ざっかん記 -25ページ目

錦糸町、




井上キーミツ/新日本フィル、マーラー《3番》、済む、

事後、浅草橋までのんびり歩き、王将で食事し、っいま、っいつものカッフェへ遷る、っきょうは、っきょうも午前中のみ仕事をする心算でいたが、朝餉を用意するとぞんがい食べるのに時間を喰い、っもう着替えを背嚢へ入れてとやっていては出勤に間に合わない時間となってしまったので、休むことにして、シガレットを服みたかったので、っいつもは自室マンションの前でだが、せっかく休みにしたのだから近所の公園まで行こう、っと咥え煙草で歩き、ベンチへ坐して数服、室へ戻ってもうひと睡入りなどとやっているうちに、玄関を出るのはわりにぎりぎりとなってしまう、



リハーサルの一部も覗いたので、っなんだか半当事者のような気分で開演を待つ、

同曲は、っなんといっても去年のカーチュン・ウォン氏の日本フィル、プリンシパル就任披露公演で、配信動画から音声を抽出したものをくりかえし聴くうち、っすっかり魅せられて、っいまではこの曲のほとんど理想的の名演奏ではないかとおもっているくらいである、録音を通して聴いても、日フィルのアンサムブルはまったくすばらしい、っつい15年20年くらい以前までは日本のオーケストラも、指揮者が誰であろうととりあえず最低限のオートノミーはあります、っという次元にあったのはN響くらいのもので、っほかはどこかしら合奏能力の不足をかすかに我慢しながらでなければ聴いていられない楽団ばかりだった、っそれが、っあれよあれよという間にアップ・デイトせられて、っそれは地方の楽団もそうで、東京の名門を脅やかす存在もひとつやふたつではないが、日フィルは東京にあってその急成長株の最右翼といってよく、っとても巧いし、っとても自然な音色、音の膚触りである、っその点N響は、っまあ巧いには巧いが、っその巧さが音楽への他所他所しさにも繫がり勝ちであるのはむかしっからだし、音色も乾いている、っもっとも、っぼくは彼等の音を主に渋谷で聴いており、サントリーなどで聴けばまたちがうのかもしれないが、っともかく、っそのサントリーで聴く日フィルは、っどんな曲でも音が鳴り出したその瞬間から、ああ、いちばん抵抗がない、いちばん快いオーケストラの音だわ、っという実感を与えてくれる、近過去の彼等がぎすぎすぎゃんぎゃん側鳴り放題オーケストラだっただけに、っどうしてこんな短期間にそんな大変化が訪れたのか、不可思議であるが、っそこに果たすカーチュン氏の手腕は貢献大なのだろう、っこのマーラーを聴いていると、指揮者に持ち上げられてようやっとこの水準、っという背伸びをしたあっぷあっぷのかんじが微塵もせず、全員がひじょうに落ち着いた奏楽に徹し、っしかもめいめいザ・ベスト・パフォーマンスに余念がない、っひとりびとりの音色のうつくしさ、潤いも聴いていていちいちこちとらをうっとりとせしめるし、絃群の緊密な合奏もけだしみごとである、っぼくはとくに長丁場の1楽章がとびきり勝れていることをとてもうれしくおもっており、っほんとうに、世界中のどこにも敗けない鉄壁の演奏能力と、っそれだけではない、っそのことと音楽を聴き、味わう仕合わせとが完全に同居している、っそのすばらしさである、

日フィルのことを長々と云うのは、新日フィルは、っきょうの演奏などを聴くと、っその日本楽壇の近年の大更新にやや乗り遅れている気味だからだ、っもちろんけっして下手ではないが、マーラーのような煩瑣なスコアとなると、鳴っている音が恆にどこかしら危なっかしい手応えがして頼りない、っそれは、っかって彼等が上岡敏之氏と演奏した同《5番》などでも同断で、曲趣よりも先に楽団の限界のほうが聞こえてきてしまう、っきょうも、個別のエラーもまた散発し、っそれらはいずれも全体の感銘を損なうほどのおおきな瑕疵ではなかったものの、っしかし、きょう日の日フィルならばどのメムバーもその次元のエラーはやらないよ、っというしくじりではあった、

っそれでも、キーミツも楽員も、っそうしたみずからの危なっかしさを懸命に耐えながら、っどうとか100分の全編を、危なっかしいからといって守りへ入らずに、っあくまでも訴えることありきで語り抜けてはいたか、

1楽章は、カーチュン氏の颯爽としているようでいてじつはアイディア豊富、山あり谷ありの道中からすると、キーミツはとくべつなことはなにもしないで進めてゆくが、シカケに乏しくて喰い足らないということはなく、賑々しい楽章終結は、っおとついは分厚い音量音圧が印象的だったが、本番のきょうは管も絃も打もすっきりと音が抜け切り、っむしろ最大音量の裡にもハーモニーの澄明が際立っていた、

2楽章は遅い部分の優婉と速い部分の絃を中心とした機能的の合奏との対照がよく発揮せられていたが、ったとえばクラリネットは1楽章でもここでも、っおとついもそうだしきょうにしても、1番も変ホ調も、その程度のことが吹けなくてどうする、プロフェッショナルだろ、っとおもわせる不安定な吹奏で、チェムバー的に高解像で聴かせねばならない楽章だけに、っほんのかすかな吹き損じ、音の掠れにも文句を云いたい、

3楽章のポスト・ホルンはラッパではなくほんとうにポスト・ホルンを使っていたが、っそれだけに線が細くてゆたかにひびかず、夢心地の演出とはゆかなかったか、

ニーチェを歌う4楽章は、っこんどはホルンがまずく、っあまり気分が乗らないが、オケのみによるまんなかの部分を經てふたたびソロが戻ると、キーミツの稠密な音捌きもあって、俄然、醉いごこちを与えらる、

5楽章はボーイズが全員男の子であり、っおそらくはキーミツの指定であろうが、っこれがまず奏功、女の子にはわるいが、欧州ではあたりまえのこの条件は、っやはり必須とおもわずにいない、ボーイズのコーラスは変声前の男の子のみにかぎる、女の子の声ではだめである、っその子供たちにしかし、大人のコーラスとおんなじような発声でっきり唄わせないのではまるで台無しなのだが、っきょうはちゃんと地声をふんだんに盛り込んでおり、っそのあどけなさをしてこそ泪を誘わる、

フィナーレは停滞を嫌って前へ前へと振ってゆくキーミツの姿が眩しく、テムポの遅い歌謡楽章をさように感ずるセンスはまったくぼくの所望である、っあまりに遅いと、っあるいは楽想の替わり目であまりにテムポをいじったりすると、旋律の象がわからなくなる、旋律の象がわからないと、音楽もわからなくなる、っぼくは、っどんな曲を聴くときにもときおりそうするのだが、っすなわち、その曲をぜんぜん識らない、1度も聴いたことがない耳をあらむかぎり想定して、その耳にではいま目前で行なわれている演奏はどう届くだろうか、っと、テムポを極端に遅くしたり極端に伸縮せしめたりしてもその演奏に附き合えるためには、っお客のほうでまずある程度以上その楽曲に馴致していてもらう必要がある、あの旋律がかように伸び縮みせしめてあるのだな、っというその、あの旋律が、っという聴く側の予備知識を前提しているのである、っその点でその手の演奏は、っある種、傲岸であるといえる、なんでお客が曲を識っている前提で演奏してんだよ、っという、宇野さんの、喋りことばの文面の印象が遺っているから晩年の口述筆記の1冊まるごとヴィーン・フィル談義の書籍かなにかだとおもうが、っそのなかへ曰く、シューリヒトの演奏を聴くと、ブルックナーがぱっとわかるかもしれないね、音楽が流れているから、フルトヴェングラーなんかじゃだめですよ、っと、っあの方がブルックナーの一大オオトリテヱとされるチェリビダッケなどをあまり喋々されない秘蹟もこのあたりにあるのかと思量されるが、音楽をあれこれといじることによるアッピールは、っその曲をお客が識ってくれているというその予備知識に依存している、っこのことは、演奏藝術一般をかんがえるうえでのある重大な要素のひとつだとおもう、っいじり癖のある指揮者や演奏家もたまには、こういうふうにあれこれといじった演奏で、この曲の象がちゃんとお客に伝わるかしら、っと背中へ冷汗を掻いてみてよいのではないか、玄人が何度も名曲に出逢い直す、っそれももちろん音楽のよろこびである、っしかしいっぽうで、初めてある楽曲の魅惑を雷撃のごと脳天へ喰らい、その虜となる、っそれもまた音楽の掛け替えのないよろこびであることには論を俟つまい、っある種の演奏藝術にあまりにも通曉することは、ビギナーであるお客の人生に決定的の影響を与えることから遠ざかる道であるかもしれない、っほとんど素っ気ないほど先を急ぐことから、っこの緩徐的のフィナーレの歌の美麗を洗い出すキーミツの手筈を見届け聴き届けつ、っそんな若い初心を振り返っていて、懐かしさでいっぱいだった、っちょうどこのマーラーの《3番》は、乾いたスポンジみたように吸収力満点の青春のぼくのこころへ、っどこまでもどこまでも沁み入ってきたたいせつな楽曲なのである、

