っなかなかの、 | ざっかん記

っなかなかの、




正月である、

っきのう、っどこか初詣へ行くついでにカッフェへでも寄り、去年の演奏会演奏会回想でも認めむとするに、っその途次でワイヤレス・インナー・ヘッド・フォンの片っぽを落っことし、っそれが街路樹の植え込みのなかへ転がった、、、っや、精確には、落っこちていちどアスファルトを打ち、次いで植え込み内の落葉と接触する音が聴こえた、っその時点ではすぐにみつかるだろうとさして意に介しておらず、っしかし、枯れて枝のみの低木の下の落葉の吹き溜まりの裡へ、一向にそれはみつからない、っかなり広範囲で落葉をがさごそやるが、っぜんぜん出てこやしない、夕刻だったので、半時間ほどで日暮れてきてしまい、正月早々スマート・フォンのライトで照らしながら道端を物色しているおっさんもいかにも怪しいので、っともかくこのあたりにはあるのだし、一晩経っても滅多に風など吹かなかろうとて、っきょうあらためて捜索しに来る心算で、初詣へもカッフェへも行けないまま帰宅す、っきょうになると、っそんな予報ではなかったようにおもうのだが、午前中は降雨している、止むのを待って午すぎにいったん聖蹟別棟へ寄り、手箕と手鎌とをかっぱらってきて現場へ赴き、っまたがさごそがさごそ、っそうさあれで1時間半から2時間ほどもやりまくるが、っやはり発見できず、、、っつい一寸、植え込み中へ転がり込んだのみなのだが、っあんなになくなってしまうことがあるものだろうか、物理法則の無辺を呪わむばかりであったが、っかなり丁寧に集めた落葉をかなり丁寧に篩っては右から左と移動させ、っこんなところへまで転がっているはずはなかろうという範囲まで捜したのだが、っなかった、地面ではなくバウンドしてたまさか低木の枯枝へ引っ掛かっているのかと想像してその心算で眼を凝らしたりもしたのだが、っなかった、

人間、諦めが肝腎である、っさっぱりと未練を捨て、っその場でAmazon.で同一商品を註文、っあすにはもう届くが、正月の1日、っものの小1時間の外出で紛失物をして、早速に散財約1.5万也、賞与を貰った直後なので、っさほどうじうじした気分でもない、土地が土地ならば、っそれこそ正月早々、ったいへんな災難に見舞われている方々もいる、っぼくのこんなのはおよそ遭難のうちには入るまい、休み明け、同僚に嗤ってもらうよい話のタネになったとおもうこととする、

っやれやれ、

っそれで、っきょうも初詣へ行けないまま、っいま別棟へ道具を戻して聖蹟の駅まで来て、カッフェで軽食を摂っている、耳は片側だけ塞がっている、



っさて、気を取り直して、去年の演奏会演奏会、最終的にいくつになったのかとおもうが、例によって、東府中での大井剛史氏《レニングラード》から梯子した川崎での井﨑正浩氏公演後半のブラームスのみ、っおよびぼくの不注意から前半をすこしく聴き逃した鴻巣での佐藤久成氏リサイタルをともに0.5と数えるとすると、綜鑑賞回数は142であった、プロ/アマの別はいま詳らかでないが、100を超えたあたりで数えた際には半々か、っどうかするとプロのほうがおおいくらいであったから、っまあそんなところだ、体裁としていわゆるアマチュアの楽団であっても、大半ないし全員が専門の音楽教育を受けていようと察せられた団体もいくつかあった、っことし以降は去年みたように、っどんな指揮者、っどんな団体だかぜんぜん識らないが日程の合う合わないのみでアット・ランダムに撰って公演へ行くということをする心算はもうないので、っおそらく去年は、っぼくの生涯のなかで最もおおく演奏会へ通った年ということになるのだろう、



っさいしょの公演は去年の1/3で、スケデュール・アプリケイションには、上野通明、っとあるが、っこれはたしか藤岡氏と都響との上野大器でのもので、上野くんがドヴォルザークを弾かれたのだった、メインはチャイコフスキー《5番》で、っその中途で1階席の右方で男性客がなにかの発作を起こしたらしく、一寸したトラブル、、、っそうか、去年もトラブルに始まる1年だったのか、

