ざっかん記 -24ページ目

初台、




川瀬賢太郎氏の棒、名古屋フィル東京遠征公演、済む、

レスピーギ《トリニティ》で、《噴水》《松》ののち休憩、《祭》の演奏順であったが、近現代の管絃楽の機能性を縦横に聴かせるかかる演目では、聴く側として指揮者の音楽性を積極的に云々するのも躊躇われるものの、名フィルは、プロフェッショナルの楽団が数多に犇めく東京の楽壇へ果たし状を叩き附けるにじゅうぶん十二分の、っまさしく機能性満点の合奏を披瀝した、愛知県出身者のぼくとして、っまことに鼻高々である、っべつにぼくの貢献なんてなんにもないけれど、

川瀬氏は、っごく局所を除いては表情らしい表情はなにもお示しにならないで、3曲いずれでもずっと拍をお振りだったが、っぼくは概して中音量以下の静かな部分により惹き附けられた、名フィルは絃も木管も金管も打楽器も、ハープやピアノ等の特殊楽器もすべてがいつも明晰で、一寸した漸強弱や和音が丁寧に丁寧に掬われてゆき、《噴水》からどの場面もうっとりと聴き惚れる、っまた、初台のオルガンは東京周辺の他の主たる音場のものよりも分厚く豪壮で、っそれが淡麗なる管絃と相俟つ様は、っじつに一興である、っその絢爛を見送ってのち〈黄昏のメディチ荘、、、〉は長く長く尾を引いて消えてゆくが、っやはり弱音におけるしかし音々の質量と緊張感との保持こそは出色で、大勢お客の入ってほぼ満席もうれしい堂内は、っみなおもわずに息を呑んだのであった、



《松》以降、最強音がより甚大となると、流石にこの器では飽和し切ってしまい、ったとえばこの〈ボルゲーゼ荘、、、〉や〈アッピア街道、、、〉、っつづく《祭》の〈チルチェンセス〉あたり、っぼくは最大音量の裡にもいまひとつ多声的の妙味も見舞われたくおもったが、っどんなにつよく鳴っても、っこのおなじ器で聴いた尾高/PPTのエルガーみたように、音量の増減っきり伝わらないで音楽がいつまでも聴こえてこない、っという惨状へはけっして陥らないで、最後まで多彩なニュアンスを発散しつづけた、

っその最たる果実はもちろん〈ジャニコロ、、、〉であろう、主役のクラリネットは云うに及ばず、彼がひと節吹くたびにすこしく漸強してきて間を繫ぐ絃は情緒に濡れていちいちすばらしく、っのち楽器を殖やせば、フリュートも、セロも、ハープも、オーボーも、ピアノも、っみな夢幻境に綾成して瞬き、っこちとら陶然となる、鳥の啼声は場内のスピーカーから出ていたが、譜面の指定通りほんとうの鳥の声をテイプで流していたのか、っあるいは、楽器の音であるようにも聴こえた、楽器といって水笛の類ではなく、円筒形の木材がふたつ継ぎ合わされていて、回転せしめると木部が擦れ合ってきゅぴきゅぴと発音するあの系統の音である、っぼくはここの鳥の声は、テイプは使わずに、舞台上の打楽器奏者連が、水笛を中心とした楽器の音で表現するのが、音の質感として最もすきである、

〈アッピア街道、、、〉は、急くようなテムポの人もおおいが、ったっぷりと腰が据わって、っもちろんそのほうが快い、っこの曲は、っいまだ静かなうちをいかに内容ゆたかに聴かせるかが勝負であろうが、っきょうは朝靄を立ち昇らしめる絃も、コール・アングレの唄い方も、っそれとファゴットとの掛け合いも、怪しげなクラリネット連の重奏も、っそれが済んだあとから加わるオルガンのペダルによる重低音のつよめのバランスも、っすべてがたのしく、充実していた、大トュッティへ至って以降は、っあの飽和した音響ではどうしても3連目を絃主体に聴かせることができずにしまうが、っまあ致し方なかろう、



《祭》の〈チルチェンセス〉は、オルガン脇へ居並んだ4人のトロムペットのみで舞台上の大管弦楽が消され勝ちとなってしまうが、っこれもまあ致し方ない、っではあのファンファールを大人しく吹けというのもそれはそれでちがう、絃は、鳴りがわるいわけではもちろんない、〈50年祭〉はちゃんと熾烈に迸る、っこうした場面では、中央ヨーロッパの連中とは異なる、哀感もまた竹を割ったようにきっぱりとして健康であるイタリィの人の気質を実感しないわけにゆかない、

っついに〈主顕祭〉の乱痴気騒ぎも、名フィルにはいつも、っどこまでもアンサムブルの堅牢を崩すまいとする意識があり、っそれでいて必死に弾いた際にお客に与えてしまうあの窮窟さもなく、最後の最後まで高度のゆとり、余裕がある、っだから最終音まで駈け抜けたとき、痛快でもあり、爽快でもある、



川瀬氏は、ふだんはお話しはしないんですが、っとマイクを持たれ、日比氏のご勇退を告げられる、日比氏からもひとことあり、袖から花束を持って出られたのはなんと同フィルの主将のおひとりたる山本氏、っでアンコールのみ日比氏がきょうの若いコン・マスと席を替わられてマスカーニ《カヴァレリア、、、》間奏、01年のコン・マスご就任というから、っぼくがまだ田舎へいたころからだが、っあの往時ぼくが通った公演では、パヴェル・エレット氏やヴィーン・フィルから招いたライナー・ホーネック氏がトップへ坐していられることがおおかった、ったしかに日比氏がコン・マスをお務めであった記憶が遺っているのは、芸文センターでの定期で、先年物故せられた外山氏がアメリカ・プロをお振りになったときで、バーンスタイン《ウェスト・サイド、、、》〈シムフォニック・ダンス〉の〈マムボ〉において、客席のほうを向き直って口許へ手を当てられ、率先してマムボを吼えていられた姿が、っいま脳裡へ鮮やかである、湿っぽいお別れではなく、最後までにこにこしていられたが、名フィルのこの20余年のゆくたてをご覧になっていて、っこんにちのアンサムブルにはつよい自信を得ていられるのではなかろうか、っぼくとしても、彼氏という一角を喪っても、同フィルが今後もますますの清祥を遂げられると信じて疑らない、永年お疲れ様でしたと、衷心からなる労いを述べたい、



っさて、っお次はこの木曜から4連チャン、っそれも井上キーミツ、コバケンさん、コバケンさん、キーミツというこのおふたりの4連チャンなので、木曜は半日のみ仕事をして大阪行、っまずはキーミツの小曽根氏とのご共演、大阪フィル公演で、去年のキーミツのご療養で延期となったプログラム、翌日のコバケンさんは故・飯守氏の代役で関西フィルとの追悼公演、っもう1泊してコバケンさんを追って横浜へ戻り、彼氏と日本フィルとの公演、っそして日曜は池袋でキーミツと千葉の子供たちのオケとの公演である、休みのときほど疲れてしまうきょうこのごろ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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池袋、




井﨑正浩氏とコール・ミレニアムとの公演、済む、

演目はコーラス入りでシベリウス《フィンランディア》、レスピーギ《教会のステンドグラス》、っそしてブラームス《ドイッチュ・レクイエム》で、オケは去年、川崎でショスタコーヴィチ《9番》、吉松《5番》を聴いたアウローラ管、ブラームスのソリストは森谷真理女史、大沼徹氏であった、

