ざっかん記 -10ページ目

桜木町、




松本宗利音氏の棒、Orchestra Canvas Tokyo公演、済む、演目はオケのみでヴァグナー《トリスタンとイゾルデ》の前奏と〈愛の死〉とと、ブルックナー《8番》とである、ブルックナーのファッスングはハースであり、っまことにうれしい、っいつもの繰り言、っほかはどうでも、っこの曲だけはノヴァークではダメである、

っきのうもなんだか睡るのが遅くなってしまい、4時すぎくらいまで起きていたのだが、っというのは、iPhoneで山田和樹氏の日本フィルとのエルガーの動画を録ってみていたのだが、っきのう云ったような縦表示で録って事後に上下の余白をカットするのでは、iPhone上で観る分にはさのみ画質は粗くないが、クラウドへ上げてでっかいモニタで全画面表示とすると、最高画質で録ったものでも、許容し難いざらざら動画となってしまっている、っそこで横表示としてみるに、っこのtvuchの動画はソースからしてアスペクト比16:9なのだとみられ、iPhoneで観ると左右に余白がある、っために、っそのまま横表示で録り、録ったものはその余白も含んでいるわけだが、事後にトリミングすれば、っかなりの高画質で保存しえたのだった、っちなみにファイル・サイズは、4K最高画質で録っても、1時間10分ほどの動画で7GBそこそこ、っおもったよりも重くはない、っただ、カメラの動画撮影の画質設定がこの画面キャプチャへも反映しているのかは、設定をいくつか変えながら録ったもののファイル・サイズを比較せなんだのでわからない、っすくなくも、50だか55インチのモニタで大映しにしても、っその7GBの動画は不足のない画質である、

っそれと、っいつもPC上で使っているアプリケイションによる録画だが、っそれをゆうべいくつかモニタで観てみたところ、画質が落ちてしまっているものと、っおそらくはほぼ画源通りに録れているのではないかというクリアなものとが混在していた、っつまりはソフトはちゃんとした画質で録れるのであり、録画中の通信状態が過密で、再生している動画自身が低画質へ落ちてしまっていたのではないかと察せらる、音声についても、っこの山田氏のエルガーはじつは配信開始直後に同アプリで録ったのだが、終始しゅるしゅるいうノイズに塗れたひどい音質で、ソース自身がそうなのだと早合点したぼくは、有料配信なんだろ、ちゃんと仕事せえよっ、っと憤慨、っところが、っさいきんにもういちどストリーミングで聴き直してみるとちゃんとクリアな音がしており、っそれでiPhoneで再録してみることにしたのである、っただこれもわからない、通信環境によって音声にしゅるしゅるノイズが混ざってしまうことがあり、先回は不幸にしてそれを録ってしまった可能性もあるが、っこのtvuchの有料配信は、公演当日にはライヴ配信がなされ、翌日、若干の編集を加えたものがupし直されるが、その最初の編集時点ではしゅるしゅるへぼ音質で、ユーザーからクレイムが入り、後日、別マイクの拾ったクリアな音声と動画との同期を取り、再upせられた、っなどの可能性もかんがえうる、っけれども、ったとえばYouTubeには世界中のラジオ放送を録音して色々の演奏会の音声を上げている人とか、N響の定期公演の放送を録ってまるまる上げている人などがいるが、っそのとくに後者などは、折角の録音なのにぜんぶがしゅるしゅるノイズ放題の聴くに堪えない音質であり、PCでの録画録音には、っこのしゅるしゅるノイズはつきものであるのかもしれない、っむかしCDを再生しながらMDへ録音していた時代なぞは、録音中に近くで携帯電話を使用するとその電波を拾ってノイズが録れてしまっていたものだが、PCでの録画録音でもそれに類することが起きるのだろうか、文系人間なのでわからない、

っさておき、松本氏だが、ってっきり単に親御がシューリヒトの熱烈なファンで、謂うところのキラキラ・ネイムの走りとして宗利音と命名されたのかとおもっていたら、パンフレットのプロフィル欄によると、っなんと名附け親は当のシューリヒト未亡人だという、マジかよっ、っけれども、シューリヒトが亡くなったのって60年代くらいだろ、っあのシュトゥットガルト放響とのブラームス《2番》が同響とのラスト・レコーディングだとなっていて、収録は、定かには記憶しないけれども、ったしか60年代のはじめか、っせいぜい中頃までだ、っその一寸あとに亡くなっているとして、っやっぱり60年代の半ばだ、松本氏はといえば、っぼくよりだいぶん年少とみえ、30歳がらみか、っいっていても30代半ばだ、っお生まれは80年代末か、90年代へ入っていられるかもしれない、60年代に亡くなった人の未亡人がそんな年まで生きているということは、夫人はよほどか長命であったのか、っそれともシューリヒトとだいぶん歳が離れていたのか、っはたまた、夫人の生前の命名ではなく、松本氏の親御が、将来、自分に男の子供ができたらシューリヒトの名をくれないかと頼んで、夫人から許諾を得ていたとかということなのか、っいずれ、っそんな名を戴いておいて指揮者に成れなんだら目も当てられないところ、っちゃんと成れたんだから、っやっぱりよかったねえ、

っそれで演奏だが、っいやすばらしかったねえ、オケは、アマチュアとして最上等ではないが、っかなりの腕だ、っそして松本氏のキャラクターはといえば、っぼくはヴァグナーでもブルックナーでも、演奏中ただの1度も、彼氏の存在を感じなかった、っただただ音楽だけが聴こえてくるので、っそれを松本宗利音色に塗った、っつまり解釈せられた音がまるでしないのである、指揮道もその道がいちばん険しい茨の道であるのは自明で、っぼくはよのなかのその道を行きたがっているらしい大半の指揮者はただの愚図だとおもっているが、松本氏は、っいつもそういう音が出せている人なのかはわからない、っけれどもきょうについては、一個の固有の人格としてしかしいささかも楽曲へ干渉しないで、っひたすらにそれへ奉仕する献身の人であられた、っくりかえすが、っそんなことは誰でもやるのだ、っそれで聴き手をちゃんと納得させられる人が、滅多にいないのである、

振り姿は華麗でもなんでもない、っただ、っずっと聴いていると、っなにか音楽の宇宙の彼方へ独り立ち盡しているごと孤高の気味がしてきて、っぼくはいたくこころを摑まれた、っそれはしかし購いかむりかもしらん、っわからない、っともかく演奏がずっとずっとすばらしかったので、〈愛の死〉の頂点ではオケが凄烈に迸り、っあたかも音それ自身が感極まるようである、

ブルックナーは、っどの楽章でも頑固なイン・テムポである、1楽章も遅すぎず愼重すぎずに開始し、そうだっ、アレグロ・モデラートだっっっ、っとこちとらをして膝を打たせたかとおもうと、㐧2テーマ頂点も速度を操作せずに通過してゆく、っそして、鳴っている音が恆にちゃんとブルックナーである、っこれはなんとも言語化に堪えず、っこう謂うほかないものだが、っこの全曲80分中のはじめの数分間っきりでも、っすでにしておおきに信頼に足りた、ああもう安心だわ、これは80分間ずっとすばらしいわ、っと、

若い指揮者の同曲というと、浜松で坂入健司郎氏が振られるのを聴いたが、っどうしても1楽章から萬感を籠めて重たく重たく歩ってしまう、萬感が籠っているということはもちろん伝わるとも、っだけれどもぼくとして、それだともうほとんどアダージョじゃん、、、っとの疎隔の憾が疼くのを抑えられない、源流といえるのだろうチェリビダッケの罪は重い、宇野さんはかって、みなブルックナーを荘重で厳粛な音楽だとおもっている、そうじゃない、ブルックナーはたのしいんだ、っとさかんにおっしゃったものだ、っこの1楽章にしても、曰く、誰も音楽を大事にしすぎる、っとのことで、人によっては、音楽を大事にしてなにがいけないんだ、っとアレルギー反応を起こすことだろうが、文章はよく読まなくてはダメで、大事に、しすぎてはいけない、っとおっしゃるのである、っぼくの理解でゆけば、っではその大事があまりに、足を重たく引き摺り、アダージョばりにのらくろ歩く演奏は、っいったい作家当人が指定したアレグロ・モデラートを叶えているのか、っその鈍い足取りのうちに、音楽はおおくの咲きえたはずの花々を散らしていやしまいか、っと、

