ざっかん記 -19ページ目

ギロッポン、




東貴樹なる、フランスでバス・トロムボーンを学ばれた70手前くらいの方の棒、フィルハーモニア・ブルレスケなる、早稲田大フィルのOB・OGから成るという団体の公演、済む、演目はヴェルディ《運の力》序曲を演って休憩し、マーラー《復活》、

オケはことしで結成20年を迎えるというが、っそのわりに大半が若い人たちで、母体となる学生オケからまいとし卒団者を迎えているのかもしれない、っそのテクニークたるやじつに盤石で、ヴェルディから絃のこまかい音符がぜんぶかちっと入る、漸強弱もアスリートの妙技を観るようにスリリングで、っほとんど殺気立っているくらいだ、

棒の東氏は猫背、撫で肩のひょろひょろしたおっちゃんで、振り姿も蛸踊りみたようで世辞にもカッコいいとは云えないが、っそのヴェルディ冒頭は、っすこしくも力まずに振り始められ、っじつにノーブルな覇気がサントリーの空間を震わす、っあの原田/関西フィルの乗っけからの威嚇的の騒音が麗しからざる記憶として遺っていたところ、っみごとに払拭せられた、

っかようの小品が出色でも、複雑、長丁場のシムフォニーとなると瑕疵が目立つ、っというのがアマチュアの通り相場というものだが、っきょうの彼等はかなりの水準を維持したまま全曲を踏破してみせた、っまた音量の豊富なことといったらっ、

っただ、コーラスはこの名楽団と渡り合うにはやや精度を欠き、音量も足りないので、フィナーレの大団円では、っそれまでの雄渾に輪を掛けて全力を振り絞るオケに押され、最後の復活の高唱の場面などは声楽はほぼ聴こえない、

ソロではアルトが、っふかい音色を出そう出そうとするあまり、っかえって醉漢が駅のホームで、おえええっ、っと嗚咽しているような発声となってしまう嫌いのあるこのパート旧来の通弊を逃れ、音域が低いだけで、音色としては清浄な歌手であり、そうこなくてはっ、っとおもう、



っさて、っあす連休最終日、紀尾井町で井﨑正浩氏公演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

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市川、




ネコ・ケン氏の棒、千葉フィルで、シベリウス《春の歌》、マーラー《夜歌》、済む、

高名なるネコ・ケン氏も、っはや70代も半ばでいられる、っご登壇はみじかい歩幅でややよたよたとされており、高めの指揮台への昇降も愼重にゆっくりとというところ、振り姿はじつに静かに拍を示しつづけられ、っときおりアゴーギクにおいて分割を行なう程度、個別声部へのキューは滅多に出されない、

っしかし、千葉フィルというオケは元気いっぱい、テクニークとしてもまずまずで、昭和のスポ根奏楽といったところだ、っぼくは恆頃よりそうした楽音をじっさいの会場で聴きたいとしんから希っているので、っきょうシベリウスが鳴り始めた瞬間から、っもううれしくてしかたがなかった、

っそれでもマーラーはさすがに煩瑣な書法に応接し切れないかと危ぶむのも杞憂、絹漉し豆腐よりは木綿豆腐という肌理の粗いごつごつごわごわとしたすばらしい歯応えの音塊が全曲を一貫し、っひたすらにたのしかった、

っこの曲はちかぢか井上キーミツと新日本フィルとの演奏を聴くこととなるが、っそれがぼくにとってはプロフェッショナルの演奏では初めての機会ではないか、っちがうかな、っどこかで聴いたかな、アマチュアでは数度聴いており、10年以上前、ったしか上野小器の佐藤久成氏リサイタルから梯子したサントリーにおく慶應のヴァグネル・ソサエティのもの、っそして坂入健司郎氏と東京ユヴェントス・フィルとのものと、奇しくも慶應閥が揃っているが、っざんねんながら、っそれらはオケのひびきが薄く、1音1音をもっとスルメみたように噛み締めに噛み締めて味を出してこようという執念に乏しく、っぜんぜん印象に遺らない凡演であった、

っその点できょうは、ネコ・ケン氏の棒はここでも淡々としたものだが、オケの面々の気骨が縦横に発散せられ、痛快の極みであった、市川市文化会館の容積、アコースティックとしても、っそうした汗臭いオーケストラの音を受け止める器としてむしろ最適といえ、っすべての時間をこころゆくまで堪能することが叶った、



っさて、ギロッポンへ移動中、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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大船、




井﨑正浩氏の棒、戸塚区民オケ公演、済む、

っきょうは、っいま終演してすこしくお湿りもあり、っわりに涼しく、歩っていて汗だくということはない、

演目はフンパーディンク《ヘンゼル、、、》序曲、チャイコフスキー《ロメ&ジュリ》、楽聖《パストラール》で、っいわば標題楽の系譜を遡行するかたちだ、っそしてフンパーディンクはボンの生まれとのことである、

っこのオケはやや非力なので、っそれほど高い期待は有っていなんだが、楽聖の終章などは、衒わない誠実な奏楽が曲の魅惑を曇りなく伝えた、

アンサムブルとしては、フンパーディンク冒頭からホルンは澄明なハイ・トーンをびしばし定めるし、トロムペットなどもよい音を出している、絃は、セロ・バスは分厚くてよいのだが、Vn、っとりわけ1stにちゃんと弾ける人の頭っ数を確保できていないのがいかにも惜しい、っしたがって艶に乏しい、瘠せ勝ちのひびきであり、っこまかい音符でのクレッシェンドなどで風圧が出せない、

チャイコフスキーはついせんじつ森口真司氏の演奏を聴いたが、オケのテクニークとしては同等程度、っあちらが表現表現した造形を峻拒してこそ魅惑的であるのに対して、井﨑氏は、彼氏もオーケストラ・ビルダーとして辣腕にちがいないが、冒頭のクラリネット+ファゴットの楽句からもっと意志的意慾的に強弱や音価のとりかたを差配し、積極的に音楽を語る、諍いの㐧1テーマはこまごまとした動機が殺到する音構造のため、っもうひとつ迫力が出ないのは森口氏もおなじ、悲恋の㐧2テーマにこぼれるような豊麗の歌を望めないのもそう、っこればかりは致し方ない、

同団の夏の公演では恆例となっているというメイン演目前の井﨑氏によるレクチャー、オケに《パストラール》各楽章の主題を演奏してもらいながら、丁寧に全楽章についてご解説があった、っそのなかで印象的だったのは、フィナーレの最後のところで絃合奏に出る㐧1テーマを基にしたコラールのご説明で、井﨑氏は農夫たちの祈りの場面だとおっしゃり、映像のイミッジとしてミレー《晩禱》を挙げられたのだ、っそのおことばがあったあと、同部分をオケが試奏されたのだが、っあの夫婦とおぼしきふたりの麦畑でのシルエットを脳裡におもいつ聴くところ、っひとりでに目頭が熱くなるのを抑え難かった、

っそれでじっさいの演奏だが、1楽章などは、っやはり絃がたっぷりと鳴ってくれないのが喰い足らないが、井﨑氏は無理に音量を要求されず、スマートな姿態のまま名曲中の名曲を語り進む、相対的に管の動きやその潤いが際立つのも道理で、2楽章などは、主題を支えるホルンや木管のシンコープや、2本のファゴットの和音などが、快い耳の刺戟となる、

っそして3・4楽章を經てフィナーレは、音圧に不足した柔和なひびきだけに、時を追う毎に楽音が地を離れ、宙へ浮き、天へ昇るごとであった、変奏のたびに音価がみじかく、っこまかい動きとなってゆく楽聖一流の筆致はそのとめどない創意の象徴であり、絃の刻みへ木管が重なると、っおよそ神韻を聴き、天啓を浴びるここちであった、

