上岡敏之氏の棒、札響公演2日目、済む、演目はブルックナー《9番》と《テ・デウム》とである、
っきょうはだいぶん冷え込むというが、っあさホテルの室で着替えむとして、朝陽が差してぞんがいぽかぽかとするので、パンツの下へスパッツみたようなのを穿かなくともよいかとおもってそれでチェック・アウトして外へ出ると、っやっぱりダメだ、っぜんぜん寒い、っそれで公園の身障者用のトイレを拝借してそれを穿き、開演まで器の近くでずっと喫煙している、水の綺麗な川が公園内へ引き込んであり、っそのほとりのベンチへ坐していて、陽が当たっていればすぐしよいが、っすこしくでも翳ると末端が冷え、っそのたびにポケツヘ手を突っ込んでいる、
っきのうは正面右寄りというか、サントリーでいえばぼくの定位置、RCみたような個所であり、っきょうは左、同LB相当というようなブロックの、正面席へ近いほうである、っきのうはすべての楽員を視認することができたが、っきょうはVnの後方や左側のホルンの下位の奏者はすこしく視えない、っが、っきのうよりもだいぶん舞台へ近く、絃バスの対面であり、っかつオルガン前席のコーラスへも近いのであって、上岡氏の演奏の性格に対する位置取りとしては、っきょうのほうがより好適であった、
っきのうもお客の入りは7割もゆかないくらい、日曜のきょうのほうが大勢来るのかとおもうとなおすくなく、半分も入ったかどうかといえば大袈裟かもしれないが、っそのくらいさびしい、っふだんからこの程度の集客力なのだろうか、東京の人口は1千と数百万、気楽に都心へ出て来られる隣県の人数も合わせれば2千万凸凹というところだろう、っその東京へはプロフェッショナルの楽団が9か10かくらいある、単純計算で人口2百万あたり1楽団、っまあクラッシックの需要というのはそのくらいの規模なのだろう、っそこで北海道はといえば、人口はたしか5百万余、っうち半数余が札幌市在住とのことだから、っつまり優にプロフェッショナルの楽団を維持できてよいはずだが、っそれがあの客入りとは、他所者が僭越だが、文化に対する意識の有ち様としてどうなのだろうか、プロ・スポーツのクラブ・ティームなどと同様で、っいざ潰れますという段になってから、俺たち私たちの札響を守れ、文化の火を絶やすな、っとかと活動するくらいなら、っいまから道民のおひとりおひとりがしかと購い支えるという気概を奮っていただきたいものである、
っとまれ、演奏はすばらしかった、完成度としてはきのうとどっこいくらいだったのかとおもうが、っくりかえせば、聴きたい音量音勢、バランスは、っきのうよりもきょうのほうが理想的に叶えてくれた、
っしかし、各楽器の質感がよりヴィヴィッドに主張するその位置で聴いても、でっかいジューク・ボックスから一体の音が発せられている、っその感触は変わらない、っきのうは、っひびきの基底としての絃バスをせめてもうすこしくでも聴きたいとややおもったが、っきょうはその渇きも癒さる、数は5であり、っそれが上岡氏の所望なのか、札響常勤のフル・メムバーなのかは知らないが、っじつにカーチュン・ウォン氏のときとはダブル・スコアであり、っあちらがなお飽き足らず彼等をホリゾントとしていたことをおもうと、志向している楽曲像がいかに相違しているか、っである、
最冒頭、原始霧は、っほぼまったく聴こえない、カーチュン氏もかなりの最弱音で開始されていたが、っそんなものではなく、っほんとうにほとんど無音である、っこれは新日本フィルとの際にも同断であって、っぼくもはなからその心算で来道し、っきのうもきょうも全神経を聴覚へ集中せしめて奏楽の開始を待った、っそれでやっと擦絃の物理音を聴取しうる程度で、近場でお客がつい一寸身体を動かすっきりでも、っその衣擦れの音によって楽音が完全に遮られてしまうような、っさようの音量である、っお客によっては、木管の和音が鳴ってはじめて、あ、え、もう演奏始まっとるんかいな、っと呆気に取られた人もいたことだろう、
隆起する㐧1テーマは、トュッティへ達したところではいまだ指揮者は穏やかな振りであり、頂点を打つ直前あたりからくわっと豹変、憑かれたように腕を振り回し、楽隊を煽動するも、っさりとて札響は殺伐たる騒音を発するのではない、上岡氏のアンサムブルはいつもさようであり、威圧的の大音響は絶無である、
㐧2テーマはゆっくりとしているが、っねちねちとした歌はお呼びでなく、後半で金管を交えても全楽は流線型のままで、楽器楽器の質感質感の継ぎ目継ぎ目が見えない、っこのあたりが、っでっかいジューク・ボックスの秘蹟なのらしい、
