流山、 | ざっかん記

流山、




佐藤雄一氏の棒、流山フィル公演、済む、

演目はヴェーバー《オベロン》序曲、シューマン《序、スケルツォとフィナーレと》、っそして楽聖《7番》である、

っいつ以来か、っややひさかたぶりに佐藤氏を聴いたが、っこの流山フィルでは楽聖は、《5番》と、ったしか《2番》を聴いた気がする、っほかにもあっただろうか、憶えがない、っあとはPfコンチェルト《4番》である、コンチェルトはたいへんにすばらしかったが、シムフォニーはどうしてもデッドな器に足を掬われてあまりにもひびきが粗野で直接音直接音しすぎ、っまた、テムポをはじめとして佐藤氏の造形を叶えるにはオケの技倆にも不足し、っもうひとつ好印象が遺っていない、っひびきが乾いていてもおおきにアッピールするかもしれないのは同シムフォニーのうちでは《7番》ではないかと以前からおもっていたので、っきょうは、エラーが頻発するのは覚悟の上で、っそれよりももっと全体の感銘がおおきく膨れるだろうと、っいつもよりは高い期待を有って出向いた、

っするところ果たして、非常な名演に巡り逢うことが叶った、っとてもうれしい、

っまず懸案はテムポで、浪漫派以降は定まって牛歩の佐藤氏はしかし、楽聖では《5番》の1楽章をぜんぜんオケが弾けていないのに無慈悲な俊速にしたりと、っこちとらとして予断が利かないところがあるのだが、っきょうの《7番》は全編牛歩、アレグレットもぜんぜんアダージョばりであり、っもちろんぼくの所望だ、っかかるテムポは、史上の綺羅星のうちでは朝比奈さんですら採られておらず、っじつに最晩年のクレムぺラー爾来であろう、っそれをいま現実に、目前で為されている演奏として聴くことができたのである、

っそのテムポとなるとオケは、多少とも腕が足らなくともありとある音をしっかりと弾くことができる、っこの曲はとくにフィナーレなど、っよく行なわれている速度ではともすると前進するリズムとアタックの音力っきり伝わらないことがあり、演る側も聴く側もそれでよしとしているようなところがあるが、っしかしぼくにすれば、っやはりオーケストラ演奏を聴く醍醐味というのはぎっしりとしたひびきの実在感、充実感である、っほんのトロムペットとティムパニとのアクセントが、単にリズムの補強とっきり聞こえないのか、トロムペットという真鍮管へ吹奏したその質感、ティムパニという鞣革へ打刻したその質感が絶えずずしんずしんと臓腑へ応えるのか、っその差はおおきく、っいかに全楽で一気呵成に突進してゆくアレグロであろうと、プレストであろうと、プレスティッシモでさえも、っいつもいつもすべての楽器の固有固有の音色音色が凝集凝縮して複雑微妙のブレンドを生じていなくば、っほんとうに本格の聴き応えではない、っそれがきょう、《7番》の全曲を一貫したのである、器のトーンはやはり粗野そのものであったが、予期したとおり、っそれはこの曲調にとって、完全に味方であるかはともかくとして、っすくなくもあきらかな敵ではなかった、

冒頭からゆっくりと、っしっかりと弓がすべての絃へ渡って、っどすんとどてっ腹へひびいて開始する、主部への移行で不必要に加速することを惧れるが、杞憂、っのんびりと、堂々と進軍す、リピートは全曲ですべて履行せられ、っまさしく一大シムフォニーの風格、っこの主部では、提示の小結尾において早くも上記のリズムの補強さえ剛毅なひびきとしてものを云う美質が発揮せられ、楽聖というあの精神が気高く屹立す、2nd、Vaのリズムが拉くように執拗に弾かれ、っやはりテンションではなく構造として楽曲を聴かせむとする意志が漲っていることも、っけっして忘れてはならない、、、っところで、っそのVaにはいつもサンフォニア・ドラマティークでコン・マスをされている方が乗っていられた、っこのオケではいつもそうだったのだろうか、気にして見ないからわからない、Vaは、佐藤久成氏などもたまにアンコールで弾かれたりするが、Vnの人はみななさるものなのだろうか、

