ざっかん記 -17ページ目

初台、




カーチュン・ウォン氏の棒、日本フィル公演、済む、

っきのうは仕事を休み、青葉で上岡敏之氏のピアノ・リサイタルのはずが、っおとついも晩になって主催から発表があり、演者の手指故障のために中止とのこと、各地で開催の公演のうち、っぼくはきのうとあと王子ホールへ行くはずであったが、っいずれもキャンセル、っまことにざんねんだが、オケ公演のほうは問題ないようで、札響も新日本フィルもとくになんの発表もしていない、っぼくは仕事が発掘調査と云う条、っまあ土木作業なのであり、四十路へ至ってようよう仕事仲間と身体の不調のことを話題にするようになってきたが、っおもえば音楽業界は会社勤めならば疾くのとうに定年の人たちがしかし雲霞のごと犇めく特殊な環境なのであり、ったまに公演キャンセルがあるほうがむしろあたりまえかもしれない、っそれに怒ってもよいが、じゃあおまえ一年中いっさい休まずに現場へ出られんのか、っと詰められたら、押し黙らざるをえない、

っきょうの演目は泰斗ゲルハルト・オピッツ氏を招いてブラームス《2番》コンチェルト、っそしてチャイコフスキー《4番》である、

初台で日フィルを聴くのも珍かな体験だが、2階正面の方へ良席がなかったのだろうか、同階右翼の舞台をすぐ眼下へ見下ろすぼくにしては偏った位置取り、っが、結果としてその位置でよかった、ったまにこのくらい直接音直接音したライヴもたのしい、

ブラームス《2番》コンチェルトのような曲想は、っお察しのとおりぼくごとき怠惰な耳ではこれまでほぼ完全スルーのまますぐしてきてしまったが、っきょうはまったく幻惑せられた、っいつものほどよい距離を取って聴く日フィルは無類の精妙が印象的だが、至近距離だともっと融け合う以前の、演奏の現場の音がする、っとうぜん木管のバランスがつよく、っひとりびとりの息遣いまで手に取るようにわかる、絃も、っほんの弾いたか弾かないかのような音まで細大漏らさず聴こえ、っその情報量の豊富を望めない2階正面という遠方で聴いていては、睡魔に勝てなんだ可能性大だ、

オピッツ氏はお伽話へ出てくる凄腕の鍛冶屋のじいさんみたような風采だが、っぼくの位置からは直接音はピアノの蓋の向こう側であり、っそれがかえって音々を円く削り、快い、脱力の極致といったその語り口には、安心し切って心身を委ねうる、

日フィルは恆のとおり席次がくっちゃくちゃで、なんであなたがそんな後ろへいられるんですか、っと見る目にたのしい、っきょうはオーボーの1番が新日フィルの古部氏、フリュートの1番はいつもは2番以下の男性、クラリネットも見たことがない人だった、ホルンの1番は丸山氏で、っなんだか足元が覚束ずによたよたと登壇されるように見えたが、開幕からひとりぽっちで吹かねばならない彼氏は、っちゃんとプリンシパルたるの面目を示された、

音が近いので、っひびいたあとのニュアンスや雰囲気は摑み辛い憾があったが、全曲の経緯をよく識らないまま聴いていて、曲想として、2楽章のせわしい主題を出したあとのVnとVaとの悩ましい歌が、ったとえばあれがイタリィ風情の発露だろうかとおもったり、3楽章のセロのソロには平凡にもほっこりとさせられたり、っそしてフィナーレは、彼の《ピアノ・トリオ》に聴くジプシー趣味ほどではないにせよ、っなにか抗し難い哀感を嗅ぎ、っずっとたのしんでいられた、っしかし、っこうした穏やかな情緒は、20代のがきんちょの頃では受け附けられなくてとうぜんであったとおもう、



チャイコフスキーでは俄然、鮮烈な音響となり、っそのコントラストも痛快だが、っここでも2楽章あたり、っすべて目に見えるように鳴る木管の動向が鮮やかだった、っただ、っいつものように距離のある位置から聴いたとしたら、っこれで特有のアッピールのある演奏だろうかとときおり勘繰ってみたが、先般聴いた彼氏の同《5番》からすると、っわりによく聴くチャイコフスキー《4番》の閾をおおきく超脱するものではなかったようにもおもう、

っあすも彼等の横浜での同プロで、午前中のみ仕事をし、公演は夕からで、気力があれば、っきのう行こうかともおもった池袋での井上キーミツの写真展へ寄ってからの横浜行とせむ、っその池袋ではついにキーミツの《ラ・ボエーム》初陣であり、っあすのカーチュン氏公演の動画配信があると予め知っていたら、っそちらを聴いていたところだ、っぼくは23日旗日のほうを聴き、っその後、仙台、京都、川崎千穐楽と4公演を巡る、演目はおなじでも全部オーケストラがちがうので、病み上がりのキーミツにはさぞかし重労働にちがいない、



っはてさて、っあした着て行く服がないので、っまだこれから帰って洗濯機を回さにゃ、っなんか記憶では、っあしたの切符もきょうとおんなじような位置だった気がするのだが、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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ギロッポン、




角田鋼亮氏の棒、シュレーカーのオペラの題から採ったというデア・フェルネ・クラングなる団体の公演、済む、演目はスクリャービン《法悦の詩》とマーラー《復活》とで、スクリャービンへもコーラスが参加す、

オケは青年晩期から壮年早期くらいの人たちが過半を占め、っおそらくは全員か大半かが専門の教育を受けた人たちである、コン・マスは、登壇されたその風采が、っどこかで見憶えのある人のような気がする、ったしか、知己トロムボーン奏者さんが乗られた三鷹でのマーラーを主演目にした公演で、っそれは《大地の歌》と《巨人》の初稿とと2度の機会があったが、っうちどちらかか、っあるは両のコン・マスが、っあんなかんじの人だったようにおもう、っまた、セロのトップは新日本フィルの人でいらしたり、っほかにもぼくのよく識らないプロフェッショナルの人が乗られていたかしれない、絃は1st18からちゃんと各声部2ずつ減ってバスは10と、規格外の巨大編成である、

っよってそのテクニークはそれなりだが、っただどうだろうねえ、っなにかこう、音が薄いんだよねえ、っしゃびしゃびしていて水っぽいというのか、っどうしてだろう、っそれはわりに腕聴き連中のしかし常時いっしょには弾いていない、臨時編成のオケではしばしば起こることで、不可思議のひとつであるが、っぼくのおもい違えでなければ、本格のオーケストラってのは、っもっとこうどすんと重かったり、っねちっと粘っこかったりといった音を縦横に発しうるものだが、

スクリャービンはしかし、っさっぱりとした清潔さをまだしも購えないじゃなく、ハープ、チャレスタ、グロッケン・シュピールといった音彩も星のごと瞬き、細かい音型も軒並みかちっと入るので、見通しが立ってきもちがよい、っしかし終盤ともなると、っまああの曲はああいう曲ではあるが、凝集したトュッティはどこか硬質で栄養価に乏しく、っその音量音圧とは裏腹に、っわずかに空々しさをおぼえずにいなんだ、え、もう曲終わっちゃうけれど、コーラスはどう加わるのかな、っとおもうと、っほんの最後の数小節で、あーーー、っというっきりであった、っそれでも彼等は譜面を携えていたのだったが、

棒の角田氏は、読響とコンチェルトを3つ演る公演を目黒で聴き、醒めた人だなあという印象を有ったのだが、っあのような中器では放っておいても音量として飽和するので、名うての読響にも助けられてそれなりに豊麗な音がしたところ、っきょうのように腕は一定水準以上でもひびきの細い楽団でサントリーの大音場となると、指揮者の無趣味、無感動がそのまま音へも露呈す、っなんだか、スコアへ、いまはこう、つぎはこうなって、そのつぎはこうなる、っと書いてあるからそれへ隨って音が変転してゆくというだけで、っもっと溢れむばかりのこのいまのエスプレッシーヴォ、ムジツィーレンが必然にしてつぎなる展開を喚び覚まし、感動に打ち震えつ音楽が生起してくるという手応えの致命的の欠如は、っじつに如何ともし難い、複雑な経緯を辿ってゆく楽曲のそこかしこで、緊張感を保ち切れずに時間を持て余し、退窟だからはやくつぎの展開が来てくれたい、っと、客席のぼくのみならず、指揮台上の当の彼氏がそうおもってしまっているのじゃないか、っとたびたび訝られた、

