しもうた
けっきょく仕事なんぞせずにうとうとと惰眠を貪り、
その間にいろいろなことが起きてた、
先に報告した、CD化業者からのmp3が1日前倒しで届いてい、
iTunesでCDに焼き、試聴中、
うん、オクタヴィア復刻の91年盤より断然いい、
まだ詳しく聴き込んでいないが、オケのひびきは生々しく、フォルテも振り切った鮮烈さを示し、
小林も、83年といえばまだ43歳の若手指揮者であり、堂々たる威容よりは、
鉄砲玉っていうのか、向う見ずな、猪突猛進の気味、
むろん、そこがいい、
音質は、充分に及第している、
ただ、マイク・セッティングは、ワン・ポイント、ではないのだろうが、
金管や打楽器の抉りの利いたひびきのわりに、弦の厚みがもうひとまわり、、、、、
とおもわせなくもない、
でも、
いま2楽章に差し掛かっているが、いろいろの楽器が息づいていて、
ああ、こりゃいい演奏かもなあ、
すくなくとも、91年盤のように、オケの非力のせいで指揮者の表現を云々できる水準にない、
ということがない、
横綱・山田一雄に比して、新入幕の暴れ馬というのかな、
あ、しかも、コール・アングレその他、木管も、ずいぶん感じた音を出してる、
おおおお、ここぞというとこの決め所、烈しいねえ、
シンバルのけたたましい打ち方、ほれぼれする、
大太鼓も、重低音をひびかせるより、輪郭のくっきりとした打たせ方、録られ方でいい
この2楽章後半はすごいな、オケも乗りに乗ってる
ティンパニも硬い打音がすてき、
地獄絵図を観るよな壮絶さだね、
この耳に刺さるような音がぜひとも欲しかったのだが、
いい、とっても、いい
値は張ったが、落札しておいてよかったな、やはり、
この機会を逃しちゃそうそう巡り会えぬ代物だろうからな、
よかったよかった
いよいよクライマックス、金管は音が汚れるほど吹き荒んでる、
そうこなくっちゃね、こりゃいい、
想像以上の出来だね、
ああ、最後の低弦のピッツィカートふたつとティンパニひとつはほとんど聴こえない、
ちと残念、まあ、若さの猛進だから、些細なことはいい、不問に附す
3楽章、冒頭から、きびきびとして、でも薫りもあるし、いい音がしている、が、
N響アワー始まったし、ちょっと中断しよ、
ちなみに、7~9時の時間指定で玄米10㎏を受け取るはずになってたんだが、
爆睡で不在票が入ってしまった、
ドライバーさんには夜分の配達なのに、ご迷惑をお掛けした、
あすはしかと受け取ろう
そうだ、ぼく、ちょっと前から玄米生活なんですよね、
それについてもいつか書こうか、
いやはや、オークションの落札代とCD化代で、ちょっと口に出しては言えないような値段を取られちまったそのmp3が、まだ全部聴き通してないけど、こうして期待に適う、あるいはそれ以上のものになったことを、ともかく悦ぼう、バンザイ、
仕事前にひとつ
あさ起きたら、 NHKのBSで《N響ほっとコンサート》なるものをやっていて、《純情きらり》が始まるまでの1時間だけ、観た
指揮は現田茂夫
本仮屋ユイカという女優さんがナビゲーターだった
なかなかのべっぴんさんとおもうが、ぼくはどうもああいうポピュリズムはなあ
や、あれをきっかけにクラシックに親しむ人が増えてくれたら、というのは重々承知
なんだが、、、、、
吹奏楽を何曲か
ぼくはリードとかチャンスとか、わからないなあ、
ウィンドでもこんなにできます、みたいに背伸びしているだけのような、、、、、
やはり弦を抜いたオケ、という欠落の憾を拭えない、
弦合奏でチャイコフスキー《弦セレ》
うん、安心だ、管諸氏には申し訳ないが、
N響の弦は強靱だし、1楽章のみだったが、なかなかの好演だったのじゃないか
いま、山田一雄/新星日響(91年・JODクラシックス)で同曲を聴きながら書いてる
いい演奏
このCDはヤフオクで落とした、
けっこうな稀少盤なんだろうな
