錦糸町、 | ざっかん記

錦糸町、




井上キーミツ/新日本フィル、マーラー《3番》、済む、

事後、浅草橋までのんびり歩き、王将で食事し、っいま、っいつものカッフェへ遷る、っきょうは、っきょうも午前中のみ仕事をする心算でいたが、朝餉を用意するとぞんがい食べるのに時間を喰い、っもう着替えを背嚢へ入れてとやっていては出勤に間に合わない時間となってしまったので、休むことにして、シガレットを服みたかったので、っいつもは自室マンションの前でだが、せっかく休みにしたのだから近所の公園まで行こう、っと咥え煙草で歩き、ベンチへ坐して数服、室へ戻ってもうひと睡入りなどとやっているうちに、玄関を出るのはわりにぎりぎりとなってしまう、



リハーサルの一部も覗いたので、っなんだか半当事者のような気分で開演を待つ、

同曲は、っなんといっても去年のカーチュン・ウォン氏の日本フィル、プリンシパル就任披露公演で、配信動画から音声を抽出したものをくりかえし聴くうち、っすっかり魅せられて、っいまではこの曲のほとんど理想的の名演奏ではないかとおもっているくらいである、録音を通して聴いても、日フィルのアンサムブルはまったくすばらしい、っつい15年20年くらい以前までは日本のオーケストラも、指揮者が誰であろうととりあえず最低限のオートノミーはあります、っという次元にあったのはN響くらいのもので、っほかはどこかしら合奏能力の不足をかすかに我慢しながらでなければ聴いていられない楽団ばかりだった、っそれが、っあれよあれよという間にアップ・デイトせられて、っそれは地方の楽団もそうで、東京の名門を脅やかす存在もひとつやふたつではないが、日フィルは東京にあってその急成長株の最右翼といってよく、っとても巧いし、っとても自然な音色、音の膚触りである、っその点N響は、っまあ巧いには巧いが、っその巧さが音楽への他所他所しさにも繫がり勝ちであるのはむかしっからだし、音色も乾いている、っもっとも、っぼくは彼等の音を主に渋谷で聴いており、サントリーなどで聴けばまたちがうのかもしれないが、っともかく、っそのサントリーで聴く日フィルは、っどんな曲でも音が鳴り出したその瞬間から、ああ、いちばん抵抗がない、いちばん快いオーケストラの音だわ、っという実感を与えてくれる、近過去の彼等がぎすぎすぎゃんぎゃん側鳴り放題オーケストラだっただけに、っどうしてこんな短期間にそんな大変化が訪れたのか、不可思議であるが、っそこに果たすカーチュン氏の手腕は貢献大なのだろう、っこのマーラーを聴いていると、指揮者に持ち上げられてようやっとこの水準、っという背伸びをしたあっぷあっぷのかんじが微塵もせず、全員がひじょうに落ち着いた奏楽に徹し、っしかもめいめいザ・ベスト・パフォーマンスに余念がない、っひとりびとりの音色のうつくしさ、潤いも聴いていていちいちこちとらをうっとりとせしめるし、絃群の緊密な合奏もけだしみごとである、っぼくはとくに長丁場の1楽章がとびきり勝れていることをとてもうれしくおもっており、っほんとうに、世界中のどこにも敗けない鉄壁の演奏能力と、っそれだけではない、っそのことと音楽を聴き、味わう仕合わせとが完全に同居している、っそのすばらしさである、

日フィルのことを長々と云うのは、新日フィルは、っきょうの演奏などを聴くと、っその日本楽壇の近年の大更新にやや乗り遅れている気味だからだ、っもちろんけっして下手ではないが、マーラーのような煩瑣なスコアとなると、鳴っている音が恆にどこかしら危なっかしい手応えがして頼りない、っそれは、っかって彼等が上岡敏之氏と演奏した同《5番》などでも同断で、曲趣よりも先に楽団の限界のほうが聞こえてきてしまう、っきょうも、個別のエラーもまた散発し、っそれらはいずれも全体の感銘を損なうほどのおおきな瑕疵ではなかったものの、っしかし、きょう日の日フィルならばどのメムバーもその次元のエラーはやらないよ、っというしくじりではあった、

っそれでも、キーミツも楽員も、っそうしたみずからの危なっかしさを懸命に耐えながら、っどうとか100分の全編を、危なっかしいからといって守りへ入らずに、っあくまでも訴えることありきで語り抜けてはいたか、

