ざっかん記 -13ページ目

っきょうは、




三鷹の試掘だったが、午前の休憩を待たずに了わる、っこれからよるには上野で佐藤久成氏のリサイタルで、帰社して定時まで仕事をして出向くのでもよかったが、億劫であり、早くに済んでも午后は休暇を取得するときのうのうちに定めていて、っそれでもまさかにあんなにあっさり了わるとはおもわなんだが、重機のオペレイターは社長であり、っあさから、きょう午前で済んだら午后は休みます、あ、休むのね、はいどうぞ、っと許しを得ており、上野あつらには安い駐車場なぞないので、堀切菖蒲園近くに半日¥420というところをみつけてそこを予約し、っきもちよくドライヴしてたどりつき、荒川だか隅田川だかをとぼとぼと歩って渡り、北千住から電車で上野、アメ横で食事せむとしてすぐ入口の天丼屋へ吸い込まれてそこで上天丼を掻っ込み、公園へ入って西郷さんの背後の彰義隊の墓標へ首を垂れ、階段を降りていま喫煙スペイス、っまだ16時前だ、っなんとも手持ち無沙汰である、

っところで、痛恨っっっ、っせんじつ大阪へ井上キーミツ/大阪フィルを聴きに往って帰った翌日曜、青砥で井﨑正浩氏の演奏会があり、切符も購っておいたのだが、スケデュール・アプリケイションへ予定を控えておらず、聴き漏らしてしまう、っぼくとしたことが、ショック、、、

数年前までは演奏会の予定を管理したりすることなどなく、っそもそんなに数を行っていないで、行くはずの日を忘れたことはいちどもなかったが、数を殖やすと行きたい公演が同日に重なることもままあり、っどちらの切符を購ったかをメモするようになった、去年ことしはなお数多の公演へ通うので、っすべての日取りを控えておくようにしていたのだが、抜かった、っこれだけ通っていればこんなこともあるかとおもいつ130公演以上へ出向いた去年はいちどもしくじらずに済んだはずが、っここへきてやらかすとは、不覚、、、

っそれはかなしい話で、っうれしい報せもまたあり、キーミツの年末の最終公演、ライヴ配信とその後1週間のアルヒーフ化が為されるとのことで、正月休みにのんびりと録画しておかむ、



、、、っまだ16時だよ16時、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




名古屋、栄、




ゲルハルト・オピッツ氏とカーチュン・ウォン氏とのタッグ再び、愛知室内オケで、ブラームス《1・2番》コンチェルト公演、済む、

栄へ来るとじつに好い気分だ、高校から浪人画学生時分まで、っこの周辺で遊んだのももう20年以上前の話である、っそのときから芸文センターのホールは変わらずに在り、っいまなお凛烈なる響を湛えつづけている、

切符は売り出して一寸してから購ったとおもうのだが、2階の正面がすこしく前方へ張り出したその最前列右端のみがぽつんと売れ残っており、っありがたく押さえる、っいざ入場してみるとぜんぜん空席過多で、オピッツ氏などかなりのビッグ・ネイムだとおもうのだが、っそれでこれかよというところ、位置取りとして最高だったのだが、っざんねんながら隣のおっちゃんがもろに多動症、4種か5種の動作を無意識かつ周期的にくりかえしており、っそのたびに派手に衣擦れのノイズを発している、っさらに、休憩後の《2番》ではずーーーっと後ろのお客がフライヤーをいじりつづけるノイズまで加わる、っまあそちらは極小で看過しうるレヴェルではあったのだが、っあれだろうか、っこの2階正面最前列右端からふたつめの衣擦れノイズおじさんはこのオケの公演では有名人で、っそれでぼくの撰んだ右端の1席はみな敬遠していつも空席となっているとかということだろうか、っはは、っまさかね、

っぼくはこれまでに、っあきらかに多動症者だとわかる人と不幸にして隣り合ってしまったときでも、っいちどとして、可能のかぎり身体の動きを抑えてくれないか、っとかと頼んだことはない、っだってあれはああした病気だから、本人も悪気がないのだ、仕様がない、ったしか、胎児の時分に母胎の栄養状態が不充分だと、脳内の電気信号を遮断する絶縁物質、っすなわちコレステロールだが、っそれが著しく不足した子供が産まれてきてしまう、っそれで、いまは動いてはいけないシチュエイションだ、っというときに、コレステロールを必要量有つ身体の人ならば、身体を動かせ、っという電気信号をよろしく遮断し、っじっさいに身体を動かさない状態をキープするということができるのだが、っその絶縁体がないものだから、電気信号が来たらそのまま即、身体が動いてしまう、っそれがつまり多動症である、学級崩壊が盛んに叫ばれたころ、親の躾がなっていないからだとかと、世論はわりに安易に精神論へ傾斜したのかとおもうが、っそれもじつのところ、日本人の成人女性の平均体重は先進国では突出して低い、スリムな体型のまま妊娠、出産するため、かなりの割合で多動症の子供を産んでしまっている、っというのが原因している可能性が高いとのことである、っだからこころある婦人科医は女性に、じゅうぶんに肥えた状態で妊娠し、出産するまでそれを維持しなさい、っと諭すようである、妊娠していようが体型を維持したいというあなたの女性としてのエゴティスムスと子供の健康と、どちらが大事なのですか、っと、

指定席公演でもお構いなしに空いている席へ移動する、開演直前にこそこそと所望の、自分が購ったのではない位置へ滑り込む、っといった不届き者もよのなかにはたまにいるものだが、っぼくはほんの1席隣へずれるだとかということもしたことがない、っや、過去に2度っきりかな、知己といっしょに出掛けて、休憩中に煙草を服みながら談笑していて、私の周りたくさん空いていますから、そこへいらっしゃいませんか、っと云われて断わるのもなんで移動してしまったことがいちど、っそれと、っご夫婦連れが1席間を空けて隣り合った席を取られており、っその間の1席をぼくが購っていたことがあり、着座するなりご主人から、すみません、われわれ連れ合いでして、この内側の席を譲りますから移動していただけませんか、っと云われ、なるほど、夫婦だけれどすぐ隣同士の席はすこしくいやだ、1席置いて2席購ったって、いつも空席過多のこのオケ、、、新日本フィルなのだが、の公演だから、間の1席は誰も購いやしないだろう、と踏まれたその席を、しかしぼくが購ってしまったということかな、っと察し、いえいえ、ぼくがそちらの外側でもいいんですが、っと云ったのだが、いえいえどうぞ内側へお坐りください、っと促されたのでおことばに甘え、では念のために切符を交換しましょう、っと申し出て奥方とぼくとの半券を取り替える、っおふたりは腰を低くされてすみませんありがとうございますありがとございますと頭を下げていられた、っまあだからこれは犯意を有って購っていない席へ坐したというケイスには当たらなかろう、っそれは錦糸町の2階正面の前から3列目だかそのくらいの右端でのできごとで、っぼくら3人から左側はずーーーっと誰も坐っていないというふうであった、っなお、っそのおふたりは演奏中もまったく静寂を維持され、熱心にたのしんでいられるご様子であったが、演奏会も、っああしたお客と隣り合えると、っじつに快適である、っただこればっかりは運だからね、っちなみにいま帰りの新幹線で、隣のおっちゃんは睡ると脚も肘もがばと開いてしまい、っぼくのほうへぐいぐいと押してきて、ったまに起きると足を膝の上へ乗せたりして、っその靴底がぼくのパンツへ当たったりするのだ、っしゃあない、運だからね、っこればっかりは、っどうぞ気持ちよく睡てくださいな、っぼくが我慢しますから、、、っやれやれ、

っまあそれで、っきょうは例によって午前仕事をして帰宅し、着替えて出掛く、名古屋着は開演の3時間以上前とたっぷりゆとりがあり、っいつものように椿神明社で柏手を打ってから駅の近くの王将へ寄る、水曜は餃子2枚オーダーで1枚無料なのだ、っそれで栄まで地下鉄を使わずにのんびりと歩き、っいつもの芸文センター直近の喫煙可のカッフェへ入る、開演1時間ほど前とじつによい塩梅で、シガレットを服みつコーフィーを啜っていて、器へ入る、

癪なもので、隣のおっちゃんのノイズを気にすまい気にすまいとストレスと闘いながら聴いていると、っおおくの時間を瞑目していても、、、眼を開いているとどうしても隣で動かれる度に気を散らされるからね、っぜんぜん睡気も襲って来ないという、っこれを怪我の功名と謂ったものかどうか、っだから絃の規模もよく見なんだのだが、8型か10型かそのくらいで、全声部2ずつ減っていたのではないとおもう、ったしかVaは6、 Vc4、バスは3だったか、 Vnはピアノの蔭になるし、っなにしろ左の方へ視線をやりたくなかったので、っやはりよく見ていない、オケが入場されると、っなんとセロのトップは日本フィルの門脇氏であられる、っいまメムバー表を繰ってみるに、彼氏は本団への所属を兼ねられているわけではない、《2番》3楽章へ同楽器のソロがあるため、カーチュン氏の肝煎りでトラとして招聘せられたのであろう、ヴィオラのトップは、っあの方本拠はどこでいられるのかな、井上キーミツがN響で伊福部昭《jpラプソディ》をお振りになったときの同楽器トップで、㐧1曲のソロを弾かれていた恰幅のよいおばちゃんだが、っその人、っそれからオーボー1番はなんとも懐かしい山本氏、っご健在でなにより、

