桜木町、 | ざっかん記

桜木町、




コバケンさんと日本フィルとの公演、済む、2日つづけて、老匠たるの沽券を死守した観だ、っとてもよい演奏だった、

演目は神尾真由子女史とのモーツァルト《トルコ風》、サン=サーンス《オルガン》で、モーツァルトのソリストはがんらいはあの日フィルのアシスタント・ミストレスの別嬪が務められるはずで、っそれも聴いてみたかったにせよ、っまあま、神尾女史は、っぼくの見間違えでなければひところぷくぷくに肥えられていたようにおもうが、っきょう登壇されると、あ、スリムになってら、っというところ、、、ルッキズム上等っ、

前回、《カルミナ・ブラーナ》で同コムビを聴いた際には、っどうしてコバケンさんはいまや天下の名楽団、日フィルをしかしかくもずたぼろにしてしまうのだろうというもので、っこちとら目を覆いたい惨状だったが、っきょうは開演から終演まで、日フィルはちゃんと天下の名楽団のままだった、

っここ桜木町は、っぼくとして最も席どりに難渋する器のひとつだ、っおとついも云うように、っぼくには1階席という選択肢はもとよりない、っが、2,000席級なので、2階正面では視覚としても聴覚としてもすでにして舞台が遠い、殊に、音のブレンドがサントリーなどよりかすかに濃厚なのか、っそこまで音像群から離れてしまうと、幾重にも残響に包まれた茫漠たる音響っきり聴くこと能わず、っしたがってこちとらの体調如何では、全楽が速いテムポの裡に満々と鳴っているような、っつまりオーケストラを聴く際のいちばんたのしい場面でさえ、瞼が落ちてくるのへ抗えないことがある、クロロホルムでも携えた妖怪の棲む伏魔殿ではないのか、っなどと従前よりさかんに悪口を垂れてきたものだ、

っそれが、ったしか上岡敏之氏と新日本フィルとのブルックナーかマーラーかなにかでだったが、っいつかにバルコニーをかなり舞台へ寄った位置へ坐してみると、愕くほど音量豊富、っかつ鮮明鮮烈な響を見舞われ、っすくなくもトーンとしてはみ直したのであった、

っただ、っご存知のとおり、舞台へ死角のできることじつに夥しい、最前列ならよいかというとぜんぜん違って、手摺と、っあの評判のわるい落下防止のワイヤーみたようなのがとても目障りだし、2列目以降では、っほとんど舞台の半分近くか、っわるくすると半分以上が視えない席もあるのではないか、っまんなかへ立っている指揮者すら視えないという席だってあるはずで、そんな座席配置ってものがあるかっ、っと地団駄を踏みたい、バルコニーだけでもいちどぶっ壊して造り直したらどうなのか、

っけれども、視覚か聴覚かと問わるならば、っぼくらは音楽を聴きに器へ出向くわけなのだから、泣く泣く犠牲へ供すべきは前者である、っきょうは右翼バルコニーの何ブロックかあるうちの、舞台へ近すぎず遠すぎずの区画で、2列目の舞台寄り端部である、っもうひとつふたつ舞台寄りの区画には、っあるいは視覚的により好条件の位置があるのかもしれない、っが、音響としては、演奏の性質にも依りけりではあろうが、っやや直接音直接音し、っばあいによってはごちゃつく惧れもある、っまあきょう日のすくなくもプロフェッショナルの楽団であれば、楽器の発音方向を逸れる位置で聴くとその楽器がよく聴こえないなどというそんな低レヴェルの団体もあんまりなかろうが、っはんたいに、舞台から最も遠いバルコニーは、要すれば正面最前列とほとんどおなじ音響条件のはずで、視覚としてはとうぜんにして絶望的、っどうかすると3階の天井桟敷よりなお酷い、同器の最デッド・スペイスかもしれない、3階にもバルコニーはあり、っきょう見るとすべてが一列横隊で、っそうすると、っその舞台からほどよい距離の区画のどこか端部へ坐し、背凭れから身を離してすこしく前傾姿勢でいても隣のお客が嫌がらなさそうであれば、っさようにして視覚条件を補強して聴いたほうが、2階バルコニーよりも良質の位置はあるかもしれない、、、っいずれ、サントリーや池袋のように、バルコニーだが舞台のすべてがなにものにも遮られずにすべて視える、っという位置はおそらく1箇所たりとてないので、長くなったが、っほんとうに席の位置を定め兼ねる、っその点では駄器中の駄器である、

