中之島2日目にして、 | ざっかん記

中之島2日目にして、




《バビ・ヤール》最終日、済む、

っきのうは舞台へ数多のマイクがあり、音を録っていたようだが、っきょうはなかった、音盤用の収音はN響とのものを採る旨、井上キーミツご自身がお書きになっているが、っこちらも音盤化するのだろうか、っそれでもぜんぜんウェルカムだが、っきのうのライヴは、一部、造形が乱れた個所もあり、っきょうのほうが全体に傑出した演奏と成っていたので、録るならば2日とも音を録っておいたがよかったのじゃないか、っそれとも、っきのうの不首尾の個所も、ゲネ・プロの録音で十二分に修整可能という判断だろうか、

っきょうは、声楽陣も4公演の最後とあって、ソロもコーラスも乗っけから全身全霊を投げ出すようにして唄い、っまた吼える、ソロなど、N響とのときには、3楽章あたり、地を這うごとじっくりと演りたいキーミツの造形ではいかにもテムポが遅く、低絃のピッツィの裏拍の個所など、唄いにくそうに前へ前へと倒れ勝ちになる嫌いがあったが、っきょうはミディアム・テムポの1楽章から彼氏が進んで音楽を主導し、っいきおい、4回の演奏のうちでは全体に最もテムポが速かったのではないか、

2楽章などもそうで、キーミツもティホミーロフ氏の気魄に押されたか、冒頭から、腰を落として先を急ぐまい急ぐまいと始めたN響との2公演、っきのうの大阪フィルとの初日からしても、っきょうは棒も音もずっと先へ先へ行っている、っそれはしかし、極度の、っもちろん快い緊張を生みこそすれ、足並みが乱れることはなかった、

3楽章もその余勢を驅って始まるため、っやはり冒頭の低絃から音々へ留まるよりは先を急ぐ推進力のほうが優勢で、ソロもずっと唄い易そうであり、緩徐楽章で、ダルな音色に支配せられていても、結果的にすっきりと見通しが立ってきもちがよかった、

音色としても声楽が男声のみ、っさらに構成としてもいかにも晦渋なこの曲で、一寸聴いたくらいでは近寄り難いものをおぼえるが、4回もつづけて聴くと、流石に作曲上のあれこれの仕掛けがよく諒解できるようになってきた、っとりわけ印象的の個所を挙げると、1楽章の終わりでコーラスが、《インターナチオナール》よ、凡てのアンタイ・ユダヤが死に絶えるときにこそ鳴りひびけっ、っと絶唱したあとの絃のアンサムブルの転調へ煮凝る万感、っその気分をソロが高音で受け取ってからの楽章終結までの張り詰めた緊迫感こそは、っけだし聴きものである、

大フィルのほうのプログラムの解説を読んで、あ、そうか、っとおもったのは、っこの曲のコーラスは、っずっとユニゾンである、ハーモニーが附くのはほんの3楽章の最後のところっきりとおもうが、っそうした旧東側諸国の団体歌みたような生硬さが、っかえって全曲の特有のムードを決定附けている、ユーモアを擬人化した突飛な2楽章から一転、商店へ集う女たちの姿をリアルに描写し、っむしろいつの時代も地に足を着けている彼女たちの偉大を謳うことに成功している、コーラスをして、そんな彼女たちを相手に釣銭をちょろまかすなぞ言語道断っ、量り売りの目方をごまかすなぞ罪も罪っ、っとオケによる楽聖の運命動機を交えつ絶叫せしめるのは、ショスタコーヴィチがいかに眞剣に作曲しているかの證しだ、っまたきょうは、っこの楽章でさいしょに彼等が声を出すときのファルセットもよく定まっており、っそうしたこまかい得点が積み重なり、全体の充実におおきに貢献していた、