1楽章は、カーチュン氏の颯爽としているようでいてじつはアイディア豊富、山あり谷ありの道中からすると、キーミツはとくべつなことはなにもしないで進めてゆくが、シカケに乏しくて喰い足らないということはなく、賑々しい楽章終結は、っおとついは分厚い音量音圧が印象的だったが、本番のきょうは管も絃も打もすっきりと音が抜け切り、っむしろ最大音量の裡にもハーモニーの澄明が際立っていた、

2楽章は遅い部分の優婉と速い部分の絃を中心とした機能的の合奏との対照がよく発揮せられていたが、ったとえばクラリネットは1楽章でもここでも、っおとついもそうだしきょうにしても、1番も変ホ調も、その程度のことが吹けなくてどうする、プロフェッショナルだろ、っとおもわせる不安定な吹奏で、チェムバー的に高解像で聴かせねばならない楽章だけに、っほんのかすかな吹き損じ、音の掠れにも文句を云いたい、

3楽章のポスト・ホルンはラッパではなくほんとうにポスト・ホルンを使っていたが、っそれだけに線が細くてゆたかにひびかず、夢心地の演出とはゆかなかったか、

ニーチェを歌う4楽章は、っこんどはホルンがまずく、っあまり気分が乗らないが、オケのみによるまんなかの部分を經てふたたびソロが戻ると、キーミツの稠密な音捌きもあって、俄然、醉いごこちを与えらる、

5楽章はボーイズが全員男の子であり、っおそらくはキーミツの指定であろうが、っこれがまず奏功、女の子にはわるいが、欧州ではあたりまえのこの条件は、っやはり必須とおもわずにいない、ボーイズのコーラスは変声前の男の子のみにかぎる、女の子の声ではだめである、っその子供たちにしかし、大人のコーラスとおんなじような発声でっきり唄わせないのではまるで台無しなのだが、っきょうはちゃんと地声をふんだんに盛り込んでおり、っそのあどけなさをしてこそ泪を誘わる、

フィナーレは停滞を嫌って前へ前へと振ってゆくキーミツの姿が眩しく、テムポの遅い歌謡楽章をさように感ずるセンスはまったくぼくの所望である、っあまりに遅いと、っあるいは楽想の替わり目であまりにテムポをいじったりすると、旋律の象がわからなくなる、旋律の象がわからないと、音楽もわからなくなる、っぼくは、っどんな曲を聴くときにもときおりそうするのだが、っすなわち、その曲をぜんぜん識らない、1度も聴いたことがない耳をあらむかぎり想定して、その耳にではいま目前で行なわれている演奏はどう届くだろうか、っと、テムポを極端に遅くしたり極端に伸縮せしめたりしてもその演奏に附き合えるためには、っお客のほうでまずある程度以上その楽曲に馴致していてもらう必要がある、あの旋律がかように伸び縮みせしめてあるのだな、っというその、あの旋律が、っという聴く側の予備知識を前提しているのである、っその点でその手の演奏は、っある種、傲岸であるといえる、なんでお客が曲を識っている前提で演奏してんだよ、っという、宇野さんの、喋りことばの文面の印象が遺っているから晩年の口述筆記の1冊まるごとヴィーン・フィル談義の書籍かなにかだとおもうが、っそのなかへ曰く、シューリヒトの演奏を聴くと、ブルックナーがぱっとわかるかもしれないね、音楽が流れているから、フルトヴェングラーなんかじゃだめですよ、っと、っあの方がブルックナーの一大オオトリテヱとされるチェリビダッケなどをあまり喋々されない秘蹟もこのあたりにあるのかと思量されるが、音楽をあれこれといじることによるアッピールは、っその曲をお客が識ってくれているというその予備知識に依存している、っこのことは、演奏藝術一般をかんがえるうえでのある重大な要素のひとつだとおもう、っいじり癖のある指揮者や演奏家もたまには、こういうふうにあれこれといじった演奏で、この曲の象がちゃんとお客に伝わるかしら、っと背中へ冷汗を掻いてみてよいのではないか、玄人が何度も名曲に出逢い直す、っそれももちろん音楽のよろこびである、っしかしいっぽうで、初めてある楽曲の魅惑を雷撃のごと脳天へ喰らい、その虜となる、っそれもまた音楽の掛け替えのないよろこびであることには論を俟つまい、っある種の演奏藝術にあまりにも通曉することは、ビギナーであるお客の人生に決定的の影響を与えることから遠ざかる道であるかもしれない、っほとんど素っ気ないほど先を急ぐことから、っこの緩徐的のフィナーレの歌の美麗を洗い出すキーミツの手筈を見届け聴き届けつ、っそんな若い初心を振り返っていて、懐かしさでいっぱいだった、っちょうどこのマーラーの《3番》は、乾いたスポンジみたように吸収力満点の青春のぼくのこころへ、っどこまでもどこまでも沁み入ってきたたいせつな楽曲なのである、

