドヴォルザーク《新世界》とである、っなにか序曲が1曲あったってよさそうなプロだが、っきょうの楽員へは本名氏がヴェトナムの手兵から数名のメムバーを連れてこられていて、っすべて絃の方だったが、オケに立ち混ざって弾いておられ、ショパンのソリストも同国のグェン・ヴィエット・チュンという大人しそうな青年、開演前には同国の大使だか公使だかの女性がお話しになり、ソリスト、オケともアンコールがあって、了わってみれば21:15ころ、

っあすは5時すぎくらいには起きて6時半すぎの新幹線へ乗らねばならないので、簡潔に結論のみを、ショパンは、ソリストもオケもまったくすばらしかった、っまずホール・トーンだが、2,000席級だとおもう堂内は、っじつに潤澤で残響も豊富、管絃のブレンドは夢にみるごと豊饒でありつ、っかつぎりぎりのところで各部のソノリティが全体のひびきへ埋没してしまわない、っそのふんわりと柔らかな音の膚触りは、っあすの所沢もかくやとおもわせるほどである、概観としては多目的ホールとシムフォニー・ホールとの合いの子くらいの印象だが、っまさかにあんなに好い音がするとは、ピアノの音もまた音量、ニュアンスともに抜群で、絶妙なるトーンを纏って悽愴と高級との両立した前奏が去り、青年が登場すると、っその都はるみのテーマはオケの示したテムポとは肖ても肖附かぬ独壇場、細心のタッチからこころゆくまで歌と詩とへ浸られる、彼氏が弾き出すとすぐさま絃や少数の管が和すのはこの楽章ではどのテーマでもそうだが、っその絃のパート毎の音色音色、っあるはアルコとピッツィとの質感の相違は、っかすかかすかであるがゆえにこちとらの耳を憎いほど擽ぐらずにいない、管もまた、ファゴットが、ホルンが、溜息のごと空間へ融けてゆく、本名氏は、コンチェルトということもあり、っさほど無碍なる腕の振りは示されていないが、っしかしこれら夢の時間の要を担われているのは、っまちがいなく彼氏であられる、っよく云われるオーケストレイションの薄さは、っむしろ文字通り奏功であるとさえおもわれた、ホルンがつい1・2番で和音になったりするっきりで、っときめくような仕合わせに包まれるのである、

2楽章も委曲を盡した弱音最弱音の差配が満堂を支配し、っその快い緊張の裡に、純白のシルクの糸がぜったいに途切れることなく紡ぎ紡がれてゆく、っここでもまた、っすこしく強勢を加えたり、ソロのテーマが和音になったり、柔和な主題から不穏な調へ遷ったり、っそれら一寸したことにしかし如何に音楽的の意味があるか、っそのことを篤とおもい知らさる、

フィナーレはソロの主題中の細かいアルページオが、っゆたかなひびきに包まれて聴き取れなさそうで、っどっこいちゃんとぜんぶの粒が耳へ届き、っもはや痛快なくらい、応ずるオケのトュッティでは、他の管絃のみで優に飽和しているなかで、っしかしトロムペットの同音連続のタンギングをもうひとつ剣のある音で前へ出したほうが、っより立体的の音構築になったかとはおもうが、っそれは贅沢な不満である、

っけれども、《新世界》はもっともっと突っ込んだ造形を聴かされたかった、っこの高級至極の音響は終演までずっとつづいているのはたしかなのだが、逆を云うとそれのみという憾がなくもなかった、っあまりいろいろの仕掛けをやれない曲ではあるかもしれないが、っそこを本名氏ならばまったくリフレッシュされてしまい、っいまだかって誰も想像だにできなんだドヴォルザークを鳴らされるにちがいないとかなんとか、っほとんどそこまでの期待を懐いていたぼくもわるいだろうか、腕の振りにしても、っあのハイドンやモーツァルトのときのようなシャーマニズムはそこまで発露せず、っあるいはご当人としても、約しい書法の古典のほうがかえって羽搏きやすく、曲のほうですでにしていろいろとやってしまってある浪漫派以降では、っそのいろいろを指揮藝術、再現藝術としてさらに塗り替えてしまうという創意は発想しにくくていられるのかもしれない、っであるならば、今後も古典を中心としたプロへ積極的に取り組まれたいし、浪漫派その他でも、臆せずにそれとおなじこと、っもっともっと大膽なスコアの洗い直しを敢行されたいところである、

本名氏は黄金週中には金沢でいくつかの舞台がおありのようだが、っざんねんながらそれへはぼくは伺えず、っお次は東京にて、伊福部昭《交響譚詩》《シンフォニア・タプカーラ》を望みうる、っこれも敢えて云えば、曲の方へ寄られたのみの解釋では、っぼくはけっして満足しない心算である、っぜひとも果敢に曲をご自身の方へ手繰り寄せられた再現を披瀝されたいものである、得手勝手なことをやりまくれと云うのではない、っほんの強弱ひとつから、っいまの彼氏には、っなにものにも束縛せられない自由な発想を聴けるはずだし、っそれらはいつも、っごくごくかすかな操作操作であるにすぎないのである、っしかしその集合集積が、っついにはあのハイドン、っあのモーツァルトを結果結實したのである、っそのように、え、そんなルートで《、、、譚詩》《、、、タプカーラ》へ登っちゃったの、でも悔しいけれど説得力あるわあ、、、っというその、やられた、一本取られた、っという感触が慾しい、そんな登り方、ほかの誰でもやるよ、っという方法へ甘んじないでいただきたい、っいまや彼氏は、っそのくらいの期待を背負うべき人なのである、、、っとぼくが勝手におもっているという話で、

っさ、っご当地グルメになど目もくれず、ホテルの室へ電子レンジがあるのでコンヴィニ弁当を購ってきた、疾っ疾と喰って睡てしまって、っあすは日本横断というか縦断ののち、午に井﨑正浩氏公演、夕にファビオ・ルイージ氏のN響定期である、っそんでまた日曜も坂入健司郎氏公演という、、、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)