金山隆夫氏の棒、っみなとみらい21響なる団体の公演、済む、アマチュアとしてそれなりに名のある楽団なのだろうか、有料公演にも拘わらず、っけっこう席は埋まっており、3階席までお客がちらほらいた、っもっとも、っぼくは貰わなんだが、出るときに次回公演の無料招待券を配っており、今次の来場者も前回公演時にそれを貰った人たちがおおかったかしれないが、
演目はマーラー《3番》の前にモーツァルト《キリエ》とブラームス《哀悼歌》ととおなかいっぱいで、13:30開演、3時間は大袈裟だが、っそれへなんなむとする上演時間である、
コーラスはモーツァルトの㐧1声、キリエ、っから眞情が籠もり、開幕から胸も張り裂くよう、オケはこの曲から絃が大勢乗るが、愼ましい音量であり、人声のキャラクターを阻害してしまわないどころか、っそれとみごと相俟つ、調はマーラーを予示してニ短調だ、
ブラームスは音型、音構造の組み立て、オーケストレイションの特有がシムフォニーなど彼の有名作をあれこれと想い起こせしめ、っとちゅう弱音へ落ち、っほとんどオケのバックを失なってソプラノから新しい主題が出ると、っその静謐はしんしんと胸へ沁みたものである、
っで休憩してマーラー《3番》、去年のカーチュン・ウォン氏と日本フィルとの演奏にいたくやられ、動画から音声を抜いたものをくりかえし愛聴している旨、云ったが、っのち、っすべてことしへ入ってからだろうか、順番も記憶がアヤしいが、井上キーミツ/新日本フィル、佐伯正則氏、ヴァルチュハ/読響とたびたび聴き、っしかしそれらはカーチュン氏の云いたいことを残らず云い切った畢生の勇姿を忘れさせてくれるものではなかった、っその曲をどのくらい偏愛しているかにも依るが、トップへ躍り出てくれなくては、っけっきょくは演奏というものは忘れていってしまうものである、っとくにキーミツについては、数年前に池袋で読響とのものを聴き、っつまり近年中に2度もの機会があったにも拘わらず、っいずれも飛び抜けた好印象を遺してくれていないのが悔やまれる、ヴァルチュハ氏についても、オケも声楽も万全ではなかったし、っなにより指揮者の表現としてぜんぜん刻一刻と目が詰んでおらず、っあんな表現意志の曖昧な演奏では、っぼくはほとんどなにも感じないと云ってよい、もっともっとありとある細部でごりっごりに突っ込んでこんかいっ、っという、っその点カーチュン氏は、ピースとしてアルトの坂本女史にはやや難があったが、全曲全体の確乎たる煮詰まりぐあいはその弱点を補って余りある次元へ達しており、っわるくすると陰惨なグロテスクさが主張してき勝ち、、、ヴァルチュハ氏は妙に表情の附いているときほどかえってさようの抵抗を与えた、っのこの曲にあって、絶えず顔を上げて前進してゆく太陽のような天眞爛漫が咲き誇っているところが、っぼくの胸を最もときめかせている要因である、
佐伯氏はといえば、マーラーについては、っあれほどごちゃごちゃとした筆であれば、聴き手の感銘へ一定のテクニークそれ自身を前提せざるをえない面もあり、っあの日の楽団は、っけっして下手ではなかったが、っしかしそのハードルを跳べてはいなんだか、っしかし、っそうした水準の楽団は反対に耳当たりの素朴な風合いが魅力でもあり、腕が足りない、っというざんねんは憶えているが、ヴァルチュハ氏を聴いているときのような、この手の演奏にはぜんぜんノれない、っという悪印象は遺存していない、っおなじようにアマチュアのマーラーでは、っせんじつ千葉で聴いたネコケン氏の《夜歌》など、っあの千葉フィルという団体もテクニークとして玄人跣というレヴェルではなかったが、っやはり粗野な音色とアンサムブルとが恆に無上に快く、っどこまでも小ざっぱりとしていた先般のノット/新日フィルよりもずっとずっとこころへ迫る、抱き締めたくなるような大演奏であった、
