ざっかん記 -14ページ目

大井町、




井﨑正浩氏の棒、品川区民管公演前半、済む、

っゆうべ2、3時間っきり睡ず、直前に3杯も酒を呑んだにしては、っまずまず目覚めていたほうか、ヴェルディ《シチリア島晩課》序曲、チャイコフスキー《カプリッチョ・イタリエン》で、っより聴いていた記憶が長いのは前者、後者も、半分くらいは聴いたとおもう、

駅直通の中規模器だが、っほぼ満席の盛況、っいわゆる多目的ホールであってトーンは相応のどんしゃり加減、オケのテクニークはまあよくあるアマチュアであり、音楽性を云々しうる水準ではない、

っそれでもチャイコフスキーの各主題は能天気なイタリィ気分でほっこりとさせる、

後半はドヴォルザーク《新世界》と定番だが、プログラムによると井﨑氏の造形はフィナーレの冒頭部分が独得だとのことで、聴けずにしまうのは惜しい、

っさて、っまもなく新橋、ハリオノ氏の小リサイタル、コンチェルトっきり聴かないのでは片手落ちとおもっていたので、っこれはどうしても来たかった、っほどよくアルコールも脱けてきたか、休憩なしの1時間前後であるから、っこころして目覚めているとせむ、頰っぺたでも引っ叩いてね、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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錦糸町、




井上キーミツの棒、新日本フィルで、ショスタコーヴィチ《レニングラード》初日、済む、

っこのあと、18:30から大井町で井﨑正浩氏の公演であり、前半のみで失礼して、20時からザギンでハリオノ氏のリサイタル、大井町では降りたことがなく、王将があるようなので、公演前に食事せむとて移動中、ったっぷりと余裕がある、

今週はおとついさきおとついと、風邪で欠勤す、先の土曜ときょうとうちの会社では、中東などへも出向いて手広く発掘調査をされている旧石器がご専門のどこかの大学の先生を招き、3D実測の講習を受けている、日本ではその道の先学でもあるとのことである、現場ではiPhoneへ特定アプリケイションを落としてデイタを採り、事後、PC上でフランス人の手になるというフリー・ソフトでファイルをいじる、先週が前者、っきょうが後者の使用方法の座学で、人足人事ボスから、水野くんもとうぜん出るよな、っと云われ、っもちろん出たかったのだが、云われたときにはすでにして金沢行もきょうの演奏会予定も入っていたので、平日にやってくれたらよかったのに、なに云ってんだ、土曜はヘイジツだよ、っなどと軽口を叩き合って、っしかしほんとうにざんねんであった、っもちろんレジュメは作成せられ、講習の模様も動画に収録、社内共有せられるので、キャッチ・アップは可能だ、っその講習に使用するデイタが慾しいというので、火曜の午后、人足人事ボスとぼくとで2台車を出して、っいまうちが日野でやっている子煩悩ボスの現場へ6、7人でぞろぞろとお邪魔し、っあれ縄文なのか古代なのか知らないが、多摩川の氾濫以後の掘鑿だから古代なのかな、土坑1基の3Dデイタを計測してきた、っそのときになにかよくないものを引き受けたのかもしれない、聖蹟別棟へ戻ってから喉がいがいがし出し、っまずいとおもって帰宅後に温かいものを食べ、熱い風呂へ浸かって睡たのだが、翌朝も違和感はつづき、っしかしあの程度であれば以前のぼくならば出勤してしまったところ、っげほげほやっていて周囲から白眼視を受くのもなんであり、大事をとって休んだ、っするところ、っその日中からもろに発熱を来たし、木曜のあさにも引かず、丸2日臥せっている、っきのうにはどうとか復調、出勤したが、っきょうは、午前半日であれば講習を受けられないじゃないが、っそんな偉い先生のレクチャーへ出席しておいて半どんするというのも非礼に当たろうと敬遠していたところ、っその火曜の日野のときに、べつに大丈夫だから出ろ、っと云われたのできょうはあさから聖蹟本棟へ出向く、当のiPhoneアプリもフリー・ソフトも今夏の世田谷中学校現場のときに触っていたのでごく基本的の勝手はわかっており、っそれに加えて3次元点群デイタに対してフリー・ソフト上で行ないうる処理のあれこれをごく端的に教わり、っじつに得るところがおおかった、っというよりも、デイタは座標系中の点の集合なので、っそれに対して為しうる操作はもとよりおよそ想像の裡であり、ソフト上のどのタブ、っどのアイコンが各操作に対応しているのかが知れさえすれば、っあとはこっちのもんである、っもっとも、受講以前以後を通して、目下のところ、っこの実測法による作業効率の改善は、劇的とまでは云えないというのが佯らざる実感だが、っそこはぼくごとき文系雑魚が四の五の云うよりもザ・理系人間たる自-自先輩のご炯眼に俟つとして、彼氏と顔を合わせる度に、3Dデイタどうやって活用しています、っと訊いてその顰みに倣えばよいと高を括っている怠惰なぼくである、

っそれで午前のみ仕事をして聖蹟から錦糸町へ移動、っいま、大井町へ遷って、、、っいかん、王将とおもっていたのは大阪王将か、っしくじった、っいま、初めて同店へ入り、3杯ほどアルコールを呑む、

っゆうべは金沢、西宮行時にやり損ねたiPhoneのiTunesとの同期をやっていて、PCがフリーズしやがったりしてなかなかうまくゆかず、4時すぎくらいまで起きていてしまう、っそのわりに公演中に睡くならなかったのは演奏の力かもしれないが、フィナーレの主部へ入る前の静かなところでほんの30秒か1分間ほど、瞑目して聴力へ神経を集中していると睡魔に隙を突かれてしまい、生来鼻がわるく、っなお風邪の病み上がりと来ているぼくは、っそこで不覚にも、すぴー、っという鼻のノイズを発してしまい、いかんいかんっ、っと自分のノイズで目覚める、周囲のお客にはすまないことをした、公演中はいっさいのノイズを発しないというのが、っぼくの格率である、っそれは聴覚的のものにとどまらず、視覚的にもである、っだからぼくは、演奏中は姿勢もいっさい変えない、演奏前に定めた姿勢を、っその楽音が鳴り止むまでは努めて維持する、不意に顔のどこかが痒くなったりするが、1、20秒我慢しているとぞんがい収まるものである、周囲のお客がふと身体を動かしたりすると、ん、どうしたのかな、っとそちらへ気を取られているうちに、あ、いけね、大事に聴きたかった音を聴き逃しちゃったや、っということがあるものである、己の慾せざるところ人へ施すこと勿れ、っぼくは誰か周囲の人へそういうおもいをさせたくない、っもちろん、周囲の人がそのようだからといって、無闇に腹を立てない、人間いろいろ、っよのなかデリカシーのない人もいてとうぜんである、

大阪王将、っなかなかの美味、っちょくちょく寄ってもよいかもしらん、

っさて、っふだんは2杯と定めているのを3杯も呑んでしまってややくらくらとす、っいまは路地裏へ隠れて喫煙中で、っまもなく井﨑氏公演開演、

っいったんこれで上げちゃおっかな、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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西宮、




カーチュン・ウォン氏の棒、兵庫芸文センター管で、マーラー《トラギッシェ》、済む、

っあさはおもったとおり、っつい温めただけですというのじゃなく、っその場で作りましたという朝餉を供さる、っごく質素なものだったが、っそれでよいのである、っおそらく支配人なのだろう、昨夕チェック・イン時の受附をしてくだすった初老の男性による配膳になり、バーか喫茶室みたようなカウンター越しの応対で、っその時間はたまさかぼくっきりいなかったこともあり、っややあって、ことしは降るでしょうねえ、夏も暑かったし、っと世間話を振られる、愛想笑いのみでは非礼にあたろうとおもい、ぼくは東京なのでわかりませんが、相当積もるんですか、っと返すと、そうですねえ、1晩で2、30cmは積もりますよ、っとのこと、きのうはぽかぽかしていてきもちよかったですが、っと言を継ぐと、11月の終わりころになると曇りの日ばっかりで、何月もきのうきょうみたいに晴れる日がないです、ずーーーっとどんよりしたまんまで、それは憂欝ですよ、っと永年の実感を籠めておっしゃる、北欧みたようなふうなのかなあ、っとぼくはおもう、行ったことないけれど、

チェック・アウトして、っすぐのところへあるゆうべも寄ったコンヴィニの広い駐車場へ灰皿があり、っそこで何服かしてまた金沢の駅まで30分ほど歩き、割引の切符で新幹線で敦賀、敦賀から在来線の特急で大阪、っそして阪急で西宮へ遷る、特急は新幹線よりもおおきな窓が開放的で、広々と琵琶湖を望む、

西宮では開演までだいぶん余裕があり、王将で食事ののち、器裏っ手の川沿いでまた何服か、

兵庫芸文センター管は、高等教育を修了後、っいまだ就職先の楽団を得られないでいる若い奏者に実地経験の場を提供せむという主旨の団体であり、国内オケのヴェテラン勢が2番以下へ下がって若手をサポートするとともに、っある種の理不盡まで含めて職業オーケストラの論理というものを伝授し、っいざ就職先が定まった際にスムースにその環境へ馴染めるようにというところまで意図しているらしい、