ヴェテランでいえば、井上キーミツがこの作家をお振りになるのをいくつも聴いた、っなかでは名古屋フィルとの最期のご共演となった豊田での《5番》の感銘が傑出しているが、キーミツへの無礼を恐れなければ、初振りでいらしたというその要素が、っむしろ奏功したのではないか、っほかは《7番》も《8番》も《9番》も、キーミツという一大タレントがブルックナーへいかなる色を塗られるか、っという限りにおいてはたのしんだが、上述の、音が鳴り出したが最後、嗚呼っ、もうブルックナーだわっ、っとの大の適性が実感せられたかといえば、答は否である、

2楽章もひきつづきアレグロ・モデラートであるが、っここでは反対にのめるように速い人がおおくてかなわない、チェリビダッケにしてからがそうだ、っこの人の演奏を唯一無二と称揚してやまない人は世におおいが、っぼくにすれば、っまず1楽章冒頭のクラリネットのところでファゴットっきり鳴らない不健康な音色感からしてもう嫌だし、っそれはファッスングの問題だから云わないことにするにせよ、っあの1、2楽章のテムポの不自然な落差ひとつを取っても、っとてもとてもこの曲の理想の演奏だなどとはおもえない、っともにアレグロ・モデラートと記されたふたつの楽章を、っかたや停まってしまうばかりちんたら歩き、っかたや落ち着かぬほど速足にするとは、っそれでなにが名演奏か、

、、、っや、っべつに怒っているのじゃないが、松本氏はここではほんとうにモデラートなアレグロ、要すれば急ぎすぎないのだ、モデラート、モデレイトというのはじつに厄介な形容で、っできる人は難なくそのテムポ、そうだっ、それがいちばん快適で安心だっ、っというテムポへびたっと定位できるのだが、っそれからもうできない人がいる、っもちろん、どうしてそんなテムポにするのさ、っという奇異の感触をかえって演奏上の効果として利用するという術はありうる、っぼくもそれを許容しないというのじゃない、全編全曲これ妥当なテムポで運んでしかし凡庸窮まりなく、煮ても焼いても喰えないというぼんくら演奏が世に澎湃としていることも知っている、

っきょうの演奏にかすかにもせよ不足を云いたいとしたら、全体に、トロムペットがやや大人しかったかもしれないのと、彼等を背後から臨む位置へ坐したのもあろうが、Vaの主張がやや弱かったことくらいである、前者については、吹いていないわけではなかったが、絃のアンサムブルのみでおおきに音場が飽和せしめられているなか、っそれへ埋没し勝ちとなるよりは、絶えず突き抜けむ突き抜けむとするこの楽器の音勢感が、っぼくの所望である、っそれは、っぼくが主に朝比奈さんの音盤でこの曲に馴染んでいるからだろう、N響盤を推す人もおおいだろうが、音場が渋谷で力いっぱい奏するので音色がくすみ勝ちの憾があり、大阪フィルとのラスト・サントリー盤や愛知芸文センター盤のほうが瑞々しくて断然すばらしい、N響に比して大フィルは下手だと云う向きは、演奏を聴いているっきりで、音楽を聴いていないのだ、っそこでの大フィルのトロムペットの覇気からすると、欧州の名門の奏楽になる音盤では、ったいていどれもこの楽器の吹奏が軟弱にすぎ、絶えずひびきの裡へ融けむ融けむと吹いているようなのが鼻持ちならない、もっとがつんと来んかいっ、っと、仕方ない、向こうでは一般にさようのアンサムブルの文化なのだろう、器もよくひびくところがおおいのにちがいない、朝比奈サウンドは、長く専門の音楽ホールを有たぬままに交響樂運動を展開してきた我が日本においてのみ成立しえた稀少種であり、っしかし、っそのほうがぼくの耳には遙けく快くひびく、っいちどズヴェーデン氏の《8番》の音盤を鳴らした際、っそのことを痛感した、全体の造形にはなんらの不満もない、っただ、これでもっとトロムペットが突き抜けていたらなあ、、、っという物足りなさが80分間ずっと附き纏う、直後に朝比奈さんの音盤を鳴らしたところ、っその不満は一気に吹っ飛び、っじつに気分爽快であったものだ、っきょうの松本氏でいえば、ったとえばスケルツォにおいて、っあれっきりトロムペットが吹いていないと、っこの楽器が全楽のクレッシェンドにつれてようよう細かな音型を担うようになるというあの楽曲の発展の経緯がよく伝わらない、全体のひびきは音量音圧としてじゅうぶんなのだが、っその管絃楽の頂点へなお、獅子王のごとトロムペットが君臨していてくれたいのである、っだってトロムペットなんだから、トロムペットというのはそういう楽器でしょう、っちがうだろうか、っや、っちがわない、

アダージョもフィナーレもずっといちばん聴きたいブルックナー《8番》の姿が鳴りつづけている、シムバル、トライアングルを伴なう前者の頂点も、1楽章の主題をタームを延ばして全楽にて再現せる後者のコーダ直前でも、聴こえよがしの勿体ぶった表情は絶無、カッコいいぞっ、松本宗利音っっっ、最後の最後、全楽章の主題欝積へ至ると、自然、目頭が熱くなった、っまことに立派な演奏が、っついに終結してしまうからである、

、、、若き指揮者への折角の讚辞なのに、間へしばしば余計な雑言が闖入したようで、松本氏にはすまないが、っほんとうに、っすばらしい演奏だった、

っちなみに、配置は一般的のストコフスキー・スタイルだったが、ブルックナーでは金管のみ、左右が逆になる、左端へテューバがいるわけだが、っこれは、左のホルンの後ろへヴァグナー・テューバ連がおり、っそれとテューバとを隣同士に置きたいがためであろう、



っさて、っあすも演奏会、仕事のあと、初台にて我等が名フィルの東京遠征公演、川瀬氏の棒でマーラー《トラギッシェ》である、

っあ、っそうだ、っまたあのカレー屋へ寄ってから帰らむ、っきょうはビールが呑めるぞーっ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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錦糸町、




長田雅人氏の棒、オーケストラ・ダスビダーニャ公演、済む、演目はジェイムズ・コンロン編のショスタコーヴィチ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》スートと、同《8番》シムフォニーとである、

近来の三鷹の試掘は都合4件に及び、簡単な報告書類もしかしそれだけ溜まるとすこしく厄介で、っゆうべ、っようやく最後の4件目の下見せPDFをお役人へ送る、キリを附けてしまいたかったので期せずして長々と残業し、送信時間は23時を回る、深更まで開けているラーメン屋へ寄って帰宅し、っきょうの開演時間を確認しておいて、睡たのは3時すぎ、っしかし、10時すぎまでたっぷり7時間は睡る、彼等のプログラム冊子は分厚く、っきょうも開演1時間前の開場からまもなく入場せるも、っとても開演までにすべて読み切れない、っちなみに、過去公演音源の音盤販売があるかと踏んで現金を用意して来たが、売られていなんだ、っただ、YouTubeもなにもあるこの当節なのだから、っこの際、有料で音盤なぞ売らずに、動画をネット上へ上げてくれたいものだ、っもっとも、ショスタコーヴィチの作にはこんにちなお版権の切れていないものがあり、上演時にはいちいち著作権料を取られるし、演奏の動画や音声を汎く一般へ共有せしむるにしても、っもろもろ権利上の問題があるのかもしらん、60年代にマーラーの版権が切れてショルティでもバーンスタインでも競うように同シムフォニー全集を録ったように、っこんにち、ショスタコーヴィチが俄かに脚光を浴び、演奏の機会や録音が殖えているのも、作品への理解が進んだということじゃなしに、単にそういうカネの問題である、

