ギロッポン、 | ざっかん記

ギロッポン、




広上淳一氏の棒、札響東京遠征公演、済む、演目は、劈頭に秋山氏を偲んでモーツァルトの緩徐章を演り、本演目は武満徹《乱》スート、外山啓介氏を招いて伊福部昭《リトミカ・オスティナータ》、っそしてシベリウス《2番》である、武満は当の映画のサウンド・トラックを作家のご指名で札響が録音しており、伊福部は北海道縁、っそして尾高氏時代よりの同響の代名詞シベリウスと、本寸法も本寸法を揃えてきた観だ、

器で数年来、無沙汰をしてしまっていたかっての知己と邂逅し、事後、呑む、

演奏は、っいずれの演目もすばらしかったとおもう、札響は、っこちとら彼等の本拠まで遠征し、井上キーミツ、っおよび上岡敏之氏とのご共演を聴いたが、サントリーはやはり天下の銘器だとおもわれ、彼の地で聴いた彼等よりも、っきょうのほうがより満々とよく音が伸びるようであった、

っまず故人への献奏のモーツァルトだが、フル編成の絃で臨み、っそのアンサムブルは音が鳴り出した瞬間から絶妙の耳当たりであり、おおっ、好い音出すなあっ、ってなものである、

武満はなんとも陰惨なサウンドだが、オケは精妙そのものである、

《リトミカ、、、》は、っあのようなアンサムブルを要請する楽曲は、西洋古典のなかにも邦人の筆になる他の作品のなかにも、っけっして見出しえない、っふつうは、演奏のなかで多少ともタテがバラつこうとも、っうまく辻褄を合わせればそれもかえって味にしてしまえようというものだ、っそれがこの曲だけは通用しない、機械的のまでに絶えずびしっと音が揃っていなくばならず、っそれを数日間の練習で準備するのは相当度の難儀である、事実、昨年、キーミツが松田女史のソロ、神奈川フィルで同曲を披瀝されたが、オケはぜんぜん曲想に馴致しておらず、っあのような散漫な奏楽ではまったく曲の核心を伝えるには及ばないのである、っそれがきょうの陣容は、っどうも、っむかしキングでシリーズ化せられていた同作家の網羅的の作品集成において、同曲のみは待てど暮らせどライン・アップへ上らなんだのだが、っこのほどセッションですでにして収録を完了されているとのことで、オケとしても、っえ、同演目での本拠での定期公演はもう熟したうえでの東京遠征だったのかな、ったぶんそうとおもうが、っそうすると都合何度も本番を了えていられることとなり、相応のピントの合った奏楽を示されていた、

広上氏の造形は、冒頭のホルンからなど、っあまり凭れずにさらっと始められるふう、っその後も緩の部分は先へ先へと歌ってゆく感触で、対して急の部分においては、ソロの外山氏は加速を抑え気味に、トップ・スピードへ達してもややおっとりとしたテムポで、っためにオケともども落ち着いて音楽へ箍を嵌められたようだ、箍を嵌める、っとは対象を拘束して自由を奪う意であり、っがんらいそれは音楽にとってのタブーだが、っともかくこの曲に関するかぎり、っむしろいかに精確に音楽を箍へ嵌めるかが問題なのである、

過去、聴きえた同曲のオケ・パートでは、カーチュン・ウォン氏の日本フィルとの演奏が、っなかなかのものであった、っただし、細部の突っ込んだ表情附けでは、っいまだに荻町修氏が栃木県響を振られたものが忘れ難い、栃木県響は、市販の盤だけでも早川正昭氏と荻町氏との棒で同曲のライヴ音源が2種あり、っぼくはほかに荻町氏の別テイクの音源もきょうお逢いした知己から分けていただいている、ソロはいずれも同曲の大権威、山田令子女史であるが、っこのうち、早川氏のものは同響が同曲へ挑まれたさいしょの記録であり、っやはりいまだタテを揃えることに難儀しているよう、荻町氏との1度目のライヴは、ソロに手痛いエラーがいくつかあるために、山田女史が音源の市販を厳禁され、っお蔵入り、っただし、荻町氏とオケとはこの時点ですでにしてかなりの程度、曲想を手の内へ入れていられ、ソロのエラーを勘定したとしても、っこの非売音源はなかなかのものである、っそして荻町氏の2度目のライヴは、っぼくも栃木まで聴きに往き、ゲネ・プロまで見学させていただいたが、氏の細部の拘りはより深化し、非売音源と甲乙を附け難い達成を示されたのだった、

山田女史にはこの3種のほかに2台ピアノ・リダクション版、キーミツがお振りになるはずが大植氏の代演となった東響とのライヴ盤、再度企画せられたキーミツ、同響とのご共演と、っじつに6種もの同曲の音源があり、っほかに、っいまだ消されていなければ、ったしか彼女が所属されているアメリカのオケとのご共演の動画がYouTubeへ上がっているはずである、