っとくに木管連中のアッピールの乏しさが、っその憾みを助長したようだ、っなにか舞台上でのみ音が鳴っているようで、っそれがぜんぜん客席へ飛んで来ない、単に音量としてももっともっと各人が自己主張してくれてよいし、っなにより与えられたロールロールを謳歌し切らむとするやはりその熱意である、音勢の相関とはおもしろいもので、舞台の音がそんなだから、っきょうはいつも以上に客席からの咳払いがノイジーに耳へ附いたことだ、っあれで舞台でこぼれるばかりの感動が謳われていれば、仮におなじ程度の咳払いがしていても、っさして感興を殺がれたりはしなんだかもしれない、

1楽章では、低絃へ応えてオーボーほかが葬送の主題を出すその瞬間からもう音の密度が低く、っこちとら音楽へ乗ってゆけない、シムバルを交える全曲最初のトュッティは、っべつに騒音が慾しいわけじゃないが、抑制趣味が鼻持ちならない、展開においては、横笛の㐧2テーマがハープの上を快速に滑ってゆくところ、破綻という破綻が起きるでもない、合いの手を入れるコン・マスのソロなどはふるいつきたくなるような美音だったりするのだが、っそうした美質が個別声部に限局せられ、全員で大切にバトンを渡し渡してゆこうという気概に欠ける、っもっとホルンの和音とか、っもっと滑らかななかでのかすかなスタッカートとか、感銘を約束するための手筈はいくらでもあろうものを、特段の手立ても講じないまま、っあんなにもうつくしいはずの音楽をいとも容易く小手先へ流してしまう、偏に、指揮者がありったけこころを動かして音楽をしていないことの帰結なのであり、酷を承知で、万死に価する、っと云い切ってしまいたい、音楽をしろよ音楽をっ、

っこの弊は、っやはり木管が重要なキィとなる個所で定まって訪れ、3楽章全体や、フィナーレでは最後の審判の地獄画のような緊迫した場面でさえ、っどうも音楽がダレてくる、自分たちがいままさに鳴らしている楽曲が、必ずや聴く者へ感銘を与えるのだ、っと眞底から信じ切っていない人たちの音の脱殻である、

、、、っなんだかあまりにも酷い云い種だが、っこれもいつもいつも確認していることで、っそうした無感動な音と、っこちとらのこころをあざやかに拐ってしまうそれとでは、物理音としてはじつはそう大差がないのだとおもう、っなにか不幸な行き違いによって、感動は指間から零れ、っついにはまるで喪われてしまう、人間は感動屋ばかりではない、っとうぜんだ、っだから角田氏には、っべつに見る目に暑苦しい熱血漢になってくれたいわけじゃない、そう云うけれど水面下では俺のこころはこんなにも騒いでいるんだぞっ、っとちゃんと沽券を示してくれたいのだ、最も注意深く聴く者にはその執念がちゃんと仄見えるような、っさようの音楽を演ってくれたいのである、

っそうだ、ソプラノは森谷真理、アルトは池田香織の両女史、池田女史については、高関氏と東京シティ・フィルとの公演でヴァグナーを聴いた直後に病気療養が発表せられ、心配したものだが、っご復帰を祝したい、両女史とコーラスとを加えた最後の復活の高唱は、先般おなじここでフランス帰りの飄々としたおっちゃんが振られた同曲を聴いた際には、オケの元気がよすぎて声楽はまるで聴こえなんだところ、っきょうはちゃんと聴こえた、



っさて、っあすあさっては三鷹の試掘調査、っあす1日で終わっちゃいそうだけれど、夏休み中の世田谷の中学校校庭の調査の概要報告書もぞんがい作るのに手間を喰っており、急がにゃ、っしかし、一寸急がにゃならんくらいのほうが、仕事をしているという気がありありとするというのはありふれたイロニーで、っいつ了わるとも知れずにもう10年ちかくもつづけている中央区の仕事よりか遙けく精神衛生によい業務である、

っと云いつ、っつぎなる機会は今週木曜、暢気にも平日に休みを取り、横浜、青葉で上岡敏之氏のピアノ・リサイタル、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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高槻、




森口真司氏の棒、紫苑響なる団体の公演、済む、っいま、事後、器直近の王将で食事をし、在来線で京都へ移動中、京都からは新幹線だ、

演目はボロディン《プリンス・イゴール》序曲、シベリウス《7番》、ドヴォルザーク《新世界》、

器は去年、っいつかの大阪滞在時に足を伸ばし、大阪フィルを退かれた方が指導なすっている絃の小規模アンサムブルを聴きに来たそこであり、高槻城址の濠内に大中小器を一括したごく近年落成とみられる複合施設、っそのときは小器か中器かだったが、っきょうは大器、1,500席前後ではないかとおもわれるほどよい容積で、1、2階席ともに1席置きくらいの密度でほぼ客席全体が埋まる集客力、自由席で、着いたときにはもう長蛇の列だったが、っよろしく2階最前列右寄りの通路脇というぼくにとっての最良の位置を確保し、開演まで外出して喫煙するも、暑くてかなわず、汗だくになる、前半は絃9型くらい、後半は12型くらいで無理にがなくらなくとも優に飽和し、絃に対して木管などもつよめのバランスで聴こえる快いアコースティックである、

森口氏は先週、錦糸町でFAF管をお振りになり、マーラー《5番》ほかを披瀝なすったが、っそれは、棒自身は恆のとおり淡麗端然としてすばらしかったが、っざんねんながらオケの実力に不足し、っにも拘わらず後刻ほど力奏するのでようよう音色が汚れ、フィナーレの最後の最後にタテが乱れるという、っやや後味のわるい結果を遺した、

っきょうの紫苑響については練度が未知数で、東京くんだりから聴きに来てあまり巧くなかったらどうしてくれようとおもうが、開演前には舞台上へクヮルテットがお出になってドヴォルザークのなにかを演られており、っそのVaはすこしく音程が甘かったがみなまずまず弾ける人たちで、他の奏者もこれに準ずるテクニークであれば合奏全体として一廉ではないかと期待を有つと、っじつにほぼその通りのアンサムブルを望みえ、3曲2時間の公演全体を等分の解像度で聴かさる、っもちろんドヴォルザークも終局が近附くと相応の発奮がみられたが、っそれさえ美観を破ることなく、自然な昂りとして発露した、森口氏としてもこれでとんとんのレコンクィスタであろう、

っきょうぼくがうれしいのは、っこれまで音盤、実演を含めて何度も聴いて来ながらもうひとつなんのこっちゃよくわからなんだシベリウス《7番》が、初めてどういう曲だかわかり、ああ、いい曲だわこれ、聴いていてたのしいわ、っという実感を得られたことである、プログラムへ時系列順に展開を追った丁寧な解説を載せてくれていたのもおおきに鑑賞の助けとなった、っどうも、っあのトロムボーンによるコラールみたような主題が、重要動機であるにも拘わらず、っこの楽器の音色音勢として、巧く吹かせ、っまた他声部とのバランスを取らないと音型がよく伝わらず、っそれが伝わらないと全体の構成も見通せなくなってしまうのかとおもわれた、っそれがわかれば、っあとスケルツォ様のところは放っておいても音のほうで動いてくれるから退窟する心配はないし、っこの作曲家特有の和声や旋法も隨所に聴かれるし、っもう道へ迷うことはない、

