ざっかん記 -20ページ目

川崎、




森口真司氏の棒、っみずほフィルなる、っおもにみずほフィナンシャル・グループ社員から成るというオケの公演、済む、

っそれなりの高所得者連の楽団だから、収入は合奏能力に比例するかとおもい、一廉の技倆を期待したが、っそこまでではなかった、っが、っけっして下手ではなく、音楽を味わうのに不足はなかった、絃は13型という変則規模で、っちゃんと5部すべて2ずつ減って、バスは5である、公演に気附くのが遅く、っさいきんに席を押さえたので、右寄りはもう良席がなく、左寄り、Vnは音量を出せないではなかったものの、右から聴けばなおウェル・バランスであったろう、

聴衆の一個として、っもはやぼくは森口氏に全幅の信頼を寄せて憚らないが、っきょうもそれは裏切られなんだ、オケはときに指の回りが心許ないが、っそれは誰かしらのソロがということであり、合奏の基幹としてはいつも揺るぎなく、っあいかわらず、指揮者として造形上とくになにということをなさるわけでもないのに、刻一刻とひたすらすばらしい、

演目はシベリウス《カレリア》スート、チャイコフスキー《ロメ&ジュリ》、っそしてカリンニコフ《1番》である、

っかかる狼よりは羊であるような小味の楽団のばあい、開幕からしばらくは熱っぽい発奮は望めず、っよって穏やかに《カレリア》から開け、体力的にも心理的にも熾烈に闘う必要のある《ロメ&ジュリ》がつづくという曲順も奏功、

森口氏が登壇される、っその歩かれる姿態、コン・ミス連と握手され、っこちとらへ辞儀をされる挙措、っそして振り姿と、一挙手一投足いっさいが舞台人としてのコケットリーから完全に絶縁無縁であり、っそれでこそ画に成る、っそしてそのお姿は、っそのまま彼氏の音楽性を象徴している、

っきょうプロフィルを繰ってみてやや驚いたが、っお歳はいまだ還暦ちょうどでいらっしゃる、禿頭のせいか老け顔でいられ、っぼくなど、70は大袈裟だとしても、60代の半ばくらいでいられるのかと想像したものだが、

、、、っさいきん年齢で驚いたといえば、日本フィルの信末氏である、彼氏も彼氏で老け顔でいられ、40がらみのぼくと同年輩、っすこしくお若いとしても30代の半ばくらい、日フィル以前にもいくつかのカリアがおありなのかとおもっていたら、彼まだ27歳なんだってねえ、、、マジかよ、っやだやだ、歳は取りたかないやね、若い人にはもうどんどん羽搏いていただいて、

閑話休題、シベリウスは、3曲ともいかにも楚々と運ばれてゆくが、音楽へ活性を与えるについての必要にして十分の要諦を抜かりなく叶える森口氏の造形へ含蓄しているものは、っじつに計り知れない、それをせなんだらタッチの差で音楽は失活し、凡庸を窮めた死音の羅列へと堕す、っさようのかすかかすかな意匠がぜったいに聴こえよがしの誇示とは映らずに連続してゆく、っその手の演奏が客席においてちゃんとおもしろく存るというのは、っじつに針へ糸を通すがごと成功の可能性が極小であるものだが、っその道でこそ勝負をされているのが、森口氏である、

㐧2曲は、っひとつめの主題が木管から絃へ渡った段において、2ndのピッツィを周到に活かしている、セロ・バスのみが取り残されて遙けく彼方へすさり、パウゼからつづく主題へ遷ると、っその倹しい音量の絃合奏はしかしどうだ、っまことえもいわれぬ音色の調合により、っここのところ客席ではあまり実感することがなかったあの、オーケストラを聴いていながらすでにしてオーケストラを聴いているという感触がしない、っという実感をつよく得る、

㐧3曲は、Vnによるやはりさいしょの主題で、速い運弓により嫋やかななかにもわずかにマルカートな手応えも出せなくては音楽が死んでしまう、っとおもうが、っちゃんと小気味よいアクセントが効いてうきうきときもちが開放せられてゆく、速度を落とす終結はそのテムポ操作といい音量感といいほんとうに必要にして十分の極で、終止すると小ざっぱりと爽やかな残響が薫った、っこの終止時の残響の妙は、っきょうの3曲すべてに云えることである、大人しい楽団だからといって煽動して無理に音量を出させるということをしていないため、音色がぜったいに汚れないのである、



森口氏のチャイコフスキー《ロメ&ジュリ》は、っことし彼氏とマーラー《5番》を演る団体との演奏を、去年このおなじ川崎で聴いた、っそのオケもまたやや線の細い、音量のたっぷりとしていない団体で、っそれを3階とやや遠方から聴いたのであったが、っきょうはそのときよりもずっと舞台へ近く、っより稠密な鑑賞が叶った、冒頭のクラリネット+ファゴットから音色も唄い方もぴたっと定まり、低音から加わってくる絃もすでにして前曲とは異なる不穏にして悽愴なるムードを醸している、

主部へ遷ると、諍いの㐧1テーマにはもっと空間を引き裂くような声部声部の拮抗の烈しさを、悲恋の㐧2テーマにはもっとあふれるような音の洪水を、っそれぞれ望みたいが、音楽は小作りななりに厳粛に運ばれてゆき、っついにコーダにおいてハープを伴なって㐧2テーマがアポテオーズせられると、っそれはちゃんと泪を誘うのであった、



っやや珍かなカリンニコフでも森口氏は暗譜、っよくよく曲が身体へ入っていられるのだとこちとら感歎した、っそのとおり、っどういう曲なのかが聴いていてずっとわかる、っそして、上記のオーケストラを聴いていながらオーケストラを聴いていないあの感触が、全曲の隨所で期せずして発露す、

2楽章は降雪の心象たるVnとハープとからくっきりと鳴ってこちとらの胸もはらはらと震える、シムプルな3部形式が好もしい、

スケルツォ主部は凛烈なホール・トーンを完全に味方に附けたトュッティが快い、トリオは、ったとえばドヴォルザーク《8・9番》のそれなどと比較してもずっと手が込んでおり、充実した感銘を与えらる、

フィナーレは、音価の細かいVnのロンド主題あたり、音の質量がぎっしりと詰まらないというか、徒手空拳の憾で、っやや格調を失するが、致し方あるまい、っそれでも堂々と進軍し、コーダの勝鬨は晴れがましい、トライアングルが用いられていたが、スヴェトラーノフはテューブラー・ベルにしているんだったか、っそれは完全な改変なのかな、シベリウス《4番》フィナーレのばあい、スコアにはグロッケンと書いてあるらしく、っおおくのばあいグロッケン・シュピールが用いられるが、作家自身はグロッケンとは鐘のイミッジで、具体的の楽器としてはデューブラー・ベルを用いられたい、っと述べている、



アンコールにシベリウス《アンダンテ・フェスティーヴォ》、っその旋法はじつにこちとらのこころの琴線へ触れてくるものを有つ、っそして《カレリア》㐧2曲同様、幽玄の音色が音場を満たし、っそこへ倍音の効果により名に負うごとフェスティッシェな燦然さえ加えつ、っついに厳かなティムパニを伴なって終結するのであった、



今夏のそれぞれ別団体によるマーラー《5・6番》も、っときに満堂を圧するような迫力の要るこれら作品において、森口氏はあくまでも端然たる棒へ徹しられたままで、っしかしぼくらへふかい満足を与えてくださるのにちがいあるまい、



