ギロッポン、 | ざっかん記

ギロッポン、




、、、っところで、っぼくはサントリー行の際はいつもギロッポンギロッポン云っているが、っおなじように公演の呼称を器の所在地をもって云いたがる向きでは、ったとえば渋谷、NHKホールのことは神南、っそしてここサントリーは溜池と云う人がおおい、っぼくは溜池山王駅を利用することは滅多になく、最寄はむしろ六本木一丁目駅ではないかとおもうのでそう書くが、っしかしきょうのように自室から器へ向かう際には、赤坂見附経由でほんの1駅、前者で降りるほうが、運賃といい往きよさといい好適であり、っきょうはさようにす、っでもまあ、っいつもの習いだからギロッポンと掲題しておく、

ピエタリ・インキネン氏の棒、日本フィルで、神尾真由子女史を招いてグラズノフのコンチェルト、っそしてシュトラウス《アルペン》である、

グラズノフでもうはやノック・アウトっ、ソロ、オケともども、っなんたる精妙を極めた奏楽であるのかっ、

カーチュン・ウォン氏の同フィル、プリンシパル就任披露のマーラー《3番》の配信動画から音声を抜いてくりかえし聴き、YouTubeで著名指揮者と欧州の名門との同曲演奏複数と比較している旨、っいつかに云ったが、個々の技倆のポテンシャルとしては、ったしかにこんにちにおいても我が国の各楽団は彼の地彼の地の各スーパー・オーケストラに及ばないのかもしれないとしても、っなんというか、奏楽の謹直さ、折り目正しさにおいては、日本人の特質が一長も二長もあり、っぼくはそれがうれしく、愛おしい、現に、っその際にも云ったことだが、カーチュン氏のそのマーラーを聴くと、日フィルの点画の整え方はヴィーンにもベルリンにもコンセルトヘボウにもどこにも敗けず、最も丁寧で、同国人としての贔屓目ということじゃなしに、っほんとうに日フィルの音がいちばん勝れていると聴こえる、マーラー《3番》の音源は世界でたったひとつっきり後世へ遺せません、っと云われたら、っぼくはいっさいの躊躇なくすべての名門名門の録音録音を喜捨し、カーチュン・ウォン/日フィルのみを遺す、

っそんなわけで、っあれこれとそれらの名門が来日しても、っいまもむかしもぼくはほとんど食指を動かさない、っだって、っそれらの演目演目はおおくのばあい音盤で望みうるわけで、最後の最後には指揮者の表現が突き抜けに突き抜けて突き抜け切っていてくれなくば音楽というのはつまらないのでもあり、近年に有名を恣、、、ほしいまま、っね、恣にした誰だ彼だの超有名人を念頭へ浮かめてみても、っではそのなかへ眞に決定的の天賦天與の才覚の有ち主が存るかと問わるならば、っすくなくも音盤から判断するかぎりにおいては、っべつにみなただの一個一個の音楽家、一個一個の人間にすぎず、この人へはもはや批判精神の刃を向けてはならない、比較を絶して遙けく聳え立っている、っなどというめっちゃくちゃのぐっちゃぐちゃのあほみたようなばかみたような存在感の人はどこにも、っただの1人だっていやしない、っこの文脈で本末転倒で恐縮だが、っともかくオーケストラの演奏というものはつまるところは指揮者の表現に勝れる勝れないが問題であり、っそれっきり問題ではなく、楽団がスーパー・オーケストラであるかどうかなどということは、手段のひとつではあるにせよ、目的ではぜんぜんない、

っもちろん、っじっさいに聴けば、鋭敏な音感の指揮者とスーパー・オーケストラとのタッグならば、っおおきにこちとら舌を巻く妙技が連続し、唖然とさせらることも多々あるのにちがいなかろうが、っそれが即、音楽的の感銘であるかは保證のかぎりではないし、っきょう日、我が国のいくつかの楽団が絶好調を示した際には、敢えてどこそことと較ぶまでもなく、優にそのスーパー・オーケストラとしての貫祿を示しうるのではないか、っそしてそれは日本の、日本人としてのスーパー・オーケストラなのであって、っいまでも日本人の音感やリズム感を指してそれが西欧から落伍するか、っすくなくも相違することを論い、矯正に努めよ矯正に努めよ、日本訛りで西洋音楽を喋るな、っと云う声はすくなくないが、っぼくからすると、それのなにがどうそんなにいけないのか、っとおもわずにいない、っよしんばそれを直して西洋流に西洋音楽を語りうるようになったとて、っさようのニュートラルな奏楽でではどのように、ほかでもない日本人が演奏しているのだっ、っとの沽券を示しうるというのか、ライス・カレーはインド料理でもイギリス料理でもなく日本料理と成り遂せてすでにして久しい、っそれとおなじに、日本流にすこしく転訛してしまった西洋音楽をしかし、っぼくらはほんとうに謳歌していけないのだろうか、

っこれを高額切符を滅多には購えない人間の僻み根性と取られてもぼくはいっかな気にしないが、ボッセ氏然り、フルネ氏然り、アツモン氏然り、っあるはスクロヴァチェフスキ氏のような人にしても、っそのカリアの終末の重要部分を本邦に置いてくれた歴々は、拝察するに、日本の人たちの音感て、一寸われわれとちがうんだけれど、でもそれがなんとも云えずよいわあ、、、っとの素朴な実感をどなたも懐かれていたのではないか、っもちろんのこと西洋人とて一枚岩ではなく、日本人の音楽の語り方に愛着を有ってくれる人もいるのだ、っそんなの所詮マイノリティでしょと云いたい人もいるだろうが、、、っまあここのところは永遠に埋まらない溝であろう、っともかくぼくは、日本人がこれから先いかに西洋音楽の語法への能うかぎりのキャッチ・アップを達したとしても、どうしてもどこかへ日本人らしさが遺存している、っという状態こそが望ましいとおもっている、