《1番》は、曲頭からしてせめてもう1回りおおきな絃の編成が慾しくてしまう、迫力を出さむとめいめいが力奏するため、っかえってひびきが細り、奥行きを欠く、っそのうえ、オピッツ氏が登場されると、っどういうわけかフレイズの間がわるく、オケともタテがずれる、幸先のよくない開始だ、っその後は持ち直したのだが、っこの曲の深刻さが嫌だと云う条、音盤では全編にソロもオケもものものしさの塊みたような伊藤/朝比奈/新日フィルを聴き馴染んだため、細部までかっちりと弾き切らないソロにもどうしても不満を懐けば、オケももっと分厚くあってくれたらとチェムバー楽団を相手にないものねだり、

ソリストも指揮者も、《2番》のほうにより篤くおもい入れているのだろうか、4楽章制の長時間、っかなり複雑な楽想を廻りながらの全曲の経緯であるが、っここでは《1番》でみせたようなもたつき、っどこか板へ附かない頼りなさは微塵もせず、っむしろただただ音楽それのみを感じさせる、っせんじつ日フィルで聴いたばかりであるが、オケの規模が異なることの風合いの差がおもしろく、ブラームスの筆致も円熟していてオーケストレイションにも無理がないのか、っずっと快いひびきが流れつづける、むしろこの規模のアンサムブルでこそたのしい、っと唸らせる場面もすくなくない、

っそのなかで1楽章は、っおおきく漸増すると気高い哀感を蔵したヒロイズムがいたく胸へ迫るし、微妙だが、っしかし頻繁に変転してゆく調とリズムとは、っこうしたことに音楽的の妙味を感ずるセンスがありえてもよいと、ったしかにおもわせる、不遜な云い種だが、

2楽章の主部も、ソロのテーマの深刻趣味といい、和してくるオケの扱いの暗い色調といい、っぼくなどからすると、どうしてブラームスという人はこうなのだろう、もっとぱあっとあかるくゆこうぜ、っと云いたいところなのだが、っくりかえし聴いていると、っなにかこれはこれでわるくない気がしてこないでもない、ヴァイオリンとヴィオラとによる新しい主題はやはりイタリィ趣味の発露であろうが、ラテンの血による哀訴とはけっしてこのようではない、っもっと竹を割ったような直截が走り去ったあとへ人知れずかなしさが取り残されるというふうなのであって、私はこんなにもかなしいのです、っとかなしさそれ自身を謳う女々しい音楽ではけっしてない、っその意味でこの部分のイタリィ風情はしかし、っその精神をまで酌めているのかどうか、っそんなことを勘繰りながら聴いていると柔和なトリオがやってくるが、っそのほっこりとした感触が救いだとおもうのもまもなく、ソロがバトンを受け取るともうすぐに不穏な調子へ揺り戻してしまう、っそういうことこそが音楽なのだと一途に信じている人の筆なのだから、致し方あるまい、

3楽章の門脇氏のソロはこの音場ではより鮮やかに伝わる、再現において彼氏のこの主題を戻すべく何度となくおなじ音型を重ねながら調を移してゆくやり方も、っどうしてもぼくにすれば諸手をあげて賛同したい音楽ではないのだが、っここにこそカタルシスを見出す人もおおいのにちがいない、

フィナーレは、全体に嫋やかな曲調の気がするが、っどうして十二分に多様多彩であり、例の《ピアノ・クヮルテット1番》同章のロマ気分の激情を、っもっとずっと角を削って円くしたような手応えと映ずる、っしかし、ドゥアほどふとかなしかったり、モルほどすこしく道化ているようにみえたりと複雑な味がし、そうそうやればできんじゃん、そういうのができてこそ初めて音楽だよ、っと大ブラームス先生を相手に生意気至極の感懐を躊躇わないぼくである、

っくりかえすが、っこの間ぼくは、っただただ音楽のみを感じ、っその中へ浸っていることができた、っそれだけ堂に入った演奏藝術が展開していたのであろう、極まった涯にお客の前から姿を消してしまう、っそれはひとつの理想の演奏の存り方である、



っさて、っお次は来週木曜、佐藤久成氏の上野でのリサイタル、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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大阪、福島、




井上キーミツの棒、大阪フィル公演、済む、っこれで残すところは年末の読響との最終公演のみとなった、演目は、絃8-6-4-4-3、古ティムパニで楽聖《パストラール》、同16型2管、モダン・ティムパニで同《5番》である、っなお、1st、2ndのみ対向、Vaは1stの隣、バスは右である、金管、ティムパニは《5番》ではふつうの並び、《パストラール》では右へ固めていられた、ピキェロも同曲ではフリュートの末席ではなく右である、リピートは両曲とも1楽章のみ実施、

っこれは先年に新日本フィルと川崎で行なわれるはずであった公演と同内容であるが、っそれはキーミツのご療養につき広上氏による代演となった、っその後の彼氏のこの両曲は、前者は都響、後者は千葉の子供の楽団とのものを聴く機会があった、っああ、っあと新日フィルとの有楽町での《5番》というのもあったか、っあれは広上氏代演より後か先か、っよく憶えがない、広上氏もあのときにはキーミツのこの編成のアイディアをそのまま採用されていたが、っようやくキーミツご自身も本懐を遂げられたのであった、、、っん、広上氏の際は《パストラール》の金管ほかは左だったような気がするが、

楽聖というのは古今の歴々による方法論が百花繚乱の気味であり、っよほどのことを成し遂げねば存在感を獲得できるものではない、っきょうのキーミツにしても、っではあれで史上の綺羅星へ列せられるかといえば、っどうかしら、っなかなか辛いものがあるが、っしかし、空元気でいられるかもしれないとしても、っまずとてもお元気そうなのがこちとらにもうれしく、新日フィルとの最期のご共演の際に感じたお身体もおこころもともにはんぶん天国へ誘われてしまっているような感触はせず、っちゃんと英気を有って楽隊を率いていられた、大フィルも気骨溢れる奏楽で、広上氏と新日フィルとの際は、器との兼ね合いもあるのか、絃の規模が倍以上も異なるというその落差の妙がぞんがい発揮せられなんだが、っきょうはおおきにそのおもしろさを堪能す、っとはいえ、《5番》はもっともっと満ち足りた巨大音量がしたってぼくは受け止められたとおもうもので、っなんなら倍管も敢行されるがよいのにとおもうくらいだが、っよって、っより特有の肌合いがしていたのは《パストラール》のほうか、

絃が分厚いとどうしても滔々たる叙景叙事と映じ、っかえって筆の込み入りぐあい、音構築にみせる楽聖の意匠は後退し勝ちとなる、っそれが木管、ホルンがいつも透けて視え、縦横に音色の綾を交わし合う様は、っじつにキーミツの狙い通りであろう、造形も音楽的たることへ徹して、っおかしな味附けとは無縁、っそれでこそ、個所によってはなにか抽象的の尖鋭な手応えさえ出来しており、耳を洗わる、

っそれにしても、スコアを見ながら聴く習慣のないぼくだが、楽聖のあの時代に、絃はもうはやあんなにディヴィジせられているんだねえ、セロなど、トップがおふたりしてちがうことをされており、後ろおふたりは休んでいられる、っというようなところがある、っああいうのはもっと多人数の編成ではどのような割り振りで奏するのであろうか、っともかく、各声部さようの頭っ数でのシーンもあるとなると、シムフォニーへときおりチェムバーが挿入さるようなもので、っそのソノリティの多様も清新である、

2楽章では、スラーで聴き馴染んでいる気がする木管の音型がスラーなしの1音1音はっきりとしたタンギングで鳴るので、お、っとおもう、何度か奏さるうちのすべてがそのようだったので、っおそらく譜面がそうなっているのだろう、っさぞ丁寧に手垢を拭ったうえでの舞台なのかと想像せられ、っこちとらも襟を正せらる、

金管とピキェロ、ティムパニとは曲頭からは舞台へいられず、3楽章が始まってもなお現れないのでどうするお心算だろうとおもっていると、っそれがトリオへ入るや上手袖から颯爽と入場、っしかし同トリオはいくらも行かないうちにトロムペットの出番があり、っそのおふたりは自席へ着かれるや否やもう楽器を構えて吹かれる、観ていてひやひやものだ、

嵐を掻い潜ってのフィナーレは、小編成でも豊饒のここザ・シムフォニー・ホールならばひびきが瘠せ細る心配はなく、キーミツがではなく、曲のほうが天国へと昇ってゆく、っここでもしかし、絃と木管とのユニゾンにおいて後者の分量がおおい聴こえ方は仕合わせで、こんなにもカラフルな音がするはずの曲なのか、っと眩しさに醉う、

《5番》は、っとうぜんながらぐっと重厚なひびきとなり、フィナーレの進軍ぶりなど、っその鮮烈な逞しさはけだしみごとだが、っそうなのだ、っあそこまでのことをやっても、酷に云えば平凡の閾を出られない、VIP席は過去の大巨匠たちだけでも寡占状態であり、自由席ならいくらでも坐れますけれどね、っとかなりの高得点保持者でもそちらへ通されてしまうという始末である、