新日フィルの合奏能力がもっともっと刷新せられることを希ってやまない、



っことしは、読響もヴァルチュハ氏と同曲を演奏するが、っその切符も取っておいた、っさて、遙けく聳えるカーチュン氏や、っきょうのキーミツとどのように伍してくるだろうか、

っそれからきのう、キーミツと新日フィルとの6月の公演の切符が売り出したので購ったが、特別公演なので錦糸町の2階バルコニーを取れるかとおもうも、っぴあでもe+でも器のサイトでも売っておらず、っなんでだよとおもいつ2階正面で最良の位置を望めるe+で購う、どうしてどこのサイトでもこんなに一寸っきり売っていないんだろう、っと訝りつ、っすでに購ってしまってから新日フィルのサイトを閲覧してみたら、っそこでどっさりと売っていて、2階バルコニーも空いていた、っしくじった、去年キーミツが自作のミュージカル・オペラを錦糸町とサントリーとでなすったとき、前者は全席完売したが後者は直前まで2、300枚単位で空席があり、っぴあ取り扱い分は完売だったのだが、みなさんぴあで完売していると全席完売しているとおもわれるようで、っとこぼしていられたもので、っまさしくおっしゃるとおりである、去年ぼくも全国の数多の楽団を聴いたが、団体によっては、複数プレイ・ガイドで購入可だがこのサイトでの取り扱い量が最もおおい旨を案内してくれているところもあり、っまことにありがたかった、っありとある楽団があれへ倣うべきとおもう、っというよりも、っこの時代だ、っどのプレイ・ガイドでもすべての席から購入することができ、プレイ・ガイド間で空席状況のデイタを共有するシステム構築くらい容易だとおもうのだが、1日も早くそうなってくれることを祈らずにいない、っほかのプレイ・ガイドを当たればまだ空席があるのに、ったまさか当たったところで完売していたせいで全席完売と勘違いしてその公演へ行くことを諦めるお客がいるとしたら、っまことに勿体ないことにちがいあるまい、



っさて、カッフェは順番待ち過多につき90分で追ん出され、っいままだ浅草橋の裏路地へ隠れて凍えながらシガレットを服みつ、っこれを書き了わらない、っあすはサントリーにて、コバケンさんと名門アマチュアとの、っなんとまたマーラーで、《復活》、老境コバケンさんのあの法外な耽溺趣味は、っなかなか麗しい果実を結ばず、っこないだの《カルミナ・ブラーナ》では、カーチュン氏が振られるとあんなにも天下の名楽団たる日フィルが、従前のへなちょこぽんこつオーケストラへと後戻りしてしまっていた、ツボへ嵌まりさえすれば、落ち着いてじっくりと全曲を語り抜く、稀代の大演奏も成立しうるはずなのだが、っさてあすはどうなるやら、

っそれから、《カルミナ、、、》といえば来週金曜、っまた午前のみ出勤して午は錦糸町で上岡氏を聴き、っよるはギロッポンへ遷ってバッティストーニ氏と東フィルとの同曲、イタリィの健康的の前進性が爽快に弾け、っあの曲の愉悦をこころゆくまで謳うのであってくれたい、ドイッチュ人オルフの作だが、ドイッチュ的に重ったるく演るような曲ではない、全編これ竣敏にしてきびしいっきりの造形では、っぼくはまったく不満だ、遊びまくってくれたい、っあの曲は深刻な運の歌ではない、っすべてはカリカチュアである、っぼくはバ氏の実演を聴くのはこれが初めてだが、っその必須の遊びごころを彼氏が具えているものと信じたいところである、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(1回配本)

 

《ぶきっちょ》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(1回配本)




錦糸町、




井上キーミツ/新日本フィル、マーラー《3番》、公開リハーサル、済む、

15時開場、15:30開始、っとちゅう15分ほどの休憩を置いて18時前ころまでで、1楽章の再現手前から始め、っいったん楽章終結までいってから頭へ返し、っふたたび楽章終結まで、っつづいて2楽章の低速の部分のみを飛び飛びに浚ってからやはり頭へ返し、楽章終結までいったところで時間であった、っまだそのあともソリスト、コーラスを入れて練習はつづくようだったが、

っきょうは午前のみ仕事をし、っさほど急がなくともよかったので、っいつものカッフェは、錦糸町の店舗は順番待ちをせずに済んだ例がなく、聖蹟にもあるので錦糸町行する前に寄り、午餉を摂ってから出向く、

っきょうで練習2日目なのだとおもうが、っすでに未整理の段階は脱しているようで、っあまりオケを停めずに進める、想像していた方法、段取りとそう遠く隔たるものではないが、もっと細部まで突っ込んだ表情を指示しておかなくてよいのか、っとはややおもった、プロフェッショナルの一般的の練習期間、3日間というのは、っいかにもみじかいのにちがいない、っぼくらの仕事でも、っあさから夕までの1日7時間の実働時間は、7時間あれば相当度のことができるだろう、っと漠然と期待しているほどには、っぞんがいたいしたことはできない、え、半日掛かってこれっきり進捗していないのかよ、ってなもので、オケの練習とて同断であろう、細部細部を極度に拘泥わっていては、全曲は一向に仕上がらない、っおおくのリハーサルの実情は、どこまで仕上げるか、っであるよりも、どこまでで妥協するか、っであるのかもしれない、

っこないだの同器におく井﨑氏公演でもおもったが、こんなにも鳴る器だったかしら、っというところ、1階席の8列目以降と2階正面席とを開放の自由席で、キーミツのお声がよく聴こえないかもしれないとおもうも2階正面最前列へ坐していたが、1楽章の終結など、満堂を揺るがす豪壮なる大音響、キーミツもおもわずに、音量、すばらしいですっ、っと太鼓判を捺されていた、っただ、っぼくとしてはこのあたり、全体としての音量音圧が得られていさえすれば満足とせずに、っもっとポリフォニーとしてどの声部がどう聴こえてくれたいということをあれこれ差配せられたくはあったが、っさてあすもう1日の練習で、っどういった演奏に仕上がるやら、



キーミツ公演だが、《ラ・ボエーム》のひとつと井﨑氏公演とがバッティングするかとおもったが、っこれは勘違いで、バッティングするのはキーミツの新日フィルとのショスタコーヴィチ《レニングラード》であった、っその切符はぼくはすでに両日とも購入してしまってあるので、井﨑氏は諦めよう、《ラ・ボエーム》は全公演日時が発表となり、東京は池袋で2公演、全国では7都市8公演だが、っぼくは池袋のうちひとつはカーチュン氏公演とかぶって行けず、っいまひとつは佐藤雄一氏公演と同時日だが、池袋を2公演とも聴けないのはざんねんなので、佐藤氏のほうを諦めむ、っほかは仙台、金沢、川崎、京都、兵庫、熊本だが、っぼくは金沢、熊本の日は他に予定があり、っそれ以外はすべて聴く心算である、オペラなので、シムフォニー・コンサートよりは切符が高額かとおもわれ、旅費も掛かるが、キーミツがラスト・スパートであるように、っぼくもことし1年、っどうとか踏ん張ろう、

っまた、っあすはそのキーミツのこないだ発表せられたばかりの6月の新日フィル公演の切符発売日、、、っのがおおいってののが、



っではでは、っあさっての公演へ期待を馳せつ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(1回配本)

 

《ぶきっちょ》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(1回配本)




目黒、




金山隆夫/カラー・フィル公演、済む、演目は、メンデルスゾーン《ルイ・ブラス》序曲、N響の佐々木亮氏を招いてバルトーク《Vaコンチェルト》、っそしてチャイコフスキー《悲愴》であった、メンデルスゾーンとチャイコフスキーとのともに同曲を同プロのうちに組むのは、ったしか上岡敏之氏が読響へ客演された公演でもあったのじゃないかとおもうが、っなにか由でもあるのだろうか、調性の連関性とか、楽句の共通性とか、史上の挿話とか、知らない、

