ざっかん記 -28ページ目

栄、芸文センター、




井﨑正浩氏の棒、名古屋市民管なるオケで、スメタナ《我が祖国》、済む、

っすばらしいっっっ、

っこちとらせっかくにはるばる北海道から聴きに来ているので、っそれはテメエの勝手にすぎないわけだが、っしかし、その俺の耳へ鈍らな音なぞ届けるんじゃないぞ、っという我勝ちのこころを抑えられずに開演を待ったのだったが、っいやはや、、、オケも抜群、っことしの井﨑氏公演としては宇都宮におくマロニエ響に比肩すべき世紀の大楽団であり、っその手足を得て彼氏は、っじつに丁寧至極の棒を振られる、オケに一定以上の地力があるとき、ヘタに丁寧な棒を振ると奏楽が安易な予定調和へ落着し、っかえってつまらない演奏になったりするものだが、っそんな心配は無用、井﨑氏はオケが弾ければ弾けるほど細目に亙る要求要求を繰り出されるため、っそれを叶えむ叶えむとする楽員各位の意志意志が凝集し、全楽は絶えず途轍もない緊迫感を湛える、っこんなにも細部の細部にまで意匠の漲り渡った《我が祖国》は、っぼくの聴いてきたかぎりではおよそ空前絶後であるが、っにも拘らずあくまでも余韻は爽快であり、音々はただただ聴く者を仕合わせにしては去ってゆく、

っそしてあいかわらずの芸文センターのあのトーンよ、、、潤澤でありつなお分解能も高く、ったとえば〈ヴルタヴァ〉、序奏が済んで中低絃に伴奏音型が出、Vnとオーボーとが主題を唄い始めても、っその伴奏音型がずっと意味深くクリアに聴こえつづける、っここだけでなく、余分な力を入れずともちゃんと逞しく鳴れるオケは、大トュッティではトロムペットが頂点において独り吼え立てて他をすべて塗り潰してしまうのでなく、ホルンとともにごくフレッシュな和音を結んだりする、っあんなにも音量音圧が高いのにあんなにもハモって聴こえるとは、愕くべきことである、っそして最弱音では絶え入るような音量が要請せられてもけっして平衡を乱すことがなく、っついに音価を遂げてパウゼへ至った際の無音の堂内は、っまさしく仕合わせである、

〈ヴィシェフラド〉は、主題がハープからホルンへ遷ったはじめこそ、っこの楽器にとっては低い音域が苦しそうで、っそれとファゴット等の木管との混淆が、全体の音色音質としてもうひとつぴたりと定まらなんだが、井﨑氏の棒は早くもおもい入れたっぷりで、管群とハープとが交互に交互に鳴るところではいちいちいちいちテムポを撓め、っまたそれへのオケの応え方がめいっぱいの共感に溢れている、っそして満を持して絃が登場すると、Vnのアルコのいったいなんという澄明かっっっ、Vcのハーモニーの附け方のいったいなんという繊細さかっっっ、

急速の主部へ入っても振り落とされるメムバーは誰ひとりとしておらず、フガートはまさしくフガートとして鳴る、っすべてのパートが等分のテクニークを具えている、高解像は維持せられるどころか、竣敏に駈けながらも感興はおおきく膨れ、胸いっぱいに展がってゆく、っいかにゆとりを有ってかつ眞剣に音楽をしているかだ、井﨑氏の点画点画の定め方定め方、棒の軌道軌道は、曲への共感共鳴を謳うのに最高であるとともに、交通整理としてもじつに最善である、通例、っその両立は難いものなのだが、

〈ヴルタヴァ〉も冒頭からゆっくりじっくりと語り起こす、フリュートの吹き方、音色音質、ピッツィカートを挿すタイミングまで高度に巧んで音を準備してきたことがわかり、聴き応え満載である、

主題は、高音へ達する際の弓の軋らせ方ひとつで歌の感触に差が出ることをVnの連中はみな自覚しており、井﨑氏はその難儀をしかし要求される、っそして要求は叶えられるのだっ、っせつなくてやり切れない、懐かしくてたまらないっっ、っそして音高を上げながら漸強すると、下げながら退潮するときにはさっと弱音へ抑え、先述のとおりVa、Vcの伴奏音型を浮かび上がらせるっっっ、っほんとうに、眼前へ河の流れを幻視するかのようだ、

結婚式の田舎踊りは、っぼくの、、、っじゃなくマタチッチ翁のこだわり、漸強以前の2音ずつのスラーの強調こそないが、ボウイングとしてはたらりらたらりらでなくたらてぃらたらてぃらの弓順となっているのがわかり、腕利きばかりが揃っているため、たら、っから、てぃら、っへ遷移する際のかすかに弾き直されている手応えは如実に伝わる、っそれでよいのだ、っなにもマタチッチみたように、たら・てぃら・たら・てぃら、っといちいち間へルフト・パウゼが入らむばかりの勢いで演れなどとは、っぼくも申さないのである、、、っそう演れるものなら誰か演ってみてしまってくれたいものだが、

月夜はやはり絃の勝利、っそしてとちゅうから加わるホルン、トロムボーンの動機のリズムを寝かせずに弾むところがすばらしい、静謐な時間だからといって音を寝せてばかりいるのは愚策である、

急流では絃がシャギーな倍音を発せむ発せむとし、っそういうことでワイルドネスを表現するのであり、グラン・カッサの烈打であるとか、安易な方法を頼まない、移調した主題の回帰でもそうで、っやはりどたばたとテンションに感けない、鳴っている音が、この強勢は前の強勢よりもどのくらいつよくする、どのくらいの音の量にする、どのくらいの鋭さにする、っという風附きをしており、っもちろん周到とは聴こえても冷淡とは印象しない、終結の2音はどうも据わりのわるい演奏がおおいなか、っそのこと、どう発音したら不細工になってしまい、どう発音すればぴたりときもちよく定まるか、っを意識した棒の振り方、音の出し方となっているのがありありとわかる、っそしてそれは文字通り奏功し、っまさに据わりのよいトュッティだったのである、



、、、っもう王子の開演時間となってしまった、っいったん保存してあとでまた書かむ、



っいま、王子のほうも終演したんだが、、、っこんれがまたねえ、、、っいやはやどうして、っまさかああいう種類の演奏が待っていたとは、、、っま、っそれはまたあとで別記事を上げるとして、っまずは井﨑氏補遺、

〈シャールカ〉も冒頭から着実で、っやはり勢いだけでは音楽が上滑りすることを指揮者もオケも識っており、っそれを回避すべく主題を弾く絃が、一点一画といえど疎かにすまいっ、っとつよく意志した奏楽を示す、っそんな全楽の裡でしかし紅一点、、、女性奏者だったのだが、クラリネットはちゃんと狂おしい熱情を吐露す、女戦士の胸の内を謳うには、っもちろんそうでなくてはなるまい、っそして絃も黙ってはいず、っあの連符を含んだ歌ではめくるめく情念の迸りを聴かせる、なんという名曲だろうっ、っその感激に堪えず、っぼくは泪を落とした、最後の殺戮劇となる手前のクラリネットのソロのところだったか、ファゴット2本の和音といった地味な音にまで目配りが効いていたが、っそのさらに手前、彼等が吹く間抜けな男衆の鼾は、井﨑氏は記譜通りの音価を求めてお振りになるように見えたが、奏者はそれより手前へ飛び出させるように吹いていた、2度井﨑氏にキューを出されて2度ともさように吹いていたから、っそういう表現だったのかもしれない、殺戮劇はそこへ向けて漸強してゆくときには地を這うごとロウ・テムポで、っまさしく男の寝込みを襲うシャールカ連の血走った眼が髣髴す、さあいざ殺戮が始まったあとのテムポをどうする心算だ、っと構えて待つに、っそこへ至る途端のアクセル全開、っこまかい音符をがっちり入れてくるトロムペットの張り切りようも痛快である、〈ヴルタヴァ〉以後、っすべての曲が強音で了わるが、っここでもやはり据わりのよい音を巧んでいる形跡が顕著である、

