上岡敏之氏の棒、新日本フィル公演初日、済む、演目はモーツァルト《39〜41番》であり、っこの順に演って、《40番》のあとに休憩、
半日日帰りの名古屋行が祟り、っきのうは睡くて睡くてかなわず、っぼくは聖蹟別棟で複合機の脇のデスクだが、野帳くんからも、3回くらいコピーとりに行きましたけれど、3回とも水野さん睡ていましたね、っと笑わる、
っいつもみたように20時だ21時だまで仕事をしていないで、18時ころで疾っ疾と、、、疾々と、っこの書き方でよいのかなあ、とっとと、っね、ったぶんよいんだろうな、疾は疾走の疾だが、早いないし速いの意で、訓読みで形容詞、疾し、>とまれかふまれ疾く破りてむ、、、ともかく早く破ってしまおう、>おもへばいと疾しこの歳月、っの疾し、、、っさいきんでは学校でも《仰げば尊し》を唄わないんだってねえ、教員への敬意を強要しているからってんだが、バカ云ってんじゃねえよっ、ってなものだ、折角のあんな名曲を、、、っそれこそとまれ、疾々と退勤したが、先週のコバケンさんの日本フィルとの公演の配信動画を購入し、キャプチャで録画していて、作業着姿、整髪料を附けたままで、頭の後ろへ両手を支って睡てしまう、目覚めるとラフマニノフとブラームスとが済んで、コバケンさんがマイクを持たれて終演後のスピーチをされているときで、動画が終了したら録画を停め、っちゃんと録れているのかなとデイタを再生し始めると、っただその確認のみの心算ですぐに停めるはずだったのに、っなかなかに入魂の演奏で、っつい全編を観ていてしまい、っつまり公演全体を2巡再生したわけで、シャワーのあと、っけっきょく睡たのは3時すぎだとかになってしまう、動画はクラウドに保存し、音声を抜いてiPhoneへ遷し、っさっそくにインナー・ヘッド・フォンでじっくりと聴いてみているが、コバケンさんはこんにちなお、っわるくすると情念が空回りし、物理音としては不如意へ堕するリスクと無縁でない人だが、今公演については、っやはりなかなかのものであったようだ、っこれについてはまた別項を立てるとせむ、
っそれできょう、午前までで退勤し、仕事中はぞんかいしゃっきりしていたが、不規則にっきり睡ていないので、公演中の睡気を惧れて京王でもJRでも立ったまま睡ているようにして、果たしてちゃんと覚めて聴いていることができた、
錦糸町大器は、ったしか2千席へ足りない音場だが、っだのに、2階正面では、っよしんば最前列であっても、聴覚的にも視覚的にもすでにして舞台が遠いのが難だ、バルコニーはあるが、周知のとおり2階も3階も1列縦隊っきりと席数僅少であり、っよってここを本拠とする新日フィルの定期相当の公演でははなから会員に全席が押さえられていて、一般の人間では求むべくもない、切符を売り出す以前から最良の音響条件での鑑賞は叶わないとわかってしまっていることは、っすくなからず同団から客足を奪っているのではないか、っきょうはモーツァルトなのでなおのこと、2階右翼バルコニーを前方へ寄った位置で聴けたならばどんなにすばらしい音響を見舞わるか、っとそのあたりのお客連が羨まれてならなんだ、
、、、っく、っまたここから先、っだいぶん書いたのがなんか知らんが消えた、っなんだろうねえ、公演事後、器の前の道を隅田川まで歩き、川を渡って浅草橋で王将へ入り、っいま、聖蹟まで戻ったが、書き切らないのでカッフェへ入らむとして、スマート・フォンの画面へ触れた状態でそれを握るなりしていたのかなあ、っそれでたまさかざーーーっとデリートしちゃったとか、っこういうのは一種のライヴで、魂すりへらさないと書けないんでねえ、っまとまって消えられると、皮膚でも削がれたような痛みだ、っほぼ同様の文脈をこれから気合いを入れて再現するが、一言一句おなじ文は帰って来ない、っおそらく、あの語彙語彙の連なりが我知らず快かったのに、、、っという落胆を幾度か嘗めることとなるが、っともかく気合いを入れて、