っいつもは池袋だが、っきょうは錦糸町、2000席級よりは若干狭隘なこの器では、ロシアン・サウンドにあくがれる彼等の音響は完全に臨界を振り切る、《、、、マクベス》スートは初めて聴くが、劈頭より途轍もない大騒音で、っお上品なプロフェッショナルの楽団にはけっして希みえないこのけたたましさこそは、七夕よろしく、年に1度の恋しい機会である、

13時半と開演が早かったので、スートとはいえこれだけで長大なのだろうとおもうとそのとおりで、小1時間も掛かり、っこの劈頭に類する騒々しさがしばしば訪れる、っもう凄いのなんの、彼のシムフォニーからすると、各楽曲の発展の息はみじかいが、楽器の種類、数、音構造、声部声部の結集密集は、っむしろシムフォニーよりも複雑巧緻で、っむさくるしいことこの上ない、楽団は、テクニークはやや心許ないとも云えるが、っそれを補って余りある気概気魄こそは眩しく、壮年から初老といった風体のコン・マス氏はしかし、乗っけから勢い込んで椅子から完全に立ち上がって弾きつ、全軍の意気を鼓舞される、

長田氏の比較的辛口の造形がまた快く、シムフォニーたる《8番》ではその美質をよりつよく実感せる、っぼくは、頻りにあの彼氏とオーケストラ・ゾルキーとのマーラー《復活》をおもっていた、っそこでは後期浪漫派に似合いのはずの激越なテムポのアゴーグや瞬発的の音色、表情の激変をしかし敢えて嫌い、眦を決して厳しく進む清しさ、潔さが長大な全曲を一貫しており、爛熟のマーラーがしかし楽聖ベートーヴェンの大古典のごと偉大を獲得していたものだが、っきょうの《8番》もそれと同断の覇気を縦横に発散せる、5拍子の1楽章㐧2テーマはそのシムボルとすべき場面で、伴奏群の絃のアルコをぞんぶんに弾んで音楽へ烈しい規律を與える感触は、ザッハリヒカイトに1歩手前のインバル氏の冷厳ともまた異なり、共感も篤く募らばこその苛烈といった風附きで、っこれからすると、泰斗、井上キーミツの同部分はしかし、っもっと嫋やかに音々を寝かせた耽溺趣味であられたことだ、

2、3楽章が有無を云わせぬ驀進と成るのもまたとうぜんで、後者トリオの気違いトロムペットは、エラーと無縁でなかったが、張り裂けそうな音圧たっぷりのその吹奏はまさしくこの部分に相応わしく、トロムペットのみならず、革も破けよとばかりのスネアの烈打ともども、っすかっと胸の空くおもいである、

4楽章は、横笛が主題を担う際の絃の微細なトレモロをちゃんと活かすと、氷焔のごと蒼白のコワい表情が出る、っその秘蹟を伝えてくれるのはムラヴィンスキーの音盤だが、っきょうもまずまずその手応えがしていたか、っどうも、最弱音とはいえあまり音量を抑えすぎないのが肝腎であるらしい、

フィナーレは、っここまで来るともはや誰しも精も根も盡き涯てるに既であるのも道理で、冒頭主題からファゴットは、指順がむつかしいのもあるようだが、後半のハイ・トーンを吹けなくてしまう、っしかしどうとか死線の際で踏み留まりつ終局へ至り、長田氏も一転、萬感籠るロウ・テムポの裡にヴィオラ、っのち絃バスによる謎々をぽつぽつと呟いて了わる、っほんとうに、タイヘンな楽曲である、

アンコールは前プロの最も賑やかな部分をひとくさり再演、2時間半の長きに亙る死闘であった、



事後は、っここで午の公演があった際のお定まり、北斎通りを西進、大川へ当たり、川沿いの遊歩道でシガレット数服、両国橋を渡り、浅草橋駅前の王将で食事、っいま帰途である、歩っていて途次、江戸博の脇を通る際、楽器を背負われた新日本フィルのセロのトップの男性と往き合う、同フィルは大半の公演の練習を錦糸町で行なうのだろうから、っこの近所へお棲まいなのかもしれない、

っところで、前宅では回線既設、無料というか、受信料は賃料に含まれていたが、新居で慌ててプロバイダと契約し、ネット環境を整えるも、っはたと気が附いて、っこれは必要なのだろうか、っぼくのネット使用は、っさのみヘヴィではない、大半の用はiPhoneで事足り、室のでっかいモニタが要るとしたら、Amazon.でなにか映画を観るとか、YouTubeその他で演奏会の動画を観るとか、っその程度である、っぼくはいまだFire Stickを持たないが、っそれがあればスマート・フォンとモニタとのテザリングもでき、各種有料ストリーミング・サーヴィスも利用可とのことで、iPhoneのプランは定額にして通信量は実質無制限、っならば、室へルーターも要らなければ、PCすら要らないのではないか、Windows10がことしサポート終了となり、11へのアップ・グレイド不能の現機で、購い替えを一考せるも、っその出費も、っまいつきのプロバイダへの通信料も、っすべて無駄なお銭である、ダウンロード不可の演奏会の有料配信は、従来、PC上にて画面キャプチャ・アプリケイションで録画を行なっていたが、無料フリー・ソフトではだいぶん画質が落ちる、っそれもiPhoneで最適の画質を撰んで撮るほうがよかろう、iPhoneでも撮れることはもとより識っていたが、アスペクト比が16:9ではなく、事後、編集しうるものの、っそれを16:9にすると見切れる部分が出てしまうのがざんねんで、敬遠していた、っしかし、動画を横表示でなく縦向きで画面中央に小さく表示せられた状態で撮れば16:9で撮れており、っそれを収録後にトリミングして上下の黒い余白を切れば、画源通りのサイズの動画を保存しうることがわかった、音量音圧が低く、編集ソフトによるブーストを要する画源もままあるが、っそれもiPhone上のアプリでじゅうぶん対応可能であろう、っこの動画群はもちろん相応に過大のファイル・サイズであり、HDDへ入れておいてあるときそれがぶっ壊れてデイタ全損しましたというリスクと比較検討して、っおととしくらいからGoogleの、為替レイトにも依るが、2TBで年額¥1万なんぼ程度のクラウドを利用している、っこれもいずれは5TBを契約せねばならないときがくるのか、っそれでも現時点で¥4万弱/年といった価格設定であり、ったとえば、プロバイダへの¥4千弱/月の通信料と較べてもすこしく安い、っあとPCが要るとしたら、音盤を吸って音源をiPhoneへ同期せしめるときなどだが、っそれは現機を10サポート終了後はローカル環境で使える限り使いつづければ、当面、新たなPCを購うこともない、心配といえば、iPhoneの現在の4G環境、、、5Gは切っている、っで動画を再生する際のバッファリングあたりだが、今現在でもYouTubeなどを視聴していてそうなってしまうということはほぼないから、っそうすると、ネット環境はiPhone 独りでぜんぜん足りている、っそこは情緒的日本人だから、契約したばかりのプロバイダをすぐさま解約するというのも気が咎め、っま、惰性でもう何月か使用しつづける心算だが、っその間にFire Stickを購入してモニタとのテザリングを試し、っうまくゆくようならば、っその段階でルーターは返上せむ、っそうかあ、っよくかんがえなかったなあ、ネットの利用料は、携帯の分っきり払っておけば、っあとはなにも要らないのか、