休憩して一部乗り換えもあり、後半、〈ボヘミアの、、、〉は冒頭から熱量が高い、絃はやはり整然とひびきの基底を形成するが、トロムペットなどは滾るような濃密な音色を聴かせる、っこういう演奏こそ、っただ精緻なだけで了わらせてはならない、っやがてクラリネットとファゴットとの歌が聴こえてくるが、っその終わりのほう、フリュートとオーボーとへバトンを渡す手前で、休んでいた絃バスが、っほんの1小節っきりだとおもうが、アルコで全音符を静かにずーーーんとやる、井﨑氏の棒はちゃんとそちらを指している、っとにかく、っそういう細かな部分で、っこれまで気附きもしなかったことをいくつもいくつも教えらる、

〈ターボル〉冒頭は、漸強してきてフス教徒の動機を全員で確保するときに、ティムパニがけたたましく打ってくれないのが惜しい、っここのみならず、全曲に亙ってこの楽器にはいまひとつの気骨を求めたかった、っしかし全体の鉄壁は一部も揺るがず、1stの静かな高音に始まるフガートは、〈ヴィシェフラド〉の主部同様に、音楽の構造を具に伝えた、っこれに導かれる讚歌の部分では、っいよいよトロムボーンも大詰めへ向けて熱量を増してくるが、トロムペットとおなじでけっして独善的に絶叫してはならないと自戒が効いており、ここはトロムボーンをたっぷり聴きたいっ、っとぼくがおもって待ち構える、っするとトロムボーンはきちんと威厳たっぷりに鳴る、っけれども節度ある吹奏で、っまたもホルンとの間に鮮烈な和音を聴かせたりする、

〈ブラニーク〉ではホルンっ、牧笛の呼び交わしはオーボーもクラリネットもフリュートもファゴットもみなすばらしかったが、ホルンはハイ・トーンを2度とも弱音でぴたっと定め、っしかも音の出しどころも、クラリネット等とのコンテクストからいってぞんがい前へ倒れ勝ちに吹き始めてしまう演奏がおおいなか、そこだっ、っという位置からさっと高い高い音が難なく起ち上がるので、っまことに快感であった、

、、、っもう南大沢まで戻って来てしまった、っまだもう1記事書かねばならんのだが、

最後の勝鬨だが、ターボル動機とヴィシェフラド動機とが同時に鳴ったあといったん弱音へ落ち、っあらためて後者を謳歌すべく登坂する部分は、っぼくはよく行なわれているレガーティッシモではしゃらくさくて嫌いで、っきっぱり1音1音切って登ってくれたいのだが、っきょうの井﨑氏はそうだったっっっ、っやはり譜面にはスラーなど書いていないのにちがいあるまい、っああでなくてはっっっ、

っほんとうに、遠く北海道から飛んできた甲斐があった、アンコールにきのうとおなじアンダーソンからきょうは《橇滑り》、井﨑氏はサンタクロースへ扮装されてなかなかの名役者ぶりでいられたが、客席は手拍子をしたがってしまい、彼氏も主題がジャジーなスウィングへ回帰するところからはぼくらへそれを促される、っぼくはああしたときけっしてその手拍子へは和さずにあくまでも舞台上の音のみへ耳を凝らしたい人なのだが、オケはやはりとても巧く、っそのスウィングのノリもカッコよく、最後はトロムペットが、っあれはトナカイの鳴き声の心算の筆なのかとおもうが、っそれをみごとに鳴いて、眞に充実し切った公演を締め括ったのである、

事後はきのうにつづき王将で、、、っまたやたらと割引券をくれるもんだで、っその期限がみじかくて、っまんまと術中へ落ちて通いっ詰めにさせられてしまうという、っで食事をして地下鉄2駅、名駅から新幹線で東京、京浜東北で王子へ遷ればもう開演に間近、

っそれはなんとも珍妙窮まる3連チャン演奏会の掉尾だったのだが、記事を改めて、



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《襷  ータスキー》(4)

 

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名古屋、栄、




っきょうは強行軍中の強行軍だ、っいま芸文センターからほど近い、ブースででなく座席で喫煙しうるいつものカッフェへ入って、開演に1時間半ほど前で、っじつによいタイミングだが、自分がけさ北海道へいていま名古屋へおり、っこれから演奏会を聴き、っしかしよるには東京へいて、っそこでもうひとつ演奏会を聴き、っしかもその演目はおなじスメタナであるなどということは、自分でもおよそ信じ難く、っすべて夢幻であるという気もする、

っあさはホテルを出て直通通路で駅改札まで行くが、空港行き電車の着までに20分弱ある、寒さを嫌って階上のホームへ昇らずに、暖房の入っている改札の手前で待っている人もいる、っぼくは喫煙することにして地上階へ降り、バス乗場附近の線路の橋脚の蔭へ隠れてシガレットへ火を着けたが、-15℃とはいかに、っと惧れるものの、っまあ別世界というほどのことはなく、1本服んで改札、ホームと昇る、っしかし、遮蔽物のおおい喫煙した場所からすればホームは寒風に曝され、端の陽当たりの好いところまで逃れて電車を待つが、先行車輛が遅れているとかでほんの2、3分遅延する間、手袋をした手へ白い息を吐くところ、っこれはどうも逆効果のようだ、吐いた当座はその呼気の温かさをおぼえるが、手袋の布地が湿り気を帯びる分、っそれが外気に急冷せられてかえって手指が悴んでしまう、寒さ凌ぎも、所変われば品変わるである、

っと云えば、市街では、辻々へ小っちゃな筺が据え附けてあり、中へは細粒の砂利を充塡せる小袋が入っていて、ご自由にお使いください、っとな、っはてなとおもうが、積雪した際には歩道歩道へ撒け、っというのである、東京では積雪が見込まれる事前に融雪剤を撒布する習いだが、っより寒くて頻々と降雪するのでは、っもう融かしているばあいではないのだろう、積雪ありき、積雪上等で、っそこへ砂利を混ぜてしまって、滑って転びそうになっても砂利がストッパーになってくれる、っというわけなのだ、道民のそれへの信頼も篤いものとみえて、サラリー人士態の革靴を履いた男性が平然とした貌ですたすたと小走りさえ交えてぐわっちぐわちのその雪上というか氷上を行くのを感歎とともに見遣るも、っぼくはあくまでもこわごわと、足裏を地と水平に、眞っ垂直に接地せしめねばならない、足裏を地と水平に、眞っ垂直に接地せしめねばならない、、、っと絶えず念じながらでなければ歩けなんだ、

千歳では離陸の1時間ほど前に保安検査場をすんなり通り、会社の人間への平凡な土産物もすべて背嚢へ突っ込んでしまえるほどの身軽さ、っが、インナー・ヘッド・フォンをして喫煙所ですぐしていたところ、搭乗口変更のアナウンスは聞こえず、っやや慌てて変更先まで行き、最後から数人前くらいで搭乗して、定刻より数分前の離陸となる、

景色をたのしみたかったのだが、機内は往きも帰りというかけさの名古屋往きもこちとら汗ばんでしまうほどの暖房で、っともに陽のある窓側だったが、炙られてじつにぼわんぼわん、自然、瞼も首も落ちてきたが、っお蔭でいまはしゃっきり、良コンディションで演奏会の客席へ向かえそうだ、

っしかも《我が祖国》2連チャン、っあの曲は、彼の地の人々にとってみればこころ穏やかには聴いていられない壮烈なる歴史叙事であろうが、っぼくにすれば、なんとたのしい80分間だろうっ、っというところで、っいま聴く前からもう仕合わせである、



っはてさて、っそろそろ会場入りするとせむ、



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札幌、




井上キーミツの札響公演、済む、演目は、前半にシャブリエ《スペイン》、ファリャ《三角帽子》㐧2スートとスペイン趣味で、後半はストラヴィンスキー《サーカス・ポルカ》、森山開次氏の舞踊を伴なって《火の鳥》の、19年版かな、最後にアンダーソン《クリスマス・フェスティヴァル》、

