ざっかん記 -26ページ目

池袋、




長田雅人氏の棒、オーケストラ・ダスビダーニャ公演、済む、

同団の公演をライヴ収録した自主制作の音盤は、ったまにヤフオク!へ出品があるが、ったいていはごく高値が附くので、っこれまでにぼくは手を出していない、っさようの音盤が現に存るということは、演奏会へ行けば物販せられているのだろうと踏み、っそこでならばもっと安価に入手しうるにちがいないと、去年の公演ではそのこともたのしみのひとつだったが、っあほヴァイアラス騒ぎのまたあほな残滓で接触を避ける企図もあったのだろうか、っざんねんながら販売は為されていなんだ、電子テケツを購入したサイトから公演の所感を書き送ることができたので、っその旨を投稿しておいたところ、希いが通じたかはしらないが、っことしは入場して階上へ昇るとずらりと音盤が積まれており、小躍りしつそこまで行く、ぜんぶ1組ずつ購うといくらになりますかね、足りないかな、足りなさそうだな、っと訊ねるに、14種中13が2枚組で¥3千、っひとつは1枚で¥2千であり、っしたがって計¥4.1万である、っやはりすこしく足りなんだので、では下ろして来ます、っといったん会場を出、戻って、っよろしく14種音盤を入手するに及んだ、ヤフオク!で高値で捌けるということは、転売用に各種複数組購入したってよかったわけだが、っぼくはそういう不埒なことはかんがえない、っま、10年15年もしたら転売してもよいともおもうけれどね、っちなみに、作成しておいたが完売してしまった音盤の再作成、再販売はしないとのことで、っきょう購った14種も、間が飛び飛びになっている、っこんかいが記念すべき㐧30回公演というから、約半数分の記録を入手したわけである、っいずれもメインはシムフォニーだろうが、誰も識らないような珍曲も数多に演奏しているようなので、順次、ったのしみに聴いてゆくとせむ、

去年の彼等の公演のメインは《4番》で、井上キーミツ/群響と競合していたが、っなんとことしも《レニングラード》とバッティング、っしかし、彼等のばあいはまだ前半に《祝典序曲》となにかオペレッタのための曲から成るスートとが演られ、13:30と早めに開演したが、終演は優に16時を回った、

去年、初めて彼等を聴いた際には、アマチュア離れのしたとても巧い楽団とみえたが、っそのときの記憶を美化しすぎていたのだろうか、っきょう聴くと、気合いはほかのどこにも敗けないのはそうにちがいないが、テクニークとしては必ずしも巧いとは云えない部類かとおもえたし、相応の個々のエラーも散発した、っもちろん、下手ではぜんぜんないのだが、

っただもう、その気合いに押されるまま押し切られてしまえばよいのだ、《祝典序曲》からそういう気にさせられること請け合いで、っつづくよく識らないスートもそう、長丁場の《レニングラード》も、もっとああしてほしいこうしてくれたいはもちろんあるのだが、全体の怒濤、破竹の勢いは止めようもなく、っことしもみごとに圧倒せられてしまった、

パンフレットの楽曲解説は相変わらず長大で、っぜんぜん読み切れやしない、っなにしろ全体で52頁もある、《レニングラード》の解説など、本題へ入る前に楽聖《5番》冒頭動機のボウイングについての講釋が延々と2頁も3頁もつづく、本題のうちには、例の戰爭主題をバルトークが《オケ・コン》において嗤っていることへの解説者の解釋も詳述せられていたので、帰宅後、っじっくりとお説を拝読するとせむ、



っさて、っあすは板橋の、っまた試掘のヘルプ、っいまうちの会社では、っあすのとはちがう板橋のでっかい現場をむこう2年だか2年半だかやっていて、近年ではそんな複数年単位の調査というのも珍かだが、っそこの頭はオシャレ・ボスで、メンドくさいゼネ・コン現場でもあり、っしょっちゅう職長会議だなんだへ喚び出されてご苦労もおおかろう、アルバイトさんも常時2、30人体制で、っしたがってほかのこまごまとした試掘調査などに割く人員が足らず、っそれでこないだの東村山とかあすのように、っぼくが現場へ引っ張り出されるというわけである、っずっとデスク・ワークは気詰まりなので、っぼくとしてもそのほうがたのしいのだが、

チャリンコで往く心算だが、ロードかなあ、タイヤが細いので、っどこかが凍っていたら一巻の終わりでずっこけるしかない、っきょうなどもだいぶん暖かったので、っもう凍っている場所はほぼ解消しているとはおもうのだが、っそれでもそんなにびゅんびゅん速く走りたくはないので、2時間でも着かないくらいだろう、っこんかいの開始は8時でなく9時だが、社員だから8時くらいには現場へ着いていることとして、5時半くらいには室を出ねばならないということか、暗いと凍っているところが見えないからなあ、安牌でいつものしょぼチャリで往こうかな、



っつぎの演奏会は木曜、紀尾井町で坂入健司郎氏のもの、団体も演目もよく知らない、ブラームス《2番》とかだったかしら、っちがったかな、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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中之島2日目にして、




《バビ・ヤール》最終日、済む、

っきのうは舞台へ数多のマイクがあり、音を録っていたようだが、っきょうはなかった、音盤用の収音はN響とのものを採る旨、井上キーミツご自身がお書きになっているが、っこちらも音盤化するのだろうか、っそれでもぜんぜんウェルカムだが、っきのうのライヴは、一部、造形が乱れた個所もあり、っきょうのほうが全体に傑出した演奏と成っていたので、録るならば2日とも音を録っておいたがよかったのじゃないか、っそれとも、っきのうの不首尾の個所も、ゲネ・プロの録音で十二分に修整可能という判断だろうか、

っきょうは、声楽陣も4公演の最後とあって、ソロもコーラスも乗っけから全身全霊を投げ出すようにして唄い、っまた吼える、ソロなど、N響とのときには、3楽章あたり、地を這うごとじっくりと演りたいキーミツの造形ではいかにもテムポが遅く、低絃のピッツィの裏拍の個所など、唄いにくそうに前へ前へと倒れ勝ちになる嫌いがあったが、っきょうはミディアム・テムポの1楽章から彼氏が進んで音楽を主導し、っいきおい、4回の演奏のうちでは全体に最もテムポが速かったのではないか、

2楽章などもそうで、キーミツもティホミーロフ氏の気魄に押されたか、冒頭から、腰を落として先を急ぐまい急ぐまいと始めたN響との2公演、っきのうの大阪フィルとの初日からしても、っきょうは棒も音もずっと先へ先へ行っている、っそれはしかし、極度の、っもちろん快い緊張を生みこそすれ、足並みが乱れることはなかった、

3楽章もその余勢を驅って始まるため、っやはり冒頭の低絃から音々へ留まるよりは先を急ぐ推進力のほうが優勢で、ソロもずっと唄い易そうであり、緩徐楽章で、ダルな音色に支配せられていても、結果的にすっきりと見通しが立ってきもちがよかった、

音色としても声楽が男声のみ、っさらに構成としてもいかにも晦渋なこの曲で、一寸聴いたくらいでは近寄り難いものをおぼえるが、4回もつづけて聴くと、流石に作曲上のあれこれの仕掛けがよく諒解できるようになってきた、っとりわけ印象的の個所を挙げると、1楽章の終わりでコーラスが、《インターナチオナール》よ、凡てのアンタイ・ユダヤが死に絶えるときにこそ鳴りひびけっ、っと絶唱したあとの絃のアンサムブルの転調へ煮凝る万感、っその気分をソロが高音で受け取ってからの楽章終結までの張り詰めた緊迫感こそは、っけだし聴きものである、

大フィルのほうのプログラムの解説を読んで、あ、そうか、っとおもったのは、っこの曲のコーラスは、っずっとユニゾンである、ハーモニーが附くのはほんの3楽章の最後のところっきりとおもうが、っそうした旧東側諸国の団体歌みたような生硬さが、っかえって全曲の特有のムードを決定附けている、ユーモアを擬人化した突飛な2楽章から一転、商店へ集う女たちの姿をリアルに描写し、っむしろいつの時代も地に足を着けている彼女たちの偉大を謳うことに成功している、コーラスをして、そんな彼女たちを相手に釣銭をちょろまかすなぞ言語道断っ、量り売りの目方をごまかすなぞ罪も罪っ、っとオケによる楽聖の運命動機を交えつ絶叫せしめるのは、ショスタコーヴィチがいかに眞剣に作曲しているかの證しだ、っまたきょうは、っこの楽章でさいしょに彼等が声を出すときのファルセットもよく定まっており、っそうしたこまかい得点が積み重なり、全体の充実におおきに貢献していた、