っそのメンデルスゾーンは、中器に厳かに鳴って始まる、カラー・フィルもフライハイト響に劣らぬよいアンサムブルであり、1stには、中央区響でコン・マスをされていた壮年、小肥りの男性とおぼしき人がこんかいも乗られている、同団のVn連中のうち、彼氏は最年輩の類に入る歳恰好だが、奏楽のフォルム、ボウイングの闊達さは彼氏がいっとう勝るようで、若いコン・マスよりもよほどか意慾的の弾き姿であられる、終演して喫煙所でシガレットを服んでいると、彼氏がぼくの目前を通って帰ってゆかれた、、、っところでその中央区響の佐藤雄一氏が振られるこんどの公演だが、敢えなく、カーチュン氏公演とかぶってしまってぼくは聴けない、奥井紫麻女史とのラフマニノフ《パガニーニ・ラプソディ》と魅惑的の演目であり、っざんねん至極、

っで、午につづいてバルトークだが、っぼくはこの作曲家をぜんぜんよく聴かないので、Vaのコンチェルトがあることもきょう初めて知ったが、っどの曲を聴いてもだいたい不健康不健全で窮窟な音の肌合いをしているのですきになれなんだところ、っきょうのこのコンチェルトは、特有の出口のない深刻趣味は完全には払拭せられてはいないものの、遷り気にあれこれと楽想を乱れ打つそのどれもにどこかあっけらかんとした可笑しみがあり、楽器楽器の質感も効果的でたのしく、っぼくとしては僭越にも、お、なに、やればできんじゃん、っといったところである、っその楽案たちは彼氏の採集せる民謡から生起したものだろうが、抽象化せられているので、聴こえてくるのは精巧なマーキナーとしての絶対音楽であり、っむしろ無国籍のコムポジションである、っそのなかでしかし、っときおりかすかに、ん、いまのは一寸オリエンタルなのかな、っという音階が片鱗を覗かせたりし、っそれがよいアクセントとなっている、演奏も、佐々木氏といいオケといいじつによく練れており、っこちとら初めて聴く、っけっして単純明快ではない曲だのに、全曲ずっとたのしかった、

コンチェルトでのオケは愕くほど巧く、っひびきが安定しており、エラーらしいエラーもまるで発生せなんだが、チャイコフスキーははじめのうち、っやや雑然としていた、絃バス、ファゴット、佐々木氏も後列のほうで参加されたVaによる曲頭こそ最弱音に張り詰めた緊張感は出色だが、主部へ遷ると、木管はフリュートもクラリネットもしょっちゅう音がかすったり、っかすかに、きゃんっ、っといったりし、落ち着かない、絃にしても、㐧2テーマが初めて現れる段では、誰かセロあたりにピッチの甘い人がいて、っそれが鳴り出す瞬間だけおえっときもちのわるい不協和音が鳴ってしまっていたし、っつづく木管群による副次テーマも、遅くおおきく構える棒にみなよく附けられずに、連符を含んだ動機を唄いにくそうにする、

っしかし、っものぐるおしい㐧2テーマの再提示あたりからようよう集中力を増し、っついに一丸、展開へ臨戦す、っけたたましいティムパニを背景に絃が全霊を奮って歎き、トロムボーンの怒号と応酬する頂点は、Vnが最高音で絶叫し始める手前でティムパニを漸強せしめすぎると、っせっかくのその金切り声が騒音に掻き消されて曲趣も叶えられなく、っしかしどうしてもよのなかにはそうした演奏がおおく行なわれてしまっているところ、金山氏は迫力が犠牲となるリスクも覚悟の上で敢えてティムパニも他の声部もいったん抑えてしまって、満を持してVnを叫ばせる、納得の手筈だが、っそれにしても、っこの血みどろの破局を構成する絃とトロムボーンとで同一の動機はじつに、っあの麗しかったはずの㐧2テーマの副次テーマの、っその後半部分からの派生であり、チャイコフスキーは彼の人生行路上で、っまさに取り返しの附かない決定的の破滅を、っなにかしら経験したのにちがいない、想像できる人にだけ想像させておけばよいというその破滅を、っこれまで全世界の人々が懸命に想像してこの曲を演奏してきたし、聴いてきたのである、楽章を結ぶピッツィカート上の葬式のラッパにせよ、っかなり変型してしまっているが、っやはりこの㐧2テーマ副次テーマの変奏に聴こえる、っまた妙にあかるくて、聴いていて胸を締め附けられてならない、チャイコフスキーはそのこころを、人生を、っみずからの手で柩へ納め、っみずからの手で葬列へ送り出すのだ、っきょうのその葬送ラッパでは、トロムペット連が努めてトロムペットらしい剣のある音質を発すまいと、っかつそのために音量をまで矯めてしまうまいと吹くのがまったく出色で、っすばらしいテクニークである、っそれとトロムボーン連とが綾を成して重なり、葬列は粛然と歩んだのであった、

金山氏はあいかわらずの憮然たる棒だ、振るのを止してしまってオケを見ているだけという場面も頻出する、っもちろん2楽章は、5拍子なんて七面倒なものを振ってたまるか、ってなものであり、最終音を結ぶ途端に腕を下ろして、弱音のかすかな残響なんて知ったことかとでもいうようにスコアを捲る紙の音をさせている、っこちとらきもちがよいくらいだ、

3楽章は、っこないだのカーチュン氏公演では踏破後に拍手が起こり、っいまどきまだそんなあほな客がいるのかよと辟易させたものだが、っきょうはそんな心配は、っぼくは一寸したが、果たして誰も拍手せず、金山氏は腕を下ろして、平然と休みを取ってからフィナーレを招来す、っさいしょの1音に全員でうんとアクセントを附けて始める演り方より、っきょうのようにフェイド・インのようなボウイングで泣く泣き方のほうが、っぼくはすきだ、

全体に、っではなにか突出した存在感がありましたかと云われると、っとくに2楽章以降終演まではきびしい面もあるが、本調子へ達してからの1楽章では、教えられることも感銘を与えられることもすくなくなかった、っそれに、コンチェルトがおおきな収穫だ、っぼくは、彼のふたつのVnのものよりもよほどか名曲ではないかとおもいながら聴いていたほどである、



っさて、先週はじめに中野の試掘へ行ってきたが、っあさってもまた別の中野の試掘、っまた、来週には先年の狛江の古墳の頓挫していた調査のつづき、っぼくはこんげつは今週も来週も平日に休みを取る日があるので、っそれとバッティングしないかとはらはらしていたところ、人足人事ボスから、水野くんの休みとかぶらないようにスケデューリングしといたからよろしくねー、っと連絡があり、っぼくとしても他の人に任せるよりは自分でやりたい現場だったので、っありがたい、



っそれで次の演奏会はこんどの土曜、井上キーミツの新日本フィルとのマーラー《3番》だが、木曜にはそのテケツの所持者を対象とした公開リハーサルがあり、っぼくは音楽人には本番の舞台での勝負でのみ責任をとってもらえばよいので、っどんな手順で演奏を仕上げてゆくのかという過程を覗き見するというのは聴衆としての越権行為のようにおもうが、っまあ引退されてしまうキーミツであれば、っこちとらとしても格率を曲げてでも1度でもおおくそのお姿へ接しておきたく、午后休みを取って、錦糸町へ行くこととした、っもちろん、リハーサルの進め方の実際に触れられるのは、っすごくたのしみなことにちがいない、っぜひとも、っお客が見物しているなどということはいっかなお気になさらずに、っふだんどおりの練習を見せていただきたいものである、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(1回配本)

 

《ぶきっちょ》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(1回配本)




錦糸町、




井﨑正浩/フライハイト響公演、済む、

エネスコ《ルーマニアン・ラプソディ1番》、バルトーク《ダンス・スート》、ドヴォルザーク《8番》であったが、っゆうべも1時ころ帰り、っけさ8時前には起きねばならず、っやはり睡眠が足りていなく、聴いたことのないバルトークあたり、っあんなに忙しない曲調で、オケはあいかわらずの鮮烈な響を上げていたのに、っわずかに睡気をおぼえたが、っあとの2曲は誰もよく知る有名曲であり、っちゃんと集中して聴いていることができた、

っしかし井﨑氏の造形は、エネスコこそとくに目立ったことはしておらず、っいまだつい爽快な開幕というにすぎない部類だが、シムフォニーともなると恆のとおり稠密至極の棒であり、っこんかいもオケにはそれを叶えるだけの能力がある、

独自の味といえば2楽章であり、冒頭の絃に導かれる横笛の鳥の声と交互に鳴るクラリネットの重奏の歌とはともに動機的には同根なのだが、井﨑氏は前者をより啼声然、後者をより歌然と聴かせるべく、前者の音価をごくみじかく感じており、っほんとうに鳥が啼くようにさっと吹かせてさっと結び、対して後者にはぞんぶんに耽溺す、っおもしろい表現である、