アウローラ管は、っその川崎のときには絃が音量を出せず、細い印象だったが、っきょうはそうした不備はなかった、ったまさかコンディションの差なのか、器の差なのか、指揮者の差なのか、っそれはとにかく、2階の、っいつもは池袋では右側の1段高いブロックにするところ、っきょうは正面最前列右端であって、シベリウス開幕から背後のお客がビニールの音をしばしばかさかさいわせる、っかなりノイジーなレヴェルだったので、っつづくレスピーギでは流石に自分で気附いて自粛するかといったんは指摘しないでおいたところ、っそこでも収まらず、休憩で手洗いへ立ちがてら、恐れ入ります、演奏中にそのビニールの音をさせないようにご配慮いただけますか、っと申し出ると、相手は気の好さそうな老紳士で、手提げのビニール袋を手に握ったまま前半を聴いていたようであるが、すみません、気を附けます、っと恐縮されており、後半はよろしくノイズは収まった、っぼくの真後ろは空席で、老紳士の左隣へはべつのお客がいた、男性か女性かもよく見なんだが、っぼくの老紳士への諫言に、ありがとうっ、あんちゃんっ、っと内心で感謝したことだろう、っぼくからすれば、や、シベリウスが済んだ段階であんたが指摘しろよ、っというところで、っあらためて、勇気の不在はすでにして罪であるとおもわずにいない、っその点で、戰爭の時代も人に益するところはあろうと、敢えて云いたい、戰爭の時代には、っすくなくもいまのこんな時代よりかは、男は遙けく男らしく、女は遙けく女らしいにちがいない、男が好い男であり、女が好い女であるためにも、人類はときおり戰爭をするほうがよいとすら云ってしまいたいので、戰爭の時代を生きている者よりも好い面構えをしていないような人間に、反戰を叫ぶ資格なぞないと断じたい、っそういうことをちゃんと弁えていない者は、っぼくは非常識な人間だとおもう、戰爭は能うかぎり回避せられなければならない、っしかし、戰爭の時代を生きる人ほどの眞率な人生を、っそれ以外の時代の人々はけっして生きることができない、っこれは紛うかたなき眞實である、っそれこそ常識中の常識であろう、っだから戰爭の時代は、っまずは、っあくまでもまずはだが、っいっさいの批判を逃れて存るべきだ、戰爭の時代以外の人々が戰爭の時代、っおよびその人々へ致すべきは、っまず無条件の畏怖である、っそれがしかし常識として通用しないのだろうこんにちの日本を、国民の一個としてぼくはまことに歯痒くおもう、人よ、日本人としての常識を修身しようではないか、逞しくも、っしかしあたりまえの常識を、

っま、遠吠えはともかく、シベリウスからオケが想定よりもずっと練れていたので、っうれしく聴く、コーラスも頭っ数がおおく、無理にがなくらなくともちゃんとオケとの間で音量バランスが取れ、っやはりぼくのおもう管絃楽を伴なう合唱曲の音勢観とはこのようである、っせんじつのバッティストーニ氏のオルフのような人数ではぜんぜん足りない、っむかしながらの100人から場合によっては数100人規模のコーラスこそ、オケと渡り合うに相応しかろう、

渋く、温順なブラームスにレスピーギの燦然たる機能美が対比せられるのも快い、川崎での演奏会では絶えずアマチュアたるの限界を感ぜしめたアウローラ管も、っここでは見違えるように清新なアンサムブルを聴かせ、壮麗なるオルガンも交えて、音場はあたかも由緒ある大聖堂さながらである、

楽隊が一端一廉であるとき、井﨑氏の造形の細を穿つことは、っまこと偉大である、突飛なことはなにもなさらないが、恆に全楽が隈なく俯瞰せられており、合奏は清潔で、っしたがって糢糊たるブラームスもすっきりきっぱりと洗われて、ポリフォニーとしての情報量で勝負できている手応えがする、

っきょうはまた、声楽といい器楽といい、ティームとして全般に適材適所が万端整っており、っその井﨑氏の辣腕ぶりも否が応にも発揮せられずにいない、㐧1曲からVnが残らず休みっ放し休んでいるという鈍い音色観もなんのその、VaもVcも爽やかな発色で聴かせ、欝窟とは完全無縁、静謐なムードの裡にコーラスが導かる、

㐧2曲では調を遷移することによる気分の変化がどれもこれも如実に伝わり、っいま鮮やかに曲へ出逢い直す感動がある、

ソリストはバリトンが先陣を切るが、大沼氏はそのゆたかな声量に敬虔さを湛えつつも、母音であれ子音であれ、aの音がときに朗らかであり、っときに輝かしく、っときに格調を失しない程度にぎらつきさえして、宗教曲にあってしかし、単に謹厳実直へとどまる抽斗の僅少を逃る、

世上に名高い森谷女史を、怠惰にしてぼくはきょう初めて聴いたが、っなるほどその名声も肯ける演唱で、美声であるとの印象はかならずしも与えられなんだが、っしかし声楽もあの次元の息のコントロールをして初めて、自身の声を完全に器楽的に陶冶し切ることができるのにちがいあるまい、

管絃楽は、井﨑氏が本公演へ懸ける意気込みをご表白なすった文章でもきょうのプログラムの解説文でも、同曲へはコントラ・ファゴットとテューバとがともに用いられ、っそうした楽曲は彼のシムフォニーのうちにも1曲もないことに言及せられていたが、っさらには高音へもピキェロが動員せられ、っさてはハープ、オルガンまでもが加わり、っすなわちブラームス史上最大編成であるわけで、っその広範な音域の効果を十全に発揮せしめることがつよく企図せられていたようで、作曲時点ではいまだ楽器の機能外であったという絃バスの最低音の持続などは、隨所でこちとらの耳を捉えずにいなんだ、

㐧1曲からしてVnを欠くというこの曲特有の音色観は、単にブラームス一流の趣味というにとどまらず、彼が作曲にあたって遠くバッハや、っさらに以前のシュッツ等へ範を採っていたことに由来するのらしいと、っきょうよくよく諒解できた、ったしかにそれら太古の作家の曲へは、声楽の伴奏群が中低音域楽器のみという部分がしばしば見受けられるところである、っしかしいっぽうでは高音域も最大限に拡充する、っその筆致は、っいまだ《1番》シムフォニーを書かない以前の若きブラームスなりの温故知新なのだろう、



っさて、っお次は月曜、初台にて名古屋フィルの東京遠征公演、棒は川瀬氏で、レスピーギの《トリニティ》である、同コムビの進境を占うべく、彼等が本拠におくハイドン、マーラーの動画を購入して視聴してみたが、誠実、名フィルのアンサムブルもあいかわらずすばらしいものの、衒わぬ正攻法が面白みの不足へも繫がると酷に聴きたくもあり、っただ生真面目たることを脱して、無碍なる自在感をまで発散せられたくおもう、1stのフォアシュピーラーはあの豪傑的のいでたちも懐かしい日比氏でいられるらしく、彼氏の定年前最期の公演とのことで、っその勇姿もまたしかと観届けたい、

っそれから、っきょうは井上キーミツの京響との福山での公演の切符発売日だったが、、、っそうだ、っきょうは、っきょうも午前のみ仕事をして池袋行とおもっていたのだが、っゆうべ洗濯機を回したまんま睡てしまい、、、っしばしばというか、っほぼまいかいそうで、起きてからやっと浴室乾燥機を回して干すのだが、っこんどがまた洗濯機が破裂するほどの大量の洗濯物で、起きたのが遅く、干してかつ身支度をして着替えを見繕って背嚢へ入れてとやっているには心許ない時間っきりなく、っまたきょうは雨の予報でもあり、出勤時か、午まで仕事をしてから聖蹟の駅へチャリンコで移動する間に雨に降られるのもイヤで、っきのう石川サユリストさんへは、あすもあさだけ出勤します、っと云ってあったのだが、やっぱり休みます、っとメイルを打って、午まで閑になった時間をPCによる音盤吸い、iPhoneへの同期に充てて、傍で切符を取る、10時発売とおもい做していたところ、っぴあではそうかもしらんが、器のサイトでは9時発売で、1時間遅れで購入へ進む、っしかし心配は無用で、っどこの器でだろうとたいがいおなじ、っまいどおなじみぼくの㐧1希望、2階右翼のバルコニーは、有料会員向けには1週以前に発売となっていたにも拘わらずぜんぜん売れておらず、っよろしく最前列、最通路寄りの最も好位置だろう席を獲る、っぼくならば眞っ先にそこらを狙いにゆくところだのに、っほかの人等が同附近へほとんどまったく食指を向けないとは、不可思議至極だ、試みに同器で開催のアルミンク氏と広響との《アルペン》などの売れ行きを閲覧してみても、っやはり同附近はほぼ手附かずの状態である、舞台へ死角ができてしまわないのならばなおのことそうだが、2階では正面席よりもバルコニーのほうが視覚としても音響としてもぜったいに好条件のはずである、っそれだのにバルコニーよりも先に正面席のほうがちらほらと売れ始めるというのは、っほんとうにほんとうに不可思議だ、っいったいぜんたい、っみなどういう目と耳をしているのか、

