坂入健司郎氏の棒、東京ユヴェントス・フィル公演、済む、18:30開演だったが、本演目に先立って、昨年、物故せられた飯守泰次郎氏を偲んでヴァグナー《パルジファル》1幕前奏が献奏せられたため、終演は優に21時を回り、っいつもの場所でのんびりシガレットを服んでから王将まで行くところ、階段上から店舗が見えるところまで来て、っすでに看板が消燈しており、あっ、そうかっ、もうLO回っちゃったかっ、っと気附く、川崎の王将は厨房が巧いので来訪時にはいつもそれをたのしみにしているのだが、惜しいことをした、腹減った、、、っとまれ、坂入氏は奏者として故人の棒を経験されており、っきょうのオケの面々にも、っめいめいのかっての所属楽団へおなじく氏が客演されたことがあったというので、演奏後は舞台も照明をしぼってしばし黙禱、っでそのまま指揮者が指揮台へいて本演目、
っまずドビュッシー《ペレアス、、、》の、っなんとかいう人のアレインジになるスートの本邦初演、っそしてブルックナー《7番》、2楽章のてっぺんでシムバルとトライアングルとが鳴ったからファッスングはノヴァークとおもうが、っそれに準ずるもっとちがう版だったかは知らない、、、っいまプログラムを見たらノヴァークだった、
同フィルはショスタコーヴィチ《レニングラード》、マーラー《夜歌》、っそしてきょうと、3度連続して《7番》をとりあげたが、前回のマーラーは、とりあえず音は出しました、っという次元で汲々としていた嫌いで、っまだあそこからあれこれ表情を差配したりバランスを整えたりしないと音楽的にぜんぜん未熟だと、っこちとらややざんねんに聴いたものだ、っその点きょうは、ドビュッシーといいブルックナーといい、細部までよく神経が通い、長丁場でも恆に一貫した演奏プランの所産だという手応えをつよくおぼえたため、午にすでにして濃密な時間を経験してきたぼくであるも、疲れも感ぜずに全編を集中して味わうに及んだ、
ドビュッシーは、オペラ全曲も聴かないし、っきょうの編曲者以外の手になるスートもあるのか識らない、20分かそこら、っわりに長めの単一楽章だったが、っずっとなだらかな楽想がつづき、主題主題はこの作曲家だからいずれも明確な旋律線は有っておらず、っどこからどういう別主題へ遷ったのかもぜんぜんわからない、っが、絃を主体にフレンチ特有の危うい和音がつづき、中音量以下、弱音、最弱音まで自在に噛み分けられるため、自然、耳を欹てらる、器がまたよい、2階正面前方だったが、っうんと舞台が近く、っすべての音がクリアに聴こえる、
、、、っあ、っいかん、っぼんやりしていたら稲田堤で降り損なってしまった、
っこうした楽曲からドイッチュたるブルックナーへ接続するのもまたたのしい、楽曲への雑な概観や、っきょう日へ伝えらる突飛な人格からすれば、っいかにも野暮な人との偏見も生じ勝ちだが、彼の作は和声も転調のさせ方も楽器の重ね方もとても複雑だし、対位法の志向性としても、っなんというか、っほかの作家が1のつぎは2だというところ、彼のばあいは1のつぎは1.3かもしれないし1.5かもしれないし1.749かもしれないしといったぐあいに、場所によっては極端なほど目が詰んでおり、っつまりひとくちに云えば巧妙な筆致である、巧妙といってソフィスティケイトというのとはちがう、都会的でスマートな音などどこを叩いても出て来やしないが、彼独自の美学があり、それへ忠実たることにおいて特有の精確無比は疑われない、っという点で巧妙なのである、《8番》のさる木管連の和音など、ショスタコーヴィチやプロコフィエフも顔色なしの超近代のひびきがする、作曲者はべつにそんな心算で、っつまりアヴァンギャルドなことをしてやらむとして書いているのでなく、期せずしてさようの音が書けてしまう、っそれがブルックナーだけの存在感であろう、
回りくどい前置きだが、っきょうの坂入氏の演奏を聴いて、《7番》というあの曲のさようの巧妙さ、そんなにまで込み入った書法なのかよ、、、っという驚異を恆に明晰な音構築でみ届けていられたことを、っぼくはよろこんでいる、っこれは去年、っおなじここで聴いたスダーン氏と東京アカデミッシェ・カペレとの同《ミサ曲3番》でもおぼえた感触である、、、っあれも、っほんらいは飯守氏が振られるはずの公演であったのだが、
