川崎、
森口真司氏の棒、っみずほフィルなる、っおもにみずほフィナンシャル・グループ社員から成るというオケの公演、済む、
っそれなりの高所得者連の楽団だから、収入は合奏能力に比例するかとおもい、一廉の技倆を期待したが、っそこまでではなかった、っが、っけっして下手ではなく、音楽を味わうのに不足はなかった、絃は13型という変則規模で、っちゃんと5部すべて2ずつ減って、バスは5である、公演に気附くのが遅く、っさいきんに席を押さえたので、右寄りはもう良席がなく、左寄り、Vnは音量を出せないではなかったものの、右から聴けばなおウェル・バランスであったろう、
聴衆の一個として、っもはやぼくは森口氏に全幅の信頼を寄せて憚らないが、っきょうもそれは裏切られなんだ、オケはときに指の回りが心許ないが、っそれは誰かしらのソロがということであり、合奏の基幹としてはいつも揺るぎなく、っあいかわらず、指揮者として造形上とくになにということをなさるわけでもないのに、刻一刻とひたすらすばらしい、
演目はシベリウス《カレリア》スート、チャイコフスキー《ロメ&ジュリ》、っそしてカリンニコフ《1番》である、
っかかる狼よりは羊であるような小味の楽団のばあい、開幕からしばらくは熱っぽい発奮は望めず、っよって穏やかに《カレリア》から開け、体力的にも心理的にも熾烈に闘う必要のある《ロメ&ジュリ》がつづくという曲順も奏功、
森口氏が登壇される、っその歩かれる姿態、コン・ミス連と握手され、っこちとらへ辞儀をされる挙措、っそして振り姿と、一挙手一投足いっさいが舞台人としてのコケットリーから完全に絶縁無縁であり、っそれでこそ画に成る、っそしてそのお姿は、っそのまま彼氏の音楽性を象徴している、
っきょうプロフィルを繰ってみてやや驚いたが、っお歳はいまだ還暦ちょうどでいらっしゃる、禿頭のせいか老け顔でいられ、っぼくなど、70は大袈裟だとしても、60代の半ばくらいでいられるのかと想像したものだが、
、、、っさいきん年齢で驚いたといえば、日本フィルの信末氏である、彼氏も彼氏で老け顔でいられ、40がらみのぼくと同年輩、っすこしくお若いとしても30代の半ばくらい、日フィル以前にもいくつかのカリアがおありなのかとおもっていたら、彼まだ27歳なんだってねえ、、、マジかよ、っやだやだ、歳は取りたかないやね、若い人にはもうどんどん羽搏いていただいて、
閑話休題、シベリウスは、3曲ともいかにも楚々と運ばれてゆくが、音楽へ活性を与えるについての必要にして十分の要諦を抜かりなく叶える森口氏の造形へ含蓄しているものは、っじつに計り知れない、それをせなんだらタッチの差で音楽は失活し、凡庸を窮めた死音の羅列へと堕す、っさようのかすかかすかな意匠がぜったいに聴こえよがしの誇示とは映らずに連続してゆく、っその手の演奏が客席においてちゃんとおもしろく存るというのは、っじつに針へ糸を通すがごと成功の可能性が極小であるものだが、っその道でこそ勝負をされているのが、森口氏である、
㐧2曲は、っひとつめの主題が木管から絃へ渡った段において、2ndのピッツィを周到に活かしている、セロ・バスのみが取り残されて遙けく彼方へすさり、パウゼからつづく主題へ遷ると、っその倹しい音量の絃合奏はしかしどうだ、っまことえもいわれぬ音色の調合により、っここのところ客席ではあまり実感することがなかったあの、オーケストラを聴いていながらすでにしてオーケストラを聴いているという感触がしない、っという実感をつよく得る、
