ざっかん記 -27ページ目

ギロッポン、




カーチュン・ウォン氏の棒、日本フィル公演、済む、演目は伊福部《サロメ》の演奏会用改訂版から〈7つのヴェイルの踊り〉、上原彩子女史を招いてラフマニノフ《パガニーニ・ラプソディ》、っそしてベルリオーズ《幻想》である、

終演後は神保町へ遷る、っというのは、伊福部の同人誌みたようなものの最新号に井上キーミツのインターヴューが載っているらしく、っそれがさる書店にて頒布せられているというので求めむとしたからだが、入店するに、っその書棚に当の最新号はなく、店主から、最新号ですか、っと声を掛けらる、っきょうよる、営業時間中に入荷することになっているとのことで、っもとより水道橋の王将で食事をする心算であり、閉店時間をうかがっておいて、ではどこかで食事をしてきます、っといったん退店す、

っで王将で食事をしたが、っもう何度か当該店舗を利用しており、っいつも手際のよい客捌きであるところ、っきょうはなお輪を掛けて、ホールも厨房も店員さん各位があたかも戯れるかのように勤務されており、っそうであってこそ円滑さが発揮せられていて、っいかにも快い夕餉であった、

っでいまは、19:30という当の書店の閉店時間へ合わせるため、東京ドームの方へ歩っていつものカッフェへ入る、



カーチュン氏の《幻想》は、去年の九州旅程の帰途、大阪へ寄道し、彼氏と大阪フィルとの公演で聴いたが、っその際はもうひとつ特長に乏しい平凡な演奏の部類であったか、っきょうは、っきょうも1楽章などはとくになにもしておらず、日フィルのアンサムブルはあいかわらずすばらしいが、辛く云えばそれ以上でも以下でもないというところであった、

っしかし、中之島という大音場で多少なりともひびきが拡散気味となってしまう大フィルのばあいとちがって、サントリーのきょうは弱音部でもニュアンス豊富に聴こえ、っすくなくも悪印象はない、っそれに、去年1年を通してぼくもたびたび彼氏の演奏を聴き、っその音楽語法に耳も心理もだいぶん馴致してきたらしく、全体の造形も細部の彫琢の傾向も読めてきたので、っぼくなりのたのしみ方が育っているようだ、

3楽章ではまんなかで激情に驅られて烈しく胸を掻き毟り、退潮してつぎの楽節へ遷移する際、セロを下降グリッサンドせしめるという一寸した改変を行なっていた、最後の遠雷は、大フィルのときはさほどけたたましくは打たせていなかったように記憶するが、っきょうは1度目からかなりつよく、3度目では痛打へ至らしめていた、

〈グィロティン行〉もフィナーレも衒わず恆に颯爽たる進軍だが、緊密な合奏それ自身をもって聴く者へけっして有無を云わせず、最終音をきっぱりとみじかく切って了わる、っきもちがよかった、



19時を回ったのでカッフェを後にし、書店まで戻るに、いまいま入ったところでして、お待たせしました、っと云われ、っよろしく当該書籍を求める、っご興味のおありの方は、神保町の猫の本棚なる書店、〈伊福部ファン〉という書籍の㐧5号である、ネットでも求められるかもしれないが、



っでその伊福部〈7つの、、、〉だが、っしょっぱなからアルト・フリュートはわずかに音が掠れてしまったが、音楽が動き始めればやはり日フィルであり、っいつもながら惚れ惚れする合奏である、改訂版同曲はかっての新星日響による委嘱作品で、上野大器においてヤマカズさんの棒で初演せられ、同ライヴ音盤はまことに得難い記録だが、っその後、岩城、藤岡両氏の音盤が加わり、前者は四角四面のへぼ造形でかつ発奮不足、後者はまずまずの演奏だが、っしかしヤマカズさんの老練には及ばない、っそこできょうのカーチュン氏は、巨星のようなシャーマニズムとは無縁、淡々と捌いてゆきながら、っしかしヴェイルを脱ぐ毎に自然、昂奮を催し、最後の1枚では極度の緊迫へ達して満堂を圧倒した、1曲のみの抜萃だったが、っいつか全曲演奏の機会があってくれるとうれしい、

上原女史とのラフマニノフも素敵だったが、1席空けて隣の男性が多動症の気味で、ソロが最有名の変奏を弱音で弾きはじめるときにかぎってがさごそやって膝上の化学繊維の外套をしゃかしゃかいわせたりするので、ぢっとしていられないのかっ、っと叱り飛ばすに既の心境であった、演奏としても、っそのソロを享けていまだ1stのみで同主題を唄う際、っこんにちの日フィルにはあるまじきかすかな音程のヒヨりが発生したりしたが、全楽でそれを謳歌するに至る部分ではカーチュン氏も、眞底から迸ってっ、っと遙けく天を仰ぐまさしく楽想に相応しいアクションで、っもちろんオケはめくるめく響を上げる、っむかしの日フィルは、っかかる個所で絃がぎいぎいがりがりいってしまってぜんぜんすっきり抜けなかったものだ、

っそうだ、カーテン・コールは2度で打止めですぐに散会してしまい、3度目のオケからの指揮者への社交辞令はなかったが、っおもえらく、年初より震災という不幸に見舞われた本邦への、カーチュン氏なりの配慮だったのではないか、っでもけっきょく、拍手を止めない人が大勢いたために、指揮者がおひとりで舞台へ喚び戻されていたのだが、



っつぎは金曜、っきょうの彼等の別プロ公演、っぜんぜん識らない作品が組まれており、ったのしみである、っまた動画配信もあるので、録画しておかむ、

っきょうは京都では坂入健司郎氏のブルックナー《5番》シャルク・リヴァイズ版だったんだよねえ、盛況だったようでなによりだが、聴けなくてざんねんだ、、、っそうだ、ロズージェストヴェンスキー/読響の同曲でも聴きながら帰らむ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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浜松、




坂入健司郎氏の棒、アウローラ・フィルなる楽団で、ブルックナー《8番》をハース・ファッスングにて、去年、川崎において田部井氏の棒でショスタコーヴィチ《9番》、吉松《5番》を聴いたあの楽団は、アウローラ管である、っややこしい、駅前の大器と中器と併設の会場だが、っその中器、坂入氏は3月には同大器にて浜松響をお振りになる、

っあさは8時半ころ室を出て、浜松着は11:19、坂入氏ご用達というとんかつ屋が11:30開店で、っまことにちょうどよく、覗いてみる、歓楽街の一隅の店舗はカウンターのみにしてごく狭隘、老夫婦がときおり小競り合いを囁きながら切り盛りされていて微笑ましい、定食がロースとフィレとでともに松竹梅に分かれ、っぼくは奮発してロースの松、、、ローマの松じゃなくてロースの松ね、っにしたが、っじつに¥4千となかなかの価格、っそれとビール中瓶、っほかにもカウンターがすべて塞がるほどお客がいたため、っそれほどごくごく呑めないぼくが瓶ビールを半分以上空けてやっと料理を供されたが、価格に違わぬ上質の肉と練達の揚げ加減とであり、附け合わせのポテト・サラダまでが芋の風味ゆたか、

上機嫌で退店すると店外へは数人が並んでいたが、駅の方へ戻って地下の器入口を見下ろす交叉点の角でシガレットを服むに、ガラス張りの場内に列ができ、最後尾の札を持った人も見えたので、開場20分ほど前に列へ加わる、っやや長蛇となったために10分ほど早く開場し、2階正面の2列目右方へ良席を得てふたたび交叉点まで戻り、喫煙して開演を待つ、

