ざっかん記 -29ページ目

っきのうきょうは、




っずいぶん暖かく、っきょういまももう21時を回ったが、っもちろん外套を持参しているも、っそれが要らない、っただ、っひとつ気懸りなのが、向こう1月の札幌の天気を検めると、っぼくが羽田から千歳、千歳から名古屋と飛ばねばならない23、24日の週は、っじつに雪勝ちの予報が出ている、っどか雪でないかぎりは飛行機は飛ぶだろうと信ずるが、っほんのコンサートをひとつ聴き、ホテルへ1泊するっきりでも、っやはり天気が好いほうがうれしいし、空路の遅延や欠航を心配しなくてよい旅程であってくれたいものだ、



っさておき、中板橋へ遷って、日置ひと美というピアニストのリサイタル、マリー・コンツェルトなる極小器においてだが、規模として、井上キーミツの奥方の経営されている代々木上原のあの器などをおもえば早い、1階が受附で、2階へ上がるとL字型に並ぶ椅子椅子に囲われた一隅に、っすこしく小っちゃいのだとみられるピアノがある、っややあって気附いたのだが、客席はさらに階上があり、テラス状にして階下を見下す格好となる、っはなからわかっていればそこまで昇ったところだが、っぼくは受附から昇ってすぐの席にした、っしかしあそこまで狭いと、目前で生身の人間が演奏しているという実在感もつよく、息遣いまで聴こえるようであまりに生々しいので、っやはり階上から見下ろしているほうが、っより音楽のみに集中して聴けたろう、っぼくはしばしば視覚を不要におぼえて、午とおなじように俯いて瞑目しつ聴いたが、っなにしろそんな小器でピアノが弾かれているのだから強音では空気の震動に頰を叩かれるようだし、アルコールもほどよく脱けていたらしく、午みたように睡りへ堕ちてしまうことはなかった、っしかも、狭いながらにまずまずの音響であり、最高音のフォルテがハウリングを起こしてかすかに耳へ刺さる程度、中音域以下はニュアンスゆたかに鳴った、

演目は、ブラームスの生誕190年だかに託けて、クララのなにか小品に始まり、次いでシューマンの、っのちにはひどく対立することとなる義父の作品の主題によるものと、ブラームスがシューマンの主題を用いたものとヴァリアシオンをふたつ演って休憩、っそしてブラームスのソナタ《3番》であったが、ヴァリアシオンについては、っいずれも初めて聴いたので、変奏が派手になってくるとこちとらそれと主題の原型との対照が不能となってやや不如意ではあったものの、っやはり初めて聴いたソナタは、っしかし明快な主題と構成と書法とであり、っそれがまっすぐにこころの琴線へ触れてきて、っひじょうにおおきな感銘を与えられた、

っその《3番》ソナタは、ブラームス弱冠20歳時の筆で、っしかし彼のこのジャンルの最期の作とのこと、若書きながら拙さと無縁というのはそのとおりで、っしかし、大半の主題を、っなに臆面もなく誰もが名旋律とおもうだろうようなさようの旋律としたところが、っこの作品の勝因であろう、主題を労作するためにかえって晦渋となってしまっている、っというどの作曲家もそうなり勝ちの円熟期の筆致は、っそれはそれでくりかえし弾き込み、聴き込んでゆくに価するだろうが、なにはなくともまず名旋律っ、っという楽曲ももちろん世に存するべきで、っこれはその好個の例のひとつにちがいない、っいまさら云われなくとも好楽家には自明理かもしれないが、っふだんはオーケストラばかりで、チェムバーを熱心に聴く習慣のないぼくは、っかかる楽曲をほんとうにぜんぜん識らないのである、

日置女史ご自身の手になる楽曲解説では、2楽章が恋の成就を伝え、っしかし3楽章の束の間の喜悦を挿んで4楽章は、葬送の足取りみたような3連符を伴なって失恋の苦味を吐露しているという、っそれが作曲家自身のプランニングなのか女史の解釈であるのかは不明だが、っぼくはその2楽章にいたくやられてしまった、っほんとうに恋に逸る若者のこころがそこにはらはらと鳴っているようで、後年の欝々たるブラームスとは肖ても肖附かない青春の息吹が迸り、狭い音場の内でそのひびきに包まれて、っぼくはそのとき俯いて聴いていたが、っせつなさで胸苦しく、目頭は熱く、っじつに膝へ泪を落とすに既であった、彼はここでクララへの思慕を表白し、っしかし4楽章で手ずからケリを附けているのだろうか、実生活ではついに清い関係を保った儘にして、、、

フィナーレがまた力作も力作、㐧2テーマは音符が細かくてこそ柔和も柔和であり、っふつうにソナタ形式なのかなとおもって聴いていたが、っその後、っおもいのほかワイルドな附点リズムが現われて、以降、多彩な変化を經廻る、っとちゅうから構成がよくわからなくなってしまいさえしたが、波状的に繰り出される楽想楽案がどれもこれもたのしいのでおもわずに夢中にさせられ、コーダともなるともはや破竹怒濤の勢い、演奏も眞に迫り、満堂を圧倒するにじゅうぶんの、っみごとな幕切れであった、



っお次はすぐあさって、初台にて、服部百音女史企画の公演で、井上キーミツが招かる、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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流山、




