ざっかん記 -22ページ目

ギロッポン、




カーチュン・ウォン氏の棒、日本フィルのマーラー《9番》公演初日、済む、

っさいきんのぼくはすこしく日フィルをすごいすごいすばらしいすばらしい云いすぎていたろうかとおもいながら出向いたが、っぜんぜん過言ではない、

っもとより、オーケストラのテクニークそれ自身を取り沙汰して、っとくに、巧い、っという形容詞を用いて語ることは、っぼくにすればまったく消極的の態度である、巧さは手段であって目的ではなく、目的はなにかと云えば、っもちろん感動である、っそれは聴き手においても演り手においても、感動であるはずだ、っだからぼくが、オーケストラはとても巧かった、っと語るのを、その巧さが感動に繫がるほどではなかった、っと読む向きがあったとしても、強ち誤解とは云えない、っじっさい、テクニークがテクニークとしてっきり聴こえてこない演奏というものはあり、っそうした演奏では、っすくなくもぼくは眞なる感動は得られない、

っときにこんや日フィルは、感動的の巧さだった、、、ふ、我ながらカンペキなレトリックっ、っどんなもんだいっ、

自惚れはさておき、っほんとうに、っほんとうにほんとうだ、膨大な編成がしかし、完全に自在である、精妙であればあるほど音という音がマーラーの感じやすいこころの襞のひとひらひとひらと変じ、多声が錯綜せるほどに、っますます全体が一体のさようの生命体であるやに感ぜられてくる、っいつもしゃびしゃびと水っぽく、存在感の薄かったN響のホルンに比して、日フィルは信末氏を筆頭に硬質な手応えで、っなにより隙あらば音量を出さむ出さむとする逞しさ頼もしさ、対してトロムペットは、っこれもN響とは対照的で、っあちらがわりにぱんぱんぱらぱらと吹いていなくばみずから安心できないようであるのに対し、っこちらはすかっと抜けた音でじゅうぶんに鋭利な快感を体現しえており、っもちろん要所ではぐっと音圧を加えてくる、

っかくして1声部ずつ語ってゆけばいくら紙幅があっても足りないが、絃も木管も、っひとつびとつの声部がふるいつきたくなるほどの芳醇さで、っめくるめく時間であった、彼等がとても巧いということ、っいつしかそれさえ忘れてしまうので、っまこと、っその次元へ達してこそ初めて、テクニークはテクニークであろう、

っしかも、カーチュン氏のプリンシパル就任披露の同《3番》時に云ったように、っそのように綾成す響でありながら、日フィルの色調質感はあくまでもどこまでもユニヴァーサルであり、オーケストラの音ってこうだよね、っと誰しもが念頭へ浮かめるその範囲内でいっさいを賄っている、っそしてきょうなどは、っその範囲内で遣える音はすべて遣い切ったというふうだ、フレイジングにしても、基本的には先へ先へゆく棒へ喰らい附いてかっちりと拍毎へ嵌めてくるふうだが、奏者によってはときに、小節全体として辻褄が合いさえすれば、や、場合によってはわずかに小節をはみ出したとしても、音価音価の伸縮はある程度自由でしょ、っとの気骨をみせてくれる、欧米の楽団ではむしろありふれているそうしたスタンド・プレイも、日本人には民族性からいってなかなか求めえないものだが、っそれができるのとできないのとでは楽団の威風というものも1段も2段もちがってくる、聴いている方のスリルもまたまさしく段違いである、敢えてN響だどこだと較べるまでもなく、っそんなスリルをまで盛り込まれては、っやはり日フィルはこんにち、世界のなかでも覇を競いうる、天下の名楽団にちがいない、

造形として印象的なのは、《3番》でも、アゴーグをおもい入れたっぷり、しかし頂点を打つやすぐさまきっぱりとア・テムポ、っという志向性が見受けられたところ、っきょうなどはそれがより頻出し、っむかしのぼくならば頂点後もしばらくは昂奮が尾を引いて足取りがもたもたしているというセンスをこのんでいたが、っいまではこうした健康美につよく絆されつつある、カーチュン氏は、3楽章のトリオや、フィナーレのような音楽でさえ、っどんどんと音楽を流してゆくが、日フィルはけっして上滑りを起こさず、っさように振られてこそ奔流となって生彩を発する、2楽章の終結部附近などではその美点が篤と実感せられる、っすなわち、滅多に振れない曲で、っいざ振るとなればいきおい愼重に構えてしまい、っだいぶん早々に低速へ落とし、音量もしぼり、楽器の数を減らすほどになおも強張った手つきへと萎縮していってしまう演奏がおおいなか、っこんやのカーチュン氏は、相当終結に近いところまで来てもいまだ速度として前進性を捨てておらず、音量も神経質にせず、っしたがってずっとカラフルなたのしさが耳を擽ぐる、っぼくらはこの曲に死の匂いを期待しすぎているのかもしれない、っそう顧慮を促されるここちがしたことだ、



っさて、っあすもう1日、午前中のみ仕事をしてから出向く心算だが、午公演のみでは夕から手持ち無沙汰のようにおもい、ファビオ・ルイージ氏のN響公演のいちばん安い切符を衝動購いす、っあんな天井桟敷で音楽的の感銘はなんら期待しておらず、っただ閑が潰れてくれればよいっきりである、っあの喫煙可のカッフェへ寄れるのもうれしい、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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上野、




小器、佐藤久成、佐野隆哉両氏リサイタル、済む、

っきのうきょうと板橋の試掘、っざんねんながらと云うべきか、大半の作業はきのうのうちに済み、っきょうは現場はほんの10時くらいまでっきり稼働せず、敢えなく聖蹟別棟へ帰社して残余の時間はPC作業をす、出勤前からそのことがわかっていたので、アフター5用の私服は早朝に別棟へ出向いてそこへ置いてくる、現場への通勤は社用車で、ボスは悠長ボスであるが、っあさ別棟で待ち合わせをし、っぼくはそこまではチャリンコ通勤、、、っというのは、17時で終業したあと、チャリンコがなくては聖蹟の駅へ間に合わないからだが、っそれでチャリンコを別棟へ停め、ボスは50km/h制限の道でも平気で40km/hくらいで走っているというまさしく悠長な方なので、助手席へいてはこちとらじりじりしてしまい、っきのうもきょうも、行きも帰りもボスを助手席へ退かし、っぼくが運転す、彼氏はさようのとき、え、ほら、そんなふうに水野さんに運転を代わらせて、それでひょっと事故にでも遭ったら、なんで代理人が運転していないんだってことになるじゃないですか、っとかとメンドくさいことを云ってき勝ちの人ではあるのだが、っぞんがいすんなりと、あ、じゃあ交代しましょう、っと譲ってくれた、

検索した電車は、聖蹟発17:34、山手線でも中央線神田経由京浜東北線でもともに上野着18:37であったが、神田経由で来るところ、新宿での乗り換えが検索したものよりも1本早かったか、っちょうど18:30ころ上野着、自由席なので、現着が早いに越したことはない、っそれでいつもとおんなじような良席へ背嚢を置いていったん退出す、パンダ橋の先のデッキまで行って端でシガレットを服まんとするに、駅のほうから見憶えのある男性が歩ってこられ、っじつに下野竜也氏であられた、彼氏はたまさかぼくの目前で立ち止まられ、っなにやらスマート・フォンをいじられていて、っやがて上野公園へ去られた、っぼくはああしたとき、失礼ですが、下野竜也さんでいらっしゃいますか、っなどと図々しく声を掛けたりということをしたくない人である、

っさておき、っきょうのライン・アップは、ドヴォルザークの高弟というヴィーチェスラフという1stネイムのノヴァークの事実上の処女作で、佐藤氏がチェコ滞在時に収集された古楽譜をもとに10年以前に本邦初演を手掛けられたというソナタの再演に始まり、フォーレ《1番》、ヴェラチーニというバロックの作家のもの、っそしてグリーグ《3番》という各ソナタである、

っが、っきのうもおとついもなんだか2時3時までぼやぼやと起きており、っあさは5時には起きねばならなんだので、前2者ではほとんど居睡りをしていてしまう、佐藤氏も佐野氏も、っじつに快音を聴かせていられたようにはおもうのだが、