席の埋まりぐあいは2割にも達しないかというくらいだったが、坂入氏が登壇されて棒を構えられると、っそこから音が鳴り出すまでの数秒間、堂内は字義通り固唾を飲んだすばらしい無音を体現して舞台上へ一心からなる期待を送る、っこのときのみならず、各楽章の開始、終止ともに、緊張感を乱す不埒な咳払いその他のノイズは極少であった、東京のぼんくらなお客どもに爪の垢を煎じて飲ませたいところだ、

オケは、アマチュアとして最上質とはゆかないが、っなかなかの楽団だった、気になるといえば、絃のとくに1stにいつもポジションの甘い人がおり、っしばしばへんてこな音程が混入したくらいで、っあとはホルン等、難儀な楽器にときおりたまさかのエラーが出るというレヴェルである、トロムペットは、音場が狭いこともあり、1楽章の乗っけから坂入氏に、そんなに吹かないで、っと手で抑えられていたが、要はみなたっぷり吹きたい人たち、音質も硬く、っややゔゃーゔゃーいう手応えで、2楽章の主部では曲の発展につれてかなり盛大に吹き荒ぶふうだったので、っこれは後半楽章では放埒な迫力更新で美観を乱すところまでいってしまうか、っと惧れたが、っまずまず土俵際で踏み留まった、

音場のトーンがまたすばらしい、1楽章は冒頭から全編に亙ってゆっくりじっくりと進み、朝比奈’sモデラートこそ理想とおもっているぼくからするとすでにしてやや疲れるが、っそのかわり恆に荘重厳粛なムードに支配せられ、堂内でブレンドせられたひびきのゆたかさはなかなかに得難い、

2楽章になるとぐんとテムポ・アップするのはチェリビダッケ等と同様だが、っやはりぼくはその速度の落差に違和をおぼえてしまう、ならなんで1楽章のアレグロ・モデラートをアダージョみたようにちんたら歩ったんだよ、っと、っこの前半楽章間で滅多に速度を対比せしめないというのは、っひとつの見識ではないか、

気を取り直して3楽章、端然かつ明確な棒により両主題ともにいつも澄明だが、っぼくはあらためて、㐧2テーマの多彩な和声、楽器の重ね方に魅惑されてしまった、登頂後の余韻の部分もすばらしかったし、GPを經て1stのみでコーダが始まると、やはり傑作だなあ、っとの観もこれあらた、クラリネット他が和してくると、っいっそう目頭が熱くなるのをおぼえずにいなんだ、

フィナーレは、多少とも音色を荒らしながらも、っかえって爽快という範囲内か、ホルンなど、っときにトロムボーンと紛うばかり音を割りまくり、楽章後半ではブルックナーお得意の1拍ずれカノンをこれでもかと強調したものである、っそれに、っやはりファッスングはハースだ、展開の㐧1テーマも、再現の㐧2テーマから㐧3テーマへの接続も、2稿のようなあんなトリミングではぜったいにいけない、レヴィによるこの曲の拒絶は、前半楽章をおおきに洗練せしめたという点ではむしろ功績大だが、後半楽章のカットについてはブルックナーも単に迎合的の附け焼き刃というところで、っそこを両稿間の良いとこ取りをして折衷せしめたハースは偉大だ、っもちろん、作曲家本人として不本意かもしれないがいちおうの決定稿としての2稿を校訂、出版しておくことには一定の歴史的意義があるだろうが、演奏会の現場で楽曲を体験し、っより高い感銘を得むとする立場からすれば、接続として遙けく自然かつ感動的の部分が1稿に存ると知りながら、形式上、決定稿とせられているものを尊重せざるべからず、っとの態度へ蟠踞することはもはやできない、っそういう人を一般に聴衆と呼んでいるはずであり、っぼくはその聴衆のうちの一個として、っきょうあらためてハースの英断に深謝した、、、っはは、我ながらまわりくどい云い種、新幹線の車中、っのらりくらりと書いていたらどういうわけかかかる文脈となったが、っしかし、レトリカルでなかなかおもしろい文章なので、っこのまま遺しておかむ、



っさて、新横で横浜線へ乗り継いだ、次の機会は、っこんどの日曜、カーチュン・ウォン氏と日本フィルとの公演である、同日、坂入氏は京都にて2団体合同の100人超オケとシャルク・リヴァイズのブルックナー《5番》をなさり、っそれもぜひに聴きたかったところだが、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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っそうだ、




っきょうは、新日本フィルの来季の定期相当公演中からテケツ5枚以上を同時に購入すると、価格も割安、販売開始日時も各1回券のそれよりうんと早い、っという購入方法の一般販売開始日だったので、デュトワ、上岡敏之氏、井上キーミツの各2公演、計6枚を購う、っこれまで20年の余も演奏会通いをしても、っぼくは恆に1回券の発売日っきり気にしておらず、っというのは、っかかる門外の徒なぞにはどこかのオケの定期会員になるだとか、っそんな生意気なことは許されないというおもいがあったからだが、っこの販売方法はうれしい、公演毎に自由に席を撰びうるし、価格は、高い公演では2割、安い公演では1割引きのようで、っすべてSを購ったが、6公演で1回券からすると計¥8千余ほど安く、Sで1公演分くらい得をしたこととなる、っしかもことしこの方法で購入しておくと、来年の同販売法のさらに先行販売へありつけるらしい、っもっとも、キーミツのいない新日フィルに、5つ以上、聴いておきたい公演があるかは知れないが、



っそれから、っなにか書かねばならないことがある気がしながらなんだったろうとおもっていたが、っいま想い出した、トーレンスだ、トーレンスといってターン・テイブルではなく、同社が100年ほど以前の往時からしばらく製造、販売していた、セミ・オートマティックといわれる着火方式のヴィンティッジ・オイル・ライター、以前にここで紹介した、レザー・クラフトを趣味にされている職場の元先輩に携行用のケイスを作ってもらいながら、っいつかにそれごと紛失してしまい、っだめもとで遺失物届を出しておいたら警視庁から連絡があったと報告したあれである、

っこの手のものに明るい人にとっては先刻ご存じ、暗い人に説明したところでなんのこっちゃというところだろうが、っそのトーレンスのライターには、シングル・クロウというのとダブル・クロウというのとある、、、っその前にまずセミ・オートマティックとはなんぞやからだが、蓋を閉じているボタンを押すと、スプリングが組み込まれているその蓋は自動で跳ね上がるように開く、っその蓋にはクロウが連動しており、クロウの先はまたホイールと連動していて、蓋が開くと同時にホイールを回転せしめ、フリントを擦る、っつまり、蓋を開くボタンを押すのみで、手ずから指でホイールを回転させなくともすでにして着火する、っというわけである、っこのギミックはいちど手にしてじっさいに着火するとじつに病みつきであり、っその愛玩者は製造中止から久しい現在でも世にすくなくない、ヤフオク!やメルカリなどでは、安くても1点¥1万超、状態のよいものや、他社とのコーラボレイション品、っあるいはなにかしらの記念製造とみられるもとより個体数僅少であろうものでは、¥数十万で取引せられているものも稀ではない、っでクロウのシングル/ダブルの別だが、文字通り、シングル・クロウはクロウが1本で、ホイールの片側のみを驅動せしめる、ダブル・クロウは2本のクロウがホイールを両側から抱える格好となっている、

っぼくははじめ、っうちシングル・クロウによりつよく魅せられて数個体を入手した、、、っために幾ら要したかは訊きっこなしで、っというのは、シングルとダブルとでは、ライター全体のボディ・ディザインに若干の異同がみられ、前者のほうが断然ハイ・センスとみえたからである、ダブルは、以前から1個体を入手済みだったが、っさいきんまでまるで使用せず、戸棚の骨董品となっていた、