っさて、っきょうの金山/みなとみらい21響だが、っとてもすばらしかった、技倆の水準としてはちょうど千葉フィルととんとんというくらいだが、木管の各1番はみな愛すべきキャラクターたち、トロムペット、トロムボーンの各1番はともに頑張り屋さん、3楽章では前者が袖へ下がって扉を開けてポスト・ホルンを吹かれたが、トロムペットともども、腕にはあきらかに限界がある、っけれども音楽を訴えるこころは人一倍で、っその3楽章では、ヴァルチュハ氏のときの、吹き損なわないように神経質に拍へ音を嵌めてゆくっきりの読響の奏者の味気ない吹奏が怨めしく想い返された、音楽をしてくれなくては音楽をっ、
っそしてホルンの1番っっっ、っもちろん完全に無疵ではなかったが、っその滑らかでかつ抜群にこくのある音色と優婉なフレイジングとこそは秀抜で、1楽章の例のソロでは、っぼくもおもわずにぎゅっと泪腺を絞らる、
金山氏の棒は相変わらずおおらかで、細部をぜんぜんかちこちと定めずに進められるが、っぞんがい喰い足らないという気がせず、っむしろ誰の演奏でもぼくとして不満を抱き勝ちの1楽章の終結部など、実演では最も痛快なもののひとつであったとさえ云いうる、力感、音量音圧の解放は最適の手応えで、っそして最後の疾走句へ突入してもかなりテムポが遅いっっっ、っそのなかでトロムペットは全員でおなかいっぱいにけたたましく叫び、全体のがたぴし軋る荒びた合奏も素敵である、っあのトロムペットは、長丁場の最後の見せ場だのに、っはじめのうち音域が低いので、っちゃんと全員がこころして吹かないと、音勢としてぞんがい他声の裡へ埋没し勝ちとなるのだ、
2・3楽章は、っやはり音楽がつまらないとでもいうように憮然と振られる金山氏の棒からは、っさばさばと不必要に拘らない音が鳴るが、不思議、魅力に欠けるというのでもなく、後者で最後にポスト・ホルンが聴こえる場面では、舞台上の絃のしずしずとしたひびきが、マーラーのこころの襞のひとひらひとひらと映ずる、
ニーチェを謳うアルトは前島眞奈美女史、っこれがまたすばらしかった、現代のドイッチュの発音で唄われていられたが、音域だけが低く、音の色は明るく濁らず、っというぼくがこの声部へ求めるまさにそのことの体現者で、っとちゅうオケのみになり、Vnが示す新しい主題はのちに彼女とのユニゾンとなるが、朗々たる声量は器楽に掻き消されてしまうこともなく、
5楽章のコーラスはボーイズと成年女声とがほぼ同数、っけっこう大勢が乗られており、っその後者は前プロのときほど奮わず、年齢層相応に音色が濁っているうえ、附点のリズムの処理を小気味よく達せられないので、天使というよりは地上の人間の歌だ、っしかしボーイズは、プロフェッショナルの楽団と共演するきれいな声でっきり唄わせない団体とちがい、っちゃんとチャイルディッシュな地声を遣っており、っぼくはもっと地声地声していても大歓迎だったくらいだが、世のあまねくボーイズ・コーラスよ、かかれかしっ、っというところ、最前列の男の子ひとりは唄い了えて着席、オケの6楽章の演奏中にぐーすかぴーに睡りこけてしまい、終演後、万雷の拍手が起こり、周りの子に何度も肩を叩かれても一向に起きず、っぼくなど、睡ているのじゃなく熱中症かなにかで倒れているのじゃ、、、っとひやひやしたくらいだが、っだいぶんあって睡たい眼をこすって起きて立ち上がっていた、っかわいい、
6楽章はやはりさばさば、緩徐章としてかなりテムポの速い部類で、っぐんぐん語り進むが、絃は各声部ともおもいの丈を赫裸に語り、管打を交えるとこんどは意想外なほど剛毅に屹立、金管のコラールはこちとら泪なしには聴けず、っついに迎える大団円は全員全力投球、1楽章の終結同様、トロムペットが大活躍、美観のためにこの楽器やティムパニを抑え、絃のトレモロを主体にひびきを作る指揮者もおおいなか、っぼくにとってはこれこそが本寸法も本寸法だ、胸の空くような幕切れだった、