っとまれ、っあさって初台、っそうだ、っこの名フィル東京遠征は、音盤にもなったいつかの坂入氏とのものを聴きに行かむとして、京王の人身事故で聴き逃したのだった、っこんどはそんなことになりませんように、



みずの自作アルヒーフ

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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浜松、




坂入健司郎氏の棒、浜松響公演、済む、

新幹線は浜松発19時すぎと終演後から3時間ほどもあるので、器を出て、っときおり小雨が降るなかシガレットを服みつづけて、1時間半ほどして駅ビル内の餃子屋へ入り、新幹線切符購入特典のクーポンを利用して食事す、っいまいま、浜松発、っあすも狛江古墳現場であさが早いのだが、



中プロはショスタコーヴィチであった、芥川《交響管絃楽のための、、、》、っまだ桐朋の修士へお通いだという若き水越菜生女史を招いてショスタコーヴィチ《Vnコンチェルト1番》、っそしてチャイコフスキー《5番》である、

アンコールにショスタコーヴィチ《タヒチ・トロット》が演られる前に坂入氏がぼくらの拍手を制してすこしくお話になり、初客演の浜松響は、リハーサルの始めから妙音を発し、っいままで呼んでもらったオーケストラのうちで最もすばらしい楽団だと感激したとおっしゃっていたが、っまあ世辞も半分だとしても、ったしかに、っぼくにとっても初めて聴く同響は、っとても好い音を出していた、アマチュアだろうと云ったが、純然たるプロフェッショナルではないだろうが、公益財団法人ではあり、誰でも彼でも入れるのではなく、オーディションを受洗する必要があるようだ、っそのアンサムブルは、精度としては鉄壁ではぜんぜんなく、ホルンなどのむつかしい楽器は単純なエラーとも無縁ではないが、音の質感、手応えがひじょうに快く、坂入氏ならずとも、っぼくとしてもかかるオーケストラの音がとてもすきである、

ショスタコーヴィチの前座へ置かれては、芥川氏も草葉の蔭で恐縮されているのではないかとおもうが、っその《交響管絃楽のための、、、》1楽章冒頭から、っあらゆる楽器がこれぞという強弱、音色で登場し、静かな曲だが、早くも役者が揃った観がある、音場も、大器へは初めて入ったが、高級で湿潤、残響の長い小器からすればとうぜんながらもっと乾き、各声部が粗野な音色でマルチに聴こえる、っそれがまた曲調によくマッチしており、中間部ではコール・アングレが出色のエスプレッシーヴォ、主題は絃へ渡り、横笛が彼方より孤独な風を運ぶ、

シムバルの一閃に始まる2楽章は、金管による主題提示からすでにして音量音圧として最善最適、っこの曲は、去年の末、井上キーミツと大阪音大の学生オケとの演奏で聴いたが、音大の学生だから一定以上の精妙を期待していたところ、っぞんがい練れておらず、1楽章は曲の静けさに囚われてみな内輪にふるまいすぎ、主張に乏しかったし、2楽章ははんたいに、キーミツによって起立せしめられて吹いたさいしょの金管からこんどはおなかいっぱいに吼えすぎてやかましく、っちぐはぐな悪印象を遺した、っきょうは弱音部を密度高く、強音部は颯爽ととまことに痒いところへ手が届き、ティムパニの硬い打音の快感もまたうれしい、



坂入氏のショスタコーヴィチのこのコンチェルトは、岡谷での郷古氏と新日本フィルとの共演が記憶に鮮やかだが、っきょうもまったくみごとだった、オケにとっても難儀至極な作品だが、浜松響は新日フィルにもけっして敗けていない、シロフォンを交える2楽章のまんなかやフィナーレ冒頭のような部分がきゃんきゃんとけたたましくなりすぎないのはほんとうに痛快で、っゆとりさえ感じさせたものだ、

ソリストの水越女史も、登壇されてまだ演奏が始まらずに準備をされている段からその所作や、準備が整って坂入氏へ向かって頷く頷き方に、女だてらというか男勝りというか、カルメンでも踊り出てきたのかという気風のよさが顕われており、これは鬼神かじゃじゃ馬か、、、っとぼくなど客席へいながらにして気圧されるような感触を味わったところ、っそのいでたちに違わぬ息も吐かせぬ語り口で、っあっと云う間に全曲がすっ飛んでゆく、深沈たる詠歎も、っすばしこい楽想の乱れ打ちも、刻一刻、万事に亙ってこれ以上これ以外にないという表情表現が極め盡されており、っそれを一心不乱に音化してゆく、っまたオケの音量感も器のトーンも一助にも二助にもなり、っどこのどんな個所であれ彼女の音が細大漏らさず聴こえつづける、っここでは全楽の司祭に徹してすこしくも我を出されない坂入氏はしかし、オケが漫然たる音量を発したのではソロを掻き消してしまうというところへ来ると、っかならず手で抑えるアクションをして、彼女を立ててあげて、っというふうでいられた、

フィナーレへは、無窮動の裡によくもまあというほど奇矯な感触の管絃楽法が詰め込まれているが、以上のオケ、ソリスト、音場という3条件が吉も吉、大々々吉と出て、っほんとうに、異界の夢魔に嬲られ、飜弄せられるかのような時間であった、

ソリスト・アンコールになにか静かなバロック、ショスタコーヴィチは、概観としてけったいな気がするが、っどうしてその筆致はぞんがい古典的であり、っあのような熱狂的の喧騒のあと、遠くそのバロックへ還って口直しとは、っまた憎いものである、



近現代ものは、っそも作曲家が管絃楽を極度に機能的に扱っているため、っちゃんと弾けさえすれば、オケのカラーはむしろおのずから定まる、っその点はチャイコフスキーこそむつかしいのであって、指揮者稼業には、っぜんぜんチャイコフスキーの色をしていないオーケストラとチャイコフスキーを演奏せねばならないこともあろう、っそんなことは2、3日の客演仕事のうちでは修整したりできる性質の問題ではない、訪ねていって挨拶をして、ではチャイコフスキーから、っと云って初めて音を出したときに、ああ、チャイコフスキーの色だ、っというそういう音がしたら、指揮者もどんなにか仕事へ身が入るか知れないが、今次、浜松響との初顔合わせの日、坂入氏の心境はそんなであったのだろうと拝察せられる、ったとえば、っことしはカーチュン・ウォン氏が日本フィルと同《4・5番》を披瀝されるのであるが、っぼくはいまや彼等コムビがとてもすきであり、日フィルの演奏能力への絶讚を惜しまないものの、っあのいつもの音がそのままチャイコフスキーで通用するかとおもうと、っそれへは無条件の信頼は置けない、チャイコフスキーを演るにあたってはこういう色、こういう感触を模索してみました、っというように新生面をみせてくれなくては、っそれら公演は眞なる成功は獲ないであろう、