佐藤雄一氏の棒、流山フィル公演、済む、

シューベルト《5番》、ドヴォルザーク《7番》だったが、大半は俯いており、音としてはわりにちゃんと聴いていたが、両曲ともに、フィナーレの終局近くに限って睡眠へ堕ちてしまった、

シューベルトは慌てず騒がず、っゆっくりと語られるが、狭い音場に素朴な合奏が快かった、

ドヴォルザークは、金管が加わって、先のシューマン同様、騒音勝ちとなるのを惧れるが、っぞんがいウェル・バランスの音響だった、っけれども、っもっと眞に練れた楽団でなければ、佐藤氏を十全に味わうには及ばない、



先にも寄った、器から近い王将へ行ってみるが、っそのときにはぜんぜん熟れない接客で、っぼくは箸袋へ、クレイムというのではないが提案を書いて退店したほどだったところ、っきょうはまずまず円滑なオペレイションに刷新せられており、っよろこぶ、



生を2杯呑んでしまったが、睡気は電車でここ、中板橋まで来る間に峠を越したのではないか、金曜から5連チャン演奏会で、っきのうの2公演、っきょうの午とやや睡くてしまったので、最後くらいはばっちり目醒めて聴きたいところだ、マリー・コンツェルトなる商店街のなかのおそらくかなりに狭い音場で、日置ひと美というピアニストのリサイタルである、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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疾っ疾と、




帰って睡ればよいものを、っゆうべも、っまず池袋でいつものチェインのカッフェへ寄らむとするが、開演前も終演後も、2軒とも入店するまでもなく階段の下まで順番待ちをしており、っおなじ店が聖蹟の駅にもあったはずだ、っと聖蹟へ戻り、閉店間際までいて、出て駅の喫煙所でシガレット数本、っさらには帰宅間際に例の公民館&体育館の駐車場でまた喫煙しつ、2時すぎまで立ち盡くしている、

カーチュン氏のきのうの公演の配信動画を観ていたのだが、カッフェは通信環境がわるく、っときおり停まったりしてストレスフルだった、

外山《まつら》、伊福部《ラウダ、、、》はあいかわらずのすばらしさだが、ショスタコーヴィチは惜しくも、1楽章の児戯たるマーチにおいて、トロムペットが派手に音を外している、っそれに、ったとえばフィナーレ冒頭からなど、ティムパニにも金管にもぞんがい硬骨の音力が足らず、最後の大団円にしても、愛人名リャッリャリャリャリャリャリャ、、、上での野次馬連の、ご用心っ、っのファンファールへ、カーチュン氏はコラールみたようなやわらかな吹奏を求め、最高音へ向けてついに硬質の咆哮へ達せしめる、っという解釈を採られていたが、っそうおもって聴けばたしかにそう聴こえるものの、っなにも識らない人へ音だけを聴かせたら、せっかく最後まで来たのに、どうしてこんな力ない音でっきり吹かないのさ、っと不満を漏らすかもしれない、っという気もする、っただどうかしら、っそれら憾みも、録音の音量レヴェルの低さに由来するかもしれない、っゆうべ動画を再生していて、最大音量にしても、っぼくがインナー・ヘッド・フォンで音楽を聴く際の慾しい音量へ達しなんだ、っあの手の動画配信ではあり勝ちのことだが、音量は、っうるさくなるぎりぎり1歩手前という大きさがなければ、演奏の眞価は測れないものである、録画し、音声のみを抜き出してすこしくゲインを上げたデイタを作り、iPhoneへ同期して再度、聴いてみるとせむ、

っよのなかの音声デイタという音声デイタには、殊にモバイル機器で再生した際に、最大音量の8割くらいで最適音量となるようにレヴェルを設定しておいてくれたいものである、ポップスなどの音源はそれが叶えられているものがおおいが、っなぜかクラッシックは音盤でも一般に音量レヴェルが低く、YouTubeなどへ上がっている動画や音声にしても、最大音量で聴いてもまだぜんぜん足りなく、っそれでこちとらは、デイタを落として手ずからゲインを上げる手間を払わねばならない、



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池袋、




上岡敏之氏の棒、二期会唱のコーラス、読響で、ストラヴィンスキー《詩篇シムフォニー》、モーツァルト《レクイエム》、済む、

っやや睡くてしまった、音は、っかろうじて聴いていたとおもうが、

っゆうべも帰りが遅く、っやっと睡たのはもう3時すぎか4時前くらいだったか、アラームを掛け忘れており、っはっと起きたのが8:20すぎころ、仕事へは、8:30すぎには室を出たく、最悪、8:40でも猛然とチャリンコで走れば9時の始業チャイムが鳴る1、2分前には聖蹟別棟へ着ける、っきょうのばあいは作業着を着るっきりではダメで、背嚢へ他所行きを突っ込まねばならなかったわけだが、っそれで、起きて1、2分は、いっそ休んでしまうか、っと葛藤しており、っしかし出勤することにしてばたばたと10と数分で身支度し、8:40に室を出る、会社へはイン・タイムだったが、っやはり睡眠時間が足りていなんだ、

