ざっかん記 -23ページ目

発山形、




っこれで井上キーミツが引退されてしまうので、っもしかしたらぼくの生涯でもこの地を踏む最期の機会かもしれない、山響がぜひ聴きたいとおもわせる指揮者を呼んでくれでもしないかぎりは、

っきのう、っこのプロでソリストもオケもアンコールなしであれば丸2時間には至らなかろうとおもうが、済んで外へ出るとちょうど21時くらいで、っどこでそんな時間を喰ったろうと不可思議だったところ、っきょうもきのうとほぼ異ならない段取りだったはずが、出るとこんどは17時に15分ほども足らず、狐に摘まれたよう、

っいずれ、2日つづけて、モーツァルトのこころの暗部と神秘とをふたつながら覗き込んだ、編成はささやかで、トロムペットもティムパニもいないのであるが、運の苛烈、無慈悲、人の世のつれなさ、虚しさ、っそれでもモーツァルトがそのこころへ抱いて離さぬ桃源郷への思慕、っいっさいが遺漏なく盡されていた、キーミツはグラス・ハーモニカの曲は振られないのであるが、音楽面はもちろんのこと、演出から照明、ソリストの衣裳、っさては髪型に至るまでうるさい註文を附けられたとのことで、っじつに会心のプログラム、会心の舞台でいらしたことだろう、っこちとらでもおおきに堪能した、

時代も古典派へ遷れば、ソナタ形式の展開は規模としても内容としても提示、再現と同等ないしそれ以上の扱いだが、モーツァルトでもハイドンでも、後年のもの以前のシムフォニーのそれは、っつい一寸動機の変奏を披瀝してすぐさま再現へ移行してしまうので、当初の展開とは、提示-再現間のほんのブリッジくらいのはずだったのだろう、っこうしてモーツァルトの大小のト短調を1日のうちに聴くと、っまずそのことがつよく意識せられる、

緩徐章にしてもそうで、モーツァルトのもっと初期のころのシムフォニーでは、へ、それっきりなの、っというクライネな音楽たちで、4楽章あっても全奏に15分も掛からない曲とて稀ではない、っそれからすると大ト短調の同章は、まだつづくんかい、っというところだ、

小ト短調のつよみは、3楽章の主部がとちゅうかなりにポリフォニックに書いてあるところだろう、っきのうきょうと、山響の鮮烈な合奏によって、動機が錯綜する緊張感をしかと実感した、

キーミツは、OEKの指揮者を務められたこともあろう、ハイドンのシムフォニーもいくつもレパートリーにしておられ、大編成の各楽団ともたびたび演奏されているが、昨夏、彼氏と本名氏とが演目毎に振り分けられるはずがキーミツの療養により全編本名氏の棒となった郡山響の公演で、っそこでもハイドンの何番だかが組まれており、っその本名氏の棒があまりにもすばらしくて、っぼくは非礼にも、予定通りキーミツが振られたとしたらかほどの演奏たりえたかどうか、っとの所感を懐いたのだった、っけれども、今次のモーツァルトの2大作における造形をみると、っやはりキーミツもまた堂々、斯界の泰斗なのであって、っかくも断乎として音々が凝集するモーツァルトも、っほかではなかなか聴けまい、老匠然たるの広々としたテムポで楽曲の悲劇性を俯瞰鳥瞰せむというような逃げを打たず、アレグロはあくまでも一心不乱にという態度も、耄碌もまた愛でてもらうなどという世辞の世話になる以前に客前から去りたい、っという彼氏の片意地を実地に示した格好で、っとくに小ト短調の1楽章や大ト短調のフィナーレあたり、



、、、ってっっっ、吃驚っっっっっ、っいま大宮で新幹線を降りむとして席を立ったら、俺の後ろの席、キーミツだったよっっっっっ、っぼくはもう降りるところだったので、彼氏と目が合って、あっ、っとなって、お疲れ様です、っとかとわけのわからないことを呟いてすぐに通りすぎてしまったが、っなぜ咄嗟に、すばらしかったですっ、っのひとことが出ないんだっ、っなにがお疲れ様ですだっ、、、っとほほ、

っま、っともかく、馬齢のほうへ曲を引き附けないでこその、井上道義のモーツァルトだった、



っあすはあさ早い、三鷹の試掘に一人足として驅られた、山形土産を購ったので、っあさ通り道の聖蹟別棟へ寄って置いてから現場へ向かわむ、

っつぎの演奏会は土曜、例の小平の井﨑氏と調布のマーラーとのダブル・ヘッダーで、願わくは、っあまり好い天気にならないでくれたい、午前のみ仕事をして、チャリンコで聖蹟から国分寺崖線を駈け上がって小平行、井﨑氏公演後、1時間後には開演する調布へ向けて、っかなり急いでチャリンコを漕がねばならなく、汗だくになりたくない、



、、、っしっかし、っしくじったなあ、っもっとちゃんとキーミツに讚辞を伝えたかった、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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山形、




井上キーミツ/山響公演初日、済む、

開演前には、っあれ楽団の事務方かなあ、っそれと同響のプリンシパル、阪氏が登壇されてプレ・トーク、阪氏はリハーサルを3日とも聴かれ、所用で明朝山形を離れられるとのことであすはいらっしゃらないが、去り行く先達の勇姿を脳裡へ刻まれたことだろう、

演目はモーツァルトの小・大ト短調の間へ、っあれはキーミツと東響かどこかとの公演だったろうか、川崎でも演られたグラス・ハーモニカの曲をサンド、っただし用いられたのはグラス・ハープ、グラス・ハーモニカとグラス・ハープとは異なる楽器とのことで、ソリストは川崎のときとおなじ、っなにしろ本邦におく唯一のプロフェッショナルの同楽器奏者、大橋エリ女史、同曲は同楽器とフリュート、オーボー、ヴィオラ、セロ各1という編成のため、指揮者なし、

キーミツがモーツァルトのシムフォニーを振られるところを想像するとなると、っそれはもう小ト短調であろう、っその想像のとおり、彼氏が登壇されて振り始められるや、嵐のごと激情が迸出す、山響も、800席余という音場へ8-7-5-5-3という絃の規模だが、色調は悽愴にして、聴く者みなを切り裂かむばかりのまさしくシュトルム・ウント・ドランク、

グラス・ハープの曲は一転、穏やかな曲調となるも、っいかにも発音が難儀そうなあの楽器にとっては、っそれでも後半のロンド主題は弾きにくそうである、音量も出ず、直前までマイク、スピーカーを通さない上演を企図したが断念、っわずかに増幅していたとのこと、っしかし、っとうぜんにして唯一無二の音色、質感であり、早逝の人の晩年の境涯を映すに相応しい、

大ト短調はクラリネットの入っているヴァージョンだが、甘さを峻拒し、小ト短調の延長線上に苛烈に疾走して涯てる、フィナーレのさいしょの主題のみ、現れるたびに誰かしら音程の甘い人がおり、っかすかに不協和な音が鳴ってしまっていたので、っあす、っよろしく修整せられることを希う、

っきょうの公演は動画収録せられていたので、っいつかに配信せられるらしい、っあれこれとコレクションが殖えてうれしい、



みずの自作アルヒーフ

 

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山形行、




大宮発11時すぎというところ、っきょうの開演は19時だ、

井上キーミツの新日本フィルとのマーラー《夜歌》の切符は、最も早く入手しうるのがミューザの会員でセット券を購ったばあいであった、1回券の発売はその2日後かなにかで、っぜんぜん残席はあるとおもったが、っすこしくでも良席を得たい気を抑えられずに、平日午3公演のセットを購う、っほかは園田氏のオペラのアリア集と広上氏のチャイコフスキーとで、っもう一寸なんとかというライン・アップを求めたかったが、っま、夏の間に3日間取得せよという休暇でも、っそこで消化するとせむ、

っあと、キーミツの《ラ・ボエーム》だが、全国7都市8公演のうち5公演へは行こうかと云ったが、っうち兵庫の日が東京での坂入氏と新響とのブルックナーとかち合うとわかり、4公演に減る、切符も高いし、っかえってありがたい、っその兵庫と京都との切符がせんじつ売り出したが、後者を購っておいた、右翼がよかったが、っより良位置を望めるのが左翼だったので、っそちらにした、っすべてちがう器で4公演もあるので、公演毎に右左と振り分け、舞台へ寄ったり離れたりと、位置を変えてたのしまむ、

っぼくはシムフォニーばかりでオペラを聴く習慣がぜんぜんなく、有名演目でもほとんど筋も曲も識らないが、っかくてはあらでと、開催中の東京・春・音楽祭が全公演をライヴ・ストリーミング配信しているので、っせんじつモランディ/東響の《ラ・ボエーム》とヴァイグレ/読響の《エレクトラ》とを購入して録画しておいた、アルヒーフ化はなく、公演時の同時配信のみなので、っその日その日は定時定時で帰宅した、ムーティの《アイーダ》も録りたいところだったが、都合が附かなんだ、っべつにそんなの、演奏を撰ばなければわざわざお銭を出さなくともYouTubeへいくらでも動画が上がっていようとはおもったのだが、っまあまあ、