終演しても2時間におおきく満たず、1時間半強というところだったが、っどうだろう、キーミツは、っぼくにはずいぶんお辛そうにみえたのだが、気のせいだろうか、マイクも数度、握られたが、喉が嗄れているのはもとよりの後遺症としても、っおそらく、腰が相当度にお悪いのだとみられる、登壇も、っなにかそのようにぶってのっそのっそと反り返って歩かれるが、っあれも腰を庇っていることをお客に気取られまいとするポーズだとおもうし、っぼくの位置からは、彼氏が袖へ下がり切るところまで視認しえたが、舞台中央では気丈を演じられても、袖まで辿り着くか着かないかのところで左手を腰へ当てられている、カーテン・コールも、オケの面々はまだ1度や2度はあるかとおもっているふうだったが、っあっさりとハネてしまった、キーミツが、っもう舞台中央までの10数歩ばかりでもしんどかったのではないか、

去年からあれこれの入魂の公演を痛み止めを頼って熟され、っしかしそれが祟って腎臓を壊されたとのことで、今夏、療養を余儀なくせられたのだが、復帰後の群響とのショスタコーヴィチなどもやはり痛み止めを打つのか服むのかしての舞台であったらしい、っその高崎では跳んだり跳ねたりの大舞台だったのだが、彼氏としては、現役のうち余力を温存し、引退後の静穏なる余生よ来たれよかし、っなどとはゆめおもわず、最終公演を振り了えたその舞台袖で斃れてこそ本懐とおおもいにちがいなかろう、っけれども、っきょうさっきの舞台姿をみるに、果たしてあとちょうど1年間の舞台生活はちゃんと全うせられるのだろうか、っとぼくなど憂慮せずにいない、っいま現時点でも、痛み止めの力を借りなければ腰痛が苦になって舞台を熟せない、さりとてあまりそれを頼ってはまた腎臓がやられてしまう、っという痛し痒しの状態なのではないか、っそうだとすれば、っそれを向こう1年間もつづけるのは、苛酷も苛酷であろう、っこれからまだヘヴィな楽曲の公演もおおいし、っきょうの森山氏との《ラ・ボエーム》といった長時間公演も控えている、っしかもそのプッチーニは、全国各地を巡演するのじゃなかったか、っそれも、コンサート・オペラを標榜する彼氏としては、ピットへ潜っての座上の棒ではなく、オケといっしょに舞台へ上がり、立ってお振りになりたいのにちがいあるまい、、、彼氏の代わりに、っぼくが神へ祈るなり仏を拝むなりしたいくらいだ、

、、、っとまれともあれ、カッフェから一直線に器のある中島公園へと南下するが、ビル街の歩道の日向側はほぼ残雪がなく、タイル敷きやアスファルトが露出している、っしかし公園近くで住宅街となるとかっちこちの氷の盤面で、っこわごわ踏み締めながら現着す、園内は細粒の雪片を人々が緊密に踏み固めた状態で、融け固まったところよりも遙けく歩きよい、器の手前で蔭へ逸れてシガレット2服ほど、シガレットへ着火するにはどうしても素手でなければならないが、着けて服みはじめるそばから指先がみるみる悴んでくる、っなので手袋をして服んでいた、2本目を着けるのにまた手袋を外し、着けて、っまた手袋である、

器へ入ると、堂内は快適、サントリーに近い座席配置だが、1階席の奥行きがずっと浅く、っすぐさま階上となるのは川崎や、っあるいはあす行くこととなる愛知芸文センターなどをおもわせる、っぼくはどんな器でであろうと2階右翼前方がまずいちばんの狙い目なのであるが、っきょうのそのあたりは、サントリーの同様の位置であればまだぜんぜんSだろうという良位置ながらすでにしてAであり、っわりに安価でありがたい、視界も音響も仕合わせである、

キーミツはさようにタイヘンそうではいられたものの、音としては札響は凛烈で、シャブリエから主部へ入るときの勿体ぶったテムポ・ルバートがうれしい、2台のハープがやたらと張り切っているのもたのしい、

ファリャではコール・アングレだ、惚れてしまいそうな妖艶っ、

っで小品を演ってから《火の鳥》、っはなからこの演目のはずだったのか、っそれとも、兵庫で10年版全曲を相伴しえなんだ森山氏へのせめてもの罪滅ぼしというか埋め合わせで急遽プロへ組み込んだのか、っきょうは舞手は彼氏おひとりであり、っしかもみじかいスート版、〈カスチェイ、、、〉ではすっかり引っ込んでしまわれ、っそれ以外の曲でしか登場されない、王子というよりは、主に火の鳥を舞われるようであったが、っざんねんながら、っあの構成では全曲版の感銘に遠く及ばない、演奏としては、っこんどは〈ララバイ〉のファゴットだ、っが、全体としてはあっさり吹き過ぎてゆくふうではあり、っそれが主役の舞を立てむがためであるか、キーミツが腰を据えて細部まで彫琢し盡すだけの執念を奮えなんだからであるかはわからない、

アンダーソンは解説にはアメリカでは大定番だとあったが、っどうだか、メリー・クリスマスと云うな、ハッピー・ホリデイと云え、っというあほなポリ・コレ社会へと堕したという彼の国では、っきょう日そうもゆかないのではないか、っどうあれ、〈きよしこのよる〉では、和声のかすかな強調が流石に練達の業だ、

音としては爽快だのに、キーミツのことがひどく心配になってしまう午后であった、彼氏のお次の公演は、ったしか1月中は機会がなく、2月の頭にまずN響で、翌週には大阪フィルで、っともに《バビ・ヤール》であったかとおもうが、っよくお休みになり、っすこしくでも腰の容態が改善しての舞台であってくれたいとおもう、っや、っそこまでゆくと、っもう休めて好転するようなものでもないのか、っあるいは、っどんなにおイヤでも指揮台へ椅子を置いて舞台を熟されてはどうかとおもう、っひとつびとつの舞台が全力傾注でなければならないのはこちとらとしてもよくわかっている心算だが、っともかく、彼氏のその余力がどうとか来年の最期の1公演に至るまで余されていることを、再度三度、希わずにはいられない、



公演事後はまたおなじ場所にて2本ほどシガレットを服むが、陽も傾いでなお寒く、っやはり手袋必須、公園を北端まで歩くと地下鉄の駅があったが、東西線の大通駅まで歩く、予報通りちらほらと降雪しているのもよい風情で、っすすきの以北は地下道でも移動しうるが、っそのまま地上を歩く、気温を伝える電光掲示板は-4℃を示す、翌朝は、っこれよりまだ10℃以上低いのかよ、、、千歳へ遷ってホテルへ入り、直近へ王将があったのでまた寄り、っいま出て来てそう冷えない気がするので喫煙を始めるが、体幹は平気だがまだ書き了わらないこの記事を打つ指は凍て附き、っぶるぶる震ってしばしば誤入力を晒す、っいま2本目、っさすがにキツい、疾っ疾と室へ退散せむ、

っあすあさは9時前の便、



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札幌着、




離陸はやや遅れ、っいま札幌からすすきの方面へ地下道を歩ってカッフェへ入るが、っちょうど開演の2時間前、地上へ昇ると歩道は、除雪せられているところもあればぐわっちぐわちに凍て附いてしまっているところもある、っしかしあの程度ならば歩くのにわけはなく、っいま軽食のあと、歩って器まで行くとせむ、

気温は流石に低いらしく、日中で晴れているも、っおもわずに外套を羽織る、

っところで、札幌の喫煙事情はどうなのだろう、っさっき札幌駅のホームへ降り立つと端の方へ喫煙所があるのでうれしく利用したが、年明け早々に本スペイスは廃止するので以降は階下のコンコース内のものを利用してくれろとの貼紙があり、っその階下へ降りてみると、っうちひとつは狭いスペイスへ大勢の利用者が殺到しており、っその人集りを瞥見するっきりでもこちとらげんなりしてしまう、屋外市街地での喫煙者への白眼視はありやなしや、っあるとしてどの程度の鋭さか、っきょうの器は中島公園というおおきな公園内にあるが、っこれからそこまで歩って、指定せられた喫煙所がなかったとして、っどこか隅っこのほうでこそこそと服んでいて、見咎められたりしないだろうか、