《純情きらり》を、朝っぱらからしばしば涙ぐみつつ、観た
劇中で宮﨑あおいがオルガンで《埴生の宿》を弾くシーンがあった
シンプルな曲だし、あれくらいは本人が覚えて弾いたのかもしれない
ヤマカズの《弦セレ》を聴き終えたら、柳兼子のCDで《埴生の宿》聴ーこせっと
それにしても微苦笑ものは、窓ガラスの養生に、ことごとく“米”印状にテーピングがしてあるんだな
戦時中はみなああだったのかしら
“鬼畜米英”はどこへやら、と、ふふ
ゆうべは、そうだ、ヤマカズ/N響のマーラー5番についてだった
これはぼくのマラ5観をあざやかに塗り変える大演奏だなあ
どれを聴いても、もう一声、という不満がどこかに残ったもんだが、
ようやく全編に亙って満足を与えてくれる演奏が出現した、って
きのうはああいったけど、ほかにないもんで、バーンスタイン/ウィーン(DG)はずっとはずせなんだ
でもやはり隔靴掻痒、でね
むしろおなじウィーン・フィルとのアルバート・ホール・ライヴ
たしかメモリーズとかいうレーベルで出てたはずで、いま手に入るのかしらんが
でもあれも録音が甘いし、
や、はじめ聴いたときはDG盤よりも生々しいかんじがしたようにおもってたんだが、
さいきんiTunesにインポートしてiPhoneで聴いてみたら輪郭ふやふやのぼやっぼやでがっかりだわ
ほかには
小林研一郎/チェコ・フィル(ポニーキャニオン)
高校時分に夢中で聴いたなあ
きれいな演奏だし、耳馴染みがしたんだろうとおもう
が、いまは、あれでは満足できないな、
演奏自身ももっと突っ込んだものであってほしいが、
ホールが、、、、、
ルドルフィヌムでのレコーディングというのはどうも
チェコ・フィル自身のひびきを聴くというより、チェコ・フィルが鳴ったそのホールのひびきを聴く、というかんじで、
これも隔靴掻痒なんだわ
こないだ聴き返してみたが、3楽章なんぞ、案外艶に不足するし、2楽章だって、指揮者は、ほんとうは、もっと入れ込みたいのに違いないんだ、長所よりも短所が気に掛かる演奏というのは、多聴に堪えないんだ
青春時代に世話になった音盤だし、無下にはしとうないんだが
むしろ
来日公演のライヴDVD(フジテレビ)だな
演奏も、多少ほころびが目立つものの、こっちのほうが
あ、いまいま、CDを柳兼子に替えました、《ハバネラ》から聴きます(76年・神奈川県民会館小ホール・ライヴ VIG-8001)←可能な限りレコード会社、レーベル、録音データ、商品番号等、書くようにします、ブログ書くためにわざわざ押入れから引っ張り出すまでは、なかなかできんが、手許にあるものに関しては
この《ハバネラ》はいい、歌はもちろんのこと、マリオ小林のピアノがところどころ、音を短く切って空白をつくり、はっ、とさせてくれる
で、こっちのほうが精彩にあふれているし、コバケンのこと、ね、覇気もあるし
でも、やはりいくつかの瑕は看過できないなあ
単にオケのコンディションによる瑕ならいいんだが、指揮者の表現が煮詰まっていなかったり、指示が不徹底だったりすることに起因しての瑕がだいぶあるような気がする
全体の印象を損なうほどでないにしろ、ヤマカズ盤のように(もちろんヤマカズ盤にも、もう一歩、という部分はあるが、なんちゅーか、、、、、なんちゅーか、なんだよ)
《埴生の宿》です
前奏を弾き損なっているな、ピアノ、残念
でも、途中のくっきりとしたトリルはいい、
ぼくはくっきりとした演奏が好きなんだな、どうも
すべての音が目に見えるように鳴ってほしい
すべての、音が、目に、見えるように、鳴って、ほしい、鳴らして、ほしい、わけなんだなあ
変にムード的なのはこまったさんだ、曲にもよるにせよ
で、ヤマカズ盤のように、瑕のない部分、つまり指揮者の表現の素地というか地金が、瑕のマイナスを払拭してくれないんだ、コバケン盤は、や、いくらかは払拭されるんだが、払拭し切ってくれないんだ、