っことしの暮れ、井上キーミツが彼氏の生涯最終公演で同曲をお振りになるが、せっかくの機会だのにこちとらよく馴染めない楽曲が含まれているのが難だなあ、いまからでも遅くないから当初のご計画通りマーラー《夜歌》に再変更、、、っちがうマーラーのお心算のところから楽聖になり、っでシベリウスを加えて、っそれをそっくりマーラーへ戻してしまえと云っているのだから、変更再変更の、再々変更か、っともかくそうしてくれたいとおもっていたくらいだが、っきょうでよい予習になった、っまだぜんぜん接触量が足りていないが、当日ある程度は、キーミツの演奏が好い演奏なのかどうかを判断しながら聴いていらりょう、っやはり演奏会というものは、曲がわかるかどうかなどという不案内な状態で客席へいても、っぜんぜんたのしくないものである、この曲であればあそこの表現をどうしてくるだろう、お、そう来たか、っというように、っつまり当の演奏がその曲にとって勝れているのかを曲がりなりにも裁定しうる状態で聴いているのが仕合わせなので、っそのきっかけがほんのいくらかでもないと、意慾を有って鳴っている音へ喰らい附いてゆけないのだ、

っその点《新世界》は、森口氏の棒とあらばもう大船へ乗った気でいられる、局所的に少々意外なテムポ設定、フレイズ感覚が聴かれたが、全体としてはもちろん硬派、辛口である、管楽器全般において、どこまで音を伸ばす、どこではっきりと切る、っということが意識的に為されていたが、っそのすべてを指揮者が註文を附けて励行せしめているとはおもわれないから、っやはりもとよりかなりのオートノミーを有つ楽団なのである、っこちとらでもとちゅうからそのことに気が附くと、聴き古したはずの《新世界》も途端にどこもかしこも新鮮に映じて、っまことにこころうれしい、

っとはいえ、っよほどの演奏能力を有つアマチュアであっても、っこの曲のフィナーレあたりは、《新世界》フィナーレのレプリカ、っというか、垂涎してしまうばかりほんとうの旨い食事でなく樹脂で拵えたその食品サムプルを見せられている、っみたような印象へ落着してしまい勝ちであるものだ、まずまず音が落ちないくらいには弾けます、程度では、本格の聴き応えからは遙けく遠いのである、っそれがきょうは、っあれでなかなかのアッピールであった、勝因は迫力更新が絃主体に成されたことで、バスもしばしばごりごりとワイルドな風圧を発すれば、Vnも熾烈に迸り、っそれが力自慢と堕さずに曲の発展にとって必然の昂奮として鳴っていた、



っさて、新幹線内はほぼ熟睡で新横まで戻ったので、っいままだこれを書き切れずに南大沢の喫煙所、っあすの旗日も演奏会で、サントリーで角田鋼亮氏がマーラー《復活》をお振りになる、

新幹線といえば、来月に2度、森口氏を聴きに大分までの日帰り旅程を強行するが、っその乗車日の1月前に売り出す割引切符の売れ行きを侮っており、っまず1公演目のほうの往路はよろしく購えたが、復路はゆうべ夜間で購入不能だったのでけさ再検索するに、っぜんぜん購えない、敢えなく次に安いグリーン券を購うが、最安の席よりも¥4,000ほども高い、抜かった、2公演目のほうはちゃんと往復とも最安のものを購えるように努めむ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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錦糸町、




森口真司氏の棒、FAF管公演、済む、演目はヴァグナー《トリスタン、、、》前奏と歌手なしで〈愛の死〉とと、マーラー《5番》とである、

っこの公演があしたであってくれたらなあ、っさすればゆうべは上岡敏之氏がピアノを弾かれるペーター・ローデル氏の《冬の旅》が聴け、っきょうはカーチュン氏を聴き、っあした森口氏だったものを、っしかもそのばあい、聴けないゆうべのカーチュン氏は配信動画で望みうるというまさしくザ・ベストの日程、っま、っしかし、演奏会の巡り合わせとはえてしてさようのものであらむ、

っきょうのFAF管は、っおなじ森口氏の棒で昨年、川崎で初めて実演を聴いたのであり、YouTubeには彼氏の棒になる、ライヴ・ノーツ・レイベルで馴染みのナミ・レコードが動画収録した数年前の錦糸町におくショスタコーヴィチ《10番》の公演の模様も上がっているが、川崎のときは自由席で、入場したのが遅く、2階の最良の部類の席は埋まってしまっており、3階正面右寄りで妥協するところ、彼等はやや線の細い、ったっぷりと満ち溢れない合奏であり、森口氏の辛口の造形は実感しえたが、物理音の量感としては不満を遺した、YouTubeのショスタコーヴィチにせよ、この手応えの合奏を客席で聴けば、脆弱さをおぼえずにいないだろうな、っという程度である、

っそれできょうもその覚悟を定めて来る、開演前の舞台上での浚いはまずまず豊富な音量であり、っこちとら理想的の位置取り、2階右翼の前方へ坐して、っこれはひょっとするとひょっとするかもしれないと期待を募らせるも、果たして、っやはりややよわいアンサムブルである、ヴァグナー冒頭から誰にも助けてもらえない弱音のセロのアルコは音程が甘く、産まれたての仔鹿みたようにぷるぷると頼りなく音が揺れている、っありふれたアマチュアの姿だ、っただ、森口氏の棒はあいかわらず淡麗にして厳密厳格であり、オケの技倆に制約のあるなかでも能うかぎりの曲趣のアッピールを成す、

マーラーは、プログラムを読んでいて膝を打つ、フィナーレのロンド主題はあきらかにブルックナー《8番》のフィナーレ㐧1テーマとアダージョのコーダの音型とを組み合わせたものだが、っこれまで音盤のライナー・ノーツや演奏会の楽曲解説などでその旨への言及をついぞ読まなんだ、っそれがきょうのプログラムへはちゃんと書いてあった、っこれまでそのことに気附きながらもどこへもそれが書いていないので、え、あんなに肖ているのに単なる偶然の一致で意図的な拝借じゃないのかよ、、、っと訝っていたぼくだが、っじつに溜飲を下げた、

っがその演奏は、後半になるほど息切れを来たし、ホルンの1番は3楽章においてもう音量がか細く、っはんたいにトロムペットは終局が近附くほど羽目を外し、放埓な音量と、相応の音色の汚濁とを結果す、っやはりマーラーは、っきょう日においてもアマチュアにとっては高い壁だ、

トロムペットの1番は女性で、次席に楽器を持ってもらい、松葉杖を突いてのご登壇であるが、曲頭のファンファールは、っわずかに1音吹き損じたものの、っその音色は、ぱ、っと開いた手応えで太い質感であり、っまことに快い、っこのファンファールを、ぱぱぱぱー、っとでなく、ぺぺぺぺー、っと細い、っぎすぎすした音質で来られると、っいかに上質の吹奏能力を有つ奏者であろうと、っぼくとしては馴染めないものだ、っやはりトロムペットは、ぱ、っと開いた音色、低い音域においては、ぽ、っと唸るような深い音色こそが基本のキであり、ぺ、っと喉を詰めたような窮窟な音質は聴いていてけっして愉快ではない、

葬送の門出はもたつかずすっきりと唄ってゆき、音色も濁らない、っそのうえ、厳粛のうちにもVaのリズムを弾み、音楽に活性が与えらる、流石に練達の森口氏である、

っこれはほんとうにおもしろいことだが、指揮者によって確乎として自分のひびきを有っている人もいれば、オケによって安定を欠き、バランスからなにからてんでばらばらになる人もいる、っゆうべのカーチュン氏にしてもきょうの森口氏にしても、典型的の前者の人であり、っきょうのオケは盤石の合奏能力とはいえないが、っそれでも技倆に勝れればさぞかしとおもわせるだけの音が絶えずしている、

2楽章の冒頭も、っなかなか迫力を出し切れずに、っなにか音楽が上滑りする憾を遺す演奏はプロフェッショナルでも珍かではないところ、っちゃんとぎっしりと各対位が殺到す、っただし、絃は細かい音型でまともな音量を出せず、対して金管はこの時点ですでにして必死に吹くだけ音色を汚しており、っゆとりがない、フィナーレと通有の主題で迎える束の間の勝鬨は、バーンスタインを筆頭とせるばたばたとした駈け足を嫌うぼくとして、っどっしりと腰を落とす森口氏には感謝深謝、っそうでなくてはっ、