っとまれ、っさようのことは先刻承知とばかり、っいじけずに音楽的所作に邁進されるキーミツであられた、2楽章の主題など、っちゃんと記譜の強弱を叶えてくれ、大フィルの旺盛な応じ方もうれしい、っこの曲はかろうじてスコアを持っているぼくだが、っその主題の終わりのところへはそっけなく、f、っとだけ書いてある、っそれは提示と、音価を約めてゆく変奏の1度目もそう、っところが最も音価のみじかくなった2度目の同個所でははんたいにpとなり、音楽はそこからクラリネットとファゴットとの瞬く夢幻境へと微睡む、っこのただ単に強弱を逆にするという措置ひとつで、っぼくらはしかし音楽からふかく人間の眞理を教えらるここちがする、最小の筆で最大の効果を上げる、楽聖の楽聖たる所以である、

っところが、演奏上、っそれをちゃんと活かさない人のなんとおおいことか、そこfと書いてあるだろ、俺だってそのくらい識っているぞ、っと客席で地団駄を踏みたくなる、歌謡楽句の中途で、っしかももうフレイズの末尾まで来ていて、っそこから急に強勢を加えるというのには、ったしかにある勇気を要するだろう、っけれども、人によっては、っぜんぜん音量を増しさえしない、っあるいは、音高を上げて結ばれる主題なので、自然と音量を増しているのであり、その意味のfなのであって、べつにそこから異なる表情を求めている記譜ではない、っとのアナリーゼなのかもしれないが、ほざけっっっ、ってなもので、っそんなものはぼくの耳へはルーズネスにっきり聴こえない、ヤマカズさんが新星日響を振られた同曲の音盤の余白にはゲネ・プロ音声が収められているが、っその同個所では巨星は、そしたらフォーーールテっっっ、っと楽隊を叱咤されており、っとうぜんそれが音楽というものだと、っぼくもおもわずにいない、

っこの曲の強弱の記譜でもうひとつおもしろいのが、フィナーレ終局でアルペンを髣髴せしめる音型を吹くファゴットとホルンとに対するそれである、前者にはf、後者にはpと書いてあり、、、っちがったかな、ffとかかな、っや、ったしかfとpとだったとおもうが、っほとんどギャグみたようで、ベートーヴェンという人はほんとうにかわいい人だなあ、っと目の前へでもいてくれたら抱き締めたくなる、っこれは流石に、ファゴットとホルンとの音勢の差をかんがえ、両者の音量が等しくなるように吹き給え、っという主旨だとはおもうのだが、っぼくが指揮者ならば敢えて知らんぷりをして、ファゴットを大々々強奏、ホルンをほんの溜息みたような最々々弱音、っというのをぜひにやってみたい、っめちゃくちゃたのしいのにちがいない、誰か俺に指揮者をやらせろ、っさもなくばお前等がそういうことをしろ、っそういうおもしろいことをっっっ、



っさておき、キーミツにおかれては、っちょうど1月の本番のない日々であられ、っこの間にも再度三度、三度四度、最終公演のスコアスコアと対峙されることであろうが、っきっと笑ってさようならができるだろうと信じている、っぼくも、っうちよく聴いていないシベリウス《7番》は、っちゃんと耳へ馴染ませておかねばならないとこころしている、

っお次は水曜、っまた午后のみ休みを取って日帰り名古屋行にて、カーチュン・ウォン氏と愛知室内オケとの公演、ゲルハルト・オピッツ氏の再来で、豪華にもブラームスの両コンチェルトである、《2番》はちっとも聴いてこなかった曲だが、っこないだの同コムビの日本フィル公演ですっかり絆され、っその配信動画を録画して音声をもうだいぶん何度も聴き、身体へ入ってきた、《1番》は曲頭からあの騒音が不愉快であり、コンチェルトだというのに聴き手を仕合わせにせむという気がさらさらなく、フィナーレのコーダまで待たなければ救済せられない、っそれまでひたすらの深刻な激情の吐露がつづくという嫌な作品だが、っあのおふたりならばその弊を雪がれ、っちゃんとぼくのことをも悦境へと拐ってくださるのにちがいない、



みずの自作アルヒーフ

 

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ギロッポン、




ジョージ・ハリオノ氏のピアノ、渡邊一正氏の棒、東フィルで、チャイコフスキーとラフマニノフ《2番》との両コンチェルト公演、済む、

っいつも長文で数時間掛けてうんうん唸りながら書くのでそれはそれなりにタイヘンだが、っきょうはラクでいいよ、っすぐに了わる、

っぜんぜん平凡だった、っふつうのチャイコフスキーとふつうのラフマニノフとだった、っあんなものではぼくはなにも感じない、

リサイタルを聴いておかなんだら、っもっともっと悪印象を有ったかもしれない、強弱の幅が狭く、弱音で神経質な最小音量を遣わない、音色の変化も極少、っそのようなピアニズムにもどうして聴くべきものはあるのだとあのときはおもったのだが、っきょうはといえば、っきょうも彼氏は同様の語り口であったが、っやはりやや単調に聴こえないとしない、っそしてフレイズに対して彼氏なりに突っ込んだこだわりとか、っそういうものもほとんどない、っそうすると客席へいてぼくは、っなにを聴いていたらよいのかわからない、っさいきんは密度の高い公演がつづいたので、演奏会というものは行けば必ず聴くべき音が連続しているのだ、っと油断していたようなところがあり、あ、そうか、こういう平凡窮まりないときもあるんだったわ、、、っと我に返った次第、

一寸おもしろかったといえば、チャイコフスキーのフィナーレが、歌わずに音列が並ぶっきりという一種のザッハリヒカイトをおもわせたことで、激情のこの作家からしかし抽象的の音の組み合わせのみを惹き出してくるその手附きが、っかえって新鮮に映じたことである、

ソリストがソリストならオケもオケだ、っどこまでいっても、ただオーケストラが鳴っている音にすぎません、っという感触をついに返上できない、っもっとほんの1音に対してだってしんから感じた音ってものがあるだろっっっ、

ハリオノ氏は来年3月にも来日されてここギロッポンの大音場でリサイタルをなさるようで、っきょうの来場者向けの先行販売があり、チャイコフスキーが済んだ時点では、まだもういちどっきり希みを繫がむ、っとのおもいで切符を購うべくiPhoneも携えて喫煙に外出したが、っぴあではまだ購えなんだ、そうか、パンフレットへ挿んであったぺら紙に記載のQRコードを読むと特設ペイジへ遷移してそこで購えるとかそういうことだな、っとおもい、ラフマニノフの前には終演後に購わむとおもっていたのだったが、っそれを聴いているうちに、なんだこれしきのラフマニノフ、もっとぜんぜん無名の人の演奏でこれよりも遙けく満々と曲想を謳歌し切った達成を、俺は過去にいくつも聴いているぞ、っと冷め切ってしまい、っそのリサイタルへ行く必要はないと判断した、

っあのYouTubeで観たチャイコフスキーの妙に大柄に構えた風格はいったいぜんたいなんだったのだろうか、っあるいは、っそのときの指揮者がたまさか泰然とした人で、ねえ君、いつもよりじっくりたっぷり演ってみないかね、っということだったのかもしれない、

っでまたこの手の公演というのは、っほぼ満席の堂内へは相応の割合でみいちゃんはあちゃんが来ていて、黄色い声を出したり立ち上がって拍手をしたりというぐあいだから、っこちとらはよりこころ虚しくなってしまう、

っま、っこんなこともありまさあ、っぼくは演奏会の切符を購うのは宝籤を購うのとおなじだとおもっているから、外れたってべつにどうということはない、当たるも八卦当たらぬも八卦、



っさて、っあすは多摩市の、聖蹟別棟から歩って3分ほどの場所の試掘調査、発掘道具を積んだ社用車はきょう世田谷の別現場へ行っていて、就業時間中に聖蹟へお戻りにならなんだので、ではキィはどこそこへ隠しておいてくれろ、夜中にこそこそ侵入して車を出すから、っと伝えてあり、っこれからそうせねばならない、っそれと、っあすが月末だと忘れていて、事務へ出す書類も作らなんだので、別棟へ寄って出力してから帰らむ、っま、歩って3分だから、っあすの午休憩時に作るのでもよいのだが、

っあさっては大阪日帰り、井上キーミツと大阪フィルとの楽聖、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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ギロッポン、




、、、っところで、っぼくはサントリー行の際はいつもギロッポンギロッポン云っているが、っおなじように公演の呼称を器の所在地をもって云いたがる向きでは、ったとえば渋谷、NHKホールのことは神南、っそしてここサントリーは溜池と云う人がおおい、っぼくは溜池山王駅を利用することは滅多になく、最寄はむしろ六本木一丁目駅ではないかとおもうのでそう書くが、っしかしきょうのように自室から器へ向かう際には、赤坂見附経由でほんの1駅、前者で降りるほうが、運賃といい往きよさといい好適であり、っきょうはさようにす、っでもまあ、っいつもの習いだからギロッポンと掲題しておく、

