ざっかん記 -11ページ目

王子、




石﨑真弥奈女史の棒、高田馬場管公演、済む、演目は、石﨑女史と東京音大で同窓の薮田翔一氏が東日本の震災への鎭魂の意を有って書かれた作を、っこんかいのオケの乗り番に合わせてすこしく編成を改変されたという小品に始まって、伊福部昭《交響譚詩》、っそしてブルックナー《3番》である、

薮田氏は来場しておられ、開演前に石﨑女史と曲についてすこしくお話しになる、っぼくとまったくの同年でいられるが、石﨑女史はもう一寸お若く見えるから、同窓と云う条、薮田氏が院生時に女史が学部生でいられたとかそのくらいであろう、

っその小品は前半は穏やかに死者を悼み、後半はスネアによる勇壮なリズムを伴なって、復興への祈念を謳ったものであろうが、オケは曲頭からひじょうに優婉なひびきを発し、管もそれぞれに精妙なので、これはっ、っとおもわせる、

っが、っいささか購いかむりであったようで、伊福部以降は、っまあありふれた肌理の粗いアマチュアの姿であった、っその《交響譚詩》㐧1譚詩は、遅めのよいテムポだが、っひじょうに質朴な伊福部のオーケストレイションにあっては、奏楽は嘘を吐けず、っもっと高度の合奏能力をもってせねば音楽に成らない、㐧2譚詩も同断で、っもうひとつぴりっとしないようであるが、っしかしこの日本的の懐かしい主題群を、作家は民謡から引用しているのでなく、全き自作により賄っている、っそのことの偉大をあらためて実感せずにいなんだ、

中規模のデッドな器にブルックナーで最大編成となって、っひびきはますます粗野とならざるをえず、っこの作家を聴くに必須の管絃の奥深いブレンドを望めないのが辛い、加えて、ブルックナーの奥儀に通曉しない指揮者にあり勝ちのこととして、記譜の弱音指定に神経質に応接するので、強弱の交替が狂騒的となって耳に痛く、っためにこちとら、っようよう先を聴いてゆく気力を喪い、っしばしば睡魔に襲わる、っおもしろいもので、デシベル値がおおきくてけたたましくとも、演奏への興味を有てないと、睡気には勝てないものである、っはんたいに、っどんなに睡眠不足で来場していても、尋常ならざる楽音が鳴ると、っその瞬時に意識の覚醒を迫らるから不思議だ、



っさて、暢気に4連休で、っあすあさっては1泊博多行、っあすよる、本名徹次氏の棒、九響で、モーツァルト《Clコンチェルト》《プラハ》というまたとない仕合わせ至極のプログラムを聴く、っただ、っほんとうに仕合わせが訪れるかは、っいまだ未知数である、っそれがあの郡山でのハイドンと同様の境涯に鳴るならば、っこちとら滂沱の泪に暮れずにいない、っけれども、YouTubeで本名氏の近年の演奏をいくつか聴くと、っぞんがい平凡なものもある、っもし今次の演奏がすばらしければ、直後に発売の彼氏のおなじく九響との4月の公演の切符も購ってしまわむとおもっているが、っさて如何に、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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川崎、




矢崎彦太郎氏の棒、ザ・シムフォニカなる団体の公演、済む、演目はラヴェル《メヌエット・アンティーク》、菅野潤氏を招いて同《両手コンチェルト》《左手コンチェルト》、っそして同編のムソルグスキー《展覧会の画》である、

月火と博多行で休んでしまうので、っきょうは仕事をせむかとおもうが、新宅で睡馴れない起き馴れないのか、っけさ起きて、っどうも出掛ける気力を奮えず、休んでしまう、起きてしばらく福田恆存など読み、洗濯機を回し、引越し時の埃へ掃除機を掛けて、洗濯機の停まらないうちにまた寝室へすっ込んで午睡に暮れ、起きて洗濯物を干し、着替えて出掛く、っいろいろと調べて、っきょうはポゴレリチ氏のリサイタルもあったのだが、君津といやに遠く、川崎で妥協した、妥協と云っては矢崎氏とオケとに済まないが、っほかには、我が青春の棲家、橋本にて河地良智氏の公演もあり、川崎よりずっと近場でもあり、興味を惹かれはしたが、っなんとなくの気分で川崎を撰んだ、

矢崎氏の棒へ接するのはいつ以来だろう、ったしか上京後にはいちども聴いていないはずで、っそうすると田舎へいた往時、名古屋フィルの定期で金山のそのころ市民会館といったあの器で聴いて爾来であり、っじつに20年以上振りである、っそのときも《ボレロ》等を含むフレンチ・プロであったが、彼氏の風采はあのころとさしてお変わりなく、振り方はもとよりやや不細工でいられるが、っお歳を召してより仙人然とされたか、っそのおおらかな振りこそはむしろ快い、平素より、っさいきんの指揮者の1から10まで指揮法指揮法した振り、っいつまでもどこまでもかっちりした音が出ます、っかっちりした音っきり出ませんという奏楽の手応えに大の不満を懐くぼくとして、っあのくらい点が曖昧で、っほどよくザッツの解れているアンサムブルというのはうれしい、っただし、オケは、アマチュアとして劣等ではぜんぜんないが、近代フレンチをファンクショナルに聴かせるにはまるで腕が足りていなんだ、ソリストもそうで、っよってコンチェルト2曲は、残酷に云えば、微苦笑とともに聴くべき学芸会レヴェルではあった、

っもちろん、っそこは大権威、矢崎氏の棒であり、っよくピントが合わないなりに、マーキナーなひびきと詩情との両立はまずまず叶っており、《メヌエット、、、》から浸らせる、

《両手コンチェルト》は1楽章から、年配のソリストはふたつのテーマ間で目立ってテムポも音色も表情も変えられる気がなく、っぼくはその表現力を無闇に誇示しない態度をかえってこのもしく聴いた、

