松本宗利音氏の棒、Orchestra Canvas Tokyo公演、済む、演目はオケのみでヴァグナー《トリスタンとイゾルデ》の前奏と〈愛の死〉とと、ブルックナー《8番》とである、ブルックナーのファッスングはハースであり、っまことにうれしい、っいつもの繰り言、っほかはどうでも、っこの曲だけはノヴァークではダメである、
っきのうもなんだか睡るのが遅くなってしまい、4時すぎくらいまで起きていたのだが、っというのは、iPhoneで山田和樹氏の日本フィルとのエルガーの動画を録ってみていたのだが、っきのう云ったような縦表示で録って事後に上下の余白をカットするのでは、iPhone上で観る分にはさのみ画質は粗くないが、クラウドへ上げてでっかいモニタで全画面表示とすると、最高画質で録ったものでも、許容し難いざらざら動画となってしまっている、っそこで横表示としてみるに、っこのtvuchの動画はソースからしてアスペクト比16:9なのだとみられ、iPhoneで観ると左右に余白がある、っために、っそのまま横表示で録り、録ったものはその余白も含んでいるわけだが、事後にトリミングすれば、っかなりの高画質で保存しえたのだった、っちなみにファイル・サイズは、4K最高画質で録っても、1時間10分ほどの動画で7GBそこそこ、っおもったよりも重くはない、っただ、カメラの動画撮影の画質設定がこの画面キャプチャへも反映しているのかは、設定をいくつか変えながら録ったもののファイル・サイズを比較せなんだのでわからない、っすくなくも、50だか55インチのモニタで大映しにしても、っその7GBの動画は不足のない画質である、
っそれと、っいつもPC上で使っているアプリケイションによる録画だが、っそれをゆうべいくつかモニタで観てみたところ、画質が落ちてしまっているものと、っおそらくはほぼ画源通りに録れているのではないかというクリアなものとが混在していた、っつまりはソフトはちゃんとした画質で録れるのであり、録画中の通信状態が過密で、再生している動画自身が低画質へ落ちてしまっていたのではないかと察せらる、音声についても、っこの山田氏のエルガーはじつは配信開始直後に同アプリで録ったのだが、終始しゅるしゅるいうノイズに塗れたひどい音質で、ソース自身がそうなのだと早合点したぼくは、有料配信なんだろ、ちゃんと仕事せえよっ、っと憤慨、っところが、っさいきんにもういちどストリーミングで聴き直してみるとちゃんとクリアな音がしており、っそれでiPhoneで再録してみることにしたのである、っただこれもわからない、通信環境によって音声にしゅるしゅるノイズが混ざってしまうことがあり、先回は不幸にしてそれを録ってしまった可能性もあるが、っこのtvuchの有料配信は、公演当日にはライヴ配信がなされ、翌日、若干の編集を加えたものがupし直されるが、その最初の編集時点ではしゅるしゅるへぼ音質で、ユーザーからクレイムが入り、後日、別マイクの拾ったクリアな音声と動画との同期を取り、再upせられた、っなどの可能性もかんがえうる、っけれども、ったとえばYouTubeには世界中のラジオ放送を録音して色々の演奏会の音声を上げている人とか、N響の定期公演の放送を録ってまるまる上げている人などがいるが、っそのとくに後者などは、折角の録音なのにぜんぶがしゅるしゅるノイズ放題の聴くに堪えない音質であり、PCでの録画録音には、っこのしゅるしゅるノイズはつきものであるのかもしれない、っむかしCDを再生しながらMDへ録音していた時代なぞは、録音中に近くで携帯電話を使用するとその電波を拾ってノイズが録れてしまっていたものだが、PCでの録画録音でもそれに類することが起きるのだろうか、文系人間なのでわからない、
っさておき、松本氏だが、ってっきり単に親御がシューリヒトの熱烈なファンで、謂うところのキラキラ・ネイムの走りとして宗利音と命名されたのかとおもっていたら、パンフレットのプロフィル欄によると、っなんと名附け親は当のシューリヒト未亡人だという、マジかよっ、っけれども、シューリヒトが亡くなったのって60年代くらいだろ、っあのシュトゥットガルト放響とのブラームス《2番》が同響とのラスト・レコーディングだとなっていて、収録は、定かには記憶しないけれども、ったしか60年代のはじめか、っせいぜい中頃までだ、っその一寸あとに亡くなっているとして、っやっぱり60年代の半ばだ、松本氏はといえば、っぼくよりだいぶん年少とみえ、30歳がらみか、っいっていても30代半ばだ、っお生まれは80年代末か、90年代へ入っていられるかもしれない、60年代に亡くなった人の未亡人がそんな年まで生きているということは、夫人はよほどか長命であったのか、っそれともシューリヒトとだいぶん歳が離れていたのか、っはたまた、夫人の生前の命名ではなく、松本氏の親御が、将来、自分に男の子供ができたらシューリヒトの名をくれないかと頼んで、夫人から許諾を得ていたとかということなのか、っいずれ、っそんな名を戴いておいて指揮者に成れなんだら目も当てられないところ、っちゃんと成れたんだから、っやっぱりよかったねえ、