ピエタリ・インキネン氏の棒、日本フィルで、神尾真由子女史を招いてグラズノフのコンチェルト、っそしてシュトラウス《アルペン》である、

グラズノフでもうはやノック・アウトっ、ソロ、オケともども、っなんたる精妙を極めた奏楽であるのかっ、

カーチュン・ウォン氏の同フィル、プリンシパル就任披露のマーラー《3番》の配信動画から音声を抜いてくりかえし聴き、YouTubeで著名指揮者と欧州の名門との同曲演奏複数と比較している旨、っいつかに云ったが、個々の技倆のポテンシャルとしては、ったしかにこんにちにおいても我が国の各楽団は彼の地彼の地の各スーパー・オーケストラに及ばないのかもしれないとしても、っなんというか、奏楽の謹直さ、折り目正しさにおいては、日本人の特質が一長も二長もあり、っぼくはそれがうれしく、愛おしい、現に、っその際にも云ったことだが、カーチュン氏のそのマーラーを聴くと、日フィルの点画の整え方はヴィーンにもベルリンにもコンセルトヘボウにもどこにも敗けず、最も丁寧で、同国人としての贔屓目ということじゃなしに、っほんとうに日フィルの音がいちばん勝れていると聴こえる、マーラー《3番》の音源は世界でたったひとつっきり後世へ遺せません、っと云われたら、っぼくはいっさいの躊躇なくすべての名門名門の録音録音を喜捨し、カーチュン・ウォン/日フィルのみを遺す、

っそんなわけで、っあれこれとそれらの名門が来日しても、っいまもむかしもぼくはほとんど食指を動かさない、っだって、っそれらの演目演目はおおくのばあい音盤で望みうるわけで、最後の最後には指揮者の表現が突き抜けに突き抜けて突き抜け切っていてくれなくば音楽というのはつまらないのでもあり、近年に有名を恣、、、ほしいまま、っね、恣にした誰だ彼だの超有名人を念頭へ浮かめてみても、っではそのなかへ眞に決定的の天賦天與の才覚の有ち主が存るかと問わるならば、っすくなくも音盤から判断するかぎりにおいては、っべつにみなただの一個一個の音楽家、一個一個の人間にすぎず、この人へはもはや批判精神の刃を向けてはならない、比較を絶して遙けく聳え立っている、っなどというめっちゃくちゃのぐっちゃぐちゃのあほみたようなばかみたような存在感の人はどこにも、っただの1人だっていやしない、っこの文脈で本末転倒で恐縮だが、っともかくオーケストラの演奏というものはつまるところは指揮者の表現に勝れる勝れないが問題であり、っそれっきり問題ではなく、楽団がスーパー・オーケストラであるかどうかなどということは、手段のひとつではあるにせよ、目的ではぜんぜんない、

っもちろん、っじっさいに聴けば、鋭敏な音感の指揮者とスーパー・オーケストラとのタッグならば、っおおきにこちとら舌を巻く妙技が連続し、唖然とさせらることも多々あるのにちがいなかろうが、っそれが即、音楽的の感銘であるかは保證のかぎりではないし、っきょう日、我が国のいくつかの楽団が絶好調を示した際には、敢えてどこそことと較ぶまでもなく、優にそのスーパー・オーケストラとしての貫祿を示しうるのではないか、っそしてそれは日本の、日本人としてのスーパー・オーケストラなのであって、っいまでも日本人の音感やリズム感を指してそれが西欧から落伍するか、っすくなくも相違することを論い、矯正に努めよ矯正に努めよ、日本訛りで西洋音楽を喋るな、っと云う声はすくなくないが、っぼくからすると、それのなにがどうそんなにいけないのか、っとおもわずにいない、っよしんばそれを直して西洋流に西洋音楽を語りうるようになったとて、っさようのニュートラルな奏楽でではどのように、ほかでもない日本人が演奏しているのだっ、っとの沽券を示しうるというのか、ライス・カレーはインド料理でもイギリス料理でもなく日本料理と成り遂せてすでにして久しい、っそれとおなじに、日本流にすこしく転訛してしまった西洋音楽をしかし、っぼくらはほんとうに謳歌していけないのだろうか、

っこれを高額切符を滅多には購えない人間の僻み根性と取られてもぼくはいっかな気にしないが、ボッセ氏然り、フルネ氏然り、アツモン氏然り、っあるはスクロヴァチェフスキ氏のような人にしても、っそのカリアの終末の重要部分を本邦に置いてくれた歴々は、拝察するに、日本の人たちの音感て、一寸われわれとちがうんだけれど、でもそれがなんとも云えずよいわあ、、、っとの素朴な実感をどなたも懐かれていたのではないか、っもちろんのこと西洋人とて一枚岩ではなく、日本人の音楽の語り方に愛着を有ってくれる人もいるのだ、っそんなの所詮マイノリティでしょと云いたい人もいるだろうが、、、っまあここのところは永遠に埋まらない溝であろう、っともかくぼくは、日本人がこれから先いかに西洋音楽の語法への能うかぎりのキャッチ・アップを達したとしても、どうしてもどこかへ日本人らしさが遺存している、っという状態こそが望ましいとおもっている、

、、、っなにを独りしてアツくなっているのか、っそうグラズノフだが、中弱音以下で這い入ってくる日フィルのアンサムブルの色、雰囲気はいつもながらぞくぞくするほど優婉柔和であり、っかつ無類のシャープネスを有って客席のこちとらへ最大限の神経の集中を要請す、っその緊張はぼくにとってぜんぜん窮窟ではなく、っむしろオーケストラを音場で聴くにあたっての最も快い瞬間である、演奏会の開幕から早くも、彼等の音は現実の楽器に発音可能な物理音であるよりも、っもはや異界から夢魔夢幻を連れて来る、

オーケストラが、っまあなんと云えばよいのかある種のゾーンへ入ったときというのは、っほんとうにすべての声部が完璧なバランスで顕われるものである、っきのう京都市響を聴いていると、っけっしてわるくないアンサムブルだったが、っそれでも、もっとトロムペットがこうならよいのに、ホルンがこうならよいのに、ティムパニがこうならよいのに、ハープがこうならよいのに、っとわずかずつわずかずつ註文を附けたい気がするものである、っそれがきょうの日フィルは、綜奏の概観もさることながら、っほんのグロッケン・シュピールとかほんのハープとかのごくごく細部へ至るまで恆に、そうだっ、その音のつよさ、その質感、その存在感こそが慾しかったのだっ、っといちいちこちとらをして膝を打たしめる奏楽が過たず立ち現われ、っそれが驚異的の精度を有って連続してゆくと、っいつしかぼくらはオーケストラの存在というものを忘れてしまうのである、

ソリストを招じ入れ、楽器を殖やして漸増しても全体はなにかさようの一個の生命体のごと蠢き、曲調はいわゆるコンチェルトコンチェルトした結構とはだいぶん様相が異なるが、っこちとらひたすらに、好い曲だなあ、、、っとうっとりと聴き惚れているのみであり、ソリスト、指揮者、オケ、誰の存在もいっさい感じない、全員の全霊が、っただただ楽曲へ奉仕せられる、草葉の蔭でグラズノフも、っおおきに感泣に咽んだことであろう、

っいちおう3楽章制の作ではあるとのことだが、っじっさいには全体が接続曲様の長大な単一楽章と聴こえ、っまんなかへカデンツ様のところがある、神尾女史の奏楽は、桜木町でコバケンさんとのモーツァルトを聴いた際にも、ほんの1挺のヴァイオリンがこんな大音場でこんなにもゆたかに鳴るものかしら、っとこちとらの目を瞠らせたものだが、っきょうもおなじ、強弱硬軟すべてがどこまでも自由自在で、っしかも音楽そのもの、ソリスト・アンコールのパガニーニにしても、宵闇に悪魔がからからと笑っているその笑い声を聴くようで、っそこにヴァイオリンという楽器は存在していない、っそれがしかしヴァイオリンという楽器にのみ可能な音である、っおよそ音楽というものは、っそこまでゆけてこそ初めて本格の本物であろう、

トロムペットが新しい主題を吹くところからがフィナーレなのかとおもうが、緊迫せるトュッティとソリスト、っおよびオケ各個別声部が悩ましい歌を集わせる部分とが無碍に交錯し、魅惑され通しのうち、視界が泪で濡れてきてかなわない、鳴っている音の音圧や色調が、烈しく凝集したりふと脱力して虚空へ漂ったり、っそれが波状的に襲ってきて、っしかも最後の最後まで、いやなに、まだぜんぜん余力ありますけれどね、っと涼しそうな貌をしている、っや、っけっして音楽を小手先へ流しているのではなく、全霊を賭しながらにして、全員がプレイヤーズ・ハイみたような状態へ入って無敵の様相なので、っそこに泣けてきてしまう、



《アルペン》においては、インキネンという人の特別特級の唯一性をまでおぼえたか、っと云われればそこは留保するとしても、っぼくにしてみれば上岡敏之氏との演奏を聴いて以来の日フィルの同曲であり、感慨も一入、っあれだけ膨大な編成となってもやはりすばらしいアンサムブルは変わらないが、ったとえば、登山中に聴こえる狩の角笛は、っもうすこしく猛々しく聴かされたいとおもったところ、終演後に舞台上へ答礼に呼び出されてみると、ホルンはわずか4名のみでいられる、シュトラウスの記譜の所望はたしか11本であるはずで、っここは採算度外視でそのとおりの陣容で臨まれたかった、