っさて、っあすも演奏会、松本宗利音氏の棒、Orchestra Canvas Tokyoなる団体で、桜木町にてブルックナー《8番》である、っこの団体の公演の動画はYouTubeへたくさん上がっており、っまずまずの合奏能力を有つようである、松本氏のお名はこれで、ソリオ、っとかと読ませるのかなとおもったらちがって、シューリヒト、っとのことである、、、親御もまったくたいがいだよなあ、っそんな偉人の名を附けられて、っご当人が可哀想じゃないか、っま、っめでたく指揮者稼業に成れたんだからまずはよかったけれども、果たして、っこの大巨匠の名に恥じない演奏を達してくれるかどうか、ったのしみに出向くとせむ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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錦糸町、




藤岡幸夫氏の棒、東京シティ・フィル公演、済む、演目は野々村彩乃女史を招いてイタリィ・オペラのアリア集、っそして貴志康一《釋迦》であったが、、、ダメ、睡くてぜんぜん聴いていられなんだ、貴志はわかりよい書法なのはそうで、4楽章制の3楽章まではわりにちゃんと聴いたが、4楽章は静かでゆっくりとした音楽で、っまたも睡りへ堕ちてしまう、

っいけませんねえ、っいけません、



っお次は今上陛下ご生誕の日、長田雅人氏とオーケストラ・ダスビダーニャとの公演である、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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桜木町、




沼尻竜典氏の棒、神奈川フィル公演、済む、演目は、服部百音女史、佐藤晴真氏を招いてブラームス《ドッペル・コンチェルト》、っそしてショスタコーヴィチ《10番》である、っこの公演は、井上キーミツの同フィルとの最期のご共演の切符を一刻も早く入手したく、3公演セット券の先行発売で撰んだうちのひとつである、

っけさは社用車で横浜まで来るが、っみなとみらい周辺で¥何千も出しているばあいではなく、っま、パシフィコ横浜の地下のものは公営でそれなりに安いが、っしかし満車の惧れもあり、事前に予約できるところがよかった、っそれでまた器からはだいぶん遠い、横浜港が背負っている丘陵のなかのごちゃごちゃした住宅街の一角で、以前にも利用したことのある格安¥300のところへ停む、車が後ろへひっくり返りそうな狭い急坂を登った先でハザードを点けてバックで入れるのだが、縁石へ乗る際にそのまま横転しそうな勢いで、冷汗ものである、っそれで1本として眞っ直ぐの道のないその丘のなかを、っときおり家並みの間へ覗くランドマーク・タワーを頼りに歩っていて、期せずして県立音楽堂の脇へ差し掛かり、っそのまま港へ直進すればショッピング・モールの外側へ喫煙スペイスがある、シガレット1服ののち入場、っその掃部山を過ぎった際、っそれを横浜駅の方へ降りた先へあるあの大衆食堂然たるカレー屋のことが想い出され、っこれからそこへ食事に行く、飲酒しえないのがざんねんだ、

2日つづけてブラームス円熟期の作を聴くが、っきょうの《ドッペル、、、》もまことに緊密な筆で、気詰まりなくらいである、っこれでドヴォルザーク《セロ・コンチェルト》などは、っあの作家として意想外なほど細かな書法だがしかし、全体としてはおおきくのびのびと膨れ上がってゆく感触がし、聴きながら息をつけるというか、っいっしょに深呼吸しうる安堵がある、ブラームスは、実演を聴いたかは識らないが、っすくなくもこの大後輩の傑作のスコアは見ており、讚辞を惜しまなんだというが、内心はどうであろうか、烈しい羨望と嫉妬と、自身の歩んだ音楽道への一抹の悔悟とを嘗めなんだとしないのではないか、1楽章終結のトロムボーンのシンコープへつづく勇猛なる足取りを聴くがよい、っそれは浪漫派諸賢のしかしうじゃじゃけた抒情を蹴散らして余りある偉大である、2楽章のフォルクローレの質朴と〈あたしにかまわないでっ〉の気高いヒロイズムとのコントラストは、っあれこそが浪漫のなかの浪漫、浪漫を超え脱いた浪漫である、っそして3楽章のみならず全曲に亙って名旋律の宝庫たる主題主題の魅力魅惑と、っそれを最小限の動機から案出するこちらこそ眞なる円熟の筆致よ、

っさておき、若き俊秀おふたりと、っそして神奈川フィルっ、キーミツとの公演は、演り馴れない伊福部昭あたり、っそのまま合奏の脆弱を結果して少々ざんねんだったが、っきょうは見違えるごと雄渾かつ清冽のひびきで、っありとある和声が無盡に迸って止まないのであった、

席は2階右翼の後方寄り、っあいかわらずここのそのあたりは視界のわるいこと夥しいが、音響は豊麗ですばらしい、サントリーなどよりもうすこしく太くゆたかな手応えで、ソロも、っまず佐藤氏のセロが登場すると、っその深い胴鳴りにこころを摑まる、服部女史はいつもながらの過酷な自己加虐の奏楽であるが、っいっぽうでふと息の抜けた走句の華麗も望め、堪能させた、

ショスタコーヴィチの同曲は、っそれこそこのおなじ器でキーミツと日本フィルとのものを聴いたが、アレグロをいやに急ぐやや落ち着かない演奏で、っさしもの日フィルもときおり、っしかも大事なところでタテを乱していた、

沼尻氏がキャラクターとして着実なのはとうぜんで、っこちとらをして戰慄をおぼえしめる鋭利な爪や牙はどこでも剝かれないものの、っまずは曲の姿を瞭然と見せてくれる、っせんじつインバル氏の都響公演の客席をご一緒したが、っきょうのご自身の演奏でも、緩徐章あたり、テムポも凭れず、音も音価がみじかければよく立てて弾ませ、っあのインバル氏の造形が彼氏にそのことへの勇気と自信とを與えたろうか、相応におどろおどろしさは後退するが、っよのなかには、もとより音楽へはおどろおどろしさなぞ外側から無理に附け加ゆべきでない、っとのかんがえも存するのにちがいあるまい、っま、っぼくは是々非々だけれどね、



っさて、っお次は木曜、っどこへも行く心算はなかったが、っきのうのプレ・トークで藤岡氏が、2週つづけて伊福部と貴志康一とのともに《釋迦》を演るとは、まこと身の清めらるおもい、っと表白していられ、っそちらの公演へもぜひにとのことなので、興味を惹かれ、休憩時に喫煙へ立った際におもわずに切符を購ってしまう、錦糸町である、

っさ、カレーカレー、っそしてものすごい傾斜の駐車スペイスから出庫する際には、ブレイキからアクセルへ踏み替える瞬間の後退に、っまたも肝を冷やすだろう、っご安全にっ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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初台、




藤岡幸夫氏の棒、東京シティ・フィル公演、済む、演目はブラームス《3番》と伊福部昭《釋迦》とである、妙てけれんな取り合わせとおもったが、藤岡氏ご自身のプレ・トークによると、っどうしてもこのプロをと希まれたらしい、

藤岡氏と同フィルとの演奏を聴くのは、ヴォーン・ウィリアムズ《タリ・ファン》やドビュッシー《海》をここで演られたとき以来である、っそのときもなかなか濃密な音色音彩であったが、っきょうもよく腰の据わった快い合奏である、ホルンあたり、っやはり㐧1級の楽団として及第しないのはせんげつの公演時と同断だが、

ブラームスは、っとくに突飛な造形はどこにもないが、1楽章の㐧1テーマからVaのシンコープをさりげなく強調したり、っなかなかに周到である、

っそれにしても、和声や楽器の選択、ポリフォニーの構築が、っじつに凝っている、2楽章もコーダに近いあたりなど、聴いていて、いったいこれは何時代のどういう音楽だろう、っと宙空を漂うごと所在なさを味わい、っその不思議な感触がぜんぜんいやではなかった、なるほどかようの音楽を書き遺せたというのは、確かに偉大なのかもしれない、っと、

