上岡敏之氏の棒、読響公演、済む、演目は、ポゴレリチ氏を招いてショパン《2番》コンチェルト、っそしてショスタコーヴィチ《11番》である、ソリスト・アンコールは、っなんとコンチェルトの2楽章を再度そっくり奏し、休憩は15分と短かったにも拘わらず、済んで21時半を優に回る長大な公演である、
っせんじつ、井上キーミツの京響とのブルックナー《8番》を聴いた際、会場で拙ブログの読者という方からお声掛けをいただいたが、っその方は上岡氏にいたく傾倒しておられ、っきょう、っそして来週の読響のチェムバー公演と、っわざわざ宿を取られて上京される、っきょうもハネたあとにご挨拶いただき、っぼくとして、そんな交通費と宿代とを取られるのもこんなあほブログを読まれてしまったがため、っと気が咎めることもあり、ご迷惑でなければかるく1杯いかがですか、馳走しますので、っと申して、若くときからこれまで何度となくここへ通いながら、1人ではついぞ入ったことのなかった器の斜向かいのバーみたようなところへ入る、っすでにしてフードのLOを回っていて、ビールでデザートを食するという仕儀とあいなってしまったが、っさぞかし小洒落たものを置いている店なのかとおもいきや、ビールはふつうにスーパー・ドライで拍子抜けした、っま、呑み馴れているからかえってうれしかったが、
っそれで演奏だが、っまったくすばらしかったとおもう、っまずコンチェルトにしてからが、ポゴレリチ氏の存在感にこちとらこてんぱんにしてやられる、上岡氏としてはオケによる前奏を恆のとおり腹8分のさっぱりとした合奏で風のごと吹き流されるが、っそれを享けるポゴレリチ氏は、テムポといい間合いといい、深いのなんのっっっ、以降は指揮者もオケもそれに附き合わざるをえない、
事後、っぼくの隣のご夫婦連れのうちご亭主は、ピアノもオケもぜんぜん聴こえなかった、演奏のあと、指揮者がソリストと並んで舞台前面へ立ちたがらないのは、上岡はポゴレリチが嫌なんだ、っとかと利いた風のことを云っていたが、演奏の受け取り方も人毎におよそ異なるもので、っぼくの聴き方はそれとはぜんぜんちがった、っまず上岡氏がコンチェルトの演奏後、ソリストの手を取って一緒に前面へ出られず、蔭へ隠れてしまわれるのは、誰とのご共演であれいつものことであり、音の聴こえ方については、っここサントリーでは、弾く人によってはピアノの音がニュアンスを伴なって客席へ届かず、音像も遠くから手繰り寄せつ聴かねばならないもどかしさをおぼえないとしないところ、っきょうのポゴレリチ氏は、音色、質感がかすかかすかに変転してゆく様がすべて手に取るように伝わった、オケを濃密に凝集せしめず、敢えて澹泊に捌いてゆく手筈は、上岡氏一流の語法である、要は隣の御仁は、上岡敏之を聴くということに対する免疫に乏しく、っもっとほかの凡百の振るオーケストラの鳴り方、ピアノとの音勢バランスとの比較で、っきょうの演奏に不満足を懐いたのかとおもう、っありそうなことだ、っほかの誰でもそうだが、殊に上岡氏については、1度や2度聴いたくらいでその成否を判断してしまわないほうがよい、無数度に聴いてきたぼくでもいまだに公演のたびに、こんかいはちゃんと彼氏からのシグナルをキャッチしうるのだろうか、、、っとはらはらしながら席へ坐すのである、
っとまれ、っまずポゴレリチ氏である、っその隣のおっちゃんは彼氏のピアノについてもご不満のようで、曰く、ぜんぜん弾いていない、いまでも弾いて弾けない人ではないはずだが、弾こうとしていない、っとのことであるが、っまたも見解の相違、っあの複雑微妙のピアニズムをそのように悪意に取るとは、っじつに勿体ないどころの騒ぎではない、っどうもその人は、彼氏の若くときと較べて、っと云いたいらしかったが、っぼくはポ氏の往年のお姿を識らず、っただその有名高名と、例のショパン・コンクール時のアルゲリッチのぷんすかエピソードとをトリヴィアとして知るのみである、っだからぼくは、っなんらの予断もなく、っきょう現在のポゴレリチその人の音楽を享受したのである、っそしてそれは、っじつに天下一品であられた、っこんかい、初めて全身を拝んだが、っぞんがい大柄の体軀でいられておどろく、相応に足腰へは負担が掛かるものとみえて、っややよたよたと歩かれる、っしかしいざ鍵盤へ指を下ろされれば、っもはや満堂は彼氏の術中に落ちずにいない、、、っま、っごく1名を除いて、