4楽章では、ほかのなににも増して口を利くことが恐怖だ、っと20世紀の人類が辿り着きたくもなかった眞實、全体主義社会の遣る瀬ない窮窟が表現せられるが、っとちゅうソロが、囂しい行進のあとへ遺る静けさにも恐怖はなかったか、っと唄うと、絃のコル・レーニョが不気味な軍楽のリズムを鳴らすなか、コーラスが、恐怖へ打ち剋った我等ロシア人は敵へ恐怖を及ぼしうるのだ、っと傲然と隆起する、っそういうところの野郎連中の束になった声の迫力が、N響とのときよりも、っきょうの最終日は、演者連の気魄としても、音場の条件としても、っより効果的に鳴っていた、

フィナーレでそれまでのシアリアスネスを恥ずかしそうに茶化しに掛かるのは、ショスタコーヴィチのばあい《8番》でも《9番》でも《10番》でもおなじみの姿だが、音楽的には、っとくに声楽にとっては細かい音符でも迫力を出さねばならず、気の抜けない頁がつづく、っとくにコーラスが、シェクスピアやパスツール、ニュートン、トルストイみたような出世こそ眞に出世の名に価す、っと早口に唄い、ソロに、トルストイとはレフのことだろうな、っと問われて然りと応える件は、っほとんど演劇を観るようなたのしさをまで体現せねばならず、っそのためにはその早口の細かい音の動きが目に視えるように聴く者へ伝わってこそであるが、っきょうのそこはほんとうにたのしかった、

最後の最後で絃のソロ連がフィナーレさいしょの横笛連の主題を再現せしめる部分は、っやっとやっと訪れたこころ安らぐ時間である、ショスタコーヴィチの本音が聴こえるようだ、人間って、もっと素朴に生きてよいはずなんだが、、、チェレスタが、眞の立身とは、眞の出世とは、っと謎を掛けて全曲は終止す、



大フィルも、1日熟してきょうはよりのびのびと鳴っていた、スートでは、っきのうのアコーディオン、ギターの増幅は一寸バランスが強すぎたという反省があったか、っやや音量を絞ったようで、っきょうのほうが好適だった、っひとつめの〈ワルツ〉ははじめの低絃の序奏から聴く者を虜にし、サックスは相変わらずの魅惑、主題が絃へ渡ると彼等は惜し気もなくポルタメントを交え、っその味は新日本フィルとのときにもN響にもなかった、

シムフォニーは、冒頭からのテューブラー・ベルの弔鐘など、っきのうは、弱奏のなかでもせめてもうすこしくつよく打ったらどうだ、っとおもわせ、っきょう、っよろしく修整せられることを期待したが、っやはりよわくよわく打っており、管絃へ埋没し勝ちとなってしまう、キーミツはしかし、ソルディーノのトロムペットへも抑えた抑えた音量と音質とを慾しがっており、っさようの解釋なのだろう、

っしかし、音楽が動き出せば大フィルを大人しいままでいさせることなどできるはずもなく、っとくにきょうは声楽陣が大張り切りだったこともあり、敗けてられへんっ、っという彼等の気概にもおおきに火が着いたようだ、っあのどんどん音が伸びて音場狭しと席捲する威勢のよさは、N響との2日間にはけっして希みえなんだおおきな美質であり、っやはりぼくは、っがんらいこういう音こそオーケストラの音、オーケストラが舞台で鳴らすべき音だとつよくつよく確信す、ほとんど同演目なら東京でっきり聴ければいいや、っと無沙汰をせず、っこちらへも聴きに来ておいてほんとうによかった、っそして、っきのう音を録っていたのなら、っこちらもいずれソフト化せられることを期待したい、



っさて、っあすはなにも予定がない、っまだ完全復調とはゆかないようなので、っゆっくりと休むとせむ、っあさっての旗日は、っなんとまたショスタコーヴィチ、池袋でオーケストラ・ダスビダーニャ公演であり、《レニングラード》ほかと、っこれまたヘヴィな1日になりそうだ、



みずの自作アルヒーフ

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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攀ず 㐧22峯




、、、っのはず、

保科洋氏の棒、岡山大のOBオケで、マーラー《トラギッシェ》の自主制作とみられる音盤、前半には同大の現役生オケによるリスト《レ・プレリュード》併録、

以前にヤフオク!でみかけてこころ惹かれた音盤だったがスルーしてしまい、っおもい出して検索してみたときにたまさか即決価格での出品があったので、っやや高額だったが、購入した、

保科氏はそれこそ小澤氏と同年輩くらいのようだが、っきょう日でも現役とみられ、っごく近年の舞台姿をYouTubeで観るに、老匠特有のたっぷりとしたテムポと端然かつ周到な造形で、っじつに矍鑠とされているものである、っこのマーラーはずいぶん以前、氏の70歳手前くらいの記録で、っいまだぜんぜん平凡である可能性も惧れたが、全編これ実直かつ丁寧に語った秀演であった、

オケは、現役もOBもまずまず巧いが、器はおそらく音楽的の艶を望めない乾いた条件であり、っまた音盤化に際してのラウドネス等化も行なっていないものとみえて、金管や打楽器は剝き出しの生々しい音がし、対して絃はそれらにやや押され気味となる、っじっさいの客席では、っこれよりも好いバランスで聴こえたのではないかと想像せられる、

演奏は、っこういう云い種も非礼かもしれないが、っかかる地方楽壇の首領みたような立場へある人の音楽性にあり勝ちのこととして、っともかく演奏藝術上の基本のキを全楽員に徹底励行せしめることのひたすらの連続で、っしたがって、全体はやや醒めた、作品を突き放して遠くから眺めているような手応えで纏められている、っもちろん、っその徹底励行というのも相当度に執念深く行なわれるのだろうから、楽員は《トラギッシェ》冒頭からじゅうぶんに熱しており、瞬間瞬間に、各位が自身の役割を演じ切らむとする意志をつよく発散している、

テムポは、っこの時点ですでにして意識的に遅く、っじっくりと進めむとする志向性が顕著で、絃バスが1音1音重たく鳴って始まる、トロムペットはその㐧1テーマでいきなりハイ・トーンを吹かされるが、っざんねんながらリピートする提示の2度とも、盛大に音を外す、致し方なかろう、

醒めていると云う条、㐧2テーマのアルマへの激情はぞんぶんに発散せられる、っぼくが云うのは、っそれを前後不覚の熱狂を頼ってオケを煽り倒すことで具現するのでなく、クレッシェンドとあればちゃんとクレッシェンドしましょう、リット→ア・テムポとあればちゃんとそこで腰を落としましょう、という手続手続の蓄積として、結果、よろしく熱狂が伝わるように演奏が生起してくる、っということである、

2楽章がスケルツォの演奏順だが、っこうした演奏で聴くとき、っかかるせわしい楽章や、折れそうに繊細な3楽章などが、過度に深刻になることなく、絶えず音楽的のよろこび、ったのしみに溢れている点がうれしい、

最長丁場のフィナーレでも箍は弛まず、どんなに複雑な音構造となっても、各声部とも奏楽の基本に忠実であれば、演奏はかならずやお客へアッピールする、っとの信念に貫かれている、っなかなかの記録である、



っさて、っそろそろ会場入りするとせむ、



みずの自作アルヒーフ

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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15時の開演まで、




っなーんにもやることがない、っのんびりするのもよいものだ、

体調だが、っやはりあれ以上は悪化せず、快方へ向かう、っとはいえ、っゆうべ就寝中にはそれなりに発熱したようで、起き抜けの気分も必ずしも優れなんだが、っまたホテルの朝餉というのもよくなくて、生来の貧乏性が祟ってどうしてもあるものはすべて取ってしまう、6割も食べたか食べないかで、もうこんなに要らんわ、、、っとあっぷあっぷす、っそれでも無理にも食べつづけ、吐いたらどうしよ、っなどと惧れつ、っどうにか室まで戻る、