4楽章では、ほかのなににも増して口を利くことが恐怖だ、っと20世紀の人類が辿り着きたくもなかった眞實、全体主義社会の遣る瀬ない窮窟が表現せられるが、っとちゅうソロが、囂しい行進のあとへ遺る静けさにも恐怖はなかったか、っと唄うと、絃のコル・レーニョが不気味な軍楽のリズムを鳴らすなか、コーラスが、恐怖へ打ち剋った我等ロシア人は敵へ恐怖を及ぼしうるのだ、っと傲然と隆起する、っそういうところの野郎連中の束になった声の迫力が、N響とのときよりも、っきょうの最終日は、演者連の気魄としても、音場の条件としても、っより効果的に鳴っていた、

フィナーレでそれまでのシアリアスネスを恥ずかしそうに茶化しに掛かるのは、ショスタコーヴィチのばあい《8番》でも《9番》でも《10番》でもおなじみの姿だが、音楽的には、っとくに声楽にとっては細かい音符でも迫力を出さねばならず、気の抜けない頁がつづく、っとくにコーラスが、シェクスピアやパスツール、ニュートン、トルストイみたような出世こそ眞に出世の名に価す、っと早口に唄い、ソロに、トルストイとはレフのことだろうな、っと問われて然りと応える件は、っほとんど演劇を観るようなたのしさをまで体現せねばならず、っそのためにはその早口の細かい音の動きが目に視えるように聴く者へ伝わってこそであるが、っきょうのそこはほんとうにたのしかった、

最後の最後で絃のソロ連がフィナーレさいしょの横笛連の主題を再現せしめる部分は、っやっとやっと訪れたこころ安らぐ時間である、ショスタコーヴィチの本音が聴こえるようだ、人間って、もっと素朴に生きてよいはずなんだが、、、チェレスタが、眞の立身とは、眞の出世とは、っと謎を掛けて全曲は終止す、



大フィルも、1日熟してきょうはよりのびのびと鳴っていた、スートでは、っきのうのアコーディオン、ギターの増幅は一寸バランスが強すぎたという反省があったか、っやや音量を絞ったようで、っきょうのほうが好適だった、っひとつめの〈ワルツ〉ははじめの低絃の序奏から聴く者を虜にし、サックスは相変わらずの魅惑、主題が絃へ渡ると彼等は惜し気もなくポルタメントを交え、っその味は新日本フィルとのときにもN響にもなかった、

シムフォニーは、冒頭からのテューブラー・ベルの弔鐘など、っきのうは、弱奏のなかでもせめてもうすこしくつよく打ったらどうだ、っとおもわせ、っきょう、っよろしく修整せられることを期待したが、っやはりよわくよわく打っており、管絃へ埋没し勝ちとなってしまう、キーミツはしかし、ソルディーノのトロムペットへも抑えた抑えた音量と音質とを慾しがっており、っさようの解釋なのだろう、

っしかし、音楽が動き出せば大フィルを大人しいままでいさせることなどできるはずもなく、っとくにきょうは声楽陣が大張り切りだったこともあり、敗けてられへんっ、っという彼等の気概にもおおきに火が着いたようだ、っあのどんどん音が伸びて音場狭しと席捲する威勢のよさは、N響との2日間にはけっして希みえなんだおおきな美質であり、っやはりぼくは、っがんらいこういう音こそオーケストラの音、オーケストラが舞台で鳴らすべき音だとつよくつよく確信す、ほとんど同演目なら東京でっきり聴ければいいや、っと無沙汰をせず、っこちらへも聴きに来ておいてほんとうによかった、っそして、っきのう音を録っていたのなら、っこちらもいずれソフト化せられることを期待したい、



っさて、っあすはなにも予定がない、っまだ完全復調とはゆかないようなので、っゆっくりと休むとせむ、っあさっての旗日は、っなんとまたショスタコーヴィチ、池袋でオーケストラ・ダスビダーニャ公演であり、《レニングラード》ほかと、っこれまたヘヴィな1日になりそうだ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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