フィナーレはいちばんむつかしい音楽で、要するに構成がつまらない、主題を低絃に出し、高絃を加え、トュッティへ至らしめる段取りがいかになんでも単純単調にすぎる、っいちおう主題自身がカノンにしてあるが、っべつに効果的とはおもえないし、トュッティへ至ったあと、㐧2テーマがあり、っその後の発展はなかなか白熱する、ポリフォニーとして刺戟的の緊張感を有ち、ファンファールが回帰する際のセロ、バスの楽器法もすばらしくたのしいが、っしかし展開としてやや短小の気味で、セロの歌が静かに戻ると、え、なに、せっかくたのしかったのに、もう止しちゃうんだ、っというざんねんを印象する、っそのくせ㐧1テーマのほうは延々といつまでもいつまでもくりかえすので、そんなかったるいのはいいからさっきの立体的のスペクタクルをもっと聴かせてくれたかったのに、、、っという、っおもえらく、大管絃楽による複雑なポリフォニーは、作曲家としてそれを書くのにひどく苦労を要するが、っひいこらいいながら何日もかけて書き上げたそれをしかしじっさいに音にしてみると、っほんの30秒とか1分くらいのものだったりする、ドヴォルザークとしてこのフィナーレの㐧2テーマを出してから熱狂の頂点で冒頭のファンファールを戻すまでの筆致には、強固な自負自信があったのにちがいないとおもう、ったしかにすばらしい聴き応えだが、如何せんみじかい、っせめてもうほんのすこしくでもいろいろやってくれたくおもってしまう、っや、㐧1テーマがあんなに冗長でなければ、っそれとの相対比較でまだしも保つのかもしれないが、

っそれはまあぼくの雑言だったが、井﨑氏は着実かつ颯爽たる足取りで、っみごとに全曲を結ばれるのであった、



っそれにしても、位置は2階右翼バルコニーの中程だったが、っあの器ってやあんなに鳴るもんだったかしら、新日本フィルなどを聴きに来て2階正面へ坐すと、視覚的にも聴覚的にもわずかに舞台が遠い気がいつもするものだが、っきょうはエネスコから、シムバルなどべつに滅法に打っているわけでもないのにずいぶん派手に聴こえ、金管の強奏にしても突き抜けるように鋭い、っあれでも正面席まで下がってしまうとわずかに籠もったような聴こえになるのだろうか、



っとまれ、都立大でなく1駅手前の学芸大まで来て、奇しくも井﨑氏に所縁の地でもあることにおもい当たったが、王将で食事す、オペレイションはきのうの名古屋の店同様にすばらしかったが、店長とおぼしき人がのべつ小言ばかり云っているのがこちとらにも聞こえてくるのがやや難といえば難だ、小言は、っそれを云えるだけの能力のある人間と、っそれを云われてもへこたれない朗らかなメンタリティの人間と、っどちらがより重要人物であるか、っじつに一考の価値があるようにおもう、っがみがみと小言を云う人とそれに畏縮してばかりいる人たちとの職場がいかに居心地がよくないかをおもうと、っぼくなど、小言を云う人は、小言を云われてもへこたれない人にいわば救われている、小言を云われてもへこたれない人は、何度でもおなじ小言を云われる権利を有っている、っとさえ云いたいくらいだ、

っで腹熟しの心算で駒沢通りを駒沢公園の先まで歩っていつものカッフェへ入って時間を潰し、っいま器まで来たが、っけっこう大勢並んでいる、19:30開演なのにふつうの演目なので、終演は21:30ころになるのではないか、っきのうの豊田も、っきょう午の錦糸町も、っいま目黒でも、っまったくおなじような位置、っすなわち2階右翼バルコニーであり、っいまは自由席で、っぼくより先に100人や150人は入場していたとおもうが、っぼくは階上へ登り、っしかしそこからでは2階の正面席へっきり入れず、正面席から見る右翼バルコニーへはまだほとんど誰も坐していない、2階堂内を後にして階下へ降りむとする人影もひとつふたつあり、あの人たちもバルコニーをめざしているにちがいない、っと逸る気持ちを抑えて慌てて階下へ向かうが、ブロック毎にいちいち扉が異なり、っうちひとつへ入ってみて、ここじゃないひとつ後ろだ、っとおもうその後ろのブロックをちょうど女性がおひとり覗いており、っしかし瞥見してそのまま扉を出むとしているようにみえたので、よし、そのままそこを諦めてくれ、俺が坐るから、っとぼくも扉を出て小走りにそちらのブロックへ向かい、っよろしく最良というべき位置を得るに及んだ、っめでたい、眺望は3器中で最高といってよく、バルコニーであるにも拘わらず舞台の楽器がひとつ残らず見渡せる、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(1回配本)

 

《ぶきっちょ》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(1回配本)




渋谷




都、遺跡発表会午前の部、済む、

発表をされた4名の方のうち2名とは、っぼくも仕事上で直接の附き合いがあったが、っふだんとちがう緊張している顔を拝ませてもらえるかとおもったら、っおふたりとも流暢で、っよく纏まった発表をされた、世田谷については、っうちの会社で作成した形象埴輪の3Dデイタもよろしく活用せられていた、

っしかしいつもおもうが、っこの発表会は、一般の人間にとっては遺跡の実相の一端を知るよい機会かもしらんが、っなにしろ各遺跡の発表は1人2、30分程度、っそれも地歴の概説から始めねばならないので、出土内容については概要も概要を述べるにとどまらざるをえず、っぼくら遺跡会社の素人社員にとってもそうだし、専門家にとってはなおのこと、っおよそ喰い足らない通り一遍の話っきり聞けまい、午前の部が散会して手洗へ寄ると、っその手前で、世田谷の発表聞きに来たのよ、っというソヴァージュ・ボスと往き合ったが、っうちのほかの人間の顔は誰も見なんだ、手洗では、専門家同士というのでもなさそうな老紳士2人連れの会話を小耳に聞いたが、曰く、誰々さんには声を掛けたの、うん、電話したけれど、行かないよ、レジュメだけ送ってくれればいいからだってさ、っと、っま、一寸でも遺跡を識っている者にとってはそんなところだろう、

っただ、開口一番を務められた北区の貝塚の発表でわずかに小首を傾げたのは、貝層はおろかその下部の砂礫層のさらに形成以前の土層に、木杭、竹杭が打設せられてあるのが検出せられたという報告だ、腐蝕が相当度に進行していたとのことではあるが、示された写真を見るかぎり木質が瞭然と遺存しており、一目で木杭、竹杭とわかるような状態だったし、実測図も掲出せられていたから、っつまり取り上げることができたというわけで、っぐずぐずの、っほとんど土へ還りそうな木質ではなく、っほんとうにごろんとした杭として埋まっていたはずである、っいかなシルト質土層にパックせられているとはいえ、有機物がそんな軽度の腐蝕のまま数千年に亙って遺りつづけることがあるのだろうか、っぼくなど、砂礫層下部からの検出っつってるけれど、ほんとうはもっと上から打ち込まれているごくさいきんの杭をそうと見誤ったんじゃねえの、っと訝ったくらいだが、年代測定でも縄文時代のものとの結果が出ているとのことで、質疑応答の際に敢えては質問せなんだ、後学として、低地性遺跡においては、っあんなにはっきりした木でも縄文の遺構の可能性もあると弁えておくとせむ、っま、っでもそうだよな、同遺跡では往時の汀線と想定せられるあたりから自然流木も出土しているというから、木が遺るんだねえ、6,000年も7,000年も、



っさて、午后の部では、っかってのうちの中央区現場へあの往時、研修で出張ってきていた女の子が、っどこかの遺跡の近代遺構のコンクリート基礎みたようなものについて発表をなさる予定となっており、彼女こそド緊張されそうなタイプにおもえ、っその姿を見たくもあったが、中座して錦糸町へ移動、っこれから井﨑正浩氏とフライハイト響との公演、メインはドヴォルザーク《8番》で、棒に趣味がないと構成が淡泊にすぎると聞こえてしまい勝ちの曲なので、っそこを井﨑氏の辣腕に期待を懸けたい、前プロにカッコいいエネスコ《ルーマニアン・ラプソディ1番》が含まれるのもうれしい、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(1回配本)

 

《ぶきっちょ》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(1回配本)




豊田、




井上キーミツ/名古屋フィル最期の共演、済む、

っやはりキーミツはブルックナー《5番》を初振りでいらしたようだが、っそれであれかよっっっ、っなんたる微に入り細を穿つ譜読みと、っそれでいながら全体の流れの自然さか、