っつまり奏者は年々に入れ替わっていってしまうわけで、楽団として年輪を加えてゆくのを期待することはできない、っどうかすると若い面子によるオーケストラにあり勝ちの、っひびきの青さ、っお客へアッピールするための厚かましさの欠如等を感じさせるかもしらず、っじっさい、井上キーミツの棒になるはずだった森山開次氏とのストラヴィンスキーでは、棒は井田、横山両氏による分担となり、っそこに聴く彼等のアンサムブルは、っしゃびしゃびと水っぽいと意地悪に捉えることもできないとせなんだ、誰の棒であれオーケストラとはそういうものだが、一定以上のテクニークとひびきの充実とをもってして初めて可能となる表現というものがあり、カーチュン氏の豊富なアイディアがしかし恆に堅固な造形の裡に嵌め込まれ嵌め込まれて全体が構築せられてゆくその妙味を遺憾なく発揮せしめるためには、尻の青い合奏ではぜんぜん足りない、音色も、音の重い軽いも、如何様にでも自在に変転させられなければならない、っだからぼくは開演するまでは、っわるくするとぜんぜんなんの意味もない演奏会となってしまうことすら覚悟していた、なんとなくマーラー《トラギッシェ》というあの概観を大過はなく示しました、っというそんな演奏には、っそんな演奏を聴くことには、っまったくなんの意味もないのはおよそ自明であろう、

っこのぼくの、っよりおおきな感銘を得たいがための臍曲がりな訝りは、っもののみごとに蹴散らされた、っむしろとちゅうからは、もうそんなに好い演奏をしないで、来年の日本フィルとの公演があなた方に敵わなくなっちゃうかもしれないから、っとオカしな要望を懐いたほどである、カーチュン氏はたしかにたいへんな異能者であり、日フィルとのこれまでの各公演にせよきょうにせよ、っいつもひびきがぴたっと定まっている、っすっくと大地へ仁王立ちしたそのアンサムブルの屹立はまことに健康そのものであり、っどう云えばよいのか、っとかく指揮道というものはあれこれとこねくりまわしうることをもってまずは奥儀とす、聴く方もよりこねくりまわされたものをよろこんでいるという傾向が、っそれが全部ではないにせよ一部にはあって、っそのぶんだけ音色が濁っていることもしばしばである、カーチュン氏は凡百の比ではなくかなりあれこれとやりまくられているのであるが、っところがそのために音色を汚すということがまったく絶無である、鳴っている音にいつも書いてある、だってきっぱりと、していないよりはしていたほうがよいじゃないですか、っと、

人によっては、っあるいは演られる曲によっては、陰翳に乏しいと聴く向きもあるのかしらん、っがぼくは、頻繁に彼氏を聴くなかで、っその健康美を全的に肯んじた前提で客席へ坐すことをもう身体で覚えてしまったので、っどんな演目でもさようの不足をおもったことはない、っありとある音色がきらきらと光耀く様を、っただ無邪気によろこんでいるのみである、

っそれにしても、っあれほど力いっぱい胸いっぱいに演奏しながら、同時にきびしく制禦せられ、巨大な楽隊の全員が絶えず目的を共有し合えている、っその勇姿を目撃する気分の爽快といったらいかばかりか、フィナーレなど、っこれでもかこれでもかと際限なく音量も音圧も漸増してゆくが、最大音量最大音圧の瞬間においてすら、っなおすべての声部が眼に視えるようにクリアに聴こえ、欝蒼としすぎてうるさいという悪印象はぜったいに与えない、

楽員の若さは引っ込み思案の方へではなく積極果敢の方へ発露し、カーチュン氏が乱れ打つ個別声部の強調へうれしがってオーヴァーに応ずる、っこれが功成り名を遂げた大人の楽団だと、指揮者はその心算で振っていても、楽員というフィルタを透る段階で、そうは云ってもねえ、っとマイルドな表現に矯められ兼ねない、

帰途、っもう新横から横浜線へ乗り継いだ、っこれから楽章毎に細部細部へ言及してもよいが、っそのたのしみは日フィルとの公演の際まで取っておかむ、っそれにぼくは、演奏の具体へすこしくも言及しないのに、しかしそこにどんなにおおきな感銘があったかを如実に云い切っている、っという演奏会所感をいつも密かな理想としているのだ、っそのときに胸裡へ去来してやまないのは、っあのルービンシュタインがバレンボイムとともにRCAへ入れた楽聖コンチェルトの国内盤のライナーへ載った大木正興氏の遺稿たる評文である、大木氏というのはたぶん大木正純氏の父君であらせられるのかとおもうが、っともかくその評文は、っぜんぜんひとことも何楽章のどこがどうだとかということが云われていない、っにも拘わらず、老ルービンシュタインの人生の到達点をなに余す所なくみごとに写しとっている、っほんとうはぼくもそういう名文が書きたい、細部へ言及するなどというのは、っほんのかりそめの手慰みにすぎないのである、

っちなみに、コン・マスは田之倉氏、トロムペットへはおなじく日フィルのオットー氏が乗られていた、っほかにもヴェテランのサポート組には見たことある顔がたくさん、若い人にとっては贅沢な環境であろう、、、っこれ、演奏会の細部ね、



っお次は土曜、午にキーミツと新日本フィルとの《レニングラード》初日、夕から大井町で井﨑正浩氏の公演だが、っよるにはザギンで来日中のハリオノ青年の休憩なしの小リサイタルがあり、っどうしても聴きたいので切符を購ってしまい、井﨑氏公演は失敬ながら前半のみでどろん、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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金沢、




井上キーミツとOEKとの最期のご共演、済む、演目は、先年物故せられた西村朗氏が同オケのために書かれ、岩城氏の棒で名古屋で初演せられたという《鳥のヘテロフォニー》と、ナジェジダ・パヴロヴァ女史と、っあの《バビ・ヤール》も記憶に新たしいアレクセイ・ティホミーロフ氏とを招いてショスタコーヴィチ《死者の歌》と、後者はキーミツの日比谷全集では、ソリストはたしかアンナ・シャファジンスカヤ女史とかのセルゲイ・アレクサーシキン氏とであり、オケは広響であったか、金沢でも10と数年前に彼氏が此地初演を果たしていられるらしいが、新全集を完成せしむるがための動かしえぬ機会とはいえ、っよもや最期の舞台がこんな珍曲になろうとは、指揮者、オケ双方が想像だにせなんだのではないか、

っしかし、っこの曲でよかったし、っこの曲がよかった、っこの曲でこそよかったという畢生の大舞台、大演奏ではなかったか、っぼくも実演では初めて聴いたのであるが、字幕がありがたく、詞の内容はよく諒解できたし、っこんな曲は指揮者独りがいくら気を吐こうがソリスト次第で味噌にも糞にもなろう代物で、ティホミーロフ氏へは開演前から全幅の信頼を寄せられるのもとうぜんのこととして、パヴロヴァ女史のすばらしい詩魂っ、音盤で聴いていると全編が灰色のシニシズムに蔽われた遣る瀬ない曲調と聴こえるが、彼女のリリックな語りによって、あ、こんなにも素直な歌のある曲なんだ、っとこちとらなにか呆気に取られるようでさえあり、作曲家の死者へのまなざし、っあるは人知れぬ死を俺だけは知らむとし、忘れずにいまいとする意志、っあるはまた美化という名の辱めを受く死への憤り、っほんの冗談ですら死神に影を踏まれているというありふれたしかし衝撃、っそれらの素描を通して彼の死生観はここでむしろごく素朴、簡潔に述べられているのだと篤とおもい知る、ショスタコーヴィチは困難な体制下で困難な時代を生きつ、っいつもいつも、っどんな作品のなかでも、俺たちもっとあたりまえに人間でいようぜ、どうしてこうも七面倒なことをかんがえちゃったのさ、っと呟いている、

小規模のOEKは、フル編成のシムフォニー・オーケストラにはみられない個別声部の満々たる自発性と、っその綜合としての高度の精妙を特色とするが、っそうした楽団の演目でまず誰しもが念頭へ浮かめるのはモーツァルトであり、ハイドンである、っこんかいのキーミツ公演だってさようの本寸法で有終の美を飾ってなんらおかしくはなかったはずだが、っぼくは従前より、OEKにかぎらず小編成の名うての楽団によるそれらの作品を聴くことに、っひどく苦手意識をおぼえずにいなんだ、っなんというか、っあまりにも鍛錬し盡されているアンサムブルであり、っそれがあたかもお客へ挑み掛かるような奏楽を示し、通りの向こうからやって来た人の顔を見たら、あ、モーツァルトだ、ハイドンだ、っとおもっても、身体を見たらむっきむきのボディ・ビルダーみたようだった、、、っという違和を感ぜずにいないのだ、っだからいっそショスタコーヴィチで、っやはりよかった、

西村作品も、っそのカップリングとしてじつに好適だった、誤解を惧れずに云えば、両作を通じて2時間弱の公演全編において、OEKの上げる音色は異界において開発せられたシンセサイザーの発する電子音みたようで、それはいったいどこでどのようにサムプリングしてきたのか、っとこちとらをして訝らしめるばかり効果的のひびきが、特殊奏法、っへんてこな和音等をもって乱れ飛び、幻惑され通しなのである、っここでは彼等の高精細の合奏能力いっさいがその人工美がためにのみ捧げられ、作り込んだ極点においてついに、っおよそ人に作ること能うとは信じ難い音響を結び、っそれが開演から終演まで、っほんのかたときも綻ぶことがない、っまさに驚異である、