っきょうの浜松響は、っほんとうに好い音だった、指揮者がなにをするまでもなく、、、坂入氏は相当度にいろいろなすっていたが、っただオケが鳴っているそれっきりで、っもうザ・チャイコフスキーなのである、去年、っあさ健康診断を受けた日、夕からの薩摩隼人たちとの呑み会までの閑潰しに上野へ聴きに行った、田代俊文氏と東大の学生オケとの同曲も、っまた彼等なりのカラーにしてそういう音でありそういう演奏だった、っとちゅうから、っもはやオーケストラの発する物理音を聴いているということを忘れてしまうのだ、

2楽章、イデー・フィクスに蹂躙せられたあと、㐧1テーマを唄う1stは、っいったいなんと素敵な音色であったことか、対位を吹くオーボーがなんと儚かったことか、

2楽章を結んで棒を下ろさないまま迎えるヴァルスの、流れるようなスマートさ、っそのなかでだんだんと遅れてゆくくらいにふっくらとゆたかに吹くファゴットの陶醉感、

フィナーレは快速に開始するが、指揮者がうんと念じて振ったりなぞせずとも、絃は奔流のごと波打つ、っまた1音1音きっぱりと音を切るテューバ等が、っこの主題の覇気をどれほどか際立たせているか知れない、バトンが木管連へ渡って、っとちゅうから絃バスが1拍毎、弾いては休み弾いては休みするところも同断、主部へ突入すると、㐧1テーマ中の例のオーボーの動機はリズムが巧い、ティムパニは瘠せぎすのロートルでいらしたが、っしかし3演目すべてでいつも硬い瞭然たる打音であり、っさらにはときに豪快な烈打をまでくれる、絃主体に天翔けるようであった田代氏に対して、っきょうの坂入氏と浜松響とはもっとそれら声部声部が縦横に精彩を発散するようであり、っついに燦然たるマエストーソを通過して、奏者が吹き切れないくらいの猛進で1楽章㐧1テーマも突っ切って了わる、



小雨にでも降られなければ、熱狂も冷めやらぬところである、



っさて、っいま南大沢の喫煙所にて、コイン・パーキングまで社用車の駐車代を更新しに寄ってから帰宅し、っあすあさってともうすこしく狛江の古墳現場、っお次の演奏会は土曜、井﨑正浩氏の、ブラームス《ドイッチュ・レクイエム》かなにかだったかな、っまた、っその日は井上キーミツの広島での京響公演の切符発売日なので、抜かりなく購っておかむ、

スイート・ポテト屋で購った芋けんぴ、っおいしい、



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《襷  ータスキー》(4)

 

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浜松着、




10:20ころで、件のとんかつ屋は、地図アプリケイション上では12時開店とせられているが、グルメ・サイトなどを当たると11:30だとある、っいずれまだ時間があるので、っいったんそこを行き過ぎた先の公園でシガレットを服む、11:30ころに戻るとすでにして暖簾が出ており、店内へは数人のお客がいる、

先になにかつまみながらビールを1本空け、次いで定食をとおもうが、かにコロッケ、っと云うとぶっきらぼうな女将から言下に、あ、ない、っと斥けられ、詮なくロースの、前回は奮発して松を頼んだが、っすばらしく美味ではあるものの、っあまりにも上質の肉は脂がふんだんであり、嚙まずとも融けてしまいそうである、っやはり貧乏人にとっての肉とはがしがしぎしぎしする歯応えであり、下位のものを頼めばそれが得られるにちがいないときょうはおなじロースの竹を頼むところ、正解で、柔らかさと肉の繊維質との綜合がまことに快かった、



っそれで、前回も寄ったそのおなじ通りにあるスイート・ポテト屋でまた甘味を求めて、っいま会場前まで来る、前回の坂入氏公演は小器、今次は大器、前回は自由席なので列へ並んで良席を押さえる面倒があったが、今次は指定席にて、っおそらくザ・ベストの位置だろう2階右翼バルコニーの1席を購っておいた、自由席は、自由といえば聞こえがよいが、っしかしお客お客の人生の時間時間を奪う催事の開催方法である、指定席であれば、各人とも任意の時間に会場入りすればよい、世のすべての催事が指定席開催であってくれたらとおもわずにいない、

浜松響は、YouTubeに演奏の動画がいくらも上がっており、井﨑正浩氏や松岡究氏等と共演されている、合奏精度からいってアマチュアであろうが、っそれほど下手ではないだろう、

っきょうの演目は、ったしか劈頭に芥川《交響管絃楽のための、、、》、メインはチャイコフスキー《5番》であったかとおもうが、中プロは知らない、公演当日でも演目をよく把握しないままに会場入りするということが、っぼくはすきである、寄席では、っお客はひとりびとりの演者がどんな根多を披瀝するかを知らないまま木戸銭を払い、演芸をたのしむ、クラッシックの演奏会も、っどこかでそういうことをやらないだろうか、当の当日までなにが演奏せられるのか一切の発表をせず演者の顔ぶれのみを周知し、プログラム冊子へも演目を書かずに、現に演奏が始まってみるまで曲がわからない、っそんな公演があったらすばらしくたのしいだろう、



っはてさて、っあと半時間ほどで開演、



みずの自作アルヒーフ

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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惜しいっ、




っじつにっっっ、

アンヌ・ケフェレック/上岡敏之/新日本フィル、楽聖《1番》コンチェルト、シューベルト《ザ・グレイト》2日目、済む、

っや、コンチェルトもシムフォニーも、っきのうに勝るすばらしい演奏だった、っしかし、ケフェレック女史がフィナーレのあのまんなかのチャーミングな主題の中途で楽譜が飛んでしまわれ、っとつじょとして数小節先まで遷られ、オケは当惑、っただ、上岡氏はわりに冷静で、っどうとか復帰せむとする絃の面々を、や、無理に戻ろうとするとかえって創口を拡げるからしばらく休んでいて、っと両手で制され、オーボー1番へ向かって、ここだよっ、わかるねっ、っと彼氏が吹く2拍前にするどく刺すように棒を向けて待機し、丁寧に予備拍を示して招じ入れ、全楽は辛くも復旧した、っその後の上岡氏は曲尾まで、ソロに対してまで親切に棒を振られており、っお人柄がよく出ていた、終演後、錦糸公園のJRガード下へ隠れてしばらくシガレットを服んでから、っいま駅まで戻ったが、っちょうど器の楽屋口前を通るときに女史が出て来られるところで、崔氏と抱擁して挨拶をなすっていた、っご当人としても痛恨というところであろう、

っしかし、っそれを除いてはほんとうに稀代の大演奏であった、っきのうは、抑制せられたホルンやトロムペットがやや吹きにくそうに窮窟な音をさせる嫌いがあり、っきょうも指揮者が中音量以下で開始したいシューベルトの全曲冒頭などはややその気味だったが、コンチェルトでは、1楽章のオケのみによる主題提示から、両者ともきのうよりもかなりキャラクタリスティックに瞭然と吹いており、っしたがって覇気漲る雄渾の響がする、っもちろん、っゆうべのバッティストーニ氏のような乱暴な力自慢ではなく、トュッティを収めた際の残響はあくまでも豊麗芳醇、っそして、っそこへいつも仄暗い翳りを帯びるのが、上岡敏之一流の音色、音の膚触りである、

っこれに導かれて登場するソロは、女史の境涯を映して曇りなく澄み渡り、オケのひびきとの間に妙なる対照をつくる、っきのうもきょうも2階正面の3列目、っきのうは左寄り、っきょうは右寄りだったが、っきょうのほうがピアノの音がよりクリアに聴こえ、左右の手の音の動きも等しく眼に視えるごと無碍に浮沈す、

フィナーレの件のトラブルに見舞われた主題は、敢えてどたどたとワイルドな足並みと強勢とでそこへ入ってゆくのが、楚々たるケフェレック女史の造形としては意想外だが、っつよく弾いてもそうだし、っふた節目で弱音へ落としても、っいずれもやや音型のチャームを殺ぐようにおもわれ、っぼくはこの主題はずっところころと小粒を揃えて転がしつづけるように弾くほうが楽想に似合わしいとおもっている、っそれにしても、っこのフィナーレへこの主題のあるなしで、全曲の印象はがらりと変わろう、楽聖その人の抱き締めたくなるような人懐こさよっ、