アンコールに楽員のどなたかが目敏くみつけてこられたという同《プロメテウス、、、》より〈パストラール〉、



井﨑氏は中1日を置いてあさっても紀尾井町で公演である、

っさてあすはダブル・ヘッダー、午后に市川でネコ・ケン氏とアマチュアとのマーラー《夜歌》、夕にサントリーでやはりアマチュアの同《復活》である、っことしは興味本位では演奏会へ行かないと宣したのだったが、っこの2公演は、ったしか森口氏の公演かなにかを検索しているときに脇目へ映り、切符を衝動購いしてしまったのだった、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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大阪、福島、




井上キーミツの棒、大阪フィル公演、済む、

演目はモーツァルト《25番》、ブルックナー《7番》のはずが、小ト短調の1楽章が駈け抜けるとキーミツはマイクを持たれており、演奏の中途に指揮者がマイクを持つなんて品がないんだけれど、持病である腎臓結石の発作が出て辛抱たまらんので、っとおっしゃるので同2楽章以降は指揮者なしで演奏し、ブルックナーに集中したいということなのかとおもうとちがって、すまないがもうこれで休憩、20分休んでブルックナー演ります、みんなブルックナー聴きに来たんでしょ、っとのこと、場内は動揺を隠さなんだが、果たして、ブルックナー全編70分余を、キーミツはちゃんと振り通された、

去年末、札響のクリスマス公演を彼の地で聴いたときには、キーミツはひどくお疲れのご様子で、っぼくなど、あと1年、お身体は保つのかしら、、、っという心配を募らせたものだが、っそのときには公演前夜のすすきのでの夜遊びが祟ってたまさか風邪気味でいらしたとのことで、事実、っその後の公演ではまた快活なお姿を何度も望みえた、っしかしじっさいのところは満身創痍でいられるものと拝察せられ、っやはり、のんびりとした余生よ来たれかし、っという引退なのではなく、っほんとうにもう限界でいらっしゃるのだろう、以前にもこの云い種をしたが、サントリーでの最終公演を振り了えられたその舞台袖で斃れて死んでもよいとおおもいのラスト・スパートなのに相違あるまい、っまだこれから《ラ・ボエーム》全国巡演などのハード・スケデュールが控えていられる、キーミツご自身ならずともぼくでも、彼氏にこの年末まで走り切られるだけの天壽が約束せられているのだと祈り、っまた信じたいところだ、

っさておき、ブルックナー、っや、っその前に1楽章のみであった小ト短調だが、っこの過酷なアレグロは、っあたかも井上道義という一個の人格のまったき音化であるかのようだ、呵責のない前進するテムポ、軋る絃の刻みはみずからの肉を削いでミューズへの供物と代えるごと、っとはいえ、8型の大フィルの絃は、っとくに1stが、2列目からもうすでにしてぜんぜん弓の量を遣っておらず、っほとんどアマチュア楽団の弾ける音っきり弾かない素人奏者かと見紛うばかりであった、キーミツも堪り兼ねて、楽章中途で崔氏の背中のあたりまで歩み出て、もっと後ろから後ろから弾いてこいっ、っと煽動されていた、奏者にしてみれば、見る目に弓の量を遣っていないからといって必ずしも音量を出していないわけでもない、っといった声はしばしば見掛けるのではあるが、素人かんがえには、それにしたってどんなにクレッシェンドしてもあんなにも弓のほんのまんなかへんっきり遣っていない奏楽というものがあるか、朝比奈さんも草葉の蔭で泣かれているぞ、っとおもわずにいない、っもっとも、大フィルにすれば勝手知ったるここ福島であり、っすなわち無理をして鳴らずとも優にひびいてしまうのであり、絃はよほどの要所でないかぎりは全員で全力は振り絞らない、っという経験的に体得せられた不文律があるのか知らない、

っともかく、っしたがって恆に上声よりは中低声の濃密を聴く道中であったが、曲調からいってそのことは苦衷をよりリアルに表現する助けとなり、音の並びがあくまでも抽象的の古典派だけに、浪漫は聴く者の心裡においてこそ鮮やかなのであった、絃の配置は、セロ・バスは右へ固めているが、Vnのみ、1st、2ndを両翼に分けるという行き方、っこれは指揮者を問わず東京では読響などもしばしば行なっているが、っなんだろう、こんにち古楽器ブームの隆盛から久しく、ストコフスキー配置に準じてきた指揮者とて興味本位からVnを左右へ分けてはみたい、けれどもセロ・バスを左へ固めるまでは流石に右顧左眄と取られそうで恥ずかしいし、なによりそうした音響バランスへ身体が馴れていないこともあり、そこまではしていない、っとかということだろうか、っどうあれ、大フィルの2ndとVcとのトップはこんにちなお朝比奈時代から見憶えのある古株、、、2ndは女性でいられるので古株と称しては非礼にあたるやもしれないが、っしかしおふたりとも映像に観る朝比奈時代の風采からほとんどお変わりがない、巨星の歿後はや20と余年になるというのに、っいかにもお若くていらっしゃる、キーミツとしても、ブルックナーを演られる上で朝比奈イズムを叩き込まれたかかるヴェテランの存在は頼もしかろう、っしかしそれ以上にきょうの勇姿はVaのトップである、っあの方も朝比奈時代を知る口であろうか、っわからないが、っその弾き姿はまことに音楽への奉仕そのもので、指揮者の棒をよすがとするのみでは不明確へ陥り勝ちのアウフタクトにおいて、っしばしば楽器を後列へ向けて高く掲げて次小節の拍頭を予示し、っもってアンサムブルのオートノミーに一役も二役も、っや、二役も三役も購われていた、

っさて、ブルックナーだが、キーミツとしてまさかに体力温存のために内輪に振る舞われたということもなかろうが、っしかし、表現慾の氾濫に因するオーヴァー・アクションからかえって合奏精度に瑕疵を生ずるということも、キーミツにかぎらず指揮者とオーケストラとの関係としてごくあり勝ちのことであるところ、っその点できょうは全曲がひじょうに端然と静的に運ばれてゆく、

っもっとも、テムポとしてはひじょうにじっくりとしており、っとくに全曲冒頭、っおよび3楽章全体にそのことが顕著である、原始霧は、上岡敏之氏ばりに最弱音から発露し、っおおきなおおきな間合いでセロ、ホルンによるテーマが招じ入れらる、っその唄い方もすっきりとして分厚くせず、周到に漸強弱を操作し、ユニゾンのひびきとして、っどこはセロが主体、っどこはホルンが主体たるべきかを入念に差配し、っじつに丁寧な開始だ、Vnの模倣から全楽による主題確保の頂点へ向けての登坂もすばらしく、絃へのフリュートの重なりぐあい、っはじめに音階を上がり切るときに加わるホルンの悦なる和音、全員で頂点を打つ直前に下降するテューバと、っすべてかかるべしというフォルムである、

㐧2テーマは仄暗く、っしかし絃へバトンが渡ると寛いだ調へ遷り、っそこから㐧3テーマへ向けての漸増は㐧1テーマのそれよりなお巨大であり、っそこがぼくのこの1楽章の提示におくすきなところである、《8番》の同章はちゃんと㐧1テーマ中により険しいトュッティが存り、㐧2テーマは漸強してもなだらかなままである、作家はこの点をどうおもっていたのであろう、生前に実演を何度か聴いているはずではあるが、っともかく、っきょうのそこは、絃のみの爽快な和声から、っそこへ木管が金管がと加わって脹れてくるとそのままこちとらの胸もおおきに脹れ、っきのうのチャイコフスキーではないが、っあらためて、なんという名曲だろうっ、っとの感激に震え、視界が潤んだ、