っさて、っお次は金土日と旅程、大阪でデュトワ、京都、広島と井上キーミツである、金曜が半期に1度の会社の会議で、サボってしまうのだが、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)




錦糸町、




井上キーミツ/新日本フィル公演、済む、〈みちよし先生の世界漫遊記〉と題して、っご自身の指揮者稼業の遍歴も語られながら自作を含むすべて国籍の異なる計10人の作家の作を披瀝、1曲毎にキーミツがお話しになり、喉がお悪いというのにごく多弁で、済んでみればじつに2時間半超に及ぶ一大公演であった、

っめんどくさいけれどいちおう演目、チャイコフスキー《スリーピング・ビューティ》のいっちゃん有名なワルツ、っぼくらが日本をJapanとでなく日本と呼ぶように現地の人にとって自国を呼ぶ呼び名をずばり表題としたニュー・ジーランドのリルバーンによる《アオテアロア》、ヴァグナー《ローエングリン》1幕前奏、キーミツはお振りにならずにしばし休まれて崔氏の音頭で絃合奏によりバルトーク《ルーマニア民俗舞曲》抜萃、マスネ《タイース》メディタツィオン、マルケス《ダンソン2番》で15分休憩、時計を見なんだが、っおそらくこの時点で1時間超、っでマスカーニ《カヴァレリア・ルスティカーナ》インテルメッツォ、コープランド《クワイエット・シティ》、っそしてキーミツご自作の例のミュージカル・オペラ《A Way from Surrender 〜降福からの道〜》の2幕より〈降伏は幸福だ〉、、、っこのかんがえにはぼくはかなりの抵抗があるが、っそしてエルガー《威風堂々1番》でようやく終演である、コン・マスはまたも崔、西江両頭体制であったが、《タイース》のソロは西江氏、コープランドのコール・アングレとトロムペットとは同フィルの森女史と山川氏と、マスカーニとエルガーとには室住素子女史のオルガンが加わる、

キーミツは、っぼくの周囲の人間でいえば《雨月、、、》くんなどに肖て、喋らせるとときにわかったようなわからないようなことを云われる性質がおありだが、っきょうのお話は、職業人の経験談としてはじつに貴重な證言に富み、っとくにお若くときのカンテルリ・コン優勝後のドイッチュを中心としたご多忙な日々のなかでの、史上の綺羅星連との交流譚などは、っじつに興味深く拝聴した、

小品の羅列だが、演奏も1曲1曲入魂で、2階右翼バルコニーも購えたはずだのに気附けずに同階正面を取ってしまって、入場前にはそのことが悔しかったが、演奏が始まると、っこの器でその位置だとときおり感ずることのある聴覚視覚双方の舞台の遠さもさほどおぼえず、っどの曲にも線の太い堅固な合奏を聴く、

っなかでは、リルバーンが、済んだあとキーミツも、シベリウスなどに通ずる感触がしますよね、っとおっしゃっていたが、っぼくも聴いていてその怜悧な質感を味わい、キーミツにそう云われて、そうか南半球の寒冷地の風情なのか、っとおもわずに唸った、

っまた、《ダンソン2番》冒頭のクラリネットには目頭が熱くなり、っその後の道中でもたびたび胸が詰まった、哀感の表現についてはぼくはどうも、中央ヨーロッパのかんがえ深い人たちよりも、ラテンの気分に惹かれるらしい、哀しみに浸り、噛み締めるのでなく、っそれを振り捨ててゆく、っそういう哀しみの表現である、



っさて、っあすは川崎にて森口真司氏公演、



っそれから懸案のデュトワだが、っあのサントリー公演から4日經つが、っいまのところ大阪フィルも札響も代演の報は出していない、っもしドクター・ストップが掛かっていれば、翌水曜には両団ともに代役探しに奔走し、能うかぎり早く広報に附さむとするだろうから、っそれがないということは、っどうとかご体調を戻されたのだと信じたいところ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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ギロッポン、




デュトワ/新日本フィル公演、2日目、済む、ハイドン《ロンドン》、ストラヴィンスキー《ペトルーシュカ》原典、ラヴェル《ダフニスとクロエ》㐧2スートである、

っこんかいのデュトワの訪日は、っこの新日フィルを嚆矢に、っこんげつ中に大阪フィル、札響といずれも同一プロ2公演ずつだが、残余の日程はどうだろうか、、、っというのは、っせんじつの錦糸町ではあいかわらず矍鑠としたものだったが、っきょうは、《ペト、、、》の後半あたりから腕の振りが小さくなり、スコアを捲らむと前傾されるたびに足許がよたよたと覚束なくなり、っすこしく意識が朦朧とされているのかと見えた、っそれでもどうとかラヴェルまで振り上げられたが、楽員が全員捌けたあとも長く長く拍手がつづくも、っついにソロ・カーテン・コールへはお出にならず、崔氏が出られて拍手を制され、マエストロはたいへんお疲れなので、こんやはこれでご勘弁ください、ご来場ありがとうございました、っとご挨拶をなすった、っあのご様子だと、最悪のばあい、大フィル、札響のキャンセルもありうるのではないかとおもわせるほどであったが、大フィル公演まではすこしく間があるので、っよくよくご静養なすって、っまたお元気な姿を見せられたいところである、っぼくは、札幌へは行かないが、大フィル公演は初日を聴き、翌日以降は京都、広島と井上キーミツ詣でである、

棒はさようであったが、演奏は一糸として乱れはせなんだ、新日フィルのこの錦糸町、サントリーの同一プロ2公演は、っそれこそ去年のデュトワなども聴いているが、錦糸町がけっして悪条件というのではないが、直前直後で聴くと、サントリーがいかに良質の器であるかをおもい知るに至る、サントリーを駄器だ駄器だと謗る声はたまに見掛けるが、っぼくはそのように感じたことはない、っむしろきょうなども、錦糸町よりもずっとクリアで、和音の色合いなどが鮮明に伝わり、快い、

サントリーへはおそらく100回以上は来ているとおもうのだが、っこんやは新日フィルの5公演以上同時購入者への先行販売で選択した席であり、RCの、っしかし初めて最前列へ坐したかもしれない、同ブロックのいつもの後方列だと、っもうだいぶん階段を昇っており、舞台を見下ろすというか、俯瞰するという視界で、指揮者や楽員ひとりびとりもすでにしてやや遠くにいるという印象がする、っそれがきょう最前列だと、半2階といったところで、っほとんど舞台と同等くらいの目の高さと感ずるし、手を伸ばせば届くといったら大袈裟だが、っすぐ眼前にオーケストラがいるという生々しさである、っそうであればこそデュトワのご様子もよく見えたので、あ、え、あれ意識薄らいでんじゃないの、っとはらはらしたのである、楽員はもっともっと気が気でなかったことだろう、

っところで、っせんじつの佐藤雄一氏の演奏について、ティムパニは小径のピリオド楽器であったと云ったが、っそうだっただろうか、っや、デュトワはハイドンにおいてその楽器を採用しており、っそのヴィジュアルが脳裡へ遺っていたままで翌日に佐藤氏公演への所感をものしたので、錯覚で、佐藤氏のほうは楽器はモダンで、マレットのみ硬いものを使用していたかもしれない、

っそのハイドンは、1楽章の序奏から中途の1stと2ndとの際どい和音などが、錦糸町でも伝わったが、っきょうのほうがもっと表現意図がいささかの曇りも濁りもなく聴取しうる、主部の主題は柔和なくせに、展開はひじょうに劇的でこちとらの肺腑へ迫り、最後のVnの閃めくような天翔は、っきょうも鮮烈であった、