シューベルトは、ザ・グレイトとは名ばかりに、朗々とというよりはむしろおずおずとホルンふたりが吹いて始まる、っほとんど囁いているような、呟いているようなmpは、唄っている間にほんのかすかかすかに強弱や音のエッジを立てる立てないを操作せられる、っそれはすでにして高踏なる意匠であり、っそれだけに、奏者にはもっと万全の演奏能力とコンディションとを求めたい、活況著しい日本楽壇も、ホルンが滅多には吹き損じをやらずに安定している、っというのは、っなかなか越えられない最難関のハードルであるかもしれない、っそれと、っふぉーふぉーとばかり大人しく吹いていないで、隙あらばゔぉーゔぉーと吹く逞しさこそ、っあらまほしきことにちがいない、

っそれはとにかく、1楽章も主部へ入る前からもはや他の誰とも肖ていない別世界であり、波瀾万丈である、高絃のピッツィを背景としたヴィオラのアルコは、っあれはけっしてふかい音色で唸らせるというのではない、っもっと独得の手筈である、

主部では展開っっっ、入りからして絃全員のアルコをはっとせしめるようにfpしたかとおもえば、最弱音の裡に声部間の主題のリレーを追ってゆく、フィナーレにも同様の表現が聴かれたが、っその緊迫感は悪魔的で、コワいくらいにスリリングである、

終結部の全軍による冒頭主題の再現も、っもちろん音々へべったりと足裏を附けるのでなくさばさばと進み、強勢も快音の範囲へとどめる、っだから管が主題を担うときと絃が全員でユニゾンするときとの質感がともに鮮やかに発色し、ったがいに好対照を演じ合い、オーケストラというものが具えている機能が眼前に全開す、っついにトロムペットとティムパニとが豪傑のリズムを鳴らす終結句はヒロイズムの極致だが、っしかし途端に漸弱の裡に霧消し、謎めいた残響を棚引かせる、

2楽章は、跳ね弓放題のかるいかるい絃の上へオーボーがやはりさっぱりと乗って主題が運ばれてくる、っこういう造形がいちばんうれしい、っこんな主題をのんびりと歌へ浸っているばあいでないのは至極とうぜんであろう、ティムパニを交えて絃がフォルテで応ずる際にも、音がぞんぶんに跳ねていてこそ、和音が刃のごとこちとらの胸を貫くのである、っそしてその刃は、っくるしい登坂の頂においてついにぼくらへ致命傷を見舞う、

3楽章ではトリオ、っきのう聴いていて、人生の憂愁が胸へ迫って堪らなんだ、あ、なに、こんなに好い曲なの、ってなもので、っきょうもせつない心境でそれら音々を見送る、

フィナーレは、っきょうは開始から奔馬のごとなにか手の附けられない疾走感が出来し、指揮者もオケも夢中で頁々を追う、っもちろんそれでこそ極度の集中力を発散し、上記のとおりはらはらせしめる展開のスリルを經て、一気呵成に終結まで突っ切る、最終音の漸弱解釋は1楽章以上にオーヴァーで、っすぐさま弱音へ落としてそれをさらに最弱音へまで絶え入らしめて結ぶ、



っなるほどこの2曲を同日に演ると、㐧2拍への強勢という共通項が浮かび上がって興味深かったが、演目として、っあれは去年か、一昨年か、去年か、故ラルス・フォークト氏の代演で上岡氏がやはり新日フィルを振られた若手おふたりとのモーツァルト《フリュート&ハープ》コンチェルト、田部女史との楽聖《4番》コンチェルト、ブラームス《2番》シムフォニーという、2時間半におよぶ盛り沢山の公演がおもい返された、っあの楽聖もほんとうに異界から鳴っている音楽のようだったし、っやはりやはり他の誰とも肖ていなんだブラームスでは、っちょうどあのときにも2日目の3楽章トリオにおいて、Vnの数人が休みの小節数を数え間違うというエラーをやった、っあのような刺戟的のアヴァンテュールには、っいつの日も失敗が附きものであろう、



っさて、っあすは浜松日帰りにて、坂入健司郎氏と浜松響との公演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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っきのう、




N響の下野竜也氏との《DQ》のコンサートのテケツが売り出したので、購う、

っふだん複数の楽団が《DQ》の公演を行なっていても行こうとしないぼくがこれを購った理由はほとんどひとつ、っほんの1小節がどのように演奏せられるかをたしかめたいからである、っすなわち、演目は《Ⅲ》のスート全曲を含むのだが、87年N響録音版による演奏だとある、っいったい、っこの但書がどの程度、厳密であるのか、っなんとならば、っそのN響による音盤へ録音せられた音には、出版せられている譜面と異なる部分が認められるからである、

《DQ》の管絃楽版スート音盤の演奏団体は、実質としてN響である東京絃楽合奏団を興りとし、N響、ロンドン・フィル、都響と変遷し、各団体で重複して収録しているスートも複数あるが、っその重複している際、後年に収録せられた盤には、ゲイム自身のリメイクに合わせて新たに作曲せられた楽曲が含まれていたり、既存の楽曲でも、先行音盤では行なっていたリピートをカットしたり、っある部分をオクターヴ下げて演奏したりといった変更がみられる、っそのうち、っあきらかに作曲者であるすぎやま氏ご自身の創意、判断によるとわかるものはよいのだが、N響による音盤には、《Ⅲ》にも《Ⅳ》にも、作曲家発信なのか楽員からの進言なのか判じ兼ねる変更が複数あり、オクターヴの上げ下げ程度ならばまだしも、《Ⅲ》の終曲〈そして伝説へ...〉に至っては、っついに音型までもが改変せられている、っすなわち冒頭のファンファールが最後に急速なテムポの裡に再現してくるその直前の1小節がそれであり、Vnのアルコが出版せられているスコアとはちがう音を弾く、出版譜が元のままで、っその後のロンドン・フィル、都響による音盤でもその譜面どおりに演奏せられているところをみると、っこの改変はおそらくはすぎやま氏ご自身による発案ではなく、純クラッシックの楽曲ではなくゲイム音楽作曲家の新曲だからと増長したN響のメムバーが、こっちのほうが効果的じゃないですか、っなどと提案し、っそれが採用せられたという経緯ではないかと、っぼくはむかしから想像している、ったしかに、っその改変はなかなかに効果的ではあるのだが、

っこんかいのコンサートにおいて87年N響録音版というとき、単に後年の他団体による音盤には含まれている新曲は除外し、出版譜のとおりに演奏するということなのか、音盤の収録中に盛り込まれた改変まで含めて忠実に再現するということなのか、ったかが1公演のためだけにそんなマニアックなこだわりが実践せられるともおもわれないから前者の可能性が高いとおもうが、っもしも後者であったら、っその心意気がとてもうれしい、っともかく、っその〈そして伝説へ...〉のファンファールが再現する直前の1小節を聴き届けるほとんどそのためだけにでも、っぼくにとっては聴く価値のある公演である、黄金週中で、直前には坂入健司郎氏の棒で同響を聴くことになるので、中数日を置いて指揮者と器とが変わった際の彼等のひびきの変化にも注目したい、



っさて、錦糸町、



みずの自作アルヒーフ

 

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ギロッポン、




バッティストーニ/東京フィル公演、済む、

演目はレスピーギ《リュートのための、、、》〈㐧2スート〉、オルフ《カルミナ・ブラーナ》であったが、率直に云って、っぜんぜん期待外れであった、終演後、っほぼ満席の堂内は大沸きに沸いていたが、こいつら全員、目も耳も節穴なのじゃないのか、、、っとこちとらまったくとっ白けてしまう、っこの虚しさはちょうど、っあの原田/関西フィルのヴェルディ、サイ、吉松や、尾高/PPTのエルガーを聴いたあとの気分と肖ている、要すれば皮相な空騒ぎであったということだ、上岡敏之氏の複雑微妙な秘儀奥儀を拝んだ直後だけに、っもう演奏中途から、っというよりレスピーギも全体に、オルフも極端に云えば㐧1曲が開始した瞬間から、音を聴いていることがひたすらの徒労とおもえてならなんだ、演奏を見限ったら中座できる人は偉大だとおもう、っぼくなどまことに情けないことに、っそれでも終演まで席へいたのである、

