坂入健司郎氏の棒、浜松響公演、済む、
新幹線は浜松発19時すぎと終演後から3時間ほどもあるので、器を出て、っときおり小雨が降るなかシガレットを服みつづけて、1時間半ほどして駅ビル内の餃子屋へ入り、新幹線切符購入特典のクーポンを利用して食事す、っいまいま、浜松発、っあすも狛江古墳現場であさが早いのだが、
中プロはショスタコーヴィチであった、芥川《交響管絃楽のための、、、》、っまだ桐朋の修士へお通いだという若き水越菜生女史を招いてショスタコーヴィチ《Vnコンチェルト1番》、っそしてチャイコフスキー《5番》である、
アンコールにショスタコーヴィチ《タヒチ・トロット》が演られる前に坂入氏がぼくらの拍手を制してすこしくお話になり、初客演の浜松響は、リハーサルの始めから妙音を発し、っいままで呼んでもらったオーケストラのうちで最もすばらしい楽団だと感激したとおっしゃっていたが、っまあ世辞も半分だとしても、ったしかに、っぼくにとっても初めて聴く同響は、っとても好い音を出していた、アマチュアだろうと云ったが、純然たるプロフェッショナルではないだろうが、公益財団法人ではあり、誰でも彼でも入れるのではなく、オーディションを受洗する必要があるようだ、っそのアンサムブルは、精度としては鉄壁ではぜんぜんなく、ホルンなどのむつかしい楽器は単純なエラーとも無縁ではないが、音の質感、手応えがひじょうに快く、坂入氏ならずとも、っぼくとしてもかかるオーケストラの音がとてもすきである、
ショスタコーヴィチの前座へ置かれては、芥川氏も草葉の蔭で恐縮されているのではないかとおもうが、っその《交響管絃楽のための、、、》1楽章冒頭から、っあらゆる楽器がこれぞという強弱、音色で登場し、静かな曲だが、早くも役者が揃った観がある、音場も、大器へは初めて入ったが、高級で湿潤、残響の長い小器からすればとうぜんながらもっと乾き、各声部が粗野な音色でマルチに聴こえる、っそれがまた曲調によくマッチしており、中間部ではコール・アングレが出色のエスプレッシーヴォ、主題は絃へ渡り、横笛が彼方より孤独な風を運ぶ、
シムバルの一閃に始まる2楽章は、金管による主題提示からすでにして音量音圧として最善最適、っこの曲は、去年の末、井上キーミツと大阪音大の学生オケとの演奏で聴いたが、音大の学生だから一定以上の精妙を期待していたところ、っぞんがい練れておらず、1楽章は曲の静けさに囚われてみな内輪にふるまいすぎ、主張に乏しかったし、2楽章ははんたいに、キーミツによって起立せしめられて吹いたさいしょの金管からこんどはおなかいっぱいに吼えすぎてやかましく、っちぐはぐな悪印象を遺した、っきょうは弱音部を密度高く、強音部は颯爽ととまことに痒いところへ手が届き、ティムパニの硬い打音の快感もまたうれしい、
坂入氏のショスタコーヴィチのこのコンチェルトは、岡谷での郷古氏と新日本フィルとの共演が記憶に鮮やかだが、っきょうもまったくみごとだった、オケにとっても難儀至極な作品だが、浜松響は新日フィルにもけっして敗けていない、シロフォンを交える2楽章のまんなかやフィナーレ冒頭のような部分がきゃんきゃんとけたたましくなりすぎないのはほんとうに痛快で、っゆとりさえ感じさせたものだ、
ソリストの水越女史も、登壇されてまだ演奏が始まらずに準備をされている段からその所作や、準備が整って坂入氏へ向かって頷く頷き方に、女だてらというか男勝りというか、カルメンでも踊り出てきたのかという気風のよさが顕われており、これは鬼神かじゃじゃ馬か、、、っとぼくなど客席へいながらにして気圧されるような感触を味わったところ、っそのいでたちに違わぬ息も吐かせぬ語り口で、っあっと云う間に全曲がすっ飛んでゆく、深沈たる詠歎も、っすばしこい楽想の乱れ打ちも、刻一刻、万事に亙ってこれ以上これ以外にないという表情表現が極め盡されており、っそれを一心不乱に音化してゆく、っまたオケの音量感も器のトーンも一助にも二助にもなり、っどこのどんな個所であれ彼女の音が細大漏らさず聴こえつづける、っここでは全楽の司祭に徹してすこしくも我を出されない坂入氏はしかし、オケが漫然たる音量を発したのではソロを掻き消してしまうというところへ来ると、っかならず手で抑えるアクションをして、彼女を立ててあげて、っというふうでいられた、