後半はちゃんと起きており、ヴェラチーニは、っぜんぜんバロックバロックしないふだん通りの佐藤氏の姿、歌はヴィブラート放題のロマンティシズム、急速章は手を見せぬ一気呵成、、、手を見せない、っは大丈夫ですよね、武士が刀を抜くのがあまりにも速くて、手の動きがまるで見えない、っそのくらいの速さということ、

グリーグは清冽かつ野趣溢れるたのしい楽想たちであり、佐藤氏の弾き姿は歌舞伎役者の大立ち回りさながらの迫眞、

ボーム《カヴァティーナ》はほぼまいかいの定番アンコールとなってくれてうれしく、っわりに丁寧に歌うときとラフなときとあり、っいずれ劣らぬすばらしさだが、っきょうは後者寄り、



っさて、今週来週の金土はともに日本フィル2連チャン、っしかもカーチュン・ウォン氏のマーラー《9番》と井上キーミツのショスタコーヴィチ《10番》とというヘヴィな週末で、っぼくは4公演すべてを聴き、ライヴ配信を録画してコレクションしておく予定である、キーミツの同曲は、N響との音盤をまだちゃんと聴いていないが、っなんだか2楽章の最終音が無理無理に残響を拵えたようなへんてこな耳当たりであり、っそういう編集せられたものよりもマイクの拾った音そのままという配信動画の音声こそなべて好印象なので、来週の動画のほうがよりくりかえし聴くに価する記録になる予感がしている、

っこんやはちゃんと睡ておかねば、、、って、っいま23:30でまだ聖蹟の駅の喫煙所なんだけれど、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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池袋、




下野竜也氏の棒、N響公演、済む、

演目は、っすぎやまこういち《DQ》スート《Ⅴ》の〈序曲のマーチ〉に始まり、エルガーの、作家自身が幼少期の作を掘り出してそれに触発せられて書いたという小品から3曲抜萃、次いですぎやま《DQ》へ戻り、《Ⅳ》から〈海図を広げて〉と〈栄光への戦い〉と、っそして前半最後はストラヴィンスキー《火の鳥》の、っあれは19年版スートかな、っその〈カスチェイ、、、〉から〈終曲〉まで、休憩後は《DQⅢ》のN響収録版スート全曲、アンコールに《同Ⅴ》から終曲〈結婚ワルツ〉であった、

N響と云う条、コン・マスは長原氏であり、絃バスには日本フィル、群響所属のあの細面の人がいられ、オーボー1番は日フィルの人、トロムペットへも読響の人が乗っていられた、っぼくがいま心配しているのは、っよくN響でクラリネットの2番を吹かれることのあるあの日フィルの人で、ったしかさきおとついも乗っていられ、井上キーミツとの公演などにも参加されていたが、っあの人がN響へ取られやしないかということである、っおもえば、セロの辻本氏にしても、っもとは日フィルで、っあっという間にN響へ移ってしまわれた、

っさておき、っその鳴り方であるが、渋谷や上野に比すればより音楽的の器である池袋を得て、っひとまずは沽券を護った観だ、っが、っきょう日、日本のオーケストラは、地方の楽団も含めて、っべつにN響とそれ以外とで、テクニークそれ自身としては、っぜんぜん歴然たる差はないとあらためておもわずにいなんだ、敢えてまずN響の難点のみを云えば、っあれでほんとうに、音色や音勢の相関として、この絃にしてこの木管、この金管、この打楽器、この木管にしてこの絃、この金管、この打楽器、この金管にしてこの絃、この木管、この打楽器、この打楽器にしてこの絃、この木管、この金管、っという眞に仕合わせなマリアージュが得られているのだろうか、っそれはきょうのみならず、っさきおとついほかでも感ずるところである、っそれから、音のパレットはほんとうに十全にして豊富であろうか、っどのパートもそうだが、っともすると精確なピッチとか強弱とか、歌の描線をシャープあらしめることに意識が傾き勝ちで、っもっと器の容積を篤と感じながらのひびきの雰囲気、色の調合、薫りをくゆらせることの奥行きが慾しくはないか、

っおもえばN響は、っえ、っいまでも泉岳寺の練習場なのか、ったぶんそうとおもうが、っそして、サントリーなどでも公演を有っているにせよ、ホームは渋谷である、対して日フィルなどは、杉並の新器落成爾来、っそこを本拠としており、っすなわち常時ホールで練習しているので、主戦場もまたサントリーである、サントリーを駄器悪器と云う向きもあるようだが、っぼくはそうはおもわず、っこんにちの日フィルのアンサムブルのたいへんなじゅうじつには、っそうした条件の蓄積がおおきく作用していようと、っぼくはおもっている、

っどこの楽団でも、っこんにちほどの腕がありさえすれば、っあと全体のひびきをいわゆる有機的のアンサムブルだといって褒めてもらうのには、っそれ以上の腕ということよりも、各声部の音色、音勢が相互に相応わしいか否かであって、っぼくは今次N響をたてつづけに聴いて、ったとえば、ホルンは全体のなかで音色としてもバランスとしてもキャラクターが薄弱ではないか、トロムペットははんたいに、ぱーん、っと破裂する吹奏を頼みすぎで、もっと、ふぁーん、とすっきり抜けてなお鋭い奏楽も当意即妙に遣い熟せなくては、Vn連中との最強奏のユニゾンにおいて不当に彼等を消してしまい、音量として十二分であっても、合奏全体としては瘠せ、格調を失するのではないか、、、っなどなどと彼等の合奏をややクリティカルに聴かずにはいられないのである、っそれこそ日フィルは、っこんにちトュッティにおいてそうした風格を体現しうるコンディションを獲得済みである、っまた、っかってはN響にとりあれほど自慢の種であった絃にしても、上に云うように、っなにか側鳴りとして精緻であることにばかり意が砕かれている憾で、っもっとひびいて残響をかむった音のそのムードを信頼したりといったことがあってもよいのではないか、っさもなくばずっとペン画の呵責のないクロッキーをばかり観せられているようであり、っもっと水彩絵具をさっと刷毛で掃いたような淡い色調だって盛り込まれてよいはずである、っぼくはそれも、っこんにちの日フィルからたびたび感得するのである、っだから、あるいは現時点では日フィルのほうが断然勝れているのじゃ、っとも云いたくなろうというものなのだ、

N響の内部事情として、声部間で、そんなにつよく吹かないでよ、っとか、そこそんな音色なのかな、俺ちがうとおもうんだけれど、っとかと忌憚なく云い合えるムードが、っいまあるのだろうか、っそれがしかしその有機的の合奏というやつに不可欠の条件であるとしたならば、オーケストラの良コンディションというものも、っじつにあすには崩壊するとも知れぬ砂上楼閣に相違あるまい、日フィルとて、っいつまたアヤしげになってくるか知れないのである、組織の裡で一個の人間とは、っひょっと有力でもあり、っまたしばしば無力でもある、己の役割に殉ずることなどわけはなく、っただ一所懸命に取り組めばよいだけのことである、っそうではなく、全体のムードを作るということ、っその次元までくるとやはり、個々のテクニークの有無などとは、っすでにしておよそ次元の異なる問題である、ムードを作れる人であるならば、っよしんばその人自身はテクニークに不足するとしても、っなお組織はその人を慰留すべきであると云ったとして、っけっして云いすぎではないであろう、N響がいまさようのムードを有てずにいるのだとすればそれは彼等の不幸であるが、っしかしそうした人間力を有つ者を指揮者や楽員に呼べるか否かは、っなにか物差しで測れるようなことではなく、っおよそ宝籤を当てるような頼りない話である、っぼくは近年、日フィルの演奏会にたびたび通って、っもう音が鳴っている瞬間瞬間に、仕合わせで仕合わせでたまらない、なんてすばらしい音を出すオーケストラなのだろうっ、っとうっとりと聴き惚れてしまうのである、っその多幸感がN響からは、っぜんぜんと云ってわるければ、っさして得られない、個々の士気が、っわざとそうしているのかと云いたいくらいに、っなにかいつもボタンを掛けちがい、空転し合うようなのである、演奏会が済んでのお客の㐧1声が、仕合わせだったっ、っであるならば、っそれは音楽家としても冥利に盡きるのではないか、N響が、っそうした満堂へ幸福を惠む楽団と成り遂せることを希ってやまぬものである、