2楽章の主題もそうで、淡々としてデリカシーを押売りしないタッチは、っじつはフレンチを得意とする有名ピアニストにほど望み難い感触なのである、連符による高潮あたりは、っもうひと声、高音の打鍵をきつめに来てくれたかったが、リズムを変えてコール・アングレによる主題の再現を伴奏してゆく部分の煌めきには、っこちとらあらためてうっとりと現を抜かす、

《左手コンチェルト》は、WW1で右手を喪ったピアニスト、パウル・ウィトゲンシュタインの求めに応じて書かれているが、彼氏はじつに哲人ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの実兄である、

っぼくにすればこの曲を聴く機会もまったく稀で、実演では舘野泉氏が半身不隨となられて以降の復帰公演で弾かれるのを聴いて爾来かとおもわれ、っそれはたしか桜木町でであり、サポートはコバケンさんと日本フィルとであった、

っきょう聴いていると、並行して作曲せられているだけはあり、っときおり《両手、、、》2楽章とおなじ感触の音がしているし、っぼくの聴き間違いでなければ、ピアノがさいしょに登場する部分には、っすこしくオリエンタルな音階が採用せられているようである、

ソリスト・アンコールに同《逝ける王女のためのパヴァーヌ》、っやはり繊細自慢とまるで無縁の、フレンチらしからぬざっくばらんなピアニズムである、

《展覧会、、、》は、っあまりにも有名曲で、っかえって実演を聴くこともすくないが、っちかぢかカーチュン・ウォン氏と日フィルとの演奏を聴くこととなる、っそこでは伊福部昭《日本組曲》も披瀝せられるという贅沢な1日である、

トロムペット1番は髪を派手な色に染めたあんちゃんだったが、っかすかな吹き損じこそあれ、太いゆたかな音色がすばらしい、

、、、っあ、っえ、登戸乗り換えなんぞ馴れないもので、間違って新宿方面へ乗ってしまっていた、っこれから代々木上原から引っ返す、っやれやれ、

矢崎氏の造形にはなんらの衒いもないが、冒頭の〈プロムナード〉からつづく〈侏儒〉への遷移にしてからがそうだし、っその後、〈、、、市場〉から〈カタコムベ〉へも、〈バーバ・ヤガー、、、〉から〈キエフ大門〉へも、っいつも間髪を入れざるアタッカ、諾なる哉、個所によっては、なるほどっ、その声部を大事にかんがえていられるのかっ、っと唸らせるのもとうぜんで、っそれがかちこちしすぎない自然体の合奏の裡に行なわる、



っさて、っあすは王子にて、石﨑真弥奈女史の公演で、っこちらも伊福部を含み、《交響譚詩》である、っじつはぼくも同曲の実演はあまり聴いていない、、、っえ、初めてか、っそんなことないか、っどこかでは聴いているはずだが、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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ギロッポン、




上岡敏之氏の棒、読響公演、済む、演目は、ポゴレリチ氏を招いてショパン《2番》コンチェルト、っそしてショスタコーヴィチ《11番》である、ソリスト・アンコールは、っなんとコンチェルトの2楽章を再度そっくり奏し、休憩は15分と短かったにも拘わらず、済んで21時半を優に回る長大な公演である、

っせんじつ、井上キーミツの京響とのブルックナー《8番》を聴いた際、会場で拙ブログの読者という方からお声掛けをいただいたが、っその方は上岡氏にいたく傾倒しておられ、っきょう、っそして来週の読響のチェムバー公演と、っわざわざ宿を取られて上京される、っきょうもハネたあとにご挨拶いただき、っぼくとして、そんな交通費と宿代とを取られるのもこんなあほブログを読まれてしまったがため、っと気が咎めることもあり、ご迷惑でなければかるく1杯いかがですか、馳走しますので、っと申して、若くときからこれまで何度となくここへ通いながら、1人ではついぞ入ったことのなかった器の斜向かいのバーみたようなところへ入る、っすでにしてフードのLOを回っていて、ビールでデザートを食するという仕儀とあいなってしまったが、っさぞかし小洒落たものを置いている店なのかとおもいきや、ビールはふつうにスーパー・ドライで拍子抜けした、っま、呑み馴れているからかえってうれしかったが、

っそれで演奏だが、っまったくすばらしかったとおもう、っまずコンチェルトにしてからが、ポゴレリチ氏の存在感にこちとらこてんぱんにしてやられる、上岡氏としてはオケによる前奏を恆のとおり腹8分のさっぱりとした合奏で風のごと吹き流されるが、っそれを享けるポゴレリチ氏は、テムポといい間合いといい、深いのなんのっっっ、以降は指揮者もオケもそれに附き合わざるをえない、

事後、っぼくの隣のご夫婦連れのうちご亭主は、ピアノもオケもぜんぜん聴こえなかった、演奏のあと、指揮者がソリストと並んで舞台前面へ立ちたがらないのは、上岡はポゴレリチが嫌なんだ、っとかと利いた風のことを云っていたが、演奏の受け取り方も人毎におよそ異なるもので、っぼくの聴き方はそれとはぜんぜんちがった、っまず上岡氏がコンチェルトの演奏後、ソリストの手を取って一緒に前面へ出られず、蔭へ隠れてしまわれるのは、誰とのご共演であれいつものことであり、音の聴こえ方については、っここサントリーでは、弾く人によってはピアノの音がニュアンスを伴なって客席へ届かず、音像も遠くから手繰り寄せつ聴かねばならないもどかしさをおぼえないとしないところ、っきょうのポゴレリチ氏は、音色、質感がかすかかすかに変転してゆく様がすべて手に取るように伝わった、オケを濃密に凝集せしめず、敢えて澹泊に捌いてゆく手筈は、上岡氏一流の語法である、要は隣の御仁は、上岡敏之を聴くということに対する免疫に乏しく、っもっとほかの凡百の振るオーケストラの鳴り方、ピアノとの音勢バランスとの比較で、っきょうの演奏に不満足を懐いたのかとおもう、っありそうなことだ、っほかの誰でもそうだが、殊に上岡氏については、1度や2度聴いたくらいでその成否を判断してしまわないほうがよい、無数度に聴いてきたぼくでもいまだに公演のたびに、こんかいはちゃんと彼氏からのシグナルをキャッチしうるのだろうか、、、っとはらはらしながら席へ坐すのである、

