ざっかん記 -15ページ目

札幌2日目、




上岡敏之氏の棒、札響公演2日目、済む、演目はブルックナー《9番》と《テ・デウム》とである、

っきょうはだいぶん冷え込むというが、っあさホテルの室で着替えむとして、朝陽が差してぞんがいぽかぽかとするので、パンツの下へスパッツみたようなのを穿かなくともよいかとおもってそれでチェック・アウトして外へ出ると、っやっぱりダメだ、っぜんぜん寒い、っそれで公園の身障者用のトイレを拝借してそれを穿き、開演まで器の近くでずっと喫煙している、水の綺麗な川が公園内へ引き込んであり、っそのほとりのベンチへ坐していて、陽が当たっていればすぐしよいが、っすこしくでも翳ると末端が冷え、っそのたびにポケツヘ手を突っ込んでいる、

っきのうは正面右寄りというか、サントリーでいえばぼくの定位置、RCみたような個所であり、っきょうは左、同LB相当というようなブロックの、正面席へ近いほうである、っきのうはすべての楽員を視認することができたが、っきょうはVnの後方や左側のホルンの下位の奏者はすこしく視えない、っが、っきのうよりもだいぶん舞台へ近く、絃バスの対面であり、っかつオルガン前席のコーラスへも近いのであって、上岡氏の演奏の性格に対する位置取りとしては、っきょうのほうがより好適であった、

っきのうもお客の入りは7割もゆかないくらい、日曜のきょうのほうが大勢来るのかとおもうとなおすくなく、半分も入ったかどうかといえば大袈裟かもしれないが、っそのくらいさびしい、っふだんからこの程度の集客力なのだろうか、東京の人口は1千と数百万、気楽に都心へ出て来られる隣県の人数も合わせれば2千万凸凹というところだろう、っその東京へはプロフェッショナルの楽団が9か10かくらいある、単純計算で人口2百万あたり1楽団、っまあクラッシックの需要というのはそのくらいの規模なのだろう、っそこで北海道はといえば、人口はたしか5百万余、っうち半数余が札幌市在住とのことだから、っつまり優にプロフェッショナルの楽団を維持できてよいはずだが、っそれがあの客入りとは、他所者が僭越だが、文化に対する意識の有ち様としてどうなのだろうか、プロ・スポーツのクラブ・ティームなどと同様で、っいざ潰れますという段になってから、俺たち私たちの札響を守れ、文化の火を絶やすな、っとかと活動するくらいなら、っいまから道民のおひとりおひとりがしかと購い支えるという気概を奮っていただきたいものである、

っとまれ、演奏はすばらしかった、完成度としてはきのうとどっこいくらいだったのかとおもうが、っくりかえせば、聴きたい音量音勢、バランスは、っきのうよりもきょうのほうが理想的に叶えてくれた、

っしかし、各楽器の質感がよりヴィヴィッドに主張するその位置で聴いても、でっかいジューク・ボックスから一体の音が発せられている、っその感触は変わらない、っきのうは、っひびきの基底としての絃バスをせめてもうすこしくでも聴きたいとややおもったが、っきょうはその渇きも癒さる、数は5であり、っそれが上岡氏の所望なのか、札響常勤のフル・メムバーなのかは知らないが、っじつにカーチュン・ウォン氏のときとはダブル・スコアであり、っあちらがなお飽き足らず彼等をホリゾントとしていたことをおもうと、志向している楽曲像がいかに相違しているか、っである、

最冒頭、原始霧は、っほぼまったく聴こえない、カーチュン氏もかなりの最弱音で開始されていたが、っそんなものではなく、っほんとうにほとんど無音である、っこれは新日本フィルとの際にも同断であって、っぼくもはなからその心算で来道し、っきのうもきょうも全神経を聴覚へ集中せしめて奏楽の開始を待った、っそれでやっと擦絃の物理音を聴取しうる程度で、近場でお客がつい一寸身体を動かすっきりでも、っその衣擦れの音によって楽音が完全に遮られてしまうような、っさようの音量である、っお客によっては、木管の和音が鳴ってはじめて、あ、え、もう演奏始まっとるんかいな、っと呆気に取られた人もいたことだろう、

隆起する㐧1テーマは、トュッティへ達したところではいまだ指揮者は穏やかな振りであり、頂点を打つ直前あたりからくわっと豹変、憑かれたように腕を振り回し、楽隊を煽動するも、っさりとて札響は殺伐たる騒音を発するのではない、上岡氏のアンサムブルはいつもさようであり、威圧的の大音響は絶無である、

㐧2テーマはゆっくりとしているが、っねちねちとした歌はお呼びでなく、後半で金管を交えても全楽は流線型のままで、楽器楽器の質感質感の継ぎ目継ぎ目が見えない、っこのあたりが、っでっかいジューク・ボックスの秘蹟なのらしい、

㐧3テーマはおおきな4つに数え、っよってかなりテムポが速いし、拍のなかでのオケの自由度が増すので、っやはり先へ先へと抵抗なく流れてゆく、カーチュン氏のここもそうで、っそのときはもっと1歩1歩を踏み締めてくれたいとおもったぼくだが、上岡氏のばあいは、っもはや不健康であってこその彼氏の音楽である、っひたすら同一音型をくりかえしつ、曲は金管、ティムパニを加えて激する、っその漸増は㐧2テーマの比ではないが、っにも拘わらず、っやはり全体の音響は色調の移ろいのみを伝え、聴く者の眼前へ屹立するという鳴り方をしない、っぼくはこの曲のとくに同楽章について、剣ヶ峯みたような峻厳たる音楽であり、金管やティムパニが劈くように突出しないのではその趣も発現しない、よく融け合ったなだらかな合奏であってはいけない、っとしばしば云ったものであるが、っそれもやや短慮短絡であったかもしれない、っや、っそうではないだろう、部品部品を積んで全体を造ってゆく一般的の奏楽によっては、っやはり音勢のつよい楽器はぞんぶんに鳴ってくれなければならない、っしかし、っきのうきょうと上岡氏を聴いていると、っつよい楽器がしかしぜんぜん突出しなくとも、ブルックナー以前にも以後にも誰ひとりとして音楽へ表わすことのできなんだ人類の苦衷が、っちゃんと容易には人を近附けぬきびしさを有って鳴る、っその戰慄は、音の量や圧力から来るものではなくして、偏に色から来るものである、聴いていて、一声部毎に役割を充てられた楽器楽器の綜合たるオーケストラというものはいったん忘却せられてしまい、っやはりいまや、絃、木管、金管、ティムパニ、っそれらすべての音を発しうる巨大なひとつの楽器を目前にしているのである、っや、っその云い種でもまだ足りない、っぼくらは絃という楽器、木管という楽器、金管という楽器、ティムパニという楽器、っそれらの音をほんとうは知らないのであり、っただブルックナー《9番》という現象が成立するために必要な音が、絃という木管という金管というティムパニという既存の楽器楽器により、ったまさか発音可能だったのである、人はかかるパラドクスをわるい冗談と嗤うだろうが、っぼくがいつも、それがオーケストラの音だということを忘れてしまう、っと云う楽音とは、っじつにさようのものである、っそれとても発音様式は1通りではなかろうが、っきのうもきょうも、っぼくはそれを聴いたのだった、

っそれにしても、っその特有の音色はけっして濃密でも濃厚でもないのだが、上岡氏はきのうもきょうも、ったびたび譜面台へ両肘をついてうずくまるようなアクションをされ、振るのを止められてしまう、先へ進むのがくるしいのだという表象だが、っさようの入魂の棒によってさえ、オケは1音1音へずぶずぶと留まることはけっしてせず、っあくまでも流れ流れてゆく、っほんとうに稀有の音楽性であり、オーケストラに対して、オーケストラが鳴るということに対して、っあのようなセンスを宿している人は、っほかにけっしていない、

ホルンがゲシュトップフトを用いるマルチアな部分は、テムポが速いほうがぼくのこのみだと云ったが、上岡氏はゆっくり、っしかし、っそれも死線を跨がむという足取りであってみれば、っがんらいは妥当なのかもしれない、っそれでもぼくは、速いほうがうれしいが、

再現の㐧3テーマはおおきく膨れ上がってとうとう救い難い阿鼻叫喚へと達する、っが、っそこもまた色の勝利、っもちろん峻烈な響が連続しているが、っやはりぼくはそれがオーケストラの音だということを忘れたままである、金管の咆哮、、、音量はかならずしも抑えられているわけではない、っをものともせず迸る絃の全弓の軋り、っその両が絶妙に並立する全体の音響を、オーケストラが出す音としては、っぼくは知らないのである、

スケルツォはトリオが滅法おもしろい、上岡氏は同《8番》の同章でも愕くほどのあっさり味を聴かせたものだが、っこの曲にあってはもう一捻り効いて、っそこが始まってみると、っむしろ愼重な歩幅である、っところが、ティムパニをブリッジにまずセロ、先へ進んでヴァイオリンによる音価の長い歌の要素の部分へ遷っても、指揮者は歌は彼等へ任せっきりにしてぜんぜんエスプレッシーヴォのアクションをされないで、っなにをなすっているのかといえば、右手の棒のみならず左手も高く掲げてずっと拍を示しつづけられ、ホルンやトロムペットの同音連続のタンギングに対して完全なイン・テムポを要求されている、っつまり、歌の部分へ遷ったらテムポを落とすという人の生理にとって自然な伸縮を拒否し、トリオ全体を完全に同一のテムポで運びたいわけだ、っみごとに変人である、

アダージョは冒頭、1stの嗚咽から黄昏のファンファールまで、っほんとうに曲の心象のみがしており、っもはや音楽を聴いているのかもわからない、っそれが音楽的に可能であり、音楽にっきり可能ではない、不可思議な経験である、

㐧2テーマは、っこれまで後半のVnの歌がピッツィによる伴奏を喪って以降の部分を名場面とおもってきたが、っきょうことのほか印象的だったのは、っむしろその後のピッツィ上でホルンが鳴るところである、主題の始めにはあんなにも深刻だった絃の歌は、っそのおなじ動機を用いながら、っこのホルンではほとんどあっけらかんとしており、逃れえぬ諦観の裡に、っいっそ大欠伸でもかましているやに聴こえたことだ、

展開は、楽章冒頭をそっくり再現したあとそれを弱音でくりかえすという憎い挨拶のあと、激越なトュッティに身悶えし、取り残さる木管は目の焦点の合わぬ放心状態、っそこから㐧1テーマのトュッティを再現するまでの間の絃の歌は、っまこと人生の悔悟である、

Lの絃は、っさいしょのひりつくような高い音の和声よりも、っいちどホルンが合いの手を入れ、っふたたび動機の頭へ還った際のすこしく音の下がったそれのほうがより神妙な色合いをしているようで、っぼくはいつもそちらのほうを注意して聴くが、っきょうはちゃんとそれをたいせつにおもっている音がしていた、演奏によっては、あれ、俺がそうおもっているっきりで、ここ、そうでもねえのかなあ、っと自分で自分が疑わしくなるものだが、

㐧2テーマの最期の変奏は、中途からの頭が休符の2ndのアルコを鋭く抉り、応ずる1stのピッツィをびちびちと弾け飛ばせる、っとうぜんにして必要不可欠の差配であり、命が寸々に刻まれ、砕ける音がする、っそして1楽章終局に比肩すべき、っや、っそれ以上の巨大な波濤がやって来ていっさいを呑み込み、絶望の和音のみを遺して去る、っもちろん、っここにおいてなお、上岡氏の演奏は量や圧力で音楽を語ってはいない、

