京都、
危ねえ、、、
終演後から新幹線の乗車までは2時間弱の余裕があったが、事後、器の西側川向こうでシガレットを2本服み、王将で食事せむとて南下して鴨川を渡り、市役所前駅の南側の店舗へ入ると、書き入れ時で料理の出て来るのが遅く、地下鉄の時間を調べると20分ほどで食事を了えねばならぬタイミングで、貧乏揺すりをしつ待って、っいつもならば2回目のオーダーで生もう1杯とご飯物とを頼むところ、っぜったいに間に合わないので生だけにとどめておいて、会計したのが市役所前駅発の5分ほど前、駅まで350mほどをダッシュしてどうとか乗るべきへ乗り、ハンド・タオルで汗を拭う、王将では餃子を1枚っきり頼んでいないが、慌てていて会計時にアプリケイション上で誤って餃子2枚で1枚無料のクーポンをタップしてしまい、っいったん発動せしめると1時間以内に有効期限が切れる仕様となっており、無駄にす、
新幹線の改札を通り、トイレで顔、首筋を洗い、キオスクで生八橋と茶とを購って、乗る、南大沢へ帰るのは22時前ころか、
っさてきょうだが、4回中ゆいいつの左側から聴く妙味を堪能せる、器は平安神宮の境内に在り、ったしかかっては京都会館といったものを、場内のみ改装したのか、っおなじ位置に新規に建て直したのか、っおそらく後者だが、っそこでである、京都会館といえば、ヤマカズさんの京響との《㐧9》音盤の収録会場であり、ライナーは宇野さんが書していられ、公演自身も器で聴かれたというが、同器は舞台の音が客席へ来ないので有名で、近接マイクで各楽器の音を録ってミックスしてある音盤で聴くほうが聴きよい、っと云われている、っきょう入場すると、上野などに似て数多の階上を有って奥行よりは縦へ高い形状であり、1階は西宮などと同様、階段状の正面席に比して両袖はその最も高い最後列から舞台へ向かって水平に延び、左翼最前列、舞台寄り通路脇右側へ坐したぼくとして、1階と云う条、半2階へいるようなもので、オケはほとんど眼前へ展がり、っかつ舞台も近く、っさりとて死角もほぼ皆無で、右から観ていたのではわからなかったこともいくつかあり、歌手の立ち位置による聴こえ方の差異といい、っまた新鮮な耳のよろこびを見舞わる、トーンとしてはドライで、Vnの音はやはりこちとらへ来ていない感触がかすかにするが、っこれまでひびきすぎて舞台上の歌手陣をマスクし勝ちとなる嫌いがあったので、っちょうどよいくらいであった、っそれでも、っやはり工藤和真氏のテノールは音勢を殺がれる通弊を逃れなんだが、
っお客は、相当度の大入りではあるも、っそれでも見上げる最上階にはかなりの空席があったようで、京都人の意識もその程度かよ、っとややおもう、っや、っぼくらが坐したような値段の高い席はむしろしっかり埋まっていたから、広告の方途として、安くて条件がわるくてもよいから文化的のものへ触れておきたい、っという、音楽趣味のど真ん中ではなくその周辺へいて、公演へ、行きたいような行かなくてもよいような、っと揺れ勝ちの層を、っよろしく行く方へ傾かせることができていないのかもしれない、
っとまれ、豊嶋氏コン・マスの京響は、事前にはお上品すぎて羊のように大人しいという悪印象へ陥ることを憂慮したぼくだが、っちゃんと要所において豪胆であり、っかつ繊細なアンサムブルにより調性毎の色調の移ろいも鮮やかに伝え、素敵だった、っまだ来月にはキーミツとの最期の共演の機会、ブルックナー《8番》がある、っやはりかって彼氏がシェフを務められた楽団のひとつであり、互いに重要演目重要演目を嚙み締めてのお別れである、
っきょうはまた、仙台とどっこいか、っあるはそれへ勝る2幕の充実ぶりであった、ボーイズのコーラスはきょうも大健闘だったし、加えて他の幕とちがい、歌手連が舞台の前面まで来て唄う機会がおおく、多声のうちでも彼等の音勢が死なず、っそして乾いた音場の功名で、歌手、コーラス、ボーイズ、オケ、っやがて舞台上へ進軍してくるバンダと、っごった煮の全要素がしかしマルチに分離してそれぞれにちゃんと聴こえており、舞台劇とともに一大交響樂が進行するという、っまさしくオペラのオペラたるの妙味が全開していて眩しかった、、、っそうそう、ルザン・マンタシャン女史、っみごと復調、っきょうがツアー最後の晴れ舞台であられた、