っこんやのホテルは、喫煙可の室を予約したろうか、っよく憶えがない、ったぶんそうしたとおもうが、千歳は、降雪はしないが気温としては札幌よりもなお低いらしく、日没すれば凍えるような寒さであろう、ホテルの室内で服めないとして、屋外で一服するならば、っそのつい一寸の間にも、っしかし身体はかちこちに固まってしまうにちがいない、っちなみにぼくは、喫煙可のホテルの室でも、窓を開けてなるがたけ屋外へ煙を吐くようにしている、風向きによってはそのまま室へ戻って来てしまったりもするが、、、入った室へ煙草の臭いが染み附いていると、っまあどうかな、っぼくはさほど不快ではないが、人によっては本人が喫煙者であっても気分を害するようだ、壁紙からなにからぜんぶ煙草の臭い煙草の臭いなのだから、っぼくひとりがそんなことをしたところでなにも変わりゃしないだろうが、翌日に同室を利用する誰かさんにとっての不快の種をほんのすこしくでも摘まむがために、っあるいはそれに貢献できているだろうとの雑な想像に基づく自己満悦のために、っぼくはそうしている、



っさて、っよい時間だ、カッフェを後にせむ、歩って30分と掛からなかろうが、っどこがかっちこちに凍っているか知れない、



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羽田、




9:30発千歳往きで、っそう混み合いはしなかろうとはおもうも、っいちおうさきほど7:30ころにターミナルへ着いておいたところ、保安検査場の手前へはさしたる列はできておらず、っまずは安心す、

っぼくはがらがら引き摺るスーツ・ケイスは持っておらず、っだから預ける荷もなく、っいつもの背嚢ひとつである、今次の旅程は1泊っきりであり、冬場とはいえ、ファスナーがぶっ千切れるのではないかというほどのぱんぱんにはせずに済んだ、

っしかし、空いていたはよいが、っなんとも手持ち無沙汰のあと1時間半ほどである、っいま喫煙所へ入ったものの、っここへずっといたうえで機内へ乗り込んだのでは、隣の席の人に厭がられるだろう、

先週末には、っきょうあすあたりの北海道は大雪の予報だったところ、っまずまず快方へ修整せられ、っすくなくも千歳からは雪マークがすべて消えてしまったので、空路の心配はしていなんだ、札幌近辺はしかし、っゆうべからけさにかけて降雪したようだが、っいま現在、千歳-札幌間の鉄路も平常通り運行中のようである、公演を聴いて器から出てくるころにはひょっとすると雪がちらちらとするかもしれないが、っすぐに電車へ乗ってしまうのだし、っそのくらいはむしろ一興であろう、懸案はあすあさの千歳の気温で、-15℃にもなろうかというのだが、っためにもこもこの靴下を2重に履いてもまだ履けるわりに底の厚い足袋を履いて来る、っいつもの足袋様の靴ではなく、鞐の3つ附いた踝あたりまであるほんとうに足袋然たる足袋である、一寸ごついのでふだんは滅多に履かないが、っいざ履いてみればこれはこれで快適で、例によってまた室を出る時間がぎりぎりとなってしまってさっき駅まで半分強を走ったが、っなにしろ足袋だ、っすたこらとアスファルトをグリップする感触を味わう、

搭乗までに閑があるのもしかし、っまあわるくないかもしれない、っゆうべも仕事のあと外食して帰宅し、散髪してシャワーを浴び、洗濯機を回して浴室へ干し、っきょうの旅支度をし、ベッドへ横臥しつ先般発売せられた沖澤女史と読響とのシベリウスや朝比奈さんの《アルペン》2種、チャイコフスキー《5・6番》のリマスター復刻盤などをPCで吸ってiPhoneへ同期していたりしたところ、っけっきょくして睡るのが1時半だか2時前だかくらいになってしまい、5時には起きたので3時間ばかりっきり睡ていない、っいまかくしてラウンジへ腰掛けて睡るともなく瞼を閉じ閉じしておくだけでも、演奏会の客席でのうとうとはいくぶんなりとも回避しうるだろう、空路に遅延がなければ、鉄路へ乗り継いで札幌市街へは公演の3時間ほど前には着くので、っいくつかあるいつものチェインのカッフェのどれかへ入り、っそこでものんびりと睡惚け勝ちにすぐして、開演するころにはばっちり目醒めていられるようにせむ、っま、っきょうの演目はどれも賑やかなものばかりだから、睡魔もはなから寄り附きはしないだろうも、



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池袋、




佐藤寿一氏の棒、中央大の学生オケ公演、済む、

法政大に始まった年末の学生オケ公演ラッシュだが、っこないだの一橋大がみごとな成果を上げ、以降の各大への強烈な牽制となっていたところ、っきょうの中央大もなかなかのもので、暫定2位へ附けたか、

創部何十周年だか定期何十回記念だかで、チャイコフスキー《スリーピング・ビューティ》から〈ワルツ〉、ブラームス《1番》、っふたたびチャイコフスキーで《5番》というヘヴィな一夜、19時開演、終演は21:20ころであった、

アンサムブルは、一橋大には劣るが、曲想を叶えるにじゅうぶん及第はしている、ブラームスは、最冒頭の序奏は流れるようなテムポで開始し、主部ははんたいにぐっと腰が重たくなるというすこしく変則的のコントラストで、オケには基礎体力にそれなりのおぼえがあるため、堅固なドイッチュ音楽のソナタ形式が展開す、

2楽章は指揮者も冒頭から並ならぬ感情移入を示す、低絃は連符でおおきく音楽を揺すぶり、膨らまし、1stもVaもG線を深々と唸らせる、っあんなにも淡彩から遠い咽せ返るようなこの2楽章の開始も珍かだ、

惜しむらくは、管のソロがいずれもやや奮わなんだ、オーボーもクラリネットも、楽器のメインテナンスが不充分であったろうか、後者の女の子は、吹き姿からすればがんらいはなかなかの名手であろうが、っその2楽章の例のオーボーからバトンをもらう絃の裏拍上での独り舞台の最後で、きゃんっ、っとなってしまったし、っその後もずっと音が掠れ勝ちとなりそうなならなさそうな吹奏で、っいつまたきゃんとなるかとひやひやさせた、ホルン1番の男の子もフィナーレ序奏におくアルペン主題で複数度、音がひっくり返り、終演後に指揮者に立たされても、口惜しそうな貌をしているようにみえた、

っそれでも、一般大学の学生オーケストラがよくぞあそこまでドイッチュ浪漫派の保守本流へ肉薄したものである、

チャイコフスキーも、要所ではもっと迫力やもっと高密度、っもっと万全のテクニークが慾しかったとはいえ、音価音価の細かいアレグロでも長いカンタービレでもいつもひびきがツボを当てており、トュッティはすばらしい覇気を発散す、

ホルン1番はこんどは女の子だが、2楽章の大舞台には拍手、彼女のみならず木管1番はいずれも前曲から乗り換えており、オーボーもクラリネットもずっと上質となる、

フィナーレ主部はブラームス1楽章同様、一寸ゆっくりとした速度へ定位する棒が巧く、例のプロフェッショナルの奏者でもリズムがダサくなり勝ちの㐧1テーマ中のオーボーの主題も軽妙軽快、っそれでこそ淋しさを伝える、っただ、っここでも惜しいのは、トロムペットが全体にやや頼りなく、マエストーソでもすかーんと突き抜け切れなければ、最後の1楽章㐧1テーマのファンファールなど、速いテムポのまま突っ切る棒に附け切れずに、音が落ち勝ちとなってしまった、