全体をおおきな満足とともに聴き通すことのできるヤマカズ盤が現れたいまとなっては、瑕の部分に差し掛かるたびに、これがなきゃなあ、という痛痒をかんじ、おわりまでいってもその痛痒の解消におつりが来ない、ただ痛痒が解消されるだけではダメで、おつりが来なきゃなんない、それもなるたけたんまり、と、ね、
それがないんでね、コバケン盤には
そうなるとこれは、もうそうそう聴かない音盤になっちゃうよなあ、
惜別、、、、、
昼間っからブランディーでも啜っちゃおーっと(サントリーX・O)
弔い酒さね、
いま、《椰子の実》
つっとっと、んいや、さいきんコバケン/日フィルの91年キャニオン盤がオクタヴィアで復刻したねえ(OVCL-00423)
どうしてああいうことをするかなあ、ああいうばあい、当然指揮者の許諾も取り付けるわけだろう、ぼくが小林なら、あんな恥ずかしい演奏の復刻なんぞ絶対に許さんがな、指揮者としてのプライドを疑るよ、ほんと
んぐ、いまヴァント/ベルリン・ドイツ響のシューベルト9番(PH09030、8枚組BOX中の1枚、輸入盤)を鳴らしてみたんだが、冒頭からおもいっきりノイズはいっとるやないか、けしからんな、しかもずっと消えない、
ミュンヘン・フィルとのCDも、演奏はともかく、随所に録音の甘さが露見していたが、ドイツでは、録音作業っていまだにこういうかんじなんかなあ、牧歌的というか、もちろん、オケの音はいい音で録れているが、弱音になると、器械系統の連続音がずーっと鳴ってる、まったくけしからん
どうも、話が脱線脱線で、
コバケン/日フィルのマラ5
ひどいねえ、や、なんでCD買ったかというと、オクタヴィアって、メディアのスペックをものによって差別化してるでしょ、こんどのはハイ・クオリティ・スーパー・オーディオCDとなってるから、もとのキャニオン盤で演奏がさほどのものでないとわかってはいたんだが、もしかしたらリマスタリングがよほどうまくいったのか、と淡い期待を懐いてね、しかし、やはり駄演は駄演さ、
まずオケの非力、迫力ある強奏は1楽章の件のクラーゲント部1ヶ所にしか聴かれない
小林のほかのCDに較べると、音場感、パースペクティヴがリアルに伝わるが、オケの各パートのソノリティがその高音質に応えうるほどの水準に達していない、精進がまるで足りとらん
2楽章の冒頭、木管の吼え声にトロンボーンが不吉な響で合いの手を入れるところのそのトロンボーンなんぞは、噴飯ものどころの騒ぎじゃないな、や、ひどいひどい、目に見えるように、という譬えでいえば、こんなのは目も当てられん音だ、まったく、、、、、まったく、まったくもう
ここだけじゃない、ぜんたいにアンサンブルには柔軟性というものがまるでなく、生硬もいいところだ
どのパートも音色にほんとうの潤い、ほんとうの艶がない、
対位法の権化ともいうべきマーラー作品の演奏にあっては、主旋律と対旋律とが、互いを呼び覚ましあうようなフレージングと音色と強弱とバランスとを感じ切って瞬間瞬間を紡ぎ出してゆかねばならぬが、その点、ここでの日フィルの鈍感、鈍重さには、呆れてものが言えない、いやはや
弦にしても、弧の描き方が滑らかでなく、定規を宛がって線を引っ張ったような色気のなさ、薫りの乏しさはこれどうかいね、聴いてるもんにもどかしさや苛立たしさを与えるために演奏しているようだよ、まるで
そんななかで、いちばんの難所であるはずの3楽章が、おもいのほか聴けたりするから、演奏ってものはわからんよ、じつに、もちろん、聴けるったって、、、、、聴けないんだけど、さ、