フレイズの頭は、っむしろ確然たる打鍵でたっぷりと間を取り、主題の像をありありと聴き手の胸裡へ焼き附けられる、っただ、っよりぼくのこころの琴線へひびいたのはそのことではなくて、音楽が流れ始めてからの所作である、っそこでは絶えず音量が弱音へ弱音へと吸い寄せられ、っにも拘わらずオケとの協奏部分でもソロのキャラクターが薄められてしまうことがなく、っその儚い佇まいはポ氏の内心の孤独を語るようで、っこちとらたびたび胸の締め附けられるようなおもいがした、っけれども楽音はあくまでも流水不腐、澱みなく流れ流れて、っそれがいつも弱音弱音へと寄ってゆき、、、っあの危うさこそは、っじつに㐧1級の藝術である、
っおもしろいもので、っこないだ阪田氏のソロ、坂入氏の棒で初めてちゃんとこの曲を聴いた際には、曲が進むほどに雲上へ遊むような多幸感に支配せられ、っうきうきしながら聴いたものである、っそれがきょうは、進めば進むほど寂しい、哀しい、フィナーレなど、マズルカのステップはしかし苦く、踊りの舞台上へはやはりポ氏お独り、周りに見物の1人だにいない、誰かが観るからではなく、自分のためだけに踊る踊りである、
2楽章の主題を聴くがよい、降ってゆくアルページオが小節線を跨ぐ直前の切ない情感は、若き作曲家の青春の多感に対するポ氏の衷心からなる共感の顕れである、アンコールでふたたび奏された際にも、っその哀感は最高の指術とともに実現せられていたものだが、隣の親父よっ、なぜあれがわからないのだっっっ、
っそうだ、演奏中はなぜか場内暗転せず、シムフォニーではしていたから、っおそらくポ氏のご所望なのだろう、奇人変人の声も聞こえた彼氏であるが、演奏前といい後といい、っぼくらへもオケへも深く腰を折って辞儀をなさり、謙虚なお人柄が忍ばれた、
ショスタコーヴィチは、っあまりちゃんと聴かないシムフォニーのひとつなので、YouTubeでサラステ、ビシュコフ、ゲルギエフ各氏とか、っなんだか藝大の奏楽堂でキエフの楽団が行なったライヴの動画とか、っいろいろと聴いておいたし、学生運動なぞもう完全に鎭火した後の世代のぼくとして、彼等にとっては馴染みというロシア民謡や労働歌、革命歌の類もぜんぜん識らないので、当作品に引用せられているそれら原曲も、っあれこれ検索して聴いてみた、ったしかに、っそれらがほぼ原型のまま引用せられており、彼の地の人々、っまた日本でも左巻きの空気を呼吸した人に対しては、っこの曲が与える印象もまたちがうのかもしれない、
革命関連の書籍というと、っこの05年時ではなく17年の2次革命時のものではあるが、ジョン・リードはむかし読んだ、っけれども、左翼の通弊として、っおんなじような名称の組織がしかしくっちゃくちゃに反目し合って、っやれ誰を追い飛ばしただの、誰を叩っ殺しただの、、、っはっきりと云ってなんのこっちゃさっぱりワケがわからず、若いぼくはただ、理想に燃える者同士、手を取り合うっちゅうことはできんもんなのかね、っとの怨嗟をおもうだけであった、
っこんかい、附け焼き刃ではあるが、05年革命や、っその契機たる血の日曜についてもWikipediaを当たってみたが、っその事象の経緯を知っていれば、長大な全曲アタッカのこの曲も、構成としてはそれほど複雑ではないとわかる、っそれを知らないで純音楽として聴こうとすれば、っどうしてかかる展開をするのか、っちんぷんかんぷんではないか、