チェック・アウトするが、っほんとうになんにもやることがない、川沿いでシガレットを服みつづけている、



っそうさ、っふたつほど音源談義、

準メルクル氏が渋谷で都響を振られたすぎやまこういち《DQ》諸曲の動画がYouTubeへ上がっており、っうれしく聴く、っおととしのNHK音楽祭中の1公演らしく、後半にはブラームス《1番》が演られたというが、っぼくは以前から、っすぎやま氏の作はさようの純然たるクラッシックの公演の一演目たるになんらの不足はないとかんがえてきたので、っかくしてようよう市民権を得ていってくれたいものだ、っここでメルクル氏が、っというよりも都響が同曲を取り上げたのも、物故せられた作曲家への追悼という趣意もあったろうが、っそういうことでなくとも、彼氏の作はおおきに演奏せられる価値のあるものである、っそれもここでのように、《DQ》のコンサートですよ、っという体裁でなく、他の古典の名曲と並べてその眞価を問う、っといった上演形態こそ望ましい、

っまず、30分余の演奏中、最後の曲が終止するまで、間にいちどもお客の拍手が挿まらないのがよい、往時からすぎやま氏ご自身が行なわれてきた公演では、っわずか2分ほどの序曲が済んだっきりでまず拍手が起こってしまい、っすぎやま氏がマイクを取られてご挨拶をなさり、っその後は、一連のスートを2、3曲ずつ演ってはやはり拍手があってトークがあって、っというふうで、っつまりオーケストラの公演の存り方としてひとつふたつ格下の興行方法が通例であった、っそれは氏以外の本職の指揮者が各楽団と行なっている《DQ》のコンサートでも、っほぼ同様のようである、

《DQ》のスートは、シリーズを追う毎に曲数が殖え、っものによっては綜演奏時間が1時間を超えるものもあるが、っぼくは序曲から終曲まで、っいちどもインターヴァルを置かないで、っお客にも拍手をさせないで、トークなぞ挿まないで、全曲を通奏するのこそ相応しいとかねてよりおもってきた、っここでのメルクル/都響公演は、っどれかのスート全曲でなく、各スートからの任意のオムニバスだが、っともかく、予定した全曲を演奏し切るまでお客が拍手をしてしまわないのがとてもよい、っそれをしてしまうと演奏会としての格がぐんと下がってしまうのだ、

撰曲は、っぼくとして必ずしも完全に同意ではないが、っまず序曲は《Ⅲ》の〈ロトのテーマ〉を採っており、っこれは納得、同序曲にはじつに複数のヴァージョンがあるが、っもろもろ經迴った末、最も熟れていると感ずるアレインジはこの〈ロトのテーマ〉だとおもう、ファンファールも天空編以降のトロムペットのものより、っこのホルンによる、楽聖《㐧9》のスケルツォをおもわせる動機のほうが快いし、主部も、リピートでオーケストレイションが変わり、遙けく発展してゆく晴れがましさは他のアレインジにはみられない特質である、っとくにスネアによるリズム・パターンの更新と、主旋を弾くVnの音符が一部こまかくなるのこそは出色で、っここでの都響による演奏も、っそのスネアが強めの打音でかっちりとリズムを出していてすばらしい、

っつづいてはごく最近作中からミディアム・ナムバーが採られているが、正直に云って、っぼくは《DQ》のスートは《Ⅶ》以降はあまり夢中に聴けておらず、ゲイム自身もやらないので、っこの曲もよく識らない、っすぎやま氏の最晩年の作の特徴としては、っかってはあれほど天性のメロディストであった人が、っなんだか音階ばかり上がったり下がったりしていて、っぱっと聴いて、嗚呼っ、これは天下の名旋律だわっ、っとつよく実感せしめる曲がごくすくなくなってしまった、っおなじく《DQ》に偏執しているキーハリに云わせると、最近作では過去作からの転用ばかり行なっているのがざんねんだとのことだが、っぼくはそのことはさして気にならず、っそれよりもともかく、大半の曲が音階音階また音階といった調子で書かれていることがどうしてもつまらない、曲が、私の創意はもはや枯渇してしまいました、っと自白しているようにごくごく頼りなく聞こえてしまうからだ、っこの2曲目でもややその音階頼りの弊が露呈しているようだが、っそのなかではまずまず魅力のある旋律を書けているほうではあるか、

っつづいては《Ⅳ》から〈海図を広げて〉、っぼくは《DQ》のスートは《Ⅳ・Ⅴ》が2大巨峰とおもっており、っほんとうに総ての曲がこの上ない魅力を有っていて何度何度何度聴いても飽きさせないが、っこの〈海図を広げて〉もそのなかの掛け替えのない逸品である、序奏はリムスキー・コルサコフ《シェエラザード》のシェエラザード主題を模倣して海の情景を演出して始まり、主題前半はセロとホルンとのユニゾンで広々と謳われる、Vnへバトンが渡る主題後半では、ホルンの対位の動き方が至妙である、中間部は描写的で、主題がVnへ戻ると、海の気分というよりは、っもはや天楽へ遊ぶがごとである、

次いで《Ⅴ》から〈戦火を交えて〉〈不死身の難敵に挑む〉のメドレー、戦闘曲はなんらの疑りもなくこれが全シリーズ中の最大の名作であろう、演奏も、不朽の名盤、ロンドン・フィル盤ではしかし、ブリッジから後者へ移行する際のスネアがややヒヨってフェイド・インするように打っており、っそれがここでの都響は序曲同様スネアのクリアさがおおきなプラスで、音源としてロンドン・フィルを凌いでいるとしてもよいくらいだ、

っつぎは《Ⅵ》から〈時の子守唄〉、終曲は、一般には《Ⅲ》の〈そして伝説へ〉が代表作と見做されているが、っぼくはさほどともおもわず、《Ⅴ》はといえばただのブライダル・ワルツ、っそうすると、《Ⅳ》の〈導かれし者たち〉が、最も独創的の、不思議な魅惑を有つ佳曲と映る、オーケストラ用のスート版では割愛せられているが、ゲイム音源では主題群の間へ各登場人物の主題主題のみじかい回想が挿入せられ、っその〈王宮のメヌエット〉から〈勇者の故郷〉へつづき、っそれへ〈馬車のマーチ〉のファンファールが重なる部分は、泪なしには聴けない、《Ⅳ》については、っぼくも全キャラクターをLv99にするまでゲイムをやり込んだので、っおもいも一入である、Lv99にしたとき、最もHPが高くなるのはトルネコで、ったしか800台へ乗ったとおもうが、彼は色々とおかしなことをしてくれるたのしさもあったので、っぼくはライアンを外していつも彼をパーティへ加えていたものである、っそこまでLvが高いと、ったまに賢者の石で回復だけしておけば、っあとは補助魔法もなんにも要らず、全員ひたすら物理攻撃しているっきりで簡単に全クリアできてしまうので、ゲイムとしてはつまらなくなってしまうのだが、っそれはとにかく、スート版では終曲主題群のみなのだが、っそれでもじゅうぶんに感動に足る、オーケストレイションとしても、クラリネットの用い方など、っまったくすばらしい、っすぎやま氏は天性のメロディストなのはもちろんだが、どういうセンスをしていたらかかる旋律を書けるのだろう、っと不可思議をおぼえしめる瞬間があり、っこの〈導かれし者たち〉はまさしくそうした彼氏の創意のなに遺憾のない発露である、っほかには、っおなじく《Ⅳ》の〈街でのひととき〉などがそうだ、街の曲は《Ⅳ・Ⅴ・Ⅵ》、っいずれも名作、力作揃いだが、っうちこの《Ⅳ》のものはとりわけ異彩を放つ、主題前半は木管によるスタッカートの同音連続と単純だが、後半は、っぼくは実演を聴くまではずっとセロとホルンとのユニゾンとおもっていたのだが、っちがってヴィオラとホルンとという一寸珍しいユニゾンで、っその旋律こそは、っじつに特有の味を有っている、ゲイムに親しんだ身からすれば聴き古したメロディなのだが、冷静になって噛み締めてみると、っこんな独得の旋律線は、っなかなかほかに類例を見出せない、穏やかな曲調だが、自分だけのセンスを有っているということの貴さを突き附けられる、眞なる傑作にちがいない、、、っそれで〈時の子守唄〉だが、《Ⅵ》のスート全体は、っやや深刻な曲調のものがおおく、オーケストレイションも、名うてのロンドン・フィルを当て込んで書いていられることもあり、っいつも質素なすぎやま氏としては意想外なほど分厚く、ロウ・ブラスが重厚に鳴る場面もおおい、っこの終曲も遠大な雰囲気で、主題の再現は高らかなトロムペット等が印象的である、