この3楽章は、ワルツのリズムのなかへ収まろう収まろうとすると、なんとも据わりの悪い、どこまでいってもひびきのなかに浸らせてくれない演奏になってしまうからな、かえって、開き直って、複雑な声部の絡み合いから重要な動機が飛び出すたびに、フレーズをおおきくとったり、アクセントで念を押したり、ときにはアンサンブルの奥の奥に眠っている内声を焙り出したり、で、そのたんびに、ここで聴いてほしいだいじな音があるんでテンポを落とし気味にしますね、と、そこを過ぎると、また自然な呼吸のうちにすーっとア・テンポして、お、快調快調、とおもっていると、またここぞというときに、ぐっと遅くなって、お、なんだなんだ、あ、なるほど、この声部を浮き上がらせたかったのね、みたいな、そういうことを指揮者が積極的にやろうやろうとし、オケの面々が応えよう応えようとするなかでタテが揃う、という以上に呼吸が合う、そういうふうに湧き上がってこないとなんないんだ、このワルツは、それをこの締りのないアンサンブルで、なかなか聴かせる演奏に仕立てているというのは、たいしたもんだとおもう
おもうが、まあ、しかしダメだよ、これじゃ、
アダージェットも、デュナーミクの振幅におおきな不足があるし、全奏でひびきが束になるとき、高音に熾烈さというか、ほとばしるような威力がないのでまるで聴けない、高弦だけじゃない、低弦ももっとゆたかにひびいてアンサンブルを底支えしてやらんと、
フィナーレも、この機動力のなさじゃどうにもならんな、志願兵じゃなく、徴兵されていやいや従軍した民兵の一団のようなうだつの上がらなさだよ、日フィルは、まったくねえ、
にしても、このフィナーレの最後の山場とか、2楽章後半の頂点の迫力不足ったらない、トランペットのみすぼらしい鳴り方はどうよ、がっかりだね
コバケン/日フィルの一連の録音、ずいぶん多岐に亙るんだけど、そっから名盤をみつけるのはなかなかの難儀だな、正直
まず、オケのコンディションの不安定さ加減ね、これどうにかならんもんかとおもうよ、
小林がトレーニング・コンダクターとしての面貌を備えていないことが問題だ、とかいうことをいう輩もいるんだが、どうかねえ、だってプロでしょ、日フィルも、
ただ、小林がとんでもない気分屋の練習嫌いだってことはぼくも聞いてはいる、
で、練習をわりとみっちりやったときの演奏というのはいい演奏で、CDも名盤といっていいんだ、マーラーの7、8、9番あたりや、90年代前半のレコーディングだが、《幻想》、そいから、コルサコフ《シェエラザード》、あれなんかはいい、それも、とても、いいんだ、
それくらいかなあ、あとおまけで、キャニオン盤のチャイ5、か、
それ以外は、ほとんど駄盤といっていい、マーラーの1、2、3番なんてのもある、3番はほかに決定盤がないので、表現の徹底度を買ってもいいが、やはり全奏時のひびきにもうひとつ潤沢をもとめたい、2番もおなじ不満を懐かせるが、こちらはほかに名盤が多数あるので、いっそう分が悪い、1番は、実演はもっと好印象だったんだが、ダメだね、
ブルックナー《ロマンティック》なんてのもあって、これがじつはなかなかのものなんだな、
いい加減力むのやめなよ、ってとこも散見されるけれど、両端楽章の、指揮者が泰然と振舞っているところでは、恰幅のいい立派な音響が立ち現れるんだ、木管も、それぞれ情緒に濡れてうつくしく、オーボエなんて、とどろくトュッティのあいまから華奢な弱音で貌をのぞかせると、ふるいつきたくなるようないい音で啼くんだ、
まあしかし、ブルックナーには、朝比奈だ、ヴァントだと、錚々たる名盤の峰々が連なっているわけだからなあ、
ぼくはスクロヴァチェフスキですら、もういやだから、ん、でも、スクロヴァ盤よりは小林盤のほうが、ぼくは好きかもしれんなあ、フォルテの立派さと、頑固なイン・テンポが様になってるし
けっきょく、小林に関してぼくらができることは、ただ彼の老衰を待つ、というその一事に尽きるようだね
とにかく、あの力み癖がぬけないことにゃ