隣のお客が多動の病者であり、1分とおなじ姿勢でぢっとしていられず、絶えずがさごそがさごそしていて落ち着かない、っそのうえ、演奏に合わせて、っとくに全楽で気を吐く定め所などでいっしょになって身体をびくっと痙攣せしめて昂奮を追体験している愚物であり、っその際の震動がシートを伝ってこちとらにもひびいてきて欝陶しい、俺は演奏を聴きに来ているのであって、テメエの昂奮を共有させられに来ているんじゃねえ、っとの雑言が、っほんの喉元まで出掛かったことだ、っいるのである、演奏会の客席には愚物が、っそういうのにかぎって終演後はブラヴォーブラヴォーと囂しいこと囂しいこと、、、っさようのに遭遇するたび、っああはなりたくないものだとおもうものである、

っとまれ、1楽章を入念に語ったことから、2楽章は、意図して先を急いでいるわけではけっしてないが、っしかしとても流れがよい、㐧2テーマのうつくしさにはまたしても感泣が込み上げ、モティーフが儚く切れ切れとなり、ヴァグナー・テューバの冒頭句へ還る直前あたりは、2ndやVaの動きを明晰に追い、複雑に揺れ動く作家の心理を残らず酌んでいる、名人の仕事だ、ファッスングはノヴァークであり、楽章頂点はシムバル、トライアングルを伴なう、

3楽章はまたしても一転、云ったようにやや意識して腰を落としており、っほとんど鈍重なくらいで、朝比奈さんの晩年などのほうが速度としても音の構えとしてもよほどか先へ先へと流れている、っしかしそれがキーミツの結論なのである、1拍1拍と楔のごと音々は時間時間へ刻み附けられ、トュッティともなるとそれは隣の客も身体を揺すらずにおれない剛毅な音塊が屹立す、っところが、っなにか気分としては好い意味で抜け切っていて、テムポは遅くとも俗な拘泥趣味の匂いは微塵もせず、っただただ曲の魁夷それのみが立ち顕われてやまなんだ、っそれはすでにして2楽章から、っや、1楽章においてさえ発露していたアトモスフィアであり、っやはりキーミツのご体調不良も怪我の功名、演奏が人為を離れて天昇してゆくごとであった、

っぼくはブルックナー《7番》を、1・2楽章をもって天下の傑作とするになんら躊躇しないが、フィナーレは、っよく云わるような短小さはむしろさほど感じないのだが、っそれよりも㐧1テーマのあのキャラクターの軽さだ、劈頭章の広々として雄大な同テーマを剽軽な愉悦に変換するというその趣意はよくわかるのだが、っどうしても軽すぎる、《5番》や《8番》という、楽章間の性格の相関としてより成功し、フィナーレがちゃんと内容的にいっとうおおきな比重を担っている傑作からすると、龍頭蛇尾の憾を拭い難い、聴く前の、さあ聴くぞっ、っという意慾でゆけば、っこのフィナーレよりも《ロマンティッシェ》のそれなどのほうがよほどか意気込んで望めるものである、っま、っすべてのシムフォニーがフィナーレは定まってどすんと重たいというのでは芸がなく、変化球を放ってみましたということがあったほうがよいのかもしらんが、

っただ演奏は、人智を離れるごと必然の色調はここでも一貫し、キーミツが振られ、大フィルが弾かねばこの音は鳴らないのだが、っしかしキーミツも大フィルもその個別具体性はどこかへ消し飛んでしまい、っひたすらにブルックナーそのものである、激越な強弱の交代、ロウ・ブラスの大地を揺るがす咆哮は、《8番》とてそのような個所はいくらもあるのにぜんぜん無理筋には覚えないところ、っこのフィナーレではどれも唐突に感ぜられて、っあまり耳がよろこばないことがおおい、っそこを名器、ザ・シムフォニー・ホールである、天を突くような最強音もはんなりやんわりと堂宇に抱き留められ、全体がいつも高級に薫っている、

キーミツは、先般の名古屋フィルとの最期の共演、豊田におく同《5番》は、っなんと引退前にして初振りでいらしたとのことだが、っそうとは俄かには信じ難い入念な表現と、全体のひびきの雄渾とであった、っきょうもまた、っそれに次ぐ懐の広さ深さを実感せしめ、っこの作家の演奏における面目を示された、残る機会は京響との《8番》である、っすでにして同コムビの演奏が音盤になっているのであるが、っそれはあまりにも流線形で角のない感触のアンサムブルであり、っそれでいて弱音に神経を割くあまりに流れがわるく、全体が豪傑的に隆起してくるあの曲の醍醐味から遠い記録と云わざるをえない、っこんどの演奏が、っもっと野趣溢れるごつごつとした音で行なわれてくれたらと希わずにいないが、何度か実演を聴いてきた京響のあの様相からすると、っそれは叶わないのだろう、っよい、繊細なテクスチュアなら繊細なテクスチュアで、っともかく有無を云わさず聴く者を圧倒するあの《8番》という巨峯を、音場へ現出させてくれさえすれば、キーミツの同曲は、読響と川崎で行なったものを聴いたが、オケは豪壮な野太い鳴りを示していたものの、っしかしそのひびきであの全曲をなんとなく通してみましたという通り一遍の憾というか、っなにかこれぞという定め手を欠いたようにもおもい、正真正銘、最期となる京響との公演で、っもっともっと決定的に、井上道義ここに存りっ、っとの揺るぎない里程標を据えて去っていただきたいところである、



っはてさて、っこんどは土曜、大船において井﨑正浩氏と戸塚のアマチュア団体との公演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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桜木町、




っみなとみらいではなく掃部山公園のほうで、沼尻竜典氏の棒、神奈川フィル公演、済む、っきょうは絃メムバーのみによるプロで、三善晃《絃の星たち》、チャイコフスキー《絃セレ》、っそしてシェーンベルク《浄夜》絃合奏版である、三善はVnのソロがあり、同フィルの石田氏、コン・マスはゲストで佐久間氏、シェーンベルクでは佐久間氏が次席へ下がられて石田氏がコン・マス、

っこの公演は、井上キーミツと同フィルとの最期の共演の切符を1日も早く求めたく、っその優先販売にありつかむとして3公演のセット券を購ったうちのひとつである、演目をみるかぎりではキーミツ以外の公演にはさして魅力的のものがなかったような記憶があるが、っまあ消去法で、っあと1公演はやはり沼尻氏との来年のショスタコーヴィチ《10番》を購ったようにおもう、

っきょうは午前のみ仕事をする心算であったが、っゆうべ、会社の暑気払いで日附が変わるころまで調布へおり、2時ころやっと室へ帰った、っあさ7時すぎに起きるは起きられたのだが、億劫で休んでしまう、っで午までごろごろしていて出掛く、

中器ではあるが、前売完売とのことで、ったしかに大入りであった、っそれほど集客を望めるプロとはおもわないのだが、っなんだろう、石田氏などが相当数の固定客を有っていたりされるのだろうか、

《浄夜》は有名な曲ながらまったく聴いたことがなく、っぜんぜん楽想を識らなくて、演奏時間も長く、前2曲はばっちり目覚めていられたので油断していたところ、半分弱くらいは夢のなかで聴いていてしまった、了わりの部分には踊るような楽想が現われ、洒落ているとおもった、