っとまれ、っまずポゴレリチ氏である、っその隣のおっちゃんは彼氏のピアノについてもご不満のようで、曰く、ぜんぜん弾いていない、いまでも弾いて弾けない人ではないはずだが、弾こうとしていない、っとのことであるが、っまたも見解の相違、っあの複雑微妙のピアニズムをそのように悪意に取るとは、っじつに勿体ないどころの騒ぎではない、っどうもその人は、彼氏の若くときと較べて、っと云いたいらしかったが、っぼくはポ氏の往年のお姿を識らず、っただその有名高名と、例のショパン・コンクール時のアルゲリッチのぷんすかエピソードとをトリヴィアとして知るのみである、っだからぼくは、っなんらの予断もなく、っきょう現在のポゴレリチその人の音楽を享受したのである、っそしてそれは、っじつに天下一品であられた、っこんかい、初めて全身を拝んだが、っぞんがい大柄の体軀でいられておどろく、相応に足腰へは負担が掛かるものとみえて、っややよたよたと歩かれる、っしかしいざ鍵盤へ指を下ろされれば、っもはや満堂は彼氏の術中に落ちずにいない、、、っま、っごく1名を除いて、

フレイズの頭は、っむしろ確然たる打鍵でたっぷりと間を取り、主題の像をありありと聴き手の胸裡へ焼き附けられる、っただ、っよりぼくのこころの琴線へひびいたのはそのことではなくて、音楽が流れ始めてからの所作である、っそこでは絶えず音量が弱音へ弱音へと吸い寄せられ、っにも拘わらずオケとの協奏部分でもソロのキャラクターが薄められてしまうことがなく、っその儚い佇まいはポ氏の内心の孤独を語るようで、っこちとらたびたび胸の締め附けられるようなおもいがした、っけれども楽音はあくまでも流水不腐、澱みなく流れ流れて、っそれがいつも弱音弱音へと寄ってゆき、、、っあの危うさこそは、っじつに㐧1級の藝術である、

っおもしろいもので、っこないだ阪田氏のソロ、坂入氏の棒で初めてちゃんとこの曲を聴いた際には、曲が進むほどに雲上へ遊むような多幸感に支配せられ、っうきうきしながら聴いたものである、っそれがきょうは、進めば進むほど寂しい、哀しい、フィナーレなど、マズルカのステップはしかし苦く、踊りの舞台上へはやはりポ氏お独り、周りに見物の1人だにいない、誰かが観るからではなく、自分のためだけに踊る踊りである、

2楽章の主題を聴くがよい、降ってゆくアルページオが小節線を跨ぐ直前の切ない情感は、若き作曲家の青春の多感に対するポ氏の衷心からなる共感の顕れである、アンコールでふたたび奏された際にも、っその哀感は最高の指術とともに実現せられていたものだが、隣の親父よっ、なぜあれがわからないのだっっっ、

っそうだ、演奏中はなぜか場内暗転せず、シムフォニーではしていたから、っおそらくポ氏のご所望なのだろう、奇人変人の声も聞こえた彼氏であるが、演奏前といい後といい、っぼくらへもオケへも深く腰を折って辞儀をなさり、謙虚なお人柄が忍ばれた、



ショスタコーヴィチは、っあまりちゃんと聴かないシムフォニーのひとつなので、YouTubeでサラステ、ビシュコフ、ゲルギエフ各氏とか、っなんだか藝大の奏楽堂でキエフの楽団が行なったライヴの動画とか、っいろいろと聴いておいたし、学生運動なぞもう完全に鎭火した後の世代のぼくとして、彼等にとっては馴染みというロシア民謡や労働歌、革命歌の類もぜんぜん識らないので、当作品に引用せられているそれら原曲も、っあれこれ検索して聴いてみた、ったしかに、っそれらがほぼ原型のまま引用せられており、彼の地の人々、っまた日本でも左巻きの空気を呼吸した人に対しては、っこの曲が与える印象もまたちがうのかもしれない、

革命関連の書籍というと、っこの05年時ではなく17年の2次革命時のものではあるが、ジョン・リードはむかし読んだ、っけれども、左翼の通弊として、っおんなじような名称の組織がしかしくっちゃくちゃに反目し合って、っやれ誰を追い飛ばしただの、誰を叩っ殺しただの、、、っはっきりと云ってなんのこっちゃさっぱりワケがわからず、若いぼくはただ、理想に燃える者同士、手を取り合うっちゅうことはできんもんなのかね、っとの怨嗟をおもうだけであった、

っこんかい、附け焼き刃ではあるが、05年革命や、っその契機たる血の日曜についてもWikipediaを当たってみたが、っその事象の経緯を知っていれば、長大な全曲アタッカのこの曲も、構成としてはそれほど複雑ではないとわかる、っそれを知らないで純音楽として聴こうとすれば、っどうしてかかる展開をするのか、っちんぷんかんぷんではないか、