っここでまたすこしく左翼人士を挑発しておけば、よろしい、ツァーリはツァーリでそれは横暴であっただろうとも、非武装のデモンストレイションへ問答無用で銃火を浴びせるなど言語道断にちがいないとも、けれども、それにより激発した各地での暴動では、革命側も誰政治家だ誰警察署長だを何人も血祭りに上げている、そのなかには、もはやなんのために誰を討つのかの認識もままならずに、ただ目的化した殺戮が空転したケイスがなかったと云い切れるか、規模のちがいはどうあれ、向こうと同様にこちらだって暴虐にふるまったという自覚自重はあるか、っぼくはどうしてもそう問いたい気を抑えられない、っこうした革命沙汰にあくがれたかっての日本の学生連は、っその問いをほんのかたときも胸におもうことなく、っひたすらに理想社会を夢にみたというのだろうか、っだとすればそんなのはぼくにとっては、っただのデリカシーのない人たちであるにすぎない、他人がそうであるように、自分にだってなにがしかの落ち度があるにちがいないとおもうのは、っおよそ社会人の、人間の序の序である、学生運動とは、っそのことをあほみたように見て見ぬふりをする、性質のわるい児戯である、
ショスタコーヴィチはどうであったのだろうか、彼氏は当局の求めに応じてこれを書いているのであるが、っまさかに一片の疑義とてなく、血の日曜への怒りと鎭魂とだけから筆を進めたのではないと信じたいところだ、っなんといっても彼氏は、っその端緒から成就し、半世紀を經て理想社会の表看板とは裏腹の暗黒社会と成り涯てた故国へのアムヴィヴァレンツにまさしく命まで引き裂かれむとしながら、っしかしあくまでもそこへ留まり、っそして作曲家なのであり藝術家なのである、人はよく、ショスタコーヴィチの作はダブル・ミーニングで、体制批判を隠している、っと云う、っけれどもおなじダブル・ミーニングならばぼくにとりよりあらまほしきもう一方の含意とは、上記のとおり、あのときのツァーリは、いまの私たち自身なのではないか、っという自覚であり自重であり自戒であり、自嘲ですらあってよいだろう、左翼にも、っおよそ眞人間ならば、っその程度の自己批判くらい述べてもらいたいものである、っあんたらも、っあるはあんたらのあくがれの先輩方も、っやっていることはまったくたいがいなんだから、っもしもショスタコーヴィチが、スターリンはスターリンであって私ではない、っと云うのであれば、っぼくは彼氏を軽蔑しさえするだろう、誰しも自身のこころの鏡面に、っごくわずかにもせよスターリンという悪魔の影を見ないのだとすれば、っそんな人間観はまるで嘘八百である、人間とは醜悪なのだとわかるのに、自分という人間ひとりを知っていれば、それでもうたくさんである、っこれこそ、革命騒ぎへ下してやるのに打ってつけの鉄鎚であるのにちがいあるまい、
駄弁だったが、上岡氏はこの曲を、っはじめドイッチュだかどこかで病気療養の誰かのピンチ・ヒッターで、っぜんぜんわかっていないままでただスコアを音にするっきりで舞台を務められたといい、草臥れる曲でもあり、っその後それほどいつも振られるレパートリーにされているのでもないだろうが、っよりにもよってポーランドのショパンと1夜のうちに組むというあたり、っいかにも曲者の彼氏らしい、コンチェルトの緩徐章をそっくりアンコールしたのも、迫り来る惨劇へ、予め重ね重ねの慰めを捧げておかむ、っという趣意という気がする、
っきょう聴いていると、っこれは一端の合奏能力を有った楽団でなければ舞台へ掛けられない難物だ、東京シティ・フィルにはわるいが、マーラーをあの解像度でっきり演られない彼等では、っこんなのはまともに演奏できない、
1楽章は冬宮を望む不気味な静けさだが、ソルディーノのトロムペットは弱音でハイ・トーンを吹かされる、っきょう1番の長谷川氏は、無疵ではなかったが、音のキャラクターがちゃんと定まっている、顔のある音をしていられるのだ、シティ・フィルはちがった、1番は若い女の子だったが、これが私の音色、強弱ですっ、っという吹奏ができていなんだ、ホルンもそうである、日本の楽団もあれよあれよという間にさようの演奏能力を獲得してきたが、っそれでもまだ若干の実力差がある、