東フィルのアンサムブルも、実演では数年前に井上キーミツとの共演を聴き、音盤も近年録音のものを聴いているが、っいずれも、っなんというかプラスティックで他所他所しい膚触りの印象で、っそれは今次も変わらない、絃など、っあまりにもひとりびとりが近似せる周波数で弾けてしまっているからだろうか、5部がみな1人ずつで弾いているかのようなきもちわるいほどの音の統一感であり、実演の音場へ居合わせているのに、いまそこで生身の人間たちが演奏している、っという手応えがぜんぜんしない、っぼくのときどきいわゆる、AIオーケストラというものがあったらこういう音を出すだろう、っというそういう音で、っそれはきょう日のオーケストラの通弊にちがいないのだが、っしかしたとえば日本フィルの音は、っけっしてそのようではない、彼等の合奏もこんにちとても精妙だが、生硬な人造音のごと空々しさはまったくしない、っこの譬えで伝わるなら、東フィルのアルティキュレイションはAI、、、っこのAIはアドビ・イラストレイターね、っで引いたパスみたようにどこまでいっても線幅が完全に均一の描線である、日フィルはそれと同様のうつくしい線を鉛筆による手描きで実現するのだ、っおなじ精妙でも、っこの両者が与える印象の落差は甚大である、っさっきレスピーギを聴いていて、っしばらくピッツィカートだった絃が初めてアルコになったとき、っその音の、っなんというか顔のなさ、虚ろさ、絃のみで満堂がやや不快に飽和するような無駄な音量感、っそれを憾みにおもっていると、っこんどはフリュートがひびきや音色をこだわらずに安易に音の輪廓を頼るようなソロを聴かせたりし、3曲目かなにかでは、っまた絃が眞に指の先まで神経を通わせ切らない無趣味なフラジオレットで白けさせたりす、4曲目の最後ではこの絃に金管も加えて典雅な曲想に相応しからぬ音量自慢で、っかなり幸先がわるい、

オルフは、冒頭から指揮者の粗暴さ全開で、オケは巧いので音は濁りこそしないが、力づくの音圧が頭っ数のすくないコーラスを完全に掻き消して始まる、っぼくのおもっているこの全曲冒頭の音勢バランスは、オケは角を矯めぬ程度にいずれの声部も自然なフォルテにとどめ、っあくまでもコーラス主体に聴こえている状態である、っきょうのコーラスは、総勢がすくないうえに女声男声の人数にほとんど差がなく、っしたがってとくにはじめのうち、彼女等の高音の煌めきや剣のある生気が、男声とともに唄うときにも、っまたオケがほんのすこしくつよい音を鳴らしたっきりでも、っいずれも消され勝ちとなる、っだいいち、っどうしてもどこの団体も深刻に、深刻にといってわるければ眞剣に唄ってしまうのがこの曲である、っいつも謂うようにぼくはこの曲は全編これ戯画だとおもっており、運の苛烈を謳う㐧1曲にしたって、っあっけらかんとあかるい発声で唄ってしまってくれたいとすらおもっているのだ、っかかる小曲の羅列には、極端な強勢や音色をダルへ傾斜させ勝ちとなる表情の濃密などは禁忌であり、全体を腰のかるい淡泊な表現と発音とで進めながら、要所では抜かりなく牙も爪も剝くというふうであってくれたい、バッティストーニ氏はほんの㐧1曲からして、アンバランスの潰れた音塊であるっきりの最冒頭、子音がやっとごにょごにょいうだけで充実感に乏しい静穏な部分、っあの原田氏を想い出させる1拍1拍を恆に撲り附けるように振っていなくては気が済まないフォルテになってからの部分と、っさようの棒を振る人にその後の1時間ほどの道中において遊びを振り撒きまくる自在を期待しえないのは火を見るよりあきらかであり、っこの時点で、っぼくのこころはまったく冷め切ってしまった、

っもちろん、っそれはぼく一個の趣味であり、っそれにきょうの演奏が適わないというにすぎないだろう、っけれども、バ氏の音盤を聴くと、ったとえばマーラー《巨人》では、熱狂のさなかにも東フィルはいかにも颯爽としてひびきもかるく、っそれをこそぼくはよろこんでいたのだが、っまさか初めて実演で聴く彼氏が、っあんなふうにのべつ楽隊を煽動しまくるっきりの単細胞だとは、っいかにも落胆はおおきい、

ソロは、バリトンとソプラノとは外人で、テノールは邦人、っうちソプラノは、処女性からは遠く、っむしろヴィジュアルとしても声としてもいくらでも男を手玉に取れますという風情だったが、単に歌唱として聴けばなるほど名花にちがいなく、〈赫い胴衣の娘が、、、〉や〈揺れ動く我がこころ〉など、声の陶冶もみごとだし、情緒としても陶然とさせた、長身痩軀のバリトンは、㐧1声の〈太陽は、、、〉では声量にもゆとりがあり、っなかなかの登場だったが、声質としてはぼくのこのみをわずかに逸れ、っそれにその後は、酒場の冒頭曲ではバ氏の棒が速めのテムポで、っさしもの声量でもオケに消され勝ちとなるし、大僧正は、醉漢の演技とは裏腹に、声としては表情が板へ附いていない、っそして㐧3部ではどのナムバーでも好印象を遺せずにしまう、音盤ではマッテイが慕わしく想い返されるし、実演では加耒氏のほうが断然すばらしい、1曲のみのテノールも、白鳥のぬいぐるみを携えて演技をしながら唄っていたが、っやはり声としては特長に乏しい、っこの曲もどうしてもみなシアリアスな歎き節として唄ってしまうが、っぼくにすればコミカルにすっとぼけている鈴木寛一氏が独り勝ちだ、

《カルミナ・ブラーナ》は遊びである、っとにもかくにも遊びの氾濫である、眞剣に演れば演るほど感銘は指間から零れてゆく、



っぼくはこんやすばらしくたのしいおもいをし、バ氏の今秋のマーラー《夜歌》への期待を募らせる夢をみていたのだが、破れた、っきょうのあのかんじだと、っそのマーラーもどのような性格の演奏へ落着するか、聴く前からおよそ知れており、っその想像はぼくをしてぜんぜん垂涎を催せしめない、東フィルの切符は高いので、っそれを購わずに済んで助かった、



、、、っひどい云い種、



っさ、っあすも半日仕事をして、っまた錦糸町、



みずの自作アルヒーフ

 

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錦糸町、




上岡敏之/新日本フィル公演初日、済む、

演目は、泰斗アンヌ・ケフェレック女史を招いて楽聖《1番》コンチェルト、っそしてシューベルト《ザ・グレイト》であるが、《ザ・グレイト》という曲想をぼくはかならずしも名品逸品とはおもっておらず、っしかし上岡氏の音楽性がぴたり、っその曲の、っないしは曲に対して史上一般に為されてきた演奏の志向性のこのましからざる生面を雪ぐかたちで発露するのではないかとつよくつよく期待して聴くところ、っまさしくビンゴであった、通念上の演奏語法からはおよそかけはなれているにも拘わらず、っほんとうに全編これ確信に充ちて、っしかも脱力の極致であり、ディレクトール在任時にはなにかこれという決定的の名演奏、大演奏を見舞われていない憾が遺ったが、っきょうのあの楽曲、演奏双方の性格同士のケミストリーは、っその遺憾を拭って余りある成果であり、っぼくとして、彼氏と日本フィルとの杉並におくブルッフ、シュトラウスや、去年の読響とのサントリーにおくシベリウス、シューマン、ニールセンに優に伍しうる達成のうちに数えるのも躊躇わない、っいつもながら、っや、っいつもにも増して、っあのように音楽を感じている人が現にこのよのなかに生きているということ、っその人とたまさか今生を一にし、実演に接しられるということ、っその驚異、僥倖を噛み締めずにいない、

