中之島、 | ざっかん記

中之島、




服部百音女史、っおよびN響との、っともに井上キーミツとの最期の共演、済む、ショスタコーヴィチ《1・2番》コンチェルトの間へロッシーニ《ブルスキーノ氏》序曲、

っちょうど先週の北山、福山におくキーミツと京響との同一プロ公演と同様に、ソリスト、オケ、っそしてホール・トーンの三拍子において、後日のほうが遙けく好印象を結んだ、っきょうは《2番》の最後の最後、フィナーレのカデンツが明けたあたりで服部女史の絃が切れ、彼女はすかさずマロ氏と楽器を替えられてどうとか停めずに復帰しようとされるが、キーミツはそれを制して奏楽を停められ、カデンツの了わりの部分から仕切り直し、女史は終演後、渋面でべえと舌を出して口惜しがっていられたが、っしかし再開後も緊張の糸が切れることはなく、公演全編においてまったく張り詰めた時間の一貫する、驚異の夕であった、



っけさは9時前には室を出、正午ちょうどに新大阪、大阪駅から歩って開演の3時間ほど前にいったん器へ着き、階下のレストラン街でカレー・ライスを食するが、っぼくが食べ了えて席を立たむかというときに、っおしゃれなテンガロン・ハットをかむられたティムパニの植松氏が来店された、っぼくは器を離れて席で喫煙可能のカッフェまで歩き、開演を待つ、1時間半ほどそこへいて開演1時間ほど前に取って返すと、っこんどは肥後橋の袂のところでファゴットの水谷氏と往き合う、っもちろん、っともに声を掛けたりなどという愚は犯さない、



っぼくはふだんから、巷間たまに云われるようにはサントリーを駄器とはおもっていないと云っているが、っもちろん演目や編成の規模、演奏の性格との相性というものもあろう、っきのうは云ったようにソロの音勢がオケに殺がれる嫌いがややあったし、っそのオケにせよ、先週の福山やきょうの中之島のように、っじゅうぶんな容積のなかですべての声部がクリアかつマルチに聴こえるたのしさからすれば、っきのうは飽和かつ拡散する気味で、っあれこれの楽器の多様の音色、質感を十全に味わい切れなんだようにおもう、

サントリーに対してはしかし、残響が長くゆたかであるという印象を有っている人もすくないのではないか、っいちおう満席時2秒超ではあるはずだが、残響をゆたかであると感ずるためには、っその長さよりも音量であるかとおもう、実音が鳴り了わったあとへ遺存する余韻の音量が、っその3割くらいもあるのではないかというようであれば豊麗と感ずるし、2割以下かというようであれば、っそれが2秒といくらか掛けてゆっくり減衰するのだとしても、っさっぱりとしたひびきと感ずる、サントリーとか、っほかに都近郊であれば池袋や川崎などは後者であろう、録音に聴くかぎり、欧州で名器とせられている音場はなべて前者のタイプなのかとおもう、っというよりも、っそれらはみな1,000と数百規模のキャパシティで、2,000席級ではないのかもしれない、っそう、っそれで驚いたのは所沢で、っさきごろ同器で佐伯正則氏のスメタナを聴いたが、っその楽音はじつにしっとりと濡れ、残響も音量といい長さといい、、、両者は正比例するのだろうが、っまったくたっぷりとしていたことだ、っとくに、音が濡れているという感触がありありとしたのこそは驚きも驚きで、全国各地の器での演奏を録音に聴いてもその手応えのするものにはついぞ巡り合わなんだが、っあの豊饒のトーンは、欧州の名器名器にも比肩しよう、



っただ、っなんでもかでもひびけばよいというものではない、っばあいによっては、ドライであったり、デッドであってさえ、っそのほうが聴いてたのしい、っそのほうがより楽曲を味わったここちがすることもままある、っそこがおもしろいところで、先週ときょうとは、っひびきすぎない音場の勝利である、

服部女史はきのうにも勝る全霊を賭したコンセントレイション、《1番》から遊びやゆとりを峻拒した気詰まりな感触はきのうと異ならなく、2楽章において苛烈に絃へ弓をぶっつける痛ましさはなおそれを助長す、一転、3楽章の掠れそうな弱音は泣いているようで、っや、泪も涸れた絶望の色をしているようで、っすでにして狂気の相をさえ帯びるカデンツには満堂が息を飲む、フィナーレは心身ともに無窮動で、っそれでも主題中にあるすこしく柔和な調子へ遷移しての音価の長いところなど、っもう一寸でも肩の力を脱いて道化た表情も覗かせてはとこちとらおもうものだが、っどこ吹く風、一分の隙とてない攻めまた攻めの連続でフィニッシュまで翔びすさる、っきのうで免疫ができていたので、っぼくももうそういうものとして押し戴く、