アレグレットも冒頭から、管連中がほんの1音であろうと懸命なエスプレッシーヴォを通わせ合うため、っその混淆の音色はすでにして葬送の沈痛を代表す、テムポは極めて遅いが、同音連続の絃の主題はくっきりと弾かれてどんしゃりな器にクリアに伝わり、溷濁と無縁である、次々と上声へ主題のバトンを渡し、各声部の役割が変転してゆく様も目に見えるよう、

スケルツォにもかるやかなリズムの跳躍はどこを探してもなく、っどこまでもずっしりと踏み締める、トリオが大トュッティへ遷る際、っとくに我が国ではしばしば行なわれてきた直前の1音の音価を長く取る慣例は拒否せられており、っとうぜんそうあるべきだ、

フィナーレは、提示の主題から1楽章主部同様、2nd、Vaの刻みが大切に扱われ、っそれにより1stの主題がいまだかって聴いたこともないほどゆたかな、太い芯を有った描線として浮上浮遊し、っこちとら眞ん円に瞠目しつ聴く、佐藤氏はチャイコフスキー《4番》の同楽章などでは、っずっと牛歩で来ていながら、最後の最後はアクセルを踏んでしまわれる、ぜひとも終結の1音までずっとイン・テムポのままでっ、っとつよくつよく希うところ、っじつにそのとおりであった、っしかも、オケの発奮もひびきの充実を損なわないままに最大限に効果を上げる、っいちど弱音へ落ちてふたたび漸強し、最後にVnがテーマを弾き、ホルンが吼え、ティムパニが細かい音符を連打する部分は、速いテムポでは音勢からいってVnの主題の形がよく聴こえなんだりするのが通弊であるが、っきょうはちゃんと天上へ閃き、ホルンの雄叫びもぞんがい音がひっくり返らず、ティムパニは小径の古ティムパニを硬いマレットで1音1音くっきりと刻み附け、最も逞ましい終焉へと逢着したのであった、痛快っっっ、



前プロも、っまだひびきが熟れずに粗が目立ったとはいえ、ヴェーバーの主部は聴く者を吹き出させむとしているのかというような超低速をしかし眞剣に励行し、展開あたりからは剝き出しのヴィヴィッドな音色がようよう快くなってくる、一寸したフゲッタの書法がゆっくりとした速度のなかでこころゆくまで謳われてゆく妙味は、っつづくシューマンでも楽聖でもおおきに感得せられたところである、っそしてこの《オベロン》は、コーダの最後の最後の畳み掛けの部分が、っぼくのだいすきなスッペ《詩人と農夫》序曲の終わりの部分と酷似しているのもとてもたのしい、

シューマン《序、、、》は、っけったいなタイトルだが、要はシムフォニーを書かむとしたけれど緩徐章は割愛しました、っということだろう、っぼくにとりこの曲は、っなんといっても改称以前の東京ニュー・シティ管を振られたヌーノ・コエーリョ氏の演奏であり、っそれはそれは颯爽たる俊秀の羽搏きであった、佐藤氏の棒でもいつかに聴いているはずだが、っまるで別物であり、謂うならばそれは、牛歩ならぬ飛べない鳥、鶏さながらであり、っなによりも聴いていてぜんぜんどんな曲だかわからなかった、っきょうはその点、器のトーンのなかですべての声部がマルチに聴こえるたのしさがあり、コエーリョ氏の演奏を想い出せなくなるほど、っどっしりと野太いドイッチュ浪漫主義に浸らせた、

各曲の性格の相違も快い、好プロの好演、楽聖については一大名演の名に価したろう、っあまり聴けなくなってしまった佐藤氏公演の貴重な機会に、っかかる大演奏を見舞われ、っじつにうれしい、



っさて、っあすは井上キーミツの《ラ・ボエーム》川崎千穐楽の器の有料会員への先行販売開始なので、抜かりなく良席を獲るとせむ、左寄りを購うんだったな左寄りを、

っそして翌火曜はサントリー、デュトワ/新日本フィルの2日目、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)