っうむむっ、 | ざっかん記

っうむむっ、




っきょう、先般発売せられたマタチッチのザグレブ・フィルとの楽聖と、っあれファースト・ネイムなんて読むのかな、イルジーかな、イルジー・セムコフ氏の、っどこだか知らないオーケストラとのブラームスとのともにシムフォニー全集をiPhoneへ同期してきて、マタチッチのほうは演奏会前だったので小音量で聴いており、っもっとおおきな音で再聴しなくてはならないが、っさっきセムコフ氏のブラームス《1番》を聴き了えて、っこれはなかなかの演奏だなあ、

彼氏の名は初めて聞くのではなくて、っむかし、シンフォニア・ヴァルソヴィアかどこかとのそれこそマーラー《3番》の音盤があるのを知って興味を惹かれていたが、稀少音盤でもあり、探しあぐねているうちにこんにちまでスルーしてしまっていた、っその音盤紹介の日本語表記では、名はたしかイェジとかとなっていたとおもうが、

っまだご存命なのかしらないが、っもう80いくつのはずで、っこのブラームスはたしか一寸以前の録音だが、っそれでもたぶん70代の老境の棒である、オーケストラはとても好い音色と合奏とで、指揮者は、迫らない大局観でその名楽団を率いているが、っただ温雅なだけではぜんぜん終わらない、老練の手管はそこここに顕著である、っいま《2番》のフィナーレだが、っうん、っぼくがいちばんすきな種類の演奏だ、っこのフィナーレは、ヤマカズさんの新日本フィルとのような手合いでもないかぎり、叩き附けるような激越な迫力はぜんぜん要らない、最後の最後まで穏やかに、格調を乱さないままで、そのなかへコワいくらいの隠し味をどれほど盛り込めるか、っという道で勝負している人のほうが概して名演奏を刻印している、シューリヒト/シュトゥットガルト放響がその源流であり、ボッセ/新日フィルもまた珠玉であり、っこのセムコフ氏もその系譜である、っいま《3番》だが、1楽章、っとてもよき、Vnが彼岸に聴くように煌めいたりする、

同全集は井上キーミツのものもさいきん出たが、4曲ともにさして突出した存在感は出ていないか、っなにごとにも得手不得手はあろう、



っそれから、堀俊輔氏のバッハ《マテウス・パッション》、録音で聴くと年配のエヴァンゲリスト畑氏は喉へ痰が絡んでときおり発声が乱れたりするが、実演のときも感じたとおり、堀氏の音捌きは声楽に対しても器楽に対しても、っこう云ってよければ健康そのものであり、っいつも音々が満々とよく伸び、深遠な楽曲にしかし親しみ溢れる表情を附與しつづける、3時間の長丁場がぜんぜん窮窟でなく、っみじかく感ずるくらいだ、っぼくもかっては、史上の聖典たるこの曲へどうとか肉薄したいと、年に1度はリヒターの旧盤を聴くことを自身へ課していたものだが、っついに曲の魅惑に開眼することなく、っそのマクシムもいつかからおじゃんにしてしまっていた、っそれが去年、っあの紀尾井ホールでがあんとやられ、っしかもそれは静謐かつ敬虔であるよりも、っもはや仕合わせな体験であった、健全な音を浴びることは、っどんなに辛くくるしい楽曲が演奏せられているにせよ、僥倖なのである、っそれはこの音盤からも十全に伝わり、追体験が叶う、リヒターでは、再生音は周到に整音せられた、逆に云うと、っいま目前で血の通った人間集団が演奏しているという実在感に乏しい感触である、っそれがここでは、ライヴ録音の妙味、鮮度の高い、生きている演奏の音がする、っこういう再生音の音盤が、っぼくはとてもすきである、っやっとこさ《マテウス・パッション》がこころへ届いた、っこのよろこびはおおきい、



、、、っおお、セムコフ氏、《3番》のフィナーレ、っすばらしい、遅めのテムポは王者の風格、主部で晴れがましい㐧2テーマを謳歌したあと、全楽を挙げて突進する部分へ遷る際、棒はけっして煽情的ではない、っけれどもほんのかすかに腰が落ちて、オケがギアをトップへ入れるその気魄がびりびり伝わる、っしかもトュッティはじゅうぶんに熱しながらにしてしかし冷徹に全声部を見渡した悟達の味、2楽章の動機によるまんなかの部分も、棒が青いと高音がきつくて狂騒的で、不快にさえ聞こえるが、っみごとな管絃の混淆だ、

っいま《4番》の1楽章だが、っもはや向かうところ敵なし、っぼくはブラームスはぜんぜんすきではないが、っこういう演奏でならばいくらでも聴いていられる、3枚組で安くはないので、っやや購入を躊躇ったが、っこれはおおきな収穫だ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(1回配本)

 

《ぶきっちょ》(4)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(1回配本)