三善、チャイコフスキーはおおきにたのしんだ、っどころか、チャイコフスキーは4つの楽章すべてで目頭が熱く、っじっさいに泪を落としもした、倹しい容積の音場は絃合奏のみでも優に満たされ、っときに烈しいアタックはこちとらの身もこころも揺すぶるよう、っその音量、っひびきの充実感はちょうどこないだの箕面におく坂入健司郎氏と大阪響との公演と同様、聴き古したはずのチャイコフスキー《絃セレ》をまったく甦らせ、っあらためて、なんとうつくしい音楽だろうっ、っとの感激に堪えなんだ、三善も、開幕から神奈川フィルの絃合奏の密度は出色で、曲は、リズムといい和声といい声部の拮抗といい特殊奏法といい、っごく緊迫した構成の快作で、っおよそ息を吐く間もなく惹き込まる、



事後は井伊直弼の掃部山公園で喫煙して音場とは反対の方へ下山し、横浜駅方面へ向かう、前回か前々回かにここへ訪れた際にみつけた大衆食堂然たるカレー屋へ寄り、ビーフ・カツ・カレーを食すと、っその肉はゆうべの調布の鉄板焼き屋のそれに劣らない上等の品のようで、っそれがしかし近年の料理屋のようにディザインフルなみたくれをしていないで、っいかにもぞんざいな盛り附けの大衆食堂のカレー・ライスというふうなのが快い、演奏藝術にも同様に、音楽の本髓のみをしかと見据えて、体裁を繕わないで、音の表面自身はぎざぎざとささくれだっているというそういう音を鳴らして憚らないプロフェッショナルがいてくれたら、っというのは、っさいきんはやや忘れていたが、っいつもぼくの胸底で騒いでいる邪な願望である、っみんなきれいなんだよ、音がさ、っいいじゃん、一寸くらい汚れたりしていたって、



っさて、っあすは大阪日帰り、福島にてキーミツと大阪フィルとのブルックナー《7番》、彼氏と読響とのサントリー最終公演の演目が大幅に変更になったとおもっていたら、元プロの楽聖《6・5番》は、大フィルとのおそらく最期の共演なのだろう11月へもってこられたようだ、流石にこれで引退までの未発表公演も打ち止めかな、っあとまだこれから切符を購わねばならないのはOEK、っこの大フィル、っそして読響ラストか、ったぶんぜんぶさほどの難、発売からものの数分で売り切れるみたようなことはなく購えるとおもう、っま、抜かりなくそれら発売日発売日へ望むとせむ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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中之島、




服部百音女史、っおよびN響との、っともに井上キーミツとの最期の共演、済む、ショスタコーヴィチ《1・2番》コンチェルトの間へロッシーニ《ブルスキーノ氏》序曲、

っちょうど先週の北山、福山におくキーミツと京響との同一プロ公演と同様に、ソリスト、オケ、っそしてホール・トーンの三拍子において、後日のほうが遙けく好印象を結んだ、っきょうは《2番》の最後の最後、フィナーレのカデンツが明けたあたりで服部女史の絃が切れ、彼女はすかさずマロ氏と楽器を替えられてどうとか停めずに復帰しようとされるが、キーミツはそれを制して奏楽を停められ、カデンツの了わりの部分から仕切り直し、女史は終演後、渋面でべえと舌を出して口惜しがっていられたが、っしかし再開後も緊張の糸が切れることはなく、公演全編においてまったく張り詰めた時間の一貫する、驚異の夕であった、



っけさは9時前には室を出、正午ちょうどに新大阪、大阪駅から歩って開演の3時間ほど前にいったん器へ着き、階下のレストラン街でカレー・ライスを食するが、っぼくが食べ了えて席を立たむかというときに、っおしゃれなテンガロン・ハットをかむられたティムパニの植松氏が来店された、っぼくは器を離れて席で喫煙可能のカッフェまで歩き、開演を待つ、1時間半ほどそこへいて開演1時間ほど前に取って返すと、っこんどは肥後橋の袂のところでファゴットの水谷氏と往き合う、っもちろん、っともに声を掛けたりなどという愚は犯さない、



っぼくはふだんから、巷間たまに云われるようにはサントリーを駄器とはおもっていないと云っているが、っもちろん演目や編成の規模、演奏の性格との相性というものもあろう、っきのうは云ったようにソロの音勢がオケに殺がれる嫌いがややあったし、っそのオケにせよ、先週の福山やきょうの中之島のように、っじゅうぶんな容積のなかですべての声部がクリアかつマルチに聴こえるたのしさからすれば、っきのうは飽和かつ拡散する気味で、っあれこれの楽器の多様の音色、質感を十全に味わい切れなんだようにおもう、

サントリーに対してはしかし、残響が長くゆたかであるという印象を有っている人もすくないのではないか、っいちおう満席時2秒超ではあるはずだが、残響をゆたかであると感ずるためには、っその長さよりも音量であるかとおもう、実音が鳴り了わったあとへ遺存する余韻の音量が、っその3割くらいもあるのではないかというようであれば豊麗と感ずるし、2割以下かというようであれば、っそれが2秒といくらか掛けてゆっくり減衰するのだとしても、っさっぱりとしたひびきと感ずる、サントリーとか、っほかに都近郊であれば池袋や川崎などは後者であろう、録音に聴くかぎり、欧州で名器とせられている音場はなべて前者のタイプなのかとおもう、っというよりも、っそれらはみな1,000と数百規模のキャパシティで、2,000席級ではないのかもしれない、っそう、っそれで驚いたのは所沢で、っさきごろ同器で佐伯正則氏のスメタナを聴いたが、っその楽音はじつにしっとりと濡れ、残響も音量といい長さといい、、、両者は正比例するのだろうが、っまったくたっぷりとしていたことだ、っとくに、音が濡れているという感触がありありとしたのこそは驚きも驚きで、全国各地の器での演奏を録音に聴いてもその手応えのするものにはついぞ巡り合わなんだが、っあの豊饒のトーンは、欧州の名器名器にも比肩しよう、



っただ、っなんでもかでもひびけばよいというものではない、っばあいによっては、ドライであったり、デッドであってさえ、っそのほうが聴いてたのしい、っそのほうがより楽曲を味わったここちがすることもままある、っそこがおもしろいところで、先週ときょうとは、っひびきすぎない音場の勝利である、

服部女史はきのうにも勝る全霊を賭したコンセントレイション、《1番》から遊びやゆとりを峻拒した気詰まりな感触はきのうと異ならなく、2楽章において苛烈に絃へ弓をぶっつける痛ましさはなおそれを助長す、一転、3楽章の掠れそうな弱音は泣いているようで、っや、泪も涸れた絶望の色をしているようで、っすでにして狂気の相をさえ帯びるカデンツには満堂が息を飲む、フィナーレは心身ともに無窮動で、っそれでも主題中にあるすこしく柔和な調子へ遷移しての音価の長いところなど、っもう一寸でも肩の力を脱いて道化た表情も覗かせてはとこちとらおもうものだが、っどこ吹く風、一分の隙とてない攻めまた攻めの連続でフィニッシュまで翔びすさる、っきのうで免疫ができていたので、っぼくももうそういうものとして押し戴く、