っまずテムポがよい、先の浜松での同《8番》は、っとくに1楽章に対して、もっとモデレイトなアレグロにしようよ、そんなに深刻な音楽じゃない、前へ前へと進んでゆく音楽のはずだ、っという不同意をおぼえたぼくだが、っきょうの1楽章はすっと始まって快い、主題以外の絃の刻みのかすかな動かし方も周到かつ自然だし、管を加えて漸強する確保における音量感も据わりがよい、頂点へ向けてのトロムペット、頂点直前から下降するロウ・ブラス、頂点を打ったあとのホルン、っそれらと絃各声部との音勢バランスがじつにザ・ベスト・ミックス、退潮してつづくテーマを用意する段の絃の微細な動きの追い方にしてもやはり入念であり、乗っけからひじょうに熟した味がする、っこの手応えが去年のマーラーではせず、進んでゆく曲に鳴っている音が振り落とされ気味となるざんねんを印象したものだが、
㐧2テーマは㐧1テーマ以上におおきなクレッシェンドを有つが、っここでは金管がやや勇み足、硬くするどい音質で吼え立ててしまい、っやや騒音に近い刺戟だった、っが、展開の冒頭では落ち着きを取り戻し、っその後、全員でめいっぱいに鳴る個所はしばらく訪れずに再現まで来るが、っその頃にはすっきりと抜けた格調あるひびきが得られていた、っそしてそれは後続楽章においても、っついに全曲が終止するまで維持せられたのである、1楽章の終結にしても、音量感音質感、テムポ、ティムパニの重たさなど、っなかなかこれぞという造形を披瀝してくれる指揮者がいないものだが、っきょうは、弱音の間の愼重な歩幅を漸強に隨って自然と加速せしめていて、っその加速させすぎなさの塩梅が、っぼくにはちょうどよい、っひびきも瘠せすぎず肥りすぎず、中庸でありながら守勢との悪印象もなく、っこれは坂入氏の最大の美質である、最も成功を得るのがむつかしい道なのだが、
絃では、再現の㐧2テーマの中途から、Vnが、っぜんぶいちいち音の上下動の異なる、頭が休符の動機をひたすらくりかえし、っやがて間を詰めて他声部とともに高潮するが、っその音高が高く高く上がる部分で音程がよく取れずにしまう楽団は、プロフェッショナルでも珍かではない、っきょうの彼等は、っよくよく鍛錬せられていた、っそういうことひとつびとつの丁寧な励行が、っすなわち演奏であり、っすなわち藝術である、
2楽章もやはりテムポがよい、遅すぎてはいけないのだ、冒頭から、下降句における中低絃とヴァグナー・テューバとの混淆も、高絃を加えた上昇句も、音色に全霊のおもい入れが乗り移って出色、っすばらしい楽団だ、㐧2テーマもあのように先へ先へと歌ってこそ旋律美もきわだつ、変奏にみせる筆の創意にはいつもいちいち胸が震える、硬派なることは楽聖に比肩し、っこまやかなることはラフマニノフとて敵ではない、っそうしてシムバルとトライアングルとを携えて登頂を果たす、コーダは、坂入氏の振り姿としてはもっと入魂の音でありたかったろうが、ヴァグナー・テューバはよほどか吹奏が難儀とみえてやや安定を欠き、大先達を喪う苦衷を独りで吼えねばならないホルンも、っおもい切りが足らなんだようである、
3楽章を、速すぎてくれるな、大音響にしすぎてくれるな、っと祈って待ったが、果たして最も快適な速度と音量とだ、主部のホルンやクラリネットにはとてもおもしろい音の動きが現れるが、っすべて目に視えるように聴こえる、ったのしいっ、
傑作たる前半楽章をうけとるには荷が勝つと謂われるかわいそうなフィナーレ、っおもえらく、展開の不足はもう云ってもしょうがない、㐧1テーマの性格が愉悦を謳わむとするあまりやや軽きにすぎる、激越な強弱の交替が、《8番》の同楽章などからするといまだ唐突の憾を拭えない、っその弱点を克服するゆいいつにして最大の方途はつまり、っひたすら実直に音構築を展開しつづけることである、各テーマには、っやはりいつも巧妙な仕掛けが潜ませてあるのだ、っそれを懸命に伝え伝えて聴く者に密度の高い時間を経験させつづけることでしか、成功は勝ち獲れない、っきょうの彼等は、最終音を結んだとき、っその勝利を掌中へ握ったのではないか、
っきのうのカーチュン氏から2日間3公演、っいずれも各人畢生の名舞台を観せてくれたようにおもう、っことしは休日とみればどんなだろうと演奏会へ行きまくるという年にはしないから、っあすは、、、ってもう日附を跨いで、っいままた南大沢の喫煙所で手も足も氷になっているが、っきょうはやっとかめのなんの予定もない日曜である、っことしはそうさな、購ったままで聴いていない音盤が何百枚と溜まってしまっているから、休日にはその解消を順次行なうとするかな、っきょうからその気力があるかはともかくとして、