最後は最近作の終曲のようだが、っじっさいには過去作の諸曲を羅列したものである、《Ⅱ》の〈果てしなき世界〉は佳品中の佳品だが、っこれについてはロンドン・フィルの00年再録のベスト盤へ収録せられたテイクが他のいっさいを寄せ附けない名演である、テムポが、っすぎやま氏ご自身がのちに都響と入れたものや、っここでのメルクル氏の棒よりもほんのきもち遅く、っかつリズムに特有の粘着性がある点がすばらしい、っこの主題後半の旋律美もまた出色で、っぼくは聴くたびに目頭が熱くなる、っとくにリピートにおいて、主題前半ではトロムペットとホルンとが対位を吹き合い、絃はすばらしい上下動を示しつ伴奏しているが、っその絃が主題後半を担うべく迫り上がってくるところは、っほんとうに感動的である、



、、、っもうひとつ触れたい音源があったのだが、っそろそろ開演前のカッフェへ移動したいので、っまたそこで、っいったんここまででupしときます、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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大阪、中之島、




井上キーミツ/大阪フィル公演初日、済む、

っきょうは午前のみ仕事をして退勤す、

っが、っゆうべ丼いっぱいの山盛の野菜をインスタント味噌汁へ浸して食べたところ、っそれがかえっていけなくて、蒲団の裡でもよく睡られなんだし、汚ない話で恐縮だが、っあさ起きると腹を下してしまっていた、出勤して3時間のみの勤務だったが、っその間にも3度も4度も便所へ通い、新幹線の車内では催すことはなかったが、新大阪へ降り立つと身体の諸所へ悪寒、愁訴をおぼえ、風邪のひきはじめかとおもう、ホテルでも開演前のカッフェでも用を足し、会場入り前に下痢止めを購うか最後まで悩んだが、体外へ排出したがっている生理現象へ逆らうことはなるがたけしたくなかったので、っまあ大丈夫だろうと踏んだ、果たして、演奏中に耐え難い急降下に見舞われることもなく、終演を迎えることができた、っいまホテルへ戻ってもやはり節々がしくしくと痛むが、体感として、っこれから絶不調へ転落する前兆というよりは、っわずかな体調不良というところで、暖かくしてたっぷり睡ればあさには復調しているのではないか、

新幹線では、っいつもなら景色をたのしんでいたいぼくも、着座する途端に身体もぐったり、瞼も落ちてきて、っほぼずっとうつらうつらするまま大阪まで来る、結果としてこれは奏功で、先週のN響公演は、っとくに初日、っずっと目醒めていたのに、《バビ・ヤール》フィナーレの最後の最後、チェレスタが鳴る段に限って居睡りし勝ちとなってしまったところ、っきょうさっきは、全編全曲、っばっちり意識的に聴いていることができた、時を追う毎に身体が火照ってくるのをおぼえたが、っそれが風邪のためか、演奏の熱気に浮かされたためかはしらない、

っさて、N響との質的差異がどう出るかとたのしみに待ったが、っぼくは大フィルのほうがすきだ、N響はよくもわるくも、っいかなる瞬間でも描線がシャープで、っひびきのバランスが一定である、大フィルはその点、各声部が俺も我もと音楽をしようしようとするため、管絃打の混淆交響がいつも手作りの味であり、最ウェル・バランスをかすかかすかに逸れながら逸れながら進む、っそれだけに局所ではアゴーギクが巧く定まらなかったりすることもあるが、絶えず奏者の体温が伝わり、っこちとらから音を聴きに行くまでもなく、っむこうからどんどん人懐こい音が飛んでくる、

シュトラウス《クラップフェン、、、》は、中規模編成ながら、大音場の中之島でも質量ゆたかに鳴る、

ショスタコーヴィチのスートは、N響ではなぜか4曲っきりだったが、っきょうはフィナーレも入れて5曲抜萃であり、っそれは新日本フィルとのときと同様、ったのしい曲なので、っそれが入っているほうがよい、1曲目のマーチ冒頭から、ロウ・ブラスが大張り切りで、分厚い音が鳴って始まる、N響時とはアコーディオンもギターもちがう人だったが、っあのときもおそらくマイク、スピーカーを通していたろうが、っきょうもそうで、っしかも管絃楽が大音響を鳴らしていても彼等の音が聴こえるほど大増幅しており、アコーディオンはソロの個所でかちかちとフィンガリングの音まで聞こえてしまうばかりであった、っこの濃厚な音響のなか、っふたつの〈ワルツ〉ではいずれもサックス連がおおきに気を吐き、っとろけるようなエスプレッシーヴォ、ビターなハーモニーに醉う、触発せられて他の声部もこころごと身体ごと音楽へ奉仕し、小品の羅列とはおもわれないほど、っぎっしりと中身の詰まった聴き応えを見舞わる、

音場は、渋谷ほどではないにせよ、2,000席をおおきく超脱する大器であるはずだが、っぜんぜんそれを感じさせない、っぼくはいつもの定位置、2階右翼だが、っあの聴こえ方ならば、っよしんば天井桟敷附近でも、っまずまずニュアンスを伴なった音を聴きうるのではないか、

《バビ・ヤール》では、ソロもコーラスも渋谷よりもずっとクリアで迫力を伴なって聴こえる、断然、好条件だ、っとくに後者が、渋谷では、精妙ではあっても、っもうひと声、熾烈な齋唱を聴かされたいとおもわせたところ、っきょうはみなで束になってのクレッシェンドのたび、男臭い風圧を体現、これでこその《バビ・ヤール》だっっっ、っと膝を打つ、静かな中間楽章でも音楽が薄まってしまうことがなく、煩瑣な2楽章やフィナーレでも細かい音型、詞句が高密度で聴こえる、

大フィルも怒濤のごとで、用意してきた音を精確に並べた風附きのN響時とは異なり、キーミツもしばしば篤いグルーヴを実感しながら夢中で振られるような瞬間があった、ティムパニ、タムタムをはじめとして打楽器連の遠慮会釋のないけたたましい打ち方もうれしく、っしかもそれらがこちとら慄然とせむばかりの迫力に繫がりこそすれ、っけっして無意味な騒音とはならない、

N響時にはなかった字幕があったのも大助かりで、っより共感を寄せながら聴いていられた、っあすは、っきょうの演奏では2楽章の終局部でみられた声楽と管絃との間の間合いの取り方の行き違い、っあれこれの声部にわずかずつ散発したエラーが摘まれ、っより完成度の高い演奏となることを希ってやまない、

っそういえば、2ndの最後列には、っこないだ上岡氏と同フィルとの共演を聴きに来阪した際、高槻まで足を伸ばして接したアマチュアの絃の小規模アンサムブルでリーダーをされていた、橋本安弘氏が乗られていたようである、リタイア組のトラであろう、



っそれから、小澤氏が物故せられたとのこと、ゲテモノ趣味者のぼくはいつの日も彼氏のよい聴き手ではなかったとおもうが、っその存在によって本邦の楽壇がおおきく底上げせられてきたことは紛れもない事実にちがいない、合掌、



っさ、睡よ睡よ、



みずの自作アルヒーフ

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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渋谷2日目、




っきょうは自室からだったので原宿ではなく、井の頭線にて、井上キーミツ/N響公演、

以前は同響の同器での定期は、土曜が18時、翌日曜が15時開演だったようにおもうが、土曜18時は変わらないものの、っきょうは14時開演であった、っゆうべ日附が変わってから帰宅し、15時開演だよなと余裕があるようにおもって深更に睡たが、起きて念のために検索すると14時で、っやや周章てて身支度をして出掛く、っいま、終演して例の喫煙可のカッフェで食事をし、っこれから帰る、

っきょうは2階左翼前方と位置を変えてみた、っきのうは、強いて云うと《バビ・ヤール》においてソロのフレイズの中途からコーラスが重なってくるところで、っかすかにタテが乱れる気がしたが、っきょうはそのあたりもみごとに修整せられており、っより完成度の高い演奏となった、オケの音が、っこの楽団にあり勝ちのこととして、っひじょうに高度の、っしかしビューロクラティックな質感のままであるとつまらないなと惧れていたが、っあの乾いた大音場でもまずまず色と雰囲気とがあり、っあれならば音盤化に際しても不足はなかろう、っさて、大阪フィルはこれとどういった手応えの違いをみせてくれるだろうか、