演奏の具体だが、劈頭の〈序曲のマーチ〉は、音勢としてやや吹きすぎるトロムペットにより、絃と交代交代の主題ではその絃がよく聴こえず、っもっと周到な差配がありえた、

っすぎやま氏の筆はひじょうに質素質朴であり、っごちゃごちゃと多声が折り重なるでもなく、っだからアンサムブルとしてぜんぜん嘘が吐けない、っほんのすこしく合奏能力が脆弱であるだけで、っすでにして据わりのわるい音がしてしまう、っきょうのようにエルガーやストラヴィンスキーと並べて奏するとその観も一入で、多声的であれば、っどこかがよわくともべつのどこかで補えば、全体のひびきはぜんぜん丸く収まる、っその点できょう下野氏とN響とは、小曲の羅列とはいえ全奏に小1時間を要する《DQⅢ》においても、恆にまず非は打てない音を鳴らしつづけたのはそのとおりである、

前半の《Ⅳ》の〈栄光への戦い〉では、ロンドン・フィル盤では通常戦闘曲の前後半ともにリピートを止しているのに対し、N響盤ではそれを行なっており、っあるいは音盤ではきょうとちがって、全体のリピート後もまだ個々のリピートをしていたか、っそれはいま記憶にないが、っともかくそうだったので、っつまり音盤の収録内容も加味した再現となっているのかとおもい、俄かに〈そして伝説へ...〉の件の1小節にも期待が募るが、音圧がつよくてはっきりと聴き取り切れなんだとはいえ、当該部分はおそらく出版せられている譜面のとおりに奏されたのだとおもう、っもし音盤のとおり改変した音であるならば、Vnは高音域なので、っいかな全体の音圧がつよくともそのとおり聴こえたろうからである、っほかに、村の曲の冒頭のホルンの重奏は、っあれはロンドン・フィル盤時点でもいまだオクターヴ上であったか、っあそこはあのハイ・トーンでのハーモニーを聴くほうがずっとたのしいので、っあれでよかった、〈王宮のロンド〉は絃の後ろのほうのメムバーは休ませていたが、っとちゅう、っほんのすこしくコン・マスのソロがあり、音量バランスを慮ったのであろう、っその長原氏の音色、唄い方はすばらしく、っそれからすると、っさきおとついのショスタコーヴィチにおくマロ氏は、1楽章のコーダにせよ2楽章のトリオにせよ、っもっともっと一世一代の表情表現がありえたはずである、

っとちゅう、FC版にせよSFC版にせよゲイムを遊んだ記憶が去来し、不覚にも胸が震ったが、っぼくは《Ⅲ》のスートでは、〈祠〉の曲がすきである、前段の〈レクイエム〉は単純極まる楽曲だが、っそれはここではあたかも次曲への序奏であるかのようで、っすばらしいブリッジを經て〈祠〉へ至り、絃合奏の扱いはやはり質素そのものだが、っしかしその2ndやVaの役割こそは至妙である、

下野氏の造形では、〈冒険の旅〉の序奏をうんと腰を落としたテムポに感ずるセンスがうれしい、主題のリピートでとちゅうトロムペットをレガーティッシモにするのは、っそれこそN響盤における表現の忠実な再現であり、っおそらく譜面にそう指定せられているのだろう、っここはロンドン・フィル盤ではやや等閑にせられていた嫌いがあるので、讚意を示したい、

アンコールの〈結婚ワルツ〉はなんの変哲もないワルツなので、っすぎやま氏の存在感を示すという点では、《Ⅳ》の〈導かれし者たち〉などのほうがより独得の筆致かとはおもうが、っまあ、全体にまずまずの演奏内容ではあったか、《火の鳥》なども、っごくごくハイライトにすぎなかったというのに、下野氏のぎっちぎちの棒によってN響が彼等の演奏能力を満々と誇示し、〈カスチェイ、、、〉や〈終曲〉は怒濤のごとであったし、〈ララバイ〉は一転、っちゃんとムーディであり、っそこからホルンへ光明が差すまでの間の絃群の最弱音のトレモロは、っいかにもミステリオーソであったことだ、



っさて、っお次は木曜、上野小器にて、佐藤久成氏のリサイタルかな、っその日と前日とは板橋の試掘と云われているのだが、願わくは、板橋2日目が午后まで仕事があってくれたいもので、現場から直帰で上野へ向かいたい、ヘタに午前中で済んでしまうと、聖蹟別棟へ戻って仕事をつづけざるをえないからな、ボスは悠長ボスで、っぼくは一作業員として出向くので、っそのへんはごにょごにょこちょこちょっと交渉して、じゃあいいですよ、水野さんはもうここで上がってもらって、っと云ってもらうように巧く持ってゆかむ、、、っひどいこと云ってら俺、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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っきのうほんとうは、




有楽町の前に靖國、千鳥ヶ淵へ詣でたかったのだが、気温が上がりそうで、っちゃんとタイを締めてヤッケを羽織ると歩っていて汗を掻くかとおもい、っごろごろしているうちに時間がなくなってしまった、っきょうは曇天で20℃までゆくかゆかないかというところであり、っそのとおり、下はデニムだが上はタイを締めてヤッケを着てきたところ、っまあ室から南大沢の駅へは丘を登らねばならないのでやや身体がかっかしたが、玉の汗を発するほどではなくてよかった、市ヶ谷で降りて千鳥ヶ淵、靖國の順に詣でてから池袋へ遷る心算である、

っところで、っさきおとついの木嶋/坂入/N響の公演について、X上で、午前、川崎におく大西/沼尻/東響かな、っそのモーマチモーマチいっているからなんのことかとおもったらモーツァルト・マティネーのことらしいが、っそこから梯子して当該公演を聴いた人が、沼尻もよくなかったがこちらもなおわるく、前半で帰りたくなった、辛かった、っとこぼしたのへ木嶋女史が反駁され、っいわゆる炎上騒ぎになっていたようだ、

ようだ、っと云うのは、っぼくはその逐一をフォローしていないからで、奇しくもついこないだ大船へ坂入氏公演を聴きに行った際に云ったとおり、っその種のいざこざも、っぼくからすれば書く側、読む側双方の構文、読解の未熟未達、国語力の決定的の不足によってひたすらに誤解の創口を拡げてゆく水掛け論と堕すことを逃れないのであって、っそうなると外野としては、精神衛生上もうはや正視に堪えない、2ちゃんねるのむかしからさようの現代日本人の民度とネット言論との不幸なケミストリーに不愉快を嘗めてきたぼくとしては、っあるいざこざがそのレヴェルへ入ったら、っもう努めて事の顚末を見ないようにするというのが、最も得策である、



、、、っあ、って駄弁を書していたら、調布で特急へ乗り換え損なってしまった、



っどんなに委曲を盡した心算の文脈でも、っいっさいの誤解を逃れることは能わないと、文を織る者はまずこころすべきである、っぼくの貧しい経験からしても、え、この文脈をそんな悪意に取るのかよ、っという不本意は1度や2度では済まない、っそのときに人は、俺を誤解するなよ、っとおもうであろうか、っそれが若気というものであろう、っそう、っそれでは青二才なのだ、発言者のおよそ意識もしない悪意がその文の読解において嗅がれるというのは、一種の驚異である、っや、っよろこんでいるのではなく、インタレスティングだというのである、っそのことを敷衍してゆけばすなわち、世間様とは理不盡である、っとの平凡な世間智を得るのにさほどの労は要しない、っただし、っそれこそここで誤解をしてはならない、世に悪意が充溢しているから理不盡を生ずるのではない、ったといよかれよかれとおもうのであろうとも、っその人々のふるまいふるまいを無数に集めれば、っすでにして理不盡の原資としてたくさんなのである、っまいど云うが、っそんなことは遙か古代ギリシアのむかしからよくよく人にわかられていたはずのことである、