自分は冷静なままでいて、オケに最大限の力を出させる、それができるようにならなきゃ、いまの小林に、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうの意味での名演、名盤は産み出しえないんだよ
日フィルとのリハにしても、ぼくは懸命に想像、想像というか邪推してみるんだが、
小林の方にも、日フィルというのはコンディションのもうひとつ安定しないオケだという予断があって、初日の顔合わせのとき、ちょっと音を出してみて、この音じゃちょっとな、とわずかでも落胆の翳が差すと、もうそこでいくらか仕事をする気が失せちゃうんだとおもう、なにしろ気分屋だから、これじゃいくら練り上げても2、3日の練習じゃ高が知れてるだろう、ま、どうせいつもとおんなじ曲目なんだし、一回の演奏会で恥をかくくらいのことはな、それに、こういう状態なら、オケにできるだけしょぼい音を出してもらった方が、言い訳の余地ができてかえって気も楽だし、俺が悪いんじゃないぜ、このオケが下手クソだからいけないんだ、みたいなね、
ひどいこといってんなあ
でも、そういう人っているんだ、
どうしようもなく気分屋で、正にしろ負にしろ、その場の感情の閃きみたいなものを絶対視するべく生まれついている人、生まれついてしまっている人、代表的なところじゃ、小泉純一郎、とかね、
そういう人を相手に、すこしは冷静になんなよ、とか諭してもせんないんだ、
彼等にとっちゃ、一瞬一瞬の閃きに身を委ねることをやめてしまうのは、死に価するから、
で、ちょっとホンネをこぼすと、ぼく、そういう人に対して、いいようのない憐れみと、ジェラシーと、両方いっぺんにかんじる、、、、、アムビヴァレンツさね
ま、小泉政治の功罪はともかく、そういう、自分でも制禦不能の気分に振り回されてカッカカッカしている人、そういう人にしか醸すことのできない特有のムードというのがあって、それが指揮者なら、指揮者・小林研一郎という人なら、彼が熱心にリハに取り組んだときというのは、それはそれはいい音が鳴るんだ、
おそらくは、ぼくは、いわゆるアンチ・コバケン諸氏も、そのことをちゃんと知っているんだとおもう、ぼくは、その小林が熱心になるときが、10回に1回でも、100回に1回でも、アンチ・コバケンになったりはしないが、痺れを切らした諸賢は、小林を見限るんだろう、惜しいことだ、じつにじつに
いつんなったらヤマカズに言及できるんだ、
ま、じつはあす、あすだとおもうんだが、
さる業者からmp3データが配信されることになってて、
その業者ってのは、レコードからCDをつくってくれる業者なんだが
ヤフオクで落札したレコード、CD化される予定なく、どうしても欲しかったので買ってはみたものの、自室にレコード再生しうる環境ととのわず、
んで、ちょっと値は張るんだが、専門の業者にCD化を依頼した、
CD化の最終工程に入る前にmp3データを送ってくれ、気に食わぬとこがあれば、ここのノイズ消してくれませんやろか、とか、いろいろ注文をつけて、むこうでは、可能な限り対応してくれるというわけ、
じつは以前にも一度、コバケン/新星日響のチャイ5(フォンテック)のLPをヤフオクで買ってその業者に頼んだことがあって、こんかいはというと、
それが、コバケン/日フィルのマラ5なんだなあ、
出品者から直接業者に送ってもらったから、まだ現物は見ていないんだけど、
83年のライヴ収録らしい、上野の文化会館だったかな、
いろんなタームで検索したんだけど、
その日に演奏会があったっていう記録はめっかっても、ライヴ収録のレコードがあるってことはつきとめらんなかった、JPS-15/16(2枚組)っていう商品番号からすると、日フィルの自主製作盤なのかな、や、わからん
ともかく、いまはそのmp3を鶴首してる、ってわけでね、
ただ、期待半分、不安半分だねえ、