木管に出る民謡《聞けっ》は、鳴るたびに誰しもチャイコフスキー《ポーランド》の3楽章を想起せずにはいないだろう、っとくにファゴットにそれが出るときはなおさらだが、っしかし民謡と云う条、っこれはさほどの古謡ではないだろうから、チャイコフスキーの時代にはまだ存在していなかった歌なのか、っそうすると、ロシアの音階、旋法に通有の要素ということだろうか、
2楽章は当の非武装行進と血の日曜との活写だが、っお得意の演目のときと異なり、っわりにずっとスコアへ囓り附いたまま振られる上岡氏のお姿も微笑ましい、管絃楽がごく機能的に扱われるかかる近現代ものでは、彼氏独自のひびきの色合いが発現するか、っじつはすこしく危ぶんでいたが、っちゃんとオケ全体が一体の生命を獲てぼくらの眼前へ立ち開かる、っとはいえ、本場ロシアの楽団みたように金管がべたーーーっとしたヴィブラートで空間を塗り潰してしまうのでなく、日本の洗練せられた楽団として、快音の範囲で恐怖と戰慄とを体現した、っあれでこそ上岡氏の演奏であり音楽である、
音は飄々と軽いが、テムポは全曲開始からずっと地を這うごと遅い、21時半まで掛かるはずだ、3楽章もヴィオラによる《同志は斃れむ》の悲歌を、低絃のピッツィをいちいち楔にして打ち込みつ、っとっくり噛み締める、高潮し、感極まると、トロムボーンを主体に、葬送のリズムが柩を運ぶ、
フィナーレの開始もたっぷりしていて快いが、っこのままこの作曲家一流の錯綜せるシムフォニック・アレグロをじっくり視せてくれるのかとおもうも、っそうは問屋が卸さない、っとつぜんのアクセル全開で、目にも留まらぬ俊速のうちに生き急ぐ、っここで隊伍を乱すようでは天下の読響も名が廃るが、速いなかでもちゃんともんどりを打つごと怒濤の迫力を出してくる、高度のゆとりがなければできない業だ、
踊り場のコール・アングレは名花だったが、後段で音高を上げると、楽器の不調で、夾雑音が混ざってしまったのが惜しい、っご当人、っどうとかノイズが混ざらぬように吹かむとされているのが痛いほど伝わり、っこちとらかえって手に汗を握った、
最後のトュッティはぜんぜん勝鬨の音楽ではない、鐘は、スコアにはテューブラー・ベルの指定があるようだが、演奏によってはもっとほんとうに鐘の形をした鐘を用いており、っそちらのほうが音色が鈍く重いので、曲趣にとってはより好適かもしれないところ、っきょうは指定通りテューブラー、最終音を振り切った後、長い長い鐘の残響のみを棚引かせ、完全に自然減衰に任せて結ぶ演奏もあり、っそれはそれでおもしろいとおもったが、っきょうはすべての音がさっぱりと消える、見ていなんだが、ベルは打刻後、っすぐに奏者が握って音を止めたのだろう、
指揮者や演目によってはやや綻びを見せることもある読響だが、っきょうは会心というに相応わしい、っみごとな出来であった、
ショスタコーヴィチである、っぼくなど、っひょっと引退後のキーミツがご来場されるのではないかなどとおもったが、っべつに舐め回すように場内を探してみたわけではないけれども、っおそらくいらっしゃらなんだとおもう、同曲は今秋、カーチュン・ウォン氏も日本フィルと披瀝される、っなんだか知らないが、っどうも同じ曲を同じ年のうちに別の人で聴く機会が重なるものである、
っさて、っきょうで現宅契約満了日、仕事は休みを取って、っこれから最後のベッド運搬、っさっきギロッポンでビールとスパークリング・ワインとを1杯ずつ呑んだが、っもう3時すぎ、長広舌だったのでまだいま人っ子ひとりいない永山の駅前で凍えており、っこれから別棟へ帰社して車へ乗ってしまって、っもう大丈夫かとおもう、暗いうちに運び了えたい、日中には粗大ゴミの持ち込み回収や新宅のガス開栓、っその合間に役所や警察での各住所変更も済ませたい、
忙しいわっ、