《死者の歌》は、楽章間で多少のインターバルが置かることもあり、気が緩んで場内ちらほらと咳払いも起こったが、っぼくは音楽に釘附けにせられて身動ぎひとつできず、1時間ほどの間、っずっとおなじ姿勢で舞台を凝視し、っほとほと固唾を飲んだ、1楽章において絃が鳴らし、10楽章に回帰するその音型は、同《12番》の終局の勝鬨において執拗に繰り返さる動機に酷似するように聴こえ、人類の栄光が死と表裏を一にしていると示唆さる、

ソリストの開口一番はティホミーロフ氏だが、渋谷や中之島の大空間でもあれほどの存在感を誇る彼氏であってみれば、中規模級のきょうのような音場では最弱音に至るまで、細大漏らさずその慈愛を享受することが叶う、っふかい音色がそのまま慈愛なのである、っその彼氏が、8楽章においてあんなにも口汚ないコサックの罵詈讒謗を叫ばれるとはっ、

対するパヴロヴァ女史は、云ったように奇矯な書法の部分に対比せしめて十二分に抒情を謳歌されたため、3〜5楽章は直截にこちとらの胸を打ち、っとつじょ売女のごと下卑る6楽章をより鮮烈なものとすることに成功、っしばし休まれたのち、ティホミーロフ氏の叫ばれる人の世の理不盡への抗議に、慰めの供花をもって応ぜられる、っおふたりによる結語の11楽章ではしかし、最終音でいますこしくヴィブラートを抑えられたほうが、っあの謎めいた和声をもっと意味深く聴き手の喉元へ突き附けることができたのではないか、

終演してキーミツはいちど拍手を制され、了わっちゃった、っとおっしゃり、楽員の方幾人かと抱擁、っうちおひとりの女性は顎をしゃくり、目頭を押さえられており、っこちとらも貰い泣き、歩かれるときに腰へ手を遣られるのはいつものことで、強がってターンを定められたりしているが、っやはりもうほんとうに満身創痍でいられるのだと拝察す、っきょうもおそらく痛み止めを処方せられての舞台であり、っしかしそれを濫用するとこんどは腎臓が壊れてしまうというわけで、っなるほど引退されるよりほかに選択肢はないわけである、アンコールに、っおそらくあれは安部公房《他人の顔》の映画のために武満氏が書かれた〈ワルツ〉で、以前にもこのコムビで何度か聴いており、彼等にとっての名刺代わりの小品をもってお別れ、辛いお身体へ鞭を打つようで気が咎めたが、ソロ・カーテン・コールは1度では済まず、2度目があってキーミツが袖へ下がられても、っまだ名残惜しそうに手を叩く人が幾人かいた、



っゆうべは遅くまで、種々の演奏会の配信動画を録画したものから抜いた音声やら、っさいきんに購った音盤やらをiTunesへ遷しており、っそのままiPhoneとの同期までしてしまえばよかったのだが睡てしまって、起きて同期を開始して身支度をしていたが、出掛けねばならぬ時間までに済まず、っその場で京王へアカウントを作って1本遅いライナーの予約までしたがそれでも了わらず、諦めて同期を中止して外出す、大宮で缶ビールと乾き物とを購って、っあさもあさっぱらから呑むというのはほんとうに気分がよい、歯磨きをする暇とてなかったので、金沢へ着いてからさらに軽食を摂ってのち、器から線路沿いに一寸歩ったところへある公園で歯を磨く、気温は東京より高いくらいの数値になっていたので心配しておらず、っみごとなぴーかんでぽかぽかとしている、

っいまは駅から30分ほども歩ったところの安宿、っしかしこういうホテルのほうが、朝餉が通り一遍の冷凍食品ばっかりというふうじゃなしに、家庭料理みたようなのが出て来てこころうれしい、っとなることを期待している、っいちど徳島でさようの僥倖へ接した記憶がある、っあの交叉点でインナー・ヘッド・フォンを落っことして車に踏まれてぶっ壊れたときである、

っあすはあさから西宮へ移動し、カーチュン・ウォン氏と兵庫芸文センター管とのマーラー《トラギッシェ》、っこないだ日本フィルの来季プログラムが発表せられたが、同曲をシーズン開幕へぶっつけてこられ、間髪入れず翌月にはショスタコーヴィチ《11番》と手加減なしのライン・アップである、前者は川瀬氏と名古屋フィルとの東京遠征でも披瀝せられ、後者は上岡氏と読響との公演が控えている、っどういう巡り合わせか、っかように同年に同一演目を聴く機会というのは重なるものである、

っさ、っなんかコンヴィニでかるく摘めるものでも購って来よ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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川崎、




井上キーミツと森山開次氏とのプッチーニ《ラ・ボエーム》千穐楽、済む、

池袋2日目、仙台、京都、っそしてきょうと、都合4回の機会も、っこれで了わってしまった、っきょうは最終日とあって、終幕ではミミの中川郁文女史がベッドから転げ落ちんばかりののたうちよう、っそれでいて歌は絶え入るような虫の息の最弱音をしかし大音場の天井桟敷まで届かせ、対してロドルフォの工藤和真氏は喉も潰れよとばかりの迫眞の絶唱、主役ながら、前3回では開幕から全曲を通じて、彼氏の演唱がオケの音勢により消され勝ちとなる憾をおぼえていたが、っこれは狭小な器であった仙台でも解消せず、っきょう川崎は2千席級の大器なので、っその点については諦めていたところ、っむしろ4回のうちで最も歌手の声がよく通るし、っひとつびとつの声がうつくしいホール・トーンを纏っているのがわかり、っぼくが聴いたなかでは最も好条件の音場ではなかったか、っそれにより、イタリィの歌に特有の装飾音まではっきりと聴き取ることが叶い、音楽的にもひじょうに充実した公演と成ったようにおもう、

っもとより狭いここの1階席を、っなお前方を潰してピットとし、居並んでいるのは東響である、4回を通してオケの配置がまいかいすこしくずつ変わるのもたのしかった、っぼくの位置はへんてこな形状の2階席の1段目最後列、右側のブロックの左端であり、通路を挟んで左側には、1席置いて沼尻氏がおみえになっていた、彼氏と至近距離でおなじ公演を聴くのも、っじつにあの郷古/上岡/日本フィルの杉並でのブルッフ、シュトラウス以来である、終演後は完全にハネるまで客席へいらっして、最後にコン・マス氏が答礼をされてオケが散られる際には、立ち上がって熱心に拍手をされていた、っそれと、ラフな服装でいられたのでぼくの見間違えかもしらんが、っおなじく2階1段目の最前列、正面ブロックの左端附近にはノット氏がいらしたように見受けた、っべつの指揮者に振られる手兵を客席で聴かれるご気分はいかがであったろうか、っかえすがえすも、今夏のキーミツと新日本フィルとのマーラー《夜歌》がノット氏の代演となったことは至極ざんねんであった、っおそらく、っあのせいでキーミツのマーラー全集は永久に未完となり、引退後に発売せられるという音盤は、他の曲はみな近年に複数の楽団と行なった公演のテイクなのに、同曲のみ旧い新日フィルとの全曲ツィクルスの音源で埋めてある、っという不完全なものとなるのだろう、っそれでなお怨めしくおもい返さるのは、っあほヴァイアラス騒ぎによる彼氏と大阪フィルとの同曲公演の中止である、私費で大フィルとレコード会社とを雇い、録音だけでもさせてくれろと申し出むとしたが周りに止められた、っとキーミツはお書きになっているが、っいまからでも遅くない、公演はなさらなくともよいから、っそれをなすってはいただけないものだろうか、井上道義引退直前の幻の音源、最高の置き土産ではないか、

っそれから、っきょうのキャストだが、パンフレットは全公演共通の冊子のため、っぼくはきょう貰わなんだのだが、隣のおっちゃんのものが開演前に横目に入り、っそれによると、コッリーネ役の人が体調不良かなにかで代演となっていたようだ、急なことで歌手はさぞかしご苦労されたことだろうが、歌としても立ち居振る舞いとしても、っちゃんとティームの一員として機能されており、附け焼き刃の嫌いはすこしくもせなんだ、

っぼくの観劇した前3回とまったくちがったのは、2幕においてバンダの行進してくる場所で、っきょう以外はいずれも下手から舞台前面へ現われ、上手へ去って行ったが、っここ川崎では贅沢にも舞台よりオルガン側の席は潰してしまい、っそこへもセットがいくつか据えてあり、バンダは2階席の左の扉から入ってオルガンの前を進み、舞台の右っ肩へ留まって軍楽を鳴らし、っそして右の扉へ出て行った、

ボーイズは、池袋のときとおなじ団体だったようだが、っやはりすこしく主張がよわい、仙台や京都のときは2幕開幕の喧騒のなかでもこどもたちの声がくっきりと聴こえ、っとても耳にうれしかったものだが、

ショナールはツアー後半ティームの外人さんに変わっていられたが、っやはり鸚鵡の声マネをしてくれるお心算はないようで、一寸ざんねん、

っけれども、京都公演からやや間が空いたので、っぼくの渇きもまた募っており、1幕の恋が始まるところからもう泣いてしまう、っそれぞれの自己紹介のアリアよりもその前の、っふたりして暗がりで鍵を探しているときのあかるい歌のほうがなにか泪を誘う、男女が惹かれ合うときのこころの華やぎというのはまことにあのとおりで、っそれを憎いばかりみごとに活写しているからである、

2幕は最大人数が一個の女の聖化それのみに捧げられ、全公演を担当されたイローナ・レヴォルスカヤ女史はきょうもすばらしいじゃじゃ馬ぶりと官能美とを体現されていた、っなんならぼくは、主役おふたりの悲恋よりも彼女のほうにこそ首っ丈である、ったのしいシーンは前半に済んでしまい、っどんどん深刻になってゆくのもやり切れない、