っそれから、キーミツのらいげつの日本フィルとのショスタコーヴィチ《10番》は、横浜公演のほうが動画配信せられるようで、っこれもうれしい、同曲はこのほどN響とのものが音盤化せられるが、っきょう日どうかするとぼくは、艶のない音場で硬質に鳴るN響よりも日フィルのほうがアンサムブルとして秀でているのではないかとおもっているし、っつるつるぴかぴかに整音せられてしまっている市販音盤よりも配信動画のほうが、音声としてもより自然で快いにちがいない、

動画といえば、黄金週中の下野氏とN響との《DQ》公演も配信せられるようだ、っそれならわざわざライヴへ出掛けなくともよかったのだが、っまあそれも録画しておくとせむ、切符も高いわ視聴権も高いわでなかなか阿漕な公演だが、

っほかに、コバケンさんと日フィルとの去年末の《㐧9》や、リープライヒ氏と同フィルとの《ライン》などの動画もあったので、っいずれも購入して録画し、音声を抜いてきょういまiPhoneへ同期してきたが、前者は、っせんじつの《オルガン》と同様の境涯が展ければなかなかのものになっているだろうとおもいつ聴くところ、っあの《オルガン》ほどではないが、っやはり漫然と奏したのでは目立たない声部へも目配りが効いており、っそれが以前までのように聴こえよがしの有難迷惑にでなく自然かつ巧妙に為されるので、っちゃんと、小林研一郎が振らばこそっ、っという特有の味のする楽聖になっている、史上の綺羅星連へ伍しうるかは、っまあここで敢えては判断せずにおくとして、誰が振ってもおんなじテムポとおんなじ造形とになってしまうある程度以上年配の日本人指揮者の棒になる同曲のうちでは、上へ抜けているかどうかよりも、っまず北か東か南か西かのどこかへは抜けている、っぼくがいつも云うのはそこだ、世界中でみんなしておんなじ曲を演奏するのだから、他人様とおんなじところへ固まって立っていないでくれろよと、っすこしくでも他人様と離れて、相対的の価値を主張してくれろよと、っもちろん、離れることが目的化すれば、っそれを世間では外連味という、、、っぼくならば外連味だろうとそれのどこがわるいんだこなちきしょうと云ってしまいたくもあるがともかく、っひたすら自己に忠実であった結果として気が附くと、あれ、、、周りに誰もいないや、っというふうにして演奏せられた音楽でなければ、っぼくの耳はけっして満足しないのである、

っあとは、っさいきんではまいかいなさるのではないらしい終演後の歯の浮くようなスピーチをここではしていられ、っまあそのくらいはよいのだが、っぼくはむしろ、演奏中に楽員へ向かって親指を立てたり指で輪っかをつくったりして、いい音だよっ、っとシグナルを送られるのとか、っむかしからよくやられている客席を向き直るようにして天井桟敷を指差し、あそこへ向かって音を飛ばせっ、っというああしたアクションのほうを止していただきたい、っそして成ろうことならば、振られている最中にほとんど相貌も変えられない、っずっとほぼ無表情で、悲しい楽想のときに悲しい貌をされたり、烈しい楽想のときに烈しい貌をされたり、仕合わせな楽想のときに仕合わせな貌をされたりせずに、っずーーーっとおんなじ貌で振られるようになったら、音楽的にもそれがすなわち完成の時であるだろう、

っつづくリープライヒ氏の演奏へ遷る、カップリングは三善の小品とあの井﨑氏とのコルンゴルトも記憶に鮮やかな辻彩奈女史とのシマノフスキのコンチェルトとであり、後者は今夏、坂入氏と彼氏の手兵とのブルックナーの前プロへも組まれているので、予習用にとおもって、日フィル、っあいかわらず溜息が出るほどすばらしい合奏、精妙なのに冷淡な膚触りと無縁で、っひとつびとつの音を丁寧に聴き手へ届けむとするその心意気にシビれる、っせんじつ実演を聴いた東フィルは、や、労せずともこの程度の音はいつでも出せますから、っというややその気味だった、日フィルは、苦労の末やっとこの精妙を獲得したっ、っという鳴っている音がその快哉を叫ぶようなのである、っだからこちとらもおもわずにうれしくなる、っあれでその苦労の跡を露見させてしまったら、世に最優等ではない、新日フィルなどはきょう日においていまだその次元であるとおもう、古今謂い古された白鳥の譬え、足掻いてよいのは水面下でのみ、水面より上ではあくまでも優雅に、っその精励のちょうどピークへ達した音こそが、客席で浴びていて最も快い、っだからぼくは、来日するスーパー・オーケストラ連をどうしても聴きたいとはぜんぜんおもわない、貧乏人の僻みではない、っあのどこでも難なくすごい音が出てしまう手応えが、っいかにもつまらないのである、っいま日本の楽団で、っそのちょうどたったいまピークへ乗りました、ピークほやほやという妙音を発しうるのは、東京では日フィルだとおもう、地方では名古屋フィルが雄も雄で、キーミツとの先般のブルックナーや、何年か前のショスタコーヴィチなどじつに忘れ難い、大阪フィルは、会によってコンディションに良否が出るのがいかにも彼等らしく、っしかし絶好調のときの奔馬のごと勇猛は、悟り澄ました東京のオケでは逆立ちしてもマネできやしない、っそうすると、N響なぞ、っべつにぜんぜん日本を代表するオーケストラではないとおもわずにいない、っただ知名度とお給金の高額さとというだけの話だ、器だってぜんぜん音楽的のトーンでないNHKホールごときをしかし常箱とせねばならないというハンディキャップであることだし、



山形は柔道ボスの故国であり、前回、コエーリョ氏を聴きに行った際には逢ってふたりして山形牛に舌鼓を打ったが、っこんかいメイルを送ったものの、返信がいただけなく、っざんねんである、送信エラーは出ないので、届いてはいるとおもうのだが、



みずの自作アルヒーフ

 

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っところで、




っいまやYouTubeにはプロフェッショナルの公式のものであれアマチュアの素人撮影であれ、クラッシックの演奏会の動画が無数に上がるようになり、っぼくのように演奏のほんの細部にまで拘って音楽を聴きたい人はそれでも並行して音盤なども購わねばならないが、人によって、っとくに、演奏はあんまりわからない、ともかくその曲が聴ければよい、っという人にとっては、音盤を購ったり各種有料配信サーヴィスを利用したりすることなぞ、っもはや愚挙愚行とすらおもわれることだろう、っぼくはその点まったく不経済で、っなにしろ数年かもう10年以上も、ヤフオク!やメルカリ等で稀少な非売品音盤の類を漁るという酔狂な趣味を修身してしまったので、っそんな音源は100年200年經とうがけっしてサブスクリプション・サーヴィスの配信リストに加わることはないので、っどうしてもお銭が掛かる、っしかも、高額を要して入手してみた音盤へ収録せられているのが、どうでもよい平凡な演奏でしかない、っということもひじょうにしばしばである、

っただ、っさいわいなことにと云うべきか、っぼくは音質のあまりわからない人で、室のプレイヤーで同一音源をCDやSACD、っあるはむかしあったDVD-Audioで直前直後に再生して比較してみても、CDよりもSACDのほうがあきらかに音質がよいという認識を有てずにしまうというぽんこつの耳であって、っだから、YouTubeに上がっている素人臭い音質の音源でも、最低限の清澄な再生音でありさえすれば、っあとは専ら演奏のよしあしっきり気にならない、

プロの楽団でも、期間限定でばあいによっては演奏会の全編を収めた長尺の動画を公開していたりなどするので、っべつに指揮者に興味がなくとも、期間限定と謳われると、貧乏性のぼくはいちおうそれを落としてコレクションしておく、

っまた、っぼくの聴いているアマチュアでも、ったとえばフライハイト響はご自身等で収録した動画をupされているが、っやはり期間限定のことがあり、先般の井﨑正浩氏との公演の3演目もそのようなので、っすべて落としておいた、