コーダがついに救済へ達する部分は、Lと同様に、Vnのはじめの高い音の仕合わせもさることながら、っそれが音高を下げてきた際の微睡むごと和声も捨て難い、



シムフォニーが済んで、っさてまるで調子の異なる《テ・デウム》であるが、新日本フィルとのときもそうだったろうか、ったしかそのような気がするが、っそれまでソリストもコーラスも場内へいないで、っそれからようやっとの入場である、っそれでも新日フィルの際にはアダージョが済んで同曲が始まるまでに誰ひとりとして拍手をせなんだことをきのう想い出し、っその再現を期待するところ、っそれはきのうもきょうも達せられなんだ、っきのうはアダージョ後はすべての人が拍手を堪え、コーラスがオルガンの前の席へ降りて来られてもそれはつづいたが、袖からソリストがホルンの背後へ入る際はダメで、っあたりまえのように誰かが、待ってましたっ、っとでも云いたげな場違いな勢いで手を叩き、2、3割くらいの人はそれへ雷同してしまう、バカめ、っきょうは、っむしろアダージョ後にほんの2、3の人からのぱらぱらという拍手があってすぐに収まり、コーラス、ソリストの入場に対しても拍手はなしと、っきのうよりはまだしもまともであった、

っさてその演奏は、っどうも歴としたホールで聴く声楽と器楽との共伴する楽曲においては、前者が後者に消され勝ちとなるバランスを聴かさることしばしばである、っしかし、っどんな楽曲においても、声楽が入るかぎりは、っそれと器楽とが同時に鳴る部分では、っいついかなるときでも声楽が全体の音量の過半を握っていねばならないとおもう、音勢や音質の問題からいっても、人声はどんなに大音量を発したとて器楽各種の発音を完全に蔽い隠してしまうことはないはずだが、逆も眞なりとはゆかず、器楽はそれのみで音場を飽和せしめてしまうと、っもう声楽がどんなに大声を張り上げても、彼等の声は客席へはほぼまったく届かない、楽聖《㐧9》やマーラー《復活》のむつかしさもそこで、フィナーレも声楽を招じ入れてのちには、オケは満々と曲趣を謳歌したい気をぐっと堪えて、っややテンションを下げたほうがよい、テンションを下げて音量を抑え、音勢も矯め、ソロがちゃんと聴こえ、コーラスといっしょのときはコーラスが全体の音量を主導するように取り計らったほうが、結果としては曲の姿がお客へよく伝わり、感銘を與えることも可能である、

っきのうきょうの演奏を観ていると、シムフォニーではあれほど全身全霊を賭して弾いた札響の絃諸賢数十名が、《テ・デウム》では可笑しいくらいにおひとり残らずほんの弓のまんなかへんでちょこちょことっきり弾かれなくなる、本番の音場でのプローべにおいて割り出されたバランスであったのかとおもうが、っそれでもなお、ソリストもコーラスも完全にオケの背後となるぼくのきのうの位置からでは、っやはり声楽の主張がよわいというもどかしさをおぼえずにいなんだ、っその点きょうはオケを横っ腹から望んでいるようなもので、っきのうよりもソリストへもコーラスへも近い位置となってもおり、っだいぶん好条件である、

っただ、先週大分で聴いた森口真司氏の同曲では、っふつうにソリストもコーラスもオケの背後へ居並んでおり、コーラスはあれでどのくらいか、っべつにそんなに何百人というような大人数ではなかったが、っしかし20と余分の全曲の、っいかなる編成の部分においても、恆に声楽が全体の音響を支配し、弱音から強音まで、絶えず4声の動きが目に見えるように聴こえ、っつまりちゃんとオケ伴奏附き合唱曲という体裁をしていたので、っそれからすると、っよくひびく器で演奏せられるこの手の楽曲ほど、オケに消され勝ちのなんだか合唱曲らしきもの、っみたようなよくわからない代物になってしまうのがいつもざんねんである、

森口氏のばあい、オケは今次の札響と同様にそこではいかにも淡々と、音量を出さぬよう出さぬように弾かれており、対して声楽は元気いっぱいの若人たちであり、っすばらしい声量と濁りのない発音と、っそして精確な音の処理とをもって、敢えて云えば1声部1声部が器楽的に機能し、っしたがって、人間の声はしていても、全体が絶えず抽象的のコムポジションとして鳴っていたものである、

ソリストにしても、っおひとりおひとりが独立したプロフェッショナルと成り遂せていられるきのうきょうのような陣容では、能うかぎり我を消してティームとして存ろう存ろうとしていられるのはわかるが、っそれでもやはりどうしてもソリストソリストしたソロになってしまう、森口氏の際はもちろんソリストも学生連から選抜せられており、4声部を個所によって計7、8人で分担されていたが、声楽家としていまだつよい個性を有たない、っただ生来の声のうつくしさそれのみで勝負していられる彼等の4重唱の妙はいかばかりであったか、っやはりすべてが人の声の出る楽器みたように交響体の部品部品に徹し、殊に前後半でおふたりが唄い分けられたバス、っうち後者は盲人の青年でいられたようだが、っその上部3声に対する音色の距離感、っぜんぜん怒鳴っていないのにかなりの大音場の隅々までを低い、快い質感で完全に共鳴せしめる存在感こそは忘れむとして忘られるものではなく、っそうした種々の上演条件も加味すると、上岡氏よりは森口氏のほうが断然、ブルックナー《テ・デウム》という楽曲を聴いた、っという実感を與えてくれた、

上岡氏は先般、二期会に招かれてモーツァルト《レクイエム》を振られたが、っそれ以前には新日フィルとボーイズのコーラスを起用して同曲を披瀝されており、っその特有のひびきからすれば、酸いも甘いも噛み分けた成年のコーラスはあたりまえに温かい人の声がしてしまい、っそれも各声部の音色も得手勝手で統一を欠き、っかえって凡庸で長所のない演奏となってしまっていた、っそれからすれば、っこんかいのコーラスはまだしもティームとしての一体性を有ち、っけっして未完の一大シムフォニーの掉尾へ水を差したのではなかったのだが、



っさて、帰りの空路でも鉄路でも書き切らず、っいま日附も変わって、っいつもの南大沢の喫煙スペイス、、、っまあでもきょうの記事は一寸ダメだな、っもっとドライに物理音のことのみを取り沙汰できる想定でいたのだが、っぞんがい雲を摑むようなものいいばかりになってしまった、っここさいきんはずっと云いたいとおもっていることをそのまま云えている書き味でこられていたはずだが、っだらだらと書いていて、っひさびさに、や、ちがうんだよなあ、こんなことが云いたいんじゃないんだよ、っとおもっているのにそちらのほうへそちらのほうへ筆が滑っていってしまう口惜しさを喰んだ、っぼくとしたことが、不覚、っこれではぜんぜん、っとくにきょう、っというかきのう、2日目の演奏にぼくがいかにふかく感銘していたかを云い切れていない、勉強し直して来ます、

っが、っのんびり1泊したこともあり、大分のときほどくたくたではない、東京もそれなりに寒いが、っよなかに外へ立ち盡してシガレットを咥えているのも快い時節となった、っもうすぐに寒すぎてそんなこともしていられない気温になってしまうが、

っお次はすぐ水曜、午前のみ仕事をして名古屋日帰り、坂入健司郎氏の名古屋フィル公演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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札幌、




上岡敏之氏の棒、札響公演初日、済む、演目はブルックナー《9番》と、休憩なしで同《テ・デウム》とである、シムフォニーのファッスングはオーレルであり、実質ハースとのことだが、っこれは彼氏がかって新日本フィルと行なわれた同プロ公演の際もそうだったから、っしたがってそれと完全に同一の演目であったこととなる、



、、、っさっぶっ、

っや、っもちろんそれを惧れて東京での平素よりは厚着で外出し、っよってまず室から南大沢の駅までで汗だくになり、稲田堤での南武線への乗り換えでも額がじっとりとしたが、降り立つ新千歳、札幌では冷たい雨が降り、背嚢から外套を出して羽織る、王将で食事、、、っご当地グルメへは脇目も振らないという、っをして器のある公園の脇のホテルへチェック・インし、器へ入る前に驟雨を浴びつ公園内の木蔭でシガレットを数服し、予報では開演ころには止みそうで、終演して出てくればよるの公園でのんびり服めるだろうとおもうも、っじっさいにはまだ降っていて、っいま30分ほどしてようやっと上がってきたようであるが、体幹は下着や外套によって凌げるが、手指はわずかに悴む、っあすはなお気温が下がるというが、雨が降らず、陽が出てくれれば日中はさほどでもなかろう、っなお、おそれる、っと読む漢字は複数あるが、恐れるや怖れるはこわがること、惧れるや虞れるは心配すること、畏れるは気後れすることであり、っほかにもまだそう読む字はある、ったしか、恐れると怖れるとにも遣い分けがあり、恐れるはこわい対象へ現に当面しているとき、怖れるは対象を未然にこわがっているときのそれぞれ字であったかとおもう、っつまり、っお化け屋敷へ入ってきゃあああっと叫んでいる人は恐れているのであり、っこわいから入りたくないと云って手前で尻込みしている人は怖れているのである、っまた、かげ、っも、影、翳、陰、っその旧字たる蔭などさまざまだが、日本語における、かげ、っの概念は多様かつ複雑で、っいわゆる光が当たって後ろへできるかげは影ないし翳か、っしかし、っときには光に対する遮蔽物自身を指してかげと謂うこともあるし、っそこから派生して、人影、っのように、気配、っといった意でかげと称することもある、っその点、陰や蔭はわかりよく、陽避けや雨避けになる蔽いのその下、っというニュアンスであろう、っぼくは新字よりは旧字を用いたい臍曲がりであるが、木蔭、っのばあい、木と蔭のくさかんむりとが字面としてもひびき合っており、死んでも陰ではなく蔭の字を用いずばならない、



っさておき、空路で気圧が下がって上がってするので、耳がすっきり抜けるかをそれこそ惧れていたが、年中鼻っ詰まりのぼくはどうも耳抜きがうまくゆかない身体なのらしく、っきょうも着陸直前あたりなど、っほとんど耳が聞こえないくらいだ、飲物を飲んだり大欠伸をしたりなどするとすこしくずつすこしくずつ抜けてくるようなので、開演までに意識してそうするようにす、のむ、っも飲むと呑むとあるが、っぼくはアルコールは呑む、っそれ以外の飲物へは飲むを宛てている、息をのむ、ことばをのむ、条件をのむ、っなどのばあい、併呑、っなどという熟語もあることから、呑む、っを用いるほうが適当なのかもしれない、っちなみに、薬や煙草に対してはぼくは、服む、っと書いてのむと読ませている心算だが、心算はつもりね、っこの字にはすくなくも当用としてはのむの読みはないものとおもわれる、っしかし薬に対しては、服用、頓服、っといった熟語は周知であろう、



っぜんぜんさておいていなかったが、っほんとうに閑話休題、札響初客演の上岡氏であるが、っあれほどへんてこな音楽性なので、オケ側がそれへ添ってくれるか、平素より微に入り細を穿ちつ音々、、、っこれは、おとおと、っと読んでくれたいんですよね、っを準備しているオケ・マンであってみれば、っすべての指揮者が、この人はほかとはちがう、っであろうが、上岡氏はなおもなおもほかとはちがう、いつもの音、っの範囲内で一寸、、、っこれは、ちょっと、っね、一寸右へ寄るか左へ寄るかなどというレヴェルでなく、自身がいまだかっていちども発したことのないような音、そんな音がこの地球上において物理的に可能であるのか、っというような音、っそうした発音が要請せられているのだという自覚のなくしては、眞に上岡敏之の楽隊たることはできない、っいざ結果は、っなかなかの好スウィングだったのではないか、