特筆すべきはN響である、っきのう云った、っせめてもうすこしくでも粘着力のある音を聴かされたいというそういう音が、っきょうは出ているではないかっっっ、っぼくは主に渋谷で彼等を聴いていて、っほかの人たちがきょうのN響はすごい音を出していたすごい音を出していたと昂奮しているようなのを横目に見て、あんな無趣味で潤いのない、ただオーケストラが鳴っているだけというような音のどこがそんなによいんだろう、っといつもすくなからず鼻白むおもいを嘗めてきた、っそう、ただオーケストラが鳴っているだけ、彼等はたいがいそういう音を出すのだ、っそれがきょうは、っすべてのパートに色があり雰囲気がある、実演の音場では初めて、彼等の音を斜に構えて意地悪に聴かずにいられた、っしかもしばしば書法の妙を完全に体現し、現実の物理音が鳴っているとは信じ難い、夢魔のひびく音そのものが聴こえた、《2番》1楽章の主部がフリュート、ピキェロの点滅から俄かに精彩を得て以降の複雑な音構造など、っそういうひとつの生命体が乱舞するごとであった、数十人が数多の役割を熟し合うその綜合として一体の夢魔を現出せしめるなどという業が可能であるということ、っまこと演奏とは、っほんとうはいつもその次元へ達してこその眞の妙味、眞の醍醐味であろう、

服部女史は、っきのうみたようにキーミツのほうばかり向いてかがみ込んで弾いていないで、っちゃんと客席へ向いて胸を張って弾かれる場面もおおかった、っそれに、っきのうはさように彼女の立ち位置や向かれる方角によって音勢へこのもしからざる影響が出るようであったが、っきょうはどちらを向いて弾かれていてもわりあい恆にクリアな音像を望み得、っそれがオケの音像群の裡へ定位するバランスもより良好であった、中之島は2,000といまだ数百席の大空間で、2,000席級においてさえヴァイオリンというちっぽけな楽器のソロの音像は遠く、音量も頼りないことがすくなくないが、っきょうの彼女の奏楽は、最強音から最弱音まで、っすべて豊富なニュアンスを纏って、っちゃんとこちとらの耳へ届いた、っぼくはきょうは2階正面席、っいつもここでは2階の右翼バルコニーで、っそんな大音場では正面席では最前列でもすでにして舞台からいくぶん遠かろうとおもうからだが、っきょう初めて正面最前列右寄りへ坐すと、っまず視覚として憂慮したよりもぜんぜん舞台が遠くない、音としてもそうで、っこんな広大な器においてしかし、Vnのソロがあんなにも複雑微妙なニュアンスを伝えながら鳴ることができるのかと、意想外の僥倖へ接したのであった、

公演開催を知った始めはサントリーのみでいいやとおもっていたところ、っなにをヒヨっているんだと後日にこの大阪遠征も購い足した、結果として大成功であった、両日とも録音があった模様、っおそらくマイクが拾った音にしても、っきょうのもののほうが編集上の嘘というか、脚色を要さない素直な音に録れているのではないか、音盤作成に際しては、っきょうの音源をベイスに、必要個所のみきのうのサントリー音源も用いて修整するということになろうかとおもうが、音楽的のことのみを考慮するならばそうでも、っわからない、業界の裏事情としてサントリーがいやに力を有っていて、うちで録った音をちゃんと使わないで他会場での音源を優先するとはなにごとか、とレコード会社が睨まれ、その後サントリーとの仕事がしづらくなる、っとかたとえばそんなことがあったりするだろうか、っや、っぜんぜん知らないよ、っともかく、キーミツは近年のこれら録音を集成してショスタコーヴィチの、シムフォニーのみならずコンチェルトも全集をお出しになるとのことである、



っさて、来週も土日ともに演奏会、土曜は沼尻竜典氏と神奈川フィルとのもので、キーミツと同フィルとの最期の共演の切符を1日でも早く入手したいがために併せて購ったもの、っどんな演目だったかしらね、シェーンベルクかなにかが含まれていたような朧げな記憶が、、、っそして日曜はまた日帰り大阪行、っこんどは福島にて、キーミツと大阪フィルとのブルックナー《7番》、、、辛いわ、新幹線代が、、、っしかしあと半年、っがんばろう、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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ギロッポン、




服部百音女史のソロ、井上キーミツの棒、N響で、ショスタコーヴィチ、コンチェルト2曲公演初日、済む、《1番》を演って休憩し、後半、《2番》の前にロッシーニ《ブルスキーノ氏》序曲、キーミツの選曲で、っうちに《2番》との主題の類似性があるからとのこと、ロッシーニも含めて、近現代ものであるにも拘わらず、テューバはいるが、トロムペットもトロムボーンもいない、

《1番》はこれまでに、坂入健司郎氏の岡谷、浜松での公演、豊平青氏の錦糸町での公演がそれぞれ印象に遺っており、っいずれ劣らぬ名演であったが、っそれらによりぼくに植えられた曲の印象は、グロテスクでありつつもユーモラスというもので、っそれはこの3公演いずれもが、ソリスト、指揮者、オケがみな闊達でありながらも既のところで音楽を雁字搦めにし切ってしまわないゆとりを具えていられたからかとおもう、っその点できょうの服部女史は、っあの弾き姿といい鳴る音といい、っやや眞剣な闘い一辺倒の気味がせぬでもない、っまたN響は、っやはりもうほんのごくわずかにでも執念を実感せしめるねちっこい発音の感触がしてくれたくおもう、プロフェッショナルたるもの水面下での足掻きを客前へ晒してはいけないにせよ、っせめてあとごくすこしくでも、聴く者の耳へ糸を引いてへばりつくような粘着力が慾しい、っそうした演奏の性格からか、フィナーレの追い込みにしても、乾坤一擲の音が鳴っているにはちがいないが、前3者を聴いているときのような滾るごと昂奮は得られなんだ、苛烈さが窮窟で、ったのしさに不足するのである、



ロッシーニはVaや2ndが弓で譜面をぱんぱんと叩くそれこそたのしい曲、



《2番》は、セロ・コンチェルトとおなじでたぶん音盤を持っておらず、っきょう初めてちゃんと聴いたが、主題も構成もよくわかった、作家としてだいぶん後年の作だが、っまさかに創意が枯渇しているなどとは、畏れ多くて云えないが、っしかしやや作家自身にとっての既存、っありあわせの語法を寄せ集めている憾がせぬでもなかった、服部女史はここでも眞剣勝負、《1・2番》を通してそうだが、っやや気懸りなのは、指揮者の視界内で弾いていたいとおもわれるのか、っしばしばオケのなかへ入ってしまわれ、っばあいによってはほとんど2ndのトップの目前くらいへ立って弾かれる、っまた身体もキーミツの至近距離で彼氏へ正面を向けて、っつまりf字孔が表へ出ているVaのあたりを向いているような姿勢であられ、っそうするとオケによって彼女の音勢が殺がれる気味だ、っじつに全曲の6割7割もその位置、っその姿勢で弾かれており、っごくたまにコン・マスよりも前、っがんらいの定位置まで出てこられると、っちゃんと明瞭にコンチェルトのソロとしての音像を結ぶ感触がした、っぼくは右側、RCの最前列1番だった、、、っおそらく生涯で初めて坐した個人的には特等席中の特等席、っことしはこれからまだ2度3度と坐すこととなる、っのでまだしも凌げたが、っあれで左寄りから聴いた人は、そっちばっかり向いて弾いていないでよ、っとややおもったのにちがいあるまい、っそこは誰か近しい人が諫言を垂れてやって、今後、っよろしく矯正せられればとおもう、っきょうはまた録音のためのマイクがあったので、っそれへあんまり近附きたくないという忌避感があったかもしれないが、