っそして名フィルっっっ、豊田市コンサート・ホールっっっ、っかなり手狭なので、っこんなところでブルックナーなぞ鳴らしたらわんわんぎゃんぎゃんするだけではないかと惧れたが、っもちろん優に飽和している、全曲開始からしばらくはうるさくなる1歩手前だったが、っじきに熟れて、っそうすると綜ての楽器が、下位の奏者に至るまでじつにじつに濃密に聴こえる、っあの芸文センターでのキーミツとのショスタコーヴィチ《8番》でも天下の名楽団とおもわせたものだが、っきょうはこの器の性格もあり、っなお輪を掛けて雄渾の極致、

坐した位置もザ・ベストっっっ、っすなわちR1列の34番だが、っそこからバルコニーが1段上方へずれており、っその舞台へ最も近い突端部なのだが、視界としても期待したとおり、っや、っそれ以上の最高の眺望で、っもうすこしく死角ができてしまうかと踏んでいたので、入場して席まで行って坐したときの感動は無上であった、周到に切符争奪戦へ臨んでおいてほんとうにほんとうにほんとうによかったっっっ、っこのほんの1公演のためだけに先行販売へありつける器の会員費¥3千/3年を出した甲斐があったというものである、



ブルックナーの前に豊田市ジュニア・オーケストラの面々と名フィルとの合同演奏でモーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》序曲、絃は全プルト表へ子供たちが坐し、裏は名フィル連、管も名フィル連は2番以下へ下がり、子供たちをバック・アップ、狭い器にモーツァルトらしからぬ大編成だが、っしたがってこの時点ですでにして曲頭からこちとらの肺腑を抉るまさしく地獄の音がする、キーミツはコンサート・ピースとしてのモーツァルトの序曲では《フィガロ、、、》でも《マジック・フリュート》でもなく同曲をこのまれるようで、っすでに複数回聴いているが、っきょうはひびきの迫眞性においてこれまでとまるで段違いである、っほんの数分のみで子供たちの出番は済んでしまったわけだが、っその数分で、っぼくのブルックナーへの期待は無限に膨れ、っはらはらしつ15分の休憩をすぐしたのであった、



果たして、っその1楽章はなんと立派に屹立したことだろう、初振りという経験値不足はかえって怪我の功名というのか、キーミツもショスタコーヴィチなどでは、十八番ということもあって、煩雑な変拍子でも棒がぞんがい不親切だったりするが、っきょうは音々を丁寧に丁寧に扱わむとするのが腕の軌道や楽員楽員とのアイ・コンタクトの取り方に如実に表われており、大トュッティが去ったあとへすくない楽器のみが取り残されるような個所で拍を明確に振ってあげたりなど、上に云う自然な流れは、っそうした愼重さからこそ結果結實していたものである、っそして、っさように1音1音を着実に置いてゆく手附きにより、感情に流された軟派な雰囲気が微塵もせず、っある種の冷厳が発露したことが、っこの1楽章の曲趣と期せずしてよくスウィングした、㐧2テーマなど、テムポとしては速いくらいで、絃の唄い方もひじょうによい意味でさばさばしている、っそれでこそポリフォニーの複雑さは高解像で伝わり、容易に人を寄せ附けない気高さが出来するのである、っこの楽章にかぎらず全曲に亙って、悠然たる名フィルが高級な器に鳴って、恆にごくごくゆたかなひびきだのに、同時にすべての瞬間がいつも物理音の集積として明晰でありつづけたことが、眞に偉大である、ハーモニーも濃厚、ポリフォニーも設計図をでかでかと拡げて見せられるかのよう、っまさしくシムフォニー、一大シムフォニーの一大演奏である、

2楽章では、㐧2テーマのふかぶかとした絃合奏に抱擁せられて、っぼくはついに落泪を堰きえなんだ、っや、3楽章でさえ、一転、っぐっと腰を沈めて豊富な情報量を確保せむとするキーミツの棒と、っまた名フィルのレスポンスにみる冷静と熱情との塩梅とに、っぼくはぐっと昂るものをおぼえないわけにゆかなかった、っそれにしても、っあの札幌での弱々しいキーミツはぼくをひどく心配させ、いったい向こう1年間、彼氏のご体調は保つのだろうか、っとおもわせたものだが、っきょうの振り姿など、意志と意慾とに溢れる、本調子中の本調子ではないか、っそしてやはり、っそうした心技体に充実しているままに、彼氏はお辞めになりたいのだ、

フィナーレはきょう、人智における喜悦、勇躍としての㐧1テーマ、超越者としてのコラール・テーマ、っそのコントラストを初めて実際の音として眼前にみた気がした、っそしてその両が、っついに同時に鳴るのである、っこの作曲企図自身としては楽聖からの感化、借用にほかならなく、っあまつさえ楽章冒頭において先行楽章を回想することさえ模倣しているが、っそれを純器楽で、っより執拗かつ周到な展開に徹し、全編をこれフーガで一貫せしめたことにより、天上の楼閣は竣工をみた、っきょうさっきほど、最後に最強奏の裡にコラール・テーマが凱旋してくる時間を唖然として仰いだことはいまだかってない、

っゆうべほとんど睡眠らしい睡眠が摂れていないにも拘わらず、睡魔が寄り附く隙はなかった、っほんとうにみごとな演奏であった、キーミツのブルックナーは、読響との《8・9番》を川崎で聴いているが、器の条件からいって、っきょうの感銘は次元がちがう、っあるいはキーミツの表現の熟度としても、初振りのはずのきょうの《5番》こそ突出しているやにおもえる、っそしてしかし、っきょうはいま、ブルックナーを聴いた、っという実感がよりつよい、キーミツを聴いた、っではなく、指揮者冥利に盡きるであろう達成ではないか、



っそのキーミツ、っまたあらたな公演予定が加わり、奇しくも京響とのブルックナー《8番》、っそれはしかし先回の彼氏の同響公演時に舞台上で言及されていた、彼等コムビはすでに同曲の音盤を制作済みだが、っそこではソフィスティケイトせられたひびきがこの作曲家にそぐわないようで、っなべて弱音をよわくしすぎる嫌いもあり、っきょう出せていたような硬派、豪傑的の佇まいからは遠い、っぜひそのあたりの更新を期されたいところだ、

午は食事のあと丸の内から地下鉄へ乗り、乗り換えなしで豊田市だったが、っそれは名鉄で、車輛は、っむかし懐かしいあの鈍い臙脂色みたようなボディであった、っぼくの実家の最寄り駅も名鉄で、高校生、浪人時分にまいにち乗っていたときにはそのおなじ車輛だったが、っいつかに帰省すると銀のもっと洗練せられたものに変わってしまっていた、っまだ路線によっては旧いままなのである、

豊田から取って返してこんどは伏見で降り、名駅方面へ歩き、王将で食事、厨房の巧さといいホールのオペレイションの円滑とおばちゃん店員さんの愛想のよさといい、ったまさか入ってみたが、最高クラスの店舗のうちへ数えてよいようで、席へ通されてものの10分15分で食事が済む、っすばらしい、

名駅で土産を購っていったんコンコースを突っ切り、南側へ出て、南側ってのか西側ってのか、詣でたい詣でたいとおもいながら何度行っても改装中で封鎖せられていた椿神明社がやっと開放せられており、首を垂れて柏手を打ってくる、戻って駅前の喫煙所で一服、新幹線のホームへも喫煙所があったので、っもう一服、っいま車中で、っはやいところこれを書き上げて赤福を食べながら茶を飲みたい、



帰宅は日附を跨ぐころになろうが、っあすも忙しい、っあさは、渋谷で都の遺跡発表会をしているので聴講へ行き、夕まで1日中やっているがぼくは午前中のみでどろんして、午は錦糸町で井﨑正浩氏公演、っよるは目黒へ遷って金山隆夫氏公演である、疲れるわ、、、



ってなわけで、赤福赤福、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(1回配本)

 

《ぶきっちょ》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(1回配本)




名古屋着、




豊田での開演は16時なのだが、安い新幹線の切符であさいちばん遅い発の部類がこれっきりなかった、帰りにしても、終演は18時ころ、名駅へは19時にはいられようが、21:50とかなり遅い車輛である、

っゆうべは例によってベッドへ横になったのが3時ころとなってしまい、っしかもふだんはころんと睡られるのになんだかよく睡附かれず、っしたがって新幹線の車中ではほとんどうとうとしていた、



っきょうは、っついいま、井上キーミツのLFJ2公演のぴあのpocoなる会員のための先行販売が開始したので、名駅南口の喫煙所へいて無事に購入す、っやはり5,000席級の超大器では2,000席級以下の器のように2階席へ上がっているばあいではないので、2公演ともまったくおなじ席、1階の前方右寄りとしてみた、最かむりつきのほうが直接音が鮮烈かもしらんが、っぼくはどうしても視覚として全楽を見渡しつ聴きたい人なので、16列目である、去年の経験からゆくと、同器、有楽町最大器だが、っは1階席も後方へ向かってスロープ状に迫り上がっていたので、っそのあたりならばまずまず視界良好のはずである、

