ざっかん記 -6ページ目

大井町、




高橋勇太氏の棒、品川区民管公演、済む、演目は、前半にメンデルスゾーン《イタリィ》を演り、後半はソプラノ見角悠代女史、バリトン藪内俊弥氏を招いてモーツァルト《マジック・フリュート》ハイライト、

侮っていた、メンデルスゾーンは冒頭から平凡窮まるひびきとキレのないリズムとで開始するので、やっぱりそうだよなあ、っと薄ぼんやりした意識で聴いたような聴かないような態度、モーツァルトも序曲はフル・メムバーの音量が階上のない中小規模器を粗野に轟かせておよそフレッシュさからは遠く、っしかし、っいかなアマチュアの興行とはいえ、っこうした公演へ呼んである歌手がちゃんと唄えない人たちであるはずもなく、っまずパパゲーノの藪内氏は、っいっさい声を張り上げられず、自然な発声のうちに颯爽たるご登場、っつづく見角女史は、っよるの女王からパミーナから、っさてはパパゲーナまでを早着替えとともに唄い分けられ、役を変わられる毎に声の色から表情、っお貌附きまで豹変されるのには、っこちとら舌を巻く、

っおおきなフォルテを鳴らす必要のなくなったオケは落ち着き、っそうするとソリストおふたりが大絶叫なぞしなくとも客席の奥までじゅうぶんに声を届けられる器の規模はむしろ奏功も奏功、多摩センなどと同様に、っこうした規模の器にはまちがいなく大規模器にはない利点がある、藪内氏のゆとりと声の色のうつくしさ、っほんの発声の差配によるネアカなちゃらんぽらんや気障ったらしさの表出、見角女史の鉄壁の技巧と、っそれゆえに達成せられる情緒の訴求、舞台人とは、ミュージシャンであれ役者であれ噺家であれダンサーであれマジシャンであれ、っひとたび登壇したならば、あんなマネはとてもわれわれ素人にはできない、っといっさいのお客を圧倒できなければならない、っきょうのおふたりのようなプロフェッショナリズムへ触れると、っあらためてそのことをおもわずにいない、っしかも肝要なのは、最高のテクニークをしかし、っいかにもこともなげに、朝飯前というぐあいに披瀝することであり、っそれができて初めて、舞台人はお客を悦境へ攫うこと能うのである、バレリーナがいつも教師から受く諫言訓示、白鳥が必死に足掻くのは飽くまでも水面下のみ、水面より上はどこまでも優雅に、水面下の苦労を悟らせるのは3流5流のやることですよ、っと、っすべて音楽人にも云いたい、客前で必死で演奏しているようでは、っぜんぜん1流ではない、っどんな楽曲だろうと、このくらいいつでもできます、っというように聴かせられなくてはならない、っこんやソリストのおふたりには、っその職業人としての矜持をまざまざとみせつけられたようにおもう、っまことに充実の公演であった、



事後は新橋へ移り、王将へ寄る、っいろいろと期限のみじかい割引券があり、使い切らねばならない、っまんまと策略へ嵌まっている、っいまは食事後、ガード伝いに有楽町をすぎ、っこないだ男の子にクロレラ・パイプのことを訊かれたガード下の喫煙スペイスへ寄らむかとおもうが、営業は21時までで、閉まっている、っやむなく東京駅まで歩き、っいまいま、中央線へ乗る、っよなかであり、降雨もしていることから、宮城遙拝はあすのギロッポンのあとへ譲る、っそのあすは、午にサントリーにて、日本フィルのきょうと同プロ公演である、っあすは有楽町の方の王将へ寄らむ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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大宮、




カーチュン・ウォン氏の棒、日本フィル公演、済む、演目は、服部百音女史を招いてシベリウスのコンチェルト、っそしてマーラー《5番》である、っこの演目では、ソリスト、オケともにアンコールなしでも、14時に始まって、ったっぷり16:20ころまで掛かる、っそのうえ、終演後には指揮者、ソリスト、コン・マスの田之倉氏の3者によるトーク・イヴェントで、済んでじつに17時ころ、っきょうは予定はこれだけかとおもっていたら、スケデュール・アプリケイションには18:30から品川区民管だとある、っぜんぜん忘れていた、指揮者は知らない人だが、ダブル・ヘッダーができそうなもののなかから択んだのと、っあとはあれだろう、先回の同管の公演の棒が井﨑正浩氏で、っしかしぼくはザギンでのジョージ・ハリオノ氏のリサイタルを聴くために、前半のみで中座してしまったのだった、っその罪滅ぼしもあって切符を購っておいたのかとおもう、器もショボいし、オケもあまり巧くなかったと記憶しており、っそのわりに先回はいやに大入り満員だったはずだが、っきょうはなんだったかな、っなにか歌手を招いてモーツァルトのアリア集とかだったかしら、湘南新宿ラインはびゅんびゅん走るので、午公演がそんなに長引いても時間の心配はしていなんだが、駅まで来ると当の路線はなんだかトラブルで運行停止している、京浜東北線は運転再開というので、ホームを移ってそれへ乗り込むが、大井町まで乗り換えなしでなんと28駅、乗った列車の大井町着時間を検索すると18:24と開演ぎりぎり、大宮発時間はほぼ定刻だったが、着時間もそのとおりかはわからない、っま、最悪前半を聴き逃してもべつにいいやとおもっている、

午前はいつもの東新宿で健康診断だったが、水曜日中の世田谷人力掘鑿とよるの目黒遊興、深更の帰宅が祟り、今週末はじつに疲労困憊、っお蔭をもって筋肉痛はすぐ翌木曜には来ていたが、っそのよるは帰宅するなりくったくたでシャワーも浴びられずに作業着姿のままベッドへ倒れてあさまで起きず、っきのうはあさシャムしてから出勤、っよるはわるい癖でまた作業着姿のまま椅子へ坐して睡ていてしまい、5時ころからほんの1時間後にアラームを掛けてベッドで睡たが、起きて風呂場で散髪し、っほんとうはクリニックへ8:30には着きたかったところ、9時ころとなってしまう、江戸っ子ボス、子煩悩ボス、歯抜け、、、ったしかいまはもう歯抜けではいられなんだとおもうが、ボスと逢い、っときおりおなじ待合場所になったので、2言3言交わす、事後は、っいつもの喫煙仲間から、クリニックから駅の方へ戻るところへ蕎麦屋があると聞いていたので、入ってみる、っまあなんというか、っいっさいなんの変哲もないファスト蕎麦屋だったが、っそれからあの麻薬密売のメッカとされる蛇行している遊歩道で歌舞伎町の方へ戻り、っいつも下剤が流れるまで待機するのに使っているファミ・レスへ入り、っさらに1品2品なにか食べて、ドリンク・バーでごくごく水分を摂っている、

大宮へは13時すぎころ来て、っいったん器へ入場、っもぎりの手前の手洗いへ寄り、健康診断であさから整髪料を附けていなんだので、中へ水回りから一通りある個室のトイレを占拠してもういちどバリウム、下剤の余波を排出し、、、汚ない話ですんません、髪を固め、器から退出、路地裏を彷徨い、コイン・パーキングへ駐車してある誰かさんの車の陰へ隠れてシガレット2服ほどして器へ戻る、

っここ大宮での日フィル公演は、っむかし何度か来て、去年、社用車で走って開演に間に合わず、前半を聴き逃した井上キーミツのものまで、っずいぶんと間が空いた、っことしで25、6年目ということだが、っぼくはそのうちの20年ほど前に、コバケンさんとのきょうとおなじマーラー《5番》を聴いたわけだ、っあの例の、1楽章の最後のピッツィが鳴ったあと、指揮者は棒を構えられたままでアタッカで2楽章へ入られたいのに、客席から、いいぞ、日本一、っと呟く声があった公演である、

ったしか2,000をおおきく超える収容人数で、アフター・トークでは3名ともにその容積とアコースティックとへ言及されていたが、っそれほどわるい音ではなく、音量の欠如もさして感じないし、コンチェルトのソロのニュアンスもまずまずよく伝わっている、

っただ、っぼくは聴力に神経を集中せしめたいとき、瞑目して聴くということをたまにするのだが、っきょうのような疲労したよく睡ていない身体でそれをするのはまことに愚策であり、っそのままこっくりこっくりしてしまう時間がいくらかあった、っそれでも、8割方の音は聴いていたとおもうけれどね、

っこんやはしっかりベッドで睡て、っあすのサントリーへ備えるとせむ、



っさて、っおそらくほぼ定刻通りに大井町へ近附いているとおもう、っいま18:11で、次が新橋だ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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都立大学、