っだから、不埒なやっかみに対して懸命に正論で応戦せむとするらしい文脈であっても、っぼくからすれば、肩入れしてやりたいのは山々ではあるのだがしかし、申し訳ないがあんたの国語力は国語力でまたたいがいで、ずいぶん不用意な文脈がたくさんあるから、そこを恰好の餌食としたい愚輩を誘き寄せるだけだよ、っとの無力感へ沈む、

再度、云うように、語釋というのはじつに愕くべき多様さを有つもので、っまずまず議論らしい議論を成り立たしめるためには、当事者間でせめて主要なタームの語釋についてくらいは最低限のコンセンサスが得られている必要がある、っそれもなしにいきなり野良試合をおっ始めて、っどっちへ軍配が上がるの上がらないのを競っても、っじつに不毛である、っちなみに云えば、匿名か否かということがネット言論ではしばしば問題にされるが、っぼくにはそれは議論にとっての本質的の要素とはおもわれない、一定程度、語釋や文脈を共有でき、っこちとらが読んで説得的と読める文脈を織りうる相手であれば、っその人が実名であろうと匿名であろうと、っぼくとして、それのなにがどうちがうの、ってなものだ、氏素性も知れない相手としかし有意義な議論を交わすことができたら、っそんな仕合わせもない、っよほど犯罪に類する言質が与えられたならば、っその際には匿名者の実名を発くことは技術的に可能である、っさらば実名か匿名かなどはべつに有意な差ではなかろう、っもっとも、っそのことを現に議論に与する者等がよろしく正解していないということから世のいざこざの大半が生ずるというのは、っそのとおりだとはおもうが、

っもって回らず約めて云えば、自分も不用意かもしれない、不特定の相手もその可能性が大である、っこの所与にしてすでに建設的の議論は希みえないと、っぼくらは弁えておくべきなのだろう、

、、、っかく申す、正直に自白しておけば、っぼくもその、前半で帰りたくなった、辛かった、っという投稿自身は見たのであるが、っそれで気をおおきくしたというわけでもないとは自身ではおもいたいところだが、っおそらくは多少なりとも影響は受けて、っそれで、木嶋女史のソロについてはむしろぼくは頗る好印象を有ったのであるが、N響については、つまんない音ばっかり出しやがって、やりたくないならそんな仕事疾っ疾と辞めろ、っなどと、っそれこそ不用意極まりない雑言を吐いたのであった、っべつにそれをいま訂正なり削除なりせむとはおもわないのだが、上の文脈を継げば、っぼくはN響のああした鳴り方に、悪意を前提しているのではけっしてない、よかれよかれとおもい合うその綜合としてしかし、無趣味で、なんらの問題意識をも発散しない演奏が出来することは、じつにありうべきことであって、N響という組織とは、構造的にそうした通弊を生じ勝ちなのじゃないか、っと云ったので、、、っだったらやっぱり、いやなら辞めろよ、っはあきらかに云いすぎだが、っぼくとしては、っある演奏を、諾うにせよ斥けるにせよ、判断の根據を示すことなしに結論のみを述べるとしたら、っそれはたしかにときに残酷であろうとはおもう、逆に云えば、っその担保を伴ないさえすれば、一定の雑言の類に曝されるのも、舞台人等の衆目を集める稼業においては、っいわゆる有名税のうちであろう、っその点で短文投稿というのは、っそれ自身がすでにして危険因子である、っだからぼくはXへの投稿はほんのちょびちょびとっきりせず、っただこの駄ブログのリンクを貼りつづけているのみである、聞けば現代人はもうはや一定分量以上の活字を読み熟せなくなっているというが、っぼくにすれば、不逞の論難者をもとより締め出すことができているならば、っむしろ所望である、

っこの1件でぼくが想い出したのは、宇野さんである、っあの方が、っもうだいぶん晩年でいらしたとおもうが、ジャニーヌ・ヤンセン女史に執心され、友人に云わせればあんなの欧州の本場では酷評の対象だとのことだがそんなのは知ったこっちゃない、誰有名評家が酷評しようが俺の耳によく聴こえればそれがよい演奏なのだとて、女史がN響へ来演されてメンデルスゾーンかなにかを弾かれるのを聴かれ、っその棒はたしかデ・ワールト氏だったのかとおもうが、女史のヴァイオリンにはいたくやられ、っしかしN響の雰囲気のないひびきには辟易されたと、っそしてそのコラムの掉尾はいまでも忘れない、曰く、後半はデ・ワールトが《アルペン》を振ったらしい、っという冷酷な1文であったが、っいまもむかしも宇野さんエピゴーネンをもって任ずるぼくはあの往時、よっ、乱麻を断つ快刀の切れ味っ、っと感じ入ったものだ、

っこれなど、そらみろ、こんかい前半で帰りたかったとほざいた輩と宇野とは同列じゃねえか、っともはや草葉の蔭の宇野さんへもなおも投石、唾棄を躊躇わない不逞の輩を生じそうであるが、っそれがだから、議席へ着く資格のない者たちの群なのである、っやはり判断の根據を明示し、汎く批判に俟つべきなのであって、っそれをしている者といない者との間には、遙けき隔たりがあるのだ、っその前提を共有できないことが判明した時点で、っどんなに尻尾を巻いて逃げやがったと嘲罵されるのが口惜しくとも、議席から去るのが賢明である、っこれも大船のときに云ったが、他所をやっかむことそれ自身が目的化した愚輩というのは、っどこにでもうじゃうじゃといるものである、



っさて、参詣を了えていま池袋、っまもなく開演であるが、果たしてN響は雄渾の響を上げてくれるであろうか、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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有楽町 その3




済む、

井上キーミツ/新日本フィルで、山根一仁氏を招いて伊福部昭《ラプソディア・コンチェルタンテ》、っそして同《シンフォニア・タプカーラ》であった、

宮城前広場から器へ戻ると、っもぎりのところでは片山氏が会場スタッフの方となんだか掛け合っている、彼氏はたしかきょう、同催事において伊福部についての講演を行なわれており、首から関係者用のらしいパスみたようなのを下げておられ、っそれを見せながら、俺は関係者なのだからこの公演を聴かせてくれろ、っとでもおっしゃっていたのだろう、大規模イヴェント時の臨時雇いであろう女の子では片山杜秀の顔など知る由もなく、通してよいものやら判断に窮してあたふたしていた、っひとつ階上へ昇るといわゆる怪獣組と呼ばれる伊福部コンサートではおなじみのお客連が屯しており、遠巻きに見ながら行きすぎて、っさっきとまったくおなじ16列目の席へ坐す、

山根氏は、っもうあれで三十路手前くらいまで馬齢が来たらしい、登壇されると、往時のような青い感じが抜け、っほどよくやさぐれた風采を獲得されている、っそれがまずぼくなどには好もしいし、っきょうもあの川崎時とおなじで譜面台を置かれていたが、っずっと見ながらでないと弾けないというふうではなく、っほんの御守り代わりというところであろう、

っその《、、、コンチェルタンテ》は、ソロはぞんがいよくニュアンスが伝わったものの、っこんどは音勢のよわい木管がよく活きないのが辛く、彼等の吹いているところから、舞台の前面くらいまでっきり音が来ておらず、客席ではもはやフレイズの輪廓もぼやっぼやにぼけてしまっている、っそれにより、1楽章がソロによる序奏を了えて主部へ遷ると、っぜんぜんテーマの性格が主張しない、っこれもまた致し方なかろう、

っしかし、打楽器を交えてオケ全体が鳴るところなどは、っまあ最低限の迫力はあり、楽章後半などはまずまずたのしむ、

武骨な変拍子がにじり寄ってきて始まる2楽章は、冒頭からキーミツのテムポがじっくりとしており、主部へ遷っても先を急がないのがよい、クラリネットによるテーマはやはりごにょごにょとしてしまうが、音域の高い楽器を加えるとそれなりの雰囲気が出来し、ソロも相俟って無窮動の曲趣がよくよく発散せられる、カデンツを經て終局へ向けてはなおとどまるところを知らず、っついにVaが、っそして1stが主題を齋奏するところまで来ると、っある種、名状に堪えない昂りに襲われずにいない、