っまずあのけっして駄目を押さない音量音圧、っもっとも、っきょう日さようの指揮者はむしろ世上にすくなくないが、上岡氏のばあいはやはりなにかがちがう、部品部品が堆く、、、うずたかく、っね、積み上がって伽藍を建築してゆくという手応えはこともあろうにブラームスをして交響曲の化物と云わしめたブルックナーにおいてさえほとんど微塵もせず、っなにかあるアトモスフィアがふっと顕れては消えてゆくっきりで、っすべてはごく一過の幻のごとである、っなんと不健康なっっっ、

っまさかに、っぼくの耳がまだ完全には抜け切らずに、聴こえがあまりよくなかったせいではなかろう、札響は、トロムペットなど、っじゅうぶんにハリがあり、音量もけっこう出しており、っすばらしい音色なのだが、っこの云い種で伝わるならば、音色っきりしていない、刺すような音の圧力がせず、っただ色だけが漂うのである、っそれはホルンもトロムボーンもティムパニもそうで、っそうすると全体のひびきは恆に絃が主導し、っのみならず木管4種の綾も怪しげに光り、っそして、彼氏の演奏ではそれはたまに起こることだが、全体の音があたかもひとつの楽器から発せられているかのように聴こえる、あの楽器がああ鳴りこの楽器がこう鳴り、その綜合としてかようの合奏です、っというのじゃなく、っでっかいジューク・ボックスから多様の音色のしかしもとより一体の音が出てくるようである、っそうした不可思議至極のアンサムブルは、死出にあたっての覚悟を理性的に語るよりは、っもはや狂気の相そのものと映る、っもちろん懸命に錯乱を耐えているのであるが、っほとんど辛いくらいに、苦しいくらいにカラフルなのである、

カラフルなのだがしかし、っぼくはそれをしばしば、虚ろなひびき、っという云い種で形容してきた、中身がぎっしりと詰まっていないで、摑まむとすれば霧消してしまいそうで、カラフルといっても極彩色の連続なのじゃなく、死相でも帯びているのかという仄暗い色の、っその多様である、恐いのであり、危ないのであり、不健康不健全窮まるのだが、っよりそういう音が出たときほど、っぼくは彼氏の演奏を成功だとおもっているのだから、っこれはもう立派に病みつきであろう、



同曲は、っつい先般、カーチュン・ウォン氏と日本フィルとのすばらしく健康的の大演奏を聴いた、カーチュン氏の奏楽は上岡氏とは較ぶべくもないほど構築的であり、音色は太陽のごと耀いている、っぼくはよのなかの演奏という演奏がすべて上岡氏のようになったらイヤだ、演奏会へ行ったら悉くあんな死神と共連れみたようなコワい音色が吹いてきてこちとらの背筋を撫でてゆく、っというのでは精神衛生によくない、っけれども、っさようのへんてこな演奏がよのなかにひとつもないのはもっとイヤだ、っあくまでも、っときどきは毒を喰らいたいと云うまでである、彼氏の演奏を嫌いだ嫌いだと云う声はぞんがいすくなくないが、っそのきもちはわからないでもないし、っその人を無理にも説得する気はない、っぼくがいつも云うのは、100の演奏が100ともあのようであれかし、っというのでなく、100のうちひとつくらいああでもいいじゃん、っということである、



っあすの事後は、っもっと演奏の具体具体へ論究してみることとせむ、っああ、っまだよなかの公園、足裏の感覚がなくなってきた、木蔭から死神が出そうだわ、っこの公園、っこういうときはどちらでしたか、怖い、正解、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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大分、




森口真司氏の棒、大分県立芸文短大公演、済む、

っきのうは例によって惰眠に暮れてしまって、っきょう2:30だとかに目覚めて、っきょう着て来る上の下着を洗濯していないわ、っきょうのテケツも発券していないわ、社用車の駐車代も更新してこなきゃならないわで、洗濯機を回し、外出して7・11、駐車場と巡って戻り、シャワーを浴びつ髭を当たり、歯を磨き、下着のみを浴室乾燥機の送風口のすぐそばへ干して、1時間ほどしてまだわずかに生乾きの個所があったがもう着てしまって身支度、4:50あたりに玄関を出、5:07南大沢発、橋本での横浜線への乗り換えでは14分くらいあったのでいったん駅の外へ出て喫煙スペイスで、きゅううううう、っと一気にシガレット1本を灰にし、横浜線で新横、6:18には新幹線へ乗り、っあさっぱらから崎陽軒のシウマイで缶ビール、小倉まではじつに4時間超で、っそこから大分までさらに在来線特急へ乗り継いで1時間半弱、っこの特急もネット上で割安の切符を購えるのだときょうのきょう気附き、最安のものはもう購えなんだが、っしかし正規料金よりはだいぶん安くなる、っこんげつ末、27日にもおなじ旅程だが、っそれはこの特急券もきょう最安のものを購っておき、新幹線も往復ともに最安の切符なので、っそうすると新横-大分で正規料金よりも片道で¥5,000近く安くなる、っきょうは復路の新幹線は普通車指定席の最安の切符を購い損ねたので、次に安い、っとはいえ最安よりも¥5,000以上高いグリーン車である、空いていて快適だが、

っすべての行程がいささかのゆとりもない、大分着から開演まではかなりの間隔をみてあったが、自由席なので、器へ着いて小1時間もずっと開場を待っていねばならない、っちなみに並んだのは3番目で、入場してよろしく2階右翼バルコニーの、最前部の1列横隊の部分はバンダ使用のため締切で、3列横隊に変わる部分の最前列左端、っもとよりそこが㐧1希望であったが、っはるばる東京から、っそれも一寸早めに来た甲斐あって、眺望といい音響といい、っぼくにとってザ・ベストであろう位置だった、27日も自由席だが、っよろしくこの席を取れるように臨まむ、っきょう初めて来ても、入場後そこを目掛けるについてとくに迷わなんだが、っもう完全に建物の構造を理解した、待機列の前の方へ並べれば、誰にもそこを渡さないだろう、

駅と器との間は徒歩10分15分というところ、14時開演で、復路の大分発は16:44、っなんの心配もしていなんだが、っとちゅうからだいぶん雲行きがアヤしくなる、学内の声楽科も器楽科もみんな乗せむ、器楽科のうちでとくに有能者はソリストに立ててコンチェルトも演らむ、っとめいっぱいのプログラムであり、2度の休憩を挿んで2時間半になんなむとする長大な公演であった、っすなわち、っまず声楽、器楽の共演でブルックナー《テ・デウム》、っきょうの演目を事前にぜんぜん調べないままだったが、っこんどの土日には札幌1泊で上岡敏之氏の札響との同《9番》、っおよび作家遺言通りの同曲の連続演奏を2日とも聴くので、っおもわずに予習ができてうれしかった、、、予習というにはたいへんに秀逸な演奏で、札幌の布陣はきょうの彼等の演奏に敵うのだろうか、っとおもうほどだが、っここで声楽科の出番は済んで、10分休憩、10分では心許なくて喫煙にも出られやしない、1日中坐りっぱなし、っこの休憩時もずっと坐っていて、っだいぶん尻が痛くなってきてしまう、用がなくとも席を立てばよかった、っさておき、次いでコンチェルト2曲、ヴォーン・ウィリアムズ《テューバ・コンチェルト》、っそしてラフマニノフ《パガニーニ・ラプソディ》、っこのあとの休憩は15分あって、外へ出て一服、㐧3部はオケのみで、ラヴェル《マ・メール・ロワ》、レスピーギ《ローマの松》、レスピーギが鳴り出したのが16時ちょうどころで、パンフレットには演奏時間は約22分だとあるが、済んで時計を見ると2分ほど早く済んで16:20、できればカーテン・コールを最後まで客席へいたい、アンコールがあったら一巻の終わりで、諦めて退出せねばならない、っとおもっていると、長大な公演ですみません、っとばかり最後の答礼はあっさり、オケが散り散りになってみたびよたび時計を検めると16:25、っほっと胸を撫で下ろして駅まで歩くが、駅周辺の道路事情も駅ビルの構造もよくわかっておらず、っいったんガードをくぐらされて器があるのとは反対側のロータリーへ行ってしまい、どこからでも改札へくらい行けるだろう、っとビルへ入るとそこは商業施設の中を通れるだけで、っいったん北から南へ来てしまった駅をまた北側へ出る始末、っそれでもどうとか大分発、小倉から新幹線で、乗り継ぎ時間は15分ほどだが、新幹線の改札でエラーが出てしまい、窓口で対応してもらわねばならなんだ、辛うじてテメエが車内でかるくつまめるものは購えたが、悠長に土産など撰んでいる暇とてなく、っこれで新横着は22時半すぎ、っそこから南大沢まではまだ1時間ほど掛かり、っしかも帰宅前にはまた駐車場を遠回りして、料金を更新して来にゃならん、っあすは三鷹、井の頭公園の南側のせっまい路地の中の試掘だよ、



前置き長すぎ、演奏だが、っとてもとても勝れていた、オケも、コーラスも、声楽のソリストも、コンチェルトのソリストも、2時間半、っずっとずっとハイ・クオリティだった、

森口氏はいちばんさいしょのご登壇時、袖を出られるか出られないかのときに棒を落っことしてしまわれる、っこちとら不吉な前兆かとおもうのも束の間、鳴り出したブルックナーは演奏会も開幕から覇気充溢、器は2,000席級の容積だとおもうが、隅々まで舞台の楽音が届き切っていたろうと思量せらる、テクニークもまったく万全で、聴き劣りのするパートは声楽にも器楽にもどこにもいないし、全体として一体のひびきが体得せられている点は特筆に価す、音大の学生オケでは、去年、井上キーミツが大阪音大をお振りになるのを聴いたが、パート毎にずいぶんムラがあり、全体としてのアンサムブルもやや雑然としていたし、っなにより、楽員の若さが積極果敢よりは物怖じのほうへ出てしまっているようで、演奏している楽曲をみずから味わうような貪慾が発露せなんだのがざんねんであった、っその点きょうの彼等は、全体としての鉄壁の機能美はいささかも譲らないで、っなおも各パートが一端の自己主張を成し、っいますぐ、っこのままのメムバーでプロフェッショナルとして活動できておかしくない名ティームであった、大分県立芸文短大へは、っよほどか勝れた教育環境が整っているのだろう、

森口氏の硬い点画の棒は、っかかる上質の団体を得てこそ、っその眞価を発揮す、っなんと美事に統率せられ切ったアンサムブルであることか、オケのみならず、っそれとコーラスとの混淆、ソリストの音勢感、4声のハーモニーのうつくしさ、っすべてが曇りなく伝わり、曲の姿が清新に洗い出さる、

ヴォーン・ウィリアムズ《テューバ・コンチェルト》は初めて聴いたが、1楽章からほとんど日本の民謡に取材でもしているのかというペンタ・トニックがたのしい、っそして脱力したオケのなんと軽妙な鳴り方よ、ソリストはホルンみたように澄明なハイ・トーンがことのほか印象的、

ラフマニノフ《パガニーニ・ラプソディ》も、ピアノは2,000席級の器ではもはやまともに芯の存る音を聴かせられないこともあるが、っきょうはニュアンス豊富に鳴り、前曲よりもオケは分厚くなっているが、っやはりバランスは最良最上、例の反行形の最有名の変奏は、ピアノからVnがテーマをうけとり、見境なく歌へ浸ってしまいたいところ、っちゃんと漸強弱を丁寧に守っている、東京で聴いた森口氏のマーラー2曲は、2楽団ともに、曲の発展につれてオケが冷静さを保ち切れなんだ憾が遺った、熱狂へ感けずに、最後まで音楽的所作の範疇で語り切ってこそ、彼氏の棒に相応わしい楽団であるが、プロフェッサーの意志は全学生へしかと浸透しているらしい、