っところが、シングルをヘヴィ・ユーズしていると、っどの個体もそうだが、っすこしくずつ着火率が下がってきてしまう、っなかには、っこれもすでにここで価格を云ったとおもうが、ティファニーとのコーラボレイション品とみられる、気が狂って¥50万を出して購った、見た目としても着火率としてもかなり状態のよい個体もあり、っそれがじつにいちど紛失して戻ってきた品だが、っそれさえもある時期から着火率が落ち気味となってしまった、っやはり、ホイールの片側にのみスプリングの強靭な運動エネルギーの伝わる構造上、使用に伴なってようようホイールとウィックとの正対が取れなくなってき、スパークは散れどもそれがかすかにウィックを逸れてしまう、っという状態になるのかとおもう、何度となく蓋の開閉をくりかえしてもまるで着火せず、こんなにスパークは派手に散っているのにそれでも着かないのかよ、っといじいじしてしまう、

っそれで、っまるで使わずにいたダブルのほうへやっとかめで給油して着火してみるに、っこれが頗る好調である、2本のクロウはホイールの両側へ均等に力を伝えるので、シングルのような経年劣化はさして起こらないのではないかと察せらる、っこの着火率の安定性も加味すれば、シングルに比してのボディの外観の味気なさも甘受しうる、っそれで、っついさいきんになって、風防の附いたタイプをあらたに購い足し、っいまは風防あり/なしの2個体体制である、慾を云えば、ボディ・ディザインはシングルの、っそれもサイド・フィラー・タイプといって給油口がタンクの横へ附いている型が最もうつくしいフォルムをしているのだが、っそれと同様、っしかし着火方式はダブル、っという製品が存在してくれればとおもうが、っおそらくそのような個体はなく、遙か以前に製造が中止せられているいまとなってはまさしくないものねだりである、シングルとダブルとの製造開始時期をぼくはぜんぜん識らないが、っおもえらく、当初はシングルから製造が開始せられたのだろう、っそして往時から着火率漸減の苦情があり、っより安定性の高いダブルが開発せられたのではないか、現在入手しうるシングルでわりに着火率の高い個体は、製造からこんにちまでに、所有者所有者による使用頻度の低かったものである可能性が高い、っいつか閑があればあれこれとシングル各個体のメインテナンスを試みてみる心算ではあるが、っそれでも着火率が好転せなんだときの落胆をおもうと、っいまからそれも億劫である、

っわからない、ダブルを常用するようになってまだ日が浅い、っこれもヘヴィ・ユーズしているとシングル同様の顚末を辿ってしまうかしれない、っそうならないことを祈る、



ってなわけであす、浜松、



みずの自作アルヒーフ

 

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錦糸町、




っことし初の演奏会だが、豊平青氏の棒、クレド響で、ショスタコーヴィチ《1番》のVnコンチェルトと《5番》とであり、ソリストは戸澤采紀女史である、

客席はいやに大入り、無料公演だからか、宣伝が巧いのか、っなにかしらスポンサードせられているのか、っはたまた慶應人脈の成せる業か、

2階左翼の前方だったが、冬場の演奏会の通弊として、っみなあったりまえにダウン・ジャケツを着て来場してしまう、っどういう神経をしているのかと訝らずにいない、っぼくはそもあの手の外套を持ち合わせないが、持っていたとしても演奏会へはぜったいに着て行かないし、っよしんば着て来てしまったら、脱いでぺしゃんこにして無理無理にも背嚢へ突っ込むか、安物でどんなに恥ずかしかろうとクロークへ預けるかするだろう、間違っても演奏中も着たままでいるとか、脱いで膝上へ置くなどということはしない、っところがおおくのお客は、っそのぼくが間違ってもしないことを平気でするのがじっさいだ、率直に云って、っあのしゃかしゃかいう音がどれほどのノイズになるかというイマジネイションひとつ有てないような人間は、演奏会へ来るべきではないとおもうのだが、っしかしきょうもぼくのすぐ後ろのじいさんとか2つほど空けて前方の男性ふたりは、演奏中でもさもとうぜんというようにしゃかしゃかしゃかしゃかいわせていて、っかなりノイジーだった、っしかも弱音部にかぎってそうするので、テメエ等ぶっ殺したろかっ、ってなものである、っあの人非人どもめらが、っぼくは、っいかに無数度に通おうと、っいついつまでも演奏会の音場を神聖な場所とかんがえていたい人である、隠さずに云えば、っほんの日常の延長ででもあるかのような貌をしてあの場へ居合わせて恥じないすべての人を、っこころから軽蔑したい気分なのだ、っもちろん、っかかるコンサート・ゴーアーにとっての理想郷は、未来永劫、叶えられはしないと弁えてもいる心算だが、

楽曲解説は豊平氏ご自身が書しておられ、平凡な形容を弄して長文、っおまけに感情過多にして贅言の気味で、飽き足らず本番当日にはみずからプレ・トークへ立たれる、YouTubeでいくつかの動画を観た初めには、冷徹な振り姿で作品を突き放してみることのできる理智の人かと踏んだが、先般のマーラー《5番》といい、っぞんがい情緒的の人だ、っきょうも熱血の棒である、っもっとも、彼氏はいまだ23、4歳の青年だ、っぼくもそのくらいのころは、多言をもって他人を説き伏せたい気が旺盛だったものである、歳とともに、人間じつに十人十色、どんなに自分がただしいと強弁してみたところで話の通ぜぬ相手はいる、っということもようよう悟られもすれば、自分のとちがう意見を聞いての、なるほど、それはそれで一理あるな、っとの寛容も獲得せられるものである、

っさておき、コンチェルトはまったくすばらしかった、同曲といえば、っあれはおととしか、岡谷まで高速バスで聴きに行った郷古廉、坂入健司郎両氏と新日本フィルとの演奏が記憶に鮮やかだが、っきょうもそれに比肩するか、記憶を塗り替えるとさえ云ってもいい、っまず曲と音場との相性だ、オケ・パートはすべての声部が残らず聴こえ、っしかもいかなる部分でもソロを消さない、ソリスト戸澤女史はたしか東京シティ・フィルの同氏の令嬢だが、1楽章の沈潜から3楽章の独白を經てフィナーレの狂騒に至るまで、冷静沈着な奏楽によりありとある音色音質、リズム、奏法を陶冶し切り、っもって楽曲への篤い奉仕と成し、音楽のおもしろさを余すところなく伝えていられた、クレド響もまるで間然せず、2楽章、フィナーレといった複雑なポリフォニーでも瞭然たる高解像を聴かせる、



《5番》についてはぼくは、一柳女史のお説に隨って、体制への迎合を装った不倫不貞譚、恋敵への恨み言、っという解釈をおもしろがっているが、豊平氏は青年らしいもっと真面目な捉え方のようで、演奏としてもじつに正攻法だ、オケも巧いが、ティムパニなどたいへんに張り切っていてうれしい半面、ホルンには覇気が足らず、2楽章の彼等の主題など、っがつんとパンチが効いてくれない、フィナーレ冒頭は、牛歩寄りの棒がおおいなか豊平氏はバーンスタインに代表せられるような乗っけからのダッシュ、っそのタイプの演奏は実演では初めて聴いたが、っひびきが上滑ってしまうこともなかったので、っあれはあれでわるくない気もした、大団円は上記のとおりティムパニの活躍もあり、っまずまず堪能させた、

っが、っどうかねえ、次またこの人の棒を聴きたいですかと云われると、っこれで都合2回、彼氏の演奏会を聴いたけれども、っまあねえ、っそれほどでもないかなあ、っぼくはここでたびたび、アマチュアであろうと一定のテクニークを、っと求めてきたが、テクニークは大事だ、っそれは音楽を味わうためにこそ大事なのである、っきょうのクレド響はその点でアマチュアとしては及第点よりずっと上としてもよいが、っではくりかえしその人たちの音を聴きたいとおもわせるものはなにかといえば、っそれは㐧1にはテクニークではない、っそれよりももっと、特有の存在感なのだ、突飛なことをしてくれろというのではない、っや、突飛なことをしたいのならおおきにしてくれてかまわない、っほかの誰が、そんなのは西洋音楽の約束事にない、っなどと利いたふうのことを云っても、っぼくはよほどのへんてこりんでもまだ擁護に吝かでない、っしかしたいていの人は突飛なことなどしない、っそのときに、突飛なことなどしなくとも俺の私の音楽にはこんなにも存在感があるのだっ、っとこちとらの胸倉を摑まむばかりに来てくれる演奏でなければ、っぼくはくりかえし聴かむとはしないものである、っぼくらはそこへ人生の糧を慾しているのである、っとうぜんであろう、