《、、、タプカーラ》は、1楽章もフィナーレも、っやはり主部のさいしょのうち、っどうしても木管の音勢が足らない、っそれはしかしもう云わないことにして、っしかし前者では、っひとしきりテーマをトュッティへ発展せしめたあと、退潮してゆくときにソルディーノのトロムペットが落ちてしまったのがざんねん、っもっと集中していてくれたかった、

白眉は2楽章で、オーボーの1・2番が交代交代に鄙びたリズム動機を吹きつづけるまんなかのところでは、キーミツは極めて遅い速度を用意し、っこころゆくまで北國への思慕を謳う、1番手のコール・アングレはやはり音勢が足らず、っもっとたっぷりと聴きたかったものの、、、っさっきお前もう云わないって云ったやないかい、次いでバトンがVaへ渡るところからは、懐かしさに烈しく胸を締め附けられ、っかあっと目頭が熱くなるのを抑えられなんだ、っやがてVnが加わり、思念ははてしなく迸ってゆくが、っほんとうに、っいつまでもこの望郷の念に心身を浸していたいとおもわされたことだ、っこの部分でこういう気持ちにさせられたのも、っじつにひさかたぶりである、以前に落泪を堰きえなんだのは紀尾井町で阿部/オーケストラ・ニッポニカを聴いたときであり、っその後はキーミツ/N響でも、カーチュン/日本フィルでも、去年聴いた本家本元、中田/新響でも、っいずれも一面に秀でてはいたものの、っこの部分で泣けて堪らなくなることはなかった、っそれだけでも、っこの非音楽的の超大器での公演にも感謝せずばなるまい、

フィナーレはああいう音楽なので、拡散気味の音響が致命的で、終局の昂奮ももうひとつスカっと定まらない、憂慮していた中間部のテムポもやはり速く、っあのテーマのおとぼけの手応え、っそれがしかしセロやホルンのダブル・タームで万感を謳うその情念もまた散り散りになってしまう、キーミツとしては、再起した主部へやがてこのテーマが急速かつ最強奏で戻ってくるので、中間部でも同様に遅すぎないテムポで示しておこうという解釋なのかとおもうが、っべつにそんな整合は附けなくともよいので、っこの中間部の際にはのんびりと歩くような速度を採ってくれたかったのだが、っおそらくは、キーミツが生涯のうちにこの曲を振られる機会は、っきょうこんやで最期であったのかとおもう、



キーミツが乗られるから詮なく2年つづけて来たので、金輪際ぼくは、っこの催事の鑑賞へは来ないであろう、っやはりどうしたって器が非音楽的である、



っさて、黄金週最終日のあすは、池袋で下野氏のN響公演で、っすぎやまこういち《DQ》ほかだね、以前にも云ったとおり、《Ⅲ》の終曲〈そして伝説へ...〉で、冒頭のファンファールが急速の裡に回帰する直前の1小節において、Vnが譜面通りの音を弾くのか、っそれとも音盤に収録の改変せられた音なのか、っそのほんの1小節を聴くためだけに、っあすはあるようなものだ、、、ってそんなことを云っていると、っちょうどそのときだけふと睡たくなって聴きすぐしたりしちゃいそうでコワいが、っま、動画配信もあるので後日でも確かめられるけれども、

っそれとN響、っおとついは無趣味な音の連続で白けさせられたので、っこんどこそ本邦㐧1級の楽団たるの意地をみせられたいものである、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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有楽町 その2




井上キーミツの棒、新日本フィル、トロムペットのソロに児玉隼人といういまだ14、5歳の少年を招いて、クラーク《トロムペット・ヴォランタリー》、アーバン《ヴェニスの謝肉祭によるヴァリアシオン》、っそしてレスピーギ《ローマの祭》で、レスピーギには児玉少年は参加されていない、

児玉少年は、5,000席の大観衆を相手に、っじつに堂々たるものだ、アンコールのミディアム・ナムバーでわずかに1音ひっくり返ったのみ、本演目の超絶技巧も朝飯前といったところで、無理に音量を張り上げずともちゃんとニュアンスが伝わるとわかっていて、っどこまでも淡々と吹いてゆく姿勢は、っじつに末恐ろしい度胸である、

去年とおなじく、っどんな器でも1階席はもとより選択肢から外しているぼくも、っこんな規格外の超大器でしかし増幅なしとあっては妥協せざるをえず、1階の16列目、中央よりやや右寄りであるが、去年もそうだったが、っじっさいに音が鳴り始めると、っまあ許容範囲外は許容範囲外にちがいないのだが、期待値を最低に有って臨むせいか、っそこまで酷くはないのだ、っぞんがいホール・トーンも効いていて音が濡れているし、トュッティは、っもちろんもっともっと音圧が慾しいが、っしかしレスピーギの〈チルチェンセス〉あたり、器の容積にゆとりがあるがために、っむしろ2,000席級以下の専門の器で聴くときよりも各声部がちゃんと分離して聴こえ、情報量のおおさがたのしいくらいだ、っただし、最もざんねんなのは絃、殊に高絃で、完全にひびきが拡散してしまい、っすっかすかの虚ろな音っきりしない、っが、っこれはもう致し方なかろう、

キーミツの造形は意外や意外、〈50年祭〉やつづく〈10月祭〉後半のセレナードをじっくりと謳歌することに主眼があり、〈主顕祭〉のラスト・スパートはよく行なわれているような全力疾走とはぜんぜん無縁、手に汗握らしめるグルーヴ感は敢えて拒否してずっしりとした終結を導く、っまだ辛うじて直接音のニュアンスの来る16列目であり、拡散してしまって熾烈に凝集しない強音部よりも、っなべて弱音部がぞんがい好印象であった、



っさて、陽暮れた宮城前広場には案の定、人影はほぼ皆無で、ベンチへ坐したぼくがときおりライターを使う明かりが交番からも見えるとおもうのだが、皇宮警察の方が、ちょいとおたくおたく、煙草を吸ってもらったら困るじゃないか、っと云いに来るでもない、

小1時間後、っふたたびキーミツ公演で、っこんどは山根一仁氏を招いて伊福部昭《ラプソディア・コンチェルタンテ》、っそして同《シンフォニア・タプカーラ》である、

キーミツは若い人によりチャンスをあげたいという趣意でいられるのか、っいつかに川崎で東響と行なった全曲音盤にもなっている同《協奏4題》の際の同曲でも、山根青年を起用されていた、っぼくなど、佐藤久成氏を使ってあげてくれたいのに、っとつよくつよくおもったものだが、山根氏はあのときには譜面台を置いての演奏でいられた、っこんやは暗譜でいられるだろうか、っおそらくちがうだろう、

っまた、《、、、タプカーラ》は、N響との演奏ではフィナーレのティムパニの合図に始まる中間部のテムポを速足に感じているのがキーミツ流であり、っやや落ち着かない印象を遺した、っきょうこれからもおそらく同部分はそのテムポなのだろうが、っそれでもちゃんと感銘を与えるような演奏であってくれたいものである、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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有楽町 その1




坂入健司郎氏の棒、東京ユヴェントス・フィルで、モーツァルト《ユピテル》フィナーレのみ、

他の有料公演の切符を携行していなければ入れない場所だが、周囲には数多のイヴェント・ブースがあり、演奏を行なうスペイスの脇へも自由な往来がある、っぼくが現着した際にはGPが行なわれており、楽音もマイク、スピーカーを通している、っそれでよいのだ、っここよりもなお広大な5,000人の超大器、ホールAでもそうすればよいものを、っなぜか増幅なし、っどうしたって音量音圧に致命的に不足し、っしたがって音楽的の感銘はけっして得られないことははなからわかっている、っただああした雰囲気を味わうためだけの催事である、

坂入氏公演の事後は器すぐ裏っ手、JRガード下の王将で食事す、っここはほかの店舗とちがい、生はスーパー・ドライのみならずペローニを置いており、フードもすこしく創作料理然たるものがある、っただ、電波が入りづらいのが難で、会計のときのタッチ決済に手間取る、経験からそれがわかっていたので、入店前の電波のよく入るうちにすでにして決済画面や王将のアプリカチオンでクーポンを用意しておく、