っそれで演奏だが、っいやすばらしかったねえ、オケは、アマチュアとして最上等ではないが、っかなりの腕だ、っそして松本氏のキャラクターはといえば、っぼくはヴァグナーでもブルックナーでも、演奏中ただの1度も、彼氏の存在を感じなかった、っただただ音楽だけが聴こえてくるので、っそれを松本宗利音色に塗った、っつまり解釈せられた音がまるでしないのである、指揮道もその道がいちばん険しい茨の道であるのは自明で、っぼくはよのなかのその道を行きたがっているらしい大半の指揮者はただの愚図だとおもっているが、松本氏は、っいつもそういう音が出せている人なのかはわからない、っけれどもきょうについては、一個の固有の人格としてしかしいささかも楽曲へ干渉しないで、っひたすらにそれへ奉仕する献身の人であられた、っくりかえすが、っそんなことは誰でもやるのだ、っそれで聴き手をちゃんと納得させられる人が、滅多にいないのである、
振り姿は華麗でもなんでもない、っただ、っずっと聴いていると、っなにか音楽の宇宙の彼方へ独り立ち盡しているごと孤高の気味がしてきて、っぼくはいたくこころを摑まれた、っそれはしかし購いかむりかもしらん、っわからない、っともかく演奏がずっとずっとすばらしかったので、〈愛の死〉の頂点ではオケが凄烈に迸り、っあたかも音それ自身が感極まるようである、
ブルックナーは、っどの楽章でも頑固なイン・テムポである、1楽章も遅すぎず愼重すぎずに開始し、そうだっ、アレグロ・モデラートだっっっ、っとこちとらをして膝を打たせたかとおもうと、㐧2テーマ頂点も速度を操作せずに通過してゆく、っそして、鳴っている音が恆にちゃんとブルックナーである、っこれはなんとも言語化に堪えず、っこう謂うほかないものだが、っこの全曲80分中のはじめの数分間っきりでも、っすでにしておおきに信頼に足りた、ああもう安心だわ、これは80分間ずっとすばらしいわ、っと、
若い指揮者の同曲というと、浜松で坂入健司郎氏が振られるのを聴いたが、っどうしても1楽章から萬感を籠めて重たく重たく歩ってしまう、萬感が籠っているということはもちろん伝わるとも、っだけれどもぼくとして、それだともうほとんどアダージョじゃん、、、っとの疎隔の憾が疼くのを抑えられない、源流といえるのだろうチェリビダッケの罪は重い、宇野さんはかって、みなブルックナーを荘重で厳粛な音楽だとおもっている、そうじゃない、ブルックナーはたのしいんだ、っとさかんにおっしゃったものだ、っこの1楽章にしても、曰く、誰も音楽を大事にしすぎる、っとのことで、人によっては、音楽を大事にしてなにがいけないんだ、っとアレルギー反応を起こすことだろうが、文章はよく読まなくてはダメで、大事に、しすぎてはいけない、っとおっしゃるのである、っぼくの理解でゆけば、っではその大事があまりに、足を重たく引き摺り、アダージョばりにのらくろ歩く演奏は、っいったい作家当人が指定したアレグロ・モデラートを叶えているのか、っその鈍い足取りのうちに、音楽はおおくの咲きえたはずの花々を散らしていやしまいか、っと、
ヴェテランでいえば、井上キーミツがこの作家をお振りになるのをいくつも聴いた、っなかでは名古屋フィルとの最期のご共演となった豊田での《5番》の感銘が傑出しているが、キーミツへの無礼を恐れなければ、初振りでいらしたというその要素が、っむしろ奏功したのではないか、っほかは《7番》も《8番》も《9番》も、キーミツという一大タレントがブルックナーへいかなる色を塗られるか、っという限りにおいてはたのしんだが、上述の、音が鳴り出したが最後、嗚呼っ、もうブルックナーだわっ、っとの大の適性が実感せられたかといえば、答は否である、
2楽章もひきつづきアレグロ・モデラートであるが、っここでは反対にのめるように速い人がおおくてかなわない、チェリビダッケにしてからがそうだ、っこの人の演奏を唯一無二と称揚してやまない人は世におおいが、っぼくにすれば、っまず1楽章冒頭のクラリネットのところでファゴットっきり鳴らない不健康な音色感からしてもう嫌だし、っそれはファッスングの問題だから云わないことにするにせよ、っあの1、2楽章のテムポの不自然な落差ひとつを取っても、っとてもとてもこの曲の理想の演奏だなどとはおもえない、っともにアレグロ・モデラートと記されたふたつの楽章を、っかたや停まってしまうばかりちんたら歩き、っかたや落ち着かぬほど速足にするとは、っそれでなにが名演奏か、