終演して外へ出ると空は不吉な雷雲に蔽われている、っじき降雨するが、錦糸公園の上を総武線が跨ぐガード下へ宿りつ、小止みになるまで喫煙、っあすは浜松、坂入氏の演奏会で、発券機で紙のテケツを出さねばならない購入方法で新幹線を予約したため、っあす新横での乗り換え時にそうすればよいのだが、っひょっと手間取ってもいやなので、っさっき、東京駅へ寄道して事前に往路復路ともに発券し、有楽町まで歩って食事、っいまはカッフェへいて、っそろそろ帰らむ、宮城前まで歩って遙拝してからにしよっかな、



みずの自作アルヒーフ

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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っきのうおとついと、




初詣へ行けず、っきょうやっと寒川神社を詣でる、室の近所のお宮で済ませばよいものを、っなにか習い性でそうしてしまう、っこないだ会社のヴェテラン・アルバイトさんにその話をしていて、へえ、寒川宮ってなんの神様なの、っと訊かれてもまったく識らず、我ながら苦笑ものだった、っなぜ寒川なのかといえば、相模原に棲まっていた往時、っそこから同地までは新春のサイクリングに程よい距離だったというのが、っゆいいつの理由である、っのち国分寺へ越し、八王子へ越し、っいずれも相模原からするとすこしく距離が延びたものの、っまあたいしたことはない、

っことしは、本殿前まで行って賽銭、柏手を打つ気力がなかった、っいつもは三ヶ日を外して詣でていたのだろうか、っあるいは夕すぎに現地へ着くことがおおかったろうか、っもちろん雑踏するが、長蛇の列もせいぜい境内で収まり、1時間以上も並んだことはなかったとおもうところ、っきょうは、っいつもの近所のおおきな公園の駐輪場へロードを停めて、一の鳥居まで行ってから本殿を目指すも、二の鳥居の先あたりで最後尾の札を持った警備員が視界に入り、参詣者はみなそのあたりで、ええっ、こんなに並んでんの、、、っとぶつくさこぼしている、っよしんばその列へ加わったとしたら、っあれで2時間くらい掛からねば本殿まで辿り着けなんだのではないかとおもう、っそれで、いやなに、必ずしも本殿の賽銭筺の前で拝礼せねばならないという法はないんだ、こちらが本殿だろうという方を向かいて拝めばよいのだから、っとそのまま脇へ逸れて出店出店の間を縫い、っいちばん外れの屋台でたこやきを購って駐輪してきた公園まで戻り、便所で手を洗い、口を濯いで、っその公園の一隅からひときわ高木に蔽われた本殿の方へ一揖二礼二拍手一礼一揖をいたす、っでベンチへ坐してたこやきを食べ、陰でこそこそ2本シガレットを服む、往路も復路も脇をびゅんびゅん自動車に走られる大通りはなるがたけ避け、っおよそこちらの方角へ向かえばよいのだろうと行き当たりばったりに路地路地をじぐざぐじぐざぐしたが、っそれでもロードならばしょっちゅう惰性でのんびり走っても片道2時間半というところで、っいま淵野辺まで戻って駅前の王将で食事をし、っこれからすこしく降雨するかもしれないが、っもう1軒、16号を渡ったところへあるいつものカッフェへ寄って食後のコーフィーを啜ってから帰らむとおもう、室直近のコンヴィニへは、っきのう註文せるインナー・ヘッド・フォンがもう届いている、



っきのう触れ漏らした去年の公演といえば、デュトワ/新日本フィルの《幻想》、初めて実演を聴いた新響の《、、、タプカーラ》あたりだろうか、後者の棒は中田延亮氏で、っまずザ・ベスト・フォームというべき同曲を体験することが叶った、去年最後の演奏会も彼氏の棒で、っその明治大の学生オケは青春の猛り、多少の肌理の粗さなどみずからものともせず、潑溂たる快音で1年の掉尾を飾ってくれたのだった、



っさて、っもう1日休んであさってから仕事初め、っいきなり多摩市の試掘だが、去年より晴れて契約社員となり、年末の評定では惜しくも正社員登用は成らなんだが、っようやっと代理人デビューを果たしてまだ2つか3つめの《雨月、、、》くんの現場、っぼくは一作業員扱いで加担し、《雨月、、、》くんが戸惑うようであればサポートしてやってくれろとのこと、現場が済んだあとは、調査結果の報告書作成についても世話を焼くこととなっている、新年早々他人様の手助けとは、気分のよいものだ、自分の仕事はマンネリズムでもうひとつ気乗りがしない、他人の手助けとなると俄然、っやる気が湧いてくる、っおよそ仕事という仕事はさようのものであろう、

っがんばれっ、《雨月、、、》くんっ、リラックスしてゆこうっ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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っなかなかの、




正月である、

っきのう、っどこか初詣へ行くついでにカッフェへでも寄り、去年の演奏会演奏会回想でも認めむとするに、っその途次でワイヤレス・インナー・ヘッド・フォンの片っぽを落っことし、っそれが街路樹の植え込みのなかへ転がった、、、っや、精確には、落っこちていちどアスファルトを打ち、次いで植え込み内の落葉と接触する音が聴こえた、っその時点ではすぐにみつかるだろうとさして意に介しておらず、っしかし、枯れて枝のみの低木の下の落葉の吹き溜まりの裡へ、一向にそれはみつからない、っかなり広範囲で落葉をがさごそやるが、っぜんぜん出てこやしない、夕刻だったので、半時間ほどで日暮れてきてしまい、正月早々スマート・フォンのライトで照らしながら道端を物色しているおっさんもいかにも怪しいので、っともかくこのあたりにはあるのだし、一晩経っても滅多に風など吹かなかろうとて、っきょうあらためて捜索しに来る心算で、初詣へもカッフェへも行けないまま帰宅す、っきょうになると、っそんな予報ではなかったようにおもうのだが、午前中は降雨している、止むのを待って午すぎにいったん聖蹟別棟へ寄り、手箕と手鎌とをかっぱらってきて現場へ赴き、っまたがさごそがさごそ、っそうさあれで1時間半から2時間ほどもやりまくるが、っやはり発見できず、、、っつい一寸、植え込み中へ転がり込んだのみなのだが、っあんなになくなってしまうことがあるものだろうか、物理法則の無辺を呪わむばかりであったが、っかなり丁寧に集めた落葉をかなり丁寧に篩っては右から左と移動させ、っこんなところへまで転がっているはずはなかろうという範囲まで捜したのだが、っなかった、地面ではなくバウンドしてたまさか低木の枯枝へ引っ掛かっているのかと想像してその心算で眼を凝らしたりもしたのだが、っなかった、

人間、諦めが肝腎である、っさっぱりと未練を捨て、っその場でAmazon.で同一商品を註文、っあすにはもう届くが、正月の1日、っものの小1時間の外出で紛失物をして、早速に散財約1.5万也、賞与を貰った直後なので、っさほどうじうじした気分でもない、土地が土地ならば、っそれこそ正月早々、ったいへんな災難に見舞われている方々もいる、っぼくのこんなのはおよそ遭難のうちには入るまい、休み明け、同僚に嗤ってもらうよい話のタネになったとおもうこととする、