3幕のねじれたクヮルテットも、っその趣旨を伝えるだけの音楽的の熟度を具えており、終幕まで緊張感は維持せらる、

っそれにしても、本作にかぎらないのだろうが、オペラというのは不思議なもので、っだってこれパリの話でしょ、っそれなのにおもいっきりイタリィで唄って旋法もおもいっきりイタリィイタリィしていて、っぼくは何度も何度もこころのなかで、いやいや、ぜんぜんイタリィ歌曲じゃん、パリだよここパリ、っとツッコむことをたのしんでいたのだが、それは云いっこなし、っという文化になっているんだろうなあ、っでもあれか、登場人物はロドルフォだとかショナールだとかコッリーネだとかみんなイタリィの名前だから、ったまさかパリ暮らしのイタリィ人の話ってことか、都合よすぎるだろ、



っさてと、2連休だというのに珍かにも行く公演もない、っのんびりせむ、次はこんどの土日、金沢でキーミツとOEKとの最期のご共演でショスタコーヴィチ《死者の歌》、っそして同地で1泊して翌朝から西宮へ移動し、カーチュン氏と兵庫芸文センター管とのマーラー《トラギッシェ》を聴いて帰京、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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大分、




森口真司氏の棒、大分響公演、済む、演目はシベリウス《カレリア》の、スートではなく序曲、近年高名なる廣津留すみれ女史を招いて同コンチェルト、っそしてバルトーク《オケ・コン》である、

4:30起きの5時すぎ外出、開場20分かそこら前に器へ着いたが、前回とちがいずらずらとすでにして100と数十人か200人へ達するかという列ができており、座席表を検索して㐧1候補が得られなんだ際の善後的の位置をかんがえておく、っが、っもぎりのすぐ先がもう1階席の左側後方の扉で、っそこを開放した脇へスタッフの方が立たれ、どうぞお入りください、っなどと入場を促していられ、っなんとぼく以前のすべての人は、っひとり残らずその扉へ吸い込まれてしまった、1階席のみ開放なのかとおもって前回に場所を憶えた階上へのエスカレイターの方を見ると、っべつにその前へ通せんぼがしてあるというのでもない、っぼくだけひとりそちらへ向かい、階上から場内へ入ると、広い2階席へスタッフの方が2名いらしたっきりで、っお客はひとりもいない、長蛇の列を見た瞬間には最上の席の獲得は諦めたのだったが、拍子抜けであり、前回の来訪時とまったくおなじ席へ背嚢を置いていったん退出、開演までシガレットを服む、っいざ開演すると、っお客はコンチェルトの際には楽章毎にぜんぶ拍手、《オケ・コン》も派手なトュッティで了わる1楽章のあとにはやはり拍手していたりと、っまあべつにそれがわるいわけではないが、要はさようの客層であり、っどういう容積のどういうトーンの器ではどのくらいの距離でどちらの方向からオーケストラを聴くべきかなどということをかんがえて来ている人は、っあほな東京人のぼくくらいだったというわけである、

オケはアマチュアで、テクニークは未知数であったが、《オケ・コン》なぞをプログラムへ組むということはまるで弾けない団体ではなく、っあとは、易々と弾けてしまいますというくらいにとびきり勝れているのか、っよく弾けやしないのだが背伸びして演ってみたかったんですというレヴェルなのかだが、っまあ後者であった、っきょう日《オケ・コン》ごとき、弾くだけでよいならばプロフェッショナルの楽団にとってはさまでに難儀な楽曲ではなかろうが、アマチュアとなるとあんなにも疵だらけとなってしまうのである、

っとはいえ、っべつに致命的にへたくそではなく、っむしろアマチュアとしては上質の部類である、っじっさい、序曲は落ち着いた奏楽で曲趣をよく伝える、《カレリア》のスートではなくこの曲はぼくは初めて聴いたが、シベリウスらしい金管とティムパニとのおおきなクレッシェンドもあれば、っとちゅうスートへ採られているのとおなじテーマも顔を出したりしてたのしい、っいっぽうで繊細な哀感にも事を欠かず、トライアングルを伴なう主部のはじめのテーマが行くと、ヴィオラを先陣に、速度を緩めて絃合奏による歌となる、っそこなど、曲を識らないで聴いているので、っふとさびしい和音に吹かれて、っおもわずに胸も震う、絃のアンサムブルもひじょうによく鍛錬せられている、コーダ近くにも1stが高い音で神秘的に鳴る個所があり、変化に富んだ佳曲とおもう、スートばかりで、滅多に演奏せられないのが勿体ない、

っせっかくに最上の席だったのに、コンチェルトになるとカメラマンの方がぼくのすぐ脇の通路へ来られ、同曲の間たびたびシャッターを切らる、女性だったが、っまあ彼女もあれが仕事なんだから仕方がないが、っよっぽど休憩へ入ったときに、後半もここで撮影されますか、撮影されるようならぼく移動しようとおもうのですが、っと訊かむかとおもったが、っそうするとほんとうに邪魔者扱いにするようでついによく訊かずにいたところ、バルトークでは彼女はいなかった、

気を取り直して、才媛と名高い廣津留女史をきょう初めて聴いたが、細腕にしてしかしテクニークは万全、っぼくはじつのところ、古今あまたある《Vnコンチェルト》のうち、主題主題のキャラクター、構成の妙、楽章間の内容の比重、曲全体の有っているムード、大衆のすくなくも過半へはアッピールするかどうか、、、っこの最後がぞんがい大事だよ、独善でよいならば括弧附きの傑作などむしろいくらでもありうる、誰が聴いても、うわあ、これはすごい曲だわあ、ってんじゃないとねやっぱり、っともかく、っそのあらゆる点でシベリウスのものが最も勝れた作品ではないかとおもっているのだが、っきょうはそのことをおおきに再確認するに及んだ、

っところが、オケはやや心許なく、序曲からするとだいぶん粗を露呈したようだ、っかなりの楽団だとおもったので、っもっとあたりまえに棒へ附けられる奏楽を当て込んでいたが、っおおくの楽員にして曲が身体へよく入っていられないのがわかり、森口氏は恆の通り至極的確な棒を振られているのに、一個の客にすぎないぼくが観ていても、どうしてこういう棒を振ってもらってそのタイミングで音出しちゃうかなあ、っと訝られる個所がたびたびみられた、アマチュアの楽団は、毎週のように寄り集まって合奏することでじっくりと曲へ馴染んでゆくのかとおもうが、コンチェルトとなると、本番のソリストとは公演直前に合わせるのみだし、平素は団内からソロ・パートの代奏者を出すなり、っあるはトレイナーがその役を熟すのかわからないが、っいずれ、曲全体の経緯を把握してゆくような練習ができにくいのかもしれない、っそういえば、世にアマチュアの楽団は多々あれど、コンチェルトを演るところはごく稀である、ソリストに出演料も払わにゃならんしね、

っそんなわけで、バルトークへの期待値もだいぶん下がってしまい、っそのざんねんを徴すように休憩で喫煙に出ると降雨していたが、結果は、っやぶれかぶれながらに、っまずまずの奮闘だったのではなかろうか、っざんねんなだけで、悪印象はすこしくもなく、絃合奏には力があるので、管に吹き損じがあっても音楽が崩れているとは聴こえないし、ティムパニはとても巧く、っかなり音粒のおおきく、硬質でありつかつひじょうによくひびく打音だったが、器の性格もあるのか、っどんなに打っても他の楽器を消してしまうことがなく、奏者ご本人もそれをわかっておられるようで、要所では痛快な打撃を惜しまれなかった、

終演後はさいわいにして雨の止み間で、大分から小倉、小倉から新横と、車中は睡ていたわけではないが、っずっとぐったりとしていて文章を織る気力とてなく、っいま新横から横浜線、っはげしく降雨、南大沢は降っていないでくれたいところ、

っちなみにきょうは前2回とは異なる特製の名を冠したシウマイを購って早朝から呑みながら移動したが、っひょうちゃんはなんだかイヤらしい目附きのものであり、っふつうのシウマイに入っているもののほうがかわいい顔をしているので、次からはもとのとおなじものを求むとせむ、

っお次は土曜、川崎にて井上キーミツの《ラ・ボエーム》千穐楽、



っそうだ、っまだ南大沢まではしばらくあるので、っきょう午のギロッポンだとおもうが、広上氏の日本フィルとのヴェルディ《レクイエム》の動画が配信予定となっていたので、っまた購入しておいた、っが、日フィルが進境著しいといっても、っもちろんのこと、誰が振ってもよいというわけではないらしく、ったとえば、先般のキーミツとの最期の共演であるショスタコーヴィチなど、っぼくはかなりの期待を懸けていたのだが、っもうひとつスウィングせなんだようでざんねんだったし、っこのおなじ配信では、大植氏が信末氏と組まれてシュトラウスのコンチェルトを演られ、メインはドヴォルザーク《7番》という動画もあり、っこれはあれだったのかな、っほんとうは秋山氏がお振りになるはずがご体調不良で代演だったのか、っちがったかな、っともかく、っそこに聴く大植氏の棒になる日フィルは、煽りに煽られてずいぶんと粗暴な音響に終始しており、っやはり、っこんにちおのずから高度の合奏能力を獲得していられる彼等であってみれば、っまずはそれを邪魔せずに、自然に弾かせてくれる指揮者との仕事のほうが、っなべて好結果を生むようだ、広上氏とは、彼氏が何十年かぶりに振られたというシューベルト《ザ・グレイト》の動画があったが、っそれはぜんぜん力まずに悠然と振られているように見えるにも拘わらず、っどういうわけかアンサムブルはやや強張り、っひとむかし前のぽんこつな日フィルの音に近いような気がする、