っそれでうれしかったのは、去年ぼくが森口真司氏を知った彼氏と同響とのマーラー《9番》公演の動画も、楽章毎に分けて上がっていたが、っそれも限定公開であって、っすべて落とした心算だったのに、3楽章のみ、DL中にエラーが出て落とせておらず、っそれへ気附いたときにはもう公開期間が済んでしまってざんねんだったところ、同響のアカウントではなく、フリュートの楽員の方のものとみられる個人アカウントでおなじ動画が公開せられているのをさいきん発見し、1年越しで欠落していた楽章を補い、全曲を再生しうるようになった、彼等の錦糸町での動画収録は3階席正面の天井桟敷みたようなところへカメラを据えて撮られており、音声もそのカメラのマイクが拾ったものなので、ラウドネス比がひどくアンバランスで、音勢のつよい金管、打楽器がとてもクリアに録れているのに対して絃の音がいかにも遠いのがざんねんではある、っじっさいに会場で聴く同響のアンサムブルはもっと絃の音量が豊富であると、彼等の名誉のために云っておく、動画から音声を削除して舞台上部へ吊られたマイクで録った音と置き換えて公開されるとか、っあるは動画とは別に音声だけでもよいから吊りマイクの音源も上げてくれたらどんなにすばらしいものかとおもうが、っこのカメラのマイクで拾った遠い音で聴いても、っやはり森口氏の造形はまったく偉大である、オケも、っもちろん難曲だからあれこれのエラーはあるが、全体に覇気充溢の大演奏で、2楽章の冒頭で撮影者が三脚を蹴飛ばしてしまい、ヘッド・フォンで聴くと耳に痛いノイズが入ってしまっているのがわずかな難点だが、っともかくうれしいコレクションである、

森口氏は、大分の大学でプロフェッサーをなすっているので、東京のアマチュアの楽団との公演はそう数多にあるわけではないが、っことしはなんと晩夏のわずか1週の間に別楽団でマーラー《トラギッシェ》《5番》をたてつづけにお振りになる、っいずれもさぞやすばらしい演奏となることだろう、っしかも、っその前者は休日の午公演で、同日よるにはかの小柳英之氏のチャイコフスキーを聴きうる、去年末、王子で小柳氏を初めて聴いた日も、っぼくはあさは北海道へおり、午には名古屋へいて井崎氏を聴き、終演後、東京へ戻ったので、っしかも演目はおふたりともスメタナ《我が祖国》という極め附けであった、っそれはそれは遙けき落差のある好対照で、精緻な意匠のギリシャ彫像と圓空の一刀彫りとを並べて観較べるような得難い体験であったが、っはたして、っこんども淡麗なる森口氏と磊落なる小柳氏とを1日のうちに聴きうるという仕合わせであって、曲目もともに《6番》、《トラギッシェ》と《パテティーク》とというまたも妙な符合を示していてたのしい、

っそれから、一寸以前にショスタコーヴィチ《バビ・ヤール》の動画や音声をあれこれ検索したところ、っさいきんになっておもいもかけない音源が関連動画へ上がってきた、っすなわち、75年、っいまはなき新宿の東京厚生年金会館でのライヴで、同年に物故した作家への追悼演奏会におく、同曲の本邦初演というものである、原語ではなく訳詞上演で、陣容は棒に早稲田大響のOBという故・山岡重信氏、ソロは、っやはり先年物故せられたのだったか、ワセ・グリOBという岡村喬生氏、コーラスはワセ・グリとそのOB連という稲門グリーとの合同、っそしてオケは早稲田大響であり、訳詞を手掛けられたのもまたワセ・グリOBという、早稲田総力戦の様相で、訳詞上演かよ、っと侮り半分に聴きはじめたところ、っこれがたいへんな名演奏で、っぐんぐんと惹き込まれて、っあっという間に全曲を聴き通してしまったのだった、

同曲は、っもちろん原語上演で、っせんじつ会場で大量に購入したオーケストラ・ダスビダーニャの音盤にも時期を隔てて2種の録音があり、ソロはともに岸本力氏でいられるが、っまずこの曲を唄われるには声の線が細いのと、っだいいち露語の発音がぜんぜん身体へ入っておられず、っでまたこの曲と来た日には、っその難儀な露語を早口でぺちゃくちゃと唄わされる上に厄介な変拍子まで絡んでくるというサディスティックな筆で、岸本氏は敢えなく隨所で発音が覚束ずにそれによって音型や音程が乱れまでし、ったしか後年の録音のほうだったが、っそちらではそのソロの不調のためにオケもひどく乱れ、っみなどこを弾いているのかわからなくなるという事故まで発生していたものだ、

っそれがこの本邦初演はどうだ、75年のむかしである、っまだ音源だってそんなにありはしなかろうし、ショスタコーヴィチの書法に対する奏者の免疫も現代とは比較にならないはずである、っだのに、一介の一般大学オケたる早稲田大響はしかし、っぴたりとツボを当てた表現表情をつぎからつぎへと繰り出し、っいかに煩瑣な変拍子でもびくともしない、山岡重信氏とは、っぼくのような世代ではかろうじてお名を知るのみだが、っいったい何者であるのかっっっ、

声楽も、ソロといいコーラスといい、っやはり音楽的にたいへんに練れており、っほとんど新作に近い舶来のシムフォニーを相手に、っずっと以前から自慢のレパートリーにしているかのような自在感をみせる、日本初演だぞっ、っきのうきょうやっと見たか見ないかのスコアを音にしているんだぞっっ、っはじめの1歩はしかし、っときに後続のいっさいを寄せ附けないほどの達成へ至るものであるっっっ、っそれだけの使命感を、指揮者以下全楽員が一身に背負っているからこそなのであろう、

75年の岡村氏といえば、テル・アヴィヴでケルテスの溺死に間近で接しられた衝撃からまだそう日が經っていない、っそれはとにかく、っこれを聴いてぼくは、っむしろ原語上演よりもよほどか豊富な表情が附き、音色が多様多彩に変化してゆくことにじつに一驚を喫した、彼の地の泰斗、セルゲイ・アレクサーシキン氏の演唱は、血反吐を吐くかの絶唱も、人を喰ったような剽軽も、泪も涸れ切った虚無も、っむしろほとんど野太い1色の声で唄ってゆくので、っもちろんほんの母音の明度を上げたり子音のエッジを立てたりするっきりで最高の効果を上げ、っその変化の乏しさこそが彼氏の偉大さなのであるが、っここでの岡村氏は臆面もなく曲想に応じて音色を変転せしめられる、ア氏にも劣らぬもとよりの声の太さは曲の厳粛を伝えるにじゅうぶんであり、っそれがまず、1楽章でアンネ・フランクを歌う段へ来てほんとうに少女の可憐を喚び醒ます柔和を獲得さる、露語と我らが国語とではぜんぜん耳当たりがちがうが、日本人のぼくにすれば、っこの岡村氏の音色こそ、初めてこの部分の曲趣を眞に具現したのだと云い切ってしまいたい、っのち、〈ユーモア〉も〈商店にて〉も〈恐怖〉も〈立身出世〉も、曲が歌手としての自分になにを求めているのかをぜんぶわかって唄っている人の声がしている、歌とは、っじつにこうでなくてはなるまいっっっ、

コーラスも、っこのときはまだ舞台へこぼれるほど大人数を乗せた時代であろう、っその風圧は元気いっぱいのオケにも押されることなく、名にし負うワセ・グリッシモもワセ・グリッシッシッシッ、、、シモというところである、

針音がしているから音源はLPであろうが、録音もまたアナログの長所が最大限に活きた鮮烈さで、っこれはほんとうに儲け物のうれしいコレクションとなった、っみなみなさま方も、っやはりぼくとおなじように聴かない前には、でも訳詞上演なんでしょ、っとおもわれることだろうが、騙されたとおもっていちど検索してみられむことをっっっ、文字列はバビ・ヤールでなく、バービィ・ヤールにしたほうが容易に発見しうるかもしれない、



っおもわずに筆圧が籠もった、っまだ南大沢の喫煙所で、っこれを書きつほんの2、3本とおもいながら、開けたばかりの14本入りアメ・スピが1箱空になりそうである、



みずの自作アルヒーフ

 

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錦糸町、




金山隆夫氏の棒、オーケストラ・ディマンシェなる楽団で、フムパーディンク《ヘンゼル、、、》の管絃楽の部分をいくつか抜萃、っそれとハンス・ロット《シムフォニー》であるが、っゆうべも睡たのが2時3時であり、一寸以前にだいぶん話題になっていても聴かずにおり、っだからぜんぜん識らないロットのわりに長大な楽曲では、睡魔との格闘も一苦労であった、っどうやら全曲に亙って意識はあったとおもうが、



フムパーディンクは、童話に題を採っていて、っわりにライトな主題群から成るが、っしかしヴァグネリアンだけはあり、メルヒェンな調子がしばしば不穏不吉なカラーへ転調せしめらる、オケのテクニークはアマチュアとして上の下というか中の上といったところで、音量としてはじゅうぶんであり、声部間の音勢バランスも適切、金山氏は例によって熱狂の頂点においても無粋にして淡々端然たる棒なので、金管や打楽器が煽動に乗って羽目を外すということもない、



ロットは、開演前に金山氏がマイクを持たれ、曲にはブルックナーやマーラー、っまた、閥としては対立関係にあってもブラームスからの影響もあると、オケにそれら他の作家の曲とロット自身のものとの部分部分を演奏してもらいながら話さる、