っやれやれ、

っそれで、っきょうも初詣へ行けないまま、っいま別棟へ道具を戻して聖蹟の駅まで来て、カッフェで軽食を摂っている、耳は片側だけ塞がっている、



っさて、気を取り直して、去年の演奏会演奏会、最終的にいくつになったのかとおもうが、例によって、東府中での大井剛史氏《レニングラード》から梯子した川崎での井﨑正浩氏公演後半のブラームスのみ、っおよびぼくの不注意から前半をすこしく聴き逃した鴻巣での佐藤久成氏リサイタルをともに0.5と数えるとすると、綜鑑賞回数は142であった、プロ/アマの別はいま詳らかでないが、100を超えたあたりで数えた際には半々か、っどうかするとプロのほうがおおいくらいであったから、っまあそんなところだ、体裁としていわゆるアマチュアの楽団であっても、大半ないし全員が専門の音楽教育を受けていようと察せられた団体もいくつかあった、っことし以降は去年みたように、っどんな指揮者、っどんな団体だかぜんぜん識らないが日程の合う合わないのみでアット・ランダムに撰って公演へ行くということをする心算はもうないので、っおそらく去年は、っぼくの生涯のなかで最もおおく演奏会へ通った年ということになるのだろう、



っさいしょの公演は去年の1/3で、スケデュール・アプリケイションには、上野通明、っとあるが、っこれはたしか藤岡氏と都響との上野大器でのもので、上野くんがドヴォルザークを弾かれたのだった、メインはチャイコフスキー《5番》で、っその中途で1階席の右方で男性客がなにかの発作を起こしたらしく、一寸したトラブル、、、っそうか、去年もトラブルに始まる1年だったのか、

上野くんのドヴォルザークはその後、目黒というより好条件で聴くことができ、ったとえばその1楽章のホルンのテーマを彼氏が弾かれるときには、っさいしょのほんの1音からすでにして万感が音へ籠もり切り、2楽章まんなかの〈あたしにかまわないでっ〉部ではバックの豪毅なる読響ともどもとうぜんながら凜然たるヒロイズム、っいずれもいまだに脳裡へ鮮やかである、

上野くんでは大阪でのデュトワとのショスタコーヴィチも忘れ難い、っわずか前年に新日本フィルとも演られたばかりであったが、っよほどかデュトワに気に入られていたのだろう、っあの曲のばあい彼氏としてもすでにして完全に自家薬籠中のもので、冒頭、曲が鳴り出した瞬間から、っもはやそれはセロの音ではなく、作曲家の肉声そのものであり、っそれ以上に異界からひびく未確認生命体の発する音声信号である、



1月の時点ではいまだ1年を演奏会づくめにしてしまわむという意志はなかったようで、通った公演数は7である、俄かに回数が殖えるのは井上キーミツの九響との公演を主目的に3月に九州へ遊びに行ったあたりからで、っそのときには福岡でキーミツ、久保陽子女史、鈴木ご子息/BCJと3公演、帰途、大阪へ寄ってカーチュン・ウォン氏の大阪フィルとの《幻想》と聴き継ぎ、っこの連日演奏会のたのしさに浮かれて、帰宅した直後にも所沢までアマチュアがマーラー《トラギッシェ》を演るのを聴きに行ったのかと記憶する、っはなから出演者が目当てでなくともかく日が合いさえすればと公演公演を渉猟するようになったのはこれが嚆矢とみられ、以降、っほぼすべての休日をどこかしらへの外出に宛てている、っのち、夏頃からは1日2公演以上の機会さえ模索するようになって酔狂の度を増すが、っよしんば年初からそうしていれば、綜回数を200へ届かせるのもけっして無理ではなかったろう、

っぼくはもとより聴いた公演公演や音盤音盤へ明確厳格に順位を附けるという趣味は有ち合わせておらず、っま、っまるでおなじ曲の異演ならば、BよりCよりZよりぜったいにAが勝れている、っというものさしくらいは用意があるのだが、っそれとて生理に隨ってあるがままにというところで、っべつに論理化しているわけではない、っましてそれぞれ異なる楽曲の演奏演奏を取り沙汰してどちらが上の下のという喋々になにほどの意味があるのか、あんころ餅とカレー・ライスとどっちがすきですか、っなどと訊かれても当惑気味に、や、、、あんころ餅のときはあんころ餅の口、カレー・ライスのときはカレー・ライスの口なだけですよ、っとっきり人は応えられまい、っだからぼくはここで去年のマイ・ベスト10などと並べる心算はないし、現に142のうちに順位など、っおぼろげにさえ附けていない、っそれぞれの人にそれぞれの人なりの達成があり失敗があり、演奏会に通う人がよくよく識るごとく、失敗以上におおくて困り物なのは、聴く者をしておよそ語るべきなにごとをも惹起せしめない凡演であり、っもちろんそれもたくさんあった、っそれっきりである、



っまずはそうさ、っやはり井上キーミツであろうか、142のうち彼氏の公演はいくつだったのか、2桁へ乗っているのは彼氏くらいだろうとおもうが、っどれといって突出して浮かんでくるものは、、、っえへへ、ショスタコーヴィチはやはり㐧一任者であって、着信音がざんねんだった九響との《12番》、高崎、東京と2度聴いた群響との《4番》、っいずれも貫祿のいでたちだった、っしかし、っおととしなのかな、読響との《9番》などはもうひとつだったし、大フィルとの《2・3番》音盤なども、《3番》はスメターチェクという驚異の難敵があり、っそれからするとあまりぱっとしないようだ、っすばらしかったのはこれも去年ではないが新日フィル代演、っそして名古屋フィルとのともに《8番》で、前者が音盤になっているが、っぼくとしては後者のほうがより上出来だったようにおもう、っこれからN響、大フィルとの《バビ・ヤール》が控えているが、っぼくは各2回、計4回をすべて会場で聴く予定で、っもちろんたのしみにしている、録音は前者という、っぼくならば、後者のほうがあるいは、、、っというところだが、 N響とは《1・10番》を渋谷で聴いているが、っあの楽団のニュートラルな音は、っどうも記憶へもこころへも遺らない、《10番》はこれから日本フィルとの最期の共演でも横浜と大宮とで演られ、両とも切符を取ってある、っこれも音はN響とのあのときにもう録ってあるのだろうか、現在の日フィルはすばらしいので、っこちらも録音するか、っもしくはどちらかの公演の動画配信があればうれしい、

キーミツのほかの作曲家では、名フィルとのクセナキスはなんだかわけがわからんがあんなのはたのしんでしまったもん勝ちで、っこんど札響とも演られるので、2日目は東京でカーチュン氏公演があり、っぼくはまた1日っきり札幌へ飛んでそれを聴いて来ようとおもう、

っあとキーミツでなにがありましたかね、っああそうか自作自演か、っあのミュージカル・オペラは、っそうさねえ、曲だけでいえば本名徹次氏が三軒茶屋で振られた日越共同制作のもののほうが優等じゃなかったかとおもうのだが、キーミツのほうではむしろ彼氏のご母堂役のソプラノ、小林女史と米衛生兵役のダンサーとの舞踊がいっとうこちとらの心内を領しているようだ、っご自身の数奇な出生の経緯をあのようなうつくしい舞として昇華せしめるというのは、作者としても畢生の意匠でいらしたことだろう、