っきょうも、1楽章でソロのティホミーロフ氏がさいしょの1連を唄われるところで、っその威厳にがあんとやられ、っきのうは目頭がかあっと熱くなった程度だったが、っきょうは、落泪まではゆかなんだが、っぶわっと視界が濡れ、潤んだ、息の張り方と抜き方との塩梅がじつに絶妙であり、崇遠な父性をもって聴く者みなを抱懐されるようである、っしたがって、っその音楽は史上の暴挙を告発するよりは、っそこを突き抜け、誤解を惧れずに謂えば、っすでにして赦しを与えていると聴こえるほどである、っきのうは、2楽章やフィナーレにおいてコーラスと掛け合う場面で、彼氏の唄われながらの身振り手振りの迫眞からすると、音としてはタッチの差で筆致の諧謔味を取り逃がす気がしたところ、っきょうはそうしたたのしさも十全に発揮せられた、

同曲のソロといえば、っかってはセルゲイ・アレクサーシキン氏が独り勝ちの大オオトリテヱであり、名だたる指揮者との複数の音盤でその演唱を聴くことができる、ったしかキーミツの日比谷全集の同曲や《死者の歌》でも彼氏を招いていたのではないかと記憶する、っだいぶんむかしの音盤にもその名を見るから、日比谷のそのころにはもうカリアも終盤へ近い大ヴェテランだったのだとおもうが、っその複数の音盤へ耳を貸すと、相当度の細部に亙るまで、っほとんどおなじ表情をまいかいすばらしい精度と確度とで刻印しているのをおもい知らされ、っそれは一発録りのライヴであるキーミツ日比谷盤においてすら異ならない、指揮者における楽曲解釋のみならず、一個の歌手もまたここまで譜面を読み込み、ここまでひとつびとつの表情を周到に練るのか、そしてまたそれをまいかいの舞台で体現しうるだけの鍛錬に余念がないのか、っとの驚異をおぼえずにいない、っぼくなど、っどの音盤でもぴたりおなじ表情で唄っているので、たまにはすこしくちがう表現も試すがよいじゃないか、っと贅沢な不満を懐くほどだが、世界的にみてもそう誰もが唄えはしないはずのこの曲において、っきのうきょうとティホミーロフ氏は、っぼくの親しんだアレクサーシキン氏をすっかり忘れさせてくれた、っただ、っごく細部で云えば、ったとえばフィナーレでコーラスへ向かって、トルストイとはレフのことか、っと問い掛ける部分は、ア氏は高い音で張り上げるように、っほんとうの喋りことばのような調子で唄っており、っそれがまたなんともいえずカッコよく定まっているのだが、っそこのティ氏を聴くともっと低い音であり、っぼくはスコアを見ないが、っおそらく記譜の音高としてはティ氏のほうが精確にそれを当てているのであろう、音を変えられたがらない作曲家としてはそちらに軍配を上げるかもしれないが、聴くだけ、聴いて感動したいだけのぼくからすると、改変なのかもしれないア氏の表情のほうがずっとこのみである、、、っそんなことを書いていたら、久しく聴いていないキーミツ日比谷盤を聴きたくなってきたな、押入の奥深くへ睡っているので発掘するのも一苦労だが、っただ、ソロ自身としては、ショルティ盤のア氏が最も好調の絶好調かもしれない、っでもショルティの棒は線が細くて、シカゴ響も骨っぽくていかにもひびきが薄く、っなんであんな人が大巨匠なのかぜんぜんわからない、録音も鈍いし、バルシャイ盤のソロも彼氏だったとおもうが、オケはずっと重心が低くてかつ高分解能、録音もクリア、



っさて、連絡が来て、っやはりあすの東村山現場は雪中止、っぼくは聖蹟別棟へ出勤する、っこんどの週末は大阪だね、



みずの自作アルヒーフ

 

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原宿、




井上キーミツ、N響公演初日、済む、

っおとついから、東村山のだだっ広い現場の試掘へ出る、代理人としてではなく、人手が足りなく、アルバイトさんらがみな出払っているというので、一人足としてヘルプでである、

遺跡の調査は、掘った土の色調が重要な判断材料となるが、冬場で陽がみじかくなると、16時すぎあたりでももう光量が足らなくて、土色の認識に支障を来たす、っまた、現場作業は寒いということもあり、っいきおい、っこの季節には16時を回ると、もうきょう終わりにしようよ、っというムードがアルバイトさんの側でも社員の側でも支配的となり、陽が高ければ16:40ころまでは作業をしているところ、っいったん16:30ころに作業を止めて片附けはじめる日を作ると、16:30が16:25になり、16:25が16:20になり、っとようよう常習となって、っいちばんぶっ飛んだところでは16時にはもう現場を閉めて帰ってしまっていたらしい、個人的には、それでも工期内に調査を完了させられているならいいじゃないのよ、っという気分だが、経営者としてはそうはゆかないとかんがえるのもとうぜんで、、、っというよりもたぶんあれじゃないかな、社長がなにか用事があって、っとうぜんまだ作業中だろうとおもって16時すぎころにどこかの現場へ寄ったんだ、っそしたら蛻の殻で人っ子ひとりいやしない、っわるいことはできないもので、っそれで綱紀粛正、今冬以降、11月から3月までとかだったかな、っは平素の9-17時の勤務時間を8-16時に変更しましょうということとなった、っただそれは現場作業に限るので、屋内作業のぼくらは従来どおり通年9-17時勤務である、

っきょうの開演時間は18時なので、聖蹟別棟へ17時までいたのでは間に合わない、休んでしまうか、午前のみ勤務にするかとおもっていたところ、東村山の現場へ出られるか、っと云われ、そうか現場は8-16時か、それなら仕事が済んでからでも間に合うな、っときょうも16時まで働いていた、

っしっかし、っずっとデスク・ワークなので、遺跡の現場作業のためのあれこれのこまかい筋力がすっかり衰えている、体幹としては、っまあ腰が痛かったとはいえ、っさほどのことはない、使い物にならないのは手指で、効率よく土を分厚くがりがりと削りたいのだが、っその反作用に耐えるだけの握力がなく、指の1本1本が瞬く間に筋肉痛を発して、掘り道具が握れない、っおとついのよる、睡ようとして両手がずきずきするのをおぼえたが、っまあ1日熟せばきのうからはまずまず動けるようにはなる、新人さんが半日掛かってやっとトレンチ1個所のみのところ、っぼくはその半日のうちに2個所も3個所もさっさと遺構確認面の精査をしてトレンチ壁面の土層を分層して清掃を了えてはいつぎはいつぎはいつぎというぐあいに作業を進めるので、代理人からも、や、水野さんに来てもらって助かります、っと云ってもらう、っわざわざ社員が出向いてヘルプをしているので、っそのくらいの働きをしなくてはぼくとしても面目が立たない、

っきょうは土曜だったので、平日の常勤メムバー以外に他現場から哲学科出先輩や《雨月、、、》くんも応援に来る、月曜は雪の予報で、っおそらく中止だが、っあすの夕方にやる/やらないを連絡しますと云わる、っいずれ月曜でぼくのヘルプは了わりで、っというのは、っもとこの現場の常勤メムバーであった自-自先輩が、タイガースのキャムプを観に沖縄旅行中で、っその間っきりの穴埋めというわけである、っしかし、っやはり現場で1日身体を使うと、っいつものデスク・ワーク時より遙けく健康的に睡られる、っいわゆるばたんきゅうであり、っこの仕合わせのためだけにでも、っぼくは現場へ出ていたい、



っさておき、っそれで現場が済んで、東村山から高田馬場、渋谷ではなく原宿のほうが器へ近いとおもうので、っそこで降りて代々木公園、っじゅうぶんにゆとりがあり、開演前に2、3本シガレットを服み、自席へ着座して楽曲解説、《バビ・ヤール》の歌詞対訳を開演までにすべて読み了えることができた、

演目は、ロシアに由縁を有つというシュトラウス《クラップフェンの森で》にて開幕し、ショスタコーヴィチの舞台管絃楽スート《1番》から4曲抜萃、っそしてアレクセイ・ティホミーロフ氏のソロ、オルフェイ・ドレンガルのコーラスを加えて同《バビ・ヤール》である、

っきょうは2階右翼の前方から聴いていたが、器はあいかわらず音楽的のひびきではないものの、っしかし好い音がしていたとおもう、シュトラウスは、郭公の鳥笛がおおきく間を取って吹いていてたのしい、