っここでまたすこしく左翼人士を挑発しておけば、よろしい、ツァーリはツァーリでそれは横暴であっただろうとも、非武装のデモンストレイションへ問答無用で銃火を浴びせるなど言語道断にちがいないとも、けれども、それにより激発した各地での暴動では、革命側も誰政治家だ誰警察署長だを何人も血祭りに上げている、そのなかには、もはやなんのために誰を討つのかの認識もままならずに、ただ目的化した殺戮が空転したケイスがなかったと云い切れるか、規模のちがいはどうあれ、向こうと同様にこちらだって暴虐にふるまったという自覚自重はあるか、っぼくはどうしてもそう問いたい気を抑えられない、っこうした革命沙汰にあくがれたかっての日本の学生連は、っその問いをほんのかたときも胸におもうことなく、っひたすらに理想社会を夢にみたというのだろうか、っだとすればそんなのはぼくにとっては、っただのデリカシーのない人たちであるにすぎない、他人がそうであるように、自分にだってなにがしかの落ち度があるにちがいないとおもうのは、っおよそ社会人の、人間の序の序である、学生運動とは、っそのことをあほみたように見て見ぬふりをする、性質のわるい児戯である、

ショスタコーヴィチはどうであったのだろうか、彼氏は当局の求めに応じてこれを書いているのであるが、っまさかに一片の疑義とてなく、血の日曜への怒りと鎭魂とだけから筆を進めたのではないと信じたいところだ、っなんといっても彼氏は、っその端緒から成就し、半世紀を經て理想社会の表看板とは裏腹の暗黒社会と成り涯てた故国へのアムヴィヴァレンツにまさしく命まで引き裂かれむとしながら、っしかしあくまでもそこへ留まり、っそして作曲家なのであり藝術家なのである、人はよく、ショスタコーヴィチの作はダブル・ミーニングで、体制批判を隠している、っと云う、っけれどもおなじダブル・ミーニングならばぼくにとりよりあらまほしきもう一方の含意とは、上記のとおり、あのときのツァーリは、いまの私たち自身なのではないか、っという自覚であり自重であり自戒であり、自嘲ですらあってよいだろう、左翼にも、っおよそ眞人間ならば、っその程度の自己批判くらい述べてもらいたいものである、っあんたらも、っあるはあんたらのあくがれの先輩方も、っやっていることはまったくたいがいなんだから、っもしもショスタコーヴィチが、スターリンはスターリンであって私ではない、っと云うのであれば、っぼくは彼氏を軽蔑しさえするだろう、誰しも自身のこころの鏡面に、っごくわずかにもせよスターリンという悪魔の影を見ないのだとすれば、っそんな人間観はまるで嘘八百である、人間とは醜悪なのだとわかるのに、自分という人間ひとりを知っていれば、それでもうたくさんである、っこれこそ、革命騒ぎへ下してやるのに打ってつけの鉄鎚であるのにちがいあるまい、

駄弁だったが、上岡氏はこの曲を、っはじめドイッチュだかどこかで病気療養の誰かのピンチ・ヒッターで、っぜんぜんわかっていないままでただスコアを音にするっきりで舞台を務められたといい、草臥れる曲でもあり、っその後それほどいつも振られるレパートリーにされているのでもないだろうが、っよりにもよってポーランドのショパンと1夜のうちに組むというあたり、っいかにも曲者の彼氏らしい、コンチェルトの緩徐章をそっくりアンコールしたのも、迫り来る惨劇へ、予め重ね重ねの慰めを捧げておかむ、っという趣意という気がする、

っきょう聴いていると、っこれは一端の合奏能力を有った楽団でなければ舞台へ掛けられない難物だ、東京シティ・フィルにはわるいが、マーラーをあの解像度でっきり演られない彼等では、っこんなのはまともに演奏できない、

1楽章は冬宮を望む不気味な静けさだが、ソルディーノのトロムペットは弱音でハイ・トーンを吹かされる、っきょう1番の長谷川氏は、無疵ではなかったが、音のキャラクターがちゃんと定まっている、顔のある音をしていられるのだ、シティ・フィルはちがった、1番は若い女の子だったが、これが私の音色、強弱ですっ、っという吹奏ができていなんだ、ホルンもそうである、日本の楽団もあれよあれよという間にさようの演奏能力を獲得してきたが、っそれでもまだ若干の実力差がある、

木管に出る民謡《聞けっ》は、鳴るたびに誰しもチャイコフスキー《ポーランド》の3楽章を想起せずにはいないだろう、っとくにファゴットにそれが出るときはなおさらだが、っしかし民謡と云う条、っこれはさほどの古謡ではないだろうから、チャイコフスキーの時代にはまだ存在していなかった歌なのか、っそうすると、ロシアの音階、旋法に通有の要素ということだろうか、

2楽章は当の非武装行進と血の日曜との活写だが、っお得意の演目のときと異なり、っわりにずっとスコアへ囓り附いたまま振られる上岡氏のお姿も微笑ましい、管絃楽がごく機能的に扱われるかかる近現代ものでは、彼氏独自のひびきの色合いが発現するか、っじつはすこしく危ぶんでいたが、っちゃんとオケ全体が一体の生命を獲てぼくらの眼前へ立ち開かる、っとはいえ、本場ロシアの楽団みたように金管がべたーーーっとしたヴィブラートで空間を塗り潰してしまうのでなく、日本の洗練せられた楽団として、快音の範囲で恐怖と戰慄とを体現した、っあれでこそ上岡氏の演奏であり音楽である、

音は飄々と軽いが、テムポは全曲開始からずっと地を這うごと遅い、21時半まで掛かるはずだ、3楽章もヴィオラによる《同志は斃れむ》の悲歌を、低絃のピッツィをいちいち楔にして打ち込みつ、っとっくり噛み締める、高潮し、感極まると、トロムボーンを主体に、葬送のリズムが柩を運ぶ、

フィナーレの開始もたっぷりしていて快いが、っこのままこの作曲家一流の錯綜せるシムフォニック・アレグロをじっくり視せてくれるのかとおもうも、っそうは問屋が卸さない、っとつぜんのアクセル全開で、目にも留まらぬ俊速のうちに生き急ぐ、っここで隊伍を乱すようでは天下の読響も名が廃るが、速いなかでもちゃんともんどりを打つごと怒濤の迫力を出してくる、高度のゆとりがなければできない業だ、

