広島、福山、 | ざっかん記

広島、福山、




っぼくの生涯で初の来訪にして、っおそらく今後2度と来ないであろう福山、井上キーミツ/京響公演最終日、済む、キーミツもプレ・トークで、福山は初めてだとおっしゃっていた、オール・ショスタコーヴィチ・プロで、アレクサンドル・クニャーゼフ氏をソロにセロ・コンチェルト《1・2番》、っそして京響コーラスを加えてシムフォニー《2番》である、

っきのうは《2番》コンチェルトのあとにソリスト・アンコールでバッハ、っきょうはそれがなく、しまった、これならもとの発車時刻に間に合うのか、っとおもうも、16時開演で、了わって出てきたのが18:20すぎ、駅までは徒歩20分凸凹、っその新幹線は18:41福山発で、っまあ3分に1回、小走りを交えて戻れば間に合わないじゃなかったが、っじっさいにはふつうの速度で歩って戻り、25分ほど、降雨のあとのひどく蒸すなかで、駅のロータリーの喫煙所まで来て歩を止めると、額や鼻の頭やこめかみや首筋からどうどうと発汗す、汗は、運動中にはさして噴き出さないので、運動を止めると溢れるのである、っあれで重い荷物を提げてときおり小走りでは、っなお汗だくであったろう、っきょうはグレイのシャーツを着ており、グレイの衣類というのは濡れているのがもろにわかるので、っそんな格好で新幹線へ乗るときにおなじ列の人へ、恐れ入ります、っと云ってどいてもらいたくない、っだから結果としてはこれでよかった、っついさっき、19:44福山発で、3時間の余も掛けて新横まで戻る、っすなわち23時前着で、っそこからまだ横浜線、京王と、帰宅は日附が変わるころになろう、

出来は、ソロといいコーラスといいオケといい、っきのうよりも断然きょうのほうがよかった、器との相性も最高である、っきのうの北山はその楽屋口の喫煙所の脇へオクタヴィア・レコードのハイ・エイスが停まっており、舞台へは数多のマイクがあったが、っきょうは録音はなし、不精をせずきょうも音を録りに来たがよかったのに、

っけさはホテルを出て、旅行会社のサイトで購った割安の切符で11:30すぎに新大阪を発ち、13時すぎに福山着、っちょうど雨の止み間だったが、喫煙しつ天気を調べると14時からは12mml/hという土砂降りの予報、っこうしちゃいられないと器へ向けて歩くが、っすでにしてとちゅうから降り出す、器の向かいのショッピング・モールへ退避し、呑み屋へ入る、雨のために散財をせずに済んだと云う条、っよく値段を見ないで鰹のたたきほかで生を2杯呑み、鰻丼を掻っ込み、生もスーパー・ドライでなくプレ・モルだったし、こりゃそれなりの金額になっちゃったな、っと伝票を検めるに、っなんと¥5,000超、っばかやろうっ、っそれに、っいつもは生2杯くらいはべつにどうということはないが、っきょうはいやに回って、会計を済ませたあとインナー・ヘッド・フォンを耳へ捩じ込むと、毛細血管へもものすごい勢いで血流が来ているのがわかる、っその時点でもう開演まで1時間を切っている、いかん、こりゃ呑みすぎだし喰いすぎだわ、っと器の前まで来てパデストリアン、、、ペデストリアンか、ペデストリアン・デッキの下の灰皿の前でシガレットを服みつ努めて深呼吸をし、っともかくアルコール退散アルコール退散と念ずる、っもぎりの前に小用を足すともろに酒臭い、っぼくの身体はまともにアルコール分解酵素を有っていないのである、

案の定、コンチェルト《1番》1楽章の中途あたりで睡魔が来襲した、経験上、っあのかんじの睡気だとその後は2時間まるでダメという感触だったが、っどうとか正気を保たむと耐えていると、っどいうわけか2楽章のどこかから、演奏が驚くべき凄みを湛えていることがわかり、っそこからソロの息遣いもオケの各楽器の質感もすべてが心身の奥底まで沁みてきて、っくるしくてせつなくて、っしかしそれを噛み締めていることが無上にたのしくて、俄然、意識が冴え返り、あ、これなら大丈夫だ、ずっと起きていられるわ、っと悟った、演奏の力である、

器は、木調の快い堂内だった、トーンとしては本格のホールと多目的のそれとの間の子くらいの手応えで、デッドではないが、っつまりきのうの北山よりもだいぶんドライである、っそれがまずショスタコーヴィチには似合いも似合いだった、っひびきが必要以上に融け合ってしまわずにマルチに聴こえるため、煩瑣な書法のその全声部が凛烈な輪廓を主張する、プレ・トークでキーミツはシムフォニーの管絃楽のみによる前半部分について、ピカソやカンディンスキーのアブストラクトな画のような、っという形容で語られていたが、っそうした妙味を客席で十全に味わうには、っひびきすぎる器では不適である、