3楽章は、云ったようにホルンの1番は乗っけからもう辛そうで、彼のみならず誰にせよあっぷあっぷ、っしかし、絃のトップ連によるピッツィのワルツは、Vnがアルコとなり、ホルンの対位と絡む部分がこの楽章のせつなさ、孤絶を代表するある種の名場面であり、っきょうの奏楽はちゃんと折れそうな繊細を伝えた、

アダージェットは、音量としては充ち足りないが、っふだん以上にハープの動きを賞味する時間だとおもうことにする、

フィナーレはますます金管が吹き荒んで来、っしばしば絃が消されてしまうのがざんねんであり、大団円は力盡くの粗暴さ、コーダは最後の最後で足並みが乱れたのがまことに惜しい、指揮者、楽員としても悔しかったことだろう、

っこの楽団へは、背伸びをせず、身の丈へ合ったプログラミングを望みたい、最も煩瑣な瞬間においてさえまだ若干の余力があります、っというのでなければ、っやはりマーラーを十全に乗り切り遂せるのは不可能である、

っさて、っあすはひざびさの予定のない日曜、っのんびりとカーチュン氏のブルックナーを録画するとせむ、っそれにしても、可能のかぎり演奏会へ行きまくらむとした去年とことしとで、通っている公演数はさほどちがわないのじゃないか、っこれから年末へ掛けても、土日のおおくは演奏会で埋まっており、平日に休みを取って行く公演もあり、ダブル・ヘッダーの機会も複数ある、地方へも何度も出掛け、宿を取っての旅程もいくつかある、っお銭を遣いすぎた2年間であり、来年以降はもっと節制せねば、、、

っお次は15日の日曜、高槻日帰りにて森口氏の公演である、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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ギロッポン、




カーチュン・ウォン氏の棒、日本フィルで、ブルックナー《9番》公演、済む、プログラムへファッスングの記載はないが、っまあどれであれおおきな異同はなかろう、アダージョまでを演って潔くはねる、拍手はソロ・カーテン・コールも含めて10分前後つづいたのかとおもうが、時計を見てもまだ20:20すぎだ、

客席は、閑古鳥が啼き勝ちであったのが惜しい、過去数種の公演はいずれも旗色闡明の大演奏揃いで、っそれを見届けてきた人も都近郊に大勢いようのに、っかかる重要プロへ挑まむとする彼氏の姿を望むべく駈け附けたいとはおもわないのだろうか、っその熱意のほどを疑る、

っとまれ、っこんかいもたいへんな演奏であった、っまず配置、絃は、Vnを左へ固め、Vaは表でVcは中とここまではなんの変哲もない、っがバスはホリゾントで、っしかも10もいる、っさようの配置を採ってもそのことによる音響効果がぜんぜん発揮せられない演奏も世に澎湃としているが、っきょうは覿面で、っもとよりカーチュン氏の際の日フィルの絃バスはごりごりとかなりソリッドな質感を志向しており、っそれがしばしばオルガンの最重低音と紛うばかりの質感を体現す、管については、木管は佐藤雄一氏みたように後列を通例と逆にはしていないが、金管はそうで、トロムペットが右、トロムボーン、テューバが左へいる、ホルン、ヴァグナー・テューバは左へ固め、ティムパニは右である、コン・マスはいつもの田之倉氏ではなくゲストで、っなんだか外国の若いあんちゃんでいらした、

っしかし、日フィルはきょうもまたいったいなんたる響を上げることだろうか、っほんとうに、聴いていてぜんぶが嘘か夢幻のようである、っどこまでもどこまでも無碍に羽搏いて、っおよそ留まるところを知らない、

1楽章の開始は、上岡敏之氏ほどではないにせよ、原始霧は最弱音、テムポは極めて遅く、木管の和音が鳴ると、早くも尋常ならざる色調である、ホルンの味も苦く、全員でクレッシェンドするとごつごつとしたすばらしい隆起を示す、トュッティによる㐧1テーマの確保へ向けて絃が動き出すとすかさずヴィブラートが効き、っはっと心裡の隙へ這い込まれるようで、っじつに鮮やかな手並みだ、音色を抑えずに煌めかせる木管は閃くように鳴り、っかえって大トュッティへ至らないうちからもう狂気の相へ踏ん込んでいるここちがする、っついに音型が細かくなり、金管、ティムパニを交え、トュッティへ達すると、っなおゆとりを余した鉄壁無類の合奏により、サントリーの大音場がびりびりと痺れる、曲頭から有無を云わせぬ鉄鎚の降下であるが、っこうでなければブルックナー《9番》は始まるまい、

っつづく経過ではピッツィをしっかりと高い質量で爪弾かせるのもとうぜんで、㐧2テーマへ遷るとやはりゆっくりとこころゆくまで謳う、ホルンの1番は信末氏ではなく客演でいられたようだが、っわずかな吹き損じをしかしご当人、気にして焦りを生じていられるのが挙措に露呈し、っのち、っほとんど全曲に亙ってトュッティでは吹かずにみなへ任され、っずっと楽器をくるくるくるくるさせていられるのがやや目へ障るといえば障った、っほかはみな吹かれているからホルンの方を観ていたいのに、大将も大将があたふたしながら、このままだと音ひっくり返っちゃうから、このままだと音ひっくり返っちゃうから、っというふうだからである、っまあしかし、っその必死の対処のお蔭もあり、彼氏はそれほど手痛いエラーを頻発されたというのでもなかった、閑話休題、同テーマ後半部へ入る部分では最上段横一線の絃バスがずしんと鳴って満堂を法悦境へ浸す、GPは遠く残響を見送ってなべて長く長く取られ、テーマ前半部へ還ると進行につれて自然と歩幅を詰め、抜かりなく音楽の失活を未然に防ぐ、

っけれども、㐧3テーマあたり、っやや抵抗なくさらさら流しすぎる嫌いがせぬでもなかったが、っそれも全体から逆算してのペイス配分であろう、

っここから先、展開、再現と逐次的に書いていたのでは夜が明けてしまうが、っどこか、っどこだろう、っそうさホルンがゲシュトップフトを用いるマルチアな部分、っあそこは宇野さんが日大管をお振りになった新宿文化センターでのライヴ盤のほんとうに軍隊行進みたようなきっぱりとした歩調もきもちよいが、本職の指揮者にはむしろのんびりとしたテムポのままの人がおおい、カーチュン氏はといえば、っもちろん宇野さんほどではないが、っほかの部分からすれば意図して前進性を強調されており、流石である、っそしてあそこでは、痛ましい歩みだったのに、中途から一寸っきりトロムペットが晴れがましい調へ移るのが憎い、人生の束の間の栄光を垣間見るここちだ、

っそれから再現㐧2テーマ手前の延々たる下降における各声部の動き方、っまいどながら、っあれはほんとうによくもああいう音楽を書いたものだとおもう、っぼくは最後のセロの動きがすきだ、っすきというか、っあんなものはもはや狂気の沙汰である、

っそのうえなお、っあの激越なコーダがやってくる、っどこまで聴く者を嬲れば気が済むのであろうか、っそしてブルックナーのあの手の息の長い登坂では、っとちゅうへ踊り場みたようなところがあり、っそれまででも張り裂くほど胸いっぱいの音楽だのに、っそこからさらに急峻な登攀を敢行するサディズムときている、っしかもそれを恬淡としてやってのけるのだ、っきょうはまた、全霊を振り絞った日フィルの勇敢なることといったら、

スケルツォは、遅い、っというほどではないが上滑りしない愼重なテムポを用意し、大粒のピッツィを時空へ刻み附けつ始める、ティムパニ、ホルン、トロムボーンによるデモーニッシュな地団駄では、っおそらく通例はダウン-アップ-ダウン、アップ-ダウン-アップか、っもしくはセンプレ・ダウンで弾かれるのだろうVnの4分音符の下降音型をすべてアップ・ボウというワガママ炸裂、ったのしい、トリオではホルン、トロムペットの地味な役割へも周到な目配り、