踊り場のコール・アングレは名花だったが、後段で音高を上げると、楽器の不調で、夾雑音が混ざってしまったのが惜しい、っご当人、っどうとかノイズが混ざらぬように吹かむとされているのが痛いほど伝わり、っこちとらかえって手に汗を握った、

最後のトュッティはぜんぜん勝鬨の音楽ではない、鐘は、スコアにはテューブラー・ベルの指定があるようだが、演奏によってはもっとほんとうに鐘の形をした鐘を用いており、っそちらのほうが音色が鈍く重いので、曲趣にとってはより好適かもしれないところ、っきょうは指定通りテューブラー、最終音を振り切った後、長い長い鐘の残響のみを棚引かせ、完全に自然減衰に任せて結ぶ演奏もあり、っそれはそれでおもしろいとおもったが、っきょうはすべての音がさっぱりと消える、見ていなんだが、ベルは打刻後、っすぐに奏者が握って音を止めたのだろう、

指揮者や演目によってはやや綻びを見せることもある読響だが、っきょうは会心というに相応わしい、っみごとな出来であった、

ショスタコーヴィチである、っぼくなど、っひょっと引退後のキーミツがご来場されるのではないかなどとおもったが、っべつに舐め回すように場内を探してみたわけではないけれども、っおそらくいらっしゃらなんだとおもう、同曲は今秋、カーチュン・ウォン氏も日本フィルと披瀝される、っなんだか知らないが、っどうも同じ曲を同じ年のうちに別の人で聴く機会が重なるものである、



っさて、っきょうで現宅契約満了日、仕事は休みを取って、っこれから最後のベッド運搬、っさっきギロッポンでビールとスパークリング・ワインとを1杯ずつ呑んだが、っもう3時すぎ、長広舌だったのでまだいま人っ子ひとりいない永山の駅前で凍えており、っこれから別棟へ帰社して車へ乗ってしまって、っもう大丈夫かとおもう、暗いうちに運び了えたい、日中には粗大ゴミの持ち込み回収や新宅のガス開栓、っその合間に役所や警察での各住所変更も済ませたい、

忙しいわっ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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錦糸町、




森口真司氏の棒、グローバル・フィル公演、済む、演目は、メンデルスゾーン《ルイ・ブラス》序曲、楽聖《8番》、っそしてブラームス《2番》であったが、っざんねんながら7割方も睡ていてしまう、12型くらいの中規模の絃のオケはアマチュアとしてかなり優等で、森口氏の棒も恆のとおり淡麗ですばらしかったのに、っまことに惜しい、

っゆうべは冷蔵庫と洗濯機とを新宅へ運ぶ、ベッドは旧宅へあるままだ、新宅のガスの開栓がまだで、風呂へ入られないので、契約最終日まで現宅で起居せざるをえないのである、予定としては、っあさって上岡敏之氏の公演を聴いた帰りに深更の聖蹟別棟へ侵入してハイ・エイスを駆り、現宅でベッドと粗大ゴミとを積み、新宅でベッドを降ろし、附近の駐車場へ停めて新宅で睡て起きて、翌水曜は休暇届を出してあり、午前に粗大ゴミの持ち込み回収の予約済みで、午后にはガス屋が開栓に来る、空いている時間に市役所と警察とへ行き、転入と免許証の住所変更とをせねばならない、

っゆうべの運搬は、洗濯機はどうということはなかったが、冷蔵庫は、重いというより、大きくて抱えられないので、難儀して階段を1段1段上げていたところ、4段ほど上げたところで、っちょうどご帰宅されたらしい1階の住人の方とおぼしき男性から、手伝いましょうか、っと声を掛けていただき、っほんのその階段の上までだが、っいっしょに持つ、っそれだけでもおおきに助かったのだが、っただ本音を云えば、他人様の手などほんのかたときも借りたくはなかった、親切心旺盛の諸賢には、っしかしよのなかには、自力でできないではないことを、他人から手を貸す手を貸すと云われると、腹を立てるというのじゃないが、っかすかにもせよ気分を害する人間がいるのだということを、っときおりは想像してみてくれたいところである、っなんといっても、自力でできることは、自力でできるのだから、っそこを他人から手を貸されると、なんだよ、あんたは俺がこれを自力でできないとでもいうのかよ、っという、っおもってはいけない苛立ちに、っしかしどうしても駆られずにいない、面倒な人間である、っもちろんお礼は申した、っけれども、っああしたときに、っほんの一片の腹蔵とてなく、ありがとうございますっ、っと云える人間でいたいとしんからおもいながら、40年間、っそれがうまくいった例はほとんどない、

っそれで、別棟へ車を戻してチャリンコで帰り、睡たのはきょうの2時3時か、っしかし、っきょうはきょうで新宅のネット開設工事で、早くて9時には来訪されてしまうので、長時間は睡られず、8時前には起きて身支度し、チャリンコで2山越えて唐木田辺まで、工事は9時半ころには来たが、っぞんがい時間を要して了わって10時半すぎ、南大沢の出張所は日曜でも開けており、錦糸町行前に転出届を出してしまわむ、っとまた2山取って返し、転出證明を受け取って、駐輪代を取られるのは癪で、現宅へチャリンコを置いてくる時間がないじゃなかったので、山を降り、チャリンコを停めて、っまた歩って山を登り、京王へ乗る、っこれらが祟って、演奏中はぜんぜん起きていられなんだわけである、

13時半開演で、終演は15時半ころ、っということは、日曜も開庁だという聖蹟の出張所で転入届を出せるのでは、っと公演事後の喫煙の暇も惜しんで総武線へ飛び乗るが、検索すると、開庁日ではあるが、転入・転出等の手続きは平日っきり受け附けていないとのことで、っなんだか気が脱けてしまう、