っところで、っこないだ佐藤雄一氏の演奏会でヴェーバー《オベロン》序曲を聴き、っそのコーダの最後のところがスッペ《詩人と農夫》序曲の終結部と瓜ふたつでたのしいと云ったが、っこの《1番》コンチェルトの2楽章でソロがとちゅうから唄う主題も、附点で伸びる音型がスッペ同曲中にあるおなじ楽器によるソロの主題とシンクロしており、っまたたのしからずや、クニャーゼフ氏は、アルコのどっしりと太い質量といい、ピッツィの音粒のおおきさといい、っまことに存在感抜群である、っそしてホール・トーンを味方に附けた京響は、ティムパニが、チェレスタが、っきのうに倍する好キャラクター、絃の和音も、音響がほどよく乾いていてこそ、っより意味深に苦味を伝える、

休憩時に喫煙し、戻る前にもういちど小用を足すと、っそれでほぼアルコールとは手が切れたらしく、《2番》コンチェルト以降はなお集中して味わうに及んだ、不勉強なぼくは、っこのコンチェルトの音盤は、ったぶん持っておらず、っこないだの佐藤/キーミツ/日本フィル公演でほとんど初めて聴いたに等しいが、っあれから短期間にきのうきょうと3度聴き、っきょう、っついにその妙味に全的に開眼したようにおもう、っぜんぜんキャッチーな曲想ではないが、っずっとたのしかった、っおもしろかった、作曲者自身、セロ附きのシムフォニーと呼んだってよかった、っと云っているというように、っまるでコンチェルト然としておらず、2楽章などいやに長いが、っあのソロの跳躍とトゥリラーとを含んだ歌と、妙テケレンな忍び足のマーチとが何度も何度も交代するのなど、っきのうの時点ですでにして絆されかかっていたが、っきょうはもう病み附きである、

ソリストも京響も、《1番》からするとここでは完全に盤石とはしえなんだが、っきのうは《2番》がだいぶん落ちるとおもわせたところ、っきょうは、っとくにホルンのおふたりがかなりの程度、失地を回復されており、っすくなくも、聴いていてずっとどういう曲だかがわかった、っとくにぱっと聴いただけではなんだかよくわからない曲において、っこちとらで一所懸命にわかろうわかろうとして首を捻りながら聴かなくとも、音のほうで勝手に悦境へ連れて行ってくれるようなときというのは、っすなわち好い演奏が行なわれているのだと云ってしまって、っなんら大過はなかろうとおもう、打楽器連のおしゃべりが止んだあとへソリストのみが取り残され、不意に漸強して事切れる印象的の終結は、っきょうも美事に定まっていた、

っそれでシムフォニー《2番》、っこの時点で2時間に近い演目が過ぎ去ったわけだが、っこのシムフォニーにおけるような満堂を圧する最強音は、っふたつのコンチェルトではついに1度もしていない、っときにフリュート、っそれ以上にピキェロが鋭すぎる感触がするのは、新宿文化センターなどをおもい起こさせる、っこうした音場では、サイレンはさぞかし効果的に鳴るのだろうなと期待するも、っこれはぞんがいきのうの北山でのほうがサイレンサイレンした異物感が覿面で、っきょうは、聴こえてはいるが、え、管絃楽にそんな質感の楽器なんてありませんよね、っという手応えがあまりしていなかった、

っとまれ、コン・ミス、クラリネット、ファゴットの応酬に始まり、っやがて全楽の大絶叫へと至る息の長い漸強は、音々の拮抗の複雑さ、意表を突く和音の交代において、っどうかすると彼の《4番》1楽章におくかのフガート以上にスリリングなのではないか、京響もまた死力を盡くしたすばらしい勇姿で一糸として乱れることがなく、っきのうは大人しく感ぜられて喰い足らなかったトロムペットもきょうは胸も張り裂くばかりの吼え声を聴かせ、2時間超の一大公演の掉尾を飾るに相応しいめくるめくスペクタクル、っこのうえなおコーラスまでが加わり、っその音像がまた鮮烈で、っここでも和声の変転はなかなかに凝っていて、《3番》の同部分よりもよほどか上出来ではないか、彼等がシュプレヒコールを上げ、っついにスネアのロールが轟き渡ると、全員で痛快極まる最終音を叩き附けて終幕、

っもれなく聴いてきたキーミツの近来の公演中でも、っここまで会心の出来はなかなかほかになかったのではないか、全演目を聴き了えて、っぼくもほんとうにふかく満足したのであった、



っいま21:30、っまだやっと名古屋の手前、

っお次はこんどの土日、ギロッポンと中之島とでキーミツの服部百音女史との同コンチェルト両曲公演、っぼくは2日目大阪日帰りで、2公演とも聴く、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)