っけれども、登頂の大音響はじつに胸の空くパノラマであり、っここでも全力を振り絞りながらなおいまだゆとりがありますというその日フィルの勇姿が眩しい、

っぼくはシュトラウスのよい聴き手ではないのかもしれないが、っこの《アルペン》は演奏時間といい曲想の変転の経緯といい、っここちよいヴォリュームで、っだいすきな曲である、っそれはちょうど、ヴェルディのオペラにはなかなか馴染む機会を得られないが、《ヴェル・レク》はうれしく聴いていられる、っという事情と肖ている、



っさて、っお次は木曜、っいよいよジョージ・ハリオノ氏のコンチェルト公演、青年が颯爽とコンチェルトを弾きのけましたという以上に、っなにか、え、なにその音楽性、、、っという奇異なカンジを期待してしまっているのだが、購いかむりだろうか、っほんのすこしくでも、変態変人の成分をみつけられればうれしくおもう、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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京都、




井上キーミツの棒、京都市響で、ブルックナー《8番》、済む、

っなんだか新幹線が遅れている、っあさは米原の手前まではわりにすいすいと来たが、米原から京都までは進んじゃ停まり進んじゃ停まりと小1時間もやっていてようやっと京都へ至る、っお蔭で、開演までにどこで食事をせむとかという予定はぜんぶおじゃんとなって、っしかし、っその午の時点では東京方面はなお遅れて2時間ほど狂っていたが、っいま器から京都へ戻ると、っわずか数時間ほどの間にどうやってそこまで挽回したのかとおもうが、遅れはせいぜい15分ほどとなっている、っや、っでもあれか、っこれでまた新横の手前で詰まっちゃってなかなか辿り着けないとかとなるのか、っわからん、

終演してソロ・カーテン・コールを見送り、完全にハネ切るまで席へいて、退出せむとするに、っすぐ後ろの席へいられた女性から声を掛けられ、水野さんですか、っと云われるので、おかしい、こんなところへ知己がいるはずがない、っとおもっていると、っかかる偏狭ブログをお読みいただいている方なのだった、平素より手前勝手を書き散らしているぼくとしては汗顔の至りで、っしかしいつもひとりぽっちのぼくだから、公演のあと雑談のできる相手のいるというのはこころうれしく、器の外まで出てきてふたりしてしばらく立ち話をしている、大の汗っ掻きのぼくは1年のうちほんの寒い季節でなければ一張羅を着て演奏会へ出向くということができないが、寒々としてきたちかごろなので、勇んで上下揃いを着込み、タイを締め、足が痛くなってしまうイタリィの革靴を無理をして履いて来た、初対面の方へ挨拶をするのに、無粋な格好をしていなくてよかった、

っさて、っまずファッスングだが、ノヴァークである、っぼくは《8番》はどうしてもハースがよいとおもうのだが、っおおくの指揮者はノヴァークである、っそちらのほうが作家の最終的の決定稿だからという理由なのかとおもい、ハースはといえば2稿をベイスに1稿からも適宜、材料を採ってあるというが、っそうすると編纂者の意図、解釋が介在してしまっているではないかというので、敬遠せられ勝ちなのだろう、っしかし音にしたものを聴いてみれば、1、2楽章の一寸したオーケストレイションの相違、3、4楽章の大幅なカットの有無、っまずどの要素からみても、ハースのほうが断然勝れている、それはハースが半ば編曲してしまったものだ、っというならば、ハースの編曲がみごとだった、っということでよいではないか、

っとまれ、京響はひじょうにソフィスティケイトせられた清冽なひびきで全編を語り抜く、アンサムブルの耳当たりとしては絹漉し豆腐風情であり、っそれでも、同コムビによる同曲の音盤では記譜の弱音指定に神経を遣いすぎる嫌いがしたところ、っきょうは恆にたっぷりとして安心のひびきである、っもっとも、個人的にはブルックナーは木綿豆腐の感触がよく、トロムペットなど、っもっとじゃんじゃん吹いてくれたくはあったが、

っそうだ配置、Vnは左へ固め、Vcが中でVaが表、っしかしバスは雛壇の最上段で中央左寄りに2列横隊、金管群は右へ固め、ティムパニは左、シムバル、トライアングルはその後ろ、ハープは左端である、

テムポは全体にじっくりしているが、特筆すべきは1楽章の㐧2テーマ頂点で、リット→ア・テムポほぼなしっっっ、数年前の読響との川崎での演奏も聴いているが、っその際はどうだったろうか、憶えがない、

2楽章はやはりもっとトロムペットに吼えて慾しい、音数を殖やしてゆくリズム動機の、っそのいちばん細かい音になったときにも、っちゃんとぜんぶの音をかっちりと聴きたい、トリオはハープが棒の呼吸を共有できておらず、っやや前へ倒れ勝ちとなったのが惜しい、っそれに、っせっかくに3台もいるのだから、っもっと粒のおおきなゴージャスな音を聴かされたい、

3楽章からはこころなしかキーミツのお身体の動きも往年の柔軟を取り戻され、腕をめいっぱいに拡げてこの巨大な音楽を抱き留められる、っといっていっさいの衒いとてなく、っせんじつの新日本フィルとの公演と同様、楽曲の有つ霊気が、っもはやぼろぼろのはずの指揮者の五体へ、っしかしかりそめの生命力を吹き込むのかとみえた、っそれだけに、公演事後には死んだような疲労困憊が待っているのにちがいなく、想像するのも痛々しい、

フィナーレは、冒頭から巷間よく行なわれているよりもひと回りもふた回りもおおきなテムポに構え、全体にその足取りのまま押し切ってゆく、っやはりやはりトロムペットにはこの楽章冒頭といいコーダといい、っもっともっと天高く突き抜けてくれたかったが、金管が大人しいために絃の機動力がよく活きるメリットもあり、っどっこいどっこいというところか、GPへ至る直前の音の切り方を、っうつくしい残響が棚引くように巧んでいる形跡が顕著であり、丁寧な仕事である、

っこれで、っそれ1曲で公演が保つという超大曲の披瀝は最期の機会である、来週末は大阪フィルとの楽聖、



っさて、っあすはサントリーにてインキネン氏と日本フィルとの《アルペン》、っぼくは彼氏の実演を聴くのは初めてであるが、っぜひとも、音がじゅうぶんにその質量を確保するより前に、棒がどんどん先へ行ってしまう、っというふうでなくてくれたい、っや、っさようの予断を有つのはよくないかもしれない、っその手の棒なら棒で、っそのどこにたのしさがあるかを探るのが得策であろう、

っそれにしても、ブルックナー《8番》と《アルペン》とを立てつづけに聴くとは、っかの霊峯の偉容の抽象と具象とをふたつながら味わう贅沢であり、仕合わせな連休である、



新幹線は20分ほどの小遅延で新横着、っいま古淵まで戻る、南大沢でのシガレットが恋しい、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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川崎、




坂入健司郎氏の棒、タクティカート・オケ公演、済む、演目は、リスト《村の居酒屋におく踊り》管絃楽版、阪田知樹氏を招いてショパン《2番》コンチェルト、っそしてベルリオーズ《幻想》である、っふつうのシムフォニー・コンサートのライン・アップにおもえるが、19時開演、ソリストもオケもアンコールなし、休憩も15分とみじかく、遙か建物の外まで出なくば喫煙しえないここだから、っお蔭でぼくは往きも帰りも小走り、階段も駈け上がらねばならなんだにも拘わらず、済んで退出し、懐中時計を検むに、21:15、不可思議だ、っどこでそんなに時間が掛かったのだろうか、ったしかに《幻想》は1楽章も〈グィロティン行〉もリピートを履行したにせよ、テムポだって全体にそんなに遅くなかったし、っちゃんと聴いたことのないショパン《2番》にしても、っさのみ長大な楽曲構成とは聞こえなんだ、

オケは《幻想》になったら絃の規模がおおきくなるんだろうなとおもっていると、っずっと12型であった、同曲作曲、発表の往時にいかにそれがサンサシオンを巻き起こしたかを如実に伝えるには、っかえって分厚い編成でないほうがよいという判断なのかとおもう、っよってひびきはあっさりさっぱりとしており、っもっと音の重い軽い、音色の濃い薄いに多段階のある奏楽こそぼくの所望だが、っいかにも若い腕利きの楽団にあり勝ちのアンサムブルだ、っただ、演目の性格としてそれが凶と出るばかりでもなく、ショパンなど、ソロともども陶然と聴かせる、