っいざ全曲を聴いてみるとなるほど、っほとんど直接的の主題の類似性も、っまた書法や楽曲構成の共通性も隨所に顕著であった、っただどうだろう、作家が生前に曝された無理解や、直接にせよ間接にせよそれを原因とする彼の夭折には同情を禁じえないものの、全体として未整理の憾は拭えない、っよしんば彼に《2番》《3番》と書く天壽があったならばようよう熟れた作も生まれたかしれないが、っすくなくもこの処女シムフォニーをもって歴史に埋もれた傑作とするのはいささか肩入れもすぎようとおもう、

無理もない、ブルックナーだって、っだいぶん後年の、ったとえば《8番》に至ってすら、初稿はじっさいに音にしてみるとずいぶん杜撰に聞こえ、そりゃ指揮者にもオケにも断わられるよ、ってなものだ、マーラーも、っあれほどの管絃楽法の大家で、っどんな複雑なスコアだろうとお茶の子さいさいという印象でも、《巨人》の初稿などほとんど素人然としているほどだし、《復活》1楽章と《葬礼》とを比較してみれば、っよりゆたかな創意の所産ほど、成立時点では作家当人にしてからが収拾が附けられないのだということがよくわかる、っほかに、チャイコフスキー《ロメ&ジュリ》や《マンフレッド》、シベリウス《Vnコンチェルト》なども初稿と決定稿とをともに音源として聴くことができるが、っいずれもその間の飛躍には目を瞠らされ、っあれほど雑然としていたものをよくぞここまで洗練せしめられたものだと感心する、っだから、弱冠20歳のロットがこのシムフォニーを往時の楽壇から拒絶せられたとき、っもし彼氏が自作に対して1音たりとて変える必要はないと頑なになっていたのだとしたら、っそれはやはり自信過剰とすべきだ、っもちろん、っおおくの先達連からの諫言は、未整理だから洗練させよという類のでなく、っただ嘲笑と悪罵とであったろう、ブルックナーとマーラーとだけが彼を擁護したのである、っこのふたりの目にだってロットのスコアはいかにも未整理と映じたにちがいないが、っそれよりも、っそこへ胚胎せられ、っあるは氾濫を始めている彼氏の創意のほうを尊重したのであり、っいつの日も、歴史のなかでさようの人物の役割はおおきい、

痛し痒しである、人一倍ナイーヴでなければ歴史に遺る傑作は書けない、っけれどもナイーヴにすぎては精神も肉体も崩壊してしまう、ロットにこのシムフォニーを改訂するだけの忍耐があったら、あるは《2番》以降を書いていたとしたならば、っという条件附きでならば、っぼくもその早すぎる死を悼む側であることになんら吝かではない、っただ、っこのままなにも書き変えないままでは、っこれでは名曲傑作と呼ぶわけにはゆかない、っそれがまた、シヴィアな歴史の篩というものである、



金山氏は、っきょうの2楽章の主題を紹介される段で、ことし私はマーラーの《3番》を演奏しますので、そのスコアを勉強していて、このロットの2楽章との類似性をおもわないわけにはゆきませんでした、っとおっしゃってマーラーの6楽章冒頭とロットとをすこしくずつオケに演奏させていられたが、っじつに聞き捨てならない情報であり、終演後すぐさま検索してみるに、っそれは今夏、っみなとみらい21響という楽団との川崎での公演であり、早速に切符を購った、

マーラー《3番》はこんげつもらいげつも聴くこととなっており、っこんげつのものは月末、調布でアマチュアが夕から行なう公演だが、っぼくは、っあさは出勤して午前のみ仕事をし、午はチャリンコで小平まで行って14時から井﨑正浩氏とICUの学生オケとの公演、終演後、調布へ移動するわけだが、調布の開演は17時、小平-調布間は、公共交通機関では便がわるく、っそのままチャリンコで行く、以前は国分寺棲まいだったので道はあらかた想像が附くが、1時間くらいは掛かるとおもう、井﨑氏のほうがたっぷり2時間だと中座せねば間に合わないこととなるが、っふだんは古典古典したプロであるこの楽団がこんかいはボロディン一色で、メインの《2番》シムフォニーというのは25分くらいっきり掛からないので、本プロのみでは15:30以前に全奏が完了してしまおう、っなにかわりに長大なアンコールがあったにせよ、16時よりだいぶん以前にハネ、チャリンコですこしく急げば、17時に調布にいることは可能と踏んだ、っことしはどこの誰だかわからない人の公演へはもう行かないと云ったのだったが、っすきな曲でもあり、っつい衝動購いをしてしまう、っしかし、っせんげつにはすでにして井上キーミツを聴いており、っこれからまだ年内に3度も聴くこととなろうとは、



っさて、っお次はちょいと間が空いて来週の土日、山形にてキーミツと山響とのモーツァルト・プロ2連チャンの旅程、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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大阪、福島、




井上キーミツ/大阪フィル公演、済む、



往路は、3月前から購える安いのぞみの券を購いそびれたので、っつぎに安いのは1月前から購える割引きのこだまであり、っそれで来る、4時間ほども掛かるのであさは早く、新横へ8時すぎにはおらねばならず、7時すぎに南大沢から京王へ乗る、っほんとうにわるい癖で、っゆうべも睡たのは2時か3時か、っあさっぱらから缶ビール1本と乾き物ととよいごミブンで、っのち車中は睡惚け勝ちに来て、開演2時間強以前に新大阪へ着き、っいつものカッフェへ寄り、腹熟しに器まで歩くことにして、地図アプリカチオンでは1時間強と出たが、十三経由で淀川を渡ると、40分と少々というところだった、終演後は、先週も寄った器直近のカレー屋で食事せむとするも、折悪しく仕込み中で、詮なくまた新大阪まで歩くことにして、橋を渡り、淀川右岸土手を行き、南方駅前の王将へ寄り、新大阪の駅へ着いて、18:30の発車までにシガレット2服、っのんびり土産物を物色する余裕もあった、復路はちゃんとのぞみだが、っいまこれを書かむとしてはげしく睡く、新大阪を発って1時間ほどもありながらここまでっきり書けず、っしばしばうつらうつらす、っあと小1時間で新横、っまだ睡いが、っどうとか書くとせむ、



演目は、サン=サーンス《月桂樹》《オルガン》の間へ新実徳英氏の《風神・雷神》を挿むというもので、3曲ともにオルガンを要し、っそれは先週のコバケンさん《オルガン》時とおなじ石丸由佳女史、新実の和太鼓はもちろん林英哲氏である、新日本フィルとも《月桂樹》《風神・雷神》を演るプロがあったが、っそのときはたしか後半はファリャとラヴェルとだったとおもう、

《月桂樹》は長壽に惠まれたサン=サーンス最晩年の筆で、誰が聴いてもどんな曲だかたちどころにわかるなんらの厭味とてない書法のうちに、ウェル・メイドな逸品を提供してくれる、新日フィルのときもほんとうに気分爽快な開幕だったが、っきょうはより潤澤のザ・シムフォニー・ホールにおいて大フィルが満々と鳴り、っめくるめく音響に眩惑さる、っこの器でオルガンの入る曲を聴いたのも初めてかとおもうが、っほどよく雑味というかざらつきを含んだ好い音質である、サントリーのそれなどはそのざらつきがぜんぜんなく、っかえって安手の機械で造ったようなチープな音に聞こえてしまう、



《風神・雷神》ではソリストおふたりが果たし合い、っほんとうに屏風画から飛び出た両神が音場中を乱舞するようで、和太鼓はもちろんのこと、オルガンも鍵盤といいペダルといい、弾くというよりは半狂乱でのたうつように全身を酷使せねばならない、ったぶん新日フィルのときもそうだったが、っきょうも新実氏ご臨席、終演後は休憩前に林氏がもう1曲自作曲をなさる、キーミツは、ぼくは77歳でもうよぼよぼだが、英哲さんはあれで72歳だって、42歳に見えるよ、っとおっしゃっていたが、っまさしく、



《オルガン》は、コバケンさんのそれが《オルガン》というスコアを借りたしかし人里離れた秘境におく老師の精神修養といった調子の特有の味へまで達していたのに対し、っきょうのキーミツはそこまでではなく、どうもよのなかで行なわれている演奏はどれもカッコいいばかりのようだ、っと云われたわりには、っそういうご自身の演奏もわりにあり勝ちの《オルガン》の姿ではなかったか、っもっとも、引退されるのは、よぼよぼになってもそのよぼよぼ加減がまたよい、式の褒め方なぞされたくないということなのだろうから、現役のうちは、アレグロはアレグロらしく、っちゃんと颯爽としていなくては面目が立たないとおおもいにちがいない、