食事後は宮城前広場まで往って宮城へ向かいて首を垂れる、っよるならば馬場先門周辺の公園内へは滅多に人影もなく、っこそこそと喫煙していられるが、っまだ陽がある時分ではそれも叶わない、数寄屋橋公園まで歩って喫煙ブースへ入る、

っさて、っまもなく井上キーミツ/新日本フィルの1公演目、っそのあとも2公演目までは2時間近くの閑がある、っそのころには宮城前公園も閑散として、っまあ喫煙していらりょう、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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上野、




坂入健司郎氏の棒、N響公演、済む、

っきょう初めて、文化会館の裏っ手、正岡子規記念球場の外野側に喫煙所があるのを知る、っが、18時以降は閉鎖せられてしまうとのことで、夜公演の際は利用できない、パンダ橋を渡った先のだだっ広いデッキは平日休日を問わず雑踏しているところを見たことがなく、っまあ禁煙ではあろうが、端っこでこそこそと服んでいても赦されたいとて、終演後はそこで数本服む、

都美館へはキリコが来ている、っぼくは画学生時分から彼を敬しており、3GS時代からiPhoneを持って爾来、ロック画面は、


《愛の詩》一択で20年近く変えておらず、ホーム画面も、



っこのすばらしい面差しのセルフ・ポートレイトである、っぼくの持っている画集ではこの後者はざんねんながらモノクローム写真なのだが、っはたして現物の色調は如何に、っひょっとこんどの展示へ来ていたりしないだろうか、来ていないだろうな、ったしか個人蔵だったから、っしかし、っこうして貼附してみてあらためて感じ入らずにいないのだが、っいったいこれほど人生の憂愁を語り切った人物画というものが、っいまだかって存ったろうか、っこんなふうに人間の相貌というものを写し取ることができたならば、画家としてももうはや自身の生涯に一片たりとておもい遺すところはないであろう、っほんとうに、史上の傑作である、

都美館は金曜以外は夕までっきり開けていない、展示はついせんげつ末に始まったばかりで、会期は8月末まであるので、空いたろうころに行くとせむ、マティエールとして、っごってりと分厚いのか、っぞんがい淡泊なのか、っそこが知りたい、っが、っおそらく後者であろう、っなにしろ彼はテムペラも能くした人である、



っいま御徒町の王将で食事をして帰途だが、っさて演奏、演目は、木嶋真優女史を招いてハチャトゥリアンのコンチェルト、っそしてショスタコーヴィチ《5番》である、

器へ向かう途次では、前者の音源があったはずだとプレイ・リスト中を検索し、っもちろん小音量でだが、聴きつ来る、っすなわち渡邉曉雄/日本フィルのライヴで、ソリストは、ったしか漆原の、っお姉さんのほうかな、っひょっとすると、器もきょうとおなじ上野かもしれない、同盤は巨星への追悼盤とせられていたようにおもうから、っしてみると収録は80年代の末か、っほんとうに最々晩年ならば、90年代へ入っている可能性もある、

っきょうの演奏のことをなかなか云おうとしないのは、っそうねえ、っどうなのかなあ、っぼくはきょう日N響というのを、っべつにぜんぜんよいオーケストラだとおもわないなあ、っどうしてああ淡泊でつまらなさそうな音ばかり出すのであろうか、音楽がつまらないのなら、っそんな仕事、っいますぐ辞めてしまったらよいのに、、、

カーチュン・ウォン氏等が振られるあのこんにちの日フィルなどを聴いてご覧なさい、っなんというムジツィーレン、っなんというエスプレッシーヴォ、っそれでいながら極めて好もしい意味においてソフィスティケイトせられた精妙さ、っいま追憶してみるだけでも、っじつに溜息が漏れるではないか、っそれにひきかえN響よ、、、

っそれでもコンチェルトは、ソリストの勇躍もあり、っどうとかたのしませた、フィナーレのさいしょの主題におく彼女などじつに出色で、っぜったいに拍をはみ出させまいとする精確なリズムでいながらにして、っそのなかですばらしい強弱の抜き挿し、っふっと肩の力を抜く唄い方の闊達さにより、主題のキャラクターが最大限に活かされ、特有のチャームをまで発散しており、っこちとらおもわずに舌を巻いたものだ、

っところが、女史を失なってオケのみでシムフォニーとなると、徹頭徹尾ダメだ、っぜんぜんつまらない、インスピレイションの欠片もない予定調和のひたすらの羅列、

坂入氏は今後、N響を振られる機会を得られないとしても、っなんらそれを怨みにおもわれる必要はない、カリアが慾しいというなら知らず、っよい音楽をすることそれのみが目的であるならば、N響を振らせてもらえないことなぞ、っべつにぜんぜんなんらの失点でもないからである、

、、、っそれにしてもあのいっさいの色のなさ、薫りのなさはいかばかりか、っもっとしんから音楽しろよっ、N響っ、



っさてと、っお次はあさって、有楽町にて井上キーミツ/新日本フィル、っなんだか、坂入氏も同催事中で彼氏の手兵とほんの《ユピテル》のフィナーレのみを披瀝せられるとのことで、っそれも聴くとせむ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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大船、




坂入健司郎氏の棒、セレスチャルというかセレスティアル響なる団体で、楽聖とブラームスとのともに《4番》という硬派なプロ、

同団は3年ほど以前に結成せられ、過去3度の公演の指揮者はみな著名人である、っこんかい参加のプロフェッショナルのメムバーは、っみなN響の人かとおもったらちがって、東京フィルや新日本フィルの人もいた、絃の規模はフル・サイズといってよく、テクニークも、有名指揮者を呼ぶだけのことはあり、っじつに一端一廉である、

っずる休みへの必罰か、っほんとうに体調不良で、っやや鼻っ風邪の気味であり、演奏中もいまも、っずっとハンド・タオルが手放せない、40年附き合ってきた鼻のよわいこの身体だが、っまったく遣る瀬ない、1年に何度か、季節の変わり目にはかかる不快を耐えねばならない、っわるくすると鼻の周りの皮膚が切れて、っひりひりと痛い、

靴ノイズくそじじいだが、っいたのだろうか、っぼくは2階右方最前列に座を占めたが、っそこから1階席中央通路後部右方を覗き込んでも、っそれらしき胡麻塩頭は見当たらなんだ、っいなかったのならばさきわいで、っじっさい、演奏中も楽章間さえも、快い静寂が保たれていた、同小器でも公演があったようなので、っそちらにいた可能性もある、っただ、っぼくの1席置いて左隣の御仁は、っさかんにオペラ・グラスを覗き込んだりときどき拍を振ったりと、愚かな自己顕示慾の虜囚でやや目障りだった、

っぼくは演奏会へ行くのに、オペラ・グラスを携行したいとおもったことは露ない、演奏会におけるお客の視覚とは、っほどよい距離を有って舞台の全体を見渡していることである、っそれに、最も驅動せしむべきは聴覚なのだ、拡大鏡を覗いていては、必要以上に視覚への注意力が動員せられてしまうのではないか、っだいいち、懸命に演奏している者のその形相を視姦せむなぞとは、っひどく悪趣味である、演奏に合わせて拍を振るに至っては、ガキじゃあるまいし、っあんなよい歳をした大人のやることではない、恥を知れと云いたい、っただねえ、っそれこそ靴のノイズとか、ビニールのかさかさとか、パンフレットを団扇代わりにしてあおいでいるとか、っつまり完全に演奏に無関係のことならば、っぼくも直近にその人がいればやめてくれろと躊躇なく云えるのだが、オペラ・グラスはまあ演奏会の携行品として市民権を得てはいるし、拍を振るのも、っのべつ幕なしにド派手な振り幅でというのでないかぎり、っときおりほんのかすかに振るくらいのことは、、、っきょうの御仁はそうだったのだが、完全粛清すべきとまでは云えないように、っすくなくもぼくはおもう、っかく申す、っぼくも指先でほんのかすかにリズムを取るということがじつはないではないのだが、っただしその際には、腕を組んで手指を脇へ埋没せしめたその奥でとか、両手を膝上で重ねたその下の手でとか、っすなわちつい隣席の人にさえもぼくが指先でリズムを取っているということをぜったいに気取られないような仕方でする、指の腹で被服を叩くことにより、っごくかすかな衣擦れの音が発生してしまうかもしれない、っそれもぜったいにさせないような仕方でである、土台、音に合わせてリズムを取りたいという衝動は、っつまりは音楽にノりたいということである、っそういう自己満足ならば、脇へ隠した指先でリズムを取るだけでもおおきに達せられるはずである、っそれを周囲の人の視界に入るとわかっていて敢えて拍を振るというのは、っどうしたって幼稚な自己顕示である、っどうも、クラッシックというやつはヘタに高踏のものと映るせいで、いま演られている曲を俺は識っているんだぞ、っという自己主張を為したいという邪な気を、っある種の人をして起こせしめるようなところがあるのだ、フライング・ブラヴォーや拍手の類もその手合いであろう、っもう時効だろうから自白しておけば、っぼくもごく若くときは、本演目ではけっしてそんなことはせなんだが、アンコールで音が鳴り止むずっと以前から拍手を始めたりという罪業を犯したことが何度かあったものである、19、20歳のくそガキのやらかしたことと、っどうぞお嗤いいただきたく、