っさあ、っまだこれから帰宅して掃除機を掛けんとな、っどうとか気を取り直して、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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初台、




高関健氏の棒、東京シティ・フィル公演、済む、

っきょうは三鷹の試掘であったが、14時すぎころ済んで、っまあ御の字だろうと、直帰の体で社用車で中野の弥生町まで来る、¥700の安い駐車場があった、初台までは歩って15分20分であり、っこないだ寄ったばかりの王将へまた寄ってから開演、

演目は、奥井紫麻女史を招いてサン=サーンス《2番》コンチェルト、っそしてマーラー《夜歌》であり、2時間半になんなむとする長大な一夜、っここの椅子は座面が硬く、尻が痛くなってしまう、

東京シティ・フィルは、日本フィルなどからすると、ホルンやトロムペットがだいぶん頼りない、っひとむかし前の脆弱な日本のオーケストラだ、

っそれでも、っさのみ煩瑣な楽曲ではないサン=サーンスでは、っまだしも一端の奏楽を聴かせる、奥井女史は、ったしか川崎でのリサイタルを聴いて以来の邂逅だが、淡麗なピアニズムが素敵だった、

マーラーは、高関氏のことだから相当度の考究を經たなにやら最新の校訂版による演奏であったようで、彼氏ご自身がその作業にほんの1噛みされているらしいことを、入場して中途から聞いたプレ・トークでおっしゃっていた、ったしかに、っところどころ音価がぼくの聴き馴れているものと異なるなどしていた、

っただ、全体としては、オケの非力さもあってやや澹泊な印象である、



っさて、っあさっては午前に新宅のネットの開設工事に来てもらって、午后は錦糸町にて森口真司氏の公演である、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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参宮橋、




小柳英之氏の棒、アーベント・フィル公演、済む、演目はシュトラウス《ティル、、、》、ブルックナー《7番》である、

絃の規模が小さいのにも拘わらず、っそれでもあいかわらず演者よりもお客の数のほうが少ないのではないかというようなささやかな会、

乗れる人間はみな乗せてしまわむということだろう、トロムペットなど6人もいて、っさすがにトュッティでは定まって他の全声部を塗り潰してしまうが、っしかし、指揮者が手で抑える仕種でバランスを取る場面もおおく、っそうした個所では気宇壮大なる音響がする、っあの委細に頓着せぬ懐の深さは小柳氏の最大の美質であり魅惑であり、現代のソフィスティケイトせられてしまった楽団と、っそれをどのように操作するかにばかり意を砕いている指揮者とではけっして発しえぬ覇気である、

っこんど黄金週の最終日に、彼等はマーラー《5番》を披瀝される、っそれなど、っぼくは坂入健司郎氏の同曲公演よりもたのしみにしているくらいだ、オケの実力差は歴然、小柳氏のほうは各細部の精度という点ではめっためたの奏楽になりそうだが、っそんなことはどうでもよいのだ、マーラーの《5番》というのは、っきょう日の細身のひびきのオーケストラで演奏するのに最も不適な楽曲のひとつではないかと、っぼくはかんがえているのだ、フォルムが水泳選手みたように上体逆三角形のカッコいい外観を獲得してしまい、っそのカッコよさが、っぼくにはカッコわるく聴こえるのである、カッコわるくというのか、っほんとうは複雑な内容を具えているはずの楽曲が、っそのスマートなひびきのせいで、つるん、っと素っ気なく耳を素通りしてしまい、聴いていてぜんぜんつまらないのである、っそこを小柳氏のあの野暮臭い、微量栄養素を多種多様に含有するひびきで、がつんっっっ、っと来てくれたら、他のおおくの失点をよろこんで看過しうる感銘を得られむと、

っきょうのシュトラウスもブルックナーも、っそうしただっさださのカッコよさに耀いていた、っあれほど洗練から遠い、っというよりも、洗練という語彙も概念もぜんぜん識りません、それ喰ったら旨いんですか、っとでもいうような恬淡たる存在感は、っほんとうに稀少であり貴重だ、っいつもすこしく気になるのだが、っあれで楽員各位は小柳氏に対してなにがしかの敬意を寄せていられるのだろうか、イヤなら辞めてしまわれるだろうところ、主要なメムバーはいつもだいたい同様の面子のようなので、この人と演奏をするかぎり、スマートな音楽は一生できやしない、っとわかっていて参加していられるものと信ずるが、っなかには、っぼくと同様に、っああした洗練をまったく目指さない奏楽をみずからたのしんでいられる方もいらっしゃるようにおもう、

、、、っきょうも全編を微苦笑とともにたのしむ会かとおもいつブルックナーの1楽章までを聴き了えたが、っそれはたいへんに無礼な侮りであった、2楽章のヴァグナー・テューバによる序部が済んで絃群へ主題が出ると、小賢しい作為の色に塗られないその祈りはまったくの無垢なるひびきでぼくの胸を鷲摑みに摑んでしまい、ったったいま初めて名曲に出逢ったという感激に襲われて、っかあっと目頭が熱くなり、っぼろぼろと泪が落ちた、

っこんなことがあるものである、っだから人を見た目で判断してはいけない、、、っそれでも小柳氏はどうしても昭和のだっさいおじさんだが、っだっさいおじさんでおおきにけっこうなのである、っあんなにも純粋透明な音楽ができてしまうのだから、



っさて、5日の日に新居への1便めをひとりして手ずから荷運びしたが、っそれであらかたは移せて、現宅もだいぶんすっきりとした、っあといくらかをあすの旗日に運び、残るは冷蔵庫、洗濯機やベッドっきりという状態にせむかとおもうが、っしかし午日中にあそこへ一寸した時間、路駐しているというのはやはり気が差すので、っきょうこれから夜中に運ばむかとおもう、っそのほうが邪魔が入る心配がなくて安気だ、、、夜逃げするみたようだが、

