森口真司氏の棒、、、っは持たれていなんだが、八幡市民オケ公演、済む、演目は、ロッシーニ《セヴィリアの理髪師》序曲、ハイドン《ロンドン》、っそしてショスタコーヴィチ《12番》である、
上岡敏之氏に入れ上げていられる拙ブログの読者様も来場されており、事後は京都駅まで車で送っていただき、食事をしてさっき別る、
新幹線は、っさいきんになって以前みたように乗車の3月前から購える割引の切符がなくなって、1月前から発売のものを購わむとすると、土日分などは発売初日の販売開始直後くらいでなければ、っのぞみは瞬く間に売れてしまってぜんぜん購えない、っせんじつ、来月のフェドセーエフ/大阪フィル公演のためにその切符を求めねばならなんだのだが、っちょうどひとつふたつ試掘調査で現場へ出るのでばたばたとしていて、なにか忘れている気がするなにか忘れている気がする、っと思案してああ新幹線の切符だわと気附いたときにはもう発売から2日ほど經っており、っすでにしてのぞみの割引切符は皆無、っかろうじて往路のひかりのそれは残席があり、っしかし復路はそれもなく、っえ、っのぞみの定価普通車指定席よりもひかりの割引グリーン車のほうが安いのかな、安いかほんのすこしく高いかくらいなので、後者を購う、っこだまでなければ、っひかりならば東京-新大阪間で30分もちがわないくらいだ、
っちなみにきょうも往復ともにひかり、っのぞみみたように時間帯がよりどりみどりではないので、っあさ新横発9時前と早く、っゆうべは20時すぎまで会社へいて、呑んで帰ってあんまり睡る時間もないままに6時半ころには起きて身支度、7時すぎには外出して多摩センから小田急で新百合、町田、横浜線で新横、時間的には京王で橋本経由のほうが早いようだが、小田急のほうがすこしく安い、町田での乗り換えもじつにひさかたぶりで、改札を出る途端にその景色に、ううわっ、懐かしっ、っと気分も昂揚したが、ペデストリアン・デッキを早足で移動したので横浜線へは検索したものよりも1本早いものへ乗り継げ、っお蔭で新横では構内の喫煙スペイスへ寄れた、っいつものごと崎陽軒のシウマイを購い、車内ではあさも9時前から缶ビールを開けている、
っとちゅうだいぶんうつらうつらしながら京都まで来たので、っよるはあまり睡ていなくとも公演中に睡くなることはなかろうと踏む、っただ、睡惚け勝ちだったのか、京都から石清水八幡宮までは、っいちどちがう駅でホームへ降りてしまい、っつぎの各駅を待って、っこんどは1駅乗りすぐして次の奇しくも彼の地の橋本という駅まで往ってしまい、駅間はみじかかったようにおもえたので、っもうそこから器まで歩くこととして、予定では13時開場で12時半までには器へいる心算だったが、着いて13時を数分回る、っしかし、開場直後のはずだがもぎりの周囲は閑散としている、っかかる市民オケの公演では、近隣の人が挙って聴きに来て、開場前に100人や200人は列を作るだろうと覚悟していて、っしかしそうならば、開場数分後ではまだもぎりの捌き切れない初期入場者連が遺っているのではないかとおもったのだが、っそれがなかったので、っいまだ人跡疎らの場内を期待するところ、果たしてそのとおりで、悠々と好位置を得る、席へ背嚢を置いて開演直前あたりまで外で喫煙していたが、チェムバーのプレ・コンサートがあったらしく、聴き逃す、