大事を取ってアダージョ前には再テューニング、っその冒頭の1stは過たず乾坤一擲の懊悩、、、っという云い種もヘンだが、っに身を捩り、和してくる他声部もつい勢い込んで濃密な音色にしてしまいたくなるところ、そのために音量を出しすぎるな、っと指揮者は掌で抑えるアクション、っじつに冷静だ、落陽を望むファンファールも、トュッティへ向けて上昇を始めるVaの《7番》の音型も、っそしてそのトュッティも、っいずれ劣らぬすばらしい眺望、っやはり日フィルは、背伸びしてやっとその音でなく、っまだぜんぜん余裕綽々ですというように、っしかし非の打ち所のない奏楽を示す、っこちとら唖然としてしまう、

㐧2テーマでは乗っけからぞんがいねちっこく絃を唸らせているのが印象的で、っこころを動かさずに崇遠な音楽をというよりは、破滅の刻へ向けて安閑とはしていられないといったところだ、っいっぽうでは客観的の冷徹さも具えるカーチュン氏のしかしかかるパッションは、っじつに愛すべき美質である、っただ、っついぼくの気分の問題であったかしれないが、ピッツィの伴奏が失われて以降の泪々の時間は、っぼくはもっと泣かされる心算で聴いていたが、っさほどでもなかった、っどうも、テーマ前半を粘ったぶんだけこのあたりは流れを重視してかるく捌いているようなところがあり、っぼくとはボタンの掛け違えか、っぼくはここをこそ、やや躊躇うように1音1音のために時間を取り、Vnのトゥリラーとフリュートとの重なりを大切に扱い、っとしてくれたかったのだが、

っとまれともあれ、演奏は先へゆくほど惜しむようにGPを長く長く取り、、、っしかしとちゅう、例のLの神秘和音ではその直前から不届者の着信音が鳴り出す、っまたそれが神韻を予示するようなきらきらした音色であったのがいかにも癪だ、っぼくにはよるの19時20時をすぎて電話をしてくるような友人知人はいない、電話が着信する可能性はほぼ皆無だがそれでもちゃんと機内モードにするのに、っなぜ、っまいにちよるだろうと誰かから電話が掛かってきてしまうかもしれないと本人わからないはずがないその人が、スマート・フォンを音が出るままの状態にして演奏会の客席へいて平気なのだろうか、っよのなかいろいろの人がいるからと悟り澄ましたことを云ってもよいが、っあんなときばかりは、てめこんにゃろめっ、いっぺん死んで人間やり直しやがれこなちきしょうっ、っとどやし附けたくもなろうというものだ、っとつじょテメエの着信音が鳴り出したらどんなにか肝が潰れるか、っそのあとどんなにか針の筵へ坐らされているここちがするか、っその恐怖へ想像が及ばないような輩は、ったしかにのうのうと人間をやっていてはダメである、死んでやり直さにゃ死んで、

っまあしかし、舞台上が中弱音でもそれを破ってそちらのほうが派手に聞こえてしまうというタイプの着信音ではなかったのが不幸中の幸いで、っどうとか気を取り直し、っついに破滅の和音へ至る最後のトュッティも日フィルは駄目を押さないまま踏破、GPはこのあとを全曲中で最も長く取ったものとみられ、コーダは敢えてのあっさり、っはじめに定めたテムポのまま最後ホルンが《7番》動機を昇り、ピッツィもそのテムポのなかで弾かせて了わる、

カーチュン氏の音は、曲想に応じた厳しさのなかにも恆にいつもの健康美が脈打ち、日フィルの信じ難い精妙と剛毅との両立と、っまたきょうの変則的の配置の妙とも相俟ち、オーケストラを聴くよろこびもここに極まるような一夜であった、っあすはもっと大勢のお客がその精華を胸裡へ刻むのであってくれたいが、っぼくは錦糸町、森口真司氏のマーラー《5番》だ、っきょうの公演は動画配信があるので、っまた録画しておかむ、っいままだ永山の駅でこれを書いており、っもう日附が変わって1時前、っきょうは午前のみ仕事をする心算だったが、億劫だから休んじゃお、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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参宮橋、




小柳英之氏の棒、アーベント・フィル公演、済む、予報が予報の態を成していない、っよるは降らないはずだったので安心していたところ、っひどい土砂降りで、駅まで歩くっきりでもずぶ濡れになる、癪だ、

っとまれ、チャイコフスキー《3・6番》、先回とおなじ器で、二重扉の外側がまだ故障中だったので、っまたひゅーひゅーいう演奏中のノイズを耐えねばならないのかとおもうが、っどういうわけかきょうはそのノイズは皆無であった、っところが、っこんどは冷房が効きすぎで、数えるほどっきりいないお客の幾人かも寒い寒い文句を云っている、っともかく万事が無粋な彼等の公演で、っとうぜんぼくはすべて微苦笑とともに甘受している、っあってあたりまえとおもうなホスピタリティ、望む所だ、多少の不自由は耐えてみせる、っそういう気概を理解しない人を、っぼくは軽蔑する、

登壇される小柳氏はあいかわらずのたどたどしさ、不細工放題の振り姿、っしかし、っきょうはいつもみたような出処の誤りはほぼ起こらない、っもちろんどたばたした奏楽にはちがいないが、っぼくはオーケストラのアンサムブルというものは、っある種あれでじゅうぶんではないかとおもう、っまずまず弾けていさえすれば、っそこから先に慾しいのはさらなる洗練よりは音楽を訴えるこころである、

《ポーランド》は、緩徐章あたり、っあるいはぼくは《5番》のそれを凌いでいるのじゃないかとおもうほどで、劈頭のファゴットと横笛との音色から不思議だし、ファゴットとホルンととの呟き、絃の静かなピッツィの緊張感、っそして絃合奏の歌謡主題はいかにも切ない、っきょうそこが始まると、っぼくは泣かされてしまう、スマートな作為というものからあまりにもあまりにも遠いので、スマートじゃない、っとクリティカルに云いたい気がこちとらほんとうに完封せられてしまう、スマートさを志向していない人を相手に、あなたはスマートじゃない、っと云ってもそれは批判として成立していない、ええ、わかっていますよ、目指していませんからスマートを、っという話だ、っそしてくりかえすが、っかかる不細工な奏楽を、っぼくはぜんぜん演奏藝術のうちに数えてよいとおもう、っや、ぜったいに数えなければならない、っという当為をつよくおぼえる、

っそれまでの経緯に対してフィナーレの曲想が唐突かつ軽薄だと云われ勝ちの同曲だが、っきょうのそこはどっしりと野太く、フーガも野暮臭く、初めてこの曲の終曲たるの面目を示した格好だ、右へ固めた金管は荒ぶる咆哮を上げるが、渋く快い音色で、少数の絃はしかしこの野獣の群れみたような連中と懸命に渡り合う、

っそれでも《悲愴》では、1楽章の㐧2テーマあたり、っせめてもう一回りおおきな編成が慾しかったが、全体のぎしぎしいう合奏はここでも魅惑満載、ダサい小柳氏もしかし、1楽章の展開の中途でテーマを全員で絶叫する際にがくんとブレイキを踏んだり、2楽章のトリオ、3楽章の頂点もそう、っひびきを全開にしてゆっくりと全楽を見渡している姿は、裸の王様もここまで突き抜けるともはやカッコいい、どうぞそのまま素っ裸でいてください、っというところだ、

っところで、絃バスには佐藤雄一氏の関係団体のいくつかでも乗られている男性と女性とがいられた、っあんなにも性格性格の異なる怪人怪人と共同作業ができて、っさぞかし演奏家冥利に盡きることだろう、



っさて、っお次は金曜、カーチュン・ウォン氏と日本フィルとのブルックナー《9番》、翌土曜は森口真司氏のマーラー《5番》である、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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錦糸町、




森口真司氏の棒、東京楽友協会響なる60と余年の来歴を有つという楽団の公演、済む、

演目は、バッハのオルガン曲《幻想曲とフーガと》をエルガーがオーケストレイションしたものと、マーラー《トラギッシェ》ととである、森口氏は昨年フライハイト響でマーラー《9番》をお振りになったが、っそのときも前プロへシェーンベルクが編んだバッハが置かれていた、バッハ/エルガーは10分に満たない小品だが、事後は20分休憩、っが、開演直前に降りはじめた雨は同曲後もまだ降りつづいており、喫煙へ出られないで、っゆうべも帰宅が遅かったこともあり、自席へ戻って瞑目している、