ラヴェル《マ・メール・ロワ》は、っより繊細、細心を要求する、っある意味できょうの最難関かもしれないが、絃も管も打も力を脱いた発音が楽音から実在感を奪い、っまさに御伽の国に聴くよう、

レスピーギ《ローマの松》は、㐧1曲から遅めのテムポが快く、オケの音量感、器との相性次第では多声的の妙味がぞんがい伝わらないこともしばしばだが、っやはり脱力しており、器の容積もじゅうぶんなため、っあれこれの楽器がちゃんとぜんぶ聴こえる、清潔な奏楽であってこそ、情報量の多様多彩が確保せられるのである、

㐧2曲は舞台袖からのトロムペットも胸に沁み、クラリネットから聖歌のリフレインが始まると、同音連続を主体とするこの主題はどうもテムポへ乗りにくく、音が揃わないためになかなか音型を伝えられないままにしばらく進むこともあるが、森口氏はそれも先刻ご存知で、このテムポだよっ、っと明確に腕をお振りになり、速めのテムポへクラリネットを確実に収める、っもちろん、同音連続のタンギングは1音1音はきはきと、っである、

㐧3曲は、楽曲の作曲年代とほぼ等しい1,920年代の蓄音機を地元の有志から拝借して鳥の啼声を流すという凝りよう、最後のコン・マスと次席との上昇句はなかなか気分が音へ出た演奏を聴かないが、っきょうのおふたりの陶醉感はすばらしかった、っしかもそれさえ、っずり上がった2音目はきっぱりと音価通りに音を切っている、

㐧4曲は㐧1曲からすると快速だが、金管はバンダも含めて高度の自制をよくするため、フォルテへ至ってからの3連目、絃が主体となるところもちゃんとその動きが聴こえる、最後まで前後不覚の昂奮を頼まず、曲の姿を伝えつづけることで勝負している、

っふつうぼくは、初めて聴くオーケストラにきょうほどの演奏を期待したりはしない、っいま新横から横浜線へ乗り換えて、っあともう一寸で帰宅できるが、っくたくたに疲れており、小倉から4時間半も新幹線へ乗っていても、っこれしきの分量を書き切らなんだ、っしかも、っいつもほど文章に切味がなく、我ながら不本意であるが、気分はもっと高揚しているし、っふかく満足してもいる、



っさて、っお次は前述のとおり、っこんどの土日、札幌1泊旅程にて、上岡氏と札響との公演、来週は平日に名古屋での坂入健司郎氏の演奏会と、流石にメモリアル・イヤーだけあって、ブルックナーが演目に含まれる公演5連チャンである、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

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錦糸町、




坂入健司郎氏の棒、新響公演、済む、演目は、ルトスワフスキ《小スート》、ヤナーチェク《利口な女狐の物語》スート、っそしてブルックナー《ロマンティッシェ》である、ヤナーチェクは、ターリヒによるスートはオペラ全曲からほんの冒頭附近のみの抜萃とのことで、っそれへイーレクなる人の編んだもうすこしく諸曲を加えたものを折衷せしめる形での上演、っまた、ブルックナーは、フィナーレ提示の㐧1テーマの確保時に1度っきりシムバルが加わるヴァージョン、っぼくはティムパニ以外の打楽器はそれのみかとおもっていたが、っちがって、コーダのホルンのコラールのあと、管が上昇音型を鳴らしているときに、タムタムがかすかに打っていた、っほとんど聴こえない程度だったのだが、

席は、切符争奪にすこしく出遅れて、っいつもの2階の右翼バルコニーを得られず、3階バルコニーの舞台の右っ肩、指揮者の顔が見えるくらいの位置にしてみた、っそして結果として、っまずはそれが奏功だった、

オケの音は生々しく、開幕から張り切る新響は、っわずかに刺戟的に鳴るほどだったが、っじきに熟れる、木管の潤いが耳にうれしい、ルトスワフスキは近代的の先鋭なひびきのする曲調だが、っそれに見合わぬ野暮な音を発するほど、同団はへぼな楽団ではない、

ヤナーチェクは《シンフォニエッタ》くらいっきり識らないぼくだが、っきょうの《利口な、、、》スートの終曲など、っもろに《シンフォニエッタ》とおなじ膚触りの音がする、っここあたり、っもう完全に抜け切った金管の最強奏は爽快痛快で、っちっこい女の子のティムパニはしかし気骨溢れる硬い打音であり、っいやがうえにも昂奮を煽る、

坂入氏のブルックナーは、っここさいきんでは手兵、東京ユヴェントス・フィルとの《7・3番》、浜松でのアウローラ・フィルとの《8番》と、っいずれも入魂の舞台舞台へ接しており、他の公演を聴いたためにざんねんながらぼくは遠征しえなんだ京都でのシャルク・リヴァイズの《5番》も、YouTubeでたのしく視聴せる、っそしてこんかいの新響との《ロマンティッシェ》だが、っこれもまたひじょうに充実した演奏であった、

至近距離で聴いていることもあり、っやや直接音のパンチ力がきつかった公演前半からすると、っここではすでにして脱力残心の境地が訪れており、1楽章が㐧1テーマの確保でトュッティへ至ると、金管はすっきりと抜け切ってやかましくなく、絃を消してしまいもしない、一大建築ブルックナーであってみれば、金属質の音ばかりぎゃんぎゃんとして、絃と並び立たない、木管の多様の音色が豊富な栄養素を惠まない、っというのでは、っその時点でアウトであるものだが、

芥川イズムの所産、っこぼれむばかりのアマチュアリズムとムジツィーレンとは、流石に午のオーケストラ・ゾルキーのテクニークを優に凌ぐ、管は局所的にわずかに音が出なかったりするが、っそれよりも音楽をしようしようという意慾のほうが絶えず席捲しているため、っぜんぜん看過しうる、

坂入氏の造形も、長田氏とはまたちがうが、辛口というのか、ストイックな厳しさがあり、っお若いのに、同章㐧2テーマ中途のテムポ操作あたり、っけっして派手にはなさらない、再現冒頭におくホルンの基本動機と横笛との並走など、舞台へ近く、木管のバランスがつよいので、っしみじみと噛み締め、味わうことが叶った、っほんとうにすばらしい音楽である、

2楽章もどこまでも音それ自身をして語らしめ、余計な脚色もしなければ無駄な力も入れない、っいつも清潔に、新鮮に音色を薫らせる新響の腕っ節はじつにアマチュア離れしており、全体にややダルな印象のあるこの楽章において、提示からセロの主題もヴィオラの主題も活き活きと煌めいて、最後のしめやかなピッツィカートへ至るまで、っすべての瞬間が等閑にされることなく丁寧に扱われる、

颯爽たるスケルツォを通ってフィナーレは、㐧2テーマの絃による前半をゆっくりと謳歌したかとおもえば、木管によるあたらしい楽想へ遷るとアクセルを踏み、っのみならず、っその俊足のままで密度の高いトュッティの㐧3テーマを突っ切ってゆく、っその果敢なテムポ配分こそはおもしろく、振り落とされまいと懸命に応える新響の気概も清しい、

展開冒頭は宇宙の彼方で独り嘗める孤絶だが、ホルンに応えるファゴットが音が出なくてしまったのが惜しい、っしかし金管へコラールの出る直前あたりは、ピッツィカートがちゃんと質量高く鳴り、っあの部分の帯びている哀感をぞんぶんに表出していた、

っその後の3大名場面、㐧1テーマの変奏におく絃の天馬の羽搏く羽音、っそれが退潮してゆくときのファゴット連の不協和音、っそして再現㐧2テーマ後半における臆面もなき内心の吐露、っいずれもめいっぱいの共感共鳴をいっぽうでは冷静冷徹に音化してゆく坂入氏の美質が、っその最大限の発揮をみていたのではないか、

彼氏のブルックナーはこのあと、再来週の平日に愛知の芸文センターで名古屋フィルを振られての《6番》という公演があり、っつい切符を購ってしまった、午后半日仕事を休み、っまた遠征である、彼氏にとり名フィルは、楽員のおひとりからSNS上で、あのど素人がっ、っと悪態をつかれたという因縁の楽団なのだとおもうが、名フィル側が詫びを入れてふたたび指揮台へ招いたということなのだろう、



っさて、っあすは1日のんびりして、っあさって旗日は、森口真司氏を聴くべく大分日帰り弾丸ツアー、早朝に外出し、っおそらく日附が変わるまでには帰宅できない、翌火曜は三鷹の試掘でまたあさが早いのだが、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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川崎、




っゆうべは聖蹟で、黙々先輩、《雨月、、、》くん、野帳くん、アルバイトの方で、っいつかに彼氏の主催されている劇団の公演を江戸川橋近くで拝観したその役者さんと、5人して日附が変わる直前あたりまで呑む、

帰宅して深更で、アラームを掛けないままに2時3時に睡眠へ落ちたとおもうが、っまいど偉いもので出勤に間に合う8時すぎころには目覚める、っが、っゆうべのうちにあすは休むとみなへ云ってあり、っごろごろしていて川崎へ出掛く、

身支度中に常用の凝ったライターへオイルを充塡したのだが、っそれを背嚢のポケツへ挿さないままに室へ置き忘れて来たらしく、予備の¥100ライターで妥協している、っこんなことひとつでも、外出がすこしくつまらないというか、っみずからがっかりしてしまうが、気を取り直して、

っいまもう事後、錦糸町へ遷り、っいつもは錦糸公園のJRガード下、橋脚の蔭へ隠れてこそこそと喫煙するが、っただ、上を電車が通るとなかなかの騒音であり、公演前に一時的の半聾状態となることを惧れ、っきょうは喫煙可のカッフェ、錦糸町では2軒を把握しているが、駅の北の繁華街を1本入ったところの外人さんがやられているほうではなく、っやはり北口を線路沿いに千葉方面、っひとつ横断歩道を渡った先へある老夫婦がやられている店である、っきょうはご主人はいられないが、ったまさか奥方おひとりへ任せていられるのか、っなにかあったのか、穿鑿はすまい、

っなぜ今次の公演の切符を購ったのかとおもってみると、コーラスはコール・ミレニアムといい、っぼくは井﨑正浩氏との池袋におくバッハ《ロ短調ミサ》やブラームス《ドイッチュ・レクイエム》を聴いており、っその際のフライヤーに、今後2楽団とマーラー《復活》で共演される旨、告知せられていたからで、っうちひとつは先々回にギロッポンで同曲を聴いたフィルハーモニア・ブルレスケとの機会であり、っきょうが2楽団目だったのである、

長田氏の音盤を検索すると、っご当人のお振りになった市販盤はおひとつもないようであるが、インバル氏が都響を振られたほかでもない同曲音盤がヒットする、っおそらくは長田氏がコーラス・マスターをお務めになったのかとおもうが、っゆえに声楽パートについては、っおおきに自家薬籠中ということであろう、っことしはいずれもアマチュアで3度も同曲を聴いたが、っそのなかできょうの長田氏の演奏はいっとう勝れていたようだ、

オケは、Vnの、フォルテ以上はよいのだが、中弱音以下がややしゃびしゃびと水っぽくなる嫌いがあったものの、悪印象というほどでもなく、っそれよりも音楽的アッピールのほうがぐんと勝っていたので、っじきに気にならなくなる、