上岡氏はモーツァルト《レクイエム》を新日本フィルとも演奏済みで、っその際はコーラスがボーイズと、っより特有のひびきが志向せられていた、っきょうは成人の合唱だが、平素から馴染みの読響ともども、っまずまず上岡イズムに附き合えていたか、っそこへゆくとソリストは、ソプラノはまだしも清潔であったものの、他はときにイタリィのオペラでも唄うように表情的であり、《レクイエム》のための声としてそぐわない気がしたし、っなにより、上岡ティームとしての統一へ水を差すようにおもえてならなんだ、っもっと全体が飄々と吹き過ぎていってこその、彼氏の音楽であろう、



っあすは、午は流山で佐藤雄一氏公演、っよるは中板橋へ遷り、狭い器で誰だかのピアノ・リサイタル、っとにかく年内はとことんまで演奏会盡くしとするのである、年を跨いだら、っもうそうはしないけれどね、、、っと云いつ、現時点ですでにして、3月は15もの公演を聴くこととなっているのだが、



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水道橋、




っきょうはあさのみ仕事をし、っまずは水道橋で寺本義明氏の棒、Beseeltes Ensemble Tokyoなる団体で、シベリウス《3・5・7番》、っこれがまったくすばらしかった、

オケは若い人ばかりで、っぜんぜんアマチュアではなく、っおそらく、音大を出たがプロの常設楽団へは入団できていない者たちが集まった、っというふうではないか、

棒の寺本氏はフリュート吹きで、名古屋フィル、都響と渡って近年に退職、以降、指揮者としての活動を開始されたとのこと、っそのような、オケ・マンから棒振りへ転向する経歴の人はしばしばおり、っぼくもそのいちいちを具に聴いているわけではないが、余生の道楽商売みたようで、っぜんぜん平凡な音楽っきりしない人もいるようだ、っそのなかで寺本氏は、っもう完全に指揮者のセンスで、振り方を観ているだけでどう音楽をされたいのかが明確に伝わる、管楽器奏者でいられるが、絃各声部への強弱、音色、ニュアンスの要求も微に入り、っまた、音楽がテムポへ乗って流れているときには右手へ持った棒を掲げているっきりで、っほとんど拍を振らないフォルムも、っじつに悠然泰然とされている、っそれが、ここは理窟抜きの迫力が要る、っというところではちゃんと楽隊を主導し、っしかも、っそれさえ最低限のアクションのみで実現する、

っぼくは《3番》を聴きながら、っとくに1楽章の展開から再現に掛けて、なんとすばらしい音楽だろうっっっ、っと烈しく込み上げてくるものをおぼえ、っほんとうにぼろぼろと滂沱の泪を落とした、カーチュン氏公演へ2日つづけて通っても、感銘はまたあらたであったろう、っけれども、っそうせずにこちらへ来ておいて、っきょうはよかった、



っさて、池袋、



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ギロッポン、




カーチュン・ウォン/日本フィル公演、済む、

っううむ、、、っ、っもうこれでだいぶん何度か彼氏の演奏会へ通ったが、聴くたびに惚れてしまう、っいまではもうだいすきだ、っせんじつのプリンシパル就任披露のマーラー《3番》がひとつの決定打で、っその後、録音せられたものをくりかえしくりかえし聴いているが、聴けば聴くほど、こんなにも緊密で、こんなにも目の詰んだ表現を志向しているのか、その表現をこんなにも過たずオケが叶えるのか、っとシビれてしまう、っそれからこちら、《悲愴》、っそしてきょうの《革命》ならぬ《不貞不倫》と、世界中で擦り切れるほど演り古された超有名曲の公演がつづいたが、っそうなると流石におおきく云って平凡の部類へ留まるかとおもいきや、っなにどうして、平凡どころか、彼氏はそれら人口に膾炙し切った傑作をしかし、世紀の大作家の筆によってたったいま浄書が成った新曲であるかのように、っまったく新鮮に聴かせる、っきょうの外山《まつら》、伊福部《ラウダ、、、》、ショスタコーヴィチ《5番》のうち、後2者は誰にとっても馴染み深い作品であろうが、っそうだのに音が鳴っている間、俺のよく識っている《ラウダ、、、》、ショスタコーヴィチ《5番》が鳴っている、っという既視感ならぬ既聴感がほんのすこしくもしない、彼氏はどの曲に対しても愕くべき豊富なアイディアを有ってスコアを読んでいるが、っどんなに恣意的の表現を撒き散らしても、もとより成立している楽曲の構造へ外から演奏する者の一主観をぺたぺたと貼附している、っという皮相の気味はぜんぜんせず、っむしろあたかも、楽曲楽曲が最もゆたかに、最も多彩に鳴ると彼氏のかんがえる構造を、彼氏自身が音が鳴る瞬間瞬間に指揮台の上で組み立てている、っそれにより、曲が存って演奏が存る、っという疑る余地のない順接はしかしもののみごとに覆され、彼氏の棒が存って初めて、っその曲がこの世に誕生したかのごとき錯覚をさえ生ずるのだ、《悲愴》もその感触がありありとしたものだが、っあれでまだまだほんの序の口、っきょうのショスタコーヴィチなどは、っついにその極点へ達した凄みがあった、、、っや、彼等コムビの道程はいまだ開幕したばかりである、っきょうのを極点だなどとおもっていると、っこのさきもっと途方途轍もない達成があるかしれない、

