名古屋、栄、
坂入健司郎氏の棒、名古屋フィル公演、済む、演目はモーツァルト《フィガロ、、、》序曲、ベルリン・フィルのクリストフ・ハルトマン氏を招いて同《オーボー・コンチェルト》、っそしてブルックナー《6番》である、
、、、っあっつっ、
っや、っきょうの名古屋の気温を事前に調べて、最高が27℃、最低が18℃といい、っずいぶん暖かいんだなあとおもいはしたが、っそうとはいえ日没すれば膚寒いのではないかとおもい、北海道行時と同様、上も下も下着を1枚おおく着込んで来たのだが、夕ころはもちろんのこと、っいま終演して器を出ても、外の空気はじっとりと湿り、っその水分をそのまま貰って、栄から名駅へ移動する間に汗だくになる、
ったびたび新幹線へ乗っていて、っべつにそんなもの新幹線へ乗らなくったって横浜近郊でならばどこででも購えるが、車内で缶ビールと崎陽軒のシウマイとというのがここのところのぼくのたのしみであり、っあのひょうちゃんというらしい瓢箪型の磁器製の醬油注し、っああいうものが、っべつに躍起になって集めむというのではさらさらないが、っぼくはわりかし嫌いではないのだ、っきょうもそれを手に入れるのがうれしさに新横で求め、午日中からごくごくぱくぱくしていたが、っこないだ大分行した際のひょうちゃんは、神奈川県警とのコーラボレイションとのことでお腹へパト・カーが描いてあり、っきょうのはといえば辛そうな泣き顔で、っお腹へは泪滴なのか雨滴なのかわからないが水滴が連なって描かれている、っお湿りの日に求めたシウマイとしてはまさしく然るべき逸品であろう、
午前のみ仕事をして退勤、っまた午休憩へ入って喫煙組とだべっていて帰宅が遅くなり、室から南大沢の駅までダッシュせねばならなんだが、橋本では検索上は乗れないはずの横浜線の快速へ乗られて、新幹線への乗車時間の20余分も前に新横へ着く、シウマイを購って、喫煙スペイスでシガレットを服み、缶ビールは車輛へ乗るほんの3分前くらいにホームのキオスクで別途求む、15分も先に購っておくと、乗車して開栓するころにはすこしくぬるくなっちゃうからね、っで名駅へ着いて、っまず栄方面と反対側へ出てロータリーの喫煙スペイスで1服し、っやや駅を離れて椿神明社を詣で、松井石根大將へ首を垂る、っそれで戻って駅のコンコースを抜け、シウマイ喰ったくせにして味噌煮込みもまた恋しく、山本屋を目指す、っが、2、3度訪れている駅からすぐの店はランチ・タイムを了えて、敢えなく夕までの準備中となっている、地図アプリケイションで調べて白川の本店は営業中だと判明し、っそこまで20分ほど歩く、歩行者信号が青になるタイミングをみてテキトーに路地を右へ左へしたが、奇しくも閉場も惜しいしらかわホールの脇を歩くこととなる、本店は夕前とあってぼく以外のお客はひとりもおらず、っぼくが食べ了えるころにやっと壮年のご夫婦が1組来られた程度である、っきょう野帳くんと、彼氏がいつかに名古屋行した際に吹上でエビ・フリャー、っもといエビ・フライを食してそれが旨かったという話をしており、じゃあ俺もきょう名古屋で海老天の乗った味噌煮込み喰おっせ、っと云い、宣言通りにして、っまた生を1杯呑み足す、下着も上のシャーツも白く、土鍋から味噌がはねたらたまったものではない、っが、紙エプロンはご利用ですか、っとすすめられてもああいうものをしてメシを喰うのも気羞かしいので断わってしまい、っご承知の通り蓋へ湯気抜きの孔がなく、っそれを取皿へ供するのが味噌煮込みであるが、っその蓋を盾にしてこちとらへ味噌がとばぬように愼重に愼重にうどんを移し、食べるときも啜らねばならないところまで来たら啜らずにそこで噛み切るようにして、っどうとか服を汚さぬままに食べ切った、っが、っそんなストレスフルな食事では、八丁味噌のほろ苦さをちゃんと賞味できていたのか、っじつにアヤしい、
っここで17:30くらい、っよい時間だとおもい、っそのまま久屋大通を突っ切って、っいつも芸文センターでの公演時には開演までの時間潰しに使う、っそこから徒歩3分くらいの喫煙可のカッフェへ入る、17:40ころから小1時間ほどいて、コーフィーのみならず甘いものも食べてしまい、一寸食べすぎであり、シガレットを咥えつ瞑目してはんぶん睡たような状態ですぐし、公演中の睡気対策とす、残り4本のシガレットがちょうど空箱になったので会計をし、開演10分ほど前に器へ入り、楽曲解説はあっさりしていたので、開演までに斜めにさっと読む、
っこんかいは慈善公演とのことで、ったぶん全席均一の値で¥1千とかそんなだったとおもう、開催を知ったのがごくさいきんなのでぼくのおもう最良の席はもう得られなんだが、2階のオルガンの前の席がそのままの高さで舞台両側を取り巻いて正面席のほうへ延びていっているその舞台を右っ側から見下ろす位置、舞台のすぐ脇ではなくすこしく客席側へ離れたブロックで、2列あるうちの後列だったが、っそれでも絃の編成が一回り拡がるブルックナーでもすべての楽員が視界へ入っていた、