2・3楽章も、っいつもなにか仕掛けを用意しておいてくれるハイドンのそのたのしさが、っそこここで耳を擽ぐる、

フィナーレはやはり目の覚めるような前進に次ぐ前進だが、っこの時点では棒はいまだぜんぜん明晰にして精力的であり、後半にあのようなヒヤリハットがあるとは予想だにできなんだ、

ストラヴィンスキーもラヴェルも、音自身は破綻したわけでもなければ無気力な死音の羅列へ硬直したわけでもなかった、《ペト、、、》という曲は、音楽的にも内容的にも、っぼくにはシュトラウス《ティル、、、》をもっと自由にもっと長大に展開した作品のようにおもえるが、っあれだけ込み入った道程をしかし恆に鼻歌みたように難なく熟していってこその眞なる聴き応えであろう、巨星は中途から前後不覚へ陥ってしまわれたが、楽員各位は厳格なるリハーサルの成果を縦横に披瀝すべく、意を通わせ合うのであった、

《ダフニス、、、》の朝ぼらけには、っやはり錦糸町におけるよりももっと感動的の来光をみる、鳥の啼声は口々に煌めき、テーマは、錦糸町では2ndまで昇ってきてやっとぼくの胸を震わせたが、っきょうはバスが唄い始めたときからもうこちとらの胸を鷲摑みにし、上声上声へと手渡されてゆくそのいちいちが等分の充実感を具えている、っどれかはよく聴こえてどれかはよく聴こえないということがない、先般、カーチュン氏のマーラー《9番》の2日目を左側から聴いた際には、右から聴きたいなあ右から、っとややおもったのだが、っすくなくもぼくの常位置、RCであれば、余人といえどもサントリーを名器とおもわない人はいないのではないか、っすばらしいウェル・バランスの音響である、



っそう、っきのうは、、、ってまだ永山の駅でもう日附が変わってしまったが、っおとついはキーミツの川崎《ラ・ボエーム》の切符発売であったが、最優先販売のわりにぼくのおもう最良席は売っていなんだようで、左寄りを購う心算が、っけっきょくはより好位置かとみられる右寄りを撰んだ、っそれでもいちばんの所望の位置ではなかったのだが、っまあわるい席ではない、川崎は、螺旋状の階上の2階最前列がよいかとおもって何度か坐してみたが、っあそこは他の2,000席級の器からすると1階席が極小であるため、2階の正面ではまだやや視線が低く、舞台へ近すぎる嫌いがある、っおなじブロック内でやや後列へ退がるほうがよいのではないか、背後には次なる螺旋の壁面が迫っているが、っかえって反響板の役割を果たしてくれないともかぎらない、



っさて、っお次は土曜に錦糸町でキーミツのややライトであろう公演、っそして翌日曜はその川崎で、っついせんじつまで露知らず、降って湧いたようでうれしい森口真司氏の公演である、演目がまたおなじみの名曲揃いであり、森口氏の衒いのない造形が堂々と展開する様がいまから目に見えるようで、っじつにたのしみである、



最後にあらためて、デュトワ翁、っどうかお元気でっっっ、大阪での邂逅を信ずる、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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流山、




佐藤雄一氏の棒、流山フィル公演、済む、

演目はヴェーバー《オベロン》序曲、シューマン《序、スケルツォとフィナーレと》、っそして楽聖《7番》である、

っいつ以来か、っややひさかたぶりに佐藤氏を聴いたが、っこの流山フィルでは楽聖は、《5番》と、ったしか《2番》を聴いた気がする、っほかにもあっただろうか、憶えがない、っあとはPfコンチェルト《4番》である、コンチェルトはたいへんにすばらしかったが、シムフォニーはどうしてもデッドな器に足を掬われてあまりにもひびきが粗野で直接音直接音しすぎ、っまた、テムポをはじめとして佐藤氏の造形を叶えるにはオケの技倆にも不足し、っもうひとつ好印象が遺っていない、っひびきが乾いていてもおおきにアッピールするかもしれないのは同シムフォニーのうちでは《7番》ではないかと以前からおもっていたので、っきょうは、エラーが頻発するのは覚悟の上で、っそれよりももっと全体の感銘がおおきく膨れるだろうと、っいつもよりは高い期待を有って出向いた、

っするところ果たして、非常な名演に巡り逢うことが叶った、っとてもうれしい、

っまず懸案はテムポで、浪漫派以降は定まって牛歩の佐藤氏はしかし、楽聖では《5番》の1楽章をぜんぜんオケが弾けていないのに無慈悲な俊速にしたりと、っこちとらとして予断が利かないところがあるのだが、っきょうの《7番》は全編牛歩、アレグレットもぜんぜんアダージョばりであり、っもちろんぼくの所望だ、っかかるテムポは、史上の綺羅星のうちでは朝比奈さんですら採られておらず、っじつに最晩年のクレムぺラー爾来であろう、っそれをいま現実に、目前で為されている演奏として聴くことができたのである、

っそのテムポとなるとオケは、多少とも腕が足らなくともありとある音をしっかりと弾くことができる、っこの曲はとくにフィナーレなど、っよく行なわれている速度ではともすると前進するリズムとアタックの音力っきり伝わらないことがあり、演る側も聴く側もそれでよしとしているようなところがあるが、っしかしぼくにすれば、っやはりオーケストラ演奏を聴く醍醐味というのはぎっしりとしたひびきの実在感、充実感である、っほんのトロムペットとティムパニとのアクセントが、単にリズムの補強とっきり聞こえないのか、トロムペットという真鍮管へ吹奏したその質感、ティムパニという鞣革へ打刻したその質感が絶えずずしんずしんと臓腑へ応えるのか、っその差はおおきく、っいかに全楽で一気呵成に突進してゆくアレグロであろうと、プレストであろうと、プレスティッシモでさえも、っいつもいつもすべての楽器の固有固有の音色音色が凝集凝縮して複雑微妙のブレンドを生じていなくば、っほんとうに本格の聴き応えではない、っそれがきょう、《7番》の全曲を一貫したのである、器のトーンはやはり粗野そのものであったが、予期したとおり、っそれはこの曲調にとって、完全に味方であるかはともかくとして、っすくなくもあきらかな敵ではなかった、

冒頭からゆっくりと、っしっかりと弓がすべての絃へ渡って、っどすんとどてっ腹へひびいて開始する、主部への移行で不必要に加速することを惧れるが、杞憂、っのんびりと、堂々と進軍す、リピートは全曲ですべて履行せられ、っまさしく一大シムフォニーの風格、っこの主部では、提示の小結尾において早くも上記のリズムの補強さえ剛毅なひびきとしてものを云う美質が発揮せられ、楽聖というあの精神が気高く屹立す、2nd、Vaのリズムが拉くように執拗に弾かれ、っやはりテンションではなく構造として楽曲を聴かせむとする意志が漲っていることも、っけっして忘れてはならない、、、っところで、っそのVaにはいつもサンフォニア・ドラマティークでコン・マスをされている方が乗っていられた、っこのオケではいつもそうだったのだろうか、気にして見ないからわからない、Vaは、佐藤久成氏などもたまにアンコールで弾かれたりするが、Vnの人はみななさるものなのだろうか、

アレグレットも冒頭から、管連中がほんの1音であろうと懸命なエスプレッシーヴォを通わせ合うため、っその混淆の音色はすでにして葬送の沈痛を代表す、テムポは極めて遅いが、同音連続の絃の主題はくっきりと弾かれてどんしゃりな器にクリアに伝わり、溷濁と無縁である、次々と上声へ主題のバトンを渡し、各声部の役割が変転してゆく様も目に見えるよう、