キーミツ引退イヤーだが、っぼくはすでにほとんどの公演の切符を入手済みである、っせんじつ札響や山響とのものが発売となり、両とも購ったし、っまだ1回券は発売せられていない新日本フィルとのショスタコーヴィチ《レニングラード》も、複数券同時購入で確保、神奈川フィルとの伊福部《リトミカ、、、》ほかにしても、抜かりなく入手しうるだろうかなどと発売を待っているのも気を揉むので、っやはり沼尻氏の他公演との抱き合わせで購っておいた、発表済みのものであとまだこれから発売となるのは京響公演や《ラ・ボエーム》くらいだが、後者は、川崎でのそれが井﨑正浩氏公演とバッティングすることが判明しており、ったしか池袋でも開催のはずなので、っそれと近場の地方でもう1、2公演行けそうならば、川崎は遠慮して井﨑氏を聴こうとおもう、

っとおもっていたら、っきのう、6月に新日フィルとのトークを交えて小品ばかりを演るものが発表せられ、っまだこれからどこへなにが殖えるかしれない、っとはいえ、売れ行きとしては、っぴあで当たると完売している公演が複数あるも、目下のところそれらとて発売から長時日を經て、開催日が近くなってやっとというところで、他のプレイ・ガイドでも完売しているのかもわからない、っこのぶんでゆくと、っほんとうに緊迫して切符入手に努めねばならないのも、12/30サントリーの最終公演くらいかとおもわれる、オケが読響であるということっきりで、曲目はいまだ不明だが、っさてどんなかねえ、ショスタコーヴィチ新全集完遂のために《14・15番》が未演奏ではないかといつかに云ったが、前者は数年前に神奈川フィルと、後者もどこでだか演奏されていたらしい、最後の最後に聴衆へ謎をかけて去るという趣向で、《15番》などは打って附けではないかとおもうのだが、っともかく、ワガママ放題のプログラミングを披瀝せられたいところだ、



っそれから、っぜんぜん知らなかったが、去年の大収穫、堀俊輔氏のバッハ《マテウス・パッション》が、年末のうちに音盤化、発売せられていたようだ、公演時、舞台へマイクがあったので録音していることはわかっていたが、市販へ附すのかプライヴィット盤なのかとおもっていたところ、っちゃんと市販であった、欣喜雀躍とともに註文し、発送済みなので、っきょう帰京してあすにはうけとれるのではないか、



っさ、新幹線切符の購入特典利用で、っこれから食事でもします、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(1回配本)

 

《ぶきっちょ》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(1回配本)




金沢、




井上キーミツ/OEK公演、済む、

っあさは7:40すぎには大宮へおらねばならず、5時には起きて6時には南大沢から京王へ乗ったのだが、っゆうべ帰宅して散髪してオーケストラ・ダスビダーニャ音盤を何枚かPCで吸ってiPhoneへ同期してとやっていたら、睡たのはなんと3時すぎ、2時間ばかりっきり睡られず、っしたがって金沢まで来る車中は何度も睡りへ堕ちた、

開演は14時だが、10時前には金沢着、金沢土産、っで検索し、駅ビル内でめぼしい菓子を2品ほど購う、終演後でもよかったかもしれないが、っひょっと人気の品だと、夕にはもう売り切れているかもしれないとおもった、駅からやや歩って王将で食事をし、っすぐ斜向かいにいつものカッフェがあったので食後のコーフィーを啜る、っけさ出掛け、っもはや歯をみがく時間がなかったので歯ブラシとペイストとを持参し、駅前まで戻りがてら、中途の公園の手洗い場で済ます、食事へ行く前に音場の正面の喫煙スペイスで一服、カッフェの前へも灰皿が設置せられていたのでそこでも1本、音場まで戻って開演前にも2本、っそれぞれシガレットを服むゆとりがあった、天気を調べておいたが、気温は東京とほぼ変わらず、っきょうなどは陽も出て暖かいので、王将まで30分弱歩く間には、っかすかに発汗するほどであった、日没もだいぶん後ろへのびており、っいま17時すぎで帰りの新幹線車中だが、窓外はまだ午間のように明るく、冠雪した山並みが眼にまぶしい、

石川県立音楽堂は、っもちろん初めて来たが、1,500席余という堂内は快い、2階正面最前列右端だが、2,000席級の器ほど舞台が遠くないのがうれしい、音響もすばらしく、小ないし中編成のOEKの音像もまた遠くない、っそして、っしばしば芳醇な残響に醉う、

演目はハイドン《軍隊》、武満《絃レク》《3つの映画音楽》、っそしてグルダ《セロ・コンチェルト》である、

ハイドンは、昨夏、キーミツのご療養により本名徹次氏が代打を務められた郡山響の演奏、、、っあれは何番だったか、っが忘れ難く、っそのときぼくは、予定通りキーミツが振られていたとしたら、かほどの大演奏となったろうか、っとここへ書くほど本名氏の融通無碍なる棒にやられてしまったのだが、っどうして、っきょうのキーミツもけっしてそれに敗けていなんだ、

ハイドンは、心配しなくとも、っいつもどこかしらへかすかなタネやシカケを用意しておいてくれる、っきょうの《軍隊》ならば、1楽章の㐧2テーマなのかな、っそこにおくオーボー2番の用い方などがそうで、どう、これ、おもしろいでしょ、っと向こうから同意を求めてくるので、うん、おもしろいおもしろい、っとおもいながら聴いていれば、っようようその筆致に手繰り込まれる仕儀となるのである、

っその点で武満《絃レク》は、っもう何度も聴いたが、ったのしみ方がよくわからない曲である、絃楽器の質感があれこれと多彩に配されているのはわかるが、っどういう主題がどう発展、解決し、っそれがどうレクイエムであって、っなにより、音楽的にどうたのしいのか、っどうインタレスティングなのか、貧寒な感性のぼくには不明である、

《3つの、、、》はちゃんとたのしい、っぼくはそれら映画をいずれも観ないし、っだからどういう場面の音楽なのかも識らないが、ボクシングの曲もさることながら、〈ワルツ〉が大人の味だ、《他人の顔》の劇中曲というから、テメエのかみさんが誘惑へ靡いてきてしまうことへの亭主としてのおよそ名状に堪えぬ感情を表現しているのだろうか、演奏もまた、音色といい和音といいアゴーギクにおける全身の揺すぶり方といい、っほとんど赫裸と形容したいほど濃厚で、キーミツ/OEKとしてもかねてよりの名刺代わりの逸品なのだろう、

グルダのソロは同団の名誉職へ退かれたルドヴィート・カンタ氏、オケは絃が抜けて管のみとなるが、ドラムスを伴なってロック調の部分もあり、音量バランスが取れないからであろう、ソロ、っおよびギターはマイク、スピーカーを通していた、

っぜんぜん識らない曲だったが、っさまざまの要素がてんこ盛りでありながら、っぞんがい臍曲がりの偏窟漢の書いた音楽という感触は薄く、っむしろ恆に平易な曲調で親しみ易い、カンタ氏もすばらしく闊達だが、5楽章制のフィナーレは人を喰ったようなあっけらかんたるマーチにセロの音色をぞんぶんに活かした哀感が対照せられ、っなにか聴く者をして微苦笑を催せしめるための音楽であるかのようだ、



っさて、次は再来週まで間が空いて、っまたキーミツ、名古屋フィルとの最期の共演という、ブルックナー《5番》である、キーミツはこれまでに同曲を振られているのだろうか、寡聞にして聞かないが、っまあともかく、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(1回配本)

 

《ぶきっちょ》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(1回配本)




四ツ谷、




坂入健司郎氏の棒、東京6大オケ連盟公演、済む、

演目はシベリウス《フィンランディア》《7番》、ブラームス《2番》、開演は18:30と早かったので、仕事のあと聖蹟から四ツ谷まで移動でややぎりぎりだったが、っそのぶん終演は早く、っゆうべもあまり睡ていないので、帰ってゆっくり睡たい、

狭い紀尾井町へ後期浪漫派以降がたっぷりと鳴って、っまずまず快い、オケは、《フィンランディア》冒頭でブラスとティムパニとが出、侘しい木管が加わり、絃が悽愴に渦を巻き、っそのすべてがブリリアントだったのでかなり高水準の合奏能力におもえたが、主部以降、シムフォニー2曲にしても、っそこで期待させたほどの精度ではなかった、精度というか、っいま一歩、執念を実感せしめる発音発音で全体を聴きたかった、っなまじ弾けてしまうだけに、長丁場の曲となるととくに、っこだわる以前にもう音を出し了えてしまっているという、っやや虚ろな手応えがせぬでもなかった、基礎体力の高い学生オケにはあり勝ちのことで、っこんかいは合同公演でもあり、各個別の団体で半年1年を掛けてひとつの演目を準備してゆく通常の学生オケ公演とは、っだいぶん事情がちがったのかもしれない、

