ジョージ・ハリオノ氏の小リサイタル、済む、
事後は、っせっかくこんなところへいるんだからと、っとぼとぼと歩って帝國ホテルと宝塚と日生劇場との間を通って日比谷公園へ当たり、公園沿いに内濠へ出て馬場先門、っそこから濠内へ入って宮城前、交叉点を渡ったそこから遙拝を致す、っその位置からだと、横断歩道を渡ってそのまま正面を向いてというより、っやや北西方向へ首を垂るのが適当かとおもう、っで東京駅へ取って返していま新宿で京王へ乗り換ゆ、
演目は楽聖《テムペスト》、グリンカ《雲雀》、バラキレフ《イスラメイ》、チャイコフスキー《ドゥムカ》、ストラヴィンスキー《火の鳥》から3曲のスートで、っなんだかロンドンのヤマハ店内へもお客を入れて、っでっかいモニタで中継していたらしい、
ヤマハのこの器へ来るのもやっとかめで、HJリム女史がバッハを弾かれるのを唖然として聴いた、容積は小さく、コンサート・グランドを本気で弾こうものなら、高音は突き刺すような音がする、中音域以下の部分がつづく楽曲だとうれしく、っどんな和音も豊饒なトーンを纏っており、っぼくは2階最前列の右壁際、っほとんど壁へ頭を預けて大半を瞑目して聴いていたが、っぜんぜん睡くなる暇などない、
ハリオノ青年というのはおもしろく、っお若いくせにしてなにか一寸生硬なピアニズムの人である、っぼくがYouTubeで初めて彼氏を聴いたのはチャイコフスキーのコンチェルトだったが、っいまよりももっと坊ちゃんみたような子供の風体にして、っしかし大巨匠、大老匠みたようなピアノを弾いていられた、っさいきん検索してみたもっと近年の同曲の動画では、テムポも構えもわりとふつうのチャイコフスキーへ接近していたが、っきょう楽聖が始まると、っやはり律儀な楷書体をいささかも譲らず、ハイドシェックの音盤みたようなあんな劇物毒物でこの曲へ馴染んでしまったぼくからすると、っほとんどダサいと感ずるほどである、
聴いていると、これが主題です、ここは経過です、これはほんの走句ですからさらっと弾き飛ばします、っというふうの変化に富む語り方ではなく、っぜんぶの要素をほとんどおなじ質量で提示してくる手応えである、器が狭くよくひびくからというのもあるかもしらんが、っそのうちにぼくのほうでもようよう感覚が麻痺してきて、っどこかクセになっている、音楽を詩や物語にしてしまわず、音楽のままに据え置いている、っとでも云えばよいのか、っもっと音色を千変万化させられたってよいはずだし、っもっと繊細に感じた強弱もぜんぜんありうる、っところが音楽はいつも振れ幅が大人しく、極端な表現が絶無である、
っあれはなんだろうと思案したが、アンコールの最後に彼氏は宇多田ヒカル女史のナムバーを弾かれた、ポップスも抵抗なく聴かれている世代なのだろう、聞いたことがある、極度に機械的に整音せられたポップスの音源を日常的に聴く人の耳は、クラッシックのような自然にしてかつ極度の音圧の増減に耐えられないのだそうだ、音楽とは、ずっと同等の音圧で満たされたある時間である、っというのが彼等の生理的理解だというのである、本職のクラッシックのピアニストにしてしかしポップスの音源へも気軽に耳を貸している世代は、っもしかしたら、ppはべつに聴こえないくらいの最弱音量音圧でもよい、っというクラッシックの人にとっては旧来さして疑ってみもせなんだその感覚が、っしかしもう縁遠いのかもしれない、
楽聖のフィナーレは、っああして聴くとみごとに音階のみで構成せられたコムポジションである、っそれを、ここまではこの気分、こっからはべつのこの気分、っというふうに音色を操ったりせずにずっと1色で、幅の狭い、絶えず中音量以上がしている演奏で押して来られると、抽象的の音の組み立てのみが眼前に存り、ん、待てよ、本来これこそが音楽なのか、っと不思議、絆されもしようというものだ、
グリンカは揚げ雲雀の羽搏きや囀りに彩られた質朴な哀歌、バラキレフはビューローをして古今最難度のピアノ曲と云わしめたという名に負うごとエグゾティックな逸品、チャイコフスキーはブラームスでいえば《ハンガリアン・ダンス》、俗謡と舞踏との対比、っそして誰かピアニストがリダクションしたという《火の鳥》の〈カスチェイ、、、〉〈ララバイ〉〈大団円〉、っいずれもひたすらに音楽的たることに徹して、不健康に爛れてくる感触がしないのは、っやはり新人類があたりまえに抱懐する、音楽は音楽でしかない、っという感性の所産であろうか、っその間にハリオノ氏は、ったとえばリズムの妙をほとんどロックのようにたのしんだりされる、