栁澤寿男氏の棒、バルカン室内管公演、済む、演目は、コソボの人というベチリなる作家の《スピリット・オブ・トラディション》と、シュトラウス《アルペン》とである、

っきのうは西東京の下野谷遺跡、っきょうは世田谷の試掘であった、下野谷は、っひさびさに行ったが、流石に国指定史跡と成っただけのことはあり、遺跡公園は立派なものに更新せられていた、以前はコンクリートで固めたショボい復元住居跡が1軒あるっきりだったが、っいまは茅か藁かを葺いた立派なのが、公園入口から見たっきりでも2軒あり、業者が入って補修工事をしているようであった、っうちすくなくも1軒は、っうちの会社で調査したもののはずである、っあのMXが取材に来たやつ、っその動画がたしかYouTubeへ上がっていたとおもうが、

っきょうの世田谷は、重機の進入不能の現場で、表土掘鑿からすべて人力作業という過酷さで、炎天の下、っぼく、哲学科出先輩、役者さん後輩の3人で各1個所ずつ掘り下げる、コンクリート・ガラの多量に混入する土層で掘りづらく、っしかも現地表下1.5mほど掘り下げて、っぼくの担当個所はついに自然堆積層へ達せず、っただただがっちゃがちゃの土を掘ったっきりの徒労、っそれも立派な調査結果だ、包含層からローム漸移層あたりを確認しえたのは哲学科出先輩のところのみ、役者さん後輩の個所はひときわ土層の攪乱が激しく、っかつ転圧せられていて硬く、っとても人力では掘れないため、1mほど下げたところで区お役人からもお気遣いいただき、っついに掘鑿を断念、遺構確認どころの話ではなく、っわずかに散布せる縄文土器片数点を回収したに留まる、っきのうより増しではあったが、っきょうも暑く、っぼくも半袖になって汗だくで掘り、役者さん後輩は眞っ赫な顔をされていることもあり、っいつもよりもおおめに休憩を取り、近くのコンヴィニまで2度に亙り飲料を購いに行きながら作業を進めたが、っぼくもきょう1日でだいぶん陽焼けしたことであろう、15時ころ済んで、これならば直帰要件を満たしていよう、っとタオルをポリ・タンクの水で濡らして現場で半裸になって身体を拭き、私服へ着替え、沼部駅の近くへ安い駐車場をみつけたが、時間が18時からの契約なので、現場近くのファミ・レスで食事をしていてから移動し、駐車し、東急で都立大学まで来る、夕からは風も出ていまは涼しく、身体がべたつく憾みもないのがさいわい、っまた、今週末には健康診断なので、っその直前にかくしてすこしく身体を絞っておけてよかった、

っさて、プログラムを開く途端に見たくない外相の顔が出ているというぐあいで、っお客はあまり来ていないが、ったんまり助成金などが入っていて、っあれでもよろしくペイする催事なのだろう、チェムバーを名に冠する楽団で《アルペン》とは如何に、っとおもっていたが、バルカン半島出身者の方は基幹のメムバーのみで、っしかも絃のアンサムブルへ打楽器が加わるという質素な編成、常時活動しているのではなく、年に1度っきり集まり、世界各地で公演、クラッシックのみならず、ポップスの歌手のバックで伴奏したり、っといったライトな公演もあるようだ、玉置浩二だとか大黒摩季だとか工藤静香だとか、共演者へはけっこうなビッグ・ネイムが並んでおり、っそのわりに、本職のきょうのような公演で、《アルペン》などという勝負曲を掲げていられるのに、っかくしてあまり来場者がおおくないのは、不可思議な気もする、

っとまれ、コソボの作家の作はその基幹の面子によって演奏せられ、彼の地の複数民族の各民謡から旋律やリズムを採っているとのことで、5拍子のところなどあった、3つの楽章から成っていたのだとおもうが、っその最後者では打楽器に民族楽器が用いらる、快い舞踊の感触が一貫していた、

っまた、奏楽の感触として、っふだん聴いている日本人の楽団とずいぶんちがうのがおもしろい、っどちらが巧い下手ではない、日本の楽団はもっと、っすべての部分におなじ力を入れて丁寧に丁寧に弾いている、外国人にはもっと力の抜き差しがあり、抜くところはかなりラフな語りとなる、っそれにより音色の感覚もまるで別種のパレットを展げる、っああしたことは、プレイヤーにとってというより、っある種のお客連にとって、っいかにも日本人の西洋に対するインフェリオリティ・コムプレックスを刺戟しそうなことだ、っやはり日本人は西洋人には太刀打ちできないのだと、っぼくはといえば、どちらにもどちらなりの長所があるとおもってりゃいいじゃん、っというところ、

《アルペン》は小編成のまま演るのではなく、、、っというよりも基幹メムバーのみではそもそも管がいない、っそこで日本のプロフェッショナル、っおよびアマチュアを結集し、っちゃんと大所帯である、っしたがって管はすべて日本人だが、っうれしいのはバンダのホルンで、記譜の指定はたしか13人だったか、メムバー表へは12名のクレジットがあるが、っはじめ、舞台上のホルン群は7名っきりいられず、っその部分が済んだらおひとり、袖から舞台へ入られたので、当該個所は記譜通りの陣容で吹かれたのかとおもう、っそして、っただ頭っ数として整っているというにとどまらず、っちゃんとその分厚い角笛の勇猛が袖の反響板の裏からびりびりひびいてき、っまことに痛快であった、っやはりあの狩のラッパはあのようでなければっ、

《アルペン》とは妙な曲で、っあれだけ厖大な楽隊で演るのに、っきょうのような中規模器で鳴らしても、っべつにぜんぜんうるさくなく、っさりとて、っあれでめいめいが音量を加減しながら弾かれているとも見えないのだ、各音像もしゃきっと林立し、っわんわんと溷濁してしまいそうでもない、っおもえば、上岡敏之氏が日本フィルと彼等の本拠、杉並公会堂でなすったときもそうであった、っずっと爽快な音響がしており、やっかましいなっ、っという場面は絶無であった、っぼくはそれを、上岡氏一流のかるやかなオケ捌きに由来するレア・ケイスとおもっていたのだが、っどうもそうでもないようである、

っところできょうの演奏なのだが、っまったくすばらしかった、登頂、っおよび黄昏の場面では、っともに泪を流しつ聴いた、栁澤氏の棒はといえば、っほとんどずっと腰の前あたりで、台所で庖丁仕事でもするかのごとちょこちょことしたアクションっきりされず、っそれでも、っかなり頻繁に、拍節を1拍1拍、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、っと駄目押しするようになさるので、あんまりそれをすると音楽へ箍を嵌めるっきりになるからやめてよ、っと見る目の印象はかならずしもよくはなかった、っけれども、暗譜でいられるにも拘わらず、っときおり個別声部へフォーカスされるその挙動は彼氏のスコアへの鋭い眼光を窺わせ、っなにより、鳴る音がその小作りの棒に反してじつに柔軟であり、突飛なことはどこでもただのおひとつもされなかったが、中規模器で細部までめくるめくように鳴り渡るという利点も効いているのか、《アルペン》とはなんと胸いっぱいの楽曲なのだろうっ、っとの感激が絶えず席捲してやまない、永く記憶の一隅を領することになるだろう1夜である、上岡氏は別格であるとしても、、、っというよりも、っあのときは日フィルがなんだかとてつもなくスゴかったのだ、っすべての人が夢に描く、っしかしぜったいに実現可能性のない架空のオーケストラを音を、ミューズの手違いかお目溢しかなにかで、現実に聴くことができてしまっているかのようであったのだ、っそれは永遠の奇蹟であったとして、っしかし近来に聴いたインキネン氏や金山隆夫氏の同曲よりも、っきょうの栁澤氏のそれはぼくをいたく魅したようである、

、、、っただいっぽうで、ったといどんな実演を聴いたとしても、っぼくの心裡では朝比奈さんの音盤がいついつまでも鳴り止まない、記録はおおく、っじつに4種、っうち、っぼくが最後に戻ってくるのはどうしても大阪フィル盤である、YouTubeではこのときのライヴの動画が観られ、前年のシカゴ響客演のバーターで招いたクレヴェンジャー氏のうつくしい銀髪姿も拝むことができる、っほんとうならばハーセス氏も来演されるはずであったとのことで、実現していれば卒倒するほどの豪華布陣だが、大フィルのトロムペット連とて、流石に朝比奈隆の楽隊であられる、

っまた、YouTubeへはそれよりも旧いやはり大フィルとの旧フェスティヴァル・ホールでの動画もあり、っつまり現存する記録は全5種と空前の数字であるが、っこれもまた、大フィルは90年代ほどの精緻さはないものの、聴いていてぶったまげるほど絃も管もどこまでもどこまでもびゅんびゅんと音が伸びてゆく、っこれら朝比奈イズムの所産は、永劫、天高く聳える霊峯で存りつづけることであろう、