っさてと、北海道の週末の予報だが、札幌あたりはあれからなお荒天へと更新せられてしまった、っそれでもやや内陸の千歳はさほど崩れないようだが、飛行機は飛んでも、っそこから札幌へ出られるかどうかがむしろ心配だ、宿は、っもとは札幌駅北口直近のそれを取っておいたが、日曜の千歳発は9時前であり、っかなり早めに空港へいるほうがよいだろうかとおもい、仮に2時間ほど前とすると札幌からは6:30前後には電車へ乗らねばならない、ホテルの詳細情報を検めるに、朝餉はその6:30からでなければ食べられなく、っそれで無料キャンセル可だったのでそうし、空港直近の千歳駅前の宿へ替えて、土曜の公演後、っそちらへチェック・インすることとした、っそれでもあさは早いが、朝餉くらいは摂りうるだろう、日曜には天気はやや好転するようなので、向こうへ飛べさえすれば、翌日の名古屋往きはまず問題はなかろう、

っこの年の瀬へきてのせっかくの日本縦断演奏会詣でがおじゃんとなってしまうのではまことに後味がわるい、っお天道様がよろしく味方をしてくれることをしんから祈らむ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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っところで、




っこないだのカーチュン氏の日本フィルとのショスタコーヴィチほか公演の配信動画だが、録画して音声のみを抽出し、っきょうiPhoneへ同期して聴いてきた、演奏会前の新幹線内では耳を痛めないために中音量で聴いたが、っいまは大音量で公演全編を聴き了え、っなかなかのものだと感じ入る、懸案の音量レヴェルは、iTunesのオプションで最大に増幅すれば満足のゆくものとなった、音源によってはそれでもまだ足りず、別途、編集アプリケイションでゲインを上げねばならないものもあったりするのだが、

公演、ライヴ配信の当日よるにカッフェでiPhoneにて視聴した際には、っまだコンサートのほんとうに全編が観られたが、っのち、開演前の解説者によるトーク、っおよびソリスト・アンコールの《星に希いを》はカットせられてしまったようである、前者はどうでもよいとして、後者が失われたのは惜しい、

っとまれ、劈頭の外山《まつら》から、何度でも云うが、日フィルはまったくすばらしい、一糸乱れぬというのはまさしくこのことである、楽器を殖やし、漸強し、っしかも加速しつづけるというお客を昂奮の坩堝へ引き摺り込まずにおかない祭囃子は、精妙であってこそかえって半狂乱の気味さえ醸さむばかりである、サントリーの客席でこの前日の実演を聴いているときにもじつに瞠目を迫られたものだが、っこうして音源を得られたのはまことにうれしい、っいずれ音盤が出るかもしれないとしても、っそこへはショスタコーヴィチっきり収録せられない可能性がおおきいからである、

っところで外山氏といえば、っこんど追悼盤として大阪響との音盤が出るようで、吉報も吉報である、っしかも3枚組というヴォリュームで、The Last Symphoniesと銘打ち、シューベルト、ドヴォルザーク、ショスタコーヴィチの各最期、っもしくは最後期のシムフォニーばかりを取り揃え、指揮者最期の遺産でもあるというダブル・ミーニングか、ショスタコーヴィチ《15番》などという珍曲を最晩年に取り上げていられたとはまったく意想外だが、《アンフィニッシュト》、っご生前最期の約3/4指揮曲ともなった《ザ・グレイト》の全曲指揮テイク、っそして《新世界》という定番でも、っしかし老匠は凡百へたんまりと後塵を浴びせる矍鑠を遺憾なく発揮せられていることだろう、

閑話休題、カーチュン氏の池上氏との伊福部《ラウダ、、、》は、過去の名演の間へ並んでも、霞むことなく堂々自己を主張している、ソロもさることながら、覇気充溢の日フィルを得たカーチュン氏の造形が、単なる合わせものとしてあっさりと流さずに、っなかなかに手の込んだ仕事となっているところがまたうれしい、っただ、終演直後に汚ないおっさんの声でブラヴォーが入ってしまっているのは、音源としては玉に瑕だ、っそれに云い方があまり巧くない、一寸いやらしい声の色であり、っそこへ当人の人品骨柄が露呈している、ブラヴォーも、云い方の巧い人とそうでない人とがいるものである、っどうせ云うなら、自身が大勢の人にその声を聞かせても恥ずかしくないだけの喉をしているかよくよくかんがえ、っまた云い方もおおきに巧んでもらいたいものだ、っその発声ひとつで、っせっかくの名演奏へ泥を塗らないともかぎらないのだから、

ショスタコーヴィチ《5番》は、1楽章展開の児戯マーチにおいてトロムペットが盛大に音を引っ外すのがほんとうに惜しいが、っもとより偏窟な主題なのだからこの調子っ外れがかえってそれを助長するようでご愛嬌とおもってやれなくもない、っそれに、木管が重なったくりかえしでは、っすばらしい和音の鮮度ですぐさま失地を回復してもいる、

カーチュン氏の造形は、っわずかに未整理、っないしは表現意図がオケに伝わり切っていない個所もあるかもしれないが、全体に雄弁能弁で、促音たるべきところをレガートに、レガートたるべきところを促音に改変するワガママはどの楽章にもしばしば現われ、っめっぽうたのしい、1楽章の展開は、上記の目立つエラーこそあれ、大勢としてはむしろ凄まじい気魄で、日フィルの竣敏さにはこちとらじつに舌を巻く、胸突き八丁で全員で主題を絶叫する部分は、っそこへ突入した直後はまだ直前までの余勢を驅ってテムポがつんのめり気味だが、叫びながらようよう足を引き摺り、音色の密度濃度を増し、トロムペットの最後の2音にべたーーーっと音価を破らむばかりの分厚いテヌートを要求してついにタムタムが爆ぜると、っもはや地を這うような微速前進となっている、っとうぜんながらバス・トロムボーンは轟然と唸り、っしかも弱音まで落ちたあとも、っつづくフリュートとホルンとの愛の呼び交わし、、、作曲家は自身のかっての愛人と彼女の新しい恋人との交感をむざむざと傍観するよりほかない憐れな立場である、っの部分へ遷るまで質量の高い吹奏をつづける、っあきらかに指揮者に求められてそう吹いている手応えであり、っすばらしい解釈だ、っそしてその〈ハバネラ〉部へ遷移した瞬間にぱっと速足へ戻すセンスもすばらしい、っなんというか、精神の健康美をみるようである、っかかるきっぱりとしたテムポ設定は彼氏のマーラー《3番》にもたびたび聴かれ、優柔不断なぼくがアラルガンドして頂点を打ったあとにすぐさまア・テムポしないでしばらくそののんびりを持続せられたいとおもうような個所で、彼氏はそのぼくの希みと眞っ反対の直後の完全無欠のア・テムポを敢行励行しており、っあそこまで希望とちがうと、っかえって有無を云わさず説得せられてしまう、期待したことが叶えられない、っということでも、っやり方ひとつで聴き手を魅了することはおおきに可能なのだ、っその点、演る側は自身の造形におおきに自信を有たれたいし、聴く側も、っさようの見解の相違を呑み込み、鳴る音をそのままに押し戴く寛容を涵養することが肝要である、、、っいつかも遣ったかもしれない駄洒落、

1楽章でひとつないものねだりをしておけば、楽章終結、コン・マスのソロの背景で弾いている他の絃連中の密やかな上行グリッサンドを、っそれこそ音価を破ってそのためだけにたっぷりと時間を取り、っえげつないばかりにずずずうぃぃぃんとずり上げてくれたいのだが、っそれはほんとうにただのぼくのワガママにすぎない、

2楽章の強音強勢は、絃といい管といい打といい轟然というかもはや傲然たる屹立、終結の1音でカーチュン氏は棒で首ちょんぱーのアクションをしていられたが、っまさしくそのイミッジなのだろう、っいっぽうトリオでは、コン・マスもフリュートも道化た味がいずれ劣らぬ逸品で、っおなじ動機を最後に短調で吹くオーボーもまた同断、っみじかい音のなかでのかすかなクレッシェンドを励行したりと、っその丁寧さにはまことに頭が下がる、