スケルツォにもかるやかなリズムの跳躍はどこを探してもなく、っどこまでもずっしりと踏み締める、トリオが大トュッティへ遷る際、っとくに我が国ではしばしば行なわれてきた直前の1音の音価を長く取る慣例は拒否せられており、っとうぜんそうあるべきだ、

フィナーレは、提示の主題から1楽章主部同様、2nd、Vaの刻みが大切に扱われ、っそれにより1stの主題がいまだかって聴いたこともないほどゆたかな、太い芯を有った描線として浮上浮遊し、っこちとら眞ん円に瞠目しつ聴く、佐藤氏はチャイコフスキー《4番》の同楽章などでは、っずっと牛歩で来ていながら、最後の最後はアクセルを踏んでしまわれる、ぜひとも終結の1音までずっとイン・テムポのままでっ、っとつよくつよく希うところ、っじつにそのとおりであった、っしかも、オケの発奮もひびきの充実を損なわないままに最大限に効果を上げる、っいちど弱音へ落ちてふたたび漸強し、最後にVnがテーマを弾き、ホルンが吼え、ティムパニが細かい音符を連打する部分は、速いテムポでは音勢からいってVnの主題の形がよく聴こえなんだりするのが通弊であるが、っきょうはちゃんと天上へ閃き、ホルンの雄叫びもぞんがい音がひっくり返らず、ティムパニは小径の古ティムパニを硬いマレットで1音1音くっきりと刻み附け、最も逞ましい終焉へと逢着したのであった、痛快っっっ、



前プロも、っまだひびきが熟れずに粗が目立ったとはいえ、ヴェーバーの主部は聴く者を吹き出させむとしているのかというような超低速をしかし眞剣に励行し、展開あたりからは剝き出しのヴィヴィッドな音色がようよう快くなってくる、一寸したフゲッタの書法がゆっくりとした速度のなかでこころゆくまで謳われてゆく妙味は、っつづくシューマンでも楽聖でもおおきに感得せられたところである、っそしてこの《オベロン》は、コーダの最後の最後の畳み掛けの部分が、っぼくのだいすきなスッペ《詩人と農夫》序曲の終わりの部分と酷似しているのもとてもたのしい、

シューマン《序、、、》は、っけったいなタイトルだが、要はシムフォニーを書かむとしたけれど緩徐章は割愛しました、っということだろう、っぼくにとりこの曲は、っなんといっても改称以前の東京ニュー・シティ管を振られたヌーノ・コエーリョ氏の演奏であり、っそれはそれは颯爽たる俊秀の羽搏きであった、佐藤氏の棒でもいつかに聴いているはずだが、っまるで別物であり、謂うならばそれは、牛歩ならぬ飛べない鳥、鶏さながらであり、っなによりも聴いていてぜんぜんどんな曲だかわからなかった、っきょうはその点、器のトーンのなかですべての声部がマルチに聴こえるたのしさがあり、コエーリョ氏の演奏を想い出せなくなるほど、っどっしりと野太いドイッチュ浪漫主義に浸らせた、

各曲の性格の相違も快い、好プロの好演、楽聖については一大名演の名に価したろう、っあまり聴けなくなってしまった佐藤氏公演の貴重な機会に、っかかる大演奏を見舞われ、っじつにうれしい、



っさて、っあすは井上キーミツの《ラ・ボエーム》川崎千穐楽の器の有料会員への先行販売開始なので、抜かりなく良席を獲るとせむ、左寄りを購うんだったな左寄りを、

っそして翌火曜はサントリー、デュトワ/新日本フィルの2日目、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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錦糸町、




デュトワ/新日本フィル公演初日、済む、っきょうは午前中は仕事をしてとおもっていたが、睡くてかなわず、休んでしまう、っそれで2度睡3度睡としても、音場でもやや睡かったのだが、

演目は、ハイドン《ロンドン》を演って休憩し、後半はストラヴィンスキー《ペトルーシュカ》原典、っそしてラヴェル《ダフニスとクロエ》㐧2スートである、新日フィルは1stを崔、西江両氏、立上女史という最敬礼で巨星を迎え、飽き足らず、《ペト、、、》ではオケ中へ阪田知樹氏を招くという豪華布陣、《ペト、、、》とハイドンのシムフォニーとを同日に組むというのは井上キーミツもいつかに行なわれていたようにおもうが、、、っあれはちがうのか、っあれもデュトワを呼ぶはずのところ、っあほヴァイアラス騒ぎで彼氏が来られなくて、キーミツが代演をされたのだったか、

デュトワはもう80代も後半だというのに、っいでたちとしても音楽としても、っいわゆる老匠然とした感触とはおよそ無縁である、登壇もすたすたとしており、振り姿もN響のディレクトール時に放送に観ていたあのフォルムがほんのすこしくも耄碌することなく深化している、、、っついでに、女性の楽員にさかんにボディ・タッチする女好きのところも、っである、プログラムには、《ダフニス、、、》㐧2スートの演奏時間が約30分だとあり、ウソだあ、《ダフニス、、、》なんて15分凸凹でしょ、そんなに遅いテムポで演る心算なのかよ、っとおもったものだが、っそれは単なる誤植であろう、

ハイドンから、っひじょうによく練れた高級な音である、崔氏によればこんかいもごく稠密なリハーサルが為されたようだが、っあれなのかなあ、っひょっとすると3日以上、4日とか練習しているのかなあ、っなんかその崔氏の投稿を見たのが、え、土曜が本番初日なのに、もう練習始めてんの、っというくらい早かった気がするのだが、っいずれ、老匠ともなるとオケに任せて、あとはよしなに、っとか、世界的の有名人であれば、アシスタントに下振りをさせ、当日に本番だけを振りに来る、っみたような人もすくなくないなか、っちゃんと本人が長時間の厳格なリハーサルを行なった末に公演を迎えるというのは立派である、

1楽章は展開の最後、Vnがじつに閃くように鳴る、フィナーレは巨星の覇気のシムボルで、極めて前進性に富むテムポ、っはじめのテーマは腕を回して停滞せぬように先へ先へと送る、っおなじテーマが2度目に出るときには、っとはいえ典雅を演出したくて腕を宙空へ浮かせて、俺、振らないよ、っという素振りをみせるが、オケがつい曲想へ浸るようにテムポを撓めてしまうため、ちがうちがうっ、先へ行くんだ先へっ、っとやっぱり腕を回して隊伍を叱咤す、

《ペト、、、》は、ったしかそのキーミツ代演のときには、デュトワは2管の改訂版のはずであったところ、キーミツが4管原典への変更を所望されたのであったか、っきょうのデュトワは原典、っやはりそのほうがよい、っあれほど厄介なスコアだのに、っすべての音が事もなげに飄々と捌かれてゆき、っしかし恆に過たずあるべき表情が鳴る、っぼくらはただ、巨星の掌の上を転がっていればよいだけである、

《ダフニス、、、》は、っこれのみ突如として地を這うようなロウ・テムポとなり、っほんとうに30分を掛けて演るのか、っそれならそれでおもしろいじゃないかと構えて待つが、っぜんぜんそんなことはなく、颯爽たるいつものシャルル・デュトワだ、朝ぼらけの情景から開幕し、木管やコン・マス等が囀り、2ndほかが息の長いテーマを唄うと、っあらためて、なんという名曲だろうっ、っとの感激に堪えず、っおもわずに目頭が熱くなる、パントマイムではフリュートもアルト・フリュートもすばらしく、っついに大団円は十八番も十八番のザ・ベスト・フォームである、