っそして、カップル2組の性格の異なるドラマの拮抗が音楽的に伝わり辛かった過去2回に比して、っきょうはその3幕もだいぶん熟れてきていた、左から聴くと主役おふたりは遠く上手の壇上で穏やかに別離の辛苦を喰み合っており、準主役おふたりは下手の舞台前面で罵り合いだが、っにも拘わらず、期せずして最後的に2組ともに、暖かくなるころには別れよう、っとの結論へ達するその4重の哀しさが、っちゃんと声楽的にも睦み合っていた、
終幕では、右から観ていたのではわからなんだ視覚的の仕掛けのひとつを知る、っとつぜんの管絃の炸裂により男たちの悪ふざけが破られ、ムゼッタが半死半生のミミを連れて訪れると、4つの木箱を並べて壇上へベッドが設えらるが、っそれは上手奥側へ枕を据え、足側が下手手前へ向いて斜行しており、っよって右からでは頭側へ設置せらる板材の表面が視えない、っきょう左からそれを視るところ、っそこへはじつにミケランジェロ《アダムの創造》の、ゼウスとアダムとの人差し指同士が触れるか触れないかの部分がトリミングしてプリントせられていたのだ、、、っまあそうねえ、っすこしく安易と云えば安易だが、っおもわずに、これはどういう寓意だろうか、っと思案してしまった、っあれを男女の指が触れるか触れないかという文脈へ読み替えるのは、っあまりにも下賤でくだらなく、っまさかに森山開次氏の意図はそんなところへはないとはおもうが、
哲人コッリーネが葬送の楽へ乗って外套を質種とせむと唄うのは、終幕へ至ってようやっとこの役柄へバスの音域が宛てられていた所以を明らかにす、
音楽的には、っもしかするとこの終幕はこれまでの経験を得てやや流れをよくしたのかもしれない、っそれか、っぼくの耳が曲へ馴れてきたかのどちらかだ、っというのは、ミミが床へ就いてから絶命するまでに、彼女はけっこうあれこれと唄いまくる、っそれをあんまりじっくりたっぷりとしたテムポで演ってしまうと、死のうとして何度も起き上がってくるドリフのコント、、、っそんなコントがむかしあったよね、っあれカトちゃんケンちゃんかな、っでも観るようで、っかえって興醒めである、敢えて淡々と先へ先へと進めるほうが、観劇している者の胸はより震えるかもしれない、っぼくもこれで3度目で、っそうどこもかしこもでは泣かなくなってきたが、っここではやはり泪を落としながら観ていた、今生の別れの前に、あなたあのときほんとうは鍵を見附けていたんでしょう、っと惚気話をする時間を有てたことは、っこの若き恋人たちにとって、っほんのほんのせめてもの慰めであり、っほんのほんのせめてもの仕合わせであろう、
終演して眼下の正面席を見るともなく見下ろしていると、本名徹次氏がお客として来られていた、彼氏のあの三軒茶屋での日越共作のオペラは、キーミツが宣伝に一役購われていたものだが、っその縁もあってご招待されていたのだろう、彼氏は来年に九響とモーツァルト《Clコンチェルト》《プラハ》という魅惑的のプロを振られるが、ったしか平日よるの公演で、東京のぼくは、宿を取り、2日か1日半は休まないと聴きに行けない、っけれども、っよしんばその演奏があの郡山でのハイドンと境涯を同じうするならば、っそれはたいへんな達成へ至るにちがいない、仕事へ穴を空けてでも行く価値のある賭けである、っもちろん、きれいなモーツァルトが流れていました、っなどという次元ではぜんぜんまったく成功ではなく、っそんなのはむしろ大失敗である、人生の、人間のすべてが瞬間瞬間の音々へ余さず映じているというのでなければ、っぼくは切符代と宿代と交通費とをまるまるドブへ棄てることとなるのだ、っおおきにけっこう、っそれでこその演奏会というものである、
っさて、南大沢のいつもの喫煙スペイスまで戻った、っお次は水曜、セバスティアン・ヴァイグレ氏の読響との公演、っぼくは彼氏を聴いたことがなく、っこんどが初めてだ、アイスラーだかの日本初演というのに興味を惹かれたが、同曲をYouTubeで聴いてみたら、っなんだかそれほどおもしろい曲想におもわれなんだので、遠慮してしまった、今次は、先般のカーチュン・ウォン氏と同様、伊福部昭《サロメ》のリヴァイズ版から〈7つのヴェイルの踊り〉がプロへ組まれているのが定め手になった、今週はまた狛江の試掘が1件入っており、週末の終業後は黙々先輩のご発声で、聖蹟別棟連で呑み会、
みずの自作アルヒーフ
《襷 ータスキー》(全4回)
https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)
《ぶきっちょ》(全4回)
https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)