《ラウダ、、、》もそうだ、っありがたいことに、彼氏は伊福部へ並ならぬ傾倒を示され、っこれまでにいくつもその作品を演奏してきてくれたが、《リトミカ、、、》も《、、、タプカーラ》も、っぼくは実演も録音も聴いているが、聴いているときのぼくは、俺のよく識っている《リトミカ、、、》や《、、、タプカーラ》がこの指揮者によってどう解釈せられているのかな、っという気分であり、っじっさい、演奏の熟度としていまだその次元へ留まっているとおもう、上に謂う、ぜんぜんちがう曲のように聴こえる、できたてほやほやの新時代の名曲傑作が初めて現実の物理音として顕現したよろこびを謳歌している、っという手応えまでは出ていないのだ、っところがきょうさっきのあの《ラウダ、、、》と来た日にはどうだっ、っいまのいままで、っこのよのなかには《ラウダ、、、》などという楽曲は存在しなかったのではないのかっっ、っぼくらはきょう初めて、《ラウダ、、、》という楽曲に遭遇したのではないのかっっっ、

、、、っおっといけない、マリムバの池上英樹氏、女流ばかりが気を吐いてきた観のあるこの曲に堂々、男の俺も忘れてくれるなっ、っと撲り込みをかけたふうでまことに頼もしい、っが、演奏が全体としてあまりにすばらしく、誰が振っているか、誰が弾いているか、っなどということは、っこちとらもはや忘却してしまっていたのだ、っそれでこそ、演奏家冥利に盡きるというものであろう、

外山《まつら》は、恆例の日フィル九州楽旅に由来を有つ、小山《、、、木挽歌》同様に彼等の渡邉時代の遺産とのことだが、後年には、取材した民謡を解体、再構成し、っかなり抽象的の、っいきおい晦渋でとっつきにくい筆致へと到達された外山氏も、壮年の作のここでは、っいまだ《ラプソディ》の延長線上で、ウェル・メイドな耳当たりを提供してくれる、藝術=アカデミズムとかんがえるような人は、ウェル・メイドという形容を厭味のために弄するだろうが、っここでのぼくはその心算で云っていない、熱意を有って日フィルを地元へ呼ぶ往時の九州人は、2,000名から1口¥1千を募り、外山氏へ作曲料として送る、っそれを受け取られた氏として、広くお客のほうを向いた楽曲を志向されてとうぜんだろう、っそれでもぜったいにチープには堕せしめまいと意志して書かれ、果たされたもの、っそれをウェル・メイドと謂うのだ、演奏後、カーチュン氏がスコアを頭上へ掲げてぼくらへ示された際、それを書いた人は、ついこのあいだまで生きて、ぼくらとおなじこの空気を吸っていたんだなあ、っとおもい遣られて、っじつに視界が潤んだ、曲はよるの叙景から静かに始まるが、次第に高揚するとVnの高音にはフリュートがユニゾンで重ねらる、同様の書法は本演目のショスタコーヴィチ1楽章でも効果的に用いられており、演奏のみならず、プログラミングからすでにして周到だと唸らされずにいない、っやがての祭囃子は夢幻の彼方から近附いてくるようだが、昂奮が加えらるとひたすらに同一音型が長い長い加速とともにくりかえされ、っつまり次曲、伊福部へのバトン・タッチともなっているわけで、周到の上にも周到である、

っそれにしても、っせんじつの《、、、木挽歌》といい、日フィルはここで、っいったいぜんたいなんという鉄壁完璧なアンサムブルでぼくらへ開幕の挨拶をくれることだろう、っほんとうに息を呑むほど精妙精密であり、世界の頂点を競うアスリートたちの妙義をみるようではないか、心技体に充実した、眞の名楽団である、っそしてその精妙精密がその後、2時間のコンサートを一貫するのであるっっっ、



っあすも彼等は同一演目の公演であるが、っぼくはあすは、っまた午前のみ仕事をし、午は水道橋というか後楽園というか春日というかで、アマチュアがシベリウス《3・5・7番》を演るのを聴き、事後、池袋にて、上岡氏が二期会と読響とを振られるモーツァルト《レクイエム》とハシゴ、前者は無料公演のため、蹴ったとしても損はなく、っふたたびカーチュン氏を聴きたい気もするが、っそちらは動画配信をうれしく録画するとして、シベリウスばかり3曲というのもそれはそれで魅惑的である、下手なオケではこんな曲は演奏できないから、っそれなりに腕におぼえのある人たちの集まりとおもっていてよいのではないか、



みずの自作アルヒーフ

 

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日の出町の、




試掘は無事、、、っではない面もわずかにあったが、時間としては午前中で済み、バイクで来ていた《雨月、、、》くんとともに武蔵引田駅前のやんちゃオペさんご用達という中華屋へ寄る、っやんちゃオペさんともいっしょに行きましょうと話していたのだが、仕事が午まで掛からなかったので、っお帰りになる、

っで、聖蹟本棟へ戻って17時まで撤収後の残務をしていて定時退勤、っきょうはこれからギロッポンにてカーチュン氏の日本フィルとの公演である、ライヴ配信と事後のアルヒーフ化もあるが、っこないだの池袋での《悲愴》ほかもそれであったらどんなにかよかったろう、っとくに前プロの小山《、、、木挽歌》はまったくすばらしい棒とすばらしいアンサムブルとであったので、常時再生しうる記録を得たかったというおもいもつよい、