テムポ次第では緩徐章がふたつつづくように聴こえてしまうこの曲だが、3楽章のテムポ指定はポコ・アレグレットであり、っいちおう舞踏章の心算なのらしい、藤岡氏は冒頭の有名なテーマから凭れない速度へセロを乗せられており、っぼくとしても膝を打つ、

フィナーレは、っやや短小で、主題の発展の息がみじかい気もするが、っすばらしい景色を望めるのも事実である、演奏は、合奏能力の不足を露呈する面もあったが、熱量の高い気魄を伝えもした、



《釋迦》は一転、大半の個所が臆面もなき単旋律の謳歌である、オーケストレイションはブラームスからして遙けく明快にしてかつ重厚で、低絃、ファゴット群あたりのみで一定時間を保たせる音色観など、っまこと、伊福部イズムも面目も躍如、っとあらためて感じ入った、

コーラスは、2楽章など、プレ・トークで藤岡氏は、理性を振り切って叫んでくれろ、っあるは女声に対して、うつくしく唄わないで艶めかしくエロエロに唄ってくれろ、っとつよくつよく求めたと云われたが、っやはり音楽的の所作の範囲へ収まっていたというか、収まってしまっていたかもしれない、

っしかし、実演でこの曲を聴くのも、ったしかあの大植氏による井上キーミツの代演、東響公演以来かとおもわれ、3楽章の質朴にして玄妙なる讚歌には、胸の昂揚をおぼえずにいなんだ、



っきょうはまた三鷹の試掘であったが、っやんちゃオペさんがいつもながらの大立ち回りであっと云う間に午前中で済んでしまい、きょうは直帰したかったんですけれどねえ、っとぼやくと、いや、ぜんぜん直帰でいいんじゃないですか、っと云わる、っが、っあすは休みで、月曜も三鷹の別の試掘であり、消耗品の補充や、ディジ・カメのSDカードがいっぱいになったのでデイタをPCへ逃さねばならないなどあり、っやむなく帰社し、16時ころまで仕事をしていて、購い出しへ行って直帰します、っと云って帰宅、私服へ着替えて、っそのまま社用車で出掛け、っきょうは器からだいぶん遠い環7辺の駐車場で、18時ころ着き、小走りを交えて30分ほどで現着、シガレットを1本服み、18:40からのプレ・トークを聞きえた、

っあすも社用車無断使用にて桜木町、沼尻氏の神奈川フィルとの公演である、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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上野、




エリアフ・インバル氏の棒、都響公演2日目、済む、演目はラフマニノフ《死の島》、グリゴリー・シュカルパ氏のソロ、エストニア国立男声唱のコーラスを交えて、ショスタコーヴィチ《バビ・ヤール》である、

っきょうは2階右翼だったが、全楽を見渡すことができ、っよい眺望だった、

音響的にも、っここ上野大器はもとより音がよく融け合うアコースティックではないがそれでも、っおもったとおり、っきのうの至近距離からしてほどよくブレンドせられた耳当たりとなり、奏楽よりは曲の姿が先にみえてくる条件で、っやはりぼくはかように聴くオーケストラの音がこのみである、

ラフマニノフが取材しているベックリン《死の島》は、っぼくもすきな画題だ、複数あるうち、っはじめは、空が明るく、岩塊が細密に描かれている版を夢中で観たものだが、長じて、っさいしょの、画面全体が暗い、っあまり筆数のおおくない版のほうが、っより象徴性をつよく伝えるようにおもい、勝れた作品と観ずるようになった、

演奏は、幻想性というか、咽せ返るごと浪漫の気分ははなから求めておらず、開始から終止まで、冷厳に音々が捌かる、

っこれはショスタコーヴィチでも変わらないが、っきのうのいくつかの瑕疵も丁寧に摘まれ、っきょうは解像度、完成度ともにじつに鉄壁であった、

実演で字幕を視ながら聴いたり、日本語訳詞の音源を愛聴したりしたため、っもうだいたいどこでなにが唄われているのかが身体で識れており、っきょうは字幕をいちいち視ないで、っなるがたけ舞台を観ているようにした、っほんとうに、全体がよいティームで、劇性を強調する表情表現は声楽器楽とも誰によってもほとんど馳驅せられないが、音楽美もあれほどの高純度となれば、っこちとらとても息を呑みつ拝聴せずにいない、深刻な曲調だが、っきのうきょうとも、絶えず音楽を聴くたのしさが一貫していた、っその印象がふかい、



終演して退出すると、沼尻氏が来場されていた、っちょうど、今週末には彼氏のショスタコーヴィチを聴くこととなるが、っその前日には、初台にて、藤岡氏が伊福部昭《釋迦》をお振りになる、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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上野、




エリアフ・インバル氏の棒、都響公演、済む、演目は、ラフマニノフ《死の島》、グリゴリー・シュカルパ氏のソロ、エストニア国立男声唱のコーラスを招いて、ショスタコーヴィチ《バビ・ヤール》である、

っきょうあすと同一プロで、っあすの切符はもとより取っておいたが、っなんだかそわそわして、っきょうのものも取ってしまう、っきょうは三鷹の試掘であったが、っいつもはさくさく了わるところ、っきょうはやや手間取って16時半ころまで掛かり、車の蔭へ隠れつ現場で着替えて、社用車で千駄木まで来て安い駐車場へ停め、器まで歩く、都心の道はコワいわっ、、、

インバル氏を初めて聴いたが、っなるほどなあ、音楽がよく流れている、緩徐章でも音価のみじかい音符はよく弾んで音楽が先へ先へと運ばれてゆき、っいつも抜群に見通しが立っている、

っお蔭で済んで20:45すぎ、落ち着いて御徒町の王将で食事をしえた、っこれが井上キーミツならば、っおなじプロでも散会に21時てっぺんまで掛かったろう、

予期していたとおり、インバル氏の造形にはとくだんの霊感はおぼえなんだ、っそれにしても、《バビ・ヤール》は厄介な曲だ、詩がちゃんと規則的の韻文ではないのだろう、っどの楽章でも、っほぼ同様の音型がしかしまいかいすこしくずつ異なり、音の出所がいつも違う、オケもソロも、っほんのときおり前倒後倒していた、

シュカルパ氏は、ティホミーロフ氏やかっての泰斗、アレクサーシキン氏からするといくぶんスマートで、インバル氏のソロとして好適、エストニアのコーラスも、オルフェイ・ドレンガルに敗けていない、ソロ、コーラス、オケ3者の音勢バランスも恆に最上で、っぼくなどからすると、せめてどこかしらなにかしらもうひと声、間合いや音色を拘泥わらないか、っとおもわないでもないが、っそれをしていては見通しが犠牲となり、音楽が曇るのだろう、っそこから先は人毎のすきずきで、キーミツみたようにどろどろとしたもののない、っこちらの味をこのむ人もおおいにちがいない、

キーミツの公演は東京、大阪と4度すべて聴いたが、4度目まで聴くころにやっと全体の造形が摑めた、っと云ったら云いすぎだが、っああした演奏では、っぱっと聴いてぱっと曲がわかるということがない、っきょうのインバル氏ならば、っおそらく器へ居合わせた誰しも、っずっと曲をわかって聴いていられたことだろう、

っさて、っきょうは直接音直接音した奏楽を浴びたくて1階の前方にしたが、っあすは2階、っより見渡しが利くだろう、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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ギロッポン、