演奏としても、1楽章のわずかな序奏からして、フリュートの、1番だったとおもうが、1拍早く出てしまうというしくじりをやり、幸先がわるい、主部以降も、為さるべきは為されており、っけっして愚図な演奏ではないが、誰でもそのくらいはやるでしょという気もし、コバケンさんみたように、え、なんですかその異様な音の密度は、そんな地味な音の動きにまで気を配っているんですか、っという次元へは至らない、っしかたない、較べるのもキーミツに酷だ、コバケンさんは彼氏の狭い狭いレパートリーのなかで数え切れぬほどこの曲を振ってこられた、っあの横浜でもたしか暗譜でいらした、

1楽章後半の主題再現は、コバケンさんでは2ndのみがピッツィでありつづけ、他の絃はすべてアルコであったようにおもうのだが、っきょうのキーミツは、2ndはそのとおり、っけれども1st、Va、Vcはディヴィジで、各プルト表はアルコ、裏はピッツィであった、っぼくの見間違えで、コバケンさんのときもそうだったのだろうか、楽曲への接触量のよりすくないキーミツがそのような改変を敢行されるとはおもわれないから、キーミツのほうがスコア通りだったのだろう、っもしコバケンさんが他の絃3部のディヴィジを無視して全員アルコで主題を弾かせているとすると、っほんとうに改変で、作曲者の求めている楽器編成を満たしていないこととなる、ったとえばチャイコフスキー《Pfコンチェルト》1楽章の序奏では、Vnの主題を、スコアにはさいしょは1stのみか、2ndのみか、1stのみか、っいずれ、っはじめはかたっぽのみで弾くように書かれてあるので、他方はそっくり休んでいて、ソロが装飾勝ちに同主題をなぞったのち、再現する際にやっとVn全員でそれを弾くのだが、コバケンさんはさいしょから全員に弾かせてしまわれる、っしかしそのばあいは、楽器の編成自身はチャイコフスキーの求めと変わっているわけでない、っところがここでは、サン=サーンスの求めた音を欠落せしめていることとなる、っどうだったかなあ、自信がなくなってきた、ったしかに、ああ、他はみんなアルコでテーマを弾いて、2ndだけがピッツィなのね、っと観ていておもったはずなんだが、、、っま、っどうあれ、っじっさいに鳴った音としては、っここのコバケンさんは表現意図が極めて明確だった、前段のリズム動機が通底するままに、っしかし主題はもはや再現しているという楽曲構成の妙を懸命に伝えむとする彼氏の有難迷惑と紙一重の律儀さがよくよく滲み出ており、っつまりそういうこちとらでも愛玩したくなるような味が、キーミツは出せていなかった、大才人が全精力を注ぎ込んで書いた天下の佳作なので、放っておいても綺麗に、っまさしくカッコよく流れていってしまう、っそこでしかしなにかひとひねり、っほんのひとひねりでもよいから、っぼくなどはどうしても慾しくなってしまう、

っただ、例の最後のトロムペットのポリリズムとティムパニのひとり舞台とは、っもとよりこの器のオルガンは他のすべてを消してしまうほどの音量は出せないのか、っあるは石丸女史が先週の勇み足を反省されたか、っわからないが、っどちらもちゃんと聴こえて、っそれこそカッコよかった、



っさて、っあすは、坂入健司郎氏も中編成とみられる楽団で《エロイカ》をお振りになるが、っぼくは先に公演が広告せられていた金山隆夫氏のハンス・ロットの切符を購ってしまってあったので、っそちらを聴きに錦糸町、

っそれからキーミツは、っまだまだ公演が追加せられて、夏には新日フィルとマーラー《夜歌》、秋にはOEKとショスタコーヴィチ《死者の歌》、っそのソロはふたたびのティホミーロフ氏だ、後者は近年に神奈川フィルとも演奏されたとどこかで読んだが、っいずれ、脱けていたピースがこれで出揃うこととなる、マーラーのほうは川崎の夏の音楽祭で、人気の催事なのか、去年の広上氏が代行された楽聖の公演も、発売初日に購ったはずだが、っもう完売寸前で、っまともな席が購えなんだ、会員向けの先行販売ですでにしてかなりの枚数が売れてしまうということだろう、っそんなわけで、っぼくも¥3,000/年のミューザの会員になっておいた、っこれで各切符を先行してかつ1割引きで購えるので、っいくつか公演へ通えば¥3,000分くらいはすぐに償却しうるようにおもう、っものはかんがえよう、



みずの自作アルヒーフ

 

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池袋、




井上キーミツ/千葉県少年少女オケ公演、済む、

演目はヨゼフ・シュトラウス《天体の楽》、齋藤秀雄のオーケストレイションしたバッハ《Vnパルティータ2番》〈シャコンヌ〉、っそして楽聖《5番》である、先年にキーミツが有楽町で楽聖《5番》を振られた際には、彼氏が都内で同曲を振るのはこれが最期と広告せられていたが、嘘で、っこんかいがあったし、っまあこんかいはプロフェッショナルではないということがあるかもしれないが、引退前最終公演でも演奏せられることとなった、

プロフェッショナルではないと云う条、っこの楽団のアンサムブルは秀抜である、っきょうも、っすくなくもシュトラウス、バッハ、っとくに後者では、音楽が完全に血肉化しており、単に1音1音が精確に掬い上げられるというのみでなく、っそれらを為すにあたっての体捌きのひとつびとつまでもが修身し切られているのがわかり、っしばしばオーケストラの音を聴いているという実感を離れて、オルガンが鳴っているようにも聴こえれば、っはたまたあるひとつの精神、っそれがバッハのなのか、っあるは齋藤イズムのなのか、っあるは千葉県の青少年への交響楽運動のなのか、っいずれ、っそれを敢えて音化すればかく成るとでも云わむばかり、眞に板へ附いた響を結ぶのであった、キーミツも、青年期にトーサイからさぞや苛烈に叩き込まれたとみえて、っかなり複雑なスコアだのに、暗譜で臨んでいられた、



楽聖は、演奏時間の長さに比例して相応に箍が弛むが、っもちろん基幹としては恆に立派な合奏ではある、っぼく個人の趣味としては、ったとえば1楽章ひとつを取っても、目立つところ以外でももっとトロムペットやティムパニが突出している音勢バランスで聴くほうがすきだが、

当節、楽聖を演奏するのはほんとうにむつかしい、っただ音を出すだけでよいならばいくらでもできるし、っそれだけどこの楽団も腕を上げているが、古今に雲霞のごと出揃った演奏語法演奏語法のうちでその人の、っその人だけの無二の味を獲得しえているかと問う瞬間に、演る側も聴く側もじつに心許なくなる、キーミツもその多分に漏れず、有楽町のときもきょうも、残酷に云えば、っあの造形ではぜんぜん平凡の裡である、N響や大阪フィルとの《㐧9》にしても同断であろう、っそういう時代にあっても、海外の俊秀には、おおっ、まだそんな可能性がありましたかっ、っという楽聖を振ってくれた人もいる、っそう云いながらぼくは、っあの改称以前の東京ニュー・シティ管で同《7番》を振られたヌーノ・コエーリョ氏の造形を念頭におもっているわけだが、日本人にも誰か、あの人のベートーヴェンはすごいよ、っという人が現れてくれたいものである、



っさて、っお次はこんどの土曜、っまた大阪行にて、キーミツの大フィルとの《オルガン》ほかプロ、キーミツがコバケンさんに引けを取らない貫祿を示されるものと信じたいし、オルガンの石丸由佳女史が2楽章の最後の最後で音量を自重され、トロムペットのポリリズムのカッコよさとティムパニの勇姿とをともに味わえればとおもう、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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桜木町、




コバケンさんと日本フィルとの公演、済む、2日つづけて、老匠たるの沽券を死守した観だ、っとてもよい演奏だった、

演目は神尾真由子女史とのモーツァルト《トルコ風》、サン=サーンス《オルガン》で、モーツァルトのソリストはがんらいはあの日フィルのアシスタント・ミストレスの別嬪が務められるはずで、っそれも聴いてみたかったにせよ、っまあま、神尾女史は、っぼくの見間違えでなければひところぷくぷくに肥えられていたようにおもうが、っきょう登壇されると、あ、スリムになってら、っというところ、、、ルッキズム上等っ、

前回、《カルミナ・ブラーナ》で同コムビを聴いた際には、っどうしてコバケンさんはいまや天下の名楽団、日フィルをしかしかくもずたぼろにしてしまうのだろうというもので、っこちとら目を覆いたい惨状だったが、っきょうは開演から終演まで、日フィルはちゃんと天下の名楽団のままだった、

っここ桜木町は、っぼくとして最も席どりに難渋する器のひとつだ、っおとついも云うように、っぼくには1階席という選択肢はもとよりない、っが、2,000席級なので、2階正面では視覚としても聴覚としてもすでにして舞台が遠い、殊に、音のブレンドがサントリーなどよりかすかに濃厚なのか、っそこまで音像群から離れてしまうと、幾重にも残響に包まれた茫漠たる音響っきり聴くこと能わず、っしたがってこちとらの体調如何では、全楽が速いテムポの裡に満々と鳴っているような、っつまりオーケストラを聴く際のいちばんたのしい場面でさえ、瞼が落ちてくるのへ抗えないことがある、クロロホルムでも携えた妖怪の棲む伏魔殿ではないのか、っなどと従前よりさかんに悪口を垂れてきたものだ、