っきょうはすこしく睡くてしまったので、火曜のサントリーはもっと万全の体調で臨むとせむ、



っさて、っあすは流山にて、っひさかたぶりに佐藤雄一氏の公演、キーミツ公演を可能のかぎり聴かむとする余り、っここ数度の機会は逸してしまっており、っことしはこれからも聴けないものがいくつかある、貴重な1回なので、っこころして耳を傾けるとせむ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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池袋、




カーチュン・ウォン氏の棒、日本フィル公演、済む、演目は、先年に物故せられた坂本龍一氏を偲び、生前の彼氏がとくにその〈雲〉へ偏執したというドビュッシー《ノクテュルヌ》に始まり、遠藤千晶女史を招いて坂本《箏コンチェルト》、休憩後は同《ザ・ラスト・エムペラー》からと、坂本氏が同業の先達として愛憎相半ばする感懐を有たれていたという武満徹の《波の盆》スートからと各1曲、っそして中野翔太氏を招いて坂本氏がバルセロナ五輪のために書かれたという《地中海のテーマ》で幕、開閉幕の両曲は、東京音大のコーラスを擁する、



っせんじつここで下野氏の棒になるN響を聴いたが、っそれは渋谷や上野で彼等を聴くよりはまだしも好印象ではあったものの、っさきおとついの上野で聴く都響同様、っなにか描線っきり意味を有たない輪廓偏重の音におもえ、っいつもいつも各単声部が聴こえてばかりい、っどこまで行ってもそれら声部声部が相睦み合った全体の響というものがしない憾みを遺した、っぼくにとってホールでオーケストラを聴くという体験は、音の輪廓以外にももっと色とか、っもっと薫りとか、質感とかひびきとか、っその豊饒がために奏者奏者が精励し、っかつ声部間で音を重ね、意を束ね合うことによって単声部のみからはけっして得られない音色効果を具現す、っその色調がより複雑微妙な変転を伴なっていてこそ、本格の聴き応え、醍醐味も生じようというものだが、っその点でN響は、っいつもこの云い種をするが、っともするとおもちゃのオーケストラみたようなチープな風合いへ堕さないとしない、矢鱈にがっちりとした音を出す、っしかしおもちゃのオーケストラである、

対して日フィルは、っきょうもなんと多彩多様の味を有った妙音を上げることだろうか、ドビュッシーからして、〈雲〉の木管のテーマが絃へ渡ると、っその各声部が繊細に折り重なって生まれる色合いは、っほんとうにこたえられぬほどなよやかな魅惑を放ち、コンサートも開始早々、勝負あり、㐧1級の藝術である、っこう何度も何度もそれを云っては非礼にあたろうが、20年ほど前に彼等をわりに頻繁に聴き、聴くたびに苦虫を噛み潰していたぼくとして、っきょう日の彼等の良コンディションがぜんぜん信じられなく、実演に接する度に隔世の感に愕くのである、



坂本《箏コンチェルト》は、音勢の都合上、ソロはマイクを通してスピーカーから音を出す、4楽章制で、冬に始まって秋に了わる各楽章が各季節のイミッジ、っよく見なんだが、ったぶん金管のマウス・ピースを抜いて管へ直接、息を入れ、ふしゅーーー、っという音をさせて冬の寒風を模倣するなど、っあれこれ特殊奏法が盛り込まれているとはいえ、比較的ライトな書法であり、季節の印象が如実に伝わる、冬が去って春が訪れるとソロの役割はあきらかに鳥の声であり、3楽章は夏の祭禮の心象であろうか、っしかしけたたましい大音響は全曲中かたときもせず、テムポもずっとミディアムのままである、坂本龍一といえばなんといってもYMOであり、、、っとは申せ、っぼくはぜんぜん同世代ではないし、っその音楽もぜんぜん知らないのであるが、っつまりエクスセントリックというのか、往時の新人類という概観があろう、っその人が他方ではかように花鳥風月を愛でるいわば平凡な趣味も有ち合わせていられたということが、っぼくなどにはおもしろい、

ソリストの遠藤女史は、舞台上の挙措などで、あれ、どこかで観たことのある人かな、っとおもうところ、去年、郡山響の公演で聴いた越人作家の新作、同楽器と竹笛とのドッペル・コンチェルトのソロが彼女であった、泰斗、野坂操壽女史も鬼籍へ入られことであり、現今、斯界の㐧一任者であられるのだろう、っもうすこしく若いこの楽器の奏者のうちには、っもっとスポーティなまでの洗練せられた奏楽を事としうる世代も育っており、っそういう人をぼくは幾人か聴いて知っているのだが、っその人たちへもかようの大舞台へ登る機会を与えてやってくれたいところではあるが、



後半の一寸した小品でも、っやはり絃の多段階の色調の変化がことさら印象に遺る、っや、絃のみならず、っすべての声部がすばらしい、愛おしい、木管も4種のキャラクターがめいめいみごとに立っているし、金管も、ホルンのトップはきょうは丸山氏でいらしたが、信末に敗けてられっかっ、っというところ、トロムペットも、ぱん、っと破裂せしめなくとも、ふぁん、っと抜けた音で鋭さを体現しうる上等上質のテクニークを誇る、

最後の《地中海のテーマ》でも中野氏のピアノはマイク、スピーカーを通していた、っそれもそのはず、っここでは前半のコンチェルトとちがい、五輪を壽ぐにしてはとちゅういやに不穏不吉な音響の洪水が襲い、っずっと中音量以下を主体とした公演だっただけに、っその音力はより凄まじく実感せられる、

今季まではカーチュン氏公演のひとつの売り物であった邦人、っないしアジア人作家の作を西洋の有名古典と同日に組むという趣向も、っきょうでいったんおしまい、来季は西洋古典側の大曲揃いの公演公演であり、辛うじて来年の1公演で芥川作品が披瀝せられるのみである、



っさて、っお次は土曜、っまだだいぶん先かとおもっていたが、っもうデュトワが来る、、、っぼくはいつも演者の方々へは男性には氏、女性には女史を宛てているが、デュトワくらいのむかしっからの超有名人となると、っなんだかもう半ば史上の偉人となってしまったようで、敬称略のほうが適当におもえる、

っきのうは森口真司氏のマーラー《5番》公演の切符発売日であった、テケトというあのプレイ・ガイドは、各興行の主催者がかなり自由にサイトを利用できるようで、発売日の販売開始時間も楽団毎にぜんぜん区々である、っいちばんありがたいのは発売初日の0:00から売り出すばあいで、っというのは年寄り連中はそんな時間まで起きていてスマート・フォンやPCへ囓り附いて発売直後の購入競争へ参戦する気力もままならなかろうから、競合者がより少なくて済むものとおもわれるのである、っその心算でおとついのよる、寝っ転がって日附が変わる瞬間を待っていたが、ペイジを更新しても販売は開始せられず、なんだ、翌朝10:00からとかなのかな、っと睡てしまう、っそれできのうのあさ、出勤の身支度をしつ念のために片手間に検索してみると、っもう売り出している、っしかもすでにしてけっこうな席数が売れており、器は錦糸町なのだが、っぼくの所望、2階右翼1列縦隊のバルコニーは、残席わずか1席のみであった、マジかよっ、っと慌ててその1席を選択し、っもう玄関を出るのにぎりぎりの時間ではあったが、決済せむとするに、前の晩、っその寝っ転がっているときについ他の2、3の公演の切符も衝動購いしてしまい、っその連続決済が祟ったものとみえて、決済エラーが出てしまう、っなんだよこんなときにかぎってとさらに慌ててもういちど席を選択して決済画面へ進み、他のカードを用いてどうとかその席を得る、結果的には、っそのほんの1席は、他を選べたとしてもこのあたりにする、っというぼくのいちばん坐したい附近の席だったので、っよかった、