シベリウス《7番》は、何度か聴いてきてはいるがなかなか楽想が摑み切れておらず、っきょうの豊麗な音響をもってしてもやや睡気を誘われたが、彼の他の曲にみられる特有の音型や書法、楽器法の質感などがところどころで把握できるようにはなってきたので、っもう何度か聴くうちにはようようたのしみ方も身についてくるのではないか、

ブラームスは、造形として全体にとりたてて云うこともなく、終曲の最後もまだまだ小音場へ剝き出しの熱狂、滅法に迫力を更新せしめず、美観を保ったうちに終結せしめられたいぼくの趣味とはちがうが、坂入氏の端然たる棒は、恆のごとく緩徐章を清潔に洗う、



っさて、っこんどは日曜、っはるばる金沢まで、井上キーミツとOEKとの公演、っあさは早い、向こうで食事をしたり土産を購ったりして、っすこしくでも散財してくるとせむ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(1回配本)

 

《ぶきっちょ》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(1回配本)




論理的思考の欠如が、




っいま日本の若年層において、構造的に生起しているのだろうか、

っこれからここへ書くことは、愚痴とか怒りというよりも、っほんとうに単に不可思議の表白と取られたい、なんでそうなるのよ、、、っという、

っや、っきょうは板橋の試掘で、っあさきのうのオーケストラ・ダスビダーニャの音盤のふたつほどをiPhoneへ同期していたら室を出るのが遅くなってしまい、9時ぎりっぎりに現場へ着くという醜態を晒したが、っま、現場周辺がスクール・ゾーンで9時を回らないと重機を積んだダムプが進入できず、作業開始はそれ以降だったので、事なきを得た、

っそれで午后に作業を了えて、っいま府中のあたりまで戻っていつものチェインのカッフェで休憩しているが、カッフェの店員さんというのはみなお若いアルバイトの方だろうが、っこのカッフェではどこの店舗でも外国人を雇い入れているということはなく、っほぼ全員が日本人である、っそれが、っごく頻繁に、見咎めるほどではない細かなオーダー・ミスがある、っぼくは苛立つよりもほんとうに、あ、え、なんでそうなるのよ、っと呆気に取られてしまう、

っぼくはだいたいいつもデザート・セットでアイス・コーフィーを頼むのだが、っこのカッフェでは、っその段階でコーフィーへガム・シロップを入れるのかを訊かれる、、、っそれでだいたいどこのチェインだか知れてしまおうが、甘党のぼくはシロップは入れてもらうが、ミルクならぬフレッシュは使わないのでかならず、ミルクは要らないです、っと云い足す、っきょういまもそうしたが、っそのとき長身イケ・メン君の彼は、はい、ミルクなしで、っとたしかに相槌を打った、っところが、っものの2、3分後に商品をおなじ彼が運んできて、こちらアイス・コーフィーになります、こちらミルクです、っとミルクをテイブルへ置いて寄越すのだ、っそしてその、こちらミルクです、っと云う声音、トレイからテイブルへ銀のちっちゃなミルク・ポットを運び下ろす手附きに、っほんのほんのほんの一片の躊躇も発露しない、っつまり、あっ、いけねっ、この人ミルク要らないって云ったんだっけ、っという感触が皆無絶無なのだ、っこちとら吃驚してしまう、え、キミさ、俺とキミとが、ミルクは要らないです、はい、ミルクなしで、て会話を交わしたの、つい2、3分前だったよね、俺のあのときの、よし、ちゃんと意思の疎通が叶ったな、て手応え返してよ、、、っという、っそれがきょういまの彼だけではない、複数の店舗で、っごく頻繁に起こるのだ、

っおそらくこういうことだ、っこのカッフェでは、オーダーはタブレットというかスマート・フォンのようなもので受けている、っそこでオーダーを送信すれば、アイス・コーフィーならばアイス・コーフィーを準備するのは厨房の人間だ、オーダー用のアプリケイションにミルクの有無まで指定する項目がなければ、アイス・コーフィーを作る際にはミルクも附属せしめるまでが厨房としては一連の工程となる、っだからオーダーを取ったホールが厨房まで戻るころには、ミルクが附属したアイス・コーフィーが用意せられてしまっている、

っぼくが云うのはそこでだよ、っそのオペレイションなら客がミルクは要らないと云ってもミルクまで附属でアイス・コーフィーが用意せられてしまう、っしかし、オーダーを取ったホールは、あのお客さんはミルク要らないっておっしゃったからな、っと厨房へ向かって、ごめんなさい、このお客様、ミルクご入用でないんですよ、っとひとこと云って、コーフィーのみをトレイへ乗せて、っちっちゃなミルク・ポットは乗せないで給仕へ向かうことができるはずだろうと、っところがじっさいには、用意せられるままコーフィーとミルクとを両とも持って、っそのまま客へ出してしまう、っそしてほんとうにどうしても不可思議至極で仕方がないのだが、繰り返すが、っきょうの彼も、彼以外のほかの店舗の店員さんも、要らないと云ったミルクを運んで来てしまう人は、っまったく、完全にいっさいの躊躇なく、こちらミルクです、っと云ってそれをぼくのテイブルへ置いてゆく、っほんとうに、っまったく、完全にいっさいの躊躇なく、っだ、怒っているのでなく、っむしろ笑ってしまうのだ、っあれで、っこれも繰り返すが、っほんのほんのほんのすこしくでも、あちゃあ、この人ミルク要らないんだったわ、でももうここまで来ちゃって、こちらミルクです、て口に出して云っちゃったし、このまま知らんぷりして置いて来よ、っみたようなニュアンスが声音とか挙措とかに露われていたら、あ、たまさかいまは不注意だったのね、っと納得できるのだが、お前の記憶は1分しか保たんのかい、ってなばかり、っほんとうに、っまったく、完全にいっさいの躊躇なく、こちらミルクです、っだからなあ、、、笑うよ、

っや、大学生風情のアルバイトなんてそんなもんでしょ、バイト済んだら一刻も早く彼女へLINE送りたいとかおもいながら上の空で働いてんだから、っくらいに解しておくのが妥当とみる向きもあるかもしらんが、っぼくはなにか構造的に、日本人の論理的思考が著しく減退してきているのではないかと訝らずにいない、



っだいぶん以前、っもう10年くらい前かな、っここで、7・11のnanacoという電子マニーのチャージについて云々したことがあり、っそのときにもロジカル・シンキング、、、亡くなった西部邁氏は濁らないthのときにはスィンキングとこういう表記を採られていたな、っではその顰に倣って、ロジカル・スィンキングの欠如を難じ、っかつ歎じていたのだった、

っぼくは、っいまではもうnanacoは使わなくなってしまったが、画学生時分に7・11何軒かでアルバイトをして、っそのときにちょうど同サーヴィスが開始したので、店長から君等も作って使ってくれろよと作らされて、っそのまま惰性で数年は使用していた、っそれは¥1千単位でチャージして使用するのであり、7・11の、っいまはレジスターを客が手ずから操作して行なうのだが、普及当初は、店員へチャージの旨を申し出て、チャージ分の現金を相手へ渡し、店員がレジスターを操作して、客がタッチ・パネルへカードをかざすかたちでチャージをするのだった、っさてそのときにだ、っぼくの10年だか以前の雑言は、nanacoにチャージお願いします、と云って¥1千札を出したときに、nanacoに¥1千チャージでよろしいですか、と訊き返してくるな、っというものであった、

論理的思考をあたりまえによくする人は、っそこでのぼくの苛立ちに、うん、水野のそのきもち、よくわかるよ、っと同意してくれることだろう、同サーヴィスは、¥1千単位でっきりチャージしえないのである、っしたがって、っいくらと金額を云わずにただチャージだと云って¥2千札以上を出したお客にはいくらチャージするのかを訊く必要があるが、¥1千札を出しながらチャージだというお客に対しては、っなにも訊き返さずにかしこまりましたと札を受け取るのこそ論理的に眞である、¥1千チャージでよろしいですか、っなどというトートロジーを擲げ返してこないでくれたいのだ、っそれが、っまあ敢えて云えば男性的の論理的思考というものである、女性はよく男性に対して、男はぜんぜん女心がわからない、っと不平を云い、っもちろんぼくらはそれをよろしく、、、っか甘んじてかはともかく、っすべて恭しく承りますけれども、っでは女性は、っこういうときに苛立つ男心というものをよく諒解されているのであろうか、、、っや、っその10年前に愚痴ったnanaco談義のときにも、申し訳ないが、¥1千札に対して¥1千チャージでよろしいですかと訊き返してくるのはおばちゃん店員におおいと断わっておいたのだった、、、