棒はじつに直截で、多弁は弄さず、っずばずばと核心へ斬り込んでゆく、テムポ操作は極小で、1楽章も㐧1テーマから㐧2テーマへの遷移にしてからが、っごくわずかに腰を落とすのみですぐさまア・テムポす、っその後も同様で、っあれは展開の最後のところか、ハープの上を㐧2テーマの横笛が快速に滑ってゆく美麗な場面、横笛がオーボーを介してコン・ミス、、、女性だったのだが、っへバトンを渡す際にやはりリット→ア・テムポがあるのだが、っほんのお気持ち程度というところでしかも速度を戻したあとさらに切迫するほど加速したくらいであり、耽溺を峻拒するその態度にシビれる、

っさようにして1楽章全体は、腐敗の1歩手前まで爛熟せる後期浪漫派であるよりは、っなにか古典派、楽聖のシムフォニーでも聴くように頑固一徹の趣があり、物語のごと具体的の情景よりは、っあくまでも音楽的に音楽へ徹した辛口が快い、

1楽章後はスコアにある指示通り、5分しずかに休む、っその間にコーラスが登壇されたが、っここでせっかくに誰も拍手をしないでいられたのに、2楽章後にソリストおふたりが出られる際には拍手が起こってしまう、っおそらく、事前の段取りとしてはこの楽章後にオケの再テューニングを行ない、テューニング中にソリストに出てもらうことで拍手を牽制するという心算だったのかとおもうが、コン・ミスがおどおどされて、あたし立っちゃっていいのかしら、っというぐあいでいられるうちに扉が開き、ソリストが登壇を始められてしまう、っそのおひとり目が袖から出られたか出られないかとほぼ同時に、っようやっとオーボー1番氏がAを吹き出されたが、不心得者が拍手をし、っいったん3割くらいのお客へそれが伝染してしまう、鎭まるのを待ってあらためてテューニングだったが、っよのなかにはもののわからないお客というのがいるものである、Aは鳴り出していなんだにせよ、っもうコン・ミスは起立されていたのである、全曲80分を間にいちども拍手を挿まないで踏破したいという、演者のみならずお客のおおくも懐いていよう大望も察しられないで、っよく演奏会の客席へ腰掛けていられるものだとおもうが、っまあデリカシーのない人というのはいるのだ、っしゃーない、



っさて、っここまでの前半分くらいが、っどういう訳か入力中にすべて消えてしまって、っどうとか書き直したが、っまだすべてを書き切らず、っもうすぐ夕の開演、

っまた事後に、



っいま夕のほうも終演、っこちらもたいへんにすばらしい演奏だったが、っそれはまた稿を新たむとして、

2、3楽章もフォルムを乱さずに進むので、浮薄なインテルメッツォとして吹き過ぎてしまわないで、巨大なシムフォニーの一部品一部品として機能す、共感に乏しいわけではけっしてなく、指揮者の腕の振りにわずかに変化が生ずると、っそれに応じてオケはぐっと重たくなったり音色を煮詰めたりとちゃんと移ろうのだが、っその変化が曲の発展にとって必然たるがゆえに、っいつも音楽の骨格がつよくつよくこちとらの脳裡へ印象したものであろう、

ソリストは指揮者の両脇だが、ってっきりこちとらから見て右側の人がアルトかとおもったらちがって、左側の人が3楽章の了わりころに席から立たれる、っすなわち中野由弥女史であるが、っその〈原光〉は、っやや訴え掛けには欠けたが、音色は清涼で、無理に張り上げて音量を出さずともオケを纏ってよいバランスで聴こえており、好感を有った、っぼくがいつもどうしてあんな歌唱法が一般にしばしば行なわれているのかまったく理解できないと云う、醉漢が駅のホームで、おえええっ、っと嘔吐しているみたような声質のアルトだと、っじつにげんなりしてしまうものだが、

接続曲様で構成としてはとりとめがないかに聴こえ勝ちのフィナーレも、1楽章と同様、複雑な要素要素が十二分に咀嚼、消化せられ、っもって一大古典としての貫祿が出来している、っとにかく、鳴っている音がロマンティックにエモーショナルにエクスセントリックに腐乱してゆくのでなく、っすでにして史上の傑作と成り遂せた人類の公共財として結晶化してゆく、マーラーは不健康不健全の音楽であるとの通念を忘れさせるのである、多声大音量の個所も、少人数での弱音部も、っいつも等しい緊張感が一貫し、っどこかのためにどこかを犠牲にするという音楽にならない、ったとえば、最後の審判の地獄画の場面では、誰しも、楽想を遷る度に腰を沈め、音を重たく、音価の長い音符とみればべったりとテヌートしというぐあいに、一見、っより深刻に音楽を訴えてゆくほうが様に成る気がするものだ、っけれども、っさようの語り口によりては、っよしんばその瞬間瞬間は濃厚濃密に鳴ったとしても、全体全曲のなかの部分部分の役割として、オケ全体が咆哮する場面が目立つせいで、少声部弱音の場面が内容として薄弱に聴こえる、影が薄くなる、っあるは、音量音圧に落差がありすぎて全体として一体の楽曲との印象を結ばない、っといった弊害もまた生じ兼ねないのである、っせんじつヴァイグレ氏の演奏に対して、もっと瞬間瞬間を篤く語り掛けてくれろ、っと云ったが、っではすべての瞬間をしつこくこってこてに語り盡せばそれがすなわち名演奏なのかといえば、っそうは問屋が卸さないのもまたとうぜんで、眞に勝れた演奏は、ある瞬間が必然にしてつぎなる瞬間を喚び覚まし、そのつぎなる瞬間へ触れて直前の瞬間がいかに必然にしてそれ以外にはありえない色調を湛えていたかにおもい至らしめらる、っさようにして生起してくるものであり、っさらに云えば、っそのなかでもとびきりの演奏は、指揮者、楽員諸子ともに苦労して苦労してやっとその音を鳴らしえている、っという渋面をなぞほんのすこしくもしていないで、っあたかもなんら造作もなく、楽々悠々とそう演奏できてしまっているかのように立ち顕れる、っそこまでゆけたら音楽家もじつに本望本懐であろうが、っきょう長田氏とオーケストラ・ゾルキーご一同との勇姿に、っぼくはさようの精華を感得した、マーラー《復活》という前々世紀末の遺物が、っきょう午后の川崎に、疑りを入れる余地のない名曲としてあらためて顕現したのである、



っさて、っつづいて別項、坂入健司郎氏公演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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ギロッポン、




セバスティアン・ヴァイグレ氏の棒、読響公演、済む、演目は、伊福部昭《サロメ》リヴァイズ版から〈7つのヴェイルの踊り〉、クリスティアン・テツラフ氏を招いてブラームスのコンチェルト、っそしてラフマニノフ《2番》シムフォニーである、今般の読響定期各種は、っちかぢか彼等が出立する欧州楽旅での演目と同一とのことで、指揮者、楽員ともども、っその面目を示すべく周到に音々を準備しているのがわかる、極めて完成度の高い奏楽であった、

読響は、先般ヴァルチュハ氏のマーラーを聴いた際には、雑然とまでは云わないにしても、っなにかパート間の睦み合いに乏しく、全体として一体の響がしない憾を遺したものだが、っきょうは万全、っあれは、っべつに会毎のオケ自身のコンディションの差異というのじゃなしに、ポテンシャルとしては日々の弛まぬ精励によってある水準が維持せられていて、っあとは来る指揮者来る指揮者との相性から、っより洗練せられながら本番へ至るときと、っどちらかと云えば掻き乱されながらそうなってしまうときとがあるということなのかとおもう、

っとくに絃はすばらしく、っしばしば全体があたかもVnからバスまでの広大な音域を有つひとつの楽器であるかのように鳴ったかとおもえば、G線をソリッドに唸らせるときには、っどのパートも鋭利な牙を剝き出しにし、っちゃんと個別の自己主張を成す、対して、トロムペットあたりは、っほとんどオーボーが鳴るような滑らかな吹奏だが、ラフマニノフなど、要所はもっと吼え立ててくれてよかったし、打楽器も大人しく、各楽器の固有固有の質感が活きないために、絶えず全体のなかのごくごく一部品という印象がし、絃の一体感とは反対に、っややつまらないというか、っもっとごちゃつく1歩手前で懸命に踏み止まっているくらいの手応えのほうが、オーケストラの鳴り方としてぼくはすきだ、

っやや冷めた物云いに聞こえているだろうか、っや、白けていたわけではけっしてないのだが、なにかどこかきらりと、や、ぎらりと光る特有のセンスがあればなあ、っと贅沢な要求を抱きながら、2時間ずっと聴いていた、っつまり指揮者に対してである、っが、っきょうに関して云えば、ヴァイグレ氏にそういうところはないし、っほかの曲を振られたときの感触を想像してみても、えっ、そんなことやらかしてくるんかいなっ、っと吃驚せしめらるようなそういう期待は生まれない、っだからぼくは、っすぐさま彼氏のほかの公演をチェックして切符を購ってみむという気にはなっていない、っただ、っどんな曲をお演りになっても、っうんと唸らせるだけの成果を挙げられるにちがいないだろうとはおもう、毎度ながら、っここのところは一に懸かってこのみの問題だ、っいろいろとやらかしてくる演奏が嫌いで、っこんやのようなひたすらのアルティザンの練達をこそ聴きたいという人も、っよのなかには大勢いようとおもう、っそれはわかるが、っぼくはしかしどうしてもどうしてもゲテモノ趣味者なのであり、っへんてこな演奏が慾しいのである、

っきょう読響のファゴット1番は井上氏でいらした、彼氏は新星日響からの移籍でいられるが、っどうなのだろう、っひょっとしたらヤマカズさんがお振りになった同響の上野での伊福部《サロメ》リヴァイズ版初演の際、乗られていたかもしれない、っそんなことをおもいつ冒頭からのアルト・フリュートへ耳を傾けると、っおよそ西洋楽器の楽団による演奏会が開幕したとは信じられないような音色、音階であり、っほんの抜萃ではあるが、っこれを携えて彼等が欧州へ撲り込みを掛けてくれるのはうれしい、ヴァイグレ氏の棒は、っぜんぜん音楽を小手先へ流しているわけではないのだが、っぼくとしては、最後の踊りでいちばん音価がみじかくなったときに、トロムペットのこまかい連符の音粒を、たりらたりらたりらたりら、っとぜんぶしっかりと聴きたい、熱狂の頂点において、全体の音圧が確保せられていさえすれば、個別声部のこまかい音符の入る入らないは犠牲にして突っ切ってもちゃんと聴き手を納得せしめる、っという奏楽は、日本人の性格として指揮者も楽団もなかなか修身できずにいるが、っぼくはそんなもの、っべつに修身できないままでもよいとおもっている、っぼくらはどう足掻いても律儀な日本人なのだ、っかっちりと聴きたい音は、っどこまでもかっちりと聴きたいのである、

ブラームスにおいてはしかし、テツラフ氏はまさしく、ちょいとラフでもぜんぜん音楽にできるぜ、っという西洋の人だ、っそれとあくまでも謹直な読響との協奏は、っかえって快いコントラストだった、ソロが弾き出す途端にもうそうで、1楽章でオケの前奏が済んで彼氏が登場すると、奪い取るようにして場の空気を一瞬で独占してしまう、Vnコンチェルトといえばここさいきんは若手女流を聴く機会がおおかったので、スーツ姿の壮年紳士がオーケストラの扇の要の位置へおひとり立っていられる、っという景色もたのしかった、フィナーレの主題などもやはりそうで、音価の捉え方なんてべつにそんなに厳密じゃなくていいんだよ、っとでも云いたげなフレイズ感覚が、無碍に浮遊していた、