っところで、っよのなかにはほんとうにそんなに大勢のショパンずきがいるのだろうか、彼等はいっさいの抵抗なく眞っ正面からこの作家を愛しているのだろうか、っというのは、っぼくの耳へもこころへもこの人の曲はさしてうれしくなく、っそれを聴いている他人の心理をありったけ想像してみても、この人のピアニズム、ポエジーがほかのいかなる音楽にも増して愛おしい、っというまでの偏執はぜんぜん架構しえないからである、ったしかにある詩情を具えていることは否定しえないが、っぼくにはしばしば気障ったらしくて鼻持ちならない感触がするし、哀感の訴えも不健康に爛れており、あんたも大の男なら、もっとしゃんとせえやっ、っと背中を引っ叩きたくなる、っいっぽうで、単にピアニズムとしてみれば、フォルテの打鍵をむしろけたたましくおぼえる個所がすくなくなく、詩人というにはデリカシーを欠く強弱ではないか、っかようにぼくとして抵抗をおぼえる要素に指を折ってゆけば、ショパンとは作家としてぜんぜんアンバランスの不完全の人であり、っすくなくも史上の大藝術家だなどとは、っほんの世辞にも云いたくない、仮にこの歴史とよのなかとに彼氏の楽曲がただの1曲とてなくとも、っぼくはまったく惜しい気はしない、誤解されたくないが、音楽的につまらないというのではなく、曲調がうれしくないものがおおい、っと云っている、っああした感情の表出は、藝術のなかで積極的に行なわるべきではないと、っぼくなどおもってしまうのだ、精神の健康、平衡に対し、重大な脅威を与えるからである、人を哀しいきもちにさせるにしても、っもっと健康で逞ましいやり方がある、っそっちこそがぼくのおもう本格の藝術なのであり、ショパンのやり口なぞ2流3流以下である、男なら哀感は黙って背中で語れよ、っという話なのだ、、、大ショパンを捕まえて2流3流以下とは、云いも云ったり、っしかし訂正する気はない、っぼくは眞剣に訊ねたいのである、ショパンがすきだという人は、あの音楽にさようの抵抗、異物感をほんのいささかもおぼえないのですか、っと、

っところが、っぜんぜん真面目に聴いたことがなく、っどんな曲調のどんな構成だかまったく識らない彼の《2番》コンチェルトをきょう聴いていて、っすくなくもこの曲に関するかぎり、っそんなぼくでもまあいやではなかった、っとくに2・3楽章は、主題主題のキャラクターとしてもほんの意表を突いてくるコンテクストの妙としても、素敵だし、っちゃんとたのしくもあった、阪田氏のピアノは後ろへゆくほどなにか人智を離れて曲の核心と同体の趣であられ、っそれにより楽曲のよさを教えらるところもおおかったのかもしれない、

っちなみに、前半の2曲では、っぼくの後方近所にて、っずっと派手な鼻息がしている、開幕からすでにしてそうで、っそれは睡ている人の鼾のような性格のものであり、1曲目からもう睡てんのかよ、ってなものだったが、ショパンが始まっても収まらずにずっとしていて、阪田氏が初めて鍵盤へ指を下ろされる際にもそうだったので、っぼくの隣のご婦人などは小首を傾げてあきらかに不愉快そうにされる、睡ているならば隣の人が膝でもちょんちょんと小突いて睡ないでくれろと要求しそうなもので、っそれがなかったらしいということは、っあれで起きている人の鼻息だったのかとおもう、っぼくも鼻がよわい身の上なので他人事ではないが、起きていて周囲からの白眼視もものともせずあれほど盛大なノイズを発しつづけるとは、っもはや大した度胸だと讚えてやりたい、っぼくならば、季節によって鼻が詰まりっ放しで仕方のないときには、っもう諦めて公演の間は口呼吸をするものである、っひょっとすると、っすこしく智慧遅れとか、っなにかそういう感じの人がノイズの発生源で、周囲の人も見る目にそうとわかるので、静かにしてくれろ、っと要求しあぐねたとか、っさようの事情があったかしれない、っそしてその鼻息はベルリオーズではまったくせなんだ、ノイズの主は前半のみで帰ったのか、っもしまだいて、後半は鼻息をさせずにいられたのだとすれば、前半のあれは度し難い大罪と云わずばなるまい、っぼくなど、前半が済んで休憩へ入る途端にそこで喧嘩がおっ始まるのじゃないかとひやひやしたくらいの、っじつにひどい雑音であった、



《幻想》は、大音場に中規模編成で楚々としており、3楽章までは優美さが際立つ、っけれども、っもっと個別声部のほんのエスプレッシーヴォとか、若き多感なこころのひりつきを伝える際どい和声へのこだわりなど、っさらに突っ込んだ表現を、っぼくなどは期待してしまった、2楽章はせっかくにハープ2台を指揮者の両脇、舞台最前面へ連れ出したにも拘わらず、っとくに向かって左側の奏者は果敢さに決定的に不足し、っもうひとつ配置の妙が活きない、

〈グィロティン行〉以降は金管、打楽器を加えて俄かにワイルドな音響となり、前半とのコントラストこそは鮮やかであった、トロムボーンの1番は藤原氏でいられたかとおもうが、死刑執行のファンファールやフィナーレの最後の畳み掛けなどでは音程不明瞭か、っないしはとくに後者ではわざと外った音を吹いているのかと聴こゆばかりばりばりと音を割られ、っよほどか率先してベルリオーズの果たし状を体現せられたかったのだろう、

全曲に、指揮者の意図としてもなるほどよく伝わったが、っどうだろう、他のいっさいを蹴散らしてしまうほどの突き抜けた魅力があったかというと、っむつかしいとおもう、

っこの曲は、っさいきんに平林遼氏がご自身の楽団で披瀝され、っぼくは聴けなんだのだが、公演の動画が公開せられ、観てみるところ、吃驚するほどけったいなことをなすっている、彼氏のご存在は従前から認識しており、X上でふたことみことことばを交わさせていただいたこともあるが、公演へ行ってみたいとおもうようになってからこちら直近の2度の機会は、っいずれも他の予定があって断念した、喋られている動画などを視ると大人しそうな青年という風情であるところ、舞台では豹変されるのか、っすくなくも豹変への願望を宿されている方ではあり、っその極端なデフォルメを含む《幻想》も、動画で聴くかぎり、形式を乱してでも訴えたい眞率な命の発散なのか、奇を衒ったこけおどしにすぎないのか、っまだ判断し兼ねるものがある、っけれどもそうした挑戦的の奏楽こそ平素からぼくが求めてやまないものであり、会場で聴けずにしまったのはまことに惜しい、っつぎはどのような楽曲をなさるのかわからないが、っいずれ必ず聴かなければならない指揮者のおひとりである、



っさて、っお次は土曜の旗日、京都日帰りにて井上キーミツの京都市響との最期のご共演で、ブルックナー《8番》、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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ギロッポン、




井上道義という人の、舞台人としての死に支度をみる一夜であった、



、、、演奏中から、我が駄ブログのこんやの更新の書き起こしは如上のとおり結晶し、っその実感を大事に大事に懐へ抱き締めながら、最後の1音まで聴いた、っほんとうはもう、っこれに加うるべきただの1語だにない、っそれをかくしてネット上へ半永久的に遺すことが叶い、っぼくはいま、っふかくふかく満足している、

井上キーミツの棒、新日本フィルで、ショスタコーヴィチ《レニングラード》2日目にして、キーミツと同フィルとの最期のご共演、キーミツにおかれては最期から2番目のサントリーの舞台であられ、残る公演はあとほんの3つ、今週末来週末と京都、大阪を廻られ、年の暮れにここへ舞い戻られ、っそれでとうとうおしまいである、時間は待ってくれない、、、量子力学の解き明かすところによりては、っそれも科学的事実ではないのかもしれないが、

何人も他人様のこころの裡を覗いて詳らかに見ること能わない、キーミツが引退を宣せられてから、8割方くらいの公演は聴いてきたはずのぼくであるも、彼氏の踏ん込んでいられる境涯をおおきにみくびっていたらしい、我が不明を愧ず、指揮者の晩年の姿というのもいろいろだが、キーミツにかぎっては、最期の最期まで我が鳴りを潜めず、貪婪なる表現慾があふれ、暴れるままに去ってゆかれるものと早合点していた、っしかしこんや、っとくに2楽章のある瞬間からそれが訪れたが、っとつじょぼくらの眼前から、井上道義も新日本フィルハーモニー交響楽団も、っその個別具体性は忽然と消え去ってしまい、っあとはただ、誰しもがいちどは夢にみる普遍的のオーケストラの音というものが、引きも切らず流露したのみである、

っつまり事前においてはぼくは、っまことに愚かにも、っもっとなにかを足したり、っもっとなにかを引いたり、っもっともっと楽曲へ井上道義という色また色を塗りたくった音を聴かされたがっていたわけだ、っところが当のキーミツはなにも足されずなにも引かれず、っその2楽章のあるところからは新日フィルも振られずともひとりでに動き出す趣で、っもって《レニングラード》というあの魁夷なるモニュマンだけが、っただそこへ建っていたというわけである、

1楽章など、錦糸町のときもその印象だったが、っきょうも枯れ切っていてほとんど力ないほどであり、キーミツはこころを動かされず、遙か鳥の視座からいっさいを見渡していられる、

っそれでも、っこの1楽章こそまだしも、指揮者が振らばこそ楽隊もまた導かる、っというあたりまえの演奏の姿だったが、2楽章がしばらく進むと、新日フィルの面々はなにか魅入られでもしたように音楽への篤い献身を始められ、以降は鳴る音が、そこに叶えるべき音が存るならば、叶えるべき仕方で叶えむ、っという風附きを帯びてくる、っそれと時を同じうして、っぼくの胸裡へも、死に支度、っその1語が印象したのであった、