っお、橋本、南大沢はまあほぼ降っていないのとおなじ、喫煙スペイスでシガレットを服まずに帰れば、日附が変わる前に室へ上がれる、仮に広上氏の動画の録画を始めれば、っそれを停めねばならないので睡るのは2時ころになるが、っそこまでやる気力があるかな、っなんかやってしまいたい気がするが、っまたあした仕事にならなくなるかな、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

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錦糸町2日目、




上岡敏之氏の棒、新日本フィルで、モーツァルト《39〜41番》、

っきのうもきょうも2階正面席2列目、っきのうは右端附近、っきょうは左端附近だったが、っきょうのほうがVnがよく聴こえ、全体にウェル・バランスな音響だった、サントリーではぼくはいつもRCで、ったまに同プロを2日とも聴く際には左翼からも聴いてみるが、Vnのf字孔の対角線上となる右翼のほうがその楽器の聴こえがよく、左からだと音が向こうへ行ってしまう憾がややする、っその点ここ錦糸町は、f字孔云々よりも、単純に音像群との直線距離の近さで、左から聴くほうがVnがよく聴こえるのかもしれない、想い出した、故・ラルス・フォークト氏の代演で上岡氏が急遽、新日フィルをここで振られ、モーツァルト《フリュート&ハープ・コンチェルト》、楽聖《Pf4番コンチェルト》、ブラームス《2番》を演られた会があったが、っその際も2日とも聴き、同様に右、左と位置取りを変えてみたが、っやはり左から聴いた2日目のほうが合奏全体を見渡し易い音響がしていた、憶えておかむ、っほかの音場は右から聴くほうがよいところのほうがおおいが、錦糸町は左、シュー・ボックス型はさようのところがおおいのかなあ、っそうすると初台などもあるいは左から聴くほうがよいのだろうか、っあそこへはそう数多に行かないのでわからない、

っきのうは1挺殖やしたバスがセロとともにごりごりいったりなどすると、っそれが全体のひびきの基調となり、っただでさえ暗い印象のあるこの器のトーンであるから、っよりくすんだ色合いの合奏となり、っぼくの上岡氏への不健康不健全の人とのイミッジも、っあるいは新日フィルのディレクトール在任時にたびたびここへ通ううちに醸成せられたものかもしれないが、左からVnを主軸に聴いていると、《39番》の1楽章はちゃんと潑溂として、精彩ある進行と聴こゆ、音量も不思議ときょうのほうがたっぷりと堂宇全体が鳴っているように聴こえるが、っさりとてやはり腹八分の快音をけっして上回らず、っどこにもずしっと重たい音を置かずにひたすら流れ流れてゆく、

件のレガート趣味をこの開幕から探してみていたが、目立ちはしないものの、絃連中がめまぐるしく動いている背景の管の同音連続などが、っやはりはきはきと1音1音を切るよりは繫げむ繫げむと吹かれる感触がしていた、

2楽章も、曲の変転につれて腰を沈めたり音の質量を高めたりということをせず、っいつも先へ先へと運んでゆくからこそ、忍び入る木管のモルの調子や、っとつぜんの絃合奏のフォルテが凄愴にしてこちとらの胸を刺し貫ぬく、

3楽章のトリオはきょうもたのしい、何度か吹かれるクラリネットのテーマのその最後のひとくさりなど、1番の最々々弱音は綿飴みたように溶けてしまう、

フィナーレのさいしょの主題がフォルテになるところも、っきのうそこへ至った際に生気が満々と発散せられるように聴こえなんだのは、っやはりVnが低音によって分厚く包まる感触がしたからかとおもう、っきょうはもっと高音が冴えて、っふつうに元気のよい音楽だったが、っおそらくほかの指揮者ならばトロムペットあたりにはもっと金属質の音を出させ、終盤ともなれば自然と迫力更新も加わるのかとおもう、っそれが上岡氏は、最後まで快音の範囲のままでさっと駈け抜けてしまうので、っまだずっとつづくはずの音楽が、っしかしそこでとつぜん立ち消えになったようにして了わる、聴く者の胸は高鳴ったままだ、

《40番》1楽章の入りは、っあきらかにVnの主題の音量を意図して抑えっ放し抑えている、左から聴いていてさえヴィオラの刻み、セロ・バスの土台が音響の主体を成しているように聴こえ、右から聴いたきのうに至っては、っほんとうに救いのない暗黒の音色と映じたものだが、っこの曲が3楽章へ至ると、っあのレガート趣味がとうとうその本性を顕わし、っそれはほんとうに豹変と謂うに相応わしく、別世界へと連れ去らる、っその突如として音楽がまるで別物へと変身してしまう感触は、っきのうよりもきょうのほうがずっとずっと鮮やかで、浪漫派の楽曲にはありふれている纏綿たる歌々の折り重なりをしかし、っここまで開演から30分以上さっぱりとした発音っきり聴かされていない心身へ見舞わると、っきゅっと胸が締め附けられてかなわなんだ、

っそしてフィナーレはこの特異な趣味の乱舞で、絃の主題のみならず、っやはり管の同音連続も音を繫ぎに繫いでいる、

《ユピテル》では、1楽章において漸弱を、っつい弱音へ落とせばよい程度ではなくて、最弱音まで落とせよかし、っという語りが頻出し、っどこまでもかるくかるく運ばれてゆくのに、内容は誰よりも波瀾萬丈である、

2楽章は、っこんどは《40番》1楽章とおなじで、Vnを抑えまくる趣味のほうが顔を出し、っこちとらときに主題の音型を見失なうばかりだが、モーツァルト最期のシムフォニーにして、曲の姿は単純そのものであり、人工的の巧緻というものと対極に在る曲だと観ず、っぼくみたような煩悩たらたらの俗物が聴いてはならない音楽なのではないか、

3楽章の冒頭主題は、Vnがフレイズの入りを叩く音で始めないで、滑り込ませるボウイングを励行している、管打のリズムはほんのぽたぽた水滴を垂らす程度で、っそうすると全体の音響は仕合わせそのもの、夢の国へ漂い遊ぶごとである、

フィナーレは全神経を集中せしめて可能のかぎり音々を拾い集めむと聴いたが、っみごとに置き去りにせられ、音楽は彼方へ翔び去ってしまう、っさようなら、モーツァルト、辛うじて発見した宝石は、1楽章におけるヴィオラの下降音型がここでも意味深に鳴っていたことである、



っさてと、っあしたはまた大分日帰り強行軍だよ、、、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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っあさ、




起きられはしたが、例によってゆうべ洗濯機を回したまま、寝っ転がっていて、このままでは睡てしまうこのままでは睡てしまう、っとおもっていたがけっきょくそのまま睡てしまう自堕落で、仕事は休んでしまう、っあさようやっと干し、っかすかに生乾きのままで、移動しているうちに乾くから、っと着て出掛けるのももう馴れたものだ、っそのあとさらに睡てしまって、起きて出掛けるのにぎりぎりの時間だったのだが、

っさて、コバケンさんの配信動画、先週の日本フィルとのギロッポンでのライヴで、高木竜馬氏を招いてラフマニノフ《2番》、っそしてブラームス《1番》である、

コバケンさんは、っこの手の定番演目っきりお振りにならなくなってすでにして久しく、っこの両曲だって、っべつに今次にかぎらず遡れば直近にもべつの機会があったのではないかとおもうが、っぼくがことしの春だかに横浜で聴いたおなじく日フィルとの《オルガン》にしても、っここでのブラームスにしても、遅めのよいテムポの裡に、なにもそこまで懇切丁寧でなくてもよいのでは、っとおもわせむばかり有難迷惑の語法を徹底せしめ、っしかしいっぽうで脱力がかなりの程度まで及んできてはいるので、有難迷惑のうち、迷惑よりは有難い成分のほうがやや勝るかもしれない、っというくらいの手応えへは至っている、、、っこれ褒めとるんかいな、っや、っちゃんと褒めている心算なのだが、っつまり、っぼくとして、もうひと声、もう1歩突き抜けられる、もっとすべてを諦めて、もっと枯れに枯れて枯れ切ってしまってくれてもぜんぜん聴いていられる、や、そのほうをより聴きたい、っというきもちが疼くのも偽らざるところなのだ、

っただ、現時点でも相当度の演奏藝術であるのはたしかだ、っそしてそれを可能にしているのが、っきょう日の日フィルの高度のアンサムブルである、っこれからすると、00年代1桁あたりから90年代のコバケンさんの音盤に聴く同フィルは、っまあはっきりとこう云ってしまってなんらかまわないとおもうが、っただのドへたくそな超ぼんくらぽんこつオーケストラである、

ラフマニノフもたいへんなもので、全体にオーケストラをじっくりと立派に鳴らしており、っむしろシムフォニーのように力んでいないため、っかえってこちらのほうがゆとりある泰然たる大合奏、大演奏たりえているかもしれない、2楽章のクラリネットのテーマのバトンをソロが享け取ったあとのヴィオラの抉り方など、っじつに入念である、ソロは、っこの曲ではなんといってもツィメルマンだが、バックが小澤/ボストン響の趣味のないひびきのため、全体としてはつまらない音盤になってしまっている、実演では、岡田奏女史が目黒で弾かれたものが忘れ難く、フィナーレの㐧1テーマをさいしょに示したあとのロボットがぴぽぱぽと人造言語を喋るような質感は、ツィメルマンにっきり実現不可能なのかとおもっていたが、岡田女史はそれへ優に比肩する奏楽を達せられたのだった、っこんかいの高木氏のそこはといえば、っかなりよい線までゆけてはいるが、っもっと上質の再現がありうる、