上野くんのドヴォルザークはその後、目黒というより好条件で聴くことができ、ったとえばその1楽章のホルンのテーマを彼氏が弾かれるときには、っさいしょのほんの1音からすでにして万感が音へ籠もり切り、2楽章まんなかの〈あたしにかまわないでっ〉部ではバックの豪毅なる読響ともどもとうぜんながら凜然たるヒロイズム、っいずれもいまだに脳裡へ鮮やかである、

上野くんでは大阪でのデュトワとのショスタコーヴィチも忘れ難い、っわずか前年に新日本フィルとも演られたばかりであったが、っよほどかデュトワに気に入られていたのだろう、っあの曲のばあい彼氏としてもすでにして完全に自家薬籠中のもので、冒頭、曲が鳴り出した瞬間から、っもはやそれはセロの音ではなく、作曲家の肉声そのものであり、っそれ以上に異界からひびく未確認生命体の発する音声信号である、



1月の時点ではいまだ1年を演奏会づくめにしてしまわむという意志はなかったようで、通った公演数は7である、俄かに回数が殖えるのは井上キーミツの九響との公演を主目的に3月に九州へ遊びに行ったあたりからで、っそのときには福岡でキーミツ、久保陽子女史、鈴木ご子息/BCJと3公演、帰途、大阪へ寄ってカーチュン・ウォン氏の大阪フィルとの《幻想》と聴き継ぎ、っこの連日演奏会のたのしさに浮かれて、帰宅した直後にも所沢までアマチュアがマーラー《トラギッシェ》を演るのを聴きに行ったのかと記憶する、っはなから出演者が目当てでなくともかく日が合いさえすればと公演公演を渉猟するようになったのはこれが嚆矢とみられ、以降、っほぼすべての休日をどこかしらへの外出に宛てている、っのち、夏頃からは1日2公演以上の機会さえ模索するようになって酔狂の度を増すが、っよしんば年初からそうしていれば、綜回数を200へ届かせるのもけっして無理ではなかったろう、

っぼくはもとより聴いた公演公演や音盤音盤へ明確厳格に順位を附けるという趣味は有ち合わせておらず、っま、っまるでおなじ曲の異演ならば、BよりCよりZよりぜったいにAが勝れている、っというものさしくらいは用意があるのだが、っそれとて生理に隨ってあるがままにというところで、っべつに論理化しているわけではない、っましてそれぞれ異なる楽曲の演奏演奏を取り沙汰してどちらが上の下のという喋々になにほどの意味があるのか、あんころ餅とカレー・ライスとどっちがすきですか、っなどと訊かれても当惑気味に、や、、、あんころ餅のときはあんころ餅の口、カレー・ライスのときはカレー・ライスの口なだけですよ、っとっきり人は応えられまい、っだからぼくはここで去年のマイ・ベスト10などと並べる心算はないし、現に142のうちに順位など、っおぼろげにさえ附けていない、っそれぞれの人にそれぞれの人なりの達成があり失敗があり、演奏会に通う人がよくよく識るごとく、失敗以上におおくて困り物なのは、聴く者をしておよそ語るべきなにごとをも惹起せしめない凡演であり、っもちろんそれもたくさんあった、っそれっきりである、



っまずはそうさ、っやはり井上キーミツであろうか、142のうち彼氏の公演はいくつだったのか、2桁へ乗っているのは彼氏くらいだろうとおもうが、っどれといって突出して浮かんでくるものは、、、っえへへ、ショスタコーヴィチはやはり㐧一任者であって、着信音がざんねんだった九響との《12番》、高崎、東京と2度聴いた群響との《4番》、っいずれも貫祿のいでたちだった、っしかし、っおととしなのかな、読響との《9番》などはもうひとつだったし、大フィルとの《2・3番》音盤なども、《3番》はスメターチェクという驚異の難敵があり、っそれからするとあまりぱっとしないようだ、っすばらしかったのはこれも去年ではないが新日フィル代演、っそして名古屋フィルとのともに《8番》で、前者が音盤になっているが、っぼくとしては後者のほうがより上出来だったようにおもう、っこれからN響、大フィルとの《バビ・ヤール》が控えているが、っぼくは各2回、計4回をすべて会場で聴く予定で、っもちろんたのしみにしている、録音は前者という、っぼくならば、後者のほうがあるいは、、、っというところだが、 N響とは《1・10番》を渋谷で聴いているが、っあの楽団のニュートラルな音は、っどうも記憶へもこころへも遺らない、《10番》はこれから日本フィルとの最期の共演でも横浜と大宮とで演られ、両とも切符を取ってある、っこれも音はN響とのあのときにもう録ってあるのだろうか、現在の日フィルはすばらしいので、っこちらも録音するか、っもしくはどちらかの公演の動画配信があればうれしい、