っそれから去年ぼくらは、外山雄三、飯守泰次郎という2巨頭をたてつづけに喪った、っぼくはともにその最期の公演を会場で聴いており、周知のとおり外山氏のほうはシューベルト《5番》《ザ・グレイト》という演目のうち、前者は指揮者なし、後者のみ登壇されたもののくるしい舞台で、っついにフィナーレの中途で退出されてしまったのだった、彼氏については大阪響との近年の記録がつづけざまに音盤化せられ、っその威風に一驚を嘗めたぼくは大阪まで実演を聴きに行き、っあれは去年だったか、っおととしかな、音盤にもなった同響とのブラームス《2・4番》はそれはすばらしく、後者フィナーレの最後の最後では、老匠のワガママがもうもうと火を噴いたものである、飯守氏のほうはブルックナー《8・4番》をこの順で演られたのが最期であったが、非礼ながら、上述のともかく演奏会づくめというその一環で間の埋め種の心算で田舎で聴いて以来20年の余も聴かなんだ彼氏を聴いてみたところ、っもはや腰が固まってしまって歩行困難で、登壇されたときにはいかにも満身創痍と見えながら、演奏が始まればその《8番》は快速も快速のしかもほぼ全曲アタッカっ、っともに修練してこられた東京シティ・フィルと演奏藝術の基本のキかつ秘儀中の秘儀をまたたく間に舞台上へ展開しては見送ってゆくという驚歎すべき一夜で、済んでサントリーから出て来ながらすかさず直後に開催の《ロマンティッシェ》の切符を購ったときの逸るこころを、っぼくはいまきのうのことのように想い出す、っこないだ前者がめでたく音盤と成ったが、後者も是非にとおもう、



っそれからあとは、上岡敏之氏か、彼氏も新日フィルとは予定通りにブルックナー《8番》を、っそして物怪のさいわい、ツァグロゼク氏の代演で読響とも同曲を演られたが、っそれよりもぼくはやはり読響とのシベリウス、シューマン、ニールセンだな、っぼくの記憶の宝物、彼氏の日フィルとの杉並でのブルッフ、シュトラウスを上回らないまでも、っほとんどそれに匹敵する大演奏で、っああなるとなんだかオーケストラという集団が出している物理音の集積とはぜんぜん別物の、っいまだかって人類一切がただのいちども経験したことのない音響を見舞われているようで、っまたいつか、っあの種の音へ出逢いたいものである、



っそれとなんといってもカーチュン氏、近年の蜜月を経てとうとう日フィルのプリンシパルへ就かれたが、っその披露目のマーラー《3番》からすでにしてこの日本楽壇へ我等存りをつよくつよく印象附けた、規格外の大曲で、っおおくの演奏ではそのぶんだけ意匠が薄まってしまうのをぼくはいつもざんねんにおもってきたが、100分間を緊密に語り抜いた入魂の一閃で、っしかし彼氏はどんな曲を振られても、っこだわりのために音々を停滞せしめてしまうという轍をけっして踏まれない、っあくまでも颯爽と進んでゆく健康美のなかに、っしかし音構造を冷厳冷徹に見据えた強かさを隠し有つ、っことしはブルックナー、マーラーのともに《9番》を披瀝されるが、っはてさて、



っそうそう忘れちゃいけない、本名氏の郡山響とのハイドンっ、っあれはねえ、、、本来ならばキーミツが振られるはずであったのだが、っすごかったねえっ、振り姿から鳴る音から全編これ音楽の塊っっっ、っそれから三軒茶屋でのオペラ、上記のように曲もよかったし、キーミツのもの同様に、っここでも舞踊というか視覚効果のすばらしさ、越から来日して此の地で最期を迎える母親役ソプラノの手を取り、冥府へと誘なう風を模す舞手、、、っそうだそうだ、っざんねんながらキーミツはお振りになれなかった兵庫での森山開次氏の《火の鳥》、っあの演出もなんとも感泪もの、台本は彼氏の解釈により王女は成仏し切れない亡霊、男は王子ではなく彷徨せる男となっており、っふたりの出逢いの場面では相手を抱擁せむとする男の腕は王女を擦り抜け、っすれ違ってしまう、っそれと音楽とのシンクロ、泣けたねえどうも、、、



っほかにプロフェッショナルの公演というと、っいまぱっと想い出すのは、上記、外山氏の中途退出公演の直後、っがんらい彼氏が振られるはずのメイン演目をフランクへ替えた大阪響との公演があり、っその代演は若き齋藤友香理女史とあいなったが、外山氏の棒の心算で切符を購い、大阪への旅程も組んでしまってあったぼくはそのまま聴きに行くこととし、っべつに若輩を侮ってまるで期待を懸けていなんだわけではないが、女史はその重圧を撥ね除けるみごとな舞台を熟され、っなにかぼくのほうが感泣を催してしまわむばかりであった、終演後のカーテン・コールで楽員たちがばたばたと足を踏み鳴らして指揮者を讚える際、コン・マスは指揮者からの起立の合図に応じないという社交辞令をやるが、っあのとき大阪響の彼氏は1度ならず2度もそうされた、1度のときに2回そうされたのでなく、1度そうしてそのあと全員が起立し、指揮者が袖へ下がってもういちど舞台へ戻られたときにも、いえ、我々は立ちません、あなたおひとりが一身にお客様からの歓呼を浴びられたい、っというふうに固辞されたのだ、女史は困ったような貌をされてしかし詮なく促されるままおひとりでぼくらからの拍手を浴びられていたが、っその2度目のとき、世辞ではなく、ほんとうに充実したリハーサルが為されたことを楽員を代表してコン・マス氏が認められているのだな、っまた、斯界最長老の代役という重責をよく果たされましたという労いも加わっているのだな、っとおもい遣られて、彼女はとくに感極まっていられるふうでもなかったが、代わりにぼくのほうで目頭が熱くなってしまったのだった、っほんとうに一部の隙とてない、っそれでいてまるで気詰まりでもない、っじつに勇躍せるシューベルトとフランクとであったことだ、



アマチュアでは、坂入健司郎氏の《レニングラード》が去年の年初頃だったのかな、っなかなかの大演奏だったが、っそのわりにおなじ東京ユヴェントス・フィルとのマーラー《夜歌》は、複雑なスコアに翻弄せられて、指揮者もオケもやや頁々を追っ掛けるのでやっとというふうだったか、彼氏はぴあを退職されて本業の指揮者となられ、今後は海外も含めて活動の幅を拡げられるようで、っようようプロフェッショナルの楽団を振られる機会も殖えてきているが、っべつにプロを相手に遠慮をされているのでもないだろうが、っいまのところ、っなんというかまだ顔のない演奏っきりおできにならないようだ、何年か前、上野のピットへ潜られて、っあれは東京シティ・フィルだったろうか、っをお振りになった舞踊附きのオルフ《カルミナ・ブラーナ》などでは、突飛なことはなにもしていなくとも絶えず、坂入健司郎ここに存りっ、っという音を鳴らしていられたもので、今後、高打率でああした公演を達しられたくおもう、



っあと森口真司氏ね、っしょっぱなからマーラー《9番》などという難物での出逢いだったが、っすばらしかったねえ、現代のアブラヴァネルっっっ、っそのあとチャイコフスキー、モーツァルト、リムスキー=コルサコフというあり勝ちなプロの公演もあったが、オケはわずかに非力であったものの、好印象は揺るがないどころか、確信に変わったものだった、イデアというものは現実の物理音としては表象しえないのだが、っしかし彼氏の音はその気味だ、模範回答なぞいう陳腐な手応えではなく、っどんな曲でも、これがこの作品の音化におけるイデアだ、っという像を提示しうるのが彼氏である、夏にはロシアの珍奇なシムフォニーばかりの公演もあったが、っさようのわけで、彼氏についてはむしろ誰も知る有名曲の公演をこそ希みたいものである、



っそれから井﨑氏、マロニエ響、名古屋市民管というテクニークに勝れる楽団との公演が複数あったのがうれしい、っさして音楽のない人だと、楽団に勝れるとかえってそれに胡座を掻き、っなにも主張のないただ適当に整然たる音が鳴るのみの凡演になったりするところ、彼氏のばあいはオケが弾ければ弾けるほど演奏が入念となり、っほんとうに充実した公演となる、