っただ、っきょうそこで、RDの2列目舞台寄り端部だが、っそこで聴いていて、視覚としてぼくの坐高では、指揮者は、手摺がかなり邪魔だがちゃんと視える、絃は、ヴィオラが表へ出ていたが、っそのトップおふたりの後頭部がかろうじて視える程度、っしたがって絃バスは完全に視えず、セロも、手摺の隙間を掻い潜るようでなければよく視えないというどちらかといえば悪条件、っけれども、音はとても好いのだ、コンチェルトのソロは、サントリーではヴァイオリンであれピアノであれ、この音では天井桟敷まではとてもとてもニュアンスまでは届くまいな、っという手応えがするものだが、っきょう神尾女史のソロは、息遣いまでリアルに伝わり、音量としてもゆたかで、音の纏っている色や薫りをとっくりと味わうことができたのである、っがんらいコンチェルトにおいてオケを伴なったソロを聴くばあい、っそのニュアンスまで微細に賞味できてこその本格の聴き応えなのだが、サントリーではどんなコンチェルトを聴いても、っおおきく云って音の形と強弱とっきり聴こえてこないことがおおい、っそこへゆくときょうさっきのモーツァルトは、ソロといいオケといい、っともかく音が鳴っているすべての瞬間、っまたパウゼへ至って残響を見送っているとき、っいっさいが高級、最高級なので、っこころから堪能した、

倹しい管絃をおっとりとした手附きで愛でてゆくコバケンさんのサポートも仕合わせそのもので、カーチュン氏との共演では近現代ものの大編成で精緻極まる機能美を聴かされることがおおかった日フィルは、っかかる小中規模となってもその精妙さをいささかも譲らない、オーケストラとしての地金の確かさが試されているわけで、どうして古典派以前、バロックに近い作曲家はあのようにホルンに最ハイ・トーンを吹かせるのか、酷じゃないか、ましてそのころはナテュラル管でなお吹きにくかったんでしょ、ってなものだが、っちゃんと天まで届く音がするし、絃も、1st、2nd同士のやはり高音域での和音とか、1楽章のどこか、フレイズの末尾で、しゃき、っと倍音を弾いた際のそのフレッシュネスなど、っほんとうに新鮮な柑橘類を搾るよう、っそれらがすべてえも云われぬ静けさの裡に棚引き、フィナーレの軍楽趣味さえ、っもちろん他の場面とのコントラストをぞんぶんに演じながらも、っどこか神事のごと粛然と遂行せられて、っとうとうソロはホルンとともにあの微笑ましい終結へと天昇す、



《オルガン》のオルガンは石丸由佳女史であり、っおとつい井上キーミツは来週の公演について言及され、石丸さんにはかくかくの衣裳を着てくれたいとお願いしてある式のことを云われていたので、っそこでのオルガンも彼女だ、2週つづけて別の指揮者で《オルガン》を弾かれるわけで、っしかし、2楽章のいちばん最後のところでは、っぼくとしてすこしく註文を附けたかっただろうか、っきもちはわかるが、音量を全開も全開にされてしまわれたので、例のトロムペットのポリリズム、っおよび掉尾のティムパニの独壇場が、壮麗極まる彼女の主和音にほぼ完全に塗り潰され、っよく聴こえなんだのである、日フィルはそこでいかにもすばらしい音を発していたやに察せられたので、っなおのことざんねんだ、

っしかし、全編これ入念入魂、っそれでいて編成を拡大してもいまだモーツァルト時の静謐が尾を引いており、っそのまま謹直に全編全曲を語り尽くす、以前のコバケンさんならば1楽章がさいしょの最強音に達するところからして児戯じみた大絶叫を来たし、大団円ともなればもうはやぎゃんぎゃんいうのみの皮相な空騒ぎに堕してしまっていたところ、彼氏が年輪を加えて枯れられたこともこれあり、日フィルが合奏能力としてもメンタリティとしてもおおきに刷新せられたこともまたこれあり、っきょうは音量音圧の誇示自身が目的化した態度はほぼ完封せられていた、っそうなるとほんとうに刻一刻と目の詰んだ情報量であり、っしかも手の内で熟れ切った、すべて流れが自然である、っとこちとらに意識せしめすらしない自然必然の経緯のうちに、《オルガン》というあの全貌が照らし出さる、眞に偉大な達成であった、

1楽章前半は、序奏も早々に主部へ遷ると、っおおくの指揮者は、っまたオケの意識としても、多少とも点画の角が丸まろうとも前へ前へと音楽を倒してゆくところ、っあくまでもどこまでも1拍1拍、1音1音を懇切丁寧に置いて置いて置きつづけねば気が済まないのがコバケンさん流儀である、っそれはもちろん生硬へ陥るリスクといつも背中合わせなのだが、っきょうのあの手応えへまで達していれば、っまさしく非の打ち所がない、っや、誰かしらはダサいと云うかもしれない、っしかしぼくの趣味としては、や、あれを君ダサかっこいいと云うんじゃないか、っというところである、