例の91年盤(PC/オクタヴィア復刻)よりはいいかもしれない、
80年代以前の日本のオケって、緻密さはさておき、元気いっぱい、みたいなとこが、どこのオケにしろ、あったような印象だし、ま、リアル・タイムでは、全っ然知らんのだけどね、
83年なら、まだ小林も、やっと方々のオケでマラ5みたいな重量級の作品をやらせてもらえるようになってきた、みたいな頃だろうし、リハも入念にやっていると信じたいところだ、
で、あとは音質か、
なにしろ得体の知れないレコードだもんなあ、
ま、気に病んでもしゃあない、が、
それが、ひょっとするといい演奏かも知らんし、
ヤマカズについて詳述するんは、それからでも遅くはあるまい、
さあ、それより仕事せんとね、すっかり時間潰してもうた
もう夕刻ですよ夕刻
マーラー生誕150年
です
もっともっと方々で盛んに演奏されるかとおもいきや、いまひとつ賑々しくないなあ、
来年は没後100年なんだし、2年でシンフォニー全曲踏破、みたいな意欲的な指揮者がいてもよかった
で、ぼく自身は、コンサートにも行ってなく、この10月に上岡敏之/ヴッパータール響で5番を聴くのが
マーラー・イヤー最初で最後のマーラー体験になるかな、いまんとこ、
CDも今月末に出るようだし、
上岡のような非常に高度にソフィスティケート(ワルクチじゃないよ)された音楽をやる人のばあい、ぶっつけ本番で聴くより、やはり、事前にCDで予習しておきたい、細部のどこがどうなるのか、とかを
で、コンサートではそれを心地よく裏切ってほしいんだな、心地よくね、
上岡は舞台人気質に眼を瞠らせるものがあるし、そのへん期待したい、
しかし、唯一無二の絶対的演奏、というところまで昇華されたものが聴けるのか、
懐疑的というのじゃないが、マラ5については、ここ数年でいい演奏を聴き過ぎているからなあ、
耳が肥えてる、カクジツに
や、そもそもぼくはバーンスタインなり誰なり、過去のマーラー演奏にあんまり関心がなくて、
90年代後半からようやくクラシックを聴き出したというのもあるけど、
とくにバーンスタインのドイッチュ・グラモフォンのマーラー、録音が鈍くて、ダメだなあ、
5番は、ウィーン・フィルだけど、世評ほどに感動はしない
録音が、鈍い、、、、、鈍いってんじゃないなあ、なんていうんだろ、ちょっとオフ気味で、
血の叫びだなんだというんだけど、もうひとつ痒いところに手が届かないんだなあ、
細部もあやふやなところが多くて、
あとクライマックスのテンポがいつもはやい、
ま、バーンスタインという人はそういう人だが、
シカゴ響とのショスタコーヴィチ《レニングラード》なんかはかなり緻密に練れてるんだけどねえ、
すくなくとも、ウィーンとのマラ5、あれが、同曲録音不動の王座をついこないだまで守ってた、という事実には、俄かには肯けんものがある
それより、マラ5、最近の収穫、収穫どころじゃない、大大大収穫は、
ヤマカズ/N響
だな
NHKクラシックスが出した2枚組DVDの一方に収録されてて、
たしか9000なんぼもしたから発売からしばらくはほっといたんだが、
やはりどうしても欲しくて買ってしまった、いまは貸してて、友人宅にある、
もともと、とおいとおい記憶にN響アワーかなにかで断片的に観たような、
演奏内容はまるで忘却、というより、視聴当時はまだ演奏のよしあしを云々できるほどの素養がなかったのかな、
ただ、とにかく記憶の片隅にはあのヤマカズ師のシャーマンな指揮ぶりが宿ってて、
で、DVDが出たもんだから、
ぼく、マーラー演奏については、バーンスタイン式に感情的になられるより
フクザツな対位法の各声部を、一度十分に咀嚼したうえで、目に見えるように明瞭に演奏してくれたものの方がしっくりくる、はるかに
う、、、あ、、、あ、いや、これじゃ誤解を招くかな、
