上原彩子女史のリサイタルを聴くのに新大阪から大阪、っもう1駅、福島まで乗り継いでも運賃が変わらないため、っさようにせむとてホームを遷るに、っぼくの乗り合わせたのにかぎって、車内での急病人救護のためといって数分発車が遅れ、っそのときはすぐ動くだろうとてそのまま待ったが、っきょうは、っきょうも乗り込んだら、線路上で発煙しているとの通報があり、安全確認が取れるまで、環状線は上下線ともしばらく運転を見合わせます、っなどとアナウンスせられている、器までの距離は大阪、福島、っどちらの駅からもたいして変わらず、乗り継いでいる待ち時間も大阪駅を出て歩ってしまえば、現着時間に大差はなかろう、っそれできょうはそのアナウンスを聞くやすぐさま下車して大阪駅から歩く、っちょうど18時ころ器の前の公園へ着き、シガレットを服み始む、1箱が残り4本で、2本は服めるかしら、っとおもうが、歩ったりなどして多少とも息が上がっていると、アメリカン・スピリットといえどもわりあいきゅうううっとすぐに灰になってしまう、3本いけるか、っなどと着火し、っそれでもまだ18:15前、じゃあきりよく4本服んで1箱空にしてしまわむ、っとけっきょく4本服む、っどんな器ででもそうだが、っぼくは客席で長いこと開演を待っていたくない性質である、っひとつに尻が痛くなってしまうということもあるが、坐ったら、はいもうすぐ始めましょう、っという気分なのだ、18:30開演で、18:15になってもまだ入場せむとしないというのは、ったいていの人は、それでは気持ちが落ち着かないのではないか、っとおもうことだろう、っが、っこれで列の中のほうの席で、すみませんすみませんといって自席まで行かねばならなく、っかつ演目に特殊な楽曲が含まれており、開演前に解説をしっかりと読んでおきたい、っというときならば、っぼくとてもう入場したろう、っけれどもきょうは、列の端の席で、っかつ演目は、っよく識らないのはアルテュニアンのみで、っまた興行の性格からいって、各演目の解説文の長さはおよそ想像がつき、4、5分ですべて読めるだろうとかんがえる、っそうすると、18:15に入場し、18:20ころには着座し、パンフレットを開いて解説を読み始めて、18:25には優に読み了えてしまう、あとたったの5分じゃないか、っと人は云うかもしれないが、っとくになにもすることがない手持ち無沙汰の5分間というのは、っけっこう長いと、っぼくはおもう、っで、演奏会によってはまた、開演時間を回って数分あってからやっと楽員が舞台へ出、テューニング、指揮者が登壇して1曲目が鳴り始めるころには、もう定刻から10分ちかく経っている、っということもある、っだから、端の席でよく識っている曲の公演であるならば、入場するのは開演の10分前で、っぼくにはじゅうぶんなのである、っときには、っぞんがい解説文が長大で、開演までに読み切れないこともあるが、っもちろん、っそのばあいでもぼくはもう読むのを諦めて、っいったん背嚢へそれを仕舞う、演奏が行なわれている最中にパンフレットを開くのは、っせんじつ云ったようにあらゆる点で愚挙中の愚挙だし、声楽の入る曲で詞の対訳が配られているときであっても、っそれを見ながら聴くということをぼくはしない、っそんなの見ながら聴いていたってべつになにがわかるわけのものでもないし、っともかくなによりも、音が鳴っている間というのは、指揮者、っおよび楽員各位の出精をひたすらに見届けるというのがお客へ課せられたるせめてもの義務であり、稀に瞑目しつ聴くこともあるが、っそれはごく例外、っすくなくも、五感のうち耳を最も研ぎ澄ませねばならないときに、活字に視線を這わせるなどということをできる人が、っぼくにはおよそ信じられない、っやってみればわかるが、文章を読みながら音楽を聴くということは、っまあまったくできないではない、っけれども、っそのときの音楽体験は、っほかごとをなにもしないで音楽を聴くことのみをしているときのそれとは、っすでにして遙けく隔たっている、生身の人間が舞台上で奏楽を行なってくれる場へわざわざ出掛けてきておいて、っしかしさようの准音楽体験とでもいうべきものへ自身の鑑賞の質を落として憚らないなどというのは、っぼくにしていちばんシヴィアに云わせれば、演奏会へ来る資格のない人である、ほかごとはなにもしないで、舞台を見ていろ、音を聴いていろ、っと云いたい、