フィナーレへは、無窮動の裡によくもまあというほど奇矯な感触の管絃楽法が詰め込まれているが、以上のオケ、ソリスト、音場という3条件が吉も吉、大々々吉と出て、っほんとうに、異界の夢魔に嬲られ、飜弄せられるかのような時間であった、
ソリスト・アンコールになにか静かなバロック、ショスタコーヴィチは、概観としてけったいな気がするが、っどうしてその筆致はぞんがい古典的であり、っあのような熱狂的の喧騒のあと、遠くそのバロックへ還って口直しとは、っまた憎いものである、
近現代ものは、っそも作曲家が管絃楽を極度に機能的に扱っているため、っちゃんと弾けさえすれば、オケのカラーはむしろおのずから定まる、っその点はチャイコフスキーこそむつかしいのであって、指揮者稼業には、っぜんぜんチャイコフスキーの色をしていないオーケストラとチャイコフスキーを演奏せねばならないこともあろう、っそんなことは2、3日の客演仕事のうちでは修整したりできる性質の問題ではない、訪ねていって挨拶をして、ではチャイコフスキーから、っと云って初めて音を出したときに、ああ、チャイコフスキーの色だ、っというそういう音がしたら、指揮者もどんなにか仕事へ身が入るか知れないが、今次、浜松響との初顔合わせの日、坂入氏の心境はそんなであったのだろうと拝察せられる、ったとえば、っことしはカーチュン・ウォン氏が日本フィルと同《4・5番》を披瀝されるのであるが、っぼくはいまや彼等コムビがとてもすきであり、日フィルの演奏能力への絶讚を惜しまないものの、っあのいつもの音がそのままチャイコフスキーで通用するかとおもうと、っそれへは無条件の信頼は置けない、チャイコフスキーを演るにあたってはこういう色、こういう感触を模索してみました、っというように新生面をみせてくれなくては、っそれら公演は眞なる成功は獲ないであろう、
っきょうの浜松響は、っほんとうに好い音だった、指揮者がなにをするまでもなく、、、坂入氏は相当度にいろいろなすっていたが、っただオケが鳴っているそれっきりで、っもうザ・チャイコフスキーなのである、去年、っあさ健康診断を受けた日、夕からの薩摩隼人たちとの呑み会までの閑潰しに上野へ聴きに行った、田代俊文氏と東大の学生オケとの同曲も、っまた彼等なりのカラーにしてそういう音でありそういう演奏だった、っとちゅうから、っもはやオーケストラの発する物理音を聴いているということを忘れてしまうのだ、
2楽章、イデー・フィクスに蹂躙せられたあと、㐧1テーマを唄う1stは、っいったいなんと素敵な音色であったことか、対位を吹くオーボーがなんと儚かったことか、
2楽章を結んで棒を下ろさないまま迎えるヴァルスの、流れるようなスマートさ、っそのなかでだんだんと遅れてゆくくらいにふっくらとゆたかに吹くファゴットの陶醉感、
フィナーレは快速に開始するが、指揮者がうんと念じて振ったりなぞせずとも、絃は奔流のごと波打つ、っまた1音1音きっぱりと音を切るテューバ等が、っこの主題の覇気をどれほどか際立たせているか知れない、バトンが木管連へ渡って、っとちゅうから絃バスが1拍毎、弾いては休み弾いては休みするところも同断、主部へ突入すると、㐧1テーマ中の例のオーボーの動機はリズムが巧い、ティムパニは瘠せぎすのロートルでいらしたが、っしかし3演目すべてでいつも硬い瞭然たる打音であり、っさらにはときに豪快な烈打をまでくれる、絃主体に天翔けるようであった田代氏に対して、っきょうの坂入氏と浜松響とはもっとそれら声部声部が縦横に精彩を発散するようであり、っついに燦然たるマエストーソを通過して、奏者が吹き切れないくらいの猛進で1楽章㐧1テーマも突っ切って了わる、
小雨にでも降られなければ、熱狂も冷めやらぬところである、
っさて、っいま南大沢の喫煙所にて、コイン・パーキングまで社用車の駐車代を更新しに寄ってから帰宅し、っあすあさってともうすこしく狛江の古墳現場、っお次の演奏会は土曜、井﨑正浩氏の、ブラームス《ドイッチュ・レクイエム》かなにかだったかな、っまた、っその日は井上キーミツの広島での京響公演の切符発売日なので、抜かりなく購っておかむ、
スイート・ポテト屋で購った芋けんぴ、っおいしい、