3時までには了わってウチで睡たいな、現宅のほうでね、っそんなには掛からんとおもうが、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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栃木、小山、




佐藤久成氏リサイタル、済む、っきょうのピアノは桐榮哲也氏という髪を派手な色に染められたあんちゃんでいられたが、奏楽は、っときおりかすかに指が回り切らない憾があったが、っむしろ堅実な人であり、佐藤氏の相方としてまことに相応わしい、

演目は、前半にシューマン《1番》とシュトラウスとのソナタを演り、後半は小品集、ファリャ《スペイン舞曲》やボーム《カヴァティーナ》のほかに、念願叶ってショパン遺作、、、っじっさいには生前最期の筆というわけではぜんぜんないらしいが、っの《ノクテュルヌ》が含まれていたのがうれしい、

器は駅ビルのなかのほんの貸スペイスといったところで、最後列へ坐したが、っそれでもまだだいぶん直接音直接音し、っが、耳に痛いというほどではなく、っただ、っああした極小音場では、瞑目して音だけを聴いているにかぎる、眼を開いて舞台を観ていると、演奏家の生身の人間としての実在感があまりにも近くに存り、っかえって鑑賞の邪魔である、

シューマンは、っあんなにも明快でかつ性格的の主題の連続する作品も書いていたのかとおどろくほどの佳品である、

シュトラウスの若書きにも同様の親近感をおぼえるが、ピアノ・パートは、っそこへさらに絢爛たる装飾性をも加えている、

小品集は寛いだ気分でたのしめるが、寛ぐといってもそれは気分だけで、挙措まで崩してしまってはいけない、っきょうの客席はその点で最低最悪で、曲や楽章が終わる最後の1音がいまだ消えるか消えないかのうちに、ううん、っとか、おお、っとかという溜息みたような音声を発するばかたれが前半のソナタの演奏時からすでにして複数人いたし、後半では、何曲目かが済んだ際に佐藤氏がマイクを握られてすこしくお話しになり、っあんなんで日常生活がままなるんかいなというほどのいつもながらの訥弁ぶりで場内かなりに笑いが漏れたこともあり、以降はよりルーズな雰囲気へ堕して、演奏中に私語をしたり、佐藤氏の繰り出される激越な表現表情に笑声で応じたりという不埒なくそったれあほ客が増加、アンコールのゴセック《ガヴォット》に至っては、っなんと1割強ほどものお客が、主題に合わせてハミングするというおよそ度し難い事態にまで腐敗し涯てる、演者からこういう堕落したお客のうちの1人だとおもわれているのではないかと想像するのはほんとうにいやな気持ちだが、っどうとかこころを鎭めて楽音に神経を集中せしむ、



っさて、小山は日中でも東京より寒い気がし、済む途端に湘南新宿ラインへ飛び乗って戻る、っいま新宿で、小柳氏公演の開演まではまだ1時間半あるので、歩って初台の王将へ移動中、食事して、っそこから参宮橋の器まではまた歩って10分15分だ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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荻窪、




豊平青氏の棒、クレド響公演、済む、演目は泰斗ジェラール・プーレ氏を招いてバッハ《1番》コンチェルト、っそしてマーラー《トラギッシェ》である、

プーレ氏はことしで87歳になられるというが、っじつに妙音を発せられる、っおそらく、若年、壮年のヴァイオリニストからすると擦絃の圧力が必要最小限で、っために繊細な描線だが、っやさしくひびいて器へ染み入ってゆくその音の伸び方は、彼岸に聴くように神妙である、

豊平氏のマーラーは以前に《5番》を聴いたが、各部がかなりにソリスティックに動く同曲からすると、《トラギッシェ》はわりに全員でひびきを作る場面がおおく、立派な概観を提示さる、



っさて、っあすはよるに小柳英之氏の公演のみ、っかとおもっていたら、午に栃木の小山で佐藤久成氏のリサイタルがあり、往って戻ってよるの小柳氏公演に間に合いそうなので、出掛けることにした、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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川崎、




坂入健司郎氏の棒、東京ユヴェントス・フィル公演、済む、演目はバルトーク《中国の不思議な役人》スート、っまだ18歳でいられるという若尾圭良女史を招いてバーバー《Vnコンチェルト》、っそしてストラヴィンスキー《ハル・サイ》である、バーバーの2楽章の主題はごくリリックなオーボーのソロであり、ソリストの父君でボストン響の奏者でいられるという圭介氏が乗られ、同主題を吹かれる、

午の千葉フィルとなんというひびきの相違であろうか、東京ユヴェントス・フィルは、《ハル・サイ》でようやくすこしく綻びが見えるという程度であり、清冽にしてシャープ、っじつに玄人跣のアンサムブルである、っかって、っやや拍へ音が嵌まっているっきりという悪印象というか無印象を遺したのはマーラー《夜歌》くらいであり、ブルックナーなどはいつもすばらしい、っきょうはまた別種の厄介な音楽だが、声部声部が密集しても絶えずぜんぶの音が聴こえているゆとりがある、っかすかにアンバランスだったのはバルトークのフィニッシュ附近のみで、管打に押されて絃の音型がほぼ聴こえなんだくらいである、

バーバーは初めて聴いたが、管打はホルン、トロムペット、ティムパニまで一通りいるものの、絃は小ぢんまりとした規模でソリストを囲む、っそんな和気藹々の編成のなか、1楽章も冒頭から切ない歌が流れ、っその歌がまた、爽快へしかしほんの数滴、苦味を垂らした憎い和声を纏ってみたり、っすこしくポリフォニックに動いてみたりと、っいちいちカッコいい、カントリー映画の附隨音楽でも聴いているような気分だ、対して管、っそして楽章最後にソリストが奏するリズム動機は、流石にアメリカ人の筆らしく、スウィングする、