っそれが、ったしか上岡敏之氏と新日本フィルとのブルックナーかマーラーかなにかでだったが、っいつかにバルコニーをかなり舞台へ寄った位置へ坐してみると、愕くほど音量豊富、っかつ鮮明鮮烈な響を見舞われ、っすくなくもトーンとしてはみ直したのであった、

っただ、っご存知のとおり、舞台へ死角のできることじつに夥しい、最前列ならよいかというとぜんぜん違って、手摺と、っあの評判のわるい落下防止のワイヤーみたようなのがとても目障りだし、2列目以降では、っほとんど舞台の半分近くか、っわるくすると半分以上が視えない席もあるのではないか、っまんなかへ立っている指揮者すら視えないという席だってあるはずで、そんな座席配置ってものがあるかっ、っと地団駄を踏みたい、バルコニーだけでもいちどぶっ壊して造り直したらどうなのか、

っけれども、視覚か聴覚かと問わるならば、っぼくらは音楽を聴きに器へ出向くわけなのだから、泣く泣く犠牲へ供すべきは前者である、っきょうは右翼バルコニーの何ブロックかあるうちの、舞台へ近すぎず遠すぎずの区画で、2列目の舞台寄り端部である、っもうひとつふたつ舞台寄りの区画には、っあるいは視覚的により好条件の位置があるのかもしれない、っが、音響としては、演奏の性質にも依りけりではあろうが、っやや直接音直接音し、っばあいによってはごちゃつく惧れもある、っまあきょう日のすくなくもプロフェッショナルの楽団であれば、楽器の発音方向を逸れる位置で聴くとその楽器がよく聴こえないなどというそんな低レヴェルの団体もあんまりなかろうが、っはんたいに、舞台から最も遠いバルコニーは、要すれば正面最前列とほとんどおなじ音響条件のはずで、視覚としてはとうぜんにして絶望的、っどうかすると3階の天井桟敷よりなお酷い、同器の最デッド・スペイスかもしれない、3階にもバルコニーはあり、っきょう見るとすべてが一列横隊で、っそうすると、っその舞台からほどよい距離の区画のどこか端部へ坐し、背凭れから身を離してすこしく前傾姿勢でいても隣のお客が嫌がらなさそうであれば、っさようにして視覚条件を補強して聴いたほうが、2階バルコニーよりも良質の位置はあるかもしれない、、、っいずれ、サントリーや池袋のように、バルコニーだが舞台のすべてがなにものにも遮られずにすべて視える、っという位置はおそらく1箇所たりとてないので、長くなったが、っほんとうに席の位置を定め兼ねる、っその点では駄器中の駄器である、

っただ、っきょうそこで、RDの2列目舞台寄り端部だが、っそこで聴いていて、視覚としてぼくの坐高では、指揮者は、手摺がかなり邪魔だがちゃんと視える、絃は、ヴィオラが表へ出ていたが、っそのトップおふたりの後頭部がかろうじて視える程度、っしたがって絃バスは完全に視えず、セロも、手摺の隙間を掻い潜るようでなければよく視えないというどちらかといえば悪条件、っけれども、音はとても好いのだ、コンチェルトのソロは、サントリーではヴァイオリンであれピアノであれ、この音では天井桟敷まではとてもとてもニュアンスまでは届くまいな、っという手応えがするものだが、っきょう神尾女史のソロは、息遣いまでリアルに伝わり、音量としてもゆたかで、音の纏っている色や薫りをとっくりと味わうことができたのである、っがんらいコンチェルトにおいてオケを伴なったソロを聴くばあい、っそのニュアンスまで微細に賞味できてこその本格の聴き応えなのだが、サントリーではどんなコンチェルトを聴いても、っおおきく云って音の形と強弱とっきり聴こえてこないことがおおい、っそこへゆくときょうさっきのモーツァルトは、ソロといいオケといい、っともかく音が鳴っているすべての瞬間、っまたパウゼへ至って残響を見送っているとき、っいっさいが高級、最高級なので、っこころから堪能した、

倹しい管絃をおっとりとした手附きで愛でてゆくコバケンさんのサポートも仕合わせそのもので、カーチュン氏との共演では近現代ものの大編成で精緻極まる機能美を聴かされることがおおかった日フィルは、っかかる小中規模となってもその精妙さをいささかも譲らない、オーケストラとしての地金の確かさが試されているわけで、どうして古典派以前、バロックに近い作曲家はあのようにホルンに最ハイ・トーンを吹かせるのか、酷じゃないか、ましてそのころはナテュラル管でなお吹きにくかったんでしょ、ってなものだが、っちゃんと天まで届く音がするし、絃も、1st、2nd同士のやはり高音域での和音とか、1楽章のどこか、フレイズの末尾で、しゃき、っと倍音を弾いた際のそのフレッシュネスなど、っほんとうに新鮮な柑橘類を搾るよう、っそれらがすべてえも云われぬ静けさの裡に棚引き、フィナーレの軍楽趣味さえ、っもちろん他の場面とのコントラストをぞんぶんに演じながらも、っどこか神事のごと粛然と遂行せられて、っとうとうソロはホルンとともにあの微笑ましい終結へと天昇す、



《オルガン》のオルガンは石丸由佳女史であり、っおとつい井上キーミツは来週の公演について言及され、石丸さんにはかくかくの衣裳を着てくれたいとお願いしてある式のことを云われていたので、っそこでのオルガンも彼女だ、2週つづけて別の指揮者で《オルガン》を弾かれるわけで、っしかし、2楽章のいちばん最後のところでは、っぼくとしてすこしく註文を附けたかっただろうか、っきもちはわかるが、音量を全開も全開にされてしまわれたので、例のトロムペットのポリリズム、っおよび掉尾のティムパニの独壇場が、壮麗極まる彼女の主和音にほぼ完全に塗り潰され、っよく聴こえなんだのである、日フィルはそこでいかにもすばらしい音を発していたやに察せられたので、っなおのことざんねんだ、

っしかし、全編これ入念入魂、っそれでいて編成を拡大してもいまだモーツァルト時の静謐が尾を引いており、っそのまま謹直に全編全曲を語り尽くす、以前のコバケンさんならば1楽章がさいしょの最強音に達するところからして児戯じみた大絶叫を来たし、大団円ともなればもうはやぎゃんぎゃんいうのみの皮相な空騒ぎに堕してしまっていたところ、彼氏が年輪を加えて枯れられたこともこれあり、日フィルが合奏能力としてもメンタリティとしてもおおきに刷新せられたこともまたこれあり、っきょうは音量音圧の誇示自身が目的化した態度はほぼ完封せられていた、っそうなるとほんとうに刻一刻と目の詰んだ情報量であり、っしかも手の内で熟れ切った、すべて流れが自然である、っとこちとらに意識せしめすらしない自然必然の経緯のうちに、《オルガン》というあの全貌が照らし出さる、眞に偉大な達成であった、

1楽章前半は、序奏も早々に主部へ遷ると、っおおくの指揮者は、っまたオケの意識としても、多少とも点画の角が丸まろうとも前へ前へと音楽を倒してゆくところ、っあくまでもどこまでも1拍1拍、1音1音を懇切丁寧に置いて置いて置きつづけねば気が済まないのがコバケンさん流儀である、っそれはもちろん生硬へ陥るリスクといつも背中合わせなのだが、っきょうのあの手応えへまで達していれば、っまさしく非の打ち所がない、っや、誰かしらはダサいと云うかもしれない、っしかしぼくの趣味としては、や、あれを君ダサかっこいいと云うんじゃないか、っというところである、

っまた日フィルの精妙さがその解像度に何重にも輪を掛ける、っその主部へ遷ってからしばらく、管のタンギング地獄が主題を担っているうち、伴奏の絃のアルコが、単にリズムとしてのみならず、絶えず和音として鳴っているのだ、うわ、細かい音のぜんぶがちゃんとハモって聴こえとるわ、、、っそうおもうだけでぼくはもう仕合わせで胸いっぱいになる、

楽器を殖やして漸強してきてもこのまま団子にならないで声部群の林立で存りつづけてくれっっっ、っとのぼくの、っきょうばかりじゃない積年の希いも通じ、㐧1テーマ中のさいしょのトュッティは全員のひびきが抜け切った爽快さの裡に轟く、っや、っそこへ達する以前から、ったとえばホルンの下位の奏者の低い音域の動きや、トロムペットの弱奏による全音符等が、地味な役割とて疎かにはしませんっ、っという高い士気の下にいずれもちゃんと聴き手の耳へ届くように質量高く具現せられ、っまだ曲が始まってほんの1、2分だのに、っぼくはすでにして半泣き状態である、っこれだ、っこれである、っこれこそが小林研一郎最期の老成老熟なのだっっっ、