っさておき、演奏は、2曲ともにすばらしかったとおもう、坂入氏の棒は、技倆に勝れる団体を得ると、っよくもわるくも最大公約数的となり勝ちであるが、っぼくはなにもそれを振り解いて放埓に振る舞えなどと云わない、、、っや、っそうできるものならやってみてしまってくれたいが、っしかし、っとくになにもしていない演奏が、っそのとおりとくになにもしていないと聴こえたら、っそれはマズい演奏である、

、、、っううん、っこの云い種もなあ、お前がとくになにもしていないと安易に聴きすぐしている瞬間にも、指揮者もプレイヤーも刻一刻となにかしているんだよ、っとの諫言を喰いそうだが、っぼくはそれは半ば以上ウソだとおもう、っじっさい、漫然としてなんらの問題意識も発散しない演奏というのはある、演奏の現場の実情がどうであるかなどは知ったことではない、っその点でお客は、舞台人に対して卑屈な遠慮を有つべきではない、っいかに彼等が高度と称する問題意識を演奏の瞬間瞬間に動員していようとも、伝わっていなければ、っやはりつまらない演奏なのだ、っもちろん、っお客のひとりびとりにおいても、平素からありとある演奏の可能性へ能うかぎり胸襟を開いているという前提である、

っついでに云えば、鍛錬の結果として好悪を剋服しうるというのも、っぼくはウソにちがいないとおもう、っいつもの不謹愼な譬えだが、女といえば肥えているにかぎるという男にだって、瘠せぎすの女のファッション・センスの良否とかメイク・アップ術の巧拙だとかを判断することはでき、っその判断力をきょうにあすに刷新せしめることだってできる、っしかしいかな刷新を推し進めたところが、俺は肥った女がすきだ、っという彼の生理はあくまでもとどまるであろう、っそのときに、瘠せぎすの女の身形を詳細に把握しうることをあたかも自身の肥えた女への偏執と同列同等に語るとしたら、っぼくにすればむしろ彼氏は信頼のならない評者である、どこまで観察眼、判断力を研いても、やっぱり最後には肥った女がすきなんだけれどね、っとぺろっと舌を出して自白する人こそ、評価主体としてまさしく精確であろう、クラッシックのリスナーには、っどうかすると該博な人ほど、自身の馴染めない類の演奏でも、無下に斥けては己が聴体験の狭量を露呈するのではないかとて、片頰を引き攣らせつ、っぎこちない手附きでそれを褒めたような褒めないような扱いに処するといった挙措がしばしばみられる、っもっと生理に隨順すればよいのだ、スリムな彼女のファッション・センスは抜群、メイクもばっちり、でも俺はどうしても肥った女がすきだ、っと正面切って云えばよいのである、語り方において、判断力と生理的好悪とを截然と隔てる工夫を施しさえしていれば、っその弁別を解しない手合いは、っただ無視するのが至当である、っどこにでも他所をやっかむことそれ自身が目的化した愚輩はいるものである、っというよりも、ったいていの問題はそも構文と読解との未熟未達である、っみな短文の投稿などでよろしく国語を使役しえている心算が、っその実、世のいざこざの大半は、っぼくには単に書く側、読む側双方が日本語とその文法とに通じていないことから来ているとみえる、



駄弁だったが、楽聖では、両端楽章ともに展開の緊張緊迫が期せずして伝わる、絃の両翼はとくに前者において効果覿面で、っあのぎらつくような楽聖という人の不敵さを喉元へ突き附けらるごと、2楽章でもこの2声部の和音に眩惑を嘗めた、幸か不幸か、っぼくらの耳は浪漫派以降も近現代も知ってしまっている、音の要素のすくない古典派であれば、っほんの和音ひとつが清冽に鳴る鳴らないで、感銘は雲泥の差である、っとくになにもしていないという演奏がそれでもお客を満足させうるとしたら、っそうした音楽的の要素要素を抜かりなく叶えるということを、っその演奏はしているのにちがいない、



ブラームスも緊密な合奏で一貫す、紀尾井町で聴いた坂入氏の同《2番》はやや粗暴なテンションを頼るようで、ムラのある演奏だったが、っきょうはどこまでも物理音の集積として明晰でありつづけ、っちゃんと熱狂の抽象を聴いたという観がつよい、1楽章の再現からコーダまでなどはその好例で、っぞんぶんに熱しているが、っなお木管も金管も絃に包まれ、全体の響は颯爽として涼しいほどであり、高度のゆとりをもってして初めて可能な精華であろう、

2楽章は、っぼくがまたあの部分がすきなので、、、っすきというかアムビヴァレンツを喰むところがあるので、っそのおもい入れもあったかしれないが、泪とともに聴く、っすなわち終盤のティムパニを伴なってVnが迸るところである、っあそこは、っその手前の深い諦観の吐露もすばらしく、木管で音彩を加えつ連符で落下しながら当該部へ入ってゆく気分の変化も、っほんとうにブラームスという人をすぐ眞近に実感せずにいない、っそしてついにVnは、俺だって、朗らかな命を生られるものならそうしたかったさ、っという彼の老残の遠吼えを吼えるのである、次いでピッツィカートの足音をさせて楽章冒頭句をとぼとぼと降ってゆくクラリネットは、西陽を浴びるブラームスの哀しい背中そのものではないか、3楽章が屈託なく溌溂としているのが、っなお哀しい、

フィナーレは、澱みのない清潔な奏楽により、っともすると経緯不詳の憾のあるこの道程に一筋の見通しを立てた、途次、フリュートに独り舞台を演じさせるのは、っあるいは楽聖《エロイカ》を夢に見ているのかとおもうが、っあのように愉悦の極致に遊ぶことは叶わず、勝鬨を謳う英雄もおらず、っついに轟然たるトロムボーンによって組み敷かれ、運の苛烈の前に無慙にも斃れる、辛い終結である、最後まで冷徹な歩みのうちに踏破してこそ、っその痛みは聴く者のこころへ刺さって抜けないのであった、



っところで、っあした休みかよ、っずる休みから4連休になってしまった、っつぎの演奏会はまた坂入氏、N響とのショスタコーヴィチで、っこれが同響へのデビューでいらっしゃるのかな、佐藤雄一氏を聴けないのはざんねんなのだが、っその公演はYouTubeへupせられるものとおもわれる、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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小平、調布、




2連チャン演奏会、済む、

っいま調布の終演後、チャリンコで府中と東府中との間、旧甲州沿い南側にあるあの塩ラーメンが絶品のラーメン屋でじつにひさかたぶりに食事をして、

っこないだ三鷹試掘の帰り、直近の朝日町の整理作業所の黙々先輩、江戸時代ボス、野帳くんほかを訪ね、コンヴィニで購った駄菓子を差し入れて、油を売りがてら近世の遺物の接合作業へすこしく横槍を入れていたら、っもう常勤の作業員さんが見了えたものをひとつみごとにぼくがくっつけて、休憩時間になったのでいっしょにシガレットを服んで、聖蹟別棟へ戻る途次、想い出して前を走った際には、っざんねんながら午の仕込み中で、っしかし引いたカーテンの向こうに親父さんの横貌がわずかに見え、っお元気そうでなにより、っそれでいま食してきたが、っあいかわらず旨い、っここで食事をするときには、っいつも100mほど東府中へ寄った公園へ駐輪しておくのだが、っいまそこでシガレットを服みつ、