っさて、っいま沼部の社用車まで戻ってもう23時、っこれからはるばる多摩まで帰る、っあすも仕事だ、

っお次は土曜、大宮にて、カーチュン・ウォン氏の日フィル公演で、マーラー《5番》、前半には服部百音女史がシベリウスのコンチェルトを弾かれるという贅沢な午后だが、懸案は午前の健康診断、バリウムを飲むので、公演前までに下剤を流してしまわねばならない、っすでに受診してこられた会社の喫煙仲間から聞くと、9時受附のところ、8:30くらいに行ってもそのまま通してくれたとのことで、っなるたけ早く行くとせむ、

っちなみに、っその翌日はサントリーで同プロ公演で、動画配信もあるはずなので、っこれを録画すれば、近来でいちばんうれしいコレクションと成ること必定である、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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京都、八幡、




森口真司氏の棒、、、っは持たれていなんだが、八幡市民オケ公演、済む、演目は、ロッシーニ《セヴィリアの理髪師》序曲、ハイドン《ロンドン》、っそしてショスタコーヴィチ《12番》である、

上岡敏之氏に入れ上げていられる拙ブログの読者様も来場されており、事後は京都駅まで車で送っていただき、食事をしてさっき別る、

新幹線は、っさいきんになって以前みたように乗車の3月前から購える割引の切符がなくなって、1月前から発売のものを購わむとすると、土日分などは発売初日の販売開始直後くらいでなければ、っのぞみは瞬く間に売れてしまってぜんぜん購えない、っせんじつ、来月のフェドセーエフ/大阪フィル公演のためにその切符を求めねばならなんだのだが、っちょうどひとつふたつ試掘調査で現場へ出るのでばたばたとしていて、なにか忘れている気がするなにか忘れている気がする、っと思案してああ新幹線の切符だわと気附いたときにはもう発売から2日ほど經っており、っすでにしてのぞみの割引切符は皆無、っかろうじて往路のひかりのそれは残席があり、っしかし復路はそれもなく、っえ、っのぞみの定価普通車指定席よりもひかりの割引グリーン車のほうが安いのかな、安いかほんのすこしく高いかくらいなので、後者を購う、っこだまでなければ、っひかりならば東京-新大阪間で30分もちがわないくらいだ、

っちなみにきょうも往復ともにひかり、っのぞみみたように時間帯がよりどりみどりではないので、っあさ新横発9時前と早く、っゆうべは20時すぎまで会社へいて、呑んで帰ってあんまり睡る時間もないままに6時半ころには起きて身支度、7時すぎには外出して多摩センから小田急で新百合、町田、横浜線で新横、時間的には京王で橋本経由のほうが早いようだが、小田急のほうがすこしく安い、町田での乗り換えもじつにひさかたぶりで、改札を出る途端にその景色に、ううわっ、懐かしっ、っと気分も昂揚したが、ペデストリアン・デッキを早足で移動したので横浜線へは検索したものよりも1本早いものへ乗り継げ、っお蔭で新横では構内の喫煙スペイスへ寄れた、っいつものごと崎陽軒のシウマイを購い、車内ではあさも9時前から缶ビールを開けている、

っとちゅうだいぶんうつらうつらしながら京都まで来たので、っよるはあまり睡ていなくとも公演中に睡くなることはなかろうと踏む、っただ、睡惚け勝ちだったのか、京都から石清水八幡宮までは、っいちどちがう駅でホームへ降りてしまい、っつぎの各駅を待って、っこんどは1駅乗りすぐして次の奇しくも彼の地の橋本という駅まで往ってしまい、駅間はみじかかったようにおもえたので、っもうそこから器まで歩くこととして、予定では13時開場で12時半までには器へいる心算だったが、着いて13時を数分回る、っしかし、開場直後のはずだがもぎりの周囲は閑散としている、っかかる市民オケの公演では、近隣の人が挙って聴きに来て、開場前に100人や200人は列を作るだろうと覚悟していて、っしかしそうならば、開場数分後ではまだもぎりの捌き切れない初期入場者連が遺っているのではないかとおもったのだが、っそれがなかったので、っいまだ人跡疎らの場内を期待するところ、果たしてそのとおりで、悠々と好位置を得る、席へ背嚢を置いて開演直前あたりまで外で喫煙していたが、チェムバーのプレ・コンサートがあったらしく、聴き逃す、

っことし、っとくに今夏はこれから、現時点でも複数の聴きたい公演が同日開催と判明しており、悔しいおもいをしている、っらいげつには佐藤雄一氏のブルックナー《5番》を聴くが、っそのおなじ日には上野の小器で坂入健司郎氏が東京シティ・フィルを振られてモーツァルト《39〜41番》を演られるし、7/21の旗日は、っすでにして坂入氏の有楽町におく新響公演の切符を購ったが、井﨑正浩氏が紀尾井町でブラームスをなさる、翌8月の11日の旗日には、長田雅人氏とオーケストラ・ダスビダーニャとが、ショスタコーヴィチのシムフォニーのうちで彼等がこれまでゆいいつ演奏していられなんだという《死者の歌》を取り上げられるのだが、同日には横浜で森口氏がオーケストラ・ダヴァーイときょうとおなじショスタコーヴィチ《12番》を演られる、っまた、同24日の日曜には、先に頗る印象の好かった山上紘生氏とポラリス・フィルとの、前回よりもすこしく小さな編成での公演が午にあり、っそれはよいのだが、っよるには小柳英之氏のチャイコフスキーで、っよしダブル・ヘッダーだとよろこんでいたところ、っおなじよるに金山隆夫氏の公演もあるのだと判って落胆、っどちらへ行くべきか悩んだが、金山氏の公演は事後にYouTubeへ動画が上がるので、小柳氏を聴くこととした、9月になると上岡氏の二期会公演があるが、早計にもその切符を4公演中3公演まで購ってしまい、っうち1公演の同日には福井で同一公演の前後半を坂入、井﨑両氏が振り分けられる催事があり、っそれへ行けないのがざんねんだとこぼしていたところ、っきょう逢った方がその日の上岡氏切符を引き取ってくださることとなり、っぼくはその日は福井日帰りである、器はとても好い音響のような予感がするので、ったのしみである、

っそんなわけで、っきょうの森口氏のショスタコーヴィチはじつに聴き逃せなんだ、アマチュアの楽団の公演までを新幹線代を出して聴きに行くのは流石に酔狂がすぎるか、っとの自己嫌悪もあり、っなにより懐事情も穏やかではないのだが、っきょうまでに横浜での同曲公演が聴けないということが判明するのであれば、っどのみちぜったいに聴きに来なくてはならない運びだった、っそして、掛け値なしに、聴きに来て正解、大正解であった、

楽団の過去の公演の演目を繰ってみると、っわりに近現代の厄介なものばかりを舞台へ掛けていられるようなので、っそれなりに弾ける団体であってくれるはずだとの予断はあった、本番前に舞台上で浚っていられる方々の音、っそして全員でのテューニングを聴いても、っちゃんと音の出せる人たちだとおもった、っついに森口氏が登壇されてロッシーニの冒頭のトュッティが鳴るが、っその瞬間に、あっ、勝負あったっ、来てよかったっ、っとの確信に全身を打たれた、

器のアコースティックがまた快かった、階上のない中規模器、っつまりちょうどけさぼくが後にしてき多摩センなどに相似するわけで、ピキェロあたりを交えるとかすかにハウリングしてしまいはするが、管絃の基幹が中音域へ集中しているぶんには、っほんとうにちょうど好い塩梅のオーケストラの音がする、っどんしゃりではないかと云われるとわずかにその気味はするものの、っそれは各声部がマルチに聴こえるたのしさに資しこそすれ、楽音がぎすぎすして聞こえるという悪印象はけっしてしない、ったとえばトュッティが去った後へ1stと2ndとが中音量以下で和音をやっているのが聴こえる、っそれがみごと澄明にハモっている、っそして全楽がパウゼへ至ると美麗な残響もほどよくしている、

っさように、指揮者も楽団も器も、っすべてがうれしい時間時間で、っこうした公演の客席へ坐しているのは、っほんとうに仕合わせなことである、

ロッシーニは、っどの部分もやや遅いテムポに構えられている、っいわゆるロッシーニ・クレッシェンドの件の音型がごく細かいので、っそこを楽員がぎりぎり弾ける速度にし、っこれを基準に他の部分のテムポを配分されたようであったが、っそれにより溌溂さと丁寧さとがザ・ベスト・バランスで両立し、森口氏の細を穿つ声部声部の動かされ方も、っその効果が覿面に発揮せられていた、