オケはアマチュアとして老舗の閾へ存るだけのことはあり、バッハの時点ではほとんどプロフェッショナルと遜色がないとしうるほど、全パートに等分の実力があり、綜奏は抜群に安定している、低絃を背景にオーボー、クラリネットがまず幻想曲の主題をリレーし、中絃、高絃を加えると、っその雰囲気はまさしくファンタスティック、ハープもよく活き、絃バスはアルコのときとピッツィのときとの質感の差が効果的である、っいちど打楽器を交えておおきく漸増するが、っその際の荘厳なひびき、管に吼えられても譲らないどっしりとした絃、っまったくすばらしい、一旦、終止し、っつづくフーガの主題は俄然、精彩を得て、オケはますます自在に羽搏く、

っこれは相当な団体だとおもい、マーラーへの期待も高まるが、っぼくのおもっていた最上の成果を達するためのオートノミーが示されたとはいえず、っややざんねん、っもっとも、冒頭から森口氏のテムポ、音の重さは、重すぎず軽すぎず、っまことにツボを当てて妙であり、っすくなくも絃、っそしてスネアあたりはその棒へ万全に応えるだけの用意がある、っが、トロムボーンはいきなり音を外し、トロムペットの1番もよく吹けずにしまう、前者は提示のリピートでは挽回したが、後者はその際もダメであり、萎縮して音量も出せずにいる、っあのハイ・トーンが吹けないのではなく、っその前の附点リズムが2度ともちゃんと処理できていなんだ、

っもちろん、っそれはごく個別のことであり、全体としては覇気漲るみごとな合奏で、著しく複雑な展開も敢然奮然とくぐり抜けてゆく、アルマを恋う㐧2テーマへ遷移する際に勿体ぶってテムポを撓めないのは森口氏の最大の美質で、っかつ、コーダでは最後の疾走へ入る手前のアラルガンドをぞんぶんに減速、っさようの定め所をちゃんと強調してくれるのもじつに親切設計だが、疾走句へ遷る途端のアクセル全開も諾なる哉、直前とおなじテムポのまま始め、っようようアクセルを踏んでゆく軟派な手口ではない、

2・3楽章はアンダンテ、スケルツォの演奏順、前者は、コール・アングレのテーマが出る際の横笛の音彩が、冴え冴えとしていてこそ胸苦しく、ハープの強奏はこころへガラスの破片が突き刺さるよう、ホルンがバトンを受け取ると、最も窮窟な精神の秘所へ連れ込まれる気がし、聴いていて辛いくらいだ、

スケルツォは煩瑣な変拍子へ丁寧に応接、森口氏の譜読みの穿ちもなかなかのもので、っとちゅう、ファゴットが敢えて優雅なワルツのようにたっぷりと唄ったりする、

フィナーレは、事前の予想ではもっと全員が全曲の終止まで冷静なままでいられる奏楽を描いていたが、っどっこい死力を盡した闘いであり、相応にどたばたもする、ハムマーは2度であったが、っその打撃を喰うたびに楽員は奮い立ち、シュトラウスをして過剰濃密と云わしめた楽想の欝積をこのいまにつよく実感せしめる、っついに斃れ、トロムボーン、テューバ、ホルンが弔いを見舞い、凄惨な破滅へ了わる、



っさて、渋谷へ移動中、小柳英之氏のチャイコフスキー《3・6番》だ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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川越、




森口真司氏の棒、オーケストラ・ダヴァーイ公演、済む、ロシアの珍曲ばかり演っている同団で、っしたがってさほど数多の来場者が見込めるとはいえず、っそれで自由席だとまた例によって1階席のみ開放かと危ぶむが、っちゃんと全席開放で、っよろしく、っあれは2階なのか3階なのか、右側のバルコニーへ良席を得る、

っきょうも、っきょうは川越へかなり早く着いて、焼き鳥屋で呑みながら食事をしてしまったこともあり、っまたときおり睡くてしまった、っおっと、演目は、ムソルグスキー《禿山の一夜》、グラズノフ《ステンカ・ラージン》、、、ステンカ、っはたしか蔑称であったかとおもい、スチェパン、っへ更新するほうがよいのかもしらんが、、、っちがうか、逆か、合っているのか、スチェパンとかというへんてこな発音のほうが正称なのかよとおもった記憶が遺っているから、ったぶん合っている、っそして彼の地の英雄譚〈イリヤ・ムーロメツ〉の副題を有つグリエール《3番》である、

ムソルグスキーは彼等からしたらぜんぜん有名曲の部類であり、っもちろんぼくもよく識っているが、森口氏の振り姿はあいかわらずカッコいい、っとくに烈しいアタックを定める際の、アウフタクトで掲げておいた腕を振ってすぐさま元の位置へ戻すアクションこそは客席から観ていても痛快で、楽員諸氏もああした振り方をされるとおおきに気概を刺戟せらることだろう、っその端然たる名指揮に違わず、オケは開幕から清冽に鳴り渡る、

グラズノフからもうぼくはちゃんと聴いたことがないのであるが、オケはひじょうに巧く、近年落成の器はさっぱりと抜けのよいトーンで快い、

開演は13:15とずいぶん早かったが、っなぜだろうとおもうと、4楽章制のグリエールはじつに全奏80分余の超大曲であった、っぜんぜん識らない曲であり、冒頭から努めて楽想を憶えておかむとするも、っその1楽章はプロローグのような部分がずっと長くてなかなか音楽が動勢を得て来ず、お、やっとクレッシェンドしたかな、やっと細かい音符も出てきたかな、っとおもってもすぐに波が引いてつぎの断章へ遷るようで、っおそらく、シムフォニーと云う条、っある程度は物語の筋を追っているものとみられ、音楽的にはかえって索莫としてしまうのかとおもう、

2楽章は緩徐章であったようで、っついに睡魔へ勝てず、中途からまるで記憶がない、

対してスケルツォ的の3楽章は冒頭から音彩が眩しく、っまずまず目覚める、

フィナーレは流石に動的であり、ロシア人の筆でもあり、山場ではこれでもかとばかり金管が吼えつづける、っついに胸突き八丁はタムタムの痛打等を伴なう破滅的の大音響で、英雄譚の通り相場として〈イリヤ・ムーロメツ〉も悲壮な最期を迎えるらしいが、っこのけたたましいトュッティのあと、低音から順に金管がコラール風の動機を重ねてゆくのは、弔いの楽であったのかとおもう、最後はシュトラウス《ドン・ファン》などに肖て、絃がピッツィカートを何度か弾いて事切れる、全編をしっかり目覚めて聴いていられなんだのが悔やまる、

森口氏の公演はこのあと、都近郊開催のもの以外へもいくつか出向いてみる予定である、高槻でひとつ、っまた、彼氏がプロフェッサーをなすっているいわば本拠、大分でふたつ、大分はともに日曜の14時開演の公演だが、っまるまる1日掛けてどうとか新幹線で日帰りが可能と踏んだ、っそして東京では2楽団でマーラー《5・6番》という重要公演の開催が迫っている、っうち《トラギッシェ》が来週のきょう午であり、同日よるには渋谷で小柳英之氏のチャイコフスキー《3・6番》と、っなんともヘヴィな休日だが、っこんどこそ、っちゃんと目覚めていられるよう体調を整えて臨まねば、

っところで、っかかるばあい、森口氏はあす以降来週までを都内でホテル暮らしなどされるのだろうか、っそれともいちいち大分へお帰りになり、っまたわざわざ上京されるのだろうか、っその翌週にはすぐ同《5番》が控えていられるところをみると、っあるいはずっと東京へいらっしゃるのかもしれない、っそして大学の夏季休暇明けへ合わせて大分へお戻りになるのかと拝察せらる、

っともかく、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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中野、




田尻真高氏の棒、オーケストラ・ダ・ヴィンチなる団体の公演、済む、

芥川也寸志《交響管絃楽のための音楽》、伊福部昭《シンフォニア・タプカーラ》、っそしてショスタコーヴィチ《8番》というごく贅沢なプログラムであったが、っざんねんながら、睡くて睡くてかなわず、全編を覚醒して聴いていた曲はひとつもない、っそれでも前プロはともに8割方の記憶があるが、ショスタコーヴィチについては、反対に8割方を聴いていなんだ、