っや、っさいきんX上でクラッシックの演奏会でのお客のマナーが囂しく議論せられており、っぼくはそれへは与しないで傍観しているっきりだが、っここで云えば、っさようにして自身へ緊張を強いて静寂静穏を保ち、舞台へ向けて全精力を傾けて集中していることがしかしみずから快感であり、っそれでこそたのしいというのじゃない人は、演奏会へは来なくてよいとおもう、そんなに厳格で排他的のムードでは興行として先細ってとうぜんだ、っなどと利いたふうのことを云う人もいるようだが、っこちとら知ったこっちゃない、っしかし、っそうした好楽家にとってのユートピアは、っじっさいには過去いちども具現したことがないし、っこれからもけっして具現しない、っほんとうはすこしくも音楽を聴く気などない人や、雑音を立ててもいっかな悪びれない人、っあるいは、日常ではなんのこともない、っそんな音が立っていることを誰にも気附かれもしないような些細な音でも、演奏会の音場内ではたちまちノイズとなるということをぜんぜん識らない人が、演奏会のお客のうちにはかならず一定数いる、っそれがよのなかというものである、っだからぼくは、俺があんたなら演奏会場でそんな態度は取らない、っとは云うけれども、具体的の誰かさんを指して、あんたの鑑賞態度はまちがっている、っとは云わないし、云う気もない、それおなじことでしょ、っとは云わないでくれたい、っぜんぜんちがう、我が日本国は自由主義国である、不真面目に演奏会を聴くのも、っぜんぜん人の自由のうちなのだ、っだからあくまで、俺があんたならそうはしないけれどね、っとまでっきり云えなく、あんたも俺の流儀に倣え、っとは云えない、っただし、演奏中にビニール袋のノイズを立てまくる、っなどのようなばあいには、っぼくはその人が近くへいたら、その音を立てないでくれろ、っと相手に云う、っお客のノイズには、立ってしまったのと、立ててしまっているのとある、っこの自動詞/他動詞の差はおおきく、後者のノイズならば、っいかな自由主義国の国民たるのお客といえども、っぼくらは彼彼女に対してそれを止めるように要求する、権利というかもはや義務があるようにおもう、っその義務を果たさないとしたら、っそれは勇気の不在であると、静寂を愛する演奏会のお客はよくよく知っているはずだ、っぼくはこれまでに、っその他動詞的で度し難いノイズがたまさか自身の直近で立っている際には、勇気を有ってその義務を果たしてきた心算だ、
っこんな雑言に暮れるうちにもうすでにして浜松を過ぎたが、誤解なきように、っきょうはべつに客席が不愉快なほどノイジーだったわけではありません、
っさて、井上キーミツの棒、大阪音大の学生オケで、芥川《交響管絃楽のための、、、》、同大に役のあるというN響の菊本氏をソロへ迎えてアルテュニアンのコンチェルト、っそしてストラヴィンスキー《ハル・サイ》であったが、遅くとも21時すぎには大阪駅から電車へ乗れなくば終電以前に帰京しえず、っしかしこの演目ならば2時間を割り込むはずで、っなにかアンコールがあったにせよ、っさほど心配はしていなんだが、アンコールはなく、20:30よりもだいぶん以前にハネる、っいま新幹線は、前が詰まり勝ちというのでやや低速運転で、っときおり停車しさえしているが、っそれでもまだ22:30前であり、っこれで横浜線、京王があるうちに帰宅できないということはなかろう、最悪、京王がもうなくなっても、横浜線がどうとか橋本まで往ってくれれば、っそこから一山越えて歩って帰るくらいのことはできる、