っとはいえ、木管4種1番の面々のうち、あ、ちゃんと巧い、っとおもわせたのはクラリネットくらいで、オーボーの1番の方など、っややまずい音をされていた、4人が4人とも名手というのは、アマチュアは愚かプロフェッショナルの楽団でもなかなか望めないのだが、頼りになるのがクラリネットおひとりというのはすこしく辛いかと危ぶんでいると、ハイドンでは、ったしか4人ともロッシーニでの下位の方と乗り替えられ、パートによってはショスタコーヴィチでさらに並びが変わられたようであったが、っこのハイドンのときが、同団にとっては最良の布陣だったのではないか、オーボーも澄んだ綺麗な音になり、フリュートのまたなんたる音楽をするこころかっ、っほとんどスタンド・プレイに1歩手前というくらいに篤く篤く訴えられる場面も1度や2度ではなかった、っその音色のうつくしいこと、歌われ方の積極性といったら、、、

ホルンは、世にいちばん美麗な音色でいちばん巧く吹ける人たちからすれば、っそれは聴き劣りがしてとうぜんというもので、っそれを要求するのは酷がすぎるというもの、っこれを救うのがトロムペットで、1楽章の序奏から、誰もがこの楽器に聴きたいと希うその耀きが無理なくすんなりと出て、硬い頭のマレットで古風を志向したティムパニとともに、早くも威風充溢、

っこれら管打へ相対する絃であるが、っこれがまたまったくすばらしいアンサムブルであった、特筆すべきは各パート毎の音のキャラクターの立ち方と、っそれと器のアコースティックとの相乗効果とで、1stはいかにも管絃楽の花形中の花形、音の色に主役を張れるだけの顔というものがあり、っさりとて、っただただ自己主張がうるさかったというのではけっしてない、っむしろぼくは、っとくに彼等の音を聴いていて、例の、それがヴァイオリンの音であるということを忘れてしまう、っという感触をたびたび味わった、彼等があまりにもヴァイオリンという楽器から出て慾しい音というのを出してくれるものだから、っそれはきょうたまさか日本の京都府の八幡市の一角で鳴らされた音であることを逃れて、っあたかもはなからこの時間と空間と、歴史と世界とへの存在を約束せられていた音であるやに、っこちとらを錯覚せしめる、それがヴァイオリンの音であるということを忘れてしまう、っの1文を別言すればさようになる、っこの不思議な感覚は、っともかくその場に居合わせてみないことには味わいえない、っいま想い出しているのは、田代俊文氏が東大の学生オケと上野大器で行なわれたチャイコフスキー《5番》である、

っこの1stが太陽の燦然であるならば、2ndは月明かりの愼ましさである、ハイドン1楽章の主部がひとしきり漸増して退くと、彼等のリズム音型が後へ遺るが、っその低い音域をみずから意識して弾いていられるアルコの発音の濃密よ、、、っそうした意識的の奏楽の励行は2楽章でも音楽へ深甚なる奥行きを與えてやまなんだものである、

ヴィオラがまた曲者で、っひじょうに果敢な音量を誇っていられたが、っこの楽器がそうした主張を為す際、っわるくすると音色に渋柿でも囓るごとえぐみの出てしまうのが難点で、っしかしきょうの彼等は、っどんなに弾かれてもその雑味とは無縁、ハイドンでは3楽章の主部において、リズム上の仕掛けを強調されむとする森口氏の意気に感じられて、満々と弾き切られたその音の質量にシビれた、

セロ・バスもいずれ劣らず、っとくに後者は、ソリッドな音の肌合いが出色、器の高度の分解能はこれらの素敵なキャラクターたちをすべて曇りなくみせてくれ、絃と木管各種とがユニゾンで鳴る際、完全に融け合ってしまわず、ああ、絃と木管とがいっしょの節を鳴らしていますね、っと聴いてはっきりとわかるその音響は、本格のコンサート・ホールではむしろ阻喪せられてしまう妙味であり、ロッシーニでもハイドンでも、っそれが耳にたのしくてうれしくて仕方がない、

っところで、っぼくはふだん、演奏に対してどんなに贅言を弄しても、っこの語彙だけはまず用いない、っべつにそう固く決意しているというのではなく、単にありとある演奏はそのような形容に馴染まないから用いないほうが自然であるというにすぎないが、っすなわち完璧の1語である、っきょうこのハイドンはしかし、敢えて謂えば完璧であった、指揮者の造形、オケの奏楽、器のトーン、3拍子がすべて萬端整い、客席へ居合わせた人のいっさいが、ハイドン《ロンドン》とはいかに立派で、っいかにうつくしく、っいかにウィッティで、っいかにたのしいかを、篤と味わったことであろう、っなにも不足していないし、っあれ以上なにも足される必要がない、っまさしく完璧な演奏であった、曲調は、っべつに泣かせるようなところはどの楽章にもない、っけれどもぼくは、ったびたび目頭の熱くなるのをおぼえた、っあるいは、遠路はるばる聴きに来た演奏がこのとおりまったく勝れている、っというバイアスも掛かっていたかしれないが、っあれほど音楽を堪能させる時間というのは、っどんな指揮者どんな楽団といえども、っそう容易に創出できるものではないので、その場にいまこうして俺はいるのだっ、っとの感激に襲われずにいないのだった、

1楽章の展開は、マルチな聴こえ方の妙が最大限に活き、フゲッタの緊張感を伝えるし、再現が主題の扱いにおいて提示の際とだいぶん様相を異にするのは、楽聖ですらこんなに大膽なことはしていないのでは、っとおもわれるほど、

2楽章は、モルの場面でっきりティムパニが用いられないのが印象的で、っその悲愴の感触は、っま、楽聖《エロイカ》の葬送を喰うばかりだと云えば過言になるかもしらんが、っしかし高い高いハードルとして彼をいたく激励したろうと思量せられ、っむしろハイドンにかかる達成の存ったればこそ、彼は《エロイカ》のあの雄大無比なる楽想をその心裡へ胚胎、抱懐したのにちがいあるまい、っまた、楽聖といえば変奏の大権現、っおもうさま創意の翼を展げてゆく勇姿はあれこれの傑作群の隨所に刻印せられているが、っこの2楽章のとくに終局では、楽聖のようにとめどなくロング・スパンでというわけではないものの、え、いったいどこまで元の主題を自由に扱う心算なんだろう、っとなにか手のつけられない音楽の膨らみがありありと実感せられた、

メヌエットを通ってフィナーレまで来ると、っそこへはもはや指揮者もオケも誰もいない、っけれども、っあれで森口氏の表現は恆にごくごく意志的であられるのだ、っそれが曲にとって、曲の妙味にとって、必要にして不可欠であるがために、っどんなに雄弁術を繰り出されても、指揮者の顔は見えず、っぼくらはただただ音楽に夢中というわけである、

っもう多摩センまで戻ってしまった、ショスタコーヴィチは、横浜での公演を聴けないぶん、っきょうを十全に味わいえたのはなによりである、っや、横浜を聴けないのがよりざんねんになったと云うべきか、っかくなる上は長田氏はぼくに、迫眞も迫眞の《死者の歌》を聴かせてくれねばならない、っそして関東圏の人で長田氏公演を遠慮されるというならば、っぜひに横浜の森口氏公演を聴きに行かれたくおもう、っきょう森口氏は、3曲とも暗譜でいられた、っあれだけ身体へ楽曲が入っていられれば、っどこの楽団とも四つに組まれた奏楽が可能であろう、オーケストラ・ダヴァーイもまた名うての団体でいられ、っそれはそれはすばらしい《12番》を見舞われること請け合いである、



っさて、っお次は水曜、目黒で栁澤寿男という人がシュトラウス《アルペン》をお振りになる、っその日は世田谷の試掘調査でわりに器の近くへいるので、っできれば会社へ戻らずに現場から直帰で遊びに行ってしまいたいところだが、っまあままよ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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上野、




佐藤久成、佐野隆哉両氏リサイタル、済む、演目は、メンデルスゾーン、シューマンのソナタを演って休憩し、後半はコニュスなる人の単一楽章のコンチェルト、ヴィヴァルディのソナタ、最後にリスト《グランド・デュオ・コンチェルタント》である、

怒濤の10日間8公演の掉尾であったが、っゆうべから気温が下がったせいか、っけさから鼻っ風邪の気味で、1日中洟が止まらず、演奏中はハンド・タオルが手放せない、っすこしく頭もぼんやりとしていたが、っしかし音はちゃんと聴いていた、

シューマンはやり切れない欝屈趣味だが、メンデルスゾーンは流石に快活な曲調、コニュスは明瞭な楽想でたのしく、っもちろん終局にはカデンツがあり、佐藤氏の独壇場となるのも必至、ヴィヴァルディは華やぎ、リストは両々譲らぬ果し合い、

っきょう日、っよく音の揃わない解れた合奏をプロフェッショナルのオケに望みえないように、ヴァイオリン単声でも、佐藤氏のようなラフな語りはほかの奏者からはけっして聴きえない、っいかに毛羽だったささくれだった音を出さないかを競っているかのごとこの楽器の奏楽の現在であれば、彼氏のあのとおりの音を聴いてこそかえって渇きの癒えるのを感ずるほどだ、