2楽章はシルキーな絃合奏に唱導せられたそのオーボーのテーマに始まるが、ったいていの奏者の吹くこの楽器は、現代的の機能を万全に具えたマシンという聴こえ方がする、っそれが、っほんとうに名うての人の運指と吹奏とになると、っむしろ天然の葦笛が鳴っているように錯覚するものである、っきょうの若尾父君の奏楽はまさしくそれで、フレイズの中途へ折れそうになよやかな最弱音を挿したりされるのは、っまさしく手練れの業だ、

書法もなかなかに入魂で、ソリストがようよう音高を下げてゆくなか、ソルディーノのトロムペットが楽聖の運命動機を鳴らしていたりなど、腹へ一物を蔵している人の筆である、

ミディアム・テムポの前2楽章を享けるフィナーレは忙しい常動だが、初めて聴いていて、これで複雑な展開を有つ長大な楽章だったらクールじゃないな、っと侮っていると、っまた流石、っほんの先行楽章の後奏といったぐあいにあっさりと駈け抜けて了わる、

ソリストの若尾女史はまったくみごとな音のキャラクターで、っさながらそのカントリー映画の若手主演女優である、コンチェルトが済むと父娘で前へ立たれ、坂入氏もセロの一員へ加わられて、絃群の伴奏でなにやらバロックとみられるアンコール、っここでも父君のオーボーの自在なることといったら、



っそれで《ハル・サイ》だが、12型くらいで、っこの曲を演るにはさのみ厖大な絃の規模ではなかった、っあるいは、大半が慶應閥なのだろうメムバーでは、っなかなか練習、本番へ参加できる面子を確保しえないのかもしれない、っきっとみなさん社会的にそれなりのお仕事をされているんだろうから、

坂入氏はとくだん衒ったことはなさらず、音楽的の所作に徹しられていたが、楽器楽器がぞんぶんに機能しながら、っすべてがちゃんと野蠻な呪詛の効果音として鳴り、っおおきに唸らされた、っこうした曲はそれだ、音という音がぜんぶ効果音、SEとして咲き乱れないと、っただ管絃楽の合奏能力それ自身を誇示されたところで、っなんの聴きでもしやしない、っくりかえすが、っそれを音楽的の所作の範囲で成し遂げること、っそれが指揮道の難儀であり奥儀であろう、音楽は音楽以外のなにものをも表現しない、っとはストラヴィンスキーのことばだが、っしかしその人のスコアがよろしく音楽的に語られえたとき、っぼくらはたしかに、禍々しい儀式を眼前に視るのである、



っところで、このコムビの次回公演はマーラー《5番》だそうだが、っさんねんっっっ、っさきほど触れたネコケン氏の同《9番》と同日開催、、、っううむ、千葉フィルの汗臭い人間臭い奏楽をネコケン氏が淡々と捌かれるそのマーラーも、不思議な味できっと胸いっぱいにしてくれるのにちがいないが、っぼくがより長くおおく聴いてきたのは坂入氏のほうだ、っここは若者の挑戦を見届けるとせむ、惜しいっっっ、



っさて、っあすは新居の鍵を受け取ってきて、現室との間を何往復かし、っある程度、荷を運んでしまわむ、っあそこ路駐していられんのかなあ、



みずの自作アルヒーフ

 

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住吉、




ネコケン氏の棒、千葉フィル公演、済む、演目はドヴォルザーク《スケルツォ・カプリチオーソ》、コダーイ《〈孔雀は翔べり〉によるヴァリアシオン》、っそしてブラームス《2番》である、

ネコケン氏は、足元がだいぶんよたよたとされており、っぼくが聴きえたロズージェストヴェンスキー氏の最晩年の舞台姿が、っちょうどあのようであられた、腰から上が直立で、っほんの靴1足ずつ分くらいっきり脚を前へ出されないといった調子で、袖から舞台の中央まで来られるまで長時間を要され、高い指揮台へ上がられるには背凭れを摑んで1歩ずつ確かめながらでなければならず、後半ではその半分の高さの小っちゃな匣馬が指揮台の脇へ補助で置かれた、

っけれども意識は明晰でいられるようで、ボディ・アクションへ感情移入はほとんど顕わされないで、淡々と、っかつ泰然たる棒をお振りになる、っその棒と、昭和のスポ根奏楽、アマチュアリズムの大権現というべきオケの鳴り方とのケミストリーがまた快い、っこんかいは小中規模のよくひびく器を得、前回のマーラー《夜歌》に勝るこってこて加減で、肌理は粗いが、音の濃密、人懐っこさは無類無上である、っそしてテクニークとしても、アマチュアのうちで最上等ではぜんぜんないが、っしかしあれだけよく弾ける団体もじつはすくない、個々の音色の魅惑も抜群だし、指揮者がというより、オケの側がまず原則としてみな弱音無視、っこわごわ音を出してヒヨるくらいならば、えいやっ、っと景気よく鳴ってしまえというわけで、っぼくは、っまずはそれでよいとおもう、

コダーイは、近代的の書法で絢爛と幕を開けたかとおもえば、っどうも調子がオリエンタルで、っしばしば、中国の派手な雑技の伴奏を聴いているような感触がした、

ブラームスは曲頭の低絃、ホルンから、っやはり指揮者は手で抑えながら出ていられるが、鳴る音は豪快な弱音無視、健康的の音量と音色とがこころを潤おし、トュッティともなれば遙か大河の眺望である、っけれども棒はあくまでも端然としていられるため、っどこまで鳴ってもぜんぜんむさくるしくなく、っむしろ満々と音楽美のみが聴こえている瞬間がおおい、

次回はマーラー《9番》をなさるとのことで、っあの《夜歌》などからしても、相当度の達成を期待してよいのではないか、っまた市川と遠いが、っはるばる聴きに行くとせむ、



っさて、川崎へ移動して坂入健司郎氏公演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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