具体的にしかじかの演奏とはまるで想像できないにせよ、っかならずや不可思議なモーツァルトをぶっつけてこられるだろうと信じて疑らずに来場したが、っまさしく、特異な感触がすべての時間を一貫していた、
絃の規模は12型だが、バスは1挺殖やして5、並びはストコフスキー配置で、原則としてノン・ヴィブ、人によってはときおり習い性でつい音を揺らしてしまうという程度、リピートはすべて行なっていたが、っなんだかよのなかには再現からコーダまで行ってもまた再現の頭へ戻ってもういちどそっくりコーダまでくりかえすという演奏もあるらしく、流石にそれはしていない、っだから提示のみリピートということか、音量はどこまでも倹しく、人によっては、っちゃんと音量を出せていない演奏と誤解したかもしれない、っがちがう、出せていないのでなく出していないのであり、出すまいとしているのだ、
《39番》ではさまでにそれへ気附かなく、っあすはその心算で聴いてみねばならないが、《40番》もメヌエットへ至ると、以降、レガート多用のフレイジングが散見せらる、大膽にして不敵なるバロック・シュピールへの背信だが、モーツァルトは時代区分としては古典派へ属するのか、っいずれ、っその勇気を全面的に購いたい、
っそのメヌエット主部はしたがって、ピアノでいえばペダルをしっかりと踏んでいるようなものであり、ポリフォニーを演じつ、っかつ声部声部が融け込み合う複雑な色調は、後半のみじかいラグでの動機のリレーにおいてはなおのこと、気が触れてしまうばかりくるしいトーンを発散す、
棒はいつもいつも先へ先へと行っている、左手はほとんどずっと指揮台背面の背凭れを握られたままで、拍から表情からすべて棒のみで振られているのが印象的だ、っそして、っどんなにおもいを籠めたいところでも、音々へ留まることをけっして潔しとせず、停滞し、濁った発色へ意味を求め、っその音へ後から附いてゆくという愚は犯さない、っむしろ、っちょうどせんじつの札響とのブルックナー《9番》スケルツォのトリオが好例であったように、努めて同一のテムポを維持し、浮遊せむばかりのかるいかるい発音も、絃のG線やホルンの低音域といった唸るような音色も、音価が同一であれば領している時間はおなじだ、っとばかり、っいっさいがさばさばと見送られてゆく、附点リズムひとつをとっても、丁寧に処理せむとするあまりにかえって音楽へ手垢をなすり、モーツァルトなる天衣無縫の首へしかし輪を嵌め、羽搏くこと能わぬようにしてしまう、っというのでない、っかかる上岡氏一流の稟質が、っむしろぼくがなかなか彼氏の演奏を眞っ正面からキャッチしえなんだ所以でもあるだろう、誰しもまず、丁寧に、几帳面に演奏せられた音を聴きたいのである、上岡氏の音が丁寧ではないといったら多分に誤解を生ずるが、余人がおもう丁寧と彼氏のそれとの間には巨きな隔たりがある、っと云えばそれも解消さるはずである、
附言すれば、っこれもせんじつのヴァイグレ氏と読響との公演に対して、あたかも明瞭な全体の見通しのために瞬間瞬間の感動がひたすらに等閑にされるかのようだ、っとの不同意を述べたが、っきょうの演奏だと、っあっさりと語られれば語らるほど、ほんとうはすべての音をこころゆくまで噛み締めたいにちがいない、っとこちとらでひとりでに同情を惹起せしめてしまうようで、音が去ったあとへ、彼氏、上岡氏のその満腔の未練が漂うかの錯覚さえおぼゆ、ヴァイグレ氏を擁護したい諸賢からすれば、そんなご都合主義があるかっ、っと憤られることだろうが、演奏とお客一個一個との関係というのは、っえてしてさようのものにちがいない、っほんのタッチの差で、不同意にも転べば手放しの絶讚もありうるのである、