っところで、Xをあれこれとほっつき歩っていると、っまず気になるのはなにかにつけて男女間の分断を煽る投稿、自由な言論と云う条、っその実、っどこぞからカネを貰って日本社会へ混乱を吹き込まむという勢力もあるのか、っあるは運営自身が我が国への攪乱を企図してそうした投稿が優先的に流布するアルゴリズムを組んでいる可能性も否定しえないとおもうが、っさいきんは、8/15前後だったので、っやはりそれ関連の投稿もおおく、愕くのは、っこの期に及んでいまだにあたりまえに左巻きの内容が澎湃としていること、っやはりそれもさようのビジネスであったりマニピュレイションであったりするのかと訝っているところで、アット・ランダムにそれらへ、っべつに挑発的というのでもないがいくつも返信を送っておいたところ、梨の礫、誰も応戦してくる相手はおらず、っしかしきょう、っおひとりだけ反応してくれた人がいた、っそれはぼくの先の拙ブログの近代史観を煎じ詰めて、改憲すると戰爭へ駆り出されるぞと宣っている御仁へ、おっしゃることは、ぼくらはぼくらの民主主義的選択によっては戰爭を回避する自信がない、っというように聞こえます、っという返信なのだが、っそれへ対して曰く、リプライするなとは云わないが、する以上は相手に通ずることばを択べ、わけがわからない、日本語から勉強し直せ、っと来られたのだ、っま、っそんなことは短文投稿ではあり勝ちの暖簾に腕押し、糠に釘で、っぼくとしてべつにさしたる落胆もないのだが、っこの世紀の名文家、美文家たるぼくを相手に、日本語から勉強し直せ、っとは云いも云ったり、、、っま、冗談ですけれど、っつまり言論の自由だなんだと聞こえのよいことを云っても、大半の投稿者はぬくぬくとした賛同者っきり慾しくないということなのである、っけれども、改憲したらアメリカの戰爭へ附き合わされるだの、子弟を軍隊へ取られるだのというのは、っつまりくりかえすが、っぼくらの民主主義的選択によってはそうした事態を避けえないとかんがえることなので、っぼくにすれば民主主義への諦め、不信とみえる、っさように民主主義を信じてもいない者が、民主主義を守れっ、っと声を上げるというのは、っどうにも理解に苦しむので、っそうした疑問の提起は、彼等にとってだって有意義なはずであり、っぼくとしても、なるほどっ、民主主義にはさようの理解がありえたのかっ、っと眼から鱗を剝がされたくて返信を送っている心算なのだが、
っこの気分は、っむかしすこしく2chへ投稿していたときと同断である、っけっきょく誰も、論敵との間にも共有しうる文脈を探り合い、批判的の結論へ達せむという胆力を有たない、自身に既知の文脈をトレイスしたがっているだけであり、っそれへの震蘯へは思案の余地なく厭々をする、
時期も時期だったので閑潰しに無差別の返信をしてみたっきりであり、精神衛生のためにも、今後は控えむ、っきょうのその人が単に議論を避けたいだけの意気地なしだとわかった途端、っぼくの胸裡へはある心象が去来した、X上にせよどこにせよ、下手の鉄砲を数撃っても、滅多にはまともな論敵へ巡り逢えないのは、演奏とおなじだ、っと、っひとつの名演へ行き当たるには、100の凡演を通過せねばならない、疲れるのは、っそしてこころ虚しいのは、駄演よりも凡演を聴くときである、名演を選り分ける気の遠くなるような作業を身体で知るぼくとして、不特定多数の短文投稿者の群から、っちゃんと相手の文脈へも乗り、っこちとらの文脈を相手へ呑ませむと意を砕き、っそういう相互応答の苦労へこそよろこびを見出す奇特な人をさがしだすのは、っいかにも至難であるとやる前からわかる、っそんなよろこばしき苦労は、名演探し独りでたくさんである、
軽率でした、っと、
っさてお次は、世田谷の現場が水曜あたりまでで一段落しそうで、土曜は休んでも大丈夫とおもうので、中野で伊福部昭とショスタコーヴィチとが演奏せられる公演へ行かむかとおもう、アマチュアであろうが、っすばらしく意慾的のプログラミングだ、