ブラームスは、1楽章のめいっぱいのひびきの裡へ全声部をぎっしりと詰め込んだ佇まいもものすごく、っほんの脱力が、既のところで音楽を気詰まりから救っている、

2楽章も絃各声部は隙あらば濃密な発音を為さむとし、っじっさいにとてもよい音がしていて、特筆すべきはコバケンさんで、テムポとしても構え方としても、音楽を推進しえなくなるぎりぎりのところで、っずぶずぶの凭れる歩調を回避している、

フィナーレは、っやはりひとつ間違えると狂騒的で奥行を欠く結果に了わってしまいそうだが、っどうとか土俵際で踏みとどまっている、強勢を加えてもひびきが硬く細ってしまわない日フィルは偉大だが、個人的には、っここまで振り切った最強音を遣わなくともちゃんと聴き手を納得させられるというのが理想だ、3楽章で木管に対する絃の伴奏を強調したり、っこのフィナーレでも主部の主題をつよい音で分厚く唄わむとしたりなど、っそういうところだ、っそういうのをもうぜんぶ諦めてしまって、どこにも、ただのひとつの青さの残滓もありません、っという音を聴かされたい、っいったんそう成ってしまいさえすれば、っこんどは長大なシムフォニーの全体は淡々、滔々としているのだが、っどこかほんの1個所、要所でむしろ若い人では誰でもできないような放埓なワガママをぶちまけた際の痛快も彌増そうというものである、っいまの時点ではまだ、っときおりのさようのワガママが、若さを捨て切れない、むかし取った杵柄が忘れられない、っというように未練がましく聴こえてしまっている、っそうじゃなく、潔く年寄り、好々爺へ成り切ってしまえばよいのである、



っおっと、っもうすぐ開演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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錦糸町、




上岡敏之氏の棒、新日本フィル公演初日、済む、演目はモーツァルト《39〜41番》であり、っこの順に演って、《40番》のあとに休憩、

半日日帰りの名古屋行が祟り、っきのうは睡くて睡くてかなわず、っぼくは聖蹟別棟で複合機の脇のデスクだが、野帳くんからも、3回くらいコピーとりに行きましたけれど、3回とも水野さん睡ていましたね、っと笑わる、

っいつもみたように20時だ21時だまで仕事をしていないで、18時ころで疾っ疾と、、、疾々と、っこの書き方でよいのかなあ、とっとと、っね、ったぶんよいんだろうな、疾は疾走の疾だが、早いないし速いの意で、訓読みで形容詞、疾し、>とまれかふまれ疾く破りてむ、、、ともかく早く破ってしまおう、>おもへばいと疾しこの歳月、っの疾し、、、っさいきんでは学校でも《仰げば尊し》を唄わないんだってねえ、教員への敬意を強要しているからってんだが、バカ云ってんじゃねえよっ、ってなものだ、折角のあんな名曲を、、、っそれこそとまれ、疾々と退勤したが、先週のコバケンさんの日本フィルとの公演の配信動画を購入し、キャプチャで録画していて、作業着姿、整髪料を附けたままで、頭の後ろへ両手を支って睡てしまう、目覚めるとラフマニノフとブラームスとが済んで、コバケンさんがマイクを持たれて終演後のスピーチをされているときで、動画が終了したら録画を停め、っちゃんと録れているのかなとデイタを再生し始めると、っただその確認のみの心算ですぐに停めるはずだったのに、っなかなかに入魂の演奏で、っつい全編を観ていてしまい、っつまり公演全体を2巡再生したわけで、シャワーのあと、っけっきょく睡たのは3時すぎだとかになってしまう、動画はクラウドに保存し、音声を抜いてiPhoneへ遷し、っさっそくにインナー・ヘッド・フォンでじっくりと聴いてみているが、コバケンさんはこんにちなお、っわるくすると情念が空回りし、物理音としては不如意へ堕するリスクと無縁でない人だが、今公演については、っやはりなかなかのものであったようだ、っこれについてはまた別項を立てるとせむ、

っそれできょう、午前までで退勤し、仕事中はぞんかいしゃっきりしていたが、不規則にっきり睡ていないので、公演中の睡気を惧れて京王でもJRでも立ったまま睡ているようにして、果たしてちゃんと覚めて聴いていることができた、

錦糸町大器は、ったしか2千席へ足りない音場だが、っだのに、2階正面では、っよしんば最前列であっても、聴覚的にも視覚的にもすでにして舞台が遠いのが難だ、バルコニーはあるが、周知のとおり2階も3階も1列縦隊っきりと席数僅少であり、っよってここを本拠とする新日フィルの定期相当の公演でははなから会員に全席が押さえられていて、一般の人間では求むべくもない、切符を売り出す以前から最良の音響条件での鑑賞は叶わないとわかってしまっていることは、っすくなからず同団から客足を奪っているのではないか、っきょうはモーツァルトなのでなおのこと、2階右翼バルコニーを前方へ寄った位置で聴けたならばどんなにすばらしい音響を見舞わるか、っとそのあたりのお客連が羨まれてならなんだ、

、、、っく、っまたここから先、っだいぶん書いたのがなんか知らんが消えた、っなんだろうねえ、公演事後、器の前の道を隅田川まで歩き、川を渡って浅草橋で王将へ入り、っいま、聖蹟まで戻ったが、書き切らないのでカッフェへ入らむとして、スマート・フォンの画面へ触れた状態でそれを握るなりしていたのかなあ、っそれでたまさかざーーーっとデリートしちゃったとか、っこういうのは一種のライヴで、魂すりへらさないと書けないんでねえ、っまとまって消えられると、皮膚でも削がれたような痛みだ、っほぼ同様の文脈をこれから気合いを入れて再現するが、一言一句おなじ文は帰って来ない、っおそらく、あの語彙語彙の連なりが我知らず快かったのに、、、っという落胆を幾度か嘗めることとなるが、っともかく気合いを入れて、

具体的にしかじかの演奏とはまるで想像できないにせよ、っかならずや不可思議なモーツァルトをぶっつけてこられるだろうと信じて疑らずに来場したが、っまさしく、特異な感触がすべての時間を一貫していた、

絃の規模は12型だが、バスは1挺殖やして5、並びはストコフスキー配置で、原則としてノン・ヴィブ、人によってはときおり習い性でつい音を揺らしてしまうという程度、リピートはすべて行なっていたが、っなんだかよのなかには再現からコーダまで行ってもまた再現の頭へ戻ってもういちどそっくりコーダまでくりかえすという演奏もあるらしく、流石にそれはしていない、っだから提示のみリピートということか、音量はどこまでも倹しく、人によっては、っちゃんと音量を出せていない演奏と誤解したかもしれない、っがちがう、出せていないのでなく出していないのであり、出すまいとしているのだ、

《39番》ではさまでにそれへ気附かなく、っあすはその心算で聴いてみねばならないが、《40番》もメヌエットへ至ると、以降、レガート多用のフレイジングが散見せらる、大膽にして不敵なるバロック・シュピールへの背信だが、モーツァルトは時代区分としては古典派へ属するのか、っいずれ、っその勇気を全面的に購いたい、

っそのメヌエット主部はしたがって、ピアノでいえばペダルをしっかりと踏んでいるようなものであり、ポリフォニーを演じつ、っかつ声部声部が融け込み合う複雑な色調は、後半のみじかいラグでの動機のリレーにおいてはなおのこと、気が触れてしまうばかりくるしいトーンを発散す、

棒はいつもいつも先へ先へと行っている、左手はほとんどずっと指揮台背面の背凭れを握られたままで、拍から表情からすべて棒のみで振られているのが印象的だ、っそして、っどんなにおもいを籠めたいところでも、音々へ留まることをけっして潔しとせず、停滞し、濁った発色へ意味を求め、っその音へ後から附いてゆくという愚は犯さない、っむしろ、っちょうどせんじつの札響とのブルックナー《9番》スケルツォのトリオが好例であったように、努めて同一のテムポを維持し、浮遊せむばかりのかるいかるい発音も、絃のG線やホルンの低音域といった唸るような音色も、音価が同一であれば領している時間はおなじだ、っとばかり、っいっさいがさばさばと見送られてゆく、附点リズムひとつをとっても、丁寧に処理せむとするあまりにかえって音楽へ手垢をなすり、モーツァルトなる天衣無縫の首へしかし輪を嵌め、羽搏くこと能わぬようにしてしまう、っというのでない、っかかる上岡氏一流の稟質が、っむしろぼくがなかなか彼氏の演奏を眞っ正面からキャッチしえなんだ所以でもあるだろう、誰しもまず、丁寧に、几帳面に演奏せられた音を聴きたいのである、上岡氏の音が丁寧ではないといったら多分に誤解を生ずるが、余人がおもう丁寧と彼氏のそれとの間には巨きな隔たりがある、っと云えばそれも解消さるはずである、