㐧3曲は、Vnによるやはりさいしょの主題で、速い運弓により嫋やかななかにもわずかにマルカートな手応えも出せなくては音楽が死んでしまう、っとおもうが、っちゃんと小気味よいアクセントが効いてうきうきときもちが開放せられてゆく、速度を落とす終結はそのテムポ操作といい音量感といいほんとうに必要にして十分の極で、終止すると小ざっぱりと爽やかな残響が薫った、っこの終止時の残響の妙は、っきょうの3曲すべてに云えることである、大人しい楽団だからといって煽動して無理に音量を出させるということをしていないため、音色がぜったいに汚れないのである、
森口氏のチャイコフスキー《ロメ&ジュリ》は、っことし彼氏とマーラー《5番》を演る団体との演奏を、去年このおなじ川崎で聴いた、っそのオケもまたやや線の細い、音量のたっぷりとしていない団体で、っそれを3階とやや遠方から聴いたのであったが、っきょうはそのときよりもずっと舞台へ近く、っより稠密な鑑賞が叶った、冒頭のクラリネット+ファゴットから音色も唄い方もぴたっと定まり、低音から加わってくる絃もすでにして前曲とは異なる不穏にして悽愴なるムードを醸している、
主部へ遷ると、諍いの㐧1テーマにはもっと空間を引き裂くような声部声部の拮抗の烈しさを、悲恋の㐧2テーマにはもっとあふれるような音の洪水を、っそれぞれ望みたいが、音楽は小作りななりに厳粛に運ばれてゆき、っついにコーダにおいてハープを伴なって㐧2テーマがアポテオーズせられると、っそれはちゃんと泪を誘うのであった、
っやや珍かなカリンニコフでも森口氏は暗譜、っよくよく曲が身体へ入っていられるのだとこちとら感歎した、っそのとおり、っどういう曲なのかが聴いていてずっとわかる、っそして、上記のオーケストラを聴いていながらオーケストラを聴いていないあの感触が、全曲の隨所で期せずして発露す、
2楽章は降雪の心象たるVnとハープとからくっきりと鳴ってこちとらの胸もはらはらと震える、シムプルな3部形式が好もしい、
スケルツォ主部は凛烈なホール・トーンを完全に味方に附けたトュッティが快い、トリオは、ったとえばドヴォルザーク《8・9番》のそれなどと比較してもずっと手が込んでおり、充実した感銘を与えらる、
フィナーレは、音価の細かいVnのロンド主題あたり、音の質量がぎっしりと詰まらないというか、徒手空拳の憾で、っやや格調を失するが、致し方あるまい、っそれでも堂々と進軍し、コーダの勝鬨は晴れがましい、トライアングルが用いられていたが、スヴェトラーノフはテューブラー・ベルにしているんだったか、っそれは完全な改変なのかな、シベリウス《4番》フィナーレのばあい、スコアにはグロッケンと書いてあるらしく、っおおくのばあいグロッケン・シュピールが用いられるが、作家自身はグロッケンとは鐘のイミッジで、具体的の楽器としてはデューブラー・ベルを用いられたい、っと述べている、
アンコールにシベリウス《アンダンテ・フェスティーヴォ》、っその旋法はじつにこちとらのこころの琴線へ触れてくるものを有つ、っそして《カレリア》㐧2曲同様、幽玄の音色が音場を満たし、っそこへ倍音の効果により名に負うごとフェスティッシェな燦然さえ加えつ、っついに厳かなティムパニを伴なって終結するのであった、
今夏のそれぞれ別団体によるマーラー《5・6番》も、っときに満堂を圧するような迫力の要るこれら作品において、森口氏はあくまでも端然たる棒へ徹しられたままで、っしかしぼくらへふかい満足を与えてくださるのにちがいあるまい、
っさて、っお次は金土日と旅程、大阪でデュトワ、京都、広島と井上キーミツである、金曜が半期に1度の会社の会議で、サボってしまうのだが、
みずの自作アルヒーフ
《襷 ータスキー》(全4回)
https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)
《ぶきっちょ》(全4回)
https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)