㐧3テーマはおおきな4つに数え、っよってかなりテムポが速いし、拍のなかでのオケの自由度が増すので、っやはり先へ先へと抵抗なく流れてゆく、カーチュン氏のここもそうで、っそのときはもっと1歩1歩を踏み締めてくれたいとおもったぼくだが、上岡氏のばあいは、っもはや不健康であってこその彼氏の音楽である、っひたすら同一音型をくりかえしつ、曲は金管、ティムパニを加えて激する、っその漸増は㐧2テーマの比ではないが、っにも拘わらず、っやはり全体の音響は色調の移ろいのみを伝え、聴く者の眼前へ屹立するという鳴り方をしない、っぼくはこの曲のとくに同楽章について、剣ヶ峯みたような峻厳たる音楽であり、金管やティムパニが劈くように突出しないのではその趣も発現しない、よく融け合ったなだらかな合奏であってはいけない、っとしばしば云ったものであるが、っそれもやや短慮短絡であったかもしれない、っや、っそうではないだろう、部品部品を積んで全体を造ってゆく一般的の奏楽によっては、っやはり音勢のつよい楽器はぞんぶんに鳴ってくれなければならない、っしかし、っきのうきょうと上岡氏を聴いていると、っつよい楽器がしかしぜんぜん突出しなくとも、ブルックナー以前にも以後にも誰ひとりとして音楽へ表わすことのできなんだ人類の苦衷が、っちゃんと容易には人を近附けぬきびしさを有って鳴る、っその戰慄は、音の量や圧力から来るものではなくして、偏に色から来るものである、聴いていて、一声部毎に役割を充てられた楽器楽器の綜合たるオーケストラというものはいったん忘却せられてしまい、っやはりいまや、絃、木管、金管、ティムパニ、っそれらすべての音を発しうる巨大なひとつの楽器を目前にしているのである、っや、っその云い種でもまだ足りない、っぼくらは絃という楽器、木管という楽器、金管という楽器、ティムパニという楽器、っそれらの音をほんとうは知らないのであり、っただブルックナー《9番》という現象が成立するために必要な音が、絃という木管という金管というティムパニという既存の楽器楽器により、ったまさか発音可能だったのである、人はかかるパラドクスをわるい冗談と嗤うだろうが、っぼくがいつも、それがオーケストラの音だということを忘れてしまう、っと云う楽音とは、っじつにさようのものである、っそれとても発音様式は1通りではなかろうが、っきのうもきょうも、っぼくはそれを聴いたのだった、
っそれにしても、っその特有の音色はけっして濃密でも濃厚でもないのだが、上岡氏はきのうもきょうも、ったびたび譜面台へ両肘をついてうずくまるようなアクションをされ、振るのを止められてしまう、先へ進むのがくるしいのだという表象だが、っさようの入魂の棒によってさえ、オケは1音1音へずぶずぶと留まることはけっしてせず、っあくまでも流れ流れてゆく、っほんとうに稀有の音楽性であり、オーケストラに対して、オーケストラが鳴るということに対して、っあのようなセンスを宿している人は、っほかにけっしていない、
ホルンがゲシュトップフトを用いるマルチアな部分は、テムポが速いほうがぼくのこのみだと云ったが、上岡氏はゆっくり、っしかし、っそれも死線を跨がむという足取りであってみれば、っがんらいは妥当なのかもしれない、っそれでもぼくは、速いほうがうれしいが、
再現の㐧3テーマはおおきく膨れ上がってとうとう救い難い阿鼻叫喚へと達する、っが、っそこもまた色の勝利、っもちろん峻烈な響が連続しているが、っやはりぼくはそれがオーケストラの音だということを忘れたままである、金管の咆哮、、、音量はかならずしも抑えられているわけではない、っをものともせず迸る絃の全弓の軋り、っその両が絶妙に並立する全体の音響を、オーケストラが出す音としては、っぼくは知らないのである、
スケルツォはトリオが滅法おもしろい、上岡氏は同《8番》の同章でも愕くほどのあっさり味を聴かせたものだが、っこの曲にあってはもう一捻り効いて、っそこが始まってみると、っむしろ愼重な歩幅である、っところが、ティムパニをブリッジにまずセロ、先へ進んでヴァイオリンによる音価の長い歌の要素の部分へ遷っても、指揮者は歌は彼等へ任せっきりにしてぜんぜんエスプレッシーヴォのアクションをされないで、っなにをなすっているのかといえば、右手の棒のみならず左手も高く掲げてずっと拍を示しつづけられ、ホルンやトロムペットの同音連続のタンギングに対して完全なイン・テムポを要求されている、っつまり、歌の部分へ遷ったらテムポを落とすという人の生理にとって自然な伸縮を拒否し、トリオ全体を完全に同一のテムポで運びたいわけだ、っみごとに変人である、