っぼくはといえば、不埒にもどちらもいける口である、音楽を物語にしてしまう人、もちろんけっこう、音楽を音楽のままでいさせむとする人、おもしろいじゃないの、ってなもんで、っしかしこの後者は、若い頃には修身できていなんだ感覚かもしれない、指揮者でいえば、森口真司氏のような人を20代で聴いても、っまったくなにも感ぜられなんだにちがいない、っが、っさいきんではむしろ冷徹な音の差配のみがずらずらと行列する指揮者のなかに稀有なるものをおぼえる傾向にある、っもちろん大半は無趣味な愚図ばかりであるが、っそうさ、カーチュン・ウォン氏なども、っあれほど多彩な語法を具えた名匠であられるが、っしかしどんなにあれこれとイディオムを撒き散らされても、彼氏の演奏からある具体的の物語を感得することはない、っただただ音楽が流れてくるっきりであり、っそれをぼくは眩しい健康美と受け取っている、
っあるいはまた、カーチュン氏でいえばシンガポールの楽天人といった風采もその音楽造形に寄与するところ大なるにちがいない、っそこへゆくとハリオノ氏にしても、ロンドンっ子でいられるのかな、っけれどもお名もお顔の造作ももろにラテン系で、っそうしたルーツと現代人としての性向の妙なるケミストリーとというのが、っぼくの勝手な仮説である、ドイッチュ浪漫主義を腐すわけではけっしてないが、っかかるきっぱりと竹を割ったような健康人たちの音楽へ触れるにつけ、かんがえ深そうに演奏することがかんがえ深い音楽を生むゆいいつの道ではけっしてない、っと唸らずにいない、っぼくは、っまずぼく自身が心身の健康人で存りたくおもうし、最後には恆に、健康でないよりは健康である音楽へ軍配を上げたいのである、
っところで、井上キーミツのきょうの《レニングラード》であるが、っこれもまた、味到し盡された曲想を衒いなく謳い上げられる、っまことに音楽的の一幅であった、
彼氏がこの作家のオオトリテヱといっても、15曲もあるシムフォニーのすべてが同格の高みへ達しているとは云い切れないのじゃないか、特定の曲でいえば、他の巨峯の影がちらつくということもある、ったとえば大阪フィルとの音盤に聴く《3番》はスメターチェクに遠く及ばないし、読響との《9番》を聴いているときにはスピヴァコフの音盤のすごさをついに忘れることはできなんだ、《10番》も、楽団に音色の趣味がなく、非音楽的の音場での演奏であったN響との機会よりも、っむしろぼくは日本フィルとの公演がざんねんで、高度のオーソドキシーを示さむとする指揮者の志向性は、日フィルという楽団がこんにちにおいて到達しているある特有のアンサムブルの妙を活かすうえで、最善の方途とは云えない憾みを遺したとおもう、2楽章など、っあそこまで急ぐ必要があったのかといまでも惜しい気がするし、1楽章がおおきなスパンで漸増してくる経緯にしても、時間時間へ留まるまいとする潔さは、っむしろ演奏全体を平凡にした嫌いがないとしない、っそれはN響とのときもほぼ同断の印象であった、っこの曲についてはロズージェストヴェンスキー氏の最期から2番目の来日の機会が忘れむとして忘られるものではなく、っあれだけアレグロだろうとどこだろうと全曲これ滔々と沈潜してゆきながら、っしかもなお酷烈な体制下を具体的に物語るなどという愚とはおよそ無縁で、いつもただ丁寧至極な音楽的処理が存るっきり、っというその巨大な屹立はまったく異様であり、読響の謹直な合奏とすばらしい音質と、っそしてあの賑やかな終結に似合わしからぬ長い長い沈黙の涯ての大拍手とが音盤として後世へ遺ってもおり、っもちろん、っそれへ正攻法でチャレンジしていけないわけはないが、相手が化物ならば、正攻法もまた化物クラスでなければならない、