帰って温かいものでも食べて睡よう、



っお次は日曜、京都日帰りにて、森口真司氏公演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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多摩セン、




、、、っく、っいま中途まで書いて、ファミ・レスへ入ってオーダーのQRコードを読んで註文を送信してからこのアプリケイションへ戻ったら、書いた分がぜんぶ消えた、、、ったまにある、っまめに保存しながら書く癖にせねば、

っや、っまあ話の枕に公演へ行くまでになにをしていたかと、終演後、っいつもここで喫煙する場所から楽屋口を見下ろしていて、髙木氏やコバケンさんが去られるのを見ていた、っということを書いたのだが、っどうでもよい話でもあり、、、っどうでもよい話だからこそかかる手慰みとして書くのがたのしいのだが、再現する気力もないので、割愛、

コバケンさんの棒、読響公演、済む、演目は、髙木竜馬氏を招いてラフマニノフ《2番》コンチェルトと、チャイコフスキー《5番》とである、

東京の外れのすこしくマイナーな器での公演でありながら、切符は、ったしか全席¥8千いくらだったかな、容赦のない価格設定で、っしかし多摩セン人もどうして侮れず、っじつに満席、

日本フィルとの同曲動画を観て爾来、髙木氏のラフマニノフをたのしみに待っていたが、果たして階上を有たない中規模器で弱音までくっきりとクリアに聴こえ、っそれがコバケンさんのじっくりとしたオケの扱われ方と相俟ち、っおおきに堪能せる、っただ、2楽章のまんなかで、ソロが最後に高音をがちゃがちゃと打鍵したあとへ遺る危うい和音とか、フィナーレのさいしょの主題の存在感あたり、っもっともっとツィメルマンを忘れさせてくれたい、っそれはけっして不可能な業ではない、目黒での岡田奏女史は達成されたのだから、

ソリスト・アンコールは日フィルの動画とおなじシューマン〈トロイメライ〉、っおおきな呼吸と間合いの取られ方、弱音を主体としてさらに最後には最弱音が馳驅せられ、っまったくすばらしい、

チャイコフスキーは、っいつぶりだろう、日フィルとの同番号附き全シムフォニーを聴いて以来だろうか、っそれからもほうぼうのオケと数多に演奏してこられているだろうが、1楽章の主題毎の激越なテムポの落差はもはや完全に定式化せられており、っかってのようにどたばたと勢いを頼られる風ではない、アンサムブルはいつもきっちりとしていられるが、っそれだけに、っその落差もよりおおきく感ぜられ、そこまでしますかね、っという閾、、、っああもう、っまたなんか手違いでよくわからん操作をしたら以下すこしく消えた、っきょうはなにか不運だ、気を取り直して、っぼくらはすでにしてコバケンさんの同曲への按配をよく識ってしまっており、っいま現在でもいつでも数多にその演奏を聴けてしまうのだが、っよのなかへあんな演奏はひとつだになく、っそれがひょっと舞台上で行なわれたと想像してみよ、如何にうれしいか、っや、ゲテモノ趣味者のぼくにはうれしくて仕方ないのだが、っきょうあらためて、っそのことへ想いを致さずにいなんだ、

っいっぽう2楽章では、ホルンの主題がセロへ再現する際に、従前までは行なわれていた、1拍目の2ndの音価を記譜よりもぜんぜん長く取られるという改変は封印せられており、っそんなごくわずかのことが、っまたぼくには無性にうれしい、ゲテモノ趣味者のぼくとしても、っああした改変はむしろ窮めてダサいとおもってきたからである、コバケンさんはブラームス《1番》フィナーレのトロムボーンのコラールにおいても同種の音価の改変を行なわれてきたが、っその髙木氏とご共演された日フィルとの動画の本プロは同曲であり、っそこではこの改変も返上、っいま想い出した、マーラー《5番》フィナーレでも、ストラヴィンスキー《ハル・サイ》でも、っやはり同様の改変は行なわれていたのだが、後者については、目下のところ最新の記録たるロンドン・フィル盤をぼくはいまだ聴かないので不明、っしかし前者については解消せられており、っこちとらこれにもじつに溜飲を下げた、

フィナーレあたり、っめいっぱいに展がるひびきを受け止めるには流石に器の容積が足らず、っやや直接音直接音してしまってひびきを賞味するよろこびを殺がれるが、っまずまずたのしんだ、

アンコールにお定まりの《ダニー・ボーイ》、演奏前にコバケンさんがすこしく話され、息子は戰爭へ取られてしまった、お前は年老いた母を遺して父とおなじように私から去るというのか、との歎きの歌でございます、詞は唄われませんが、オケのみなさまがそのこころを壮絶に表現してくださることでしょう、っとのことで、ってっきり牧歌的の平穏な歌だとばかりおもっていたぼくは、へえ、そんなシアリアスな歌だったのかよ、っと驚く、っひさかたぶりに聴いたこともあり、っじつに両の瞳からぼろぼろと泪を落とす、

っいつも都心での公演の際は、休日の午のそれであっても、戻ってくるうちにこれを書き切らず、多摩センの喫煙スペイスへ立ち盡しつけっきょくは暗くなるまで掛かってしまうというありさまだが、っきょうは、っまあ書いたものが失われたのはざんねんだが、1杯引っ掛けてもまだ19時すぎであり、室まではわずか10分で帰れる、っなんたる仕合わせか、



っさてあすは、仕事のあと上野、佐藤久成氏のリサイタルである、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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ギロッポン、




カーチュン・ウォン氏の棒、日本フィル公演、2日目、済む、演目は芥川也寸志《エローラ・シムフォニー》、ブリテン《パゴダの王子》スート、サー・スティーヴン・ハフ氏を招いてブラームス《1番》コンチェルトである、

っきのうも開演10分前でも空席過多で、え、、、こんなにがら空きなのかよ、っとおもう、っその後、開演までにはそれなりの埋まりぐあいにはなったが、土曜のきょうはもっと数多の来客があるのかとおもうと、っきょうもゆうべとそう変わらず、日フィルのサントリー定期2日公演は、っかたっぽはぼくのこの器での定位置であるRCが一般発売でははなからどこのプレイ・ガイドでも購えない状態で、っきょうは善後的にRA、B席の2列目、っま、同一プロを2日ともおなじような位置で聴くというのも勿体なく、異なる音響条件のほうがよいとはいえ、っいざ着座してそこからRCを望むと、っじつに空席だらけなのだ、っなんでだよっ、空席があるならそこへ俺を坐らせろよっ、っおそらくは、軒並み定期会員に押さえられていて、っしかしその人たちが聴きに来ていないということなのかとおもうが、失礼な話である、来ないんなら定期会員になんかなるなよ、空席だらけの客席を舞台上の演者へ見せることについて、っいったい申し訳ないとおもわないのか、カネは払っているんだから文句はないでしょとでも云う心算か、っまったくその倫理観を疑らずにいない、

っけっきょく、仕事は休んでしまう、2度睡3度睡で11時ころまでベッドへごろごろしていて、っやっと出掛く、っそれにしても、っゆうべも云ったが、演奏の出来も含めて、っじつに良プロ好プロであり、カーチュン/日フィルも、っせんじつのマーラー《復活》のような公演では、発売から瞬く間に切符が売れてゆき、2日ともほとんど完売だったのだろうが、っかようの、来場してみれば全体に極めて充実しているという公演が、っしかしおおくの集客を得られないというのは、っいかにもかなしい、日本のお客も、っもっとほんとうに音楽に対して貪慾貪婪になってくれたいと希わずにいない、っもっとも、っぼくとて在京のすべてのプロフェッショナルの楽団のまいつきの公演へ通っているわけではぜんぜんないのだから、っあまり他所様のことを悪し様に云えたものではないが、っよのなかには、っそんなことをしている人がいるのかねえ、っま、っきっと幾人かはいるだろうな、っしかしそうせむとしたら、っよっぽど一生遊んで暮らせるカネを有っていて年中閑人ですという人で、っかつ相応の体力気力がなければならない、演奏会の現場というのは、聴く方にとっても、快く体力気力を消耗せる場だからである、

舞台は至近距離であり、芥川氏の作から、っきょうは数多の打楽器の多彩の質感をおおきにたのしむ、っが、っまことに遺憾ながら、っこの曲のどこがどのように引き算の作曲であるのかは、っけっきょくよくわからなんだ、っともかく、鳴っている音をただただたのしんでいるのみである、