ラフマニノフは、っあまりにも綺麗なアンサムブルによって、っすべての瞬間がばっちりと映し出されて運ばれてゆくが、っなにか、提示である主題が示されている際、ああ、これがあとで盛大に再現せられてめでたしめでたしなんじゃん、っと先が見えてしまう嫌いで、っぼくはそれを嫌いと云う、っくりかえせば、っそれをこそ交響樂の演奏、ソナタ形式の存るべき伝達と讚える向きももちろんあろう、っけれどもぼくにはさようの演奏は、っその見通しのために瞬間瞬間がひたすらに犠牲に供されているように聴こえるのだ、っべつに見通しなんてそんなに立たなくったって、っもっと瞬間瞬間に釘附けにされたい、メロメロにされたい、っどう推移変遷してゆくのかを容易にこちとらに悟らせないように演奏してくれたいので、セバスティアン・ヴァイグレという人は、音楽に対してさようの邪な願望を懐く人のために存在している指揮者ではないようだ、

っそれでよい、っそんな道へは、踏ん込まくて済むものならば踏ん込まぬに越したことはないのだ、

っそれにしても、読響は公演という公演で当日を待たずに完売完売また完売の報を出しており、ったしかに大入りも大入りである、場内は、っもちろん年寄りもおおいのだが、カップルとか、男友達同士とか女友達同士とか、若い人もけっこう来ている、っそのおおくが、え、こんな感じの人がクラッシックを聴くんかいな、っというなんの変哲もないというか、腹に一物もありませんという精神の健康健全な雰囲気の人たちであり、お客お客のくせにして妙にペダンティックでどんよりしている、っというふうにならないのがきもちよい、っまあそのなかでぼくはだいぶん道を踏み誤ってしまった人間の部類へ入るが、っいつまでも、っただの素朴な感動屋たることを譲りたくないものである、



っさて、っこうしちゃいられない、っいままだ永山の駅へ立ち盡しているが、っこれから聖蹟本棟へ社用車を取りに行って、別棟まで走ってディジ・カメを積み、帰宅して、っあすは狛江の試掘であさが早い、

っお次は土曜、気力があれば午前は仕事をし、午は川崎でオーケストラ・ダスビダーニャの長田雅人氏が別楽団を振られてマーラー《復活》、っよるは錦糸町へ遷って坂入健司郎氏の新響とのブルックナー《ロマンティッシェ》とダブル・ヘッダー、っその前夜は呑み会で、ったぶん午前の仕事は断念となるか、、、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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京都、




危ねえ、、、

終演後から新幹線の乗車までは2時間弱の余裕があったが、事後、器の西側川向こうでシガレットを2本服み、王将で食事せむとて南下して鴨川を渡り、市役所前駅の南側の店舗へ入ると、書き入れ時で料理の出て来るのが遅く、地下鉄の時間を調べると20分ほどで食事を了えねばならぬタイミングで、貧乏揺すりをしつ待って、っいつもならば2回目のオーダーで生もう1杯とご飯物とを頼むところ、っぜったいに間に合わないので生だけにとどめておいて、会計したのが市役所前駅発の5分ほど前、駅まで350mほどをダッシュしてどうとか乗るべきへ乗り、ハンド・タオルで汗を拭う、王将では餃子を1枚っきり頼んでいないが、慌てていて会計時にアプリケイション上で誤って餃子2枚で1枚無料のクーポンをタップしてしまい、っいったん発動せしめると1時間以内に有効期限が切れる仕様となっており、無駄にす、

新幹線の改札を通り、トイレで顔、首筋を洗い、キオスクで生八橋と茶とを購って、乗る、南大沢へ帰るのは22時前ころか、



っさてきょうだが、4回中ゆいいつの左側から聴く妙味を堪能せる、器は平安神宮の境内に在り、ったしかかっては京都会館といったものを、場内のみ改装したのか、っおなじ位置に新規に建て直したのか、っおそらく後者だが、っそこでである、京都会館といえば、ヤマカズさんの京響との《㐧9》音盤の収録会場であり、ライナーは宇野さんが書していられ、公演自身も器で聴かれたというが、同器は舞台の音が客席へ来ないので有名で、近接マイクで各楽器の音を録ってミックスしてある音盤で聴くほうが聴きよい、っと云われている、っきょう入場すると、上野などに似て数多の階上を有って奥行よりは縦へ高い形状であり、1階は西宮などと同様、階段状の正面席に比して両袖はその最も高い最後列から舞台へ向かって水平に延び、左翼最前列、舞台寄り通路脇右側へ坐したぼくとして、1階と云う条、半2階へいるようなもので、オケはほとんど眼前へ展がり、っかつ舞台も近く、っさりとて死角もほぼ皆無で、右から観ていたのではわからなかったこともいくつかあり、歌手の立ち位置による聴こえ方の差異といい、っまた新鮮な耳のよろこびを見舞わる、トーンとしてはドライで、Vnの音はやはりこちとらへ来ていない感触がかすかにするが、っこれまでひびきすぎて舞台上の歌手陣をマスクし勝ちとなる嫌いがあったので、っちょうどよいくらいであった、っそれでも、っやはり工藤和真氏のテノールは音勢を殺がれる通弊を逃れなんだが、

っお客は、相当度の大入りではあるも、っそれでも見上げる最上階にはかなりの空席があったようで、京都人の意識もその程度かよ、っとややおもう、っや、っぼくらが坐したような値段の高い席はむしろしっかり埋まっていたから、広告の方途として、安くて条件がわるくてもよいから文化的のものへ触れておきたい、っという、音楽趣味のど真ん中ではなくその周辺へいて、公演へ、行きたいような行かなくてもよいような、っと揺れ勝ちの層を、っよろしく行く方へ傾かせることができていないのかもしれない、

っとまれ、豊嶋氏コン・マスの京響は、事前にはお上品すぎて羊のように大人しいという悪印象へ陥ることを憂慮したぼくだが、っちゃんと要所において豪胆であり、っかつ繊細なアンサムブルにより調性毎の色調の移ろいも鮮やかに伝え、素敵だった、っまだ来月にはキーミツとの最期の共演の機会、ブルックナー《8番》がある、っやはりかって彼氏がシェフを務められた楽団のひとつであり、互いに重要演目重要演目を嚙み締めてのお別れである、

っきょうはまた、仙台とどっこいか、っあるはそれへ勝る2幕の充実ぶりであった、ボーイズのコーラスはきょうも大健闘だったし、加えて他の幕とちがい、歌手連が舞台の前面まで来て唄う機会がおおく、多声のうちでも彼等の音勢が死なず、っそして乾いた音場の功名で、歌手、コーラス、ボーイズ、オケ、っやがて舞台上へ進軍してくるバンダと、っごった煮の全要素がしかしマルチに分離してそれぞれにちゃんと聴こえており、舞台劇とともに一大交響樂が進行するという、っまさしくオペラのオペラたるの妙味が全開していて眩しかった、、、っそうそう、ルザン・マンタシャン女史、っみごと復調、っきょうがツアー最後の晴れ舞台であられた、

っそして、カップル2組の性格の異なるドラマの拮抗が音楽的に伝わり辛かった過去2回に比して、っきょうはその3幕もだいぶん熟れてきていた、左から聴くと主役おふたりは遠く上手の壇上で穏やかに別離の辛苦を喰み合っており、準主役おふたりは下手の舞台前面で罵り合いだが、っにも拘わらず、期せずして最後的に2組ともに、暖かくなるころには別れよう、っとの結論へ達するその4重の哀しさが、っちゃんと声楽的にも睦み合っていた、

終幕では、右から観ていたのではわからなんだ視覚的の仕掛けのひとつを知る、っとつぜんの管絃の炸裂により男たちの悪ふざけが破られ、ムゼッタが半死半生のミミを連れて訪れると、4つの木箱を並べて壇上へベッドが設えらるが、っそれは上手奥側へ枕を据え、足側が下手手前へ向いて斜行しており、っよって右からでは頭側へ設置せらる板材の表面が視えない、っきょう左からそれを視るところ、っそこへはじつにミケランジェロ《アダムの創造》の、ゼウスとアダムとの人差し指同士が触れるか触れないかの部分がトリミングしてプリントせられていたのだ、、、っまあそうねえ、っすこしく安易と云えば安易だが、っおもわずに、これはどういう寓意だろうか、っと思案してしまった、っあれを男女の指が触れるか触れないかという文脈へ読み替えるのは、っあまりにも下賤でくだらなく、っまさかに森山開次氏の意図はそんなところへはないとはおもうが、

哲人コッリーネが葬送の楽へ乗って外套を質種とせむと唄うのは、終幕へ至ってようやっとこの役柄へバスの音域が宛てられていた所以を明らかにす、

音楽的には、っもしかするとこの終幕はこれまでの経験を得てやや流れをよくしたのかもしれない、っそれか、っぼくの耳が曲へ馴れてきたかのどちらかだ、っというのは、ミミが床へ就いてから絶命するまでに、彼女はけっこうあれこれと唄いまくる、っそれをあんまりじっくりたっぷりとしたテムポで演ってしまうと、死のうとして何度も起き上がってくるドリフのコント、、、っそんなコントがむかしあったよね、っあれカトちゃんケンちゃんかな、っでも観るようで、っかえって興醒めである、敢えて淡々と先へ先へと進めるほうが、観劇している者の胸はより震えるかもしれない、っぼくもこれで3度目で、っそうどこもかしこもでは泣かなくなってきたが、っここではやはり泪を落としながら観ていた、今生の別れの前に、あなたあのときほんとうは鍵を見附けていたんでしょう、っと惚気話をする時間を有てたことは、っこの若き恋人たちにとって、っほんのほんのせめてもの慰めであり、っほんのほんのせめてもの仕合わせであろう、

終演して眼下の正面席を見るともなく見下ろしていると、本名徹次氏がお客として来られていた、彼氏のあの三軒茶屋での日越共作のオペラは、キーミツが宣伝に一役購われていたものだが、っその縁もあってご招待されていたのだろう、彼氏は来年に九響とモーツァルト《Clコンチェルト》《プラハ》という魅惑的のプロを振られるが、ったしか平日よるの公演で、東京のぼくは、宿を取り、2日か1日半は休まないと聴きに行けない、っけれども、っよしんばその演奏があの郡山でのハイドンと境涯を同じうするならば、っそれはたいへんな達成へ至るにちがいない、仕事へ穴を空けてでも行く価値のある賭けである、っもちろん、きれいなモーツァルトが流れていました、っなどという次元ではぜんぜんまったく成功ではなく、っそんなのはむしろ大失敗である、人生の、人間のすべてが瞬間瞬間の音々へ余さず映じているというのでなければ、っぼくは切符代と宿代と交通費とをまるまるドブへ棄てることとなるのだ、っおおきにけっこう、っそれでこその演奏会というものである、



っさて、南大沢のいつもの喫煙スペイスまで戻った、っお次は水曜、セバスティアン・ヴァイグレ氏の読響との公演、っぼくは彼氏を聴いたことがなく、っこんどが初めてだ、アイスラーだかの日本初演というのに興味を惹かれたが、同曲をYouTubeで聴いてみたら、っなんだかそれほどおもしろい曲想におもわれなんだので、遠慮してしまった、今次は、先般のカーチュン・ウォン氏と同様、伊福部昭《サロメ》のリヴァイズ版から〈7つのヴェイルの踊り〉がプロへ組まれているのが定め手になった、今週はまた狛江の試掘が1件入っており、週末の終業後は黙々先輩のご発声で、聖蹟別棟連で呑み会、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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っいざ京都、