っそれにしても、っぜんぜんすきではない楽曲でしかし、っいっとう高い種類の感銘を捺されるとは、っぼくはきょうの演奏を聴いて、《ザ・グレイト》を見直したのではない、こんなにも名曲だのにそれへいままで開眼せずにいたとは、っとの猛省を迫られたのではない、っこれからも、他の通り一遍というか、通り一遍でなくともいわゆるドイッチュドイッチュした演奏で聴けば、っつまらないとは云わないまでも、っあいかわらず馴染めない、愛着を有てない曲想だなあとはおもうのに相違あるまい、っあまりにも特異な、っあまりにも極北を示す上岡イズムで聴いてこそ、全編を刻一刻とたのしんだのであり、っやはり楽曲自身は、㐧1級の大古典ではないと、っこの期に及んでもおもっている、

っしていることといえば、全編を拘泥を断った快速で一貫せしめ、テヌートよりは弾む音を多用し、音量としても金管を抑え、いかなる強勢でも駄目を押さずに、全曲を絶えず和音和音とその移行移行との交響体として俯瞰する、っまあみじかく謂えばそういうことだ、っしかしそういうセンスをじっさいに身に宿している人は世に稀だし、っそれを《ザ・グレイト》ならば《ザ・グレイト》という楽曲の全体において違和感なく実行しうる人は、っさらに稀である、

っぼくらは、演奏と無縁に楽曲の像を表象すること能わない、っぼくらの裡に存る楽曲楽曲の像々は絶えず、誰かしらの演奏、っないしは誰かしら誰かしらの演奏演奏から綜合せられたその姿であることを逃れない、去年、ツァグロゼク氏が振られるはずが直前で上岡氏による代演となった読響とのブルックナー《8番》公演で、切符はすでに完売していたためにぼくは八方手を盡して入手に努めたが、っその公演前にごくざんねんにおもったのは、っすなわちツァグロゼク氏の降板に落胆し、飜って上岡氏のある種、突飛であるのかもしれない音楽性に対してネガティヴな予断を語る一群の人々の存在である、っや、上岡氏を好意的に聴かないことなどいっかなかまわない、問題は、氏の演奏がブルックナーの本質を外れていると云うときのその人の脳裡にあるブルックナーの演奏像というのは、ではなにほどの批判を堪えた表象であるのか、っというそのことである、っぼくにすれば、っそれとてもその人その人が触れてきた演奏演奏からの綜合であるにすぎず、っつまり限定的かつ暫定的かつ相対的の像であるはずである、っところが演奏後にも、やはりよくなかった、式の所感を述べる人たちのその文面は、っあたかも自身がブルックナー演奏の絶対の眞理を識っており、っそこから外れるらしい上岡氏の演奏語法をなにか罪科ででもあるかのように語るのであった、そこに自己批判はあるのか、この人たちは自己批判によって背中へ冷汗を掻くことはないのだろうか、っとぼくなど訝らずにいない、っそれに、藝術へのそうした姿勢は、っすくなくも近代以降においては、っむしろ一般的の鑑賞態度から逸れる、っそうした姿勢でいては、っぼくらは音楽史上に楽聖の登場を壽ぐに及ばないからである、っぼくは西洋クラッシック音楽の演奏も鑑賞も、っすでにして固定せる態度の再現前再確認であるとはおもっていない、突飛であるとは、単に相対的に稀少であるというにすぎず、っその演奏語法が楽曲の本質を当てる当てないとはおよそ無関係の事象である、っぼくはぼくなりの自己批判によって、っどっしりと堅固に奏することは《ザ・グレイト》の優婉な楽想を殺すことだとかんがえており、っきょうの上岡氏のあっさりさっぱりと吹き過ぎてゆく語りをもってこそ、初めてこの曲に出逢うように、っそれもとても仕合わせなきもちで出逢うように、緊と実感したのである、っそしてその実感もまた、っただ相対的であるにすぎないのだ、っだからぼくが憎む演奏はいつの日も、っなにも主張しない演奏それ独りである、っなにかしら主張していさえすれば、っぼくとしてそれを容れられないにせよ、謗る対象ではまったくない、主張することは楽曲を歪め穢すことだなどと殊勝ぶってまるでのっぺらぼうの演奏を晒すことほど、世に愚にも附かないふるまいはないのである、

演奏の具体を云々するよりも、っかようの表白へ暮れるほうがいまのぼくの気分にずっとそぐう、

コンチェルトももちろんこころから堪能したのだが、っいままもなくギロッポン開演にて、っまた後刻、



みずの自作アルヒーフ

 

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ギロッポン、




コバケンさんの棒、フィルハーモニック・アンサムブル管で、マーラー《復活》、済む、

っわりによい演奏だった、

同管は、ったしか河地良智氏の棒で同曲を30年ほど以前にきょうとおなじサントリーで演っており、っそのライヴ音盤はここで紹介済みだが、っその後もコバケンさんと、海外楽旅も含めて複数度に亙って同曲を演奏してきたらしい、国内ではサントリーで公演を行ない、コーラスも含めた大所帯でたまに外遊にも出るというくらいだから、メムバー個々が小銭を出し合って運営している通例のアマチュア楽団ではなく、っなにかしらスポンサードせられているのだろう、っそれならばもうすこしく合奏能力自身も高度であってよい気もせぬでもないが、複数の音盤いずれに聴く彼等も、っまた実演でだいぶん以前に触れたコバケンさんとの《ヴェル・レク》でも、下手というか、音が細い、量が足りない、っもっと自身の音を前へ前へ押し出してくれたい、っきょうもそんな調子で、絃など、頭っ数としては膨大だが、っみな舞台上でのみごにょごにょやっているようで、っなかなか音がこちらまで来ない、木管も金管も同様である、っぼくなど、開演直前までインナー・ヘッド・フォンで音楽を聴いていたその音量がおおきすぎて、一時的のつんぼになっているのかと怪しんだほどだが、っちがう、っちゃんと小音量で聴いていた、っいつも彼等は音量に不足するのだ、っぼくも、っとくに去年は数多のアマチュアを聴いたが、っそのなかにはきょうの彼等よりも遙けく腕が立ち、2,000席級の大器でもちゃんと満々と飽和させられる音量を誇っていた団体は複数あった、

っところが、後半楽章となるほど、彼等のその大人しい奏楽はむしろ映えた、コバケンさんにはもはやかってのように楽隊を無理無理に煽り立てる気力はなく、全編これ淡々とした棒で、振られている最中はそうでもなかったが、終演後は腰に手を当てられて足取りもややおたおたされるように見え、っこちとらを心配せしめたが、っしかしその脱力の棒が愼ましい楽団を捌くことで、満堂がぐらんぐらんと揺るがされるようなほんとうの最大音量が、ソロがコーラスへ唱和し、オルガンまでもが加わる全曲の最後の最後の大団円までけっして訪れなかった、っそれにより、楽曲全体の経緯がひじょうに明確に伝わったのである、以前のコバケンさんならば、フィナーレどころか、1楽章のさいしょに打楽器が加わるトュッティからして、っもうけたたましい騒音を鳴らしてしまっていたところで、っその後もフォルテとみればぎゃんぎゃんと駄目を押しまくり、っいきおい、演奏を構成する要素が強弱の激越な交替それのみに偏してしまっていたものだが、っきょうは、音量のおおきな部分とちいさな部分とが、音楽のなかで恆に等価の主張を成したのである、