や、たとえば、昔のブーレーズのマーラーなんかはいやだな、それから最近ではジンマンみたいな、
ジンマンも、いやというのじゃないけど、
なんといえばいいかな、いやじゃないけど、
やっぱりいやなんだなあ、
ヤルヴィの《復活》も、名演と認めるのに吝かじゃないけど、吝かじゃないけどなあ、
というそういうかんじなんだな、
そういう人、意外に多いんじゃないか、
上岡のマーラーについても、つまりそれとおなじ危惧を懐くわけで、
ひとくちにいうと、洗練された分、線の細くなるかんじ、あれがいやなのかな、
理屈抜き、という部分が欲しい、どこか一ヶ所でもいいからね、
力尽くのところとか、造形をみだしてでも、こうやりたかった、というような、融通の利かない人間らいしいところが、
バーンスタインは、そういうところが多すぎるのかもしれない、
こないだベルリン・フィルとの9番が1枚に収まって廉価盤になってたから買ったんだけど、
冒頭から、ちょっとぼくには味が濃すぎる
や、それをもって貶すもんじゃないとわかっているけど、
もうちょっと、、、、、もうちょっとすっきり、すっきりというんじゃないな、なんといえばいいかな、
旋律線が不明瞭になるほど歌わないでほしいというか、アコーギグを利かさないでほしいというんか、
でも、、、、、でも、ジンマンやヤルヴィほど洗練されるとまたいやだよ、というそのあたりなんだが、
ギーレンはいいかもな、その意味じゃ、全曲じゃなくても
粘着力の問題か、要は、
ベルティーニ/都響の8番(フォンテック)を聴いてみたんだけど、
その粘着力なんだな、
ああいうのを、端然とした造形で彽徊することもなく、とかいって褒めるのは、ぼくはただの瘦せ我慢だとおもうなあ
粘着力というかなんだろう、マーラーの轟然たるトュッティを浴びていると、
うまく伝わるかなあ、プールの中を歩いているような感覚にとらわれるんだ、
水の抵抗を感じながら、ひとかきひとかき、
進もうとしてもおもうに任せず、もどかしさが募るあのかんじ、
あるいは、自転車で、
あ、ぼく普免ないんで脚はチャリンコなんだが、
自転車で、アゲンストの風にめげずにこいでこいでこぎまくるときのあのもどかしさ
あれがマーラーだな、ぼくにとっちゃ、
それが薄らぐほどソフィスティケートされてては受け入れられないというか、
小澤/サイトウ・キネンでいえば、マーラー演奏をあそこまで美化したことには脱帽、
でも、どこまでいってもフォルテがサバサバしてるのはいやだよ、というそういう
ライヴなんだし、たとえば《復活》の最初の盛り上がりのところ、もうすこしお客に喧嘩売るような気魄が欲しいな、と、完全な予定調和じゃいやだよ、と
とくにあの《復活》の最初んとこ、シンバルがなあ、、、、、
小澤がそのようにやらせているなら、ちょっと考えものだなあ、
ぼくが指揮者なら、ここは全曲で初めて最強音に達する部分なんだから、めいっぱい打たなくてはダメだ、と奏者にいうとおもうけどなあ
もちろん、軌道に乗ってくるといい演奏なんだ、あの《復活》
部分的には、むしろほかの誰より抉りが利いているようなところも出てくるし、
全体に快速調のなかで、踏み締めるようなテンポで意表を突く瞬間もあるしな、1楽章とか
それで、なんだったか、
そ、ヤマカズ/N響の5番だったな
貸している友人に頼んで、DVDから音声だけ取り出してもらって
なんといったかな、リッピングだったか、
PCについちゃ、ライト・ユーザー中のライト・ユーザーだもんで、
自宅でもできるんだろうが
フリー・ソフトを拾ってきて、インストールして使いこなせるようになるまでのプロセスをかんがえると
億劫でしゃあない、、、、、
他人にそいうこと、DVDからの音声抜き出しとか、してもらうの、法に触れてることになるんだか、ならんのだか、
ま、とにかく
ここ最近は、仕事の往き帰り、ほとんどそれしか聴いてない