マーラー《5番》はぼくにとり、タネもシカケもない正攻法で全曲を通されたのではやや喰い足らない悪印象を懐く性格の作品である、ヤマカズさんみたように、2楽章やフィナーレをずっと田圃の中を歩きでもするかのようにずっぶずぶのテムポとべたーっとした発音とで演るとかというけったいなことをしてくれないでは、っぜんぜんおもしろくないのだ、っが、っそこを森口氏は、激越な表現などはなにもなさらないで、っしかしぼくの勝手におもっている高い高いハードルを跳ばれて感銘を届けてくださるだろうと信ずる、っそういうことのできる指揮者は、っじつに世に稀である、っそういうことをして、っお客をとっ白けさせる指揮者は五万といるのだが、っそういうことをして、っちゃんとお客を唸らせ、深く感動させる人はそうはいないのである、

っまた、っぜんぜんノー・マークでスルーしてしまうところだったが、森口氏はこんげつ半ば、っまた別の楽団と川崎で公演をなさる、気附けてよかった、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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上野、




井上キーミツの棒、都響公演、済む、演目は楽聖とショスタコーヴィチとのともに《6番》というおもしろいプロ、

《パストラール》は、去年、新日本フィルとの演奏を川崎で聴けるはずが、キーミツのご療養によりその棒は広上氏となって、っただ、彼氏はキーミツの趣意を酌まれ、楽聖《6・5番》をこの順に、前者は10型だか8型でセロ・バスが3、2だかで、後者は16型の最大編成でという落差で、っどんなにか風圧に差を生ずるであろうとたのしみに聴いたが、記憶では、《パストラール》をそんなに小さく感ぜず、《5番》をそんなに大きく感ぜず、っすくなくも、編成の規模に見る目に変化を与えたということの効果はあまり上がらなんだようにおもう、キーミツご自身はどういうお心算なのか、年末の読響との最終公演で委細は知れようけれども、っきょうは都響と、っそのうち《パストラール》のみをやはり小編成で演奏されたのであった、

っぼくは、っおそらく都響の定期を聴くのはこれが初めてなのかとおもうが、大器3階の正面、視覚としてはわずかに舞台が遠いが、っおもったよりも上から覗き込むようではなく、っなにより、音響がとても怜悧である、怜悧だが、っまあそうね、渋谷でN響を聴くのと似ていて、っわりかし輪廓偏重の音っきり聴こえない、っただ、っよく見なんだ、8型セロ・バス3、2だったとおもう楽聖でも、冒頭から、致命的に音量が足りないなあ、音像が遠すぎるなあ、っという憾はいっさい懐かなんだ、っそれこそ、こっちもスピーカー使っとるんか、っとおもったほどだ、

っこうした音場やオケの性質も多分にあったかとおもうが、広上氏が新日フィルを振られたときよりももっと透かし彫りのような職人技の風情で、分厚い合奏では聴いたこともないような声部がふんだんに主張を成す、キーミツからそうした手応えがするのは少々意外であり、フィナーレの、っあれは2度目の主題の変奏か、っそこなど老練そのもので、っほとんど分析臭がするくらいであった、

っゆうべあまり睡ていないこともあり、っめずらかにも休憩時は外出、喫煙せずに自席へいる、

ショスタコーヴィチは、2楽章をたっぷりと構えて異様な解像度を具現、なぜ《10番》ではこれをしてくれなかったんだろう、っと地団駄、っやはり全般に輪廓偏重に聴こえ勝ちの音におもったが、っそういうのが似合う作家、作風でもあり、っおおきにたのしむ、



、、、っいま聖蹟別棟までもどってもう日附が変わる直前、っあすは《雨月、、、》くんと哲学科出先輩のおふたりに午前中のみ一寸した作業をしてもらわねばならないのだが、っあさから雨のなかその段取りをさせるのもわるいので、っいまぼくがそれをせむとするも、数年来、雨っ曝しのずたぼろブルー・シートへ包まれたコンテナの内には水が溜まっており、手を入れて触ったビニール袋かなにかはぬめっとしている、っその瞬間に深夜サーヴィス残業の戦意を喪失し、石鹸で手を洗って、っいま帰り支度、、、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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ギロッポン、




カーチュン・ウォン氏の棒、日本フィル公演、済む、演目は、小菅優女史を招いてラフマニノフ《2番》コンチェルト、っそしてチャイコフスキー《5番》である、っこのプロならば流石にほぼ満席で、っきょうもこないだの横浜同様、学生の一団がおり、席は何個所かに分散せられていたようであるが、終演して外へ出ると、器の眞ん前の左っ手の階段のところで集まってしゃがまされており、階段の上へ教員が立ってなんだかだと話されていた、っぼくにすれば、っむしろ年配者による弱音部や無音部にかぎっての無神経な咳払いなどのほうがよほどか欝陶しかったが、学生連の近くへ坐した人たちは、っまた彼等の粗相に鑑賞を妨げられたりしたのだろうか、

っきのうにせよきょうにせよ、空路移動のその当日に演奏会というのは、っなにかと危険が伴なう、っまず定刻通りの離発着が叶うのかということがあるし、っさらに、気圧の変化で耳が詰まって抜けてするので、っわるくすると耳の聴こえが本調子でない状態で客席へいねばならない、っきのうの札幌はちゃんとクリアに聴こえる体調でいられたが、っきょうは、着陸時に高度を下げてくる段でもうひとつすっきりせず、ギロッポンでの開演時点でもわずかに聴こえがわるかったかもしれない、休憩時に欠伸をするとふと詰まりが抜けたようなので、チャイコフスキーはよく聴こえたのだが、

ラフマニノフは、っそのぼくのコンディションのせいでさように聴こえた面もあるかもしらんがしかし、下をだぶだぶずぶずぶと膨満に鳴らさない全体のひびきは、上等の白身魚のごと澹泊な味で、っもちろん、っそれでこそ絶品であった、

っおもえばカーチュン氏のひびき、音色は、っいつもこのようである、っせんじつの彼氏のマーラー《9番》に対して、冒頭から下がよわく、ひびきが薄い、っと聴く向きがあったようだが、絃バスがぶんぶんいって他の上声一切が田圃の中をでも歩っているように鳴るオーケストラを聴きたいという人にとっては、っあるいはそうかもしれない、っぼくはといえば、っあんまり下の厚い音響はこのみではなく、絃バスもぶんぶんいうよりはごりごりいうソリッドな成分のほうをよりおおく聴きたい人なのだが、っいま使用しているインナー・ヘッド・フォンでも、専用アプリケイションのイコライザで下をやや下げ、中域をやや上げ、上をそれよりも上げており、っそれをしないで聴くと、ったいていの音源は下が分厚すぎて全体がダルに聞こえてしまうようにおもう、