っあとは《マテウス・パッション》、鈴木雅明/BCJ、堀俊輔/オラトリオ東京と2日つづけて聴いたが、モダン楽器の神奈川フィルであった後者のほうが断然よく、堀氏の音楽性ものびのびと胸いっぱい、終演後に紀尾井ホールの楽屋口をお出になる彼氏とたまさか行き合い、不躾にもひきとめてしばらく立ち話をさせていただいたのもよき想い出である、



佐藤雄一氏は、っせっかくにマーラー《9番》という大舞台もあったのだが、っぼくが彼氏を聴き始めたころには慶應医学部管、交響楽団CTKという手練の名楽団があったところ、っきょう日ではその水準の団体はひとつもなくなってしまい、っなかなか意匠と実音とが両々揃った公演が望めなくなってしまった、っなかでは、市ヶ谷での声楽を伴なったバッハは、っあれは去年だったのかな、っそれは掛け値なしにすばらしかった、オケは非力だったのだが、ソリストおひとりがその鈴のような声音で音楽を高次元異次元へと連れ去ってしまわれた、



っそれ以外は日程の都合でたまさか行ってみた公演ばかりかとおもうが、っどんなのがありましたかねえ、飯守氏が振られるはずのユーベル・スダーン氏代演、ヴァグナーの序曲とブルックナーのミサ曲とというのとか、っやはり東京シティ・フィルで飯守氏の薫陶を仰がれた、っあの人なんといったかなあ、大河内さんかな、大河内雅彦氏の楽聖《7番》とか、黄金週に2度も3度も横浜へ通ったうちの太田巡女史の横浜金沢響とのドリーブとか、安藤亮氏の、マーラー《9番》もあったがむしろ楽聖《エロイカ》とか、っいかにもつまらなさそうな棒、金山隆夫氏のマーラー《5番》とか、大阪、高槻で聴いた絃の小規模アンサムブルのささやかな公演とか、っごくさいきんの冨平恭平氏と一橋大の学生オケとのラフマニノフ《交響的舞曲》とか、っこれもさいきん、異形の豪傑、小柳英之氏のやぶれかぶれのどったんばったんスメタナ《我が祖国》とか、っそこらあたりがいま記憶に鮮やかかなあ、っしかし、手当たり次第なんでも聴きに行かむとはおもわないことしはそれらのすべてを強いて聴く気はなく、都合がつく限り聴こうとするのは井﨑正浩氏、森口真司氏、佐藤雄一氏くらいであろうか、



っあとはチェムバーか、オケばかりのぼくはぜんぜんそれを聴かないが、佐藤久成氏は、っいつも火の玉の人、っけれどもぼくは、抜け切って脱力の境地というときのほうがうれしい、っそれから、っこないだの板橋の狭い器での日置ひと美女史のブラームスにも胸が詰まった、



っこんなところですかね、

っこのあと、新年初の演奏会は13日、豊平青氏のショスタコーヴィチ、っその翌日は浜松で坂入氏のブルックナー《8番》、彼氏はこんげつ中にブルックナーを《8・5・7番》と3曲もお振りになる、っしかも《5番》はシャルク・リヴァイズで京都でだが、っこれはカーチュン氏公演とかむってしまってぼくは聴けない、っわかっていればカーチュン氏の同一公演別日の切符を取り、京都まで行ったところだが、彼氏の手兵2団体との合同公演で、っいっぽうは東京ユヴェントス・フィルなので、っいつも録音がある、同公演も録音、音盤化せられたらうれしいところだ、



っそんなわけで、っことしもまた演奏会演奏会に託けての更新ということで、っどうぞよしなに、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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錦糸町、




中田延亮氏の棒、明治大の学生オケ公演、済む、

中田氏といえば、井上キーミツの大阪フィル公演が彼氏の療養のために延期となり、っその同日に池袋で中田氏の新響との伊福部《、、、タプカーラ》ほか公演があったため、っぼくは飛び込みで聴きに行き、っすばらしい感銘を与えられた、風体は生真面目そうな人だが、っぞんがい熱血漢で、っしかし前後不覚の熱狂へ耽るのではない、っむしろ極めて仔細にスコアを読まれており、振り姿は華美でも流麗でもないものの、鳴る音は稠密かつ鮮烈である、新響のときは、オケのもとよりの最得意曲だから、指揮者が演奏へ及ぼしている影響がどの程度であるかを測り兼ねるところがあったが、っきょう聴いていて、っその実力のほどをおもい知らさる、ラフマニノフは、マロニエ響を振られた井﨑正浩氏も微に入り細を穿つ入魂の逸品だったが、中田氏も堂々譲らぬ対抗を示された、

大学オケの公演がつづいたが、若き学生連の青春を取り沙汰しながら、っぼくもややテクニークテクニーク云いすぎたろうか、っというのは、っきょうの明治大は、精妙さでいえば一橋大に鼻の差で及ばなんだものの、鳴る音の覇気が、っじつに若さの爆発だ、っどのパートもいつも元気いっぱいであり、っその豪壮なるひびきと音場との相性もまた格別であった、っこれからすると一橋大は、っもっと大人びた涼やかさで同《交響的舞曲》のコムプレックスな道程を踏破し切ってみせたものである、っどちらを上席優等とするか、っなんとも悩みどころである、

演目はショスタコーヴィチ《祝典序曲》、チャイコフスキー《白鳥湖》から数曲、っそしてラフマニノフ《2番》、

序曲からとくに絃は後列まで全員が大波のように音楽を揉み拉き、多少とも肩へ力の入っていたトロムペットや木管連中を巻き込んで滔々たる流れを生み出す、大勢のバンダを交えて冒頭のファンファールが回帰するころには、っすっかり柔軟かつ猛然たる合奏が成立していたものである、ホルンなど、っうかうかとしている他声部を覆い盡してしまわむばかりの分厚い齋奏で屹立したり、っその分厚さで流れているテムポをはみ出すばかりにごつごつとしたフレイジングを聴かせたりし、触発せられて全体もゆさゆさと巨体を揺する、

音が落ちるとかひっくり返るとかというのは、テクニークというよりも前に、勇気というか度胸ではないか、一般大学の学生オケも、っその気合いのあるなしで、羊のように大人しいいかにもおっかなびっくりの合奏にもなってしまえば、っきょうの彼等のように溌溂たる若気の発散も可能となる、っああいう音が出てくれると、聴いているこちとらとしても些細なことはぜんぶ帳消しにできる、ホルンなど、音がひっくり返りそうだとおもったら、ビビって後ろへ退かずに、っぽんとつよめに吹いてしまえばよいのだ、指揮者も、吹きにくかったら記譜の弱音指定を外れてもかまわないからおもい切って吹け、っと云ってやってくれたい、っまずはおおきな音であり、っそれが出さえすれば、っさして巧まなくともきれいな音はおのずと附いてくる、っきょうは絃も木管も金管もよく音が伸び、結果としてみなとてもきれいな、っきもちのよい音色がしていた、

1年の掉尾にああした理窟抜きの爽快が巡ってきてくれたのは、っじつに僥倖である、っあすから休みだが、っどこかでことしはこんな演奏があったあんな演奏があった式の回想を認めるとせむ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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荻窪、




読響の絃バス髙山健二氏の棒、成蹊大の学生オケ公演、済む、

演目はサン=サーンス《死の舞踏》、チャイコフスキー《胡桃割、、、》スート、ラフマニノフ《2番》シムフォニー、

オケは、絃はすばらしい合奏能力を有つが、っそれからすると前2曲においては管がずいぶん落ち、っおなじ楽団のパート間でこれほどテクニークに開きがあることも珍しい、っしかしそれもシムフォニーで各1番が乗り換えると解消し、っなかなかの演奏を聴かせる、同曲といえばなんといってもことしの井﨑正浩氏とマロニエ響とだが、大音場での演奏であったそちらに対し、っこちらは中規模の荻窪で、力まなくとも優に飽和し、咽せ返るようなサンチマンタリスムを見舞わる、