井上キーミツのおなじ演目を4度も観るので、オケのなかでよりVnを聴きたいというか、全楽のなかで同楽器のバランスが主導的たればこそとおもっているぼくとして、っしかしいつもの右寄り嗜好を返上して左寄りからも聴いてみむとおもいつ、発売前はその心算だった川崎千穐楽は、っいざ販売を開始してみるとぼくにすればその左寄りへ良席がなく、っけっきょくは右寄りを購ってしまった、4公演ぜんぶが右寄りからかとおもうところ、っじつにきょうの京都は左寄りを購っていた、っきょうは電子テケツなので、発券の手間はない、4公演すべてSなので、っそれだけで¥5万前後か、っそれに仙台とこの京都とへの新幹線代で、計¥10万凸凹の遊興費ときている、鼻血が出そうであり、っほんとうに来年からは倹約に努めねば、

週6勤務のはずが、っきのうはサボってしまう、作業着を着て整髪料を附けたが、っいつもいささかの余裕とてなく、9時始業のところ、8:35ころに玄関を出て20分ほどチャリンコで突っ走るぼくとして、室内にいては戸外が雨天なのかを知れないが、え、ひょっとして雨なんじゃないの、雨だったら整髪料を附けちゃった頭で濡れて走るのもいやだし、サボっちゃお、っとおもいつ玄関を出ると、オート・ロックの外のタイル敷きは濡れた色をしており、欠勤決定、っそのまま外へ出て、庇の下へ宿りつ残り4本だったシガレット1箱を空にす、

室へ戻って作業着姿のまま、整髪料も附けたままで横臥し、枕をべとべとにしてしまわぬように手を頭の後ろへ支って惰眠へ堕つ、っときおりYouTubeやAmazon.で気を入れなくとも観ていられるできるだけくだらない動画を観つ何度か睡て起きてするうちによる、コンヴィニへ夜食を購いに出るついでにまた喫煙し、携帯灰皿へ溜まった吸殻はきょう、南大沢の駅へ歩く途次、喫煙スペイスの灰皿へ棄てさせてもらえばよいかとおもう、

シャワーを浴びつ散髪、三十路からすでにしてこめかみへ白髪を発したぼくは、っいまでは一寸そこが伸びても白いものが目立っていけなく、っしょっちゅうアタッチメントを着けないバリカンで短く刈り込まねばならない、白髪染めとか、っそういう無駄な抵抗はしないことに定めている、

っふだんはほとんど食べないが、惨めなきもちもそれはそれで味わいたい気がして購ってきたのはカップ麺であり、っそれを啜りつあれこれとオケのHPをサーフィンすると、っしまった、っきのうは井﨑正浩氏の品川でのと、上岡敏之氏の読響、ポゴレリチ氏との共演の切符のともに発売日なのだった、っあさ玄関先で喫煙しているときに購えたはずの切符であった、慌てて各ペイジへアクセスして購う、

っまた、先般のキーミツの山響との最期の共演のモーツァルトの動画がU-NEXTへ上がり、1月ほどっきり公開せられないが、アカウントを作り、っゆうべ、日附が変わるあたりからようやっと録画を開始す、日がな睡ていたせいで睡くなく、っつづいておなじ山響とコバケンさんとのコダーイ、ドヴォルザークも録る、U-NEXTは1月は無料体験なので、っそのうちに音盤にもなっている老匠、村川千秋氏のシベリウスも録画し、っわるいが、っそこで退会させてもらわむ、っいつものように動画は年額を払っているGoogleのクラウドへ保存し、拡張子をmp3へ変えたものをiTunesへ入れとやっていて、3時頃とおもうが、睡てしまう、8時すぎにアラームに起こされて、っつづきの作業をしてiPhoneと同期し、身支度をして珍かにもわりにゆとりを有って外出す、っしかも橋本での京王から横浜線への乗り換えでは、速足で移動してみると検索上は乗り継げないはずの桜木町行きの快速がまだホームへおり、予定よりもだいぶん早く新横へ着いて、っお蔭で改札階の喫煙スペイスで1服が叶う、缶ビールと乾き物を購って日曜のあさから呑んでいるごミブンであり、っいまは名古屋着、新横でも隣の席へは誰もいず、っいま名古屋を出ても誰も来ない、快適である、



っところで、っせんじつカーチュン・ウォン氏の初台、横浜での同プロ公演を云々した際、チャイコフスキー《4番》フィナーレの冒頭トュッティの後、木管に出るのを㐧1テーマであるやに云っているが、っあれは㐧2テーマだろうか、冒頭からいきなり、っあれが㐧1テーマなのらしい、っだいたいどんなシムフォニーのどんな楽章へも序奏というものがあろうし、っだいいちあんなにもみじかい楽節なのだし、っあれでテーマということはなかろうと早とちりしてしまっていたのだった、っただし、同《5番》1楽章については、っぼくは世上に行なわれているテーマはふたつだとの説は意地でも首肯せず、っあくまでも3つあるとかんがえたい、っどう聴いたって3つあるじゃないか、っさいしょのクラリネット+ファゴット→フリュート+クラリネットのと、っそのあと絃に出るのと、、、っふたつだというのは、っあれがまだ㐧1テーマの副次的のものだということなのかな、っそして絃のピッツィカートが駈け上がって木管、ホルンへ素っ頓狂なシグナルが出て、っやがて絃のなよやかな歌を導くあれ、っほら3つじゃん、っどこがふたつなんだよ、



っまた、っぼくはオペラにおく書法の伝統というものにまったく暗いが、イタリィでは、優婉なアリアに対比せしめてその末尾へレチタティーヴォを置く、っという風習があるのだろうか、っこれから聴く《ラ・ボエーム》でも、ミミが自己紹介のアリアを唄ったあと、こんな時間にお邪魔しました、っと喋るし、っほかのオペラの詳細はまったく識らないが、っゆいいつわかるものとては、ヴェルディ《レクイエム》でも、最後の〈リベラ・メ〉はやはりレチタティーヴォで結ばれており、っしかもおなじソプラノがその役を負っている、

現時点でルザン・マンタシャン女史の降板の報は出ていないから、っきょうのミミは彼女であろう、っそれ以前の出演者変更の詳細はよく見ていなんだが、っなんと、当初ミミ役の高橋絵理女史が降板される以前は、中川郁文女史はムゼッタを演じられるはずであったとのことだ、っけれども、っぼくは結果的に同役はイローナ・レヴォルスカヤ女史でよかったとおもう、コケティッシュな魅惑は最高の華だし、タイツの脚を見せ附ける蟲惑こそは、っすばらしくセンシャルでエロティックだ、



っさて、っまもなく京都、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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名取、




井上キーミツと森山開次氏とのプッチーニ《ラ・ボエーム》公演、済む、オケは仙台フィルである、

っきょうはなんと、ツアー前半ミミ役のルザン・マンタシャン女史が喉の不調を訴えられたとのことで、後半ティームの中川郁文女史が代行される、

っそんな大アクシデントからすればぼくのほうは大したことはないが、っゆうべは帰宅が日附が変わってからになり、っまた例によってきょう着て来る服がなかったので洗濯をし、っしかし年来の悪弊で干さないまま睡りへ堕ちてしまう、っあさはそれほど早いわけではないがそれでも2時3時から睡るならばアラームを掛けねばとおもいつそれもせぬままだったので、っはっと目覚める瞬間に心臓が縮んだが、っこわごわいつも点けっぱなしのPCモニタの右下を見ると、6時前、我ながら、流石に労働者の身体である、8:30ころに玄関を出て南大沢から8:47の京王へ乗ればよいので、2時間半ある、っそれだけあればこないだのカーチュン氏横浜公演の動画を録画し、音声を抜いてiPhoneへ同期するまで行ないうるのではないかとおもい、ペイジへアクセスし、キャプチャ・アプリケイションを起こして録画を開始す、購入後すでに2度、録画しているが、2度とも再生しながら睡てしまって、動画が終了したあとも録画が停止していない9時間だとかのデイタになってしまい、っそこを切ればよいのだが、切るためのフリー・ソフトは無料使用のままだと保存の際に動画へソフト名の透かしが入ってしまう、っそれで動画が終了した直後に録画も停止したデイタを残したいわけで、録画を開始して、っべつに動画は観ていないで、洗濯物を干していないよ洗濯物を、、、っと洗濯機から洗濯物を浴室へぶん擲げて、っきょう着て来る服が優先的に乾くように干して浴室乾燥機を回し、もうほんの一睡入りできるはずだ、っと動画の停止時間へ身支度用の若干分を加味してアラームをセットし、横になる、横になる前にiPhoneを一旦PCと同期しておくことも忘れずに、っである、っというのは、長期間同期していないとそれに矢鱈と時間を取られるからで、直前に同期してあれば、音声デイタをひとつ追加してもものの1分ほどで終了するのである、っこてんと睡てしまい、アラームに起こされて、動画は終演後の拍手がつづいていてじきに了わり、録画を停め、ファイルをリネイムして拡張子変換ソフトへ抛り込んで音声ファイルへ変え、変えるのに数分を要するので髭を当たりに洗面台へ立ち、浴室の服は2時間ばかりでは天井の乾燥機の送風口へ近いあたりっきり乾いておらず、っそれは知れたことで、上下を逆にしたりシャツの袖を風のよく当たる位置へ回したりして、戻って音声ファイルをiTunesへ遷し、プレイ・リストへ加えてオプションで音量を100%増幅し、同期を開始しておいてこんどは歯を磨き、服は8割方乾いたがまだ諸所が生乾きという状態で、歩っているうちに乾かむ、っと着てしまって整髪料を附け、夏の装いだが、仙台は寒いかもしらんと薄手のヤッケを1枚、背嚢へ突っ込んで、同期の済んだiPhoneを回収してきて玄関を出る、っそれが8:32ころだったとおもう、っなので出る途端に小走り、平坦なところは走り、上り坂になったら歩くというふうにしてイン・タイム、改札ではSuicaが残額不足でひやっとした、チャージに15秒20秒取られるからである、っほんとうは改札の脇の狭い7・11できょうの公演のテケツを発券してから乗りたかったが、っその時間はなく、京王へ揺られつ、名取駅周辺に7・11が、っまああるだろうがほんとうにあるだろうか地図アプリケイションで検索しておく、

大宮から新幹線だが、新宿で埼京線へ乗り換えて、っべつにそれへそのまま乗っていればよかったものを、赤羽で湘南新宿ラインへ乗り換えれば大宮へ数分早く着くという検索結果もあり、っさようにす、っというのは、っその赤羽で乗り換えられる湘南新宿ラインは、っじつに埼京線の車中で発車を待っていて、目の前の向かいのホームから出て先へ行かれてしまった1本で、癪だったからである、新宿駅は広いので、検索時の乗り換え所要時間が5分とかそれ以上に設定せられているものとみえ、っその湘南新宿ラインへは、赤羽では追い附けるが、新宿ではイン・タイムに乗れない、っという検索結果だったのだろう、っところがぼくは、っじゅうぶんに乗れる時間に、京王からJRへのホームの移動を完了していたのである、っそれが検索結果ばかり見ているから、乗るはずの埼京線がすでにしてホームへいてそれへ乗り込んだら安堵してしまい、目前に赤羽で乗り換える湘南新宿ラインがまだいるのに、発車されてしまうまで気附けなんだのである、赤羽での乗り換え時間は3分であり、3分て危険だな、っとわるい予感がしていたところ、的中、ホームを下りて、湘南新宿ラインだからオレンジ色のホームへ上がればいいんだろ、っと早合点して上がると、間違えていた、ったぶん宇都宮方面か高崎方面かのちがいだろう、慌てて下りてただしい方へ上がるが、っすでにして乗るべき電車は扉を閉めて走行を始めている、っおなじ電車に2度も振られるとは、、、脂汗を発して、え、もう万事休すじゃないの、っと祈るようなきもちでその時間の赤羽-大宮間を検索すると、っまだもう1本あとの湘南新宿ラインで間に合った、っそれでもさいしょに乗っていた埼京線よりもまだ1分早く大宮へ着くのである、っそれははじめに間違えて上った方のホーム発なのでまた下りて上り、っそれでどうとか大宮へ至って、ビール1缶と国技館の地下の工場で作っている焼鳥を売っていたのでそれとを購い、呑みながら食べると、睡眠時間がみじかかったこともあり、っどっと疲れて仙台までほぼ睡ている、