っことし、っとくに今夏はこれから、現時点でも複数の聴きたい公演が同日開催と判明しており、悔しいおもいをしている、っらいげつには佐藤雄一氏のブルックナー《5番》を聴くが、っそのおなじ日には上野の小器で坂入健司郎氏が東京シティ・フィルを振られてモーツァルト《39〜41番》を演られるし、7/21の旗日は、っすでにして坂入氏の有楽町におく新響公演の切符を購ったが、井﨑正浩氏が紀尾井町でブラームスをなさる、翌8月の11日の旗日には、長田雅人氏とオーケストラ・ダスビダーニャとが、ショスタコーヴィチのシムフォニーのうちで彼等がこれまでゆいいつ演奏していられなんだという《死者の歌》を取り上げられるのだが、同日には横浜で森口氏がオーケストラ・ダヴァーイときょうとおなじショスタコーヴィチ《12番》を演られる、っまた、同24日の日曜には、先に頗る印象の好かった山上紘生氏とポラリス・フィルとの、前回よりもすこしく小さな編成での公演が午にあり、っそれはよいのだが、っよるには小柳英之氏のチャイコフスキーで、っよしダブル・ヘッダーだとよろこんでいたところ、っおなじよるに金山隆夫氏の公演もあるのだと判って落胆、っどちらへ行くべきか悩んだが、金山氏の公演は事後にYouTubeへ動画が上がるので、小柳氏を聴くこととした、9月になると上岡氏の二期会公演があるが、早計にもその切符を4公演中3公演まで購ってしまい、っうち1公演の同日には福井で同一公演の前後半を坂入、井﨑両氏が振り分けられる催事があり、っそれへ行けないのがざんねんだとこぼしていたところ、っきょう逢った方がその日の上岡氏切符を引き取ってくださることとなり、っぼくはその日は福井日帰りである、器はとても好い音響のような予感がするので、ったのしみである、
っそんなわけで、っきょうの森口氏のショスタコーヴィチはじつに聴き逃せなんだ、アマチュアの楽団の公演までを新幹線代を出して聴きに行くのは流石に酔狂がすぎるか、っとの自己嫌悪もあり、っなにより懐事情も穏やかではないのだが、っきょうまでに横浜での同曲公演が聴けないということが判明するのであれば、っどのみちぜったいに聴きに来なくてはならない運びだった、っそして、掛け値なしに、聴きに来て正解、大正解であった、
楽団の過去の公演の演目を繰ってみると、っわりに近現代の厄介なものばかりを舞台へ掛けていられるようなので、っそれなりに弾ける団体であってくれるはずだとの予断はあった、本番前に舞台上で浚っていられる方々の音、っそして全員でのテューニングを聴いても、っちゃんと音の出せる人たちだとおもった、っついに森口氏が登壇されてロッシーニの冒頭のトュッティが鳴るが、っその瞬間に、あっ、勝負あったっ、来てよかったっ、っとの確信に全身を打たれた、
器のアコースティックがまた快かった、階上のない中規模器、っつまりちょうどけさぼくが後にしてき多摩センなどに相似するわけで、ピキェロあたりを交えるとかすかにハウリングしてしまいはするが、管絃の基幹が中音域へ集中しているぶんには、っほんとうにちょうど好い塩梅のオーケストラの音がする、っどんしゃりではないかと云われるとわずかにその気味はするものの、っそれは各声部がマルチに聴こえるたのしさに資しこそすれ、楽音がぎすぎすして聞こえるという悪印象はけっしてしない、ったとえばトュッティが去った後へ1stと2ndとが中音量以下で和音をやっているのが聴こえる、っそれがみごと澄明にハモっている、っそして全楽がパウゼへ至ると美麗な残響もほどよくしている、
っさように、指揮者も楽団も器も、っすべてがうれしい時間時間で、っこうした公演の客席へ坐しているのは、っほんとうに仕合わせなことである、
ロッシーニは、っどの部分もやや遅いテムポに構えられている、っいわゆるロッシーニ・クレッシェンドの件の音型がごく細かいので、っそこを楽員がぎりぎり弾ける速度にし、っこれを基準に他の部分のテムポを配分されたようであったが、っそれにより溌溂さと丁寧さとがザ・ベスト・バランスで両立し、森口氏の細を穿つ声部声部の動かされ方も、っその効果が覿面に発揮せられていた、