っまた日フィルの精妙さがその解像度に何重にも輪を掛ける、っその主部へ遷ってからしばらく、管のタンギング地獄が主題を担っているうち、伴奏の絃のアルコが、単にリズムとしてのみならず、絶えず和音として鳴っているのだ、うわ、細かい音のぜんぶがちゃんとハモって聴こえとるわ、、、っそうおもうだけでぼくはもう仕合わせで胸いっぱいになる、

楽器を殖やして漸強してきてもこのまま団子にならないで声部群の林立で存りつづけてくれっっっ、っとのぼくの、っきょうばかりじゃない積年の希いも通じ、㐧1テーマ中のさいしょのトュッティは全員のひびきが抜け切った爽快さの裡に轟く、っや、っそこへ達する以前から、ったとえばホルンの下位の奏者の低い音域の動きや、トロムペットの弱奏による全音符等が、地味な役割とて疎かにはしませんっ、っという高い士気の下にいずれもちゃんと聴き手の耳へ届くように質量高く具現せられ、っまだ曲が始まってほんの1、2分だのに、っぼくはすでにして半泣き状態である、っこれだ、っこれである、っこれこそが小林研一郎最期の老成老熟なのだっっっ、

っよって楽章前半の後半のさらなる山場でも、粛々たる歩みのうちにしかし最高の演奏効果が発揮せられる、日フィルの腕もまたびゅうびゅうと鳴りに鳴りまくる、提示でコール・アングレがさいしょに示す動機をここでホルン連が雄叫ぶ段では、っその直前のトロムペットの音型がなかなかテムポの裡へかちっと嵌まらない演奏がおおいなか、っきょうのラッパ連は鉄壁、ホルンもまたベル・アップで応酬す、退潮して楽章後半を準備しているとき、必要以上に最弱音へ落とさずにいること、テムポを弛めすぎることなく、っむしろ全体をほぼイン・テムポで運んでいることも、っげに特筆せられなければならない、

1楽章後半では、オルガンのペダルによって満堂がここちよい微震動に包まれるなか、絃が清潔に流れてゆく、クラリネット、ホルン、トロムボーンという3人の不思議なユニゾンによる同主題の模倣も、っその音色の調合ぐあいたるや、

1st、2ndの掛け合いによるやや動きのある場面で気分を変えたあと、ピッツィにディエス・イレーの影をみて、アルコへさいしょの主題が還ってくると、っそのアルコは敢えて音量を抑え、独りピッツィのまま前段の動機を爪弾きつづける2ndを強調、っなんという創意と愛情とに溢れた演奏であることか、半泣きでは足りず、っぼくはここで泪を落とした、



2楽章前半も1楽章前半と同様、律儀な点画の定め方がどれもこれもぴたりぴたりと当を得る、やろうとしたけれどうまくいきませんでした、全体の完成度を損なうほどのしくじりじゃありませんけれど、式の低解像度に甘んぜず、全楽全員が極度の集中力を通わせ合う、っそのうえでなお、緊張して強張ってしまわないだけのゆとりがある、天下の日フィルっっっ、絃の冒頭動機へのティムパニの合いの手にしてからが、ずばりそのタイミングとそのリズムとその音の硬さとだっ、っとこちとらの膝を打たしめる演奏の世になんと得難いことか、トリオ様の部分を締め括る最終音のサスペンデド・シムバルをけたたましく痛打せしめず、快音の範囲で収める大人の風格も、っかっての騒音おじさんコバケンさんからすればじつに隔世の感である、

楽章後半へ遷移する前段、絃のフゲッタの部分は《オルガン》中でも最も印象深い名場面のひとつである、巷の喧騒を逃れて突如、宇宙の彼方へ抛り出されるような孤独な浮遊感を嘗め、っまたもディエス・イレーが忍び寄るが、っついに光明が差してストップ全開のオルガンが招かる、

っその2楽章後半はきょうのコバケンさん、日フィル双方の美質の集大成とするに相応しく、ったっぷりとした歩幅を最後まで動かさぬままに、静謐と演奏効果の最大化とが最高度の両立をみる、大詰めともなれば金管も打楽器もみな迫力更新に余念がないが、日フィルの絃はそんな高鳴りの最中にあっても燦然と耀くようであり、最後の最後まで管絃楽の交響として聴こえつづける、っそれだけにオルガンの勇み足が悔やまれるが、っそれでも、っあんなにもぎっしりと実の詰まった《オルガン》は、空前にして絶後であろう、っさて来週のキーミツ、どうもカッコいいばかりの演奏が世に澎湃としているが、この曲の宗教的の側面へフォーカスしてみたい、式のことをおとついおっしゃっていたが、っどんな演奏になるやら、っきょうのコバケンさんは、っかなりの難敵だとおもうが、



っさて、っあすは池袋、っそのキーミツの千葉の子供たちのオーケストラとの公演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(1回配本)

 

《ぶきっちょ》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(1回配本)