ショスタコーヴィチのスート《1番》は、キーミツがポリャンスキー氏の代打で新日本フィルと同《8番》をお演りになった際、ポ氏は《8番》のみのプログラミングであったところ、それだけだとツラいので、っといってキーミツが前半にそれを足され、っそのときはきょうの4曲に加えて最後に賑やかなフィナーレも演奏されていた、っその新日フィルとの演奏もとてもよかったが、っきょうのN響とは、っとくにさいしょのマーチにおいてもうすこしく点画をきっちりと楷書的に定めにいった手応えで、テムポもたっぷりとしており、っこれはこれできもちがよい、乾いた音場中ですべての楽器が冴え冴えと聴こえ、潤いある濡れた質感ではないが、っそれだけに鮮烈なハーモニーが飛び散る、

っそして《バビ・ヤール》、実演を聴くのはこれが初めてだろうか、ったしかそうとおもうが、ソロのティホミーロフ氏っっっ、当初発表の人、エフゲニー・スタヴィンスキー氏かな、っが降板されて代演だったが、っもとより彼氏のためにあったかのような舞台、っまさしく独壇場であった、恰幅のよい巨軀巨体でいられ、指揮台へ乗ったキーミツと同程度の身長、っそしてあの声、っあのロシアンな太さと重たさとは、日本人の歌手では逆立ちしても出せまい、彼氏たったおひとりの声で、大管絃楽、本邦天下のNHK交響楽団をおもちゃのオーケストラと聴かせてしまうばかり、っじつに堂々たる威風である、っとくに1楽章が始まってからしばらくしたあたりで、っぜんぜん泣くような音楽ではない、背筋も凍る深刻な曲調だのに、っその立派な語り口に圧倒せられて、っぼくは我知らず目頭が熱くなるのをおぼえた、〈ユーモア〉の厄介なリズムも表情たっぷりに余裕綽々で熟していられたし、個所によってはキーミツがかなり周到にバランスを取られていたとはいえ、っそれでも、っいかなるときもオケに消されずに彼氏の声が聴こえつづけるのは、驚異も驚異である、

っそしてまたオルフェイ・ドレンガルっっっ、パンフレットには合唱指揮がセシリア・リュデュンゲルとあるので、っぼくはてっきりあのセシリア・アリン女史かとおもっていたが、終演後に挨拶されていたのは、メムバーといっしょに唄われていた男性であった、っそれはとにかく、っこちらも、大阪フィルとともに高額の招聘費用を押して喚んだというだけのことはあり、男声合唱の妙味を篤と堪能せしめた、



先回、札幌でのキーミツはずいぶんと弱々しく、心配させたものだが、っあのときにはすすきのでの夜遊びが祟ってお風邪を召されていたらしい、っきょうは、っまた痛み止めの世話になられていたかしらんが、っとてもお元気そうで、身体もよく動いていらして、っあのなまなかでない曲想を生き抜くについて、万全というところではなかったか、客席は大入りで、終演後は万雷の拍手と歓呼と、っそれに相応しい大演奏であったろう、

っあすも同プロ、っそれでもって、来週末には大阪行にて、っあと3度もあんな曲のあんな演奏を聴くのかよ、、、草臥れるわ、っきょう休憩時、前プロですこしく睡気がしたので自席へ戻る前にホールの壁へ背中を預けて瞑目していたら、スタッフの若い女の子に、お客様、大丈夫ですか、ご体調が優れないようでしたら救護室の用意がございますが、っなどと気遣われる始末、っま、一介の客にとってもそのくらいの曲ですわね、《バビ・ヤール》は、

っいままだ、宮益坂上のいつものチェインのカッフェ、っもうすぐ閉店、帰ろ、っそして睡よ、



みずの自作アルヒーフ

 

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川崎、




坂入健司郎氏の棒、東京ユヴェントス・フィル公演、済む、18:30開演だったが、本演目に先立って、昨年、物故せられた飯守泰次郎氏を偲んでヴァグナー《パルジファル》1幕前奏が献奏せられたため、終演は優に21時を回り、っいつもの場所でのんびりシガレットを服んでから王将まで行くところ、階段上から店舗が見えるところまで来て、っすでに看板が消燈しており、あっ、そうかっ、もうLO回っちゃったかっ、っと気附く、川崎の王将は厨房が巧いので来訪時にはいつもそれをたのしみにしているのだが、惜しいことをした、腹減った、、、っとまれ、坂入氏は奏者として故人の棒を経験されており、っきょうのオケの面々にも、っめいめいのかっての所属楽団へおなじく氏が客演されたことがあったというので、演奏後は舞台も照明をしぼってしばし黙禱、っでそのまま指揮者が指揮台へいて本演目、

っまずドビュッシー《ペレアス、、、》の、っなんとかいう人のアレインジになるスートの本邦初演、っそしてブルックナー《7番》、2楽章のてっぺんでシムバルとトライアングルとが鳴ったからファッスングはノヴァークとおもうが、っそれに準ずるもっとちがう版だったかは知らない、、、っいまプログラムを見たらノヴァークだった、

同フィルはショスタコーヴィチ《レニングラード》、マーラー《夜歌》、っそしてきょうと、3度連続して《7番》をとりあげたが、前回のマーラーは、とりあえず音は出しました、っという次元で汲々としていた嫌いで、っまだあそこからあれこれ表情を差配したりバランスを整えたりしないと音楽的にぜんぜん未熟だと、っこちとらややざんねんに聴いたものだ、っその点きょうは、ドビュッシーといいブルックナーといい、細部までよく神経が通い、長丁場でも恆に一貫した演奏プランの所産だという手応えをつよくおぼえたため、午にすでにして濃密な時間を経験してきたぼくであるも、疲れも感ぜずに全編を集中して味わうに及んだ、

ドビュッシーは、オペラ全曲も聴かないし、っきょうの編曲者以外の手になるスートもあるのか識らない、20分かそこら、っわりに長めの単一楽章だったが、っずっとなだらかな楽想がつづき、主題主題はこの作曲家だからいずれも明確な旋律線は有っておらず、っどこからどういう別主題へ遷ったのかもぜんぜんわからない、っが、絃を主体にフレンチ特有の危うい和音がつづき、中音量以下、弱音、最弱音まで自在に噛み分けられるため、自然、耳を欹てらる、器がまたよい、2階正面前方だったが、っうんと舞台が近く、っすべての音がクリアに聴こえる、



、、、っあ、っいかん、っぼんやりしていたら稲田堤で降り損なってしまった、



っこうした楽曲からドイッチュたるブルックナーへ接続するのもまたたのしい、楽曲への雑な概観や、っきょう日へ伝えらる突飛な人格からすれば、っいかにも野暮な人との偏見も生じ勝ちだが、彼の作は和声も転調のさせ方も楽器の重ね方もとても複雑だし、対位法の志向性としても、っなんというか、っほかの作家が1のつぎは2だというところ、彼のばあいは1のつぎは1.3かもしれないし1.5かもしれないし1.749かもしれないしといったぐあいに、場所によっては極端なほど目が詰んでおり、っつまりひとくちに云えば巧妙な筆致である、巧妙といってソフィスティケイトというのとはちがう、都会的でスマートな音などどこを叩いても出て来やしないが、彼独自の美学があり、それへ忠実たることにおいて特有の精確無比は疑われない、っという点で巧妙なのである、《8番》のさる木管連の和音など、ショスタコーヴィチやプロコフィエフも顔色なしの超近代のひびきがする、作曲者はべつにそんな心算で、っつまりアヴァンギャルドなことをしてやらむとして書いているのでなく、期せずしてさようの音が書けてしまう、っそれがブルックナーだけの存在感であろう、

回りくどい前置きだが、っきょうの坂入氏の演奏を聴いて、《7番》というあの曲のさようの巧妙さ、そんなにまで込み入った書法なのかよ、、、っという驚異を恆に明晰な音構築でみ届けていられたことを、っぼくはよろこんでいる、っこれは去年、っおなじここで聴いたスダーン氏と東京アカデミッシェ・カペレとの同《ミサ曲3番》でもおぼえた感触である、、、っあれも、っほんらいは飯守氏が振られるはずの公演であったのだが、

っまずテムポがよい、先の浜松での同《8番》は、っとくに1楽章に対して、もっとモデレイトなアレグロにしようよ、そんなに深刻な音楽じゃない、前へ前へと進んでゆく音楽のはずだ、っという不同意をおぼえたぼくだが、っきょうの1楽章はすっと始まって快い、主題以外の絃の刻みのかすかな動かし方も周到かつ自然だし、管を加えて漸強する確保における音量感も据わりがよい、頂点へ向けてのトロムペット、頂点直前から下降するロウ・ブラス、頂点を打ったあとのホルン、っそれらと絃各声部との音勢バランスがじつにザ・ベスト・ミックス、退潮してつづくテーマを用意する段の絃の微細な動きの追い方にしてもやはり入念であり、乗っけからひじょうに熟した味がする、っこの手応えが去年のマーラーではせず、進んでゆく曲に鳴っている音が振り落とされ気味となるざんねんを印象したものだが、