3楽章は、会場で観て絃のディヴィジが市松模様みたように列毎にプルトの裏表裏表というぐあいであって、っあんなふうにスコアに指定せられてあるのかよとおもっていたが、っどうもカーチュン氏独自のものらしい、っなんでもよるの天球にちかちかと星の瞬く様を視覚的にも具現したとのことだが、っなかなかのこだわりようである、音としては、最弱音でオーボー、クラリネット、フリュートと主題を唄い継ぐ部分の張り詰めた孤絶が忘れ難く、殊にクラリネットが吹くときのフリュート2本による和音などは出色だった、っそのおなじ主題は、シロフォンを交えた緊迫のあと、中低絃によって再現せられるが、カーチュン氏はあの夾雑音を臆面もなく強調して痛ましさを演出、中途から絃へオーボーだかクラリネットだかが重なったあとは、身悶えせむばかりの苦衷を激白す、

フィナーレは、音量を増幅して聴くと、っちゃんと迫力を伴なっている、っそれでも冒頭のトゥリラーが漸強したあとのティムパニの分散和音などは、っさいしょの1音からもっとけたたましい打音でだんどんだんどんと慾しいものだが、加速して絃の主題が出て以降は、1楽章の展開同様、っこんにちの日フィルの勇姿を拝みうる、っしかもここでも促音→レガートの改変が闖入して凡庸へは堕さず、提示の結尾では一気呵成のアッチェレランドが火を噴く、中間部分の中途から絃主体となる部分は3楽章の再来、血反吐を吐くように凄惨であり、っその血糊の海から救済のハープが上行す、静かな再現の入りは牛歩で、っそれはまことにぼくの趣味に合致しているが、っなおたのしいことにティムパニには硬いマレットを持たせてどんどこどこどことではなくてんてけてけてけという質感を出させ、早くも愛人名を浮き彫りにしている、っその愛人名の連呼連打へは中途からピアノが参加するが、っよほどの痛打でなければVnに消されてほとんど聴こえない、っこのときのピアニストは全体重を掛けての打鍵を示し、っその効果はみごとにあがっている、初演者にして泰斗、ムラヴィンスキーの同曲の演奏ではしかし、っこのピアノやシロフォンといった特殊楽器の主張が不可思議なほどよわく、全体に管絃の基幹を頼った風合いとなっている、っそれでもあのとおりのおっそろしい厳格さなので、っひびきが後期浪漫派みたようにヘンに豊麗で甘ったるくなってしまう間抜けな轍を踏んでいないのはとうぜんだが、っやはりせっかくある特殊楽器はどれもその効果的の音色音質を活かされたいものである、カーチュン氏へ戻るが、大団円の愛人名上での、ご用心っ、っのファンファールは、云ったようにはじめのうちコラール様に柔和な吹奏が要請せられ、っついに頂点で硬質の咆哮へと達するように工夫せられていたものの、指揮者の造形がさようであるとき、オケのほうではしかし、そうは云ってもコラール様のときでも音型の輪廓はちゃんとわかるように吹かねばならないっ、っとの気骨が必須だ、っここでの日フィルは、っまあぎりぎりその面目を保ったとしてもよいか、っもっと指揮者の意図を体現しながらの、っしかしより上質の吹奏が存りえた気もせぬでもないが、

っいずれ、3曲ともに曲想がほどよく共通しかつほどよく異なり、っひとつの公演としてまずそのライン・アップから秀抜だし、指揮者はそのそれぞれへ入念な造形を有って臨み、プレイヤーはその親方へ誠実に添い、っじっさいの公演の客席でもぼくは、2時間の全体がひじょうに緊密に構成せられている手応えをしかとおぼえたが、っかくして2日目の動画と音声とへ接してもその印象はおなじである、っそれでも、造形上のごくかすかな不首尾や不徹底からたまさかのエラーまで含めて、今後、摘んでゆくべき課題は、っお客に指摘せられるまでもなく彼等のほうで先刻承知であろう、っああした演奏をみせつけられると、彼等の前途へ昇るべき階梯は想起しても、転がり落ちる下り坂はぜんぜんみえやしない、っや、演奏会を挙行して、下り坂を転がってゆくことは誰にとってもごく稀なはずだ、っおおいのは停滞した演奏、っずっとおなじ次元にっきりいない演奏、問題意識を発散しない演奏である、カーチュン氏と日フィルとは、多難なる階梯を昇りあぐねることはあるかもしれない、っしかしいまいる次元へ安住しているという種類の不満足をお客へ与えることはけっしてないだろう、っそれは職業人としてとうぜんの姿ではあるが、っとうぜんのことをとうぜんにして為しうる人物がしかし意外なほどすくないことは、世の人が誰も知るごとくである、



っさてと、っまもなく橋本、

っあ、っいま南大沢の駅へ降りたが、大阪の冷たい風が嘘のようにさほど寒くない、数値としてみてもだいぶん気温が違うようだったが、体感としてもはっきりと異なる、、、っということは、っこんどの札幌はきょうの大阪よりなおキビしいということか、っそりゃそうにちがいない、



みずの自作アルヒーフ

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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大阪、福島、




井上キーミツの棒、大阪フィルで《㐧9》公演、済む、開幕にアンダーソンの《クリスマス・フェスティヴァル》で、っこれは来週の札響公演も同様、っで休憩なしでそのまま楽聖、

っまたこだまグリーン車で4時間掛けて来阪したのであさは早く、6時すぎには起きたが、っなんのかんので玄関を出るのがぎりぎりになってしまうのは恆のとおり、っこないだとはべつの一張羅、痛いイタリィ革靴で出るが、駅まで走る間によい汗を掻く、気温は下がるというが晴れていたので体感としてはさほどでもないかと踏むが、降り立つ大阪は午からすでにして東京より肌寒く、っいま終演して器から出て来て、日没しない前から斬るような風の冷たさ、下はヒート・テックを穿き、上は外套を羽織っていて体幹は凌げるが、手袋をしない手は悴む、

開演は14時だが新大阪へは12時前に着き、っまたカッフェへ寄って軽食を摂ってから1駅大阪まで、器の前まで歩っても13:20ころであり、悠々とシガレット数服、っこれから復路はもう景色もたのしめないのでのぞみだが、18時すぎの列車を予約してしまった、終演後ゆっくりと食事をする時間が慾しかったからだが、っこんなに寒いならもうすこしく早いところ新幹線へ乗り込んでしまいたいところだ、

っさておき、大入満員のなか、アンダーソンはめいっぱいに音場を満たして始まる、っより大器たる中之島でもあれほど雄渾の響を上げうる大フィルにすれば、っこの潤沢の福島を飽和せしめるのなど朝飯前か、

っしかし楽聖は、っいつもひびきがはみ出し、溢れこぼれる往年の朝比奈さんの音からすれば、大フィルはずっとスマートで淡麗に鳴る、っぼくは朝比奈さんの実演に接したことはなく、音盤等に聴くっきりだが、っそれでもそのかってときょう日とでは、大フィルもじつに今昔であろう、

事前におもっていたとおり、1楽章も2楽章も3楽章も、っぼくら日本人はああした鳴り方の《㐧9》を経験しすぎており、っいまいちど曲へ出逢い直すような新鮮な感動が喚起せられないのは、っもう致し方あるまい、っそれでまたこの曲は、局所で一寸した芝居を打って独自性を印象附けることも、っなかなかにできにくい、意表を突くテムポ操作を挿せる個所もあまり見当たらないし、音量音勢バランスをいじって掘り起こすと面白い効果をあげそうな声部も、っありそうでない、、、っや、っあるにはあり、過去の巨星たちの音盤では、え、そこのそんな楽器を大事にかんがえているのか、っと唸らされる手腕をあれこれと聴くことはできる、っそれからゆくとキーミツは、去年のN響でもきょうの大フィルでも、っわりにずっとあっさりとこだわりなく流れてゆくふうで、っもちろん概観大勢としては立派な合奏ではあるものの、もうすこしく執念深い譜読みを披瀝されないものかな、っとおもわせなくもない、指揮者も楽員も聴衆も、っいったん《㐧9》に関する記憶をいっさい消去してしまえたら、っぼくら人類はどんなにか仕合わせであろうか、え、《㐧9》、知らないそんな曲、っという地点から、っまた営々と演奏史を積んでゆくのである、