仙台から名取へ乗り継ぎ、駅のホームへ降り立つまでは、とちゅうの7・11でテケツ発券とちゅうの7・11でテケツ発券、っと念じていたのに、改札を出てペデストリアン・デッキの上からロータリー各所を覗いて、喫煙スペイスがあれば1本服みたいところだがなさそうだな、っなどとやっているうちにころっと忘れて発券せぬままいちど器まで歩ってしまい、っそこの喫煙スペイスでシガレットを咥えて着火するや、ああいかんなにやってんだよ、7・11寄って来るんだったじゃん、っと我ながら苦笑す、ったっぷりと余裕をみておいたので開演まではまだ2時間弱あり、っこないだ池袋でもらったパンフレットへ全国での公演情報が網羅的に書かれてあって、っここでもらえるものもまったくおなじ冊子だろうと察し、、、駄洒落ね、察しがついたので開演直前に器へ入るのでもよく、落ち着いてそこでシガレット2本を灰にし、7・11まで歩って発券してきてまたおなじ喫煙スペイスへ戻り、っまだ3・4本は喫煙したとおもう、



っそんなわけでようやっと開演、大勢の印象は変わらず、っこんかいも1幕からもう目頭が熱く、何度も泪を落として泣きながら観劇していたが、池袋のときとの比較で銘記すべきことのみへ触れておかむ、

っまず器とオケとだが、っとても快かった、っかなり狭く、1,500人も入らないのではないかというくらいで、満員札止めだが、仙台フィルは相当度にリアルな実在感で迫り、弱音から強音まで、っめくるめくような音響が全編全曲を満たしていた、

っよって舞台の歌手の音勢が殺がれる嫌いはきょうもおぼえる、バスはよいのだが、肝腎の工藤氏のテノールが映えず、オケが一寸ユニゾンで鳴っているっきりでも、人声よりはそちらのほうがよく聴こえてしまう、

開幕から大家を陥れるまでの経緯では、ショナールが稼ぎがあったと吉報を携えて訪れ、鸚鵡がなんのかんのと唄う際、っもっとちゃんと鸚鵡の声真似をしてくれたい、っほんのすこしく道化た声色を遣われてはいるが、っもっとディズニーのあのドナルド・ダックが喋るときみたようなああいう声を出してくれたい、っしかし、池袋もきょうもほぼおなじ調子だったので、歌手にその心算はないのだろう、っかって家鴨を飼われていたキーミツには、っそのあたり鳥の発声法というものに拘りがないのかとおもうものだが、っこのキャストはツアー後半では入れ替えがあるので、っその点はその人に期待を懸けむ、

アルチンドロもそうで、ピアノピアノっ、っというのは唄わないでもっと地声で喋ってしまってくれるほうが耳にたのしい、周りがわいわいやっているなかで低いきれいな声で、ピアノピアノっ、っと唄われてもよく聴こえないし、っそうすると、ムゼッタに振り回されているかわいそうなじいさん、っという人物造形もよく伝わらない、

っきょう池袋よりも断然よかったのは、ボーイズのコーラスである、池袋もぜんぜんわるくはなく、っちゃんとチャイルディッシュな声のたのしさが出ていたが、バランスとしてはややか細かった、っその点きょうは、彼等が主役となっておもちゃだお菓子だと騒ぐところのみならず、同幕開幕からのオケも成年コーラスも喧しく鳴っている場面ですら、子供の芯のある地声が絶えずよく聴こえており、っそうするとポリフォニックな情報量が格段に増す、っぼくの耳がこの多声に馴れてきたこともあるかもしれないが、っきょうは中規模音場へ全幕中で最大人数が発声発音するその豪華絢爛を、っこころから堪能した、っそしてやはり、街の喧騒という形を借りて、ムゼッタというひとりの女の眞率がアポテオーズせらる、っその結構に目頭が熱くなる、賑やかであればあるほど、泣けてきてしまうのである、

急な代演で心労も一入であったろう中川女史、喉としてもぜんぜんマンタシャン女史に譲っていられない上、演技としては日本人らしい丁寧さが各場面での心情の変化をありありと伝え、頗る好印象であった、っが、暗がりでふたりして鍵を探していてロドルフォに不意に手を握られて、あ、っと云ってしまわれる、、、マンタシャン女史はたしかここは無言のままで相手を振り向かれるのみでいられた、っのは、完全に日本人の女の子の声になってしまわれていたので、敢えて声を出されるのなら、白人の女の子ならばどういう声を出すのか、っという彫琢が慾しいところか、マンタシャン女史の出演予定はまだ来週の京都がある、っそれまでに復調されれば京都は予定通りの布陣で臨むのだろうか、っそうすればぼくは4回のうち2度ずつ両主役を聴きうるので、っうれしいのだが、



っさて、名取から仙台へ戻って牛タン定食を喰い、っもういま南大沢の喫煙スペイスまで戻っても、っまだ22時すぎである、っあすは狛江の試掘であさが早い、っあさってからはやっと中央区仕事へ戻れる、年内にカタを附けると云っちゃったからな、今週は土曜も演奏会の予定はなく、6日きっちり働く、っまいにち残業、っそして来週のきょう、京都日帰りでキーミツ公演、京響は音の手応えが薄手で繊細な印象があるが、っきょうの仙台フィルに敗けないでくれたい、っおそらくあまり音響のよくないというか、っもわつく嫌いのあるいつもの北山ででなく、っぼくは初めて行く別の器だが、っそれが吉と出てくれることを祈らむ、



っちなみに、iPhoneへ同期してきたカーチュン氏公演音声、行き帰りで2度3度、帰りはもう気にせず大音量で聴いたが、っすばらしい、っこないだのブルックナー《9番》といい、っどんどんうれしいコレクションが殖えてゆく、舞台の肩の位置から聴いたので、動画には引きの画にぼくが映っていた、今夏は世田谷の中学校で炎天下ですぐしたので、上の下着の真っ白に対して顔が真っ黒だ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




川崎、




河上隆介氏の棒、川崎市民響なる団体の公演、済む、ミューザではなく、っそこからも程近い、競馬場の裏っ手というか、競輪場の向かいのスポーツ・センターみたようなところのホールでである、演目はこないだの森口真司氏とFAF管との公演とおなじく、ヴァグナー《トリスタン、、、》前奏と歌手なしで〈愛の死〉とと、マーラー《5番》とである、同団は戰後間もないころの発足という老舗で、っこんかいで200回の記念公演であったとのこと、

棒の河上氏は、っぼくよりおふたつほど年少の40歳絡み、一般大学をご卒業後に東京音大へ入り直され、っおそらくは広上氏が指導教官でいられたのかとおもう、っが、振り始められると、っもろにコバケンさんだ、コバケンさんにも習われていたらしい、

振り姿といい音楽の造形といいほんとうにそうで、っもう四十路へ入られるのだし、一寸は師の影響下を離れられてもよいのではないか、っとこちとら大きな世話を心中へおもったくらいだが、っなかではアダージェットがセンスとしてむしろコバケンさんと正反対で、冒頭から、アンダンテか、っほとんどアレグレットでも振っているのかというくらいに大きな腕の振りでぐんぐんと先を語り進み、感極まる部分ほどさらに加速して棒で音楽を掻き回す、オケはやや乱れたが、っぼくはそういうのがうれしい、世のたいていの指揮者は、曲に対してもオケに対しても、遠慮しすぎだ、っもっともっとワガママな自己主張をしてよいはずである、っそれは音楽への冒瀆だとほざく輩には、云わせておけばよいのだ、

オケは、っへたくそだった、線は細いしひびきは薄いし、器も、っかなり近年に落成したものとみえるが、如何せんいわゆる多目的ホールであり、開演前にチェムバーでモーツァルトが演られたが、音が客席へ来ない、自由席、階上は3階まである大会堂で、っしかしフライヤーの裏面へは1階席の座席表っきり示されておらず、っその心算で来るとやはり1階席のみ開放で、後方寄り、2階の庇が頭上へかむらないぎりぎりの位置で右寄りへ坐す、モーツァルトを聴いてもうすこしく前方のほうがよいかもしれないとおもうころには、っけっこうな来場者数でとくに後方は空席僅少となり、っそのままの席で妥協す、

ヴァグナーは、弱音はみすぼらしく、曲が発展してもぜんぜん満ち溢れない、

っこの調子でマーラーはキツいなあとおもうが、案の定、劈頭のトロムペットは吹き損じられ、っしかも音量が控えめでフォルテにパンチがない、下位の奏者にも腕利きらしい腕利きはいられず、っそれはホルン連中も同断、っただ、絃では、っまだしも1stにそれなりに弾ける人たちが固まっていられ、期せずして音に色や薫りの出る場面もすくなくなかった、

種々の悪条件には目を瞑って河上氏の音々への対処を具に聴き届けるところ、ダサいくらいの懇切丁寧へようよう愛着を生じてくる、2楽章冒頭からなど、遅めのテムポへ律儀に各声部を嵌めてゆく手附きがまさに師に瓜ふたつでいられ、っいまもむかしも、っぼくはああした語り口がなんともいえずすきである、

木管の幾人か、っそしてティムパニ、スネアやグロッケン・シュピールを担当された打楽器の方は奏楽のレヴェルとして楽団全体の水準を上回っていられ、っそれらが目立つ部分では聴き易い音が鳴ってぎくしゃくを雪ぎ、っどうにかこうにか緊張の糸を繫いでゆく、3楽章など煩瑣窮まりなく、演奏には苦労が絶えないものとおもうが、っずっとちいさな3つを数えてあげる棒の親切にも救われ、っやはりコバケンさん譲りのおっとりとした魅力が出ており、個別声部の数多のエラーを考慮へ入れても、全体としてはぼくはけっしてわるくないとおもった、

っそして意外や意外、攻めのアダージェットを經てのフィナーレは、腕が足りないなりにちゃんといつも見通しが立っており、大団円まで来ても金管は鋭い吼え声を上げられずにいるが、っかえって和音、音色の清浄清潔は保たれるし、他声部の動きも消されずにずっと聴こえており、好印象を懐いたくらいだ、

終演後にお客の拍手を制してすこしくスピーチされるところまでコバケンさんの真似、っまさかにアンコールにフィナーレの最後のところだけを演るんじゃなかろうなとおもうと、流石にそれはなくてハネた、済んでみれば、水っぽくてまるで音楽に成らないヴァグナーの失点を、っあんなにも厄介なマーラーでまずまず取り返すという、必ずしも上質でない団体を相手にも腐らない、実直な指揮者の仕事をみたのだった、



っさて、っあすは仙台、井上キーミツの《ラ・ボエーム》日帰り強行軍、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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