キーミツのほかの作曲家では、名フィルとのクセナキスはなんだかわけがわからんがあんなのはたのしんでしまったもん勝ちで、っこんど札響とも演られるので、2日目は東京でカーチュン氏公演があり、っぼくはまた1日っきり札幌へ飛んでそれを聴いて来ようとおもう、

っあとキーミツでなにがありましたかね、っああそうか自作自演か、っあのミュージカル・オペラは、っそうさねえ、曲だけでいえば本名徹次氏が三軒茶屋で振られた日越共同制作のもののほうが優等じゃなかったかとおもうのだが、キーミツのほうではむしろ彼氏のご母堂役のソプラノ、小林女史と米衛生兵役のダンサーとの舞踊がいっとうこちとらの心内を領しているようだ、っご自身の数奇な出生の経緯をあのようなうつくしい舞として昇華せしめるというのは、作者としても畢生の意匠でいらしたことだろう、



っそれから去年ぼくらは、外山雄三、飯守泰次郎という2巨頭をたてつづけに喪った、っぼくはともにその最期の公演を会場で聴いており、周知のとおり外山氏のほうはシューベルト《5番》《ザ・グレイト》という演目のうち、前者は指揮者なし、後者のみ登壇されたもののくるしい舞台で、っついにフィナーレの中途で退出されてしまったのだった、彼氏については大阪響との近年の記録がつづけざまに音盤化せられ、っその威風に一驚を嘗めたぼくは大阪まで実演を聴きに行き、っあれは去年だったか、っおととしかな、音盤にもなった同響とのブラームス《2・4番》はそれはすばらしく、後者フィナーレの最後の最後では、老匠のワガママがもうもうと火を噴いたものである、飯守氏のほうはブルックナー《8・4番》をこの順で演られたのが最期であったが、非礼ながら、上述のともかく演奏会づくめというその一環で間の埋め種の心算で田舎で聴いて以来20年の余も聴かなんだ彼氏を聴いてみたところ、っもはや腰が固まってしまって歩行困難で、登壇されたときにはいかにも満身創痍と見えながら、演奏が始まればその《8番》は快速も快速のしかもほぼ全曲アタッカっ、っともに修練してこられた東京シティ・フィルと演奏藝術の基本のキかつ秘儀中の秘儀をまたたく間に舞台上へ展開しては見送ってゆくという驚歎すべき一夜で、済んでサントリーから出て来ながらすかさず直後に開催の《ロマンティッシェ》の切符を購ったときの逸るこころを、っぼくはいまきのうのことのように想い出す、っこないだ前者がめでたく音盤と成ったが、後者も是非にとおもう、



っそれからあとは、上岡敏之氏か、彼氏も新日フィルとは予定通りにブルックナー《8番》を、っそして物怪のさいわい、ツァグロゼク氏の代演で読響とも同曲を演られたが、っそれよりもぼくはやはり読響とのシベリウス、シューマン、ニールセンだな、っぼくの記憶の宝物、彼氏の日フィルとの杉並でのブルッフ、シュトラウスを上回らないまでも、っほとんどそれに匹敵する大演奏で、っああなるとなんだかオーケストラという集団が出している物理音の集積とはぜんぜん別物の、っいまだかって人類一切がただのいちども経験したことのない音響を見舞われているようで、っまたいつか、っあの種の音へ出逢いたいものである、



っそれとなんといってもカーチュン氏、近年の蜜月を経てとうとう日フィルのプリンシパルへ就かれたが、っその披露目のマーラー《3番》からすでにしてこの日本楽壇へ我等存りをつよくつよく印象附けた、規格外の大曲で、っおおくの演奏ではそのぶんだけ意匠が薄まってしまうのをぼくはいつもざんねんにおもってきたが、100分間を緊密に語り抜いた入魂の一閃で、っしかし彼氏はどんな曲を振られても、っこだわりのために音々を停滞せしめてしまうという轍をけっして踏まれない、っあくまでも颯爽と進んでゆく健康美のなかに、っしかし音構造を冷厳冷徹に見据えた強かさを隠し有つ、っことしはブルックナー、マーラーのともに《9番》を披瀝されるが、っはてさて、