っそれでもフィナーレともなると、自然、感興も昂ぶらずにいない、っきょうよかったのはコーラスとオケとのバランスで、大フィル唱は男声も逞ましく、っまた女声に美観を保ったうえで高音に剣があるのがうれしい、っそれでこそほんとうに民衆の声のようによろこびの集いが展がる感触がする、

っとちゅう、例の楽聖も畢生の筆致と讚えらるヴィオラとクラリネットとのところではおもわずに胸が熱くなったし、っすべての人がすべての人がすべての人がと逸るこころに駈け出しながらしかしいちど歩を停め、コバケンさんがヴィーンで楽聖の自筆譜を閲覧する機会があった際、泪の雫がつづいているようにみえた、っという、コーラスがwo deinを唄っているときの1stの音型は、演奏としてはドルツィッシモのうちにもせめていますこしく音勢を確保せられたかったものの、っぼくは聴きながら、独りぽっちの楽聖とともにまさしく泣き濡れる気分であった、

最後の歓喜の大合唱は、っきょう日では滅多にテムポを落とさないままであるのがひとつの見識となっているが、キーミツはN響とのときもぐっと腰を落とし、っきょうはなお輪を掛けて極大のロウ・テムポ、最期の、っというのは大フィルとはということなのだろうか、っそれとも正真正銘、生涯最期の《㐧9》だったのだろうか、っいずれ、解釈云々を逃れて、っこの部分くらいは、感情に敗けてもこころゆくまで曲想に浸り切った演奏であってよいのではないか、っさように、キーミツに同情的でいたい幕切れであった、



っさて、っお次はすぐあさって、池袋にて、佐藤寿一氏の棒、中央大の学生オケ公演である、っそして来週末はいよいよ札幌、名古屋と過密旅程だが、っきのうあたりから、千歳往きの空路を心配する声がちらほら聞こえる、っぼくは土曜あさに羽田から千歳往き、日曜あさに千歳から名古屋往きだが、っいずれも無事に飛んでくれたいものである、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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池袋、




冨平恭平氏の棒、一橋大の学生オケ公演、済む、ヴェーバー《オイリュアンテ》序曲、チャイコフスキー《1812》、ラフマニノフ《交響的舞曲》で、アンコールを演ってもいまだ2時間に15分ほども足りない一夜だったが、っじつに充実した、っすばらしい演奏だった、

冨平氏の棒は、っやはり我孫子で観聴きしていたのであるが、図形の描き方は平凡で、っべつにそれはよいのだが、っきょう観ていておもったのは、アツくなれない人だ、っある種の男性にはあり勝ちのことなのだが、夢中になれない、夢中になったって上滑ってしくじるだけじゃないか、っというぐあいで、クレッシェンドで迫力を求めるアクションをすれども、っどこか照れというか、照れと云ってわるければ諦観というか、っつまりどこまで行ってもこころは醒めているのが身体の動きに露われている、っあれでオケがノッて弾いてくれない団体だと、途端につまらない演奏へ堕してしまうタイプの棒だろう、

っところがきょうの学生連は、っこの演奏会に懸ける熱意、執念じゅうぶん、っしかも一般大学の学生オケとしてはテクニークにおいて最優等と云ってよく、っそうなると、下手に棒に煽られないほうが、開演から終演まで汚れず濁らずの清潔な合奏が維持せられ、っそうした棒と楽団とのケミストリーが、っじつに爽快痛快だった、土台、ラフマニノフ《交響的舞曲》を舞台へ掛けむというような団体が、アンサムブルの基幹からよちよち歩きというわけはないのであるが、っそれでもあれほど精緻を極めた奏楽を示すとは、っじつに愕きである、

っことしは坂入健司郎氏の棒、タクティカート・オケで同曲を聴いたのであるが、プロフェッショナルの、っごくたまに寄り合って公演を熟すあの手の団体にあり勝ちのこととして、声部声部でもうひとつこころが通い合わないプラスティックで味気ない合奏であり、っそうなるとああした込み入った書法の楽曲では、っはっきりと云って聴いていてもどういう音楽だかさっぱりわからない、現にいま、っあのとき初台でどんな演奏だったか、っぜんぜん記憶にないのだ、ライヴ音盤はレコ芸廃刊前の最期の特選盤となったとのことだが、っきっと評家の眼は節穴なのだろう、っぼくとしては、っもちろんときおりエラーこそあれ、っきょうのほうが断然感銘が深い、っというよりも、っともかく初台での坂入氏公演ではぜんぜんラフマニノフ《交響的舞曲》を聴いたという手応えがなかったのに対して、っきょうはいま、っあの複雑なテクスチュアをしかし、刻一刻と味わいつづけたという快い疲労感に醉っているのだ、

っあの種の曲は、っどんなにさまざまのリズム・パターンが交錯しようと、っどんなにあちこちと転調をくりかえそうと、っどんなに楽器楽器が口々に鳴り、多様の和声や楽器法、奏法が乱れ打たれようと、楽団全体があたかもそういうひとつの生命体であるかのように、っあるいは、驅動せしめるとそこから多彩な音響の鳴るひとつのでっかい筐体、たとえばジューク・ボックスみたようなものがでーんと舞台へ置かれてあり、それがひたすら鳴っている、っという手応え、っひとくちに云えば一体感ということなのだが、っそれが出来しなければ、っまるで聴いていられない、坂入氏の演奏のように、っそもどんな曲だかがぜんぜんわからない、っどんな名指揮者、名楽団でも、っそうしょっちゅうさようの演奏ができるわけではない、っぼくも、っそうした演奏に巡り逢えた機会は、っこれまでに数えるほどっきりない、ったとえばあの杉並での上岡敏之氏と日本フィルとの《アルペン》などは、っその貴重なひとつだ、

っとまれ、っまずは前プロから、ヴェーバーは、っさいしょのトュッティから、っすこしく虚ろな、中身の詰まらない音響のような気がしたので、幸先がよくないかとおもいきや、っすぐさま質量の高い合奏と成る、大編成の絃はどのパートも後列までよく弓を使い、速く、細かい音が連続するが、っすばらしく瞭然たる点画が具現せられる、対して2管の管はやや大人しかったが、っそれゆえに池袋というあの大音場の広々としたトーンが十全に活かされたとも云える、終局あたりこそ、っいますこしく牙を剝かれたかったものの、

っつづいては《1812》であり、管も頭っ数から膨大となるし、っあのとおり安閑とはしていられない曲調なので、っここで完全に本調子へ達す、テクニークに不足する団体ではかかるとき、テンションを加えたぶんだけ音も落ち、エラーも散発し、音色も荒れる仕儀となるのだが、っきょうの彼等は、っそれにより音の密度を増し、熱狂を伝えこそすれ、っさようの轍はけっして踏まない、冒頭のセロ、ヴィオラは、っいずれもヴェーバーではかすかに弱味もみせたので憂慮したが、っみごとな歌を聴かせる、っちゃんと音が立っており、っしかも管打を交えていちど高潮したあとの主題のリレー中では、バスを伴なってのごりごりとしたソリッドな迫力さえ事とす、