っいかな切符が安いとはいえ、主演目がブルックナー《6番》で全席完売とは、2日間同プロという条件のちがいはあるものの、《9番》でさえ場内へ閑古鳥を啼かせてしまう札幌の人たちへ爪の垢でも煎じて呑ませたいところだが、っきょうのこちらは相応にクラッシックに縁のない人も何割か来場していたようで、シムフォニーはスケルツォが済むと派手にブラヴォーを吼える人がおり、っだいぶん盛大な拍手が起こってしまう、っいやあ、っあんまり場に馴れていないのにブラヴォーを云うなんてのは止したほうがよいよ、っま、っそのおっちゃんがクラッシックをふだん聴かない人、コンサートへあまり来たことのない人なのか知らないけれども、っすくなくもブルックナー《6番》のあれがスケルツォで、っそのあとへまだフィナーレがあるということは識らなんだわけだから、っそれで一寸派手なトュッティが鳴り止んだらブラヴォー叫んどことか、っそんなコワいことしちゃダメ、歌舞伎の観劇だってなんだって、音羽屋っ、っとか掛け声を掛けてよいのはちゃんと一端の経験者なんだから、っぼくなんて、高校生のころから25年、ったぶん1千回以上コンサートへ通ったって、ブラヴォーなんざただの1度も云ったことないんですからね、っそれから、っぼくは巷間槍玉へあげられ勝ちのフライング・ブラヴォーとかフライング拍手とかへは、っまあなんならきょうもシムフォニーの最後は、スケルツォのときとはべつのおっちゃんによるフライング気味のブラヴォーだったんだが、人が云うほどには腹が立たない、っまあそうじゃないほうが増しかなあとおもう程度のことで、っそれよりも、ブラヴォーを云う声の色とか質とか、云い方の巧拙とかのほうが気になる、申し訳ないけれどあなたのその汚ない音色の声とか云い方のへたくそなブラヴォーでは、ぼくら1千人2千人のお客を代表して舞台への讚歎とするにまるで価しませんよ、っというそういう声がしたときのほうが、っよほどか演奏の余韻をぶち毀しにされた気がするものだ、っちなみにきょうで云えば、フィナーレのときよりもスケルツォのあとに叫んじゃったおっちゃんのブラヴォーのほうが、断然好い声で、云い方も巧かったね、っそれだけに余計に惜しい、
雑言はさておき、芸文センターのトーンっっっ、っぼくはきょう、楽音よりも先に、っさいしょに坂入氏が登壇される際の自分の拍手の音の色のうつくしさ、残響のゆたかさ、っほかの人もみな一斉に手を叩いているその全体の音響のふかい奥行にまず一驚した、拍手めっちゃ好い音してんじゃんっ、っと、っそして序曲が始まると、直接音のシャープネスと間接音の芳醇とがザ・ベスト・ミックスっっっ、っなんという器であり、っなんという名楽団であるのかっっっ、っそして、っかかる名器における演奏であっても、時間の経過とともにだんだんと感覚が麻痺してありがたみを忘れてゆくのが通り相場であるところ、っきょうは序曲からコンチェルトまで30分くらいの間、ああ、好い器だわここ、めっちゃ透明で綺麗なトーンだわ、、、っとさいしょの感動が持続し、っぼくはずっとうっとりとしていた、
ハルトマン氏はすばらしい妙技を聴かせてくれたが、っこれは意地悪とか難癖で云うのではぜんぜんなくて、妙に安心したのは、っつまり天下のベルリン・フィルのスーパー・スターでも、易々と無疵の奏楽をやってのけるというわけではないということだ、運指がいついかなるときでも練絹のごと柔らかであるのはあのくらいの境地へ存る人にはとうぜんのことで、楽器はいっさいできないぼくでさえ、観ていて、その苛酷な指順のときになお附点リズムまで来るんかいなっ、っとモーツァルトの筆のサディズムへ戦いて、っしかし当のハルトマン氏はといえば、こんなのお茶の子さいさいです、っと涼しい貌でいられる、っけれども、息がつづかなくなれば音が詰まったり掠れたりするし、管内へ結露すれば音が破裂して音色が荒んだりするし、っそういうトラブルはふつうにところどころで起こっていた、スーパー・スターといえどもちゃんと人の子だし、物理的に必然の現象を覆す能力までは誰も有ちえないのである、
っさて、ブルックナーだが、っあまり聴いていない《6番》の音源が自分のスマート・フォン内へあったかしらとおもうと、っひとつあって、っそれを新幹線内で聴いておいたものの、楽想と構成とをすべて把握するには及ばなんだ、っまあブルックナーブルックナーしているので、っおおむねのことはわかるのだが、スケルツォには《5番》、フィナーレには《7番》と通有の要素があった、