っとはいえ、木管4種1番の面々のうち、あ、ちゃんと巧い、っとおもわせたのはクラリネットくらいで、オーボーの1番の方など、っややまずい音をされていた、4人が4人とも名手というのは、アマチュアは愚かプロフェッショナルの楽団でもなかなか望めないのだが、頼りになるのがクラリネットおひとりというのはすこしく辛いかと危ぶんでいると、ハイドンでは、ったしか4人ともロッシーニでの下位の方と乗り替えられ、パートによってはショスタコーヴィチでさらに並びが変わられたようであったが、っこのハイドンのときが、同団にとっては最良の布陣だったのではないか、オーボーも澄んだ綺麗な音になり、フリュートのまたなんたる音楽をするこころかっ、っほとんどスタンド・プレイに1歩手前というくらいに篤く篤く訴えられる場面も1度や2度ではなかった、っその音色のうつくしいこと、歌われ方の積極性といったら、、、
ホルンは、世にいちばん美麗な音色でいちばん巧く吹ける人たちからすれば、っそれは聴き劣りがしてとうぜんというもので、っそれを要求するのは酷がすぎるというもの、っこれを救うのがトロムペットで、1楽章の序奏から、誰もがこの楽器に聴きたいと希うその耀きが無理なくすんなりと出て、硬い頭のマレットで古風を志向したティムパニとともに、早くも威風充溢、
っこれら管打へ相対する絃であるが、っこれがまたまったくすばらしいアンサムブルであった、特筆すべきは各パート毎の音のキャラクターの立ち方と、っそれと器のアコースティックとの相乗効果とで、1stはいかにも管絃楽の花形中の花形、音の色に主役を張れるだけの顔というものがあり、っさりとて、っただただ自己主張がうるさかったというのではけっしてない、っむしろぼくは、っとくに彼等の音を聴いていて、例の、それがヴァイオリンの音であるということを忘れてしまう、っという感触をたびたび味わった、彼等があまりにもヴァイオリンという楽器から出て慾しい音というのを出してくれるものだから、っそれはきょうたまさか日本の京都府の八幡市の一角で鳴らされた音であることを逃れて、っあたかもはなからこの時間と空間と、歴史と世界とへの存在を約束せられていた音であるやに、っこちとらを錯覚せしめる、それがヴァイオリンの音であるということを忘れてしまう、っの1文を別言すればさようになる、っこの不思議な感覚は、っともかくその場に居合わせてみないことには味わいえない、っいま想い出しているのは、田代俊文氏が東大の学生オケと上野大器で行なわれたチャイコフスキー《5番》である、
っこの1stが太陽の燦然であるならば、2ndは月明かりの愼ましさである、ハイドン1楽章の主部がひとしきり漸増して退くと、彼等のリズム音型が後へ遺るが、っその低い音域をみずから意識して弾いていられるアルコの発音の濃密よ、、、っそうした意識的の奏楽の励行は2楽章でも音楽へ深甚なる奥行きを與えてやまなんだものである、
ヴィオラがまた曲者で、っひじょうに果敢な音量を誇っていられたが、っこの楽器がそうした主張を為す際、っわるくすると音色に渋柿でも囓るごとえぐみの出てしまうのが難点で、っしかしきょうの彼等は、っどんなに弾かれてもその雑味とは無縁、ハイドンでは3楽章の主部において、リズム上の仕掛けを強調されむとする森口氏の意気に感じられて、満々と弾き切られたその音の質量にシビれた、
セロ・バスもいずれ劣らず、っとくに後者は、ソリッドな音の肌合いが出色、器の高度の分解能はこれらの素敵なキャラクターたちをすべて曇りなくみせてくれ、絃と木管各種とがユニゾンで鳴る際、完全に融け合ってしまわず、ああ、絃と木管とがいっしょの節を鳴らしていますね、っと聴いてはっきりとわかるその音響は、本格のコンサート・ホールではむしろ阻喪せられてしまう妙味であり、ロッシーニでもハイドンでも、っそれが耳にたのしくてうれしくて仕方がない、
