ギロッポン、 | ざっかん記

ギロッポン、




カーチュン・ウォン氏の棒、日本フィル公演、済む、演目は、小菅優女史を招いてラフマニノフ《2番》コンチェルト、っそしてチャイコフスキー《5番》である、っこのプロならば流石にほぼ満席で、っきょうもこないだの横浜同様、学生の一団がおり、席は何個所かに分散せられていたようであるが、終演して外へ出ると、器の眞ん前の左っ手の階段のところで集まってしゃがまされており、階段の上へ教員が立ってなんだかだと話されていた、っぼくにすれば、っむしろ年配者による弱音部や無音部にかぎっての無神経な咳払いなどのほうがよほどか欝陶しかったが、学生連の近くへ坐した人たちは、っまた彼等の粗相に鑑賞を妨げられたりしたのだろうか、

っきのうにせよきょうにせよ、空路移動のその当日に演奏会というのは、っなにかと危険が伴なう、っまず定刻通りの離発着が叶うのかということがあるし、っさらに、気圧の変化で耳が詰まって抜けてするので、っわるくすると耳の聴こえが本調子でない状態で客席へいねばならない、っきのうの札幌はちゃんとクリアに聴こえる体調でいられたが、っきょうは、着陸時に高度を下げてくる段でもうひとつすっきりせず、ギロッポンでの開演時点でもわずかに聴こえがわるかったかもしれない、休憩時に欠伸をするとふと詰まりが抜けたようなので、チャイコフスキーはよく聴こえたのだが、

ラフマニノフは、っそのぼくのコンディションのせいでさように聴こえた面もあるかもしらんがしかし、下をだぶだぶずぶずぶと膨満に鳴らさない全体のひびきは、上等の白身魚のごと澹泊な味で、っもちろん、っそれでこそ絶品であった、

っおもえばカーチュン氏のひびき、音色は、っいつもこのようである、っせんじつの彼氏のマーラー《9番》に対して、冒頭から下がよわく、ひびきが薄い、っと聴く向きがあったようだが、絃バスがぶんぶんいって他の上声一切が田圃の中をでも歩っているように鳴るオーケストラを聴きたいという人にとっては、っあるいはそうかもしれない、っぼくはといえば、っあんまり下の厚い音響はこのみではなく、絃バスもぶんぶんいうよりはごりごりいうソリッドな成分のほうをよりおおく聴きたい人なのだが、っいま使用しているインナー・ヘッド・フォンでも、専用アプリケイションのイコライザで下をやや下げ、中域をやや上げ、上をそれよりも上げており、っそれをしないで聴くと、ったいていの音源は下が分厚すぎて全体がダルに聞こえてしまうようにおもう、

っそれまでに聴いたことのない指揮者を聴くばあい、っお互いの嗜好がスウィングしていれば最初の1回からうれしくて飛び上がりたくなることもあるが、っそうでないばあいは、とくになんの印象も遺らない、っというのがたいていである、っかく申す、っぼくのカーチュン氏への印象も、っまだ接触量の乏しかったころの日フィルとの伊福部《リトミカ、、、》、同《、、、タプカーラ》、マーラー《4番》、バルトーク《オケ・コン》、っあるは大阪フィルとのベルリオーズ《幻想》など、っこれらのうちに、細部へ亙るまで篤と聴き、味わったという客席での鮮やかな記憶のあるものは、遺憾ながらあまりないのである、日フィルとの演奏については動画を録画してあるが、っその音声を抜いて聴いてみると、っいずれの曲もひじょうによく作り込まれており、っいまさらながら、っその高密度の意匠に驚くのであるが、っだから、演奏が愚図なのではなく、聴き手がキャッチ・アップできていない可能性というのは、恆にある、っそれがコワくてはなにも云えなくなるので、ダメと聴こえた演奏にはダメと云うけれども、指揮者の意気にこちとらで感応できるようになると、演奏の情報量というのはうんと増すのもまた事実である、ったとえば、彼氏のマーラー《9番》に対してまたあるは、未整理だ、っと聴いた向きもあるのだが、っぼくは2公演とも当日の客席の時点で、個別声部のたまさかのエラー等は認識はしたが、指揮者の造形が不首尾であるせいでオケが雑然と鳴るというようにはぜんぜん聴かなんだ、っそして動画を録画して音声を聴いてみると、客席のとき以上に細部の作り込みの入念さに感歎を禁じえないのであるが、っしたがってこの演奏は未整理なのじゃなく、カーチュン氏なりに整理せられているのであって、一見、強引に聞こえるような場面も、っよく聴くと、ああ、そうだとも、敢えて強引だと聴こえるようなやり口を志向しているのさ、っと鳴っている音がちゃんと不敵なぎらつきをみせてくれている、っただそれがさる一個のお客にとって、俺の聴きたいマーラー《9番》とちがう、っというにすぎないわけだ、っぼくはあの日までにだいぶん何度か彼氏を聴いてきていて、少々の強引さには飜弄せられないし、っや、飜弄せられることをうれしがる好意さえ育っているので、っあれこれの揺すぶりがあっても附いてゆけたのである、