、、、っなにを独りしてアツくなっているのか、っそうグラズノフだが、中弱音以下で這い入ってくる日フィルのアンサムブルの色、雰囲気はいつもながらぞくぞくするほど優婉柔和であり、っかつ無類のシャープネスを有って客席のこちとらへ最大限の神経の集中を要請す、っその緊張はぼくにとってぜんぜん窮窟ではなく、っむしろオーケストラを音場で聴くにあたっての最も快い瞬間である、演奏会の開幕から早くも、彼等の音は現実の楽器に発音可能な物理音であるよりも、っもはや異界から夢魔夢幻を連れて来る、

オーケストラが、っまあなんと云えばよいのかある種のゾーンへ入ったときというのは、っほんとうにすべての声部が完璧なバランスで顕われるものである、っきのう京都市響を聴いていると、っけっしてわるくないアンサムブルだったが、っそれでも、もっとトロムペットがこうならよいのに、ホルンがこうならよいのに、ティムパニがこうならよいのに、ハープがこうならよいのに、っとわずかずつわずかずつ註文を附けたい気がするものである、っそれがきょうの日フィルは、綜奏の概観もさることながら、っほんのグロッケン・シュピールとかほんのハープとかのごくごく細部へ至るまで恆に、そうだっ、その音のつよさ、その質感、その存在感こそが慾しかったのだっ、っといちいちこちとらをして膝を打たしめる奏楽が過たず立ち現われ、っそれが驚異的の精度を有って連続してゆくと、っいつしかぼくらはオーケストラの存在というものを忘れてしまうのである、

ソリストを招じ入れ、楽器を殖やして漸増しても全体はなにかさようの一個の生命体のごと蠢き、曲調はいわゆるコンチェルトコンチェルトした結構とはだいぶん様相が異なるが、っこちとらひたすらに、好い曲だなあ、、、っとうっとりと聴き惚れているのみであり、ソリスト、指揮者、オケ、誰の存在もいっさい感じない、全員の全霊が、っただただ楽曲へ奉仕せられる、草葉の蔭でグラズノフも、っおおきに感泣に咽んだことであろう、

っいちおう3楽章制の作ではあるとのことだが、っじっさいには全体が接続曲様の長大な単一楽章と聴こえ、っまんなかへカデンツ様のところがある、神尾女史の奏楽は、桜木町でコバケンさんとのモーツァルトを聴いた際にも、ほんの1挺のヴァイオリンがこんな大音場でこんなにもゆたかに鳴るものかしら、っとこちとらの目を瞠らせたものだが、っきょうもおなじ、強弱硬軟すべてがどこまでも自由自在で、っしかも音楽そのもの、ソリスト・アンコールのパガニーニにしても、宵闇に悪魔がからからと笑っているその笑い声を聴くようで、っそこにヴァイオリンという楽器は存在していない、っそれがしかしヴァイオリンという楽器にのみ可能な音である、っおよそ音楽というものは、っそこまでゆけてこそ初めて本格の本物であろう、

トロムペットが新しい主題を吹くところからがフィナーレなのかとおもうが、緊迫せるトュッティとソリスト、っおよびオケ各個別声部が悩ましい歌を集わせる部分とが無碍に交錯し、魅惑され通しのうち、視界が泪で濡れてきてかなわない、鳴っている音の音圧や色調が、烈しく凝集したりふと脱力して虚空へ漂ったり、っそれが波状的に襲ってきて、っしかも最後の最後まで、いやなに、まだぜんぜん余力ありますけれどね、っと涼しそうな貌をしている、っや、っけっして音楽を小手先へ流しているのではなく、全霊を賭しながらにして、全員がプレイヤーズ・ハイみたような状態へ入って無敵の様相なので、っそこに泣けてきてしまう、



《アルペン》においては、インキネンという人の特別特級の唯一性をまでおぼえたか、っと云われればそこは留保するとしても、っぼくにしてみれば上岡敏之氏との演奏を聴いて以来の日フィルの同曲であり、感慨も一入、っあれだけ膨大な編成となってもやはりすばらしいアンサムブルは変わらないが、ったとえば、登山中に聴こえる狩の角笛は、っもうすこしく猛々しく聴かされたいとおもったところ、終演後に舞台上へ答礼に呼び出されてみると、ホルンはわずか4名のみでいられる、シュトラウスの記譜の所望はたしか11本であるはずで、っここは採算度外視でそのとおりの陣容で臨まれたかった、

っけれども、登頂の大音響はじつに胸の空くパノラマであり、っここでも全力を振り絞りながらなおいまだゆとりがありますというその日フィルの勇姿が眩しい、

っぼくはシュトラウスのよい聴き手ではないのかもしれないが、っこの《アルペン》は演奏時間といい曲想の変転の経緯といい、っここちよいヴォリュームで、っだいすきな曲である、っそれはちょうど、ヴェルディのオペラにはなかなか馴染む機会を得られないが、《ヴェル・レク》はうれしく聴いていられる、っという事情と肖ている、



っさて、っお次は木曜、っいよいよジョージ・ハリオノ氏のコンチェルト公演、青年が颯爽とコンチェルトを弾きのけましたという以上に、っなにか、え、なにその音楽性、、、っという奇異なカンジを期待してしまっているのだが、購いかむりだろうか、っほんのすこしくでも、変態変人の成分をみつけられればうれしくおもう、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)