錦糸町、 | ざっかん記

錦糸町、




上岡敏之/新日本フィル公演初日、済む、

演目は、泰斗アンヌ・ケフェレック女史を招いて楽聖《1番》コンチェルト、っそしてシューベルト《ザ・グレイト》であるが、《ザ・グレイト》という曲想をぼくはかならずしも名品逸品とはおもっておらず、っしかし上岡氏の音楽性がぴたり、っその曲の、っないしは曲に対して史上一般に為されてきた演奏の志向性のこのましからざる生面を雪ぐかたちで発露するのではないかとつよくつよく期待して聴くところ、っまさしくビンゴであった、通念上の演奏語法からはおよそかけはなれているにも拘わらず、っほんとうに全編これ確信に充ちて、っしかも脱力の極致であり、ディレクトール在任時にはなにかこれという決定的の名演奏、大演奏を見舞われていない憾が遺ったが、っきょうのあの楽曲、演奏双方の性格同士のケミストリーは、っその遺憾を拭って余りある成果であり、っぼくとして、彼氏と日本フィルとの杉並におくブルッフ、シュトラウスや、去年の読響とのサントリーにおくシベリウス、シューマン、ニールセンに優に伍しうる達成のうちに数えるのも躊躇わない、っいつもながら、っや、っいつもにも増して、っあのように音楽を感じている人が現にこのよのなかに生きているということ、っその人とたまさか今生を一にし、実演に接しられるということ、っその驚異、僥倖を噛み締めずにいない、

っそれにしても、っぜんぜんすきではない楽曲でしかし、っいっとう高い種類の感銘を捺されるとは、っぼくはきょうの演奏を聴いて、《ザ・グレイト》を見直したのではない、こんなにも名曲だのにそれへいままで開眼せずにいたとは、っとの猛省を迫られたのではない、っこれからも、他の通り一遍というか、通り一遍でなくともいわゆるドイッチュドイッチュした演奏で聴けば、っつまらないとは云わないまでも、っあいかわらず馴染めない、愛着を有てない曲想だなあとはおもうのに相違あるまい、っあまりにも特異な、っあまりにも極北を示す上岡イズムで聴いてこそ、全編を刻一刻とたのしんだのであり、っやはり楽曲自身は、㐧1級の大古典ではないと、っこの期に及んでもおもっている、

っしていることといえば、全編を拘泥を断った快速で一貫せしめ、テヌートよりは弾む音を多用し、音量としても金管を抑え、いかなる強勢でも駄目を押さずに、全曲を絶えず和音和音とその移行移行との交響体として俯瞰する、っまあみじかく謂えばそういうことだ、っしかしそういうセンスをじっさいに身に宿している人は世に稀だし、っそれを《ザ・グレイト》ならば《ザ・グレイト》という楽曲の全体において違和感なく実行しうる人は、っさらに稀である、

っぼくらは、演奏と無縁に楽曲の像を表象すること能わない、っぼくらの裡に存る楽曲楽曲の像々は絶えず、誰かしらの演奏、っないしは誰かしら誰かしらの演奏演奏から綜合せられたその姿であることを逃れない、去年、ツァグロゼク氏が振られるはずが直前で上岡氏による代演となった読響とのブルックナー《8番》公演で、切符はすでに完売していたためにぼくは八方手を盡して入手に努めたが、っその公演前にごくざんねんにおもったのは、っすなわちツァグロゼク氏の降板に落胆し、飜って上岡氏のある種、突飛であるのかもしれない音楽性に対してネガティヴな予断を語る一群の人々の存在である、っや、上岡氏を好意的に聴かないことなどいっかなかまわない、問題は、氏の演奏がブルックナーの本質を外れていると云うときのその人の脳裡にあるブルックナーの演奏像というのは、ではなにほどの批判を堪えた表象であるのか、っというそのことである、っぼくにすれば、っそれとてもその人その人が触れてきた演奏演奏からの綜合であるにすぎず、っつまり限定的かつ暫定的かつ相対的の像であるはずである、っところが演奏後にも、やはりよくなかった、式の所感を述べる人たちのその文面は、っあたかも自身がブルックナー演奏の絶対の眞理を識っており、っそこから外れるらしい上岡氏の演奏語法をなにか罪科ででもあるかのように語るのであった、そこに自己批判はあるのか、この人たちは自己批判によって背中へ冷汗を掻くことはないのだろうか、っとぼくなど訝らずにいない、っそれに、藝術へのそうした姿勢は、っすくなくも近代以降においては、っむしろ一般的の鑑賞態度から逸れる、っそうした姿勢でいては、っぼくらは音楽史上に楽聖の登場を壽ぐに及ばないからである、っぼくは西洋クラッシック音楽の演奏も鑑賞も、っすでにして固定せる態度の再現前再確認であるとはおもっていない、突飛であるとは、単に相対的に稀少であるというにすぎず、っその演奏語法が楽曲の本質を当てる当てないとはおよそ無関係の事象である、っぼくはぼくなりの自己批判によって、っどっしりと堅固に奏することは《ザ・グレイト》の優婉な楽想を殺すことだとかんがえており、っきょうの上岡氏のあっさりさっぱりと吹き過ぎてゆく語りをもってこそ、初めてこの曲に出逢うように、っそれもとても仕合わせなきもちで出逢うように、緊と実感したのである、っそしてその実感もまた、っただ相対的であるにすぎないのだ、っだからぼくが憎む演奏はいつの日も、っなにも主張しない演奏それ独りである、っなにかしら主張していさえすれば、っぼくとしてそれを容れられないにせよ、謗る対象ではまったくない、主張することは楽曲を歪め穢すことだなどと殊勝ぶってまるでのっぺらぼうの演奏を晒すことほど、世に愚にも附かないふるまいはないのである、

演奏の具体を云々するよりも、っかようの表白へ暮れるほうがいまのぼくの気分にずっとそぐう、

コンチェルトももちろんこころから堪能したのだが、っいままもなくギロッポン開演にて、っまた後刻、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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《ぶきっちょ》(4)

 

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