現場へ通っているときはあさが早く、っけさなども5時すぎには目が覚めてしまう、っそのあと2度睡をしておけばよかったものを、っなにか起きたままでいてしまって、中野へ向かう道中でもぼんやりと瞼が重い、

器へは開場の小1時間前に着き、一番乗りであって、スタッフの方へ、2階席は開放されますか、っとうががっておいて、っせっかくに2階右方の2列分ほど前方へ張り出したその最前列へ陣取ったというのに、勿体ないことをした、

オケは東京音大の近年の卒業生連中を母体に、全国の学生オケ卒団者を集めているといい、っまずまずの合奏能力を有つ、個々のパートも、ったとえばファゴットの、曲毎に乗り替えがあったかしらないが、っうちのひとりの女性は、っいますぐにでもオーディションを受ければ、っどこのプロ・オケでもよろこんで採ってくれるだろうという抜群の存在感でいられた、

器は、佐藤雄一氏のブルックナー《5番》をここで聴いたとき、こんなに音が好いのかっ、っと驚かされたが、っきょうも芥川から、ああ、好い音だなあ、っと実感す、1,200ほどの席数というが、っぼくは多摩センなどをおもっていた、容積として近いのではないか、豊饒芳醇というのではない、っすっきりとして、っしかし快い残響もする、各ソロの音像も大粒で近く感ぜらる、

芥川では期待したほど合奏が緻密でない気がしたが、伊福部では冒頭の低絃、中途からの高絃の参入と、っいずれも楽器の物理音を超えて凍てついた北國の地平を展き、主部はぎっしりと中身の詰まった歯応えで、再現の直前にはハープに彩られたセロのソロがあるが、っそのトップの女の子の奏楽もまったくすばらしかった、

同2楽章は、っところどころうつらうつらしていてしまったが、っまんなかのオーボー2本が2小節ずつ伴奏音型を吹きつづける部分の寂寥はいつになく胸へ迫った、

フィナーレは、っもっと細部細部の彫琢がありえてもよいが、っこの曲を謳うためのむさくるしさ、カッコ附けなさ、有無を云わせぬ音圧の発散が中規模音場を席捲し、っまずまず痛快である、っいっぽうで、ティムパニの合図に始まるまんなかのカノン部、殊にそのテーマをダブル・タームで唄うセロ、ホルン、、、っあれホルンのときはホルンはさいしょは吹いていないで、っとちゅうまでファゴットかなにかなのかな、っともかく、っそれを聴くここちこそは、っじつにせつなくてやり切れなんだものだ、



ショスタコーヴィチは、っほぼ完全に睡ていてしまったが、1楽章のさいしょ、低絃からVa、2nd、1stと加わって漸増しても、井上キーミツ/名古屋フィルを聴いたときのような、っそのまま異界へ拐われてしまうのじゃないかという音色、アトモスフィアは出来せず、ピッチのかすかな不徹底などを聞くと、プロフェッショナルというものがいかに厳密に奏楽を為しているかにも想い至る、っここでぐっと惹き込まれれば睡気も吹っ飛んだかしれないが、っつい俯いて、頻繁なるうとうとを始める、同楽章まんなかへんの動的の部分も、一部、起きて聴いていたが、っあのホルンの連符の動機、っそれを導くクラリネットと絃のピッツィカートとの重なった未来都市から届くテレパシーなどは、っやはり如実には鳴っておらず、楽器の生の質感が露呈してしまっていた、

っさようのわけで、っだんだんと聴く意慾が薄れてしまったのだった、



っさて、っあすは川越、森口真司氏の公演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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川崎、




金山隆夫氏の棒、っみなとみらい21響なる団体の公演、済む、アマチュアとしてそれなりに名のある楽団なのだろうか、有料公演にも拘わらず、っけっこう席は埋まっており、3階席までお客がちらほらいた、っもっとも、っぼくは貰わなんだが、出るときに次回公演の無料招待券を配っており、今次の来場者も前回公演時にそれを貰った人たちがおおかったかしれないが、

演目はマーラー《3番》の前にモーツァルト《キリエ》とブラームス《哀悼歌》ととおなかいっぱいで、13:30開演、3時間は大袈裟だが、っそれへなんなむとする上演時間である、

コーラスはモーツァルトの㐧1声、キリエ、っから眞情が籠もり、開幕から胸も張り裂くよう、オケはこの曲から絃が大勢乗るが、愼ましい音量であり、人声のキャラクターを阻害してしまわないどころか、っそれとみごと相俟つ、調はマーラーを予示してニ短調だ、

ブラームスは音型、音構造の組み立て、オーケストレイションの特有がシムフォニーなど彼の有名作をあれこれと想い起こせしめ、っとちゅう弱音へ落ち、っほとんどオケのバックを失なってソプラノから新しい主題が出ると、っその静謐はしんしんと胸へ沁みたものである、

っで休憩してマーラー《3番》、去年のカーチュン・ウォン氏と日本フィルとの演奏にいたくやられ、動画から音声を抜いたものをくりかえし愛聴している旨、云ったが、っのち、っすべてことしへ入ってからだろうか、順番も記憶がアヤしいが、井上キーミツ/新日本フィル、佐伯正則氏、ヴァルチュハ/読響とたびたび聴き、っしかしそれらはカーチュン氏の云いたいことを残らず云い切った畢生の勇姿を忘れさせてくれるものではなかった、っその曲をどのくらい偏愛しているかにも依るが、トップへ躍り出てくれなくては、っけっきょくは演奏というものは忘れていってしまうものである、っとくにキーミツについては、数年前に池袋で読響とのものを聴き、っつまり近年中に2度もの機会があったにも拘わらず、っいずれも飛び抜けた好印象を遺してくれていないのが悔やまれる、ヴァルチュハ氏についても、オケも声楽も万全ではなかったし、っなにより指揮者の表現としてぜんぜん刻一刻と目が詰んでおらず、っあんな表現意志の曖昧な演奏では、っぼくはほとんどなにも感じないと云ってよい、もっともっとありとある細部でごりっごりに突っ込んでこんかいっ、っという、っその点カーチュン氏は、ピースとしてアルトの坂本女史にはやや難があったが、全曲全体の確乎たる煮詰まりぐあいはその弱点を補って余りある次元へ達しており、っわるくすると陰惨なグロテスクさが主張してき勝ち、、、ヴァルチュハ氏は妙に表情の附いているときほどかえってさようの抵抗を与えた、っのこの曲にあって、絶えず顔を上げて前進してゆく太陽のような天眞爛漫が咲き誇っているところが、っぼくの胸を最もときめかせている要因である、

佐伯氏はといえば、マーラーについては、っあれほどごちゃごちゃとした筆であれば、聴き手の感銘へ一定のテクニークそれ自身を前提せざるをえない面もあり、っあの日の楽団は、っけっして下手ではなかったが、っしかしそのハードルを跳べてはいなんだか、っしかし、っそうした水準の楽団は反対に耳当たりの素朴な風合いが魅力でもあり、腕が足りない、っというざんねんは憶えているが、ヴァルチュハ氏を聴いているときのような、この手の演奏にはぜんぜんノれない、っという悪印象は遺存していない、っおなじようにアマチュアのマーラーでは、っせんじつ千葉で聴いたネコケン氏の《夜歌》など、っあの千葉フィルという団体もテクニークとして玄人跣というレヴェルではなかったが、っやはり粗野な音色とアンサムブルとが恆に無上に快く、っどこまでも小ざっぱりとしていた先般のノット/新日フィルよりもずっとずっとこころへ迫る、抱き締めたくなるような大演奏であった、