広上淳一氏の棒、札響東京遠征公演、済む、演目は、劈頭に秋山氏を偲んでモーツァルトの緩徐章を演り、本演目は武満徹《乱》スート、外山啓介氏を招いて伊福部昭《リトミカ・オスティナータ》、っそしてシベリウス《2番》である、武満は当の映画のサウンド・トラックを作家のご指名で札響が録音しており、伊福部は北海道縁、っそして尾高氏時代よりの同響の代名詞シベリウスと、本寸法も本寸法を揃えてきた観だ、

器で数年来、無沙汰をしてしまっていたかっての知己と邂逅し、事後、呑む、

演奏は、っいずれの演目もすばらしかったとおもう、札響は、っこちとら彼等の本拠まで遠征し、井上キーミツ、っおよび上岡敏之氏とのご共演を聴いたが、サントリーはやはり天下の銘器だとおもわれ、彼の地で聴いた彼等よりも、っきょうのほうがより満々とよく音が伸びるようであった、

っまず故人への献奏のモーツァルトだが、フル編成の絃で臨み、っそのアンサムブルは音が鳴り出した瞬間から絶妙の耳当たりであり、おおっ、好い音出すなあっ、ってなものである、

武満はなんとも陰惨なサウンドだが、オケは精妙そのものである、

《リトミカ、、、》は、っあのようなアンサムブルを要請する楽曲は、西洋古典のなかにも邦人の筆になる他の作品のなかにも、っけっして見出しえない、っふつうは、演奏のなかで多少ともタテがバラつこうとも、っうまく辻褄を合わせればそれもかえって味にしてしまえようというものだ、っそれがこの曲だけは通用しない、機械的のまでに絶えずびしっと音が揃っていなくばならず、っそれを数日間の練習で準備するのは相当度の難儀である、事実、昨年、キーミツが松田女史のソロ、神奈川フィルで同曲を披瀝されたが、オケはぜんぜん曲想に馴致しておらず、っあのような散漫な奏楽ではまったく曲の核心を伝えるには及ばないのである、っそれがきょうの陣容は、っどうも、っむかしキングでシリーズ化せられていた同作家の網羅的の作品集成において、同曲のみは待てど暮らせどライン・アップへ上らなんだのだが、っこのほどセッションですでにして収録を完了されているとのことで、オケとしても、っえ、同演目での本拠での定期公演はもう熟したうえでの東京遠征だったのかな、ったぶんそうとおもうが、っそうすると都合何度も本番を了えていられることとなり、相応のピントの合った奏楽を示されていた、

広上氏の造形は、冒頭のホルンからなど、っあまり凭れずにさらっと始められるふう、っその後も緩の部分は先へ先へと歌ってゆく感触で、対して急の部分においては、ソロの外山氏は加速を抑え気味に、トップ・スピードへ達してもややおっとりとしたテムポで、っためにオケともども落ち着いて音楽へ箍を嵌められたようだ、箍を嵌める、っとは対象を拘束して自由を奪う意であり、っがんらいそれは音楽にとってのタブーだが、っともかくこの曲に関するかぎり、っむしろいかに精確に音楽を箍へ嵌めるかが問題なのである、

過去、聴きえた同曲のオケ・パートでは、カーチュン・ウォン氏の日本フィルとの演奏が、っなかなかのものであった、っただし、細部の突っ込んだ表情附けでは、っいまだに荻町修氏が栃木県響を振られたものが忘れ難い、栃木県響は、市販の盤だけでも早川正昭氏と荻町氏との棒で同曲のライヴ音源が2種あり、っぼくはほかに荻町氏の別テイクの音源もきょうお逢いした知己から分けていただいている、ソロはいずれも同曲の大権威、山田令子女史であるが、っこのうち、早川氏のものは同響が同曲へ挑まれたさいしょの記録であり、っやはりいまだタテを揃えることに難儀しているよう、荻町氏との1度目のライヴは、ソロに手痛いエラーがいくつかあるために、山田女史が音源の市販を厳禁され、っお蔵入り、っただし、荻町氏とオケとはこの時点ですでにしてかなりの程度、曲想を手の内へ入れていられ、ソロのエラーを勘定したとしても、っこの非売音源はなかなかのものである、っそして荻町氏の2度目のライヴは、っぼくも栃木まで聴きに往き、ゲネ・プロまで見学させていただいたが、氏の細部の拘りはより深化し、非売音源と甲乙を附け難い達成を示されたのだった、

山田女史にはこの3種のほかに2台ピアノ・リダクション版、キーミツがお振りになるはずが大植氏の代演となった東響とのライヴ盤、再度企画せられたキーミツ、同響とのご共演と、っじつに6種もの同曲の音源があり、っほかに、っいまだ消されていなければ、ったしか彼女が所属されているアメリカのオケとのご共演の動画がYouTubeへ上がっているはずである、

キーミツは、神奈川フィルとのものであれ、っおなじ松田女史とのN響との機会であれ、っその山田/東響とのものであれ、っぼくからするとややかるく捌きすぎる嫌いで、っこの曲に対する適性を示されたとはしえなんだようである、山田女史とのご共演の際の楽屋話をご当人からうかがったが、初めての音出しのあと、記譜のアクセントに忠実であらむとする女史に対してキーミツは、そんなにしつこくアクセントへ喰い附かないで、もっとジャズみたように演ろうよ、っと云われ、土俗の味がせねばこの曲ではないとおもわれる女史は難渋、伊福部先生に直にうかがった際には、アクセントの指示には飽くまでも隨ってくれたいとのことでしたが、っと反駁されると相手は、え、なに、あなた伊福部さんに直に教わったことがあるの、っとそこから態度が急変されたとのこと、っどうも、一般にはまったく無名の女史を、キーミツははじめややナメて掛かるところがおありだったようだ、東響との大植氏との機会には、女史もプロ・オケとのご共演の機会などなく、オケからもやはり、誰だよこのピアニスト、っと見向きもされなかったようで、練習時の控室もわからずに所在なくいるままに音出しが始まってしまい、っしかしいざ弾き出されてみれば、厄介な変拍子にたじたじのオケに対して女史のソロはあのとおり堂に入ったもの、恐れ入りましたとばかり、楽員が俄かに鄭重な物腰となって、控室へ案内をしてくれたとのことだ、キーミツとのときは、キーミツはそれこそ松田女史あたりを抜擢されたかったのかもしれないが、東響側が、ぜったいに山田だ、っとキーミツにそのキャスティングを飲ませたらしい、っまこと、藝は身を扶く、っである、

っさて、外山氏のソロだが、1度目と再現との急の部分こそ、っさいしょの装飾音の音価を長く長く取ってじっくりと始められる山田女史の存在感からして遜色をおぼえないとしなかったものの、松田女史やカーチュン氏とご共演された務川氏などが、加速するとフレイズの角を取って流すように弾かれてしまうところ、っわりに最後までアクセントを粒立てて武骨な手応えをみせてくれ、っやはりそのほうがこの曲には好適である、1度目の緩徐部を締め括るカデンツにしても、っここも山田女史は鬼気迫るのめり込みを聴かせられるが、外山氏もなかなかの語り口でいられた、

広上氏のオケ・パートも、っなお荻町氏の造形が慕わしく想い返されるものの、っすくなくもキーミツのあっさり味よりはずっとこの曲に適っており、中間の急部分でも、っよくツボを当てた痛快の佇まいであられた、全曲終盤の迫力更新も、キーミツはやはり泥臭さに不足するが、っきょうはじゅうぶんな発奮が聴かれたことだ、近く発売となる音盤もたのしみだし、っきょうもライヴ収録があったようで、っできればそちらも発売していただきたいところである、

シベリウスでの広上氏は、全身を驅使された乾坤一擲の棒、っこころなしか、以前よりも点を打たない軌道となられて、彼氏に濃厚な表情を求められながらも、オケが終始、清潔に拡がる点は出色と云いうる、なんとすばらしい楽団だろうっ、っとこちとらをして感歎せしめる場面に事欠かなんだ、