アダージョは冒頭、1stの嗚咽から黄昏のファンファールまで、っほんとうに曲の心象のみがしており、っもはや音楽を聴いているのかもわからない、っそれが音楽的に可能であり、音楽にっきり可能ではない、不可思議な経験である、
㐧2テーマは、っこれまで後半のVnの歌がピッツィによる伴奏を喪って以降の部分を名場面とおもってきたが、っきょうことのほか印象的だったのは、っむしろその後のピッツィ上でホルンが鳴るところである、主題の始めにはあんなにも深刻だった絃の歌は、っそのおなじ動機を用いながら、っこのホルンではほとんどあっけらかんとしており、逃れえぬ諦観の裡に、っいっそ大欠伸でもかましているやに聴こえたことだ、
展開は、楽章冒頭をそっくり再現したあとそれを弱音でくりかえすという憎い挨拶のあと、激越なトュッティに身悶えし、取り残さる木管は目の焦点の合わぬ放心状態、っそこから㐧1テーマのトュッティを再現するまでの間の絃の歌は、っまこと人生の悔悟である、
Lの絃は、っさいしょのひりつくような高い音の和声よりも、っいちどホルンが合いの手を入れ、っふたたび動機の頭へ還った際のすこしく音の下がったそれのほうがより神妙な色合いをしているようで、っぼくはいつもそちらのほうを注意して聴くが、っきょうはちゃんとそれをたいせつにおもっている音がしていた、演奏によっては、あれ、俺がそうおもっているっきりで、ここ、そうでもねえのかなあ、っと自分で自分が疑わしくなるものだが、
㐧2テーマの最期の変奏は、中途からの頭が休符の2ndのアルコを鋭く抉り、応ずる1stのピッツィをびちびちと弾け飛ばせる、っとうぜんにして必要不可欠の差配であり、命が寸々に刻まれ、砕ける音がする、っそして1楽章終局に比肩すべき、っや、っそれ以上の巨大な波濤がやって来ていっさいを呑み込み、絶望の和音のみを遺して去る、っもちろん、っここにおいてなお、上岡氏の演奏は量や圧力で音楽を語ってはいない、
コーダがついに救済へ達する部分は、Lと同様に、Vnのはじめの高い音の仕合わせもさることながら、っそれが音高を下げてきた際の微睡むごと和声も捨て難い、
シムフォニーが済んで、っさてまるで調子の異なる《テ・デウム》であるが、新日本フィルとのときもそうだったろうか、ったしかそのような気がするが、っそれまでソリストもコーラスも場内へいないで、っそれからようやっとの入場である、っそれでも新日フィルの際にはアダージョが済んで同曲が始まるまでに誰ひとりとして拍手をせなんだことをきのう想い出し、っその再現を期待するところ、っそれはきのうもきょうも達せられなんだ、っきのうはアダージョ後はすべての人が拍手を堪え、コーラスがオルガンの前の席へ降りて来られてもそれはつづいたが、袖からソリストがホルンの背後へ入る際はダメで、っあたりまえのように誰かが、待ってましたっ、っとでも云いたげな場違いな勢いで手を叩き、2、3割くらいの人はそれへ雷同してしまう、バカめ、っきょうは、っむしろアダージョ後にほんの2、3の人からのぱらぱらという拍手があってすぐに収まり、コーラス、ソリストの入場に対しても拍手はなしと、っきのうよりはまだしもまともであった、
っさてその演奏は、っどうも歴としたホールで聴く声楽と器楽との共伴する楽曲においては、前者が後者に消され勝ちとなるバランスを聴かさることしばしばである、っしかし、っどんな楽曲においても、声楽が入るかぎりは、っそれと器楽とが同時に鳴る部分では、っいついかなるときでも声楽が全体の音量の過半を握っていねばならないとおもう、音勢や音質の問題からいっても、人声はどんなに大音量を発したとて器楽各種の発音を完全に蔽い隠してしまうことはないはずだが、逆も眞なりとはゆかず、器楽はそれのみで音場を飽和せしめてしまうと、っもう声楽がどんなに大声を張り上げても、彼等の声は客席へはほぼまったく届かない、楽聖《㐧9》やマーラー《復活》のむつかしさもそこで、フィナーレも声楽を招じ入れてのちには、オケは満々と曲趣を謳歌したい気をぐっと堪えて、っややテンションを下げたほうがよい、テンションを下げて音量を抑え、音勢も矯め、ソロがちゃんと聴こえ、コーラスといっしょのときはコーラスが全体の音量を主導するように取り計らったほうが、結果としては曲の姿がお客へよく伝わり、感銘を與えることも可能である、