附言すれば、っこれもせんじつのヴァイグレ氏と読響との公演に対して、あたかも明瞭な全体の見通しのために瞬間瞬間の感動がひたすらに等閑にされるかのようだ、っとの不同意を述べたが、っきょうの演奏だと、っあっさりと語られれば語らるほど、ほんとうはすべての音をこころゆくまで噛み締めたいにちがいない、っとこちとらでひとりでに同情を惹起せしめてしまうようで、音が去ったあとへ、彼氏、上岡氏のその満腔の未練が漂うかの錯覚さえおぼゆ、ヴァイグレ氏を擁護したい諸賢からすれば、そんなご都合主義があるかっ、っと憤られることだろうが、演奏とお客一個一個との関係というのは、っえてしてさようのものにちがいない、っほんのタッチの差で、不同意にも転べば手放しの絶讚もありうるのである、

モーツァルトも後期となると、書法はあくまで単純なままだのに、緩徐章あたりつい一寸3部形式程度では済まず、え、まだ了わんないの、っという冗長を感じたりもするものだが、っそれもつまりは演奏の責めなので、っきょうのように色調、軽重の如何に依らずいっさいの音を均等な時間の裡へ浮沈せしめる棒によっては、結果として、音楽が発展し、終息するまでの経緯を一望の下に鳥瞰するを得る、

《39番》のメヌエットは、トリオのクラリネットが出色のたのしさ、っずっとリズムを吹く2番におもい切って音量を出させ、1番の主旋は溶けて消えてしまいそうな最弱音、

フィナーレは、っさいしょのVnの主題がフォルテになってもぜんぜん爆発せず、っなんならffよりはmfへ寄ろう寄ろう、、、モーツァルトの記譜にはffもmfもないだろうが、っとしており、不健康の人、上岡敏之の面目も躍如である、っいっぽうでホルンはごつごつと硬い吼え声を上げ、ティムパニもまた硬くちっちゃな頭のマレットであり、っこれらがトュッティの覇気を担うのであって、トロムペットはどこまでも抑えられている、中音量がフレイズを追う毎に弱音へ弱音へと吸い寄せらる危うさは道中へもたびたび現われ、スリル満点、気附けば掌へ汗を握っている、っこのフィナーレや《ユピテル》の同章はきっとさようの手応えを出してくるだろうと踏んではいたが、細部細部のアイディアの豊富については、っとてもとてもこちとらの予想の及ぶところではない、

《40番》はクラリネットを欠く版、っそのせいもあるし、冒頭の主題からVnの歌へ浸る気はさらさらないので、無慈悲の風に吹き曝さる、2楽章もその延長線上かとおもっていただけに、メヌエットでのレガートにはじつに意表を突かる、っすばらしい裏切りであり、フィナーレへもこの意匠が持ち越さる、音価がみじかくなれば立てむとせずとも輪廓が立ってくるのが自然だが、長い音符のみならず、細かい音型でも音を寝かせむ寝かせむという意志が発露しており、っほんとうにへんてこなセンスである、

っいちど気が附くと、気が附くとというか、《40番》後半楽章では無視せむとしても誰しも気附かざるをえないほど放埓にそのレガート趣味が発露したので、《ユピテル》が始まって以降も、っこちとらその趣向へは敏感に反応せずにいない、っもちろん、彼氏のこの意匠はいまに始まったことではなく、従前からたびたび聴かれたものだが、っまいどながら、その音は100人中99人までがふつうに跳ねる音にするよな、っという音もさもとうぜんとでもいうように寝かせ寝かせてゆくので、四の五の云わずに、っもう附き合ってしまったもん勝ちだ、

中間楽章についても云うべきことがあった気がするが、忘れてしまった、っまたあす、注意して聴くとせむ、フィナーレは、例のコーダのみならず、CTスキャンでもしてでかでかと展げてみせるごと、全体がポリフォニーとして鳴る、っここでも足裏が踵まで接地してしまう瞬間はほんの片時もなく、始まったが最後、っついに最終音まで、爪立ちのまま駈けてゆく、翔んでゆく、停まってくれないその音々のすべてを遺漏なく聴き届けることは、っぼくみたような動体視力の鈍い人間には至難中の至難である、いまどんな音だったろうか、っなどと振り返っていては、っそのうちにもう次の音もそのまた次の音も飛び去ってしまうのである、



っさて、っあすも午前のみ仕事をしてから、、、っあ、着て行く服がないわ、帰って洗濯せんと、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




名古屋、栄、




坂入健司郎氏の棒、名古屋フィル公演、済む、演目はモーツァルト《フィガロ、、、》序曲、ベルリン・フィルのクリストフ・ハルトマン氏を招いて同《オーボー・コンチェルト》、っそしてブルックナー《6番》である、



、、、っあっつっ、

っや、っきょうの名古屋の気温を事前に調べて、最高が27℃、最低が18℃といい、っずいぶん暖かいんだなあとおもいはしたが、っそうとはいえ日没すれば膚寒いのではないかとおもい、北海道行時と同様、上も下も下着を1枚おおく着込んで来たのだが、夕ころはもちろんのこと、っいま終演して器を出ても、外の空気はじっとりと湿り、っその水分をそのまま貰って、栄から名駅へ移動する間に汗だくになる、

ったびたび新幹線へ乗っていて、っべつにそんなもの新幹線へ乗らなくったって横浜近郊でならばどこででも購えるが、車内で缶ビールと崎陽軒のシウマイとというのがここのところのぼくのたのしみであり、っあのひょうちゃんというらしい瓢箪型の磁器製の醬油注し、っああいうものが、っべつに躍起になって集めむというのではさらさらないが、っぼくはわりかし嫌いではないのだ、っきょうもそれを手に入れるのがうれしさに新横で求め、午日中からごくごくぱくぱくしていたが、っこないだ大分行した際のひょうちゃんは、神奈川県警とのコーラボレイションとのことでお腹へパト・カーが描いてあり、っきょうのはといえば辛そうな泣き顔で、っお腹へは泪滴なのか雨滴なのかわからないが水滴が連なって描かれている、っお湿りの日に求めたシウマイとしてはまさしく然るべき逸品であろう、

午前のみ仕事をして退勤、っまた午休憩へ入って喫煙組とだべっていて帰宅が遅くなり、室から南大沢の駅までダッシュせねばならなんだが、橋本では検索上は乗れないはずの横浜線の快速へ乗られて、新幹線への乗車時間の20余分も前に新横へ着く、シウマイを購って、喫煙スペイスでシガレットを服み、缶ビールは車輛へ乗るほんの3分前くらいにホームのキオスクで別途求む、15分も先に購っておくと、乗車して開栓するころにはすこしくぬるくなっちゃうからね、っで名駅へ着いて、っまず栄方面と反対側へ出てロータリーの喫煙スペイスで1服し、っやや駅を離れて椿神明社を詣で、松井石根大將へ首を垂る、っそれで戻って駅のコンコースを抜け、シウマイ喰ったくせにして味噌煮込みもまた恋しく、山本屋を目指す、っが、2、3度訪れている駅からすぐの店はランチ・タイムを了えて、敢えなく夕までの準備中となっている、地図アプリケイションで調べて白川の本店は営業中だと判明し、っそこまで20分ほど歩く、歩行者信号が青になるタイミングをみてテキトーに路地を右へ左へしたが、奇しくも閉場も惜しいしらかわホールの脇を歩くこととなる、本店は夕前とあってぼく以外のお客はひとりもおらず、っぼくが食べ了えるころにやっと壮年のご夫婦が1組来られた程度である、っきょう野帳くんと、彼氏がいつかに名古屋行した際に吹上でエビ・フリャー、っもといエビ・フライを食してそれが旨かったという話をしており、じゃあ俺もきょう名古屋で海老天の乗った味噌煮込み喰おっせ、っと云い、宣言通りにして、っまた生を1杯呑み足す、下着も上のシャーツも白く、土鍋から味噌がはねたらたまったものではない、っが、紙エプロンはご利用ですか、っとすすめられてもああいうものをしてメシを喰うのも気羞かしいので断わってしまい、っご承知の通り蓋へ湯気抜きの孔がなく、っそれを取皿へ供するのが味噌煮込みであるが、っその蓋を盾にしてこちとらへ味噌がとばぬように愼重に愼重にうどんを移し、食べるときも啜らねばならないところまで来たら啜らずにそこで噛み切るようにして、っどうとか服を汚さぬままに食べ切った、っが、っそんなストレスフルな食事では、八丁味噌のほろ苦さをちゃんと賞味できていたのか、っじつにアヤしい、

っここで17:30くらい、っよい時間だとおもい、っそのまま久屋大通を突っ切って、っいつも芸文センターでの公演時には開演までの時間潰しに使う、っそこから徒歩3分くらいの喫煙可のカッフェへ入る、17:40ころから小1時間ほどいて、コーフィーのみならず甘いものも食べてしまい、一寸食べすぎであり、シガレットを咥えつ瞑目してはんぶん睡たような状態ですぐし、公演中の睡気対策とす、残り4本のシガレットがちょうど空箱になったので会計をし、開演10分ほど前に器へ入り、楽曲解説はあっさりしていたので、開演までに斜めにさっと読む、

っこんかいは慈善公演とのことで、ったぶん全席均一の値で¥1千とかそんなだったとおもう、開催を知ったのがごくさいきんなのでぼくのおもう最良の席はもう得られなんだが、2階のオルガンの前の席がそのままの高さで舞台両側を取り巻いて正面席のほうへ延びていっているその舞台を右っ側から見下ろす位置、舞台のすぐ脇ではなくすこしく客席側へ離れたブロックで、2列あるうちの後列だったが、っそれでも絃の編成が一回り拡がるブルックナーでもすべての楽員が視界へ入っていた、