っところで、っぼくとしての㐧1候補がほんのほんの1席っきりない器での公演の切符が、今週発売になると云った、っお察しのとおり、っそれはじつに豊田市コンサート・ホールにおく井上キーミツと名古屋フィルとの最期の共演で、ブルックナー《5番》なのであるが、果たして、っその㐧1候補を抜かりなく獲得するに及んだ、一般発売はきのうだが、器の有料会員へはさきおとついに先行販売となり、勤務時間中なのだが、、、販売開始直後にペイジを更新して空席状況を検め、狙いの席へ目掛けてカーソルを走らせ、選択し、震える手を押さえつ決済画面へ遷移した、っおそらく、っこの遷移以前では、選択中の席であっても他人に先を越されることがあるのかとおもうが、幸運にして、選択中の席はすでに売約済みです、っなどのメッシッジが出ることもなく、感動を有ってぼくのおもう最良席を手中へ収む、

器の会員費は、3年期限で¥2千だか¥3千だかで、安いものだが、っおそらくこの会員期間中にぼくが切符を購うのも、っこのほんの1公演っきりであろう、っその豊田市コンサート・ホールは、っぼくは行ったことがないが、構造的に良席に乏しいいわゆるシュー・ボックス型の器のなかでも、っさらにわるいことに階上へ正面席を有たない手狭さである、っそれでもどんな器であろうと1階席へ坐すことにはどうしても抵抗をおぼえてしまうぼくとして、っいずれなにかしら視界が制約せられずにいない右翼バルコニーのうちでも、っここならばそれが極小であろうと目されるのが、っそのほんのほんの1席なのである、、、っだいたいどの席のことであるか、座席表と同器の客席写真とを見れば見当が附いてしまうかもしれないが、発売の1週ほど以前にはご丁寧にも、この日の何時からこの公演の切符売り出します、選択可能な席はしかじかです、っという封書が郵送せられてき、そうか、すべての席から購入しうるわけではないのか、っとぼくの㐧1候補がその購入可能範囲に含まるのかを危ぶむも、っまあ優先的に購いうるつまりそれだけ良位置なのだからとうぜんといえばとうぜんだが、っその1席はちゃんと範囲内にあって、っしかしじっさいに発売時間となるまで、揉んでも仕方のない気をそれでもあれこれと揉まずにいられなんだ、有料会員は総数で何人おり、そのなかの何人に同公演を聴きに来る心算があり、そのなかの何人が販売開始直後の購入に勤しみ、そのなかの何人がぼくの㐧1候補とおなじ席を希むだろうか、っあるいは、選択可能とさも誰でも購いうるかのように広告しておきながら、じっさいには予め関係者等のために押さえられており、販売開始直後に売約済みとなったという態をとって一般の人間には購わせないようにしている席があり、、、っそんなことが現に行なわれているのかは識らないが、ぼくの㐧1候補がさようの、購えるふうを装いながらじつは誰にも購えない席、っに該当しているのではないかなどと、っそこまでゆくと一種の被害妄想であるが、っともかく、販売開始時刻から、っあれで10秒以内には席を選択して決済画面へ遷ったとおもうが、っそれでめでたく希望が叶ったのである、

っそのあと、勝者の優越の気味に醉いつ、何度か空席状況を検めてみたが、っぼくの購った右翼バルコニーの一隅は、同一ブロックに4席があり、残る3席のうち、1席は販売開始から数分以内には売れており、4席ともに、っその日のうちにはすべて売れたようである、っわりに手早く2席目を購ったその人が、っほんとうはぼくの購った席を慾しがっていたのかは、っじつに想像を絶する、



っさて、ギロッポン着、



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《ぶきっちょ》(4)

 

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東府中、




小器にて、アンサムブル・ブラス府中なる、山本英助という東京シティ・フィルから南西ドイツ・フィル、、、ドイツはもうドイッチュ表記に統一しよっかな、南西ドイッチュ・フィルへ移られてトロムペットのプリンシパルを15年務められた方をリーダーとする団体の公演、南西ドイッチュ・フィルって、ったしか上岡敏之氏が振られていたオケではないのかな、山本氏の在籍期間と重複しているのかどうか、

19:30開演、20:30を待たずにハネるというささやかな会、っお客も100人もいたかどうかというところだが、静謐なひとときだった、

初めて入った小器は、階上がなく、オルガンがあり、壁面も床も木調のすばらしい内装、宇野さんには同器で録音された彼氏の女声コーラスとの音盤があり、ここで宇野さんが演奏をされたんだなあ、っなどと感じ入る、っこんやは、1曲目が鳴り出すと、トーンは潤沢も潤沢だが、ブラスのみで優に飽和、細かい音型がよく聴き取れないばかり、オルガンの高音部はほぼ完全に消されてしまう、

都度、編成を変えつ、バロックないしはそれ以前の作曲家の楽曲を数曲演り、っとちゅうからバリトンの歌手の方さえおひとり加わるという贅沢な時間で、最後は《もろびとこぞりて》、っおよび《きよしこのよる》、穏やかなこころで休日のよるを迎えられそうだ、