キーミツは、神奈川フィルとのものであれ、っおなじ松田女史とのN響との機会であれ、っその山田/東響とのものであれ、っぼくからするとややかるく捌きすぎる嫌いで、っこの曲に対する適性を示されたとはしえなんだようである、山田女史とのご共演の際の楽屋話をご当人からうかがったが、初めての音出しのあと、記譜のアクセントに忠実であらむとする女史に対してキーミツは、そんなにしつこくアクセントへ喰い附かないで、もっとジャズみたように演ろうよ、っと云われ、土俗の味がせねばこの曲ではないとおもわれる女史は難渋、伊福部先生に直にうかがった際には、アクセントの指示には飽くまでも隨ってくれたいとのことでしたが、っと反駁されると相手は、え、なに、あなた伊福部さんに直に教わったことがあるの、っとそこから態度が急変されたとのこと、っどうも、一般にはまったく無名の女史を、キーミツははじめややナメて掛かるところがおありだったようだ、東響との大植氏との機会には、女史もプロ・オケとのご共演の機会などなく、オケからもやはり、誰だよこのピアニスト、っと見向きもされなかったようで、練習時の控室もわからずに所在なくいるままに音出しが始まってしまい、っしかしいざ弾き出されてみれば、厄介な変拍子にたじたじのオケに対して女史のソロはあのとおり堂に入ったもの、恐れ入りましたとばかり、楽員が俄かに鄭重な物腰となって、控室へ案内をしてくれたとのことだ、キーミツとのときは、キーミツはそれこそ松田女史あたりを抜擢されたかったのかもしれないが、東響側が、ぜったいに山田だ、っとキーミツにそのキャスティングを飲ませたらしい、っまこと、藝は身を扶く、っである、

っさて、外山氏のソロだが、1度目と再現との急の部分こそ、っさいしょの装飾音の音価を長く長く取ってじっくりと始められる山田女史の存在感からして遜色をおぼえないとしなかったものの、松田女史やカーチュン氏とご共演された務川氏などが、加速するとフレイズの角を取って流すように弾かれてしまうところ、っわりに最後までアクセントを粒立てて武骨な手応えをみせてくれ、っやはりそのほうがこの曲には好適である、1度目の緩徐部を締め括るカデンツにしても、っここも山田女史は鬼気迫るのめり込みを聴かせられるが、外山氏もなかなかの語り口でいられた、

広上氏のオケ・パートも、っなお荻町氏の造形が慕わしく想い返されるものの、っすくなくもキーミツのあっさり味よりはずっとこの曲に適っており、中間の急部分でも、っよくツボを当てた痛快の佇まいであられた、全曲終盤の迫力更新も、キーミツはやはり泥臭さに不足するが、っきょうはじゅうぶんな発奮が聴かれたことだ、近く発売となる音盤もたのしみだし、っきょうもライヴ収録があったようで、っできればそちらも発売していただきたいところである、

シベリウスでの広上氏は、全身を驅使された乾坤一擲の棒、っこころなしか、以前よりも点を打たない軌道となられて、彼氏に濃厚な表情を求められながらも、オケが終始、清潔に拡がる点は出色と云いうる、なんとすばらしい楽団だろうっ、っとこちとらをして感歎せしめる場面に事欠かなんだ、

っここ2年ほど、年間100回以上の演奏会へ通いながら、不思議、っこの曲に触れる機会はなかった、実演ではほんに久方ぶりに聴いたが、っあらためて聴くと、胸へ迫る場面がそこここにある、1楽章からもう泪腺が緩んだが、っはじめの絃のリズム動機があって、木管の主題が出て、楽章のまんなかでトュッティへ発展するファゴットの楽想があり、っそこから広々としたVnのアルコが迎え入れらる件など、っほんとうによい風情である、

っこの曲は宇野さんや、怪人と謳われたぼくと同字同名、故・菅野浩和氏に謂わせれば、初期と中期との折衷的の作風でどっち附かずの駄作、っとのことで、宇野さんエピゴーネンのぼくはそれを眞に受け、っどこか聴かず嫌いのままきょうまで来てしまったようだが、っでもいざ聴いてみれば快い作品ではないか、トロムペットへ再現する2楽章の主題など、率直に愛惜せずにはいられない、



っさて、っお次はこんどの旗日、上野でインバル氏と都響とのショスタコーヴィチ《バビ・ヤール》を聴く、っこれについては流石にキーミツのあのN響と大阪フィルとの4度の機会が入魂であられた、インバル氏の実演を聴くのは初めてであるが、っさいきんYouTubeへupせられた同響との同《9番》やブルックナー《9番》の補筆完成版を聴くと、っどうも汗掻きべそ掻きせず、小器用に纏まってしまっている演奏で、っがつんと重たいパンチが来ない憾がある、っそれでこそオケにもお客にもインバル氏は慕われているのだろうが、殊ぼくに関しては、っそれでは満足できない、果たしてどうか、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)