っきょうの端然たるラフマニノフにしても、っこれがカーチュン氏を聴く始めだったとしたら、反意は抱かなかったにせよ、アッピールに乏しいとはおもったのかもしらず、果たしてあまり記憶へも遺らなかった惧れもある、小菅女史のピアノまで音響体中の一部品であるやに淡麗に顕れるその演奏をぼくは、っまことに好意を有って遇したのだった、

カーチュン氏はたしか作曲も事とされているはずで、っそのあたりがひとつの秘蹟であろう、指揮者のカリアもいろいろで、器楽でも絃から来た人、管の人、っあるはピアノの人とそれぞれセンスが異なるが、作曲をする者が他人の作を振るとなると、他の来歴の人よりも、譜面の指定に対して演奏家の立場から干渉すること、っそう云ってわるければ各指定をより自由に解することへのハードルをいっとう低く感じているという可能性はおおきにあるので、っそこがぼくのいわゆる再構成再現前の手応えへと繫がっていると取っても、強ち遠くはなかろう、

サンチマンタル、マランコリークなきょうの2作をつづけて聴くとその観もよりつよい、彼氏の造形は、ザッハリヒカイトというのではぜんぜんない、歌はときにぞんぶんに熾烈であり、感興の昂りは去勢せられてなどいない、っけれども、熾烈に謳ったその歌も、っいっぽうで他声部との相関のなかで全体を構成する一部として機能せしめられてもおり、楽曲が絶えず構造としてものを云う感触がする、っそういう感触がして、っしかも冷たくない、突き離すゆえにでなく、愛ゆえに構造を聴かせる、構造が見えるように鳴っているのが自分の愛しているその楽曲の姿であるから、構造的に鳴らす、っそうした手附きである、

っそして、彼氏が楽曲楽曲へ見ていられるその構造というのは、っまったく新鮮そのものである、っそれを、俺のおもっているのとちがう、っと冷遇するのでは勿体ない、勿体ないというか、一聴き手の嗜好と比較して適不適を問うには、彼氏の問題意識はあまりにも高次である、そこをそんなふうに感ずるのかっ、っという驚異はぼくにすればきょうなども無数度に味わわされ、っよってあらたに曲へ出逢い直すような、っさては、彼氏にそう振られてみて初めて、ラフマニノフなりチャイコフスキーなりという音楽がこの世上へ現われたかのような、っさようの実感さえぼくは喰んでいる、

上岡敏之氏なども多分にその気味の人だが、彼氏のばあいは、誤解をおそれずに云えばもっと不健康な感触であり、カーチュン氏はその対極、っあの容貌どおり、健康健全に耀いているところがすばらしい、っいずれ、っこころへ翩飜たる己が旗を有っているということは、っご両人とも偉大である、

日フィルはきょうも天下の名楽団、見る目にたのしいのは、絃でも管でも、会毎にぜんぜん席次がちがう、管の1番などは流石に固定だが、2番以下はころころ交代するし、絃などは、近年入ったよなという若い人が、前回うんと後ろへいたかとおもえば今回は最前列を任されていたりとか、ヴェテラン勢も、っきょうもヴィオラのいつも最前列のあのすごい髭面の男性が、辛うじて表側ではあるもののしかし最後列へ陣取っていられた、学校の部活じゃないんだからというその柔軟さは、彼等の公演の一興のひとつである、

っぜんぜん演奏の具体を云っていないが、っもうだいぶんしばらく南大沢の駅へ立ち盡くしていることでもあり、云う必要もあまり感じないので、っきょうはこんなところで、



っさてお次は木曜、井上キーミツの都響との楽聖、ショスタコーヴィチかな、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)