っところで、今公演にプログラム・ノートを寄せていられる方は、調べればわかることだからお名は伏せるとして、先般の新響の記念公演でもお顔を出されていて、っゆうべも来場されていたが、邦人作曲家に執心され、っその紹介に盡力されている業界人でいられるけれども、っぼくは彼氏にいちど酒席で凄まれたことがあるんだよなあ、っなんの脈絡もなく、え、そんなところでそんなに大声上げることかいな、ってなもんだったが、っとつぜん恫喝紛いの罵声を浴びせられて、っしかし、っそのときの彼氏の眼鏡の奥の目の色をよくよくみていたら、っなんのことはない、っじつにおどおどとされていて、要は、っよく素姓を知らない人物にはまずがつんと脅しを喰わせて、っそれで相手の反応をみる、っさように、人間関係といえばすなわち上下関係である、フラットな人間附き合いなんぞできた例がない、っというような憐れな人で、っぼくとして凄まれている意味がまるでわからないので、なんだコイツ、ケツの孔のちっちゃい男だな、っと柳に風と受け流していたところ、凄むことでマウントを取れるという経験則だったらしい彼氏は、当てが外れて不満貌、ってなものであった、っああいう人というのは、狭い業界でそうまいにち忙しく仕事の口があるわけでもなさそうなのに、っいったいどうやって収入を得ておまんまを喰っていられるのかとおもうが、聞いた話では、っやはり邦人作曲家を大事にかんがえている、カネに糸目は附けない、っというパトロンがいるとかいないとかということだ、っま、っひろいよのなか、っべつにそういう仕事があったってわるかないとはおもうがね、邦人作品の演奏さる公演では頻々とお顔を見掛けるのだが、っそのたびに、あ、あの人、べつに業界人でもなんでもない俺のことを意味なく怒鳴った小者だ、っと見下げている、

ブリテンは、っきょうも無上にたのしい、日フィルのアンサムブルのすばらしさよっっっ、

ブラームスは、っきょうの位置ではピアノ線は蓋の向こう側で鳴っており、眞に微細なニュアンスまでを噛み分けるわけにゆかなんだが、っいっぽう管絃はきのうよりも直接音直接音して生々しく、っこれもまたよき哉、

同曲は従前は、フィナーレのコーダまで待たねば華やいだこころの解放を望めず、っあとはずっと深刻癖の吐露でまったく辟易させると侮っていたが、っきのうきょうと聴くと、っまあそれでもぼくは全的には同情し切れはしないが、っしかしぞんがい寛いだ気分の場面もあるし、2楽章へは、コンチェルトの緩徐章として異様なほどの神秘が聴こえ、憂愁が漂いもする、中途に出るクラリネット2本の和声の主題など、っや、っやはりぼくはあのような感傷は不健康だとはおもう、っおもうけれども、っしかし率直に、嗚呼、好い音楽だなあ、、、っと胸を震わさずにいなんだ、

ソリスト・アンコールは、っゆうべはシューマン、っきょうはショパン、っそのきょうの最有名の《ノクテュルヌ》は、敢えてほんの小手先へ流されるようなあっさりとした語り口で、っしかも独得の間合いの取られ方が存り、背後で聴かれている田之倉氏が、奏者がヒヨったのかとおもわれたようで、う、え、サー、大丈夫ですか、っというお貌をされたくらいである、っあんなこと、っいま囂しいコンクールでコンテスタンテがやらかそうものなら、予選だってまともに通してもらえないということなのにちがいあるまい、っああした無碍なる居住まいを聴くにつけ、べつにコンクールなんぞそう躍起になって受けなくたってよいじゃないか、っとおもわずにいない、



っさて、っあすは我が最近所、多摩センにて、コバケンさんと読響との公演で、っきょうは青砥にて同プロ公演が行なわれているはずだが、っその2日目である、髙木竜馬氏がラフマニノフ《2番》を弾かれるので、っおなじコバケンさんとの日フィルとの同曲は、公演へは行かなんだが、配信を録画して、っそれはぼくにとって得難い寶物である、っその再来、っあるはさらなる飛翔飛躍を希みたい、

っそうだ、っきょうの事後は、恆頃と趣向を変えて宮城の方を先に巡り、っいつもの馬場先門側からでなく、櫻田門側から遙拝、有楽町の王将へ寄り、生3杯と大食をして、クーポンと会員カードとで割り引いてもまだ¥4千を超えるという散財、退店してガード伝いに東京駅の側へすこしく歩くと喫煙スペイスがあり、シガレット数服、インナー・ヘッド・フォンでその髙木氏のラフマニノフを聴いているところ、隣の男の子が話し掛けてこられるので、っなんだろうとおもってフォンを外すと、っぼくはシガレット喫煙に数年以前からクロレラ・パイプを使用しており、すみません、めちゃくちゃ気になって、それはなんですか、っと訊かる、これはクロレラ・パイプといってですね、へえ、どんな効果があるんですか、さあどうでしょう、一寸ニコティンを抑えるとか、そういうものではないですか、コンヴィニとかに売っていますよ、っと会話す、気の好い若者だ、フォンで耳を塞いでいる人へ話し掛けるというのは、っすこしく勇気の要ることであろう、っそれを押してコンタクトを取ってくれたというのは、っまことにうれしいかぎりである、

っおっと、っここへは自販機がある、っいまや喫煙スペイス僅少の都心にて、っありがたくもこうした場を提供してくれているのに、場所だけ使ってなんの貢献しないというのは人の法にない、っべつにどうしても食べたいわけではないが、食後のディザートにアイスをひとつ購ってゆくとせむ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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ギロッポン、




カーチュン・ウォン氏の棒、日本フィル公演、済む、演目は、芥川也寸志《エローラ・シムフォニー》、ブリテン《パゴダの王子》スート、っそしてサー・スティーヴン・ハフ氏を招いてブラームス《1番》コンチェルトである、

っきょうは荒川の試掘であったが、現着は9時ぎりぎり、、、2時間では着かないだろうとはおもったが、6時ころ出て、8:30でまだ現場へいられないということはなかろうと高を括っていると、20号はいやに混んでおり、初めて平日あさの新宿を突っ切るが、動いたかとおもえばすぐに信号へ捕まり、っみるみるうちに時間がすぎてゆく、5:30に出ても遅いくらいだったのだろうか、仕事が午すぎまで掛かればそのまま直帰扱いにして遊びに行ってしまわむとおもっているが、っちょうど午ころ了わり、っいかな遠路といえど、っあれで午后をまるまるサボるわけにはゆかない、っそれに、現場で荒川区お役人から受け取って会社で野帳くんへ渡すものがあったし、っそれはきょう中でなくともよかったのだが、っゆうべ洗濯物を干し、っきょうは夕すぎから雨の予報だったこともあり、大人しく帰社、っいちど聖蹟本棟へ寄り、っそこから別棟までの、っま、通り道というのでもなくすこしく遠回りなのだが自室へ行き、洗濯物を取り込んでから別棟へ、1時間ほどで現場終了後の雑務をちゃっちゃか済ませ、社用車を再度、本棟へ戻すべく別棟を出て、本棟で17時を迎え、定時退勤す、

っそれにしても、っなかなかに凝った好プロだった、芥川氏はことし生誕100年、インドへ取材したというその作へは南アジアの音階がしているし、ブリテンへは、っこんどはガムラン趣味が発露、っとつぜんブラームスへ飛んだかとおもえば、っそのソリストは英国の大家というわけである、

っあさが早かったこともあり、っときおりわずかにこっくりこっくりしてしまうが、9割5分まではしっかり聴いていたとおもう、

芥川氏の作は、曲想はまずまず把握はできたが、エローラ石窟寺院に触発せられて引き算の作曲を志向されたというその引き算の要素は、無学のぼくには不明だった、っあすもういちど、音々を積んでゆく足し算の音楽となにがどうちがうのか、っこころして聴くとせむ、

ブリテンは、ハレ管とのバレエ全曲版の音盤が出ているが、YouTubeですべて聴けるようなので、っいちおう1回は通して聴いてみた、っそれで楽想がすべてわかったわけではないが、っよく識らないで聴いてもさのみ置いてけぼりにされるような曲調ではないとおもったので、っそれ以上は聴かずにきょうを迎える、スートは、っまあ重要場面のいくつかを採っているのだろうが、え、YouTubeで聴いてこんなおもしろいところあったっけ、ってなもので、演奏がまた飛鳥のごと羽搏き、っああしたときのカーチュン氏と日フィルとは、っほんとうに聴いていて観ていて眩しいかぎりである、

本プロへコンチェルトを持ってくるというのも快い、っそのブラームスは、古色蒼然たるドイッチュ浪漫の味とはおよそ無縁で、っあくまでも機能的にして精緻に音のレイヤーレイヤーを折り重ね、っどんなに重なっても音も音楽も濁らないという在り方、っもっとも、ドイッチュの人たちとてきょう日ではさようの演奏をするが、っそうとすればカーチュン氏のあの、っけっして冷めていられるのではない、っしかし再構成再現前の感触は、彼氏のコムポーザーとしての稟質に拠っているだろうか、同曲といえば、ゲルハルト・オピッツ氏と1夜のうちに同《2番》とともに演ってしまわれる、っという公演を名古屋まで聴きに行ったが、っそのときにはオケがチェムバー・サイズで厚みに不足したのと、オピッツ氏も、《2番》ではあんなにも自信に満ちたすばらしいフォルムでいられるのに、っどういうわけか《1番》のほうは奮われず、っもうひとつ、ある完成せられた演奏を見舞われた、っとの手応えへ達しなんだ、シムフォニー・オーケストラたる日フィルの規模こそは、初めて十全に指揮者の意匠を体現しえたようだ、