1楽章こそ、っまだオケが熟れないためにどの声部も音がよく伸びず、っしかし棒がまたその音々を丁寧に置いてゆく静的の構えなので、誠実と謂えば聞こえがよいが、っもう1歩で生硬へ転落しないとしなかった、っが、例によって遅いところをずぶずぶに遅くしすぎてしまい、箍の弛み切った膨満へと堕すことを惧れていたところ、遅めに構えた㐧1テーマから㐧2テーマへと遷移する際、っほとんどテムポを変えないっっっ、っこれはすばらしく好印象であり、っしかも絃に対して、以前ならばさかんに行なったような表情の要求がまるでなく、っただかすかに拍を示しているのみである、っそうだっ、っそれでよいのだっ、大トュッティでも指揮者独りはぜんぜん腕を大振りにしないで楽員を見守っているのみ、っという個所も頻繁に訪れるが、っそうした境地に、っせめてもう10年早く立ててよいはずの人だったのである、

2楽章も3楽章も、音量は満ち溢れず、小作りな手応えではあるが、前者が忙しい部分を何度か經るうちに、筆致に触発せられて音色が精彩を得るようになり、っそうすると、突飛なことはしないで、訥々とと謂いたいくらいに1音1音を追ってゆく手附きが、っこちとらでも愛おしく観ぜられてくる、

〈原光〉は、っさようの細いひびきのバックとなるため、ソロは無理に声を張り上げなくとも音像が掻き消されてしまう心配はないし、コバケンさんの棒はここでも遅すぎる弊、表情の濃密を要求しすぎる弊いずれからも逃れて淡泊で、っそれでこそ快い、

フィナーレは、流石にホルンあたりには要所ではもっと音を割った雄叫びを求めたかったが、っともかくいつもすべての音が清浄であり、トロムボーンのコラールから大トュッティへ発展する部分も、最後の審判の地獄画も、テンションに感けた音量音圧自慢にならないのは、っここまでくるとむしろ得点美点である、っじゅうぶんに迫力を出せているのだが、全曲の最後に全員が全力をふりしぼった際の最大音量からすれば、っこの時点ではまだ余力がある状態だったのである、

っとちゅう、セロが後にアルトが唄うこととなる節を弾き、舞台裏から軍楽がひびく段では、舞台スタッフが袖の扉を開くタイミングが遅れ、っはじめのうちバンダがよく聴こえないというご愛嬌もあれ、っしかしこの内容てんこ盛りのフィナーレは、っどこかしら接続がうまくゆかず、っぎくしゃくした悪印象を遺すこともしばしばであるところ、っきょうはそうしたトラブルも、っまああるにはあったが極少で、っそしてついに全員が復活を高唱する段へ至って、っぼくの視界はちゃんと泪で潤んだのであった、



っさて、今週水曜から狛江の古墳現場、金曜は上岡敏之、バッティストーニ両氏公演だね、

っそれから、井上キーミツの12/30サントリー引退前最終公演の演目が発表となったが、っわずかにショスタコーヴィチ《祝典序曲》を含むものの、意外や意外、楽聖《6・5番》である、っこの2曲は、去年の秋、川崎で新日本フィルとともに披瀝されるはずが彼氏の療養のために広上氏が代行された、っあのときご当人が振られていたら、っこの最終公演も別演目となったろうか、切符は8月発売だが、っちゃんと購えるだろうかしら、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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っうむむっ、




っきょう、先般発売せられたマタチッチのザグレブ・フィルとの楽聖と、っあれファースト・ネイムなんて読むのかな、イルジーかな、イルジー・セムコフ氏の、っどこだか知らないオーケストラとのブラームスとのともにシムフォニー全集をiPhoneへ同期してきて、マタチッチのほうは演奏会前だったので小音量で聴いており、っもっとおおきな音で再聴しなくてはならないが、っさっきセムコフ氏のブラームス《1番》を聴き了えて、っこれはなかなかの演奏だなあ、

彼氏の名は初めて聞くのではなくて、っむかし、シンフォニア・ヴァルソヴィアかどこかとのそれこそマーラー《3番》の音盤があるのを知って興味を惹かれていたが、稀少音盤でもあり、探しあぐねているうちにこんにちまでスルーしてしまっていた、っその音盤紹介の日本語表記では、名はたしかイェジとかとなっていたとおもうが、

っまだご存命なのかしらないが、っもう80いくつのはずで、っこのブラームスはたしか一寸以前の録音だが、っそれでもたぶん70代の老境の棒である、オーケストラはとても好い音色と合奏とで、指揮者は、迫らない大局観でその名楽団を率いているが、っただ温雅なだけではぜんぜん終わらない、老練の手管はそこここに顕著である、っいま《2番》のフィナーレだが、っうん、っぼくがいちばんすきな種類の演奏だ、っこのフィナーレは、ヤマカズさんの新日本フィルとのような手合いでもないかぎり、叩き附けるような激越な迫力はぜんぜん要らない、最後の最後まで穏やかに、格調を乱さないままで、そのなかへコワいくらいの隠し味をどれほど盛り込めるか、っという道で勝負している人のほうが概して名演奏を刻印している、シューリヒト/シュトゥットガルト放響がその源流であり、ボッセ/新日フィルもまた珠玉であり、っこのセムコフ氏もその系譜である、っいま《3番》だが、1楽章、っとてもよき、Vnが彼岸に聴くように煌めいたりする、

同全集は井上キーミツのものもさいきん出たが、4曲ともにさして突出した存在感は出ていないか、っなにごとにも得手不得手はあろう、



っそれから、堀俊輔氏のバッハ《マテウス・パッション》、録音で聴くと年配のエヴァンゲリスト畑氏は喉へ痰が絡んでときおり発声が乱れたりするが、実演のときも感じたとおり、堀氏の音捌きは声楽に対しても器楽に対しても、っこう云ってよければ健康そのものであり、っいつも音々が満々とよく伸び、深遠な楽曲にしかし親しみ溢れる表情を附與しつづける、3時間の長丁場がぜんぜん窮窟でなく、っみじかく感ずるくらいだ、っぼくもかっては、史上の聖典たるこの曲へどうとか肉薄したいと、年に1度はリヒターの旧盤を聴くことを自身へ課していたものだが、っついに曲の魅惑に開眼することなく、っそのマクシムもいつかからおじゃんにしてしまっていた、っそれが去年、っあの紀尾井ホールでがあんとやられ、っしかもそれは静謐かつ敬虔であるよりも、っもはや仕合わせな体験であった、健全な音を浴びることは、っどんなに辛くくるしい楽曲が演奏せられているにせよ、僥倖なのである、っそれはこの音盤からも十全に伝わり、追体験が叶う、リヒターでは、再生音は周到に整音せられた、逆に云うと、っいま目前で血の通った人間集団が演奏しているという実在感に乏しい感触である、っそれがここでは、ライヴ録音の妙味、鮮度の高い、生きている演奏の音がする、っこういう再生音の音盤が、っぼくはとてもすきである、っやっとこさ《マテウス・パッション》がこころへ届いた、っこのよろこびはおおきい、



、、、っおお、セムコフ氏、《3番》のフィナーレ、っすばらしい、遅めのテムポは王者の風格、主部で晴れがましい㐧2テーマを謳歌したあと、全楽を挙げて突進する部分へ遷る際、棒はけっして煽情的ではない、っけれどもほんのかすかに腰が落ちて、オケがギアをトップへ入れるその気魄がびりびり伝わる、っしかもトュッティはじゅうぶんに熱しながらにしてしかし冷徹に全声部を見渡した悟達の味、2楽章の動機によるまんなかの部分も、棒が青いと高音がきつくて狂騒的で、不快にさえ聞こえるが、っみごとな管絃の混淆だ、

っいま《4番》の1楽章だが、っもはや向かうところ敵なし、っぼくはブラームスはぜんぜんすきではないが、っこういう演奏でならばいくらでも聴いていられる、3枚組で安くはないので、っやや購入を躊躇ったが、っこれはおおきな収穫だ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(1回配本)

 

《ぶきっちょ》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(1回配本)