1楽章は、㐧2テーマが難物で、っきょうすくなくも提示の際にはなんだか拍子がよくわからなくなる、再現ではその心算で坂入氏の棒をよく視ながら聴いているようにしたが、ったぶんあれだ、《5番》2楽章のさいしょのオーボーのテーマ、っあれとおなじような拍節感を考究した結果なのかとおもう、
、、、っただねえ、曲の内容以前に、公演前半に比して分厚く金管が乗った名フィルは、彼等がすこしく派手に吹きすぎた嫌いかなあ、っや、っみなすばらしい吹奏能力をお有ちなのはよくわかる、っけれども、モーツァルトではあれほど快かったその器のトーンが、彼等がフォルテを鳴らすと定まってわんわんとハウリングするようで、トーンに成る前の、楽器の生の音がこちとらの耳を突き刺してくる、曲が進めばだんだん熟れてすきっと抜けてくるかと踏んだがどうもダメで、後ろへ行くほど力自慢になってしまい、フィナーレの最後など、っぎすぎすした粗暴な刺戟音が満堂を威圧するっきりで、っぜんぜん誇らしい勝鬨の音色を結んでいない、っあれで2千人規模の器へ場を遷すっきりで、っまったくおなじ音を鳴らしてもちゃんと色も雰囲気もある奏楽になったろうが、直近に上岡敏之氏の全編これ色のみで勝負し、直接音の圧力をけっして頼まなんだ特異な大演奏へ触れていただけに、余計にそのざんねんをおぼえた、
坂入氏の造形自身としては、新響のときと同断で、っひじょうに丁寧に曲の経緯を追われており、っどういう曲なのかはずっとわかるし、そうそうブルックナーってこういう音がするよね、っというふうなのだが、っそれが絃、木管、ホルン主体の部分に留まってしまい、トロムペットを交えるともうダメだ、ただオーケストラが物理的に鳴っています、鳴りすぎています、っというだけの音になってしまい、音の意味が伝わらない、っもっと大音場で触れたこの作曲家の他の作の大トュッティをこころにおもいながら、たぶんほんとうはああいうどすんと腹へ応えて、でもどんなに大音響でもぜんぜんうるさくならない、という音がしているはずなんだよな、っと脳内補正しなければ聴いていられないし、っそう補正して聴いたにせよ、っやっぱり曲を味わっていることにはならない、
っおかしいなあ、っぼくはこのおなじ音場で数年前、井上キーミツがショスタコーヴィチ《8番》を振られるのを聴き、っそのときだって名フィルは死力を盡した大演奏で、ブルックナー以上にけたたましい音のする個所だってあったはずだが、トュッティが優に飽和する感触はした、っけれども、鳴りすぎてうるさく、意味を伝えない騒音っきりしていない、っという悪印象は露なく、っすべての瞬間が雄弁だったはずなのに、っあれかなあ、っそのときよりもなお舞台へ近く、っかつトロムペットへも近い位置で聴いていたからかなあ、
っどうなんだろう、舞台でのプローべですこしく音を出してみて、一寸鳴りすぎですかね、もう一寸音量抑えてみませんか、っと云ったら解決する問題なんだろうか、っでも音量の問題なのかなあ、客席で聴いていると、トロムペットの最も快い音色はあの、ふぁんっ、っと圧力がしないですきっと抜けてゆく音なんだよ、東京でいえば、っいま日本フィルのトロムペットは、絶好調のときはいつもそういう音が出せるし、っかなり音量を出しているときでさえ、っやっぱり、ふぁんっ、っという音のままなんだ、っそれがとくにサントリーの空間へさっぱりと融けながら消えてゆくときのうつくしさといったら、っいまこころへおもってみるっきりでも泪が溢れるくらいだ、ぱんっ、っという破裂音をさせなきゃフォルテを吹けないラッパ吹きというのは、っぼくはまず2流3流以下の奏者だとおもうよ、っそれできょうの名フィルを聴くと、っべつにぱんぱかぱらぱらというラッパではなかったとおもうんだが、っそれでもひびきが抜けてゆかないんだ、スケルツォの最強音を振り切ったその直接音にせよ残響にせよ、っあんな、ばんっっっ、っと反社の人が拳で机でも叩いて凄むような鋭すぎる全体の音は、っぜんぜんブルックナーの音に聴こえないんだよ、っむつかしいもんだね、
っさて、っお次はすぐあさって、っまた午后は休んでしまって、上岡氏と新日本フィルとのモーツァルト、翌日の同プロも聴く、っなんだか休んで遊んでばっかりいる気がするんだが、っそれでも有給はぜんぜん減りゃしなくて30日くらい溜まっている、っこれをぜんぶ休ませむというなら日本人は腑抜け中の腑抜けへ堕落してしまうので、働き方改革ってそれなんなんですか、っというハナシだ、っこれ以上休まむとしたら、っすくなくもぼくは気が咎めるよ、
みずの自作アルヒーフ
《襷 ータスキー》(全4回)
https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)
《ぶきっちょ》(全4回)
https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)