っところで、っぼくはふだん、演奏に対してどんなに贅言を弄しても、っこの語彙だけはまず用いない、っべつにそう固く決意しているというのではなく、単にありとある演奏はそのような形容に馴染まないから用いないほうが自然であるというにすぎないが、っすなわち完璧の1語である、っきょうこのハイドンはしかし、敢えて謂えば完璧であった、指揮者の造形、オケの奏楽、器のトーン、3拍子がすべて萬端整い、客席へ居合わせた人のいっさいが、ハイドン《ロンドン》とはいかに立派で、っいかにうつくしく、っいかにウィッティで、っいかにたのしいかを、篤と味わったことであろう、っなにも不足していないし、っあれ以上なにも足される必要がない、っまさしく完璧な演奏であった、曲調は、っべつに泣かせるようなところはどの楽章にもない、っけれどもぼくは、ったびたび目頭の熱くなるのをおぼえた、っあるいは、遠路はるばる聴きに来た演奏がこのとおりまったく勝れている、っというバイアスも掛かっていたかしれないが、っあれほど音楽を堪能させる時間というのは、っどんな指揮者どんな楽団といえども、っそう容易に創出できるものではないので、その場にいまこうして俺はいるのだっ、っとの感激に襲われずにいないのだった、
1楽章の展開は、マルチな聴こえ方の妙が最大限に活き、フゲッタの緊張感を伝えるし、再現が主題の扱いにおいて提示の際とだいぶん様相を異にするのは、楽聖ですらこんなに大膽なことはしていないのでは、っとおもわれるほど、
2楽章は、モルの場面でっきりティムパニが用いられないのが印象的で、っその悲愴の感触は、っま、楽聖《エロイカ》の葬送を喰うばかりだと云えば過言になるかもしらんが、っしかし高い高いハードルとして彼をいたく激励したろうと思量せられ、っむしろハイドンにかかる達成の存ったればこそ、彼は《エロイカ》のあの雄大無比なる楽想をその心裡へ胚胎、抱懐したのにちがいあるまい、っまた、楽聖といえば変奏の大権現、っおもうさま創意の翼を展げてゆく勇姿はあれこれの傑作群の隨所に刻印せられているが、っこの2楽章のとくに終局では、楽聖のようにとめどなくロング・スパンでというわけではないものの、え、いったいどこまで元の主題を自由に扱う心算なんだろう、っとなにか手のつけられない音楽の膨らみがありありと実感せられた、
メヌエットを通ってフィナーレまで来ると、っそこへはもはや指揮者もオケも誰もいない、っけれども、っあれで森口氏の表現は恆にごくごく意志的であられるのだ、っそれが曲にとって、曲の妙味にとって、必要にして不可欠であるがために、っどんなに雄弁術を繰り出されても、指揮者の顔は見えず、っぼくらはただただ音楽に夢中というわけである、
っもう多摩センまで戻ってしまった、ショスタコーヴィチは、横浜での公演を聴けないぶん、っきょうを十全に味わいえたのはなによりである、っや、横浜を聴けないのがよりざんねんになったと云うべきか、っかくなる上は長田氏はぼくに、迫眞も迫眞の《死者の歌》を聴かせてくれねばならない、っそして関東圏の人で長田氏公演を遠慮されるというならば、っぜひに横浜の森口氏公演を聴きに行かれたくおもう、っきょう森口氏は、3曲とも暗譜でいられた、っあれだけ身体へ楽曲が入っていられれば、っどこの楽団とも四つに組まれた奏楽が可能であろう、オーケストラ・ダヴァーイもまた名うての団体でいられ、っそれはそれはすばらしい《12番》を見舞われること請け合いである、
っさて、っお次は水曜、目黒で栁澤寿男という人がシュトラウス《アルペン》をお振りになる、っその日は世田谷の試掘調査でわりに器の近くへいるので、っできれば会社へ戻らずに現場から直帰で遊びに行ってしまいたいところだが、っまあままよ、