オバケが出そうな大嶽電機は取り壊されてしまっていて、っすでにして綺麗なマンションに建て替わっている、

っきのうきょうと、っなんと仕事を休んでしまう、っきのうあさ、6時ころにはいったん目覚めたとおもうが、っぼやぼやと2度睡をして起きると9時に10分前くらいで、ダメだこりゃ、っと体調不良ですと嘘八百メイルを残業ボスほか、っおよび本社へ送り、っずる休みしてしまう、っそれできょうも、っがんらい午前中のみ仕事をする心算が、っそのままつづけて休む、体感としてはしょっちゅう有給をもらって休んでいる気がするが、っぜんぜん消化できずにたくさん余っている、働き方改革はあきらかに悪法で、日本人はもっと馬車馬みたように働くほうが性に合っているとおもう、過労死などほんのほんのレア・ケイスなので、っその人たちを気遣うあまりに、労働者全般へ閑を半強制するとは、行政として安牌を頼りすぎの憾である、、、っずる休みするヤツの科白じゃないが、



っさておき、室から小平までの距離を甘くみており、12時ころやっとシャワーを浴び、12:30ころ出立して、器へ着いたのは13:45ころ、器自身に無料のものがあるとは知らず、っその手前の有料の駐輪場へ停めてしまったのが癪だが、自由席で、入場すると1階席のみ開放、前回公演は東府中だったか、っそのときもそうだったことを想い出す、っそれならばぼくとして厳密な位置取りは不要で、右寄り後方、2階の庇より手前にまだ良席が遺存していた、

っその小平は井﨑正浩氏の棒、ICUの学生オケで、アンコールも含めてオール・ボロディン・プロ、《中央アジアの、、、》、《プリンス・イゴール》の〈序曲〉〈ポロヴェツキ・ダンス〉、っそしてシムフォニー《2番》である、アンコールは識らない曲だったが、予期したとおり、っそれを演っても2時間におおきく足らず、済んで駐輪場まで来て15:35、調布の開演17時にはじつに余裕があり、っさほど急がずにムサコ、ムサコから崖線に沿って武蔵野、野川公園へ向かい、アメリカン・スクールの脇を通って調布飛行場へ出、調布の演奏会時にはいつも隠れて喫煙することにしている駐輪場へ着いたのは16:35、っきっかり1時間の道程であった、シガレット1本ののち入場、っぼくには不要だったが、マーラー《3番》は1楽章後に20分の休憩、



っまずは小平だが、ICUは、東大かどちらかで入学を迷う受験生もいるという名門のはずだが、学生オケはあまり巧くなく、去年いくつも聴いた学生オケのなかには、っもっとずっと勝れた団体がいくつもあった、っこれまでは古典派、っないしは浪漫派でも硬派な閥の作品をおおく聴かされてきたが、っきょうはぐっと時代を降ってボロディン、っといってもぜんぜん19世紀の人か、

アンサムブルはあいかわらず並以下、器も乾いていて粗を隠してくれないが、井﨑氏は恆のとおり丁寧な棒を振られ、打楽器を交えると音量音圧としてはぞんぶんに飽和し、テクニークの不足もまずまず誤魔化されうる、《2番》のシムフォニーは戸塚の楽団でも聴いたが、井﨑氏のお気に入りなのかもしれない、複雑な展開を有たず、動機を羅列せしめて、ロシア人がみようみまねでシムフォニーを書いてみました、っという程度の代物だが、木管群や低絃の扱いに〈ポロヴェツキ・ダンス〉とおなじ匂いがし、フィナーレで打楽器が加わると、っその音彩がたのしい、



調布のほうは佐伯正則氏の棒、彼氏はほかでもないきょうほんじつが50歳のお誕生日でいられ、っそれを祝すべく全国から参集したマンモス・オーケストラで、マーラー《3番》、佐伯氏は国立の出でトロムボーンを事とされ、っしかし25年ほど以前から指揮専業となられたとのことだが、器へ着くとN響トロムボーンの吉川氏らしきお顔もみえたから、斯界の一隅ではそれなりの著名人なのかもしれない、客席もほぼ満席であった、っこちらは指定席で、2階の右方に予め良席を得ておけたのもありがたかった、プログラムには楽員各位の平素の所属団体名が無数に記載せられているが、っそのなかにはぼくがこれまでに聴いたことのある団体、っことしこれから聴くこととなる団体も複数ある、

テクニークとしてはまずまずといったところで、っあれこれと細密な表情の差配は求めるべくもないが、曲の概観を提示しうるだけの腕はどのパートにもあったとしてよいか、佐伯氏も表情らしい表情はほとんどお示しにならず、っずっと拍をお振りだったが、1楽章の再現では終結へ向けた昂揚でなかなかに気骨溢れるアラルガンドを聴かせられたものだし、5楽章でも、ボーイズが地声をふんだんに遣わないのはざんねんだが、アルト・ソロを導くセロの部分ではやはりぐっと腰を落とすおもい入れぶりで、っのち、頂点にタム・タムを伴なう管絃の登坂の部分でも同様、っおそらくきょうが生涯で同曲初振りでいらしたのだろうが、っお若くときよりこの曲にあくがれ、演奏される日を夢にみてこられたというだけはある、

フィナーレはじつに入魂で、っさいしょの絃の主題には万感が籠っていたし、同主題をフリュート、オーボー、クラリネットがユニゾンする部分では、っぼくはまたこの部分をことのほか愛しており、聴きながらおもわずに涙腺が弛んだ、大団円は、金管、ティムパニはマイルドに融かし、絃のトレモロを燦然と閃かせる行き方で、っよくサマになっており、快い幕切れだった、

1楽章では最高の聴かせどころ、例のホルンのソロにコン・マス、、、っきょうはコン・ミスだったが、セロのソロ、木管各種が絡む部分で、っやはりそこへ入ってゆくときにずいぶんとテムポを落とし、っぼくにはそれがいかにもうれしかった、ハープは、っぼくは要所ではぽろんぽろんと大人しくしていないで、どぅるりんっ、っと粒のおおきな奏楽を聴きたいのであるが、っきょう観ていると、奏者はところによって、指ではなくピックのようなものを用いて弾いているようで、っそれによりグリッサンドがしばしば、びちびちびちびちっっっ、っとけたたましい音を発しており、っまことに痛快であった、

3楽章のポスト・ホルンは、っわざわざフィンランドから奏者を呼んであったようで、舞台袖でではなく、舞台へ出られて、コーラスとおなじ雛壇の奥へ坐して吹かれていたが、っこれが絶不調で、ったびたび音が出なくてしまったのには同情を禁じえない、っご当人、友人の晴れの舞台へ華を添えられなくてさぞかし落胆されたようで、吹き了えてがっくりと肩を落とされており、楽章終結とともに袖へ下がられ、終演後のカーテン・コールでもついに当礼へお出にならなんだ、

4楽章のニーチェを謳うアルトは花房英里子女史で、声量にはやや不足したようだが、っべつに吼え立てるような曲でもなく、っそれよりも濁りのないよい声質であり、堪能す、

終演後、何度めかに指揮者が舞台へ呼び戻されると、8本ホルンがひとりでにマーラー全曲冒頭句を齋奏し、っそれがおもむろに《ハッピー・バースデイ・トゥ・ユー》へ変容してコーラスとソリストとが唱和し、唄い了えるとマーラー1楽章終結となって、佐伯氏に花束が贈呈せらる、



仕事をずる休みしてこんなに遊んでいれば世話はない、



っさて、っあすは大船、坂入健司郎氏とアマチュアとの公演、N響の奏者連も幾人か参加されるようだ、切符はたしか無料であったとおもうが、っということは、っかの靴ノイズくそじじいが来訪する可能性大である、っとまれ、彼氏がどのあたりへ坐すかは知れているので、っそこからうんと距離を取った位置へ坐せばよいのである、

っいままだ府中の公園、っもう22:30になっちゃったや、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)