っよって楽章前半の後半のさらなる山場でも、粛々たる歩みのうちにしかし最高の演奏効果が発揮せられる、日フィルの腕もまたびゅうびゅうと鳴りに鳴りまくる、提示でコール・アングレがさいしょに示す動機をここでホルン連が雄叫ぶ段では、っその直前のトロムペットの音型がなかなかテムポの裡へかちっと嵌まらない演奏がおおいなか、っきょうのラッパ連は鉄壁、ホルンもまたベル・アップで応酬す、退潮して楽章後半を準備しているとき、必要以上に最弱音へ落とさずにいること、テムポを弛めすぎることなく、っむしろ全体をほぼイン・テムポで運んでいることも、っげに特筆せられなければならない、

1楽章後半では、オルガンのペダルによって満堂がここちよい微震動に包まれるなか、絃が清潔に流れてゆく、クラリネット、ホルン、トロムボーンという3人の不思議なユニゾンによる同主題の模倣も、っその音色の調合ぐあいたるや、

1st、2ndの掛け合いによるやや動きのある場面で気分を変えたあと、ピッツィにディエス・イレーの影をみて、アルコへさいしょの主題が還ってくると、っそのアルコは敢えて音量を抑え、独りピッツィのまま前段の動機を爪弾きつづける2ndを強調、っなんという創意と愛情とに溢れた演奏であることか、半泣きでは足りず、っぼくはここで泪を落とした、



2楽章前半も1楽章前半と同様、律儀な点画の定め方がどれもこれもぴたりぴたりと当を得る、やろうとしたけれどうまくいきませんでした、全体の完成度を損なうほどのしくじりじゃありませんけれど、式の低解像度に甘んぜず、全楽全員が極度の集中力を通わせ合う、っそのうえでなお、緊張して強張ってしまわないだけのゆとりがある、天下の日フィルっっっ、絃の冒頭動機へのティムパニの合いの手にしてからが、ずばりそのタイミングとそのリズムとその音の硬さとだっ、っとこちとらの膝を打たしめる演奏の世になんと得難いことか、トリオ様の部分を締め括る最終音のサスペンデド・シムバルをけたたましく痛打せしめず、快音の範囲で収める大人の風格も、っかっての騒音おじさんコバケンさんからすればじつに隔世の感である、

楽章後半へ遷移する前段、絃のフゲッタの部分は《オルガン》中でも最も印象深い名場面のひとつである、巷の喧騒を逃れて突如、宇宙の彼方へ抛り出されるような孤独な浮遊感を嘗め、っまたもディエス・イレーが忍び寄るが、っついに光明が差してストップ全開のオルガンが招かる、

っその2楽章後半はきょうのコバケンさん、日フィル双方の美質の集大成とするに相応しく、ったっぷりとした歩幅を最後まで動かさぬままに、静謐と演奏効果の最大化とが最高度の両立をみる、大詰めともなれば金管も打楽器もみな迫力更新に余念がないが、日フィルの絃はそんな高鳴りの最中にあっても燦然と耀くようであり、最後の最後まで管絃楽の交響として聴こえつづける、っそれだけにオルガンの勇み足が悔やまれるが、っそれでも、っあんなにもぎっしりと実の詰まった《オルガン》は、空前にして絶後であろう、っさて来週のキーミツ、どうもカッコいいばかりの演奏が世に澎湃としているが、この曲の宗教的の側面へフォーカスしてみたい、式のことをおとついおっしゃっていたが、っどんな演奏になるやら、っきょうのコバケンさんは、っかなりの難敵だとおもうが、



っさて、っあすは池袋、っそのキーミツの千葉の子供たちのオーケストラとの公演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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連夜大阪、福島、




コバケンさんと関西フィルとの公演、済む、

っきょうはあさから夕までなんにもやることがなく、っまた仁徳さんまで詣でてくることもかんがえるが、っぼくはあちらへ伺う際には形象埴輪のキィ・ホールダーを求めることにしていて、っぼくはああした子供騙しの品というものがむかしからなにとはいえずすきであり、四十路のおっさんになったいまでもすきなのだが、っもうふたつほどそれが背嚢へ附いており、っことしはまだ何度も来阪の機会があるので、っそのいつかにまた購わむ、っひとつ木製の人物埴輪の片腕が折れて失われており、っそれはそれで意図的におっ欠いたようでたのしいのだが、3つめを購うときには新規のものと交代してもらわむ、

っそれでどこへも行かずにホテルの室へいて、一寸以前からYouTubeに懐かしい《アルフ》のストリーミング配信があるので、っそれを観るともなく観ている、基本的にはなにも波風が立たないホーム・コメディなのだが、っときおりいやに鋭くこちとらの肺腑を抉ってくる入魂の本の回があり、っきょうおもわずに気を入れて観たのは、隣家の少年がなぜ親許を離れてその伯父伯母宅棲まいなのかが明かさる回である、少年の母親が短期間、隣家を訪問しており、アルフたちの宅のホーム・パーティへ招かれるのだが、っそこで母親は手洗いへ立った際に宝飾品を盗んでしまう、病理として盗癖があるという人物設定なので、悪事が露顕したあと、帰宅の身支度をしながら母親は息子へ、っこんどのことはほんのたまさかであり、自分はほんとうにもうこの病を剋服したのだから、っいっしょに宅へ戻ってくれたいと哀願する、っしかし息子は治っていないじゃないかと相手へ残酷な正論をぶっつけてこれを拒む、吹き替えで日本語の科白になっているものの、母親役も少年役もすばらしい芝居である、っそして、っいつものようにずけずけとちょっかいを出しているようでいながらちゃんと少年の親子関係を心配しており、別れずに済み、っこれからも友人同士でいられると慰めを云うアルフの絡み方もまた泣かせる、所ジョージ氏のあっけらかんとすっとぼけた声音がこころ憎い、っぼくはホテルの室でぽろぽろと泪を落として泣き笑いである、

っそれで午すぎにやっと外出し、ホテルは器直近だが、器の周辺をあてどもなくぶらつきながら、公園へ行き当たっては喫煙せむとするも、っどこでも子供たちが大勢遊んでおり、気が差しておちおち服んでいられない、っがまあ、っいまは終演して食事後、外套を羽織らずにいても寒くないのでまだホテルへ戻らずにその近くの40台くらい停められる広いコイン・パーキングの一隅で喫煙中だが、大阪は、数年前からたびたび訪れるようになったそのはじめのころからすればだいぶん減ったが、っまだまだ路上での歩行喫煙も目立つし、っこの駐車場にしても、っいま目前のポールへプリントせられた注意書きを順に列記すると、お静かに、アイドリング禁止、ゴミ捨て禁止、小便禁止、集会(たむろ)禁止、枠外駐車禁止、車上あらし注意、以上であり、禁煙はない、周囲のフェンスにも数多の掲示があるが、っやはり前向駐車やアイドリング禁止のみであり、場内禁煙とはせられていない、っまあ案内板を仔細に読めばどこかへは書かれてあるかもしれないが、っそんなところである、



っさておき、飯守泰次郎氏追悼で劈頭にグリーグ《ペール・ギュント》〈オーゼの死〉を献奏ののち、スメタナ《我が祖国》、開演に先立って楽団事務方が登壇されてこんかいのコバケンさんの代演決定の経緯を説明、っもとよりコバケンさんはあす横浜で日本フィルを振られる予定であり、っこの1日違いの代打を引き受けると両団の間でリハーサルの時日調整の要が生ずる、非礼なぼくは、練習嫌いで鳴らしたコバケンさんのことだから、日フィルのほうは、演り馴れ切った演目でもあり、練習なし、当日ゲネ・プロのみでぶっつけ本番とし、っこちらの公演をお引き受けになったのではないかなどと邪推したものだが、流石にそれはなく、日フィル側に練習日をずらしてもらったらしい、っきょうのための関西フィルとの練習が火水木か水木くらいだったとして、日フィルとはそれ以前のどこかで日取を組んだのだろう、っこちらの代演をコバケンさんに打診したのは藤岡氏だということは彼氏ご自身がXへ投稿なすっていたのでわかっていたが、っきょう初めて知ったのは、飯守氏が東京シティ・フィルの役附きとなられた初年に、コバケンさんへ直々に電話をされ、同フィルの定期で《我が祖国》を振られたいと依頼されたという挿話だ、故人は同公演の練習にもすべて立ち会われたらしい、