同曲は、ロシアの巨星たちの棒では、アレグロ部がどこもたいていサディスティックのまでに速い、っそれも、っそこはまあたしかにアレグロでしょうなというところのみならず、人によっては、㐧2テーマが退潮したあとのタムブリンを伴なった横笛の歌ですら、愕くほど速い、っそれが正統なロシアン・スタイルなのだとしても、っぼくら日本人の大半にとってはどうだろう、巨星たちよりは概して遅めのテムポを採った演奏のほうがしっくりくるし、っその横笛の主題についてはなおさら、っゆっくりのんびりと唄ってくれたほうが、侘しい調子が出て好適と感じているのではないだろうか、っきょうの冨平氏はさようの日本人のテムポであり、主部へ遷ったさいしょから、装飾音を含むオーボーが最もきもちよく唄える構えだ、っしかも巧いのは、㐧2テーマへ遷るときになにごともなかったかのように完全なイン・テムポでそこへするっと滑り込み、唄いながら自然と腰が落ちてくるといったフォルムで、っそうしたポーカー・フェイスでこそ、っかえって篤い共感が伝わるようであった、大団円ではバンダも加わるが、冨平氏はけっして無駄に楽隊を煽動しないので、各声部とも音の潰れた幼稚なおダンゴ合奏とはおよそ無縁である、

っそれでもラフマニノフは、っもとより細密な書法の彼氏のうちでも、文字通り最期の畢生の筆致であり、っいったいそれへどこまでキャッチ・アップしうるか、無条件の信頼は寄せられずに休憩をすぐしたが、始まってみれば、上に云うように一個の巨大な生命体が蠢めき、乗っけからセロのピッツィやピアノのアルページオが、ったしかにその楽器からっきり得られない音の色、質感でありながら、同生命体の触手触手がこちとらを絡め取るべく迫ってくるようで、1楽章がトリオへ達しない以前から、ううむっ、これは勝負あったわ、、、っ、っとの圧倒を喫す、

っそうなるとその後は、っじつに大船へ乗った心算でいればよいだけだった、っあまり聴いたことがないので、全体にどういう曲調だかよく識らないのであるが、っどこのどんなところへ連れてゆかれようが、っすべての頁が意味深長に鳴った、っこの手応えが、坂入氏の棒からはぜんぜん出なかったのだ、腕の利く団体がみじかい時間で音を揃えたのみでは、執念が伝わらない、音が乾いており、っどこかしら隙間っ風が吹いている、っそれが、っこの日へ向けて周到に準備を重ねてきたきょうの彼等は、っただのいちど、舞台上で披瀝するその音々へ、万感も万感を籠め抜く、

っしかも熱意余っての勇み足もない、っここでも、冨平氏のやや冷めた棒が、っむしろ奏功す、っや、冷めたと云ってはもちろん非礼だろう、複雑なスコアであり、絶えず譜面台へ視線を落としながら落としながらの棒だが、っしかしよくよく読み込まれているのもとうぜんで、っほんのときおりのニュアンスの要求は、っこないだの文京での寺本義明氏と同様、ボディ・ラングィッジとして最低限の表現でっきりないが、楽器楽器からは彼氏が求めているとおりの音が鳴り、っそのニュアンスでこそ、曲想の眞価が顕現す、オケのほうでは若き熱情の楽員みなが、先生お任せくださいっ、云われなくともわかっていますからっ、っといった調子で、っやはり、っあれでオケがそうなのに棒がなおそれを煽っては、要所ではかえって美観をはみ出したことだろう、3楽章の冒頭といい幕切れといい、っこちとらはほんとうに、オーケストラというものが発することのできる最も快い迫力に見舞われたのだった、

年末の押し迫った週には3日連続で学生オケの公演を聴くのであり、っきょうはその嚆矢であったが、果たしてその3団体に、っきょうの一橋大を凌駕しうるだろうか、っよほど気を吐かねば、っそれは不可能であろう、



っさて、っお次は日曜、っまた大阪日帰りにて、井上キーミツと大阪フィルとで、彼氏にとって最期という《㐧9》である、豊潤芳醇なザ・シムフォニー・ホールでであり、豪傑的の音力とめくるめく色の氾濫との両立を希みたいが、果たしてどうか、全体の造形としては、去年、N響との演奏を聴いてもそうだったが、っあの年代の日本人の指揮者では、っどうしても既視感既聴感から逃れられない、細部細部で新味を出したところがまるで無駄で、っその点ではなにも期待はしていない、、、っひどい云い種だねえ我ながら、



っいままだ聖蹟の喫煙所だが、っもう日附が変わってしまった、っこう演奏会へ通っていると、睡眠時間の確保もなかなか儘ならない、っその点では、ったまに一寸へぼな公演もあってくれたいものだね、好い演奏だと、っかくして電車で帰ってくる間に所感を書き切れないから、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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初台、




服部百音女史と井上キーミツとの公演、済む、18:30開演、20:30には済むだろうということは、21:30閉店、21時LOとみられる19時開演ではいつも寄れない初台の王将へ間に合うかとおもっていたが、っお喋りも含めてなんと2時間半超、器を出ると21:10ころであった、聖蹟まで戻ってまたカッフェへ入るとせむ、

絃合奏と打楽器とのオケは精鋭の集った臨時編成、ピアノにあのキーミツとクセナキスのコンチェルトを弾いた巨漢、大井氏、曲は、っことし軽井沢、郡山とすでにして2度聴いているキラール《オラヴァ》、ペルト《タブラ・ラサ》、ヴォルフ《イタリィ風セレナーデ》、バーンスタイン《セレナーデ》、

ミニマルなキラールは、服部女史をリーダーに開幕からすばらしい集中力、女史はいまだお若いのにことし大病をされたようで、復帰直後とみられる近影などはこちとらぎょっとするほどの形相と細腕とであられたが、っきょう登壇されると、っまあぼくの識っている服部百音の姿であり、一時は30kgを切られたという体重も、っまずまず戻されたようだ、

ペルトは2楽章制の作で、服部女史とコン・マスとが前へ立ち、オケはその後ろへ学校の教室みたように全員右を向いて坐し、右端にキーミツが立たれる、大井氏は左端に控えるが、ピアノはプリペアドであり、っへんてこな音が鳴る、長大な2楽章はやはりミニマルで、っしずしずといつ涯てるともなく打ちつづき、っついに楽器の数が減り、漸弱し、堂内完全に暗転して終止す、

ヴォルフは服部女史は乗られずに絃合奏のみの単一楽章、キーミツは50年以上ぶりにお振りになったとのことで、っそのむかしトーサイ氏が執心し、桐朋の学生にさかんに演らせた曲とのこと、っなるほどイタリィ風で、っからっとあかるく、快い曲調だった、

バーンスタインはVnソロと絃群とに打楽器各種、ハープという編成で、5つか6つ楽章があったか、っこの大指揮者にあんな曲があるとは露識らなんだが、、、っはうっ、カッフェ、23時までかとおもっていたら22時閉店だった、っいま、っもうLOの時間を回ったと入店を断らる、デスク・ワーク時にはあさも午も食べないので、っきょうはまだなにも腹へ入れていない、曲は、っすこしくジャジーになる場面もあったが大真面目な筆致で、変拍子の部分も頻出する難儀さながら、服部女史は暗譜で棒に応えらる、

っあまり有名でない曲ばかりの1夜だったが、全体にごく充実しており、多彩な変化を經ながら演目を追う毎に感興の昂ってゆく、っなかなかの好企画だった、



っところで、パンフレットを開くと挿まれていた1枚目のフライヤーが服部女史とキーミツとのN響公演のもので、っしかもきょうの夕から先行販売を開始しているとある、堂内は電波が入らないが、っもう開演間際であり、休憩時に購わむと喫煙所へiPhoneを持って出、サントリー、フェスティヴァルと東西2公演のうち前者を当たると、っいつものぼくの狙い目であるRCの前方内側のブロックはいまだ1席も売れておらず、悠々と最前列の1席を購う、ショスタコーヴィチのコンチェルトをふたつとも演ってしまわむというもので、正真正銘、女史とキーミツとの最期の共演となるとのことである、っぼくは、っこのサントリーが聴ければ、大阪までは遠慮するとせむ、

っさて、っまたすぐあす、ったしか我孫子でその演奏を聴いたのだったか、っちがうところだったか、冨平恭平氏の棒で、っどこか学生オケの公演、年末は学生オケの公演が立て込んでいる、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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