っそれまでに聴いたことのない指揮者を聴くばあい、っお互いの嗜好がスウィングしていれば最初の1回からうれしくて飛び上がりたくなることもあるが、っそうでないばあいは、とくになんの印象も遺らない、っというのがたいていである、っかく申す、っぼくのカーチュン氏への印象も、っまだ接触量の乏しかったころの日フィルとの伊福部《リトミカ、、、》、同《、、、タプカーラ》、マーラー《4番》、バルトーク《オケ・コン》、っあるは大阪フィルとのベルリオーズ《幻想》など、っこれらのうちに、細部へ亙るまで篤と聴き、味わったという客席での鮮やかな記憶のあるものは、遺憾ながらあまりないのである、日フィルとの演奏については動画を録画してあるが、っその音声を抜いて聴いてみると、っいずれの曲もひじょうによく作り込まれており、っいまさらながら、っその高密度の意匠に驚くのであるが、っだから、演奏が愚図なのではなく、聴き手がキャッチ・アップできていない可能性というのは、恆にある、っそれがコワくてはなにも云えなくなるので、ダメと聴こえた演奏にはダメと云うけれども、指揮者の意気にこちとらで感応できるようになると、演奏の情報量というのはうんと増すのもまた事実である、ったとえば、彼氏のマーラー《9番》に対してまたあるは、未整理だ、っと聴いた向きもあるのだが、っぼくは2公演とも当日の客席の時点で、個別声部のたまさかのエラー等は認識はしたが、指揮者の造形が不首尾であるせいでオケが雑然と鳴るというようにはぜんぜん聴かなんだ、っそして動画を録画して音声を聴いてみると、客席のとき以上に細部の作り込みの入念さに感歎を禁じえないのであるが、っしたがってこの演奏は未整理なのじゃなく、カーチュン氏なりに整理せられているのであって、一見、強引に聞こえるような場面も、っよく聴くと、ああ、そうだとも、敢えて強引だと聴こえるようなやり口を志向しているのさ、っと鳴っている音がちゃんと不敵なぎらつきをみせてくれている、っただそれがさる一個のお客にとって、俺の聴きたいマーラー《9番》とちがう、っというにすぎないわけだ、っぼくはあの日までにだいぶん何度か彼氏を聴いてきていて、少々の強引さには飜弄せられないし、っや、飜弄せられることをうれしがる好意さえ育っているので、っあれこれの揺すぶりがあっても附いてゆけたのである、

っきょうの端然たるラフマニノフにしても、っこれがカーチュン氏を聴く始めだったとしたら、反意は抱かなかったにせよ、アッピールに乏しいとはおもったのかもしらず、果たしてあまり記憶へも遺らなかった惧れもある、小菅女史のピアノまで音響体中の一部品であるやに淡麗に顕れるその演奏をぼくは、っまことに好意を有って遇したのだった、

カーチュン氏はたしか作曲も事とされているはずで、っそのあたりがひとつの秘蹟であろう、指揮者のカリアもいろいろで、器楽でも絃から来た人、管の人、っあるはピアノの人とそれぞれセンスが異なるが、作曲をする者が他人の作を振るとなると、他の来歴の人よりも、譜面の指定に対して演奏家の立場から干渉すること、っそう云ってわるければ各指定をより自由に解することへのハードルをいっとう低く感じているという可能性はおおきにあるので、っそこがぼくのいわゆる再構成再現前の手応えへと繫がっていると取っても、強ち遠くはなかろう、

サンチマンタル、マランコリークなきょうの2作をつづけて聴くとその観もよりつよい、彼氏の造形は、ザッハリヒカイトというのではぜんぜんない、歌はときにぞんぶんに熾烈であり、感興の昂りは去勢せられてなどいない、っけれども、熾烈に謳ったその歌も、っいっぽうで他声部との相関のなかで全体を構成する一部として機能せしめられてもおり、楽曲が絶えず構造としてものを云う感触がする、っそういう感触がして、っしかも冷たくない、突き離すゆえにでなく、愛ゆえに構造を聴かせる、構造が見えるように鳴っているのが自分の愛しているその楽曲の姿であるから、構造的に鳴らす、っそうした手附きである、

っそして、彼氏が楽曲楽曲へ見ていられるその構造というのは、っまったく新鮮そのものである、っそれを、俺のおもっているのとちがう、っと冷遇するのでは勿体ない、勿体ないというか、一聴き手の嗜好と比較して適不適を問うには、彼氏の問題意識はあまりにも高次である、そこをそんなふうに感ずるのかっ、っという驚異はぼくにすればきょうなども無数度に味わわされ、っよってあらたに曲へ出逢い直すような、っさては、彼氏にそう振られてみて初めて、ラフマニノフなりチャイコフスキーなりという音楽がこの世上へ現われたかのような、っさようの実感さえぼくは喰んでいる、

上岡敏之氏なども多分にその気味の人だが、彼氏のばあいは、誤解をおそれずに云えばもっと不健康な感触であり、カーチュン氏はその対極、っあの容貌どおり、健康健全に耀いているところがすばらしい、っいずれ、っこころへ翩飜たる己が旗を有っているということは、っご両人とも偉大である、

日フィルはきょうも天下の名楽団、見る目にたのしいのは、絃でも管でも、会毎にぜんぜん席次がちがう、管の1番などは流石に固定だが、2番以下はころころ交代するし、絃などは、近年入ったよなという若い人が、前回うんと後ろへいたかとおもえば今回は最前列を任されていたりとか、ヴェテラン勢も、っきょうもヴィオラのいつも最前列のあのすごい髭面の男性が、辛うじて表側ではあるもののしかし最後列へ陣取っていられた、学校の部活じゃないんだからというその柔軟さは、彼等の公演の一興のひとつである、

っぜんぜん演奏の具体を云っていないが、っもうだいぶんしばらく南大沢の駅へ立ち盡くしていることでもあり、云う必要もあまり感じないので、っきょうはこんなところで、



っさてお次は木曜、井上キーミツの都響との楽聖、ショスタコーヴィチかな、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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札幌、




井上キーミツの棒、札響公演、済む、演目は、武満徹《地平線のドーリア》、北村朋幹氏を招いて同《アステリズム》、っそして例の30分の長時間休憩で円形配置へ転換しての、クセナキス《ノモス・ガムマ》、っそのままの配置でラヴェル《ボレロ》である、

キーミツは休憩後にマイクを持たれ、古いとか新しいってなんですか、新しいものに対してみなさんどうですか、違和感、拒絶反応、それだけですか、っと問題提起をなすっていたが、っぼくは有名なる武満をしかしこれまでぜんぜん聴いておらず、っきょうの2曲なども、っそういう音が鳴っている場へ居合わせているっきりで、っどのように聴いたらよいのかを測り兼ねる、人によっては全否定だし、っまた人によっては理想の音楽だという、ミニマル先輩などは後者の口で、っお若くときにラジオを聴きながら車で帰宅されて、っちょうどお宅へ着いたというときに前田憲男氏がパーソナリティをお務めの番組内で武満が鳴り、聴いているときには作家が誰なのかもわからず、っしかしその音楽に釘附けにせられ、ガレイジ内で車を降りられぬままに夢中で聴いた、済んで、ただいまお送りしたのは武満徹のしかじかでした、っと曲紹介があり、っこういう作家がいるのかとの瞠目を味わわれたとのことだ、彼氏に云わせれば、っとくにその初期の作品はいずれもご自身が音楽に求めるいっさいを体現した傑作群だとのことである、っきょうの2作などはその初期作品にあたるのかとおもうが、っぼくとして、これをおいてほかにいっさいの音楽が要らない、っとおもわせるほどの驚異がそこにあるのかと懸命に想像して聴くも、っついにさようの衝撃へは出逢えず終いであった、っや、既存の楽器楽器へ未知の感触を求める志向性などはべつにぜんぜんわかるのだが、っそれが他のいっさいの楽曲を遙けく霞ませてしまうほどの震蘯であるということはわからない、っべつにあのくらいの楽器法や楽曲構成は他のゲンダイオンガクへも容易に見出しうるようにおもうし、武満以前以後などという画期がなにほどの意味を有つのか、っぼくにはまったく不明である、っただ、聴いていてべつに不愉快ではない、っぼくはどんな楽曲でも、っそれが鳴っている場へかたときたりとも居合わせたくないとおもうようなことはあまりない、