コバケンさんは、チェコ・フィルの指揮者陣へ加わられる以前には、ったぶん同全曲を振られる機会もなかったのかとおもうが、っなにしろ東洋人初のプラハの春op登壇の栄誉、ノーベル賞でも貰ったようなもので、爾来、数多の楽団とことあるごとに演奏されている、直近でも、ハンガリーのオケとの来日公演で演られるはずだし、名古屋フィルの定期でも組まれていたようにおもう、っぼくもたびたび聴いたし、ソフトも現時点で、っえ、5種か6種くらいあったか、っお蔭でぼくも、っその後あれこれと音盤を渉猟し、魁夷なる決定打、マタチッチ/オーストリア放響盤という宝物へ巡り逢った、コバケンさんのものは、細部のワガママな改変がだんだんと煩わしくなり、っずっと疎遠だった、

っきょうも、〈ブラニーク〉の最後へグラン・カッサ、サスペンデド・シムバルを加えて、最終音の音価をびよーんと伸ばすという、っぼくにすればなくもがなのサーヴィス精神だったが、道中はといえば、っせんじつの《復活》同様、っかなりの脱力ぶりで、〈ボヘミアの、、、〉など、っずっと両腕を下ろしっ放しで、っほとんどお振りにならない、関西フィルのレスポンスは、っどこまでもごくごく音楽的であり、っそのほうがというか、っそうでなければ彼氏の公演は成功しない、探せばいろいろのリハーサルの模様を断片的に視られるが、コバケンさんはのべつエモーショナルなというか、っどういう気持ちで演奏せよということばかり云われている、オケの側にしてみれば、っどの音はどう処理せよ式のことを云ってくれる指揮者とのほうが、っずっと仕事が楽だろう、っああいう気持ちだこういう気分だと云われても、っそうは云っても音楽的の埒内で整合的の音を鳴らさなくてはならないわけだからと、っよい意味でオケ側が醒めていて、指揮者が一所懸命に音を掻き混ぜにきても、最低限の自律だけは失すまいとしていられる楽団との演奏であれば、っぼくも安心して聴いていられる、オケまで一所懸命に指揮者に附き合わむ附き合わむとすると、っかえって目も当てられぬ仕儀となる、破綻のリスクが限界まできたら、っある程度は指揮者の要請を無視するという英断が、オケ側に求められているのだ、っその点できょうの関西フィルは、っとてもよい塩梅だった、、、っなんだかそんな云い方をすると、コバケンさんはただ演奏にとっての厄介者のように印象してしまうだろうが、厄介なところを堪えに堪えて堪え切ったところにやっと出るのがコバケンさんの味であり、っだからその味を出せるのは、っやはりコバケンさんしかいないのである、

っそれにしても、《我が祖国》はほんとうにたっぷりと聴き応えのある天下の傑作である、前座なしでこれのみを演っても一公演が保ってしまう長大さも立派で、っふつう、交響詩を6つ並べたってそんな充実感は得られるものではない、っやはり2時間の公演のメインは抽象性のあるシムフォニーであってくれたいとおもわせるものだ、っそれが、っこの6曲を順に辿ってゆくとちゃんと感興が昂って、終曲の終結にはまこと胸の空くおもいがする、道中を彩る場面場面にも、っなにか病みつきにさせる魅惑がある、80分も掛かる曲だのに、始まってから了わるまでずっと、っすべての瞬間がすばらしくたのしい、コバケンさんがいかに大オオトリテヱであろうと、っもちろんぼくは彼氏の造形が唯一無二だとはおもっていない、去年でいえば若き坂入健司郎氏の熱血と颯爽とがあり、井﨑正浩氏の練達があり、小柳英之氏のどったんばったん眞剣勝負があり、後2者についてはこともあろうにおなじ日に午、っよると聴いて、っぼくは目が回るおもいをした、っそしてどんな演奏を聴いているときにもいつも脳裡には、永遠に超えられない断崖絶壁、マタチッチが天高く聳えている、



っおっと、っもう日附を跨いでしまって、っまだ駐車場、っあすの横浜は夕からで、コバケンさんはあさ早くの新幹線で戻られてゲネ・プロであろうが、ルーズなぼくは午すぎにやっと新大阪発、っのんびり睡よ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(1回配本)

 

《ぶきっちょ》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(1回配本)




大阪、福島、




井上キーミツ/大阪フィル公演、済む、

っゆうべはいつものわるい癖で、洗濯機が回っている間PCによる音盤吸いをしていて、浴室へ洗濯物を干して横になったのがもう3時とか4時とか、3時間とすこしくだけ睡て起きて仕事へ行き、半日で帰ってきて大阪行、新幹線車中では、睡りへ落ちることはなかったが意識して瞼を閉じているようにして、っそれがよかったのか、演奏中は集中していた、

っこの公演はがんらいは昨夏に開催の予定で、切符が売り出したのはさらにずいぶん以前であり、キーミツの引退発表を世間様がどのくらい眞剣に受け止めているのかまだ読めなかった時期であり、っだからより先行販売であった抽選により購った、1階席を割り振られてしまうだろうと踏んでいたが案の定そうで、っきょう坐して、好い位置であり、っすばらしく鮮明で生々しい音響だが、っなんというのかなあ、周りにどっさり人がいるあのかんじがどうしても落ち着かない、っあすも同器だし、っすぐ来週もまたここでキーミツ公演だが、席を撰べる販売方法でともに2階正面の最前列が取ってあるはずで、っやはりぼくにはそちらのほうが好適だろう、っお前はいつも右翼バルコニーじゃないのかという話だが、っこの器のそれは、形状として横浜などに近く、っしたがってサントリーなどに比して舞台におおきく死角ができてしまう惧れがある、っそれに、収容人数として2,000席級よりも一回りちいさいため、2階正面も最前列ならばまだ舞台からそう遠くはないのである、



っさて、チャイコフスキー《、、、オネーギン》〈ポロネイズ〉、ショスタコーヴィチ《2番》Pfコンチェルト、っふたたびチャイコフスキーで《4番》、演目だけを見ればわりあいふつうだが、ソリストが小曽根真氏であり、棒がキーミツとなれば、っただ曲の姿が歪みなく伝わりましたというのでは、っぜんぜん聴きに来た意味がない、

〈ポロネイズ〉から大フィルは力があり余り、音場をびりびりいわせる鮮烈さ、大阪響のような一段階細身の合奏のほうが、っあるいはこの名器のトーンをより芳醇に味わいうるかもしれないが、っさりとて、っここで聴いたホール・トーンもくそもない原田/関西フィルのヴェルディ《運の力》序曲の粗暴窮まりない開幕からすれば、音楽がとめどなくむせかえりこそすれ、っぎすぎすした騒音に堕したりはしない、



小曽根氏は、前回聴いたモーツァルトと同様の印象だ、指の回りだけならば、クラッシックの人のほうがずっと優等で、っもっと音型音型の有っているリズムの妙を丁寧に叶えている、小曽根氏を聴いていると、そこは小手先へ流さないで1音1音細大漏らさず掬い切ってくれたい、っとおもわせる瞬間がしばしばある、ジャズでは、っべつにあのくらいの解像度でもよいのだろう、っもっとべつのところへ音楽の意味を求めていられるのだとみられる、1楽章では中途でソリストにアムプロヴィザシオンを許すのもモーツァルトとおなじで、っそこはなかなかたのしかった、2楽章以降は演奏の性格も曲にフィットしていたようで、同楽章の主題に漂う哀訴も、フィナーレの奇数拍子の小気味よさも、っみごとに発揮せられていた、



チャイコフスキー《4番》は、立派な演奏が展開するだろうことはわかっていたが、人口に膾炙し切っている作品でもあり、相当度に手の込んだ造形を披瀝されても、酷にみればいまだ平凡の部類へとどまるかもしれない、っとの予断を有っていたところ、っあそこまで入念な、っや、泥臭い執念をまで実感せしめる赫裸な表現が待っていたとは、脱帽である、っとくに1楽章は、っひびきの美麗や流れのよさになどは完全に背を向け、全霊を激白する勢い、ファンファールからどっぷりとしたテムポの裡に破滅的に慟哭し、主部へ遷移してもしばらくは、指揮者の役割は音楽の足を引っ張ることであるかのようだ、っとかく音楽的に恥を搔かない範囲内でしか演奏の可能性を許容しない当節にあって、っあのようにすすんでのたうち、心情の吐露がすなわち音楽をすることであってくれたことに、っぼくははげしく感謝している、っぼくは、っほかの誰が同意してくれなくとも、っそういうことももちろん音楽の裡に数えたいからである、



名古屋フィルでもコン・マスの日比氏がそうだったが、大フィルでも、フリュートの野津氏がきょうの公演をもってご勇退とのことで、キーミツが労っていられたが、っお隣のオーボー1番氏へもマイクを渡して、なにか云ってやれよ、っというふうに水を向けられるも、相手はおもわずに胸が詰まって、いえ、なにも云えません、っというように俯いてしまわれ、男泣き、1番同士としてずっとデュオを演じ、苦楽をともにしてこられたその年月がしのばれ、っこちとらも目頭が熱くなった、



っさて、っあすはコバケンさんの関西フィルとのスメタナ《我が祖国》、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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