っそうそう忘れちゃいけない、本名氏の郡山響とのハイドンっ、っあれはねえ、、、本来ならばキーミツが振られるはずであったのだが、っすごかったねえっ、振り姿から鳴る音から全編これ音楽の塊っっっ、っそれから三軒茶屋でのオペラ、上記のように曲もよかったし、キーミツのもの同様に、っここでも舞踊というか視覚効果のすばらしさ、越から来日して此の地で最期を迎える母親役ソプラノの手を取り、冥府へと誘なう風を模す舞手、、、っそうだそうだ、っざんねんながらキーミツはお振りになれなかった兵庫での森山開次氏の《火の鳥》、っあの演出もなんとも感泪もの、台本は彼氏の解釈により王女は成仏し切れない亡霊、男は王子ではなく彷徨せる男となっており、っふたりの出逢いの場面では相手を抱擁せむとする男の腕は王女を擦り抜け、っすれ違ってしまう、っそれと音楽とのシンクロ、泣けたねえどうも、、、



っほかにプロフェッショナルの公演というと、っいまぱっと想い出すのは、上記、外山氏の中途退出公演の直後、っがんらい彼氏が振られるはずのメイン演目をフランクへ替えた大阪響との公演があり、っその代演は若き齋藤友香理女史とあいなったが、外山氏の棒の心算で切符を購い、大阪への旅程も組んでしまってあったぼくはそのまま聴きに行くこととし、っべつに若輩を侮ってまるで期待を懸けていなんだわけではないが、女史はその重圧を撥ね除けるみごとな舞台を熟され、っなにかぼくのほうが感泣を催してしまわむばかりであった、終演後のカーテン・コールで楽員たちがばたばたと足を踏み鳴らして指揮者を讚える際、コン・マスは指揮者からの起立の合図に応じないという社交辞令をやるが、っあのとき大阪響の彼氏は1度ならず2度もそうされた、1度のときに2回そうされたのでなく、1度そうしてそのあと全員が起立し、指揮者が袖へ下がってもういちど舞台へ戻られたときにも、いえ、我々は立ちません、あなたおひとりが一身にお客様からの歓呼を浴びられたい、っというふうに固辞されたのだ、女史は困ったような貌をされてしかし詮なく促されるままおひとりでぼくらからの拍手を浴びられていたが、っその2度目のとき、世辞ではなく、ほんとうに充実したリハーサルが為されたことを楽員を代表してコン・マス氏が認められているのだな、っまた、斯界最長老の代役という重責をよく果たされましたという労いも加わっているのだな、っとおもい遣られて、彼女はとくに感極まっていられるふうでもなかったが、代わりにぼくのほうで目頭が熱くなってしまったのだった、っほんとうに一部の隙とてない、っそれでいてまるで気詰まりでもない、っじつに勇躍せるシューベルトとフランクとであったことだ、



アマチュアでは、坂入健司郎氏の《レニングラード》が去年の年初頃だったのかな、っなかなかの大演奏だったが、っそのわりにおなじ東京ユヴェントス・フィルとのマーラー《夜歌》は、複雑なスコアに翻弄せられて、指揮者もオケもやや頁々を追っ掛けるのでやっとというふうだったか、彼氏はぴあを退職されて本業の指揮者となられ、今後は海外も含めて活動の幅を拡げられるようで、っようようプロフェッショナルの楽団を振られる機会も殖えてきているが、っべつにプロを相手に遠慮をされているのでもないだろうが、っいまのところ、っなんというかまだ顔のない演奏っきりおできにならないようだ、何年か前、上野のピットへ潜られて、っあれは東京シティ・フィルだったろうか、っをお振りになった舞踊附きのオルフ《カルミナ・ブラーナ》などでは、突飛なことはなにもしていなくとも絶えず、坂入健司郎ここに存りっ、っという音を鳴らしていられたもので、今後、高打率でああした公演を達しられたくおもう、



っあと森口真司氏ね、っしょっぱなからマーラー《9番》などという難物での出逢いだったが、っすばらしかったねえ、現代のアブラヴァネルっっっ、っそのあとチャイコフスキー、モーツァルト、リムスキー=コルサコフというあり勝ちなプロの公演もあったが、オケはわずかに非力であったものの、好印象は揺るがないどころか、確信に変わったものだった、イデアというものは現実の物理音としては表象しえないのだが、っしかし彼氏の音はその気味だ、模範回答なぞいう陳腐な手応えではなく、っどんな曲でも、これがこの作品の音化におけるイデアだ、っという像を提示しうるのが彼氏である、夏にはロシアの珍奇なシムフォニーばかりの公演もあったが、っさようのわけで、彼氏についてはむしろ誰も知る有名曲の公演をこそ希みたいものである、