モーツァルトも後期となると、書法はあくまで単純なままだのに、緩徐章あたりつい一寸3部形式程度では済まず、え、まだ了わんないの、っという冗長を感じたりもするものだが、っそれもつまりは演奏の責めなので、っきょうのように色調、軽重の如何に依らずいっさいの音を均等な時間の裡へ浮沈せしめる棒によっては、結果として、音楽が発展し、終息するまでの経緯を一望の下に鳥瞰するを得る、
《39番》のメヌエットは、トリオのクラリネットが出色のたのしさ、っずっとリズムを吹く2番におもい切って音量を出させ、1番の主旋は溶けて消えてしまいそうな最弱音、
フィナーレは、っさいしょのVnの主題がフォルテになってもぜんぜん爆発せず、っなんならffよりはmfへ寄ろう寄ろう、、、モーツァルトの記譜にはffもmfもないだろうが、っとしており、不健康の人、上岡敏之の面目も躍如である、っいっぽうでホルンはごつごつと硬い吼え声を上げ、ティムパニもまた硬くちっちゃな頭のマレットであり、っこれらがトュッティの覇気を担うのであって、トロムペットはどこまでも抑えられている、中音量がフレイズを追う毎に弱音へ弱音へと吸い寄せらる危うさは道中へもたびたび現われ、スリル満点、気附けば掌へ汗を握っている、っこのフィナーレや《ユピテル》の同章はきっとさようの手応えを出してくるだろうと踏んではいたが、細部細部のアイディアの豊富については、っとてもとてもこちとらの予想の及ぶところではない、
《40番》はクラリネットを欠く版、っそのせいもあるし、冒頭の主題からVnの歌へ浸る気はさらさらないので、無慈悲の風に吹き曝さる、2楽章もその延長線上かとおもっていただけに、メヌエットでのレガートにはじつに意表を突かる、っすばらしい裏切りであり、フィナーレへもこの意匠が持ち越さる、音価がみじかくなれば立てむとせずとも輪廓が立ってくるのが自然だが、長い音符のみならず、細かい音型でも音を寝かせむ寝かせむという意志が発露しており、っほんとうにへんてこなセンスである、
っいちど気が附くと、気が附くとというか、《40番》後半楽章では無視せむとしても誰しも気附かざるをえないほど放埓にそのレガート趣味が発露したので、《ユピテル》が始まって以降も、っこちとらその趣向へは敏感に反応せずにいない、っもちろん、彼氏のこの意匠はいまに始まったことではなく、従前からたびたび聴かれたものだが、っまいどながら、その音は100人中99人までがふつうに跳ねる音にするよな、っという音もさもとうぜんとでもいうように寝かせ寝かせてゆくので、四の五の云わずに、っもう附き合ってしまったもん勝ちだ、
中間楽章についても云うべきことがあった気がするが、忘れてしまった、っまたあす、注意して聴くとせむ、フィナーレは、例のコーダのみならず、CTスキャンでもしてでかでかと展げてみせるごと、全体がポリフォニーとして鳴る、っここでも足裏が踵まで接地してしまう瞬間はほんの片時もなく、始まったが最後、っついに最終音まで、爪立ちのまま駈けてゆく、翔んでゆく、停まってくれないその音々のすべてを遺漏なく聴き届けることは、っぼくみたような動体視力の鈍い人間には至難中の至難である、いまどんな音だったろうか、っなどと振り返っていては、っそのうちにもう次の音もそのまた次の音も飛び去ってしまうのである、
っさて、っあすも午前のみ仕事をしてから、、、っあ、着て行く服がないわ、帰って洗濯せんと、