㐧2テーマは㐧1テーマ以上におおきなクレッシェンドを有つが、っここでは金管がやや勇み足、硬くするどい音質で吼え立ててしまい、っやや騒音に近い刺戟だった、っが、展開の冒頭では落ち着きを取り戻し、っその後、全員でめいっぱいに鳴る個所はしばらく訪れずに再現まで来るが、っその頃にはすっきりと抜けた格調あるひびきが得られていた、っそしてそれは後続楽章においても、っついに全曲が終止するまで維持せられたのである、1楽章の終結にしても、音量感音質感、テムポ、ティムパニの重たさなど、っなかなかこれぞという造形を披瀝してくれる指揮者がいないものだが、っきょうは、弱音の間の愼重な歩幅を漸強に隨って自然と加速せしめていて、っその加速させすぎなさの塩梅が、っぼくにはちょうどよい、っひびきも瘠せすぎず肥りすぎず、中庸でありながら守勢との悪印象もなく、っこれは坂入氏の最大の美質である、最も成功を得るのがむつかしい道なのだが、

絃では、再現の㐧2テーマの中途から、Vnが、っぜんぶいちいち音の上下動の異なる、頭が休符の動機をひたすらくりかえし、っやがて間を詰めて他声部とともに高潮するが、っその音高が高く高く上がる部分で音程がよく取れずにしまう楽団は、プロフェッショナルでも珍かではない、っきょうの彼等は、っよくよく鍛錬せられていた、っそういうことひとつびとつの丁寧な励行が、っすなわち演奏であり、っすなわち藝術である、

2楽章もやはりテムポがよい、遅すぎてはいけないのだ、冒頭から、下降句における中低絃とヴァグナー・テューバとの混淆も、高絃を加えた上昇句も、音色に全霊のおもい入れが乗り移って出色、っすばらしい楽団だ、㐧2テーマもあのように先へ先へと歌ってこそ旋律美もきわだつ、変奏にみせる筆の創意にはいつもいちいち胸が震える、硬派なることは楽聖に比肩し、っこまやかなることはラフマニノフとて敵ではない、っそうしてシムバルとトライアングルとを携えて登頂を果たす、コーダは、坂入氏の振り姿としてはもっと入魂の音でありたかったろうが、ヴァグナー・テューバはよほどか吹奏が難儀とみえてやや安定を欠き、大先達を喪う苦衷を独りで吼えねばならないホルンも、っおもい切りが足らなんだようである、

3楽章を、速すぎてくれるな、大音響にしすぎてくれるな、っと祈って待ったが、果たして最も快適な速度と音量とだ、主部のホルンやクラリネットにはとてもおもしろい音の動きが現れるが、っすべて目に視えるように聴こえる、ったのしいっ、

傑作たる前半楽章をうけとるには荷が勝つと謂われるかわいそうなフィナーレ、っおもえらく、展開の不足はもう云ってもしょうがない、㐧1テーマの性格が愉悦を謳わむとするあまりやや軽きにすぎる、激越な強弱の交替が、《8番》の同楽章などからするといまだ唐突の憾を拭えない、っその弱点を克服するゆいいつにして最大の方途はつまり、っひたすら実直に音構築を展開しつづけることである、各テーマには、っやはりいつも巧妙な仕掛けが潜ませてあるのだ、っそれを懸命に伝え伝えて聴く者に密度の高い時間を経験させつづけることでしか、成功は勝ち獲れない、っきょうの彼等は、最終音を結んだとき、っその勝利を掌中へ握ったのではないか、



っきのうのカーチュン氏から2日間3公演、っいずれも各人畢生の名舞台を観せてくれたようにおもう、っことしは休日とみればどんなだろうと演奏会へ行きまくるという年にはしないから、っあすは、、、ってもう日附を跨いで、っいままた南大沢の喫煙所で手も足も氷になっているが、っきょうはやっとかめのなんの予定もない日曜である、っことしはそうさな、購ったままで聴いていない音盤が何百枚と溜まってしまっているから、休日にはその解消を順次行なうとするかな、っきょうからその気力があるかはともかくとして、



みずの自作アルヒーフ

 

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中野、




井﨑正浩氏の棒、、、っは持たれていなんだが、っぼくは一般名詞として、指揮者、っと書くことはどうともないが、誰それの指揮、っとこの語を動詞として用いることにはなにか抵抗があってねえ、っだって仰々しいでしょう、字面が、導いている、っということを云いたいわけなのだが、っそれを、指揮、っなどと、っそれで、誰それの棒、っと俗っぽくいつも書くのだが、っそうすると棒を持たない人のときが困る、井﨑氏は棒で振られる方だが、っきょうはコーラスだったからね、っでもぼくが指揮者ならば、コーラスを振るときでも棒を持つな、っとにかくどんな曲でもぜったい棒、緩徐楽章で棒を置いて手だけで振る指揮者も嫌い、っぜんぶ棒で振るほうがよい、っぜったい、、、っそれはとにかく、井﨑氏と中野区民唱との公演、済む、オケは井﨑氏と以前より懇意というウッドランド・ノーツという団体である、

っや、密度の高い時間だったねえ、っぜんぜん識らない作家のぜんぜん識らない曲だったので、最悪、取り敢えず音の鳴る場所へ居合わせはしましたけれど、っという所在なさを嘗めつづけることも覚悟はしていたのたが、っぜんぜんっ、っいずれも初めて聴いてもすぐにぱっとわかる楽想の曲ばかりだったし、っそうでいながら単純すぎて喰い足らないというのでもなく、演奏がまたコーラス、オケともに堂に入り、終始、音楽を聴くよろこびに溢れていた、

作家はウィル・トッドとカール・ジェンキンスとというともにイギリスの人で、っおふたりとも存命中なのかな、トッド氏は70年産まれというからいまだ50代、ジェンキンス氏は44年生だから、っご健在であればことし80歳である、

前半はトッド氏の小品2曲で開幕、中野区民唱は、っご年配の方がおおく、発音の清潔が確保せられているかを危ぶむが、杞憂、っそして3曲目は《ジャズ・ミサ・ブレヴィス》とあり、ステイジにはドラム・セット等が据えられている、まあそうはいってもミサ曲なんだし、一寸ジャジーなところがあるかなくらいのもんでしょ、っと予想していたところ、っほんとうに全編これ完全なジャズ、劈頭の〈キリエ〉から臆面もなくスウィング、オケは、オケというよりバンドといったところで、絃バス1、アルト・サックス1、トロムペット2、ピアノとドラムスと、〈グローリア〉はドラムスのスティック・カウントに始まるアップ・ビート、〈サンクトゥス〉はメロウなバラッド、奇数拍子の〈ベネディクトゥス〉、嫋やかな〈アニュス・デイ〉で幕、ミサ曲といってぼくらのおもうあの静謐さよりは、ゴスペル・ソング群だとおもえばはやい、メロディは隨所で耳を捉える親しみ易さで、っかつこころへ迫る、



メインのジェンキンス氏の曲は《武装せる男 平和へのミサ》という題を有つが、ミサの通常文の間に古典や現代詩から自由に引用した挿話が複数入り、っかつ直接的の戰爭の描写も含まれるため、全体はひじょうに大規模となり、演奏時間は優に1時間を超えていたのじゃないか、井﨑氏は、以前から同曲の演奏の機会を窺っていられたらしく、楽曲解説も熱を入れて手ずから書されている、オケの編成は、ピキェロ持ち替えのフリュートが加わる、サックスはなくなり、トロムペットは3に殖える、打楽器はドラムス以外に3で、ティムパニほか各種、ピアノのほかにキィ・ボードもいたが、オルガンの代用か、オルガン以外の音を出していたときもあったかしれない、っそれと絃各1とである、

全曲冒頭は坐したコーラスが始めかすかに膝を叩き、っとちゅうから足を踏み鳴らし、っやがて打楽器が加わって、っつまり接近する軍靴の音である、っいずれの曲もシムプルなテーマを執拗に反復するので曲がわからなくなってしまう心配はなく、っしかし、人間性が極度の歪曲を強いられずにいない戰爭の時代に題を採っているため、ったとえば〈サンクトゥス〉などは、神を讚え、、、たいのだけれどこの人間のザマはどうだ、とばかり背景へ不穏な軍楽のリズムが鳴りつづける、っといった工夫を凝らした構成となっている、