っここ2年ほど、年間100回以上の演奏会へ通いながら、不思議、っこの曲に触れる機会はなかった、実演ではほんに久方ぶりに聴いたが、っあらためて聴くと、胸へ迫る場面がそこここにある、1楽章からもう泪腺が緩んだが、っはじめの絃のリズム動機があって、木管の主題が出て、楽章のまんなかでトュッティへ発展するファゴットの楽想があり、っそこから広々としたVnのアルコが迎え入れらる件など、っほんとうによい風情である、

っこの曲は宇野さんや、怪人と謳われたぼくと同字同名、故・菅野浩和氏に謂わせれば、初期と中期との折衷的の作風でどっち附かずの駄作、っとのことで、宇野さんエピゴーネンのぼくはそれを眞に受け、っどこか聴かず嫌いのままきょうまで来てしまったようだが、っでもいざ聴いてみれば快い作品ではないか、トロムペットへ再現する2楽章の主題など、率直に愛惜せずにはいられない、



っさて、っお次はこんどの旗日、上野でインバル氏と都響とのショスタコーヴィチ《バビ・ヤール》を聴く、っこれについては流石にキーミツのあのN響と大阪フィルとの4度の機会が入魂であられた、インバル氏の実演を聴くのは初めてであるが、っさいきんYouTubeへupせられた同響との同《9番》やブルックナー《9番》の補筆完成版を聴くと、っどうも汗掻きべそ掻きせず、小器用に纏まってしまっている演奏で、っがつんと重たいパンチが来ない憾がある、っそれでこそオケにもお客にもインバル氏は慕われているのだろうが、殊ぼくに関しては、っそれでは満足できない、果たしてどうか、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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飯田橋、




上岡敏之氏と読響メムバーとによるチェムバー公演、済む、演目はジョリヴェ《リノスの歌》、サン=サーンス《セプテット》、フランク《クィンテット》である、

事後はまた京都から上岡氏を追っ掛けて来られた方と呑む、

チェムバーは主題から拍子からさっぱりわからない曲もおおいが、っきょうのライン・アップはわりにわかりよい曲ばかりだった、

っなかではジョリヴェがやや現代的のわかりにくい音も含んでいた、一般にはほとんど有名曲のないこの作家だが、っその名を聞くことがあるとしたら、ラッパの人たちからだ、っなにかトロムペットのコンチェルトがあるのだろう、

っきょうのそれはお馴染みフリュートの倉田女史と上岡氏とのデュオであるが、上岡氏は、っかってはラフマニノフ《3番》のソロへ挑戦されたりと、ピアニストとしての舞台歴もおありだが、っここ数年のこの読響とのアンサムブル・シリーズやソロのリサイタルを聴くかぎり、本職のピアニストほど指は回りませんのでそのへんはご寛恕を、っというわりにラフな弾きっぷりでいられる、っが、っほとんど、つい練習室で浚っています、っくらいのそのリラックスした奏楽が、っぼくはけっして嫌ではない、っそれは、彼氏がオケを振られるときと同様に、必ずしもフレイズを瞭然とは示されない、っご自身が主題を担われる場面でも、角の取れた柔らかな打鍵のままで音楽を流してゆかれる、強弱は、っそれこそ先週のポゴレリチ氏のように、中音量よりは絶えず弱音へ吸い寄せらるような趣があり、っそれが小音場へ沁み渡る様は、っじつによい雰囲気である、

サン=サーンスは、っどんな作でもウェル・メイドである、っきょうの《セプテット》も、初めて聴いてもよくわかる曲調で、《動物の謝肉祭》などと同様に、本格にアカデミックであるよりは、っどこかコミック・ソングのようなスノビッシュな味がするのが快い、絃にバスを含んでいる感触は、クヮルテットやクィンテットとは異なり、絃のアンサムブル全体をソリッドな質感にするようである、

2楽章のトリオでは、トロムペットがロウ・トーンに徹して絃群はみなそれとおなじ役割、独りピアノが細かい音符のアルページオで背景を流れてゆくが、っしみじみとよい情緒で、率直に、ああ、好い曲だなあ、、、っとの感懐を得る、

3楽章は葬送のリズムというが、深刻であるよりはどこかシニカルに道化ているようで、っいかにもサン=サーンスである、彼は幼少より神童と謳われたのであるが、後年はどこか自身の器用貧乏を自嘲するようなところがあり、遺された作品にもしばしばその気分が発露している、っしかし、ウェル・メイドな曲を難なく作りうるということ自身、ったいへんな才能にちがいないので、彼のその自嘲の気分を感ずるとき、っぼくは定まって肩を持ってやりたい感情に駆られる、落ち込むことはないよ、器用であるということは、もちろん偉大なことなんだから、っと、ったとえば彼の《オルガン》などをおもってみよ、近代の所産たるシムフォニーとして、っあれほど巧妙な作品もまたとないではないか、卑下することなどなにもないのだ、っきょうのこの《セプテット》も、っひじょうによく出来た楽曲だとおもう、

っこのサン=サーンスからすると、フランクはしっかり深刻癖という風で、っこれはこれでいかにも浪漫派だ、っが、書法はわりにわかりよいし、っこれも初めて聴いたのであるが、っちゃんとクライ・マックスを実感することもできた、っすなわち2楽章の終盤であるが、っまず1stとVaとでアルコの同音連続、っやがて2ndとVcともおなじロールとなって、っまことに感極まる様が如実に伝わった、っやがて漸弱して、1stとVaとはフラジオとなり、2ndとVcとは慰めの役割、っこのままララバイのごとやさしい音調で楽章終結へ向かうのかとおもいきや、っまたも辛いモルの調子へ連れ戻さるという仕儀で、こういうところが浪漫派の作家はたいがいだよなあ、、、っとこちとら苦笑せずにいない、

っしかしフィナーレは、っちゃんとリズムが印象的で、声部間での主題の受け渡しがおもしろく、っここでも、あんたが主役でしょ、っという場面ですらけろっとしてワガママな自己主張をしない上岡氏のピアノは、っこちとらの微笑みを誘ってやまなかった、

プレ・トークをとちゅうから入場して聞いたが、っいつもの讀賣新聞の司会者との萬歳のごと掛け合いもたのしく、っしかしじつに聴き捨てならなんだのは、フランクの緩徐章を説明されるときだったろうか、楽聖《エムペラー》の緩徐章へ通ずる気分なのだ、っとおっしゃって上岡氏はその主題のほぼ全貌をお弾きになった、っほんの手慰みのごと弾き流すような手附きであられたが、っかえって儚さが滲んで胸へ迫って堪らず、っそこへ上岡敏之という人の人となり、っその音楽性の稀有なることが端的に表出しており、っあんなほんのひとくさりを聴くためだけにでも、っこんやは来てよかった、



っさて、っお次は来週、広上氏の札響との東京遠征公演をサントリーで聴くが、プログラムはじつに伊福部昭《リトミカ、、、》を含む、っかって、っこの大作家の東京音大でのお弟子と知己を得、っだいぶん数多の演奏会の客席をご一緒したが、っひょんなことから数年前から疎遠となってしまった、っそれが、っごくさいきんになって、伊福部ご長息の極さんがお亡くなりになられ、っそれからほどなくして、っこの知己が大学ご時分に副科で師事なすった汐澤安彦氏も鬼籍へ入られ、っそれでやっとかめで共通の友人を介してご連絡をいただき、勿体ないことに、ぜひ再見しましょう、っとおっしゃっていただいたので、では直近の伊福部作品の演奏さる3つほどの公演、ぼくはすべて行きますのでどれかひとつでもいらっしゃいませんか、っと返辞しておいたところ、広上氏公演の切符をお取りになったとのことで、会場で無沙汰をお詫び申すこととなる、