っそれから井﨑氏、マロニエ響、名古屋市民管というテクニークに勝れる楽団との公演が複数あったのがうれしい、っさして音楽のない人だと、楽団に勝れるとかえってそれに胡座を掻き、っなにも主張のないただ適当に整然たる音が鳴るのみの凡演になったりするところ、彼氏のばあいはオケが弾ければ弾けるほど演奏が入念となり、っほんとうに充実した公演となる、



っあとは《マテウス・パッション》、鈴木雅明/BCJ、堀俊輔/オラトリオ東京と2日つづけて聴いたが、モダン楽器の神奈川フィルであった後者のほうが断然よく、堀氏の音楽性ものびのびと胸いっぱい、終演後に紀尾井ホールの楽屋口をお出になる彼氏とたまさか行き合い、不躾にもひきとめてしばらく立ち話をさせていただいたのもよき想い出である、



佐藤雄一氏は、っせっかくにマーラー《9番》という大舞台もあったのだが、っぼくが彼氏を聴き始めたころには慶應医学部管、交響楽団CTKという手練の名楽団があったところ、っきょう日ではその水準の団体はひとつもなくなってしまい、っなかなか意匠と実音とが両々揃った公演が望めなくなってしまった、っなかでは、市ヶ谷での声楽を伴なったバッハは、っあれは去年だったのかな、っそれは掛け値なしにすばらしかった、オケは非力だったのだが、ソリストおひとりがその鈴のような声音で音楽を高次元異次元へと連れ去ってしまわれた、



っそれ以外は日程の都合でたまさか行ってみた公演ばかりかとおもうが、っどんなのがありましたかねえ、飯守氏が振られるはずのユーベル・スダーン氏代演、ヴァグナーの序曲とブルックナーのミサ曲とというのとか、っやはり東京シティ・フィルで飯守氏の薫陶を仰がれた、っあの人なんといったかなあ、大河内さんかな、大河内雅彦氏の楽聖《7番》とか、黄金週に2度も3度も横浜へ通ったうちの太田巡女史の横浜金沢響とのドリーブとか、安藤亮氏の、マーラー《9番》もあったがむしろ楽聖《エロイカ》とか、っいかにもつまらなさそうな棒、金山隆夫氏のマーラー《5番》とか、大阪、高槻で聴いた絃の小規模アンサムブルのささやかな公演とか、っごくさいきんの冨平恭平氏と一橋大の学生オケとのラフマニノフ《交響的舞曲》とか、っこれもさいきん、異形の豪傑、小柳英之氏のやぶれかぶれのどったんばったんスメタナ《我が祖国》とか、っそこらあたりがいま記憶に鮮やかかなあ、っしかし、手当たり次第なんでも聴きに行かむとはおもわないことしはそれらのすべてを強いて聴く気はなく、都合がつく限り聴こうとするのは井﨑正浩氏、森口真司氏、佐藤雄一氏くらいであろうか、



っあとはチェムバーか、オケばかりのぼくはぜんぜんそれを聴かないが、佐藤久成氏は、っいつも火の玉の人、っけれどもぼくは、抜け切って脱力の境地というときのほうがうれしい、っそれから、っこないだの板橋の狭い器での日置ひと美女史のブラームスにも胸が詰まった、



っこんなところですかね、

っこのあと、新年初の演奏会は13日、豊平青氏のショスタコーヴィチ、っその翌日は浜松で坂入氏のブルックナー《8番》、彼氏はこんげつ中にブルックナーを《8・5・7番》と3曲もお振りになる、っしかも《5番》はシャルク・リヴァイズで京都でだが、っこれはカーチュン氏公演とかむってしまってぼくは聴けない、っわかっていればカーチュン氏の同一公演別日の切符を取り、京都まで行ったところだが、彼氏の手兵2団体との合同公演で、っいっぽうは東京ユヴェントス・フィルなので、っいつも録音がある、同公演も録音、音盤化せられたらうれしいところだ、



っそんなわけで、っことしもまた演奏会演奏会に託けての更新ということで、っどうぞよしなに、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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