っさて、っきょうの金山/みなとみらい21響だが、っとてもすばらしかった、技倆の水準としてはちょうど千葉フィルととんとんというくらいだが、木管の各1番はみな愛すべきキャラクターたち、トロムペット、トロムボーンの各1番はともに頑張り屋さん、3楽章では前者が袖へ下がって扉を開けてポスト・ホルンを吹かれたが、トロムペットともども、腕にはあきらかに限界がある、っけれども音楽を訴えるこころは人一倍で、っその3楽章では、ヴァルチュハ氏のときの、吹き損なわないように神経質に拍へ音を嵌めてゆくっきりの読響の奏者の味気ない吹奏が怨めしく想い返された、音楽をしてくれなくては音楽をっ、

っそしてホルンの1番っっっ、っもちろん完全に無疵ではなかったが、っその滑らかでかつ抜群にこくのある音色と優婉なフレイジングとこそは秀抜で、1楽章の例のソロでは、っぼくもおもわずにぎゅっと泪腺を絞らる、

金山氏の棒は相変わらずおおらかで、細部をぜんぜんかちこちと定めずに進められるが、っぞんがい喰い足らないという気がせず、っむしろ誰の演奏でもぼくとして不満を抱き勝ちの1楽章の終結部など、実演では最も痛快なもののひとつであったとさえ云いうる、力感、音量音圧の解放は最適の手応えで、っそして最後の疾走句へ突入してもかなりテムポが遅いっっっ、っそのなかでトロムペットは全員でおなかいっぱいにけたたましく叫び、全体のがたぴし軋る荒びた合奏も素敵である、っあのトロムペットは、長丁場の最後の見せ場だのに、っはじめのうち音域が低いので、っちゃんと全員がこころして吹かないと、音勢としてぞんがい他声の裡へ埋没し勝ちとなるのだ、

2・3楽章は、っやはり音楽がつまらないとでもいうように憮然と振られる金山氏の棒からは、っさばさばと不必要に拘らない音が鳴るが、不思議、魅力に欠けるというのでもなく、後者で最後にポスト・ホルンが聴こえる場面では、舞台上の絃のしずしずとしたひびきが、マーラーのこころの襞のひとひらひとひらと映ずる、

ニーチェを謳うアルトは前島眞奈美女史、っこれがまたすばらしかった、現代のドイッチュの発音で唄われていられたが、音域だけが低く、音の色は明るく濁らず、っというぼくがこの声部へ求めるまさにそのことの体現者で、っとちゅうオケのみになり、Vnが示す新しい主題はのちに彼女とのユニゾンとなるが、朗々たる声量は器楽に掻き消されてしまうこともなく、

5楽章のコーラスはボーイズと成年女声とがほぼ同数、っけっこう大勢が乗られており、っその後者は前プロのときほど奮わず、年齢層相応に音色が濁っているうえ、附点のリズムの処理を小気味よく達せられないので、天使というよりは地上の人間の歌だ、っしかしボーイズは、プロフェッショナルの楽団と共演するきれいな声でっきり唄わせない団体とちがい、っちゃんとチャイルディッシュな地声を遣っており、っぼくはもっと地声地声していても大歓迎だったくらいだが、世のあまねくボーイズ・コーラスよ、かかれかしっ、っというところ、最前列の男の子ひとりは唄い了えて着席、オケの6楽章の演奏中にぐーすかぴーに睡りこけてしまい、終演後、万雷の拍手が起こり、周りの子に何度も肩を叩かれても一向に起きず、っぼくなど、睡ているのじゃなく熱中症かなにかで倒れているのじゃ、、、っとひやひやしたくらいだが、っだいぶんあって睡たい眼をこすって起きて立ち上がっていた、っかわいい、

6楽章はやはりさばさば、緩徐章としてかなりテムポの速い部類で、っぐんぐん語り進むが、絃は各声部ともおもいの丈を赫裸に語り、管打を交えるとこんどは意想外なほど剛毅に屹立、金管のコラールはこちとら泪なしには聴けず、っついに迎える大団円は全員全力投球、1楽章の終結同様、トロムペットが大活躍、美観のためにこの楽器やティムパニを抑え、絃のトレモロを主体にひびきを作る指揮者もおおいなか、っぼくにとってはこれこそが本寸法も本寸法だ、胸の空くような幕切れだった、



っところで、Xをあれこれとほっつき歩っていると、っまず気になるのはなにかにつけて男女間の分断を煽る投稿、自由な言論と云う条、っその実、っどこぞからカネを貰って日本社会へ混乱を吹き込まむという勢力もあるのか、っあるは運営自身が我が国への攪乱を企図してそうした投稿が優先的に流布するアルゴリズムを組んでいる可能性も否定しえないとおもうが、っさいきんは、8/15前後だったので、っやはりそれ関連の投稿もおおく、愕くのは、っこの期に及んでいまだにあたりまえに左巻きの内容が澎湃としていること、っやはりそれもさようのビジネスであったりマニピュレイションであったりするのかと訝っているところで、アット・ランダムにそれらへ、っべつに挑発的というのでもないがいくつも返信を送っておいたところ、梨の礫、誰も応戦してくる相手はおらず、っしかしきょう、っおひとりだけ反応してくれた人がいた、っそれはぼくの先の拙ブログの近代史観を煎じ詰めて、改憲すると戰爭へ駆り出されるぞと宣っている御仁へ、おっしゃることは、ぼくらはぼくらの民主主義的選択によっては戰爭を回避する自信がない、っというように聞こえます、っという返信なのだが、っそれへ対して曰く、リプライするなとは云わないが、する以上は相手に通ずることばを択べ、わけがわからない、日本語から勉強し直せ、っと来られたのだ、っま、っそんなことは短文投稿ではあり勝ちの暖簾に腕押し、糠に釘で、っぼくとしてべつにさしたる落胆もないのだが、っこの世紀の名文家、美文家たるぼくを相手に、日本語から勉強し直せ、っとは云いも云ったり、、、っま、冗談ですけれど、っつまり言論の自由だなんだと聞こえのよいことを云っても、大半の投稿者はぬくぬくとした賛同者っきり慾しくないということなのである、っけれども、改憲したらアメリカの戰爭へ附き合わされるだの、子弟を軍隊へ取られるだのというのは、っつまりくりかえすが、っぼくらの民主主義的選択によってはそうした事態を避けえないとかんがえることなので、っぼくにすれば民主主義への諦め、不信とみえる、っさように民主主義を信じてもいない者が、民主主義を守れっ、っと声を上げるというのは、っどうにも理解に苦しむので、っそうした疑問の提起は、彼等にとってだって有意義なはずであり、っぼくとしても、なるほどっ、民主主義にはさようの理解がありえたのかっ、っと眼から鱗を剝がされたくて返信を送っている心算なのだが、

っこの気分は、っむかしすこしく2chへ投稿していたときと同断である、っけっきょく誰も、論敵との間にも共有しうる文脈を探り合い、批判的の結論へ達せむという胆力を有たない、自身に既知の文脈をトレイスしたがっているだけであり、っそれへの震蘯へは思案の余地なく厭々をする、

時期も時期だったので閑潰しに無差別の返信をしてみたっきりであり、精神衛生のためにも、今後は控えむ、っきょうのその人が単に議論を避けたいだけの意気地なしだとわかった途端、っぼくの胸裡へはある心象が去来した、X上にせよどこにせよ、下手の鉄砲を数撃っても、滅多にはまともな論敵へ巡り逢えないのは、演奏とおなじだ、っと、っひとつの名演へ行き当たるには、100の凡演を通過せねばならない、疲れるのは、っそしてこころ虚しいのは、駄演よりも凡演を聴くときである、名演を選り分ける気の遠くなるような作業を身体で知るぼくとして、不特定多数の短文投稿者の群から、っちゃんと相手の文脈へも乗り、っこちとらの文脈を相手へ呑ませむと意を砕き、っそういう相互応答の苦労へこそよろこびを見出す奇特な人をさがしだすのは、っいかにも至難であるとやる前からわかる、っそんなよろこばしき苦労は、名演探し独りでたくさんである、

軽率でした、っと、



っさてお次は、世田谷の現場が水曜あたりまでで一段落しそうで、土曜は休んでも大丈夫とおもうので、中野で伊福部昭とショスタコーヴィチとが演奏せられる公演へ行かむかとおもう、アマチュアであろうが、っすばらしく意慾的のプログラミングだ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)