フィナーレは、っなんだか厄介な拍子で、《1番》のそれに勝るとも劣らない一気呵成の畳み掛けだが、目にも留まらぬすばやさでオケとともに駈け抜けるのであった、終演後は服部女史おひとりのみでのカーテン・コール、滝のごと拍手を浴びせられて感泣に咽んでいられたが、泣きべそを掻くのはまだ早い、っあすの大阪公演が控えている、っせんじつの京響との公演でキーミツは、《2番》において暗く重い音を出そう出そうとされるソロのクニャーゼフ氏に、っこの曲にはユーモアもあることを忘れないでくれとひとことだけおっしゃったとのことだが、っあすのゲネ・プロにおいて服部女史へも同様の小言を云われ、っそれを女史が短時間のうちに昇華されるならば、っなおすばらしい演奏となるのにちがいあるまい、っぼくも日帰り大阪行である、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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広島、福山、




っぼくの生涯で初の来訪にして、っおそらく今後2度と来ないであろう福山、井上キーミツ/京響公演最終日、済む、キーミツもプレ・トークで、福山は初めてだとおっしゃっていた、オール・ショスタコーヴィチ・プロで、アレクサンドル・クニャーゼフ氏をソロにセロ・コンチェルト《1・2番》、っそして京響コーラスを加えてシムフォニー《2番》である、

っきのうは《2番》コンチェルトのあとにソリスト・アンコールでバッハ、っきょうはそれがなく、しまった、これならもとの発車時刻に間に合うのか、っとおもうも、16時開演で、了わって出てきたのが18:20すぎ、駅までは徒歩20分凸凹、っその新幹線は18:41福山発で、っまあ3分に1回、小走りを交えて戻れば間に合わないじゃなかったが、っじっさいにはふつうの速度で歩って戻り、25分ほど、降雨のあとのひどく蒸すなかで、駅のロータリーの喫煙所まで来て歩を止めると、額や鼻の頭やこめかみや首筋からどうどうと発汗す、汗は、運動中にはさして噴き出さないので、運動を止めると溢れるのである、っあれで重い荷物を提げてときおり小走りでは、っなお汗だくであったろう、っきょうはグレイのシャーツを着ており、グレイの衣類というのは濡れているのがもろにわかるので、っそんな格好で新幹線へ乗るときにおなじ列の人へ、恐れ入ります、っと云ってどいてもらいたくない、っだから結果としてはこれでよかった、っついさっき、19:44福山発で、3時間の余も掛けて新横まで戻る、っすなわち23時前着で、っそこからまだ横浜線、京王と、帰宅は日附が変わるころになろう、

出来は、ソロといいコーラスといいオケといい、っきのうよりも断然きょうのほうがよかった、器との相性も最高である、っきのうの北山はその楽屋口の喫煙所の脇へオクタヴィア・レコードのハイ・エイスが停まっており、舞台へは数多のマイクがあったが、っきょうは録音はなし、不精をせずきょうも音を録りに来たがよかったのに、

っけさはホテルを出て、旅行会社のサイトで購った割安の切符で11:30すぎに新大阪を発ち、13時すぎに福山着、っちょうど雨の止み間だったが、喫煙しつ天気を調べると14時からは12mml/hという土砂降りの予報、っこうしちゃいられないと器へ向けて歩くが、っすでにしてとちゅうから降り出す、器の向かいのショッピング・モールへ退避し、呑み屋へ入る、雨のために散財をせずに済んだと云う条、っよく値段を見ないで鰹のたたきほかで生を2杯呑み、鰻丼を掻っ込み、生もスーパー・ドライでなくプレ・モルだったし、こりゃそれなりの金額になっちゃったな、っと伝票を検めるに、っなんと¥5,000超、っばかやろうっ、っそれに、っいつもは生2杯くらいはべつにどうということはないが、っきょうはいやに回って、会計を済ませたあとインナー・ヘッド・フォンを耳へ捩じ込むと、毛細血管へもものすごい勢いで血流が来ているのがわかる、っその時点でもう開演まで1時間を切っている、いかん、こりゃ呑みすぎだし喰いすぎだわ、っと器の前まで来てパデストリアン、、、ペデストリアンか、ペデストリアン・デッキの下の灰皿の前でシガレットを服みつ努めて深呼吸をし、っともかくアルコール退散アルコール退散と念ずる、っもぎりの前に小用を足すともろに酒臭い、っぼくの身体はまともにアルコール分解酵素を有っていないのである、

案の定、コンチェルト《1番》1楽章の中途あたりで睡魔が来襲した、経験上、っあのかんじの睡気だとその後は2時間まるでダメという感触だったが、っどうとか正気を保たむと耐えていると、っどいうわけか2楽章のどこかから、演奏が驚くべき凄みを湛えていることがわかり、っそこからソロの息遣いもオケの各楽器の質感もすべてが心身の奥底まで沁みてきて、っくるしくてせつなくて、っしかしそれを噛み締めていることが無上にたのしくて、俄然、意識が冴え返り、あ、これなら大丈夫だ、ずっと起きていられるわ、っと悟った、演奏の力である、

器は、木調の快い堂内だった、トーンとしては本格のホールと多目的のそれとの間の子くらいの手応えで、デッドではないが、っつまりきのうの北山よりもだいぶんドライである、っそれがまずショスタコーヴィチには似合いも似合いだった、っひびきが必要以上に融け合ってしまわずにマルチに聴こえるため、煩瑣な書法のその全声部が凛烈な輪廓を主張する、プレ・トークでキーミツはシムフォニーの管絃楽のみによる前半部分について、ピカソやカンディンスキーのアブストラクトな画のような、っという形容で語られていたが、っそうした妙味を客席で十全に味わうには、っひびきすぎる器では不適である、

っところで、っこないだ佐藤雄一氏の演奏会でヴェーバー《オベロン》序曲を聴き、っそのコーダの最後のところがスッペ《詩人と農夫》序曲の終結部と瓜ふたつでたのしいと云ったが、っこの《1番》コンチェルトの2楽章でソロがとちゅうから唄う主題も、附点で伸びる音型がスッペ同曲中にあるおなじ楽器によるソロの主題とシンクロしており、っまたたのしからずや、クニャーゼフ氏は、アルコのどっしりと太い質量といい、ピッツィの音粒のおおきさといい、っまことに存在感抜群である、っそしてホール・トーンを味方に附けた京響は、ティムパニが、チェレスタが、っきのうに倍する好キャラクター、絃の和音も、音響がほどよく乾いていてこそ、っより意味深に苦味を伝える、

休憩時に喫煙し、戻る前にもういちど小用を足すと、っそれでほぼアルコールとは手が切れたらしく、《2番》コンチェルト以降はなお集中して味わうに及んだ、不勉強なぼくは、っこのコンチェルトの音盤は、ったぶん持っておらず、っこないだの佐藤/キーミツ/日本フィル公演でほとんど初めて聴いたに等しいが、っあれから短期間にきのうきょうと3度聴き、っきょう、っついにその妙味に全的に開眼したようにおもう、っぜんぜんキャッチーな曲想ではないが、っずっとたのしかった、っおもしろかった、作曲者自身、セロ附きのシムフォニーと呼んだってよかった、っと云っているというように、っまるでコンチェルト然としておらず、2楽章などいやに長いが、っあのソロの跳躍とトゥリラーとを含んだ歌と、妙テケレンな忍び足のマーチとが何度も何度も交代するのなど、っきのうの時点ですでにして絆されかかっていたが、っきょうはもう病み附きである、