っいかな切符が安いとはいえ、主演目がブルックナー《6番》で全席完売とは、2日間同プロという条件のちがいはあるものの、《9番》でさえ場内へ閑古鳥を啼かせてしまう札幌の人たちへ爪の垢でも煎じて呑ませたいところだが、っきょうのこちらは相応にクラッシックに縁のない人も何割か来場していたようで、シムフォニーはスケルツォが済むと派手にブラヴォーを吼える人がおり、っだいぶん盛大な拍手が起こってしまう、っいやあ、っあんまり場に馴れていないのにブラヴォーを云うなんてのは止したほうがよいよ、っま、っそのおっちゃんがクラッシックをふだん聴かない人、コンサートへあまり来たことのない人なのか知らないけれども、っすくなくもブルックナー《6番》のあれがスケルツォで、っそのあとへまだフィナーレがあるということは識らなんだわけだから、っそれで一寸派手なトュッティが鳴り止んだらブラヴォー叫んどことか、っそんなコワいことしちゃダメ、歌舞伎の観劇だってなんだって、音羽屋っ、っとか掛け声を掛けてよいのはちゃんと一端の経験者なんだから、っぼくなんて、高校生のころから25年、ったぶん1千回以上コンサートへ通ったって、ブラヴォーなんざただの1度も云ったことないんですからね、っそれから、っぼくは巷間槍玉へあげられ勝ちのフライング・ブラヴォーとかフライング拍手とかへは、っまあなんならきょうもシムフォニーの最後は、スケルツォのときとはべつのおっちゃんによるフライング気味のブラヴォーだったんだが、人が云うほどには腹が立たない、っまあそうじゃないほうが増しかなあとおもう程度のことで、っそれよりも、ブラヴォーを云う声の色とか質とか、云い方の巧拙とかのほうが気になる、申し訳ないけれどあなたのその汚ない音色の声とか云い方のへたくそなブラヴォーでは、ぼくら1千人2千人のお客を代表して舞台への讚歎とするにまるで価しませんよ、っというそういう声がしたときのほうが、っよほどか演奏の余韻をぶち毀しにされた気がするものだ、っちなみにきょうで云えば、フィナーレのときよりもスケルツォのあとに叫んじゃったおっちゃんのブラヴォーのほうが、断然好い声で、云い方も巧かったね、っそれだけに余計に惜しい、

雑言はさておき、芸文センターのトーンっっっ、っぼくはきょう、楽音よりも先に、っさいしょに坂入氏が登壇される際の自分の拍手の音の色のうつくしさ、残響のゆたかさ、っほかの人もみな一斉に手を叩いているその全体の音響のふかい奥行にまず一驚した、拍手めっちゃ好い音してんじゃんっ、っと、っそして序曲が始まると、直接音のシャープネスと間接音の芳醇とがザ・ベスト・ミックスっっっ、っなんという器であり、っなんという名楽団であるのかっっっ、っそして、っかかる名器における演奏であっても、時間の経過とともにだんだんと感覚が麻痺してありがたみを忘れてゆくのが通り相場であるところ、っきょうは序曲からコンチェルトまで30分くらいの間、ああ、好い器だわここ、めっちゃ透明で綺麗なトーンだわ、、、っとさいしょの感動が持続し、っぼくはずっとうっとりとしていた、

ハルトマン氏はすばらしい妙技を聴かせてくれたが、っこれは意地悪とか難癖で云うのではぜんぜんなくて、妙に安心したのは、っつまり天下のベルリン・フィルのスーパー・スターでも、易々と無疵の奏楽をやってのけるというわけではないということだ、運指がいついかなるときでも練絹のごと柔らかであるのはあのくらいの境地へ存る人にはとうぜんのことで、楽器はいっさいできないぼくでさえ、観ていて、その苛酷な指順のときになお附点リズムまで来るんかいなっ、っとモーツァルトの筆のサディズムへ戦いて、っしかし当のハルトマン氏はといえば、こんなのお茶の子さいさいです、っと涼しい貌でいられる、っけれども、息がつづかなくなれば音が詰まったり掠れたりするし、管内へ結露すれば音が破裂して音色が荒んだりするし、っそういうトラブルはふつうにところどころで起こっていた、スーパー・スターといえどもちゃんと人の子だし、物理的に必然の現象を覆す能力までは誰も有ちえないのである、

っさて、ブルックナーだが、っあまり聴いていない《6番》の音源が自分のスマート・フォン内へあったかしらとおもうと、っひとつあって、っそれを新幹線内で聴いておいたものの、楽想と構成とをすべて把握するには及ばなんだ、っまあブルックナーブルックナーしているので、っおおむねのことはわかるのだが、スケルツォには《5番》、フィナーレには《7番》と通有の要素があった、

1楽章は、㐧2テーマが難物で、っきょうすくなくも提示の際にはなんだか拍子がよくわからなくなる、再現ではその心算で坂入氏の棒をよく視ながら聴いているようにしたが、ったぶんあれだ、《5番》2楽章のさいしょのオーボーのテーマ、っあれとおなじような拍節感を考究した結果なのかとおもう、

、、、っただねえ、曲の内容以前に、公演前半に比して分厚く金管が乗った名フィルは、彼等がすこしく派手に吹きすぎた嫌いかなあ、っや、っみなすばらしい吹奏能力をお有ちなのはよくわかる、っけれども、モーツァルトではあれほど快かったその器のトーンが、彼等がフォルテを鳴らすと定まってわんわんとハウリングするようで、トーンに成る前の、楽器の生の音がこちとらの耳を突き刺してくる、曲が進めばだんだん熟れてすきっと抜けてくるかと踏んだがどうもダメで、後ろへ行くほど力自慢になってしまい、フィナーレの最後など、っぎすぎすした粗暴な刺戟音が満堂を威圧するっきりで、っぜんぜん誇らしい勝鬨の音色を結んでいない、っあれで2千人規模の器へ場を遷すっきりで、っまったくおなじ音を鳴らしてもちゃんと色も雰囲気もある奏楽になったろうが、直近に上岡敏之氏の全編これ色のみで勝負し、直接音の圧力をけっして頼まなんだ特異な大演奏へ触れていただけに、余計にそのざんねんをおぼえた、

坂入氏の造形自身としては、新響のときと同断で、っひじょうに丁寧に曲の経緯を追われており、っどういう曲なのかはずっとわかるし、そうそうブルックナーってこういう音がするよね、っというふうなのだが、っそれが絃、木管、ホルン主体の部分に留まってしまい、トロムペットを交えるともうダメだ、ただオーケストラが物理的に鳴っています、鳴りすぎています、っというだけの音になってしまい、音の意味が伝わらない、っもっと大音場で触れたこの作曲家の他の作の大トュッティをこころにおもいながら、たぶんほんとうはああいうどすんと腹へ応えて、でもどんなに大音響でもぜんぜんうるさくならない、という音がしているはずなんだよな、っと脳内補正しなければ聴いていられないし、っそう補正して聴いたにせよ、っやっぱり曲を味わっていることにはならない、

っおかしいなあ、っぼくはこのおなじ音場で数年前、井上キーミツがショスタコーヴィチ《8番》を振られるのを聴き、っそのときだって名フィルは死力を盡した大演奏で、ブルックナー以上にけたたましい音のする個所だってあったはずだが、トュッティが優に飽和する感触はした、っけれども、鳴りすぎてうるさく、意味を伝えない騒音っきりしていない、っという悪印象は露なく、っすべての瞬間が雄弁だったはずなのに、っあれかなあ、っそのときよりもなお舞台へ近く、っかつトロムペットへも近い位置で聴いていたからかなあ、

っどうなんだろう、舞台でのプローべですこしく音を出してみて、一寸鳴りすぎですかね、もう一寸音量抑えてみませんか、っと云ったら解決する問題なんだろうか、っでも音量の問題なのかなあ、客席で聴いていると、トロムペットの最も快い音色はあの、ふぁんっ、っと圧力がしないですきっと抜けてゆく音なんだよ、東京でいえば、っいま日本フィルのトロムペットは、絶好調のときはいつもそういう音が出せるし、っかなり音量を出しているときでさえ、っやっぱり、ふぁんっ、っという音のままなんだ、っそれがとくにサントリーの空間へさっぱりと融けながら消えてゆくときのうつくしさといったら、っいまこころへおもってみるっきりでも泪が溢れるくらいだ、ぱんっ、っという破裂音をさせなきゃフォルテを吹けないラッパ吹きというのは、っぼくはまず2流3流以下の奏者だとおもうよ、っそれできょうの名フィルを聴くと、っべつにぱんぱかぱらぱらというラッパではなかったとおもうんだが、っそれでもひびきが抜けてゆかないんだ、スケルツォの最強音を振り切ったその直接音にせよ残響にせよ、っあんな、ばんっっっ、っと反社の人が拳で机でも叩いて凄むような鋭すぎる全体の音は、っぜんぜんブルックナーの音に聴こえないんだよ、っむつかしいもんだね、



っさて、っお次はすぐあさって、っまた午后は休んでしまって、上岡氏と新日本フィルとのモーツァルト、翌日の同プロも聴く、っなんだか休んで遊んでばっかりいる気がするんだが、っそれでも有給はぜんぜん減りゃしなくて30日くらい溜まっている、っこれをぜんぶ休ませむというなら日本人は腑抜け中の腑抜けへ堕落してしまうので、働き方改革ってそれなんなんですか、っというハナシだ、っこれ以上休まむとしたら、っすくなくもぼくは気が咎めるよ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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