髙山氏の棒は慌てず騒がず泰然としたものだが、っそこはやはり井﨑氏のほうが本職の指揮者であり、細部に亙るまでの稠密な描刻は彼氏のほうが抜きん出ていた、髙山氏は、チャイコフスキーではナムバーによってややゆっくりとしたテムポを示すものの、っそれはオケが弾けないからであり、っもとよりなにか恣意的のことをする人ではないようだ、っそれでもラフマニノフは着実な歩みがひたひたと迫り、3楽章では絃の燦然たる煌めきが、っおおきにこちとらを陶然とせしめたものである、



っさあ、っあすは仕事納めにして年内最終演奏会、錦糸町で明治大の学生オケ公演である、っしかもあすもメインはラフマニノフ《2番》、開演は18:15とやや早く、17時まで仕事をしていたのでは間に合わない、8時ころには会社へいるようにして、小1時間早く上がらせてもらわむ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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東府中、




内藤佳有氏の棒、農工大の学生オケ公演、済む、

農工大は同器からごくごく近所で、っぼくも国分寺棲まいのときはここらもよくチャリンコで走ったので、大学が飼っている馬を沿道から見たりしたものである、

法政大、一橋大、中央大ときた学生オケ公演ラッシュも、っきょうの農工大、っあすの成蹊大、っあさっての明治大で了わり、っぼくとしてもあさってが年内最後の演奏会だ、目下のところ一橋大が一頭地を抜いており、次いで中央大、法政大からはまずテクニークとしてずいぶん落ち、棒の山田氏もわりに無趣味であった、

っその法政大公演のメインもマーラー《巨人》であったが、っきょうもそう、前半にはヒンデミット《画家マティス》、技倆としては法政大ととんとんだが、指揮者は、っあれで楽団に勝れればなかなかの音楽をした人かもしれない、コン・ミスよりも背の低い年配の男性だったが、っお名の佳有はかある、っすなわちカールと読ませるようで、っまさかにあのお歳で謂うところのキラキラ・ネイムでもなし、親御さんがクリスチャンで、当字をしているとかということだろうか、っとくに絃をお振りになるときには絶えず、ふしゅーーーーー、はすーーーーー、っとかと歯間から息を漏らしながらでなければ音楽をしているお気になれないという棒で、っかなりノイジーだったが、オケは全体に並以下の能力のなか1stへはまだしも腕っこきが揃っており、っその彼等などはこの内藤氏の神通力に応じてしばしば独得の音色を発したりした、

ヒンデミットは、っことしどこかでいちど聴いているとおもうが、っきょう聴いても、っまるで魅力のない筆だ、っいかに名演奏がありえたとしても、っあんなのを名曲傑作だとおもうことはけっしてできないだろう、曲名だけはそれなりに高名で誰でも目にしたことくらいはあるはずだが、っどうしてそんな名声が与えられているのかまったくわからない、歴史へ埋もれて忘却せられてもいっかなかまわない凡作中の凡作である、

マーラーは、頻発する些細なエラーを乾いた音場が揉み消してくれずにぜんぶ丸裸となるぶん、っいずれも池袋での公演であった前3大からするとそもビハインド、1楽章などは薄いオーケストレイションで田園風景を愛でてゆくので、っしょっちゅう1本っきりで吹かねばならない管の各1番へはソリスティックな腕となにより積極性とが要請せられるはずが、吹くのでやっと、音がひっくり返っても赦してください、っというあの水準ではぜんぜん音楽に成らない、っその点フィナーレは挙軍一丸、っどこも厚手の合奏で進むので、っまだしも聴きでがせぬでもない、プロフェッショナルだと逆で、っこの楽章へ入ると、まだ弾けるぞっ、こんなにも鳴れるぞっ、っと腕っ節自慢になってしまって空騒ぎの憾を遺すこともままあるのだが、



っあすの成蹊大は杉並、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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王子、




っもう23:30なのだが、、、

っほんとうはたっぷり具体的に書きたいのだが、妥協して概観のみを云わむ、小柳英之氏の棒、アーベント・フィルなる楽団の無料公演、マスク着用がうるさく告知せられていたが、着けていなくても誰にもなにも云われなかった、名に負うごとく、日曜だというのに19:30開演、っしかも《我が祖国》のみならず、ドヴォルザーク《フス教徒》序曲、スメタナ《リプシェ》の〈ファンファール〉を演ってからそれへ入り、っやはり前3曲で休憩、ったっぷり21:30すぎまで掛かる、

オケはプロフェッショナルとアマチュアとの混合体とのことで、絃の規模は小さいがまずまずよく弾ける、ドヴォルザークは管を主体に始まるが、っやや洗練せられず、雑然たるよくある平凡な公演かとおもう、

っそれよりもまず指揮者の小柳氏だ、昭和日本の無骨なおっさんという風体で、登壇してのこちとらへの辞儀からなんともやぼったい、振り姿は大柄な体軀をじたばたせしめて煩いこと夥しい、休憩後の〈ボヘミアの、、、〉では、ベルトが弛んでいたのか、吊りバンドが外れたのか、中途から左手でズボンが摺り下がらないように持ちながら右手の棒のみで振らねばならず、っそれが済んでコン・マスへひそひそっと話してそそくさと袖へ下がられる、詮なくコン・マスは立ってオーボーへ調音を求め、戻って来た小柳氏は次曲の譜面を用意しながら、すみません、ズボンが落ちそうになりまして、っとかと云い訳をされている、楽員は苦笑だ、

っところがっっっっっ、っぼくはだんだんとその演奏の虜となった、現代の日本人のオーケストラが、っあんなにも音を揃えずにめいめい得手勝手に鳴りまくるとはっっっ、アマチュアらしい人も含めてみなそれなりの腕があるのに、っとにかく纏まらむとする意志が欠片もないのだ、っつまり、指揮者にそうする心算がまるでないのである、機能的でスタイリッシュな名楽団を井﨑正浩氏がみごとにコントロールされた大演奏を聴いた直後なので、っその落差にぼくはくらくらした、学級崩壊して生徒生徒がわいわいぎゃーぎゃーやっている教室で、教師はそれを諫めるどころか、っわいわいぎゃーぎゃーのまま無理無理に牛耳って猛進驀進してゆくのである、

音は落ちたり出処を誤ったり停まったりアゴーギクでタテが乱れたり場違いなフォルテを鳴らしたりしまくるのだが、《我が祖国》も後半となるころには、っぼくはもうぜんぶ赦す気になれた、ただひとつぜったいに赦せないとすれば、火の玉のように音楽の核心へ向かって体当たりしてゆくその熱情が薄らいだときだ、っとおもわされたものである、〈シャールカ〉の歌など、井﨑氏以上にぼくを泣かせてやまなんだほどだ、

っきょう日こんなにも洗練せられない演奏がありえたとは、、、オケはあれで、っとくにプロフェッショナルの連中などは、っそういう棒を歓迎しているのだろうか、っしょっちゅう音が乱れることを苦々しくおもっている人もいるのかもしれない、っしかし、っあれこそが音楽だ、っみなそれを信じているからこそ、っああいう演奏になるのだ、

っこの人とこの楽団とを、っまた聴きたい、っぜひに聴きたい、っそうつよくおもわされたことである、っまたやぶれかぶれのずたぼろ大演奏を披瀝してくれるにちがいあるまい、



っさ、帰ろ、午の名古屋は暑いくらいで、っさっき王子でも北海道からすれば物の数ではなかったが、日附を跨いでいままだ南大沢駅の喫煙所で、流石に指が凍り附いてしまった、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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