ギロッポン、
バッティストーニ/東京フィル公演、済む、
演目はレスピーギ《リュートのための、、、》〈㐧2スート〉、オルフ《カルミナ・ブラーナ》であったが、率直に云って、っぜんぜん期待外れであった、終演後、っほぼ満席の堂内は大沸きに沸いていたが、こいつら全員、目も耳も節穴なのじゃないのか、、、っとこちとらまったくとっ白けてしまう、っこの虚しさはちょうど、っあの原田/関西フィルのヴェルディ、サイ、吉松や、尾高/PPTのエルガーを聴いたあとの気分と肖ている、要すれば皮相な空騒ぎであったということだ、上岡敏之氏の複雑微妙な秘儀奥儀を拝んだ直後だけに、っもう演奏中途から、っというよりレスピーギも全体に、オルフも極端に云えば㐧1曲が開始した瞬間から、音を聴いていることがひたすらの徒労とおもえてならなんだ、演奏を見限ったら中座できる人は偉大だとおもう、っぼくなどまことに情けないことに、っそれでも終演まで席へいたのである、
東フィルのアンサムブルも、実演では数年前に井上キーミツとの共演を聴き、音盤も近年録音のものを聴いているが、っいずれも、っなんというかプラスティックで他所他所しい膚触りの印象で、っそれは今次も変わらない、絃など、っあまりにもひとりびとりが近似せる周波数で弾けてしまっているからだろうか、5部がみな1人ずつで弾いているかのようなきもちわるいほどの音の統一感であり、実演の音場へ居合わせているのに、いまそこで生身の人間たちが演奏している、っという手応えがぜんぜんしない、っぼくのときどきいわゆる、AIオーケストラというものがあったらこういう音を出すだろう、っというそういう音で、っそれはきょう日のオーケストラの通弊にちがいないのだが、っしかしたとえば日本フィルの音は、っけっしてそのようではない、彼等の合奏もこんにちとても精妙だが、生硬な人造音のごと空々しさはまったくしない、っこの譬えで伝わるなら、東フィルのアルティキュレイションはAI、、、っこのAIはアドビ・イラストレイターね、っで引いたパスみたようにどこまでいっても線幅が完全に均一の描線である、日フィルはそれと同様のうつくしい線を鉛筆による手描きで実現するのだ、っおなじ精妙でも、っこの両者が与える印象の落差は甚大である、っさっきレスピーギを聴いていて、っしばらくピッツィカートだった絃が初めてアルコになったとき、っその音の、っなんというか顔のなさ、虚ろさ、絃のみで満堂がやや不快に飽和するような無駄な音量感、っそれを憾みにおもっていると、っこんどはフリュートがひびきや音色をこだわらずに安易に音の輪廓を頼るようなソロを聴かせたりし、3曲目かなにかでは、っまた絃が眞に指の先まで神経を通わせ切らない無趣味なフラジオレットで白けさせたりす、4曲目の最後ではこの絃に金管も加えて典雅な曲想に相応しからぬ音量自慢で、っかなり幸先がわるい、
オルフは、冒頭から指揮者の粗暴さ全開で、オケは巧いので音は濁りこそしないが、力づくの音圧が頭っ数のすくないコーラスを完全に掻き消して始まる、っぼくのおもっているこの全曲冒頭の音勢バランスは、オケは角を矯めぬ程度にいずれの声部も自然なフォルテにとどめ、っあくまでもコーラス主体に聴こえている状態である、っきょうのコーラスは、総勢がすくないうえに女声男声の人数にほとんど差がなく、っしたがってとくにはじめのうち、彼女等の高音の煌めきや剣のある生気が、男声とともに唄うときにも、っまたオケがほんのすこしくつよい音を鳴らしたっきりでも、っいずれも消され勝ちとなる、っだいいち、っどうしてもどこの団体も深刻に、深刻にといってわるければ眞剣に唄ってしまうのがこの曲である、っいつも謂うようにぼくはこの曲は全編これ戯画だとおもっており、運の苛烈を謳う㐧1曲にしたって、っあっけらかんとあかるい発声で唄ってしまってくれたいとすらおもっているのだ、っかかる小曲の羅列には、極端な強勢や音色をダルへ傾斜させ勝ちとなる表情の濃密などは禁忌であり、全体を腰のかるい淡泊な表現と発音とで進めながら、要所では抜かりなく牙も爪も剝くというふうであってくれたい、バッティストーニ氏はほんの㐧1曲からして、アンバランスの潰れた音塊であるっきりの最冒頭、子音がやっとごにょごにょいうだけで充実感に乏しい静穏な部分、っあの原田氏を想い出させる1拍1拍を恆に撲り附けるように振っていなくては気が済まないフォルテになってからの部分と、っさようの棒を振る人にその後の1時間ほどの道中において遊びを振り撒きまくる自在を期待しえないのは火を見るよりあきらかであり、っこの時点で、っぼくのこころはまったく冷め切ってしまった、
っもちろん、っそれはぼく一個の趣味であり、っそれにきょうの演奏が適わないというにすぎないだろう、っけれども、バ氏の音盤を聴くと、ったとえばマーラー《巨人》では、熱狂のさなかにも東フィルはいかにも颯爽としてひびきもかるく、っそれをこそぼくはよろこんでいたのだが、っまさか初めて実演で聴く彼氏が、っあんなふうにのべつ楽隊を煽動しまくるっきりの単細胞だとは、っいかにも落胆はおおきい、
ソロは、バリトンとソプラノとは外人で、テノールは邦人、っうちソプラノは、処女性からは遠く、っむしろヴィジュアルとしても声としてもいくらでも男を手玉に取れますという風情だったが、単に歌唱として聴けばなるほど名花にちがいなく、〈赫い胴衣の娘が、、、〉や〈揺れ動く我がこころ〉など、声の陶冶もみごとだし、情緒としても陶然とさせた、長身痩軀のバリトンは、㐧1声の〈太陽は、、、〉では声量にもゆとりがあり、っなかなかの登場だったが、声質としてはぼくのこのみをわずかに逸れ、っそれにその後は、酒場の冒頭曲ではバ氏の棒が速めのテムポで、っさしもの声量でもオケに消され勝ちとなるし、大僧正は、醉漢の演技とは裏腹に、声としては表情が板へ附いていない、っそして㐧3部ではどのナムバーでも好印象を遺せずにしまう、音盤ではマッテイが慕わしく想い返されるし、実演では加耒氏のほうが断然すばらしい、1曲のみのテノールも、白鳥のぬいぐるみを携えて演技をしながら唄っていたが、っやはり声としては特長に乏しい、っこの曲もどうしてもみなシアリアスな歎き節として唄ってしまうが、っぼくにすればコミカルにすっとぼけている鈴木寛一氏が独り勝ちだ、
《カルミナ・ブラーナ》は遊びである、っとにもかくにも遊びの氾濫である、眞剣に演れば演るほど感銘は指間から零れてゆく、
っぼくはこんやすばらしくたのしいおもいをし、バ氏の今秋のマーラー《夜歌》への期待を募らせる夢をみていたのだが、破れた、っきょうのあのかんじだと、っそのマーラーもどのような性格の演奏へ落着するか、聴く前からおよそ知れており、っその想像はぼくをしてぜんぜん垂涎を催せしめない、東フィルの切符は高いので、っそれを購わずに済んで助かった、
、、、っひどい云い種、
っさ、っあすも半日仕事をして、っまた錦糸町、
みずの自作アルヒーフ
《襷 ータスキー》(全4回)
https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)
《ぶきっちょ》(全4回)
https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)