っよるこそ本降りというので、聖蹟へ着いて濡れてチャリンコで走るのか、っと憂欝だったが、っちょうど雨の止み間で助かる、っあすは、午前のみ仕事をしてとおもっていたが、半日ばかりじゃたいした作業もできんしなあ、休んじゃおかな、

っところで、日フィルの定期はまいかいかならずtvuchで配信せられるわけでもないらしく、視聴をひそかにたのしみにしていた先般のリープライヒ氏との公演とか、広上氏のオペラなどに際してはなんの音沙汰もなく、っしかし、っきょうのプログラムを繰ると、っこんげつのカーチュン氏のマーラー《5番》は配信予定とのことで、っじつにうれしい、っしかも、大宮、サントリーとあるうちの後者が収録せられるというので、っとうぜんの撰択である、彼等は協業の最初期にすでにして同曲の音盤を制作されており、っそれもすばらしい記録にちがいないが、っもっとライヴの感触のする再生音も得ておきたい、っそれに、表現としてもさらなる深化を望みえよう、

っではあすまた、っお、っあすは事後、有楽町の王将へ寄れそうだな、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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ギロッポン、




コバケンさんの棒、武蔵野合唱団、創立70年記念公演、済む、コバケンさんは同団を25歳のころからじつに60年に亙ってご指導されてきたとのことだ、オケは東京シティ・フィル、ソリストに森麻季、清水華澄両女史、笛田博昭、青山貴両氏を招いて、演目はヴェルディ《レクイエム》である、

っぐふううう、、、っおなかいっぱいっ、

コバケンさんの同曲を聴くのも、っじつにひさかたぶりだ、全曲暗譜で振られており、っときおり、あ、いま一寸お間違えだったのかな、っというところがあったが、耄碌というほどのことでもなかろう、っというのは、っぼくもコバケンさんがキューを送られるのを観ながら、そうそう次はその声部が鳴るよな、っとおもい、っいざ鳴って、あ、ちがう、まだもうちょい先だったわ、っとおなじように勘違いしていたからである、、、っお前なんぞと較べんなよという話だが、

っむかしっから〈サンクトゥス〉全体や〈リベラ・メ〉の最後の登坂は遅いテムポでいられたが、っさらに0.75倍速というか、0.5倍速か、っというくらいで、っじつにくらくらする、っそして、〈ディエス・イレー〉のグラン・カッサを撥2本で打たせられたりとかといったどんちゃん趣味はいまだ遺存してはいるものの、っさようの極遅の裡に全員が絶叫するような個所で、無法な音圧にまでは達しない、〈リベラ・メ〉のそこが地獄の沙汰みたようなおどろおどろしい速度となっても、クレッシェンドし切った際の音量が2,000席の音場がちょうどめいっぱいに満たされるところで踏みとどまっている、っこれがむかしだと、舞台からいちばん遠い客席の壁をまだぐいぐい無理押しするごとまさしくどんちゃん騒ぎであったものだ、テムポが遅いことによってすでにして音楽的主張たりえているので、っそこへさらにけたたましい音量音圧をまで加えては、頭痛が痛い、っとでも音楽を語るのとおなじことである、遅く振るなら音量はちょうど飽和するっきり、っぎゃんぎゃん演りたいなら奇異なほどには遅くしない、っふたつにひとつである、っやっとここまで来た、小林研一郎はそこまで枯れたのだろうか、否、っぼくはそこまで登った、昇ったのだと云いたい、

っとはいえ、っとくにはじめのうち、っなにか客席のこちとらが薄氷を踏むようなおもいであった、上記以外の部分も、っというよりも全曲すべてがなべてゆっくりじっくりであって、それでは流石に歌い手の息がつづかない、っという個所ではこころなしか棒が先へ行くような行かないような、音楽がよく揺れているともいえるが、っまったく聴いていてひやひやする、っずっとゆたかな音響がしていて仕合わせなのにちがいないのだが、っほんのわずかの手抜かりでももう崩壊する瞬間が訪れそうで、コワいのである、

っというのはあれだ、音を結ばれて次へ遷られる際に、予備拍のお心算なのか、っそのさらに予備というか、ここで棒を用意して、次に予備を振ります、っというアクションなのかが観ていてもよくわからず、っあれがこちとら心臓にわるい、以前からコバケンさんはその気味がおありで、先般の日本フィルとのオルフ《カルミナ・ブラーナ》などは、っそのせいで空前の大失敗を晒されたのだが、っきょうも、っいつ声部間で音がずれるか、諄々たる語りでいられるだけに、事故が起こった際の手痛さは、っおよそ想像もしたくないことである、

っしかし、っこんやはじつに全員の集中力が切れずに繫がった、ソリスト連も、っこまかいことは、っまあ云わないことにして、好いティームだったとおもうし、コーラスは豊富な表情が附き、最冒頭から、レクイエム、っと呟くとくに女性の声は早くも泪声のよう、〈リベラ・メ〉でソロの背景で歌うときや、〈アニュス・デイ〉のユニゾンのような個所においてすら、っほとんど子音を殺し切って鞣し革のごと質感、っそうした果敢な表情が、っかってのコバケンさんではどうもこちとら有難迷惑に聴こえてしまったところ、っここでも、表情を附けて、っしかし附けすぎない、っその悟達の味といったらどうだ、オケとの混淆もどこまでも奥床しく、東京シティ・フィルが、っまたなんと落ち着いてこのコバケンさんの棒へぴたりと附けられることであろう、っときに絃のアルコが人声よりも人声に聴こえ、トロムボーンのひびきがコーラスよりもコーラス、コラールに聴こえたのは、っほんとうに得難い天啓である、

〈ディエス・イレー〉から〈ラクリモーサ〉まで済むと、っそこでコバケンさんがすこしく話され、20分休憩、っそのときに、この曲はこれからまだ30分以上ございますが、コーラスのみなさまオケのみなさま、それにソリストの方々も、コンセントレイションを保つのが大変ですから、っと云われたあとへ、っほんのご冗談にも、なにより私が辛いものですから、っなどとおっしゃらなんだ、見る目には以前からしてだいぶんよたよたされるようではあるが、っそこでぼくは、あっ、この人の意志力はまだまだ強靭なんだっ、っと得心し、後半もこのまますばらしい演奏がつづくだろう、っとの確信に至ったのであった、アンコールに〈サンクトゥス〉をなさるのはいつものこと、了わって出て来てじつに21:15、本演目は21時ころに済んだのだとして、全奏90分前後が一般的のところ、100分ほどは要した計算になろう、ホントに、っおなかいっぱい、



っさて、中1日置いてすぐにまたサントリー、カーチュン・ウォン氏の日フィル公演であり、2日とも聴く、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




参宮橋、




小柳英之氏の棒、アーベント・フィル公演、済む、演目はマーラー《葬礼》、同《5番》である、

黄金週中の午公演であり、っいつもよりは数多の集客があるかとおもうも、生憎の荒天ということもあるのか、っほんのすこしく殖えたかというところで、っやはり100人にも満たないだろう、っぼくは初台から歩き、開演1時間ほど前に器へ着いて、3度目くらいにここへ来たが、っいままではこそこそと死角になりそうな場所でシガレットを服んでいたところ、っきょう初めて、喫煙スペイスがあるのへ気附く、っそのパーティションの切れ目から器の入口が見えており、喫煙している間に大勢の人が詰め掛けてくるようならば列へ並ばむとおもうも、開場間近になってもちょぼちょぼとしか人は来ず、開場時間になるといまだTシャーツ姿の小柳氏ご自身が来られて鍵を開けて扉を開かれるのみ、お待たせしました、っとも、どうぞお入りください、っともひとこともおっしゃらず、愛想笑いのおひとつだにない、っぜんぜんウェルカムだ、萬事無粹無骨こそ、彼等の催事の眞骨頂なのである、っとちゅうの休憩も、っその時間の記載がプログラムへもどこへもない、っいつもおそらくほんの10分間とみられ、っゆえにぼくは慌てて喫煙スペイスまで走る、プログラムへは楽曲解説の1言だってありゃしない、っぜんぶそれでよいのである、