特筆すべきはN響である、っきのう云った、っせめてもうすこしくでも粘着力のある音を聴かされたいというそういう音が、っきょうは出ているではないかっっっ、っぼくは主に渋谷で彼等を聴いていて、っほかの人たちがきょうのN響はすごい音を出していたすごい音を出していたと昂奮しているようなのを横目に見て、あんな無趣味で潤いのない、ただオーケストラが鳴っているだけというような音のどこがそんなによいんだろう、っといつもすくなからず鼻白むおもいを嘗めてきた、っそう、ただオーケストラが鳴っているだけ、彼等はたいがいそういう音を出すのだ、っそれがきょうは、っすべてのパートに色があり雰囲気がある、実演の音場では初めて、彼等の音を斜に構えて意地悪に聴かずにいられた、っしかもしばしば書法の妙を完全に体現し、現実の物理音が鳴っているとは信じ難い、夢魔のひびく音そのものが聴こえた、《2番》1楽章の主部がフリュート、ピキェロの点滅から俄かに精彩を得て以降の複雑な音構造など、っそういうひとつの生命体が乱舞するごとであった、数十人が数多の役割を熟し合うその綜合として一体の夢魔を現出せしめるなどという業が可能であるということ、っまこと演奏とは、っほんとうはいつもその次元へ達してこその眞の妙味、眞の醍醐味であろう、

服部女史は、っきのうみたようにキーミツのほうばかり向いてかがみ込んで弾いていないで、っちゃんと客席へ向いて胸を張って弾かれる場面もおおかった、っそれに、っきのうはさように彼女の立ち位置や向かれる方角によって音勢へこのもしからざる影響が出るようであったが、っきょうはどちらを向いて弾かれていてもわりあい恆にクリアな音像を望み得、っそれがオケの音像群の裡へ定位するバランスもより良好であった、中之島は2,000といまだ数百席の大空間で、2,000席級においてさえヴァイオリンというちっぽけな楽器のソロの音像は遠く、音量も頼りないことがすくなくないが、っきょうの彼女の奏楽は、最強音から最弱音まで、っすべて豊富なニュアンスを纏って、っちゃんとこちとらの耳へ届いた、っぼくはきょうは2階正面席、っいつもここでは2階の右翼バルコニーで、っそんな大音場では正面席では最前列でもすでにして舞台からいくぶん遠かろうとおもうからだが、っきょう初めて正面最前列右寄りへ坐すと、っまず視覚として憂慮したよりもぜんぜん舞台が遠くない、音としてもそうで、っこんな広大な器においてしかし、Vnのソロがあんなにも複雑微妙なニュアンスを伝えながら鳴ることができるのかと、意想外の僥倖へ接したのであった、

公演開催を知った始めはサントリーのみでいいやとおもっていたところ、っなにをヒヨっているんだと後日にこの大阪遠征も購い足した、結果として大成功であった、両日とも録音があった模様、っおそらくマイクが拾った音にしても、っきょうのもののほうが編集上の嘘というか、脚色を要さない素直な音に録れているのではないか、音盤作成に際しては、っきょうの音源をベイスに、必要個所のみきのうのサントリー音源も用いて修整するということになろうかとおもうが、音楽的のことのみを考慮するならばそうでも、っわからない、業界の裏事情としてサントリーがいやに力を有っていて、うちで録った音をちゃんと使わないで他会場での音源を優先するとはなにごとか、とレコード会社が睨まれ、その後サントリーとの仕事がしづらくなる、っとかたとえばそんなことがあったりするだろうか、っや、っぜんぜん知らないよ、っともかく、キーミツは近年のこれら録音を集成してショスタコーヴィチの、シムフォニーのみならずコンチェルトも全集をお出しになるとのことである、



っさて、来週も土日ともに演奏会、土曜は沼尻竜典氏と神奈川フィルとのもので、キーミツと同フィルとの最期の共演の切符を1日でも早く入手したいがために併せて購ったもの、っどんな演目だったかしらね、シェーンベルクかなにかが含まれていたような朧げな記憶が、、、っそして日曜はまた日帰り大阪行、っこんどは福島にて、キーミツと大阪フィルとのブルックナー《7番》、、、辛いわ、新幹線代が、、、っしかしあと半年、っがんばろう、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)