っじつに、人は繫がりである、一時の蟠りも、っいつかは解ける日が来る、っそうおもうと、っおおきに人生も生きてみるものである、っいまはただ、っこの数年来、っこちらから進んで謝罪を述べなんだことを悔やむばかり、っまったく青二歳のぼくである、っその方は井上キーミツにも本名徹次氏にもともに遺恨がおありになるとのことで、っお逢いすれば、あなたはミッキーにも本名にも執心なのかもしれないが、あのふたりはまったくたいがいの人物だよ、っとお叱りを受くことであろう、望む所である、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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博多、




本名徹次氏の棒、、、っは持たれていなんだが、九響公演、済む、演目はオール・モーツァルトで、《後宮よりの誘拐》序曲、同響奏者の宇根康一郎氏をソロへ立てて《Clコンチェルト》、っそして《プラハ》である、

決定っっっ、4月の両者の再度のご共演、聴きに行くっっっ、金曜のよるでまた仕事を休まねばならず、っしかも翌土曜は所沢で井﨑正浩氏公演のため、1泊した翌朝はホテルでの朝餉も摂れずに新幹線へ飛び乗らねばならないが、っそれでもどうでも聴きに行くっっっ、切符はあさって発売、っいま宿は素泊まりで押さえた、新幹線を最安の割引で乗っても総計¥5万凸凹の遊興、公演の器はまだこれから落成の新規のもので、っきょう開演前、宿へ荷を置いて、気楽に喫煙できそうな場所を索めてほっつき歩くに、周囲の公園ごと囲われた立入禁止のその外観を拝み、あれ、ここじゃねえの、っと気附く、っべつに事前に見てやらむとしたのでなくまったくの偶然だったが、4月に待つ、ぜひ来られたし、っと喚ばれていたのにちがいない、っことしはもう倹約に努めねばと云いながら、っなんのかんのでお銭が掛かる、っほかにフェドセーエフ氏やカーチュン・ウォン氏を聴きに大阪行せねばならないし、フェドセーエフ氏は広島へも来演される、っやれやれ、

博多へ着いて雨、っじきに止んだが、っその後も湿った風は冷たい、っしくじったのは、っみつけた公園の隅でしばし喫煙していたが、寒くてかなわず入ったカッフェで、っついいつもの習いでたっぷりとアイス・コーフィーなんぞを飲んでしまい、器へ移動して開演前に小用を足すも、前半の序曲とコンチェルトとのうちにまたもはげしく尿意を催す、っきょうは下はヒートテックを穿いていたが、っやはりあれは皮膚呼吸を抑えることで体温の放出を回避する仕組みなのらしく、逃げ場のない体内の水分は残らず膀胱へ溜まってしまい、頻尿を来たすようだ、

っさておき、器は銀行のビルの地下で、っこちらもつい近年に落成したものとみられる、壁面全面木調のおそらく1,000席に満たなかろうほどよい容積で、絃を変則8型くらいでモーツァルトを演ると、っまことに快い響がする、

序曲が始まるが、本名氏っっっ、振り姿はじつにあの郡山の再来で、変幻自在のシャーマニズムっっっ、っや、故・ヤマカズさんみたような、なにを振られているのかさっぱりわけがわからん、っという軌道ではぜんぜんない、っけれども、謂わば、っひたすら音楽のみを振られている、っつまり、目前の楽員楽員のムジツィーレンを喚起することのみに一意専心されているので、交通整理は、そんなことやらなくったって君等でできるだろ、っというふうなのだ、突き放した冷めた態度なのでもぜんぜんなく、っひたすら音楽へ徹することから、自然、音が整い、怜悧に研ぎ澄まさるのである、っただそのお背中を観ているっきりで、っそこへ音楽の仕合わせと孤独孤絶とのすべてが存り、人生の人間の麗しさと虚しさとのいっさいが在る、

っいちど何気なく振られておいて、っやや進んで掌を下へ向けつ両腕を拡げて膝を折られ、フレイズを熟しながらの弱音を、弱音というかフェザー・タッチのやさしい質感を要求されるあのセンス、拍を取られる手がふと停まり、オケの推進力へ委ねて、さ、ここへおいで、っと先の小節の拍頭で待ち構えてそのザッツでまた手綱を握り直される力の抜き差し、っその拍頭の硬軟もまた多様にして雄弁で、掲げられた手は落とさずに膝を折って身体を下げられ、っつまり叩かない柔らかな音の入りを具現される手筈、左手は体側へ下げられたままで、右手で拍の明示と表情の要求とを兼ねられることもしばしば、っそれらが完全な脱力のもとに為され、っお姿がもう音楽の塊である、

っあるいは、手兵である郡山の楽団のほうが、っこの本名氏の悟達の境涯により鋭敏に、っまたより大膽に反応していたかもしれない、っが九響とてもたいへんなもので、序曲から満堂を魅さずにいない、

コンチェルトの宇根氏は低い方を拡張していないふつうのクラリネットをお吹きだったが、全編これ滑らかに流れて、難技巧を露おもわせない、モーツァルト最晩年の憂愁の流れるこの曲だけに、っそれが達せられなければ始まらない、

バックのサポートへ回られても本名氏の複雑微妙な手練手管はいささかも鳴りを潜めない、ソリストを差し置いて我を振り撒くというのではもちろんないが、陰翳の差配はいつも細心を極めている、2楽章の再現ではこの日ゆいいつ、ソリストとともに折れそうな最弱音を馳驅され、っぼくらへ固唾を飲ませる、

っぜんぶ演っても2時間に満たないプロであるが、序曲の後と後半の前とに本名氏がマイクを取られてすこしくお話しになる、っまだそれほどのご高齢でもなかろうが、っなんだか入れ歯がよく合わないじいさんが話すみたようにややふがふがとした滑舌でいられ、っぼくにすればそこがまた痘痕も笑窪である、

《プラハ》は、っじつは最期の《39〜41番》よりも魅惑的の逸品ではないかと、っぼくなどおもうくらいだ、4楽章制だと、1楽章のソナタ形式が小造りとなり、っいっぽう緩徐章は書法が単純なくせにいやに長いというややアンバランスをおもわないでもない、っこれは独りモーツァルトに限らず、浪漫派以降でも、ったとえばドヴォルザーク《8・9番》などにも、っおなじ弊をおぼえずにいない、1楽章がしっかり大規模だと、っまずそこでぞんぶんに音楽を味わうことができ、っしかもここでは舞踊章を割愛してすぐさまフィナーレとしており、っその全体のフォルムが素敵だ、っただ、フィナーレは、テーマの性格といい、書法の徹底ぶりといい、充実の1楽章に対してわずかに龍頭蛇尾の憾を遺すかもしれないが、っしかしその1楽章こそは、掛け値なしの傑作である、序奏から入念に移調しながら主部を待つし、っその主部の緊密なることはハイドンや楽聖にも敗けず、㐧2テーマのロマンティシズムと高度のポリフォニーとの両立は、浪漫派の後輩連いっさいを黙らせて余りある、

演奏もまた入魂で、1楽章の展開は多声の結集による緊張力が出色、再現の㐧2テーマは泪を絞らずにいないが、っしかもなお冷厳に対位法が見渡されており、ファゴットの和声の色など、煮凝るどころかむしろフレッシュに弾けている、

緩徐章からフィナーレと、っぼくはもう演奏上の技倆技術を感じなくなっていった、本名氏は極めて多岐にアイディアを張り巡らされ、極めて微細に音々を操られている、っが、っそれらはすべて楽曲を活かすうえでの必然の語法であり、急所を突くほどに、音楽はいかにも自然だからである、



っさて、っあすは帰るだけなので、午すぎの新幹線にした、っゆっくり睡よう、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)