っさて、っお次は金曜、カーチュン氏の日本フィル公演でギロッポンだが、っその日は日の出町の試掘へ行ってくれろと云わる、日の出町ってどこだよ、っとおもうが、試掘のお鉢がぼくへ回ってくるのは社内でいちばん最後かそれからひとつ手前かで、っじつはせんじつの2泊3日大阪行の際にもそれを理由に1件断わってしまったので、立て続けに行けません行けませんと云うのも気が咎めて、引き受く、日の出町はあきる野の隣だが、掘削面積も狭小というし、夕方いっぱいまでは掛からなかろうと思量せられる、よしんば17時いっぱいまで掛かってしまったとしたら、っとかんがえて秋川あたりからギロッポンへ19時イン・タイム可能かと検索すると、っまあ可能は可能だ、っそうはならずにあっさりと午前中くらいで現場から引き上げてくることになるとおもうが、最悪、コイン・パーキングへ社用車を停めてギロッポン行し、公演後はるばる秋川くんだりまで戻って、深更のドライヴで帰宅する、っちなみに、っきのう話したところ、っその現場の人足のうちひとりは《雨月、、、》くん、重機はやんちゃオペさんである、



みずの自作アルヒーフ

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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取手、




佐藤雄一/守谷アンサムブル・オーケストラ公演、済む、東府中公演まではすこしくゆとりがあるので、器の裏っ手の河川敷へ出てしばしシガレットを服む、

曲は、ブラームス《悲劇的序曲》、《ハイドン・ヴァリアシオン》、シューマン《2番》、最前者が鳴り出すと、オケにはなかなか力があり、強靭な合奏が乾いた音場へ粗野にひびいて快い、っとくに絃は緊密で、Vaにしっかりと弾ける人たちが揃っているところなどは、アマチュアとしてはじつに稀少貴重である、

白眉は《ハイドン、、、》か、例によってゆっくり、粛々と進められ、っあれは、㐧4変奏かな、静かなところ、っそこなどは一大シムフォニーの一節を聴くようで、あれ、これホントに《ハイドン、、、》かな、ってなものである、っついに終曲へ到ると、っあのテムポでこそ連符が気分の高揚を伝え、っいちど短調を經、トライアングルを伴なって主題の原型が還ってくると、っおおきく胸の膨れるおもいがしたことだ、

シューマンは、っきょうの演り方では3楽章がどうしても難物だ、主題はぜんぜん魅力的じゃないし、っだいいち旋律の形がよくわからない、構成も単調で変化に乏しく、強弱の増減もほとんどない、っそれをひたすらのんびりと歩くように奏されては、っぼくとしては退窟で附き合い切れないものをおぼえた、っどういう音楽だかさっぱりわからないのだ、フィナーレで動勢が戻ってほっとするが、コーダは、金管もティムパニも、指揮者が煽動しなくともじゅうぶんに迫力を出せており、剛毅なよい音だったところ、っさらにさらに強勢が加えられ、完全に美観をはみ出した騒音に終止したのがざんねんである、

アンコールに〈トロイメライ〉、っぼくとしては、シムフォニーの3楽章にややげんなりしていたので、景気よく《ハンガリアン・ダンス》のどれかで締めるなりしてくれるほうがよかった、

佐藤氏公演は、っこないだカーチュン氏池袋とかち合って行けず、っこれからも、3つも行けない、年明けのものは会社の高尾登山、新年会で、っべつに強制参加ではないが、っまあそちらへ行きたいし、3月のバロック公演は井上キーミツ、5月の連休中のものは坂入健司郎氏のN響公演とそれぞれバッティング、っざんねんだが、っうちふたつはYouTubeへ動画が上がろうから、っまあそれでせめてもの補償とせむ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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っこないだも、