3楽章は冒頭の管とハープとのコラールも、絃による主題も、死者への悲歌というにはあまりにも燦然と煌めいている、脱力し切ってほんのすこしくも勢い込まないので、音色がいささかも穢れないのだ、誰だ、一寸は汚れていてこその音楽だ、っなぞと利いたふうのことをおもっているのは、っぼくだ、

フィナーレの主部においてはキーミツの振り姿も息を吹き返したように生彩を得られるが、っそれも音楽を先導するというよりは、っむしろ音楽に先導せられるようであられた、っすべてはミューズの掌の上で踊る、踊らさる僥倖へは、煩悩に囚われているようでは与れない、演奏は、っするものであるうちはどこまでも半人前なのだろうか、っさせらるもの、神仏に糸を引かれ、手足を操られて初めて、っまともな音楽なのかもしれない、

、、、っほんの1文で済ませておけばいちばんカッコいいものを、っかかる贅言を弄さずにいられぬ憐れなる煩悩の虜囚、っぼく水野浩和である、



っさて、っお次はすぐあさって、川崎にて坂入健司郎氏の公演である、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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荻窪、




危ねえ、チェックし忘れていたが、っきょう、金山隆夫氏とカラー・フィルとの公演がある、っいま済む、日曜だというのに19:40開演、っせめて19時にしてくれればよいものを、金山氏はたしかアメリカでカリアのある方で、ったぶんその気分を本邦で再現されたいのだろう、

っついこないだ横浜で《アルペン》公演があったばかりのようにおもうが、同フィルは年間何回公演なのだろう、準備するのがたいへんそうな曲ばかりをなさるし、っお客の入場は無料、っつまり完全もちだしの興行であるわけで、っよほどか意慾あふれる人たちの団体ではないか、

テクニークも、アマチュアとして最上等ではけっしてないが、っしかしじつに一廉である、っそれはそうだ、っどんな曲でも初見である程度は弾けないことはないという練度の人が揃っていなくば、週に1度の短時間の練習でこんな頻度で大曲大曲の公演を有つことはできない、っきょうの演目はシューマン《序曲、スケルツォとフィナーレと》とブルックナー《3番》と、、、ブルックナーだけにしときなさいよ、

演奏は、っとくにブルックナーはたいへんにすばらしかった、《アルペン》のように個別声部を機能的に酷使する近代的の書法でなく、単純な音型の欝積で絶えず全奏へ向けて漸増する組み立てのこの作家なので、っまずきっちりと弾ける人たちの集団であれば、時間にして全曲の半分くらいは、プロフェッショナルに比してなんら遜色のない合奏が聴かれる、っもちろん、プロフェッショナルであれば即ブルックナーへ適したひびきがするというわけではぜんぜんないが、っきょう1楽章がさいしょのトュッティへ達すると、中規模の音場全体が完全にそれと共振し、ああ、ブルックナーの音だわ、、、っとの感歎とともに開始早々から安心し切り、批判精神よりは、曲を味わうこころのほうをより動かすことができた、っせんじつの坂入健司郎氏の棒になる名古屋フィルの合奏は、っこの実感を与えてくれなんだのだ、っきょうのカラー・フィルは、っべつに金管が抑えられていたわけではない、容積でいえば、愛知の芸文センターのほうがここよりも大きいはずである、っやはり単に音量音圧ではなく、曲にフィットする音の質というものがあるのにちがいない、

シューマンでは、スケルツォなど、っああした音を揃えづらい厄介なリズムを中音量以下でずっと鳴らさねばならないというふうだと、っどうしてもアルコの齋奏はもさもさもさもさしつづけてしまい、っぴりっとしない、っが、っより長大なブルックナーが、延々と動機をくりかえすなかにも転調の妙、逆行形のたのしさ等々と、っいつも必然の音々が連続していると聴こえるのに対し、シューマン同曲の序曲、スケルツォあたりは、っいかにも霊感に乏しいと感ぜずにいないのは、演奏が冴えないせいばかりでもなかろう、彼氏は作曲専業というよりは、音楽ジャーナリスト、啓蒙家みたような自覚であったのかな、っなにか、こうこうこうやりゃ曲ができます、お客へよろしくアッピールするかどうかは別問題ですが、っとでも云い訳しているような曲調で、っおなじようにみじかい動機をくりかえしたりフゲッタでリレーしたりしていても、っぜんぜん音楽的のよろこびを伝えて来ない憾を抱かずにいられなんだ、っその点フィナーレは、絃がたっぷりと弓を遣ってゆたかなひびきを作れる書法でもあり、っちゃんと曲の発展へこちとらの感興も乗せてゆけるようにおぼえたことだ、

ブルックナーは、金山氏のおおらかな棒によってかちこちと枠へ嵌まらずに素朴な外観で顕われる、っさりとて、見通しは抜群に立っており、1楽章からフィナーレまで一気通貫、ブルックナー《3番》とはかかる楽曲である、っと曇りなくみせられ、っおよそ有無も云えない、っずっと深遠で、っずっとうつくしく、っずっとたのしい、



っさあ、っあすは仕事のあと、井上キーミツの《レニングラード》2日目、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




ザギン、




ジョージ・ハリオノ氏の小リサイタル、済む、

事後は、っせっかくこんなところへいるんだからと、っとぼとぼと歩って帝國ホテルと宝塚と日生劇場との間を通って日比谷公園へ当たり、公園沿いに内濠へ出て馬場先門、っそこから濠内へ入って宮城前、交叉点を渡ったそこから遙拝を致す、っその位置からだと、横断歩道を渡ってそのまま正面を向いてというより、っやや北西方向へ首を垂るのが適当かとおもう、っで東京駅へ取って返していま新宿で京王へ乗り換ゆ、

演目は楽聖《テムペスト》、グリンカ《雲雀》、バラキレフ《イスラメイ》、チャイコフスキー《ドゥムカ》、ストラヴィンスキー《火の鳥》から3曲のスートで、っなんだかロンドンのヤマハ店内へもお客を入れて、っでっかいモニタで中継していたらしい、

ヤマハのこの器へ来るのもやっとかめで、HJリム女史がバッハを弾かれるのを唖然として聴いた、容積は小さく、コンサート・グランドを本気で弾こうものなら、高音は突き刺すような音がする、中音域以下の部分がつづく楽曲だとうれしく、っどんな和音も豊饒なトーンを纏っており、っぼくは2階最前列の右壁際、っほとんど壁へ頭を預けて大半を瞑目して聴いていたが、っぜんぜん睡くなる暇などない、

ハリオノ青年というのはおもしろく、っお若いくせにしてなにか一寸生硬なピアニズムの人である、っぼくがYouTubeで初めて彼氏を聴いたのはチャイコフスキーのコンチェルトだったが、っいまよりももっと坊ちゃんみたような子供の風体にして、っしかし大巨匠、大老匠みたようなピアノを弾いていられた、っさいきん検索してみたもっと近年の同曲の動画では、テムポも構えもわりとふつうのチャイコフスキーへ接近していたが、っきょう楽聖が始まると、っやはり律儀な楷書体をいささかも譲らず、ハイドシェックの音盤みたようなあんな劇物毒物でこの曲へ馴染んでしまったぼくからすると、っほとんどダサいと感ずるほどである、

聴いていると、これが主題です、ここは経過です、これはほんの走句ですからさらっと弾き飛ばします、っというふうの変化に富む語り方ではなく、っぜんぶの要素をほとんどおなじ質量で提示してくる手応えである、器が狭くよくひびくからというのもあるかもしらんが、っそのうちにぼくのほうでもようよう感覚が麻痺してきて、っどこかクセになっている、音楽を詩や物語にしてしまわず、音楽のままに据え置いている、っとでも云えばよいのか、っもっと音色を千変万化させられたってよいはずだし、っもっと繊細に感じた強弱もぜんぜんありうる、っところが音楽はいつも振れ幅が大人しく、極端な表現が絶無である、

っあれはなんだろうと思案したが、アンコールの最後に彼氏は宇多田ヒカル女史のナムバーを弾かれた、ポップスも抵抗なく聴かれている世代なのだろう、聞いたことがある、極度に機械的に整音せられたポップスの音源を日常的に聴く人の耳は、クラッシックのような自然にしてかつ極度の音圧の増減に耐えられないのだそうだ、音楽とは、ずっと同等の音圧で満たされたある時間である、っというのが彼等の生理的理解だというのである、本職のクラッシックのピアニストにしてしかしポップスの音源へも気軽に耳を貸している世代は、っもしかしたら、ppはべつに聴こえないくらいの最弱音量音圧でもよい、っというクラッシックの人にとっては旧来さして疑ってみもせなんだその感覚が、っしかしもう縁遠いのかもしれない、

楽聖のフィナーレは、っああして聴くとみごとに音階のみで構成せられたコムポジションである、っそれを、ここまではこの気分、こっからはべつのこの気分、っというふうに音色を操ったりせずにずっと1色で、幅の狭い、絶えず中音量以上がしている演奏で押して来られると、抽象的の音の組み立てのみが眼前に存り、ん、待てよ、本来これこそが音楽なのか、っと不思議、絆されもしようというものだ、