っきのうは、っつい室の目の前のコンヴィニへ行ってくるのさえ億劫で、っやっと夕すぎに重い腰を上げてヤマカズさんの新響との音盤を受け取って来て、計3枚、マーラー《5・6番》、っおよび同《巨人》〈ブルーミネ〉のすべてを聴く、っもちろん、多少とも脆い合奏ではあるが、っおもっていたよりもずっと音楽的の達成であり、単に往年のマーラーの大家による貴重な記録の発掘というにとどまらず、っちゃんと山田一雄ここに在りを印象附けたようだ、

《5番》は、1楽章の葬送が始まるともう客席からとみられるひそひそ声がしており、っその後も3楽章、フィナーレなどでやはり男性のもの、女性のもの、複数の喋り声をマイクが拾っていて、なにを喋ることがあるのか、黙って演奏を聴いていろよ、っと腹立たしいが、ヤマカズさんの表現はこの時点でもめいっぱいに曲想を謳歌されていて、っとりわけアダージェットの入魂こそは出色だ、っこのあと、85年だったか、パーキンソン・シンドロームへ冒されたスウィトナー氏の代演で、ヤマカズさんは渋谷でN響をお振りになり、っおなじく《5番》を演られているが、っその2楽章、フィナーレにおく牛歩趣味は、っまだこの時点、79年の上野だが、っでは発露していない、っしかし、N響よりも鋭く剣があり、っときおり個別声部が我勝ちに突出するこの新響のアンサムブルも、一方の果實として携えておきたい、っいちばん惧れていたのは、っさように力んで鳴るせいで、っかえって全体のひびきがぎすぎすとしてしまうことであるが、っぞんがいどすんと重たく太い音が出せているのは、っなんともうれしい、創立者、芥川氏の棒になる同響は、氏の棒がそういう性質、っすなわちかなりに辛口でいられたのだろう、遺っている記録はいずれも細く硬いひびきである、今次の音盤は、楽章間の休みも切らずにすべて収まっていようか、2楽章後には再テューニングがあり、っそのオーボーが鳴り出すと、っよく聴き取れないが、っおそらく、小さくっ、っとおっしゃるヤマカズさんのものとみられる一寸コワいお声がしている、っおもえらく、1楽章からもう演奏は始まっている、中途で再度のテューニングをせねばならないとしても、Aを合わせるだけならば盛大な音量は要らないだろう、無法に音を張り上げて演奏全体の雰囲気を乱すんじゃないっ、っという諫言とみられる、云われたオーボーの音が途端に塩を掛けられたナメクジみたように細くなり、絃連中もちょこちょこと擦絃するのみで済ませているのがなんとも微笑ましい、芥川氏も同響とのリハーサルでは妥協を許さぬ鬼軍曹でいられたとのことだが、ヤマカズさんもまた、好い音楽をなさりたい一心で、っこころを鬼にして楽員楽員へ厳しい叱咤を浴びせられたものと思量せられる、っこの3楽章などは、N響との演奏ではオケの反応が鈍く、っやや精彩を欠く嫌いがあり、戦闘的の前傾姿勢で攻めに攻める新響のほうが聴きでがするくらいだ、

《トラギッシェ》は翌年の日比谷、っぼくはあそこへはいちども行ったことがなく、っぜひいつか、っなにかの演奏会へ行ってみたいが、客席では相当度のどんしゃりぐあいなのだろうと想像せられる、っしかし、録音せられたものを聴くかぎり、井上キーミツのショスタコーヴィチ全集といい、っこのヤマカズさんといい、っいろいろの楽器が素っ裸の生々しさでマルチに聴こえるたのしさは、っきょう日の本格のコンサート・ホールではけっして味わいえない、《トラギッシェ》などというこんな曲は、っそんなむかしでは熟知しているのは指揮者独りで、楽員にはまだまだ馴染みがなかったものとみえて、1楽章で初めてシロフォンが鳴るところからもうぜんぜんちがう個所で打ってしまっているが、っそうした瑕疵があるだけになおのこと、発売を英断してくれたことに深謝したい、造形としては、っちゃんとヤマカズさんの意志が全楽員へ徹底浸透しているようで、全曲冒頭から大地を揺るがすごと恐るべき意志力で低絃が鳴り、っこちとら慄然とさせらる、浪漫の申し子、山田一雄であるも、全体に苛烈な前進が際立つのがうれしい裏切り、3楽章が緩徐章の演奏順だが、悽愴なる音色でマーラーという人の孤絶をよく伝えている、上野と日比谷とでは音の感触が異なり、っまた、ラウドネス等化が効かないアナログ録音の特色でもあるが、っそのシロフォンなど、完全に全楽から突出して聴こえてしまうが、木の板へ撥を下ろした乾いた質感が異様な解像度で伝わり、他の楽器も、特に打楽器は、ティムパニあたり膜面の材質までありありと想像できるような耳当たり、っこれはライヴとはまた異なる、録音というものの妙味であろう、

っさて、っきょうの小柳氏はコバケンさん門でいられるため、ヤマカズさんからすれば孫弟子というわけだ、っそのおなじマーラー《5番》をかくしてつづけざまに聴くことになるというのも、っなにかの縁である、っその前に《葬礼》だが、っじつにひさかたぶりに聴いた、実演では初めて触れたかとおもう、っもっと《復活》1楽章と違うところがたくさんあるような気がしていたが、こんなところ識らない、っという部分はごくごく局所的だった、っただ、オーケストレイションはずいぶんと異なり、《復活》に仕上げるにあたって、金管のソルディーノや各種打楽器、っそれにハープによって相当度にニュアンスを補強した印象がある、演奏は、っやはりマーラーとなると細かく複雑な音の動きが頻出するため、っいつものこのオケの放埒な音響はやや鳴りを顰め、っむしろ各楽器とも努めてうつくしい音色を志向せむとする彫琢が目立った、

っけれどもそこは小柳氏であり、っやはり一筋縄ではゆかない、テムポはほぼずっと大柄なイン・テムポで、両テーマ間での速度の落差はないに等しい、マーラーの筆なのだから、楽想に応じたアッチェレランドや、アゴーギクの操作の方法までうるさくスコアに書いていないのかとおもうが、っそんなのはあるとしても完全無視で、低絃による㐧1テーマから、100人の指揮者がいたら99人までがいかにマルカーティッシッシッシッシッシモたるかと意を砕くだろうところ、っぜんぜんレガート気味のままで、っしかもそれはその後、っこの動機が現われるたびにむしろよりレガーティッシモへ寄っていってしまう、っしたがっておよそ凹凸、変化に乏しく、全体になだらか、っおおらかな山水画のごと景色を展げてゆくが、っもうそういうものとして享受するよりほかない、っぼくはけっして嫌な気はせず、っあいかわらずまるでびしっと音を揃えむとするお心算のないでっぷりとした楽隊のそのムードへ醉う、プロフェッショナルの楽団といえど、っときにはこうしたアンサムブルで演奏会をやってしまってよいとおもうんだがなあ、っま、っそのひびきをよがる耳を有ったお客は、っそう大勢はいないかもしれないが、

《5番》は、っもっと手のつけようがない奔馬が驀進してゆくごと感触を期待していたが、っその味を出すには、っやはりこの曲はむつかしすぎるのだ、《葬礼》と同様に、峻厳と屹立する手応えは出ず、っいつも、っどんな楽想でものんびりと深呼吸しながら歩っているようで、っがさりとて、守勢で喰い足らないというのでもなく、っやはり99人の指揮者たちが如何に楽想毎に表情を激越に変化せしむるかとちょこまかちょこまか仕事をするのに対し、っずっと不細工なテムポへあっけらかんとした健康な音を乗せてゆかれるっきりの小柳スタイルは健在、

惜しむらくは、ホルンが全体に轟然たる音量で吹けない人たちであり、トロムペット、トロムボーンと並び立って一大音響を建設するにいささか不足があった点である、3楽章は1番の女性がわざわざ指揮者の目前まで連れ出されて吹かれていたが、っもっと剛毅な吹奏を為しえてこその小柳氏の楽隊の一員であろう、

絃は、マーラーを演るにはいかにも寂しい規模だが、っそれでも懸命に弾かれるのはいつものとおり、プロフェッショナルの奏者も立ち混ざっていられるせいか、棒が不細工でもぞんがい表情が多彩に附く頼もしさがあり、っよってアダージェットはあれでなかなかのものである、ハープのバランスがつよくなるのは云わでもがなで、指揮者はなんの味附けもせずにただただ眞っ直ぐに歌ってゆくのみなのだが、っちょうど前回、彼等のブルックナー《7番》2楽章の眞摯な信条告白がぼくの胸をいたく打ったように、っきょうもここで目頭が熱くなる、作為のない音楽というのはいかにもずるい、っこれも、99人の指揮者たちにはけっして望みえぬ妙味にちがいあるまい、



っさて、っいままだその喫煙スペイス、初台の王将へ寄って帰らむ、っあすから仕事だが、っあすも演奏会、サントリーにて、コバケンさんの《ヴェル・レク》である、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)