っただ、っぼくもそれなりにおじさんになりましたのでね、¥1千札に対して¥1千チャージでよろしいですかと訊き返すのは、勘違い防止などの周辺的の可能性まで考慮へ入れれば、完全にトートロジックとまでは云えない、っということくらいは弁えてはいますよ、っすなわち、客はほんとうに¥1千札の心算で¥1千札を出したのか、ほんとうは¥2千札以上の紙幣を出して¥2千以上のチャージをせむとしているところ、よく見ずに誤って¥1千札を出していないともかぎらない、あなたの出した紙幣は¥1千札ですが¥1千チャージでよろしいんですね、っというふうに解すれば、¥1千札に対して¥1千チャージでよろしいですかと訊き返しても、っこれは論理として整合しているし、っそこに女性特有の親切心をみることにも、っまあぼくは吝かではない、、、っでもねえ、っあの往時、っぼくに¥1千チャージでよろしいですかと訊き返してきた大半の7・11のおばちゃんたちは、っやっぱり論理的思考が欠如しているからそう訊いてきてしまっていたように、っぼくにはみえていましたけれどもね、



っそういうことはぼくのばあい、日常生活のなかでたくさん気が附くのである、ったとえばいつも寄るスーパー・マーケットでは、現金払いのときのみ、食糧品については3/103の値引きを受けられるメムバーズ・カードというのがあって、、、っまたどこのスーパーかわかっちゃうだろうけれど、っそれは現金払いっきり適用せられないのだ、っそれでレジ打ち時に同カードを提示して、会計は会計機で客が手ずから行なうのだが、っなんだか現金払いとそれ以外の会計法のときとでレジの最後の操作が異なるのか、レジ打ちが済むと店員さんが、お会計方法はどうなさいますか、っと訊いてくる、っもうおわかりだろう、っこちとらが同カードを提示してレジ打ちが始まったのなら、お会計方法はどうなさいますか、っとか、お会計は現金でよろしいですか、っとかと訊いてくるなというのである、現金払いじゃなきゃこの割引きは受けられないのだから、同カードを提示した時点で他の会計方法は捨象せられている、っそれが論理というものである、トートロジーを俺へぶっつけてきやがるんじゃねえ、俺は男だぞこなちきしょう、っという、っこれがいつの日もまともな、、、っはずの男の苛立ちというものである、



っあるいは、ったまにマックへ行くことがある、っぼくはいつもいちばんさいしょに、テイク・アウトでお願いします、っと告げてからオーダーへ入るのだが、っかなりの頻度で、オーダーを了えたあと最後に向こうから、お持ち帰りでよろしいですか、っと訊かれる、っひどいときには、店内をご利用ですか、っとくる、っずっこけちゃうよまったく、っそれもいまのこのカッフェとまるでおなじで、あんたの短期記憶はいったいどうなっとるんだ、っというくらい、っまるで平然とそう訊いてくる人もすくなくない、

最後にそう訊いてくるということは、レジスターのタッチ・パネルでイート・インかテイク・アウトかを入力するのは、っあるいはいちばん最後の手順なのかもしれない、っにしてもだ、っほんの2、30秒前に、テイク・アウトでお願いします、かしこまりました、という会話を、ぼくとあなたとは交わしましたよね、あれはいったい夢か幻かなにかだったんでしょうか、、、っという、

マックのばあいはしかしこのカッフェとちがって、っその、お持ち帰りでよろしかったですか、っと訊いてくるときに、相手が、訊きにくそうな、済まなさそうな貌や声をしていることがたまにある、女の子などはそうだ、っだから彼女たちは、っぼくがさいしょにテイク・アウトだと告げたことはちゃんと憶えているのだ、っでも訊いてきてしまう、

っここからはぼくのまったくの想像だが、彼女たちの心裡でなにが起こっているのかといえば、マックのクルーとなった彼女たちは、っともかくマニュアルの徹底遵守をきびしく云われて店舗店舗へ勤務を始める、っいちばん最後の入力事項なのか知らないイート・イン/テイク・アウトの選択の際、っかならずお客からの確認を取るようにとのマニュアルとなっている、っそのマニュアルを彼女たちは必死に読んで覚え、日々、店舗で実践せむとする、っだからその入力項目まで来たとき、反射的に口を突いてお客へそれを訊いてしまう癖になっている、接客態度を身に修めるとはまずはそういうことであろうがしかし、っいっぽうで彼女たちは、ったとえばぼくという客は接客の冒頭で向こうからテイク・アウトだと告げてきたことをちゃんと憶えている、っいかなマニュアル上イート・イン/テイク・アウトの入力時には必ずお客からの確認を取ることとなっているとしても、っさいしょに向こうからテイク・アウトだと申し出た相手には再度そのことを確認する必要はない、っしかしそこでお客へなにも訊かずに無言でテイク・アウトを選択することは、四角四面にかんがえればマニュアル違反である、とにかくマニュアル絶対至上、マニュアルにはけっして逆らうな、っという仮に社内教育が行なわれているのだとしたら、だってこの人さいしょにテイク・アウトだって云ったもん、そのことあたしちゃんと憶えてるもん、でもその入力のときには絶対に客に確認を取れってマニュアルになってんだよね、、、っという板挟みとなって、っそれであのなんともいえない渋面で、っほんの2、30秒前にテイク・アウトだと云ったぼくに、お持ち帰りでよろしかったですか、っと訊いてくるのではないか、

っこの想像がある程度ただしいとしてだ、仮に無言でテイク・アウトを選択した女の子はあとで客が見ていないところで、なになにちゃんダメだよ、イート・イン/テイク・アウトは必ずお客様の確認をいただいてからじゃないと選択したらダメっ、っとかと叱られたりするのだろうか、っだとしたら、っそのようにちゃんと論理的思考を有している女の子を、っあほなマニュアルで苦しめないであげてくれたい、、、っもっとも、若くときに、よのなかというのは、かすかなものからおおきなものまで、理不盡で溢れ返っている、っということを身体で識っておくのは、心理の免疫にとってけっしてわるいことでなく、っあるいは女の子のほうがあほなマニュアルを甘受すべきとも謂えるかもしれないが、



、、、っや、っこのカッフェがあまりにも要らないと云ったミルクをほんの2、3分後に持って来るということをどこの店舗でも平然とやらかしまくるので、っそうこのカッフェにしても、っさっきのあのあんちゃんは、客のオーダーを取る、オーダーを取れば厨房がそれを用意してくれる、コーフィーや料理が厨房から上がってきたらそれをお客へ供する、っそのマニュアルの遵守に汲々とするあまり、っお客がミルクは要らないと云ったとか云わないとか、自分がそれにかしこまりましたと返辞したとかしないとか、っそんなことは瞬間瞬間に忘却の彼方なのかもしれない、っでも誰もそんなに手馴れていないふうでもなく、もうそれなりの期間、勤務しているんじゃないの、っという子でもミルクを持って来ちゃうから、申し訳ないが、こんなおバカさんがあと数年で一般企業だのへ入社して、果たしてなんの役にも立たないんじゃないのかしらん、っとどうしてもおもってしまう、各企業は、人を育てるのってホントたいへん、、、っと辟易しているのではないかと拝察せられてならない、



カッフェでもコンヴィニでもスーパーでもマックでもひじょうにしばしばそうだということは、我が日本の若年層はすでにして構造的に論理的思考を逸しつつある、っそう推論しても強ち遠くはないのじゃないかと、ったとえば、マニュアル等でAという手順を指南せられていても、Bという手順を採っても結果がおなじならば、Bも許容すべきだ、っという判断をよろしく為しうる人が、子供たち、青年たちのうちに、っちゃんと大勢いてくれるだろうか、っぼくはいま目前の使わないままの銀のちっちゃなミルク・ポットへ目を遣りつ、云い知れぬ不安に驅られずにいない、

っというのは、マニュアル等でAという手順を指南せられていても、Bという手順を採っても結果がおなじならば、Bも許容すべきだ、っという判断は、単に一寸仕事の捗がゆくとかゆかないとかに止まらず、っひいては人が勇気を有てるか否かという問題へ帰着するとおもうからである、Bでも結果はおなじだ、っという論理に自信を有てない人は、マニュアルにはAと書いてある、っという同調圧力に屈してしまうにちがいない、っそれはすなわち、日本人の、日本国の弱体化よりほかを招かないだろう、



、、、大丈夫かいな、我等が日本国よ、

っやっとかめでかかる七面倒なことを書いた、っこれはこれでまたたのし、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(1回配本)

 

《ぶきっちょ》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(1回配本)