新日フィルの合奏能力がもっともっと刷新せられることを希ってやまない、



っことしは、読響もヴァルチュハ氏と同曲を演奏するが、っその切符も取っておいた、っさて、遙けく聳えるカーチュン氏や、っきょうのキーミツとどのように伍してくるだろうか、

っそれからきのう、キーミツと新日フィルとの6月の公演の切符が売り出したので購ったが、特別公演なので錦糸町の2階バルコニーを取れるかとおもうも、っぴあでもe+でも器のサイトでも売っておらず、っなんでだよとおもいつ2階正面で最良の位置を望めるe+で購う、どうしてどこのサイトでもこんなに一寸っきり売っていないんだろう、っと訝りつ、っすでに購ってしまってから新日フィルのサイトを閲覧してみたら、っそこでどっさりと売っていて、2階バルコニーも空いていた、っしくじった、去年キーミツが自作のミュージカル・オペラを錦糸町とサントリーとでなすったとき、前者は全席完売したが後者は直前まで2、300枚単位で空席があり、っぴあ取り扱い分は完売だったのだが、みなさんぴあで完売していると全席完売しているとおもわれるようで、っとこぼしていられたもので、っまさしくおっしゃるとおりである、去年ぼくも全国の数多の楽団を聴いたが、団体によっては、複数プレイ・ガイドで購入可だがこのサイトでの取り扱い量が最もおおい旨を案内してくれているところもあり、っまことにありがたかった、っありとある楽団があれへ倣うべきとおもう、っというよりも、っこの時代だ、っどのプレイ・ガイドでもすべての席から購入することができ、プレイ・ガイド間で空席状況のデイタを共有するシステム構築くらい容易だとおもうのだが、1日も早くそうなってくれることを祈らずにいない、っほかのプレイ・ガイドを当たればまだ空席があるのに、ったまさか当たったところで完売していたせいで全席完売と勘違いしてその公演へ行くことを諦めるお客がいるとしたら、っまことに勿体ないことにちがいあるまい、



っさて、カッフェは順番待ち過多につき90分で追ん出され、っいままだ浅草橋の裏路地へ隠れて凍えながらシガレットを服みつ、っこれを書き了わらない、っあすはサントリーにて、コバケンさんと名門アマチュアとの、っなんとまたマーラーで、《復活》、老境コバケンさんのあの法外な耽溺趣味は、っなかなか麗しい果実を結ばず、っこないだの《カルミナ・ブラーナ》では、カーチュン氏が振られるとあんなにも天下の名楽団たる日フィルが、従前のへなちょこぽんこつオーケストラへと後戻りしてしまっていた、ツボへ嵌まりさえすれば、落ち着いてじっくりと全曲を語り抜く、稀代の大演奏も成立しうるはずなのだが、っさてあすはどうなるやら、

っそれから、《カルミナ、、、》といえば来週金曜、っまた午前のみ出勤して午は錦糸町で上岡氏を聴き、っよるはギロッポンへ遷ってバッティストーニ氏と東フィルとの同曲、イタリィの健康的の前進性が爽快に弾け、っあの曲の愉悦をこころゆくまで謳うのであってくれたい、ドイッチュ人オルフの作だが、ドイッチュ的に重ったるく演るような曲ではない、全編これ竣敏にしてきびしいっきりの造形では、っぼくはまったく不満だ、遊びまくってくれたい、っあの曲は深刻な運の歌ではない、っすべてはカリカチュアである、っぼくはバ氏の実演を聴くのはこれが初めてだが、っその必須の遊びごころを彼氏が具えているものと信じたいところである、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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