、、、っや、っべつに怒っているのじゃないが、松本氏はここではほんとうにモデラートなアレグロ、要すれば急ぎすぎないのだ、モデラート、モデレイトというのはじつに厄介な形容で、っできる人は難なくそのテムポ、そうだっ、それがいちばん快適で安心だっ、っというテムポへびたっと定位できるのだが、っそれからもうできない人がいる、っもちろん、どうしてそんなテムポにするのさ、っという奇異の感触をかえって演奏上の効果として利用するという術はありうる、っぼくもそれを許容しないというのじゃない、全編全曲これ妥当なテムポで運んでしかし凡庸窮まりなく、煮ても焼いても喰えないというぼんくら演奏が世に澎湃としていることも知っている、
っきょうの演奏にかすかにもせよ不足を云いたいとしたら、全体に、トロムペットがやや大人しかったかもしれないのと、彼等を背後から臨む位置へ坐したのもあろうが、Vaの主張がやや弱かったことくらいである、前者については、吹いていないわけではなかったが、絃のアンサムブルのみでおおきに音場が飽和せしめられているなか、っそれへ埋没し勝ちとなるよりは、絶えず突き抜けむ突き抜けむとするこの楽器の音勢感が、っぼくの所望である、っそれは、っぼくが主に朝比奈さんの音盤でこの曲に馴染んでいるからだろう、N響盤を推す人もおおいだろうが、音場が渋谷で力いっぱい奏するので音色がくすみ勝ちの憾があり、大阪フィルとのラスト・サントリー盤や愛知芸文センター盤のほうが瑞々しくて断然すばらしい、N響に比して大フィルは下手だと云う向きは、演奏を聴いているっきりで、音楽を聴いていないのだ、っそこでの大フィルのトロムペットの覇気からすると、欧州の名門の奏楽になる音盤では、ったいていどれもこの楽器の吹奏が軟弱にすぎ、絶えずひびきの裡へ融けむ融けむと吹いているようなのが鼻持ちならない、もっとがつんと来んかいっ、っと、仕方ない、向こうでは一般にさようのアンサムブルの文化なのだろう、器もよくひびくところがおおいのにちがいない、朝比奈サウンドは、長く専門の音楽ホールを有たぬままに交響樂運動を展開してきた我が日本においてのみ成立しえた稀少種であり、っしかし、っそのほうがぼくの耳には遙けく快くひびく、っいちどズヴェーデン氏の《8番》の音盤を鳴らした際、っそのことを痛感した、全体の造形にはなんらの不満もない、っただ、これでもっとトロムペットが突き抜けていたらなあ、、、っという物足りなさが80分間ずっと附き纏う、直後に朝比奈さんの音盤を鳴らしたところ、っその不満は一気に吹っ飛び、っじつに気分爽快であったものだ、っきょうの松本氏でいえば、ったとえばスケルツォにおいて、っあれっきりトロムペットが吹いていないと、っこの楽器が全楽のクレッシェンドにつれてようよう細かな音型を担うようになるというあの楽曲の発展の経緯がよく伝わらない、全体のひびきは音量音圧としてじゅうぶんなのだが、っその管絃楽の頂点へなお、獅子王のごとトロムペットが君臨していてくれたいのである、っだってトロムペットなんだから、トロムペットというのはそういう楽器でしょう、っちがうだろうか、っや、っちがわない、
アダージョもフィナーレもずっといちばん聴きたいブルックナー《8番》の姿が鳴りつづけている、シムバル、トライアングルを伴なう前者の頂点も、1楽章の主題をタームを延ばして全楽にて再現せる後者のコーダ直前でも、聴こえよがしの勿体ぶった表情は絶無、カッコいいぞっ、松本宗利音っっっ、最後の最後、全楽章の主題欝積へ至ると、自然、目頭が熱くなった、っまことに立派な演奏が、っついに終結してしまうからである、
、、、若き指揮者への折角の讚辞なのに、間へしばしば余計な雑言が闖入したようで、松本氏にはすまないが、っほんとうに、っすばらしい演奏だった、
っちなみに、配置は一般的のストコフスキー・スタイルだったが、ブルックナーでは金管のみ、左右が逆になる、左端へテューバがいるわけだが、っこれは、左のホルンの後ろへヴァグナー・テューバ連がおり、っそれとテューバとを隣同士に置きたいがためであろう、
っさて、っあすも演奏会、仕事のあと、初台にて我等が名フィルの東京遠征公演、川瀬氏の棒でマーラー《トラギッシェ》である、
っあ、っそうだ、っまたあのカレー屋へ寄ってから帰らむ、っきょうはビールが呑めるぞーっ、