コーラスからはアルト、っそしてテノール、バスがソロへ立つ曲がいくつかあり、っこのお3方がまたたいへんな名手、

折り返し地点辺りでは、オケが騒音を鳴らして破滅的の頂点へ達し、コーラスはその焦土の裡で死線を跨ぐ者の絶叫をあげる、場内は暗転して音楽もいったん全休止、っやがて静かに雨音の効果音が鳴らされ、袖へ下がったトロムペットが追悼ラッパを吹く、っこれにつづいては、ヒロシマの犠牲者による詩も唄われる、

静謐な〈ベネディクトゥス〉で音楽的にじゅうぶんに解決したようにおもうが、っそこから全曲冒頭の行軍のテーマが戻り、平和のほうがベターだ、っという苦い教訓へ逢着した音楽は、敢えて高らかなトュッティへ発展して了わる、



音源が慾しいなあ、YouTubeを当たればありそうだけれどね、



っさて、川崎、間もなく開演、



みずの自作アルヒーフ

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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っきょうはギロッポンで、




カーチュン・ウォン氏と日本フィルとの公演であった、っこんかいの公演2種は、っいずれもじつに周到に練られたプログラムである、先週の伊福部、ラフマニノフ、ベルリオーズは、《サロメ》のヨカナーンの生首と《幻想》のグィロティンによる断首とがリンクし、っかつ《パガニーニ・ラプソディ》と《幻想》とはディエス・イレーという共通項で結ばれていた、っきょうはエグゾティシズムがひとつのテーマで、カムボディア出身で米在住、80代で存命中というチナリー・ウンなる作家の《グランド・スパイラル》という曲に始まり、児玉麻里、桃姉妹を招いて、ガムランに取材したプーランク《ダブル・コンチェルト》、休憩後も両女史登壇で、ガムランに執心のあまりバリに数年をすぐしたというカナダのコリン・マクフィーという作家の《タブー・タブーアン》なる3楽章制のコンチェルト様の曲、っそしてジャポニスムの所産、ドビュッシー《海》である、曲毎に配置転換が忙しいために、カーチュン氏が登壇されて英語であれこれ話されていた、客席は、っやはりかかる攻めたプログラミングだと、っやや空席過多であったようだ、

っしかし、変化に富んだ、っおもしろい一夜だった、ウンは大編成を馳驅して南国の秘境へ夢幻を展く10分15分ほどの1楽章制の作で、っぼくはカーチュン氏が振られる日フィルならばもはやどんな曲でもたのしんでいられる、機能的でかつ細心の籠ったアンサムブルそれ自身で、っすでにして聴く者を唸らせるにじゅうぶんである、っほんの5年10年以前には、彼等の合奏能力がかほどの刷新をみるとは、露想像できなんだ、20年ほど前、っぼくの画学生時分には、コバケンさんと彼等との公演へさかんに通ったものだが、っそこでは、っまあコバケンさんのリハーサルのなさり方もよくなかったものとみえて、っぎゃんぎゃんぎすぎすする、っともかく限界を感じさせるオーケストラだったものだ、っそれでもぼくはコバケンさん公演へ通いつづけ、っその期待はあのマーラー《9番》によっていちおうは報われたが、逆を云うとあれをピークに燃え盡きた憾で、っその後はようよう足が遠退くようになってしまった、っそれがいま、っかくしてまるでべつの指揮者と彼等との蜜月を具に見届けむとするとは、日フィルにも彼等の歴史があり、っぼくにもぼくの人生がある、

プーランクは、ガムランの模倣は各楽章へ唐突に割って入り、っそれ以外のところは軽妙洒脱、古今の音楽語法を縦横に振り撒き、っときには、ったとえばストラヴィンスキー《ハル・サイ》からの直接の引用なども聴かれる、編成や舞台配置までスコアにうるさく指定せられているらしく、ピアノは蓋をとって2台相対で、指揮台はそれよりも客席側、絃はVnがともに8、Va以下はいずれも4、打楽器はティムパニを欠いて1のみで、ピアノの後ろであれこれの楽器を忙しく操る、

コリン・マクフィーとコンチェルトがつづくが、っまた配置が変わり、っこんどはピアノは2台平行で奏者がこちらを向いている、最後列にはずらり打楽器連がいるが、っまたオケの中、ピアノの後ろにはシロフォンがいる、作曲家は1900年ちょうどの産まれで60年代まで生きた人だが、七面倒な現代音楽ではなくむしろライトな書法で、ミニマル的でもあり、ジャジーな面もある、

ドビュッシーは近年、本家本元というべきデュトワや、っより人間臭い仕事がぞんがい好もしかった藤岡氏、フレンチらしからぬたっぷりとした構えで聴かせた井上キーミツなど、各人各様のいずれ劣らぬ名舞台へ触れてきたが、っきょうのカーチュン氏も素敵だった、彼氏の棒は、っあのように声部声部がマルチに動く楽曲では、っほんとうに頼もしく映ずる、バルトーク《オケ・コン》とか、ライヴは聴かずにしまったが動画に視るヤナーチェク《シンフォニエッタ》とか、っきょうの《海》もその延長線上で、冷厳なしかし熱情をもって絶えず全楽を遙かに見渡しているその手応えが、聴いているこちとらにとっても快感だ、㐧1曲の終結部分など、っその音勢バランスの操作はなかなかの手練である、

カーテン・コールでの彼氏は、っいちどぼくらの拍手を制して、またあしたっ、っと日本語で云われる、っぜひにそうしたいところではあるが、っざんねんながらぼくはあすは、午は中野で井﨑正浩氏のコーラスの公演、夕は川崎へ遷り、坂入健司郎氏のブルックナー《7番》である、っあすの日フィル公演は動画配信があるので、録画しておかむ、っただし、1曲目のチナリー・ウン氏の曲は、権利関係があるのか、配信上は割愛せられるようである、



っそうだ、っけさはキーミツの大阪フィルとの夏のブルックナー《7番》公演切符の、ザ・シムフォニー・ホール会員への先行販売開始であった、会員登録は無料だったので、っよろしく2階正面の最前列最通路寄りを得る、聖蹟別棟は電波が入りづらいというのか、5Gが入りそうで入らなく、4Gへ落ちたり5Gになったりを繰り返し、人が決済をせむとしているときにかぎってそんなで、長時間を要して決済完了画面まで至ったのだが、購入完了のメイルは来ないし、当の席が売約済み表示に切り替わらないしで気を揉んだところ、購入から1時間以上してようやっとメイルが来て、胸を撫で下ろす、彼氏と服部百音女史とのショスタコーヴィチのコンチェルト2曲とも公演は、サントリーのみを聴き、大阪は敬遠せむなどと云ったが、なにをヒヨっているのだっ、っとおもい直し、大阪のほうも切符を取った、京響とは同《セロ・コンチェルト》をやはり2曲とも演るようだが、2日のうち初日は1曲抜いてすこしくみじかい上演時間のようで、っその日は大阪でデュトワを聴き、っで京都へ遷って、っしかしキーミツを1日っきりはざんねんだなとおもっていると、彼等は翌日には広島へ同プロを持って行かれるようなので、っぼくもそれへ附き合ってから帰京することとする、っでも、っあの去年の公演のとき、京響とはあとブルックナー《8番》を予定しているとかと云われていたのになあ、っいまのところそうした発表はない、森山開次氏と組んで全国諸都市を巡演されるという《ラ・ボエーム》まではさすがにぜんぶは行けなかろうが、っいまのところ川崎のみが発表せられており、っほかに都内や東京近郊で開催のようであれば可能のかぎり聴くとせむ、引退前最終公演は12/30のサントリーらしいが、っまだオケも曲も発表せられていない、っさてどんな公演になるかしら、っぼくなど、新全集を完成せしめるのにいまだショスタコーヴィチ《死者の歌》を演られていないようにおもうので、っそんなへんてこな曲をもってくるんじゃなかろうかと想像してたのしんでいる、切符は、発売初日に張り附いていてもぜんぜん購えないというほどのことは流石にないだろうと踏んでいるが、っともかく抜かりなく入手に努めむ、


っいままだ永山の駅、手が氷んなっちゃった、っあすはゆっくり起きてまず中野、っなんだか現代の作家の戰爭に題を採った曲らしい、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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