ソリストも京響も、《1番》からするとここでは完全に盤石とはしえなんだが、っきのうは《2番》がだいぶん落ちるとおもわせたところ、っきょうは、っとくにホルンのおふたりがかなりの程度、失地を回復されており、っすくなくも、聴いていてずっとどういう曲だかがわかった、っとくにぱっと聴いただけではなんだかよくわからない曲において、っこちとらで一所懸命にわかろうわかろうとして首を捻りながら聴かなくとも、音のほうで勝手に悦境へ連れて行ってくれるようなときというのは、っすなわち好い演奏が行なわれているのだと云ってしまって、っなんら大過はなかろうとおもう、打楽器連のおしゃべりが止んだあとへソリストのみが取り残され、不意に漸強して事切れる印象的の終結は、っきょうも美事に定まっていた、

っそれでシムフォニー《2番》、っこの時点で2時間に近い演目が過ぎ去ったわけだが、っこのシムフォニーにおけるような満堂を圧する最強音は、っふたつのコンチェルトではついに1度もしていない、っときにフリュート、っそれ以上にピキェロが鋭すぎる感触がするのは、新宿文化センターなどをおもい起こさせる、っこうした音場では、サイレンはさぞかし効果的に鳴るのだろうなと期待するも、っこれはぞんがいきのうの北山でのほうがサイレンサイレンした異物感が覿面で、っきょうは、聴こえてはいるが、え、管絃楽にそんな質感の楽器なんてありませんよね、っという手応えがあまりしていなかった、

っとまれ、コン・ミス、クラリネット、ファゴットの応酬に始まり、っやがて全楽の大絶叫へと至る息の長い漸強は、音々の拮抗の複雑さ、意表を突く和音の交代において、っどうかすると彼の《4番》1楽章におくかのフガート以上にスリリングなのではないか、京響もまた死力を盡くしたすばらしい勇姿で一糸として乱れることがなく、っきのうは大人しく感ぜられて喰い足らなかったトロムペットもきょうは胸も張り裂くばかりの吼え声を聴かせ、2時間超の一大公演の掉尾を飾るに相応しいめくるめくスペクタクル、っこのうえなおコーラスまでが加わり、っその音像がまた鮮烈で、っここでも和声の変転はなかなかに凝っていて、《3番》の同部分よりもよほどか上出来ではないか、彼等がシュプレヒコールを上げ、っついにスネアのロールが轟き渡ると、全員で痛快極まる最終音を叩き附けて終幕、

っもれなく聴いてきたキーミツの近来の公演中でも、っここまで会心の出来はなかなかほかになかったのではないか、全演目を聴き了えて、っぼくもほんとうにふかく満足したのであった、



っいま21:30、っまだやっと名古屋の手前、

っお次はこんどの土日、ギロッポンと中之島とでキーミツの服部百音女史との同コンチェルト両曲公演、っぼくは2日目大阪日帰りで、2公演とも聴く、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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京都、北山、




井上キーミツ、京響公演2日目、済む、演目は、っゆうべの初日は1曲すくなく、っすなわちアレクサンドル・クニャーゼフ氏を迎えてのショスタコーヴィチのセロ・コンチェルト《1番》、っそして京響コーラスを交えて同シムフォニー《2番》、っきょうのフル演目はそこへさらに同《2番》コンチェルトまで加わるというヘヴィな午后で、14:30開演だが、ったっぷり17時まで掛かる、、、って、2時間の公演の心算であす福山からの帰りの新幹線を予約したが、っとても発車時刻に駅へはいられないじゃないか、っいま1時間ほど遅い便に予約変更す、っせっかくに1月前に売り出す安い切符を購っておいたのに、¥3,500ほど余分に取らる、っこれは抜かった、、、

恐るべし、コンチェルト2本立て、キーミツは来週も東京、大阪で服部百音女史とのやはりショスタコーヴィチのコンチェルト《1・2番》だが、っそれもおんなじようなことにならないだろうな、っま、っそちらは流石にシムフォニーはなく、ったしかつい一寸、、、っなどと云ったらキーミツに怒らりょうが、ロッシーニのオーヴァーチュアかなにかだから、2時間半ということはなかろう、っよしんばそれだけ掛かっても、新幹線乗車前に食事をする心算のスケデューリングで、っまあ大丈夫だ、っこれから遠出の際は、演目の所要時間をもっとよくよく検めておくとせむ、



っさて、っここ北山だが、前回の来訪時には、1階の上がもう3階になるその正面席にしたが、音が遠く、完全に鳴り切ったあとの残響というか残滓を聞かされるようなざんねんを嘗めた、っそれできょうは、っあれが2階なのだろう右翼バルコニーの中程にしてみたところ、位置取りとしては前回よりも断然よかった、音響はちゃんと鮮烈になり、っしかしそのぶん初台や桜木町のように視界がだいぶん犠牲となることを覚悟していたところ、京響は雛壇を高く摺鉢状に組んで、っしたがって絃バスは舞台右袖ぎりぎりまで寄っているというふうでないため、っその位置でもほぼ全楽を見渡しながら聴くことができた、っそうした制約のおおきくない視界のためだろう、バルコニーへ坐したお客たちも背凭れから身を離して乗り出すような姿勢を取る人はおらず、周囲のお客に苛まれる心配もなかった、っあれで初台などはバルコニーへ坐すと舞台のかなりの範囲が死角となるため、っいきおい誰も前傾姿勢を取ってしまい勝ちとなるのだろう、っぼくも鈴木雅明氏の《マテウス・パッション》の際に隣の人のそれにかなりの被害を受けたし、他の公演中に正面席からそのほうを見るともなく見ていると、隣の人の前傾姿勢に堪り兼ねて手で制するような小トラブルはしばしば起きている、っあれを制するにはすこしく勇気が要ろう、っなんとならば、鑑賞への熱意が高ずるあまりの前傾姿勢だからだ、音楽にまるで関係のないあほばかノイズを発している輩にならば、てめえそれをやめろ、っと苦もなく云えるが、熱くなっている人を相手に熱くなるなと諭さねばならないわけだから、

っところで、っきょうは10時から、っここ北山におくおそらくキーミツと京響との最後の共演なのだとみられるブルックナー《8番》の切符の一般販売開始であったが、っきょうとおなじ2階右翼バルコニー前列の、っきょうよりも5席ほど舞台へ寄った位置を取った、良席であろう、

っまた、同時刻には錦糸町におく森口真司氏のマーラー《トラギッシェ》公演の切符も売り出したが、先に購ったのはこちらであり、っやはり2階右翼バルコニーに良席を得た、キーミツのほうは優先販売があってすでにして最良の席は売れてしまっていたろうし、っこちら錦糸町の同個所はなにしろあのとおりほんの1列縦隊であるため、瞬く間に売り切れてしまうことを惧れたのであった、



っそれで演奏、ショスタコーヴィチ《セロ・コンチェルト1番》は、っなんといっても上野/デュトワによる新日本フィル、大阪フィルとの2度に亙る共演であるが、っそれはすばしこいシャープな描線のソロと、巨匠によって冷厳に捌かれてゆくさっぱりとしたオケとにより、異界の未確認生命体が蠢めくごと未知の感触のひたすらの連続であった、っそれからするとクニャーゼフ氏とキーミツとのタッグはもっと野太く、っもっと馬鈴薯の素朴な味がし、奇っ怪な曲趣をしかし無限の愛惜を籠めて謳歌する、