タクシーなんて使いませんよ、歩って帰るんです歩って、っよのなかには、タクシーへ乗るのがあたりまえという人が大勢大勢大勢いるんだよなあ、っだから巷へはタクシーが溢れかえっている、っけれども、誰がそんなに使うんだろう、っぼくなどにはまったく不可思議で、サラリー人士の平均年収が¥400万ちょい、仕事で乗るとしたら会社経費で落ちるとしたって、っあとタクシーを使う必要のある層が、街中へタクシーが溢れかえるほど分厚くあるというのが、っぼくには想像がつかない、っだって街中では電車へ乗ればよいのだし、歩けばよいのだし、っちなみにぼくは、40年生きてきてタクシーへ乗ったのは、人がお銭を出してくれるのへ同乗したのがほんの片手で余るっきりの機会、自分で乗ったのは、ったしかたったの1回こっきり、初の佐藤雄一氏の演奏会へ遅刻したときのみのはずだ、っそしてこれからも、っぜんぜんそれへ乗る心算はない、っや、タクシー稼業に対してなにか含むところがあるとかそんなことはぜんぜんなくて、単に、っだってお銭が勿体ないでしょう、電車で移動するのとおなじ距離をタクシーで行かむとしたら、っあっという間にその何倍も、何倍どころか10倍以上も取られてしまうのじゃないかなあ、っそんなことにお銭を遣うくらいだったらほかにもっと遣いたいことがありますからねえ、ったとえばタクシーへ10kmも乗ったら、っあんまり街中でそんな乗り方をする人はいないかもしらんが、運賃としてはすでにしてたいへんなもんでしょう、¥何千かになってしまう、っそんなの電車で往ける経路を探せばよいのだし、電車で往きにくいところでも、歩けばよいんですよ、街中でどこの駅からも10kmも離れているなんて場所はないわけだけれども、っよしんば10km歩ったにしても、っまあ2時間くらいのもんなんだから、2時間歩くくらい、っどうってことないですよ、
っきょうはなんだろうねえ、雑談ばかりで、演奏だが、音大の学生連でも、っわるくするとまだ舞台上で音を出すことにおっかなびっくりで、ちゃんと音が出るのはあたりまえで、ちゃんと出た音で指揮者の意図へどこまで喰らい附けるか、そこからやっと演奏は始まる、っなどとふだんのプロの公演を聴く心算で構えていると、っぜんぜん羊のように大人しい音っきり出て来ないで肩透かしを喰うということもあるが、抜き足差し足のような楽章に始まる芥川はどちらかというとそのケイス、シムバルが爆ぜて楽章を遷るとキーミツは金管を起立せしめて主題を吹かせるが、っこんどは張り切りすぎて音色は荒れ勝ちで、ううん、期待したんだけれどこのレヴェルかあ、っとややおもう、
っが、アルテュニアンの伴奏はみるみるうちに生気を得て、トュッティではみごとに全体が一体として鳴り渡っており、っむしろソロの菊本氏に対して、もっとがつんと剣を立てて吹いてもよいのじゃないか、っと不満を懐いたほどだ、
《ハル・サイ》も、静かに、楽器の数がすくなく始まるので、っしばらくは芥川と同様の脆弱さをおぼえたが、次第にひびきが凝集し、煩瑣な音楽がつぎからつぎと連続してもみな振り落とされぬように懸命に喰い下がる、っそうしてひびきが熟れてくると、㐧2部冒頭からのような静かなところでも音楽の密度がしかと維持せられ、和音はちゃんとコワい意味と色とを有ち、っしたがって音楽のグレイドがぐっと上がった、楽曲へのキーミツの解釈としては、っとりたてて奇抜なことはどこでもなにもしていないが、っそれでも終盤あたりでは、《ハル・サイ》というあの奇っ怪さが、っちゃんと演奏の精度を伴なってぞんぶんに発揮せられていたようにおもう、
っさて、っあすは午に取手にて佐藤雄一氏公演、帰りに東府中へ寄り、っいまだ入ったことがないあそこの小器にてもうひとつとダブル・ヘッダー、