グリンカは揚げ雲雀の羽搏きや囀りに彩られた質朴な哀歌、バラキレフはビューローをして古今最難度のピアノ曲と云わしめたという名に負うごとエグゾティックな逸品、チャイコフスキーはブラームスでいえば《ハンガリアン・ダンス》、俗謡と舞踏との対比、っそして誰かピアニストがリダクションしたという《火の鳥》の〈カスチェイ、、、〉〈ララバイ〉〈大団円〉、っいずれもひたすらに音楽的たることに徹して、不健康に爛れてくる感触がしないのは、っやはり新人類があたりまえに抱懐する、音楽は音楽でしかない、っという感性の所産であろうか、っその間にハリオノ氏は、ったとえばリズムの妙をほとんどロックのようにたのしんだりされる、

っぼくはといえば、不埒にもどちらもいける口である、音楽を物語にしてしまう人、もちろんけっこう、音楽を音楽のままでいさせむとする人、おもしろいじゃないの、ってなもんで、っしかしこの後者は、若い頃には修身できていなんだ感覚かもしれない、指揮者でいえば、森口真司氏のような人を20代で聴いても、っまったくなにも感ぜられなんだにちがいない、っが、っさいきんではむしろ冷徹な音の差配のみがずらずらと行列する指揮者のなかに稀有なるものをおぼえる傾向にある、っもちろん大半は無趣味な愚図ばかりであるが、っそうさ、カーチュン・ウォン氏なども、っあれほど多彩な語法を具えた名匠であられるが、っしかしどんなにあれこれとイディオムを撒き散らされても、彼氏の演奏からある具体的の物語を感得することはない、っただただ音楽が流れてくるっきりであり、っそれをぼくは眩しい健康美と受け取っている、

っあるいはまた、カーチュン氏でいえばシンガポールの楽天人といった風采もその音楽造形に寄与するところ大なるにちがいない、っそこへゆくとハリオノ氏にしても、ロンドンっ子でいられるのかな、っけれどもお名もお顔の造作ももろにラテン系で、っそうしたルーツと現代人としての性向の妙なるケミストリーとというのが、っぼくの勝手な仮説である、ドイッチュ浪漫主義を腐すわけではけっしてないが、っかかるきっぱりと竹を割ったような健康人たちの音楽へ触れるにつけ、かんがえ深そうに演奏することがかんがえ深い音楽を生むゆいいつの道ではけっしてない、っと唸らずにいない、っぼくは、っまずぼく自身が心身の健康人で存りたくおもうし、最後には恆に、健康でないよりは健康である音楽へ軍配を上げたいのである、



っところで、井上キーミツのきょうの《レニングラード》であるが、っこれもまた、味到し盡された曲想を衒いなく謳い上げられる、っまことに音楽的の一幅であった、

彼氏がこの作家のオオトリテヱといっても、15曲もあるシムフォニーのすべてが同格の高みへ達しているとは云い切れないのじゃないか、特定の曲でいえば、他の巨峯の影がちらつくということもある、ったとえば大阪フィルとの音盤に聴く《3番》はスメターチェクに遠く及ばないし、読響との《9番》を聴いているときにはスピヴァコフの音盤のすごさをついに忘れることはできなんだ、《10番》も、楽団に音色の趣味がなく、非音楽的の音場での演奏であったN響との機会よりも、っむしろぼくは日本フィルとの公演がざんねんで、高度のオーソドキシーを示さむとする指揮者の志向性は、日フィルという楽団がこんにちにおいて到達しているある特有のアンサムブルの妙を活かすうえで、最善の方途とは云えない憾みを遺したとおもう、2楽章など、っあそこまで急ぐ必要があったのかといまでも惜しい気がするし、1楽章がおおきなスパンで漸増してくる経緯にしても、時間時間へ留まるまいとする潔さは、っむしろ演奏全体を平凡にした嫌いがないとしない、っそれはN響とのときもほぼ同断の印象であった、っこの曲についてはロズージェストヴェンスキー氏の最期から2番目の来日の機会が忘れむとして忘られるものではなく、っあれだけアレグロだろうとどこだろうと全曲これ滔々と沈潜してゆきながら、っしかもなお酷烈な体制下を具体的に物語るなどという愚とはおよそ無縁で、いつもただ丁寧至極な音楽的処理が存るっきり、っというその巨大な屹立はまったく異様であり、読響の謹直な合奏とすばらしい音質と、っそしてあの賑やかな終結に似合わしからぬ長い長い沈黙の涯ての大拍手とが音盤として後世へ遺ってもおり、っもちろん、っそれへ正攻法でチャレンジしていけないわけはないが、相手が化物ならば、正攻法もまた化物クラスでなければならない、

っきょうの《レニングラード》にしても、全曲冒頭から大団円へ至るまで、っもっとどっかと腰を落としたものものしい雰囲気と、暑苦しく凝集した合奏とで進行するのであっても、っというよりもまずはそのほうが、っじつはぼくの所望である、っがじっさいには、っむしろ淡々としているくらいだ、1楽章の戰爭主題部にしても、周到にプランニングせられた漸増であり、胸突き八丁においてようやく涼しさが吹き払われる程度である、新日本フィルは、日フィルなどからすると隙間風が吹くか吹かないかぎりぎりのやや心許ないアンサムブルであり、っもっともっとパート間でこころが通い合ってよいはずだ、っが、っほとんど枯れたようにも聴こえるその端然たる佇まいが、っぼくはけっしていやではない、2楽章も沈み込むよりは踊らむ踊らむとし、3楽章も木管といい絃といい音色は冴え返り、意想外なほど深刻から遠い、フィナーレも厄介至極な変拍子を眞率に熟してゆくその手附きが、っちょうどハリオノ氏が与えたのと同様に、音楽でしかない音楽、ただ音楽である音楽、っとの印象を結ぶ、っいったん進軍を止め、勝鬨を控えて停滞する段におけるとくに絃各声部の動き、和声に連動する音色の拮抗は、っもはや楽器の物理音を聴く感覚ではなく、これはいったいぜんたいどこの世界から吹いてくる風であろうか、、、っという驚異と動揺とを嘗めた、っそこにはただ《レニングラード》という楽曲が、ショスタコーヴィチという人間が、何色にも塗られずに存ったのである、《10番》においても、キーミツが達せられたかったのは、っこういうことであったのにちがいあるまい、

っあさっては、っというかいままた聖蹟の駅の喫煙スペイスで日附を跨いでしまい、っもうあすだが、サントリーというより好音場へ遷って、新日フィルがもうすこしく伸び伸びと弾いてくれ、っよりすばらしい精華を達してくれると信ぜずにいられない、っそれがキーミツと同フィルとのお別れの機会である、



っところで、っもうきょうは帰って睡るだけだからもうすこしく、コバケンさんと日フィルとの大宮での《シェエラザード》の動画が配信せられたので購入して録画し、っきょう音声をiPhoneへ遷してきた、前プロはたしか小山女史とのラフマニノフで、っほらこないだ高木氏と演奏されたばかりでしょっちゅう演られているわけだが、っこんかいは同曲は配信へは乗らず、

っそのリムスキー=コルサコフ、音質が致命的に鈍くてまるで聴けない、サントリーでの日フィルはあんなにも剛毅な音塊が好い音質で録れているのに、っこのtvuchの音声は、カメラのマイクが拾った音なのだろうか、っそれとも音声は別にマイクで録り、動画と同期せしめているのだろうか、っわからないが、っおそらく、会場で聴けば、日フィルはいつものようにとても勝れた音を発していたとおもう、っが、っこのラウドネス比がくっちゃくちゃのへぼ音声ではぜんぜん音楽的の感銘が得られない、

コバケンさんはといえば、っこの一大音絵巻からしかし動勢という動勢を奪い去ってしまわれ、《シェエラザード》という曲を聴きたい人からすれば、曲を殺す棒だ、っと怨み言を云うだろう、っぼくはどちらかと云えば《シェエラザード》などという曲はどうでもよく、コバケンさんを聴きたいので、っこの梃子でも動かぬ剛直な足取りと、日フィルの泰然たる合奏と、っそれでいてご勇退後もご健在のバス・トロムボーン、中根氏のばりばりいいすぎるアンバランスなどが快い痘痕となって、これがいつものようにサントリーで録られた音声であってくれたら、なかなかの成果となったろうのに、っと長歎息である、

日フィルは、サントリー2公演の定期は、指揮者がいやだと云いでもしないかぎりは、ったぶん全公演が配信せられている、っそのほかに大宮、サントリーとか、サントリー、桜木町とか、大宮、桜木町とか、初台、桜木町とかのときも、っばあいによっては配信がある、っこのへぼ音質を聴くかぎり、っその際にはぜひとも大宮での公演収録は避けていただきたい、キーミツとの桜木町でのショスタコーヴィチを聴いても、サントリーと桜木町とでも、後者の音質は落ちるようである、っこのあとぼくは、インキネン氏のサントリー、桜木町のうち前者へ行くし、来年にはカーチュン氏の大宮、サントリーでのマーラー《5番》を両とも聴く心算でいるが、っこれらもサントリー公演が配信せられればうれしいところである、



、、、日曜2時前、帰ろ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)