DVD再生でPCからヘッド・フォン引っ張ると、キュルキュルキュルっていう回転音が邪魔だから、
音だけで聴くのはいいなあ、
ちなみにポータブルはiPhoneだが、
付属のイヤ・フォンが購入2、3ヶ月でぶっこわれて、
いまはオーテクのインナー・イヤ・フォンです
まあ、オケのマスの拡がりの完全再現なんぞはなから求めてなく、
そうとすればあとはソノリティだが、その点、さすがオーテクというかんじか、
たしか3000円くらいのもんだったとおもうが、そのコストでこのクオリティなら、この上は望むまい、と
MD時代の音質のひどさを知っている耳だから、許容範囲はひろい方だとおもう
ふだんは雑食で、あれ聴いたりこれ聴いたりなんだが、ときたまこれは、というのにめぐり会うとそれ以外聴かなくなる、数年前に、コバケン/日フィルのマラ9(オクタヴィア)でそれを経験していて、あのときの自分は正銘ジャンキーだった、
今回のヤマカズはそれに次ぐ、
や、ヤマカズのほうが感動は上回るかな、
小林の9番はライヴを二晩とも聴いたからより印象が強い
山田の5番もライヴを聴いていれば、というところ、
85年の渋谷NHKホールで、
ぼくはまだ2歳だ
このDVDを自宅ではじめて再生したときの感動は忘れがたいなあ、
どちらかといえば遅い演奏、それもクライマックスの全奏部に遅さを期待したいぼくの、その期待を上回るほどの遅さなんだ、これ、
全奏に80分弱掛かってる
ただ、その遅さってのは、クレンペラー的な遅さではない、ベームとも違えば、チェリビダッケ的な遅さではさらさらない
とくにロー・テンポが顕著なのは、2楽章、およびフィナーレで、要は、対位法的なアレグロ楽章を各声部の浮きぬ沈みぬが克明に立ち現われるように演奏してある、といえばいいかな
マーラーなんてやらなかったけれど、これがチェリビダッケなら、1楽章のあたまのテーマから引き摺っちゃうだろうし、ベーム、も、マーラーはやってないけど、やっぱり遅くなる必要のないとこまで遅くなって、ダレてしまうだろうからなあ
山田の遅さは引き摺った遅さじゃないんだ、ぜんぜん違う
ちょ、ちょっと
ちょっと長くなっちゃうなあ、
書きたいことがいっぱいあるからな、複数日に亙ってぽつぽつ書くことにしよう
ちなみに、いったとおり、楽譜なんてうちになく、知識も乏しいから、
細部に言及するときは、
再現部、とおもわしきところ、に入る前の、クラリネットが細かい走句を吹いて下降する、その直後のゲネラル・パウゼから立ち上がるチェロの音色とフレージングが、
みたいな、いまテキトーに書いたから、そんな曲ないかもしらんが、ともかくそういうひどく煩わしい書き方になるとおもうので悪しからず
寝よ寝よ、
あすは朝からファミリー劇場で《純情きらり》の連続放送を観るのだ
なにしろこちとらはずのっぶ、すなわちスノッブだからな、
あ、ぼく本名、水野というんですよ、で、ずのっぶ
ってこって、
あの原作が津島佑子とは、NHKのリアル・タイム放送時には気付かなんだ
してみると、冬吾
ん、この字であってるんか、
なる画家は、やはり太宰のイメージなのかなあ、
ま、とにかく
ブログなんぞを
はじめてみる
もとより雑感に煩わされがちな性分だ
からして、捌け口が、ぜひとも、入用なのである
もっと早くにはじめておけばよかった
記事だが、おそらくは、聴いた音楽のこと、読んだ本のこと、
あとまあ、落語とか、そのへんのことをぽつぽつと、
音楽は、ほとんどクラシックしか聴かない、専門的な知識があるわけでなく、
楽器も弾けなければ楽譜も読めない、
世に謂うリス専というやつで、手前勝手に主観を書くだろう
問題は、クラシック=ハイ・カルチャーという先入主をいかにして排するかで、
それは自身についてもいえ、だからニック・ネームをずのっぶにした
気が向いたとき、更新しますー