っきのうきょうの演奏を観ていると、シムフォニーではあれほど全身全霊を賭して弾いた札響の絃諸賢数十名が、《テ・デウム》では可笑しいくらいにおひとり残らずほんの弓のまんなかへんでちょこちょことっきり弾かれなくなる、本番の音場でのプローべにおいて割り出されたバランスであったのかとおもうが、っそれでもなお、ソリストもコーラスも完全にオケの背後となるぼくのきのうの位置からでは、っやはり声楽の主張がよわいというもどかしさをおぼえずにいなんだ、っその点きょうはオケを横っ腹から望んでいるようなもので、っきのうよりもソリストへもコーラスへも近い位置となってもおり、っだいぶん好条件である、
っただ、先週大分で聴いた森口真司氏の同曲では、っふつうにソリストもコーラスもオケの背後へ居並んでおり、コーラスはあれでどのくらいか、っべつにそんなに何百人というような大人数ではなかったが、っしかし20と余分の全曲の、っいかなる編成の部分においても、恆に声楽が全体の音響を支配し、弱音から強音まで、絶えず4声の動きが目に見えるように聴こえ、っつまりちゃんとオケ伴奏附き合唱曲という体裁をしていたので、っそれからすると、っよくひびく器で演奏せられるこの手の楽曲ほど、オケに消され勝ちのなんだか合唱曲らしきもの、っみたようなよくわからない代物になってしまうのがいつもざんねんである、
森口氏のばあい、オケは今次の札響と同様にそこではいかにも淡々と、音量を出さぬよう出さぬように弾かれており、対して声楽は元気いっぱいの若人たちであり、っすばらしい声量と濁りのない発音と、っそして精確な音の処理とをもって、敢えて云えば1声部1声部が器楽的に機能し、っしたがって、人間の声はしていても、全体が絶えず抽象的のコムポジションとして鳴っていたものである、
ソリストにしても、っおひとりおひとりが独立したプロフェッショナルと成り遂せていられるきのうきょうのような陣容では、能うかぎり我を消してティームとして存ろう存ろうとしていられるのはわかるが、っそれでもやはりどうしてもソリストソリストしたソロになってしまう、森口氏の際はもちろんソリストも学生連から選抜せられており、4声部を個所によって計7、8人で分担されていたが、声楽家としていまだつよい個性を有たない、っただ生来の声のうつくしさそれのみで勝負していられる彼等の4重唱の妙はいかばかりであったか、っやはりすべてが人の声の出る楽器みたように交響体の部品部品に徹し、殊に前後半でおふたりが唄い分けられたバス、っうち後者は盲人の青年でいられたようだが、っその上部3声に対する音色の距離感、っぜんぜん怒鳴っていないのにかなりの大音場の隅々までを低い、快い質感で完全に共鳴せしめる存在感こそは忘れむとして忘られるものではなく、っそうした種々の上演条件も加味すると、上岡氏よりは森口氏のほうが断然、ブルックナー《テ・デウム》という楽曲を聴いた、っという実感を與えてくれた、
上岡氏は先般、二期会に招かれてモーツァルト《レクイエム》を振られたが、っそれ以前には新日フィルとボーイズのコーラスを起用して同曲を披瀝されており、っその特有のひびきからすれば、酸いも甘いも噛み分けた成年のコーラスはあたりまえに温かい人の声がしてしまい、っそれも各声部の音色も得手勝手で統一を欠き、っかえって凡庸で長所のない演奏となってしまっていた、っそれからすれば、っこんかいのコーラスはまだしもティームとしての一体性を有ち、っけっして未完の一大シムフォニーの掉尾へ水を差したのではなかったのだが、
っさて、帰りの空路でも鉄路でも書き切らず、っいま日附も変わって、っいつもの南大沢の喫煙スペイス、、、っまあでもきょうの記事は一寸ダメだな、っもっとドライに物理音のことのみを取り沙汰できる想定でいたのだが、っぞんがい雲を摑むようなものいいばかりになってしまった、っここさいきんはずっと云いたいとおもっていることをそのまま云えている書き味でこられていたはずだが、っだらだらと書いていて、っひさびさに、や、ちがうんだよなあ、こんなことが云いたいんじゃないんだよ、っとおもっているのにそちらのほうへそちらのほうへ筆が滑っていってしまう口惜しさを喰んだ、っぼくとしたことが、不覚、っこれではぜんぜん、っとくにきょう、っというかきのう、2日目の演奏にぼくがいかにふかく感銘していたかを云い切れていない、勉強し直して来ます、
っが、っのんびり1泊したこともあり、大分のときほどくたくたではない、東京もそれなりに寒いが、っよなかに外へ立ち盡してシガレットを咥えているのも快い時節となった、っもうすぐに寒すぎてそんなこともしていられない気温になってしまうが、
っお次はすぐ水曜、午前のみ仕事をして名古屋日帰り、坂入健司郎氏の名古屋フィル公演、