クセナキスの同曲は、名古屋フィルのときから数えてこれで都合3回聴いたこととなるが、っどんな曲だかだいたいわかって客席へいて、っこんかいもおおきにたのしんだ、っといっても、っやはりなんだかさようの騒々しい音がのべつしている場へ居合わせているというにすぎないのだが、3度も聴くと、っその騒音のためにあれほど各声部へ複雑な役割を充ててスコアを織った作家への一種の労いの観も湧こうというものである、

っそして《ボレロ》だが、キーミツではその名フィルの際にも聴き、っまた新日本フィルとの演奏も聴いているが、っいつもすばらしいのはホルンがテーマを吹き、ピキェロ、フリュート、チェレスタがそれと不協和を演ずるかのマーキナーな場面で、っきょうもそこがいっとう魅惑的だった、っどうもピキェロに絶対に、ぴーっ、っと劈く音を出させない、っかつピキェロばかりを頼らずにフリュートへも果敢に音量を求める、っというのが極意のようで、っそうでなければあのおもちゃの感触は生まれない、

場内完全暗転、譜面台譜面台へはライトを燈し、各ソロが起立しながら吹く、曲の進展につれてようよう明転し、コーダへ至ってついに客席までも全燈、視覚聴覚ともに燦然たる昂奮の裡に、最期の共演だというのに攻めたプログラミングをもってきたその一夕も暮れるのであった、去年末の同コムビ公演では、キーミツが前夜にすすきので羽目を外され、敢えなく風邪気味でいられたらしく、っどおりでずいぶん力なくいられるのが客席からもはっきりとわかり、演奏としてももうひとつ覇気を発散しないようにおもったが、っきょうはちゃんとお元気そうで、札響も凛烈な合奏であった、っあすの同プロが正真正銘、最期の共演であるが、っぜひに盛会であってくれたいところである、



北海道は、午、千歳へ降り立つときから、軽装では膚寒い、6月へなんなむとしていてこれかよ、っと驚くが、薄手の外套を持参しており、っそれを羽織ればむしろ快い陽気である、っいま陽暮れて、夕餉、っのちのカッフェとすすきの辺をぶらつくうち、っだいぶん札幌駅へ近附いたので、っこのまま歩ってホテルまで戻らむ、駅の北側、北大の東側へ面した宿である、夕餉は王将だったが、スタムプを貯めてもらえる景品で、東京ではどこの店舗でもお目に掛からない目覚まし時計があったので、この目覚まし時計ありますか、っとうかがうと、ちょっとお待ちくださいねー、あ、ありますよー、っと云われ、っうれしくいただく、

っさて、っあすあさ千歳を発って、午にはギロッポンでカーチュン氏公演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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羽田、




っいまチェック・インを済ませ、小一時間後に千歳行、夕から札幌にて井上キーミツと札響との最期の共演で、武満、クセナキス、ラヴェルである、同プロできょうあすと2公演だが、っざんねんながらぼくはあすはサントリーでカーチュン・ウォン/日本フィルを聴くので、っこんや札幌へ泊まり、明朝、千歳発である、



っせんじつのキーミツ/日フィルの動画の音声を抜いて聴いてみるが、tvuchの動画は、音声についてはどれかのカメラのマイクで拾った音そのままなのか、っそれとも音は音で別にマイクで録り、映像と同期せしめているのか、っわからないが、っすくなくもサントリーで録った音については、客席の誰かのスマート・フォンへ着信してしまった際のだろうか、っときおりぷつぷつとノイズが入ったり、っとくに絃のアルコを聴いている際、動画の音声特有のしゅるしゅるいう感触がわずかにするばあいがあるものの、ホール・トーンも適度に含んだひじょうに高精細の音質で、音盤のそれと比較して明白な遜色をおぼえるものではないが、っみなとみらいで録ったこの音についてはどうだろうか、っかなりオン気味で、奏者ひとりびとりの直接音が聴こえてしまうというほどひどくはないものの、客席ではあんなにも潤澤に感ぜられた残響がほとんどせず、っなにより、日フィルのあの精妙さをいまひとつ実感しえない、っこの音を聴かせたのみでは人は、っこんにちの日フィルは天下の名楽団であるとのぼくの平素の繰り言を信用しないであろう、

キーミツの造形としても、両端楽章の主部にせよ2楽章にせよ、アレグロに停滞趣味を有ち込まない覚悟のほどは立派ではあるが、っさしもの日フィルも声部間でのかすかなタテのずれを生じ、オン気味の音声がその弊を助長してしまうのがいかにも辛い、

っこれを聴いて、慕わしさにロズージェストヴェンスキー/読響を聴き返してみたが、指揮者の志向性が異なるとこれほどまでに音楽の意味が変貌を遂げるのか、っとあらためて驚愕を味わった、っそしてぼくは、っやはりロズージェストヴェンスキーのほうが断然すきである、っあまり急速章の様相をしていない1楽章はもちろんのこと、2楽章も乗っけから、絃がずしんと重たく鳴って、先を急ぐまい急ぐまい、1歩1歩を着実に踏み締めむ踏み締めむとする意志力により、っごく数分のシムフォニック・アレグロがしかし、巨大な屹立をみせる、フィナーレの主部もそれと同断であるが、っこんかいよりつよく感銘を与えられたのは、っいかなる強音部でもけっして駄目を押さない発音の明晰さである、テンションに感けて全員で一気呵成に、っという瞬間はほんの1個所たりとて覗かず、フィナーレの最終音へ至るまで、っすべての頁、っすべての音が楔のごと時間時間へ打ち込まれつづける、っしかもそれはひじょうに冷静冷徹に遂行せられるのであり、既のところで音楽が親愛親密の感触を失なっていないとすれば、っそれは読響各位の謹厳実直を極めた奏楽に負うところ大である、

フィナーレのコーダの最後の最後はその演奏の性格の象徴とも云える名場面で、木管と絃とが合いの手を入れ合いながらようようそのタームを約め、金管はずっと裏拍を吹いているという厄介な音構造だが、っそのために、先を急ぐキーミツはここで手痛いタテの乱れを生じている、対してロズージェストヴェンスキーは堅固そのもので、っしかしそれだけにとどまらない、音価のみじかい切迫した動きのここでは、っいきおいオケも前傾姿勢勝ちとなったところ、っつづく2小節において、金管が2分4分4分/4分4分2分というやや音価の長い音を吹く、っそのとくに前の1小節においてトロムペットが、音価を長め長めに感じて吹かむとする気骨をみせ、終結へ向かってもういちど音楽をおおきくおおきく膨らまそうと意志する、

キーミツとしては好個のスタンダードを示したくてのあのテムポ感だったのかとおもうが、ゲテモノ趣味者のぼくにすれば、っやはりやはりロズージェストヴェンスキーである、



っさて、っまもなく離陸、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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