っここで休憩、喫煙所は、前回は器をぐるっと裏っ手へ回って楽屋口の脇のものを利用したが、っそんなところまで行かなくとも、入口を出てすぐ左手にお客用のものがあるのだときょう知る、楽屋口のものは、開演前、休憩中を問わず楽員の方も利用されるが、前回は休憩中にそこでシガレットを服んでいると、前半の演目で誰かがエラーをやったのか、楽員諸氏がそのことを話題にされるようで、っそのときにちょうどどこかから緊急車輛のサイレンが聞こえ、っすると誰かが、え、事故かな、っと云われ、楽員同士で爆ぜるように冷笑を共有されているのである、っつまり、あの緊急車輛はいま前半の演奏中に起きた事故へ駈け附けてきたのかな、っというイロニーをである、っぼくはそれを小耳に聞きつ、よくない雰囲気だなあ、このオーケストラ、ほんとうに大丈夫かいな、っと不愉快だった、格好、服装からしてぼくが演奏会を聴きに来ている客の一個だということはじゅうぶんに推知できたはずとおもう、っその客の聞いている前で同僚の蔭口を叩いて下賤な笑いに興ずる姿を晒すとは、っまことにいただけない、、、っや、っなに、オーケストラとて人間の集団である、80人からのメムバーが残らず聖人君子だなどとはこちとらとておもってはいない、っしかし、っである、っそれだから、っとくに休憩中にはその喫煙所は利用したくない、舞台人の裏の顔など見たくないとおもっていたので、別にお客用のものがあってよかった、



っで《2番》コンチェルト、っこれについてはついせんじつ、当のキーミツの棒、佐藤晴真氏のソロ、日本フィルの演奏を聴いたばかりであるが、っこれまたきょうのクニャーゼフ氏はまるで肌合いがちがう、プレ・トークでキーミツも、クニャーゼフさんはびっくりするくらいおおきな音を出すの、っとおっしゃっていたが、っそのとおりで、楽器は本国でご使用のものは国外へはもちだせないというので、海外公演用に貸与せられている彼氏にとっては亜器であろうが、っそれでもほんとうに音が太い、1楽章がやっとマーチらしき風采を得てきても、テムポとしてもぜんぜん前へ行かずにどっかと腰を据えたモデラート、《1番》からすると、演奏回数もすくなくていらっしゃるのか、際どい重音などでしばしば手許不如意の憾があったが、フィナーレにおくピッツィを弾いておいての下降グリッサンドや、終結の脅やかすような漸強などは、佐藤氏よりももっと効果的で、っじつに迫眞であった、



っときに、休憩後に自席へ戻ると、っちょうどぼくの眼下の1階席中程へ、っさいきん髭面も賛否の広上氏が坐していられるのがわかった、関係者が屯して順々に彼氏へ挨拶をされていたので、っそうと気附いたのである、《2番》コンチェルトなどはほとんどずっとプログラムへ視線を落としたまま聴かれるようであったが、っさてどのような印象を有たれたであろうか、



最後にシムフォニー《2番》、作曲趣意としては《3番》と同断であろう、掉尾のコーラス部分はほんの起稿の口実にすぎず、管絃のみによる部分の実験性こそが肝である、京響は、《1番》コンチェルトで吹かれたホルンは強音といい弱音といいまことにすばらしかったが、《2番》コンチェルトではおふたりとも《1番》とはちがう人で、両名ともにやや不調、トロムペットは、全演目を通じてぼくとしてはいますこしくするどく突き抜ける音量と硬度とのほうがうれしいが、前回公演の3階正面席とちがい、っかなり舞台へ近附いたので、っまずまず密度の高いひびきを浴びる、絃などはまったくすばらしい、



聴く側としてもおおきに体力、気力を要する公演であった、っあすもこころして福山行するとせむ、1日中、雨のようなので、公演を待つ間、余計な寄り道をして散財しなくて済み、っかえってよかった、新幹線代も高いこと取られてしまったことだし、、、高いことって、っただの正規料金なのだが、っそれに、っこんかいは土産は購って帰らない、っだってそんなもの持ってあさってあさ出勤したら、なにお前、会議サボって遊んできたのかよ、ってハナシだから、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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箕面、




坂入健司郎氏の棒、大阪響公演、済む、

本来は中之島でデュトワ/大阪フィルを聴くはずが、っわるい予感が的中して、巨星は同フィルとのリハーサル初日で不調を訴えられ、降板、代演は横山奏氏となられた、同氏は去年、西宮におく井上キーミツと森山開次氏とのストラヴィンスキー《火の鳥》においても、キーミツの降板に際して井田勝大氏と3日間の公演を分担された、っぼくは初日と3日目とで両氏の棒へ接したのであったが、っその井田氏の棒になる初日の事後、両氏はよるの中之島、デュトワ/大フィル公演を訪れ、終演後、巨星と食事の席をともにし、席上で後進は《火の鳥》スコアを拡げ、先達に助言を乞うたとのこと、っそれがために今次、緊急事態にあって横山氏へ白羽の矢が立ったのであろう、っぼくとして、っその晴れの舞台を拝んでもよかったのだが、っもとよりきょうは、っこの坂入氏公演を聴けないのをざんねんにおもっていたこともあり、大フィル公演はふだんはしない払い戻しを受け附けもするというので、横山氏にはすまないが、払い戻しを申請し、坂入氏のほうの切符を購い、箕面を訪れたのであった、

っけさは雨のなか出勤し、半日のみ仕事をす、今夏、世田谷のさる中学校の校庭の試掘調査があり、っぼくが監督をするのだが、っけさは営業担当が聖蹟別棟へ来られ、打ち合わせ、っその来訪が10時前ころで、っきょうは10時からカーチュン・ウォン氏の日本フィルとのブルックナー《9番》、兵庫芸文センター管とのマーラー《トラギッシェ》の切符販売開始であり、っこの営業さんは仕事が丁寧でいきおいお話が長いところがあるので、早く了わらせるべくはいはいと生返辞で済ませ、っふたりして立ち上がりながら、水野さんきょう午后からなにか用事ですか、はい、大阪へ遊びに行きます、え、そうなの、全体会議サボって、はい、全体会議サボって、っなどと笑いながら、10:15ころに両テケツをよろしく得る、っともにまずまずの良席ではないか、

箕面は、字面としては知っていたが、っきょう初めて、みのお、っと読むのだと識る、みのもて、っとかと読ませるのかなあと雑に想像していたのだが、果たして、500席ほどという小音場へ大阪響が満々と鳴る、っすばらしい公演であった、

演目は、ストコフスキー編になる絃合奏によるバッハ《平均律クラヴィーア曲集1巻24番》、坂入氏とは昵懇で、今夏、川崎においてシマノフスキを共演されることにもなっている石上真由子女史を招いてドヴォルザークのコンチェルト、っそしてブラームス《4番》である、坂入氏と同響とは、数年以前からブラームスのシムフォニー全曲踏破を目して公演を重ねて来、っこんやがその掉尾であったとのこと、

狭小な音場で、細部までニュアンス豊富な音響を望めるだろうと期待していたところ、っまさしく、バッハから絃各声部の音のソノリティはいかにも濃密であり、大音場とは情報量が桁違いである、

管打を加えてドヴォルザークは冒頭からトュッティであり、っその熾烈さに空間がびりびりと震撼す、和音の移ろいは聴く者を篤く抱擁し、っそのゆたけき風光風光に、っごくしばしば視界が潤んだ、っどんなに地味な役割の声部も、恆にニュアンスたっぷりに煌めいてやまないのである、石上女史のソロにしてもまったく同断、

坂入氏のブラームス《4番》は、先般、大船でも聴き、っそれもすばらしかったが、っきょうは狭い音場に名うての大阪響であり、っもう全編これ咽せ返るような音の奔流である、2楽章の後半は泪なくしては聴けず、フィナーレの最後の瞬間までまるで間然するところがなかった、

中之島も盛会であったと信じたいが、っきょうのところはこちらへ来ておいてよかった、っあすは京都、井上キーミツ/京響、っそれから、っあすも10時にふたつほど取らねばならない切符がある、抜かりなく購うとせむ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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