上原彩子女史のリサイタルを聴くのに新大阪から大阪、っもう1駅、福島まで乗り継いでも運賃が変わらないため、っさようにせむとてホームを遷るに、っぼくの乗り合わせたのにかぎって、車内での急病人救護のためといって数分発車が遅れ、っそのときはすぐ動くだろうとてそのまま待ったが、っきょうは、っきょうも乗り込んだら、線路上で発煙しているとの通報があり、安全確認が取れるまで、環状線は上下線ともしばらく運転を見合わせます、っなどとアナウンスせられている、器までの距離は大阪、福島、っどちらの駅からもたいして変わらず、乗り継いでいる待ち時間も大阪駅を出て歩ってしまえば、現着時間に大差はなかろう、っそれできょうはそのアナウンスを聞くやすぐさま下車して大阪駅から歩く、っちょうど18時ころ器の前の公園へ着き、シガレットを服み始む、1箱が残り4本で、2本は服めるかしら、っとおもうが、歩ったりなどして多少とも息が上がっていると、アメリカン・スピリットといえどもわりあいきゅうううっとすぐに灰になってしまう、3本いけるか、っなどと着火し、っそれでもまだ18:15前、じゃあきりよく4本服んで1箱空にしてしまわむ、っとけっきょく4本服む、っどんな器ででもそうだが、っぼくは客席で長いこと開演を待っていたくない性質である、っひとつに尻が痛くなってしまうということもあるが、坐ったら、はいもうすぐ始めましょう、っという気分なのだ、18:30開演で、18:15になってもまだ入場せむとしないというのは、ったいていの人は、それでは気持ちが落ち着かないのではないか、っとおもうことだろう、っが、っこれで列の中のほうの席で、すみませんすみませんといって自席まで行かねばならなく、っかつ演目に特殊な楽曲が含まれており、開演前に解説をしっかりと読んでおきたい、っというときならば、っぼくとてもう入場したろう、っけれどもきょうは、列の端の席で、っかつ演目は、っよく識らないのはアルテュニアンのみで、っまた興行の性格からいって、各演目の解説文の長さはおよそ想像がつき、4、5分ですべて読めるだろうとかんがえる、っそうすると、18:15に入場し、18:20ころには着座し、パンフレットを開いて解説を読み始めて、18:25には優に読み了えてしまう、あとたったの5分じゃないか、っと人は云うかもしれないが、っとくになにもすることがない手持ち無沙汰の5分間というのは、っけっこう長いと、っぼくはおもう、っで、演奏会によってはまた、開演時間を回って数分あってからやっと楽員が舞台へ出、テューニング、指揮者が登壇して1曲目が鳴り始めるころには、もう定刻から10分ちかく経っている、っということもある、っだから、端の席でよく識っている曲の公演であるならば、入場するのは開演の10分前で、っぼくにはじゅうぶんなのである、っときには、っぞんがい解説文が長大で、開演までに読み切れないこともあるが、っもちろん、っそのばあいでもぼくはもう読むのを諦めて、っいったん背嚢へそれを仕舞う、演奏が行なわれている最中にパンフレットを開くのは、っせんじつ云ったようにあらゆる点で愚挙中の愚挙だし、声楽の入る曲で詞の対訳が配られているときであっても、っそれを見ながら聴くということをぼくはしない、っそんなの見ながら聴いていたってべつになにがわかるわけのものでもないし、っともかくなによりも、音が鳴っている間というのは、指揮者、っおよび楽員各位の出精をひたすらに見届けるというのがお客へ課せられたるせめてもの義務であり、稀に瞑目しつ聴くこともあるが、っそれはごく例外、っすくなくも、五感のうち耳を最も研ぎ澄ませねばならないときに、活字に視線を這わせるなどということをできる人が、っぼくにはおよそ信じられない、っやってみればわかるが、文章を読みながら音楽を聴くということは、っまあまったくできないではない、っけれども、っそのときの音楽体験は、っほかごとをなにもしないで音楽を聴くことのみをしているときのそれとは、っすでにして遙けく隔たっている、生身の人間が舞台上で奏楽を行なってくれる場へわざわざ出掛けてきておいて、っしかしさようの准音楽体験とでもいうべきものへ自身の鑑賞の質を落として憚らないなどというのは、っぼくにしていちばんシヴィアに云わせれば、演奏会へ来る資格のない人である、ほかごとはなにもしないで、舞台を見ていろ、音を聴いていろ、っと云いたい、

っや、っさいきんX上でクラッシックの演奏会でのお客のマナーが囂しく議論せられており、っぼくはそれへは与しないで傍観しているっきりだが、っここで云えば、っさようにして自身へ緊張を強いて静寂静穏を保ち、舞台へ向けて全精力を傾けて集中していることがしかしみずから快感であり、っそれでこそたのしいというのじゃない人は、演奏会へは来なくてよいとおもう、そんなに厳格で排他的のムードでは興行として先細ってとうぜんだ、っなどと利いたふうのことを云う人もいるようだが、っこちとら知ったこっちゃない、っしかし、っそうした好楽家にとってのユートピアは、っじっさいには過去いちども具現したことがないし、っこれからもけっして具現しない、っほんとうはすこしくも音楽を聴く気などない人や、雑音を立ててもいっかな悪びれない人、っあるいは、日常ではなんのこともない、っそんな音が立っていることを誰にも気附かれもしないような些細な音でも、演奏会の音場内ではたちまちノイズとなるということをぜんぜん識らない人が、演奏会のお客のうちにはかならず一定数いる、っそれがよのなかというものである、っだからぼくは、俺があんたなら演奏会場でそんな態度は取らない、っとは云うけれども、具体的の誰かさんを指して、あんたの鑑賞態度はまちがっている、っとは云わないし、云う気もない、それおなじことでしょ、っとは云わないでくれたい、っぜんぜんちがう、我が日本国は自由主義国である、不真面目に演奏会を聴くのも、っぜんぜん人の自由のうちなのだ、っだからあくまで、俺があんたならそうはしないけれどね、っとまでっきり云えなく、あんたも俺の流儀に倣え、っとは云えない、っただし、演奏中にビニール袋のノイズを立てまくる、っなどのようなばあいには、っぼくはその人が近くへいたら、その音を立てないでくれろ、っと相手に云う、っお客のノイズには、立ってしまったのと、立ててしまっているのとある、っこの自動詞/他動詞の差はおおきく、後者のノイズならば、っいかな自由主義国の国民たるのお客といえども、っぼくらは彼彼女に対してそれを止めるように要求する、権利というかもはや義務があるようにおもう、っその義務を果たさないとしたら、っそれは勇気の不在であると、静寂を愛する演奏会のお客はよくよく知っているはずだ、っぼくはこれまでに、っその他動詞的で度し難いノイズがたまさか自身の直近で立っている際には、勇気を有ってその義務を果たしてきた心算だ、