っきょうの《レニングラード》にしても、全曲冒頭から大団円へ至るまで、っもっとどっかと腰を落としたものものしい雰囲気と、暑苦しく凝集した合奏とで進行するのであっても、っというよりもまずはそのほうが、っじつはぼくの所望である、っがじっさいには、っむしろ淡々としているくらいだ、1楽章の戰爭主題部にしても、周到にプランニングせられた漸増であり、胸突き八丁においてようやく涼しさが吹き払われる程度である、新日本フィルは、日フィルなどからすると隙間風が吹くか吹かないかぎりぎりのやや心許ないアンサムブルであり、っもっともっとパート間でこころが通い合ってよいはずだ、っが、っほとんど枯れたようにも聴こえるその端然たる佇まいが、っぼくはけっしていやではない、2楽章も沈み込むよりは踊らむ踊らむとし、3楽章も木管といい絃といい音色は冴え返り、意想外なほど深刻から遠い、フィナーレも厄介至極な変拍子を眞率に熟してゆくその手附きが、っちょうどハリオノ氏が与えたのと同様に、音楽でしかない音楽、ただ音楽である音楽、っとの印象を結ぶ、っいったん進軍を止め、勝鬨を控えて停滞する段におけるとくに絃各声部の動き、和声に連動する音色の拮抗は、っもはや楽器の物理音を聴く感覚ではなく、これはいったいぜんたいどこの世界から吹いてくる風であろうか、、、っという驚異と動揺とを嘗めた、っそこにはただ《レニングラード》という楽曲が、ショスタコーヴィチという人間が、何色にも塗られずに存ったのである、《10番》においても、キーミツが達せられたかったのは、っこういうことであったのにちがいあるまい、
っあさっては、っというかいままた聖蹟の駅の喫煙スペイスで日附を跨いでしまい、っもうあすだが、サントリーというより好音場へ遷って、新日フィルがもうすこしく伸び伸びと弾いてくれ、っよりすばらしい精華を達してくれると信ぜずにいられない、っそれがキーミツと同フィルとのお別れの機会である、
っところで、っもうきょうは帰って睡るだけだからもうすこしく、コバケンさんと日フィルとの大宮での《シェエラザード》の動画が配信せられたので購入して録画し、っきょう音声をiPhoneへ遷してきた、前プロはたしか小山女史とのラフマニノフで、っほらこないだ高木氏と演奏されたばかりでしょっちゅう演られているわけだが、っこんかいは同曲は配信へは乗らず、
っそのリムスキー=コルサコフ、音質が致命的に鈍くてまるで聴けない、サントリーでの日フィルはあんなにも剛毅な音塊が好い音質で録れているのに、っこのtvuchの音声は、カメラのマイクが拾った音なのだろうか、っそれとも音声は別にマイクで録り、動画と同期せしめているのだろうか、っわからないが、っおそらく、会場で聴けば、日フィルはいつものようにとても勝れた音を発していたとおもう、っが、っこのラウドネス比がくっちゃくちゃのへぼ音声ではぜんぜん音楽的の感銘が得られない、
コバケンさんはといえば、っこの一大音絵巻からしかし動勢という動勢を奪い去ってしまわれ、《シェエラザード》という曲を聴きたい人からすれば、曲を殺す棒だ、っと怨み言を云うだろう、っぼくはどちらかと云えば《シェエラザード》などという曲はどうでもよく、コバケンさんを聴きたいので、っこの梃子でも動かぬ剛直な足取りと、日フィルの泰然たる合奏と、っそれでいてご勇退後もご健在のバス・トロムボーン、中根氏のばりばりいいすぎるアンバランスなどが快い痘痕となって、これがいつものようにサントリーで録られた音声であってくれたら、なかなかの成果となったろうのに、っと長歎息である、
日フィルは、サントリー2公演の定期は、指揮者がいやだと云いでもしないかぎりは、ったぶん全公演が配信せられている、っそのほかに大宮、サントリーとか、サントリー、桜木町とか、大宮、桜木町とか、初台、桜木町とかのときも、っばあいによっては配信がある、っこのへぼ音質を聴くかぎり、っその際にはぜひとも大宮での公演収録は避けていただきたい、キーミツとの桜木町でのショスタコーヴィチを聴いても、サントリーと桜木町とでも、後者の音質は落ちるようである、っこのあとぼくは、インキネン氏のサントリー、桜木町のうち前者へ行くし、来年にはカーチュン氏の大宮、サントリーでのマーラー《5番》を両とも聴く心算でいるが、っこれらもサントリー公演が配信せられればうれしいところである、
、、、日曜2時前、帰ろ、