っこんな雑言に暮れるうちにもうすでにして浜松を過ぎたが、誤解なきように、っきょうはべつに客席が不愉快なほどノイジーだったわけではありません、

っさて、井上キーミツの棒、大阪音大の学生オケで、芥川《交響管絃楽のための、、、》、同大に役のあるというN響の菊本氏をソロへ迎えてアルテュニアンのコンチェルト、っそしてストラヴィンスキー《ハル・サイ》であったが、遅くとも21時すぎには大阪駅から電車へ乗れなくば終電以前に帰京しえず、っしかしこの演目ならば2時間を割り込むはずで、っなにかアンコールがあったにせよ、っさほど心配はしていなんだが、アンコールはなく、20:30よりもだいぶん以前にハネる、っいま新幹線は、前が詰まり勝ちというのでやや低速運転で、っときおり停車しさえしているが、っそれでもまだ22:30前であり、っこれで横浜線、京王があるうちに帰宅できないということはなかろう、最悪、京王がもうなくなっても、横浜線がどうとか橋本まで往ってくれれば、っそこから一山越えて歩って帰るくらいのことはできる、

タクシーなんて使いませんよ、歩って帰るんです歩って、っよのなかには、タクシーへ乗るのがあたりまえという人が大勢大勢大勢いるんだよなあ、っだから巷へはタクシーが溢れかえっている、っけれども、誰がそんなに使うんだろう、っぼくなどにはまったく不可思議で、サラリー人士の平均年収が¥400万ちょい、仕事で乗るとしたら会社経費で落ちるとしたって、っあとタクシーを使う必要のある層が、街中へタクシーが溢れかえるほど分厚くあるというのが、っぼくには想像がつかない、っだって街中では電車へ乗ればよいのだし、歩けばよいのだし、っちなみにぼくは、40年生きてきてタクシーへ乗ったのは、人がお銭を出してくれるのへ同乗したのがほんの片手で余るっきりの機会、自分で乗ったのは、ったしかたったの1回こっきり、初の佐藤雄一氏の演奏会へ遅刻したときのみのはずだ、っそしてこれからも、っぜんぜんそれへ乗る心算はない、っや、タクシー稼業に対してなにか含むところがあるとかそんなことはぜんぜんなくて、単に、っだってお銭が勿体ないでしょう、電車で移動するのとおなじ距離をタクシーで行かむとしたら、っあっという間にその何倍も、何倍どころか10倍以上も取られてしまうのじゃないかなあ、っそんなことにお銭を遣うくらいだったらほかにもっと遣いたいことがありますからねえ、ったとえばタクシーへ10kmも乗ったら、っあんまり街中でそんな乗り方をする人はいないかもしらんが、運賃としてはすでにしてたいへんなもんでしょう、¥何千かになってしまう、っそんなの電車で往ける経路を探せばよいのだし、電車で往きにくいところでも、歩けばよいんですよ、街中でどこの駅からも10kmも離れているなんて場所はないわけだけれども、っよしんば10km歩ったにしても、っまあ2時間くらいのもんなんだから、2時間歩くくらい、っどうってことないですよ、

っきょうはなんだろうねえ、雑談ばかりで、演奏だが、音大の学生連でも、っわるくするとまだ舞台上で音を出すことにおっかなびっくりで、ちゃんと音が出るのはあたりまえで、ちゃんと出た音で指揮者の意図へどこまで喰らい附けるか、そこからやっと演奏は始まる、っなどとふだんのプロの公演を聴く心算で構えていると、っぜんぜん羊のように大人しい音っきり出て来ないで肩透かしを喰うということもあるが、抜き足差し足のような楽章に始まる芥川はどちらかというとそのケイス、シムバルが爆ぜて楽章を遷るとキーミツは金管を起立せしめて主題を吹かせるが、っこんどは張り切りすぎて音色は荒れ勝ちで、ううん、期待したんだけれどこのレヴェルかあ、っとややおもう、

っが、アルテュニアンの伴奏はみるみるうちに生気を得て、トュッティではみごとに全体が一体として鳴り渡っており、っむしろソロの菊本氏に対して、もっとがつんと剣を立てて吹いてもよいのじゃないか、っと不満を懐いたほどだ、

《ハル・サイ》も、静かに、楽器の数がすくなく始まるので、っしばらくは芥川と同様の脆弱さをおぼえたが、次第にひびきが凝集し、煩瑣な音楽がつぎからつぎと連続してもみな振り落とされぬように懸命に喰い下がる、っそうしてひびきが熟れてくると、㐧2部冒頭からのような静かなところでも音楽の密度がしかと維持せられ、和音はちゃんとコワい意味と色とを有ち、っしたがって音楽のグレイドがぐっと上がった、楽曲へのキーミツの解釈としては、っとりたてて奇抜なことはどこでもなにもしていないが、っそれでも終盤あたりでは、《ハル・サイ》というあの奇っ怪さが、っちゃんと演奏の精度を伴なってぞんぶんに発揮せられていたようにおもう、



っさて、っあすは午に取手にて佐藤雄一氏公演、帰りに東府中へ寄り、っいまだ入ったことがないあそこの小器にてもうひとつとダブル・ヘッダー、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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